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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ヴァヌアツ、中国漁船を異例の拿捕
2021-01-31 Sun 03:36
 南太平洋の島国、ヴァヌアツの警察は、きのう(30日)までに、同国海域内で違法操業をしていた疑いで中国漁船2隻とロシア船1隻を拿捕したことを発表しました。中国から巨額の支援を受け、南太平洋でも古くからの親中国家として知られるヴァヌアツ当局が中国漁船を拿捕するのは異例のことで、おそらく、今回が最初の事例とみられています。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴァヌアツ・対中国交25年

 これは、2007年3月26日、ヴァヌアツと中国の国交樹立25周年を記念して用いられたヴァヌアツの記念印のオンピース(カバーの一部)です。ヴァヌアツ、中国ともに、両国の国交樹立に際しては記念印の使用のみで記念切手の発行はありませんでしたので、今回ご紹介の記念印は、2001年に発行された“(ユネスコの無形遺産にも指定された)砂絵”の切手に押印されています。

 現在のヴァヌアツの地は、1774年、ジェームズ・クックによる調査が行われ、“ニュー・ヘブリデス(ニュー・ヘブリディーズ)”と命名されました。その後、英仏による領有権争いを経て、1906年、ニュー・ヘブリデス諸島は両国の共同統治領(コンドミニアム)とすることで妥協が成立。1980年の独立まで、第二次大戦中の一時期を除き、コンドミニアム体制が続きました。

 さて、ニュー・ヘブリデスは1980年にヴァヌアツとして独立します。独立運動の指導者で初代大統領に就任したウォルター・リニは“メラネシア社会主義”の提唱者だったこともあり、リニ政権バヌア・アク党はメラネシア社会主義に基づく政策を採用し、1982年には中国と国交を樹立。東西冷戦下においては、東側諸国との友好関係を重視し、ソ連などから援助を受けていました。

 また、ヴァヌアツは独立当初から、海底資源をめぐって仏領ニューカレドニアと“大陸棚争い”をしていましたが、この件に関して、中国は一貫してヴァヌアツを支持。その見返りとして、ヴァヌアツは南シナ海における中国の領有権の主張を全面的に支持するという関係が築かれます。

 1991年にソ連が崩壊すると、親ソ派のリニは退陣を余儀なくされましたが、1998年に首相として返り咲きました。この頃から、ヴァヌアツと中国の経済的な関係が徐々に強まり、2002年にはヴァヌアツと中国との貿易総額は約131万8000ドルに到達。そのうちの100万ドル以上が中国からの衣料品、薬品、食料品、軽工業製品などの輸入で占められるなど、ヴァヌアツ経済の対中依存が大きく進みました。さらに、2005年には中国中央電視台がヴァヌアツでテレビ放送を開始し、中国のメディアによるヴァヌアツ国民への世論捜査も開始されています。

 2006年には両国間で経済協力協定が調印されると、中国(大陸)系企業のヴァヌアツ進出は加速度的に進み、その結果、2018年までにヴァヌアツの対中債務は2億2200万ドルにまで拡大。文字通り、中国の債務漬けになった状態で、2018年4月にはヴァヌアツに中国の海軍基地を建設するための協議が進められているとの報道が一部でなされ、米豪両国が対応に追われる一幕もありました。

 このように、ヴァヌアツに対する中国のプレゼンスは絶大なものがありましたが、2021年1月19日、ヴァヌアツ当局の巡視船が同国北方のヒウ島付近で違法操業の疑いのある中国漁船2隻を拿捕し、中国籍の乗組員14人を拘束。さらに、中国漁船を首都ポートビラに連行する過程で、やはり、違法操業の疑いがあるとして、ロシア船1隻をルーガンヴィル付近で発見し、拿捕しています。

 ロンドンを拠点とする海外開発研究所が昨年発表した報告書によると、中国籍の遠洋漁船は少なくとも推定1万7000隻ありますが、彼らは、船団としての統制が取れていなければ、慣行にも従わず、世界の違法操業の“最も重大な当事者”になっていることが指摘されています。また、南太平洋の域内大国であるオーストラリアは、近年、中国が南太平洋で急速に勢力を拡大していることに加え、自国内でも長年にわたって中国が浸透工作を行ってきたことが証拠と共に明らかになったことなどから、中国に対する警戒感を強め、豪中対立が深刻になっています。

 こうしたこともあり、南太平洋における親中国家の筆頭格といわれてきたヴァヌアツとしても、さすがに、これまでのように、中国の違法操業を野放しのままにはできなくなり、明らかに悪質な事例として、今回の拿捕に踏み切ったのでしょう。ただし、ヴァヌアツ経済が中国に大きく依存している状況には大きな変化はありませんので、今回の一件だけで、ヴァヌアツが対中関係を見直すとは考えにくいのが実情です。

 あるいは、他の南太平洋諸国同様、ヴァヌアツも政治腐敗が深刻な問題となっていますが、昨今のコロナ禍を機に、政府高官の汚職はますますひどくなっているとの報道もあり、その点からすると、中露両国を本気で怒らせない程度に違法操業を取り締まることで、国内の政権に対する不満を逸らそうという意図があったということなのかもしれません。

 なお、南太平洋において、近年、中国が急速に勢力を拡大していった経緯については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 切手に見るソウルと韓国:悲運の画家・李仲燮
2021-01-30 Sat 01:00
 『東洋経済日報』2021年1月15日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、2021年最初の掲載でしたので、干支にちなみ、この1枚をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・白牛(1989)

 これは、1989年9月4日に韓国が発行した現代美術シリーズ第6集の切手のうち、韓国のゴッホともいわれた李仲燮の代表作「白い牛」を取り上げた1枚です。

 朝鮮の伝統絵画の画題としては、牛は農村の象徴として描かれることが多いのですが、今回ご紹介の「白い牛」は、「自らは誰も攻撃はしないが、触れれば直ちに反撃して怒りを吐き出す」という牛の性質に着目し、これを抵抗の象徴として描いた作品とされています。

 李仲燮は、日本統治時代の1916年9月16日、現在は北朝鮮の支配下にある平安南道平原で富農の末息子として生まれました。母方の実家がある平壌の鐘路普通学校で学んだ後、1929年、京城(現ソウル)に出て、五山高等普通学校に入学し、イェール大学に留学経験のある美術教師、任用璉から美術の指導を受けました。

 1936年、東京帝国美術学校西洋画科に入学しましたが、1年で中退し、当時の日本では最も自由な雰囲気で知られた文化学院に転校。文化学院在学中の1938年、自由美術協会の展覧会に5点を出品し入選し、協会賞を受賞。1943年には美術創作協会(1940年に自由美術家協会から改称)第7回絵画展に「望月」3部作を出品し太陽賞を受賞しました。また、同年、親族のいた元山に帰国。翌1945年5月、文化学院時代から交際していた山本方子と元山で結婚します。

 1945年8月の解放後、元山はソ連軍の占領下に置かれ、李は元山師範学校美術教師の職を得たものの1週間で辞し、鶏を育て、鶏を描くことに熱中します。

 1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると、同年12月10日、母親を残し、妻子と共に脱北。1951年1月頃、全羅南道の和順を経由して、済州島の南部に位置する漁港、西帰浦に逃れました。西帰浦では、里長の宋泰株・金順福夫妻の家に11ヶ月ほど滞在し、カニを題材とする作品などを残しています。

 1951年12月、李は家族とともに済州を去って釜山に移り、煙草の銀紙を使った銀紙画の制作を開始しましたが、生活苦もあって、岳父の死を機に、1952年7月、妻子を日本に送り、自らは釜山に残って創作活動に専念することにしました。

 1953年には2週間ほど東京に滞在して家族と再会しましたが、その後、韓国に戻り、同じく北朝鮮から逃れてきた工芸家の劉康烈の紹介で、統営の螺鈿漆器伝習所の講師の職を得て、1954年6月頃まで、制作に没頭しています。

 切手に取り上げられた「白い牛」は、この時期に制作された「牛」の連作のひとつで、強い骨格を露にして尾を振る牛の躍動感が印象的な作品。日本統治時代から解放後の分断と朝鮮戦争の激動の時代、そして、自らの貧困に抵抗する意思が結実した作品と評価されています。

 その後、ソウルに移った李は、1955年1月、美都波画廊で個展を開催。その準備の過程で、妻の方子が日本で本を買って李に送り、李はそれを韓国で販売して利益を得て制作費および生活費に充てるつもりでしたが、仲介業者が李に代金を支払わなかったため、かえって借金が膨らみます。また、個展は成功し、出品作品も20点ほど売れたのものの、集金は上手くいかず、経済的にはますます困窮していきました。

 起死回生を狙った李は、1955年4月、大邱の米国公報院画廊でも個展を開催しましたが、残った作品が猥褻物と見なされて撤去されたことに衝撃を受け、以後、精神に異常をきたし、拒食症に陥ってしまいます。

 その後、病院を転々としつつも、1955年末からソウルの貞陵で画家の韓黙ら芸術家との共同生活を送りつつ、「帰らざる河」など最後の作品群を残しましたが、栄養失調と肝炎のため、1956年9月6日、ソウルの大韓赤十字病院で亡くなりました。

 一方、海外では李の銀紙画などの独創性が高く評価され、ニューヨーク近代美術館では、「白い牛」を含む彼の作品3点が研究保存対象に決定されましたが、生前の李がその吉報を知ることはありませんでした。

 李が亡くなった後の1957年、彫刻家の車根鎬が墓碑を建立し、1960年には釜山で初の遺作展が開かれましたが、この時点では、李仲燮の名は“知る人ぞ知る”レベルでした。しかし、1972年にソウル現代画廊(現・ギャラリー現代)で開催された17周追慕展を機に急速に再評価の機運が高まり、以後、彼をテーマにした映画、演劇などが相次いで制作され、韓国の美術および国語教科書にも取り上げられるなど、韓国現代美術の巨匠として知られるようになりました。


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 体長4m超のダイオウイカ、生きたまま捕獲
2021-01-29 Fri 04:07
 今月26日午後、島根県出雲市沖で漁師の男性が水面近くにいたダイオウイカを発見し、生きたまま港まで運びました。発見されたイカは全長が4m10cm、体重は170kg で、これまで島根県近海で見つかったダイオウイカとしては過去最大。その後、ダイオウイカは死んだため、しまね海洋館が冷凍標本として今後の研究に利用する予定だそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      豪領南極・マッコウクジラとダイオウイカ

 これは、1973年にオーストラリア南極領土(AAT)が発行した普通切手のうち、ダイオウイカを捕食するマッコウクジラを描いた1ドル切手です。

 現在のAATのルーツは、1841年1月9日に英国が南極・ロス海西岸のヴィクトリアランドの領有権を主張したことに求められます。その後、1911年からはオーストラリア人による隣接地域の探検が進められ、1936年、ドロンニング・モード・ランドからロス海属領まで(東経45度から160度まで)の地域がオーストラリア連邦の支配下に置かれることになりました。なお、この範囲に含まれるアデリーランドに関しては、フランスも領有権を主張していたため、1938年にはフランスとの間で境界が調整され、現在のAATの領域が確定。1957年からは、AATの存在を内外にアピールするため、AATとして独自の切手が発行されるようになりました。ただし、オーストラリアは1961年6月23日に南極条約を批准しているため、同日以降、南極地域における領土主権、請求権の行使は凍結されています。

 さて、ダイオウイカは平均体長10m、体重200㎏の世界最大の無脊椎動物で、これまでに発見された中で最も大きなものは体長17.5m、体重は約1トンという巨大なものでした。

 北米やヨーロッパ付近の大西洋、ハワイ島付近、日本では小笠原諸島などの広い範囲で発見例があるものの、深海に棲息しているため人間にはなかなか発見されず、台風などで浜辺に打ち上げられたり、死骸が漂着するなどしないと、なかなか人目に触れる機会はありません。マッコウクジラの胃の内容物からしばしばダイオウイカの痕跡とみられるモノが見つかるため、マッコウクジラが天敵と考えられており、今回ご紹介の切手もそのことを踏まえてのデザインです。

 ダイオウイカの生態は現在でも不明な点が多く、伝説の海の魔物“クラーケン”はダイオウイカがモデルだったのではないかともいわれています。ちなみに、昨年11月の米大統領選挙の後、「大規模な不正があった」として選挙結果に異議を唱えていた人たちがさかんに「クラーケンを発動せよ」と主張していましたが、彼らによると、このクラーケンは、CIAハッキングプログラムにして国防総省のサイバー戦争プログラムだそうで、それにより、“反トランプ派”の違法行為とその証拠が見つけだすことが可能になるのだとか。

 もっとも、対するバイデンは環境規制の強化を訴え、環境保護派の支持を集めて当選した人物ですからねぇ。クラーケンは、環境保護派のシンボル、マッコウクジラに食われてジ・エンド、というオチがついたといえそうです。


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 コロンビア国防相、コロナで亡くなる
2021-01-28 Thu 03:37
 南米コロンビアのカルロス・オルメス・トルヒジョ国防相が、26日(現地時間)、新型コロナウイルスのため首都ボゴタの病院で亡くなりました。享年69歳。国防相は、日本の上智大学大学院で学び、1976-82年には在日コロンビア大使館で領事や商務参事官を務めるなど、日本ともゆかりの深かった方ということで、謹んでご冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      コロンビア・日本との修好100周年

 これは、2008年5月22日、コロンビアが発行した“日本との修好100周年”の記念切手で、両国の国旗をイメージした修好100周年の記念ロゴが大きく取り上げられています。

 近代以降のわが国とコロンビアとの接触は、1874年、キューバ系コロンビア人の旅行家、ニコラス・タンコ・アルメーロが日本を訪れ、日本の歴史、経済事情、風俗、宗教観などについての記録を残したのが最初とされています。

 アルメーロの訪日時には両国間に正規の国交はありませんでしたが、1908年、米国の首都ワシントンで「日本コロンビア修好通商航海条約」が調印されたことで、正規の外交関係が樹立されました。

 同年、商用目的で日本を訪れていたコロンビア人のアントニオ・イスキエルドは、皇族や大隈重信の庭園管理を担当していた庭師の川口友広ら3人をコロンビアに連れて帰り、これがコロンビアに渡った最初の日本人となりました。川口らは、ボゴタでイスキエルドの所有する森林を整備し、これが、1910年に開催された独立100周年記念博覧会の会場として利用されましたが、その後の彼らの消息は不明です。

 1915年には、広島県竹原市出身の水野小次郎がカリブ海沿岸のバランキージャに移住。水野は同郷の者を呼び寄せ、これがコロンビアにおける日系コミュニティのルーツとなり、1920年代には福岡県などからの日系移民も増加。第二次大戦中は、一時、両国間の国交も断絶しましたが、1952年の講和条約発効を受けて復活し、現在にいたっています。

 ところで、1924年にコロンビアのアトランティコ県ウシアクリで生まれた日系2世のホセ・カオル・ドク・ベルメホ(日本名:道工薫)は、第二次大戦中はコロンビア海軍に入隊していましたが、戦後の1948年、コロンビアでサッカーのプロリーグが創立されると、海軍との兼職で、プロサッカーチームのインデペンディエンテ・サンタフェに入団。レギュラーとして活躍し、同年のサンタフェの優勝に貢献しました。さらに、1951年にはコロンビア代表にも選出され、パラグアイ代表戦に出場しています。

 1951年、コロンビアが朝鮮戦争に参戦すると、翌1952年、ドクは「(父祖の地である)日本へ行けるかもしれない」と考え、朝鮮戦争への参加を志願してサンタフェを退団。海軍の一員として日本に駐留中に父親の故郷である広島県竹原市を訪れて父親の家族に会い、休戦後は無事に帰国し、再びプロサッカー選手として1959年間でプレーしました。

 ちなみに、コロンビアと朝鮮戦争のかかわりについては、拙著『朝鮮戦争』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 国際ホロコースト記念日
2021-01-27 Wed 00:39
 きょう(27日)は、1945年1月27日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所が解放されたことにちなみ、“ホロコースト犠牲者を想起する国際デー(国際ホロコースト記念日)”です。というわけで、アウシュヴィッツ関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      クラクフ刑事裁判所からゲットー宛

 これは、1942年7月17日、ドイツ占領下のクラクフの刑事裁判所から同地のゲットー宛に差し出されたものの、名宛人不在で返送された郵便物です。裏面には“不在”の理由として「名宛人はアウシュヴィッツに移送された」との担当者の書き込みがありますので、その部分の画像も下に貼っておきます。

      クラクフ刑事裁判所からゲットー宛・裏面

 1939年9月に第二次大戦が勃発すると、ドイツにとって、旧ポーランド軍の捕虜や占領地の政治犯の収容施設を確保することが緊急の課題となりました。そこで、親衛隊関係者による現地調査が行われ、親衛隊大尉でザクセンハウゼン強制収容所副所長のルドルフ・フェルディナンド・ヘス(ナチ副総統のルドルフ・ヴァルター・リヒャルト・ヘスとは別人)の調査報告を受け、オシフィエンチムのポーランド軍兵営をベースに、1940年4月、強制収容所の建設命令が下されます。そして、同年6月14日、アウシュヴィッツ最初の収容者として、タルヌフ(クラクフの東75キロの地点にあるビャワ川沿いの都市)の刑務所から728人のポーランド人捕虜・政治犯が移送され、アウシュヴィッツは収容所として機能し始めました。

 このように、もともと、アウシュヴィッツ収容所(第1収容所)はドイツ占領下のポーランド人の捕虜・政治犯を収容するための施設として開設され、1941年10月には第1収容所から3キロほど離れたビルケナウ(ポーランド語名・ブジェジンカ)の1.75平方キロ(東京ドーム37個分)の広大な湿地帯に第2収容所が建設されます。

 当初、ヒムラーの構想では、この土地に174棟の収容棟を建設し、ソ連軍を中心とした10万人の捕虜を収容する予定でした。しかし、独ソ戦の状況が悪化する中で、1942年1月20日、ベルリン郊外のヴァンゼー湖畔で開催された秘密会議(ヴァンゼー会議)で、「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されます。これにより、ドイツ勢力圏内の全ヨーロッパからアウシュヴィッツ収容所(ビルケナウを含む)にユダヤ人を移送して強制労働に動員し、労働に耐えられない(と見なされた)者ないしは容赦なく処刑するという方針が確定しました。

 ヴァンゼー会議の結果を受けて、1945年1月までの累計で、ハンガリーから43万人、ポーランドから30万人、ドイツ・オーストリアから2万3000人、フランスから6万9000人、オランダから6万人、チェコから4万6000人、スロヴァキアから2万7000人、ユーゴスラヴィアから1万人、ノルウェーから690人(その中心はユダヤ人でしたが、同性愛者やロマなども含まれていました)がアウシュヴィッツに移送されます。今回ご紹介の郵便物の名宛人もその1人でした。

 なお、アウシュヴィッツ収容所とその郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 オーストラリア・デー
2021-01-26 Tue 03:40
 きょう(26日)は、1788年1月26日、最初の移民として、囚人を乗せた英艦隊11隻がシドニー・コーブに到着したことにちなむ“オーストラリア・デー”です。というわけで、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』の中から、オーストラリア切手が貼られた郵便物を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      豪APO(ムンダ)

 これは、第二次大戦中の1944年12月23日、ソロモン諸島西部、ニュージョージア島のムンダ飛行場(現ムンダ空港)に置かれていたオーストラリア軍の第39軍事郵便所(UNIT POSTAL STATION AC 39)からメルボルン宛に差し出された郵便物です。

 ムンダはニュージョージア島南西端に位置する同島最大の居住地で、英国人のノーマン・ホイートリーがココナツ農場として開拓し、第二次大戦の勃発時にはオーストラリア人のレスリー・ギルが所有していました。

 1942年11月24日、日本軍はガダルカナル島攻略のための拠点として、ムンダでの滑走路建設工事を開始。工事は、上空から発見されないよう、ケーブルで浮かせたヤシ林で偽装しつつ進められましたが、米軍は12月3日に滑走路を発見。同9日にはB-17爆撃機による爆撃を開始します。しかし、日本側は12月13日には飛行場を完成させ、同月23日に海軍航空隊252空の零戦24機が進出しました。
 
 その後、ムンダ飛行場は連合軍の激しい攻撃を受け、日本側は大きな損害を受けたこともあり、12月29日、残存3機がラバウルにむけて発進したのを最後に航空隊は撤退します。しかし、日本軍がガダルカナルから撤退した後も、ムンダには、中部ソロモン諸島日本軍防備隊の陸軍南東支隊の司令部と海軍陸戦隊の指揮所が置かれていました。

 そして、1943年6月30日には米軍がムンダ南西にあるレンドバ島に上陸。さらに7月5日にはニュージョージア島のムンダ東方に上陸し、日本陸軍の南東支隊との間で約1ヶ月にわたる激戦が展開されます。結局、8月4日までに日本軍はムンダ飛行場を放棄し、8日には司令部はコロンバンガラ島に後退。同6日、マッカーサー司令部はムンダの占領を発表しました。

 今回ご紹介のカバーは、連合軍によるムンダ占領後、この地に進駐したオーストラリア軍の第23歩兵旅団第7大隊の兵士が差し出したもので、オーストラリアYMCAから提供された封筒を使用し、軍事郵便としての料金は無料ですが、航空料金として3ペンス切手が貼られています。


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 エジプト1月25日革命10周年
2021-01-25 Mon 00:29
 エジプトのホスニ・ムバーラク政権を崩壊させた2011年の“1月25日革命”から10周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      エジプト・1月25日革命3周年(2014)

 これは、2014年1月25日にエジプトが発行した“1月25日革命3周年”の記念切手です。

 2000年以降、エジプトのムバーラク政権は経済の自由化を進め、年間5-7%の経済成長率を維持していましたが、富の再分配が進まないまま物価は高騰。この結果、国民の格差は拡大し、20代の失業率は2割を越え、国民の約2割が1日2米ドル以下で、4割以上が1米ドル以下で生活するという状況が続いていました。さらに、1981年のサダト暗殺以来、29年間にわたって独裁体制を維持してきたムバーラク政権下では政府による言論の弾圧と腐敗が常態化していたことも、国民の不満を醸成していました。

 こうした状況の中で、2011年1月14日、チュニジアでいわゆるジャスミン革命が発生。これに感化された人々がフェイスブックを使って、1月25日を“警察の日”ならぬ“怒りの日”にしようと呼びかけます。これは、前年(2010年)6月、アレクサンドリアの若者ハーリド・サイードが警官による押収麻薬の横流しをインターネットで告発しようとしたところ、警官の激しい暴行を受けて殺害された事件をふまえ、政権の腐敗に抗議しようというもので、1月25日当日にはエジプト各地で抗議行動や暴動が発生しました。これが、いわゆる“1月25日革命”の発端で、2月11日、ムバーラクは退陣に追い込まれます。

 ムバーラク政権の崩壊後、エジプトでは国軍最高評議会による暫定統治期間を経て、民政移管に向けた準備が進められ、2011年11月28日から2012年1月3日まで3回に分けて行われた人民議会選挙ではイスラム教系の政党が7割を占めて圧勝。その後、5月23-24日に行われた大統領選挙では、イスラム穏健派のムハンマド・ムルシーが1位となったものの過半数の票を獲得できなかったため、6月16-17日、第1回投票で2位となった元首相のアフマド・シャフィークとの決選投票が行われ、ムルシーが当選。同月30日にムルシー政権が正式に発足しました。

 しかし、すでに決選投票の時点で、イスラム系のムルシーと旧ムバーラク政権の幹部であったシャフィークの一騎打ちとなったことに不満を抱く者も多く、政権発足後もそうした国民の不満は解消されないまま、政権と野党との対話は進展せずに政治の空転が続き、エジプト経済は急速に悪化しました。

 すなわち、エジプトの収入源はスエズ運河の通行料と観光が大きなウェイトを占めていますが、このうちの観光収入に関しては、革命後の混乱により外国人観光客が激減して大幅な減収となりました。そのこと自体は、かならずしもムルシー政権のみの責任とは言い切れないのですが、そうした経済的に苦境にある時こそ、イデオロギーとは無関係に有能な経済官僚ないしは専門家が大胆な対策を打ち出していかねばならないのはいうまでもありません。

 ところが、ムルシーの出身母体であるムスリム同胞団は、それまで、貧困層の生活支援をボランティアとして組織的に行ってきた経験はあるものの、国家レベルでの経済運営の専門家は無きに等しい集団で、ムルシー政権は経済対策という点では無為無策に終始していました。その結果、失業者数は革命前から100万人以上増えて343万人(失業率は12%)にも達し、食料品も小麦が約28%、卵が約22%、牛乳や鶏肉が約15%値上がりするなど、国民生活は大きな打撃を受けます。

 さらに、2012年12月にはムルシーが大統領に絶対的な権限を付与する憲法宣言を発したり、政権に批判的な活動家らを名誉毀損などの容疑で次々と拘束したりするなど強権的な手法で乗り切ろうとしたことに加え、2013年6月17日には、外国人観光客の減少で苦境に陥っている観光業界の反対を押し切って、1997年にルクソールで外国人観光客58人を殺傷するテロ事件を起こした“イスラム団”の関係者を、あろうことか、ルクソール県の知事に任命するということまでやっています。たしかに、現在のイスラム団はテロとの決別を宣言してはいるのですが、イメージが大きな意味を持つ観光業にとって、わざわざイメージを悪化させるような経歴の知事の任命は受け入れがたいというのが世論の大勢でした。

 エジプト国民の多数派は宗教的には穏健保守というスタンスですから、穏健派イスラム主義をベースに掲げたムルシー政権に対する国民の期待はかなり大きかったのですが、ことほど左様に、ムルシー政権とムスリム同胞団は、彼らの主義主張とは別の次元で、統治能力のなさを白日の下にさらしてしまい、民心も完全に離反。

 2013年6月下旬以降、エジプト各地ではムルシーの退陣を求める反政府デモが各地で激化。これに対して、大統領とその支持派は“国民の選挙で選ばれたこと”を根拠に一歩も引かない構えで、国を二分する対立が続いていたところ、7月3日夜、エジプト軍トップのアブドルファッターフ・シーシー国防相が全土に向けたテレビ放送を通じ、憲法を停止して議会選挙を実施し、最高憲法裁判所のマンスール長官がムルシーに代わって暫定大統領に就任すると発表。政変後の7月16日に成立したベブラーウィー内閣では、シーシーは国防省兼第一副首相に就任します。

 翌2014年5月の大統領選挙ではシーシーが得票率96.91%で当選し(2018年に再選され、現在は2期目の任期中)、エジプトは軍主導の権威主義体制の下で安定を回復することになりました。

 ちなみに、かつてダマスカス(現シリア共和国の首都)で大法官を務めたイブン・ジャマーアは「40年間の専制は1時間の無政府状態より良い」との言葉を残しましたが、革命の混乱を経験した現在のエジプト国民もまた、この言葉に共感するのでしょうかねぇ。


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 アラシタ祭り
2021-01-24 Sun 01:54
 ことしは新型コロナウイルスの影響で中止になってしまいましたが、例年であれば、きょう(24日)は、ボリビアの首都ラパスをはじめ、同国内およペルーの各地でアラシタ祭りが行われる日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ボリビア・エケコ(2010)

 これは、2010年5月10日、ボリビアが発行した“ボリビアの伝統”の切手のうち、アラシタ祭りに欠かせない“豊穣の神・エケコ(の人形)”を取り上げた1枚です。

 アラシタ祭りはインカ時代から続いている祭りで、祭りの名前となっている“アラシタ”は、アイマラ語で「買って」の意味だそうです。エケコをかたどった人形に、自分が手に入れたいもののミニチュア品(種類や個数には制限なし)を持たせ、煙草をくわえさせることによってその入手を祈願する願掛けが行われます。

 エケコは先住民のアイマラ人ケチュア人の間で信仰されている豊穣の神です。願掛けに用いられる人形の多くは陶製で、高さは数センチから数十センチで、両手を広げ、口ひげを生やして笑っている小太りの中年男性の姿となっています。現在は、観光土産として、土産物屋などでは年間を通じて人形の購入が可能ですが、願掛けとしては、1月24日の正午に買ったものが最もご利益があるのだとか。

 なお、エケコの人形が煙草をくわえているのは、先住民の風習として、予言などの際にタバコの煙が必要とされていたことの名残と考えられており、1月24日の周辺の火曜日ないしは金曜日の夜、煙草を半分ほど吸わせるのが良いとされています。それ以外の時には、火災防止のため、煙草には火をつけず、ただ人形に加えさせておくのが一般的です。咥えさせる煙草の銘柄は何でもいいのですが、ボリビアでは“アストリア”、ペルーでは“ナシオナル”などの地元のローカル煙草が多く、日本ではマルボロのライトメンソールが好物だそうです。

 アラシタ祭りは大勢の人々が集まるイベントですので、感染拡大を防ぐためには中止もやむを得ないのですが、本来であれば、コロナ禍の深刻な今年こそ、エケコに健康と病気の調伏などを祈りたい人も多かったのではないかと思います。一日も早くウイルスの状況が落ち着き、来年こそは無事にお祭りが開催されることをお祈りしております。


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 核兵器禁止条約発効
2021-01-23 Sat 05:57
 核兵器の開発や保有、使用などを全面的に禁止する核兵器禁止条約が、きのう(22日)、同条約を批准した50の国と地域で発効しました。というわけで、きょうは“反核”ネタのマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      リトヴィノフ「平和のあらんことを」

 これは、1961年にソ連で制作されたプロパガンダ葉書で、ニコライ・リトヴィノフによるポスター「平和のあらんことを!」(1961年制作)が取り上げられています。

 1957年10月に世界最初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げたソ連は、翌11月にはスプートニク2号を、さらに1958年5月にはスプートニク3号の打ち上げに成功します。一方、この半年この間、米国が打ち上げていた人工衛星はエクスプローラー1号・2号の2回のみ。しかも、エクスプローラー2号は結果的に軌道投入に失敗していますから、人工衛星打ち上げ成功の回数は、ソ連の3回に対してアメリカの1回とみなすこともできます。

 人工衛星を打ち上げるためのロケットは、そのまま、大陸間弾道ミサイル(ICBM)に転用することが可能です。そして、その弾頭に、人工衛星ではなく核兵器を搭載すれば、地球上のどこからでも敵国を攻撃することができます。それゆえ、宇宙開発においてソ連がアメリカに先んじているとすれば、西側諸国にとっては大いに脅威となります。

 もっとも、実際には米国の総合的な軍事力は完全にソ連を圧倒しており、米政府も、1956年7月以降、U-2型偵察機をもちいてソ連の偵察(もちろん、領空を侵犯してのことですが)を繰り返した結果、そうした実情を正確に把握しており、ヨーロッパ・中東・東アジアなどで東側陣営を包囲し、どこからでもソ連を核攻撃できる体制を整えていました。

 しかし、U-2型機による偵察は極秘裏に行われたため、ソ連の軍事的な実態は一般国民には知らされませんでした。このため、西側世界では、スプートニク1号の打ち上げ以降、戦略爆撃機や戦略ミサイルの数において、米国はソ連に劣っているのではないかとの“ボンバー・ギャップ”や“ミサイル・ギャップ”の議論が説得力をもって語られていました。

 ソ連は、こうした“誤解”を活用して、ソ連に対する圧力と攻撃は深刻な反撃を招きかねないので、ソ連とは一定の妥協をはかり、平和共存を目指すべきだという方向に国際世論を誘導しようとします。その真の目標は、米ソ両国の軍縮という形式をとって、米国により多くの核兵器を削減させ、ソ連包囲網を緩和させようという点にありました。

 かくして、「ソ連の宇宙開発は純粋な科学技術研究で平和目的のものである」、「米国が膨大な核兵器を保有するがゆえに、ソ連は、自衛のため、やむを得ず最低限の核を保有しているのみである」といった論調が、西側諸国でも、ソ連に親和的な左派リベラル勢力を中心に盛んに唱えられるようになります。

 今回ご紹介の絵葉書に取り上げられている「平和のあらんことを!」もそうした文脈で制作されたもので、月探査機ルナ2号と原子力砕氷船レーニン号の軌跡によって、核ミサイルに×印をつけるデザインとなっています。このうち、ルナ2号は月面に到達した最初の人工物としてソ連の科学技術力を、レーニン号は原子力の平和利用の象徴として取り上げられたものです。

 かつてのわが国でも、いわゆる“進歩的知識人”を中心とした反核運動は、アメリカの核のみを問題視し、ソ連の核については口をつぐんできました。それがソ連による国際プロパガンダの影響を強く受けていたことは、その元ネタともいうべきこの葉書を見れば一目瞭然といえましょう。

 さて、今回発行した核兵器禁止条約は、1996年4月、リベラル色の強い3つの国際NGO(INESAP=拡散に反対する国際科学技術者ネットワーク、IALANA=国際反核法律家協会、IPPNW=核戦争防止国際医師会議)によって「モデル核兵器禁止条約」の名で草案が起草されました。
 
 同草案は、1997年11月以降、国連のアナン事務総長を通じて国連加盟国に配布され、改訂の後、2007年4月、コスタリカおよびマレーシア両政府の共同提案として、国連の核拡散防止条約(NPT)運用検討会議の第1回準備委員会に提出されました。

 その後、2011年10月の国連総会で核兵器禁止条約の交渉開始を求める決議が採択。2016年10月の国連総会第一委員会(軍縮)において、「多国間の核武装撤廃交渉を来年から開始する決議案」が賛成多数で可決されます。この時、米英仏露日は反対票を投じ、中国は棄権しましたが、北朝鮮は賛成票を投じています。

 これを受けて翌2017年に核兵器禁止条約交渉会議が開催されましたが、核兵器保有国の米中英仏ロ、インド、パキスタン、北朝鮮のみならず、オランダを除くNATO加盟国、米国と同盟関係にある日豪韓などが参加せず、残りの国と地域の投票により、賛成122、反対1(オランダ)、棄権1(シンガポール)で条約が採択。その後、条約を批准した国と地域が50に達したことから、今回、条約として発効となりました。
 
 * 本日(23日)未明、アクセスカウンターが230万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

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 54歳になりました。
2021-01-22 Fri 09:26
 私事ながら、本日(22日)をもって54歳になりました。「だからどうした」といわれればそれまでなのですが、せっかく年に1度のことですから、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      自然の記録第1集

 これは、本日発行された“自然の記録シリーズ”第1集のシートで、シートの下部には“令和3年1月22日”の日付もしっかり入っています。自分の誕生日に新しいシリーズ切手の発行が始まるというのもなかなかないことですので、取り上げてみました。

 “自然の記録シリーズ”は、「科学的な観点で自然由来のものが描かれた写生画などを題材とした」もので、今回ご紹介の第1集は植物精密画として、日本の植物図譜の嚆矢として知られる近衞家熈の『花木真寫』が取り上げられました。

 近衞家熈は、寛文7年6月4日(1667年7月24日)、近衛家21代当主・基熙の子として生まれました。皇室との関係でいうと、後陽成天皇の男系4世子孫となります。

 1673年に元服し、1687年、20歳で内大臣に任じられ、右大臣、左大臣を歴任した後、1707年、関白に就任。1709年に中御門天皇の摂政となり、1710-11年には太政大臣を務めました。元文元年10月3日(1736年11月5日)没。

 有職故実に通じた博学多才の文化人として知られ、特に、その書は空海・小野道風らの書に学んで独自の境地を切り開いたものとして高く評価されています。彼の侍医であった山科道安が記した日記『槐記』(当初の題は『槐下与聞』)は、茶の湯や香道、花道に関する家熈の言行や見識などが詳細に記録されており、江戸中期の文化史の重要な史料となっています。

 切手の題材となった『花木真寫』は、江戸時代初期1607年、明の李時珍による『本草綱目』の輸入をきっかけにわが国でも本格的な本草学の研究が始まったのを受けて、家凞が余技として作ったもので、縦30センチほどの3巻に125 図の植物が正確に描かれています。画面には、家凞自身による植物名の墨書がつけられています。

 なお、シートに納められた切手は、上段左から山蘭、幣辛夷、菫菜、寒菊、水仙、下段左から紫陽花、菩薩茨、射干、粉團花、瓔珞躑躅、で、シートの余白には水仙の線画が取り上げられています。


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 米国史上2人目のカトリックの大統領
2021-01-21 Thu 02:26
 昨年11月の米大統領選挙で当選したジョー・バイデン氏(以下、敬称略)が、現地時間の20日(日本時間21日未明)、正式に大統領に就任しました。カトリックの米国大統領就任は、1961年のジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(以下、JFK)以来、60年ぶり2人目(ちなみに、アイルランド系であることもJFKと同じ)です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米・ケネディ(2017)

 これは、2017年2月20日に米国で発行されたJFK生誕100周年の記念切手です。ちなみに、トランプ前大統領の就任式は2017年1月20日に行われましたので、この切手が発行されたのは、それからわずか1ヶ月後のことです。バイデンが政治活動委員会“米国の可能性(American Possibilities)”を設立し、2020年の大統領選挙への出馬を検討している可能性があると報じられたのは2017年6月1日のことでしたから、この切手が発行された時点では、当時のトランプ新大統領も、まさか、4年後に2人目のカトリックの大統領が誕生するとは全く想像していなかったのではないかと思います。

 さて、米国の建国神話では、信仰の自由を求めてメイフラワー号で英国から逃れてきたピルグリム・ファーザーズがプリマスに入植したのが合衆国のルーツになったとされており、そこから、米国は、プロテスタントの白人がみずからの信仰を守るために建国した国であるから、WASP(=White:白人、 Anglo-Saxon:アングロ・サクソン、 Protestant:プロテスタント)が国家の指導層を独占するのは当然という考え方が長らく常識とされていました。

 このため、カトリックはなかなか二大政党の大統領候補になることができず、1928年の選挙に、ようやくアイルランド系のアルフレッド・スミス(アル・スミス)が民主党の候補として出馬したものの、秋の本選挙では共和党のフーバー候補に惨敗しています。

 その後、1960年の大統領選挙では、同じくアイルランド系のJFKが当選し、カトリックとして初の米国大統領となりましたが、その後は再び、二大政党の大統領候補は2人ともプロテスタントという時代が長らく続きました。

 1970年代以降になると公民権運動の影響もあってWASPの社会的影響力は徐々に低下していったにもかかわらず、カトリックの信徒が二大政党の大統領候補になれなかった背景としては、1970年代以降、人工妊娠中絶の是非が米国の国論を二分する政治的な争点となっていたという事情があります。ちなみに、JFKの時代には、宗派を問わず、人工妊娠中絶は悪というのが大多数の米国人の共通認識でしたので、この問題が争点になることはありませんでした。

 すなわち、1970年3月、妊娠中であった未婚女性ノーマ・マコービーと、彼女に中絶手術を行い逮捕された医師などが原告となり、母体の生命を保護するために必要な場合を除き妊娠中絶手術を禁止したテキサス州法が違憲であるとして、テキサス州ダラス郡の地方検事ヘンリー・ウェイドを相手取って訴訟を起こします。その際、マコービーは身元が露見しないよう、“ジェーン・ロー”の秘匿名を名乗ったため、一連の裁判は“ロー対ウェイド裁判”と呼ばれました。

 ロー対ウェイド裁判は、1973年1月22日、連邦最高裁が7対2でテキサス州の中絶法を違憲とする判決を下したことで決着しましたが、その間、1972年の大統領選挙に際して、民主党の候補指名を争っていたジョージ・マクガヴァンに関して、彼がマサチューセッツ州予備選挙に勝利した後、ジャーナリストのボブ・ノバークが、匿名の上院議員の発言「人々はマクガヴァンが恩赦、妊娠中絶および麻薬の合法化に賛成していることを知らない」を紹介。マクガヴァンは「恩赦、妊娠中絶および麻薬」の候補者として知られるようになり、民主党の候補指名は獲得したものの、選挙戦で大きなダメージを受けて現職のリチャード・ニクソンに敗れました。

 一方、ロー対ウェイド判決の後、プロチョイス(中絶権利擁護派)であることは“リベラル”の証として、民主党政治家にとっては一種の踏み絵となります。彼らの認識では、プロライフ(中絶反対派)のカトリックは“女性の敵”となるので、選挙戦においては、カトリックの候補者は中絶問題を語らない(ほかの争点を作る)ことが基本戦略となりました。

 こうした背景の下、2004年の大統領選挙では、3人目のカトリック候補として、ジョン・ケリー(祖先は、チェコ・モラヴィア地方南部、ホルニボネソフ出身のアシュケナジム)が民主党の指名を獲得。ケリーは、ロー対ウェイド判決後初のカトリック候補として、カトリックのみならずプロテスタント保守派から、中絶非合法化を実現する候補として期待を集めましたが、結果的に、そのことが足かせとなってリベラル層の票を取りこぼし、現職のブッシュJrに敗れました。
 
 続く2008年の大統領選挙では、民主党のバラク・オバマ陣営の副大統領候補として、今回、大統領に就任したジョー・バイデンが指名されましたが、この時の選挙では、イラク戦争の是非が最大の争点になり、中絶問題が大きな争点にならなかったため、オバマ・バイデン陣営が勝利を収めました。

 ところで、オバマ政権時代の2013年、ローマ教皇に選出されたフランシスコは、中絶は絶対悪との従来からの立場は堅持しつつも(人工中絶はヒットマン(殺し屋)を雇う行為と同じ、中絶は人権ではない、などの発言)、柔軟な姿勢も見せるようになります。

 もともと、人工妊娠中絶を“道徳的な悪”とみなしていたカトリック教会では、中絶を行った信者は教会から破門され、この処分を解除できるのは司教(教区をまとめるエリアマネージャーに相当)以上に限定するというのが大原則でした。ところが、フランシスコは、2015年12月から2016年12月までを“慈しみの特別聖年”としたうえで、「中絶は罪のない命を終わらせることであり、重大な罪である」が、「同じように、神の慈しみが届かない罪、心から悔い改めて神父に許しを求めたときに拭い去れない罪は存在しない」、「この悔悛の旅において悔い改める者をすべての神父が導き、支え、慰めんことを」と祈り、「人工妊娠中絶の罪を犯した者たちを許す権限をすべての神父に与える」として、この1年間は、司教だけでなくすべての神父が人工妊娠中絶の罪を許すことができると発表。さらに、特別聖年が終わった後も、神父の権限はそのまま維持されています。(もちろん、この“規制緩和”により、中絶の罪を許されたカトリック信者が、実際に教会における信徒の交わりに戻るか否かは微妙ではあるのですが…)

 これを受けて、カトリック、特に米国のカトリックの間では“リベラル派”が台頭。彼らは、“道徳性(morality)”の観点から、大統領のトランプの資質を攻撃します。これと併せて、彼らは、宗教的な罪(sin)を、①道徳的に間違っている、②道徳的に間違っていると認識している、③様々な選択肢の中で自由に選ぶ(その結果として罪を犯す)、に分類したうえで、人工妊娠中絶をしている人の多くは殺人をしていると考えていないので、③に該当すると主張。③の罪に関して、神は自覚的に道徳的な間違いをした①や②の罪とは別の裁きの仕方をするから、その意味で、人工妊娠中絶は邪悪(evil)だが、罪(sin)としては軽度であるとのロジックを導き出します。

 今回の選挙戦では、バイデンはこのロジックを援用することで、カトリックでありながらプロチョイスという立場を主張。それが有権者の一定の理解を得られたことで、選挙戦での勝利につながったというわけです。

 ちなみに、宗教保守派としての福音派を支持基盤としていたトランプは「自分は強固にプロライフだが、例外は3つある。強姦、近親相姦、母親の生命を守るためだ。ロナルド・レーガンと同じ立場だ」と主張する穏健派で、レイプや近親相姦による妊娠であっても一切の中絶を認ないプロライフ強硬派とは一線を画す立場でした。


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 さらば、トランプ!
2021-01-20 Wed 16:16
 米国のトランプ大統領の任期が現地時間の20日で終了し、大統領を退任します。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      サウジ・米アラブイスラムサミット(2017)

 これは、2017年11月11日にサウジアラビア(以下、サウジ)が発行した“米アラブ・イスラムサミット”の記念切手で、会議のロゴを中心に、両国の国旗を背景に、開催国サウジのサルマーン国王とトランプ大統領の肖像が取り上げられています。

 2017年に発足したトランプ政権は、「イランの脅威に直面してサウジアラビアと湾岸地域の長期の安全保障を支援する一方、サウジの対テロ作戦への関与を支援し、米国の負担を軽減する」として、イランとの核合意を結んだオバマ前政権の方針を転換。就任後初の外遊先にサウジを選び、2017年5月20日にリヤドを訪問。翌21日には、同地でアラブ・イスラム諸国との会議「米アラブ・イスラムサミット」を開催し、55ヵ国から首脳らとともにテロ対策を中心に議論し、協力関係の強化を確認しています。

 さて、2017年の時点で、トランプ政権は歴代の米国政府の中東政策を継承し、イランとの核合意を簡単には破棄できないだろうとみられていました。

 しかし、トランプ政権は、良くも悪くもワシントン政治のアウトサイダーでしたから、それまでの経緯や複雑なしがらみよりも、現実に即して、何が米国(ないしは自分たちの政権)にとって有利かということを優先して、柔軟に物事を考えることが可能でした。

 このため、パレスチナ問題に関しても、1967年の第3次中東戦争以来、50年以上にわたり東エルサレムを含むヨルダン川西岸(の大半)がイスラエルの実効支配下にあるという現状を追認(1967年以前に戻すという安保理決議242号に基づくなら“現状”の変更になりますが…)し、そこから現実的な解決策を探るというのが、トランプ政権の基本方針となりました。

 もともと、米国の民主党と共和党は、いずれも党綱領でエルサレムをイスラエルの首都と認めており、1995年には連邦議会で大使館のエルサレム移転を認める法律も可決されています。ただし、歴代の政権は大使館のエルサレム移転は、安保理決議に抵触し、国際世論の反発が予想されるため、中東和平実現の障害になるとの観点から、同法の実施を半年ごとに延期するということで問題を先延ばしにしてきました。

 これに対して、トランプは、2017年6月には歴代政権の先例を踏襲して大使館の移転を半年延期しましたが、同年12月には公約通り、大使館の移転手続きを開始。さらに、2018年5月14日、(西暦での)イスラエルの建国70周年にあわせて米国大使館をエルサレムに移転させています。

 米国大使館のエルサレム移転に関して、多くのメディアはアラブ諸国が強く反発し、中東は大混乱に陥るとの論調でしたが、実際には、小規模な抗議行動こそ起きたものの、アラブ諸国の大半は事実上、事態を静観していました。もはや、第3次中東戦争から半世紀以上が過ぎ、アラブの大義という建前はともかく、現実に存在している経済大国・軍事大国としてのイスラエルとは共存していくしかないという、アラブ諸国の本音が確認された格好です。

 さらに、エルサレム問題と並行して、2018年5月、米国はイランとの核合意を離脱し、11月にはイラン産原油の禁輸措置を再開しました。

 トランプ政権が核合意離脱を決断したことについて、日本の大手メディアでは、トランプはオバマが気に入らないから破棄したと説明する識者が何人かいましたが、これはあまりにも短絡的な見方でまともに取り合うに値しません。もともと、トランプは、大統領選挙の時から、①イランの核計画が期限付きでしか制限していない、②弾道ミサイル開発を制止していないなど、合意の欠陥を指摘したうえで、欠陥合意に参加する必要はないことを公約として掲げており、合意からの離脱は、それを忠実に実行しただけのことです。ここでもまた、あくまでも現実を踏まえてフラットに判断するトランプ外交の性格がよく表れていると思います。

 2020年8月のアラブ首長国連邦(UAE)を皮切りに、バハレーン、スーダン、モロッコの各国が相次いでイスラエルとの国交を正常化したのをはじめ、長年にわたって対立関係にあったセルビアとコソヴォの経済正常化、さらに、カタールとサウジ、UAE、バハレーン、エジプトの4ヵ国との国交回復などは、いずれも、トランプ政権の仲介によって実現したもので、その成果は間違いなく歴史的なものといってよいでしょう。

 それだけに、昨年11月の米大統領選挙に関して「大規模な不正があった」として選挙結果に異議を唱え続け、結果的に、今年(2021年)1月6日、米連邦議会への暴徒乱入事件が発生してしまったことは、残念でなりません。

 トランプについては、その強烈な個性ゆえに毀誉褒貶が激しいのは避けられませんが、合衆国政府は巨大な行政機構であり、個人経営の中小企業ではないのですから、チームとしてのトランプ政権が優秀であれば、政権としては評価すべき実績が積み上げられるのは当然のことです。

 じっさい、新型コロナウイルスが問題になるまでは、トランプ政権が減税と規制緩和を進めたことによって、オバマ政権時代と比べて、雇用状況(特に有色人種の雇用状況)は大きく改善され、株価も上昇しています。さらに、外交上も、上述のような中東・イスラム世界に関する業績に加えて、北朝鮮の金正恩との歴史的な米朝首脳会談を行い、中国に対しては知財ただ乗りに代表される不公正貿易の改善に向けて圧力をかけ、中国共産党による人権侵害を正面から批判して、香港人権法ウイグル人権法チベット人権法を成立させるなど、トランプ政権が多くの重要な実績を上げてきたことは誰も否定できないでしょう。

 2016年の大統領選挙で約6300万票だったトランプ候補の得票が、2020年選挙では7380万票以上と1000万票以上を上積みし、米史上2番目の得票数となったのは、トランプの個人的なキャラクターはともかく、政権としての実績を評価する有権者が少なくなかったことを意味しています。

 当面、トランプに対しては、“晩節を汚した大統領”に対してはネガティヴな論調一色になることが予想されますが、トランプ個人に対する好悪とは別に、トランプ政権4年間の実績については、それこそ、是々非々で評価すべきだということを忘れてはなりますまい。
 

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 沖縄切手モノ語り⑥ 
2021-01-19 Tue 00:26
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』第775号が配信されました。僕の連載、「沖縄切手モノ語り」は、今回はこの切手について取り上げました。(画像はクリックで拡大されます。 

      沖縄・植林(1951)

 これは、1951年2月19日に発行した“植林(蔡温)”の切手です。
 
 沖縄戦によって壊滅的な打撃を受けた森林を復旧させようという動きは、1946年以降、沖縄教育連合会が「緑の学園運動」を積極的に展開していましたが、当初、米軍政府の動きは鈍いものでした。

 しかし、1949年10月1日に中華人民共和国が建国宣言を行い、蒋介石の国民政府が(沖縄からも近い)台湾に遷移すると、米軍政府は太平洋の要石としての沖縄を長期保有していくため、沖縄の再建と復興に重点を置くようになりました。そして、そのために、住宅資材や日々の薪炭材を供給しつつ森林資源を回復させる必要が生じます。

 こうした状況の中で、リチヤード・M・パーニーは、荒廃した沖縄林業の復興と愛林思想の普及を図ることを目的とした“愛林週間”の設置を米軍政府に提案。これを受けて、米軍政長官のR. B.マクロアー陸軍少将は、以下の特別布告を発します。

 琉球列島米国軍政本部特別布告第42号
 琉球列島の住民に告げる。 造林及び植林運動を樹立して、琉球の林業の復興を助け、且つ、以前のように琉球諸島を美しい島にする方法を講ずることが望ましいと思われるので、本官、琉球列島米国軍政本部少将R.B.マクロアーはここに下記の布告を発する。
毎年2月18日から2月25日までの1週間を“愛林週間”と定め、本週間中琉球諸島の各学校は全校生徒を動員し、植樹、愛林に関する知識の普及および宣伝を掌る指導班を編成し、之を最高度に活躍させ、(中略)樹を群島政府文教部の提案する植樹計画に基づいて植えさせる。
 本布告は、1951年2月18日から之を実施する。
 1950 年 11 月 22 日 軍政長官米国陸軍少将R. B.マクロアー

 この布告を受けて、1951年には第1回愛林週間が行われ、その周知宣伝を兼ねて発行されたのが、今回ご紹介の切手です。

 1951年の愛林週間の期間中は、宣伝カーや米軍機によるビラの配布なども実施され、デイゴなど33万本の木々が植えられました。1952年度以降については、毎年20万本の植樹が目標とされ、目標値以上の植樹が行われたものの、いかんせん、沖縄戦のダメージが大きすぎて、沖縄本島中南部ではなかなか目に見える効果は表れなかったとされています。

 さて、愛林週間の記念切手は、琉球王国時代に林業政策で功績のあった蔡温の名前と、彼の指導による防風林のイメージとして鱗文様を背景に松の木が描かれています。

 蔡温は、1682年、那覇の久米村(現那覇市久米)において、蔡氏志多伯家十世で、久米村の最高実力者である“総役”を務める蔡鐸の子として生まれました。

 蔡氏の租、蔡崇は福建省泉州府南安県出身の閩人(現・福建省の中国人)で、蔡氏は那覇の久米村で中華王朝との外交、貿易に従事した久米士族(久米三十六姓)のひとつでした。

 蔡温は、1693年に12歳で若秀才として久米士族の末端に名を連ね、1696年に15歳で秀才に昇格。1700年には19歳で通事(通訳)に任命されます。その後、訓詁師(漢文読書の教師)、講解師(講談の教師)を歴任し、1708年、存留通事(現地での通訳)として清の福州へ赴任。福州で実学思想に目覚め、陽明学を学んで帰国後の1711年、30歳で皇太子尚敬の教師である世子師職兼務近習役に任命されました。翌年、尚益王が死去し尚敬が王に即位すると、国師に就任し、琉球国全体を指導する立場となります。

 1716年には尚敬王の即位に伴う冊封使を求める使節団の副使に選ばれ、翌1717年、北京王府へ貢物を納め、勅書を得て帰国。これを受けて、1719年、清からの冊封船が那覇に到来しましたが、冊封使の従者が大量の貨物を持ち込み、琉球王府に買い取りを要求するトラブルが発生します。王府にはその支払い能力がなかったため、蔡温は貨物の評価を厳密に査定したうえで、国中から有価物品を集めるなどして事態を収拾。その功績もあって、同年、39歳で三司官座敷(三司官となりうる資格。三司官は宰相に相当)となりました。

 1728年、政府高官らの選挙により47歳で三司官に任命されると、尚敬王に対して「清との付き合いは難しくないが、薩摩藩との付き合いには十分な配慮が必要」と進言し、薩摩藩との協調路線を採択。官制の整備、道徳規範としての『御教条』の制定、農民に耕地の永久耕作権を与えて農地の地力保護をはかったり、農業用水路の整備を進めたりするなどの農政改革、ウコンや黒糖の王府専売制の強化と農民から租税以外の黒糖を安値で買い上げる買上糖の制度の導入による財政再建などに辣腕を振るいました。

 1734年、政敵の平敷屋朝敏が蔡温の排除を目論み、蔡温を批判する文書を薩摩藩に投書すると、蔡温の外交路線を支持していた薩摩藩はこれを琉球王府に送り、朝敏とその配下15名は処刑。名実ともに、琉球王国内における最高実力者としての地位を確立します。

 1735年、羽地大川で水害が発生すると、河川改修の指示を受けて現地入りし、11月にこれを完成させました。その手腕が評価され、同年12月10日、山林を管理する役を命ぜられ、翌1736年から1737年にかけて琉球北部の山林を調査し、各地で治山の指導をするとともに山林の管理方法を『杣山法式』にまとめています。

 そのポイントは、①琉球各島の木材の需給状況を考慮し、木材の自給がある程度可能な島については島内で木材を賄うこととし、山林のない島については沖縄本島中部や北部から供給し、八重山については将来へ向けての予備とする、②山林と田畑との境界を明確にして管理を強化する、③植林を奨励し、海岸部にはアダン、マツ、テリハボクなどの防風・防潮林の“潮垣”を、内陸部の要所にはマツなどからなる林の“抱護”を設置、④森林資源保護のための家屋の新築や新造船、薪の利用を制限し、丸木舟の製造を禁止、というものでした。

 1752年、尚敬王の崩御に伴い、蔡温は隠居を申し出ますが、薩摩藩の指示により三司官を退官するのみで職務を継続。1756年の冊封使の応接と貨物評価を担当した後、1757年に冊封使が帰国した後、76歳で隠居し、1762年1月23日、80歳で亡くなりました。


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 アタリの番号は60、58、50
2021-01-18 Mon 10:36
 “2021(令和3)年用年賀葉書及び寄附金付お年玉付年賀切手の抽せん会”が、きのう(17日)、東京・丸の内のJPタワーで行われ、お年玉切手シートの当選番号は60、58、50に決まりました。というわけで、例年どおり、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      年賀小型シート(2021)

 これは、きょう(18日)から引換が始まった今年(2021年)のお年玉切手シートです。かつて成人の日が1月15日に固定されていた時代には、年賀はがきの抽選が成人式と並ぶ1月15日の風物詩となっていたわけですが、いわゆるハッピーマンデーの導入により、成人の日が1月の第2月曜日となったことで、その前提が大きく変わってしまい、抽選日も近年は1月半ば以降の日曜日ということで毎年変わっています。

 また、かつての切手シートは、(原則として)干支の郷土玩具を描く年賀切手と同じものを収めていましたが、2017年から、通常のシート切手とは別に、“年間を通して利用できる”オリジナルデザインの切手(書状基本料金用と葉書料金用1枚ずつ)を収めた構成となりました。

 今回のシートは大入り袋を背景に、長寿の象徴としての“(丹頂)鶴”をモチーフにした63円切手と“”をモチーフにした84円切手の組み合わせで、左右には“令和三年”の表示と、干支にちなんだ牛が描かれています。

      年賀小型2021年号
      年賀小型2021部分

 また、切手シートは今回からシール式になり、切手部分は円形の型抜きになっています。この点について、日本郵便の報道資料では「従来のり式でご用意してきたお年玉切手シートですが、今回は使いやすいシール式での提供になります」として、利便性の観点からの変更と説明していますが、あるいは、コロナ禍で“切手を舐める”ことへの利用者の抵抗感を軽減しようという意図があったのかもしれません。

 さらに、2019年と2020年のシートの余白には、“HAPPY”および“LUCKY”の文字が入っていましたが、今回は“LUCKY”のみで、“HAPPY”の文字はありません。この辺りも、なんとなく“HAPPY”とは言いづらい世の中の雰囲気を反映しているようにも見えます。

      年賀小型ラッキー

 なお、お年玉葉書の末等商品としての切手シートとその歴史については、拙著『年賀状の戦後史』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取っていただけると幸いです。

 * 僕宛の今年の賀状の中では、小野義典さん、小林徹也さん、坂間則仁さん、廣江正道さん、山田精一さん(50音順)から頂戴した5通がアタリでした。この場をお借りして、お礼申し上げます。


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 K2冬季登頂に初成功
2021-01-17 Sun 01:18
 ネパールの登山隊10人が、きのう(16日)、パキスタン北部にある世界第2位の高峰で、世界の8000メートル級全14座のうち、唯一冬季登頂が未達成だったK2(8611メートル)の冬季登頂に初めて成功しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      パキスタン・K2登頂50年

 これは、2004年にパキスタンが発行した“K2初登頂50周年記念”の切手シートです。

 パキスタン北部はカラコルム山脈ヒマラヤ山脈・ヒンドゥークシュ山脈の3つの山脈が走る世界でも有数の山岳地帯となっていますが、このうち、カラコルム山脈の最高峰にしてパキスタン国内最高峰がK2です。

 K2という名前は、英領インド帝国時代にインド測量局のトーマス・ジョージ・モントゴメリーが1856年からカラコルム山系の測量を始めた際に、標高が高い山々にカラコルムのKを取って、K1, K2, K3, K4, K5 の測量番号をつけたことに由来するものです。K2以外の山には、その後、新たな名前が付けられたり、現地名が採用されたりしましたが、K2は人里から遠く離れた奥地((最も近い村までは、直線距離で約80キロ)にあり、19世紀末まではほとんどその存在が知られていなかったこともあり、測量番号がそのまま名山名として残りました。

 K2は、もともと奥地に位置していてアクセスが容易ではないうえ、気候条件が世界最高峰のエヴェレストよりも厳しく、急峻な山容による雪崩や滑落の危険性などから、世界で最も登山が難しい山として知られています。

 このため、1892年、マーティン・コンウェイひきいる英国の探検隊が標高約4600メートルのコンコルディア(バルトロ氷河とゴドウィン・オースティン氷河の合流点)に到達。1902年にはオスカー・エッケンシュタイン隊が6525メートル地点まで、1909年にはイタリアのアブルッツィ隊が6250メートル付近まで到達したものの、登頂には成功しませんでした。
 
 その後、1954年7月31日にイタリアのアルディト・デジオ隊がパキスタン側からアプローチし、隊員のリーノ・ラチェデッリとアキッレ・コンパニョーニの2人が世界で初めて登頂に成功しました。ついで、1977年8月8日には、日本山岳協会登山隊の第2次アタック隊員の重広恒夫、中村省爾、高塚武由が日本人として初めて、世界でも2回目の登頂に成功しています。

 ちなみに、2018年末までにK2の登頂に成功したのは367人(全て夏季)で、生存率は77.1%。エヴェレストの登頂者は9171人で、生存率は96.8%ですから、K2登頂がいかに難しいか、よくわかります。

 なお、K2は、中国の新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)とパキスタンの国境に位置しており、周辺一帯はカシミール紛争の係争地として、インド側の認識では“カシミールのパキスタン占領地”とされています。こうした事情もあって、パキスタン政府は、この地域の領有権を主張する一環として、K2の切手をしばしば発行しています。


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 フルヘンシオ・バティスタ生誕120年
2021-01-16 Sat 02:43
 1959年の革命でキューバを追われた独裁者、フルヘンシオ・バティスタが1901年1月16日に生まれてから、ちょうど120年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・バティスタ病院

 これは、1954年、ハバナでバティスタの名を冠した“バティスタ将軍療養所”がオープンした際にキューバが発行した記念切手です。バティスタは革命以前のキューバで長らく独裁者として君臨していましたが、意外なことに、彼の肖像切手は発行されておらず、“バティスタ”の名前が直接切手に表示されているのは、今回ご紹介の記念切手(他に同図案で色違いの9センタボ切手があります)だけです。

 バティスタは、1901年、米西戦争後の米軍政下にあったキューバ島北東のバネスで貧農の家に生まれ、高校卒業後の1921年、国軍に入隊しました。

 1924年の大統領選挙で当選したヘラルド・マチャド・イ・モラレスは、軍部の支持を背景に、政権に批判的なメディアや活動家を弾圧。1927年には憲法を改正して大統領の(連続)再選禁止規定は撤廃し、独裁者として君臨しましたが、1929年10月に世界恐慌が発生し、キューバ経済が壊滅的な打撃を受けると、大規模な反マチャド運動が発生。1933年8月、マチャドはバハマの首都、ナッソーに亡命しました。

 マチャドの亡命後、臨時政府の大統領にはカルロス・マヌエル・デ・セスペデスが就任しましたが、バティスタ(当時の階級は軍曹)ら国軍の下士官は、9月4日、ハバナ市内のコロンビア兵営で叛乱を起こし、軍の実権を掌握。バティスタらは、軍の旧首脳部の報復に対抗するため、左派系の学生幹部会と手を組み、“キューバ革命連合”を結成し、ハバナ大学教授のラモン・グラウ・サン・マルティンを首班とする新政権が誕生しました。

 ハバナ駐在の米国大使、サムナー・ウェルズは、学生幹部会出身の左翼活動家が新政権に深くかかわっていたことを憂慮し、「共産主義的傾向をもつ新政府の下、キューバ全島が無政府状態となった」として、本国政府に軍事介入を要請。ローズヴェルト大統領は、30隻の軍艦を派遣し、新政権に圧力をかけました。

 はたして、学生幹部会の地下活動家から新政権の内相に就任したアントニオ・ギテーラスは、労働者の要求を認める立場から労働省の設立、8時間労働法、労働国有化法、最低賃金法などをあいついで打ち出したほか、民族主義的立場から50パーセント法(雇用者の半分をキューバ人とし、総賃金の半分はキューバ人に支給することを義務づける法律)を制定。さらに、電力料金の4割引き下げを決定し、米国系電力会社がこれを拒否すると、電力会社の国有化を宣言しました。このほか、ギテーラスは、米系砂糖会社の国有化や農地改革にも手を付けようとします。

 これらの政策は、当然のことながら、キューバの利権を独占していた米国にとっては絶対に許容しえないもので、バティスタは参謀総長に就任したものの、米国と対立する新政権は長くはもたないと考え、入閣の依頼には応じず、様子見の姿勢を取っていました。

 一方、新政権を認めないウェルズは前陸相のフェレルに政権転覆の準備を指示。300人の将校団がウェルズの宿泊するホテル・ナシオナルに終結。これに対して、左翼勢力は“赤軍”を組織し、各地で政府軍バティスタ派、将校団(政府軍内の反バティスタ派)、赤軍の三つ巴の闘いが展開されます。

 当初、ウェルズは将校団が他の2派をすぐに制圧して事態を収拾するものと期待していましたが、優勢なのはバティスタ派で、政府軍がホテル・ナシオナルを攻撃すると、将校団はあっさり降伏。そこで、ウェルズは将校団を見限って、バティスタを左翼勢力から切り離すことを決断。10月5日には記者会見を開いて、グラウ政権を「共産主義的で無責任な政府」と非難したうえで、「(バティスタは)反共であることにおいてキューバを代表する唯一の人物である。この事実ゆえに、キューバの貿易、財政上の利害代表の大半はバティスタを支持している」と述べ、バティスタとの共闘の方針を明らかにしました。

 米国の意に背かない限り、米国が攻撃を加えることはないとの保証を得たバティスタは、11月1日、将校団400人のデモ隊を襲撃して参加者ほぼ全員を捕らえ、兵営に連れ込んで射殺。ついで、バティスタは赤軍の殲滅作戦に着手し、左派系の影響下にあった製糖工場を次々に制圧しました。

 さらに、翌1934年1月14日、グラウ政権が料金引き下げに応じない電力会社の接収を発表すると、米戦艦ワイオミングが威圧のためハバナ港に侵入。これを受けて、バティスタはグラウの辞任を要求し、グラウ政権を崩壊に追い込みます。これを受けて、1月19日、カルロス・メンディエタ・イ・モンテフール(独立戦争の英雄で、国民党の重鎮として、かつて大統領選挙でマチャドと戦ったこともある人物)を臨時大統領とする“国民統一政府”が発足。以後、バティスタは政権の陰の実力者として暗躍し、短期間で政権が目まぐるしく交替する時期が続きました。

 それでも、この時代には、政治犯の釈放(1937年)、共産党の合法化、土地分配法の制定(1938年)などのリベラルな政策も行われ、砂糖および煙草産業の国家管理や社会保障政策も導入されています。

 さらに、1939年には憲法制定議会が招集され、国家主権の確立、全国民の平等(=人種・性・階級による差別の禁止)、大統領の再選禁止、普通選挙、大地主制度(=米系砂糖会社による土地の独占)の廃止、土地所有限度の設定などを定め、当時のラテンアメリカでは最も民主的と歌われた1940年憲法が施行されました。

 そして、1940年7月、新憲法の施行を受けて大統領選挙が実施されると、バティスタは民主社会主義同盟の候補者として立候補して当選。バティスタ政権は、発足後すぐに、ドイツと戦っていた英国に膨大な量の砂糖を無償で提供しただけでなく、1941年2月には独伊両国の領事館員を追放。さらに、同年12月の真珠湾攻撃を機に米国が第二次大戦に参戦すると、すぐさまこれに呼応して、12月11日には枢軸国に対して宣戦を布告し、米軍に対独戦用の海軍基地を提供するなど、米国に忠誠を尽くし、自らの権力基盤を盤石なものとしました。

 こうして、1944年までの大統領任期を乗り切ったバティスタは、後継者としてカルロス・サラドリガスを推しましたが、同年の大統領選挙では、反バティスタ勢力のキューバ革命党アウテンティコから元大統領のグラウが立候補し、当選。このため、在任中の不正の追及を恐れたバティスタはフロリダに逃亡し、デイトナビーチでカジノを経営しながら、マフィアとのコネクションも強化しつつ、キューバ政界復帰のタイミングをうかがうようになりました。

 一方、グラウ政権下のキューバは、第二次大戦後の欧州で砂糖の需要が拡大したことに加え、米国もキューバからの砂糖輸入割当を大幅に増やしたため、空前の好景気を呈していました。こうした状況の下では、1940年憲法に規定された大地主制度の廃止など、すっかり忘れ去られていたというのが実情で、政府要人や官僚は“改革”への興味を失い、権力の乱用と汚職による不正蓄財に熱心でした。

 与党アウランティコの現状を憂えた人々は、1947年、腐敗の根絶を掲げて同党から分裂し、キューバ革命党オルトドクソを創立しましたが、党首のエドゥアルド・チバスの自殺もあって党勢は伸び悩みます。

 こうした状況を見て取ったバティスタは、1948年の選挙で上院議員に立候補して政界に復帰。さらに、1952年の大統領選挙にも立候補しましたが、オルトドクソのロベルト・アグラモンテの前に苦戦を強いられました。このため、同年3月10日、バティスタは軍事クーデターを決行し、力ずくで大統領に就任。親米派の政権復帰を歓迎した米国は、直ちに、バティスタ政権を承認します。

 当然のことながら、クーデターによる政権奪取に対しては国民の批判も強かったのですが、バティスタは、米国政府・企業、カジノ経営時代に関係を築いたマフィアと結託してこれを抑え込み、キューバ国内における彼らの利権を保護する代償として、米国から巨額の支援を引き出し、それらを私物化していきます。この結果、キューバの農業や工業には、従来以上に米国資本が流れ込み、国民の貧困は放置されたまま、キューバ経済は米国に対する隷属の度合いを一層強めていきました。

 一方、武力で政権を掌握したバティスタを相手に、アウランティコをはじめとする既成政党は話し合いでの政権交代を要求するとしていましたが、党内対立から反バティスタ勢力は結集されず、国民の間には政治に対する閉塞感が蔓延。こうした中で、1952年の議会選挙にオルトドクソから立候補した青年弁護士のフィデル・カストロは、バティスタのクーデターによる選挙の無効化に憤慨し、バティスタを憲法裁判所に告発していましたが、裁判所はこれを握り潰してしまいます。

 そこで、カストロは、アベル・サンタマリーア、ニコ・ロペス、ヘスス・モンタネら同志とともに、1953年7月26日、サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃し、キューバ革命の狼煙を上げました。

 モンカダ兵営の襲撃は失敗し、逮捕されたカストロは懲役15年の判決を受けて投獄された後、国外へ追放されます。しかし、亡命先のメキシコで、エルネスト・ゲバラ(チェ・ゲバラ)と出会い、同氏と共に革命運動を組織。1956年12月、グランマ号でキューバ島に再上陸し、シエラ・マエストラ山中を拠点に反バティスタのゲリラ戦を展開。バティスタ政権の腐敗に対する国民の不満を吸収する形で、革命軍は徐々に勢力を拡大し、1958年12月29日にはサンタ・クララの戦いで勝利を収めます。

 こうして、政府軍の敗北が決定的になると、1958年12月31日の夜、バティスタはハバナ市内のコロンビア兵営で催された新年祝賀パーティーの席上で突如として辞任演説を始め、日付の変わった1959年の元日未明、クバーナ航空機でキューバを脱出し、ドミニカ共和国へ亡命。その後、政府軍のカンティーヨ将軍は“臨時政府”の成立を宣言したものの、カストロはこれを認めず、革命軍がハバナに入城し、キューバ革命が達せられました。

 一方、亡命後のバティスタは、ドミニカ、ポルトガルを経て、最後はフランコ政権下のスペインで投資家として活動していましたが、1973年、マルベーリャの郊外の自宅で心臓病で亡くなりました。

 なお、バティスタ時代のキューバについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 アスワン・ハイ・ダム50年
2021-01-15 Fri 02:22
 エジプトのアスワンハイダムが1971年1月15日に完成してから、ちょうど50年になりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エジプト・アスワンハイダム(1985)

 これは、1985年にエジプトが発行した“アスワン・ハイ・ダム(着工)25周年”の切手シートで、切手部分にはダムの全景が描かれています。
 
 “エジプトはナイルの賜物”というヘロドトスの言葉は、ナイル川の氾濫が流域の肥沃な土壌を作ってきたことの表現ですが、近代に入ってからエジプトの人口は急増し、洪水の被害を抑えることが重要な課題となりました。このため、エジプトを事実上の保護国とした英国は、1901年、ナイル川上流にアスワン・ダムを建設しますが、1952年に発足したナセルの革命政権は、より上流のアスワン・ハイ・ダムの建設に着手しました。

 ダムの建設資金としては、当初、エジプトは米英両国と世界銀行の資金援助をあてにしていました。ところが、イスラエルへの対抗上、米国をはじめとする西側諸国から最新兵器を購入しようとしたエジプトに対して、米英仏の三ヶ国が、中東への武器供与を制限する3国宣言を理由にこれを拒絶。このため、エジプトはチェコスロバキア経由で大量のソ連製兵器を輸入したことから、エジプトと西側との関係がこじれます。
 
 エジプトのソ連への接近を阻止しようと考えた米国は、1956年7月19日、突如、アスワン・ハイ・ダム建設資金の援助の約束を撤回してナセルに圧力をかけます。さらに、英国と世界銀行も同様の声明をエジプトに対して発すると、資金不足からダム建設中止の瀬戸際に追い込まれたナセルは、同年7月26日、年間1億ドルのスエズ運河の収益をアスワン・ハイダム建設の資金に充てるべく、運河の国有化を宣言。管理会社である国際スエズ運河株式会社を接収して全資産を凍結しました。これに対して、運河国有化を阻止しようとして、英仏両国がイスラエルとともに干渉出兵したのが第2次中東戦争です。

 結局、英仏によるスエズ侵攻作戦は、米ソを含む国際社会の厳しい非難を浴び、英仏両国は1956年12月2日に作戦を中止。その後、エジプトは1958年にはソ連から資金と技術の援助を受けて、1960年からダム建設を着工しました。

 当初の計画では、ダムの完成により、ヌビア遺跡のアブシンベル神殿が水没することになっていましたが、貴重な文化遺産を保護すべきとの国際世論の声が強く、ユネスコの援助により、巨額の費用をかけて神殿はダムの人造湖(ナセル湖と命名)の湖畔に移築されました。なお、僕が小中学生の頃は、学校の教科書などでヌビア遺跡移築の話がしつこいくらいに出てきましたので、いまでも個人的にはアスワン・ハイ・ダムというと条件反射的にヌビア遺跡がすぐに思い出されますね。

 完成したダムは、全長3830m、高さ111m。ダムにより、毎年のように起こっていたナイル川の氾濫は大幅に減少し、12基の水力発電装置によって、合計2.1GWの電力が供給可能になりました。また、ナセル湖では漁業が盛んに行われるようになったほか、湖から供給される水により耕作可能な土地は30%以上増加。周辺の砂漠の緑化が進みました。

 その反面、以前のようにナイル川が氾濫しなくなったことで、ナイル川デルタ地帯では土砂の供給が減少し、河岸および海岸の侵食が激しくなるなど、ネガティブな影響も指摘されています。
 
 ちなみに、完成当初、ナイル川上流から運搬されてくる土砂などにより、500年後にはアスワン・ハイ・ダムは使用不能になると予想されていましたが、現在の観測によると、500年後には水力発電に影響は出るものの、その後もダムそのものの使用は可能で、完全に埋まるのは約1700年先になるのだそうです。


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 尖閣諸島開拓の日
2021-01-14 Thu 01:50
 きょう(14日)は、1895年1月14日、日本政府が尖閣諸島の日本領への編入を閣議決定したことにちなむ“尖閣諸島開拓の日(尖閣の日)”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      尖閣宛葉書(日本)

 これは、1992年7月27日、那覇から尖閣諸島の魚釣島宛に差し出された葉書で、尖閣諸島は無人島のため、8月1日から10月18日まで、最寄りの八重山局で保管されていたものの、受取人が保管期間内に現れなかったため、差出人に返戻されています。

 1885年以降、わが国は沖縄県当局等を通じて尖閣諸島の現地調査を幾度も行い、無人島であるだけでなく、清国を含むいずれの国にも属していない土地(無主地)であることを慎重に確認したうえで、1895年1月14日の閣議決定で、尖閣諸島を沖縄県に編入しました。

 翌1896年、魚釣島と久場島はまもなく八重山郡に編入され、北小島、南小島と共に国有地に指定され地番が設定。同年9月、魚釣島、久場島、北小島及び南小島は実業家の古賀辰四郎に対して30年間無償で貸与されることになり(無償貸与期間終了後は1年契約の有償貸与)ました。その後、尖閣諸島は1903年に行政上は登野城村の一部となりましたが、1908年に島嶼町村制が施行されると、登野城は八重山郡八重山村(八重山列島全域)の字となり、さらに、1914年八重山村より分村した石垣村に編入されました。石垣村は1926年に石垣町に、さらに米施政権下の1947年に石垣市となり、1964年に当時の大浜町との合併により、現在の市域になっています。

 尖閣諸島に関しては、1932年、魚釣島、久場島、北小島及び南小島4島が古賀辰四郎の嗣子である古賀善次に払い下げられ私有地となり、アホウドリの羽毛の採取、グアノ(海鳥糞)の採掘、鰹漁業、鰹節の製造等が行われていましたが、1940年頃、古賀善次は尖閣諸島での事業を撤退し、再び無人島となります。

 第二次大戦後の1946年1月29日、GHQは「外郭地域分離覚書」を発し、北緯30度以南の南西諸島の行政権は日本から分離されました。これに伴い、尖閣諸島は沖縄の一部として米国の施政権下に置かれ、米軍の射爆演習場として利用されていました。

 ところが、1969年、国連アジア極東経済委員会の海洋調査で、尖閣周辺にイラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告されると、1971年4月、台湾の国民政府が尖閣諸島の領有権を主張しはじめます。さらに、同年12月には、中国も尖閣諸島の領有権を主張し始めました。

 しかし、そうした主張は国際的には全く相手にされず、1971年6月に沖縄返還協定が調印され、1972年5月に沖縄が祖国に復帰すると、尖閣諸島もそれに伴い、日本国沖縄県石垣市に編入されて現在にいたっています。

 近年、中国は尖閣諸島への領土的野心を隠そうとせず、2008年以降、尖閣諸島沖の日本領海内での侵略行為を頻繁に繰り返し、はなはだしくは、彼らの息のかかった反日団体を魚釣島西側の岩礁に不法上陸させるなど、まさにやりたい放題の状態です。

 もちろん、一義的には、侵略行為を繰り返す中国が悪いことはいうまでもないのですが、その一方で、多くの日本国民が尖閣諸島については無関心であったことが今日の事態を招いてしまったのだという現実を受け止め、真剣に反省するとともに、尖閣の防衛には何が必要なのか、まずは我々自身は真剣に考えることが必要ではないかと思います。


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 米、キューバをテロ支援国家に再指定
2021-01-13 Wed 03:33
 米国のポンペオ国務長官は、11日(現地時間)、キューバが米国からの亡命者やコロンビアの反乱勢力の指導者を受け入れることで「国際テロ行為に繰り返し支援を提供している」と批判。また、ベネズエラのマドゥロ政権を安全保障面で支援することで同氏の権力維持を可能にし、ベネズエラ国内で国際的なテロリストが勢力を拡大する土壌をつくっているとして、キューバをテロ支援国家に再指定したと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ALBA

 これは、2017年にキューバが発行した“シエンフエーゴス製油所改良10周年”の切手のうち、キューバとベネズエラの両国国旗を掲げた“ボリバル同盟(ALBA)”の看板が掲げられた製油所の風景を取り上げた1枚です。なお、切手の左上には、シエンフエーゴスの地名の由来となった革命の元勲、カミーロ・シエンフエーゴスの肖像が描かれています。

 シエンフエーゴス製油所は、2007年、キューバとベネズエラの協力の下、キューバがベネズエラの石油企業PDVSAとの合弁事業で経営。以後、10年間で1億5000万バレルの石油を精製したものの、ベネズエラの経済不振によりPDVSAの生産能力が大きく低下し、切手が発行された2017年には800万バレルの精製に留まっていました。こうしたことを踏まえ、同年8月、PDVSAは同製油所の49%分の株式をキューバに譲渡し、100%のキューバ資本となっています。

 さて、ボリバル同盟(ALBA)は、2004年末にキューバとベネズエラが米国主導の米州自由貿易地域に対抗して、“21世紀の社会主義”の原則の下、中南米・カリブ海諸国の相互支援と協力、連帯、社会開発の共同などを協定したのがルーツで、現在の加盟国は、加盟国は、アンティグア・バーブーダ、ボリビア、キューバ、ドミニカ国、エクアドル、ニカラグア、セントビンセント・グレナディーン、ベネズエラ(2008年から加盟していたホンジュラスは2010年1月に脱退)で、 シリア、ハイチ、イランがオブザーバー参加となっています。ベネズエラのマドゥロ政権は、ALBA諸国との関係重視を外交政策の基本に据えていますが、実際には、キューバが政治・イデオロギーの面でALBAの主導権を握っています。

 1999年にベネズエラでウゴ・チャベスの左翼政権が発足して以来、キューバは同政権を支援してきました。

 チャベスの政治的原点は、1989年2月、カラカスでの貧困層の暴動鎮圧のために陸軍が出動し、多数の死傷者が発生したことへの義憤で、1992年には、チャベスは同志を募ってクーデターを起こしたものの失敗に終わったという経緯があります。

 その後、チャベスは武装闘争路線を放棄し、米国追従の既成政党を激しく批判するとともに、富裕層や労働組合幹部による医療・福祉の独占を廃して平等な社会の実現を訴え、貧困層の圧倒的な支持を得て、1999年、大統領に当選しました。これを受けて、国際的な孤立を深めていたキューバは、“社会主義政権”への期待から、ベネズエラに接近していきました。

 その具体策として採用されていたのが“バリオ・アデントゥロ”です。この制度では、キューバから医師や看護師をベネズエラに派遣する代償として、ベネズエラは原油をキューバに供給するものとされていました。ただし、現在では、経済破綻のベネズエラでの活動を拒否して隣国のコロンビアに亡命するキューバ人の医師や看護師が急増していますが…。

 当初、キューバとベネズエラの関係はあくまでも経済的な結びつきが主でしたが、2002年、ベネズエラでCIAの関与するクーデター未遂事件が発生して以来、当時のチャベス政権は、軍事・諜報面でもキューバへの依存度を高めていきました。

 その結果、ベネズエラの軍部をコントロールし、クーデターを企むような動きがあれば探知するシステムがキューバの協力によって構築されるとともに、チャベスに従順な軍人に育てる指導のため、キューバから5万人のスタッフがベネズエラに送り込まれます。以後、その規模は年々拡大し、ベネズエラは国内の治安維持と反対派処罰に関してキューバへの依存度を高めていきます。特に、マドゥロ政権以降、ベネズエラ社会がますます不安定になったことから、ベネズエラのキューバ依存には一層の拍車がかかるようになりました。

 実際、その“成果”は確実に出ており、2015-18年の4年間にベネズエラ国内では60人以上の軍人が反マドゥロ蜂起を起こしたものの、キューバの指導を受けたベネズエラの諜報機関(SEBIN)はそれらをすべて鎮圧しました。このため、マドゥロ政権側も、体制を維持するためには、国内石油産業が機能不全に陥った後も、中露から原油を輸入してまでしてキューバに送り続け、キューバの“指導”を受け続けなければならないのが実情となっています。このため、ベネズエラ国民の間からは「マドゥロはスーパーマーケットを空にしてまでキューバに(原油を)送りたいようだ」との不満声が上がっているほどです。

 ちなみに、この件に関して、キューバ側は、2018年4月、ラウル・カストロの後任の国家評議会議長兼閣僚評議会議長に就任したミゲル・ディアス=カネルは、以下のように語っており、キューバとベネズエラの関係の深さが伺えます。

 (ベネズエラが)抱えている問題がどれだけ大きいか我々には重要ではない。ベネズエラはいつでもキューバに信頼を寄せることができる。我々の(ベネズエラへの)支援は無条件だ
 キューバの側も、ベネズエラから原油の供給を受けるため、ベネズエラを支援し続けて行かねばらないのである。

 一方、2020年の大統領選挙期間中、民主党のバイデン候補は、こうしたキューバとベネズエラの関係について(おそらく意図的に)無視したうえで、トランプ政権の対キューバ政策は「キューバの人々に打撃を与え、民主主義と人権の向上で全く役に立たない」として、当選後は対キューバ政策を早期に宥和路線へと転換することを公約していました。

 おそらく、バイデン次期大統領は、政権の発足後、キューバに対するテロ国家指定を早々に再解除するのでしょうが、いやしくも、人権重視の姿勢を示したいのなら、そのことが、中米の独裁国家による人権侵害を結果的にサポートすることになりかねないというリスクについては、十分に理解しておいてもらわないと困りますね。
 
 ちなみに、キューバと他のラテンアメリカ諸国との関係については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろな角度からご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 水晶の夜
2021-01-12 Tue 03:10
 今月6日(現地時間。以下同)に発生した米連邦議会への暴徒乱入事件に関して、10日、俳優で米カリフォルニア州知事も務めたアーノルド・シュワルツェネッガー氏が、1938年にナチス・ドイツの扇動で起きた大規模なユダヤ人迫害事件“水晶の夜”になぞらえて批判する動画を公開し、話題になっています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イスラエル・水晶の夜50年

 これは、1988年11月9日にイスラエルが発行した“水晶の夜50周年”の記念切手です。

 1933年1月30日、反ユダヤ主義を掲げて政権を獲得したヒトラーとナチス(国家社会主義労働者党)は、当初から、ユダヤ系ドイツ人を迫害しており、1935年9月15日には、いわゆる“ニュルンベルク法(具体的には「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」)を制定し、4人の祖父母のうち1人でもユダヤ人がいる者を“ユダヤ人”と規定。ユダヤ系の市民を、“完全ユダヤ人”から“第2級混血ドイツ人”までに3分類したうえで、“完全ユダヤ人(4人の祖父母のうち3人以上がユダヤ人、同2人以上がユダヤ人で、本人がユダヤ教徒、ユダヤ人と結婚している者、ドイツ人とユダヤ人の間に生まれた者)” の公民権を剥奪しました。

 ただし、この規定は、あくまでもドイツ国籍を持つユダヤ系住民を対象としたもので、ドイツ国内に居住する外国籍のユダヤ人に対しては、さすがのナチス・ドイツも在住外国人としての権利が認めざるを得ません。こうした状況の下で、ドイツ在住のユダヤ系外国人のうち、大きな勢力となっていたのがポーランド国籍の保有者でした。

 現在のポーランド国家は、国民の90%以上がポーランド人(カシュープ人やグラル人を含む)によって構成されており、事実上の単一民族国家となっていますが、これは、第二次世界大戦末期のポツダム会談の結果、領土全体が地理的に西側へ移動したことによるもので、第一次大戦後にポーランド第2共和国が発足した時点の民族構成では、ウクライナ人14.3%、ユダヤ人10.5%、ベラルーシ人3.9%、ドイツ人3.9%などと、少数民族が人口の約3割を占める多民族国家でした。こうした中で、(狭義の)ポーランド人の間には反ユダヤ主義の風潮が根強く、1936-37年にはポーランド各地で流血を伴う反ユダヤ暴動が発生しています。

 このため、ポーランド政府は国内のユダヤ人口を減少させることが問題の解決になると考えるようになり、ユダヤ人の国外移住を“奨励”。その結果、隣国であるドイツ国内には、ポーランド国籍のユダヤ人が多数居住するという状況になっていましたが、ナチスによるユダヤ人迫害が激しさを増すにつれ、ユダヤ系ポーランド人の中にはポーランドに帰国する者も急増します。

 これに対して、上述のような事情から、ユダヤ系国民の帰還を望んでいなかったポーランド政府は、1938年10月6日、ポーランド政府は、発行済みの全てのポーランド旅券に、あらためて検査済みの認印を押さなければならないとする新旅券法を布告。同法の施行により、ドイツをはじめ国外在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効化しようとします。

 一方、当時のナチス・ドイツは、みずからの支配地域からユダヤ人を追放することを政策として掲げていたため、ポーランドの新旅券法が施行される10月30日以前に彼らをポーランドに強制送還すべく、10月28日、警察組織を動員して、ユダヤ系ポーランド人1万7000人をポーランドとの国境地帯に移送します。ところが、ポーランド側は国境を閉鎖して、“ポーランド国民”であったはずのユダヤ人の受け入れを拒否します。

 こうして、国境地帯でユダヤ系ポーランド人が事実上の難民生活を余儀なくされる中、彼らの一人であったセンデル・グリュンシュパンが、パリ在住の息子、ヘルシェルに惨状を訴えました。ヘルシェルはドイツに対する怒りから、ドイツ大使館員を暗殺することで世界にユダヤ人の惨状を訴えることを企図し、11月7日、駐仏ドイツ大使館の三等書記官エルンスト・フォム・ラートを射殺します。

 この事件をきっかけに、11月9日から10日にかけて、ドイツ各地(併合後まもないオーストリアズデーテン地方を含む)で大規模な反ユダヤ暴動(官製暴動である疑いが極めて濃厚)が発生。フランスとの国境に近いドイツ西部を中心に、177のシナゴーグと7500のユダヤ人商店や企業が破壊され、91人のユダヤ人が殺害されました。

 これが、いわゆる“水晶の夜”です。

 ちなみに、“水晶の夜”という名称は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたとしてゲッベルスが命名したものですが、その由来となったガラス被害だけで、ユダヤ人の損害額は600万ライヒスマルクに及んでいます。

 一連の事件を通じて、被害者であるはずのユダヤ人3万人が警察に逮捕され、彼らを収容するためにダッハウブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼンの各収容所は拡張されたほか、各種の法令により、ユダヤ人の人権は次々に剥奪され、12月以降、ユダヤ人は公の場から事実上追放されてしまいました。この結果、多くのユダヤ人がドイツを脱出して国外へ亡命しようとしますが、実際には、彼らの多くは各地の港をたらいまわしにされたうえ、最終的にヨーロッパへと戻らざるを得ませんでした。そうした状況の下、1939年9月には第二次大戦が勃発し、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺が本格的にスタートすることになるのです。

 さて、今回の暴徒乱入事件が米国の民主主義にとって大きな傷となったことは紛れもない事実であり、第二次大戦直後の1947年7月、戦争で荒廃したオーストリア・グラーツ近郊で生まれ、ナチスに加担した罪悪感を酒で紛らわそうとする大人に囲まれて育った体験から、シュワルツェネッガー氏が、“ナチスの嘘”に扇動された暴力の連鎖が第二次大戦の悲劇につながったことをふまえ、“トランプの嘘”に扇動された暴力よって米国の民主主義が破壊されてはならないと訴えるのは、心情的には十分に理解できます。

 ただし、上述の通り、水晶の夜がユダヤ人という特定の民族を標的にした人種犯罪であり、官製暴動の疑いが濃厚であるだけでなく、事件後は、ドイツ警察が無辜のユダヤ人を大量に逮捕するなど、国家ぐるみの犯行であったのに対して、連邦議会への暴徒乱入は特定の民族を攻撃したわけではありませんし、ましてや、連邦政府が犯行を支援したり、暴力の被害者が処罰されることもありませんでしたから、ふたつの事件はその本質において全く次元の異なるのものとみるのが妥当でしょう。

 誤解のないように言っておきますが、僕は、連邦議会への暴徒乱入事件に関与した容疑者に対しては厳正な処罰を下すべきだと考えています。ただし、現在の政府・政治家を批判する際に、ナチス・ドイツの先例を安易に持ち出してしまうと、かえって、ことの本質を分かりづらくし、批判対象に対する正確な理解を歪めてしまうのではないかとの懸念は、どうしてもぬぐえませんが…。

 なお、“水晶の夜”については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

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 成人の日
2021-01-11 Mon 01:25
 きょう(11日)は“成人の日”です。というわけで、20歳の若者が描かれた切手のなかから、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ソロモン諸島・ビウクとエロニ

 これは、1993年7月30日にソロモン諸島が発行した“PT109遭難50周年”の記念切手のうち、後に米国大統領となるジョン・F・ケネディ中尉がココナッツに刻んだメッセージを届けるビウク・ガサとエロニ・クマナを描いた1枚です。切手に描かれている2人のうち、事件のあった1943年8月の時点で、1923年7月23日生まれのガサが満20歳になったばかりでした。なお、もう一方のクマナは、正確な誕生日が不明で、事件当時、本人は18歳と称していましたが、その後の調査で1918年生まれ(これが正しいと、事件当時は25歳)と推定されています。

 なお、切手の絵では、どちらがガサなのかイマイチはっきりしないのですが、事件の直後に撮影された再現写真(下の画像)では、カヌーの前方にいるのがガサとされていますので、この切手もそれに倣っていると考えるのが妥当でしょう。

      ガサとクマナ

 日本軍がガダルカナル島から撤退した後の1943年8月2日、輸送任務を終えて帰航中であった天霧は、ソロモン諸島ニュージョージア島の西、1キロ先に“黒いモノ”を発見。この“黒いモノ”が、ケネディ中尉が艇長を務める米軍の哨戒魚雷艇PT-109で、PT-109は天霧の航行をよけきれず、天霧に衝突しました。その際、天霧の損傷は航海に支障のない軽微なものに留まりましたが、PT-109は二つに割れて沈没。天霧の乗員はPT-109の乗員の全員が戦死したと理解し、米軍側も同様の見解を採りました。

 しかし、実際には、PT-109の乗組員のうち、2名は戦死したものの、指揮官のケネディ中尉は生存者らはを励ましながら5時間泳ぎ続けて小島(当時の名称はプラム・プディング島。後に“ケネディ島”と改名)に漂着。その後、彼らはギゾ島東南のナル島に移動し、オラサナ島に逃れていた部下を救助し、そこで出会った2人の島民、ガサとクマナに「ナル島(にいる)。地元民が場所を知っている。彼が案内可能。二人生存。小舟が必要」とのメッセージを刻んだココナッツを託し、2人がこれをオーストラリア軍兵士に届けたことで、PT-109の乗員たちの無事が確認されました。

 みずからが果たせなかった大統領への夢を息子に託そうとしたケネディの父、ジョゼフ(フランクリン・ローズヴェルト大統領の選挙を支援し、その論功で駐英大使を務めました)は、政界へのコネを駆使して息子ケネディが海軍・海兵隊勲章を受勲できるよう段取りを整えただけでなく、1944年6月17日付の『ニューヨーカー』誌に息子の英雄譚を掲載させました。この記事の要約が、『リーダーズ・ダイジェスト』の同年8月号に掲載されたことで、ケネディは一躍、“戦争の英雄”として全米レベルでの有名人になりました。

 第二次大戦後の1946年、ケネディは連邦下院選挙に出馬しますが、その際、『リーダーズ・ダイジェスト』のコピーが大量に配られたほか、1952年の上院選と1960年の大統領選の際にも、ケネディ陣営は天霧の元乗員一同から激励の色紙を贈ってもらい、“かつての敵国軍人も応援する人物”というイメージをつくりによって、選挙戦でかなりの得点を稼いでいます。

 ケネディのメッセージを届けたガサは、ソロモン諸島西部、ボナボナ島の出身。クマナは、出生地は不明ですが、ソロモン諸島西部、ラノンガ島で育ちました。2人とも、セブンスデー・アドベンチスト教会の学校で学んだ後、日英開戦後は、オーストラリア軍の沿岸監視隊(コースト・ウォッチャー)に参加し、ギゾ島周辺でカヌーによるパトロール任務に就いていました。

 なお、1960年の大統領選挙でケネディが当選すると、ガサとクマナはケネディの恩人として、翌1961年の大統領就任式にも招待されましたが、当時の英植民地当局は“野蛮人”2人の出国を認めず、代理人を出席させました。このため、ケネディは、『ナショナルジオグラフィック』などと共に、2人の住居の新築費用を拠出することで、恩義に報いています。

 ちなみに、ケネディとソロモン諸島の関係については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 ヴォドゥンの大祭
2021-01-10 Sun 01:30
 きょう(10日)は年に1度のヴォドゥン(ヴードゥー教)の大祭の日です。というわけで、毎年恒例、ヴォドゥンに関する切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) 

      ベナン・蛇寺の洗礼

 これは、幼児の首にニシキヘビを巻き付けるヴォドゥンの儀式を取り上げたベナンの切手(1987年発行)です。

 西アフリカおよびカリブ海地域のアフリカ系黒人の間で広く信仰されているヴォドゥンは、ベナンの最大民族であるフォン人の言葉で“精霊”を意味する語です。

 もともと、ヴォドゥン信仰は、西アフリカにおける太鼓を使った歌舞音曲や動物の生贄、シャーマンによる降霊などの儀式を伴う精霊信仰がその原型だったと考えられており、ベナンのフォン人のみならず、ナイジェリアのヨルバ人、トーゴのミナ人・カブイェ人、トーゴおよびガーナのエウェ人などの間で広く信仰を集めていました。

 現在のベナン国家のルーツにあたる旧ダホメ王国は奴隷貿易を行っていましたが、その支配下からカリブ海地域へ送られたフォン人伝来の精霊信仰がカトリックと習合する過程で、ヴォドゥンは“ヴードゥー”に転訛し、この名称が世界的に定着することになりました。

 なお、カリブのヴードゥーは、ハイチのマルーン(プランテーションからの逃亡奴隷)の指導者であったフランソワ・マッカンダルが発展させたもので、奴隷の信仰として、白人による弾圧を逃れる必要から、伝統的な精霊信仰に聖母マリアなどのキリスト教の聖人崇敬を組み込んでいるのが一つの特色です。このため、西アフリカの伝統的な精霊信仰とはやや趣を異にしていますが、一般には、両者を一括して “ヴードゥー”と呼ばれることも少なくありません。

 さて、フォン人の創世神話によると、世界の始まりの時、精霊の長とされるダンバラ・ウェドゥはヘビに姿を変え、そのとぐろで土を集めて人間に住む場所を与え、造物主を口にくわえてあちこちに運んで世界を創ったとされています。また、世界の陸地は3500段もある巨大なヘビのとぐろの最下段の内側にあり、その外側に海が、さらにその外側は球体が取り囲んでいるというのが、ヴォドゥンの伝統的な宇宙観です。

 こうしたこともあって、旧ダホメ王国では人々はヘビ、特に、アフリカニシキヘビは豊穣の象徴として信仰の対象とされ、歴代のダホメ王は重要な政治判断を下す際には、アフリカニシキヘビを用いた占いを行っていました。

 かつての奴隷貿易の拠点となった港町のウィダーは、そこから全世界にヴォドゥンが拡散していくことになった出発点として、現在では、ヴォドゥンの聖地とされています。市内のダンベウエ通りにあるダグン寺院は、境内に無数の蛇が飼育されているヘビ寺院として有名です。今回ご紹介の切手では、同寺院での宗教儀礼として、霊験あらたかなニシキヘビを幼児の首に巻き付け、そのご利益で子供の健やかな成長を祈る場面が描かれています。


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 日韓請求権協定で解決済み
2021-01-09 Sat 09:09
 いわゆる元慰安婦女性12人(故人を含む)が日本政府に損害賠償を求めた訴訟で、韓国のソウル中央地裁は、きのう(8日)、1965年の日韓請求権協定で韓国人の個人請求権問題は解決済みだとの日本側主張を退け、原告の請求通り1人当たり1億ウォン(約950万円)の支払いを命じる判決を言い渡しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・第2次経済建設(4大河川流域の開発)

 これは、1971年12月5日、韓国が発行した(日本の資金援助による)第2次経済開発5ヵ年計画の宣伝切手のうち、“4大河川(漢江洛東江、錦江、栄山江)流域の開発”を取り上げた1枚です。

 1965年6月22日、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(通称・日韓基本条約)および付属の諸協定が調印されました。同条約の主な内容は以下の通りです。

 ①両国間に外交・領事関係が開設され、大使級の外交使節が交換される(第1条)。
 ②1910年8月22日(=日本による朝鮮統治の根拠となった「韓国併合ニ関スル条約」の調印日)以前に日本と大韓帝国の間で結ばれた条約等はすべて「もはや無効である」ことが確認される(第2条)。
 ③韓国は国連総会決議195号IIIに明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府である(=北朝鮮は正規の国家ではなく、朝鮮の北半部は彼らによって不法占拠されている)ことが確認される(第3条)。
 ④両国は相互の関係で国連憲章の原則を指針とする(第4条)。
 ⑤貿易、海運、その他の通商関係に関する条約等の締結のため、速やかに交渉を開始する(第5-6条)。

 日韓基本条約とともに、両国間では「漁業協定」、「財産および請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する協定」、「日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定(日韓法的地位協定)」、「文化財及び文化協力に関する協定」、「紛争解決に関する交換公文」など多くの合意が署名され、両国の関係は“正常化”されました。

 「財産および請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する協定」では、日本は韓国に対し、朝鮮統治時代に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助すること、韓国は対日請求権を放棄することで合意が成立しており、日本統治時代の建造物もすべて韓国側に無償で譲渡されました。

 また、 “請求権”の中には、いわゆる慰安婦や徴用工を含め民間人への補償も全て含まれています。じっさい、解放後に死亡した者の遺族、傷痍軍人、被爆者、在日コリアンや在サハリン等の在外コリアン、元慰安婦らを補償対象から除外したのは、ほかならぬ韓国政府です。

 なお、当時の韓国の国家予算は約3.5億ドルですから、“請求権”によって得られた11億ドルという資金が、韓国にとっていかに巨額のものであったか、お分かりいただけると思います。

 日本との国交正常化により巨額の援助資金を得た韓国政府は、ヴェトナム戦争に派兵した見返りに得られた米国からの経済援助とあわせて、1967年、今回ご紹介の切手の主題である第2次経済開発5カ年計画を発動。切手に描かれているような“河川の流域開発”をはじめ、高速道路や工場の建設などインフラや企業に集中的な投資を行い、“漢江の奇跡”と呼ばれる高度経済成長を実現しました。

 こうした経緯を考えれば、日韓基本条約に伴って日本から得た資金を、当時の韓国政府が個人補償に使わなかったからといって、それは韓国政府の判断(その判断が大局的にみれば誤っていなかったことは、その後の歴史が証明しています)によるもので、わが国がとやかく言うべき筋合いのものではありません。

 ところで、日韓基本条約に関しては、当初から、条約の基本的な理解が日韓両国で異なっていることが日本の国会でも問題視されていました。

 すなわち、条約第2条の「もはや無効である」との文言に関して、日本側は、韓国併合条約は(それが締結された1910年の時点では合法であったが)日韓基本条約を結ぶことによって無効となったと解釈していたのに対して、韓国側は、併合条約そのものが(当初から)無効であったと解釈し、国民にもそのように説明していました。

 また、第3条の“朝鮮にある唯一の合法的な政府”との文言に関しても、韓国側は「軍事境界線以北を含む全朝鮮における正統政府であることを日本が承認した」と解釈し、国内でもそのように説明していましたが、日本の外務省は「休戦ライン以北に事実上の政権があるということを念頭に置きながら今回の初版の取り決めを行っ」たと説明しており、「北鮮(ママ)に関する限りは全然触れていない」との立場をとっていました。

 当然のことながら、こうした基本的な部分での解釈の相違には、将来的に深刻な問題を種々生じる恐れがあるのではないかとの懸念も強かったのですが、当時の椎名悦三郎外相は「われわれは韓国当局がどういう場合にどういう説明をしようと、あくまで条約の成分に従って解釈するものである」、「そういうことにあまり心を弄する必要はないものであるという基本的な立場」を取っていると応じ、日本国内の慎重論ないしは反対論を押し切ってしまいました。

 もちろん、韓国併合条約は、常識的に考えれば、それが締結された1910年の時点では国際法上の瑕疵がない合法なものであり、同条約そのものが当初から無効だったという韓国側の認識には無理があります。そもそも、第二次大戦後の国際社会が韓国を“戦勝国”として扱われず、サンフランシスコ講和会議への参加も認めなかったことが、そのことを何よりも雄弁に物語っています。

 しかし、「韓国併合条約そのものが当初から無効だった」という韓国側の認識を、日韓基本条約の時点で完全に否定しておかなかったことが、その後、韓国が植民地支配に対する謝罪と賠償を要求し続ける一因となったという面は否定できません。彼らがそうした認識に立つ限り、そもそも日本による朝鮮統治そのものが無効である以上、朝鮮総督府による全ての政策には根拠がなく、それゆえ、日本統治下で朝鮮人が強いられた負担は不法なものであったとのロジックが導き出されることになるからです。

 もちろん、“歴史”をめぐる韓国側の無理な主張は明確に否定すべきものではあるのですが、日本側にも、彼らにそうした主張をさせる余地を残した詰めの甘さがあったことは十分に反省しなければなりますまい。

 この辺りの事情については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。

 * きのう(8日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回は2月5日(金)の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。

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 一都三県に非常事態宣言
2021-01-08 Fri 03:17
 新型コロナウイルスの感染拡大を受け、きのう(7日)、菅首相は、東京、埼玉、千葉、神奈川の1都3県を対象に緊急事態宣言を発令しました。わが国における非常事態宣言の発令は昨年4月7日から5月25日以来、2度目のことで、今回の期間はきょう(8日)から2月7日までの1ヵ月とされています。というわけで、きょうは、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・緊急印刷7ペソ

 これは、2020年8月、新型コロナウイルスの蔓延に対応すべく、メキシコが発行した“緊急切手”のうち、メキシコ中央高地に位置するグアナファトの民芸品のの人形を取り上げた7ペソ切手です。ここでいう“緊急”はスペイン語の“emergencia”ですが、この語は英語の“emergency”に対応するもので、“緊急(時)”のほか“非常(時、事態)”とも訳されます。今回発せられた非常事態宣言も、英語では“state of emergency”となりますので、emergencyつながりでご紹介してみました。
 
 メキシコでは、1990年代から散発的にシール式切手が発行されていましたが、2020年以前に発行された切手は、原則として水溶性の裏糊を引いた従来型のタイプのモノでした。ところが、コロナウイルスの感染拡大を受けて、裏糊を舐めて貼られることが多い従来型の切手はウイルス感染の温床になりかねないとして、急遽、2005年に発行された普通切手、“民芸品シリーズ”の図案を流用したセルフ糊(シール式)の“緊急切手”が制作され、2020年7月から8月にかけて発行されました。

 ちなみに、2005年の民芸品シリーズのうち、今回ご紹介の緊急切手と同図案・同額面の7ペソ切手はこんな感じです。

      メキシコ・普通切手2005(7ペソ)

 2005年の切手と2020年の緊急切手は、いずれも、メキシコの切手証券印刷局(TOEV:Talleres de Impresión de Estampillas y Valores)が製造していますが、緊急切手の方は目打のルレットがかなり粗いので単片に切り離して使用された状態でも容易に区別できます。また、2005年の切手がフツーに目打部分で切り離せるのに対して、緊急切手のセルフ糊は品質が悪いために台紙から剥がすのが難しく、郵便物に貼られている切手には破れているものが多いと報告されています。

 もっとも、現在のメキシコでは、郵便局の窓口で職員が切手を貼って郵便物を処理することは少なく、大半が印字処理のため、緊急切手の発行も、実際に感染拡大を防ぐためというより、国民の防疫意識を高める啓発的な意図の方が強いのではないかと考えられます。


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 米議会に暴徒乱入 銃撃で女性1人死亡
2021-01-07 Thu 12:34
 きのう(6日・現地時間)、米国では昨年11月の米大統領選挙での民主党のバイデン候補の勝利を正式に確認するため、上下両院で会議が開かれましたが、大規模な不正があったとして選挙結果に異議を唱え、トランプ大統領支持を訴えていた抗議集会の参加者の一部が議事堂内に侵入。審議が中断され、敷地内での銃撃で女性1人が死亡する騒乱状態となりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      米国・連邦議事堂(1975年・裁断ずれ)

 これは、1975年に米国で発行された連邦議事堂を描く9セントの普通切手(コイル切手)の裁断ずれエラーです。

 今回ご紹介の切手は、本来、議事堂の上に「人民が平穏に集う権利(RIGHT OF PEOPLE PEACEABLE TO ASSEMBLE)」の文言が入ったデザインです。この文言は、人民の基本的人権を定めた「権利章典(合衆国憲法修正第1条から修正第10条)」第1条の「合衆国議会は、国教を樹立、または宗教上の行為を自由に行なうことを禁止する法律、言論または報道の自由を制限する法律、ならびに、人民が平穏に集会しまた苦情の処理を求めて政府に対し請願する権利を侵害する法律を制定してはならない(Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the government for a redress of grievances.)」からの引用で、まさに、米国の国是として最も重要なものといってよいでしょう。

 ところが、今回ご紹介の切手では、裁断がずれて“PEACEABLE”の最後の“E”の場所に目打が入ってしまったため、「平穏に」と「集う」が分断されています。暴徒の侵入によって、議会の平穏な審議が中断された6日の状況は、まさに、「平穏に集う権利」が侵されたものということで、この切手を持ってきました。

 さて、2016年の大統領選挙のトランプ候補の得票は約6300万票でしたが、今回の2020年選挙では7380万票以上と1000万票以上を上積みし、米史上2番目の得票数となっています。トランプ大統領の個人的なキャラクターはともかく、新型コロナウイルスが問題になるまでは、減税と規制緩和を進めたことによって、オバマ政権時代と比べて、雇用状況(特に有色人種の雇用状況)は大きく改善され、株価も上昇。さらに、アラブ諸国とイスラエルとの国交正常化を仲介するなど、外交上も重要な実績を上げています。トランプ大統領が、前回よりも得票数を伸ばしたのは、そうした実績が有権者から評価され、それなりに支持を集めた結果といえます。

 ただし、対立候補のバイデンがそれ以上の票を得てトランプは再選を逃したということになったため、この点で、トランプ支持者にとって納得がいかないというのは心情的には十分に理解できます。ただ、心情的に不満を持つという枠を超えて、一部のトランプ支持者の中からはバイデン陣営による大規模な不正を疑う声が上がっており、今回は、さらにその一部が暴徒化したというのが基本的な構図だと僕は理解しています。

 たしかに、どんな国でも選挙に不正はつきものですから、バイデン陣営による投票不正の可能性を完全に排除することはできませんし、実際に選挙結果に影響を及ぼすほどの大規模な不正が確認されたのであれば、法的な手続きに則って、厳正な処罰が下されるべきでしょう。そして、不正を告発する権利じたいは誰にでもあります。

 ただし、今回の大統領選挙に限らず、不正を告発するのであれば、告発する側が明確な証拠を提示して、正規の司法手続きに基づいて、選挙の無効を確定するのでなければなりません。しかしながら、現在までのところ、裁判所でも認定されるレベルの明確な物的証拠はなんら提示されていないのが実情で、それゆえ、個人の感情はともかく、現実の問題として、今回の選挙結果とバイデン新政権の誕生も受け入れなければなりますまい。

 いずれにせよ、今回の連邦議事堂への暴徒の侵入は、民主主義国家としての米国の最大の汚点(のひとつ)になることは間違いないわけで、今後、背後関係なども含めて慎重な捜査と、厳正な処罰が求められることはいうまでもありません。


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 サウジなど4ヵ国、カタールと国交完全回復
2021-01-06 Wed 05:00
 きのう(5日)、サウジアラビア北西部のウラーでペルシャ湾岸のアラブ諸国で構成する湾岸協力会議(GCC)の首脳会議が開かれ、2017年6月以来、カタールと断交していたサウジアラビア、UAE、バハレーンのGCC加盟国とエジプトの4ヵ国がカタールとの国交を完全に回復したことが発表されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      カタール・カタール航空20年

 これは、2017年にカタールが4種セットで発行した“カタール航空20年”の記念切手の1枚です。

 カタール航空は、1993年11月22日、王族所有の航空会社として設立され、1994年1月20日、ドーハ-アンマン線で運航を開始しました。その後、1997年4月、出資比率がカタール政府50%、民間投資家50%という現在の体制になりました。今回ご紹介の切手は、ここから起算して20周年になるのを記念して発行されたもので、同社の歴史を振り返る4種セットのうち、2011年にカタール航空の目的地がコードシェアを含め100都市に到達ことをしたことを示すため、世界地図が描かれた滑走路に駐機中のカタール航空機が描かれています。

 さて、もともと、カタールは、長年にわたって(事実上の)敵対関係にあるバハレーンに対抗するため、その後ろ盾となっているサウジの影響力をいかに抑え込むかということを外交政策の基本としてきました。ちなみに、バハレーンの首長家とサウジ王家は縁戚関係にあり、それゆえ、バハレーンは“サウジの事実上の保護国”と呼ばれることもあります。

 このため、サウジをはじめとする湾岸首長国の大半が安全保障上の最大の脅威としてイラン敵視政策を採る中で、カタール・イラン関係は比較的良好な関係を保ってきました。なお、イランは「バハレーンは歴史的にイランの領土だった」と主張しており、バハレーンにとっては天敵のような存在ですから、対バハレーン戦略上、カタールにとっては、サウジよりもイランの方がはるかに“話の分かる相手”ということになります。

 また、2014年に勃発したイエメン内戦では、カタールは、シーア派系武装組織“フーシ派”と戦うために結成されたサウジアラビア主導の国際連合軍に参加していながら、フーシ派とも密かに関係を維持していたとされています。また、パレスチナのガザ地区を実効支配しているハマースとは、現在のハマースがサウジを敵対関係にあることを踏まえ、彼らとも一定のパイプを維持しておくことで、湾岸アラブ諸国の中で圧倒的なプレゼンスを有するサウジに対抗する手段として活用したいとの思惑を持っていました。

 これに対して、2017年5月、トランプ米大統領のサウジ訪問後、カタールのタミーム首長が、米大統領とサウジ国王はイランを世界の主要テロ支援国と名指しし、反イランの機運を醸成していると非難。あわせて、ハマースを支持する発言も行ったとの主旨の報道が流れます。報道内容について、カタール政府は事実関係を否定し、ハッキング被害に遭ったものだと主張しましたが、サウジや他の湾岸諸国はアルジャジーラなどカタールのメディアを遮断。各国のマスコミはカタールの外交姿勢を痛烈に批判する報道を展開しました。

 そして、同年6月5日朝、まず、長年の宿敵であるバハレーンがカタールとの国交断絶を宣言し、これに、サウジ、エジプト、UAEが続き、さらにイエメン、モルディヴ、リビア臨時政府が加わるというかたちで、カタール包囲網が形成されます。その際、サウジ外務省は、カタール政府が①国内にテロ組織を住まわせテロを支援している、②報道機関でテロ組織の宣伝を行っている。③カティーフ県にいるイランと関わりがあるテロ行為を支援している、④過激派組織に居住許可を与えている、⑤イエメンのフーシ派を支援している、ことから、“国の治安のため”カタールとの断交に踏み切ったと説明しました。

 断交措置を受けて、サウジ、UAE、エジプト、バハレーンは、カタール籍の航空機や船舶が自国の領空や領海を通過することを禁止し、在留カタール人は2週間以内の国外退去を命じるとともに、自国民のカタールを訪問も禁止。この結果、カタール航空の飛行ルートも大幅な変更を迫られ、イランやトルコ上空から地中海上空を通るルートや、オマーン上空からアデン湾上空に抜けるルートなど、上記4ヵ国の上空を通らずに大きく迂回する形での飛行となっていました。

 個人的な話ですが、僕は、2017年10月にブラジルのブラジリアで開催された世界切手展<Brasilia 2017>に参加した際、現地へのフライトにはカタール航空を利用しました。その際、機内でのフライトマップで、自分の乗った飛行機が迂回ルートで飛んでいることを実際に確認できたのが印象に残っています。せっかくですので、その時にスマホで撮った写真を下に貼っておきます。

      カタール航空:ドーハ⇔東京 
      成田→ドーハ

      カタール航空:ドーハ→ブエノスアイレス 
      ドーハ→ブエノスアイレス

      カタール航空:リオ→ドーハ 
      リオデジャネイロ→ドーハ

 今月下旬に米国でバイデン政権が発足すれば、トランプ政権が進めてきたイラン封じ込め政策を大幅に修正し、いわゆる核合意の復活も含め、米国の対イラン政策が宥和路線に大きく傾くのではないかとみられています。このため、トランプ政権としては、任期中に少しでもイラン包囲網を強固なものとすべく、UAEを始め複数のアラブ諸国とイスラエルの国交樹立に続いて、カタールとサウジの関係改善を仲介したわけです。

 一方、カタールとしても、新型コロナウイルス問題で先が見通せないとはいえ、とりあえずは2022年に予定されているサッカーW杯を控え、いつまでも、サウジやエジプトとの断交状態が続くのは望ましいことではありませんから、アメリカの仲介は好都合だったといえます。

 いずれにせよ、先日のモロッコとイスラエルの国交正常化もそうですが、大統領選挙後もトランプ政権が着実に実績を積み上げていることには驚かされるばかりです。この辺りについては、トランプ個人に対する好悪とは別に、もっと評価する声があっても良いはずなのですが…。


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 韓国の人口、初めて減少に転じる 
2021-01-05 Tue 02:54
 韓国の行政安全省は、3日、2020年末時点の人口が約5182万9000人となり、前年比で約2万人減ったと発表しました。1970年に統計調査が開始されてから、韓国の人口が減少に転じたのは今回が初めてです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・児童画(愛に満ち溢れた家族・2011)

 これは、2011年5月13日に韓国が“家族”を題材に発行した切手のうち、「愛に満ち溢れた家族」をイメージした1枚で、ベビーカーを押す父親と母親が描かれています。

 朝鮮半島の人口は、日本による朝鮮統治が始まった1910年には1330万人でしたが、日本統治時代末期の1944年には2590万人に、さらに、朴正煕政権下の1975年には3500万人に増加しています。

 合計特殊出生率に関しては、1960年の時点では6.3人。当時は、平均寿命も現在に比べればはるかに短かく、乳幼児の死亡率も高かったのですが、それでも、出生率がそのままの水準で推移すれば、人口の増加に経済成長が追いつかず、貧困が解消されないことが懸念されていました。このため、経済成長を最優先課題として発足した朴正煕政権は、1962年、国民に対して“家族計画”を促すようになります。

 しかし、儒教の七去のひとつ、「嫁して3年 子なきは去れ」に見られるように、結婚して子供(特に男の子)を産むことを女性に半ば義務づける伝統が根強かった韓国社会では、家族計画の思想はなかなか根付かず、1971年の時点でも、4.54人という高い水準を維持していました。

 このため、朴正煕政権末期の1977年以降、韓国政府は家族計画を大々的に宣伝するようになり、1970年代末期になると、出生率は3人を割込み、政府にとって好ましい水準に近づいていきました。

 ところが、その後も出生率の低下は収まらず、1980年代の半ばになると出生率は2を割り込み始め、民主化が行われた1987年には1.53人まで低下。1990年代初頭には一時1.7人の水準に回復したものの、その後再び急速に減少し始め、2018年には0.98人で初めて1人を下回り、2020年に発表された数字では0.92人とさらに落ち込んでいます。

 したがって、今回ご紹介の切手は、とりあえず、出生率が1人を超えていた時代の2011年に発行されたものなので、夫婦と子供1人の家族というのは、韓国社会の標準的なスタイルともいえましたが、現在では、それも当たり前のものではなくなってきているわけです。もっとも、1954年には、いわゆる四捨五入改憲が行われた国ですので、0.92人も四捨五入すれば1じゃないかと言われれば、黙ってしまうしかないのですが…。

 また、出生数も、2017年に初めて40万人を割り込んでからも減少が続き、昨年はついに27万5815人と20万人台に突入。これは、30年前の65万人と比べて6割減という数字で、昨年の死亡者数の30万7764人を下回って、いわゆるデッドクロス現象が表れました。

 ちなみに、韓国政府は2016年の時点で「人口減少は2029年から始まる」と予想していましたが、翌2017年の人口住宅総調査でのデータをもとに、将来人口推計は2020-25年の平均内国人出生数を29万7000人とし、人口は2020年をピークに2021年から減少に転じるとの修正予測を2019年に発表。しかし、実際の出生数は予測よりさらに2万人ほど少なかったため、人口減少も2020年から始まってしまったというわけです。

 もともと、韓国における出生率低下の要因としては、教育費を含めた家計負担の大きさが指摘されていましたが(学校教育費の私的負担では韓国は世界1の高さとなっています)、近年は、これに加えて、韓国経済の低迷により雇用と住宅が不安定化。この結果、結婚できない若者も急増し、2020年には単身世帯が初めて900万世帯を超えて全体の39.2%にも達していることから、今後も出生率の低下は続きそうです。

 ちなみに、かつて高出生率が悩みの種だった時代には、韓国では家族計画を宣伝する一環として、“2人の子供”を奨励するため、4人家族をデザインした宣伝切手が盛んに発行されていましたが、今後は、かつてとは全く逆の文脈で、4人家族を描き、“2人の子供”を奨励する切手が発行される日がいつか来るのかもしれません。


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 年賀状の切手
2021-01-04 Mon 00:54
 毎年のことですが、“郵便学者”という看板を掲げて生活している関係から、僕は毎年、年賀状には干支にちなんだ切手を取り上げることにしています。もっとも、ただ単に干支の切手を持ってくるだけではつまらないので、①できるだけ他の人が使いそうにないモノ、②その年の仕事の予告編になりそうなモノ、③可能な限り、干支を取り上げた年賀切手は除く、という基準で選んでいます。きょう(4日)は仕事始めでオフィスで僕の年賀状をご覧になるという方もあると思いますので、今回の年賀状の切手について簡単にご説明いたします。(画像はクリックで拡大されます)

      北ボルネオ・2ドル加刷

 これは、第二次大戦中の1944年5月11日(1945年説もあり)、日本軍占領下の“北ボルネオ”で発行された2ドル加刷の切手で、戦前に英領ノースボルネオで発行された“農夫と水牛”の1セント切手が加刷の台切手として使われています。

 元日のご挨拶でも申し上げましたが、本年は、郵便創業150周年の企画として、日本切手の歴史を概観する書籍を2冊と、河上肇賞をいただいた「東京五輪の郵便学」の書籍化を目指していますので、日本関連(いわゆる日本切手のほか、沖縄や戦時中の占領地切手等も含む)の中から選ぼうと考えました。特に、南方占領地の切手には水牛農耕を題材とした切手があって面白いのですが、ビルマ蘭印の正刷切手・葉書だと他の人とも重なりそうだったので、ちょっっとひねったものとして、この1枚を選びました。

 第二次大戦中、日本軍はボルネオ島全域を占領しましたが、このうち、英領部分のサラワクノース・ボルネオブルネイは、一括して“北ボルネオ”とされ、陸軍の管轄下に置かれました。ちなみに、現在はインドネシア領となっている旧オランダ領部分(こちらはボルネオ島ではなくカリマンタン島と呼ばれています)は、海軍の管轄下です。

 日本占領下の北ボルネオでは、1942年10月、戦前の英領サラワク、ノース・ボルネオ、ブルネイの切手を接収して“大日本帝國政府”の文字を加刷した切手が発行されましたが、1944年5月、その加刷切手に“大日本/帝國政府”と2行で加刷し、その下に2ドル、3ドル、5ドルの額面を加刷した高額切手が発行されました。その用途としては、電信為替や収入印紙、航空郵便料金用と考えられています。

 ちなみに、当時の北ボルネオでは2オンスまでの書状基本料金が8セントでしたので、今回ご紹介の切手の2ドルという額面は、現行の郵便料金との比較で考えると、2000円くらいのイメージでしょうか。現在、日本の郵便局で日常的に販売されている切手のうち、額面の金額が最も高いのは1000円切手ですから、当時の北ボルネオでの2ドルという額面はかなりの高額です。まぁ、正月くらい、景気よく、ドーンと高額の切手の画像をお届けするのも悪くないかと…

 なお、例によって、年賀状の投函は年末ぎりぎりになってしまいましたので、まだお手元に届いていない方もあるかと思います。早々に賀状をお送りいただきながら、僕の賀状がまだ届いていないという方々におかれましては、今しばらくお待ちいただきますよう、伏してお願い申し上げます。 


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 切手歳時記:牛車に乗って難を逃れる
2021-01-03 Sun 00:43
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2021年1月号が発行されました。今回は新年号ですから、僕の連載「切手歳時記」も、毎年恒例、干支にちなんで、牛に関する切手の中からこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) 

      第一次国宝・平治物語絵詞

 これは、1968年9月2日に発行された第1次国宝シリーズ第4集の「平治物語絵詞(絵巻とも)」の切手のうち、「平治物語絵詞」を取り上げた1枚で、牛車に乗って二条帝が内裏を脱出する場面が描かれています。

 正月の飾り物にも使われる南天は「難を転ず」の語呂合わせで災厄を逃れる縁起物とされています。

 昨年は新型コロナ禍で世の中全体が鬱々とした気分でしたから、南天を飾って、今年は“難”を引きずらないようにと祈りたい気分の人も多いでしょうね。丑年の年賀切手ではなくても、牛を描いた日本切手はいろいろあるのですが、今回は、牛もからんだ“難を逃れる”切手ということで、この1枚を選んでみた次第です。

 絵巻のテーマとなっている平治の乱は、保元の乱(保元元=1156年)が終結した後の権力闘争でした。

 保元の乱に勝利した後白河帝は、保元3(1158)年、二条帝に皇位を譲り、後白河院として院政を始めます。これに伴い、院近臣の信西(藤原通憲)が政権を握りましたが、二条帝の親政を望む藤原経宗と藤原惟方や、信西と対立関係にあった藤原信頼はこの状況に不満を持っていました。

 一方、保元の乱で武勲第一の源義朝が左馬頭に留まったのに対して、平清盛が播磨守・大宰大弐になったため、源平の反目も鋭くなります。こうした中、清盛と結びついた信西に対して、信頼は義朝と手を結び、後者を経宗と惟方が支持する構図が生まれました。

 平治元12月4日(1160年1月19日)、清盛が一門を率いて熊野に詣でると、同9日、信頼と義朝は御所を襲い、二条帝と後白河院を内裏に幽閉するとともに、宇治田原の大道寺に隠れていた信西を討ち取り、信頼が政権を掌握しました。

 ところが、事件を知った清盛が17日に帰京して六波羅の屋敷に戻ると、二条帝の親政が実現しないことに不満だった経宗と惟方はあっさり清盛方に寝返りました。

 清盛は信頼への忠誠を装って油断させたうえ、25日、二条大宮で失火騒ぎを起こします。信頼と義朝の関心がそちらに向いている隙に、清盛は、女装した二条帝と中宮・紀伊の二位局を牛車に乗せ、北野詣と偽って内裏から六波羅に行幸させるとともに、後白河院を仁和寺に逃がすことに成功します。

 今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、内裏を脱出しようとする二条帝の牛車を前に、警護の武士たちが御簾をはね上げて中をあらためようとする場面で、御簾がめくれて女装した帝の裳裾がちらっと見えているところなど、芸が細かいですね。

 後白河院と二条帝の脱出を知った公卿や武士は先を争って清盛に与して六波羅に終結。二条帝から信頼と義朝の追討宣旨が清盛に出され、清盛は加軍として内裏を攻撃し、事実上、勝敗は決しました。

 ちなみに、『平治物語絵巻』はもともと全5巻でしたが、現存するのは、切手に取り上げられた「六波羅行幸の巻」(東京国立博物館蔵)のほか、「三条殿焼討の巻」(明治初年にフェノロサが購入し、現在は米国・ボストン美術館蔵)、「信西の巻」(静嘉堂蔵)の三巻のみ。しかも、「六波羅行幸の巻」は欠損があり完本ではありません。

 また、現存する3巻すべてが国宝に指定されているわけではなく、「信西の巻」は国の重要文化財で、ここからは、牛車で参内した公家たちとその従者が待賢門前で騒然としている場面と、乱によって一時、大臣兼大将となった信頼が信西一族追捕の詮議を行う場面は、1992年の「国際文通週間」の切手に取り上げられました。同じ絵巻物でありながら、国宝の部分と重要文化財の部分があり、それらが別々に切手に取り上げられているので注意が必要です。


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 アウシュヴィッツの年賀状
2021-01-02 Sat 03:08
 昨日は元日でしたから、年頭のご挨拶のみで失礼いたしました。切手や郵便物などを毎日紹介していくという、このブログの実質的な記事のアップとしては、きょうが2021年最初となりますので、昨年同様、“アウシュヴィッツの年賀状”の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ヤヴィショヴィッツ・カバー
      ヤヴィショヴィッツ差出欄

 これは、1944年1月1日、ヤヴィショヴィッツ(ポーランド語名:ヤヴィショヴィツェ)に置かれていたアウシュヴィッツ収容所のサブ・キャンプから差し出された郵便物と、その差出人の住所・氏名部分です。郵便に使われているレターシートは、アウシュヴィッツで支給されていた注意書が6項目のモノ(タイプ2)で、検閲印には“ヤヴィショヴィッツ労働収容所(A. L. JAWISCHOWITZ)の表示が入っており、1月4日にブジェシュチェ郵便局からエルグート(ポーランド語名:リゴタ・オレスカ)宛に発送されました。レターシートの内側には、1944年1月1日の日付と新年のあいさつ文が記されていますので、その部分の画像も貼っておきます。

      ヤヴィショヴィッツ文面

 アウシュヴィッツの第1(基幹収容所)第2(ビルケナウ)第3(モノヴィッツ)の各収容所の下には、計44のサブ・キャンプ(下位収容所)が設置され、アウシュヴィッツから選別された収容者たちが、農場や炭鉱、石切場、漁場、軍需産業での強制労働に動員されていました。

 今回ご紹介のサブ・キャンプが置かれていたヤヴィショヴィッツはオシフィエンチム(アウシュヴィッツのポーランド語名)の市街地から12キロの地点に位置する炭鉱地帯です。サブ・キャンプは、炭鉱を管轄していたヘルマン・ゲーリング国家工場とWVHA(親衛隊経済管理本部)の協定に基づき、フランスのドイツ占領地区からユダヤ人150人を連行し、ヤヴィショヴィッツとブジェシュチェでの炭鉱労働に従事させらるため、1942年8月半ばに開設されました。

 ピーク時の1944年6月には、サブ・キャンプとしては最大規模の2500人(ポーランド、フランス、ドイツ、オランダ、イタリア、ハンガリーの各地から集められたユダヤ人が大半を占めていましたが、非ユダヤ系のポーランド人やロシア人、ドイツ人も含まれていました)が動員され、管理のため、70人以上の親衛隊員が駐在しています。

 サブ・キャンプの周囲は電流の流れる有刺鉄線が張り巡らされており、敷地内には木造の建屋が10以上あり、そのうちの7つが収容者の居住用、残りの3つがキッチン、病院、倉庫、風呂トイレなどに絵割り当てられていました。また、1944年以降、ヤヴィショヴィッツに動員されるユダヤ人の数が増加しましたが、収容者の生活スペースは拡大されなかったため、54人用として設計された房舎には200人以上が詰め込まれています。

 1945年1月には、ソ連軍の接近に備えて、サブ・キャンプに残されていた約1900人の収容者の大半がシロンスク県の炭鉱地域まで徒歩で移動させられたため、1月29日にソ連軍がヤヴィショヴィッツを解放した際には、現地には少数の病人などが残されているだけでした。

 ちなみに、アウシュヴィッツとその関連の郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でも詳しくご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 


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 謹賀新年
2021-01-01 Fri 00:05
      顔写真・2020年末・寺ちゃん

      ソ連・コズミック年賀(1960・橇)

 あけましておめでとうございます。

 旧年中は郵便学者・内藤陽介の活動にご支援・ご協力を賜り、誠にありがとうございました。本年もよろしくお付き合いください。

 冒頭の画像は、昨年末に文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に出演した際、スタッフの方に撮影していただいたもので、僕の顔写真としては最新のものです。同番組のスタッフの方には、出演のたびに毎回写真を撮っていただいているのですが、いつもいい感じなので、昨年刊行の拙著『みんな大好き陰謀論』『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でも、それぞれ直近に撮影していただいた写真を著者近影として使わせていただいております。

 その下には、1960年にソ連で制作された新年用のグリーティング絵葉書(私製)のうち、ロケットが飛ぶ月夜の下、元日の日めくりカレンダーを抱えて橇で滑走する子供を描いた1枚を置いてみました。実は、本年(2020年)は、ヴォストーク1号60年にしてソ連崩壊30年という年回りになりますので、昨年5月まで『本のメルマガ』に連載していた「スプートニクとガガーリンの闇」を元に、なにか書籍を1冊作ろうという企画が進んでおり、この葉書も、その準備の過程で入手した1枚です。絵柄がとても可愛らしくて、個人的にはお気に入りの1枚なのですが、いかんせん、印面のついていない私製葉書ということもあって普段ブログ記事では紹介しづらいので、この機会にご紹介してみた次第です。

 さて、例年ですと、新年のご挨拶では冒頭、前年の全日本切手展の開催についてお礼申し上げるのですが、昨年(2020年)は新型コロナウイルスの影響で展覧会も中止のやむなきに至りました。また、国際展も軒並み開催が中止ないしは延期され、一度も開催されずに1年が過ぎるという異例の事態となりました。

 全日本切手展につきましては、6月25-27日(金-日)の3日間、以前と同じ東京・錦糸町のすみだ産業会館を会場として開催すべく、実行委員会としては準備を進めており、競争出品作品の募集要項・特別規則など(大筋では従来と変わりませんが、部分的に修正する箇所もございます)が正式に確定しましたら、近々、専用のウェブサイト等で発表したしますので、今しばらくのご猶予をお願いいたします。何分にも先行き不透明な状況が続いておりますが、なにとぞ、本年も、皆様のご支援・ご協力をいただけると幸甚に存じます。

 切手展ということでいえば、このほか、わが国の郵便創業150周年を記念して、8月に横浜でFIP展の開催が予定されており、また、海外でも11月には南アフリカ・ケープタウンでFIP展が予定されています。このうち、南ア展ではコミッショナーをお引き受けすることになりました。この両展についても、皆様にはいろいろお世話になるかと思われますが、よろしくお願いいたします。

 一方、僕の本業である文筆活動に関しては、現在、ちゃんねるくららでの「内容陽介 世界を読む」でお話した内容を大幅に加筆修正した書籍の制作作業を中心に動いており、大晦日もその作業をしておりました。同書につきましては、2月末から3月初めの刊行を目指しておりますので、近々、このブログでも詳細をご案内できるかと思いますので、よろしくお願いします。

 続いて、GWの前後には、昨年ご好評をいただいた『みんな大好き陰謀論』の続編と、郵便創業150周年の企画として、日本切手の歴史を概観する書籍の刊行を予定しております。後者につきましては、ことし(2021年)の春・秋、そして2022年の春の3回に分けて全3巻のシリーズとなる予定です。

 そして、昨年11月、第16回河上肇賞をいただいた「東京五輪の郵便学」についても今夏の東京五輪開催にあわせての書籍化を目指しており、これに、時期は未定ですが、冒頭でご紹介した「スプートニクとガガーリンの闇」を元にした書籍を年内に刊行するのが今年の目標です。

 これら書籍の企画は過去の仕事に加筆修正を施すタイプのものが中心なのですが、これまでは、2008年に4冊(『近代美術・特殊鳥類の時代:切手がアートだった頃 1979-1985』『韓国現代史:切手でたどる60年』『大統領になりそこなった男たち』『年賀切手』)刊行したのが、自分にとっての年間最多記録でしたので、それを超える5冊というのはかなりハードルが高そうです。ただ、ことしは1996年1月に最初の著書を出してから25周年の節目の年でもありますので、なんとか、13年ぶりの自己最多記録更新に向けて奮闘したいと思っています。

 なお、今年は年初からスタートの新連載はないのですが、「泰国郵便学」(『タイ国情報』)、「切手に見るソウルと韓国」(『東洋経済日報』)、「お菓子の切手」(『Shall we Lotte』)、「切手歳時記」(『通信文化』)、「日本切手の歴史」 (『キュリオマガジン』)、「日本切手150年の歩み~郵便創業150年に寄せて」(『郵趣』)、「沖縄切手モノ語り」(『本のメルマガ』)の各連載は、今年も継続いたしますので、引き続き、ご贔屓いただけると幸いです。

 原則として、365日24時間営業の零細個人事業主の僕ですが、公の場で皆様にお目にかかる仕事としては、公の場で皆様にお目にかかる仕事としては、1月5日の東京・荻窪でのよみうりカルチャーの講座が最初の機会となります。

 本年も引き続き、皆様よりのご支援・ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。

 内藤陽介拝


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