2020-12-31 Thu 00:51
2020年もいよいよ大晦日です。今年も皆様には本当にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、主なものだけでも、下記のような仕事を残すことができました。
<受賞> 第16回河上肇賞(藤原書店主催) 「東京五輪の郵便学」 <単行本> ・『(シリーズ韓国現代史 1953-1965)日韓基本条約』 えにし書房 (1月15日発行) ・『みんな大好き陰謀論』 ビジネス社(7月15日発行) ・『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 扶桑社(9月30日発行) <連載> ・「泰国郵便学」 『タイ国情報』(1月号~2021年も継続) ・「切手に見るソウルと韓国」 『東洋経済日報』(1月~2021年も継続) ・「お菓子の切手(旧「小さな世界のお菓子たち」) 『Shall we Lotte』(1月~2021年も継続) ・「切手歳時記」 『通信文化』 (1月~2021年も継続) ・「日本切手の歴史」 『キュリオマガジン』(1月~2021年も継続) ・「スプートニクとガガーリンの闇」 『本のメルマガ』(1月~5月) ・「日本切手150年の歩み~郵便創業150年に寄せて」 『郵趣』(1月~2021年も継続) ・「沖縄切手モノ語り」 『本のメルマガ』(7月~2021年も継続) <単発モノの論文・エッセイなど> ・「間違いだらけの『中田敦彦のYouTube大学』」 『WiLL』5月号 ・「『レジ袋有料化』は増税を導き、コロナ対策を破壊する」 『大紀元』6月19日配信 ・「必死の『武漢かくし』で発行された 中国コロナ切手」 『WiLL』7月号 ・「レジ袋有料化は天下の愚策」 『WiLL』9月号 ・「中国の浸透工作進む南太平洋 日本人が忘れかけた『ガダルカナル』で何が起きているのか」 『大紀元』9月28日配信 ・「昭和12年と昭和切手」 昭和12年学会論文4号(10月29日公開) ・「(舩井勝仁氏との対談)切手で読み解く世界の裏側」 『ザ・フナイ』12月号 このほかにも、文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」(2021年も継続)、インターネット放送チャンネルくららでの「内藤陽介の世界を読む」(2021年も継続)、その他各種の講座やイベントなど、公私にわたり、実に多くの方々より、ご支援・ご協力を賜りました。関係者の皆様にはあらためてこの場を借りて、心よりお礼申し上げます。明年も引き続き、ご支援・ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。 最後に、来る年の皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げ、年末のご挨拶といたします。どうぞ、良いお年をお迎えください。 内藤陽介拝 * 昨晩(30日)、アクセスカウンターが229万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-30 Wed 00:54
1920年12月30日、フランス社会党(労働インターナショナル・フランス支部)がトゥール党大会で分裂し、多数派がコミンテルン(第三インターナショナル)への加盟を決議し、“共産主義インターナショナル・フランス支部(事実上のフランス共産党)”が成立して、ちょうど100年になりました。というわけで、すでにフランス共産党は消滅していますが、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1950年8月1日、中国が発行した「世界平和を守れ(保衛世界和平)」の切手で、世界で最も有名なフランス共産党員(の1人)、パブロ・ピカソの「平和の鳩」が取り上げられています。 第二次大戦中の1944年、フランス共産党に入党したパブロ・ピカソは、1948年8月、ポーランドのヴロツワフ(旧ドイツ領ブレスラウ)で開催された「平和擁護のための世界知識人会議」に参加し、副議長に選出されます。同会議は、冷戦下の東側諸国から西側へのプロパガンダの一環として、米ソの平和共存と核兵器廃止のアピールを採択しましたが、ピカソは特に発言を求めて、イタリアへの亡命を余儀なくされたチリの左翼詩人で友人のパブロ・ネルーダの自由を訴えています。 ヴロツワフの会議後、1949年4月、パリのプレイル・ホールで第1回世界平和擁護大会が開催されることになり、ピカソは大会組織委員長でフランス共産党員の作家、ルイ・アラゴンの依頼で、そのポスターの制作を引き受けました。しかし、ピカソはその依頼を大会直前まで忘れており、直前になって大慌てすることになります。そこで、アラゴンはピカソのアトリエで見た白黒の鳩のデッサンを思い出し、ピカソの承諾を得た上で、そのデッサンを使ったポスターを制作しました。ちなみに、大会の宣伝用に作られた葉書には、ポスターに使われたのと同じデザインの鳩が取り上げられています。(下の画像) ちなみに、平和擁護世界大会が開催された1949年4月はベルリン封鎖の最中で、すでに東西冷戦が激しさを増していたこともあって、フランス政府は左派色の濃厚な同大会がパリで開催されることを快く思わず、フランス政府は東側諸国代表の入国を拒否しました。このため、同大会は、東側の代表団を集めて、チェコ・スロヴァキアのプラハでも同時に行われています。 一方、パリの大会のポスターは大いに人気を博し、そのことに気をよくしたピカソはその後も平和運動のシンボルとして、さまざまなハトを好んで描きました。それらは、事実上のフリー素材として、共産主義諸国や西側の左派勢力がさまざまな形で用いていますが、切手に関しては、今回ご紹介の中国切手がその第1号です。 なお、ピカソの鳩と世界平和擁護大会の関係については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-29 Tue 01:30
西アフリカのウラン産出国ニジェールで、27日(現地時間)、大統領選挙の投票が行われました。ニジェールで、大統領の任期満了に伴う民主的な選挙で新大統領が決まるのは、1960年の独立以来、今回が最初のことです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2013年にニジェールが発行した現大統領、マハマドゥ・イスフの肖像切手です。 1960年の独立後、ニジェールでは初代大統領のアマニ・ディオリがニジェール進歩党による一党独裁体制を構築していました。しかし、1974年の大旱魃に対して、同政権は有効な対策を打てなかったばかりか、救援物資の横流しなどの不正も横行したことから、国民の反政府感情が高まり、1974年4月15日、国軍参謀総長のセイニ・クンチェがクーデターを起こしました。 クンチェは“最高軍事評議会”を樹立して自らその議長に就任。憲法を停止し、政党を禁止する一方で、進歩党政権下で拘束されていた全政治犯を釈放しました。さらに、最高軍事評議会は援助食糧の配給を開始したため、国民生活は急速に改善されます。 また、クンチェ政権は、北西部アイル山地西麓のアーリットとアクータでのウラン鉱山の開発に力を入れることで疲弊したニジェール経済の再建を進め、気象状況の改善もあって、1980年には食糧自給が達成されました。 経済状況の好転を受けて、1981年には最高軍事評議会に文民が加わり、1983年には文民のママヌ・ウマルがクンチェにより首相に任命されたほか、翌1984年には憲法復活の準備段階として、国民憲章も発表されるなど、クンチェ政権は一定の成果を上げ、クンチェ本人も1987年11月に病死するまで、政権を維持し続けます。 クンチェの死後、後継者となった参謀長のアリー・セブ(サイブとも)は、民政復帰を目指して、1989年1月、単一政党として社会発展国民運動(MNSD)を結成。同年9月には新憲法を施行し、12月には大統領選挙を行い、当選しました。 これに対して、複数政党制の導入を含む民主化の徹底を求める学生たちが、1990年2月9日、首都ニアメのケネディ橋で大規模なデモを敢行。これを警官が鎮圧し、死者が発生すると、学生・労働者による政府への抗議行動が全土に拡大します。さらに、混乱の中で、北部ではトゥアレグ人とニジェール政府軍との武力衝突も発生し、ニジェール情勢は不安定化していくことになりました。 このため、セブは国内宥和のため複数政党制を認めざるを得なくなり、1993年に改めて、国民投票・議会選挙・大統領選挙が実施されます。議会選挙では、軍事政権時代の野党だった民主社会会議(CDS)とニジェール民主社会主義党(PNDS)を中心に結成された野党連合の“変革勢力同盟(AFC)”が勝利し、大統領選挙ではCDSのマハマヌ・ウスマンが当選。PNDSのマハマドゥ・イスフ(今回ご紹介の人物)が首相に就任します。 しかし、ウスマン政権は発足当初から政権内の主導権争いで政情は安定せず、1994年にはイスフは首相を解任され、以後、首相が目まぐるしく後退するようになります。特に、1995年1月の総選挙を受けて、セブ政権時代の与党だった社会発展国民運動(MNSD)のハマ・アマドゥが首相に就任すると、アマドゥは大統領のウスマンと激しく対立し、国政は完全に停滞しました。 このため、1996年1月、陸軍参謀長のイブライム・マイナサラが、国家機能の正常化を掲げてクーデターを敢行。暫定政権として“救国委員会”を発足させ、自らその委員長に就任します。 マイナサラは、1996年5月の国民投票で新憲法を制定し、7月の大統領選挙で当選し、形式的には民政移管が達せられました。しかし、マイナサラ政権は独裁傾向を強め、これに反発する野党との対立から国政は停滞。1997年11月の国政選挙では野党が投票をボイコットしています。 1999年2月の地方議会選挙で野党が勝利すると、マイナサラはこの結果を不服として最高裁判所に選挙の無効を申し立て、最高裁もこれを受け入れたため、大規模な反政府運動が発生。騒然とした状況の中で、同年4月、マイナサラは首都ニアメのディオリ・アマニ国際空港で複数の兵士によって銃殺され、大統領警護隊隊長のダオダ・マラム・ワンケが国家和解評議会を設立するクーデターが発生しました。 ワンケの軍事政権は1999年中の民政移管を公約。これを受けて、1999年に行われた大統領選挙ではMNSDのタンジャ・ママドゥが当選しましたが、ママドゥ政権下でも政情は安定せず、2002年には賃金や待遇に抗議した軍兵士が南東部のディファで反乱を起こします。さらに、2004年末にはサバクトビバッタの大量発生によって農業が壊滅的な打撃を受けて食糧危機が発生。国民の不満が高まる中で、2009年、ママドゥが大統領の任期延長を可能にするため憲法改正を目論むと、2010年2月、またしても軍によるクーデターが発生し、ママドゥ以下政府要人は拘束され、ニアメの守備隊指揮官だったサル・ジボを議長とする民主主義復興最高評議会(CSRD)が樹立されました。 その後、CSRDの下で2011年3月に実施された大統領選挙で、ママドゥ政権時代の最大野党、PNDSのリーダーだったマハマドゥ・イスフが当選。イスフは、ウランをはじめ鉱物資源管理の改善と政治的安定を訴え、トゥアレグ人のブリジ・ラフィニを首相に任命するなど、民族バランスに配慮した閣僚任命を行うなど、国民融和に務めました。また、食糧増産イニシアティブや国家開発計画を策定し、民生向上に一定の成果を上げます。 この間、就任直後の2011年7月にはイスフの暗殺計画が発覚し、ニジェール軍の少佐と中尉、それに兵士3人が逮捕されたほか、2015年12月にはクーデター計画を未然に阻止するなど、イスフは政権基盤を固め、2016年2-3月の大統領選挙では再選を果たしました。 外交面では、イスフ政権は開発協力や投資を呼びこむため、政策の透明性向上に努めるとともに、国連マリ多面的統合安定化ミッション(MINUSMA)への派遣や、ナイジェリアのボコ・ハラーム掃討のための軍事的取組を行うなど、治安・テロ対策では欧米諸国等と連携を強化。イスフ本人も、2019年から西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の議長を務めています。 ニジェール憲法の大統領3選禁止規定に従い、今回の選挙にはイスフは立候補せず、選挙戦は、イスフ氏の後継者で前内相のモハメド・バズムに、政権復帰を目指す元大統領のウスマンが挑むかたちで進んでおり、年内には結果が出る見込みです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-28 Mon 04:16
EU加盟国で、きのう(27日)から、新型コロナウイルスのワクチン接種が一斉に始まりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1966年12月10日にフランスが発行した赤十字切手で、少女の腕に注射する看護師の女性が描かれています。 日本では、ワクチンの予防接種は本人の健康のためと考えられてるため、予防接種は義務ではなく、ワクチン接種を受けなくても社会的な不利益を被ることはありません。これに対して、フランスでは、予防接種は、他人に病気を移さないために必要な措置との考え方から、予防接種が義務化されています。特に、乳幼児に関しては、生後18か月までに11種類のワクチン接種を受けることとされているほか、成人後も接種が義務付けられているワクチンがあり、そのスケジュール管理のための“ワクチン・カレンダー”も作られています。 乳幼児がきちんとワクチン接種を受けたか否かは、保育園や幼稚園への入園の際にチェックされ、園長は予防接種を受けていない児童の入園を拒否することができます。また、小学校への入学時には、法律で定められた予防接種を子供に受けさせなかった親に対して罰金が科されることがあるほか、子育て支援金もカットされます。 さて、新型コロナウイルスのワクチンに関しては、12月21日、欧州委員会が欧州医薬品庁(EMA)の審査を経て、米製薬大手ファイザーとドイツのバイオ企業ビオンテックが共同開発したワクチンのEU域内での販売を承認しており、来年1月には、米バイオ企業モデルナのワクチンも承認される予定となっています。 ワクチンは欧州委が最大3億回分の接種量を調達して加盟27カ国に配分する仕組みで、26日、その第1陣が、ファイザーのベルギー工場からマイナス70度の超低温保管で各地に移送され、ドイツの一部地域とハンガリー、スロヴェニアでは、即日、先行しての接種がスタート。27日からは、フランス、イタリア、スペインなど各国でのワクチン接種が本格的に始まりました。各国は、まず、医療関係者や高齢者への接種を優先し、段階的に対象を広げていく予定です。ちなみに、EU域外では、すでに、中国、ロシア、英国、カナダ、米国、スイス、セルビア、シンガポール、サウジアラビアでコロナワクチンの大規模接種が始まっています。 なお、英国などでは新型コロナウイルスの変異種が発見されていますが、ビオンテックのウグル・サヒンCEOは、22日、「科学的には、このワクチン接種で得られる免疫応答で、変異種にも対応できる可能性は非常に高い」が、「必要であれば変異種に特化したワクチンも6週間以内に開発可能」と話しています。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-27 Sun 03:33
公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第54巻第6号ができあがりました。というわけで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1979年7月10日に発行された“植樹節20年”の記念切手で、山中の森林で植樹を行う男女が描かれています。この図案は、おそらく、1970年代のタイで行われた“林業村(森林村)”のイメージを表現したものと考えられます。 タイの森林行政の基礎となっている森林法では、“森林”の定義を「いかなる私人の権利も存在しない土地」と定めているため、いわゆる森林のみならず、学校や公共機関の用地も、森林法上は“森林”に分類されます。一方、法律上の“農地”は、「土地法典上、何らかの権利がある土地」です。また、農村部で近代的な土地の権利関係が認定されるようになったのは、1954年以降、土地法典ならびに同施行法に基づき、土地占有報告が開始されてからのことでした。 法律上の“森林”は、国家保全林法によって国家保全林とそれ以外に分類され、国家保全林は、厳格な保護の対象となる保護林(国立公園法で指定された国立公園や野生動物保護法で指定された野生動物保護区など)とそれ以外の保全林に分類されます。このうち、保全林には、自然林のほか、ユーカリやアカシアの造成地も含まれ、正規の許可を受ければ場資源の利用も認められています。 ところで、1960年代以降、タイでは輸出用商品作物の栽培が急速に拡大し、農村では周辺の森林破壊を伴う農地の拡大が進みました。この結果、国家保全林の領域に不法に土地を占有して居住し、開墾・耕作を行う農民が増加。さらに、ヴェトナム戦争期にタイ共産党が“解放区”を設定した東北地方では、ゲリラ対策として森林が焼き払われたほか、米軍の拠点として大規模な道路建設が一挙に進んで交通アクセスが飛躍的に改善されたことから交通が容易になり、他の地域から土地を持たない農民が国家保全林に流入して森林が焼かれ、農地へ転用する事例や森林資源を勝手に流用する事例が後を絶ちませんでした。 こうした事態は、タイの主要な輸出品である木材(その中心はチーク材)の生産に悪影響を与えることから、森林局はそうした国家保全林の“不法占拠”や不法利用の摘発に力を入れることになります。その一方で、 “軽微な違反(自宅修繕のために少量の木材を採取するなど)”については現場の担当者の裁量で違反者を逮捕せず、説諭にとどめざるを得ないこと少なくありませんでした。地域によっては“軽微な違反”が常態化しており、それらをすべて取り締まると、住民を敵に回し、行政を円滑に進めることが困難になるためです。 そこで、1974年8月、荒廃林を農民に分配することが閣議決定され、1975年以降、森林局がプランを策定した“林業村”のプロジェクトが開始されます。その概要は、以下の通りです。 ①森林局の定めた国立公園・野生動物保護区や水源地域の外周部に林業村を設置し、森林内に土地を占有している者を林業村に移住させる。 ②参加世帯には15ライ(2.4ヘクタール)以下の土地を貸与する。そのうち、0.5ライは宅地にあてる。ただし、この土地は、相続権は認めるが所有権は認めず、売買や借金の担保とすることはできない。 ③森林局は森林局が行う植林事業に村民を適正な賃金で雇用する。これにより、村民の雇用を確保し、彼らが補助的な現金収入を得られるよう配慮する。 ④政府関係諸機関により、学校、寺院、井戸、公衆衛生センター等の社会的生活基盤の整備を進め、さらに、道路、貯水池、灌漑施設などのインフラストラクチャーを建設し、住民の生活の安定と生活水準の向上を図る。 ⑤農業協同組合の組織化を奨励する。 林業村事業は、森林局内の国有林管理部が中心になって実施され、まず、国家保全林の中から林業村事業対象地を選定したうえで、対象地を農業適地と植林地に分類。農業適地は参加世帯数に応じて農地と居住地に区分したうえで、それぞれ区画を定めて分配することとされました。 一方、植林地では、林業村の住民を雇用して造林活動を進めるとともに、年間最低8ヶ月間の森林の維持管理作業を行っていました。主な作業は植林地の整備、地拵、植付、下刈などで、事業が開始された1975年の時点では1人年間8000バーツの賃金が支給されています。 また、一部の村落では、村民が共同で森林を利用・管理してきた実績があり、それが国家保全林の域内、すなわち、森林局の管轄に入れられた場合、村民はそれらを利用することが違法になってしまうため、その場合には森林局が“共有林”を指定したり、あるいは造成したりするものとされました。 なお、林業村はあくまでも安定的な木材生産を目的としたものであったため、所定の手続きを経たうえでの商業伐採は禁止されず、その後も森林の減少は歯止めがかからなかった。この結果、1980年代には森林被覆率は30%を下回ってしまいます。 これに対して、1980年代後半には、都市中間層を中心に“環境問題”への関心が高まったことで、そうした世論の圧力によって森林行政の軸足は木材生産から自然保護へと移り、1990年代に入ると保護林が大幅に拡張されていきました。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-26 Sat 01:43
今年1月末に欧州連合(EU)を離脱した英国とEUは、24日午後(現地時間)、移行期間終了後の2021年以降も関税ゼロでの貿易を続けられるよう、新たな経済関係を定めた自由貿易協定(FTA)の締結で合意しました。これを受けて、英首相官邸は「ブレグジット(英国のEU離脱)を実現した。これからは、待ち受ける素晴らしい機会を全面的に活用することができる」とのコメントを発表。「2016年の国民投票と昨年の総選挙で英国民に約束されたすべてのことが、この合意で実現する」、「私たちは自分たちの金、国境、法律、貿易、そして漁業水域の決定権を取り戻した」と述べています。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、英国のEU離脱派が作った宣伝封筒(私製)の使用例(2002年1月18日、イングランドのリスカードからダヴェントリー宛)で、斜線で抹消されたEU旗の上に“外国の支配は避けよう”とのスローガンが入ったイラストが入っています。 1973年にEC(当時)に加盟した当初から、英国内には、「このままでは大陸ヨーロッパに飲み込まれてしまう」という危機感、「加盟しないほうがよかったんじゃないか」という声が常にありました。 英国の反ECの主張は、当初は、むしろ左派である労働党が、資本主義批判ないしグローバリズム批判の路線で離脱を唱えていました。実際、サッチャー政権時代の1983年の選挙で労働党は、ECからの「完全離脱」を主張しています。しかし、このときの選挙で労働党は負けてしまいました。 その後、1985年に欧州単一市場と域内の政治協力を正式に決めた“単一欧州議定書”がEC内で採択され、翌1986年の調印を経て、1987年から発効。この議定書が欧州共同体(EC)から後の欧州連合(EU)にステップアップするひとつの土台になりましたが、サッチャー政権は国民投票なしに議定書を批准します。 さらに、1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、翌1990年10月には東西ドイツが統一されるなど、まさに欧州が激動するタイミングで、1990年10月、英国は欧州為替相場メカニズム(ERM)に加わりました。しかし、ERMではそれぞれの通貨の為替相場変動幅が一定枠内に固定されるので、加盟国は独自の通貨政策を取れません。ERMそのものは1979年から存在しており、当初、ドイツマルクに固定されることを嫌った英国は加入を見送っていましたが、統一ドイツの誕生という欧州の大変動を受けて、加入せざるを得なくなった格好です。これが保守党分裂の火種になり、党内をまとめきれなくなったサッチャーは首相辞任に追い込まれました。 はたして、1992年9月、通貨投機の圧力を受けて、ポンドの為替レートが急落し、いわゆるポンド危機が起こると、結局、英国はERMを脱退して通貨政策の独自性を回復しました。 一連の混乱の中、1993年、ついに欧州連合(EU)が発足。経済連合から政治連合へと進化しました。さらに、1999年1月に加盟国のうち19カ国で共通通貨ユーロが導入されますが、英国は最終的にユーロの導入を見送っています。 ところで、EU発足の前年にはEUの創設を定めたマーストリヒト条約が調印され、デンマーク、フランス、アイルランドは、同条約を批准するために国民投票をしましたが、英国は国民投票を行っていませんでした。憲法の慣例上、議会主権にしたがって、マーストリヒト条約の批准は、国民投票の対象外だというのが、当時の英国政府の説明でしたが、これが話をこじらせます。国家の大幅な主権の変更に関わってくる問題について国民投票が行われなかったので、反EU派は民意が無視されたことに強く反発しました。 これを機に、英国では反EU派の政党として、国民投票党と独立党が生まれます。国民投票党は数年で解散しましたが、独立党は「英国は再び、直接かつ唯一英国の有権者が責任を負う議会によって有権者の必要に応じて定められた法律によって支配されるべきだ(=英国は、もう一回、独立を取り戻すべきだ)」との基本理念を掲げ、2000年代にはEU加盟継続の是非を問う国民投票の実施を訴えて党勢を拡大していきました。 今回ご紹介の封筒も、こうした状況の下で制作されたものですが、当初は、反EU色がより鮮明で、EUをナチスに見立てて下のようなイラストが入った封筒も使われていました。さすがに、欧州域内でカギ十字を持ち出すのは刺激が強すぎて、批判を浴びたため、後に、今回ご紹介のカバーのようなイラストに変更されたわけですが…。 独立党は、2004年の欧州議会議員選挙では270万票という英国内分の票の16.8%を獲得し、欧州議会において12議席を獲得。もっとも、2議席は詐欺疑惑の後に取り消され、一議員が内部抗争の末に離党するなど、この時点での独立党は、政党として未熟な感が否めませんでした。 しかし、翌2005年の英国総選挙では独立党は60万3298票(得票率2.2%)を獲得。2008年4月に無所属の保守派議員であるボブ・スピンクが移籍してきたことで党は下院に初の議席を獲得(後に離党)しています。 さらに、2009年の欧州議会議員選挙では、独立党は英国内分のうち約17%の票を獲得し、英与党の労働党を抑えて2位になり、2013年の英国統一地方選挙では8議席から147議席へと躍進しました。 独立党の支持拡大を受けて、保守党のデビット・キャメロン政権は国民投票を行うと約束してしまいます。キャメロン本人は残留派でしたが、2016年の国民投票では離脱派が過半数となり、キャメロンは辞任に追い込まれ、最終的に英国はEUから離脱したのです。 ちなみに、ブレグジット賛成派の心情を説明したものとしては、日本メディアの質問を受けたある英国人の回答が秀逸です。 「EUは嫌だよ。日本の国会が北京にあって、最高裁がソウルにあったら、君たちだって嫌だろう」 なお、この辺りの事情については、拙著『みんな大好き陰謀論』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-25 Fri 01:19
きょうはクリスマスです。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦中、ガダルカナルに置かれていた米軍の第709野戦郵便局(APO709)から差し出されたクリスマスのVメールです。 第一次大戦と比べて、第二次世界大戦では、海外で従軍している人々と本国の家族等の間での郵便物の往来が激増し、その輸送は当局にとって大きな負担になっていました。このため、1941年、英国では、イーストマン・コダック社の協力を得て、戦地の将兵に専用の用紙に手紙の文面を書かせ、それをマイクロフィルムで撮影して本国へ運び、到着後にプリントして宛先に届けるエアグラフの制度が導入されました。 1941年12月に大戦に参戦した米国でも、1942年6月、これに倣ったVメールのサービスを開始しました。今回ご紹介しているのは、ガダルカナルからマイクロフィルムの状態でサンフランシスコまで運ばれた文章をプリントした状態のものです。 なお、このVメールを引き受けたAPO709はガダルカナル攻防戦最中の1942年12月13日にガダルカナルで開局。1943年2月7日の日本軍撤退後も、連合軍の航空基地としてヘンダーソン飛行場の拡充業務や戦闘によって破壊された村落の復旧、ホニアラのインフラの整備などのために来島した米軍スタッフの郵便物を取り扱いました。米軍兵士の多くは1945年末で引き揚げたものの、1950年までは少数のスタッフがガダルカナルで活動していたため、APOも終戦後の1949年10月30日まで活動を続けていました。 ガダルカナルでVメールの取扱が始まったのは1944年2月22日でしたから、今回ご紹介のマテリアルは、おそらく、終戦前の1944年のクリスマス時のものと考えてよいでしょう。ちなみに、事務室・郵便室・備品室・研究室を十字型に配したVメール・ステーションはエアコン完備で、24時間で10万通のVメール原稿を受け付け、マイクロフィルム化して発送する処理能力を備えていたそうです。 ちなみに、ガダルカナルにおける米軍の活動については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもいろいろとまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-24 Thu 00:25
クリスマス・イヴの日(厳密にいうと、“イヴ”は日没からなのですが…笑)になりました。というわけで、ストレートにこの切手です。(画像はクリックで拡大されます。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1995年11月6日にソロモン諸島が発行した同年のクリスマス切手のうち、クリスマス・ツリーの前でパンパイプを吹きながら精霊信仰の儀礼を行う男性と、それを見る洋服姿の母子が描かれています。 ソロモン諸島の先住民と西洋人との本格的な交易は1840年代から始まりましたが、それと連動して、キリスト教の宣教師も来航するようになります。 その嚆矢となったのが、1845年12月16日、サンタ・イサベル島ブゴトゥ地域に上陸したフランス人カトリックのエパル神父と12人の宣教師でした。彼らは上陸するや、ヨーロッパ製の鉄製武器で武装した先住民に襲撃され、エパルは殺害されてしまいます。他の宣教師たちはなんとか生き残り、サン・クリストバルに留まって布教活動を続けたものの、何人かは先住民に殺害され、文字通り、“餌食”となりました。こうしたこともあって、1852年、カトリック教会はソロモン諸島での布教を断念します。 これに対して、ソロモン諸島に定着することに成功したのが、ジョン・コーリッジ・パティソンら英国国教会のメラネシアン・ミッションでした。 パティソンは、1855年以降、ニュージーランドを拠点に太平洋地域での布教を行っていましたが、1861年、メラネシアン・ミッションが設立されると初代主教に就任。「ミッショナリーは大英帝国の付属物ではなく、政治的戦略の歯車として異教徒と接するのではない」として政治と宗教の分離を主張するとともに、部下の宣教師たちには、白人とメラネシア人を平等に扱い、能力に応じてメラネシア人も登用することや伝統文化を尊重することなどを厳命していました。また、メラネシア・ミッションは、1860年代にはニュージーランドからサツマイモをもたらすなど、地元との共存に努力したため、カトリックのように住民の強い反発を招くこともありませんでした。 ところが、1871年9月20日、パティソンはサンタ・クルス島で“白人”であるという理由で島民によって殺害されてしまいます。その背景には、白人たちがソロモン諸島から先住民を拉致して、フィジーやオーストラリアのプランテーションでの労働力として働かせる“ブラック・バーディング”が横行していたという事情がありました。 1893年の英領ソロモン諸島成立を経て、1896年、植民地行政の責任者である弁務官として現地に赴任したチャールズ・モリス・ウッドフォードは、ソロモン諸島の開発には外国人の投資が必要だと考えていましたが、当時のソロモン諸島は部族間抗争が激しく、治安は不安定でした。 このため、ウッドフォードは、まず、農作に適した土地のあるガダルカナル島北部とニュージョージア島を中心に、キリスト教の宣教師とともに“平和化”に取り組み、1901年には先住民の間で長年続けられてきた“首狩り”の習慣も廃止されるなど、一定の成果を上げています。 一方、フィジーやオーストラリアでの労働からソロモン諸島jに帰郷した者の中には、海外生活を通じてキリスト教に改宗した者も多く、彼らを通じて徐々にキリスト教に改宗する島民も増加。植民地政府の後押しもあり、宣教師たちがキリスト教の価値観として強調した“平和と(部族を超えた)結束”の理念が浸透していくことになります。 当時の島民の間では、伝統的な土着宗教では祖先の霊や森の精霊などに対する信仰が篤かったのですが、宣教師たちは、過去の失敗を踏まえ、土着の信仰を否定するのではなく、彼らの伝統的な聖地へ自ら赴き、現地の精霊・祖霊よりもキリスト(教)の霊力の方が強いと説き、キリスト教がそれらを封じ込めることで社会は安定するというロジックで島民たちを感化していきました。いわば、最強の精霊としてキリスト(教)を人々に認知させたわけです。 その結果、ソロモン諸島では伝統的な精霊信仰がキリスト教に従属しながら共存するという状況が作られていきます。その点において、素肌にペインティングした男たちが、キリスト教の象徴としてのクリスマス・ツリーの前で伝統的な精霊信仰のパフォーマンスを行っているという、この切手のデザインは、そうした精霊信仰とキリスト教の関係を象徴的に示しているといってよいでしょう。 なお、その後も、ソロモン諸島においては土着の精霊信仰が政治的・社会的にも重要な意味を持ち続けるのですが、そのあたりについては、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-23 Wed 04:02
米上下両院は、21日(現地時間)、チベットでの人権弾圧を批判し、人権や信教の自由を擁護する法案(チベット人権法案)を賛成多数で可決しました。今後、同法案はホワイトハウスに送付され、大統領の署名を経て成立することになっています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2019年1月10日、同年2月5日の春節を前に、中国が発行した同年用の年賀切手で、ラサのポタラ宮を背景に、伝統的な民族服を着て新年の縁起物を捧げ持つチベット人男女が描かれています。原画作者は清華大学美術学院教授の吳冠英で、切手の左右に配された対聯の文字(雪月冰星春酒暖 吉祥興旺彩雲飛)は、中国を代表する書家で、先日(2020年11月5日)、92歳の天寿を全うした歐陽中石によるものです。 中国では、干支の動物を描くオーソドックスなデザインの年賀切手に加え、2015年から2019年まで、歡歡と喜喜という男女のキャラクターとローカルな正月風景を組み合わせたデザインした年賀切手として発行されていました。2015年と2016年の切手では歡歡と喜喜は現在の若者の服装(特定の民族を連想させる要素はない)で描かれていましたが、2017年からは“民族大団結”をテーマとして、歡歡と喜喜は、モンゴル人(2017年)、チワン人(2018年)、チベット人(2019年)の民族服姿で描かれました。 ちなみに、中国では、2014年に雲南省・昆明駅で、刃物を持った集団が通行人らを襲撃する無差別殺傷事件が発生し、31人が死亡、130人以上が負傷。公安当局は容疑者4人を射殺し、1人を拘束したうえで、“新疆分裂勢力による計画的かつ組織的な重大暴力テロ事件”と断定し、習近平は「独裁の仕組み」を活用して「テロリズム、侵入、分離独立」に対する「情け容赦は無用」の全面闘争を指示していました。 そうした方針の下、2016年、陳全国が新疆ウイグル自治区の党委書記、朱海侖が党委副書記兼政法委員会書記にそれぞれ抜擢され、翌2017年2月には、朱海侖が武装警察、公安部、民兵を集めた決起大会で「人民民主独裁の強力な拳で、全ての分離主義者とテロリストは粉砕する」と演説。以後、中国国内では強制収容所の数が急増したとされています。 歡歡と喜喜の年賀切手のテーマが“民族大団結”となったのもこうした政策の反映であることは明らかです。なお、歡歡と喜喜の年賀切手は2019年間で発行されたものの、2020年には発行されませんでした。その理由は明らかにされていませんが、2019年12月8日には新型コロナウイルスの最初の症例が報告されていますので、あるいは、その影響があったのかもしれません。 なお、今回ご紹介の切手が発行された2019年は、1959年3月10日にチベット民族蜂起が発生し、同17日にダライ・ラマ14世がインドに亡命してから60周年という節目の年に当たっていました。今回ご紹介の切手のテーマとしてチベットが取り上げられたのも、この機会をとらえて、あらためて、チベットが中国の一部であり、チベット人は中国共産党の指導の下で幸福に生活しているとの主張を強調しておこうという意図があったものと思われます。 もっとも、実際には、漢族の急激な流入により、チベットの伝統的な社会構造が破壊され続けていることもあって、強圧的な共産党の支配と強引な中国化・社会主義化への抵抗運動が続けられています。また、中国政府は、チベットの独立運動家やその支援者(とみなされた人々)に対しては容赦のない人権抑圧を日常的に行っており、そのことが国際社会から厳しく指弾されているのは周知のとおりです。 今回、米議会を通過した米国のチベット人権法案は、香港デモへの対応で中国を牽制する香港人権・民主主義法、ウイグル人への弾圧に対応を求めるウイグル人権法に続くもので、中国がダライ・ラマ14世の後継者選定に介入した場合、米国は制裁を検討すると明記しているほか、チベットの首府、ラサに米領事館の設置を認めない限り、在米中国領事館の新設を承認しないよう米政府に求めています。 チベット人権法案は、今年1月28日に下院で可決されていたものの、上院での審議は大幅に遅れ、今回、新型コロナウイルス危機の追加経済対策などと一括してまとめられた法案に盛り込まれて、上院を通過したという経緯があります。それだけに、トランプ大統領には1月20日の任期切れの前にぜひとも法案に署名していただき、2月12日の春節を前に、チベットの人々に少しでも「雪月冰星春酒暖 吉祥興旺彩雲飛」の気分を味あわせてあげてほしいですね。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-22 Tue 10:32
『東洋経済日報』2020年12月18日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、クリスマスシーズンなので、この1枚をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1959年12月15日に韓国が発行した1960年用の年賀切手のうち、教会を背景に賛美歌を歌う少年少女を描いた1枚です。 韓国は人口の4人にひとりがキリスト教徒といわれており、社会的に儒教道徳が深く浸透している一方で、アジア最大のキリスト教国のひとつとして知られています。このため、12月25日のクリスマスは聖誕節として祝日にも指定されています。また、1950年代後半、李承晩政権の時代には、年末に“年賀切手”として発行されるものの中にも、クリスマスを意識した題材の切手が含まれていて、今回ご紹介の切手もその1枚です。 1876年の開国に伴い、米国系のプロテスタント諸派が朝鮮での布教を開始し、宣教師の派遣も始まりました。 このうち、長老派のホレイス・グラント・アンダーウッドは1884年末にサンフランシスコを出港し、経由地の横浜で韓国人クリスチャンの李樹廷から朝鮮語を学び、1885年4月、メソジスト派のヘンリー・ジェラード・アペンゼラー夫妻を合流して仁川に上陸します。 アンダーウッドとアペンゼラーに朝鮮語を教えた李樹廷は、1842年、朝鮮王朝の名家の生まれ。弘文館の校理出身の官僚として宮廷に仕えていましたが、1882年の壬午軍乱の際、閔妃(明成皇后)の危機を救ったことから、特に高宗の許可を得て、日本に派遣された修信使の朴泳孝に随行して来日し、そのまま東京に滞在して遊学中にキリスト教に感化され、洗礼を受けた人物です。 さて、漢城(現ソウル)でのアンダーウッドは、1887年に貞洞教会(現・セムナン教会)を設立したほか、1890年には『韓英辞典』、『韓英文法』を発行しました。ちなみに、聖書の朝鮮語訳は、1887年、スコットランド長老派のジョン・ロスが奉天の東関教会で翻訳・出版していましたが、これとは別に、アンダーウッドはアペンゼラーとともに聖書の朝鮮語訳にも取り組んでいます。 宣教師たちは布教活動の一環として朝鮮人に讃美歌を教えましたが、当初は朝鮮語訳の歌詞が準備できなかったため、中国語の讃美歌をハングルで音訳した歌が歌われていました。さすがに、これでは、宣教師にも朝鮮人にも歌詞の意味が分からないので、次第に、歌詞の簡単な(=訳しやすい)歌には朝鮮詩がつけられるようになり、1891年にはソウルで地元の子供たちが朝鮮語で「有福之地(あまつみくには)」を歌っていたとの外国人の証言が残されています。 また、初期の頃は歌詞や楽譜をまとめた歌集もなかったため、讃美歌の歌詞を書いた掛け軸を吊るし、参加者はそれを見ながら賛美歌を歌うというスタイルが一般的だったそうです。 こうした経緯を経て、1892年には、メソジスト派がハングル・漢字交じりの歌集『讃美歌』を刊行したとの記録があります。ただし、記録上は、これが文字として記録された朝鮮語の讃美歌の最初とされているものの、同書の実物は、現在、確認されていないので、1894年に長老派のアンダーウッドが刊行した『讃揚歌』が現存最古の朝鮮語讃美歌集となっています。 その後、1908年に長老派とメソジスト派が共同で『讃頌歌』を刊行すると、以後、両派による讃美歌集の刊行が相次ぎ、韓国人クリスチャンの間に定着していきました。 なお、朝鮮王朝時代の朝鮮半島では識字率が低く、特に、地方の女性の多くは字が読めませんでしたが、宣教師たちは彼女たちに朝鮮語訳された讃美歌を教え、そこから彼女たちは讃美歌集に掲載された歌詞を通じて文字を覚えていくということも珍しくありませんでした。この結果、宣教師たちの期待に反して(?)聖書よりも讃美歌集のほうがよく売れたのだとか。語学の勉強には歌が良いテキストになるというのは、古今東西、万国共通の現象のようですね。 なお、朝鮮半島におけるキリスト教受容史については、拙著『日韓基本条約』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-21 Mon 02:58
きょう(21日)、木星と土星が約20年に一度会合する“グレート・コンジャンクション”が起こります。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2018年3月20日、インドが発行した“太陽系”の切手8種を収めた切手シートで、シート内では、木星の切手と土星の切手がすぐ近くに並んで配されています。 木星は約12年、土星は約30年の周期で太陽の周囲を公転しており、公転周期の違いから、約20年毎に木星と土星は黄道12星座の同じ星座内に見える“会合”が発生します。今回の会合は、日本では12月21日の日の入り後に、南西の低空でわずか0.1度まで大接近しますが、二つの星が0.1度以内に接近するのは、1623年7月17日以来、約400年ぶりのことで、次回の大接近は2080年3月15日の予定です。 さて、今回ご紹介の切手シートを発行したインドの宇宙開発は、1961年、科学技術の発展を重視していたネルー首相が、原子力省を宇宙研究開発の担当と決め、翌1962年に物理学者ヴィクラム・サラバイを長とするインド国立宇宙研究委員会 (INCOSPAR) を立ち上げたことで本格的にスタートしました。 米ソ両国が弾道ミサイル技術を発展させて宇宙ロケットの技術を獲得したのに対して、インドは、当初から、人工衛星の打ち上げを目標としていました。その背景には、開発責任者のサラバイが、NASAの通信・放送衛星に関する研究に参加した経験から、軍用よりも民生用の衛星ロケットの開発に関心を持っていたためといわれています。 サラバイは、研究の最初の目標として、放送衛星とその打上機(SLV)の開発を目指し、ケーララ州に設けられたトゥンバ赤道ロケット打上基地(TERLS)では、観測ロケットの打ち上げを繰り返しました。 サラバイは1971年に亡くなりますが、その4年後の1975年、インド初の人工衛星としてアリヤバータの打ち上げが成功します。です。ちなみに、アリヤバータは、西暦5-6世紀のグプタ朝の時代に活躍した数学者・天文学者で、23歳の時に書いたとされる『アーリヤバティーヤ』は、地動説にたつ宇宙モデルを提示するなど、当時としてはきわめて革新的な内容でした。 人工衛星のアリヤバータは、X線天文学、超高層大気学、太陽物理学の実験を行うために制作されたもので、制作はインドが独自に行いましたが、1975年4月19日の打ち上げは、インド自前のSLVによってではなく、ソ連によってカプースチン・ヤールからコスモス3Mロケットで打ち上げられました。衛星は、軌道到達の4日後には、電力問題によって実験を中断せざるを得なかったのですが、それでも、インドの宇宙開発史の華々しい成果として、その雄姿は、1976年から1997年まで、2ルピー紙幣の裏面に使用されていました。なお、インドが自前のSLVによる衛星の打ち上げに成功したのは1980年のことです。 宇宙探査計画としては、2003年8月、月面地図の作成と、月の地殻・氷の観測を目的とするチャンドラヤーン計画が発表され、2008年10月22日、2年間の探査計画でチャンドラヤーン1号がサティシュ・ダワン宇宙センターから打ち上げられました。さらに、この成功を受けて、ロシアと共同で、月周回機と着陸機、月面車による月面土壌の研究を目的としたチャンドラヤーン2号の打ち上げが計画されます。しかし、2011年、ロシアによる火星探査計画“フォボス・グルント”が失敗したことなどから、計画はインド単独で進めるよう変更され、2019年7月の打ち上げでは、8月に月周回軌道へ投入されました。(ただし、着陸には失敗) さらに、インド政府は、2012年8月、2013年の打ち上げを目標とする火星探査計画として火星周回探査機“マーズ・オービター・ミッション(MOM)”を発表。2013年11月5日、MOMはサティシュ・ダワン宇宙センターよりPSLV-XLロケットを使用して打ち上げられ、2014年9月24日、火星周回軌道への投入に成功します。これにより、インドはアジアで初めて火星周回軌道に探査機を投入した国となっりました。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-20 Sun 01:46
1960年12月20日、南ヴェトナムのタイニン省タンビエン県タンラップ村でヴェトナム共和国(南ヴェトナム)政府に対する反政府組織として、南ヴェトナム解放民族戦線(通称・ヴェトコン。以下、解放戦線)が結成されて、ちょうど60年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1963年10月5日、“解放戦線3周年”を記念して、解放戦線の名義で発行された最初の切手で、“南ヴェトナム解放民族戦線(Mặt trận Dân tộc Giải phóng miền Nam Việt Nam)”の表示の下に解放戦線の旗を描き、右側に独立・民主・平和・中立の文言が配されています。この文言は英語版・フランス語版・スペイン語版がありますが、今回ご紹介しているのは、そのうちのスペイン語版です。 1946年以来の第一次インドシナ戦争は、1954年7月21日、ジュネーヴ和平協定が結ばれ、ヴェトナムは北緯17度線を軍事境界線として、ヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)とヴェトナム共和国(南ヴェトナム)に分断されました。 ジュネーブ協定後、南ヴェトナムに親米政権を樹立させた米国は、1954年9月、ヨーロッパでの北大西洋条約機構にならった東南アジア条約機構を結成。南ヴェトナム・カンボジア・ラオスのインドシナ3国は、その“保護地域”とされ、共産中国封じ込めのための最前線と位置づけられます。 ところで、ジュネーヴ協定では、1956年7月に自由選挙を行い、南北統一の中央政府を樹立することを定めていましたが、当時のヴェトナム内の状況では実際に選挙が実施された場合、ホーチミンの勝利がほぼ確実視されていました。このため、米国は、1955年10月、国民投票で南ヴェトナムの国家元首だったバオダイをひきずりおろして、少数派のカトリックを地盤とするゴ・ディン・ジエムをヴェトナム共和国の初代大統領として擁立。このジエム政権に対して大量の援助を投下し、体制を支えようとしました。 しかし、米国からの多額の援助を得たジエムは独裁化したため、国民は反発。これに対して、政権側はさらに高圧的な政治姿勢で反対派を抑え込もうとした結果、首都のサイゴンをはじめとする都市部でも、政権に対する不満が醸成されていきます。 ところで、南ヴェトナムの不安定な社会状況は、南北ヴェトナムの統一を国是とする北ヴェトナムの労働党政権にとって好都合でしたが、その一方で、1950年代後半の北ヴェトナムは戦後復興を進めつつ国家建設を行うだけで手いっぱいで、現実の問題として、南ヴェトナムの情勢に積極的に介入するだけの余裕はありませんでした。 これに対して、南ヴェトナムではジエム政権に対する国民の不満が徐々に強まり、農村では半ば自然発生的に抵抗運動が発生。このため、北ヴェトナムの労働党政権は、そうした反政府運動を支援し始めます。 もっとも、労働党とすれば、インドシナでの全面戦争が再燃し、米国の本格的に介入することだけはなんとしても避けなければならなかったため、南ヴェトナムの問題に関してはあくまでも“脇役”という立場を強調。南ヴェトナムの“解放”はあくまでも“南の人民の任務”であり、労働党は南の人民の闘争をあくまでも側面から支援しているだけとの主張していました。 こうして、南ヴェトナムでの反ジエム闘争の盛り上がりにあわせて、1959年1月と5月の2度にわたって開催された第15回労働党中央委員会では、南ヴェトナムにおいて南ヴェトナムの人民が武装闘争を発動することを正式に承認し、ジエム政権を激しく非難します。 ただし、この段階では、北ヴェトナムが非難の対象としていたのは、あくまでもジエム政権であって、背後からそれを支えている米国への直接的な批難は慎重に避けられていました。反ジエム闘争はあくまでも“南の人民の任務”であり、労働党はそれを脇役として支えているに過ぎない(=北ヴェトナムとしては本格的に米国と全面戦争を戦う意志はない)という建前を維持するためです。 一方、労働党が南ヴェトナムでの武装闘争を承認したことで、南ヴェトナム各地では大規模な反政府暴動が頻発。事態は労働党の予想をはるかに越えるスピードで展開したため、1960年9月、労働党は党として南の闘争を支援することを正式に決定。これを受けて、同年12月20日、南ヴェトナム各地で反政府闘争を行っていた諸派が結集して“南ヴェトナム解放民族戦線”が結成されます。なお、解放戦線に関しては、ジエム政権がヴェトナムの共産主義者一般をさす蔑称の“ヴェトコン(越共)”が西側では通称として用いられていました。 こうして、南ヴェトナムの反政府闘争がますます激化し、危機的な状況が続くなか、米国のケネディ政権は、1961年5月11日、南ヴェトナム支援のために特殊部隊400人と軍事顧問100人を派遣することを決定。小規模ながら、ヴェトナムへの軍事介入を開始します。宣戦布告なき“特殊戦争”の開幕でした。 以後、解放戦線の予想を上回る活動に接した米国は、なし崩し的にヴェトナムへの軍事介入を強化。軍事顧問の数は1961年末に3000人に、さらに1962年末には1万1000人にまで拡大します。 これに対して、北ヴェトナムの労働党政権も、この段階にいたっても、ヴェトナムはあくまでも世界の“辺境”でしかなく、南ヴェトナムの問題も米国の世界戦略の中では些末な問題でしかないと認識しており、よもや米国が全面戦争を仕掛けてくるとは想定していませんでした。したがって、彼らは米軍の介入をあくまでも“特殊戦争”の枠内に押さえ込みつつ、南ヴェトナム人民によってジエム政権を退陣に追い込み、労働党とは敵対しない“中立政権”をサイゴンに樹立することを当面の目標としていました。 ところが、そうした労働党政権の本音を正確に把握していなかった米国は、南ヴェトナムの反政府活動の背後には北ヴェトナム、そして中国やソ連が控えており、彼らはインドシナ半島の速やかなる赤化を企図しているものと単純化して理解していました。それゆえ、そうした赤化の圧力を食い止めるためにも、米国は特殊戦争政策と併行して、ジエム政権に対して社会的な安定を回復するための“民主化”を要求します。 しかし、米国の傀儡という解放戦線からの非難に神経質になっていたジエム政権は、かえって、米国の圧力に反発し、独裁的な傾向を強めていきました。こうしたジエム政権の抑圧的な統治に対して、1963年5月、ヴェトナム中部の古都フエで仏教徒による大規模な反政府デモが発生。デモはたちまちヴェトナム全土に波及し、6月8日には、1人の僧侶がサイゴンで抗議の焼身自殺を行います。これに対して、ジエムの弟で大統領顧問であったゴ・ディン・ヌーの夫人が“坊主のバーベキュー”と発言。ジエム政権は世界的規模で激しい非難を浴び、その崩壊は秒読み段階に突入しました。 状況の変化を受けて、北ヴェトナムもジエム政権後の南ヴェトナムでの主導権を握るべく、“解放戦線の庇護者”としての立場を強調するとともに、国際社会が解放戦線を認知するよう、さまざまな工作活動を開始します。 その一環として、1963年7月下旬、解放戦線の代表団がキューバを訪問し、ハバナの工業省大臣室でチェ・ゲバラと会談しました。 解放戦線側との会見で、ゲバラは「帝国主義に対する闘争は国際的規模の戦いであり、他の第三世界のさまざまな地域に多くの“核”を作ることによってのみ可能である」とする自説の“フォコ理論”を強調。その際、ゲバラは、“多くの核”の意味で“多くのヴェトナム”との表現を幾度か使っています。ちなみに、ゲバラの晩年にあたる1967年4月16日、三大陸人民連帯機構で公表された彼のメッセージ「2つ、3つ、さらに多くのヴェトナムをつくれ。これが合言葉だ」は、ゲバラの名言録には必ずといってよいほど採録される有名なフレーズですが、その初出はこの時の会談だったのかもしれません。 ちなみに、米国は、1963年の秋までにはジエム政権を完全に見放し、ジエム政権に代わる新たな親米政権を樹立して、あらためて共産主義者と対決する方向を模索していました。その結果、CIAも協力したクーデター計画が立案され、1963年11月1日、南ヴェトナム軍の将軍たちによるクーデターが発生。ジエム兄弟は逮捕・射殺され、9年以上に渡って続いた独裁政権はあっけなく崩壊しました。しかし、後継のズオン・バン・ミン政権も安定せず、以後、サイゴンでは将軍たちのクーデターが繰り返され、南ヴェトナムの状況はますます動揺し、解放戦線は攻勢を強めていくことになります。 こうした状況の中で、北ヴェトナムは解放戦線の支配地域(彼らは“解放区”と呼んでいました)において使用させるとの名目で、ハノイで解放戦線の切手を製造。北ヴェトナムの出版物の輸出入を独占的に扱ってきた国営のスニャサバ社(1957年設立)を通じて、全世界で販売し、解放戦線の存在を内外にアピールしはじめました。 今回ご紹介の切手はその最初の1枚ですが、国際的に通用度が最も高い英語と、旧宗主国の言語で当時はヴェトナム国内でも理解する人の多かったフランス語に加え、スペイン語の切手も発行されているのは、切手の発行が準備されていた1963年7月、解放戦線の代表団がハバナでフォコ理論を熱く語るゲバラと接触し、キューバと連携して、ラテンアメリカをもプロパガンダの対象として強く意識するようになった結果と考えるのが妥当でしょう。 なお、ゲバラとヴェトナムの関係については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-19 Sat 03:40
世界的なコロナ禍の中、医療施設以外でのマスク着用は奨励していなかったスウェーデンで、昨日(18日)、ステファン・ロベーン首相は、ウイルス対策として、混雑時の公共交通機関でのマスク着用を初めて推奨しました。スウェーデンでは、16日に収録されたカール16世グスタフ国王の今年(2020年)を回顧するインタビュー(21日放送予定)の予告編が17日に放映され、その中で、国王が国内で多くの死者が出ている点に触れ、「われわれは失敗したと思う」と述べたことが話題になっていました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2016年3月17日にスウェーデンが発行した“国王陛下70歳”の記念切手で、国王カール16世の肖像が取り上げられています。 カール16世(カール・グスタフ・フォルケ・フーベルトゥス・ベルナドッテ)は、1946年4月30日、当時のスウェーデン国王グスタフ5世の王孫、グスタフ・アドルフの第5子(長男。グスタフ5世から見ると曾孫)として生まれました。 グスタフ5世は1950年に92歳の長寿で崩御し、長男で王太子のグスタフ・アドルフがグスタフ6世が68歳で新国王として即位しました。この間の1947年1月26日、王太子となるはずだった長男のヴェステルボッテン公グスタフ・アドルフ王子で亡くなっており、王孫となったカール・グスタフは3歳の幼児だったため、スウェーデン国内では王制の廃止と共和制への移行が議会でも議論されました。 しかし、王制の廃止は否決されてカール・グスタフは王太孫となり、また、グスタフ6世も長命で、1973年に90歳で崩御した際にはカール・グスタフも無事に成人していたため、王制は存続しています。 王太孫としてのカール・グスタフは、高校卒業後、2年半にわたってスウェーデン軍で教育を受け、1968年にスウェーデン陸海空軍大尉に任官。その後は、ウプサラ大学とストックホルム大学で歴史学、社会学、政治学、税法を学び、大学での教育修了後も議会や行政、外交に関する研究に従事したほか、国連や国際開発協力庁におけるスウェーデン代表団員、ロンドンでは銀行やスウェーデン大使館、フランスでは自国の商工会議所やアルファ・ラバルの現地法人の工場などで体験就労を経験し、1973年9月15日、祖父の後を継いで国王となりました。 ちなみに、1979年5月13日、カール16世の第1王子としてカール・フィリップ王子は、当初、王位継承順位第1位の王太子でしたが、同年の王位継承法改正により、王位は性別によらず出生順にすることとされたため、同法が施行された1980年元日付で姉のヴィクトリア王女に第1継承権が移行しています。このため、経過措置を定めず、継承法改正前に生まれたカール・フィリップ王子にも新法を遡及適用し、彼から王太子としての地位を奪ったことに対して、国王はかなり強い不満を持っており、「息子を継承者にしたい」、「大部分のスウェーデン人は男王が王位を継ぐことを望んでいると確信する」などと発言しています。まぁ、この点については、いわゆるリベラル派は“男尊女卑”と批判していますが。 さて、スウェーデン政府は、これまで、新型コロナ対策で、マスクの着用も含めて強制力のある措置をほとんど取らず、市民の“責任感”を信頼し、罰則の類も設けていませんでした。また、保健当局も、春に感染者が多かったことから、集団免疫が獲得され、秋以降の第2波は弱まるだろうとの楽観的な見通しを示していました。 ところが、実際には、11月以降、新型コロナウイルス感染に関連する死者が急増。12月16日の時点での累計7802人の死者のうち、1800人以上が11月1日以降に、さらに、先週だけで500人以上が亡くなっています。また、17日の時点で、入院中の新型コロナ感染者数は2500人を超え、4月下旬の感染第1波のピーク時を上回っています。 今回の国王の発言について、スウェーデン王室としては、立憲君主制国家として国王は政治的発言を控えるべきとの原則に照らして、あくまでもスウェーデン社会全体について言及したもので、「パンデミックにより影響を受けたすべての人々に共感を示した」だけで、「政治的ではない」と強調していますが、予告編として放送された映像では国王の口調は厳しく、王室がスウェーデンの現状に強い危機感を持っていることが伝わっています。一方、スウェーデン政府は、国王の発言について、政府がすでに認めたことを繰り返しただけとの認識を表明しており、これまでのコロナ対策が失敗だったことを認めています。 なお、今回の方針転換とは別に、スウェーデン政府は、公共の場に集まってもよい人数の制限や、事業者の営業時間・サービス提供時間の短縮や休業の命令を行えるよう定めた「パンデミック法」(1年間限定)を来年3月に施行すべく準備を進めています。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-18 Fri 01:03
国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、きのう(17日)、オンラインで開いた政府間委員会で、わが国が申請していた「伝統建築工匠の技 木造建造物を受け継ぐための伝統技術」(以下、工匠の技)の無形文化遺産登録を決めました。工匠の技は、木工や左官、瓦屋根や茅葺屋根、建具や畳の製作のほか、建物の外観や内装に施す装飾や彩色、漆塗りなど17分野で構成されていますが、そのなかから、茅葺屋根が描かれたこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2005年10月7日に発行された国際文通週間の切手のうち、歌川広重の『東海道五十三次』の「丸子(鞠子)」を取り上げた1枚で、中央に大きく茅葺き屋根の茶屋が描かれています。 丸子宿(静岡市)は東海道五十三次20番目の宿場で、宿場としては“鞠子”と書くのが一般的です。東海道中では最も小さな宿場で、関ヶ原の戦いの翌年の1601年に宿場町となりました。 浮世絵の中心的な画題となっている茶屋は、厳密には特定されていませんが、一般に丁子屋とされています。丁子屋は、豊臣政権時代の1596年、初代・平吉がお茶屋として開業しましたが、やがて、宇津ノ谷峠に備えて旅人に精をつけてもらうためにと、冬場にとれる自然薯を“とろろ汁(この場合は、とろろを麦飯にかけたもの)”としてふるまうようになりました。 この地域の茶店でとろろ汁が振舞われるようになった時代は定かではありませんが、松尾芭蕉が1691年に刊行した『猿蓑』にも「梅若葉丸子の宿のとろろ汁」の句があることから、元禄の頃にはとろろは丸子の名物として知られるようになっていたことがわかります。 また、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(初刷は1802-14年)では、丸子の場面で、弥次郎兵衛と喜多八が茶屋でとろろ汁を注文したところ、すり鉢でとろろを擦っていた亭主が女房と夫婦喧嘩を始め、怒った亭主がすりこぎで女房を殴ると、女房はすり鉢を投げつけたことから、周囲はとろろまみれになって、すべったり、転んだりの大騒動になります。このため、弥次喜多の2人は、とろろも食べずに慌てて逃げだし、「けんかする 夫婦は口をとがらして とんびとろろに すべりこそすれ」と一首をものするという展開です。 広重の『東海道五十三次』(保永堂版の初刷は1833-34年)の「丸子」は、おそらく十返舎一九を意識して、乳飲み子を背負った茶店の女房とともに、2人の旅人が腰かけてとろろ汁を食べている場面が描かれています。 なお、丁子屋は現在でも茅葺きの建物で営業していますが、この建物は、1970年、12代目当主の信夫が広重の浮世絵に似せた店構えにするために移築したもので、浮世絵に描かれている建物とは直接の関係はありません。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-17 Thu 01:42
2010年12月17日、いわゆる“アラブの春”の発端となったテュニジア人青年、モハメド・ブアジジの焼身自殺事件が起きてから、ちょうど10年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2011年3月25日、テュニジアが発行した“1月14日革命(ジャスミン革命)”の記念切手のうち、モハメド・ブアジジを義士として讃えた1枚です。 モハメド・ブアジジは、1984年3月29日、テュニジア中央部のシディ・ブー・ジドで、建設労働者の子として生まれました。幼くして父親を亡くし、母親の再婚相手(ブアジジの叔父)も健康に問題があって定職に就けなかったため、家計を助けるため、10歳の頃からさまざまな仕事を始め、10代後半には高校も中退しています。 2010年頃のテュニジアは、23年間続いたベンアリ政権下で政治腐敗が進むとともに、3.8%という経済成長率とは裏腹に、若年失業率は30%近くにも達するなど、経済成長の恩恵からはじかれた若年層の間に不満が鬱積していました。 こうした状況の下で、2010年12月17日、シディ・ブー・ジドで露天商を営んでいたモハメド・ブアジジは、販売の許可がないことを理由に地方役人がによって野菜と秤を没収されたうえ、役所の女性職員から侮辱を受けました。その後、ブアジジは没収された秤の返還を役所に求めたところ、賄賂を要求されたため、いったんは引き揚げましたが、同日昼頃、再度役所を訪れ、抗議の焼身自殺を行いました。 その様子を撮影した動画が、ブアジジの従兄弟のアリ・ブアジジによってフェイスブックに投稿され、さらにアルジャジーラによって報じられることになり、長期独裁政権に対する不満が爆発。暴動・ストライキは急速に拡大し、2011年1月14日、ベンアリは政権は崩壊に追い込まれました。いわゆるジャスミン革命です。 その後、ジャスミン革命はアラブ世界に波及し、ヨルダンでは2月1日にサミール・リファーイー内閣が総辞職。エジプトでは1月25日以降、大規模な反政府抗議運動が発生し、2月11日、ホスニー・ムバーラク政権が退陣しましたが、革命政権は明らかに政権担当能力を欠いており、社会的・経済的混乱が蔓延したため、2013年にはクーデターが発生し、準軍事政権が発足して事態の収拾が図られました。 一方、ペルシャ湾岸のバハレーンでも反政府運動を政府の治安部隊が強制排除して死者が発生。アラビア半島のイエメンでは、サーリフ大統領の退陣を求める反政府デモが頻発し、サーリフはいったん次期大統領選挙への不出馬を表明したものの、後に撤回するなどの混乱から内戦に発展しています。 また、北アフリカのリビアでも2月17日にはカダフィ退陣を要求するデモが発生し、8月24日には首都トリポリが陥落して、カダフィ政権が崩壊しましたが、その後は、いったんは新政権が成立したものの、2014年に西(トリポリ)と東(トブルク)に分裂し、内戦状態に陥ってます。 さらに、シリアでは3月18日に大規模な反政府デモが発生しましたが、混乱に乗じてイスラム過激派が勢力を拡大し、大規模な内戦に発展しました。 結局のところ、“アラブの春”は、その発端となったジャスミン革命のテュニジアでこそそれなりの民主化が進展したものの、それ以外の国や地域では、混乱を拡大させただけという残念な結果に終わっています。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-16 Wed 00:37
楽聖と称されるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが1770年12月16日に生まれてから、ちょうど250年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1952年にドイツ・西ベルリン地区で発行された“ベートーヴェン没後125周年”の記念切手で、ベートーヴェン切手の中では名品として知られている1枚です。切手に取り上げられているのは、1812年、彫刻家のフランツ・クライン(1779-1837)がベートーヴェンの胸像を作るため、生きているベートーヴェン(当時41歳)から型を取ったライフマスクで、現在はウィーンのパスクァラティ・ハウスとボンのベートーヴェン・ハウスに展示されています。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、1770年12月16日、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれました。祖父はケルン選帝侯宮廷の歌手(のちに楽長)で、父も宮廷歌手でしたが、父は酒好きのため収入も途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮。このため、父は幼少のベートーヴェンの才能に期待し、音楽のスパルタ教育を施します。 1778年、8歳でケルンでの演奏会に出演。1787年、16歳の時にウィーンでモーツァルトを訪問しましたが、母の危篤の報を受けてボンに帰郷。母はまもなく死没したため、アルコール依存症で失職した父に代わって家計を支え、家族の世話に追われる苦悩の日々を過ごしました。 1792年7月、ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住。まもなくピアノの即興演奏の技量に加え、作曲家としても知られるようになります。 20代後半頃より持病の難聴が徐々に悪化して28歳の頃にはほぼ聴覚を失い、一時は自殺も考えるほど追い詰められましたが、ウィーン古典派の形式を再発見することで危機を脱出。1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大し、さまざまな革新的な技法を編み出します。その作品は、古典派の様式美とロマン主義を両立させた理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えたほか、その後のクラシック音楽の演奏人数の増加の端緒となりました。 40歳頃には全聾となり、さらに神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられたほか、甥のカールの不行跡に悩まされましたが、その中で、バッハの遺産とされる対位法を大々的に取り入れ、交響曲第9番(第9)や『ミサ・ソレムニス』などの大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群を残しました。特に、交響曲第9番は、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がスケルツォといいうのが一般的な構成であるのに対して、第2楽章にスケルツォ、第3楽章に緩徐楽章を配する構成の入れ替えを行い、さらに第4楽章では独唱・合唱を含む声楽を用いるなど、それまでにない画期的な交響曲となっています。 1826年12月に肺炎を患ってからは病臥に伏し、1827年3月26日、肝硬変のため没。享年58。その葬儀には2万人もの人々が参列したそうです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-15 Tue 03:04
この1年の世相を漢字一字で表す“今年の漢字”が“密”に決まり、きのう(14日)、京都の清水寺で発表されました。というわけで、“密”といえば、切手の世界ではやはりこの人がらみの1枚でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1927年6月20日に発行された“万国郵便連合加盟50年”の記念切手のうち、わが国の近代郵便創業の功労者で“郵便の父”とされる前島密の肖像を描いた3銭切手で、肖像の下には“前島密”の名前もしっかり入っています。 前島密に関する切手は、1921年に発行された郵便創始50年記念の3銭および10銭切手に描かれた当時の逓信省庁舎の一部に、彼の銅像が小さく描かれているのが最初ですが、その切手では顔などは識別できませんので、本格的な肖像切手としては今回ご紹介のモノが第1号と言ってよいでしょう。ちなみに、この切手は、印面に人名の入った日本最初の切手であるだけでなく、昭和になってから発行された最初の切手でもあります。 さて、前島密は、天保6年1月7日(1835年2月4日)、越後国頸城郡津有村下池部(現・新潟県上越市)の豪農、上野助右衛門の2男として生まれました。幼名は房五郎です。 1847年、江戸に出て医学を修め、蘭学・英語を学んだ後、1858年、航海術を学ぶため箱館へ赴き、巻退蔵と改名。1859年、武田斐三郎の諸術調所に入り、1865年、薩摩藩の洋学校(開成所)の蘭学講師となりました。 翌1866年、幕臣・前島家の養子となり、家督を継いで前島来輔と名乗りましたが、維新後の1869年、明治政府の招聘により民部省・大蔵省に出仕します。しかし、内閣制度導入以前の明治政府の太政官制には、各省の卿(後の大臣にほぼ相当)の下に、“輔”の字を使う大輔・小輔の官職があったことから、四書五経の『中庸』の一節「巻之則退蔵於密」から一字を採り、“密”に再改名しました。 ちなみに、「巻之則退蔵於密」の前後は、「其書始言一理 中散為萬事 末復合為一理 放之則弥六合 巻之則退蔵於密 其味無窮 皆実学也 善読者 玩索而有得為 則終身用之 有不能尽者矣(その書始めは一理を言い、中は散じて万事と為し、末は復た合わして一理と為す。これを放てば則ち六合に弥り、これを巻けば則ち密に退蔵す。その味わい窮まりなし。皆実学なり。善く読む者、玩索して得るあらば、則ち終身これを用いて尽くす能わざる者あらん。)」となっています。 大意としては、「『中庸』の書は、最初に一理を説明して、途中でさまざまに分散して万事について語り、最後はまた統合して一理をなしている。その内容を拡散して広げれば宇宙のすべてに行き渡り、これを巻いてしまえば秘密の教えとなって世の中から退蔵される。その味わいは尽きるところがなく、すべて、実用に資する学問である。よく読む者が、この書物を熟読してその真意を得るならば、生涯にわたり、どれほどそれを用いても用い尽くすことはできないだろう」ということになりましょうか。 伝統的な漢学の素養に加え、医学・蘭学・英語・航海術などに通じていると自負していた前島は、自らを生きた書物になぞらえ、自分の能力が世に埋もれる(=退蔵される)ことなく、それを紐解いて活用する者を求め続けようという青雲の志を抱いて、“密”を名乗ったことがわかります。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-14 Mon 04:59
イスラエル外務省は、12日、インドのニューデリーのイスラエル大使館で、イスラエル、ブータン両国の駐印大使らが出席し、両国の国交樹立に関する文書の署名式が行われたことを明らかにしました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1992年にブータンが発行した“ブータンの鳥”の切手シートで、余白には、ブータンと周辺国の関係を示す地図が描かれています。この地図から、ブータンはインド主要部と北東部を結ぶシリグリ回廊の北側に位置していますが、この回廊の非常に幅が狭いため、中国がブータンを影響下に置き、回廊の自由な交通が妨げられると、インドは国家分断の危機にさらされることになることがお分かりいただけるかと思います。 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、インドを支配していた英国はブータンと隣接するチベットをめぐって清朝と対立していましたが、1907年のシムラ会議で両者の妥協が成立し、チベットにおける清朝の主権が確認されます。これを受けて、清朝はチベット支配を強化し、チベットの近代化改革に着手しましたが、そのことは、建国後まもないワンチュク王朝にとっても大きな脅威となりました。 このため、1910年、国王ウゲン・ワンチュクは、プナカ条約を締結してブータンを英領インド帝国の保護国とし、国土防衛を英国に委ねるとともに、鎖国体制を維持しようとします。こうした状況は、1947年に英領インド帝国がインドとパキスタンに分離独立するまで続きました。 英領インド帝国の解体に伴い、1949年8月、ブータンは独立インドとあらためて友好条約を締結。同条約では「インドはブータンの内政には干渉しないが、外交に関しては助言を行う」とされ、ブータンがインドに依存する関係が構築されます。一方、中国は、1951年12月、“平和解放”と称してチベットに進駐し、ブータンは共産中国の直接的な脅威にさらされることになりました。 こうした中で、1958年、インド首相のネルーがブータンを訪問し、インドはブータンの独立維持を支援すると約束。さらに、帰国後、インド議会で「ブータンに対する攻撃は、いかなるものであっても、インドに対する攻撃と同等とみなす」と演説し、ブータンの事実上の“宗主国”としての責任を果たす意思を明確にしました。 しかし、翌1959年、いわゆるチベット民族蜂起が起こり、ダライ・ラマがインドに亡命すると、中国はチベット域内にあったブータンの飛び地領8ヵ所も占領してしまいます。さらに、1962年の中印紛争を受けて、ブータン政府は、中国との国境は、ドクラム高地、ギプモチ(ガモチェン)山からバタングラまでの稜線、シンチェラ、アモチュフの4ヵ所が未確定であるとし、以後、インドが中印国境をめぐる係争の一環として、国際的にはブータンの主張を代弁することになりました。 こうして、伝統的な鎖国政策を維持できなくなったブータンは、1971年、国連に加盟する一方、1974年、国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクの戴冠式に、駐印中国大使を招待し、中国との外交的な接触を開始。1984年以降、国交樹立と国境画定を議題とする定期外相会談もスタートしました。 この結果、1988年には中国と「国境地域の平和維持に関する協定」が調印され、「中国はブータンの主権と領土的統一を尊重し、両国は平和五原則に基づき、友好関係を築くのが望ましい」とされましたが、その直後、中国はブータンが自国領と主張する地域にブータンの許可なく道路を建設。その後も、冬虫夏草目当てとみられる中国人の越境が相次ぎました。 このため、ブータンは再びインドとの関係を強化し、2007年、インドとの新友好条約を調印。2008年にはインドのシン首相がブータンを訪問して “強力な支援”を表明したほか、2014年にはモディ首相が最初の外遊先としてブータンを訪問しています。 こうした中で、2017年6月29日 ブータン領のドクラム高地で中国人民解放軍が無断で道路建設(40トンの戦車が走行可能)を行ったため、ブータン政府は即座に抗議。インドもブータン支援のため、ドクラム高地に派兵し、中印両国がにらみ合う緊張状態(ブータン危機)が発生。8月末、両軍はともに撤退し、本格的な軍事衝突は避けられたものの、ブータン情勢は一挙に緊迫します。さらに、2020年11月には、衛星写真の分析により、中国がブータンで大規模な武器の備蓄庫を建設していることが明らかになり、インドはかなり危機感を強めます。 ところで、インドは1992年にイスラエルと国交を樹立しましたが、国内の人口の約1割がムスリムという事情もあって、歴代の政権はイスラエルとの関係強化に慎重な姿勢をとっていました。しかし、中国の一帯一路構想に危機感を抱いたモディ首相は、2017年4月、イスラエルの航空産業から約20億ドル相当の武器を購入しただけでなく、ブータン危機さなかの7月5日には、インドの首相として初めてイスラエルを公式訪問。表向き、その最大の目的は、海水の淡水化や家庭排水の再処理など、乾燥地帯での農業を可能にする技術やテロ対策での協力を確認することとされましたが、しっかり、(中国に対抗するための)防衛面での連携強化でも合意をまとめています。 一方、イスラエルは、インドと同じく1992年に中国と国交を自立して以来、対中武器輸出を盛んに行い、中国との関係を深めていましたが、2000年に中国の早期警戒管制機にイスラエル製レーダーの「ファルコン」を搭載する計画が発覚したことで米国の反発を招き、ブッシュJr政権時代の2005年には、いったんイスラエルは対中武器輸出の中止に追い込まれました。 しかし、オバマ政権下では、ふたたびイスラエルは中国との関係を緊密化させるようになり、2015年には上海国際港務集団(SIPG)がハイファ港の25年間にわたる運営権を獲得。これに対して、2017年に発足したトランプ政権は深刻な懸念を表明し、2018年には中国企業がハイファ港を運営するなら、米海軍第6艦隊の寄港を取りやめる可能性があることが示唆されます。 その後も、米国はイスラエルに対して、イスラエルのインフラ事業への中国企業の進出と、イスラエル企業の軍民両用技術の対中輸出に関する懸念を盛んに表明。このため、2019年10月30日、イスラエルは、通信、インフラ、運輸、金融、エネルギー分野など、安全保障上重要な分野への外国投資を審査する諮問委員会を設置します。同委員会は、形式上はすべての国を対象にしていますが、実際には、中国の対イスラエル投資を監視し、適格性を判断するための組織です。 こうした事情が絡み合って、近年、イスラエルとインドの関係は緊密なものとなっており、外交面ではインドの強い影響下にあるブータンとイスラエルの国交樹立もその延長線上にあるものと考えてよいでしょう。両国の国交樹立文書の署名が、ブータンの首都ティンプーやイスラエル国内ではなく、ニューデリーで行われたというのも、非常に象徴的です。 なお、今後、イスラエルは、水資源管理や農業技術、人材開発などの面でブータンを支援していくことになっていますが、ブータンは山国の地形と豊富な水資源を利用した水力発電によるインドへの売電が主要な外貨獲得源になっています。したがって、イスラエルの支援により、ブータンの水力発電能力が向上することになれば、それはインドの電力事情の改善にもつながることになりそうです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-13 Sun 01:45
ご報告が遅くなりましたが、大手製菓メーカー(株)ロッテのウェブマガジン『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』での僕の連載記事、「お菓子の切手」の記事がアップされました。今回は、こんな切手を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)
これは、カリブ海の島国、セントキッツ・ネイヴィス連邦のセントキッツ島が2009年に4種セットで発行したクリスマス切手のうち、クリスマスを象徴するキャンディケインを取り上げた30セント切手です。 ステッキの形をした“キャンディケイン”は年間を通じて販売されているお菓子ですが、クリスマス・ツリーの飾りつけに使われることも多いため、各国のクリスマス切手では定番の題材のひとつになっています。 キャンディケインは、もともと、15世紀初めにフランスの修道院で作られたとされています。当初は、白一色でまっすぐな棒状の形をしていましたが、17世紀に現在のように持ち手の部分が曲がった形になりました。そのきっかけについては諸説ありますが、1670年にケルン大聖堂(ドイツ)の聖歌隊隊長が羊飼いの杖の形にして子供たちに配ったのが始まりとする説や、ユール(北欧を含むゲルマン民族の冬至のお祭り)での木の飾りつけがルーツとする説などがあります。 いずれにせよ、現在ではキャンディケインは羊飼いの杖を表すものというのが一般的な理解で、あわせて、上下さかさまにすると(迷える子羊を導く)イエス(Jesus)の頭文字のJに見えるということで、クリスマス・ツリーの飾りとして定着しました。なお、古い時代のキャンディケインは単色のモノの身でしたが、20世紀初めに紅白の縞模様のものが登場し、現在では色や味のバリエーションも豊富になりました。今回ご紹介の切手では、中央の1本が連邦の国旗を模したデザインになっています。 ところで、今回ご紹介の切手を含むクリスマス切手の中には、セントキッツ・ネイヴィスの国旗のデザインを再現したクリスマス・ケーキを取り上げた3ドル切手も含まれています。 セントキッツ・ネイヴィスの国旗では、中央のふたつの星は、セントキッツ島とネイヴィス島または希望と自由を象徴し、緑は砂糖のプランテーションとして栄えた国土の肥沃さ、赤は植民地時代の奴隷制から独立・解放への苦闘、黒はアフリカからの伝統(現在のセントキッツ・ネイヴィス国民の多くは、プランテーションの労働力としてアフリカから連れてこられた黒人奴隷の子孫です)、黄色は日光をそれぞれ象徴しているそうです。 切手に取り上げられたケーキの写真を見ると、ベースはチョコレートケーキのようですが、上面の赤はベリー系のジャムでしょうか。緑の部分は、日本だったらほぼ確実に抹茶味でしょうが、かの国ではミントかピスタチオの粉末を使うというのが現実的かもしれません。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-12 Sat 09:44
米ホワイトハウスは、10日(現地時間)、モロッコの国王、ムハンマド6世がトランプ米大統領との電話会談で、イスラエルとの国交正常化で合意したと発表しました。トランプ政権が仲介したイスラエルとアラブ国家の国交正常化合意はアラブ首長国連邦(UAE)、バハレーン、スーダンに続いて4カ国目です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2000年にイスラエルが発行したモロッコ国王、ハサン2世(ハッサン・ドゥ)の追悼切手です。 ハサン2世は、1929年7月9日、アラウィ―朝のスルターン、ムハンマド5世の長男としてラバトでに生まれました。ラバトの王立大学で高等教育を受け、フランスのボルドー大学で法学の学位を取得しました。1956年、ムハンマド5世によるフランスとの独立交渉に同行した後、モロッコ軍の幕僚長に就任し、リーフでの反仏闘争でベルベル人軍隊を指揮しました。同年11月18日、モロッコが正式に再独立すると、翌1957年、ムハンマド5世はスルターンから国王(マリク)となり、ハサンは王太子となり、1961年、ムハンマド5世の崩御を受け、ハサンがハサン2世としてモロッコ国王に即位しました。 国王としてのハサン2世は、政党や封建官僚との権力協力を拒否。議会制度は一応機能していましたが、しばしば、国王が自ら解散権を行使したほか、選挙の際には国王派の政党を重視するなど、その治世はきわめて権威主義的でした。1999年7月23日に崩御。長男のサイディ・ムハンマド王太子が現国王、ムハンマド6世として即位しています。 さて、もともとモロッコにはアラブ世界最大のユダヤ人/ユダヤ教徒コミュニティがありましたが、1948年のイスラエル建国後、当時の国王ムハンマド5世は、他のアラブ諸国に倣い、イスラエルとの国交を拒み、イスラエルに対する対決姿勢を鮮明いにしていました。 1961年に即位したハサン2世は、対外強硬姿勢を示すことで独裁体制に対する国民の不満を逸らす政策を採り、アラブ諸国の一員として、建前としてはイスラエルを承認しないという方針を維持して、“パレスチナとの連帯”を強調する一方で、水面下ではイスラエルとも緊密な関係を構築。1965年にカサブランカでアラブ連盟会議が開催された際には、ひそかにモサドの工作員を招待していたことが確認されています。 その後も、ハサン2世はイスラエルの諜報機関との関係を強化。1965年10月29日、左派系の反王制・民主活動家のメフディー・ベン・バルカがパリで“失踪”した事件では、モサドとCIA、フランスの諜報機関の協力を得たモロッコの工作員3名(うち1人は後に内務大臣に昇進)がベン・バラカを殺害したことが、後に明らかになりました。 また、1975年、ハサン2世はスペイン領西サハラの領有権を主張して“緑の行進”を敢行しますが、その際にもイスラエルの諜報機関から多大な協力を得ています。 こうしたこともあって、1981年にフェズで開催された第12回アラブ諸国サミットでは、以下のような議長国として“フェズ提案”を採択させました。 (1)1967年に占領されたアラブ・エルサレムを含むアラブの全占領地からのイスラエルの撤退 (2)1967年以降のアラブ占領地内におけるイスラエルの入植地の撤去 (3)聖地におけるあらゆる信仰及び宗教的儀式の自由の保障 (4)パレスチナ人の唯一正当な代表であるPLO指導下におけるパレスチナ人民の自決権及び永久に消滅することのない不可譲の民族的権利行使の確認並びに祖国への帰還を希望しないすべての者に対する補償 (5)西岸及びガザ地区を数か月を限度とする暫定期間、国連の監督下に置くこと (6)エルサレムを首都とする独立パレスチナ国家の建設 (7)国連安保理は、独立パレスチナ国家を含むすべての域内国家の平和を保障すること (8)国連安保理は、上記諸原則の尊重を保障すること フェズ提案は、(国連安保理が)すべての域内国家の平和を保障することとして、パレスチナ独立国家樹立などの基本的な主張は崩していないものの、イスラエル国家の存在をアラブ側が事実上承認するものでしたが、1982年、イスラエルがレバノン侵攻を行ったため、結果的に頓挫してしまいました。 その後もモロッコはイスラエルと水面下での交渉を続け、1986年、ハサン2世はイスラエル首相のシモン・ペレスと直接会談を行い、中東和平を実現しようと試みましたが、アラブ諸国の反対が強く、実現しませんでした。こうしたこともあって、1999年にハサン2世が崩御した際にはイスラエルは弔意を示し、その流れに沿って、翌2000年には今回ご紹介の切手を発行しました。 現国王のムハンマド6世は、父王であるハサン2世の対イスラエル政策をさらに進め、ユダヤ系モロッコ人のアンドレ・アズレイを政府顧問として採用し、経済成長のためにイスラエルとの関係を強化しただけでなく、イスラエルとパレスチナの紛争の調停に際しては、イスラエル政府ともコネクションのあるユダヤ系モロッコ人のサム・ベン・シトリットを特使として派遣しています。 近年では、イスラム原理主義過激派勢力のテロ対策やイラン問題などもあり、モロッコとイスラエルは共に関係の緊密化を志向していることが公然の事実となっており、今年(2020年)1月には、モロッコはイスラエルから4800万ドルの武器を購入する契約を締結。さらに、8月のUAEとイスラエルとの関係正常化から間もない9月には、米国のトランプ大統領がラバト・テルアヴィヴ間の直行便の開設を希望すると発言していたこともあり、両国の国交正常化は時間の問題とみられていました。なお、今回の国交正常化の“代償”として、モロッコはアメリカに対して、西サハラ問題に関するモロッコの主張を認めさせていたことも注目すべき点かと思われます。 ちなみに、パレスチナ問題に対するモロッコの姿勢については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(11日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、年内の出演は今回が最後で、次回は年明け1月8日(金)の予定です。本年も1年間、放送にお付き合いいただきありがとうございました。来年も引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-11 Fri 02:42
きのう(10日)、アゼルバイジャンの首都、バクーで、トルコのエルドアン大統領を迎えて、アゼルバイジャン軍とトルコ軍の合同戦勝パレードが行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2018年9月30日、トルコが発行した“(オスマン帝国の)カフカ―ス・イスラム軍によるバクー解放100周年”の記念切手シートで、バクーに入城するオスマン帝国軍と、トルコ、アゼルバイジャン両国旗がデザインされています。 第一次大戦以前、アゼルバイジャンの地はロシア帝国の支配下に置かれていましたが、1917年にロシア革命が発生すると、バクーでも暫定地方政権が樹立されます。当初、その主導権は、メンシェビキやエス・エル党などが掌握していましたが、しだいにボリシェヴィキが勢力を拡大して1918年4月にはソヴィエト権力の樹立を宣言。ボリシェヴィキを中心とする“バクー・コミューン(バクー県人民委員会議)”が成立します。その過程で、同年3月、バクーでは、ボルシェヴィキとアルメニア人が、約1万2000名のアゼルバイジャン人ムスリムを虐殺しました。 一方、1918年4月、バクー以外のアゼルバイジャンとアルメニア、グルジアのメンシェヴィキと民族主義勢力が“ザカフカス連邦共和国”の樹立を宣言しましたが、内部対立からすぐにグルジアが離脱したため、連邦は崩壊。このため、5月27日、アゼルバイジャンでは、反ボリシェヴィキの民族主義政党であるミュサヴァト(ムサヴァト、ムサワトとも)党がギャンジャでアゼルバイジャン民主共和国の樹立を宣言し、バクー県以外の地域を支配しました。 同胞の大量虐殺事件もあって、バクーの奪還を目指すミュサヴァト政権は、トルコ民族主義の立場からオスマン帝国と連携して、7月31日、バクーを攻撃したものの、8月2日、赤軍ならびに英国の支援を受けたバクー・コミューンに敗退。このため、8月5日に再攻撃を開始したものの、再び撃退されています。 しかし、二度目の攻撃後、赤軍がバクーを撤退しただけでなく、英国の支援を受けたコサック軍も北方に退避。このため、英国は3個大隊の増援部隊を送りましたが、9月14日、オスマン帝国は2個師団を派遣してバクーを攻撃。英軍は撤退を余儀なくされましたが、混乱の中で、現地に残されたアゼルバイジャン人、コサック、アルメニア難民の間で騒乱が発生し、翌朝までに、3月の虐殺事件の報復として、8988名ものアルメニア人が虐殺されたといわれています。 翌15日、バクーは完全に制圧され、オスマン帝国ならびにアゼルバイジャンの両国軍がバクーに入城。今回ご紹介の切手シートは、この時の様子を撮影した写真を元に構成されたものです。なお、バクー入城時に、虐殺されたアルメニア人の遺体が至る所に散乱している状況を目にしたオスマン帝国の将兵たちは、その惨状に慄然としたものの、エルズルム県のトルコ人虐殺の“天罰”として当然の報いと考えていたそうです。その後、1918年10月30日、オスマン帝国は協商諸国に降伏し、ムドロス休戦協定に調印すると、バクーには、ふたたび英軍が駐留することになります。 さて、今回の戦勝パレードは、11月10日に停戦が結ばれたナゴルノ・カラバフ紛争が、アゼルバイジャン軍の勝利に終わったことを記念して行われたもので、紛争でのアゼルバイジャンの戦死者が2783人だったことを踏まえ、2783人のトルコ兵が参加したほか、戦闘で使われたトルコの無人攻撃機や、アルメニアから押収した戦車も登場しました。 また、アゼルバイジャンのアリエフ大統領は「われわれとトルコの連帯を世界に示す」と演説。一方、エルドアン大統領は「トルコとアゼルバイジャンの関係は“二つの国家、一つの民族”だ」として両国の紐帯を強調するとともに、「政治や軍事面で展開される闘争は、今後も多くの方面で続いていく」として、あらためて、アルメニアに対する警告を発しています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 12月11日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-10 Thu 01:40
きょう(10日)はノーベル賞授賞式の日ですが、これにちなみ、検索サイト・グーグルのトップのロゴ(ドゥードゥル)が、平和賞以外のノーベル賞を受賞した初の黒人で、ことし生誕105周年の経済学者、アーサー・ルイスを取り込んだデザインになっていました。(以下、画像はクリックで拡大されます)
というわけで、きょうはこの切手です。 これは、1980年、ルイスのノーベル賞受賞を記念して、出身国のセントルシアが発行したルイスの肖像切手です。 アーサー・ルイスは、1915年1月23日、西インド諸島の英領セントルシアで生まれました。地元の高校を卒業後、1934年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に入学。LSEを卒業後は、短期間、LSEで教職に就いた後、第二次大戦中は英国商務省および植民省で勤務。戦後、教育・研究生活に戻り、ロンドン大学で博士号を取得します。 1948年、マンチェスター大学の経済学教授に就任しましたが、1953年、英領ゴールドコースト政府の顧問に転身。翌1954年の論文『労働力の無制限の供給と経済発展』において、主に1930年代の“周辺国(=資本が乏しく、技術力も劣る経済後進地域)”の分析を通じて、発展途上国が抱える問題を説明するための二重経済モデルを提唱します。これは、途上国の経済を伝統的部門と近代的部門に分けたうえで、伝統的な農業部門からの余剰労働力を現代的な工業部門が吸収することで、工業化および持続的な発展が促されると主張し、政府による積極政策の必要性を説いたものです。これが、「発展途上国問題の考察を通じた経済発展に関する先駆的研究」として評価され、ノーベル経済学賞の受賞につながりました。 1957年に英領ゴールドコーストがガーナとして独立すると、初代首相のクワメ・ンクルマ(エンクルマとも)に請われて新生ガーナ政府の経済顧問に就任。新国家の経済建設には、独立小農を育成し、農業革命を目指すべきだと主張しましたが、都市と工業化を重視するンクルマと対立し、1958年にはガーナを去りました。 その後は、1958年、ロンドン大学の海外独立法人としてジャマイカのモナに設立された西インド諸島ユニバーシティ・カレッジ (UCWI。1962年に西インド諸島大学:UWIに改組)の校長に就任。 1960-63年には初代副学長を務めました。 1963年にはナイトに叙爵され、以後、プリンストン大学の経済学教授、カリブ開発銀行の頭取などを歴任しました。1991年6月15日、バルバドスで没。遺体は、祖国セントルシアのサー・アーサー・ルイス大学の構内に埋葬されています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 12月11日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-09 Wed 01:22
中国とネパールは、きのう(8日)、一般にエヴェレストと呼ばれている世界最高峰の山を再測量した結果、標高8848.86mだったと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2000年にエクアドルが発行した「イバン・バレーホのエヴェレスト登頂」の記念切手で、山頂でエクアドル国旗を掲げるバレーホの写真が取り上げられています。エヴェレスト関連の切手は各国からいろいろ発行されていますが、これまで、一般に認知されていた山の高さ“8848m”の表示があるので、選んでみました。 イバン・バレーホは、1959年12月19日、エクアドル中部のアンバトで生まれました。もともと、趣味で登山をしていましたが、化学を専攻していた学生時代の1978年、エクアドル最高峰のチンボラソ山(6310m)の登頂に成功。数学教師として大学に職を得た1988年以降、ペルーのブランカ山群を皮切りに、ラテンアメリカの高峰に挑みました。 1995年には、欧州のモンブランとネパールのイムジャツェ(アイランド・ピーク)を制覇。さらに、1997年にはマナスルに登頂し、初めて8000メートル峰を制覇します。そして、1999年にはエクアドル人として初めて、エヴェレスト登頂に成功しました。今回ご紹介の切手は、これを記念して発行されたものです。 2000年以降、バレーホは教職を辞してプロの登山家となり、次々と8000m峰を制覇。2008年5月1日、ネパールのダウラギリ(8167m)の登頂に成功し、8000m峰14座をすべて制覇しました。14座制覇は世界的には14人目ですが、南半球出身者としては、現在にいたるまで唯一の偉業です。 さて、エヴェレストの高さについては、これまで、1954年にインドが測量した8848mとするのが一般的で、1975年には中国もこの数字を公式データとして受け入れていました。 しかし、世界最高峰の山の高さについては、調査によって異なる数値がいくつか提示されており、1999年には、米国の調査チームが全地球測位システム(GPS)で調査した結果、エベレストの高さを8850mと発表。すると、チベット併合を正当化する意図を込めて、この山をチベット語名の“チョモランマ(珠穆朗瑪)”と呼んできた中国は、GPSによる米国の調査(とその結果が中国の公式発表と異なること)を内政干渉として反発。山頂の氷雪部分を除いた8844mを自国の公式の標高とします。一方、ネパールは従来通り、8848mという見解を維持していました。 その後、2015年4月、ネパール地震が発生すると、その影響で高さが変化した可能性も指摘されていたため、2017年、ネパールが独自の測量を開始。さらに、2019年には中国の習近平国家主席がネパールを訪問し、両国が共同で新たな標高を共同で発表することで合意し、今回の再測量と新データの発表となりました。 なお、今回の再測量の目的として、中国政府は、中国独自のGPS“北斗”による測量や国内測量計器・装置の全面的な使用、航空重力技術を応用した測量の精度向上、3D技術を活用した自然資源状況の表示などをあげており、測量で得たデータが軍事利用されることはほぼ確実とみられています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 12月11日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-08 Tue 01:00
WHO(世界保健機関)が公式に発表している世界最初の新型コロナウイルスの症例(当初は原因不明の肺炎とされていました)が、2019年12月8日、中国湖北省武漢市の保健機関により報告されてから、ちょうど1年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ことし(2020年)5月11日、(あくまでも彼らの主張によれば)新型コロナウイルスを克服したとして中国が発行した「众志成城 抗击疫情(大意:一致団結すれば困難を克服できる 疫病発生の状況に抵抗して反撃を加える。なお、众は衆、击は撃の簡体字)」と題する切手(以下、抗疫郵票)です。 もともと、中国郵政は、3月30日、「新型コロナウイルスとの戦いで重要な成果を出したこと」を記念するとして、4月7日に抗疫郵票を発行することを発表し、あわせて、発行予定の切手の図案(下の画像)を公表していました。 これに対して、ウイルスの発生源である中国が、いまだ全世界でウイルス禍が深刻な状況にある中で “ウイルス克服”の記念切手を発行するのはあまりにも無神経だとの非難の声が世界各国から寄せられます。さらに、4月4日、中国郵政は図案に“重大失誤”があったとして切手発行の延期を突如発表。5月7日、「切手愛好者やインターネットユーザーの意見を取り入れ、図柄を完全なものにした」として、図案を一部変更した切手を11日に発行することをあらためて発表し、実際に発行されたのが最初の画像の切手です。 中国政府・共産党のプロパガンダ政策の一環として発行された抗疫郵票に関しては、その政治的な重要性から、図案に関しても何重ものチェックを経て最終的に決定されたとみるのが自然です。したがって、いったん発表された図案が、わずか数日後、突如変更されたということは、当初の図案が制作された時点ではその内容は国策に反するものではなかったが、その後の状況の変化により“不適切”なものになったと理解するのが妥当と思われます。 抗疫郵票の発行がいつ決定され、デザイナーがいつから図案の制作を始めたのか、その正確な日時は中国郵政の資料が公開されない限り確定的なことは言えませんが、およその推測は可能です。 すなわち、4月4日に発行延期を発表してから5月11日に新図案の切手1450万組が発行されるまでの日数は38日間。おそらく、現在の中国郵政の処理能力では、印刷済みの切手を回収するとともに、修正した図案の切手を製造し、全国の郵便局に配給するにはその程度の日数が必要ということなのでしょう。上記の38日間の中には5月1-5日の連休がありましたから、それを差し引けば、準備期間は1ヵ月強に短縮することも可能かもしれません。そうすると、当初の予定通り、4月7日に抗疫郵票を発行するためには、切手制作の実務作業は3月7日前後には開始されていたと推測できます。 新型コロナウイルスの感染が拡大し、発生源とされる武漢市の都市封鎖が行われたのは1月23日でしたが、当初の中国政府によるプロパガンダでは、習近平国家主席は1月20日(後に7日に前倒し)以来、「卓越した指導力を発揮して、早期に感染拡大を終わらせ、世界に貢献した」と強調されていました。2月27日に刊行された『大国戦「疫」:二〇二〇 中国阻撃新冠肺炎疫情進行中』は習の指示と演説内容を紹介し、“領袖の決断”を称賛していましたし、3月6日には武漢市党委書記の王忠林が「武漢市民は習近平総書記と中国共産党に感謝すべきだ」として“感恩教育(党への感謝の強制)”を展開しています。 しかし、実際に多くの人民がウイルス禍に苦しむ中で、習と党を露骨に礼賛するプロパガンダに対しては人々の反発も強く、インターネット上でも政府・党批判があふれたため、翌7日頃から、プロパガンダの内容も感恩教育から「武漢市民に感謝する」ものへと徐々に変化していきました。 すなわち、3月8日には、湖北省党委員書記の応勇が、武漢の人々は「党の統制措置を積極的に支援し、協力した」と称賛したほか、同日付の『長江日報』は、武漢政府は武漢市民の貢献に心から感謝していると報道。さらに、10日には習近平が自ら武漢入りし、「武漢市民は英雄。全党全人民はあなたがたに感動し、感謝している」と述べ、翌11日の『人民日報』は「武漢の名は英雄として歴史に再び記される」との習の言葉を一面の見出しに使っています。 切手の発行予定日から逆算すると、おそらく、抗疫郵票の当初の図案が作成されたのはこの時期だったと考えてよいでしょう。そうであればこそ、抗疫郵票は、武漢のランドマークで、日本人にとっても唐詩で馴染みのある黄鶴楼や、臨時医療施設の“方艙医院”に転用された武漢洪山体育館の建物などを描き、武漢市民に感謝し、ウイルス禍に立ち向かうため国民に団結を呼びかけるという意図が強調される内容となったものと推測可能です。なお、切手上部には、共産党の象徴である“鎌と槌”と「众志成城 抗击疫情」のスローガンが入っていますが、この文言もウイルスを克服した勝利宣言というよりは、共産党の指導の下、団結してウイルスとの戦いに臨もうというスローガンと考える方がしっくりします。 なお、ウイルスに対する“勝利”の記念切手ではなく、ウイルスとの戦いにおいて、医療従事者を讃え、国民の団結を訴える趣旨の切手は、イランが3月20日のノウルーズ(イラン暦での新年で、春分の日)を前に発行したのが最初で、その後、各国で発行されていますので、抗疫郵票も当初はその系譜に連なるものとして企画されたものと考えられます。 ところで、ウイルスの全世界的な拡散に伴い、世界各国は中国政府の対応を批判し、西側諸国では発生の起源を明確にするためには“武漢”の地名を入れた“武漢肺炎”、“武漢ウイルス”などの用語を使うべきだとの論調が強かったのですが、中国外務省や国営メディアは、そうした表現が出るたびに火消しに躍起となっていました。 WHOには、差別や偏見、経済的な不利益が生じるのを防ぐためとの理由から、ヒトの新興感染症の名称に地名は使えないというルールがありますので、新型コロナウイルスによる疾患の正式名称も、2月11日、“COVID-19”と命名されましたが、その後も、トランプ米大統領は“中国ウイルス”の言葉を使い続けます。3月25日のG7外相会合でも、米国は“武漢ウイルス”と表記すべきだと主張しましたが、これは受け入れられず、翌26日のG20首脳会合では、“新型コロナウイルス”によるパンデミック克服のために協力するとした共同声明が発表されます。これにより、ウイルスの名称をめぐる米中の対立はとりあえず棚上げとなりました。 この間、3月23日には、中国政府は新規感染がなくなったと発表。25日には湖北省在留の北京市民の北京市への帰還が始まったほか、黄岡市では省外から湖北省に通じる道路の通行規制が解除され、車の往来が復活するなど、中国は感染の“終息”を本格的にアピールし始めています。そのハイライトが、WHOの創立記念日で世界保健デーにあたる4月7日に合わせての武漢市の封鎖解除でした。 3月30日というタイミングで、中国郵政が4月7日に抗疫郵票を発行すると発表したのは、そうした状況をとらえてのことと考えてほぼ間違いありません。すでに、G20首脳会議でウイルスの呼称問題は沈静化(したはずだと中国側が認識)した以上、共産党の指導と「武漢市民に感謝する」イメージは、そのまま、ウイルスを克服したとの実績のアピールと併置させても問題はないとの判断だったのでしょう。 ところが、4月に入ると、ウイルスの発生源である中国に損害賠償を要求すべきとの声が西側諸国で沸き上がるようになります。たとえば、英国のシンクタンク、ヘンリー・ジャクソン協会は、中国政府が国際保健規則に違反し、新型コロナウイルス感染のデータを隠蔽したこと、感染数に関する誤った情報をWHOに提供したこと、感染発覚後も国民の海外渡航を規制しなかったことなどを指摘し、英国は3510億ポンド(4490億ドル)、米国は1兆2000億ドル、カナダは590億ドル、オーストラリアは370億ドルの損害賠償請求が可能であるとの報告書を4月5日付で発表しました。 中国郵政が、4月4日、抗疫郵票の発行延期を突如発表したのは、中国への損害賠償を求める国際世論の高まりを察知し、新型ウイルスと(全世界がその発生源と認識している)武漢や中共を結び付けるようなデザインの切手は対外情報戦略の観点から不利との判断が働いた結果とみることができます。なお、香港、台湾などインターネットの華字メディアでは、黄鶴楼の存在が発行延期の理由であろうとの解説が、中国郵政の発表当初からなされていました。 こうして、5月11日、基本的なデザイン構成はほぼ当初案のままに、鎌と槌を削除されたほか、黄鶴楼の部分を目立たないように薄くし、方艙医院に関してはその看板の文字が消され、ウイルスのイラストも正式名称の“COVID-19”に改められるなど、“武漢ウイルス”と中共の責任を想起させる要素を排除する修正を施した抗疫郵票が発行されたというわけです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 12月11日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-07 Mon 10:46
宇宙航空研究開発機構(JAXA)の探査機「はやぶさ2」が投下した小惑星“りゅうぐう”の石が入るとみられるカプセルが、打ち上げから約6年間、2195日で52億4000万キロを飛行した探査を終え、きのう(6日)未明、オーストラリア南部のウーメラ立入制限(WPA)に着地、回収されました。というわけで、ウーメラに関する切手ということで、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年に英領ソロモン諸島が発行した普通切手のうち、当時のソロモン諸島域内の航空路線と、WPAで使われていたデ・ハヴィランドDH.104ダヴ機を描く2ドル切手です。 WPAは、アデレードの北北西約450キロの地点に位置する地上軍実験・演習施設および航空宇宙施設で、その面積は九州の役4倍に相当する12万7000平方キロで世界最大です。敷地内には、若干の塩水湖、砂丘およびメサ丘がありますが、大部分は不毛な砂漠で、1947年、英軍がドイツから接収したV1飛行爆弾とV2ロケットの試験や独自のロケットや核兵器の研究を行うために創設されました。これを受けて、オーストラリアは、近隣にウーメラ村を作り、施設内を横切る長距離の道路が建設されています。 さて、英領ソロモン諸島と域外の航空路線は、1949年にカンタス航空が定期チャーター便を開始したのに続き、1952年にはTAAとフィジー航空が定期便の運航を開始していましたが、ソロモン諸島として域内の島々を結ぶ自前の民間航空はありませんでした。このため、1961年10月には、M.ルイスとP.ベネットにより、域内航空実施のための調査が開始されています。 1962年、ローリー・クロウリーは、4-6人乗りの双発軽飛行機、パイパー・アズテックを用いてパプアニューギニアとホニアラの間のチャーター便を開始。翌1963年、クローリーは、WPAでVIP用に使用されていたデ・ハヴィランドDH.104ダヴ、6機の払い下げを受け、クローリー航空会社の営業を開始。あわせて、同社は“メガポード航空”の名前でソロモン諸島域内の運航を開始しました。 クローリー航空は、1968年、パプアニューギニアのマックエアーに買収され、本体が(新)メガポード航空に、ソロモン諸島域内で運航していた(旧)メガポード航空は“ソロモン諸島航空(SOLAIR:Solomon Islands Airways)”に改称されます。以後、パプアニューギニアのブーゲンビル島からソロモン諸島へ国際線定期便が運航されるようになります。 今回ご紹介の切手は1968年5月20日に発行されていますので、デザインが制作されたのは、おそらく、(旧)メガポード航空時代の末期のことだと思いますが、かつてWPAで使用されていたデ・ハヴィランドDH.104ダヴはソロモン諸島航空にそのまま引き継がれています。ちなみに、SOKAIRが保有していたのは、切手に描かれた機体のほか、デ・ハヴィランドDH.104ダヴがもう1機、ビーチクラフト・バロンが2機の計4機です。 1975年、マックエアとSOLAIRはタルエアーに買収されました。その際、ソロモン諸島政府は株式の49%を取得しましたが、1978年の独立を経て、1984年に全ての株式を取得し、国営化を完了。1997年に社名を“ソロモン航空(Solomons airlines)”に変更し、現在にいたっています。 なお、ソロモン諸島の航空事業については、先の大戦中の激戦地となったヘンダーソン飛行場(現ホニアラ国際航空)のエピソードをはじめ、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 12月11日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-06 Sun 02:16
『東洋経済日報』2020年11月27日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、韓国の国民健康保険公団が、KT&Gほか、国内のたばこ大手3社を相手取り、総額約500億ウォンの賠償を求めていた裁判で、11月20日、ソウル中欧地裁が原告敗訴の判決を言い渡したことにちなみ、喫煙関係の切手の中からこの1枚をご紹介しました。
これは、1971年7月20日、韓国で発行された第2次名画シリーズ第5集のうち、金得臣「破寂図」を取り上げた1枚です。 韓国の民話では「昔むかし」の意味で「虎がまだ煙草を吸っていた頃」という表現が用いられます。また、伝承によると、駕洛国(金官伽倻)の首露王は稀に見る巨根の持ち主で、自らの男根を川の向こう岸に渡して橋の代わりとしていましたが、1人の男が橋の中ほどで休憩しながら煙草を吸い、その灰を“橋”の上に落として男根に火傷を負ったことから、首露王を祖とする金海金氏の人々の男根にはいまでも黒い点が残っているとされています。 もっとも、歴史的事実としては、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸からヨーロッパにたばこを持ち込んだのは15世紀末のことで、そこから全世界に拡散。朝鮮半島には、1618年、日本から薬草として伝わったとする説が有力です。 その後、喫煙の習慣は急速に普及し、17世紀に朝鮮を訪問したオランダ人のハーメルは、朝鮮では老若男女がこぞって喫煙するとの記録を残しています。ちなみに、現代韓国語では煙草を“タームベ”といいますが、これはスペイン語のtabacoに由来する“タームバゴ(淡婆姑)”が転訛したものと考えられています。 18世紀にはすでに喫煙の習慣は朝鮮社会に広く浸透していたようで、金弘道や申潤福の風俗画にも喫煙の風景がさまざまな形で描かれています。今回ご紹介の切手に取り上げられた金得臣の「破寂図」は、ヒヨコをくわえて逃げる野良猫めがけて、家の主が縁側を転げ落ちながら煙管をふりおろす姿をユーモラスに描いた傑作として有名です。 朝鮮王朝時代の煙管は身分の上下によって長さが異なっており、両班は長竹を、常民は腰に差せるくらいの短いものを使っていました。特に高位の両班ともなると、1メートル近い長さの煙管を使っていたため、自分ではくわえながら火をつけられず、目下の者が火をつけており、長煙管は両班の象徴となっていました。「破寂図」の男が持っているのも長煙管で、足元には本が転がっていることから、彼が両班階級の人間であることがわかります。 近代的なたばこ産業としては、大韓帝国時代の1899年に宮内部内蔵院参政課(蔘政課)が設置され、朝鮮人参と共に政府による専売制が始まりました。専売制は日本統治時代にも引き継がれ、朝鮮総督府専売局、総督府地方専売局がたばこや人参等の専売をしています。 1948年に大韓民国が発足すると、朝鮮人参と煙草の専売事業は大韓民国財務部専売局が継承。その後、同局は、大韓民国専売庁、韓国専売公社を経て、ソウル五輪後の1989年に韓国煙草人蔘公社が設立されました。 1996年に紅参専売制度が廃止された後も公社はそのまま存続し、2001年7月のたばこ製造独占権廃止を経て、2002年、公社のたばこ部門はタバコ製造会社KT&Gとして民営化されました。 今回の訴訟は、2014年に健康保険公団がKT&Gのほか、フィリップ・モリス・コリア、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)コリアの大手3社を相手取って起こしていたもので、原告側が賠償請求した500億ウォンという金額は、KT&G発足後の2003年から提訴前年の2013年までの間に、一部の肺がん、喉頭がんの患者のうち、20年間にわたり1日1箱以上の煙草を吸い、累積の喫煙期間が30年を超える人に対して公団が診療費として負担した金額に相当しているそうです。 今回の判決では、「(公団が支払った保険金は)被告の違法行為により発生したものではなく、健康保険加入による保険関係によって支出されたものにすぎない」、「(煙草と病気の因果関係は)生活習慣や遺伝、環境など喫煙以外の要因によって発病する可能性を排除できない」として、公団の主張は退けられました。 煙草による健康被害を防ぐための社会全体の努力は必要であるにせよ、喫煙そのものが現在なお非合法化されていない以上、過去にさかのぼり、因果関係も断定できないまま処罰することはできない、というのは司法判断としては穏当なものでしょう。僕自身は煙草を嗜まないのだが、一部の禁煙活動家の極端な抗議行動には辟易としているだけに、今回のようなニュースを聞くと、「あぁ、韓国にも常識的な人はいるのだなぁ」と、どこかホッとさせられますね。 * 昨日(5日)、アクセスカウンターが228万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 12月11日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-05 Sat 03:19
ユダヤ系エチオピア人(ベタ・イスラエル)のキリスト教徒、“ファラシュ・ムラ”のエチオピアからイスラエルへの移民第1陣となる316人が、3日(現地時間)、イスラエルに到着しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2012年にエチオピアが発行した「アディスアベバの記念碑」の切手のうち、ユダの獅子像を取り上げた1枚です。 旧約聖書「創世記」第49章には、ヤコブの第4子にしてユダ族(ユダヤの語源)の祖であるユダは“獅子の子”とされており、それゆえ、獅子はユダ族の象徴とされてきました。 エチオピアの建国神話によれば、紀元前10世紀、エルサレムのソロモン王を訪ねたシバの女王がソロモン王の子を宿し、帰国後、メネリク1世を産んだことになっています。メネリクは成人後、父のソロモン王を訪ね、多数のユダヤ人をエチオピアの地に招いたとされており、こうした経緯から、歴代のエチオピア王、皇帝はメネリク1世の子孫を名乗り、ユダ族の象徴である“ユダの獅子”を国のシンボルとして用いています。 1948年のイスラエル建国後、イスラエル国家は帰還法に基づき、エチオピアからベタ・イスラエルの移民を受け入れてきました。特に、1974年にソロモン王朝が崩壊した後、内戦や社会主義政権下でベタ・イスラエルが激しい迫害を受けたことから、イスラエル政府は彼らの救出作戦として、1984年のモーゼ作戦や1991年のソロモン作戦などを実施。この結果、ベタ・イスラエルの85%以上にあたる11万700人以上がイスラエルに移住しました。 ただし、この時期にイスラエルに移住したベタ・イスラエルは原則としてユダヤ教徒で、主として18-19世紀にキリスト教に改宗した人々の子孫である”ファラシュ・ムラ”については、イスラエル国内でも、彼らを“ユダヤ人”として認め、移住を受け入れることへの反対論が根強くありました。このため、2012年、イスラエル政府はファラシュ・ムラの帰還移民を推進する方針を決定したうえで、彼らがイスラエル到着時にユダヤ教への改宗を義務付けることとしたうえで、2000年10月、ファラシュ・ムラ2000人の受け入れ計画を承認。今回、その第一陣がイスラエルに到着し、残りの約1700人も2021年1月末までに到着する見通しとなっています。 今回ご紹介の切手に取り上げられたユダの獅子像は、アディスアベバ中心部、鉄道のアディスアベバ駅前広場に設置されているもので、1930年、皇帝ハイレ・セラシエの即位を記念して、フランス人彫刻家のジョルジュ・ガルデが制作しました。1935-36年の第二次エチオピア戦争でエチオピアがイタリアに敗れ、国土がイタリアによって占領されると、この像はローマに移送され、1937年、第一次エチオピア戦争(1895-96年)の記念碑の下に設置されました。 1941年、エチオピアは連合国の支援を受けて独立を回復しましたが、獅子像は1960年代にエチオピアに返還されるまで、ローマ市内にそのまま置かれ続けました。また、1974年の帝政崩壊後、社会主義政権は獅子像を帝政時代の遺物とみなして撤去を試みましたが、国民の反対も強かったことから、「この像はファシストに対する抵抗と独立回復の象徴である」として存続が決定。現在にいたっています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 12月11日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-04 Fri 00:29
フランスのヴァレリー・ジスカールデスタン元大統領が、2日(現地時間)、新型コロナウイルスに感染し、仏中部の自宅で亡くなりました。享年94歳。というわけで、謹んでご冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1975年3月5-8日にジスカールデスタンが中央アフリカ共和国(以下、中央アフリカ)を公式訪問したことを記念して、その1周年に当たる1976年3月5日に中央アフリカが発行した記念切手で、両国の当時の国旗と、両国大統領が描かれています。 ヴァレリー・ジスカールデスタンは、1926年2月2日、ドイツのコブレンツで、フランス人官吏エドモン・ジスカールデスタンの子として生まれました。父方のジスカール家は、代々、仏領アフリカの利権を受け継いできた家系で、父親のエドモンは、1949年、フランス植民地金融社を1SOFFOに改組した人物です。ヴァレリーの母親は、中世以来の貴族であるエスタン家の出身でしたが、1922年、エスタン家の男系が断絶したため、彼女と結婚したエドモンがエスタン家を継承し、以後、ジスカールデスタンを名乗ったという経緯があります。 第二次大戦中、ナチス占領下でバカロレア資格を得ましたが、このときは進学せず、対独レジスタンスに参加。第二次世界大戦後、パリのエコール・ポリテクニーク(理工科学校)と国立行政学院(ENA)で学び、卒業後は財政監査総局に努めました。その後、エドガール・フォール首相の許で政策スタッフとなり、1956年の総選挙でアントワーヌ・ピネーの独立農民派(CNI)から国会議員に当選。第五共和政の成立により、ピネーが経済財務相として入閣すると、金融担当の秘書官となりました。 1962年、経済財政相として初入閣。その後、ジョルジュ・ポンピドゥー内閣でも1969-74年に経済財務相を歴任。1974年、ポンピドゥーが急死すると大統領選挙に出馬し、決選投票で社会党のフランソワ・ミッテランを破り、48歳で大統領に当選しました。 大統領としては、1975年、石油危機後の世界経済への対応を話し合うため、主要国首脳会議を提唱。日米や西ドイツなど6ヶ国の参加を得て、ランブイエで第1回サミットを開催し、現在につながるサミットの枠組みを作るとともに、内政面では成人年齢を18歳に引き下げたほか、妊娠中絶を合法化しました。 ところで、ジスカール家は仏領アフリカとの関係が深かったこともあり、ジスカールデスタンはアフリカの旧仏領諸国との関係を重視しており、そのことが、ジャン-ベデル・ボカサにつけこまれることになります。 ボカサは、第二次大戦中に自由フランス軍に兵士として参加したほか、戦後は第1次インドシナ戦争にも従軍。アフリカ出身者としてはフランス軍で最高位の大尉まで昇進した経歴の持ち主で、1960年、中央アフリカが独立すると、従兄で初代大統領に就任したデービッド・ダッコに呼び戻されて帰国。大統領の親戚という立場を利用して軍内で昇進を重ねて国軍参謀総長に就任しましたが、1969年、軍事クーデターを起こしてダッコ政権を倒し、翌1970年、大統領に就任しました。大統領就任後は独裁傾向を強め、1972年には終身大統領を宣言しましたが、さらに“皇帝”として即位することを目論むようになります。 もっとも、20世紀も後半となろうという時期に、新たな帝政を樹立することに対しては国際的な批判も強かったため、ボカサは旧宗主国フランスの抱き込みを図り、ジスカールデスタンに莫大な贈賄工作を展開。今回ご紹介の切手の題材となっている1975年のジスカールデスタンの中央アフリカ訪問もその過程で行われたもので、切手が発行された時点でのボカサの肩書は“終身大統領”でした。 こうしたフランスへの根回しを経て、1976年12月4日、ボカサは国名を“中央アフリカ帝国”と改称し、自ら皇帝として即位します。戴冠式が行われたのは、それから1年後の1977年12月4日のことで、その経費は2500万ドル。実に、当時の中央アフリカの国家予算の2倍という巨額のものでした。 あまりの濫費に、当然、国際社会では批判の声もありましたが、ボカサから巨額の賄賂を受け取っていたジスカールデスタンは、ボカサを皇帝として承認しただけでなく、中央アフリカ帝国への経済支援も約束。旧宗主国がお墨付きを与えた以上、他の西側諸国も追随しないわけにはいかなくなり、日本政府も国名変更を承認し、戴冠式には昭和天皇の祝電も送られています。 こうして、晴れて皇帝となったボカサは、反対派を容赦なく弾圧・粛清し、ウガンダのイディ・アミンと並ぶアフリカの独裁者として恐れられましたが、粛清による人材不足や経済無策、皇帝一族による濫費などから、中央アフリカ帝国は急速に衰退。1979年1月、反帝政の学生デモに際して武力弾圧で400人の死者が発生すると、フランスもさすがにボカサを見限ります。そして、同年9月、ボカサのリビア訪問中にフランス軍の支援を受けたクーデターが発生して帝政は廃止。ダッコが大統領に復帰、中央アフリカは共和制に復帰し、ボカサはフランスに亡命しました。 亡命後のボカサは、ジスカールデスタンに働きかけて政権奪還への支援を要請したものの、ジスカールデスタンはこれを事実上拒否。このため、ボカサはジスカールデスタンに対する巨額の贈賄工作を暴露しました。このスキャンダルは、1981年の大統領選挙において、再選を目指すジスカールデスタン陣営にとって大きなダメージになり、ジスカールデスタンはミッテランに敗れ、1期7年で政権を去りました。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-03 Thu 02:11
香港の裁判所は、きのう(2日)、昨年(2019年)の「逃亡犯条例」改正案などをめぐる抗議活動に関して、民主活動家の黄之鋒(ジョシュア・ウォン)氏と林朗彦(アイバン・ラム)氏に禁錮1年1カ月半、周庭(アグネス・チョウ)氏に禁錮10カ月の実刑判決を言い渡しました。“民主の女神”とも称される周氏が実刑判決を受けたのは、今回が初めてです。というわけで、周氏が一日も早く釈放され、自宅に戻れるよう祈って、彼女の自宅がある大埔にちなんで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
1999年に発行された香港の普通切手“新風景シリーズ”は、その名の通り、香港各地の名所を取り上げたものですが、切手の発行時にはシリーズのうち5ドル以下の切手を1枚収め、余白に実物の写真を配したシートを束ねた切手帖が発行されています。今回ご紹介しているのは、そのうちの1ドル40セント切手のページで、大埔の香港鐡路博物館が取り上げられています。 新界地区の東北に位置する大埔は、古くは猛獣の住む土地として、ここを通る人々が大股で走り抜けたことから“大歩”と呼ばれていました。 後漢から清代までは付近で真珠が採取されていましたが清代の1672年、鄧氏が港湾施設を建設したことから、アヘン戦争で香港島が英国に割譲されるまで、この地域の海上交通の拠点となり、潮州や汕頭からの船が往来していました。 1899年に新界地区を租借した英国は、1907年、新九龍と新界、周辺の小島を管轄する行政機関として大埔に理民府を設けます。理民府は、土地の測量や住民間の紛争調停、地方の治安維持などを主に担当し、1910年に大埔、沙田、上粉沙打(上水、粉嶺、沙頭角、打鼓嶺をあわせた地域。北區)、西貢、元朗、青山(屯門)を管轄する北約理民府と、新九龍、荃灣ならびに周辺の小島を管轄する南約理民府に分割されました。 1910年に紅磡と羅湖を結ぶ九廣鐵路(現・東鐵綫)が開業すると、植民地当局は大河市の近くに駅を建設し、“大埔墟站(駅)”と命名。1913年には切手に描かれた駅舎も完成します。その後、国共内戦下での難民の流入など、中国との国境が緊張してきたことを踏まえ、1947年、植民地当局は北約理民府を元朗理民府(元朗と青山を管轄)と大埔理民府(大埔、沙田、上粉沙打、西貢を管轄)に分割し、情報収集や香港駐留軍との連携などの業務を拡充したうえで、1948年、これらの各理民府を統括する行政機構として、新界民政署が設けられました。 1983年、現在の大埔墟站が完成すると、旧駅は鉄道駅としては廃止されましたが、駅舎は1984年に法定古跡に指定され、1985年、九廣鉄路の資料を展示する香港鐡路博物館としてリニューアルオープンし、現在にいたっています。 さて、香港警察は、昨年(2019年)8月、周氏ら3人を無許可でデモを行い大衆を扇動した容疑で逮捕されましたが、9月に保釈。その後、3人とも前回公判までに有罪判決を受け、11月23日の公判では保釈継続が認められずに拘置所に即時勾留され、今回の有罪判決となりました。 この間の今年(2020年)8月10日、周氏らは、民主派の香港紙「蘋果日報」などを発行するメディアグループの創業者、黎智英氏や同紙幹部らとともに、周氏を香港国家安全維持法(国安法)違反容疑で逮捕され、起訴されています。周氏の国安法での逮捕容疑は「外国勢力と結託した疑いがある」というもので、同法の最高刑は無期懲役。当局はこの事件でも周氏の起訴を目指して捜査を続けています。 くしくも、きょう(3日)は、1996年12月3日生まれの周氏の24歳の誕生日。あらためて、中国の人権抑圧体制に抗議するとともに、“良心の囚人”となった彼女が一日も早く自由の身となりますよう、お祈りしております。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-02 Wed 01:48
11月10日に発効したナゴルノ・カラバフ紛争の停戦合意に基づき、昨日(1日)、アルメニア軍がナゴルノ・カラバフ周辺で実効支配していた3県(ガザフ、キャルバジャル、ラチン)からの撤退を完了しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2006年にアゼルバイジャンが発行した普通切手で、ラチン県のランドマーク、ツィツェルナヴァンク修道院が描かれています。 ラチン県は、アゼルバイジャン西部、ナゴルノ・カラバフ自治州とアルメニアに挟まれた位置にあり、県都のラチンは首都バクーから450キロ離れた地点に位置しています。 もともと、ラチン県の領域は、かつてはアルメニア王国(紀元前190-428年)の支配下にあり、数多くの歴史的建造物が残されています。今回ご紹介の切手に描かれたツィツェルナヴァンク修道院は、もともとは在来の宗教の神殿として建立されました。このため、西側に犠牲を奉げる祭壇が置かれていた異教時代の名残で、西側には入口がありません。301年、ティリダテス3世が世界で初めてキリスト教を国教化し、この地域にもキリスト教が浸透すると、ツィツェルナヴァンクも4世紀中にキリスト教会に改装されました。 その後、ラチン県の領域は近代はカラバフ・ハーン国(1748–1822年)を経てロシア帝国エリザヴェトポリ県に編入され、ソ連成立後はアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の一部として1930年にラチン県が設置されます。1991年のアゼルバイジャン再独立後、ラチン県はアゼルバイジャンに継承されました。 しかし、ソ連末期から始まったナゴルノ・カラバフ紛争の過程で、1992年1月6日、アルメニア人が多数を占めるナゴルノ・カラバフ自治州がアルメニアの支援を受けて“ナゴルノ・カラバフ共和国(アルツァフ共和国)”として独立を宣言。ラチン県内には、ナゴルノ・カラバフとアルメニアを最短距離で結ぶラチン回廊が存在することから、1992年5月18日、アルメニア軍がラチン県に侵攻してその全域を制圧し、ラチン県の領域はナゴルノ・カラバフ共和国のカシャタグ地区に編入されました。その過程で、県内のアゼルバイジャン人が多数虐殺され、多数の難民が発生します。 国際社会はナゴルノ・カラバフ共和国を承認しませんでしたが、1994年5月12日に停戦が成立し、同共和国は事実上、アゼルバイジャンの統制が及ばない“独立国”となり、ラチン県を含むナゴルノ・カラバフ周辺の“占領地”に対するアルメニアの実効支配も事実上追認される状況が続いていました。当然のことながら、アゼルバイジャン側は“ナゴルノ・カラバフ共和国(ないしはアルメニア)”によるラチン県等の占領を認めず、今回ご紹介の切手を発行するなどして、ラチン県の領有権を内外にアピールしていました。 さて、11月10日、アゼルバイジャンが優位な状態で結ばれた停戦協定では、“ナゴルノ・カラバフ共和国(ないしはアルメニア)”の占領地のうち、アルメニア側は、11月15日までにキャルバジャル地区を、アグダム地区とアルメニア側が確保しているガザフ地区を11月20日までに、12月1日までにラチン地区をアゼルバイジャンに返還することとされており、今回の撤退完了でそれが忠実に履行されたことになります。 今後、ラチン地区に関しては、アルメニアとナゴルノ・カラバフを接続する幅5キロの回廊を設定したうえで、ナゴルノ・カラバフの境界線とラチン回廊沿線には1960人のロシア平和維持軍が5年間駐留し、アルメニアとナゴルノ・カラバフ間の交通を監視することになっています。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-12-01 Tue 00:02
きょう(1日)は“映画の日”です。というわけで、映画関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1943年9月3日、ガダルカナル島に駐留していた米兵が差し出した本国宛の軍事郵便で、封筒の余白には、戦場での映画会の様子を伝える差出人自筆のイラストが描き込まれているのがミソです。 先の大戦中、米軍がソロモン諸島で将兵向けに上映した慰問映画に関しては、こんなエピソードがあります。 ガダルカナル島をめぐる激戦が展開されていた1942年の秋、日本の船隊に壊滅的な打撃を与えたものの、自らも大きな損害を被った米海兵隊の部隊が、、ニューヘブリディーズ諸島のエスピリトゥサント島(現ヴァヌアツ)にたどり着きました。彼らは自分たちの戦果が大々的に報じられるものと思っていましたが、発表された戦況公報では、南西太平洋方面連合軍司令官(太平洋戦線における連合軍の最高指揮官)のダグラス・マッカーサーは海兵隊のことには何も触れず、自分の指揮下にある航空隊(実際には、このときの戦闘からかなり離れた場所にいました)が日本の船隊を撃退したと事実を曲げて発表していました。 手柄を横取りされた海兵隊の怒りは収まらず、マッカーサーへの不満が鬱積。公報が発表された晩、将兵慰問のニュース映画で、たまたま、マッカーサーが登場する場面が映し出されるや、彼らの不満が爆発し、スクリーンには雨あられの如くヤシの実が投げつけられ、映画小屋もめちゃくちゃに破壊されてしまいました。この一件以降、海兵隊では“マッカーサー”は完全にタブーとなり、ニュース映画を映す場合には、必ず前もって点検し、マッカーサーの登場場面をことごとく切り取るようにしたのだそうです。 さて、1943年2月、日本軍が撤退した後のガダルカナルでは、ヘンダーソン飛行場の拡充とあわせて、戦闘によって破壊された村落の復旧やインフラの整備などが進められ、来島する連合軍のスタッフも増加します。今回ご紹介の郵便物も、そうした状況の中で差し出されたものです。 飛行場を中心に、島の北岸では、ジャングルからソロモン人労働者が材木を切り出し、米兵たちが地面に柱を打ち込み、別のソロモン人たちが伝統的な工法で屋根に椰子の葉を葺くという分業が行われ、島の東部のイル地区では、ジャングルを開削して野菜などを育てるための農場もつくられました。 米軍は、ソロモン人労働者にも、仕事の内容に応じて、米兵と同じ給料を支払いました。その多くは米軍の最低賃金相当でしたが、それでも、戦前、英国人が彼らの労働に対して払ってきたよりもはるかに高額でした。 さらに、1943年以降、ガダルカナルに上陸する米兵の中にアフリカ系の黒人が交じるようになると、その姿はソロモン人に大きな衝撃を与えます。黒人兵たちは白人と同じ軍服を着て、靴を履き、白人と同じ食べ物を食べ、同じ銃を使い、同じように歩き回り、同じ階級であれば賃金も同じだったからです。 また、米兵たちは米軍が持ち込んだ食糧をソロモン人と分け合っただけでなく、ソロモン人労働者に自分たちのグラスや食器を渡して飲食をさせる者もありました。これは、ソロモン人を人間扱いしていなかった英国人との関係ではありえないことでした。もともと、ソロモン諸島では、食事をともにすることは互いの信頼関係を築くうえで非常に重要とされていたこともあって、このことは、米軍がソロモン人の信頼を獲得するうえで大いに効果がありました。 また、一日の作業が終わると、米軍は慰問のための映画会をしばしば開きましたが、ソロモン人も招かれて参加することも珍しくなく、米軍を通じて映画というモノの存在を知るソロモン人も大勢いました。 もちろん、実際には米軍においても黒人に対する差別は厳然と存在していましたが、それでも戦前の英国やオーストラリア(の白人)がソロモン人に対してとっていた態度に比べれば、はるかにましでした。このため、たとえば、黒人兵と白人兵のテントが別れていたことに対しても、黒人は白人とは別に米国南部に自分たちの国を持っているので、両者のテントが分かれているのも、英国人とオーストラリア人が別のテントで寝起きするのと同じことだと考えるソロモン人も多かったそうです。 米兵とソロモン人の信頼関係が醸成されてくると、米兵たちは、ソロモン人たちに服やライフル、その他さまざまなものを与え、ソロモン人たちはそれらを大事に家の中に保管するようになります。 しかし、米兵たちがソロモン人を“甘やかしている”ことを苦々しく思っていた英国人は、ソロモン人が労働に出かけている間に留守宅に入り込んで、彼らが米軍からもらったものを没収。それらを一カ所に集めたうえで、ソロモン人たちの目の前でガソリンをかけて燃やして見せることがしばしばでした。 こうした英国人の理不尽な仕打ちに対しては、ソロモン人だけでなく、米兵たちも激怒しましたが、英国人は米軍の抗議を完全に無視。ソロモン人は、米軍から受け取ったものを英国人に見つからないように必死に隠したものの、英国人はそれを探し出し、容赦なく没収し続けました。 英国人はなぜソロモン人に対してこのような仕打ちをするのか、米兵たちが理由を尋ねると、ソロモン人たちは、英国人が常々、「ソロモン人は英国人のために働くことしかできない」と言い放ち、過酷な統治を行ってきたことを説明。これに対して、米兵の一人は次のようにソロモン人を諭しています。 おまえたち、やらなきゃいけないことがある。イギリス政府を追い出すんだ。奴らを追い払うんだ。もしおまえたちがライフルの作り方を知っていたら、奴らを殺せるんだがなぁ。奴らを撃てるんだがなぁ。でも、お前たちはライフルの作り方を知らないから、他のことをしなきゃだめだ。奴らを追い払うんだ。でもそうしたとしても、災難が降りかかるだろうな。お前たちは逮捕されて、刑務所にぶち込まれるだろう。ひどい目にあわされるだろう。でも、それがなんだ?おまえたちは、強い人間じゃないか。どっちみち長い間、今日まで、ひどい目にあわされてきたんだから。 (訳文は小柏葉子監訳『ビッグ・デス』より) 一方、米軍の側でも、英国の“略奪”からソロモン人を守るため、一つの策を練ります。 すなわち、1944年に新任の特務曹長が配属された際、特務曹長と部下の伍長の住宅は監視を兼ねてソロモン人の村の中央に配置されることになりました。これに対して、英国人は、村を離れて将校用の住宅に住むよう特務曹長らを説得しましたが、彼らはこれを拒否して、村の中央に住み続けたため、さすがの英国人も手出しができませんでした。 特務曹長は、「自分はこれ以上のことはできないが」としたうえで、ソロモン人に「お前たちは強いんだから、怖がっちゃいけない。どんどんどんどん進んで、立ち上がって、白人の目をまっすぐ見すえれば、強くなって、白人から自由になれる。俺たちが言っているのはこういうことさ」と説いています。 かくして、ソロモン人の中には、ガダルカナルでの米軍との交流を通じて、権利意識や政治意識に目覚めるものが現れ、その中から、ソロモン人の自治権回復運動としての“マアシナ・ルール”運動が出てくることになります。 この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取手tご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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