2023-03-27 Mon 09:15
きのう(26日)、キューバの憲法上の立法機関“人民権力全国会議”の議員選挙が実施され、定数470人に対して、あらかじめ選考された定数通りの候補者に対する信任投票が行われました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1929年5月18日に発行された“国会議事堂(カピトリオ)竣工”の記念切手で、議事堂の全景が取り上げられています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 また、キューバとその現代史については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 4月8日スタート! 平成日本の歴史 4月8・15・22日 13:30-15:00 文京学院大学での3週連続の講座です。1989年に始まる平成30年間の日本現代史をさまざまな角度から語ります。一般的な通史に加え、その時々の時代・社会の変化を切手や郵便物を通じて読み解くことで、モノから読み解く歴史の面白さを感じていただきます。詳細はこちらをご覧ください。 4月14日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 4月22日(土) スタンプショウ 2023 於・都立産業貿易センター台東館 毎年恒例、東京・浅草で開催の世界切手祭り・スタンプショウで、22日(土) 11:00から拙著『現代日中関係史 第2部 1972-2022』の出版記念イベントやります。事前予約不要・参加費無料です。親イベントとなる切手展、スタンプショウの詳細は主催者サイトをご覧ください。 4月30日(日) 英秘密情報部(MI6)入門 4月30日(日) 13:00~14:30 よみうりカルチャー荻窪での公開講座です。 映画「007シリーズ」などにも名前が出てくる英秘密情報部(MI6)について、実際の歴史的事件とのかかわりなどを中心にお話します。詳細はこちらをご覧ください。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 よみうりカルチャー 北千住 エリザベス女王の現代史 原則毎月第4土曜日 13:00~14:30 エリザベス女王の描かれた切手を手掛かりに、現代史を読み解く講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『現代日中関係史 第2部 1972-2022』 好評発売中!★ 2022年11月に刊行された「第1部1945-1972」の続編で、日中国交”正常化”以降の1972年から2022年までの半世紀の、さまざまな思惑が絡まり合う日中関係の諸問題を、切手とともに紐解いていきます。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2022-06-03 Fri 06:28
米政府は、1日(現地時間)、米航空会社が運航するハバナ以外の国際空港への定期便や地方空港へのチャーター便に対する渡航便制限を解除し、米航空会社のキューバへの乗り入れを解禁しました。というわけで、キューバに関する航空ネタの中から、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1914年2月23日、ハバナ=シエンフエーゴス間の試験飛行に搭載する郵便物用にキューバが発行した切手で、試験飛行に用いられた航空機、ブレリオXI が描かれています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 また、1959年の革命以前のキューバについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 6月10日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 6月24日(金) 19:00~ 読書人Web 「切手がつなげた人と時代」 『切手でたどる 郵便創業150年の歴史』シリーズ完結を記念して、『読書人』で田中秀臣先生とトークイベントをやります。イベントの詳細とご来場チケット(1500円)の販売はこちら、オンラインのライブ配信チケット(1500円)の販売はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 4月6日-7月12日 鏑木清方と江戸の残り香 詳細はこちらをご覧ください。 4月13日-7月19日 日本の郵便150年の歴史2 占領時代(1945年の終戦から1952年) 詳細はこちらをご覧ください。 5月18日-8月23日 日本の歴史を学びなおす― 近現代編その2― 幕末 詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.3 平成・令和編』 好評発売中!★ 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの最終巻。平成以降、郵政省が郵政事業庁、日本郵政公社を経て、株式会社化され現在に至るまでを扱っています。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2022-05-20 Fri 10:36
1902年5月20日にキューバが独立してから120年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1902年9月30日、米軍政下で発行された切手に、“UN CENTAVO(1センタボ)” “HABILITADO(値)” 、 “OCTUBRE 1902(1902年10月)”の文言を加刷して発行されたもので、キューバ共和国として発行された最初の切手になります。 .詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 また、キューバとその歴史については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * けさ(20日)、アクセスカウンターが249万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 5月27日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 4月6日-7月12日 鏑木清方と江戸の残り香 詳細はこちらをご覧ください。 4月13日-7月19日 日本の郵便150年の歴史2 占領時代(1945年の終戦から1952年) 詳細はこちらをご覧ください。 5月18日-8月23日 日本の歴史を学びなおす― 近現代編その2― 幕末 詳細はこちらをご覧ください。 ★『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.3 平成・令和編』5月25日刊行!★ 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの最終巻。平成以降、郵政省が郵政事業庁、日本郵政公社を経て、株式会社化され現在に至るまでを扱っています。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★ 最新作 『アフガニスタン現代史』 好評発売中!★ 出版社からのコメント 混迷のアフガニスタン情勢の理解に必須の通史! 911同時多発テロ事件とその後のアフガニスタン空爆から20年。西側が支援した新共和国が崩壊し、再びタリバンが実効支配下に置いたアフガニスタン。英国、ソ連、米国…介入してきた大国の墓場と呼ばれてきたこの国の複雑極まりない現代史を、切手や郵便資料も駆使しながら鮮やかに読み解く。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-01-16 Sat 02:43
1959年の革命でキューバを追われた独裁者、フルヘンシオ・バティスタが1901年1月16日に生まれてから、ちょうど120年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(以下、画像はクリックで拡大されます)
これは、1954年、ハバナでバティスタの名を冠した“バティスタ将軍療養所”がオープンした際にキューバが発行した記念切手です。バティスタは革命以前のキューバで長らく独裁者として君臨していましたが、意外なことに、彼の肖像切手は発行されておらず、“バティスタ”の名前が直接切手に表示されているのは、今回ご紹介の記念切手(他に同図案で色違いの9センタボ切手があります)だけです。 バティスタは、1901年、米西戦争後の米軍政下にあったキューバ島北東のバネスで貧農の家に生まれ、高校卒業後の1921年、国軍に入隊しました。 1924年の大統領選挙で当選したヘラルド・マチャド・イ・モラレスは、軍部の支持を背景に、政権に批判的なメディアや活動家を弾圧。1927年には憲法を改正して大統領の(連続)再選禁止規定は撤廃し、独裁者として君臨しましたが、1929年10月に世界恐慌が発生し、キューバ経済が壊滅的な打撃を受けると、大規模な反マチャド運動が発生。1933年8月、マチャドはバハマの首都、ナッソーに亡命しました。 マチャドの亡命後、臨時政府の大統領にはカルロス・マヌエル・デ・セスペデスが就任しましたが、バティスタ(当時の階級は軍曹)ら国軍の下士官は、9月4日、ハバナ市内のコロンビア兵営で叛乱を起こし、軍の実権を掌握。バティスタらは、軍の旧首脳部の報復に対抗するため、左派系の学生幹部会と手を組み、“キューバ革命連合”を結成し、ハバナ大学教授のラモン・グラウ・サン・マルティンを首班とする新政権が誕生しました。 ハバナ駐在の米国大使、サムナー・ウェルズは、学生幹部会出身の左翼活動家が新政権に深くかかわっていたことを憂慮し、「共産主義的傾向をもつ新政府の下、キューバ全島が無政府状態となった」として、本国政府に軍事介入を要請。ローズヴェルト大統領は、30隻の軍艦を派遣し、新政権に圧力をかけました。 はたして、学生幹部会の地下活動家から新政権の内相に就任したアントニオ・ギテーラスは、労働者の要求を認める立場から労働省の設立、8時間労働法、労働国有化法、最低賃金法などをあいついで打ち出したほか、民族主義的立場から50パーセント法(雇用者の半分をキューバ人とし、総賃金の半分はキューバ人に支給することを義務づける法律)を制定。さらに、電力料金の4割引き下げを決定し、米国系電力会社がこれを拒否すると、電力会社の国有化を宣言しました。このほか、ギテーラスは、米系砂糖会社の国有化や農地改革にも手を付けようとします。 これらの政策は、当然のことながら、キューバの利権を独占していた米国にとっては絶対に許容しえないもので、バティスタは参謀総長に就任したものの、米国と対立する新政権は長くはもたないと考え、入閣の依頼には応じず、様子見の姿勢を取っていました。 一方、新政権を認めないウェルズは前陸相のフェレルに政権転覆の準備を指示。300人の将校団がウェルズの宿泊するホテル・ナシオナルに終結。これに対して、左翼勢力は“赤軍”を組織し、各地で政府軍バティスタ派、将校団(政府軍内の反バティスタ派)、赤軍の三つ巴の闘いが展開されます。 当初、ウェルズは将校団が他の2派をすぐに制圧して事態を収拾するものと期待していましたが、優勢なのはバティスタ派で、政府軍がホテル・ナシオナルを攻撃すると、将校団はあっさり降伏。そこで、ウェルズは将校団を見限って、バティスタを左翼勢力から切り離すことを決断。10月5日には記者会見を開いて、グラウ政権を「共産主義的で無責任な政府」と非難したうえで、「(バティスタは)反共であることにおいてキューバを代表する唯一の人物である。この事実ゆえに、キューバの貿易、財政上の利害代表の大半はバティスタを支持している」と述べ、バティスタとの共闘の方針を明らかにしました。 米国の意に背かない限り、米国が攻撃を加えることはないとの保証を得たバティスタは、11月1日、将校団400人のデモ隊を襲撃して参加者ほぼ全員を捕らえ、兵営に連れ込んで射殺。ついで、バティスタは赤軍の殲滅作戦に着手し、左派系の影響下にあった製糖工場を次々に制圧しました。 さらに、翌1934年1月14日、グラウ政権が料金引き下げに応じない電力会社の接収を発表すると、米戦艦ワイオミングが威圧のためハバナ港に侵入。これを受けて、バティスタはグラウの辞任を要求し、グラウ政権を崩壊に追い込みます。これを受けて、1月19日、カルロス・メンディエタ・イ・モンテフール(独立戦争の英雄で、国民党の重鎮として、かつて大統領選挙でマチャドと戦ったこともある人物)を臨時大統領とする“国民統一政府”が発足。以後、バティスタは政権の陰の実力者として暗躍し、短期間で政権が目まぐるしく交替する時期が続きました。 それでも、この時代には、政治犯の釈放(1937年)、共産党の合法化、土地分配法の制定(1938年)などのリベラルな政策も行われ、砂糖および煙草産業の国家管理や社会保障政策も導入されています。 さらに、1939年には憲法制定議会が招集され、国家主権の確立、全国民の平等(=人種・性・階級による差別の禁止)、大統領の再選禁止、普通選挙、大地主制度(=米系砂糖会社による土地の独占)の廃止、土地所有限度の設定などを定め、当時のラテンアメリカでは最も民主的と歌われた1940年憲法が施行されました。 そして、1940年7月、新憲法の施行を受けて大統領選挙が実施されると、バティスタは民主社会主義同盟の候補者として立候補して当選。バティスタ政権は、発足後すぐに、ドイツと戦っていた英国に膨大な量の砂糖を無償で提供しただけでなく、1941年2月には独伊両国の領事館員を追放。さらに、同年12月の真珠湾攻撃を機に米国が第二次大戦に参戦すると、すぐさまこれに呼応して、12月11日には枢軸国に対して宣戦を布告し、米軍に対独戦用の海軍基地を提供するなど、米国に忠誠を尽くし、自らの権力基盤を盤石なものとしました。 こうして、1944年までの大統領任期を乗り切ったバティスタは、後継者としてカルロス・サラドリガスを推しましたが、同年の大統領選挙では、反バティスタ勢力のキューバ革命党アウテンティコから元大統領のグラウが立候補し、当選。このため、在任中の不正の追及を恐れたバティスタはフロリダに逃亡し、デイトナビーチでカジノを経営しながら、マフィアとのコネクションも強化しつつ、キューバ政界復帰のタイミングをうかがうようになりました。 一方、グラウ政権下のキューバは、第二次大戦後の欧州で砂糖の需要が拡大したことに加え、米国もキューバからの砂糖輸入割当を大幅に増やしたため、空前の好景気を呈していました。こうした状況の下では、1940年憲法に規定された大地主制度の廃止など、すっかり忘れ去られていたというのが実情で、政府要人や官僚は“改革”への興味を失い、権力の乱用と汚職による不正蓄財に熱心でした。 与党アウランティコの現状を憂えた人々は、1947年、腐敗の根絶を掲げて同党から分裂し、キューバ革命党オルトドクソを創立しましたが、党首のエドゥアルド・チバスの自殺もあって党勢は伸び悩みます。 こうした状況を見て取ったバティスタは、1948年の選挙で上院議員に立候補して政界に復帰。さらに、1952年の大統領選挙にも立候補しましたが、オルトドクソのロベルト・アグラモンテの前に苦戦を強いられました。このため、同年3月10日、バティスタは軍事クーデターを決行し、力ずくで大統領に就任。親米派の政権復帰を歓迎した米国は、直ちに、バティスタ政権を承認します。 当然のことながら、クーデターによる政権奪取に対しては国民の批判も強かったのですが、バティスタは、米国政府・企業、カジノ経営時代に関係を築いたマフィアと結託してこれを抑え込み、キューバ国内における彼らの利権を保護する代償として、米国から巨額の支援を引き出し、それらを私物化していきます。この結果、キューバの農業や工業には、従来以上に米国資本が流れ込み、国民の貧困は放置されたまま、キューバ経済は米国に対する隷属の度合いを一層強めていきました。 一方、武力で政権を掌握したバティスタを相手に、アウランティコをはじめとする既成政党は話し合いでの政権交代を要求するとしていましたが、党内対立から反バティスタ勢力は結集されず、国民の間には政治に対する閉塞感が蔓延。こうした中で、1952年の議会選挙にオルトドクソから立候補した青年弁護士のフィデル・カストロは、バティスタのクーデターによる選挙の無効化に憤慨し、バティスタを憲法裁判所に告発していましたが、裁判所はこれを握り潰してしまいます。 そこで、カストロは、アベル・サンタマリーア、ニコ・ロペス、ヘスス・モンタネら同志とともに、1953年7月26日、サンティアゴ・デ・クーバのモンカダ兵営を襲撃し、キューバ革命の狼煙を上げました。 モンカダ兵営の襲撃は失敗し、逮捕されたカストロは懲役15年の判決を受けて投獄された後、国外へ追放されます。しかし、亡命先のメキシコで、エルネスト・ゲバラ(チェ・ゲバラ)と出会い、同氏と共に革命運動を組織。1956年12月、グランマ号でキューバ島に再上陸し、シエラ・マエストラ山中を拠点に反バティスタのゲリラ戦を展開。バティスタ政権の腐敗に対する国民の不満を吸収する形で、革命軍は徐々に勢力を拡大し、1958年12月29日にはサンタ・クララの戦いで勝利を収めます。 こうして、政府軍の敗北が決定的になると、1958年12月31日の夜、バティスタはハバナ市内のコロンビア兵営で催された新年祝賀パーティーの席上で突如として辞任演説を始め、日付の変わった1959年の元日未明、クバーナ航空機でキューバを脱出し、ドミニカ共和国へ亡命。その後、政府軍のカンティーヨ将軍は“臨時政府”の成立を宣言したものの、カストロはこれを認めず、革命軍がハバナに入城し、キューバ革命が達せられました。 一方、亡命後のバティスタは、ドミニカ、ポルトガルを経て、最後はフランコ政権下のスペインで投資家として活動していましたが、1973年、マルベーリャの郊外の自宅で心臓病で亡くなりました。 なお、バティスタ時代のキューバについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-03-31 Tue 04:00
現在、世界で猛威をふるっている新型コロナウイルスに対して、結核予防のBCGワクチンが有効かどうかを調べるための臨床治験が、昨日(30日)から、メルボルンの一部の医療従事者を対象に開始されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1952年12月1日にキューバが発行した郵便税切手で、“BCGで子供に予防接種を!”のスローガンと子供の顔が描かれています。 キューバでは、革命以前の1938ー44年および1949-58年に、毎年11月から翌年2月までの間、国家結核会議による児童病院の建設資金を集めるため、郵便物1通につき、1センタボ切手を強制的に貼付させていました。今回ご紹介の切手もその1枚で、1952年の郵便税切手は、同図案で4種の色違い(青・赤・緑・橙)があります。 さて、BCGワクチンは、もともと牛に感染する牛型結核菌の毒性を弱めたもので、ワクチンの液を左腕に1滴たらし、はんこ型の注射を2回押して接種します。 20世紀初頭、フランスのパストゥール研究所のアルベール・カルメットとカミーユ・ゲランが元になる菌株を作製。1921年、パリで、母乳に混ぜて乳児に口から投与され、乳児結核症に対して顕著な予防効果があったことで世界的に注目され、結核予防のための弱毒生菌ワクチンとして各国に広まりました。わが国では、1924年、志賀潔が直接カルメットから分与された菌株(日本株)に由来するBCG Tokyo172株が導入されています。なお、BCGは、その後、国ごとに継代培養されていったため、国ごとに遺伝的な違いが生じることになりました。 結核予防からスタートしたBCGワクチンですが、結核以外にも、膀胱癌の治療やさまざまな感染症に対して免疫力を高める効果があるとされています。また、新型コロナウイルスに似たウイルスの感染者にBCGワクチンを使うことで、ウイルスの数が減ったという研究結果もあります。じっさい、今回の新型コロナウイルスに関しても、ロシア株や日本株のBCGワクチンを接種されている国では、そうではない国に比べて感染率や死亡率が低い傾向があることが指摘されていました。 そこで、メルボルン大学教授でマードック小児医療研究所の感染症調査責任者を務めるナイジェル・カーティス教授らのチームが、WHO(世界保健機関)の承認を受け、オーストラリアで医療従事者4000人を対象に半年間の臨床実験を実施することになりました。過度な期待は禁物とはいえ、よい結果が出ることを期待したいですね。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-18 Sun 01:31
キューバ第一次独立戦争(十年戦争)の指導者で、キューバでは“国父”とも称されるルロス・マヌエル・デ・セスペデスが、1819年8月18日に誕生してから200年周年となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1954年にキューバで発行されたセスペデスの肖像切手です。 セスペデスは、1819年8月18日、スペイン植民地時代のキューバ・オリエンテ州(現グランマ州)のバヤモで生まれました。 バルセロナ大学を卒業後、弁護士資格を取得しましたが、1843年、スペインで行われた革命運動に関与したため投獄され、釈放後、キューバに帰国し、バヤモ近郊のヤラに砂糖のプランテーションを購入し、弁護士の傍ら、製糖工場を経営していました。 当時、キューバ島内の地主たちの中には、権威主義的で旧態依然たるスペインの植民地政府とその腐敗・無能に不満を持つ者も多く、1867年、彼らはキューバ使節団の本国国会への派遣を求めましたが、スペイン側はこれを拒否。このため、セスペデスらはスペインからの独立に向けた秘密結社、ブエナ・フェを結成します。 そして、1868年10月10日、セスペデスは、自らの工場の奴隷を解放して147人の叛乱軍を組織し、スペインからの独立と奴隷の解放を宣言しました。これが、“ヤラの叫び”と呼ばれる事件で、1878年まで続く“十年戦争”の開幕を告げる狼煙となります。 ヤラでの蜂起は数日間でほぼ鎮圧されましたが、叛乱軍は州内のバヤモに移動して要塞を構築。オリエンテ州を拠点にキューバ東部全体に勢力を拡大します。バヤモは1869年1月12日に陥落しましたが、1月に入ると叛乱は中部カマグエイ州にも波及し、カマグエイ州で開催された議会は、4月10日に共和国憲法を発布し、12日にセスペデスをキューバ共和国の初代大統領に選出しました。 その後、セスペデスは独裁を批判されて1873年10月27日に解任され、1874年2月27日、山中に潜伏していたところをスペイン軍に殺害されます。しかし、独立派の抵抗は続き、1878年2月10日に締結された停戦協定では、キューバ植民地の財務状況を改善するための諸改革が約束されたほか、スペイン国会へのキューバ代表権も認められました。 ちなみに、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、1959年のキューバ革命の前史として、セスペデス以来のキューバ独立運動史についてもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 武蔵野大学生涯学習の秋講座で、以下の講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ・2019年10月13日(日) 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) ・2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) 切手と浮世絵 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-06-08 Sat 03:47
きょう(8日)は世界海洋デーです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1949年にキューバが発行した“ピノス島”の切手で、同島と周辺海域の地図が描かれています。 ピノス島は、キューバ本島西部南岸のバタバノ湾から南西100キロの地点にあり、ハバナやピノール・デル・リオからほぼ真南に位置しています。バタバノ湾は、キューバ島南西部、フベントゥド島とサパタ半島に囲まれた浅い湾で、多くの小島や岩礁があり、付近は海綿動物の産地として有名です。1514年、コンキスタドールのディエゴ・ベラスケスは、同湾に面したキューバ島南岸、現在のスルヒエドロ・デ・バタバノの近くに居住地を築いたのがスペイン領キューバの原点となりました。 その湾外にあるピノス島は、島中に松の木が多数あったことが島名の由来で、日系移民の間ではスペイン語名を直訳した“松島”と通称されていました。 1898年の米西戦争後に結ばれたパリ条約でスペインはキューバの領有権を放棄しましたが、ピノス島はキューバの領土を定めた覚書からその名が脱落していたため、米国とキューバの間で領有権をめぐる対立が発生。このため、1907年、米国最高裁がピノス島は合衆国に属するものではないとの裁定を下したため、米国政府は、それ以上の争いを断念し、1925年に米国とキューバの間で取り交わされた覚書により、島の領有権はキューバのものと確定しています。 キューバ本島とは異なり、ピノス島の土壌はサトウキビの生育に全く適していないため、スペイン時代から同島には政治犯収容所が設置され、囚人たちは柑橘類の栽培などの労働に従事させられていました。キューバ独立運動の指導者として知られるホセ・マルティやモンカダ兵営襲撃事件を起こしたフィデル・カストロらモンカディスタも、この収容所で拘束されていたことがあります。 ちなみに、ピノス島の政治犯収容所でのカストロについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-05-19 Sun 10:27
きょう(19日)は、1895年5月19日に亡くなったキューバ独立の英雄、ホセ・マルティの忌日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1953年にキューバで発行されたホセ・マルティ生誕100周年の記念切手のうち、ハバナの中央公園にあるマルティ像を取り上げた1枚です。 ホセ・フリアン・マルティ・ペレスは、1853年、ハバナに生まれました。 1865年、詩人で独立思想家のラファエル・マリア・メンディベが校長を務める公立学校に入学。メンディベを通じて、文学者や独立活動家と交流を持つようになり、1867年にハバナの美術専門学校に入学した後は、愛国的な詩や戯曲をさかんに書くなど、早熟な少年でした。 第一次独立戦争勃発後の1869年、友人のフェルミン・バルデス・ドミンゲス宅がスペイン側の家宅捜索を受けた際、スペインの将校となった別の友人を“裏切り者”と罵倒したマルティの手紙が押収され、反逆罪の容疑で逮捕。懲役6年の判決を受け、ピノス島の収容所で強制労働に従事させられます。 父親の奔走により、1870年末に釈放され、国外退去処分を受けてスペインへ渡ると、航海途中に記した『キューバに於ける政治犯刑務所』をマドリードで出版。サラゴサ大学などで法律や文学、哲学などを学びました。 1874年末以降、フランス、ニューヨーク、メキシコ、グアテマラを経て、1878年、第一次独立戦争休戦後のキューバに戻ったものの、独立運動を展開したため、再び亡命を余儀なくされています。 その後、メキシコ、ニューヨークなどを経て、ベネズエラのカラカスに渡り、雑誌『レビスタ・ベネソラーナ』を創刊しましたが、時の為政者グスマン・ブランコを批判したことで、国外退去を余儀なくされたため、1881年、当時多くの亡命キューバ人の滞在していたニューヨークに居を移しました。ニューヨークでのマルティは、小説家、詩人、評論家、教育者、ジャーナリストとして活動し、知識人としての地位を確保する傍ら、パラグアイおよびアルゼンチンの駐米領事、ウルグアイの駐米領事・国際金融会議代表を歴任しています。 しかし、キューバ独立への思いは断ちがたく、1892年1月10日、全ての地位・役職を放擲し、独立活動に専念すべく、キューバ革命党を創立。①“キューバの完全独立の達成、スペイン領プエルトリコの独立の推進・援助(併合主義の拒絶)のための戦争の準備、② 在外独立諸勢力の統一とキューバ内の勢力との連絡の確立、③カウディージョ主義・軍国主義的逸脱の排除、④“共和主義的精神・方法による戦争”の実施に寄与するような民主的諸原則の順守、を綱領として掲げました。 マルティの認識によれば、第一次独立戦争の後、スペインはキューバに形式的な自治を与えたものの、キューバを独立させる気は毛頭なく、キューバの独立は武力で勝ち取らねばなりません。 また、在米キューバ人の中には、富裕層を中心に、スペインからの独立後、“進歩と民主主義の国”にして、経済的な結びつきが強い米国への統合を求める者も少なくありませんでしたが、マルティは、「米国に統合してもキューバ人は幸せにならない」「(ニューヨーク在住の)私は(米国という)怪物の中に住んでいるので、その内臓をよく知っている」として、あくまでも独立を主張しました。 1894年、革命の資金・武器調達のためにニューヨークを出発してメキシコに向かったマルティは、武器を満載した船3隻を得た後、1895年1月30日、ドミニカ共和国のサン・ドミンゴに寄港し、第一次独立戦争の英雄、マクシモ・ゴメス・イ・バエス将軍と合流。経済危機に陥ったキューバ各地で独立闘争が激化したのを確認すると、3月25日、マルティとゴメスはジャマイカのモンテクリスティで、事実上の独立宣言ともいうべきモンテクリスティ宣言を発表。4月1日、ジャマイカを出発し、ハイチを経て、4月11日、キューバ島東部のプライータ海岸に上陸し、第二次独立戦争が始まりました。 マルティらはキューバ各地で闘争を繰り広げましたが、兵力に勝るスペイン軍を相手に独立派は苦戦を続けます。そして、5月19日、ドス・リオス付近で戦闘に際して、「あなたは独立後に必要な人物なのだから、野営地に留まってほしい」とのゴメスの制止を振り切って進撃したところ、スペイン植民地軍の銃撃に遭い、戦死しました。 ちなみに、マルティの遺体は、当初、スペイン側によって共同墓地に投げ入れられましたが、革命軍は彼の遺体を回収するために、スペイン軍と熾烈な戦いを繰り返して奪還に成功。後に、オリエンテ州第一管区総司令官の指示により、サンティアゴ・デ・クーバのサンタ・イフィエネ墓地に埋葬されました。 なお、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、フィデル・カストロと1959年のキューバ革命に大きな影響を与えたホセ・マルティについてもまとめていますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 * けさ、アクセスカウンターが205万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ 〈岡田英弘三回忌 シンポジウム〉岡田英弘の歴史学とは何か ★★ 2019年 5月26日(日) 14:00~ (13:30開場/17:00終了予定) 早稲田大学 3号館 704教室 (東京都新宿区西早稲田1-6-15/東京メトロ東西線「早稲田駅」徒歩5分 副都心線「西早稲田駅」徒歩17分) * 資料代として1000円が必要です。 “世界史”は13世紀モンゴルから始まった!! 朝鮮史を出発点に、満洲史、モンゴル史と深めてゆくなかで、「13 世紀のモンゴル帝国がユーラシア大陸の東西をつなぎ、“世界史”が始まった」と、「世界史とは何か」を初めて提示しえた歴史学者、岡田英弘氏(1931-2017)。その仕事を改めて見直し、次代に継承する! このシンポジウムに、内藤も登壇してお話しします。宜しかったら、ぜひ、ご参加ください。 お申し込みやイベントの詳細はこちらをご覧ください ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-03-15 Fri 14:55
所得税の確定申告は今日(15日)までですが、皆さんは無事に済まされましたか?手回し良く2月中に済ませたという方も多いのでしょうが、僕は今年もまた〆切ギリギリ、先ほどようやく書類を提出したところです。というわけで、毎年恒例“TAX”ネタとして、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1914年にキューバで発行された不足料切手です。 近代郵便が料金の前納を原則としている以上、料金の未納・不足というのは一定の割合で必ず発生します。そうした場合、郵便サービスを提供する側としては、不足分+ペナルティを受取人から徴収しようとするわけですが、そうしたペナルティ込みの料金を徴収するための切手、すなわち不足料切手を発行している国というのは少なからずあります。(日本では発行されたことがありません) 今回ご紹介のキューバの切手もその一例で、印面の下部に、“受け取るべき料金”を意味する“TASA POR COBRAR”の表示が入っていますが、この“TASA”の語には、英語の“TAX”に相当する意味もあります。ちなみに、郵便料金が不足している場合、国際的には、フランス語で郵便料金(=郵税)を意味する“TAXE”の頭文字、“T”を表示するのが一般的ですが、スペイン語圏の人の感覚では、このTはTASAのTと受け止められるのかもしれません。 さて、この切手が発行された当時のキューバは、名目上は独立国でしたが、政治的・経済的に、事実上、米国の支配下に置かれており、米国の影響はキューバ社会の様々な面に及んでいました。この切手も米国製で、米国の不足料切手ともよく似た雰囲気です。 なお、1959年の革命以前のキューバの状況については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、ご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-03-06 Wed 11:07
米政府は4日(現地時間)、1959年の革命後にキューバ政府が革命後に接収した家屋や土地などの財産について、亡命キューバ人を含む米国人が損害賠償請求訴訟を提起することを認めると発表しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1928年3月22日、ハバナから米国宛の絵葉書で、絵面には米国資本の製糖工場が取り上げられています。 キューバの砂糖産業は、1878年に終結する十年戦争(第一次独立戦争)以前は、サトウキビ畑と製糖工場、奴隷の住居、家畜小屋、倉庫などが1ヵ所に集まった“インヘニオ”の形態が主流を占めていましたが、十年戦争を経て、遠隔地の畑と工場、港湾を鉄道で結ぶ“セントラル”へと産業形態が徐々に変化していきます。 その背景には、①欧州市場で甜菜糖が増加して砂糖価格の暴落、②奴隷制の廃止(1886年)により従来型のプランテーション経営が困難になったこと、③疲弊したプランターたちが土地や生産施設を米国資本に売却し、土地の集約が進んだこと、④技術革新により、鋼鉄製の線路が安価につくられるようになったこと、などの要因がありました。 1890年から1894年の5年間でキューバの砂糖生産は50万トンから100万トンに倍増しましたが、キューバ産砂糖の9割以上が米国に輸出されるようになり、キューバ経済は完全に米属に従属することになります。 さらに、米西戦争を経て、1902年、キューバは“独立”を達成しますが、これに先立つ憲法制定の過程で、米国はキューバ制憲議会に対して、①キューバの独立が脅かされたり、米国人の生命・財産が危険にさらされたりした場合には米国は介入できる、②キューバは(米国以外の)外国から資金を借りてはいけない、③キューバ政府は(米国以外の)外国に軍事基地を提供したりしてはいけない、③キューバ政府は米軍事基地を提供する義務を負う(この結果、設置されたのが、現在も存在するグアンタナモ米軍基地)、など8項目からなる付帯事項(プラット修正条項)を押し付けました。 こうして、キューバは実質的に米国の支配下に置かれ、砂糖や煙草などの主要産品は米資本が独占するようになったばかりか、製糖所や煙草工場を動かすための電力、輸送のための鉄道、菓子や製薬などの副産物の生産などの関連産業を含め、米国はキューバの経済全体を支配します。 たとえば、1959年に革命が達せられた時点で、米国系の砂糖会社が支配していた農地は全農地の47.5%、耕作地の70-75%パーセントを占めていました。米資本の土地では砂糖以外の作物の栽培は許されなかったため、キューバでは主食のコメのみならず、砂糖以外のほぼすべての食糧を輸入に頼らざるを得ず、革命前の食糧自給率は2割以下というありさまでした。 革命当初、フィデル・カストロ(以下、フィデル)は必ずしもソ連型の社会主義国家の建設を志向していたわけではなく、上述のような、あまりにも極端な富の偏在を是正する“改良主義”の立場に立っていた。実際、革命直後の大統領だったウルティアは、当初、フィデルは共産主義者ではないとしてフィデルとは個人的に良好な関係を築こうとする一方で、チェ・ゲバラをはじめM26の共産主義者をフィデルから引き離すべきだとも主張していたほどです。 こうした“改良主義”の最大の目玉が、5月17日に制定された第一次農業改革法でした。 革命戦争の最中、叛乱側の支配していたシエラ・マエストラ山中の解放区やオリエンテ州のラウル・カストロ指揮下の第二戦線、カミーロとチェが勢力下においたシエンフエゴスなどでは、2カバジェリーア(約26.8ヘクタール。1カバジェリーアは約13.4ヘクタール)までの土地を農民に対して無償で分与する農地改革が実施されていました。 革命後の1959年2月10日の閣僚会議では、こうした農地改革をキューバ全土で実施するための農業改革法のための委員会の設置が決定され、ウンベルト・ソリ・マリン農相が委員長に就任します。ただし、グアテマラのアルベンス政権がユナイテッド・フルーツ社と対立して1954年に崩壊に追い込まれたこともあって、政権内には、米国との対立を招きかねない農業改革には消極的な閣僚も少なくありませんでした。 法案は4月28日の閣議提出を経て、5月5日、閣議で承認。さらに同17日には、革命戦争中に総司令部の置かれていたシエラ・マエストラ山中のラ・プラタで、大統領のウルティア、農相のソリ・マリンも出席して、フィデルが法案に署名する記念式典も行われ、(第一次)農業改革法は正式に公布されました。 この時の農地改革では、土地の最高所有限度面積は30カバジェリーア(約403ヘクタール)とされ、それを超える土地は有償で接収されています。その上で、2カバジェリーア以下の土地しか持たない零細農民や小作人、あるいは営農希望者には、2カバジェリーアまでは無償で、2-5カバジェリーアまでは有償で土地が与えられました。ただし、それまで、米系企業による大規模プランテーションが農業の中心を占めていたキューバでやみくもに農地の細分化を行えば生産性が著しく低下することから、政府主導で大規模な国有農場や協同組合農場の形成が促進され、富の偏在の象徴となっていた外国人・外国企業による土地の所有も併せて禁止されています。 その後、1960年4月4日、キューバ政府は農業改革法に基づいてユナイテッド・フルーツ社の農場を接収したのを皮切りに、6月10日、鉱山法および石油法を公布し、製油所を接収して国有化します。さらに、8月19日、米国がキューバに対する経済封鎖を発動すると、フィデルは米資本の工場や農園を次々に接収するとともに、9月2日には“第一ハバナ宣言”を発し、キューバは米州における“自由の地”であることを表明し、8月から10月にかけて、電力、銀行、鉄道、繊維、食品、煙草など、あらゆる業種の米系企業と大手企業が次々と国有化されていきました。 このため、10月13日、米国政府はついにキューバに対して全製品の禁輸を宣言し、経済封鎖に乗り出すと、キューバ政府は13・14両日で400の銀行、製糖工場、その他工場を国有化して対抗しました。 さて、米国は1996年にキューバ制裁強化を目的とした「ヘルムズ・バートン法」を制定し、その第3章で、接収財産に関する損害賠償請求についての規定も設けていましたが、同章については影響が大きいなどとして歴代大統領が凍結を続けてきました。今回、その凍結解除に踏み切ったのは、キューバへの圧力を強めるとともに、ベネズエラのマドゥロ大統領を支持するキューバ政府の方針に抗議する狙いがあるとみられています。 なお、キューバ革命以降の米系資産の接収・国有化と米国の報復措置については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-09-23 Sun 04:53
きょうは秋のお中日。マカオ滞在中の僕は今年も行きそびれてしまいましたが、お墓参りの日です。というわけで、毎年恒例、“お墓”の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1953年、キューバが発行した“ホセ・マルティ生誕100周年”の記念切手のうち、サンティアゴ・デ・クーバのサンタ・イフィエネ墓地内にあるホセ・マルティ廟が描かれた1枚です。 1892年4月10日、キューバ革命党を創立したホセ・マルティは、メキシコで武器を満載した船3隻を得た後、1895年1月30日、ドミニカ共和国のサント・ドミンゴに寄港し、第一次独立戦争の英雄、マクシモ・ゴメス・イ・バエス将軍と合流します。経済危機に陥ったキューバ各地で独立闘争が激化したのを確認すると、3月25日、マルティとゴメスはジャマイカのモンテクリスティで、事実上の独立宣言ともいうべきモンテクリスティ宣言を発表。4月1日、ジャマイカを出発し、ハイチを経て、4月11日、キューバ島東部のプライータ海岸に上陸し、第二次独立戦争が始まりました。 マルティらはキューバ各地で闘争を繰り広げましたが、兵力に勝るスペイン軍を相手に苦戦。そして、5月19日、ドス・リオス付近での戦闘に際して、「あなたは独立後に必要な人物なのだから、野営地に留まってほしい」とのゴメスの制止を振り切って進撃したところ、スペイン植民地軍の銃撃に遭い、戦死しました。 その後、マルティの遺体は、当初、スペイン側によって共同墓地に投げ入れられましたが、革命軍は彼の遺体を回収するために、スペイン軍と熾烈な戦いを繰り返して奪還に成功。後に、オリエンテ州第一管区総司令官の指示により、サンティアゴ・デ・クーバのサンタ・イフィエネ墓地に埋葬されました。切手に描かれた墓廟は、1951年6月30日に完成し、高さ24メートル。墓廟の前には、常に、護衛の兵士3人が立っています。 なお、ホセ・マルティについては、主に、フィデル・カストロに与えた影響などを中心に、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、いろいろな角度からまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-07-04 Wed 01:46
きょう(4日)は米国の独立記念日です。というわけで、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』に関連して、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1943年7月23日、キューバ島グアンタナモの米海軍基地内の郵便局から差し出された葉書です。 1898年の米西戦争は、1895年から行われていたキューバの独立闘争を支援することが大義名分でしたが、実際には、1898年8月12日の停戦を経て、12月10日に和平条約として米西間でパリ条約が結ばれると、キューバは保護国化されて米軍政が始まります。 その後、1902年にキューバは“独立”を達成しますが、これに先立つ憲法制定の過程で、米国はキューバ制憲議会に対して、①キューバの独立が脅かされたり、米国人の生命・財産が危険にさらされたりした場合には米国は介入できる、②キューバは(米国以外の)外国から資金を借りてはいけない、③キューバ政府は(米国以外の)外国に軍事基地を提供したりしてはいけない、④キューバ政府は米軍事基地を提供する義務を負う、など8項目からなる付帯事項(提案した米議員の名前から、“プラット修正条項”と呼ばれています)を押し付けました。 このうち、上記の④に基づき、1903年2月23日、米国はキューバ島東南部のグァンタナモ湾に面する116平方キロの土地を海軍基地として永久租借する権利を獲得しました。これがグアンタナモ米軍基地で、形式上の主権はキューバ側にあり、米国は“租借料”として、長年、毎年金貨2000枚(4000米ドル)を支払っていました。 1959年のキューバ革命で成立したフィデル・カストロ政権は、米国による基地租借を非合法と非難しているため、租借料は1度受け取ったのみで、その後は受け取りを拒否し、基地周辺に地雷を敷設しています。基地の敷地内は、米軍法のみが適用される治外法権区域になっているため、1970年代以降、キューバやハイチからの難民を収容する施設が設けられました。後に、収容施設は、アフガニスタン戦争およびイラク戦争の捕虜が収容されるようになり、現在でも、40人が収容されています。 ★★★ 全日本切手展のご案内 ★★★ 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。 なお、会期中の21日、内藤は、以下の3回、トーク・イベントをやります。 13:00・9階会議室 「国際切手展審査員としての経験から テーマティク部門」 14:30・8階イベントスペース 「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」 16:00・8階イベントスペース 『世界一高価な切手の物語』(東京創元社) ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-05-19 Sat 01:41
きょう(19日)は、1895年5月19日に亡くなったキューバ独立の英雄、ホセ・マルティの忌日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1953年にキューバが発行したホセ・マルティ生誕100周年の記念切手のうち、作家としてのマルティのイメージを取り上げた1枚です。 ホセ・フリアン・マルティ・ペレスは、1853年、ハバナに生まれました。 1865年、詩人で独立思想家のラファエル・マリア・メンディベが校長を務める公立学校に入学。メンディベを通じて、文学者や独立活動家と交流を持つようになり、1867年にハバナの美術専門学校に入学した後は、愛国的な詩や戯曲をさかんに書くなど、早熟な少年でした。 第一次独立戦争勃発後の1869年、友人のフェルミン・バルデス・ドミンゲス宅がスペイン側の家宅捜索を受けた際、スペインの将校となった別の友人を“裏切り者”と罵倒したマルティの手紙が押収され、反逆罪の容疑で逮捕。懲役6年の判決を受け、ピノス島での収容所での強制労働に従事させられます。 父親の奔走により、1870年末に釈放され、国外退去処分を受けてスペインへ渡ると、航海途中に記した『キューバに於ける政治犯刑務所』をマドリードで出版。サラゴサ大学などで法律や文学、哲学などを学びました。 1874年末以降、フランス、ニューヨーク、メキシコ、グアテマラを経て、1878年、第一次独立戦争休戦後のキューバに戻ったものの、独立運動を展開したため、再び亡命を余儀なくされています。 その後、メキシコ、ニューヨークなどを経て、ヴェネズエラのカラカスに渡り、雑誌『レビスタ・ベネソラーナ』を創刊しましたが、時の為政者グスマン・ブランコを批判したことで、国外退去を余儀なくされたため、1881年、当時多くの亡命キューバ人の滞在していたニューヨークに居を移しました。ニューヨークでのマルティは、小説家、詩人、評論家、教育者、ジャーナリストとして活動し、知識人としての地位を確保する傍ら、パラグアイおよびアルゼンチンの駐米領事、ウルグアイの駐米領事・国際金融会議代表を歴任しています。 しかし、キューバ独立への思いは断ちがたく、1892年1月10日、全ての地位・役職を放擲し、独立活動に専念すべく、キューバ革命党を創立。①“キューバの完全独立の達成、プエルトリコの独立の推進・援助(併合主義の拒絶)のための戦争の準備、② 在外独立諸勢力の統一とキューバ内の勢力との連絡の確立、③カウディージョ主義・軍国主義的逸脱の排除、④“共和主義的精神・方法による戦争”の実施に寄与するような民主的諸原則の順守、を綱領として掲げました。 マルティの認識によれば、第一次独立戦争の後、スペインはキューバに形式的な自治を与えたものの、キューバを独立させる気は毛頭なく、キューバの独立は武力で勝ち取らねばなりません。 また、在米キューバ人の中には、富裕層を中心に、スペインからの独立後、“進歩と民主主義の国”にして、経済的な結びつきが強い米国への統合を求める者も少なくありませんでしたが、マルティは、「米国に統合してもキューバ人は幸せにならない」「(ニューヨーク在住の)私は(米国という)怪物の中に住んでいるので、その内臓をよく知っている」として、あくまでも独立を主張しました。 1894年、革命の資金・武器調達のためにニューヨークを出発してメキシコに向かったマルティは、武器を満載した船3隻を得た後、1895年1月30日、ドミニカ共和国のサント・ドミンゴに寄港し、第一次独立戦争の英雄、マクシモ・ゴメス・イ・バエス将軍と合流。経済危機に陥ったキューバ各地で独立闘争が激化したのを確認すると、3月25日、マルティとゴメスはジャマイカのモンテクリスティで、事実上の独立宣言ともいうべきモンテクリスティ宣言を発表。4月1日、ジャマイカを出発し、ハイチを経て、4月11日、キューバ島東部のプライータ海岸に上陸し、第二次独立戦争が始まりました。 マルティらはキューバ各地で闘争を繰り広げましたが、兵力に勝るスペイン軍を相手に独立派は苦戦を続けます。そして、5月19日、ドス・リオス付近で戦闘に際して、「あなたは独立後に必要な人物なのだから、野営地に留まってほしい」とのゴメスの制止を振り切って進撃したところ、スペイン植民地軍の銃撃に遭い、戦死しました。 ちなみに、マルティの遺体は、当初、スペイン側によって共同墓地に投げ入れられましたが、革命軍は彼の遺体を回収するために、スペイン軍と熾烈な戦いを繰り返して奪還に成功。後に、オリエンテ州第一管区総司令官の指示により、サンティアゴ・デ・クーバのサンタ・イフィエネ墓地に埋葬されました。 なお、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、フィデル・カストロと1959年の革命に大きな影響を与えたホセ・マルティについてもまとめています。なお、当初、同書は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。 いずれにせよ、正式な刊行日等、同書についての詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が7月刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) なお、当初、『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-05-08 Tue 01:37
きょう(8日)は世界赤十字デーです。というわけで、赤十字関連の切手の中から、この1枚を持ってきました(画像はクリックで拡大されます)
これは、1944年にキューバが発行した国際赤十字80年の記念切手で、地球(西半球)と赤十字が描かれています。 赤十字の祖として知られるアンリ・デュナンは、1828年5月8日、ジュネーヴの裕福な実業家の家庭に生まれました。1853年、25歳の頃から、勤務先のルーラン・ソータ-銀行の会計士としてフランスの植民地であったアルジェリアに滞在したことから、現地での起業に興味を持ち、1858年、モン・ジェラミー製粉株式会社を設立します。しかし、同社は水利の便が悪く、事業としてはうまくいきませんでした。このため、彼は、アルジェリアでの事業にフランスの援助を得るため、1859年6月、アルジェリア総督のマック・リオンを追って北イタリアに入り、あわよくばナポレオン3世に直訴しようと考えます。 当時、北イタリアは、イタリア統一戦争(第二次)の最中にあり、フランス・サルディニアの連合軍とオーストリア軍とが熾烈な戦闘を行っていました。 そうしたなかで、6月25日、北イタリアのカスティリオーネに到着したデュナンは、前日の24日に行われたソルフェリーノの会戦でうち捨てられた負傷者の非惨なありさまを目のあたりにし、義憤に駆られ、近隣の農家の婦人や旅行者に協力を呼びかけ、懸命の救護にあたります。 このときの経験をまとめた手記『ソルフェリーノの思い出』は、1862年11月に出版され、「負傷して武器を持たない兵士は、もはや軍人ではない。戦列を離れた一人の人間として、その貴重な生命は守らなければならない。そのためには、かねてから国際的な救護団体をつくり、戦争の時に直ちに負傷者を救助できるようにしておけば、再びソリフェリーノのような悲惨を繰り返すことはないであろう。また、これらの救護に当たる人々は中立とみなし、攻撃しないよう約束することが必要である。」との彼の訴えは、世界中に大きな反響を呼ぶことになりました。 1863年2月、デュナンは、自分の訴えに賛同してくれたギュスタヴ・モアニエ(法律家)、アンリ・デュフール(将軍)、ルイ・アッピア(医師)、テオドール・モノアール(医師)とともにジュネーヴで5人委員会を結成。これが後の赤十字国際委員会の前身となります。その後、同年10月、ヨーロッパ16ヶ国が参加して最初の国際会議が開かれ、翌1864年8月、スイスほか15ヶ国の外交会議で最初のジュネーヴ条約(いわゆる赤十字条約)が調印され、ここに国際赤十字組織が正式に誕生。以後、人道・博愛の精神を根底にした赤十字は、各国で次々と受け入れられてくことになります。ちなみに、今回ご紹介の切手は、ここから起算して80周年となるのを記念して発行されたもので、発行国のキューバは1909年に国際赤十字に加盟しています。 一方、デュナンは、赤十字創設に没頭のあまり製粉会社の経営に失敗し、1867年、破産宣告を受けて失踪。1895年にハイデン(スイス)の養老院で新聞記者によって“発見”されるまで行方不明をなってしまいました。 その後、彼は赤十字誕生の功績が認められ、最初のノーベル平和賞をおくられたほか、ロシア皇后から賜った終生年金を受けて生活の安定を取り戻し、1910年10月、亡くなりました。そして、いまから70年前の1948年、デュナンの功績をたたえ、彼の誕生日にあたる5月8日を世界赤十字デーとすることが第20回赤十字社連盟理事会で決められ、現在に至っています。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が5月に刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-05-03 Thu 10:28
きょう(3日)は“憲法記念日”です。というわけで、世界の憲法関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、キューバで1940年憲法の公布に際して使用された記念印です。 スペイン植民地時代のキューバには植民地独自の憲法はありませんでしたが、1868年に始まる第一次独立戦争の過程で、1869年、独立派がガイマロ憲法を制定。これが、キューバ最初の憲法となります。 その後、1878年のパラグア憲法、第二次独立戦争時のヒマグアユ憲法(1895年)、ラ・ヤヤ憲法(1897年)などが制定されましたが、これらは、独立戦争の過程で作られてこともあって、体系的な憲法というよりも、独立宣言という性格の強いものでした。 1898年の米西戦争で、スペインはキューバの領有権を放棄し、キューバに新政権が樹立するまでは米軍がキューバを占領することになります。これを受けて、米国の“指導”の下、キューバ制憲議会が招集され、米国はキューバに対して、①キューバの独立が脅かされたり、米国人の生命・財産が危険にさらされたりした場合には米国は介入できる、②キューバは(米国以外の)外国から資金を借りてはいけない、③キューバ政府は(米国以外の)外国に軍事基地を提供したりしてはいけない、③キューバ政府は米軍事基地を提供する義務を負う(この結果、設置されたのが、現在も存在するグアンタナモ米軍基地です)、など8項目からなる付帯事項(プラット修正条項)を強要。これを容れたうえで、人民主権・三権分立・国民の生活向上を謳った1901年憲法が採択され、1902年5月、キューバ共和国が発足します。 1924年の大統領選挙で当選したヘラルド・マチャド・イ・モラレスは、軍部の支持を背景に、政権に批判的なメディアや活動家を弾圧。1927年には憲法を改正して大統領の(連続)再選禁止規定は撤廃し、独裁者として君臨しましたが、1929年10月に世界恐慌が発生し、キューバ経済が壊滅的な打撃を受けると、大規模な反マチャド運動が発生。1933年8月、マチャドはバハマの首都、ナッソーに亡命しました。 マチャドの亡命後、臨時政府の大統領にはカルロス・マヌエル・デ・セスペデスが就任しましたが、9月4日にはフルヘンシオ・バティスタ・イ・サルディバル軍曹を首謀者とする下士官がハバナ市内、コロンビア兵営で叛乱を起こし、軍の実権を掌握。バティスタらは、軍の旧首脳部の報復に対抗するため、左派系の学生幹部会と手を組み、“キューバ革命連合”を結成し、ハバナ大学教授のラモン・グラウ・サン・マルティンを首班とする新政権が誕生しました。 その後、キューバ国内では、左翼勢力の“赤軍”、政府軍バティスタ派、将校団(政府軍内の反バティスタ派)の三つ巴の闘いが展開されましたが、最終的に米国の支持を得たバティスタ派が勝利をおさめ、1934年1月19日、バティスタの支援を受けたカルロス・メンディエタ・イ・モンテフール(独立戦争の英雄で、国民党の重鎮として、かつて大統領選挙でマチャドと戦ったこともある)を臨時大統領とする“国民統一政府”が発足します。 以後、バティスタは政権の陰の実力者として暗躍し、短期間で政権が目まぐるしく交替する時期が続きましたが、それでも、政治犯の釈放(1937年)、共産党の合法化、土地分配法の制定(1938年)などのリベラルな政策も行われ、砂糖および煙草産業の国家管理や社会保障政策も導入されました。 そうした流れの中で、1939年には憲法制定議会が招集され、国家主権の確立、全国民の平等(=人種・性・階級による差別の禁止)、大統領の再選禁止、普通選挙、大地主制度(=米系砂糖会社による土地の独占)の廃止、土地所有限度の設定(=大地主制度の廃止)などを定め、当時のラテンアメリカでは最も民主的といわれた1940年憲法が施行されます。今回ご紹介の記念印は、これにあわせて使用されたものです。 ただし、事実上、米国の植民地だったキューバでは、1940年憲法に規定された大地主制度の廃止は行われず、政府要人や官僚は権力の乱用と汚職による不正蓄財に狂奔していました。さらに、1952年3月10日、大統領選挙に立候補したものの苦戦が続いていたバティスタが軍事クーデターを決行し、力ずくで大統領に就任すると、1940年憲法は事実上反故にされてしまいます。 これに対して、1952年の議会選挙にオルトドクソ党から立候補した青年弁護士のフィデル・カストロは、クーデターによる選挙の無効に憤慨し、バティスタを憲法裁判所に告発。しかし、裁判所はこれを握り潰し、既成政党もクーデターを結果的に容認してしまいました。そこで、1953年7月26日、カストロは、バティスタ政権の打倒を掲げて、モンカダ兵営襲撃事件を起こしました。 事件後、カストロは裁判で、革命達成の暁に実施すべき政策として、①1940年憲法の復活、②土地改革(小作人下の土地分与、有償による土地接収)、③労働者の企業利益への参加、④小作人の収益参加率の50%への引き上げ、⑤不正取得資産の返還、の5項目を掲げます。以後、1940年憲法の復活は、反バティスタ派の共通の目標となりました。 1959年1月、バティスタ政権は崩壊し、カストロの革命が成功すると、同年2月7日、革命政府は1940年憲法を修正するキューバ共和国基本法を制定しました。その際、新憲法制定のための議会が早急に開催の予定とされていましたが、実際には、2月7日付で国民議会が解散された後、1976年まで選挙は実施されず、“革命的立法”によって政策が実施されていくことになります。こうして、事情はどうあれ、革命キューバは議会制民主主義国家ではなくなりました。 なお、キューバでの憲法と名のつく法律の復活は、1975年のキューバ共産党第1回大会を経て、1976年2月のことでした。1976年憲法は、1992年の修正で「キューバを社会主義国家と定義(第1条)」、2002年の修正で「社会主義体制は不可侵(変更不可能)」とする条項が追加されているほか、第5条ではキューバ共産党(PCC)のみを合法政党としています。 さて、5月末に刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、このあたりの事情についても詳しくご説明する予定です。正式な刊行日等、同書についての詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。 * 昨日、アクセスカウンターが191万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が5月に刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-04-29 Sun 11:01
きょう(29日)は“昭和の日”です。というわけで、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の中から、昭和史ネタということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1953年にキューバが発行した“ホセ・マルティ生誕100年”の記念切手のうち、マルティが捕えられていたピノス島(現・青年の島:フベントゥド島 )の“政治犯収容所”が描かれています。この収容所は、第二次大戦中、日系人が抑留されていた施設でもありました。ちなみに、実際の収容所内の風景を取り上げた写真絵葉書が手元にありますので、その画像も下に貼っておきます。 ピノス島は、キューバ本島西部南岸のバタバノ湾から南西百キロの地点にあり、ハバナやピノール・デル・リオからほぼ真南に位置しています。ピノス島という地名は、島中に松の木が多数あったことに由来するもので、日系移民の間ではスペイン語名を直訳した“松島”と通称されていました。 キューバといえば、サトウキビの栽培が有名ですが、ピノス島の土壌はサトウキビの生育に全く適していません。このため、スペイン当局はここに政治犯収容所を設置し、同島でも栽培可能な柑橘類の栽培などの労働に従事させていました。キューバ独立運動の指導者として知られるホセ・マルティも、一時、この収容所で拘束されていたことがあり、そのため、生誕100年の記念切手にも収容所の風景が取り上げられたというわけです。 さて、米西戦争後のパリ条約では、スペインはキューバの領有権を放棄しましたが、ピノス島はキューバの領土を定めた覚書からその名が脱落していたため、米国とキューバの間で領有権をめぐる対立が生じます。その後、1907年、米国最高裁がピノス島は合衆国に属するものではないとの裁定を下したため、米国政府は、それ以上の争いを断念。1925年に米国とキューバの間で取り交わされた覚書により、島の領有権はキューバのものと確定しました。 ところで、キューバ島を訪れた日本人の記録としては、1614年7月23日、仙台藩主伊達政宗の命を受けてスペインおよびローマに派遣された支倉常長らがハバナに立ち寄ったのが最初です。明治維新後、日本から北米の移民が始まりましたが、米国では黄禍論に基づく日系移民の排斥が始まったため、その代替地の一つとして、1898年、キューバへの日系移民が始まり、1908年以降はピノス島に移住して果物・野菜の栽培に従事する日本人も現れました。 なお、キューバへの日系移民は1919年から1926年頃が最盛期でしたが、この時点では両国間に正規の国交はなく、1929年の通称暫定取極締結により、ようやく、外交関係が樹立されています。 1941年12月8日、日本が米英に宣戦を布告すると、翌9日、キューバは日本に宣戦布告し、以後、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効するまで両国の外交関係は途絶します。 この間、1941年12月12日、キューバ在住の日本人は“敵性外国人”として、その一部が逮捕・国外退去処分となり、約350人の男性が1946年3月までピノス島のプレディシオ・モデーロ収容所に抑留されました。 1952年、日本とキューバの国交は回復しましたが、1959年の革命で親米バティスタ政権が打倒されると、少なからぬ日本人が混乱を嫌って、キューバを去りました。ちなみに、1950年代後半は、日本からラテンアメリカ諸国への移民がさかんに行われていた時期で(ちなみに、キューバで革命が起きた1959年の日本からブラジルへの移民は年間7000人を超えていた)、そうした中で、キューバは日系移民社会が縮小していた例外的な国でした。 さて、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、そうしたキューバの日系移民について、チェ・ゲバラがどう考えていたかについても触れています。今後、同書については、このブログでも随時ご案内していきますので、よろしくお願いいたします。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が5月に刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-04-18 Wed 05:15
キューバで、きょう・あす(18・19日)、人民権力全国会議が開催され、現在のラウル・カストロ国家評議会議長(首相を兼務)が退任し、新議長が選出される見通しです。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、キューバの首都、ハバナの旧国会議事堂“カピトリオ”を取り上げた絵葉書です。 カピトリオは、1929年、米国の連邦議事堂を模して、ハバナ中心部のホセ・マルティ通りに建てられました。幅208m、高さ98mの4階建てで、円形の柱廊の上にドームが乗せられています。 さて、キューバでは、革命直後の1959年1月17日、政権内の主導権争いから、首相のカルドナが大統領のウルティアに辞表を提出し、後に撤回するという混乱が生じました。 これに対して、2月7日、混乱収拾のため、革命の指導者、フィデル・カストロの首相就任を求める世論が高まり、大衆デモの圧力に押されたカルドナ政権は国民議会を解散します。以後、キューバでは1976年まで選挙は実施されなかったため、革命キューバは議会制民主主義国家ではなくなり、カピトリオが議事堂として使われることもなくなりました。なお、フィデルは、2月16日、「首相は政府の全般的政策を代表する」との条件つきで首相に就任し、革命政権の実権を掌握します。 その後、1976年2月、革命後の新憲法がようやく公布されたことに伴い、人民権力全国会議・人民権力州会議・人民権力地区会議で構成される議会制度が復活しました。ただし、1976年のキューバ憲法では、一般国民による直接選挙制度が採用されているのは地区会議の選挙のみで、州会議と全国会議の議員は地区会議が中心になって選出するものとされていました。現在は、1992年の憲法改正を経て、州会議と全国会議の選挙も直接投票となっています。 ただし、選挙に際しては、地区の候補者委員会が議員定数の4分の1超の“プレ候補者”を選び、州会議と全国会議の候補者委員会が独自の候補者を加味した候補者リストを作成し、地区会議がそれぞれ被選挙権を満たしているかどうか審査したうえで、定数と同数の候補者を決定するという方式がとられているため、誰でも自由に立候補できるわけではわけではありません。したがって、キューバの人民権力全国会議は、たしかに全国レベルの立法機関ではあるものの、多くの日本語メディアで紹介されているように“日本の国会に相当”とは単純に言い切れない面があります。なお、国家元首としての国家評議会議長は、全国会議の議員の中から選出されます。 さて、ことし(2018年)6月はチェ・ゲバラの生誕90年にあたっているため、この機会をとらえ、ゲバラとキューバ革命に関する書籍を刊行すべく、現在、鋭意制作中です。また、これに先立ち、21日(土)12:30~、東京・浅草のスタンプショウ会場にて事前プロモーションのトークイベントを行います。入場は無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(詳細は下記のご案内をご覧いただけると幸いです。) ★★★ トークイベントのご案内 ★★★ 4月21日(土)12:30より、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場内で、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の事前プロモーションのトークイベントを行います。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-01-21 Sun 20:56
米連邦予算をめぐる民主、共和両党の対立により、現地時間20日未明までに、政府の運営を続けるための“つなぎ予算”が成立しなかったため、米政府機関の一部が20日から業務を停止。ニューヨークの自由の女神も4年ぶりに閉鎖されました。というわけで、自由の女神を取り上げた切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1942年2月23日、キューバが発行した“民主主義のために”の切手のうち、自由の女神を取り上げた13センタヴォ切手です。 1933年、“軍曹の叛乱”を主導したフルヘンシオ・バティスタ軍曹は、同年、軍参謀総長となり軍の実権を掌握。さらに、1936年にはミゲル・マリアノ・ゴメス・アリアス大統領の下、国防相兼軍総司令官に就任し、政治の実権を握ります。1940年7月には、新憲法を公布したうえで、大統領に当選し、名実ともにキューバの独裁者となりました。 バティスタは、もともと、スペインのフランコ政権に親和的な姿勢を示していたこともあり、当初、米国はキューバが枢軸陣営に加わることを懸念していました。しかし、バティスタ政権は、発足後すぐに膨大な量の砂糖を英国に無償で提供しただけでなく、1941年2月には独伊両国の領事館員を追放。同年12月の真珠湾攻撃を機に米国が第二次大戦に参戦すると、すぐさまこれに呼応して、12月11日には枢軸国に対して宣戦を布告し、米軍に対独戦用の海軍基地を提供しています。 今回ご紹介の切手は、バティスタ政権の参戦後まもない1942年2月、米国と共に戦うとの旗幟をいち早く鮮明にするために発行したものです。 その後、1944年の大統領選挙で、バティスタの推すカルロス・サラドリガスが敗北し、不正の追及を恐れた彼はフロリダに逃亡。デイトナビーチでカジノを経営しながら、米国マフィアとのコネクションも強化しつつ、キューバ政界復帰のタイミングをうかがうことになります。そして、1948年の選挙で上院議員に立候補して政界に復帰。1952年には軍事クーデターを決行し、大統領に就任しました。 米国は、第二次大戦中、米国への忠勤に励んだバティスタの政権復帰を歓迎。以後、1959年のキューバ革命まで、バティスタは、キューバにおける米国政府、企業、マフィアの利権を保護する代わりに、国家を私物化する状況が続くことになります。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2013-09-03 Tue 10:57
まずは直前になりましたが、告知です。
★★★ ラジオ出演のご案内 ★★★ きょう・あす(3・4日)の両日(場合によってはあさって5日も)、16:30前後から、東海ラジオで放送の「夕焼けナビ」にて、僕のインタビュー(録音)が流れます。お題は、先ごろ1等が現金1万円と発表された来年の年賀はがき。聴取可能な地域の方は、ぜひ、お聞きいただけると幸いです。 さて、米国の64歳女性、ダイアナ・ナイアドさんで先月31日、キューバの首都ハバナから米フロリダ州を目指して出発。約53時間後の現地時間の2日午後、フロリダ州キーウェストの海岸に到着しました。サメを防ぐ柵を使わない遠泳としては世界最長記録だそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます) これは、1957年にキューバが発行したキーウェスト=ハバナ間の航空便就航30年の記念切手で、ハバナとキーウェストの位置を示す地図と初飛行の際の飛行機が描かれています。今回のナイアドさんは、この距離を泳いで渡ったわけで、あらためて、その凄さがわかりますな。 さて、キーウェスト=ハバナ間の航空路線を開拓したのは、パンアメリカン航空(以下、パンナム)です。 パンナムは、民間航空が各国で盛んになってきた1927年3月14日、ファン・トリップが、米空軍の父と呼ばれた軍人のヘンリー・アーノルドらの協力を得て、フロリダ州マイアミを拠点に設立されました。トリップの理想は、航空輸送の大衆化でしたが、当面の目的としては、当時、コロンビアを拠点に展開していたドイツ系の航空会社SCADTAに対抗することで、その手始めとして、1927年10月、キーウェスト=ハバナ間90マイル(144.8キロ)の航空郵便の輸送が計画されます。 当初、10月の初飛行に際しては、フォッカー社のF-7型機が使用される予定でしたが、パンナムが発注した機体の到着は遅れ、納品は同年9月30日になってしまいました。このため、パンナム側は西インド航空のフェアチャイルド機を145.5ドルでチャーターし、10月18日にエアメールを運びました。ちなみに、パンナムがフォッカーF-7を使い、キーウェスト=ハバナ間で最初の旅客輸送を行ったのは、1928年1月16日のことです。 これを機に、パンナムはカリブ海路線を皮切りに、南米、ヨーロッパ、アジアへと路線網を世界各国へ拡大。米国政府の庇護もあり、名実ともに米国のフラッグ・キャリアとして、1970年代まで世界の航空業界に君臨することになりました。 パンナムは1991年に破産し、路線はユナイテッドやデルタに譲渡されてしまいましたが、切手の地図を見ていると、世が世なら、今回の偉業を達成したナイアドさんも、スタート地点のハバナへはパンナムで行ったのかなぁと想像してしまいますな。 ★★★ イベントのご案内 ★★★ ・9月7日(土) 10:15- 切手市場 於 東京・池袋 東京セミナー学院4階5階 詳細は主催者HPをご覧ください。新作の『蘭印戦跡紀行』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 会場ならではの特典もご用意しております。ぜひ遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★ 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より) 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。 * 出版元特設ページはこちらをご覧ください。 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★ 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は9月3日(原則第1火曜日)で、10月以降は、10月1日、11月5日、12月3日、1月7日、2月4日、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2009-10-21 Wed 13:33
昨日(20日)、サントリーホールディングスと子会社のサントリーフラワーズが、世界で初めて実現した青いバラ「「SUNTORY blue rose APPLAUSE」を11月3日に発売すると発表しました。というわけで、きょうは青いバラの切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1955年11月1日にキューバが発行した郵便税切手で、鉢植えのバラに水をやる場面が描かれています。額面は1センタヴォで、同図案で色違いのものが4種ありますが、ここはやはり“青いバラ”の1枚をもってきました。 キューバでは、革命以前の1938ー44年および1949-58年、毎年11月から翌年2月までの間、国家結核会議による児童病院の建設資金を集めるため、郵便物1通につき、1センタヴォ切手を強制的に貼付させていました。今回ご紹介の切手も、そうした目的で発行されたものです。 さて、英語の“Blue Rose”が“不可能”を意味するように、これまで、青いバラは実現不可能とされてきましたが、サントリーは、2004年にパンジーから取り出した青色色素に関わる遺伝子を組み込むことで開発に成功。遺伝子組み換え生物を規制するカルタヘナ法の承認を得た上で、生産・流通・販売体制を整えて販売にこぎ着けたそうです。 実売予想価格は1本2000~3000円程度とお高めですが、いずれ、技術が進めば、今回の切手のような“青いバラ”を自宅の植木鉢で気軽に育てられる日が来るのかもしれませんね。 ☆☆ お待たせしました! 半年ぶりの新刊です ☆☆ 全世界に衝撃を与えた1989年の民主革命と独裁者チャウシェスクの処刑から20年 ドラキュラ、コマネチ、チャウシェスクの痕跡を訪ねてルーマニアの過去と現在を歩く! “切手紀行シリーズ”の第2弾 オールカラーで10月23日、配本予定! 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行:ルーマニアの古都を歩く』 (彩流社 オールカラー190ページ 2800円+税) 10月31日(土) 11:00から、<JAPEX09>会場内(於・サンシャイン文化会館)で刊行記念のトークイベントを行いますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! 『切手が伝える仏像:意匠と歴史』 彩流社(2000円+税) 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! |
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