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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 国際ホロコースト記念日
2024-01-27 Sat 09:27
 きょう(27日)は、1945年1月27日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所が解放されたことにちなみ、“ホロコースト犠牲者を想起する国際デー(国際ホロコースト記念日)”です。というわけで、アウシュヴィッツ関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ消印漏れ

 これは、1944年2月20日、アウシュヴィッツの収容者がクラクフ宛に差し出した郵便物です。本来は、アウシュヴィッツ2局の消印が押されているはずなのですが、消印漏れとなったため、“Nachträglich entwertet(後で消印)”の印で切手が抹消されています。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。

 ちなみに、アウシュヴィッツとその郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもまとめております。同書につきましては、 オンラインサロン・内藤総研にて会員の方向けにサイン本の割引販売も行っておりますので、よろしかったら、こちらで会員登録(無料会員でも可)の上、ご利用いただけると幸いです。

 * 昨日(26日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。次回は2月9日に登場予定です。引き続きよろしくお付き合いください。

★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 1月31日(水) 10:00~ ニッポンジャーナル
 インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。

 2月9日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。


 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30
 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

 武蔵野大学のWeb講座 
 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 

 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。


★ 『龍とドラゴンの文化史』 好評発売中!★

      龍とドラゴンの文化史・帯なし

 辰年にちなんで、中国 の龍を皮切りに、 日本 、朝鮮、琉球、東南アジア、キリスト教世界など、世界の龍について、そのベースとなる文化史や興味深いエピソードなどを切手とともにご紹介します。

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 国際ホロコースト記念日
2022-01-27 Thu 04:51
 きょう(27日)は、1945年1月27日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所が解放されたことにちなみ、“ホロコースト犠牲者を想起する国際デー(国際ホロコースト記念日)”です。というわけで、アウシュヴィッツ関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・フルヴァーキ宛(1943)
      アウシュヴィッツ・フルヴァーキ宛(黒塗り文面)

 これは、1943年4月4日(消印は同9日)、アウシュヴィッツ収容所の収容者がフルヴァーキ(現チェコ)宛に差し出した郵便物で、文面の一部が検閲により黒塗りされています。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。

 ちなみに、アウシュヴィッツとその郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 1月31日(月) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 2月15日(火) 19:00~ 内藤陽介×掛谷英紀オンライントークイベント
 掛谷英紀先生と2022年の“世界”を語る『読書人』のオンラインイベントです。お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。

 武蔵野大学のWeb講座 2021年12月1日~2022年2月8日
 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編その1 ― 黒船来航」

 12月1日から2月8日まで、計7.5時間(30分×15回)の講座です。お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。


★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.2 戦後編』 好評発売中! ★

      切手でたどる郵便創業150年の歴史②表紙 2530円(本体2300円+税)

 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第2巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱った第1巻に続き、第二次大戦後の1946年から昭和末の1989年までを扱っています。なお、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

 ★★ 書籍無料ダウンロードを装った違法サイトにご注意ください!★★

 最近、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史』をPDF化して、無料でダウンロードできるかのように装い、クレジットカード情報を盗み取ろうとする違法サイトの存在が確認されました。

 この種のサイトは多種多様な出版物を無許可で取り扱っているものと思われます。

 内藤および拙著の出版元・販売元ではこのような行為は一切認めておらず、フィッシング詐欺等に巻き込まれる可能性もありますので十分ご注意ください。

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 独ソ戦80年
2021-06-22 Tue 00:44
 1941年6月22日、ドイツ国防軍がソ連に侵入し、いわゆる独ソ戦が勃発してから、ちょうど80年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・クロアチア兵
      アウシュヴィッツ・クロアチア兵(裏面)

 これは、1944年、アウシュヴィッツ・ビルケナウ第2収容所のクロアチア人スタッフがオシエク(宛名の表記はドイツ語のエッセクとなっている)宛に差し出した郵便物で、1944年4月10日のオシエクの着印が押されています。

 現在のクロアチア国家に相当する地域は、第一次大戦以前はハプスブルクの支配下にありましたが、大戦の結果、ハプスブルク帝国が崩壊すると、そこから離脱。セルビアの提案による南スラブ諸族によるセルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国に参加しました。

 その後、セルブ=クロアート=スロヴェーン王国は1929年にユーゴスラヴィアと改称されますが、同国内ではセルビア人が主導権を持つことに対してクロアチア人の不満が根強かったため、1939年、ユーゴ政府は国内の一部をクロアチア自治州とすることで両民族の融和を図りました。しかし、クロアチア人の一部はこれに満足せず、1941年4月10日、ドイツ軍のユーゴスラヴィア侵攻に呼応して武装蜂起し、親独政権の“クロアチア独立国”を成立させました。

 クロアチア独立国は、1941年6月15日、日独伊三国軍事同盟に加わったほか、6月22日に独ソ戦が勃発するとソ連に宣戦を布告し、東部戦線に2万の兵を派遣。さらに、同年12月14日には米英に対しても宣戦を布告しています。

 親独政権下のクロアチアでは、“アーリア人”としてのクロアチア人を労働力としてドイツに提供することも行われましたが、その一部は、アウシュヴィッツを含む収容所の管理業務にも従事しています。

 今回ご紹介のカバーは、そうした状況の下、ビルケナウの第二収容所のクロアチア人スタッフが差し出したもので、表面には“SS-Feldpost”の手書きの書き込みもあります。

 ナチスの親衛隊入隊資格は、当初、“純粋北方人種”ないしは“圧倒的に北方人種であるかファーレン人種”であることが原則とされ、“基本的に先の二人種だが、それにアルプス山地人種、ディナール人種(南欧)、地中海人種が少し混じっている人種”は例外的に採用するとの方針でした。なお、“親衛隊人種および移住本部人種委員会”では、この下に“東方(東欧)系。もしくはアルプス系混血”、“ヨーロッパ人以外の外人種との混血”という分類がありました。

 しかし、戦線の拡大に伴い、1940年末頃から占領地域に住むドイツ系外国人の募集が本格化。ついで、国防軍の徴兵対象にないヒトラー・ユーゲントなどの若年層や、さらには、非ドイツ系の外国人も受け入れも開始されます。特に、反ソ感情の強い地域では“反共十字軍”としての武装親衛隊員の募集が積極的に行われました。

 これに対して、ヒムラーは非ドイツ系外国人、特に東方諸民族の受け入れに懸念を示しましたが、兵員確保を担当した親衛隊本部の責任者、親衛隊対象のゴットロープ・ベルガーはヒムラーを説得。じっさい、独ソ戦の開始で戦線が大幅に拡大したこともあって、外国人の受け入れは次第に常態化していくのです。

 なお、この辺りの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(21日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・28日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。
    

★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 昨年(2020年)はコロナ禍で中止のやむなきに至った全日本切手展(全日展)ですが、本年は、6月25-27日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で開催されます。詳細は切手展の公式HPをご覧ください。

      全日展2021・アイキャッチ


★ 放送出演・講演・講座などのご案内★

 6月28日(月) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 7月3日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座
 7月3日・10日・17日・24日・31日、8月7日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 

 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」
 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」
 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。お申し込みを含め、詳細については、こちらをクリックしてご覧ください。


★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★

      誰もが知りたいQアノンの正体 1650円(本体1500円+税)

 出版社からのコメント
 なぜQアノンにみんなハマったのか?
 ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。
 これは米国だけじゃない!
 人はみんなQを求めている!? (笑)

 * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。

 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 アウシュヴィッツの年賀状
2021-01-02 Sat 03:08
 昨日は元日でしたから、年頭のご挨拶のみで失礼いたしました。切手や郵便物などを毎日紹介していくという、このブログの実質的な記事のアップとしては、きょうが2021年最初となりますので、昨年同様、“アウシュヴィッツの年賀状”の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ヤヴィショヴィッツ・カバー
      ヤヴィショヴィッツ差出欄

 これは、1944年1月1日、ヤヴィショヴィッツ(ポーランド語名:ヤヴィショヴィツェ)に置かれていたアウシュヴィッツ収容所のサブ・キャンプから差し出された郵便物と、その差出人の住所・氏名部分です。郵便に使われているレターシートは、アウシュヴィッツで支給されていた注意書が6項目のモノ(タイプ2)で、検閲印には“ヤヴィショヴィッツ労働収容所(A. L. JAWISCHOWITZ)の表示が入っており、1月4日にブジェシュチェ郵便局からエルグート(ポーランド語名:リゴタ・オレスカ)宛に発送されました。レターシートの内側には、1944年1月1日の日付と新年のあいさつ文が記されていますので、その部分の画像も貼っておきます。

      ヤヴィショヴィッツ文面

 アウシュヴィッツの第1(基幹収容所)第2(ビルケナウ)第3(モノヴィッツ)の各収容所の下には、計44のサブ・キャンプ(下位収容所)が設置され、アウシュヴィッツから選別された収容者たちが、農場や炭鉱、石切場、漁場、軍需産業での強制労働に動員されていました。

 今回ご紹介のサブ・キャンプが置かれていたヤヴィショヴィッツはオシフィエンチム(アウシュヴィッツのポーランド語名)の市街地から12キロの地点に位置する炭鉱地帯です。サブ・キャンプは、炭鉱を管轄していたヘルマン・ゲーリング国家工場とWVHA(親衛隊経済管理本部)の協定に基づき、フランスのドイツ占領地区からユダヤ人150人を連行し、ヤヴィショヴィッツとブジェシュチェでの炭鉱労働に従事させらるため、1942年8月半ばに開設されました。

 ピーク時の1944年6月には、サブ・キャンプとしては最大規模の2500人(ポーランド、フランス、ドイツ、オランダ、イタリア、ハンガリーの各地から集められたユダヤ人が大半を占めていましたが、非ユダヤ系のポーランド人やロシア人、ドイツ人も含まれていました)が動員され、管理のため、70人以上の親衛隊員が駐在しています。

 サブ・キャンプの周囲は電流の流れる有刺鉄線が張り巡らされており、敷地内には木造の建屋が10以上あり、そのうちの7つが収容者の居住用、残りの3つがキッチン、病院、倉庫、風呂トイレなどに絵割り当てられていました。また、1944年以降、ヤヴィショヴィッツに動員されるユダヤ人の数が増加しましたが、収容者の生活スペースは拡大されなかったため、54人用として設計された房舎には200人以上が詰め込まれています。

 1945年1月には、ソ連軍の接近に備えて、サブ・キャンプに残されていた約1900人の収容者の大半がシロンスク県の炭鉱地域まで徒歩で移動させられたため、1月29日にソ連軍がヤヴィショヴィッツを解放した際には、現地には少数の病人などが残されているだけでした。

 ちなみに、アウシュヴィッツとその関連の郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でも詳しくご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 1月8日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


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      日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史カバー 本体1600円+税

 出版社からのコメント
 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】
 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は
 いかなる歴史をたどり、
 中国はどのように浸透していったのか

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 石炭の日
2020-09-05 Sat 00:11
 今日(5日)は、石炭の良さを見直そうという趣旨の“石炭の日”または“クリーン・コール・デイ(Clean Coal Day)”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・コーレンクラウ葉書

 これは、1943年5月23日、アウシュヴィッツ・ビルケナウ第2収容所の民間人スタッフがベーメン・メーレン(ボヘミア・モラヴィア)保護領宛に差し出した葉書で、左下に「石炭泥棒(コーレンクラウ)を捕まえよう!」との絵入りのスローガン(下の画像)が入っているのがミソです。

      コーレンクラウ標語

 コーレンクラウは第二次大戦中に、シュトゥットガルトのヴィルヘルム・ホーンハウゼンがドイツの民間伝承に登場するブッツェマン(箪笥の中、寝台の下など、子供たちが夜間に恐れる暗いところに隠れている幽霊に似た怪物)をもとに考案したキャラクターです。

 1942年12月7日、戦争が長期化し、戦況が悪化していく中で、ドイツでは燃料節約のために「コーレンクラウとの闘い」と称するキャンペーンが開始され、コーレンクラウのキャラクターは新聞や映画、子供向けのゲームなど、国民生活のあらゆる場所に登場し、戦車の装甲にも描かれていました。この葉書もそうした宣伝政策の一環としてコーレンクラウのイラストともに「コーレンクラウを捕まえよう!コーレンクラウを退治して、石炭、電気、ガスを節約しよう」とのスローガンが刷り込まれています。その後、戦況がさらに悪化してくると、処刑されるコーレンクラウの姿を描き、その脇に「さあ、鏡で顔を映してみよう。これはあなたでしょうか?それとも違いますか?」という文言が添えられることもありました。

 第二次大戦後、ナチス時代の“遺産”がことごとく否定される中、コーレンクラウとそのイラストはその意味付けが大きく変化し、敗戦後の厳しい状況の中で、生きていくうえでやむを得ず鉄道やトラックから石炭を盗むことを正当化するためのキャラクターとして用いられ、しぶとく生き延びました。ちなみに、第二次世界大戦後、ザール地方を管理下に置いたフランスが、この地方で豊富に産出する石炭を狙い、住民投票によってこの地域を独立させようとした際、ザールの西ドイツ復帰を目指す人々は、フランスをコーレンクラウになぞらえて揶揄。その甲斐あってか、ザール地方は、1957年1月1日、西ドイツに復帰しています。

 ところで、今回ご紹介の葉書はチェコ語で書かれており、差出人はチェコ人と推測されます。

 アウシュヴィッツをはじめ収容所を管理していたナチスの親衛隊入隊資格は、当初、“純粋北方人種”ないしは“圧倒的に北方人種であるかファーレン人種”であることが原則とされ、例外的に、“基本的に先の二人種だが、それにアルプス山地人種、ディナール人種(南欧)、地中海人種が少し混じっている人種”も採用することがある、というのが基本方針でした。

 しかし、戦線の拡大に伴い、1940年末頃から占領地域に住むドイツ系外国人の募集が本格化。ついで、国防軍の徴兵対象にないヒトラー・ユーゲントなどの若年層や、さらには、非ドイツ系の外国人も受け入れも開始されます。特に、独ソ戦の開始で戦線が大幅に拡大すると、外国人の受け入れは次第に常態化し、今回ご商j界の葉書の差出人のように、チェコ人が収容所の民間人スタッフとして働く事例も出てきたわけです。

 なお、この辺りの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★★ Web講座のご案内 ★★

 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。

 
★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

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 母の日
2020-05-10 Sun 00:29
 きょう(10日)は“母の日”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ19410118
      アウシュヴィッツ19410118・文面

 これは、1941年1月12日、アウシュヴィッツ収容所の収容者がクラクフの母親宛に差し出した郵便物の封筒と中身の便箋で、手紙の内容は、前年(1940年)のクリスマスに送られてきた小包に対する礼状で、小包を受け取っていかに嬉しかったかが綴られています。

 アウシュヴィッツ収容所の最初収容者として、タルヌフから728人のポーランド人捕虜・政治犯が移送されてきたのは1940年6月14日のことで、以後、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定され、ドイツの勢力圏内各地から多数のユダヤ人がアウシュヴィッツに移送されてくるまで、今回ご紹介の郵便物の差吸出し人を含め、アウシュヴィッツの収容者は原則としてポーランド人でした。もちろん、この時期の収容者の中にもユダヤ系のポーランド人も含まれていたでしょうが、収容所当局の認識としては、彼らはあくまでも“ポーランド人”です。

 さて、アウシュヴィッツ収容所に移送されてきた収容者は、1940年7月以降、1ヵ月に2通ずつ、親族宛に手紙を出すことができました。当初は、専用の封筒や便箋が間に合わなかったため白紙の便箋が使用され、ついで、ザクセンハウゼン収容所の便箋の収容所名を手書きでアウシュヴィッツに修正したものが使用されていました。ここにご紹介しているような専用の封筒と便箋は、1940年8月以降、使用されています。

 アウシュヴィッツの収容者用の封筒・便箋のフォーマットは、基本的には、ダッハウ収容所で使われていたフォーマットを継承しつつも、ダッハウの封筒・便箋に記されている注意書が6条なのに対して、アウシュヴィッツでは7条となっているなど、いくつかの点で相違があります。

 アウシュヴィッツの封筒・便箋では、3番目の注意事項として「現金もしくは手紙を送る場合には、正確な住所とともに、名前、誕生日、収容者番号を記載すること。誤りがある場合には、郵便物は差出人に返戻もしくは廃棄される」との内容が追加されており、差出人の住所氏名欄もそれに対応したものに変更されました。また、印刷されている文字のフォントもダッハウのものとは異なっています。

 封筒の差出人欄には、差出人の立場(多くの場合は、事実上の政治犯としての“保護拘留犯”を意味する“Schutzhäftling”となっています)、氏名、誕生日、収容者番号を書く欄があるが、これに加えて、欄外には収容所内の“住所”を記載することになっていました。

 今回ご紹介の封用では薄くて読みづらいのですが、封筒の表面左下には、角形で、“Postzensurstelle/ K.L. Auschwitz/ gepruft…(郵便検閲/アウシュヴィッツ収容所/…が検閲)”との文言が三行で記された赤色の検閲印が押されています。

 ところで、封筒に印刷されている注意書によれば、収容者宛に小包を送ることは認められないとされていますが、アウシュヴィッツに潜入した反独レジスタンスのポーランド人闘士、ヴィトルト・ピレツキの報告によると、実際には、当初から衣類の差し入れは認められていたそうです。また、1940年のクリスマスに際しては、収容者の親族が1キログラムまでの小包を送ることが正式に認められており、今回ご紹介の郵便物は、その小包を受け取った礼状として差し出されたものということになります。

 なお、アウシュヴィッツ収容所とその郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』で詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 5月15日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。
 

★★  内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★

      日韓基本条約・表紙 本体2000円+税

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 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す!
 丁寧に読むといろいろ々発見があります。

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 イタリア戦線終結75年
2020-05-02 Sat 02:29
 1945年5月2日、駐伊ドイツ軍(C軍集団)が連合国に降伏し、第二次大戦のイタリア戦線が終結してから、75年になりました。というわけで、第二次大戦中のイタリアに関するマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・レオンハルトキャンプ

 これは、1944年6月1日、レオンハルト・ハーグ・キャンプのイタリア人収容者が北イタリアのベッルーノ宛に差し出した葉書です。

 1940年6月10日、枢軸側で参戦したイタリアでしたが、1943年7月10日、連合国がシチリア島に上陸し、イタリア本土に迫ってくると、同25日、ベニート・ムッソリーニ首相は国王と共謀した反対派勢力の政治的クーデターで解任され、グラン・サッソのホテルに幽閉されました。

 後継首相となったピエトロ・バドリオ元帥はドイツに戦争の継続を約束しつつ、連合国との間で休戦交渉を進めていましたが、交渉は難航。このため、9月8日、連合軍のドワイト・D・アイゼンハワー大将が独断でイタリアの無条件降伏を宣言します。

 これに対して、ヒトラーは、かねてから計画していたイタリア北中部への進駐を発動し、ドイツ国防軍がイタリアと、南仏・バルカンのイタリア占領地域へ進駐。国王とバドリオ政権の閣僚達はローマを捨てて連合軍の占領地域に避難しました。

 9月12日にはドイツ国防軍のオットー・スコルツェニー率いる特殊部隊がグラン・サッソを襲撃してムッソリーニを救出。同23日、ドイツ占領下のイタリア北中部を領土として(名目上の首都はローマですが、実務上の行政の中心地は、当初、サロに置かれました)、ムッソリーニを国家元首とするイタリア社会共和国が建国されます。

 一方、イタリア南部は連合国の占領下に置かれ、以後、イタリアは内戦状態に突入しました。

 ところで、ムッソリーニは、個人的にはナチスによるユダヤ人迫害を嫌悪しており、人種差別政策は掲げなかったため、1922年の政権掌握から第二次大戦参戦までのイタリアでは、政府が組織的にユダヤ人を迫害することはありませんでした。しかし、ドイツとの枢軸同盟を結成すると、ドイツの圧力を受け、イタリアでも徐々にユダヤ人を社会から排除する立法が開始されていきます。

 さらに、1943年に事実上のドイツ傀儡政権としてイタリア社会共和国が成立すると、その支配下では、ナチスによるユダヤ人狩りが行われるようになったほか、政治犯などがドイツの収容所に送られるようになりました。

 今回ご紹介の葉書の差出地であるレオンハルト・ハーグ共同宿営施設(以下、レオンハルト・ハーグ・キャンプ)は、モノヴィッツのI.G.ファルベン工場プラントに隣接して設けられたアウシュヴィッツ第3収容所の付属施設(サブ・キャンプ)で、当初は、ドイツ人、イタリア人、ベルギーのフラマン人の政治犯を収容するための施設でしたが、1944年夏以降、イタリア社会共和国の領域からボルツァーノ通過収容所を経て移送されてくるイタリア人政治犯が収容者の主流となりました。

 なお、施設名のレオンハルト・ハーグは、収容所の完成を前にアウシュヴィッツで亡くなった、I.G.ファルベンのスタッフの名前に由来するものです。

 今回ご紹介の葉書は、1944年6月1日、レオンハルト・ハーグ・キャンプから、北イタリアのベッルーノ宛に差し出された葉書で、アウシュヴィッツ3局の消印のほか、“Gemeinschaftslager Leonhard Haag/ Auschwitz O/S 3 / Poststelle(レオンハルト・ハーグ共同宿営施設/ アウシュヴィッツ 上シレジア 3/郵便局)”の印が押されています。また、消印が重なっていて読みづらいのですが、経由地のミュンヘンで検閲を受けたことを示す“Ad”の印もあるほか、右下には6月21日付の北イタリアのアッレゲの経由印が押されており、宛先のベッルーノに到着するまで、二十日以上がかかっていることがわかります。

 その後、1945年に入ると、イタリア各地で反独パルチザンが蜂起するなど、イタリア社会共和国はほぼ崩壊状態となります。このため、ムッソリーニは4月18日に政府機能をサロからミラノに移転しましたが、同23日には連合軍がポー川を突破。さらに、パルチザン組織の北イタリア国民解放委員会(CLANI)が25日までにドイツ軍の降伏がない限り全土で武装蜂起を行うと通告したことを受けて、25日当日、CLANIの代表とムッソリーニら政府の代表の会談が行われましたが、ムッソリーニらは途中でスイス国境に近いコモを目指して逃走し、スイスへの亡命を試みます。しかし、ムッソリーニは、パルチザンによってコモ湖付近で捕らえられ、28日、即決裁判によって処刑され、残された社会共和国の国防相、ロドルフォ・グラツィアーニ元帥と空軍総司令官ボノミ大将も降伏し、社会共和国は事実上消滅しました。

 その後、ミラノに駐留していたドイツのC軍集団司令部は連合軍との降伏交渉を再開し、5月2日に降伏を受け入れ、イタリアの戦いは終結します。

 なお、アウシュヴィッツのイタリア人収容者については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 ブーヘンヴァルト収容所解放75年
2020-04-11 Sat 00:44
 1945年4月11日、ナチス・ドイツのブーヘンヴァルト収容所が解放されてから、ちょうど75年になりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブーヘンヴァルト収容所・はがき

 これは、1941年3月7日(消印は14日)、ブーヘンヴァルト収容所からビルケナウ宛に差し出された葉書で、左側には「私は6週間ごとに1通の手紙を受け取れます」との文言の印が押されています。
 
 ブーヘンヴァルトは、ヴァイマル(ワイマール)市の北西7キロ、テューリンゲン地方エッテルベルクに位置しており、収容所名としては、しばしばこの葉書にも表示されているように“ヴァイマル ブーヘンヴァルト”と呼ばれます。

 ドイツでは、1936年秋から4ヵ年計画が始まり、そのために大量の煉瓦が必要となりました。そこで、ブーヘンヴァルの地から算出される粘土を原料に煉瓦を製造させるため、同年末からリヒテンブルク収容所やザクセンハウゼン収容所の囚人を動員して建設工事が始まり、1937年7月、収容が開所しました。

 以後、1945年4月11日、米第80歩兵師団によって解放されるまでに、累計23万3800人がこの収容所に送られ、5万5000人以上が亡くなったとされています。

 収容者の数は、1943年1月まではおおむね1万人弱で推移していましたが、戦況が悪化した1943年以降、移送されてくる収容者が激増。1944年1月1日には3万7319人に、1945年1月1日には6万3048人に、同年4月1日には8万人超になりました。米軍の接近を前に、収容所当局は収容者の移送を開始しましたが、そのまま取り残された人も多く、解放時にブーヘンヴァルトにいた収容者は2万1000人でした。そのほとんどは骨と皮だけにやせ細り、衰弱しきっており、収容所内には、腐乱した死体が散乱し、中庭には裸の老若男女の死体が山積みにされているなど、酸鼻をきわめる状態でした。

 その光景を見たジョージ・パットン将軍は、ドイツ国民に自国の政府が犯した非人道的行為をしっかり目に焼き付けさせるため、ヴァイマル市民約2000人を連行し、収容所内の惨状を見せましたが、ほとんどのドイツ人は正視できなかったそうです。

 ちなみに、葉書の宛先となっているビルケナウには、この葉書は差し出されてから約半年後の1941年10月、アウシュヴィッツ第2収容所(アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所)が開設されました。

 なお、ナチス・ドイツの収容所と郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 4月17日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。


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 ポーランド、東京五輪の延期要請
2020-03-24 Tue 01:47
 ポーランドオリンピック委員会は、新型コロナウイルス感染の拡大が深刻化していることを受け、きのう(23日)、国際オリンピック委員会に東京五輪の開催を延期するよう要請しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴォルテンベルク・五輪(走者)

 これは、1944年7月23日から8月13日まで、ヴォルテンベルク捕虜収容所で開催された“収容所五輪”の記念切手です。

 1939年9月、ドイツ軍がポーランドを占領すると、42万人のポーランド軍兵士と2万人の将校が捕虜となり、その収容施設の確保が深刻な問題となりました。当初、捕虜たちはテント村を含め28カ所に分けて収容されていましたが、1942年以降、収容所はヴォルテンベルク(現ポーランド:ドビエグニエフ)、ノイブランデンブルク(ドイツ・メクレンブルク=フォアポンメルン州)、グロス・ボルン(現ポーランド:ボルネ・スリノヴォ)、ドッセル(ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州)、ムルナウ・アム・スタッフェルゼー(ドイツ・バイエルン州)の5ヵ所に集約されました。

 そうしたなかで、ヴォルテンベルク収容所では、1942年4月5-7日に実験的に行われた“イースター・ポスト”がトラブルなく運営されたことを受けて、同年5月7日以降、収容所内での日常的な通信手段として、ローカル郵便が正式に発足。その後、ノイブランデンブルク、グロス・ボルン、ムルナウ・アム・スタッフェルゼーの各収容所でも類似の制度が導入されました。ちなみに、ヴォルテンベルク収容所では、ソ連軍の接近に伴い、1945年1月28日に捕虜たちは西方に向けて移動させられますが、ローカル郵便は、その直前の1月25日まで扱われています。

 ところで、1944年の五輪はロンドンでの開催が予定されていましたが、第二次大戦のために中止され、代わりに、IOC本部所在地のローザンヌで各種の五輪記念行事が開催されました。

 これに対して、ドイツは、対外宣伝の一環として、ヴォルテンベルク収容所の捕虜の要望を容れて、7月23日から8月13日まで、ロンドン五輪に代わる“五輪”の名目でスポーツ大会の開催を承認。これが、今回ご紹介の切手の発行名目となった収容所五輪で、ヴォルテンベルクに続き、7月30日から8月15日まで、グロス・ボルン収容所でも同様の“五輪”が開催されました。なお、1944年の時点では五輪旗はスイスのローザンヌに保管されていたため、収容所五輪の会場では、ベッドのシーツで作られた非公式の“五輪旗”が掲げられています。

 今回ご紹介の切手は、ヴォルテンベルク収容所の“五輪”を記念して発行されたもので、収容者でグラフィック・デザイナーのチャルネツキが原画を制作しました。収容所内では、シートを印刷するための大型の用紙が調達できなかったため、切手はすべて単片で印刷され、1万7500枚が発行されています。

 * 昨日(23日)、アクセスカウンターが216万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 3/31、4/7、5/5、6/2、7/7、8/4、9/1(1回のみのお試し受講も可)

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 うるう日
2020-02-29 Sat 01:02
 きょう(29日)は4年に1度の“うるう日”です。というわけで、4年前同様、手持ちの“うるう日”マテリアルのうち、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ440224

 これは、1944年2月24日、アウシュヴィッツ収容所の収容者がヴィルヘルムソルト(現ポーランド領シチエンコ)宛に差し出した郵便物で、名宛人が同29日に受領したことを示す書き込みがあります。

 アウシュヴィッツ収容所尾収容者の通信には、当初、専用の封筒と便箋または葉書が使用されていましたが、その後、戦況の悪化に伴い、1942年夏ごろから、日本でいう藁半紙のような品質の紙を用いた便箋兼用のレターシート形式の簡易書簡の使用が開始されています。レターシートは大きめの用紙の片面を便箋として利用し、それを折り曲げて封筒を作り、外側に宛先や差出人の情報を書き、切手を貼って差し出すという形式で、表面左側に印刷されている注意書が7項目のもの(タイプ1)と6項目のもの(タイプ2)に大別されます。

 このうち、タイプ2のレターシートは1943年秋頃から使用が開始されましたが、タイプ1に比べて用紙の大きさが小さくなっており、戦況は悪化する中で、用紙の節約が図られていたこともわかります。

 注意書の文言としては、収容者を示す単語が“Gefangenen”から“Häftlingen”に変更されたほか、タイプ1の第2項と第3項をまとめて、新たな第2項として「収容者への送金は郵便為替のみ認められる。送金や郵便を送る場合には収容者の誕生日と収容者番号を正確に記すこと。宛先に不備がある場合には郵便物は差出人に返送または破棄される」と記されています。

 また、新聞についての規定は第4項から第3項に移動し、新たな第4項では「収容者は食糧の小包を受け取ることができる。流動物・医薬品は認められない」として、タイプ1では禁止扱いとなっていた小包の受け取りが認められています。

 なお、アウシュヴィッツ収容所とその郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 3/3、4/7、5/5、6/2、7/7、8/4、9/1(1回のみのお試し受講も可)

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 アウシュヴィッツ解放75周年
2020-01-27 Mon 02:50
 1945年1月27日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所が解放されてから、75周年になりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・アイントラハトヒュッテでの使用例

 これは、アウシュヴィッツの収容者に支給された葉書のうち、タイプ2と呼ばれるフォーマットのもので、アイントラハトヒュッテ収容所での使用されているのがミソです。

 アウシュヴィッツの第1(基幹収容所)第2(ビルケナウ)第3(モノヴィッツ)の各収容所の下には、計44のサブ・キャンプ(下位収容所)が設置され、アウシュヴィッツから選別された収容者たちが、農場や炭鉱、石切場、漁場、軍需産業での強制労働に動員されていました。

 そのうちの一つ、アイントラハトヒュッテ(ポーランド語名ズゴダ)収容所では、アウシュヴィッツで使用されていたタイプ2の葉書(図 )が使用されていました。

 アイントラハトヒュッテ収容所は、1943年5月26日、アウシュヴィッツの基幹収容所の北西約40キロの地点(現在の行政区分では、ポーランド南部、シロンスク県シフィエントフウォヴィツェ郡ズゴダ地区)に開設されました。収容所長は、1944年7月17日まではヨゼフ・レンメレ、1944年7月18日から1945年1月23日に収容所が解放されるまではヴィルヘルム・ゲーリングで、いずれも階級は親衛隊上級曹長です。

 収容所の建物は管理棟のみレンガ造りで、他は木造。高圧電流の流れる二重の塀に囲まれ、四隅には監視塔がありました。収容者はドイツの勢力圏内の全域から集められ、ピーク時には1347人(一室あたりの人数は60-80人)が、近隣の兵器廠や民間の機械工場、自動車工場での労働を課せられています。労働環境は過酷で、週に10-15人が命を落とし、収容所の開設期間中の死者は数百人に上りました。

 今回ご紹介の葉書は1943年9月7日に差し出され、翌8日にはアウシュヴィッツ2局に持ち込まれています。なお、検閲印の表示は“Postzensurestelle/ A.L. Eintrachthütte/ geprüft…(郵便検閲/アイントラハトヒュッテ労働収容所/・・・によって検閲された)”となっており、労働キャンプとしてのアイントラハトヒュッテ収容所の性格が明示されています。

 宛先のリブニクは、ポーランド南部、クラクフから西に約100キロの位置にある炭田地帯で、現在の行政区分ではシロンスク県に属しています。第一次大戦以前はドイツ帝国の領土だったこともあって、第二次大戦が勃発するとドイツが再占領し、ドイツ領に編入されたうえで、住民は民族別に分けられ、“再ドイツ化”されるか、公民権を剥奪されるか、ポーランド総督府の地域に追放されました。

 なお、1945年1月にアイントラハトヒュッテ収容所を“解放”したソ連軍は、ここを“ズゴダ労働収容所”と改称し、内務人民委員部(MKVD。スターリン政権下で、刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた組織)管理下に置いたうえ、同年3月、ソ連の傀儡政権であるポーランド共和国臨時政府内務省保安部に引き渡しています。そして、3月15日、ユダヤ系ポーランド人でスターリニストのサロモン・モレルが所長として着任すると、彼の下、ドイツ人や反共主義者とみなされたポーランド人等の収容者6000人が飢餓とチフスが蔓延する中で過酷な労働を強制され、1945年11月までの9ヵ月間に1855人が亡くなりました。これは、約1年半に及んだドイツ占領下のアイントラハトヒュッテ収容所での死者総数をはるかに上回る犠牲者数です。

 1989年、ポーランドで共産主義体制が崩壊し、共産主義政権下での国家犯罪に対する追及が始まると、モレルも捜査対象となりましたが、1992年、彼はイスラエルに逃亡。ポーランド政府の身柄引き渡し要求は“反ユダヤ主義の謀略”としてイスラエルに居座り続け、2007年、テルアヴィヴで死亡しました。

 ちなみに、アウシュヴィッツとその関連の郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でも詳しくご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 1月31日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★★ ツイキャス出演のお知らせ ★★★

 2月2日(日)21:55~ 拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。


★★ イベント等のご案内 ★★

 今後の各種イベント・講座等の ご案内です。詳細については、イベント名・講座名をクリックしてご覧ください。

東アジア歴史文化研究会
 2月13日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール
 混迷を深める中東情勢を読み解く
 参加費 2000円
 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。

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 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)

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       (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙 本体2500円+税
 
 出版社からのコメント
 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

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 アウシュヴィッツの年賀状
2020-01-02 Thu 01:29
 昨日は元日でしたから、年頭のご挨拶のみで失礼いたしました。切手や郵便物などを毎日紹介していくという、このブログの実質的な記事のアップとしては、きょうが2020年最初となりますので、新年にちなみ、ちょっと変わった年賀状(?)をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・イラスト年賀状(1944・外側)
      アウシュヴィッツ・イラスト年賀状(1944)

 これは、1943年12月12日、アウシュヴィッツ収容所の収容者がポーランド中部、ワルタ川沿いのシエラツ宛に差し出したレターシートで、1944年の新年を祝うリンゴのイラストが描かれています。

 もともと、アウシュヴィッツ収容所はドイツ占領下のポーランド人の捕虜・政治犯を収容するための施設として開設されたため、1945年1月に解放されるまで、かなりの数のポーランド人が収容されていました。

 ポーランド人収容者の多くはカトリックだったため、収容所内でクリスマスと新年を祝うことも認められており、今回ご紹介の郵便物のように、一部の収容者はイラスト入りのクリスマス・レターないしは年賀状を差し出すことも認められていました。なお、ユダヤ教徒は、原則として、ユダヤ暦の新年は祝うものの、西暦の新年を祝うことはないため、今回ご紹介のレターシートも非ユダヤ教徒のポーランド人が差し出したものと推定されます。

 ちなみに、ポーランドは欧州でも有数のリンゴの生産国で、ウクライナとの国境に近いカルパチア地方には、万病に効く“黄金のリンゴ”を植えた少年、ウラジスラフの伝承が語り継がれてきました。今回ご紹介のイラストにも、一部、黄色っぽい実が描かれていますが、あるいは、ウラジスラフの黄金のリンゴを意識してのことなのかもしれません。

 なお、アウシュヴィッツ収容所とその郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧ください。


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第11回テーマティク研究会切手展

      JTPC展2020ポスター

 1月11-12日(土・日) 於・切手の博物館(東京・目白)

 テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。今回の展覧会は、昨年に続き11回目の開催で、香港情勢が緊迫している折から、メインテーマを香港とし、内藤も「香港の歴史」のコレクションを出品しています。

 また、会期中の12日13:00からは、拙著『(シリーズ韓国現代史1953-1865)日韓基本条約』の刊行を記念したトークイベントも行います。

 展覧会・トークイベントともに入場無料・事前予約不要ですので、ぜひ、遊びに来てください。


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 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)


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 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

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 Merry Christmas!
2019-12-25 Wed 01:47
 きょうはクリスマスです。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・1943クリスマス
      アウシュヴィッツ・1943クリスマス(文面)

 これは、1943年12月12日、アウシュヴィッツ収容所からクラクフ宛の郵便物で、以下のようなクリスマスについての記述があります。

 11月29日の手紙は12月5日に無事届きました。聖ニコラウスのプレゼントをどうもありがとう。みんなが家で元気で、すべきことがあるのは良いことです。私は神様のおかげで元気です。もうすぐみんなと離れて3回目のクリスマスがきます。私たちが(みんなと一緒に)いるかのように、たくさん食べてくださいね。素敵なクリスマスを過ごしてください。クリスマスには親戚みんなに会うでしょうから、親戚みんなによろしく。(誰かが書いた)手紙の内容を詳しく知りたいので、次の手紙で書いてください。写真を送ることは出来るのでルイスとあなたの写真を送ってください。手書きのお絵描きも嬉しかった。XX(判読不能)の名前の日がもうすぐなので、おめでとう。皆さんの名前の日も。4つの小包と、手書きの内容リストもありがとう。神様が再会までの時間を短くしてくれますように

 文中、「みんなと離れて3回目のクリスマス」との記述があるため、この収容者は1941年から収容所で生活していたポーランド人と推定できます。

 もともと、アウシュヴィッツ収容所はポーランド人の捕虜・政治犯を収容するための施設として開設されたため、1945年1月に解放されるまで、かなりの数のポーランド人が収容されていました。

 特に、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されたことを受けて、ドイツの勢力圏内各地からユダヤ人が移送されてくるまでは、アウシュヴィッツの収容者は原則としてポーランド人(その中には、ユダヤ系のポーランド人もいましたが、収容所当局の認識では、彼らはあくまでも“ポーランド人”です)でしたから、文面にある通り、この郵便物の差出人が1941年からアウシュヴィッツにいたとすると、彼もポーランド人だったと考えてほぼ間違いないでしょう。

 ポーランド人収容者の多くはカトリックだったため、収容所内でクリスマスを祝うことも認められており、大戦中の12月から1月にかけて収容者が差し出した郵便物の中には、今回ご紹介の郵便物のように、しばしばクリスマスについての記述がみられます。

 また、文面にある聖ニコラウスの日というのは、サンタクロースのモデルとなったとされる聖人“ミオのニコラオス”の命日にあたる12月6日のことです。

 ミオのニコラオスについては、貧しさのあまり3人の娘を身売りさせざるを得なくなった家を夜中に訪れ、ひそかに、暖炉に下げられていた靴下に金貨を入れ、娘の身売りを防いだという逸話があり、これが現在のサンタクロースのモデルになったとされています。ここから、ドイツなどでは12月月6日にもプレゼントの交換が行われます。前日の5日に届いたというのは、このタイミングに合わせてのことでしょう。

 なお、ニコラオスは無実の人々を処刑の寸前で救ったことから、“無実の罪に苦しむ人”の守護聖人ともされています。アウシュヴィッツの収容者たちの多くは、まさに“無実の罪に苦しむ人”であったから、彼らとその家族にとっては、さぞかし聖ニコラオスにすがりたい思いであったものと思われます。

 ちなみに、アウシュヴィッツ収容所とその郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧ください。
 

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第11回テーマティク研究会切手展

      JTPC展2020ポスター

 1月11-12日(土・日) 於・切手の博物館(東京・目白)

 テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。今回の展覧会は、昨年に続き11回目の開催で、香港情勢が緊迫している折から、メインテーマを香港とし、内藤も「香港の歴史」のコレクションを出品しています。

 また、会期中の12日13:00からは、拙著『(シリーズ韓国現代史1953-1865)日韓基本条約』の刊行を記念したトークイベントも行います。

 展覧会・トークイベントともに入場無料・事前予約不要ですので、ぜひ、遊びに来てください。


・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)


★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★

       (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙  本体2500円+税(予定)
 
 出版社からのコメント
初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 メルケル独首相、アウシュヴィッツ訪問
2019-12-07 Sat 01:38
 ドイツのメルケル首相は、きのう(6日)、ポーランド南部のアウシュヴィッツ強制収容所跡を訪問し、加害国の首脳として犠牲者を追悼しました。在任中にアウシュヴィッツを訪れたドイツ(西ドイツを含む)首相としてはシュミット氏らに続き3人目です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・ライプツィヒ・メッセ貼り

 これは、1941年7月26日、アウシュヴィッツ第1収容所からケーニヒスヒュッテ(ポーランド語名ホジュフ)宛に差し出された郵便物で、1940年3月に発行された“ライプツィヒ・メッセ750年記念”の25ペニヒ切手が貼られています。

 いわゆるアウシュヴィッツ収容所には、①1940年6月に最初に開所したアウシュヴィッツ基幹収容所(第1収容所)、②1941年10月、第1収容所から3キロほどの湿地帯に開設されたビルケナウ(ポーランド語名・ブジェジンカ)の第2収容所、③1942年以降、第1収容所から東に7キロほどの地点に、イーゲー・ファルベン社の工場に隣接して設けられたモノヴィッツの第3収容所、がありますが、今回ご紹介のカバーは、第2収容所開設以前の差出ですので、第1収容所からの発信であることは間違いありません。

 また、1940年6月14日、最初の収容者として、タルヌフから728人のポーランド人捕虜・政治犯が移送されてから、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定され、ドイツの勢力圏内各地から多数のユダヤ人がアウシュヴィッツに移送されてくるまで、アウシュヴィッツの収容者は、原則としてポーランド人(その中には、ユダヤ系のポーランド人もいましたが、収容所当局の認識としては、彼らはあくまでも“ポーランド人”です)でしたから、このカバーの差出人もポーランド人です。

 切手の題材となっているライプツィヒ・メッセは、1190年、商品を直接売買する現物市として始まり、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(在位1508-19年)の庇護を得て大きく発展。1895年には現在のような見本市になりました。ナチス・ドイツは、神聖ローマ帝国を“第一帝国”としたうえで、みずからを“第三帝国”と位置付けており、1939年のチェコスロヴァキア併合をもって神聖ローマ帝国の復活を宣言しています。こうしたこともあって、神聖ローマ帝国の時代から綿々と続くライプツィヒ・メッセは、第三帝国の正統性を主張するうえで重要なイベントと位置づけられていました。

 ちなみに、ライプツィヒには、1409年、ヤン・フスらによるチェコ人優遇策に抗議してプラハ大学を去ったドイツ人教員や学生を受け入れるためにマイセン辺境伯フリードリヒ4世が創立したライプツィヒ大学があり、メルケル首相は同大での出身(物理学専攻)です。

 一方、宛先のケーニヒスヒュッテは、現在のドイツ=ポーランド国境に近いポーランド・シロンスク地方有数の工業都市ですが、第二次大戦中はドイツ領に編入されていました。したがって、収容所からの封書の料金は国内料金用の12ペニヒです。収容者が自らの意思で倍額以上の25ペニヒ支払うということも考えにくいので、差出人は外部からの差し入れによりこの切手を入手したと考えるのが妥当でしょう。

 なお、アウシュヴィッツの収容所とその郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★★ 講座のご案内 ★★

 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

東アジア歴史文化研究会
 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール
 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。
 参加費 2000円
 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。

日本史検定講座(全8講)
 12月13日(金)スタート!
 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。

・武蔵野大学生涯学習秋講座 
 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年12月15日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 )

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)


★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★

       (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙  本体2500円+税(予定)
 
 出版社からのコメント
初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

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 表紙の郵便物
2019-11-25 Mon 00:37
 きょう(25日)は、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』の奥付上の刊行日です。というわけで、現在のプロフィール画像にも使っている表紙カバーで取り上げた郵便物についてご説明いたします。(画像はクリックで拡大されます)

      モノヴィッツからジーメンス宛

 これは、1944年3月14日、モノヴィッツのアウシュヴィッツ第3収容所に駐在していたイーゲー・ファルベン社(以下、IGファルベン)のスタッフがベルリンのジーメンス・シュッケルトウェルケ社宛に差し出した書留便です。

 宛先のジーメンス・シュッケルト社は、現在のジーメンス社(日本法人のカタカナ表記はシーメンス社)の前身で、1847年、電気技術者のウェルナー・フォン・ジーメンスと機械技術者ヨハン・ゲオルク・ハルスケがベルリンで設立した合名会社ジーメンス・ウント・ハルスケ商会がその起源です。

 当初は、電信機器の製造と電信ケーブルの敷設業務を行っていましたが、1866年、発電機の発明を契機に重電部門の比重を高め、1879年のベルリン勧業博覧会で世界初の電気鉄道の実験に成功。1880年代初めには、電気照明、電動機の分野に進出しました。

 ジーメンス・ウント・ハルスケ商会は、1890年に合資会社に、1897年に株式会社のジーメンス・ウント・ハルスケ社になり、19世紀末には、職員2000人、労働者1万2000人を数え、ベルリン、ウィーン、サンクトペテルブルク、ロンドンに工場を設けた一大企業に成長します。

 1903年、ジーメンス・ウント・ハルスケ社は、シュッケルト電気株式会社を吸収し、重電部門を総括するために、この郵便物の宛名であるジーメンス・シュッケルトウェルケ社を資本金9000万マルクで設立しました。なお、ジーメンス・シュッケルト社は、第二次大戦後の1966年、ジーメンス・ハルスケ社と一本化して、現在のジーメンス社が誕生しました。

 今回ご紹介の郵便物の宛先は、ジーメンス社の組立部門になっていますので、モノヴィッツの工場で使う機械類についての書類が同封されていたのかもしれません。なお、民間企業間の国内便のため、差出時に収容所が検閲することもなければ、逓送途中での開封・検閲を受けた痕跡もありませんが、I.G.ファルベンの社内的な機密保持のためにチェックを受けたことを示す“KONTROLLE”の文字が入った角形の印が押されているのが目を引きます。

 拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』では、いわゆる強制収容所の収容者の郵便物のみならず、関連の軍事郵便や収容所と深い関係のあった企業の郵便物などもいろいろとご商j解しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール
 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。
 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。

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 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。

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 2019年12月15日(日) 
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 国際学生の日
2019-11-17 Sun 03:18
 きょう(17日)は、いまから70年前の1939年11月17日、ドイツ占領下のベーメン・メーレン保護領(旧チェコスロバキア)でドイツ軍が学生のデモ行進を鎮圧し、教授2人と学生9人を殺害したことにちなむ“国際学生の日”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・クラトヴィ宛

 これは、1942年7月18日、アウシュヴィッツ収容所の収容者がベーメン・メーレン保護領のクラトヴィ宛に差し出したレターシートです。

 現在のチェコ共和国の外縁部にあたるズデーテン地方は、チェコ人の支配するボヘミア王国の時代の東方植民以来、ドイツ系住民の多い地域になっていました。ハプスブルク帝国の支配を経て、1918年、チェコスロヴァキアが独立を宣言すると、ズデーテン地方の帰属をめぐっては、チェコスロヴァキア政府が同政府による実効支配の追認を求めたのに対して、ドイツ系住民がチェコスロヴァキアへの編入に強く反対。ヴェルサイユ講和会議では、米国が民族自決の観点からドイツへの編入を主張したのに対し、フランスは安全保障の観点からチェコスロヴェキアの強化を主張。最終的に、フランスの主張通り、ハプスブルク帝国解体後の戦後処理を定めたサン・ジェルマン条約によって、ズデーテン地方はチェコスロヴァキア領となり、310万人のドイツ系住民はチェコスロヴァキアにおける“最大の少数民族”となりました。

 ところが、これを不満とするズデーテン地方のドイツ系住民の一部は、ズデーテンの自治権を要求。さらに、隣国のドイツがナチス政権下で経済恐慌から脱して経済力を回復すると、コンラート・ヘンラインらのズデーテン・ドイツ人党は、「ズデーテンのみならず全ボヘミア・モラヴィア・シレジア地方のドイツへの編入」を目標に掲げ、ドイツの支援を要請。これを受けて、ヒトラーも“ズデーテン問題の解決”を訴えるようになり、1938年3月の独墺合邦後、「ドイツとチェコの障害になっているのはドイツ人の民族自決権を認めようとしないチェコ側の態度である」、「事態をこのまま放置しておけばヨーロッパ中がチェコの頑迷の巻き添えを喰らうことになる」などとチェコスロヴァキアを恫喝し、欧州内では、ヒトラーがチェコスロヴァキアを攻撃するとの観測が強まります。

 このため、1938年9月29-30日、いわゆるミュンヘン会談が行われ、対独宥和政策を取る英国のネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相がズデーテン地方のドイツ編入を容認し、同年10月1日にはドイツによる軍政が施行されました。なお、ミュンヘン会談の前後、ヒトラーは「ズデーテンラントは我々の最後の領土的要求であり、チェコスロヴァキアの独立を侵害するつもりはない」と繰り返していましたが、実際には、一九三九年三月十五日、チェコスロヴァキア国家は解体され、ドイツはチェコ地域の主要部を併合して、ボヘミアとモラビアの主要部分にベーメン・メーレン保護領を設置します。

 ところで、1940年、ポーランド南部に開設されたアウシュヴィッツ収容所は、もともとは、ポーランド人の政治犯・捕虜を収容するための施設でしたが、1941年6月の独ソ戦勃発を経て、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されると、ドイツ勢力圏下の欧州各地からユダヤ系の人々がアウシュヴィッツに移送されてくるようになり、アウシュヴィッツとベーメン・メーレン保護領との間でも郵便物の往来が始まりました。今回ご紹介のレターシートも、その一例というわけです。

 さて、新刊の拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』では、今回ご紹介のカバーを含め、アウシュヴィッツ収容所とベーメン・メーレン保護領との間を往来した郵便物についてもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 12月13日(日)スタート!
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 2019年12月15日(日) 
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 レジスタンスの女性活動家、103歳で亡くなる
2019-11-05 Tue 01:31
 ドイツ占領下のフランスでレジスタンス運動に参加し、ユダヤ人の脱出を助けたイベット・ランディさんが亡くなったことが、3日、発表されました。享年103歳。ランディさんは、1940年以降、兄のジョルジュさんが自身の農場にかくまっていたユダヤ人らをはじめ、ドイツ国内の義務労働徴用から逃げ出した男性らや、逃走した捕虜らに偽造文書を提供していましたが、1944年、ゲシュタポに逮捕され、自身もラーフェンスブリュック収容所に送られたとのことなので、ご冥福をお祈りしつつ、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ラーフェンスブリュック宛葉書

 これは、1942年5月6日、アウシュヴィッツ収容所の民間人スタッフがラーフェンスブリュック収容所宛に出しだした葉書で、到着時に、“Postzensurstelle/ F.K.L. Ravensbruck/ gepruft…(郵便検閲/ラーフェンスブリュック女性強制収容所/…によって検閲された)”と表示されたラーフェンスブリュック収容所の検閲印が押されています。

 ラーフェンスブリュック収容所は、ベルリン北方90キロの地点に位置しており、1938年末からザクセンハウゼン収容所の収容者を動員して建設が開始され、1939年5月13日、最初の収容者としてドイツ人女性860人、独墺合邦後のオーストリア人女性7人が移送されてきました。

 1945年4月、ソ連軍によって解放されるまでに、総計23ヵ国、約12万3000人以上の女性が収容され、6万人以上が死亡したとみられていますが、収容者の人種・国籍別の内訳としては、ポーランド人が最多の4万人で、このほか、ユダヤ人が2万600人、ロシア人が1万8800人、フランス人が8000人、ドイツ人が1000人で、8割以上が政治犯でした。収容者はジーメンス・ウント・ハルスケでの強瀬労働に従事させられたほか、1942年以降は収容者を使った人体実験も行われています。

 さて、ランディさんは、28歳だった1944年6月、勤務先の学校でゲシュタポに逮捕され、ラーフェンスブリュック収容所に送られ、収容所に着くなり、ナチス・ドイツ親衛隊(SS)の隊員らの目の前で服を脱ぐよう強要されたそうです。その後、ワイマール近郊の強制労務部隊に送られ、1945年4月、ソ連軍の親中により解放されました。

 さて、2015年に刊行した拙著『アウシュヴィッツの手紙』ですが、おかげさまで在庫がほぼなくなりました。また、同書の刊行以降、 Postal History of Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア2018年のエルサレムと2度の世界切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。

 そこで、今回ご紹介の葉書なども加えて、11月25日付で同書の改訂増補版を出版することになりました。すでに、編集作業は完了しており、現在、印刷;製本作業中ですが、アマゾン等での予約も始まっております。現物ができあがってきましたら、改めてご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。


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 世界食糧デー
2019-10-16 Wed 11:47
 きょう(16日)は、1945年10月16日に国連食糧農業機関(FAO)が創立されたことにちなむ“世界食糧デー”です。というわけで、“食糧”にちなんで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・小包ラベル
      アウシュヴィッツ440713

 これは、1944年7月、アウシュヴィッツ収容所から、ポーランド南部、カトヴィツェの南30キロの地点にあるプレス(ポーランド語名プシュチナ)宛の郵便物で、受取人に対して、収容者への差し入れの食糧についての注意書を印刷したラベルが貼られています。

 ちなみに、使用されている用紙は、収容所から収容者に対して支給されたレターシートには、宛名面に印刷されている注意書が7ヶ条のモノと6ヶ条のモノがありますが、今回ご紹介のものは6ヶ条のタイプです。

 さて、アウシュヴィッツの収容者に対しては、外部から食糧などの差し入れが可能で、そのため、収容者が家族・関係者に送る手紙の多くは、自分への差し入れがきちんと届いていることを報告してます。ただし、食品の場合には、収容者の手元に届くまでに傷んでしまうなどのトラブルも多かったようで、そうしたことを防ぐため、収容者からの発信に、今回ご紹介のようなラベルを貼って、収容者へ郵便物を送る人への注意を呼び掛けることも行われました。

 その文面は、以下の通りです。 
 
 夏半期の小包に関する注意
 生の果物、キュウリ、トマト、桃、プルーンなど、さらに、焼き立てのパンなどの腐りやすい食品は気温の高い時期には送ることができない。フレッシュジュース、ガラス容器や瓶に入った液体は破損により同封の荷物や他の荷物を汚損する可能性があるので、送ることができない。
 きちんとした包装をすること。
 書留書状、書留小包、保険付き書状、速達小包は送ってはならない。普通郵便と(特殊扱いにしていない)小包のみを受け付ける。それ以外のものは差出人に返戻される。 
 郵便検閲所

 さて、2015年に刊行した拙著『アウシュヴィッツの手紙』ですが、おかげさまで在庫がほぼなくなりつつあります。また、同書の刊行以降、 Postal History of Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア2018年のエルサレムと2度の世界切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。

 そこで、このたび、2015年の拙著の増補改訂版を出版することになりました。すでに初校の作業は終了しており、現在、最後の編集作業を進めているところです。正式な発売日や定価など、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内していきますので、よろしくお願いいたします。
 

★★ 講座のご案内 ★★

 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

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 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
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・武蔵野大学生涯学習秋講座 
 切手と浮世絵
 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回)

 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年12月15日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 )


★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 ホロコースト記念日(ヨム・ハショア)
2019-05-02 Thu 01:37
 きょう(2日。正確には、1日の日没から2日の日没まで)は、イスラエルのホロコースト記念日(ヨム・ハショア。ユダヤ暦第1月27日)です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツ・切手剥ぎ取り

 これは、1944年2月6日、アウシュヴィッツ収容所からベーメン・メーレン(ボヘミア・モラヴィア)保護領のプロスチェヨフ(ドイツ語名・プロスニッツ)宛に差し出された郵便物で、検閲のため収容所当局によって切手が剥がされたことを示す“DIE MARKEN WURDEN AMTLICH ABGENOMMEN”の印が押されています。

 アウシュヴィッツの収容者が差し出す郵便物の中には、収容所の検閲担当者が、貼られている切手を剥がして、切手の裏や切手の貼られている場所に秘密の通信が描かれていないかをチェックすることも行われました。その場合、担当者が元の位置に切手を貼りなおすこともあれば、切手を剥がしたままで配送に回すこともありました。現存するアウシュヴィッツ発着の郵便物に切手脱落のモノが多いのは、こうした事情によるものです。

 切手が剥がされた郵便物でも消印の一部はカバー上に残っていますから、受取人が不足料金が徴収されることはないのですが(そもそも、収容者は切手を貼らないと郵便物を差し出すことができません)、そうした状態の郵便物では、検閲の課程で切手が剥がされたのか、それとも、逓送途中ないしは到着後に切手が脱落したのか、識別は困難です。

 これに対して、今回ご紹介の郵便物のように、当局によって切手が剥がされたことを示す印が押されていれば、切手が脱落している理由がきちんとわかるのですが、こうした印が押されたカバーはきわめて少なく(おそらく数通しか確認されていないのではないかと思います)、僕も、最近になってようやく入手することができました。

 さて、2015年に刊行した拙著『アウシュヴィッツの手紙』ですが、おかげさまで在庫がほぼなくなりつつあります。また、同書の刊行以降、 Postal History o Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア2018年のエルサレムと2度の国際切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。そこで、2015年の拙著の増補改訂版を作ることになりました。詳細につきましては、随時、このブログでもご案内していきますので、よろしくお願いいたします。


★★ 今さら聞けないチェ・ゲバラ ★★

   今さら聞けない

 5月12日(日) 21:00~  『チェ・ゲバラとキューバ革命』の著者、内藤陽介が、Schooに登場し、ゲバラについてお話しします。(ライブ配信は無料でご視聴頂けます)

 誰もが一度は見たことがある、彼の肖像。
 革命家である彼は、どんな生涯を送ったのでしょうか。
 切手や郵便物から彼の足跡を辿ります。

 詳細は特設サイトをご覧ください。

★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 ウクライナ新大統領にゼレンスキー氏
2019-04-23 Tue 02:58
 21日に投開票が行われたウクライナ大統領選挙の決選投票で、コメディー俳優で新人のボロディミル・ゼレンスキー氏(以下、敬称略)がペトロ・ポロシェンコ現大統領に大差を付けて勝利しました。ゼレンスキー氏は、ウクライナ国内ではマイノリティのユダヤ系ということなので、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツからウクライナ宛

 これは、1944年1月、モノヴィッツのアウシュヴィッツ第3収容所に派遣されていたウクライナ人スタッフが祖国宛に差し出したものの、おそらく戦闘が激化したために配達不能となり、差出人戻しとなった葉書です。

 現在のウクライナ国家に相当する地域は、かつて、ポーランド・リトアニア共和国の支配下で、多数のユダヤ人が生活していました。1795年の第3次ポーランド分割でポーランド・リトアニア共和国は完全に消滅し、ウクライナはロシアの支配下に入りますが、すでに1794年から建設が始まっていたウクライナ南部の港湾都市、オデッサとその周辺には多くのユダヤ人が住みつき(19世紀末にはオデッサ市の人口の3分の1がユダヤ人と言われるほどでした)、オデッサはロシア・ユダヤ文化の中心地となります。

 しかし、1881年、ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されると、首謀者はナロードニキ派で貴族出身の非ユダヤ人、ソフィア・ペロフスカヤだったにもかかわらず、犯人グループの中にユダヤ人女性革命家ゲシア・ゲルフマンがいたことから、民衆の間で事件はユダヤ人の陰謀とする煽動が行われ、ウクライナと南ロシアでポグロム(流血を伴う反ユダヤ暴動)が発生。以後、この地域では断続的にポグロムが発生し、多くのユダヤ人がウクライナから脱出していきました。ちなみに、映画やミュージカルで有名な「屋根の上のヴァイオリン弾き」は、この時代のウクライナのユダヤ人家庭を舞台に、最終的に、彼らがポグロムによって故郷の村を追われるというストーリーになっています。(原作の小説では、主人公一家はイスラエルの地へ帰還する設定ですが、ミュージカルではニューヨークに向かうところで幕となります)

 1917年のロシア革命を経て、ソ連時代になると、ウクライナ人が激しく弾圧されたのに対して、ユダヤ人に対する弾圧は少なく、ユダヤ人の中には革命政府の要職に就く者も現れます。さらに、ウクライナ人ナショナリストの弾圧の実務責任者だったのが、ウクライナ出身のユダヤ人、カガノーヴィチだったこともあり、もともと反ユダヤ感情の強かったウクライナ人の間には、より強烈な反ユダヤ感情が沈殿していくことになります。

 こうした背景の下、1941年に始まる独ソ戦では、ドイツ側は「戦争の責任はユダヤ人にあり、ドイツ民族の生存を望まないユダヤ人は絶滅する必要がある」と主張し、ウクライナを占領。すると、反ソ・反ユダヤ感情の強かった地元のウクライナ人は、進駐してきたドイツ軍に対して、積極的に“ユダヤ人始末の権限”を要求し、多くのウクライナ人“補助警察官”が熱心に“ユダヤ人狩り”を推進しただけでなく、対独協力の一環として、多くのウクライナ人スタッフがアウシュヴィッツ等の収容所に派遣されていきました。

 特に、キエフ近郊のバビ・ヤールでは、1941年9月29-30日 ウクライナ警察の協力の下、ユダヤ人は移住させるから集合せよとの布告を信じて集められたユダヤ人3万7000人が徒歩で移動中に次々に射殺されたのを皮切りに、1943年までに10万人のユダヤ人が殺害されています。こうしたウクライナ人のあまりの暴挙に、一部の地域では、ユダヤ協会の指導者層がドイツ占領当局に「ウクライナ人を取り締まってほしい」と陳情していたほどです。

 結局、独ソ戦開戦時の1941年には270万人いたとされるウクライナのユダヤ人のうち、ドイツ占領時代に犠牲になったユダヤ人は90万人とも推定されていますが、第二次大戦後の1949年には、多くのユダヤ人が「イスラエル(1948年建国)と通じている」との嫌疑をかけられ、粛清の大葬となりました、このため、第二次大戦後、最初の国勢調査が行われた1959年には、ウクライナのユダヤ人口は84万人にまで落ち込んでいます。

 フルシチョフによるスターリン批判以降、ユダヤ人が直接的な生命の危機にさらされる危険性は大きく減じられましたが、個別のユダヤ人として差別はソ連崩壊まで温存されます。今回、大統領選挙で当選したゼレンスキーは、こうした時代背景の下で、1978年、ユダヤ人家庭に生まれました。ちなみに、父親はドネツク・ソヴィエト貿易研究所(現・ドネツク国立経済貿易大学)の研究者、母親はエンジニアで、ユダヤ人への差別が比較的少ない職業でした。

 ソ連末期の1991年8月24日、ウクライナがソ連を離脱して再独立すると、過去の先例から、共産主義政権下で抑え込まれていたウクライナ民族主義の高揚に危機感を覚えたユダヤ人の出国(主な出国先はイスラエルです)が相次ぎ、2014年の国勢調査ではユダヤ人口は6万7000人にまで落ち込みました。

 このように、歴史的には反ユダヤ的な傾向がきわめて強かったウクライナですが、2016年4月10日、ソ連時代の1978年にウクライナのヴィーンヌィツャで生まれたユダヤ人、ヴォロディーミル・フロイスマンがウクライナの首相に就任。さらに、今回、ゼレンスキーが大統領に当選するなど、時代は確実に変化してきているようです。それでも、現在なお、ウクライナ国内では、ロシア人や外国人との混血など、生粋のウクライナ人以外の政治家等に対して、“ユダヤ人”とのネガティヴ・キャンペーンが展開されることもあるなど、ウクライナの反ユダヤ感情は抜きがたく残ってはいるのですが…。

 なお、アウシュヴィッツ関連の郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(22日)、アクセスカウンターが204万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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