2022-06-30 Thu 03:05
1997年6月30日に英国の香港統治が終了して、ちょうど25年が過ぎました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、英国による香港統治が始まって間もない1843年に香港からアイルランドのベルファスト宛に差し出された郵便物で、右上には英王室の紋章と香港郵便局(HONG KONG POST OFFICE)の文字が入った現地製の印(下の画像)が押されています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 また、英領時代の香港については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 7月8日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 読書人Web 「切手がつなげた人と時代」 6月24日に『切手でたどる 郵便創業150年の歴史』シリーズ完結を記念して、田中秀臣先生と行ったトークイベントのアーカイブ配信のご案内です。7月24日まで、こちらでチケット(1500円)を販売しておりますので、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 4月6日-7月12日 鏑木清方と江戸の残り香 詳細はこちらをご覧ください。 4月13日-7月19日 日本の郵便150年の歴史2 占領時代(1945年の終戦から1952年) 詳細はこちらをご覧ください。 5月18日-8月23日 日本の歴史を学びなおす― 近現代編その2― 幕末 詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.3 平成・令和編』 好評発売中!★ 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの最終巻。平成以降、郵政省が郵政事業庁、日本郵政公社を経て、株式会社化され現在に至るまでを扱っています。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-09-09 Mon 00:55
逃亡犯条例改正案の撤回発表後も反政府抗議活動が続く香港で、きのう(8日)、数万人とみられるデモ隊が香港島中心部のヴィクトリア公園から米総領事館まで行進し、米国で上下両院の超党派議員が今年6月に提出した「香港人権・民主主義法案」を早期成立させ、香港政府に圧力をかけるよう求めました。というわけで、きょうはこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1857年5月、香港駐留の米軍艦からマサチューセッツ州ダックスバリー宛に差し出されたカバーで、裏面には、5月9日の香港、7月9日の英サウザンプトン、表面右上には7月18日のニューヨークの中継印が押されています。また、ニューヨークの印の下には、このカバーの郵便料金を香港ドルで示した“12(セント)”の書き込みがあり、ニューヨークではそれを米ドルに換算した“33(セント)”の印を押し、その金額を配達時に受取人が支払っています。 1851年1月11日に勃発した太平天国の乱で、太平天国側は1852年6月には湘江に到着。同年末には漢陽・漢口を、1853年1月には武昌を攻略し、同年3月19日には江寧(南京)を陥落させ、ここを天京と改名し、王朝を樹立しました。 その後、太平天国は、天京を拠点に清朝と戦いましたが、1856年頃からは内紛が激化。さらに、清朝側の巻き返しに加え、曽国藩ひきいる湘軍などの郷勇や英国人ゴードンひきいる常勝軍などの攻撃をうけて、1864年に滅亡します。 ところで、この間の1853年、マシュー・ペリー率いる米国東インド艦隊は、大西洋から喜望峰、セイロン、シンガポール、香港、上海、琉球を経て日本の浦賀へ到達し、幕府に開国を求めましたが、日本側から1年後の再訪を求められると、浦賀から琉球を経て、香港に戻り、情報収集などをしながら機会をうかがっていました。その際、ペリーらは太平天国の乱に伴う混乱のさなか、米国人保護の活動も行っていました。 ペリーの一行は、1854年の日米和親条約の調印後、米国に帰国しましたが、その後も太平天国の乱が続いていたことに加え、1856-60年にはアロー戦争が勃発したこともあり、米海軍は香港への駐留を続け、米国人の保護や情報収集などの任務を行っていました。今回ご紹介のカバーも、そうした事情で香港に駐留していた海軍将校が差し出したものです。なお、この辺りの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ちなみに、米国の「香港人権・民主主義法案」は、“一国二制度”を前提に、香港に認める関税や査証発給などの優遇措置継続の是非を判断するため、香港自治の現状に関する年次報告を米国務省に義務付けるもので、香港に十分な自治が認められていないと判断された場合、関税面など香港の対米貿易上の特権を見直すとされており、中国政府の強硬的な措置を牽制する有効な手段になるものと香港の民主派は期待しています。 * 昨晩(8日)、アクセスカウンターが209万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 10/1、11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-09-05 Thu 01:59
香港の林鄭月娥行政長官は、きのう(4日)、市民らの大規模デモの引き金となった「逃亡犯条例」改正案を正式に撤回しました。これに対して、民主派の指導者で8月30日に逮捕(その後釈放)された周庭氏は「条例の撤回は喜べません。遅すぎました」とツイートしています。というわけで、きょうはこんなものを持ってきました。
これは、英領時代の1891年に香港で発行されたヴィクトリア女王の10セント切手で、“TOO LATE(遅すぎる)”の文字の入った1896年9月2日付の印が押されています。 かつて、郵便物を送る際には、差出人が郵便物を運ぶ船や飛行機の便などを指定することがありましたが、その場合には、郵便局では指定の便に間に合わせるための締め切り時間を設定するのが一般的です。郵便局側の締め切り時間は、船や飛行機に届ける時間を見越して早めに設定されているため、利用者としては、希望の便に十分に間に合うつもりで差し出したものの、郵便局の締め切り時間は過ぎている場合もままあります。そうした場合、郵便局としては、局側の締め切り時間に間に合わなかったことを示すため“TOO LATE”の表示の印を押し、配達が(差出人の想定よりも)遅れたことを説明することが行われました。今回ご紹介の切手に押されている印も、その一例です。 さて、きのうのテレビ演説で、林鄭長官は「この2カ月余りで起こったことは香港人に衝撃と悲しみをもたらした」と語りかけ、①改正案の撤回、②新メンバー加入で警察の監察組織拡充、③政府と市民の対話の枠組み設置、④諸問題に関する各界識者の研究会の招集、を約束し、市民やデモ隊の要求の一部を受け入れる意向を示しました。 これに対して、周庭氏は、「条例の撤回は喜べません。遅すぎました」としたうえで、一連の抗議行動が始まって以来の3ヵ月で「8人が自殺。3人が警察の暴力によって失明。2人がナイフを持つ親北京派に攻撃され、重傷。1000人以上逮捕。100人以上起訴。怪我した人は数えきれないです」と指摘。そのうえで、いままで掲げてきた5つの要求(① 改正案の完全撤回、② 警察と政府の、市民活動を「暴動」とする見解の撤回、③デモ参加者の逮捕、起訴の中止、④警察の暴力的制圧の責任追及と外部調査実施、⑤林鄭月娥長官の辞任と民主的選挙の実現)の完全実施を求めて戦い続けるとしています。 また、周氏と同じく30日に逮捕(同日中に釈放)された黄之鋒氏も、5つの要求のうち1つのみの承認が発表されたことに対し、ツイートで「少なすぎ、遅すぎる」と批判。「各国に対しても、北京(中国政府)と香港政府による作戦に惑わされないよう呼びかける。実際彼らは何も承認しておらず、今後徹底的な弾圧が始まる」とも述べています。 たしかに、今回の改正案撤回は民主派にとって大きなポイントとなったことは事実ですが、その一方で、黄氏が懸念する“徹底的な弾圧”が始まることのないよう、引き続き、香港情勢について注視していかねばなりますまい。 ★ 9月6日(金) 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 9月6日(金)05:00~ 文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 10/1、11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-07-08 Mon 02:40
香港・九龍地区できのう(7日)、中国本土への容疑者引き渡しを可能にする「逃亡犯条例改正」の撤回を求めるデモが行われ、23万人以上が尖沙咀の梳士巴利花園(ソールズベリー・ガーデン)から廣東道(カントン・ロード)を経て高速鉄道の西九龍駅まで行進しました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1909年11月5日、香港・九龍地区からドイツ宛に差し出された葉書で、九龍郵便局を示す“K.B.”の文字が入った消印が押されています。 アロー戦争後の1860年に締結された北京条約より、清朝は九龍半島のうち、現在の界限街以南の地域を英国に割譲しました。しかし、その後も長らく九龍地区には郵便局は設置されず、同地区に最初の郵便局がオープンしたのは、新界地区が租借された後の1898年7月5日のことでした。 当初、九龍の郵便局は九龍の波止場に置かれていましたが、この時点では、同局は独立した郵便局というよりも、ヴィクトリアの香港中央郵便局の分局という扱いであったため、消印の表示も、九龍を意味する“Kowloon”ではなく、九龍分局を意味する“Kowloon Branch”を略した“K.B.”の表示が入った“Hong Kong K.B.”の消印が用いられていました。 その後、波止場の敷地に内に設けられていた九龍郵便局は、香港島と九龍を往来するスターフェリーの開業に伴い、フェリーの船着場の建物内に移転し、さらに1906年9月、尖沙咀の梳士巴利道(今回のデモ隊が出発した梳士巴利花園のあるエリアです)に移転しました。ちなみに、現在の九龍中央局は、それより北側の油麻地エリアの天后廟前にあります。 なお、九龍地区の歴史については、拙著『香港歴史漫郵記』でも、詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★★ 全日本切手展のご案内 ★★★ 7月13-15日(土-月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにポーランド切手展が開催されます。全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-06-07 Fri 02:49
昨日の記事にも書きましたが、昨晩、日本を出国し、無事、武漢に到着。Wi-Fi接続のセットアップも済ませました。日本からの世界切手展<CHINA 2019>への出品作品につきましては、通関手続きを済ませ、現在、組織委員会が保税倉庫代わりのホテルの1室で保管しております。(下の画像は海関で封をされた作品のスーツケースを運びこむ内藤と、それをチェックするスタッフの女性。以下、画像はクリックで拡大されます)
というわけで、無事の武漢到着を祝って、現在は武漢市の一部になっている漢口宛のカバーの中から、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1940年12月4日、香港から漢口宛のカバーで、裏面には英国の戦時公債の購入を呼び掛けるラベルが貼られているのがミソです。 1930年代の日中間の対立に際して中国を支援していた英国は、すでに支那事変が勃発する前年の1936年には、マジノ線(フランス・ドイツ国境を中心に構築されたフランスの対ドイツ要塞線)にならって、九龍半島の山岳地形を利用して、新界・葵涌一帶の醉酒灣(ジン・ドリンカーズ・ベイ。現在の葵芳付近)から金山、城門水塘、畢架山、獅子山、大老山を経て西貢で牛尾海に出るまでの18キロを結ぶ醉酒灣防線(ジン・ドリンカーズ・ライン)の建設を開始し、1938年までにこれを完成させていました。醉酒灣防線の西端には地下要塞が、東端にはトーチカが設置され、日本軍が廣州を越えて新界に侵攻してきた場合には、そこで迎撃するというのが彼らのプランです。 しかし、その一方で、1938年9月以降、日本軍の廣州占領という現実を前に、日本側を不用意に刺激すべきではないと判断した香港政庁は、微温的な対応を迫られることになります。 すなわち、広州陥落直前の1938年9月、香港政庁は支那事変に関して中立的態度を取ることを宣告。香港の商人が日中両国の船を修理したり、食糧を供給したりすることが実質的に禁止されます。また、抗日組織を煽動する可能性のある集会は許可されず、抗日を宣伝する新聞やパンフレットは検閲の結果、不許可とされました。 さらに、1939年9月1日、第二次欧州大戦が勃発し、英国がナチス・ドイツに宣戦を布告すると、英領香港は否応無しに、英国の戦争に巻き込まれ、すでに構築されていた醉酒灣防線のほかに、香港島南岸には鉄条網が準備され、灯火管制の演習も繰り返されたほか、白人男性の徴兵も始まりました。 また、1940年6月には、香港政庁は香港在住のヨーロッパ人の女性と子供をオーストラリアへ避難させるよう住民に命じています。“敵国”(名指しこそないものの、それが日本を意味することは明白でした)から攻撃を受け、香港が戦場となる可能性が高まっていると判断したからです。 特に、1940年9月、日本軍が北部仏印に進駐し、米国を仮想敵国とする日独伊三国軍事同盟を結ぶと、日本と連合諸国の関係は一挙に悪化し、香港社会の緊張も一挙に高まりました。 市街地の重要なビルには土嚢が積み上げられ、天星小輪(スター・フェリー)の船着場にはおびただしい数の砲台が並べられ、灯火管制の演習は頻度を増し、街頭の新聞スタンドの売り子は「我々は最後の血の一滴まで香港を守ってみせる」と豪語していました。また、根も葉もない噂に注意しようとの香港政庁のキャンペーンが展開され、それをもじって「不確かな情報は国家を危機に追いやる。代わりに、タイガー・ビールについて話をしよう」という広告がいたるところで見られるようになり、各種の戦時公債・基金の募集もさかんに行われました。今回ご紹介のカバーに貼られたラベルも、そうした状況の下で制作され、使用されたものです。 ちなみに、日英開戦直前の香港の状況については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2015-11-24 Tue 06:20
早いもので、20日から開催されていたアジア国際切手展<HONG KONG 2015>は、昨日(23日)、無事終了しました。すでに作品とメダル、特別賞等のピックアップも済ませており、本日午前中の全日空で香港を発ちます。というわけで、無事の帰国を願って、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1936年2月の香港から東京宛の初飛行カバーです。郵便物を運んだのは英空軍(RAF)で、2月16日にマニラから香港に到着後、18日に香港を発って、厦門、上海を経由して東京に到着しました。このカバーは、RAFが香港を発つ前日の2月17日に引き受けられ、エアメール用の消印(下段にしっかりAIR MAILの文字が入っています)と“BY COURTESY AIR FLIGHT/ HONG KONG CHINA JAPAN/ ROYAL AIR FORCE/ FEB. 18TH 1936.”の角印を押して後、翌18日、香港を出発し、無事、東京に到着しました。東京に到着後、裏面には二重橋を描く当時の東京中央局の風景印が押されています。 さて、今回の切手展では、審査員の佐藤浩一さん、大原敏正さん、正コミッショナーの井上和幸さんご夫妻、作品の撤去作業をお手伝いいただいた池田健三郎さん、大場光博さん、斉藤環さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。 なお、この記事をアップしたら、すぐに宿をチェックアウトし、本日午後には、成田に到着の予定です。無事に帰国しましたら、明日(25日)以降は平常通り仕事をするつもりですので、内藤の不在によりご不便・ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、今しばらくお待ちくださいますよう、伏してお願い申し上げます。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 2350円+税 【出版元より】 若く美しい女王の横顔に恋しよう! 世界最初の切手 欲しくないですか/知りたくないですか 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 2000円+税 【出版元より】 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-03-03 Tue 12:55
1865年3月3日に香港上海銀行(HSBC)が開業してから、きょうでちょうど150年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1941年に発行された英領香港100年の記念切手のうち、当時のHSBC本館を描いた25セント切手です。 現在、アジア有数の国際金融都市となっている香港で最初の銀行ができたのは、香港島が英領となって間もない1840年代のことですが、当時の銀行はロンドンやインドに拠点を置く“アングロ・インディアン銀行”でした。このため、彼らの取引はイギリス本国やインドとの決済が優先されており、中国や香港での取引には制約も多く、香港在住の英国商人たちは不満を持っていました。 さらに、1864年初め、インドにおける金融の中心地であったボンベイの金融業者たちが英本国の勅許を得て、彼ら独自のバンク・オブ・チャイナを創立する計画が浮上します。この計画が実現されてしまうと、香港の経済・金融はますます、英本国やインドに従属することになるため、このことに危機感を抱いたP&O汽船の香港支配人、トーマス・サザーランドは、他地域の利害に左右されない効率的な銀行を香港でも創設することを提案。彼が書き上げたスコットランドの銀行業に関する文献を参考に設立趣意書草案は、香港のイギリス商人たちの圧倒的な支持を得て、数日のうちに香港上海銀行設立準備委員会が結成されました。 設立準備委員会は、1864年7月、設立趣意書を発表。資本金は500万香港ドルで、1株が250香港ドルの株が2万株、募集されました。こうして、1865年3月3日、地元金融機関の連合体ともいうべきHSBCが香港で営業を開始します。さらに、4月3日には上海支店でも営業が始まりました。初代頭取はパリ割引銀行香港支店長だったビクター・クレッサーです。 同行の創業間もない1866年、米国の南北戦争で綿花栽培が打撃を受けたことに加え、ヨーロッパでの普墺戦争などによって、イギリスの大手信用機関、オーバーレンド・ガーニー・カンパニーが破産すると、ロンドンの金融不安から世界的な恐慌が発生。その結果、多くの金融機関が破綻し、香港でもジャーディン・マセソン商会とならぶ繁栄を誇ったデント商会が倒産に追い込まれました。しかし、HSBCは取締役会メンバー企業の支援もあって危機を乗り切ったばかりか、破綻した金融機関を吸収して成長を続け、この年、日本にも支店を開設しています。 1870年代に入るとHSBCの経営は次第に安定。1876年、トーマス・ジャクソン(1871~74年のHSBC横浜支店長)が総支配人に就任すると、彼の在任中にHSBCは急成長を遂げ、極東随一の大銀行としてゆるぎない地位を確立しました。 HSBC本店の所在地は、創業以来、現在にいたるまで皇后大道中の一番地ですが、社屋は何度か建て直されており、切手に取り上げられているのは1935年に建てられた3代目のビルで、現在の本社ビルは、1985年に完成した4代目のものです。 なお、香港とHSBCの近現代史については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとエピソードをご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 毎月1回(原則第1火曜日:3月3日、3月31日、4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 次回開催は3月3日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 3月25日発売! ★★★ 税込2160円 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 本書のご注文はこちら(出版元の予約受付サイトです)へ。内容のサンプルはこちらでご覧になれます。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2014-11-27 Thu 22:59
香港の警察当局は、きのう(26日)、約2カ月にわたって民主派がデモを続けてきた九龍地区の繁華街・旺角(モンコック)の彌敦道(ネイザン・ロード)に設置されたバリケードやテントを撤去し、デモ参加者も強制排除して彌敦道を“開通”させるとともに、2日間で159人を逮捕しました。北京のAPECが終わった途端になんとも露骨なやり方ですが、そうであればこそ、久しぶりの香港の民主派応援企画として、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1924年に香港からドイツ宛の絵葉書で、当時の彌敦道の風景が取り上げられています。 香港の為政者であった英国人が現在の彌敦道の開発に乗り出したのは、まだ、九龍市街地が正式に彼らに割譲される以前の1860年のことでした。はじめは、この通りは当時の香港総督ウィリアム・ロビンソンにちなんで羅便臣道(ロビンソン・ロード)と呼ばれていましたが、香港島にも同じ名前の通りがあったため、20世紀初めになって、やはり当時の総督マシュー・ネイザンにちなんで彌敦道と改名されました。ネイザンはこの通りの大規模な拡張工事に着手したが、当初は意味なく大きな通りだと酷評されたこともあったそうです。 さて、彌敦道は、半島酒店(ペニンシュラ・ホテル)と香港喜來登酒店(シェラトン・ホンコン)の間の地点を南端として北に延びています。 この通りの左側を少し歩いて、北京道(ペキン・ロード。のぞきこむと上海料理の名店、滬江大飯店のド派手なネオン看板が見えます)にぶつかる交差点、中国旅行社の看板があるあたりが地下鉄の尖沙咀(チムサチョイ)の駅の一番南側、Eの出口になります。通りの右側に見えるのが南アジア系の連中がたむろしている重慶大廈(チョンキン・マンション)。その隣はガラス張りのカフェが目を引く金域假日酒店(ホリデイ・イン・ゴールデンマイル)があります。 さらに通りを北上すると、九龍公園があり、目の前には大理石のドームを持つ九龍清眞寺(モスク)が公園の緑からくっきりと浮かび上がって見えます。その後ろにショッピング・モールの柏麗購物大道(パークレーン・ショッパーズ)が400メートルほど続いて警察署のある交差点にぶつかります。 だいたい、このショッピング・モールのあたりまでが、“黄金の1マイル”と呼ばれていて、道路の両側に看板が突き出し、多数の店やホテルが並ぶ、いかにも香港らしい風景として紹介されるエリアです。 ここまで来ると、地面の下の地下鉄は佐敦駅の近くになりますが、このエリアに入ると、繁華街は途端に地元客を意識した店の割合が高くなります。ちなみに、ナイト・マーケットで有名な廟街(テンプル・ストリート)は佐敦の駅から先のところを、西にちょっと入ったところで、廟街の名前の由来となった天后廟の南側にあるのが九龍中央郵便局です。 さらに、通りを北上すると、地下鉄の油麻地、そして、今回問題となった旺角の駅の上を通り、次の太子(プリンス・エドワード)駅を越えて3分ほど歩くと彌敦道は、九龍市街地と新界の境界にあたる界限街(バウンダリー・ストリート)とぶつかって終点となります。 なお、香港・九龍市街地の開発の歴史については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★ 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです) ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 毎月1回(原則第1火曜日:1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 次回開催は1月6日(12月は都合によりお休みです)で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ お待たせしました。約1年ぶりの新作です! 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました! ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-12-08 Sat 11:48
1862年12月8日に香港最初の(というよりも東アジア最初の)切手が発行されてから、今日でちょうど150年です。というわけで、きょうはこの切手です。
これは、1862年に発行された香港最初の切手のうち、12セント切手です。 アヘン戦争以来の香港の植民地建設がそれなりの体裁を整えるとともに、香港の郵便局が取り扱う郵便物の量も増加。その結果、それまで着払いの郵便物(すなわち、差出時には料金を支払っていない郵便物)が主流を占めていた香港にとっては、郵便物を取り扱うコストの負担が重くのしかかるようになり、1858年5月1日以降、郵便料金は差し出し時に前納することが義務化されます。 また、植民地の行政機構が整備されていく過程で、1860年5月1日、それまでロンドン中央郵便局の管轄下に置かれていた香港の郵便業務も、現地の総督府の下部組織である香港郵政局の管轄に移管されました。 こうしたことから、香港でも郵便には切手を使う必要が生じ、1860年8月、香港総督のH・ロビンソンは本国の植民地大臣のニューキャッスル公に、香港でもイギリス本国の切手を使用したいと申し出ます。しかし、ロンドン中央郵便局は、植民地政府は自前の郵政を持っているではないかと指摘して、香港独自の切手を発行するよう指示。そこで、このため、ロビンソンは1861年3月に本国植民地省に対して、自らの考えたデザインの雛形とともに、香港独自の切手の製造を委託しています。 香港総督から新たに発行する切手のデザインの雛形を受け取った本国では、植民地省、大蔵省、中央郵便局、王室関係者などが約1年間かけてこれを検討し、最終的にトーマス・デ・ラ・ルー社に切手製造の実務を発注。デ・ラ・ルー社は、1862年9月10日に最初の香港切手(2セント、8セント、12セント、18セント、24セント、48セント、96セントの7種)を製造し、香港に発送しました。そして、切手は、同年11月に香港に到着し、12月8日から発行されることになったというわけです。 ちなみに、当時の香港では英本国に倣い12進法の通貨が流通していましたので、今回ご紹介の12セントはキリのいい額面だったこともあり、7額面中最多の1345シートが印刷されています。また、12セントという額面は、4分の1オンス以下のサウザンプトン経由英国宛の郵便料金に対応したものでした。 なお、香港で最初の切手が発行された当時の状況については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★★ 『喜望峰:ケープタウンから見る南アフリカ』 いままでなかった喜望峰とケープタウンの物語 美しい風景とウンチク満載の歴史紀行!! アマゾン、セブンネット、版元ドットコム、楽天ブックス、e-hon、hmv、honto、JBOOK、livedoor BOOKSなどで好評発売中! なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したい、という方は、是非、ご連絡ください。資料を急送いたします。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-07-01 Sun 15:49
1997年7月1日の“香港返還”から、きょうでちょうど15年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1941年2月26日に発行された英領香港100年の記念切手のうち、香港大学本部大楼を描く5セント切手15枚ブロックが貼られたカバーです。15周年にちなみ、景気よく15枚貼りのカバーを持ってきました。 20世紀初頭、人口の急増に対応してインフラの再構築が進められていた香港では、ハード面での対応と並行して、行政機構を拡充すべく、エリートの人材育成に乗り出す必要にも迫られていました。 このため、1908年、香港総督のフレデリック・ルガードは、聖士提反書院(セント・ステファン・カレッジ)の卒業式で新大学設置の意向を表明。これを受けて、1910年3月16日、香港島の西部、西營盤エリアの丘陵地の16ヘクタールの敷地に香港初の総合大学である香港大学の建設が開始されました。翌1911年には、大学の運営の基本方針として「香港大学堂憲章」が公布され、香港大学は香港政庁に隷属するものでなく、イギリス政府に直接帰属すること、校長は総督が任命すること、実際の職務は副校長が担当し、理事会によって意思決定がなされること、などが定められています。 ただし、イギリス政府による財政支援は年間300ポンドのみで、建築費用等は各界の寄付によって賄うものとされました。このため、インド系の大商人でルガード総督とは家族ぐるみの付き合いがあったホルムスジー・ノウロジー・モディは15万香港ドルもの大金を気前よく払っています。この功績により、モディは大学起工式の後、イギリス本国のナイトに叙せられたほか、九龍市街地の通には麼地道(モディ・ロード)との名前がつけられ、麼地廣場(モディ・スクエア)もつくられました。 なお、香港大学本部大楼をはじめ、20世紀初頭の香港で続々と建てられたエドワード・スタイルの建造物については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介・韓国進出! ★★★ 『韓国現代史』の韓国語訳、出ました 우표로 그려낸 한국현대사 (切手で描き出した韓国現代史) ハヌル出版より好評発売中! 米国と20世紀を問い直す意欲作 우표,역사를 부치다 (切手、歴史を送る) 延恩文庫より好評発売中! *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。なお、『우표,역사를 부치다(切手、歴史を送る)』につきましては、7月以降(現物を入手次第)、このブログでも刊行のご挨拶を申し上げる予定です。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2011-05-17 Tue 16:23
きのう(16日)午後、首都圏の空港を利用した海外からの団体旅行客としては東日本大震災後初めて、香港のツアー客が成田に到着しました。これを契機に海外からの観光客が回復し、7-8月に横浜で開催予定の国際展には、海外からも多くのお客さんが参加してほしいものです。というわけで、きょうは香港から日本宛てのカバーの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1926年1月18日、香港・西半山の西摩道から東京宛に差し出された書留便です。それだけなら、だからどうしたという話なのですが、このカバーが差し出された時期、香港ではいわゆる“省港スト”の最中であったというのがミソです。 1925年5月14日、上海の日系企業・内外綿で、従業員の解雇問題をめぐる騒動から発砲事件が起こり、1人が死亡。さらに同月28日、青島で、日本の要請で出動した軍閥系の兵士が数名を射殺する事件が発生しました。 このため、5月30日、上海でこれらの事件に抗議する学生デモが発生しましたが、租界の警察はデモ隊に対して一斉射撃を行い、死者13名、負傷者数十名、逮捕者53名が出ました。いわゆる五・三〇事件です。 ときあたかも、翌5月31日には中国の全国的な労働組織である中華全国総工会の地域組織として上海総工会が成立。総工会の呼びかけに呼応して、上海全市はゼネストに突入し、労働側は列強諸国や北京政府に対して17ヵ条の要求を突きつけました。 その後、事件は南京、北京、天津などへと飛び火しましたが、中でも凄まじいまでの勢いを示したのが、広州と香港の省港ストでした。ちなみに、省港の省とは広東省ないしはその省都である広州、港は香港の意味です。 1925年6月19日、香港の労働者十数万人は、共産党の劉少奇、蘇兆徴、李立三らの指導の下、大規模なストライキに突入。上海での17ヵ条に加え、香港政庁に対して、政治的自由、法律上の平等、普通選挙の実施、労働立法、家賃引き下げ、居住の自由の六項目をつきつけ、さらには不平等条約撤廃の運動も展開しました。 これに対して、香港政庁は戒厳令を実施。このため、労働者は国共合作の拠点であった広州に走り、6月23日には、国民党も党大会を開いて胡漢民、汪兆銘、廖仲らが反英を訴えます。しかし、集会後、デモ隊が広州の外国人居留地、沙面の対岸、沙基に差し掛かったとき、イギリスとフランスの両軍が群集に向かって機関銃を連射。このため、多数の死者が発生しました。いわゆる沙基惨案です。 このニュースは瞬く間に中国全土に伝わり、広東政府は香港に対する経済封鎖とイギリスに対する経済断交を宣言。香港の労働者は次々と広州に引き上げ、6月28日までにほとんどの業種で香港と広州の労働者はストライキに突入しました。 広東政府による香港の封鎖は厳重で、労働者側は糾察隊をつくってスト破りを防いだほか、イギリス商品のボイコットも徹底して行われたといわれています。 その後、ストライキは翌1926年10月まで1年4ヵ月にわたって続き、香港経済は壊滅的な打撃を受けました。また、清掃業者のストライキにより、ゴミや屎尿の回収も行われなかったため、街中は悪臭が満ち溢れ、香港は臭港になったとまで呼ばれました。文革中、香港のことを、帝国主義の腐臭漂う都市として“臭港”と呼ぶ者がありましたが、そのルーツは、案外、こんな所にあったのかもしれません。 ちなみに、省港ストについて書かれた文献では、たいてい、「香港はゼネスト状態になり…」といった類の記述があるのですが、郵便に関しては、今回ご紹介のカバーを見ると、なんとか“ゼネスト”の対象外として機能していたようですな。 その後、1926年7月、蒋介石が孫文の遺志を継いで北伐を開始すると、国民政府はこれに力を注ぐようになって、ストライキを顧みる余裕を失います。このため、後ろ盾を失った罷工委員会は、10月10日、民衆大会を開いて、イギリスに対して一方的にストライキの終息を宣言。その後も、香港海員工会によるストライキが散発的に続けられていましたが、最終的に、香港政庁と罷工委員会によって、ストライキ期間中の16ヵ月間に対して、労働者には10ヵ月分相当の賃金が支払われることで省港ストは最終的に決着しました。 なお、省港スト前後の香港の状況については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 切手百撰 昭和戦後 平凡社(本体2000円+税) 視て読んで楽しむ切手図鑑! “あの頃の切手少年たち”には懐かしの、 平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、 そんな切手100点のモノ語りを関連写真などとともに、オールカラーでご紹介 全国書店・インターネット書店(amazon、boox store、coneco.net、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、エキサイトブックス、丸善&ジュンク堂、楽天など)で好評発売中! |
2010-05-06 Thu 09:53
1910年5月6日にイギリスのエドワード7世(漢字で書くと愛華七世)が亡くなってから、きょうでちょうど100年です。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1903年1月に香港で発行された1セント切手で、国王エドワード7世の肖像が取り上げられています。 19世紀の大英帝国を象徴する存在であったヴィクトリア女王は、20世紀が幕を開けて間もなくの1901年1月22日に崩御し、イギリス王室で最も長きにわたって皇太子であり続けたエドワード7世がようやく国王の座に就きます。 新国王の即位後も、香港ではしばらくの間、女王の肖像を描いた切手が使われていましたが、今回ご紹介の切手を皮切りに、新国王エドワード7世の肖像を取り上げた切手が登場します。新国王の切手は、大英帝国の威光を誇示するかのように、少なからぬ額面で肖像部分と周囲の枠の色を変えた二色刷という豪華なものでした。 エドワード7世は1910年5月6日に亡くなり、息子のジョージ5世が後を継いだため、エドワード朝と呼ばれた彼の治世はわずか一〇年で幕を閉じることになります。しかし、先代のヴィクトリア朝の時代が、大英帝国の栄華と引き換えに、生真面目かつ抑圧的で“切り裂きジャック”などのネガティヴなイメージも強いのに比べると、20世紀初頭のエドワード朝の時代の空気は、はるかに明るいイメージがあるとされています。ちょうど、日本でも明治の後の大正という感じでしょうか。 香港に関していうと、エドワード朝の時代は、コロニアルな雰囲気の優美な建造物が多数建てられた時代として知られています。 たとえば、絵葉書などにも取り上げられることの多い旧香港中央郵便局の庁舎や、旧灣仔郵便局の局舎、香港大学本館のほか、1996年に発行された“香港市區傳統建築物”の切手にも取り上げられた上環街市(ウェスタン・マーケット)や舊醫理學院などは、いずれも、香港におけるエドワード様式の代表的建造物です。 2007年に刊行の拙著『香港歴史漫郵記』では、そうしたエドワード朝の歴史的建造物をめぐる歴史散歩についても記していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 総項目数552 総ページ数2256 戦後記念切手の“読む事典”(全7巻) ついに完結! 『昭和終焉の時代』 日本郵趣出版 2700円(税込) 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、JBOOK、livedoor BOOKS、7&Y、紀伊国屋書店BookWeb、ゲオEショップ、楽天ブックスなど)で好評発売中! |
2009-01-17 Sat 12:34
きのう(アメリカ時間15日)、ニューヨークのラガーディア空港を離陸した飛行機のエンジンが鳥を吸い込み、出力が急低下したため、ハドソン川に不時着水し、乗客が全員無事に助かったという出来事がありました。というわけで、飛行機の着水にちなんで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1937年4月29日、香港からサンフランシスコ宛に差し出された初飛行カバーで、カバー左下には、パンアメリカン航空(パンナム)の飛行艇チャイナクリッパーのカシェが押されています。 パンナムのチャイナクリッパーは、1935年11月22日、太平洋横断定期第一便として就航しました。当初は、サンフランシスコを出発した後、ホノルル、ミッドウェー、ウェーク、グアムを経由して4泊5日の日程でマニラに到着するというスケジュールで、マニラから香港へと航路が延長されたのは1937年のことでした。今回ご紹介のカバーは、その香港から戻ってくる最初の便に搭載されていたモノで、裏側には5月4日のサンフランシスコの着印が押されています。 飛行艇は、海面や湖面などの水面を利用して発着できるため、滑走路などの大規模な飛行場設備が不要であることに加え、長距離飛行中の機体にトラブルがあった場合にはとりあえず着水して対処することが可能です。このため、長距離飛行の技術が十分に発達していなかった第二次大戦以前の時代には、大洋横断航路などで盛んに用いられていました。 ちなみに、英領時代の1984年に香港で発行された「香港航空事業」と題する切手には着水時のチャイナクリッパーの姿が取り上げられているので、参考までに画像を張り付けておきます。 ちなみに、飛行艇としてのチャイナクリッパーは、このほかにも、英領香港100年の記念切手にも取り上げられていますが、こちらは、本来の“チャイナクリッパー”である快速帆船と並んで取り上げられているため、切手上の説明文は“チャイナクリッパーと飛行艇”となっています。 なお、1930年代の古き良き香港については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 誰もが知ってる“お年玉”切手の誰も知らない人間ドラマ 好評発売中! 『年賀切手』 日本郵趣出版 本体定価 2500円(税込) 年賀状の末等賞品、年賀お年玉小型シートは、誰もが一度は手に取ったことがある切手。郷土玩具でおなじみの図案を見れば、切手が発行された年の出来事が懐かしく思い出される。今年は戦後の年賀切手発行60年。還暦を迎えた国民的切手をめぐる波乱万丈のモノ語り。戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの別冊として好評発売中! 1月15日付『夕刊フジ』の「ぴいぷる」欄に『年賀切手』の著者インタビュー(左の画像)が掲載されました。 こちらでお読みいただけます。また、日本郵政本社ビル・ポスタルショップでは、『年賀切手』の販売特設コーナー(右の画像)も作っていただきました。 *写真はいずれも:山内和彦さん撮影 もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
2008-03-05 Wed 11:05
かねてご案内のとおり、今日(5日)は夕方18:30から開催の日本香港協会の春節パーティーで、切手や絵葉書、郵便物などから古きよき香港をたどるトークを行います。というわけで、会場となる香港上海銀行(HSBC)に敬意を評して、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ヴィクトリア女王時代の香港切手で、香港上海銀行を意味する“H&S BC”の穿孔が施されています。上の画像は穿孔を見やすくするため、裏側から穿孔されたものをお見せしていますが、これとは別に表面から穿孔を施された切手のイメージはこんな感じになります。 切手を大量に使用する企業などが、社用の切手の盗難や従業員による私的流用を防ぐため、切手に会社の頭文字や屋号などの文字を入れる例は、戦前では、洋の東西を問わず良く見られた現象である。香港では、1878年に社用の切手にそうした表示を行うことが公認され(それ以前にも、実際には一部で行われていたが)、1890年ごろから広く行われるようになりました。当初、社名などの表示はスタンプを押す方式が採られていましたが、消印類との混同を避けるため、後に印を押すことは禁じられ、今回ご紹介の切手のように穿孔を施すことがルールとなりました。 現在、アジア有数の国際金融都市となっている香港で最初の銀行ができたのは、香港島が英領となって間もない1840年代のことですが、当時の銀行はロンドンやインドに拠点を置く“アングロ・インディアン銀行”でした。このため、彼らの取引はイギリス本国やインドとの決済が優先されており、中国や香港での取引には制約も多く、香港在住のイギリス商人たちは不満を持っていました。 さらに、1864年初め、インドにおける金融の中心地であったボンベイの金融業者たちがイギリス本国の勅許を得て、彼ら独自のバンク・オブ・チャイナを創立する計画が浮上します。この計画が実現されてしまうと、香港の経済・金融はますます、イギリス本国やインドに従属することになってしまうため、このことに危機感を抱いたP&O汽船の香港支配人、トーマス・サザーランドは、他地域の利害に左右されない効率的な銀行を香港でも創設することを提案。彼が書き上げたスコットランドの銀行業に関する文献を参考に設立趣意書草案は、香港のイギリス商人たちの圧倒的な支持を得て、数日のうちに香港上海銀行設立準備委員会が結成されました。 設立準備委員会は、1864年7月、設立趣意書を発表。資本金は500万香港ドルで、1株が250香港ドルの株が2万株、募集されました。こうして、1865年3月3日、地元金融機関の連合体ともいうべきHSBCが香港で営業を開始する。さらに、翌4月3日には上海支店でも営業が始まりました。初代頭取はパリ割引銀行香港支店長だったビクター・クレッサーが任命です。 同行の創業間もない1866年、アメリカの南北戦争で綿花栽培が打撃を受けたことに加え、ヨーロッパでの普墺戦争などによって、イギリスの大手信用機関、オーバーレンド・ガーニー・カンパニーが破産すると、ロンドンの金融不安から世界的な恐慌が発生。その結果、多くの金融機関が破綻し、香港でもジャーディン・マセソン商会とならぶ繁栄を誇ったデント商会が倒産に追い込まれました。しかし、HSBCは取締役会メンバー企業の支援もあって危機を乗り切ったばかりか、破綻した金融機関を吸収して成長を続け、この年、日本にも支店を開設しています。 1870年代に入るとHSBCの経営は次第に安定し、1876年、トーマス・ジャクソン(1871~74年のHSBC横浜支店長)が総支配人に就任すると、彼の在任中にHSBCは急成長を遂げ、極東随一の大銀行としてゆるぎない地位を確立しました。 HSBC本店の所在地は、創業以来、現在にいたるまで皇后大道中の一番地ですが、社屋は何度か建て直されており、現在の本社ビルは、1985年に完成した4代目のものです。 なお、拙著『香港歴史漫郵記』では、19世紀以来、アジアの金融都市・香港の顔であり続けた香港上海銀行とその社屋の歴史についてもいろいろとご説明していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-12-07 Fri 09:42
今日(12月7日)は、国際民間航空デー 。1944年12月7日に国際民間航空条約(通称シカゴ条約)が結ばれ、国際民間航空機関(ICAO,International Civil Aviation Organization)が組織されたのを記念して、1992年のICAO総会で決められ、1994年から記念行事などが行われているそうです。というわけで、今日はエアメール・ネタということで、こんなモノを持ってきました。
これは、1936年3月26日、香港からペナン経由でロンドンまで全線航空便で送られたエアメールの第1便(FFC)で、封筒にはそのことを示す“FIRST THROUGH FLIGHT”の表示の入った角型の印が押されています。ロンドンの世界的な切手商スタンレー・ギボンズ社宛のもので、販売目的の記念品として作成されたモノですから、封筒の余白には当時の香港島のウォーター・フロントの写真が刷り込まれており、イギリス人のコレクターに対して、極東の植民地からはるばる運ばれてきたエアメールというイメージを与える工夫もなされています。 香港にやってきた最初の航空郵便は、1928年、コロンボからマニラを経て香港までイギリス空軍が運んだものといわれていますが、一般人も利用できるものとしては、同年11月、ロンドンとマニラを結ぶイギリスの極東飛行の延長線として、マニラから香港まで郵便物が運ばれたのが最初です。 こうして、香港にもエアメールがやってくるようになりましたが、最初のうちは、定期便はなく、単発のフライトに郵便物が搭載されて香港と世界各地を往来するという状況が続いていました。当時は、飛行機の航続距離が長くはなかったので、アジアとヨーロッパを結ぶ便になると、途中で何ヶ所かを経由するのが一般的でした。 イギリス本国と植民地・香港とを結ぶ航空路線を開発した航空会社はインペリアル・エアウェイズですが、同社は1924年3月31日に設立され、翌4月1日にロンドン=パリ線の運航を開始。これを皮切りに、ロンドン南郊のクロイドン空港を拠点に、当初はヨーロッパ各地への路線を拡大していました。アジア・アフリカ地域での営業については、1925年9月末までに行われたカイロ=カラチ間の航路の調査の結果を踏まえて、まず、1927年1月にカイロ=バスラ(イラク)線が開通。この路線を延伸するかたちで、1929年3月30日までに、ロンドン=カラチ線が開通します。 その後、1931年になると、ロンドン=オーストラリア間のエアメールの取り扱いが試験的に始まります。このときのエアメールは、オランダ領東インド(現インドネシア)まで運ばれた後、小型の飛行機に積み替えてオーストラリアまで運ぶというもので、ロンドン=シドニー間の所要日数はおおむね26日間でした。 ロンドン=オーストラリアのエアメールが成功すると、1933年末にはロンドン=シンガポール線でのエアメールの取り扱いが始まり、1934年末にはシンガポール=ブリスベン(オーストラリア)線でのエアメールの取り扱いも開始されます。これに伴い、香港からは、シンガポールまでは船便、シンガポール以遠はエアメールという郵便物を差し出すことができるようになりました。 そして、1936年3月14日、オーストラリア=ペナン(現マレーシア)線の支線としてペナン=香港線が開通。これにより、それまでシンガポールまでは海路で運ばれていた香港からロンドン宛のエアメールは、ペナン経由でロンドンまで全線、航空便で送ることが可能となりました。また、これと時を同じくして、ペナン以遠、アフリカ方面への航空便も全線開通となり、香港もようやく本格的なエアメール時代に突入していきます。 今年7月に刊行した拙著『香港歴史漫郵記』では、当初、香港のエアメールに関する1章を設ける予定だったのですが、紙幅の関係から該当部分は割愛せざるを得なくなりました。今回は、年末の在庫整理といった感じで、そのお蔵入りになった原稿の一部を掲載してみたという次第です。 それにしても、昨日のニュースによると、年末年始(12月21日~1月7日)に成田空港から出入国する旅客が、前年同期を0.7%上回り、過去最高の約140万人になる見込みだとか。このブログの読者の方々の中にも、年末年始は海外でという方も多いと思いますが、香港へお出かけの方は『香港歴史漫郵記』を、タイへお出かけの方は『タイ三都周郵記』を、ぜひとも、旅のお供に連れて行ってくださると幸いです。 |
2007-11-10 Sat 09:25
イギリスの雑誌「タイムズ」が、毎年恒例の世界大学ランキングを発表しました。1位は昨年同様、ハーバード、2位はオックスフォード、以下、アジア勢では17位の東大がトップでしたが、昨年33位の香港大が一挙に15ランクもアップして18位になり、36位(前年14位)の北京大を追い抜いたことが注目されているそうです。
というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、香港大学開校の記念印が押されたカバーです。 20世紀初頭、人口の急増に対応してインフラの再構築が進められていた香港では、ハード面での対応と並行して、行政機構を拡充すべく、エリートの人材育成に乗り出す必要にも迫られていました。 このため、1908年、香港総督のフレデリック・ルガードは、聖士提反書院(セント・ステファン・カレッジ)の卒業式で新大学設置の意向を表明。これを受けて、1910年3月16日、香港島の西部、西營盤(サイインプン)エリアの丘陵地の16ヘクタールの敷地に香港初の総合大学である香港大学の建設が開始されました。翌1911年には、大学の運営の基本方針として「香港大学堂憲章」が公布され、香港大学は香港政庁に隷属するものでなく、イギリス政府に直接帰属すること、校長は総督が任命すること、実際の職務は副校長が担当し、理事会によって意思決定がなされること、などが定められています。 ただし、イギリス政府による財政支援は年間300ポンドのみで、建築費用等は各界の寄付によって賄うものとされましたが、これに応じて、インド系の大商人でルガード総督とは家族ぐるみの付き合いがあったホルムスジー・ノウロジー・モディは15万香港ドルもの大金を気前よく払っています。この功績により、モディは大学起工式の後、イギリス本国のナイトに叙せられたほか、九龍市街地の通には麼地道(モディ・ロード)との名前がつけられ、麼地廣場(モディ・スクエア)もつくられました。 こうして、1912年3月11日、香港大学が開校し、同月16日までの6日間にわたって各種の記念式典が行われています。 総督の念願だった、香港初の総合大学の開校にあわせては、記念切手こそ発行されませんでしたが、セレモニー期間中の3月11日から16日までの6日間、大学の構内には臨時の郵便局が設けられ、今回ご紹介のカバーに見られるような記念印が使われました。 今回ご紹介のカバーは、記念印の使用初日にあたる3月11日付のもので、香港島内の卑利街(ピール・ストリート)宛のものです。卑利街は、上環の中環寄りの地点、皇后大道中からは山側に上がる道沿いに位置しており、日用品・食品の路上マーケットでも知られています。 大学のあった西營盤地区に最初の郵便局が開設されるのは1914年のことでしたから、大学の開校セレモニーが終わり臨時の郵便局が閉鎖されてしまうと、しばらくの間、大学関係者にとっては、郵便物の差出が不便な状況になりました。 開講当初の大学周辺は、ほとんどなにもない丘陵地帯で、現在のようにバスの交通網も発達していませんでした。1916年に卒業した28人の第1期生たちは、他にやることもなかったでしょうから、周囲の誘惑に悩まされることなく、さぞかし勉学に励むことができたことでしょう。 なお、香港大学の本部大楼(メイン・ビルディング)は、古い教会を思わせる瀟洒な建物で、1941年発行の英領香港100年の記念切手にも取り上げられています。 今年7月に刊行の拙著『香港歴史漫郵記』では、今回ご紹介のカバーのほかにも、開校当初の香港大学を取り上げた絵葉書なども紹介しながら、香港大学について、僕自身の体験も交えてご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-07-14 Sat 08:29
今日(7月14日)はパリ祭の日です。10日前のアメリカ独立記念日のときは新刊の拙著『香港歴史漫郵記』にちなんで香港からアメリカ宛のカバーを紹介しましたので、今回も平仄を合わせてこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1848年、上海から香港を経由してパリまで送られたカバーです。 1842年にアヘン戦争の講和条約として南京条約が結ばれると、広州・厦門・福州・寧波・上海の5ヶ所が開港地となり、各地に設けられた領事館内には郵便取扱所が置かれて、極東とヨーロッパを結ぶ本格的な郵便業務が行われるようになります。これらの郵便物の多くは、中継地点として香港を通過していました。 これに伴い、イギリス本国も香港における郵便の管理を強化する必要に迫られ、1843年10月17日、それまで現地で暫定的に作られ、使われていた印に代えて、王冠と“香港にて支払済み(PAID AT HONG KONG)”の表示の入った印を本国で制作し、香港に向けて発送。この印は1844年以降、香港の郵便局で郵便物に押されるようになります。 おなじく1844年には、香港政庁は中国各地の開港地に置かれていた郵便取扱所を硬式に認可し、この結果、中国各地のイギリスの郵便局から差し出された郵便物には、香港を通過する際に、料金が支払済みであることを示す印が押されることになりました。 今回ご紹介のカバーはその実例です。裏面に押されている各種の印などから判断すると、このカバーは、差出の日付は不明ですが、上海から差し出された後、1848年11月29日に中継地の香港に到着し、そこで“香港にて支払済み”の印を押されています。その後、スエズを経て翌1849年1月19日にマルセイユに到着。さらに、パリまで運ばれたというわけです。 もっとも、“支払済み”との表示とは裏腹に、このカバーは着払いで送られているため、英仏郵便交換条約(1843年、英仏両国が郵便物の交換と料金精算に関して取り決めた条約)に基づいて、2分の1オンスにつき30デシーム(1シリング相当)の料金が到着時に徴収されています。 当時の最先端の情報伝達の手段であった郵便ネットワークの結節点として香港を育成しようとしていたイギリスにとっては、まずは、中国各地の開港地から差し出された郵便物が香港を経由する体制を構築するということが重要でしたから、その意味では、香港を通過時にはまだ料金が回収されていない郵便物であっても、きちんとチェックをしたという意味で事前に“支払済み”の印を押し、最終的に料金の精算を済ませればそれで十分と考えられたのかもしれません。 なお、このカバーについては、拙著『香港歴史漫郵記』でもご紹介していますので、機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-07-04 Wed 08:36
今日(7月4日)は、いわずと知れたアメリカ独立記念日です。というわけで、最近刊行したばかりの拙著『香港歴史漫郵記』の中から、アメリカがらみのブツということで、こんなカバーを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1896年4月1日、香港からサンフランシスコ宛に差し出されたカバーで、中文の宛先表示が“舊金山(旧金山)”となっています。 1848年、カリフォルニアで金鉱が見つかり、アメリカはゴールドラッシュの時代に突入。金を求めてまずはヨーロッパから、そして、中国からも多くの移民たちがカリフォルニアに渡っていきました。中国人たちは、ゴールドラッシュで湧く太平洋岸での鉱山労働や、ついで1869年に開通する大陸横断鉄道の建設の現場で働き、有名なサンフランシスコのチャイナタウンも形成されていきます。 ときあたかも、海禁政策によって国民の海外渡航を制限していた清朝は、アロー戦争に敗れ、1860年の北京条約で中国人の自由な海外渡航を認めさせられています。この結果、中国人の移民を扱う業者(こう書くと体裁は良いのですが、要は人身売買の口入屋です)が、中国南部で苦力を買い取り、それを香港に集めて輸出することが盛んに行われるようになりました。この結果、アヘンと人身売買による“汚れた富”が、初期の香港の経済的な繁栄を支えるという図式ができあがります。 その名残で、アメリカ政府によるアジア系移民の制限により、苦力貿易が衰退した後も、カリフォルニアの海の玄関となったサンフランシスコは“旧金山”と呼ばれており、今回のような宛名表示のカバーが登場することになったというわけです。ちなみに、同じく19世紀半ばにゴールドラッシュに突入したオーストリアのメルボルンは、この“旧金山”に対応して“新金山”と呼ばれています。できることなら、“新金山”の表示のあるカバーも、今回のカバーと一緒に並べてみたいところですが、こちらはあいにくご縁がありません。 なお、アメリカ以外の土地への中国人移民の拡散については、拙著『香港歴史漫郵記』でもスペースを割いて説明していますので、よろしかったら、そちらもあわせてお読みいただけると幸いです。 |
2007-06-29 Fri 00:44
明日・明後日(6月30日・7月1日)の両日、東京・目白の切手の博物館特設会場にて、「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。
今回の展示では、切手や郵便物、官製の葉書類などのフィラテリック・マテリアル以外にも、いろんな種類のモノも展示しています。このブログは、“郵便学者・内藤陽介のブログ”と銘打っている手前、普段は、そうしたノン・フィラテリック・マテリアルを取り上げる機会がなかなかないのですが、今回は、展示品の中からいくつかご紹介してみましょう。(以下、画像はクリックで拡大されます) 18世紀のフランスの作家、プレヴォーの『旅行記集成』の挿絵より、おなじくフランスの水路学者ベランの手になる大嶼島の風景画。おそらく、想像図でしょう。現在は香港国際空港で有名な大嶼島ですが、挿絵の表題は「マカオ近くのランタン島」となっており、“香港”の地名は出てきません。 アヘン戦争時の川鼻の戦いの場面を描いた銅版画。戦闘に参加したイギリス海軍のホワイト大尉のスケッチをもとに、トマス・アロンが制作した1843年の作品「広東近郊、川鼻の攻撃と占領」を、1850年代にアドラードが銅版画化したものです。 1925~26年にかけて、広州と香港を中心に行われた大規模なストライキ、“省港罷工”の支援者がつけていた記念章。省港罷工は、香港史を語る上で欠かせない重要事件ですが、フィラテリック・マテリアルで表現するのは難しく、このようなマテリアルに頼らざるをえません。 1930年代の啓徳空港に停まっている飛行機の写真。今回の展示では、いくつかの写真が貼られたアルバムページと、初期の香港宛エアメールのカバーをならべて、香港航空史の黎明期を表現しました。 なお、啓徳空港の写真以外は、拙著『香港歴史漫郵記』でも取り上げていますので、よろしかったら、そちらの解説文もご参照ください。 このほかにも、今回の展示では、古新聞や油絵、私製の絵葉書など、さまざまなノン・フィラテリック・マテリアルを、切手や郵便物と組み合わせて展示していますので、是非、会場で実物をご覧いただけると幸いです。 【展覧会のご案内】 6月30日・7月1日(土・日)の両日、 東京・目白の切手の博物館特設会場にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。 |
2007-06-27 Wed 08:58
いよいよ、今週末の30日から、東京・目白の切手の博物館特設会場にて、「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」(登録審査員によるワンフレーム展と併催)がスタートします。というわけで、今日から同展の展示品の中から、いくつかのマテリアルをピックアップしてプレ公開して行きたいと思います。
まずは、この郵便物をご覧ください。(画像はクリックで拡大されます) これは、1839年10月18日、香港沖で船上生活を送っていたイギリス人が、ボストンの貿易商、トーマス・パーキンス社の船に託して差し出した商用の手紙です。 1839年3月、1アヘン取締りのため、広州に赴任した林則徐は、まず、中国人に対する取締りを強化し、貿易を停止して武力で商館を閉鎖。さらに、イギリス商人には、アヘンを持ち込まない旨の誓約書の提出を要求してアヘンを没収し、これを廃棄処分としました。 イギリスの貿易監督官だったチャールズ・エリオットは、林の厳しい措置に抗議して在留イギリス人全員を率いてマカオへ退去しますが、英国船籍のトマス・カウツ号がマカオで誓約書を書いて広州に入ってしまったことから、林はエリオットの指導力が弱まったものと考え、強硬姿勢に転じ、イギリス人にマカオ退去を命じます。 この結果、イギリス人50家族あまりがマカオを追われて香港沖での船上生活を余儀なくされ、英清関係は一挙に緊張。こうした中で、1839年7月、泥酔したイギリス人水夫たちが中国人を嬲り殺すという事件が発生。犯人の身柄引き渡しを求める清朝に対してイギリス側がこれを拒否すると、林は商船への食糧供給を断ち、外国人商人たちの生活の拠点となっていたマカオを武力で閉鎖します。これが、アヘン戦争の直接的な引き金となりました。 ところで、アヘン戦争以前の広州貿易の時代、中国から西洋宛の通信は、1834年に開設された広州とマカオの収信所が受け付けていました。しかし、収信所は、マカオの封鎖に伴い閉鎖され、船上のイギリス人たちは外部との交通・通信手段を失います。このため、彼らは近くを通過するアメリカ船(彼らはアヘンを持ち込まない旨の誓約書を提出し、貿易を続けていた)に託して、手紙や品物のやり取りを行ったほか、アメリカ船の関係者に用件を依頼することがしばしばありました。 この手紙もそうしたアメリカ商人に託されたものの一例で、広州のジャーディン・マセソン商会との商品の決済を代行するよう、トーマス・パーキンス社の船の船長に依頼したもので、裏側には1840年1月5日に手紙を受け取ったとの書き込みがあります。 30日からスタートの「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」では、今回の郵便物のほかにも、アヘン戦争以前のマテリアルをいくつか展示しています。是非、会場で実物をご覧いただけると幸いです。 なお、この郵便物については、拙著『香港歴史漫郵記』でもご紹介しておりますので、よろしかったら、同書もあわせてご覧ください。 【展覧会のご案内】 6月30日・7月1日(土・日)の両日、 東京・目白の切手の博物館特設会場にて、拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」を開催(登録審査員によるワンフレーム展と併催)いたします。 展示内容は2004年のアジア国際切手展のオープンクラスに出品して部門最高賞のExcellentメダルを受賞した僕のコレクション、A HISTORY OF HONG KONGと返還以降2006年末までに発行された中国香港切手が中心です。 入場は無料。時間は両日ともに10:30-17:00で、両日ともに14:30から展示解説を行うほか、先着300名様に英領時代の香港切手をプレゼントしますので、是非、遊びに来てください。 |
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