2006-10-31 Tue 01:26
今日はハロウィン。というわけで、そのものズバリの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2001年にフランスで発行されたハロウィンの切手で、ハロウィン・カボチャことジャック・オ・ランタンが画面いっぱいに描かれています。 ハロウィンは、キリスト教の諸聖人の日(万聖節:11月1日)の前の晩(10月31日)に行われる伝統行事で、もともとは、11月1日を新年とするケルト人の収穫感謝祭がキリスト教世界に取り込まれたものといわれています。 フランスでは万聖節は、日本のお盆にあたるお墓参りの日だそうで、その前日を祝うという習慣はもともとはありませんでした。しかし、1990年代に入り、我々がイメージするアメリカ風の習慣がフランスでも広がり、ついには切手が発行されるほどになったというわけです。 もっとも、自国の文化的伝統を極端に重視するフランス人のことですから、子供はともかく、大人たちはアメリカ風のハロウィンが広がることについては“文化侵略”として拒絶反応を示すことも少なくないとか。ちなみに、パリの有名なケーキ屋さんが、10月31日に、子どもたちがアメリカ的なお祭りなどをしないよう、ハロウィンとはく然関係のないケーキを安く販売したということもあったそうです。もっとも、“Trick or treat”とドアをノックしてきた子供たちに、そういうお菓子をやってしまっては身も蓋もないのでしょうけれど。 *11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください) |
2006-10-30 Mon 01:36
今日は10月30日。1945年の終戦までは『教育ニ關スル勅語(教育勅語)』が発布された日として、全国の学校で勅語の奉読が行われていた日です。というわけで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1940年10月25日に発行された「教育勅語煥発50年」の記念切手の1枚で、『教育勅語』の中心的な徳目である「忠孝」の文字が大きく取り上げられています。ちなみに、勅語には「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ」というフレーズがあります。 文字を図案の中心に据えるのならば、勅語の文章やフレーズをそのまま、切手上に取り上げてもよさそうなものなのですが、そのようになっていないのは、やはり、昭和10年代のヒステリックな時代思潮の下で、勅語の文面を汚してはならないという規制が働いたためなのでしょうか。学校の火災に際して、奉安殿に収められていた勅語と御真影を守るために殉職した校長が少なからずいたということを思い返すなら、その可能性は充分にあるように思います。 ところで、『教育勅語』の中で最も有名な「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」のフレーズは、本来、この直前の「常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ」とあわせて「日常的には憲法や諸法令を遵守しながらも、非常事態にあたっては、ただ単に法令を守るだけでなく、勇気をもって自発的に国家のために適切な行動を取り、天皇を君主とする国家を支えなければならない」との趣旨で、あくまでも一般論として記されたものでした。しかし、当時の一般国民の標準的な理解では、このフレーズは「戦時には命を惜しまず、天皇陛下のために戦場で戦わなければならない」と誤解されていました。 当時の教師たちがこうした誤解を正していたのかどうか、はなはだ疑わしいのですが、それ以上に、このフレーズには文法上の誤りがあり、“教育ニ關スル勅語”としてはちょっと問題があります。 すなわち、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の“アレハ(アレバ)”は、「もし~ならば」の意味にしたければ、“アラハ(アラバ)”と“未然形+バ”の形にするのが文語文法としては正解であって、“アレハ”というふうに“已然形+バ”の形にしてしまうと、「~なので」、「~するといつも」というまったく別の意味になってしまい、文意が通じなくなってしまいます。まぁ、勅語の起草者が漢文の先生だったことから、日本語の文語文法には必ずしも強くなく、訓読の際の癖がつい出てしまったというのが本当のところなのでしょうが、文部省側は、この一節を強引に「国家に危急の事態がある場合にはいつでも」と解釈して誤りを認めようとはしませんでした。現場の国語教師はそうとう困ったろうと思うんですが、まぁ、「長いものには巻かれろ」という生活の知恵を子供たちに教え込むための教材として使えば、あながち、無意味ではなかったのかもしれません。 最近、いじめに加担していた教師やカリキュラムの偽装(必修科目を履修していなかったにもかかわらず、あたかも、履修していたかのように装っていたのですから、こういう風に言っても問題ないでしょう)など、学校や教師のスキャンダルがマスコミを賑わせています。中には、昔に比べて教師の信用が失墜した…云々という論調も多く見られるのですが、今日ご紹介したような教育勅語のエピソードを見れば、そもそも、教師や学校なんてそんなに信用できるものではないことは、とうの昔から明らかだったように思うんですが、どうでしょうかねぇ。 現在、僕は本業の文筆活動のかたわら、週に2日、某大学でパートタイム講師をしているのですが、毎年、一番最初の授業の時には「僕の言うことを鵜呑みにしないで、『ホントかな』と思って聞いていてください。そして、おかしいと思ったら、どんどん自分で調べて間違いなどは遠慮なくクレームを付けてください」と学生諸君にお願いしています。しかし、話を聞いていると学生が自分の見解に異を唱えると怒り出す教師も少なくないようですから、やっぱり、僕のほうが変わり者なんでしょう。 なお、教育勅語が国家のメディアとしての切手に与えた影響などについては、拙著『皇室切手』のなかでまとめてみましたので、よろしかったら、そちらも参照していただけると幸いです。 *11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください) |
2006-10-29 Sun 01:02
今日(10月29日)は、スエズ動乱ともいわれる第2次中東戦争の勃発から50周年にあたります。ということで、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
1956年7月26日のスエズ運河国有化宣言(詳しくは、こちらをご覧ください)に激怒した英仏は、エジプトによるチラン海峡の封鎖で経済的なダメージを受けていたイスラエルと同調し、武力による運河国有化の阻止を計画します。その筋書きは、①イスラエル軍が国境を越えてシナイ半島に侵攻、②それに対して英仏が“スエズ運河の安全な航行を確保するため”として、兵力引き離しのためにエジプト・イスラエル両軍をシナイ半島から撤退するように通告、③エジプトがこれを拒否したら、“制裁”のために英仏軍が介入し、エジプト軍をスエズ運河以西へ追い払った上で、平和維持としてスエズ運河地帯に駐留する、というものでした。 このプランに従い、10月29日、イスラエル軍がシナイ半島侵攻作戦を開始し、第2次中東戦争が勃発。筋書き通りに、エジプトが英仏の通告を拒否したため、英仏軍が軍事侵攻を開始し、イギリス軍の落下傘部隊はポートサイド(スエズ運河の地中海川の出口)を急襲します。 今回ご紹介しているカバー(封筒)は、そうした最中の1956年11月21日にカイロからアメリカ宛に差し出されたもので「スエズ運河はエジプトの不可分の領土である」との内容のスローガンが入った消印が押されています。英仏の理不尽な圧力に屈しないというエジプトの姿勢を、広く国際社会に訴えようとする意図が強烈に伝わってきます。 結局、英仏によるスエズ侵攻作戦は、米ソを含む国際社会の厳しい非難を浴び、英仏両国は12月2日には作戦を中止せざるを得なくなりました。これにより、中東アラブ世界における英仏の権威は地に落ち、代わって、アラブ世界も本格的に東西冷戦の枠組に巻き込まれていくことになります。 なお、スエズ動乱をめぐる切手とプロパガンダに関しては、拙著『これが戦争だ!』(ちくま新書)でも、それなりにスペースを割いて説明しています。よろしかったら、是非一度、ご覧いただけると幸いです。 *11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください) |
2006-10-28 Sat 01:13
ご報告が遅くなりましたが、今週水曜日、10月25日発売の『SAPIO』11月8日号から、「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑』という連載を始めました。路線的には、いままで僕のブログでも散発的にやってきた「テロリスト図鑑」と一緒です。いずれ、過去のブログで取り上げた人物が登場することもあるかもしれませんが、当座は、なるべくダブりなしでやっていこうかと考えていますので、よろしくお付き合いください。
で、記念すべき第1回目では、安倍総理も尊敬するという吉田松陰のことをこんな感じで取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます) 吉田松陰というと、維新の元勲たちの教師として尊敬する人も(特に地元山口県では)少なくないみたいなのですが、彼の行動ははっきりいって社会人としてはとんでもないことばかりです。 幼児から神童の誉れ高かった彼ですが、勉強ばかりの秀才にありがちなタイプで世の中を舐めきっていたのでしょう。1851年、東北地方へ遊学する際、自分の手形の発行が間に合わず、友人たちの出発を遅らせるのは心苦しいという理由から、手形なしで東北に向かってしまいます。現在でいえば、友人と一緒の飛行機に乗るためにパスポート無しで出国審査をすり抜けるのと同じく立派な犯罪です。当然、これは脱藩行為として処罰の対象となり、吉田は士籍を剥奪されました。 ところが、吉田は全く反省の色を見せることなく、逆切れして社会が悪いと言い出します。そして、以後、世の中を変えていくと称して犯罪者街道をまっしぐらに歩んでいくのです。 すなわち、1853年の黒船来航に触発されて長崎に来航していたロシア軍艦に乗って密航しようとして失敗。翌1854年にもアメリカの黒船、ポーハタン号での密航を試みるも失敗。結局、幕府に自首して逮捕されました。 1855年に釈放され、生家で預かりの身(今風に言えば、仮釈放で保護観察中という感じでしょうか)となった吉田は、かつての神童という経歴を生かして地元で講義を始め、叔父の玉木文之進が開いていた私塾、松下村塾を引き受けて主宰者となりました。ここで、おとなしく塾の経営者に収まっていればよかったのですが、木戸孝允や高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋といった血の気の多い若者に尊皇攘夷の過激思想を吹き込んで、彼らを煽動・洗脳していきます。 また、吉田本人も、1858年に幕府が勅許なく日米修好通商条約を結んだことに激昂し、外国御用取扱(外交担当)の老中、間部詮勝の暗殺を計画。自らも率先してテロ活動に身を投じたのでした。 このため、長州藩は彼を警戒して投獄。さらに、翌1859年、幕府による安政の大獄で身柄は江戸に送られます。江戸での取調べに対して、吉田は老中暗殺計画を自供し、自分の思想を滔々と述べたことから有罪が確定。同年11月21日、処刑されています。 まぁ、勝てば官軍の言葉どおり、彼の死後、弟子たちが明治維新を成し遂げたことで田舎のテロリストは一挙に理想的な教師に祭り上げられてしまったのは、皆さんもご承知の通りです。 さて、ご紹介している切手は、1959年10月27日、“松陰百年祭”の記念行事の一環として発行された記念切手です。当初、郵政省(当時)は松陰切手の発行を“政治色が強すぎる”という理由で反対していましたが、結局、当時の総理大臣・岸信介の地元の熱心な陳情活動におされ、萩で開かれる“第7回全国PTA大会”と抱き合わせの記念切手というかたちで実現したものです。 なお、この切手に関しては、拙著『ビードロ・写楽の時代』で詳しく取り上げましたので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。(同書は現在、版元品切れみたいです。早く再版してくれないかなぁ) *11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください) |
2006-10-27 Fri 01:02
プロ野球は北海道日本ハムファイターズが中日ドラゴンズを下して日本一になりました。というわけで、龍退治の戦士というモチーフの切手を探してみたら、こんな1枚が見つかりました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1929年にロンドンで万国郵便連合(UPU)の大会議が開催された際に開催国のイギリスが発行した記念切手の1枚で、キリスト教の聖人・ゲオルギウス(英語風の発音だと、セント・ジョージ)の龍退治の場面が取り上げられています。 念のため、ゲオルギウスの伝説を確認しておきましょう。 西暦11~12世紀ごろ、カッパドキアのセルビオス王の首府ラシア付近に、人々に害を為す巨大なドラゴンが棲んでいました。人々は、毎日2匹づつの羊を生け贄にして龍をなだめていましたが、とうとう羊がいなくなり、王の娘を生贄として差し出さざるをえなくなりました。王が城中の宝石を差し出すことで得られた猶予期間は8日間しかありません。そこへ、ゲオルギウスが通りかかります。彼は話を聞くと、龍と囚われの姫のところへ行き、姫の腹帯で龍を手なずけて村まで連れてきました。大騒ぎの村人を前に、ゲオルギウスは「キリスト教に改宗すれば龍を退治する」と宣言。人々は改宗し、ゲオルギウスは見事に龍を退治したました。 このように、ゲオルギウス伝説の舞台は現在のトルコ共和国の地域ですが、その後、13世紀頃から、彼はイングランドの守護聖人になりました。現在、イギリスの国旗となっているユニオン・ジャックには“聖ゲオルギウスの十字(セント・ジョージ・クロス)”が組み込まれているほか、ゲオルギウスの龍退治の場面はイギリスの金貨にも刻まれています。 こうしたことから、今回ご紹介している記念切手の場合も、イギリスの象徴として、ゲオルギウスの龍退治の場面が取り上げられたものと考えられます。 ちなみに、ゲオルギウスの龍退治の記念日(龍の奇跡の記念日)は10月27日だそうです。その意味でも、今回ご紹介の切手は、今日(10月27日)の話題にピッタリの1枚といえそうですね。 *11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください) |
2006-10-26 Thu 00:57
(財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』11月号ができあがりました。
『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます) これは、喜望峰の三角切手の8枚ブロックです。 ナポレオン戦争中の1806年、イギリスはそれまでオランダ領だったアフリカ南端のケープ植民地を接収し、1815年、正式に英領として編入します。 ケープ植民地最初の切手が発行されたのは1853年のことです。当時、この地域では識字率があまり高くなかったため、英本国の切手と一目で区別できるように、現地の切手は三角形というユニークな形態が採用されました。デザインは、喜望峰を象徴する希望の女神。印刷所は本国のパーキンス&ベーコン社です。 1861年、ケープ植民地では本国から到着した切手が倉庫に保管されたまま忘れられ、在庫の切手も底をついてしまうという事態が起こりました。このため、暫定的に、現地製の切手が作られます。この切手は実際には鉛版ですが、一見、木版刷に見えるため、ウッドブロックと呼ばれています。 ウッドブロックの時代は2年ほど続きましたが、1863年、再び、英本国製(印刷所はデ・ラ・ルー社に代わっていた)の切手が使用されるようになりました。今回ご紹介している切手はそのうちの1ペンス切手の8枚ブロック。喜望峰の三角切手としては一番ありふれたものですが、画像のように立派なフル・マージンのブロックは見ごたえがあります。なお、この切手には暗い深紅色・赤味茶・茶赤の3種類のシェードのバラエティがありますが、表紙のものは暗い深紅色です。 さて、今月号の郵趣では、11月3日(来週金曜日)から始まる<JAPEX>の予告編として、企画出品・招待出品として会場に展示される予定の名品の数々をご紹介しています。是非、本誌を<JAPEX>参観のための“予習”にご活用いただけると幸いです。 *11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください) |
2006-10-25 Wed 01:49
イスラム世界では、ラマダン(イスラム暦9月)の断食が終わり、各地でそのことを祝うさまざまなお祭りが行われています。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1996年にシンガポール郵政が発行した印面つきの絵葉書で、マレー系(イスラム教徒)の最大のお祭りであるハリラヤ・プアサ(断食明けのお祭り)が取り上げられています。なお、シンガポールは多民族・多宗教国歌ですから、それぞれの民族・宗派間のバランスを取るため、このハリラヤ・プアサと同時に、中華系の春節、ヒンドゥー教徒のディーパバリ、キリスト教徒のクリスマスを題材とした絵葉書も発行されました。 イスラム暦は閏月等の調整を行わない完全太陰暦(このため、我々の使っている太陽暦とは、年に11日程度のズレが生じます)であることにくわえ、断食の開始と終了を特定するための新月の判定が人間の目視によって行われるため、地域によって断食明けの日付は若干異なる場合があります。 シンガポールとマレーシアの場合、今年は昨日(10月24日)が断食明けとなりました。現地のムスリム(イスラム教徒)たちは、新しい服でモスクを訪れ、1年を反省して年長者に許しを請い、その後、豪華な食事を楽しみます。また、断食明けからしばらくの間(シンガポールでは、今年は10月31日まで)、夜間のライトアップが行われ、街全体が華やいだ雰囲気になります。こうしたことから、ハリラヤ・プアサを日本の“お正月”になぞらえる人も少なくないようです。 その昔、学生の頃にマレー系の人と話をしていて「ハリラヤ・プアサは日本にもあるか?」と聞かれたことがあります。その頃の僕は、ハリラヤ・プアサをただ単に、辞書的な意味での“断食明けのお祭り”としてしか理解していなかったので、「日本人は(圧倒的多数はムスリムではないので)断食をしないから、ハリラヤ・プアサもない」と応えてしまい、怪訝な顔をされて会話が途切れてしまったことがあります。 いまにして思えば、彼は日本のお正月のことを詳しく聞きたかったんでしょうね。今日の記事を書きながら、そんな昔の失敗談(?)をふと思い出してしまいました。 *11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください) |
2006-10-24 Tue 00:49
アイスランドが商業捕鯨を再開して、ナガスクジラ1頭を捕獲したのだそうです。僕は、鯨肉に対して特別な思い入れがあるわけではないのですが、いわゆる捕鯨反対運動の活動家たちに対しては生理的な嫌悪感を感じていますので、「アイスランドよ、良くやった! 日本もこれに続け!」と言う気分です。というわけで、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1841年4月25日、ハワイに停泊していた捕鯨船ブラガンザ(BRAGANZA)号の船員が差し出したエンタイアです。ハワイから差し出された後、太平洋航路の船に託されて(カバー中央には、少し見にくいがSHIPの印がおされています)、5月26日、当時世界最大の捕鯨基地だったニュー・ベッドフォードに到着。そこから、宛先地のマサチューセッツ州ローウェルに届けられました。 当時は、まだアメリカ本国でも最初の切手が発行されていない時代だから、当然のことながら、この郵便物にも切手は貼られていません。また、便箋に手紙を書いて封筒に入れるというスタイルではなく、厚手の紙に手紙の本文を書いて、それを折りたたんで表面に宛名を書くというフォールデッド・レターのスタイルが取られています。 手紙の文章を要約すると、①差出人は、サンドウィッチ諸島のオアフ(差出人のスペルはOahuではなく、Waohooとなっている)から手紙を書いている、②彼の乗っている船は4500バレルの鯨油を積むことができる、③航海はあと2年ほど続くが、行く先々で珍しいものを目にし、土産物、土産話を持ち帰るだろう、④ハワイの後、差出人の船は太平洋を北上してアラスカまで行き、鯨油を限界まで積んで帰還するであろう、との内容になっています。 差出人の乗っていた捕鯨船ブラガンザ号は1840年12月にニュー・ベッドフォードを出港し、1843年2月、マッコウクジラの鯨油400バレル、通常の鯨油3600バレル等を積んで帰港しました。 ちなみに、日本人にもなじみの深いジョン万次郎が遭難し、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されてハワイに上陸したのが1841年。その後、万次郎が船長のホットフィールドに見込まれて、アメリカでの教育を受けるべくニュー・ベッドフォードに連れてこられたのが、1843年でしたから、ブラガンザ号と似たような航海スケジュールです。当時の捕鯨船の航海としては、それが一般的なルートと所要日数だったとみてよいでしょう。 現在でこそ捕鯨反対の急先鋒となっているアメリカですが、19世紀の段階では世界最大の捕鯨国でした。そもそも、ペリーが日本に開港を迫ったのも、アメリカ側に、捕鯨のための寄港地を確保するという意図があったためだったことは広く知られています。今回ご紹介しているマテリアルは、まさに、そうした19世紀の捕鯨大国であったアメリカの一面を記録したものにほかなりません。 なお、鯨を求めて太平洋に乗り出したアメリカの白人たちは、その後、ハワイ、フィリピンへと影響力を拡大していくわけですが、そうしたプロセスについては拙著『反米の世界史』でもまとめてみました。ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。 *11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください) |
2006-10-23 Mon 00:58
韓国の崔圭夏元大統領が昨日(22日)亡くなったそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
1979年10月26日、18年の長きにわたって続いてきた朴正煕政権は、朴が中央情報部長の金載圭によって射殺されることで、突如、幕を降ろしました。 朴の死亡を受けて、憲法の規定にもとづき、大統領権限代行に就任したのが、国務総理だった崔圭夏でした。 崔は日本植民地時代の1919年7月16日、江原道原州で生まれました。青年時代は日本に渡り、東京高等師範学校を卒業。一時は教職に就き、満州国にも渡っています。 1948年の大韓民国成立後は、農林部糧政課長を振り出しに、外務部通商局長、外務次官、外相を歴任。1971年に外交担当特別補佐官に就任し、1975年、維新体制(朴正煕政権後半の独裁体制)の基盤を固めた金鐘泌の“政治内閣”が退陣すると、体制整備のための“実務内閣”の首相に就任しました。 こうした政治的キャリアを見ればわかるように、崔は、朴正煕や金鐘泌のような軍人出身の政治家ではなく、基本的には実務派官僚という色彩の強い人物でした。 さて、朴正煕の死去に伴う第10代大統領選挙は、1979年12月6日、憲法の規定に従って統一主体国民会議で行われ、大統領権限代行の崔が正規の大統領に選出されました。 当選の翌日(7日)、崔は、維新体制下で国民の政治的自由を大きく制限していた大統領緊急措置第9号(1975年5月13日布告)を解除することを国務会議に提案。これが会議を通過し、12月18日、緊急措置第9号は4年半ぶりに解除されることになりました。 そして、12月20日、崔の大統領就任式典が行われ、それにあわせて同日、崔の肖像を取り上げた“第10代大統領就任”の記念切手も発行されています。今日ご紹介しているのは、その記念切手です。 切手発行のために必要な準備期間(最低でも1月強はかかるでしょう)を考えると、この切手は、崔が大統領権限代行に就任した早い段階で、準備されていたとみるのが自然です。このことは、12月の大統領選挙で、崔がとりあえず新大統領に就任することは、韓国の政治指導者たちの間では既定の路線となっていたことを物語っています。そして、その背景には、新大統領の崔が維新体制を清算し、新しい民主政府を発足させれば、実務派官僚としての彼の役割も終わり、彼は退陣するという暗黙の了解が韓国政界にはあったことも見落としてはならないでしょう。 ところが、急激な体制変革ではなく、いわばソフトランディング路線で維新体制を解体していこうと考えていた崔の姿勢は、長年に渡り、独裁体制の下で政治的自由を制限されてきた国民の目からすると、いかにも微温的なものに映ったようです。 当然、急進的な民主化の要求が高まり、その過程で学生運動が過激化。そして、年が明けて1980年に入ると、韓国各地で騒擾事件があいつぐようになります。 こうした混乱に対して、文人大統領の崔は、朴正煕のような強硬姿勢を取ることができませんでした。こうした彼の姿勢は、結果的に“秩序の回復”を主張する軍の介入を招くことになり、全斗煥による権力奪取への道を開いていくことになるのですが、その辺りについては、いずれ機会を改めて詳しくご説明することにしましょう。 *11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください) |
2006-10-22 Sun 08:27
フランス近代絵画の巨匠、ポール・セザンヌが1906年10月22日に亡くなってから、今日でちょうど100年になります。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1961年にフランスで発行された美術切手4種のうちの1枚で、セザンヌの代表作「カード遊びをする2人の男たち」が取り上げられています。フランスが大型の美術切手を発行しはじめるのは1961年のことですから、この1枚は、まさに、その最初の1枚ということになります。 ポール・セザンヌは、1839年にフランスの小さな町エクス・アン・プロバンスに生まれました。10代後半から絵を描きはじめ、1861年に画家を志してパリに渡ります。このときはわずか半年で精神が不安定になり、いったん帰郷しますが、1862年に再びパリに戻り、以後、本格的に画家としての活動を開始します。 画家としてのセザンヌは不遇の時代が長く続き、サロンに初めて入選したのは43歳の時のことで、画家として広く世間に認められるようになったのは晩年のことです。なお、晩年の彼は故郷のエクス・アン・プロバンスにもどり、1906年10月、雨に打たれて発病した肺炎をこじらせて亡くなりました。享年67歳。 誇り高いフランス人は認めたがらないようですが、フランスが美術切手を発行するようになったのは、実は、日本が1955年に切手趣味週間の記念切手として発行した多色刷の大型美術切手、「ビードロを吹く娘」に大いに触発されたからだといわれています。浮世絵が印象派の画家たちに大きな影響を与えたのと同じように、日本切手も外国切手に大きな影響を与えたのだとしたら、日本人としては、ちょっと自慢したい気分になりませんか? *11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください) |
2006-10-21 Sat 00:50
10月21日は国際反戦デーなのだそうです。国際反戦デーというのは、1966年(ちょうど40年前ですな)、日本労働組合総評議会(総評)が米軍のベトナム戦争介入に反対する全国政治ストライキを計画し、同時に全世界の労働団体・反戦団体に呼びかけたことに由来する(ただし、“国際反戦デー”の名称が正式に使われるようになったのは1968年以降のことらしいです)とのことで、こんな1枚を持ってきてみました。例によって画像はクリックで拡大されます。
この切手は、1965年11月22日、当時の北ベトナムがノーマン・モリソンをたたえるために発行した切手です。 1964年にアメリカによる北ベトナムへの空爆が始まった当初から、アメリカ国内では、大義なきまま強大な軍事力をもって貧しい北ベトナムを力でねじ伏せようとする戦争への反感から、ベトナム反戦運動が表面化していました。 こうした状況の下で、1965年11月2日、アメリカの国防総省前でクエーカー教徒のノーマン・モリソンが抗議の焼身自殺を行い、アメリカ国内のみならず、全世界的に衝撃を与えました。当然、北ベトナムはモリソンの自殺を最大限に活用して全世界のベトナム反戦世論を喚起しようとします。その一環として、発行されたのが、今回の切手というわけです。なお、アメリカ政府は、当時、この切手をアメリカ国内に持ち込むことを法律で禁止しており、モリソン事件によってベトナム反戦運動が盛り上がることを強く警戒していた様子がうかがえます。 切手は、モリソンの肖像の下に反戦デモの若者を配したデザインです。若者たちの服装は、一応、アメリカ人風になっていますが、どことなくアジア人の目で見た西洋人の顔という雰囲気が感じられるのが面白いところだと思います。 なお、ベトナム戦争とその時代に関しては、いろいろと興味深い切手や郵便物が残されているのですが、その一端は、拙著『反米の世界史』(講談社現代新書)でも1章を設けてまとめてみましたので、機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
2006-10-20 Fri 01:00
昨日(10月19日)は1956年の日ソ共同宣言から50周年ということで、いろいろなメディアが北方領土のことを取り上げていました。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1949年10月10日に発行された万国郵便連合(UPU)75周年の記念切手のうちの1枚で、数字の75のかたちに並べられた手紙と日本地図が描かれています。なお、UPU75周年の記念切手の詳細については、拙著『解説・戦後記念切手 濫造・濫発の時代』をご参照いただけると幸いです。 1945年2月、米英ソ三国のヤルタ会談では、ドイツ降伏の90日後にソ連が対日参戦する代償として、日本の降伏後、ソ連に対して南樺太を返還し、千島列島を引き渡すことが秘密裏に決定されます。そして、この密約を受けて、1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し対日宣戦布告。8月11日に国境を侵犯し南樺太に侵攻した後、8月15日の玉音放送後も戦闘を続けて8月25日に南樺太を占領し、さらに、8月28日から9月1日までに北方領土の択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領しました。また、得撫島以北の北千島も8月31日までに占領されています。 9月2日、日本が降伏文書を調印すると、同時に、連合国最高司令官による一般命令第1号が出され、満洲、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太および千島諸島の日本軍部隊は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏することとされ、ソ連軍による北方領土占領が正式にスタートしました。 翌1946年1月、GHQは「日本からの、若干の外郭地域の政治上及び行政上の分離に関する覚書」を発し、沖縄や小笠原・竹島・南樺太・千島列島・歯舞・色丹などの地域に対する日本の行政権は中止されます。これを受けて、2月2日、ソ連は南樺太・千島を自国領に編入してしまいました。 このときの“千島”の範囲に択捉島以南の北方4島を含めるか否かで日ソ両国の見解が平行線をたどっているのが、現在の北方領土問題の基本的な構図であることはご承知の通りです。 今回の切手では、ちょっとかたちが怪しげですが北海道の北には国後島らしき島もきちんと描かれていますが、その北に択捉島が見当たらないのはちょっと気になります。まぁ、この切手は、UPUが創立75周年にあわせて行った世界の切手デザインコンクールへの応募作品ですので、デザイナーとしても、単純にデザイン上の都合でこのような切手を作っただけで、まさか、択捉島は“北方領土”に含まれないと考えていたわけではないのでしょうけれど…。 ただし、この切手が発行された当時の日本は連合国(実質的にはアメリカ)の占領下にありましたので、“国土”表す地図の表現は非常にナーバスな問題であったと思います。当然、占領当局の意に沿わない地図の切手であれば、描き直しを命じられたはずですから、アメリカとしては、北方4島が(すくなくとも、切手上で確認できる国後島は)日本の領土であることを否定していなかったと考えるのが妥当でしょう。ちなみに、アメリカの施政権下に置かれていた沖縄に関しては、この“日本地図”からは、しっかり削除されており、当時の日本の置かれていた立場が良くわかります。 なお、この切手を含めて、古今東西の領土問題と切手の関係については、拙著『これが戦争だ!』(ちくま新書)で1章を設けてまとめてみたことがあります。ご興味をお持ちの方は、是非、お読みいただけると幸いです。 |
2006-10-17 Tue 00:36
ご報告が遅くなりましたが、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の10月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手の中の建設物」では、今月は、公私混同といわれようがなんといわれようが、拙著『満洲切手』にちなんで、宮内府の勤民楼を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1934年3月1日、映画『ラスト・エンペラー』のモデルとなった愛新覚羅溥儀が満洲国の皇帝となった際に発行された“登極(皇帝即位)”の記念切手のうち、宮内府勤民楼を取り上げた6分切手の贈呈用シートです。 皇帝溥儀の“皇居”にあたる宮内府(宮廷府ともいう)は、現在の行政区域でいうと、長春市東部・光複北路三号に置かれていました。 1932年に満洲国が建国される以前、専売局の庁舎として用いられていた建物は、満洲国の建国によって接収され、溥儀の執務する“執政府”となり(溥儀の肩書は、当初、満洲国の皇帝ではなく“執政”であったためです)、彼が皇帝となったことで“宮内府”として利用されることになります。 宮廷は東院と西院、内廷と外廷にわかれ、両廷の総敷地面積は約4万平方メートル。内廷は溥儀と家族の生活区域で、緝熙楼と同徳殿がありました。一方、外廷は執務を行った東院の勤民楼(切手の建物です)を中心に、北側の懐遠楼には儀堂書府、侍従武官所、帝室会計審査局などが置かれていました。 現在、旧勤民楼は、中国側が国民の愛国教育のための博物館として保存・公開しており、共産党の抗日活動を宣伝するための重要な手段となっています。 ところで、「切手の中の建設物」はもちろん、拙著『満洲切手』でも、溥儀登極の記念切手を取り上げたときには、スペースの都合で単片の図版を使いましたが、今回の画像は、政府高官などへの贈呈用に作られた20面シート(一般販売用のシートは10×10の100面)です。拙著の内容をフォローするものとしてご覧ください。 なお、溥儀が皇帝として即位するまでの経緯や、それにまつわる切手・絵葉書などについては、拙著『満洲切手』をご一読いただけると幸いです。 |
2006-10-15 Sun 00:50
毎年恒例の全国切手展<JAPEX06>は、今年も東京・池袋のサンシャイン文化会館を会場として、11月3~5日の日程で開催されます。 切手の面白さ・奥深さを一人でも多くの方に知っていただくためは、僕が毎日このブログに記事を書いているだけではダメで、やはり、しかるべき場を用意してきちんとした内容のソフトを社会に向けて発信することが必要です。日本最大の切手イベント<JAPEX>は、まさに、そのための絶好の機会なのですが、こうしたイベントをやるには巨額の資金が必要です。そこで、いろいろな方に“基金”というかたちでご寄付をお願いしております。(もちろん、ブースをご出店いただいている切手商の方々にも、足を向けて眠れません。) 僕は、昨年に引き続き、今年も実行委員長という立場で<JAPEX>に関わっていますが、とにかく、多くの方から頂戴した浄財をいかに有効に活用することと、そのために経費面で圧縮できるところは可能な限り圧縮すべく精一杯努力しているつもりです。 さて、<JAPEX>実行委員会では、毎年、基金にご協力いただいた方へのささやかなお礼として、精巧な凹版印刷によって切手を複製した記念カードを準備しております。 今年は、切手にNIPPONというローマ字の国名表示が入った1966年から40年ということで“ローマ字入り切手”を題材とした企画展示を行うのですが、それにちなみ、冒頭のような凹版カードを作りました。その実物が出来上がってきましたので、ここにご報告します。(画像はクリックで拡大されます) カードに取り上げられたのは、1966年6月20日、ローマ字入りの普通切手として最初に発行された200円切手です。切手のデザインとなった音声菩薩(おんじょうぼさつ)は仏の徳を讃えるため、雲に乗って音楽を奏でる天女で、東大寺大仏殿の前の金銅八角燈籠の火ぶくろの扉に彫られた天平時代の彫刻(国宝)です。 なお、ご参考までに、凹版カードの元になった切手の画像を下にアップしておきましょう。(画像はクリックで拡大されます) ホンモノと比べていただいても、今回の凹版カードの出来栄えは遜色のないものと思いますが、いかがでしょうか。 なお、<JAPEX>基金について、詳しいことを知りたいという方がおられましたら、是非、こちらをクリックしていただき、<JAPEX>基金のページをご覧いただけると幸甚に存じます。 以上、<JAPEX>実行委員長としての内藤からのお願いでございました。 |
2006-10-14 Sat 01:00
今日(10月14日)は鉄道記念日です。今年は南満洲鉄道株式会社(満鉄)創立100年でもありますし、拙著『満洲切手』の中から、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、満洲国の鉄道一万キロ突破を記念して発行された切手の1枚で、満鉄が誇る超特急“あじあ号”の雄姿が描かれています。 1934年11月、満鉄は世界に誇る豪華特急列車として、満洲国の首都であった新京(現・長春)と関東州租借地の大連の間で“あじあ”号の運転を開始しました。なお、翌1935年9月には、“あじあ”号の運転区間は新京から哈爾浜まで延長されています。 “あじあ”号の運転最高速度は時速110キロで、平均速度は時速82.5キロです。当時の日本国内最速の特急列車であった“つばめ”の平均速度がおよそ時速67キロであったことを考えると、格段のスピードアップといってよいでしょう。 また、“あじあ号”の車輌編成は、機関車に次いで、郵便手荷物車→3等車→食堂車→2等車→1等車→1等展望車の6両編成が基本となっていました。台車には特別な工夫が施されているため、“つばめ”に比べて乗り心地の面でも相当改善されているほか、全車両に空調設備が取り付けられており、当時の日本人にとってはまさに“夢の超特急”というべきものでした。 切手は、満鉄総裁室弘報課のデザイナーであった佐々木順が原画を作成したもので、流線型の“あじあ号”独特のフォルムがシンプルかつ躍動感あふれる筆致で描かれています。満洲国が発行した切手の中でも、カッコよさでは間違いなく1・2を争うものじゃないかと僕は思っています。 さて、先月、角川選書の1冊として刊行した拙著『満洲切手』では、満鉄とあじあ号についても1章を設けていろいろと書いてみました。ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
2006-10-13 Fri 00:38
プロ野球のパリーグは日本ハムが優勝しました。というわけで、今日は北海道ネタの中から、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1972年の札幌オリンピックに際して、いわゆるアラブ土侯国のひとつであったラサールカイマが1971年に発行した切手で、札幌の市街地にサッポロビールを組み合わせるというデザインになっています。 現在30代以上で、切手に関心を持ったことのある人なら、シャルジャーとかラサールカイマとかいった、ペルシァ湾岸の小首長国の名を見たり聞いたりした経験が、1度や2度はあるでしょう。日本語で“アラブ土候国”と総称されるこれらの国々は、1971年12月、アラブ首長国連邦(UAE、以下、適宜「連邦」と略す)を結成し、その郵政も連邦郵政として統合されたため、現在では切手を発行していません。しかし、これらの国々は、一部の例外を除き、1964年ごろから、連邦の成立により各郵政による独自の切手発行が取り止められる1972年までの間、世界各国の切手収集家を狙ってすさまじい数の切手を濫発していました。そして、その切手濫発により、ひろく、世界中の切手収集家の間で悪名をとどろかせていました。 今回ご紹介している切手の発行元になっているラサールカイマはUAEの最北に位置しています。面積は1684平方キロ、人口も10万人以下の小国です、かつては、やはり現在UAEメンバーとなっているシャルジャーとともに、ペルシァ湾岸で大きな勢力を保持していたカワーシム族の拠点となっていました。特に、領内のジュルファルは、19世紀半ばにいたるまでペルシァ湾屈指の港湾都市として繁栄を誇っていました。 しかし、イギリスがペルシャ湾岸の覇権を掌握し、カワーシム族を討伐したことや、イギリスと結託した部族連合バニー・ヤースの台頭などにより、カワーシム族の勢力はしだいに衰退。さらに、1869年、カワーシム族の支配地域はシャルジャーとラサールカイマに分裂し、単なる小首長国のひとつに転落しました。 ラサールカイマの支配一族であるカワーシム族は、バニー・ヤース系のアブダビとドバイが石油収入を得て経済的に発展したことに対して、長年にわたって激しい競争心をもっていました。このため、1971年12月にアブダビの主導でUAEが成立した際、ラサールカイマは当初これに参加せず、独自の国家建設をめざします。 しかし、独立国家の財政をまかなえるほど石油の産出量がなかった(ラサールカイマは独自の国家建設をめざして石油採掘事業を展開したが、油田の採掘にはじめて成功したのは1983年のことです)ことに加え、UAE成立直前の1971年11月、トゥンブ諸島を巡るイランとの国境紛争に敗れたことなどもあり、尾羽打ち枯らして1972年2月、連邦に加入。以後、連邦内におけるアブダビやドバイの指導権に従う代わりに、連邦政府からの財政支援により近代化政策を進めるようになりました。 ところで、あらためていうまでもなく、ラサールハイマをはじめ、UAEを構成している首長国はいずれも国民の大多数がイスラム教徒であり、飲酒はご法度です。したがって、彼らの切手にビールを取り上げるなど、本来ならトンでもない話で、この点からも、海外に輸出して外貨を稼ぐことを主な目的という、この切手の性格がよくわかります。 どうでもよいことですが、日本ハムの選手たちのビールかけは、やっぱり、地元ということでサッポロビールを使うんでしょうか。ちょっと気になります。 なお、ラサールカイマをはじめ、いわゆるアラブ土侯国とその切手や郵便に関しては、拙著『中東の誕生』で1章を使ってまとめてみたことがあります。機会がありましたら、こちらも是非、お読みいただけると幸いです。 |
2006-10-11 Wed 00:38
プロ野球のセリーグは中日ドラゴンズが優勝しました。というわけで、今日は龍がらみの切手の中から、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1940年に満洲国が日本の“紀元2600年”を記念して発行した切手の1枚で、龍燈(龍踊ともいう)が取り上げられています。尚、同時に発行されたもう1枚の切手に関しては、こちらもご覧ください。 龍燈は、玉持ち一名、龍の担ぎ手数名、囃子方が一体となって演じる舞で、長崎くんちの出し物をイメージしていただくのがわかりやすいと思います。この舞は、不老長寿の源であるとされる月を、龍が食べようとして追いかけるものの なかなか捕らえきれない様子を描写したもので、龍が体を左右に振りながら玉を追いかける“玉追い”から龍がとぐろを巻いた自らの体の影に隠れた玉をさがす“玉さがし”(ずぐら)へ、そして再度玉追いへとつなげるのが基本的なスタイルです。 龍燈が切手の題材として選ばれることになったのは、満洲国の漢人系住民がみて“おめでたい題材”であることがすぐに理解されるということに加えて、1940年が辰年だったという事情もあったということです。 また、切手のデザインは、“日満一体”のスローガンに沿って、漢人デザイナーが担当することが早い段階で決められており、新京在住の洋画家、李平和に原画制作の作業が委嘱されました。 李は幼少時に病気で聴覚を失ったものの、障害をバネに精進を重ね、満洲国美術展覧会に入選した青年画家で、その作品は皇帝溥儀の仁慈を示すものとして“天覧”の栄に浴したこともあります。当然、このことは新聞報道などを通じて、当時の満洲国内では広く社会的な話題としてもとりあげられており、満洲国政府の側からすれば、李は漢人に対する宣撫工作の担い手として使いやすい人物でした。 原画の制作に際しては、当初、実際に龍燈を舞わせてそれを写真撮影したものを資料とすることも検討されたのですが、これは実現せず、結局、協和会の制作した宣伝用年画(新年の吉運を祈るため、春節にあわせて門扉や壁に貼る縁起物の印刷物)や建国節(3月1日)のポスター、満洲国通信社が1938年5月2日の訪日宣詔記念日に撮影した写真、さらには李の自宅にあった茶碗などをもとに、原画が作られました。切手の原画というなれない仕事だけに、李は相当苦労したようで、郵政総局からは何度もダメだしをされたと伝えられています。 さて、先月末に角川新書の1冊として刊行されたばかりの拙著『満洲切手』は、今回ご紹介の切手をはじめ、満洲国が発行した切手のデザインやその発行にいたる経緯などを丹念に読み解いていくことで、満洲国の13年半を再構成しようと試みた作品です。是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2006-10-10 Tue 00:52
北朝鮮、ついに核実験やっちまいましたねぇ。というわけで、今日は核実験がらみの切手ということで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年6月の中国の水爆実験成功を記念して北ベトナムが発行した記念切手の1枚で、天安門に中国国旗、水爆のきのこ雲と水爆を示すHの文字の中に実験を行った17.6.1967の日付、原子模型、平和の鳩が描かれています。 相互リンクをお願いしているHYPER Philatelistでも取り上げられていましたが、以下、その補足も兼ねて、このブログでも若干のコメントを付けてみたいと思います。 1964年のトンキン湾事件(北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム側がパトロール中の米軍駆逐艦に魚雷を発射した事件)を口実に、アメリカが翌1965年から北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始すると、北ベトナムは、ソ連を含む全ての社会主義国、共産党、平和勢力、反米諸国などに幅広く支援を求めました。 当然、隣接する社会主義大国の中国に対しても支援が要請されたのですが、ソ連と激しく対立していた中国は、ソ連が北ベトナムを援助するのは中越両国を離間させるための策動と主張し、北ベトナムに対してソ連との距離を置くように迫ります。さらに、文化大革命の混乱の中で、中国は「ソ連と共同行動をとると、米帝の共犯者となってしまう」という口実を設けて、北ベトナムに対する援助を大きく抑制します。 中国が北ベトナム支援を渋った本音は、実は、「ベトナムがアメリカの大軍をひきつけている限り、対中国包囲網は弱まるから、その時間を利用して国内の粛清を進め、経済建設・国防建設を進めたい」というもので、北ベトナムが敗れない程度の援助を与えて、できる限り、ベトナム戦争を長期化させたい(=北ベトナムをすぐには戦争に勝たせない)というものでした。 それでも、こうした社会主義陣営内の亀裂は、当時、外部には明らかにならなかったため、北ベトナムとしては、社会主義陣営の団結を誇示するためにも、自分たちが中国の核の傘で守られているという対外的にアピールするため、こうした切手を発行したというわけです。 一方、奪権闘争としての文革が一段落すると、中国はそれまでの対外政策を大幅に修正し、西側諸国に接近しはじめます。その最大の成果として、1972年3月、アメリカ大統領のニクソンが中国を訪問し、朝鮮戦争以来の約20年間にわたる米中対決の時代は実質的に終焉を迎えました。 しかし、ニクソンの訪中は、“アメリカ帝国主義”と血みどろの戦いを続けている北ベトナムからすれば、背信行為以外のなにものでもなく、中越両国の亀裂は決定的になります。これ以後、北ベトナムは中国と激しく対立していたソ連への傾斜を急速に強めていきます。また、中国との友好関係をアピールするような切手も発行されなくなりました。 こうして、1975年4月30日、ソ連製の戦車や長距離砲を動員した北ベトナム軍は、サイゴン(現ホー・チ・ミン)を陥落させ、30年に及ぶインドシナ戦争は終結するのですが、現在のベトナム政府は、サイゴン解放を次のように位置づけています。 わが軍民の75年4月30日の歴史は、古今東西をつうじての、アメリカ帝国主義のもっとも大きな軍事的、政治的失敗であっただけなく、アメリカと結託して、サイゴン傀儡政権とアメリカの存在を維持し、わが国土を長期に分裂して、われわれをその反動路線にひきこもうと陰謀をいだいた、中国の拡張主義、大国覇権主義のみじめな失敗でもあった… (鹿沢武『中国・ベトナム関係 中越紛争の歴史と国際環境』教育社 1978年) 今回の北朝鮮の核実験に関しては、北朝鮮の“友好国”ということになっている中国も「北朝鮮が国際社会の全面的な反対を無視し、強引に核実験を実施したことに対し、中国政府は断固として反対を表明する」と北朝鮮非難の声明を発していますが、これって、かの国の将軍様の眼には、中国が“アメリカと結託して…わが国土を長期に分裂して、われわれをその反動路線にひきこもうと陰謀”をめぐらしているように見えるんでしょうかねぇ。かつての北ベトナムのケースとは異なり、今回の件では、北朝鮮を“見殺し”にする国があっても、まぁ、非難する人はまずいないんじゃないかと思いますけど。 |
2006-10-07 Sat 00:45
911テロ事件の後、事件の首謀者とされるウサマ・ビン・ラディンを匿っているとの理由でアメリカがタリバン政権下のアフガニスタンを空爆してから、ちょうど5年となりました。
アメリカによるアフガニスタン空爆とその後の戦闘については、しばしば“アフガニスタン戦争”と呼ばれているようですが、歴史用語としてのアフガニスタン戦争というと、通常は、19世紀のイギリスと現地製力との戦争のことを指しますから、アメリカによる攻撃については、なにか別の名前をつけて区別したほうが良いでしょう。 というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1878年に始まる(第2次)アフガン戦争の際にイギリス軍の野戦郵便局から差し出されたカバー(封筒)です。 19世紀に入ると、インドに進出したイギリスと南下政策を採るロシアは、現在のイランからアフガニスタンにかけての地域の覇権をめぐって対立。その結果、在地の勢力とロシアの接近を防ぐため、イギリスは1837年と1878年の2度にわたってアフガニスタンの地に派兵し、いわゆるアフガニスタン戦争が勃発しました。 第1次アフガニスタン戦争の後、アフガニスタンには西洋文明が流入し始め、近代化改革が始まります。近代化の推進には、当然、莫大な費用がかかるため、アフガニスタン政府としては、軍事費の支出を抑えるため、“善隣外交”を目指すことになります。 ときあたかも、帝政ロシアの南下政策が進展し、アフガニスタンは対外的に大きな脅威にさらされることになったため、イギリスに支援を要請します。しかし、イギリスがアフガニスタンからの支援要請を断わったため、1878年、アフガニスタンはロシアとの外交交渉を開始せざるを得なくなりました。 ところが、これを不満とするイギリスはアフガニスタンに軍事侵攻。1878年11月、第二次アフガニスタン戦争が勃発。この戦争の結果、翌1879年1月にガンダマク条約が調印され、アフガニスタンはイギリスの保護領となります。 しかし、イギリスに保護領化された後も、イギリス軍に対するアフガン人の抵抗は頑強で、1881年までにイギリス軍はアフガニスタンからの完全撤退を余儀なくされました。 今回ご紹介しているカバーは、こうした状況の下、アフガニスタンに派遣されていたイギリス軍の野戦局から差し出されたものです。カバーが差し出された正確な日付はわからないのですが、裏面には1880年2月26日のボンベイの中継印が押されています。また、画像では見難いのですが、野戦郵便局の番号(FPO NO12)から、この時期のアフガニスタンからの差し立てということがわかります。 なお、この辺の事情を含めて、アフガニスタンに関しては、かつて拙著『中東の誕生』で一章を設けて簡単な文章を書いたことがありますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。 * 本日10月7日(土)、午前10:30ごろから12:00ごろまでの間、東京・目白で開催の切手市場会場にて新刊の拙著『満洲切手』の即売(会場内のみでの特典つき)・サイン会を行います。よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 |
2006-10-06 Fri 01:34
今日(10月6日)はエジプトのサダト大統領暗殺事件(1981年)から25周年にあたります。というわけで、この人物に登場してもらうことにしました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、サダト・大統領暗殺犯のハリド・イスランブリを顕彰するためにイランが発行した切手です。 イスランブリは、エジプトの陸軍士官学校を卒業した後、陸軍砲兵部隊に配属された軍人で事件当時の階級は中尉でしたが、彼の兄妹が宗教グループとの関係により逮捕されたことで、大統領への憎悪を募らせ、イスラム原理主義組織のジハード団と関係するようになったといわれています。 ジハード団は、イスラム法(シャリーア)以外の法を施行する為政者はムスリム(イスラム教徒)であろうと背教者であり、ジハードによって排除せねばならないと主張するグループです。当然、彼らの価値観からすると、シナイ半島奪還のためとはいえ、アメリカに接近し、イスラエルと和平を結んだサダトを“背教者”であり、非難されるべき存在でした。 事件の起こった1981年10月6日は、1973年に第4次中東戦争が勃発し、サダト率いるエジプト軍がスエズ運河を渡ってイスラエルを撃破した記念日のため「第6回1973年10月の勝利記念パレード」が行われていました。当初、イスランブリはパレードに参加する予定はなかったのですが、他の兵士の代理として参加。事件を引き起こすことになったというわけです。 当日、サダトは4重の警護に守られていましたが、空軍のミラージュが上空を飛行し、群衆の関心がそちらに向いた隙をついて、パレードのトラックが大統領の閲覧席前に停止。イスランブリが前に飛び出し、敬礼を受けようと起立していたサダトに対して手榴弾を投げつけ自動小銃を発射しました。当然、サダトは即死です。このとき、イスランブリは「ファラオに死を!」と叫びながら閲覧スタンドに走り寄り、サダトの遺体へ銃を発射したちわれています。なお、後に国連の事務総長となるブトロス・ブトロス=ガリも当時はエジプトの外務大臣としてパレードに列席しており、負傷しました。 さて、今回ご紹介している切手は、1982年にホメイニ体制下のイランが発行したものです。 いわゆるイスラム原理主義を奉じていたイランの革命政府から見ると、不義不正な“背教者”のサダトを暗殺したイスランブリは“義士”という位置づけになるわけですが、1983年という時期を選んでこの切手が発行された背景には、イラン・イラク戦争という事情もあったことを見逃してはならないでしょう。 すなわち、1980年に始まった戦争が長期化し、次第に守勢に立たされるようになったイラクは、即時停戦を求める立場を強調し、国際世論を味方につけるべく外交戦略を展開することでイランに対抗しようとします。その一環として、1982年、対イスラエル和平条約の調印を機に断交していたエジプトとの外交関係を改善。エジプトからの軍事支援を獲得しています。 これに対して、イランは“侵略者・イラク”(イラン・イラク戦争はイラク側の越境によって始まった)を支援するエジプトを激しく非難。その一環として、サダト暗殺事件の首謀者、イスランブリを英雄として称える切手を発行し、エジプトの現体制を痛烈に批判し、同時に、アメリカ・イスラエルの手先と堕したエジプトに接触をはかろうとするイラクのことも間接的に非難したというわけです。 なお、この時期のイランのプロパガンダ切手に関しては、拙著『反米の世界史』でも1章を設けて分析してみましたので、ご興味をお持ちの方は、ご一読いただけると幸いです。 * 明日の10月7日(土)、午前10:30ごろから12:00ごろまでの間、東京・目白で開催の切手市場会場にて新刊の拙著『満洲切手』の即売(会場内のみでの特典つき)・サイン会を行います。よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 |
2006-10-05 Thu 08:54
北朝鮮外務省が核実験を行う方針を発表しました。というわけで、今日は核実験がらみのモノとして、こんなカバー(封筒)を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年7月1日、当時、唯一の核保有国であったアメリカがビキニ環礁で核実験を行った際に作られた記念カバーです。 このときの実験に際して、アメリカは“平和か破滅かの選択”と称して、東西のマスコミ関係者を集めて実験を公開していますが、あわせて、実験に参加した移動艦船郵便所(LST-861)では“原爆実験 ビキニ環礁”の文字が入った消印も使用されました。 核実験というのは、実験データを取るという本来の目的もさることながら、実験を行うことによって核兵器を保有しているということを諸外国に認識させるというデモンストレーションとしても重要な意味を持っています。こうした事情は、60年前も現在も、基本的にはなんら変わっていません。もっとも、現在では、そうしたデモンストレーションが国際社会に与える影響はネガティブなものでしかありませんから、こういう記念品がつくられるということもありえないでしょうね。 今回の北朝鮮の核実験予告声明に関して、モスクワ駐在の北朝鮮外交官は「政治的性格を持つ声明であり、軍事的なものではない」と述べたそうです。自ら危機を演出して相手の譲歩を引き出す、チキンレースまがいの“瀬戸際外交”は北朝鮮の得意技ですが、件の外交官の発言は、今回の核実験予告もその一例であることを物語っています。 もっとも、先日のミサイル発射事件でも、北朝鮮は、ブラフではないかという大方の予想を裏切って本当に発射してしまいましたから、今回も何をやらかすかわかりません。ただ、“政治的性格”の実験であるなら、なおのこと、その“効果”がマイナスにしかならないということをかの国の将軍様には十分に認識してもらいたいものです。 * 10月7日(土)の午前中10:30ごろから12:00ごろまでの間、東京・目白で開催の切手市場会場にて新刊の拙著『満洲切手』の即売(会場内のみでの特典つき)・サイン会を行います。よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 |
2006-10-03 Tue 00:54
今年(2006年)は日本・シンガポール外交関係樹立40周年ということで、今日(10月3日)、日本とシンガポールの共同発行として「国際文通グリーティング切手」が発行されます。というわけで、シンガポールがらみの毛色の変わった1枚ということで、こんなものを引っ張り出してみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、太平洋戦争の初期、1942年2月15日に日本軍がシンガポールを陥落させたことを記念して、翌16日、満洲国が発行した切手です。(日本で発行された記念切手については、こちらをどうぞ) 1941年12月、いわゆる太平洋戦争が勃発すると、皇帝溥儀は詔書を発して、満洲国が日本の戦争に全面的に協力することを宣言します。しかし、日本側は、満洲国が連合国に対して宣戦布告すれば、連合国側の一角を占めるソ連は満洲国に対して宣戦布告してくるかもしれないと考え、満洲国は米英に対して宣戦布告をさせない方針でした。 さて、戦争が始まると、日本軍は先制攻撃を仕掛けた勢いで快進撃を重ね、1941年中にはイギリス東洋艦隊を撃滅し、香港を攻略。さらに年明け早々の1942年1月2日にはマニラを占領し、2月15日にはシンガポールを陥落させました。 これを受けて、満洲国でも、事実上の“宗主国”である日本に倣い、シンガポール陥落の記念切手の発行を計画します。ところが、満洲国は“大東亜戦争”に参戦しておらず、実態はともかく、建前としてはイギリスを敵国として公式な場で扱うことはできません。このため、シンガポールの陥落をストレートに記念するのではなく、日本の掲げる“東亜解放”の理念に賛同して、シンガポールがイギリスの支配から解放されて“アジア”に復帰したことを記念するというロジックで切手が発行あされることになりました。そのうちの1枚が、今回ご紹介している切手というわけです。 この切手は、日本のシンガポール陥落の記念切手と同様に、もともとの通常切手の印面を印刷した後、裏糊を引き目打の穿孔作業を行う前に「紀念新嘉坡 復歸我東亞」ならびに「康徳九年」の文字を印刷するという形式で製造されました。このため、正確には、加刷切手というよりも二色刷の切手というほうが適切なのですが、一般には“加刷切手”として扱われることが多いようです。 さて、製造された切手は、2月9・10日の2日間をかけて、首都・新京の郵政総局から満洲全域に配給されました。もちろん、この時点では、シンガポールはまだ陥落していません。 このため、切手の発行日についても、ラジオによりシンガポール陥落の公報が放送された日、もしくは、窓口の終了時間以降に陥落の公報が放送された場合にはその翌日、と決定されます。結局、2月15日の午後10時過ぎにシンガポール陥落の正式な発表があったことを受けて、記念切手も翌16日に発行の運びとなりました。 シンガポールが陥落した2月15日は、たまたま、この年の春節にあたっていたこともあり、切手を売り出した各地の郵便局には二重の祝賀気分で記念切手を買い求める長蛇の列ができ、用意された切手のほとんどは発行初日の16日のうちに完売となりました。このため、切手の発行が政府広報によって正式に発表された2月18日には、実物の切手は郵便局の窓口からはほとんど姿を消しているという珍事が起きています。 さて、このたび角川新書の一冊として上梓した『満洲切手』では、太平洋戦争の開幕からソ連の進行までの時期の満洲国の状況についても、この切手を初めさまざまなマテリアルから分析してみました。是非、ご一読いただけると幸いです。 * 10月7日(土)の午前中10:30ごろから12:00ごろまでの間、東京・目白で開催の切手市場会場にて『満洲切手』の即売(会場内のみでの特典つき)・サイン会を行います。よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 |
2006-10-02 Mon 00:55
昨日(1日)でプロ野球パリーグの全日程が終了しました。というわけで、レギュラーシーズン1位の北海道日本ハムファイターズに敬意を表して、刊行されたばかりの拙著『満洲切手』のなかから、満洲国の“戦士”の切手を持ってきてみました。(画像はクリックだ拡大されます)
これは、1940年6月1日に発行された国兵法の記念切手が貼られたハワイ宛の書留便です。1941年5月25日に哈爾浜中央大街局から差し立てられた後、同28日に日本の門司局を、さらに6月6日にハワイのホノルル局を経て、同8日に宛先地のワイルクに到着したことが押されている印からわかります。収集家宛のいわゆるフィラテリックカバーですが、とにかく見た目が派手なので、結構、お気に入りの1枚です。 1938年と1939年に相次いでおこった張鼓峰事件とノモンハン事件は、あらためて、満洲国の防衛という点で大きな課題を日満両国に突きつけることになりました。 すでに、1937年、関東軍は満洲国の「組織運営を兵事より努めて戦闘態勢に近似せしめ、速に物心両面にわたる戦争準備を完整せしむるごとく指導する」として、割当制による募兵制度を実施していましたが、1940年4月、「国軍の中核をなす士兵の素養改善および人民の中堅分子の練成」を目的として、日本国籍を持たない満洲国内の成年男子を対象として国兵法を公布し、選択徴兵制の導入に踏み切ります。なお、在満日本人は日本軍に徴兵されるのが原則で、満洲国軍への入隊は志願制でした。 なお、記念切手は、1940年4月の国兵法の公布にあわせて発行されたわけではなく、徴兵された国兵たちの第一陣が正式に満洲国軍に入営した6月1日をもって発行されました。 国兵法によって徴集された兵士たちの主たる任務は、外国と戦うことではなく、主に、国内の反体制運動を鎮圧する“治安維持”でした。関東軍として、彼らにも国家防衛の一翼を担わせることで、兵力を優先的に国境防衛に振り向けようとしたのですが、実際には、同胞(反満抗日運動の担い手は、当然のことながら、漢人や満洲人でした)に対して積極的に刃を向けようという国兵たちが多いはずはなく、その士気は高いとはいえなかったようです。 その意味では、切手に描かれている国兵はsoldierではあってもfighterとするのは、ちょっと無理があるかもしれないのですが、まぁ、その辺はご愛嬌ということで勘弁してください。 さて、先ごろ角川選書の1冊として刊行した拙著『満洲切手』では、今回ご紹介した国兵たちの苦悩をはじめ、満洲国の国家理念としての“五族協和”の実態についても、切手や郵便物を通じて、さまざまな角度から分析してみました。ご興味をお持ちの方は、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 * 10月7日(土)の午前中、切手市場にて『満洲切手』の即売(会場内のみでの特典つき)・サイン会を行います。よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 |
2006-10-01 Sun 02:50
今日は10月1日。赤い羽根の共同募金が始まる日です。今年は第60回という節目の年でもありますので、こんな切手を持ってきました。
これは、1947年11月25日から実施された第1回社会事業共同募金にあわせて発行された寄付金つき切手です。共同募金のスタートを飾る記念すべき1枚といいたいところですが、実は、発行当時はかなりの“問題児”として厄介者扱いされていたのです。 そもそも、社会事業共同募金の慈善切手は、募金運動の実施団体である社会事業共同募金中央委員会(総裁は皇族の高松宮)がすべて買い取ることを前提として企画されていました。 しかし、逓信省は、郵便局で発売しないのは「切手らしくない」との理由から、全体の約3割を便宜的に郵便局みずからが取り扱うことを決定。そのうえで、逓信省は、今回の切手の売れ行きが良くないことを見越して(附加金つき切手は一般に人気がないものです)、全国の特定郵便局に対して、今回の切手が附加金つき切手であることを伏せて「2円切手を4分引きで卸す」との詐欺まがいのセールストークで切手を押し付けており、実際に配給された切手を見た現場がビックリ仰天ということも少なくありませんでした。(ちなみに、切手発行の告示が出されたのは発行日の前日のことです。) また、全体の7割に相当する分についても、共同募金の各地方委員会が販売予定量を中央委員会に報告し、その承認量を所在地の郵便局から2円で購入したうえで、後日、80銭の還付を受けるという複雑な精算方式が採用されることになりました。年賀状関係の業務で多忙を極めている時期に、切手の売上1枚につき附加金相当額の80銭を共同募金用の特別口座に振り込むという事務処理の負担は、現場にとってはかなりきつかったようです。 こうしたことから、現場では、募金の趣旨への賛否とは別に、附加金つき切手については怨嗟の声が満ち溢れていたと報告されています。たまた、“売れない切手”の処理に困った郵便局員が、郵便局を訪れた利用者に対して執拗な押し売りや泣き落としで切手購入を迫る事例も全国各地で続出しました。 さらに、この切手は、学校でも募金運動の一環として発売されましたが、そこでもトラブルの種となっています。 たとえば、東京都では、切手が発行されると、200万枚を引き受け、都内の全校生徒児童に10枚ずつ半強制的に販売することにしましたが、これに対して都の教職員組合が反発。学校内での慈善切手発売を拒否したため、都は大量の切手を持て余すこととなりました。このため、都当局は、都教組に対して、「学童の気持ちにこそ共同募金の制度を植え付けてほしい」と懇願しますが、結局、学校での生徒児童に対する切手発売は実施できず、いつのまにか他方面に100万枚を割り当てるという不明朗な処理が行われています。 こうして、散々な結果となった第1回共同募金の切手でしたが、共同募金の勧進元ともいうべき中央委員会は、こうしたトラブルを知ってか知らずか、「逓信省は一銭の切手製造費も取らず、全く儲け心なく、本当によくやってくれます」等とのんきなことをいっていました。やはり、宮様を総裁にいただく団体というのは、われわれ民草とはどこか感覚が違うということなのでしょうか。 さて、占領下の日本で発行された記念特殊切手には、今回の切手に勝るとも劣らぬドタバタ劇がいろいろとあるのですが、それらについてご興味をお持ちの方は、ぜひとも、拙著『解説・戦後記念切手Ⅰ 濫造・濫発の時代 1946-1952』をご覧いただけると幸いです。 |
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