2006-05-31 Wed 19:02
今日は何の日~毎日が記念日の5月31日の項を見ていたら、「1943年 御前会議で大東亜政略指導大綱を決定。ビルマ・フィリピンの独立、マレー・オランダ領インド(インドネシア)の日本領化など」という1行を見つけました。
というわけで、ちょっとマニアックな話題ですが、現在開催中の世界切手展<Washington 2006>に出品中の作品のなかから、こんなものを引っ張り出してみました。(画像はクリックで拡大されます) 「大東亜政略指導大綱」というのは、ひとことで言ってしまうと、1943年の時点で日本の勢力圏内にあった地域をどう処理するのか、という方針を決めたもので、タイに関しては、日本の戦争への協力を得るため、日本軍占領下のマライ北部、ケダー、ケランタン、トレンガヌ、ペルリスの4州(タイは、これらの地域を自国の領土として、長年、英領マライに返還を求めていた)を割譲することが決められ、1943年10月、実行に移されました。 これに伴い、現地で使用するために、タイの国名表示をした切手・葉書が製造され、1944年1月から使用されたことは以前の記事でもご紹介したところです。 これに対して、今日ご紹介している葉書は、マレーのペナンからアロスター宛に差し出されたもので、一見、何の変哲もない葉書にみえますが、宛先地の表示が、“ケダー(クダ)州アロスター”ではなく、“サイブリーのアロスター”となっているところがミソです。すなわち、この地がタイ領に編入されたことに伴い、地域名もマレー語のケダーから、タイ語のサイブリーに変更されているというわけです。 今回の展示では、以前の記事でご紹介した葉書と今回の葉書を並べて、タイ占領下のアロスター発着の郵便物を示してみましたが、リーフの作り方としてはちょっと地味だったかもしれません。 本音を言うと、タイ占領下のケランタン州で発行されている切手を入れたかったのですが、どういうわけか、その切手には縁がなくってなかなか入手できずにいます。昨日の記事でグチ交じりに書いた長崎の原爆関連のマテリアル同様、気長にチャンスを待つしかなさそうですね。 それはそうと、来年(2007年)はタイとマレーシアでアジア切手展が開催されるとか。まぁ、おそらく開催地は万国とクアラルンプールなんでしょうが、どうせなら、アロスターでやってくれないかなぁ。あの町には一度行ったことがあるんですが、なんとなく雰囲気がよくって、僕は気に入ってるものですから…。 * 米国滞在中の5月31日から6月4日にかけて、ネットの接続環境が悪く、記事を書けるものの、アップできたりできなかったり、という状況が続いていました。このため、5日の帰国後、まとめての更新となりました。あしからず、ご了承ください。 |
2006-05-30 Tue 23:33
昨日(29日)は5月の最終月曜日ということで、アメリカはメモリアル・デイ(この日は戦争で亡くなった全ての人への慰霊祭の日)のお休みでした。というわけで、今回のワシントン展に出品している作品の中からは、この1点をご紹介しましょう。ホントは昨日気がついて日記のネタにすればよかったのですが、まぁ、その辺は地元の人間ではないご愛嬌ということで勘弁してください。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1949年8月に発行された“広島平和記念都市建設”の記念切手で、英語圏では“Hiroshima Memorial"と通称されているものです。 原子爆弾によって潰滅した広島の復興に関して、広島市が具体的な復興計画を決定したのは1946年11月のことでしたが、この計画を実現するためには、国庫補助金の特別枠設定と旧軍用地の無償譲渡が必要とされていました。 しかし、国は、全国に110を越える戦災都市があるなかで広島を特別扱いすることに難色を示したほか、旧軍用地の譲渡に関しては国有財産処理法がネックとなり、このプランの実現は困難とみられていました。 このため、1949年2月、広島市は広島原爆災害総合復興対策に関する請願運動を開始します。そして、その過程で、議員立法による特別法の制定がはかられ、同年5月11日、「広島平和記念都市建設法」が国会で成立。同法は、7月7日の住民投票を経て、原爆忌にあたる8月6日に公布されました。 同法の公布に先立って住民投票が行われたのは、日本国憲法第59条に「一つの地方公共団体のみに適用される特別法は法律の定めるところによりその地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ国会はこれを制定することができない」と規定されているためです。 「広島平和記念都市建設法」は、同時に国会で成立した「長崎文化都市建設法」とともに、「日本の立法史上初の一地方公共団体のみに適用される特別法」で、同法の制定により、広島・長崎の両都市には、他の戦災都市とは別に、特別都市建設事業費の特別措置が講じられました。また、同法の施行に伴い、公園緑地、運動場、上下水道、ごみ焼却場、小中学校等の用地として旧軍用地の広島市への無償譲与も可能となり、財政難から停滞していた復興事業はようやく軌道に乗ることになります。 こうした特別法制定運動の過程で、広島市からの申請を受けて発行されたのが今回の記念切手で、当初は、印面上に英文(詳細は不明だが、おそらく、No More Hiroshimaの文字が想定されていたものと考えられる)が入れられることも企画されていましたが、途中で沙汰止みとなっています。 切手そのものはすぐに手に入る安価なものなので、展覧会に出品した作品では下辺の目打漏れというちょっとひねったモノを並べてみました。本音をいうと、広島の原爆がらみのマテリアルはこんなモノやあんなモノもあるので、“長崎文化都市”の記念切手でこの類のものを入れてバランスを取りたかったところですが、今回は間に合いませんでした。まぁ、気長にチャンスを待つとしましょうか。 なお、今日ご紹介した切手の詳細についてご興味をお持ちの方は、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅰ)濫造濫発の時代 1946-1952』(日本郵趣出版)をご覧いただけると幸いです。ちなみに、プロフィールの画像は、シリーズ最新作『(解説・戦後記念切手Ⅳ)一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』です。こちらもよろしかったら、ぜひどうぞ。 |
2006-05-29 Mon 21:59
インドネシアで大きな地震があったばかりなのに、トンガとパプアニューギニアでも別の大きな地震が起こったとか。それなら、ということで、ワシントンで開催中の世界切手展<Washington 2006>に出品中の作品の中から、こんなものをお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年にパプア・ニューギニアが発行した“太平洋戦争25周年”の記念切手のうち、珊瑚海海戦を取り上げた50セント切手のオリジナル・スケッチです。ちなみに、実際に発行された切手はこんな感じ(↓)です。 世界切手展の出品作品はさまざまな部門に分かれていますが、僕の作品 Japan and the 15 Years' War 1931-1945 はテーマティク(切手や郵便物であるストーリーを再現・再構成する部門)という部門になります。 テーマティクの作品では、展示しているマテリアルの多様性が審査の上で重要なポイントになってくるので、切手や郵便物だけではなく、消印や試刷、見本やエラーなど、ありとあらゆるモノを集めてくる必要があります。このため、僕の作品でもできるだけ展示に使うマテリアルにバラエティを持たせるようにしているのですが、この手のスケッチ類なんかが入ると、作品全体のインパクトが強まるんじゃないかと思います。 1年ぐらい前、オーストラリアの某オークションにデザイナーのスケッチブックが1冊丸ごと売りに出されて、今日ご紹介しているスケッチもその中に含まれていた1点です。いままでなかなかお披露目の機会がありませんでしたが、今回の展覧会でようやくデビューさせてやることができました。 それにしても、珊瑚海って綺麗なんでしょうねぇ。一度行って見たいものです。 |
2006-05-27 Sat 18:05
先ほどニュースを見ていたら、ジャワ島で大きな地震があって大勢の死者が出たとか。ジャワ島というと、どうしても、僕なんかは、いわゆる太平洋戦争中の日本軍の占領とその前後のことを連想してしまうのですが、そういうからみのものとして、今日はこんなモノをご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)
このカバー(封筒)は、太平洋戦争の勃発直後、オランダ領東インド(蘭印、現インドネシア)のジャワ島はバタヴィア(現ジャカルタ)からハワイのホノルル宛に差し出されたものです。 いわゆる太平洋戦争は、1941年12月8日、日本がアメリカ・イギリスに対して宣戦布告し、両国も日本に宣戦布告して始まりましたが、これを受けて、12月10日、オランダも日本に宣戦を布告し、蘭印も日本との戦闘体制に突入します。首都のバタビアでは若者が徴兵され、野戦郵便局の活動も本格的にスタートしましたが、このカバーもそうしたバタビアの軍事郵便局から差し出されたものです。 画像ではご紹介していませんが、カバーには、ホノルル在住の女性(文面からすると恋人か)に宛てて、日本軍の真珠湾攻撃を非難するとともに、彼女の無事を祈っている内容の手紙が同封されていました。 切手は当初、ペンで抹消された後、バタビアを示す“A”の文字の入ったオランダの野戦郵便局の消印が押されています。おそらく、郵便物を引き受けた時点では、野戦局の消印が間に合わず、とりあえずペンで切手を抹消しておき、あとから野戦局の消印を押したものと考えられます。 もっとも、開戦により郵便物を運ぶルートも途絶してしまったため、このカバーは実際にはホノルルに届けられることはなく、差出人に返送されました。そして、裏面には、そのことを示す1942年1月1日の印も押されています。 その後、1942年3月1日、日本軍はジャワ島への攻撃を開始。早くも同月9日には、全島を占領し、おそらく、このカバーの差出人も日本軍の捕虜になったのではないかと思います。 さて、いよいよ今日(27日)から、アメリカ・ワシントンDCのコンベンションセンターで世界切手展<Washington 2006>がスタートしました。僕も、新潮新書の『切手と戦争』の元になったコレクションJapan and the 15 Years'War 1931-1945 を出品しています。今日ご紹介したカバーもそのうちの1点ですが、明日以降も、今回の作品の中からいくつかのマテリアルを選んでご紹介して行きたいと思います。 |
2006-05-26 Fri 19:41
相互リンクをお願いしている切手市場 副管理人のひとりごとを拝見していたら、僕がアメリカ行きでバタバタしている間に『郵趣』6月号が出来上がっていたようです。
で、僕自身はまだ雑誌の現物を見ていないのですが、例によって表紙の切手について簡単なコラムを書いていますので、ちょっと補足しながら、このブログでもご紹介してみましょう。(画像はクリックで拡大されます) 1930年5月、ドイツの飛行船グラーフ・ツェッペリン号はドイツのフリードリヒスハーフェンとアメリカ大陸を結ぶ最初の周遊飛行を行いました。これにあわせて、米国郵政は飛行船に搭載する郵便物に貼付するための航空切手3種類を発行しました。これが、米国航空切手の名品として名高い“ツェッペリン切手”です。 切手は、65セント(米国から欧州までの葉書の片道料金)、1ドル30セント(片道の書状料金および葉書の周遊料金)、2ドル60セント(書状の周遊料金)の3種類。順に、大西洋上を東へ進む飛行船、大西洋を挟む地図と飛行船、地球を背景に西側へ向かう飛行船、が描かれていますが、僕の個人的な好みでは、画像に取り上げた2ドル60セントが一番できが良いように思います。 3種の切手の発行枚数は各100万枚。1930年4月19日にワシントンDC局と郵趣代理部でのみ売り出されましたが、同21日から全米各地の郵便局でも発売されました。また、郵便局での発売期間は6月7日までだったものの、郵趣代理部では6月30日まで申込を受け付けています。ただし、売れ残り在庫は全て破棄されましたので、現実に市中に出回った数量は100万枚を下回っています。 ちなみに、アメリカ郵政は、1933年にツェッペリン飛行船が飛来した時にも同様の切手を発行していますが、こちらは“Baby Zeppelin”と呼ばれているのがなんとなくカワイイですね。 さて、今回は3種のツェッペリン切手のうち、2ドル60セントのみを画像で取り上げましたが、残りの2種類も拡大版の迫力ある写真を見てみたいという方は、是非、『郵趣』6月号を手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2006-05-25 Thu 23:55
今日からワシントンDCでの国際切手展に出品者として参加するため、アメリカに滞在しています。作品の内容は、例によって新潮新書の『切手と戦争』の元になった「昭和の戦争と日本(Japan and the 15 Years' War 1931-1945)」です。
昨日の日記でもちょっと書きましたが、今回は日程の都合で大韓航空で成田から仁川経由でワシントン着というフライトになりました。で、昭和の戦争に絡めて、日本・韓国(朝鮮)・アメリカという三題噺になりそうなネタとしてご紹介したいのが、こんなカバー(封筒)です。(画像はクリックで拡大されます) 1910年以来、日本の植民地支配下にあった朝鮮は大日本帝国の一部として日本の戦争に動員されていました。日中戦争が本格化すると、朝鮮内では日本の官憲の弾圧もあり、独立運動の活動家が活動することは極めて困難となり、彼らは主として中国やソ連極東地域、アメリカなどに脱出。朝鮮の人々は、内心はともかく、建前としては日本の戦争に協力するという姿勢をとらざるを得なくなりました。 今回ご紹介しているカバーは、そういう状況の下で、太平洋戦争初期の1942年、ニューヨークから朝鮮北東部の咸興宛に差し出されたもので、朝鮮宛の郵便物は“敵国ないしは敵国占領地宛”という理由で差出人に返送されたものです。当時の朝鮮の人が内心でどのように思っていようと、朝鮮は日本の一部ということ国際的な認識であったことをうかがわせます。 ただし、太平洋戦争の勃発後、アメリカは“敵の敵は味方”と言うロジックで、李承晩らの反日独立運動を支援しはじめます。そして、1943年11月、日本敗戦後の東アジアの秩序が話し合われた米英中三国のカイロ会談では、中国の強い意向もあり、連合国として1943年11月のカイロ会談の結果、日本の降伏後に朝鮮を独立させる方針が決定されたものの、アメリカが(南)朝鮮政策についてなんら具体的なプランを組み立てることのないうちに、1945年8月、日本が降伏。朝鮮半島は新たな混乱の渦に放り込まれることになるのです。 今回、ワシントン展に出品している作品には、今日のカバーは展示していないのですが、いずれ、朝鮮半島の現代史を題材にした作品を作る機会があったら、まずその最初に持ってきたいマテリアルだと考えています。 *これからしばらく、滞在先のアメリカ東部時間にあわせての更新にしますので、アップされる時間に関して日本との時差が生じますが、ご容赦ください。 |
2006-05-23 Tue 23:53
先日、相互リンクをお願いしているcbreakerの切手収集ダイアリーを拝見していたら、クレタ島でノルウェーのポストホルン(郵便ラッパ)の切手にそっくりなものが発行されていて驚いたという記事(本文はココです)が出ていました。
取り上げられていた切手は、もともとは1901年にクレタ自治政府が発行した不足料切手(郵便料金の未納・不足分を徴収するために用いられる切手)で、イギリスのブラッドリー・ウィルキンソン社が制作したものですが、クレタ島の切手・郵便史の専門家であるFeenstraは、この切手はノルウェーの切手をパクって作ったものであるとあっさり断定しています。 ところで、自治政府時代のクレタ島で発行されたポストホルンの切手というと、不足料切手の他にも、こんなかたちで使われていた公用切手も見逃すわけには行きません。(画像はクリックで拡大されます) これは、1908年8月1日(消印上のユリウス暦では7月19日)にネアポリスから差し出された裁判所の召喚状で、自治政府の郵政が発行した“公用切手”が貼られています。 クレタ島では、裁判所からの召喚状は、郵便配達夫が呼び出される人物本人に直接手渡しするものとされていました。この制度に用いるため、1908年1月、今回ご紹介しているような“公用切手”が発行されたわけですが、それ以前は、召喚状の送付にも一般的な普通切手がそのまま使われていました。 切手は基本的に裁判所を中心とした公的機関が用いるものであったため、額面数字(今回の切手では10レプタ)を大書し、下にポストホルンを配するといった実用本位のもので色気も素っ気もないのですが、なんともいえない素朴な味わいが、ノルウェー切手をパクって作られた不足料切手と違って、なんともいい雰囲気をかもし出しているように感じられます。 お騒がせ議員の杉村タイゾー氏が、自分のブログに代ゼミの先生の本から盗用したのどうしたのということが話題になっていますが、やっぱ、パクったモノってのはすぐに底が割れると言うことなんでしょうかねぇ。安易な方向に流れてしまいがちな僕も、ホント、気をつけないと。 |
2006-05-14 Sun 22:45
今日は母の日。というわけで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1941年8月、ソ連で発行された切手で、戦場へと向かう息子を送り出す母親と“英雄になりなさい!”とのロシア語のスローガンが入っています。 この切手が発行されるよりも2ヵ月ほど前の6月22日、ドイツ軍はソ連領内への奇襲攻撃を開始し、いわゆる独ソ戦(ソ連側の呼称は“大祖国戦争”)がはじまりました。ドイツは、ドイツ軍300万を主力にイタリア・フィンランド・ハンガリー・ルーマニア軍も動員し、強力な戦車隊と航空機の援護のもとにソ連領に侵入。電撃戦によって快進撃を続け、10月初めにはモスクワの西方約60キロの地点にまで迫っています。 この切手は、ドイツ軍がウクライナを席捲し、レニングラード、そしてモスクワへと迫りつつある中で、祖国防衛のために戦う若者の士気を鼓舞し、兵士として戦争に動員していくために発行された、典型的なプロパガンダ切手の1枚です。 若者に対して戦場に行くよう呼びかけるキャンペーンのキャラクターとしては、アメリカが第一次大戦のときに作ったアンクル・サムのポスターが有名ですが、ソ連の場合は若者の尻を叩くのは“ロシアの母”になっています。 マッチョな白人社会のアメリカが祖国愛を訴えるキャラクターとしてアンクル・サムのオヤジを持ってくるのに対して、“母なる大地 母なるロシア”の大地信仰が根強いロシア(ソ連)では、母親のために戦う=祖国のために戦うというイメージが国民に対して訴える力を持っていたということなのかもしれません。 さて、3月にちくま新書の1冊として上梓した『これが戦争だ!』では、国民を戦争に駆り立てていくための手段として、切手や郵便がどのように使われてきたのか、さまざまな角度から読み解いてみました。また、今回の切手も含めて、旧ソ連のプロパガンダ切手や絵葉書(デザイン的に、なかなか興味をそそられるモノが少なくありません)もいくつかご紹介しています。ご興味をお持ちの方は、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2006-05-13 Sat 19:01
この4月から、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』という雑誌で、「切手の中の建設物」という連載をやっています。で、今月は、こんな1枚を取り上げてみました。
これは、1994年12月15日、中国が発行した「中国古塔」切手4種のうちの1枚で、西安の大慈恩寺大雁塔が取り上げられています。 西暦648年、当時、唐王朝の皇太子であった李治(後の第三代皇帝・高宗)は、亡き母、文徳皇后の冥福を祈るため、都の長安(現・西安)に大寺院を建立し、大慈恩寺と名付けました。一方、ちょうどこの頃、インドから膨大な量の仏典を持ち帰り、その漢訳に没頭していた玄奘三蔵は、その保存のために塔を建立することを進言。これを容れて、652年に建てられたのが大慈恩寺塔です。 なお、現在、この塔は“大雁塔”の名で呼ばれていますが、これは、建設に際して、空を飛ぶ雁の群れから地上に落ちて死んだ一羽を菩薩の化身とみなし、埋葬して塔を建てたというエピソードにちなむものです。 大雁塔は土と煉瓦でできており、建設当初は高さ60メートルの5層の塔でしたが、則天武后(在位690-705)の時代に大改造を行い、十層になりました。ただし、その後の戦乱などで上部が崩壊し、現在は七重の塔になっています。高さ64.5メートル(塔本体59.9メートル+土台4.6メートル)の雄大な姿は、現在、西安のランドマークになっており、最上層のアーチ型の窓から見る眺めは西安随一の絶景なのだそうです。 ベージュのバックに墨一色で印刷された切手は、すっきりとしたしあがりで、いかにも中国風の雰囲気が漂っていて、なかなか良い感じの1枚に仕上がっているのではないかと思います。 * なお、4月に出た第1回目では京都の紫宸殿を取り上げたのですが、こちらは以前、こんな記事を書いたことがあるので、特にこのブログではご紹介しませんでした。あしからず、ご了承ください。 |
2006-05-10 Wed 23:47
今日(5月10日)からバードウィークが始まったということなので、何か野鳥関連のものはないかなと思って探してみたところ、こんな1枚が机の上に転がっていました。
この切手は、1940年6月から7月にかけて、“紀元2600年”の祝賀のために皇帝溥儀が日本を訪問したことを記念して、満洲国が発行したものです。 “日満一体”を国是としていた満洲国では、日本の紀元2600年にあわせて天照大神を建国の元神として迎え、建国神廟を造営することになっていました。そして、そのためのパフォーマンスとして、皇帝溥儀が日本を訪問し、直接、昭和天皇から三種の神器を受け取るということが企画されます。これに対して、日本側、特に、天皇本人はもとより、宮内庁や神道関係者は、異民族である満洲国の皇帝が日本の民族宗教である神道を祀ることに違和感を感じ、困惑を隠しませんでしたが、最終的には、「満洲国側がそこまで言うのなら勝手にどうぞ」というニュアンスで建国神廟の造営を黙認。剣や鏡を訪日の“記念品”として溥儀に送りました。 さて、今回の皇帝訪日に際して記念切手を発行することが決定されると、切手発行の実務的な処理を担当する郵政総局郵政処企画科は、宮内府、総務庁弘報処、満洲帝国国立中央博物館、協和会中央本部弘報科、満洲事情案内所、日満文化協会、日本海軍武官府などの協力を得て、デザイン制作のための資料を収集。洋画家の大田洋愛によって、満洲国の軍艦旗と鶴を描くデザインが制作されました。 この画題が選ばれたのは、1935年4月の最初の皇帝訪日(このときのことについてはこちらをご覧ください)の途中で、 つがいの鶴が皇帝溥儀のお召し“比叡”の上空に飛来したことをとらえ、溥儀は「禽獣にいたるまで日満両国の親善を喜ぶものにして、天地の気と人と物と自ずから相通ずるものあり」と発言したというエピソードにちなむんだものです。なお、切手では、鶴とともに、満洲国の軍艦旗と日本の海軍旗章の一つである長旗を配することで、鶴が“比叡”の上空に飛来したことが表現されています。 切手の原画制作を担当した太田洋愛は、後に植物画家として大成し、“日本のボタニカルアートの父”とまで称された人物ですが、当時は満洲国の民政部嘱託の画家として、満洲国国定教科書の挿絵を担当していました。 2回に及ぶ皇帝溥儀の訪日については、昨年刊行した『皇室切手』でも触れましたが、現在制作中の切手で満洲国の歴史を読み解こうという企画の本では、『皇室切手』には収め切れなかった内容も大幅に加筆しています。満洲の本は、なんとか、今年9月の満洲事変75周年には間に合わせたいと思って、現在、鋭意制作中です。刊行が近くなりましたら、またこのブログでもご案内申し上げますので、よろしくお願いします。 |
2006-05-06 Sat 22:19
今日は東京・目白の切手の博物館で開催中の<テーマテーマ収集グッド10!>の会場で、ギャラリートークを行ってきました。内容は、1970年の大阪万博にあわせて発行された記念切手帳で、会場に展示してある下の画像のマテリアル(クリックで拡大されます)を使って、その製造工程などをお話しました。お集まりいただきました皆様には、この場を借りてあらためてお礼申し上げます。ただ、口頭の説明ではいささかわかりにくいという声も若干ありましたので、このブログでも、ちょっと復習的に説明しておきましょう。
*画像は第2次発行のものです。第1次発行分の画像は、こちらをご覧ください。 万博の切手帳は、万博の記念切手のうち、7円切手5枚、15円切手・50円切手各一枚を組み合わせ、中央部で2つ折りにして表紙に貼り付けた形態となっています。切手帳の周囲はストレートエッジ(目打を穿孔しない裁ち落しの状態)になっていますので、切り離して単片にしてもシート切手とは容易に区別することができます。 切手帳は開いた状態で、縦の長さは7円切手5枚分で、中央の余白は切手1枚分のスペースになっています。このため、下の図のように(出典は『切手』1970年4月27日号です)、輪転機に給される巻取紙を横断する方向にペーンの長辺が来るように並べ、連続櫛型2段抜きで目打の穿孔を施すというのが基本的な製造方法となります。(まぁ、単純化すると2段ずつ|_|_|_|といった感じの目打針を打っていくと考えてください) その際、表紙を付けないペーン(切手帳の中身の切手部分)のみを印刷するのであれば、印刷のシリンダー1本で切手帳10冊分を連続して刷っていけばよいのですが、今回は表紙を付けてから1冊ずつ裁断していくという作業が入るため、途中で位置あわせのスペースを設ける必要が生じます。 このため、4ペーン連続の状態のものをふたつ並べて中央に1枚分の余白部分を挿入したうえで、その余白部分に裁断用のトンボ類を入れ、ここで切り離して枚葉紙(巻いていない状態の紙)の状態にしたものをトンボであわせて表紙を貼りこみ、最後に4分割するという手法が取られました。 一方、目打に関しては、連続櫛型2段抜きの目打枠を切手帳用にするため、不要の目打針が抜かれました。その際、50円切手の側は全て目打針を外すので問題ないのですが、7円切手の側は、上端部分で縦の目打針を残すという発想で目打針を組み立てると目打は完成した切手帳の上部へ突き抜ける状態となり、横の目打針を全て外すという発想で目打針を組み立てると目打穴は突き抜けない状態となります。上の図では、右側が目打の状況を示したものになります。 実際の作業では、当初つくられた切手帳は目打が上部へ突き抜けていますが、途中から、目打の突き抜けていないものが製造されるようになっています。おそらく、作業効率の点で改善が図られたためでしょう。 さて、今回ご紹介した未裁断シートの現物を展示している<テーマテーマ収集グッド10!>の会期は、明日(7日)までです。なかなか、表に出てくるマテリアルではありませんので、ご興味をお持ちの方は、是非お見逃しなきよう! |
2006-05-05 Fri 22:11
今日は子供の日。というわけで、子どもの姿が見えるマテリアルということで、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、清朝末期の幼帝・溥儀、すなわち宣統帝の家族写真として最も有名な1枚を取り上げた絵葉書で、北京からベルギー宛に送られたものです。 映画「ラストエンペラー」のモデルとなった愛親覚羅溥儀は、1906年、北京の醇王府に生れました。父親は光緒帝の弟・醇親王(載澧)、母親は大学士(皇帝の顧問官)栄禄の娘・瓜爾佳氏でした。 1908年10月21日、光緒帝が亡くなると、清朝の最高実力者・西太后は溥儀を皇位継承者に決定。これにより、溥儀は父を摂政として三歳で即位し、年号は宣統と改められました。この年号には、「清朝歴代祖先の輝かしい文武の功績を宣揚し、清朝が万世一系の統治を続けられるように」との願いが込められていたといわれています。 さて、この絵葉書のものになった写真は、溥儀が宣統帝として即位する以前に撮影された家族写真で、写真の右側に、推定2歳の彼が立っています。中央の椅子に座っているのが父親で後に溥儀の摂政となる醇親王、抱かれている幼児が弟の溥傑です。 19世紀の末から20世紀初頭にかけて、絵葉書は世界的なブームとなり、各国貴顕人士の肖像は絵葉書の格好の題材としてもてはやされていました。そうした風潮の中で、今回の家族写真やそこから宣統帝・溥儀の部分のみを取り出して絵葉書としたもののが数多く作られ、流通しています。 さて、溥儀ぼっちゃんは1909年に宣統帝として即位し、皇帝としての人生を歩み始めますが、即位から3年と経たない1911年10月には辛亥革命が起こって、清朝そのものが消滅してしまいました。 ちなみに、即位の大典の際、ぐずって泣き止まない“皇帝”に向かって父親で摂政の醇親王が「もうじき終わるからね」となだめたというエピソードが残っていますが、まさに、その通りになったというわけです。 何日か前の日記にも書きましたが、今年の秋に満洲国を題材とした単行本を出す予定で、現在、鋭意作業を進めているのですが、その過程で出てきた“子供”関連のマテリアルというわけで、ここにご紹介してみました。 *イベントのご案内 明日5月6日(土)、午前11時からと午後2時30分からの2回、東京・目白の切手の博物館3階の<テーマ収集グッド10>会場にて、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ・トークを行います。お題は、本の表紙にもなった万博記念に発行された切手帳。切手帳の製造工程といった通好みの話から、切手帳をめぐる当時の収集家の泣き笑い騒動記まで、盛りだくさんの内容でお届けする予定ですので、皆様のお越しをお待ちしております。(午前・午後のトークは同内容です。また、展示会場への入場料が必要となりますので、あらかじめご了承ください) |
2006-05-04 Thu 23:23
アフリカを歴訪中の小泉首相が、ガーナで野口英世が使っていた研究室を訪れた際、アフリカの医療に貢献した研究者を対象に“野口英世賞”を創設する意向を表明したと新聞に出ていました。というわけで、野口英世関連の切手ということで、今日はこんな1枚を持ってきました。
この切手は、1976年にエクアドルが発行した“野口英世生誕100年”の記念切手ですが、大きさが9・5センチ×11・4センチもあり、実質的には小型シートとみなしても良いでしょう。とにかく、野口英世関連の切手の中では、一番インパクトのある1枚ではないかと思います。(画像はクリックで拡大されますが、とにかくデカイです) 1913年、麻痺性痴呆(通称・脳梅毒)患者の組織内にトリポネーマ・パリドウムを発見して梅毒と麻痺性痴呆の因果関係を証明したことで、一躍、世界的な細菌学者となった野口は、1918年7月、“黄熱病”が猛威を振るっていたエクアドルのグアヤキル市に派遣されます。そして、赴任早々、病原体を“発見”し、ワクチンを製造しました。 野口の発見したのは、現在では、黄熱病のウィルスではなく、黄熱病とよく似た症状のワイル氏病の原因となる細菌・レプトスピラであったと考えられていますが(ただし、これは、当時の顕微鏡の精度では黄熱病の病原体を発見することができなかったためで、必ずしも野口個人にのみ責任を帰することはできないでしょう)、野口のワクチンにより、エクアドルでは“黄熱病”の患者が激減。このため、彼はエクアドルを救った医学の英雄として、エクアドル名誉軍医外科部長、キト・グアヤキル両大学名誉医学博士号の称号を贈られました。 しかし、当然のことながら、野口のワクチンは、本来の黄熱病には全く効果がなく、1928年、研究のために滞在していたアフリカのアクラで黄熱病に感染して殉職したのは広く知られている通りです。 黄熱病の発見という点では業績を残せなかった野口ですが、エクアドルでは、現在もなお野口の功績を称え、キト市内に博士の胸像が建てられているほか、「野口英世通り」という名の通りもあるほどで、そのことが、こうした切手の発行にも繋がったのは間違いありません。 ところで、僕が読んだ新聞記事には、件の研究室には、母親からの手紙が展示されていたとのことですが、どんな切手が貼られ、どんな消印が押されているんでしょうね。当時の日本からアクラ宛の郵便物なんて、そうそうお目にかかれるものではありませんから、僕としては、手紙の文面よりも、そっちのほうがよっぽど気になります。 なお、野口の母親からアメリカ滞在中の野口宛の手紙は、教科書にも取り上げられている有名なもので、こちらについては、福島県の野口英世記念館でもレプリカがお土産として売られています。アクラの展示品は、まさか、その“お土産”ではないと思いたいのですが…。 *イベントのご案内 5月6日(土)、午前11時からと午後2時30分からの2回、東京・目白の切手の博物館3階の<テーマ収集グッド10>会場にて、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ・トークを行います。お題は、本の表紙にもなった万博記念に発行された切手帳。切手帳の製造工程といった通好みの話から、切手帳をめぐる当時の収集家の泣き笑い騒動記まで、盛りだくさんの内容でお届けする予定ですので、皆様のお越しをお待ちしております。(午前・午後のトークは同内容です。また、展示会場への入場料が必要となりますので、あらかじめご了承ください) |
2006-05-02 Tue 23:29
今日は八十八夜。というわけで、そのものズバリ茶摘みの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
この切手は1949年11月に発行された5円切手で、見ての通り、茶摘みの場面が取り上げられています。 当時の日本の通常切手は、戦後復興にむけての国民の労働意欲をかきたてるため、重要産業で働く人々の姿を取り上げたデザインが取り上げられており、収集家の間では“産業図案切手”と総称されています。 額面5円の切手は、当初は炭坑夫のデザインでした。(この切手の画像と解説はこちらをご参照ください)ところが、1949年5月日に郵便料金の値上げがあって、書状の基本料金が5円から8円になったことに伴い、炭鉱夫のデザインは8円切手にそのまま横滑りし、その余波で5円切手のデザインが変更されることになり、茶摘みが切手に取り上げられることになったというわけです。 なお、この切手が発行された1949年11月の時点で5円という料金は、外国宛の印刷物(50gまで)料金でした。当時は、外国宛印刷物用の料金の切手は緑色とするという万国郵便連合(UPU)の規定が活きていましたから、緑色にピッタリくる題材ということも、茶摘みがデザインとして取り上げられた理由の一つかもしれません。 なお、明治から大正にかけて生糸とならんで日本の主要な輸出品のひとつであった茶は、第一次大戦を契機に、ヨーロッパでのマーケットを喪失。このため、日本茶業界は日本国内のマーケット拡大に活路を求め、彼らの努力の甲斐あって、日本国内で煎茶が急速に普及することになります。もちろん、切手の発行された1949年の段階でも、日本茶産業の主要なマーケットは海外ではなく日本国内です。 ということは、茶摘みの切手で日本茶産業をどれだけアピールしても、この切手が貼られた郵便物を受け取るであろう外国人には、その意図は全くといってよいほど伝わらなかったのではないでしょうか。もっとも、この切手の場合、本来の発行目的に沿って外信印刷物に使われたケースはあまり多くはないようですので、メディアとしての効果を云々する以前の問題と言ってしまえばそれまでなのですが…。 *イベントのご案内 5月6日(土)、午前11時からと午後2時30分からの2回、東京・目白の切手の博物館3階の<テーマ収集グッド10>会場にて、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ・トークを行います。お題は、本の表紙にもなった万博記念に発行された切手帳。切手帳の製造工程といった通好みの話から、切手帳をめぐる当時の収集家の泣き笑い騒動記まで、盛りだくさんの内容でお届けする予定ですので、皆様のお越しをお待ちしております。(午前・午後のトークは同内容です。また、展示会場への入場料が必要となりますので、あらかじめご了承ください) |
2006-05-01 Mon 23:31
今日(5月1日)はメーデー。というわけで、“労働者”ネタで何かないかなと思って探してみたら、こんなものが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)
このカバー(封筒)は、1938年8月、市民戦争下のスペイン・バルセロナからキューバのハバナ宛に差し出されたものです。 1936年7月、フランコの叛乱によって、フランコ側と共和国側の内戦(市民戦争)に突入したスペインでは、両陣営がそれぞれ、自らの支配の正統性を示すため、独自の切手を発行し、支配下の住民に使用させていました。 このカバーの差出地であるバルセロナは、1939年1月まで、共和国側の支配地域にあり、共和国側の郵政が発行した“スペイン共和国(Repubulica Espanola)”表示の切手が使われていました。 カバーに貼られている切手のうち、黒色のものと青色のものは「サグント(バレンシア近郊の都市)の労働者のために」と題されており、左翼政権である共和国側のイデオロギーと合致するような内容です。一方、右上の赤い切手は赤十字の寄付金つき切手で、負傷兵を運ぶ看護婦が描かれています。また、カバーの右側は検閲によって開封された痕跡があり、「スペイン共和国 検閲済」の印も押されています。これらが組み合わさって、このカバーは市民戦争時の状況を生々しく伝える好材料になっていると思います。 スペイン市民戦争の際には、共和国側・フランコ側双方が入り乱れてさまざまなローカル“切手”が作られたほか、検閲や各種スローガンの表示など、郵便の面でもいろいろと面白いモノが生み落とされています。それらについては、3月に刊行した拙著『これが戦争だ!』(ちくま新書)でも、簡単ではありますが、まとめてみましたので、ご興味をお持ちの方はご覧いただけると幸いです。 *イベントのご案内 5月6日(土)、午前11時からと午後2時30分からの2回、東京・目白の切手の博物館3階の<テーマ収集グッド10>会場にて、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ・トークを行います。お題は、本の表紙にもなった万博記念に発行された切手帳。切手帳の製造工程といった通好みの話から、切手帳をめぐる当時の収集家の泣き笑い騒動記まで、盛りだくさんの内容でお届けする予定ですので、皆様のお越しをお待ちしております。(午前・午後のトークは同内容です。また、展示会場への入場料が必要となりますので、あらかじめご了承ください) |
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
|