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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 マレー語とタイ語
2006-05-31 Wed 19:02
 今日は何の日~毎日が記念日の5月31日の項を見ていたら、「1943年 御前会議で大東亜政略指導大綱を決定。ビルマ・フィリピンの独立、マレー・オランダ領インド(インドネシア)の日本領化など」という1行を見つけました。

 というわけで、ちょっとマニアックな話題ですが、現在開催中の世界切手展<Washington 2006>に出品中の作品のなかから、こんなものを引っ張り出してみました。(画像はクリックで拡大されます)

タイ占領下アロスター宛

 「大東亜政略指導大綱」というのは、ひとことで言ってしまうと、1943年の時点で日本の勢力圏内にあった地域をどう処理するのか、という方針を決めたもので、タイに関しては、日本の戦争への協力を得るため、日本軍占領下のマライ北部、ケダー、ケランタン、トレンガヌ、ペルリスの4州(タイは、これらの地域を自国の領土として、長年、英領マライに返還を求めていた)を割譲することが決められ、1943年10月、実行に移されました。

 これに伴い、現地で使用するために、タイの国名表示をした切手・葉書が製造され、1944年1月から使用されたことは以前の記事でもご紹介したところです。

 これに対して、今日ご紹介している葉書は、マレーのペナンからアロスター宛に差し出されたもので、一見、何の変哲もない葉書にみえますが、宛先地の表示が、“ケダー(クダ)州アロスター”ではなく、“サイブリーのアロスター”となっているところがミソです。すなわち、この地がタイ領に編入されたことに伴い、地域名もマレー語のケダーから、タイ語のサイブリーに変更されているというわけです。

 今回の展示では、以前の記事でご紹介した葉書と今回の葉書を並べて、タイ占領下のアロスター発着の郵便物を示してみましたが、リーフの作り方としてはちょっと地味だったかもしれません。

 本音を言うと、タイ占領下のケランタン州で発行されている切手を入れたかったのですが、どういうわけか、その切手には縁がなくってなかなか入手できずにいます。昨日の記事でグチ交じりに書いた長崎の原爆関連のマテリアル同様、気長にチャンスを待つしかなさそうですね。

 それはそうと、来年(2007年)はタイとマレーシアでアジア切手展が開催されるとか。まぁ、おそらく開催地は万国とクアラルンプールなんでしょうが、どうせなら、アロスターでやってくれないかなぁ。あの町には一度行ったことがあるんですが、なんとなく雰囲気がよくって、僕は気に入ってるものですから…。

 * 米国滞在中の5月31日から6月4日にかけて、ネットの接続環境が悪く、記事を書けるものの、アップできたりできなかったり、という状況が続いていました。このため、5日の帰国後、まとめての更新となりました。あしからず、ご了承ください。

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 ヒロシマ・メモリアル
2006-05-30 Tue 23:33
 昨日(29日)は5月の最終月曜日ということで、アメリカはメモリアル・デイ(この日は戦争で亡くなった全ての人への慰霊祭の日)のお休みでした。というわけで、今回のワシントン展に出品している作品の中からは、この1点をご紹介しましょう。ホントは昨日気がついて日記のネタにすればよかったのですが、まぁ、その辺は地元の人間ではないご愛嬌ということで勘弁してください。(画像はクリックで拡大されます)

広島切手

 これは、1949年8月に発行された“広島平和記念都市建設”の記念切手で、英語圏では“Hiroshima Memorial"と通称されているものです。

 原子爆弾によって潰滅した広島の復興に関して、広島市が具体的な復興計画を決定したのは1946年11月のことでしたが、この計画を実現するためには、国庫補助金の特別枠設定と旧軍用地の無償譲渡が必要とされていました。

 しかし、国は、全国に110を越える戦災都市があるなかで広島を特別扱いすることに難色を示したほか、旧軍用地の譲渡に関しては国有財産処理法がネックとなり、このプランの実現は困難とみられていました。

 このため、1949年2月、広島市は広島原爆災害総合復興対策に関する請願運動を開始します。そして、その過程で、議員立法による特別法の制定がはかられ、同年5月11日、「広島平和記念都市建設法」が国会で成立。同法は、7月7日の住民投票を経て、原爆忌にあたる8月6日に公布されました。

 同法の公布に先立って住民投票が行われたのは、日本国憲法第59条に「一つの地方公共団体のみに適用される特別法は法律の定めるところによりその地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ国会はこれを制定することができない」と規定されているためです。

 「広島平和記念都市建設法」は、同時に国会で成立した「長崎文化都市建設法」とともに、「日本の立法史上初の一地方公共団体のみに適用される特別法」で、同法の制定により、広島・長崎の両都市には、他の戦災都市とは別に、特別都市建設事業費の特別措置が講じられました。また、同法の施行に伴い、公園緑地、運動場、上下水道、ごみ焼却場、小中学校等の用地として旧軍用地の広島市への無償譲与も可能となり、財政難から停滞していた復興事業はようやく軌道に乗ることになります。

 こうした特別法制定運動の過程で、広島市からの申請を受けて発行されたのが今回の記念切手で、当初は、印面上に英文(詳細は不明だが、おそらく、No More Hiroshimaの文字が想定されていたものと考えられる)が入れられることも企画されていましたが、途中で沙汰止みとなっています。

 切手そのものはすぐに手に入る安価なものなので、展覧会に出品した作品では下辺の目打漏れというちょっとひねったモノを並べてみました。本音をいうと、広島の原爆がらみのマテリアルはこんなモノあんなモノもあるので、“長崎文化都市”の記念切手でこの類のものを入れてバランスを取りたかったところですが、今回は間に合いませんでした。まぁ、気長にチャンスを待つとしましょうか。

 なお、今日ご紹介した切手の詳細についてご興味をお持ちの方は、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅰ)濫造濫発の時代 1946-1952』(日本郵趣出版)をご覧いただけると幸いです。ちなみに、プロフィールの画像は、シリーズ最新作『(解説・戦後記念切手Ⅳ)一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』です。こちらもよろしかったら、ぜひどうぞ。

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 珊瑚海のスケッチ
2006-05-29 Mon 21:59
 インドネシアで大きな地震があったばかりなのに、トンガとパプアニューギニアでも別の大きな地震が起こったとか。それなら、ということで、ワシントンで開催中の世界切手展<Washington 2006>に出品中の作品の中から、こんなものをお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

珊瑚海スケッチ

 これは、1967年にパプア・ニューギニアが発行した“太平洋戦争25周年”の記念切手のうち、珊瑚海海戦を取り上げた50セント切手のオリジナル・スケッチです。ちなみに、実際に発行された切手はこんな感じ(↓)です。

珊瑚海・切手

 世界切手展の出品作品はさまざまな部門に分かれていますが、僕の作品 Japan and the 15 Years' War 1931-1945 はテーマティク(切手や郵便物であるストーリーを再現・再構成する部門)という部門になります。

 テーマティクの作品では、展示しているマテリアルの多様性が審査の上で重要なポイントになってくるので、切手や郵便物だけではなく、消印や試刷、見本やエラーなど、ありとあらゆるモノを集めてくる必要があります。このため、僕の作品でもできるだけ展示に使うマテリアルにバラエティを持たせるようにしているのですが、この手のスケッチ類なんかが入ると、作品全体のインパクトが強まるんじゃないかと思います。

 1年ぐらい前、オーストラリアの某オークションにデザイナーのスケッチブックが1冊丸ごと売りに出されて、今日ご紹介しているスケッチもその中に含まれていた1点です。いままでなかなかお披露目の機会がありませんでしたが、今回の展覧会でようやくデビューさせてやることができました。

 それにしても、珊瑚海って綺麗なんでしょうねぇ。一度行って見たいものです。

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 占領下のバリ
2006-05-28 Sun 17:27
 今日もネットのトップニュースはジャワの地震でした。というわけで、昨日に引き続き、ワシントンで開催中の世界切手展<Washington2006>(昨日、無事に開幕しました)に出品している作品の中からインドネシアがらみのモノとして、こんなモノを引っ張り出してきました。(画像はクリックで拡大されます)

飛行機献納運動

 これは、太平洋戦争中、日本軍占領下のバリ島シンガラジャからジャワ島スラバヤ宛に差し出されたカバー(封筒)で、“戦闘機献納運動”の記念印が押されています。

 1942年1月11日、日本軍はボルネオ島北部のタラカンとセレベス島北部のメナドに上陸。以後、島々の占領を進め、3月20日にオランダ領東インド(蘭印。現インドネシア)全地域の占領を占領下に置きました。

 これを受けて、蘭印地域のうち、スマトラ島とジャワ島をのぞく地域(具体的には、ボルネオ島の旧オランダ領地域、セレベス、モルッカ諸島、小スンダ列島、西ニューギニアなど)は海軍が占領行政を担当することになり、セレベス島のマカッサルに南西方面海軍民政府本部が設置され、その下部組織としての海軍民政部がマカッサル(セレベス島)、バリックパパン(ボルネオ島。後に島内のバンジェルマシンに移転)、アンボン(後にバリ島のシンガラジャに移転)の三ヶ所に設けられ、現地の占領行政を担当することになります。

 こうした海軍の占領地区では、占領当初、おおむね、接収した蘭印の切手に“大日本”の文字と海軍を示す錨を加刷した切手が使われていましたが、1943年8月以降(一部は7月から)、海軍民政府独自の切手が使われるようになります。今日のカバーに貼られている切手は、そうした海軍民政府の切手です。

 さて、満州事変以降、日本国内では国防献金を集めて陸海軍に戦闘機を献納するキャンペーンが断続的に行われていましたが、日本軍占領下のバリでもこのような記念印が使われていたところを見ると、同様の運動が占領地においても行われていたことがわかります。現在ではリゾート地のイメージが強いバリ島ですが、こういう時代もあったのですね。

 なお、記念印では、運動の期間が“昭和19年10月1日から11月31日”となっていますが、まぁ、この辺はご愛嬌でしょう。

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 蘭印での開戦
2006-05-27 Sat 18:05
 先ほどニュースを見ていたら、ジャワ島で大きな地震があって大勢の死者が出たとか。ジャワ島というと、どうしても、僕なんかは、いわゆる太平洋戦争中の日本軍の占領とその前後のことを連想してしまうのですが、そういうからみのものとして、今日はこんなモノをご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます) 

バタビアの軍事郵便

 このカバー(封筒)は、太平洋戦争の勃発直後、オランダ領東インド(蘭印、現インドネシア)のジャワ島はバタヴィア(現ジャカルタ)からハワイのホノルル宛に差し出されたものです。

 いわゆる太平洋戦争は、1941年12月8日、日本がアメリカ・イギリスに対して宣戦布告し、両国も日本に宣戦布告して始まりましたが、これを受けて、12月10日、オランダも日本に宣戦を布告し、蘭印も日本との戦闘体制に突入します。首都のバタビアでは若者が徴兵され、野戦郵便局の活動も本格的にスタートしましたが、このカバーもそうしたバタビアの軍事郵便局から差し出されたものです。

 画像ではご紹介していませんが、カバーには、ホノルル在住の女性(文面からすると恋人か)に宛てて、日本軍の真珠湾攻撃を非難するとともに、彼女の無事を祈っている内容の手紙が同封されていました。

 切手は当初、ペンで抹消された後、バタビアを示す“A”の文字の入ったオランダの野戦郵便局の消印が押されています。おそらく、郵便物を引き受けた時点では、野戦局の消印が間に合わず、とりあえずペンで切手を抹消しておき、あとから野戦局の消印を押したものと考えられます。

 もっとも、開戦により郵便物を運ぶルートも途絶してしまったため、このカバーは実際にはホノルルに届けられることはなく、差出人に返送されました。そして、裏面には、そのことを示す1942年1月1日の印も押されています。

 その後、1942年3月1日、日本軍はジャワ島への攻撃を開始。早くも同月9日には、全島を占領し、おそらく、このカバーの差出人も日本軍の捕虜になったのではないかと思います。

 さて、いよいよ今日(27日)から、アメリカ・ワシントンDCのコンベンションセンターで世界切手展<Washington 2006>がスタートしました。僕も、新潮新書の『切手と戦争』の元になったコレクションJapan and the 15 Years'War 1931-1945 を出品しています。今日ご紹介したカバーもそのうちの1点ですが、明日以降も、今回の作品の中からいくつかのマテリアルを選んでご紹介して行きたいと思います。

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 『郵趣』今月の表紙:米国ツェッペリン切手
2006-05-26 Fri 19:41
 相互リンクをお願いしている切手市場 副管理人のひとりごとを拝見していたら、僕がアメリカ行きでバタバタしている間に『郵趣』6月号が出来上がっていたようです。

 で、僕自身はまだ雑誌の現物を見ていないのですが、例によって表紙の切手について簡単なコラムを書いていますので、ちょっと補足しながら、このブログでもご紹介してみましょう。(画像はクリックで拡大されます)

      ツェッペリン

 1930年5月、ドイツの飛行船グラーフ・ツェッペリン号はドイツのフリードリヒスハーフェンとアメリカ大陸を結ぶ最初の周遊飛行を行いました。これにあわせて、米国郵政は飛行船に搭載する郵便物に貼付するための航空切手3種類を発行しました。これが、米国航空切手の名品として名高い“ツェッペリン切手”です。

 切手は、65セント(米国から欧州までの葉書の片道料金)、1ドル30セント(片道の書状料金および葉書の周遊料金)、2ドル60セント(書状の周遊料金)の3種類。順に、大西洋上を東へ進む飛行船、大西洋を挟む地図と飛行船、地球を背景に西側へ向かう飛行船、が描かれていますが、僕の個人的な好みでは、画像に取り上げた2ドル60セントが一番できが良いように思います。

 3種の切手の発行枚数は各100万枚。1930年4月19日にワシントンDC局と郵趣代理部でのみ売り出されましたが、同21日から全米各地の郵便局でも発売されました。また、郵便局での発売期間は6月7日までだったものの、郵趣代理部では6月30日まで申込を受け付けています。ただし、売れ残り在庫は全て破棄されましたので、現実に市中に出回った数量は100万枚を下回っています。

 ちなみに、アメリカ郵政は、1933年にツェッペリン飛行船が飛来した時にも同様の切手を発行していますが、こちらは“Baby Zeppelin”と呼ばれているのがなんとなくカワイイですね。

 さて、今回は3種のツェッペリン切手のうち、2ドル60セントのみを画像で取り上げましたが、残りの2種類も拡大版の迫力ある写真を見てみたいという方は、是非、『郵趣』6月号を手にとってご覧いただけると幸いです。

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 朝鮮は敵国の一部
2006-05-25 Thu 23:55
 今日からワシントンDCでの国際切手展に出品者として参加するため、アメリカに滞在しています。作品の内容は、例によって新潮新書の『切手と戦争』の元になった「昭和の戦争と日本(Japan and the 15 Years' War 1931-1945)」です。

 昨日の日記でもちょっと書きましたが、今回は日程の都合で大韓航空で成田から仁川経由でワシントン着というフライトになりました。で、昭和の戦争に絡めて、日本・韓国(朝鮮)・アメリカという三題噺になりそうなネタとしてご紹介したいのが、こんなカバー(封筒)です。(画像はクリックで拡大されます)

      敵国宛返送便(朝鮮)

 1910年以来、日本の植民地支配下にあった朝鮮は大日本帝国の一部として日本の戦争に動員されていました。日中戦争が本格化すると、朝鮮内では日本の官憲の弾圧もあり、独立運動の活動家が活動することは極めて困難となり、彼らは主として中国やソ連極東地域、アメリカなどに脱出。朝鮮の人々は、内心はともかく、建前としては日本の戦争に協力するという姿勢をとらざるを得なくなりました。

 今回ご紹介しているカバーは、そういう状況の下で、太平洋戦争初期の1942年、ニューヨークから朝鮮北東部の咸興宛に差し出されたもので、朝鮮宛の郵便物は“敵国ないしは敵国占領地宛”という理由で差出人に返送されたものです。当時の朝鮮の人が内心でどのように思っていようと、朝鮮は日本の一部ということ国際的な認識であったことをうかがわせます。

 ただし、太平洋戦争の勃発後、アメリカは“敵の敵は味方”と言うロジックで、李承晩らの反日独立運動を支援しはじめます。そして、1943年11月、日本敗戦後の東アジアの秩序が話し合われた米英中三国のカイロ会談では、中国の強い意向もあり、連合国として1943年11月のカイロ会談の結果、日本の降伏後に朝鮮を独立させる方針が決定されたものの、アメリカが(南)朝鮮政策についてなんら具体的なプランを組み立てることのないうちに、1945年8月、日本が降伏。朝鮮半島は新たな混乱の渦に放り込まれることになるのです。

 今回、ワシントン展に出品している作品には、今日のカバーは展示していないのですが、いずれ、朝鮮半島の現代史を題材にした作品を作る機会があったら、まずその最初に持ってきたいマテリアルだと考えています。

 *これからしばらく、滞在先のアメリカ東部時間にあわせての更新にしますので、アップされる時間に関して日本との時差が生じますが、ご容赦ください。

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 行ってまいります!
2006-05-24 Wed 13:01
児童画絵葉書

 私事で恐縮ですが、今週末27日から米国ワシントンDCで開催される世界切手展<Washington 2006>に出品者として参加するため、いまから、ワシントンに行ってきます。

 展覧会そのものは27日から開幕ですが、作品搬入の都合で25日に現地入りする必要があることから、今日、大韓航空で成田を発って、経由地の仁川で1泊した後、25日に現地に到着するというスケジュールになりました。なお、帰国は現地時間6月3日の会期終了後、作品を引き取ってからということになりますので、6月5日の夜になります。

 この間、ノートパソコンを持っていきますので、このブログも可能な限り更新していく予定です。ただ、なにぶんにも海外にパソコンを持っていくのは初めての体験で、無事、メール・ネット環境に接続できるかどうか、不安がないわけではありません。場合によっては、諸般の事情で、記事の更新が遅れたり、記事が書けなかったりする可能性もありますが、ご容赦ください。

 さて、冒頭に掲げた画像(クリックで拡大されます)は、いわゆる太平洋戦争中の1942年、逓信省が発行した「皇軍慰問ゑはがき」の1枚で兵士の出征場面を描いた児童画が取り上げられています。

 フィラテリストにとって国際切手展というのは最高の戦いの場ですから、ワシントンに乗り込む前に“行ってまいります”という気分を表現するつもりで、今日はこの1枚を持ってきてみました。別に、敵地に乗り込んで鬼畜米英と戦おうというわけではないのですが…。

 作品を提出してしまえば、後の判断は全て審査員任せなので、僕が泣いても叫んでも全く関係ないのですが、会期の終了後、作品ともども無事日本に「凱旋しましたっ!」といえるようになればいいなぁとは思っています。

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 クレタのポスト・ホルン
2006-05-23 Tue 23:53
 先日、相互リンクをお願いしているcbreakerの切手収集ダイアリーを拝見していたら、クレタ島でノルウェーのポストホルン(郵便ラッパ)の切手にそっくりなものが発行されていて驚いたという記事(本文はココです)が出ていました。

 取り上げられていた切手は、もともとは1901年にクレタ自治政府が発行した不足料切手(郵便料金の未納・不足分を徴収するために用いられる切手)で、イギリスのブラッドリー・ウィルキンソン社が制作したものですが、クレタ島の切手・郵便史の専門家であるFeenstraは、この切手はノルウェーの切手をパクって作ったものであるとあっさり断定しています。

 ところで、自治政府時代のクレタ島で発行されたポストホルンの切手というと、不足料切手の他にも、こんなかたちで使われていた公用切手も見逃すわけには行きません。(画像はクリックで拡大されます)

クレタ公用切手の使用例

 これは、1908年8月1日(消印上のユリウス暦では7月19日)にネアポリスから差し出された裁判所の召喚状で、自治政府の郵政が発行した“公用切手”が貼られています。

 クレタ島では、裁判所からの召喚状は、郵便配達夫が呼び出される人物本人に直接手渡しするものとされていました。この制度に用いるため、1908年1月、今回ご紹介しているような“公用切手”が発行されたわけですが、それ以前は、召喚状の送付にも一般的な普通切手がそのまま使われていました。

 切手は基本的に裁判所を中心とした公的機関が用いるものであったため、額面数字(今回の切手では10レプタ)を大書し、下にポストホルンを配するといった実用本位のもので色気も素っ気もないのですが、なんともいえない素朴な味わいが、ノルウェー切手をパクって作られた不足料切手と違って、なんともいい雰囲気をかもし出しているように感じられます。

 お騒がせ議員の杉村タイゾー氏が、自分のブログに代ゼミの先生の本から盗用したのどうしたのということが話題になっていますが、やっぱ、パクったモノってのはすぐに底が割れると言うことなんでしょうかねぇ。安易な方向に流れてしまいがちな僕も、ホント、気をつけないと。

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 チトー化
2006-05-22 Mon 23:02
 旧ユーゴスラビア連邦を構成していた6つの共和国のうち、最後まで国家連合を維持していたセルビア・モンテネグロ共和国のモンテネグロで、21日、独立の是非を問う国民投票が行われ、独立賛成派が小差で勝利したとのこと。これにより、旧ユーゴスラビア連邦は、完全に解体される可能性が高くなったようです。

 というわけで、今日はこんなカバーを1枚、持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ティトーのカバー

 このカバーは、1945年に旧ユーゴの首都であったベオグラードからアメリカ宛に差し出されたもので、チトーの肖像を描く切手が貼られています。消印の日付は何月なのか良くわからないのですが、裏面にはアメリカの11月18日・20日の到着印も押されています。

 第二次大戦中、枢軸諸国によって分割占領されていた旧ユーゴスラビア王国の地域では、ヨシップ・ティトー率いるパルチザンが国土の解放を進め、1943年11月には、はやくも臨時議会と臨時政府を樹立しています。その後、1944年10月にベオグラードを解放したティトーは、翌1945年3月、人民政府を樹立。同年11月には王制の廃止と人民共和国連邦の成立を宣言し、ここに、旧ユーゴが誕生することになります。

 今回ご紹介しているのは、まさにそうした社会主義政権としてのユーゴスラビア連邦の揺籃期に差し出されたものですが、すでに、チトーの肖像の切手が日常的に用いられているなど、彼の権力基盤が十分に確立されていた様子がうかがえます。

 旧ユーゴの存在は、チトーという強烈なカリスマがいればこそ、のものだったわけで、1980年にチトーが死去すると各地から不満が噴出。まずは、コソヴォで独立運動が起こり、ついでスロベニアで連邦からの分離を求める声が強まっていきます。さらに、クロアチアでは政府がセルビアに牛耳られていることへの不満があり、セルビアはセルビアで人口に比して自分達の権限が押さえ込まれていることへの不満が爆発するなど、情勢は次第に緊張していって、最終的にユーゴ紛争へと繋がっていったことは皆さんご存知の通りです。

 ちなみに、チトー(Tito)という名前は「お前(Ti)があれもこれ(to)もしろ」という横柄な文章から取られたものだそうです。とすると、「お前が全部やれ」といわれながら生活している僕なんかは、言葉の本来の意味での“チトー化”が進んでいる真っ只中にあるといえそうです。

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 モンゴル vs 日本
2006-05-21 Sun 23:57
 大相撲は優勝決定戦の末、白鵬が雅山を下して優勝したそうですね。朝青龍が怪我で休場でも、“次”がすぐに出てくるあたり、モンゴル勢は強いですねぇ。というわけで、手持ちのモンゴルがらみのモノの中から、こんなカバー(封筒)を引っ張り出してきました。(画像はクリックで拡大されます)

ハルヒンゴル20年・カバー

 このカバーは、1959年の“ハルヒンゴルの勝利20周年”の記念切手を左下に貼って差し出されたもので、封筒にも勝利を記念するマークが入っています。

 ハルヒンゴルというのは“ノモンハン”のモンゴル側の呼称で、ここでいう“勝利”とは、モンゴルが1939年のノモンハン事件で日本軍を撃退したということを意味しています。

 満洲の西部からモンゴルの支配地域にあたる外蒙古地区、それに内蒙古地区にかけての一帯は、もともと、モンゴル族が遊牧生活を営む草原地帯です。遊牧民の常として、モンゴル族は家畜を連れて自由に移動し、その結果として、無意識のうちに国境侵犯を繰り返しており、国境線は非常に曖昧でした。

 このため、満洲国の建国以前、ソ連とモンゴルがハルハ河流域の国境を河より三十キロほど東側に設定していたのに対して、中国側はハルハ河の中心線を国境とし、1932年に建国を宣言した満洲国も、この地の国境に関しては中国側の主張を踏襲しています。

 ところが、国境線についての根拠となる文書資料を見つけることができなかった関東軍は、1939年4月、「満ソ国境処理要綱」を示達し、過去の歴史的経緯などはとりあえず無視して現地の防衛司令官が国境を決めてしまうという、かなり乱暴な方針を決定してしまいました。

 そして、この要綱の示達からわずか16日後の5月11日、関東軍の第23師団はハルハ河流域で「モンゴル兵の“越境”を認めた」という理由で、モンゴル軍の撃退に向かい、いわゆるノモンハン事件が勃発するのです。

 ノモンハン事件が起こると、ソ連は1936年にモンゴルと結んだ相互援助条約に基づいて出兵。その後の経過はよく知られているように、ソ連・モンゴル連合軍と関東軍の間で熾烈な戦闘が展開され、日本軍はソ連軍の戦車部隊によって大打撃を受けてしまいました。

 一連のノモンハン事件の経緯については、日ソ両軍の衝突という視点で語られることが多いのですが、もともとはモンゴルと満洲国の国境紛争であったことも見落してはなりません。このため、モンゴルでは、ノモンハン事件を“ハルヒンゴル戦争”と称して、共産主義政権時代には、その節目の年の戦勝記念日には記念切手が発行されることもあり、今回ご紹介しているようなマテリアルが出来上がったというわけです。

 なお、当時のモンゴルはソ連の強い影響下におかれていましたから、切手のデザインも「ソ連とモンゴルの連携によって日本の侵略を撃退した」というような趣旨で組み立てられています。カバー右上に貼られている切手が、1956年に発行されたモスクワ=ウランバートル間の鉄道開通を記念して発行されたものというあたりも、当時のソ連とモンゴルの関係を象徴しているようで面白いですよね。

 それにしても、大相撲の日本人力士がモンゴル勢に歯が立たない状況がここのところ続いていますが、奮起を促すため、来場所以降は“リメンバー・ノモンハン”もしくは“リメンバー・ハルヒンゴル”といったスローガンでも掲げて応援してみましょうか。もっとも、そういうヤンキーまがいのことをやったら、「国技の品格を落とすから止めろ」と怒られるんでしょうけれど…。

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 チリのコロンブス切手
2006-05-20 Sat 23:58
 今日(5月20日)はクリストファー・コロンブスの命日だそうで、しかも、今年は彼が1506年に亡くなってから400周年とのこと。というわけで、南北アメリカを中心に世界各国から発行されているコロンブス切手のなかから、こんな1枚をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

チロのコロンブス切手

 南米のチリは1853年に最初の切手を発行しましたが、そのデザインはここに挙げた画像のように、コロンブスの横顔を描いたものでした。

 1853年に発行されたチリ最初の切手はロンドンで印刷されましたが、翌年にはサンチャゴで作られた切手も登場します。その後、切手はロンドンとサンチャゴの2箇所で作られたほか、用紙や透かし等にさまざまなバラエティがあるので、いろいろと集めて分類してみると、それなりに楽しめるだろうと思います。

 さて、歴史的事実としては、コロンブス本人はチリの地を訪れたことはないのですが、他の南北アメリカ諸国同様、チリでもコロンブスは“アメリカの発見者”として社会的に重要な存在ですから、切手のデザインに取り上げられたのも故なきことではないといえましょう。

 ただ、僕なんかの感覚からすると、最初の切手くらい、コロンブスじゃなくって、もっとチリと密接に結びついた題材にすればよかったのに、と思ってしまいます。とはいえ、「それじゃ、お前はチリと言って何を思い浮かべるのか?」と聞かれると、すぐに出てくるのはピノチェトの独裁政権とワインにアンチョビ(早く仕事を片付けて、一人でのんびり酒が飲みたい)くらいしかないのですが…。

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 サイゴンからホーチミンへ
2006-05-19 Fri 23:45
 “XXの日”というのは、何かとこじつけっぽい語呂合わせが多いので、今日(5月19日)あたりは“ゴイクン(ベトナム風春巻き)の日”にでも指定されているのかと思ったら、さすがに、そういう日はないようです。でも、今日はホーチミンの誕生日(1890年)なので、「まぁ、こんなモノを持ってきても罰は当たるまい」という気分で引っ張り出してきたカバー(封筒)が下の1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

南ベトナム共和国カバー

 これは、ベトナム戦争終結後の1976年5月、南ベトナム共和国の支配地域で差し出されたもので、同共和国の発行した切手が貼られています。

 1975年、サイゴンが陥落し、ベトナム共和国(いわゆる南ベトナム)が崩壊した後、南ベトナムは“南ベトナム共和国”の支配下に置かれます。同共和国を支配していた南ベトナム共和国臨時革命政府は、もともとは、ベトナム戦争下の1969年、北ベトナムのベトナム労働党の指示に基づいて秘密党員が樹立した地下政府で、南ベトナム解放民族戦線(いわゆるベトコン)の労働党員が主要なポストを独占していました。

 その後、臨時政府は正式な政府に発展しないまま、1976年7月1日に北ベトナムが南ベトナムを吸収するかたちで“ベトナム社会主義共和国”が樹立されると、消滅しています。

 南ベトナム共和国の切手は、かつて、未使用の単片や注文消しの使用済み切手なんかが日本でも盛んに出回っていましたが、ここに示しているような実逓カバー(実際に郵便に使われたカバー)を探そうとすると、案外、苦労するものです。

 今回ご紹介しているカバーは特別に珍しいものというわけではありませんが、統一ベトナムの誕生によって“ホーチミン”と改称される直前のサイゴン宛にホーチミンの切手を貼って差し出したというところが、ちょっと面白いかなと思っています。

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 南北の和解
2006-05-18 Thu 23:28
 昨日、在日本大韓民国民団(民団)と在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が和解したとのニュースをやっていました。

 まぁ、敵対していた組織が和解するというのは、一般論としていえば結構のことなのですが、こと民団と総連の和解に限っては、どうも手放しに喜ぶという心境にはなれません。そんなことを考えながら、引っ張り出してきたのがこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

南北共同声明25周年

 これは、1997年7月、北朝鮮が“南北共同声明”の25周年を記念して発行した切手の1枚です。

 1970年代初頭、東西の緊張緩和の流れの中で、1970年8月に韓国の大統領・朴正煕は南北間の“善意の競争”を呼びかけ、人的往来・文化交流など非政治問題の解決を先行させる案を発表。さらに、翌1971年9月からは、離散家族探しのための南北赤十字会談が26年ぶりに開始されました。

 こうした状況の中で、1972年7月4日、韓国の中央情報部長・李厚洛と北朝鮮の朝鮮労働党組織指導部長・金英柱との間で、朝鮮統一に関する7項目の基本原則についての合意が成立し、共同声明として発表されました。これが、いわゆる南北共同声明です。

 共同声明の内容は、祖国統一の原則として、①自主的統一、②平和的統一、③思想と理念、制度の差異を超越した民族の大団結を掲げており、赤十字等を通じた南北の話し合いが開始されました。

 もっとも、この南北接近の背景には、韓国・北朝鮮ともに内部体制を固めるための時間稼ぎという点で、朴正煕と金日成の利害が一致したという面があることは否定できません。すなわち、韓国では共同声明から3ヵ月後の10月17日に朴正煕の独裁権力を強化した維新体制が始まっていますし、北朝鮮でも金日成による反対派の大規模な粛清がほぼ同じ時期に進行し、金正日が後継者として急浮上しています。そして、両国ともに体制の基盤が磐石なものとなったところで、1973年に金大中事件がおこると、急速に南北和解のムードはしぼんでいくことになりました。

 今回の民団と総連の和解には、親北朝鮮の旗幟を鮮明に掲げる韓国のノムヒョン政権の意向が強く反映されていることはほぼ確実と見られています。となると、国内の求心力を高めるために、ことあるごとに日本バッシングに走るノムヒョン政権が、これまで以上に“反日”で北朝鮮とタッグを組むようになることが十分に予想されますから、なんとも憂鬱な話です。実際、韓国の統一相(北朝鮮政策の責任者)は、北朝鮮への配慮から、横田めぐみさんのお父上・滋さんには会おうとしなかったわけですし、韓国の国会議員の中には、滋さんに「拉致のことを言うなら、日本に強制連行された人たちのことを考えろ」という、信じられないような内容の書簡を送りつける者まで出てくる始末です。また、最近の民団が、北朝鮮との関係を配慮して、いわゆる北朝鮮への“帰国者”の脱北支援を手控えるようになっているのも気になるところです。

 そういえば、今日取り上げている北朝鮮の切手ですが、よくよく見てみると、竹島が韓国領とする地図が描かれており、この問題に関しては、立場は違えど朝鮮民族として日本の主張は絶対に認めないという姿勢がよく表れています。

 いずれにせよ、南北の和解それじたいは結構なことなのでしょうが、それが日本に対するネガティヴな感情を媒介としているとなると、我々としては、ちょっと頭の痛いところです。

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 外国切手の中の中国:東ドイツ
2006-05-17 Wed 23:43
 NHKラジオ中国語講座のテキスト6月号が出来上がりました。僕が担当している連載「外国切手の中の中国」、今月と来月は2回に分けて、ワールドカップ特集ということで、ドイツがらみのものを取り上げたいと思います。まずは、“ドイツ切手”で中国といえば定番中の定番モノというわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

東ドイツの毛沢東

 これは、1951年6月27日、東ドイツが発行した“独中友好宣伝”の切手の1枚で、木版画風の毛沢東の肖像が取り上げられています。

 第2次大戦後の東西の緊張が高まる中、ヨーロッパでは1949年9月7日、ドイツの西側占領地域でドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し。これを受けて、同年10月7日、ソ連占領地域では、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツは東西に分断されることになりました。

 同じ頃、アジアでは、東ドイツ成立のおよそ1週間前の1949年10月1日、北京では毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言。同年11月末に重慶を撤退した国民政府は、12月に台湾に亡命しています。

 こうして、中国とドイツは、ほぼ時を同じくして、分断国家の一方としての社会主義政権が誕生しました。ただし、建国間もない東ドイツを国家として承認したのがソ連圏諸国のみであったのに対して、新中国に関しては、当時の国連安全保障理事会の理事国11カ国に限っても、ソ連、英国、インド、ユーゴスラビア、ノルウェー等5カ国が早くも1950年1月の時点で国家として承認するなど、国際社会の認知という点では大きな差があります。

 もちろん、東ドイツと中国は建国当初から互いに相手国を承認していたわけですが、中国に対する東ドイツの承認にくらべて、東ドイツに対する中国の承認のほうが、当事者にとっては、はるかに重みがあったといってよいでしょう。

 1951年に東ドイツが発行した“独中友好宣伝”の切手は、まさに、そうしたことを踏まえて、東ドイツが中国との友好を謳いあげるために発行したものでした。

 なお、ある国との友好関係を謳いあげようとする場合、その国を代表する人物の肖像を切手に取り上げるということはしばしば観察される現象ですが、毛沢東が中国以外の国の切手に登場したのは、もちろん、これが最初のことです。

 まぁ、そういう小難しい理屈は抜きにしても、この切手は木版風の味わいがなんともいえない雰囲気をかもし出しており、単純に“良い切手”だと思います。

 東ドイツの発行した“独中友好宣伝”の切手は3種セットで、そのうちの2種類がここに挙げたのと同じデザインの毛沢東で、残りの1種類は“土地改革”の場面を描いたものですが、こちらもなかなか味のある切手です。

 NHKラジオ中国語に連載している「外国切手の中の中国」では、今日取り上げている毛沢東切手だけでなく、土地改革の場面を描いたものもあわせてご紹介しながら、東ドイツと中国の関係を眺めて見ました。ご興味をお持ちの方は、是非、チェックしていただけると幸いです。

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 5・16革命
2006-05-16 Tue 20:49
 今日は、朴正煕の軍事クーデター“5・16革命”が1961年に起こってから45周年にあたります。というわけで、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

5・16革命

 1960年4月、学生運動によって李承晩独裁政権が倒れると、ごく短期間の許政暫定政権を経て張勉政権が誕生しましたが、同政権の下で、韓国社会の混乱は悪化するばかりでした。すなわち、ポスト李承晩をめぐる権力抗争から政党は泥仕合を繰り返して政治が機能不全に陥ったことにくわえ、李承晩時代の清算に伴い、多くの財界人が不正蓄財法違反の対象者とされ、経済活動の停滞をもたらします。さらに、そうした中で政府が行った通貨切り下げと公共料金引き上げは、物価の高騰をもたらし、労働運動を激化させました。

 さらに、年が明けて1961年になると、慶尚北道と全羅南道を中心に約30万戸の絶糧農家が発生しつつあり、3ヵ月後には救済を必要とする農家が90万戸(全農家の4割)に達するであろうとの報道が韓国各紙でなされるようになっていました。完全失業者は政府発表でさえ130万人(米経済援助機構USOMの発表では300万人)にも達しており、韓国経済は危機的な状況に陥ります。

 それにもかかわらず、張勉政権は、2月8日、米側の一方的判断で援助を打ち切ることを盛り込んだ韓米経済および技術援助協定を調印。国民の憤激を買うという無策ぶりでした。

 さらに、前年来の親北派による“自主統一運動”は、1961年に入るとさらなる盛り上がりを見せ、3月22日には、ソウル市庁舎前で約1万5千名が集会を行って反共法とデモ規正法の制定反対、張勉内閣の即時退陣を要求。デモ隊が首相官邸と国会に押し寄せ多数の逮捕者を出す騒擾事件が発生します。さらに、5月に入ると、学生による「民族統一全国連盟発起人会」が南北学生会談を決議するなど、運動は急進化していきました。

 こうした状況でしたから、文民政権のあまりの無能ぶりに不信感を募らせた軍内では、朴正熙少将(後の大統領)を中心とする少壮将校が、クーデターの謀議を開始。1961年5月16日に発動したクーデターにより、張勉内閣を退陣に追い込み、朴正煕の時代が開幕するのでした。

 さて、今回ご紹介している切手はクーデターの発生からわずか1ヵ月後の6月16日には“5・16革命”の記念切手が発行されています。

 記念切手をデザインの制作から始めて印刷物として調製し、末端の郵便局まで配給して、切手発行の準備を整えるためには、通常、少なくとも2~3ヶ月はかかるといわれています。それゆえ、わずか1ヶ月でデザインを制作し、切手発行にまでこぎつけるということは、平時であっても非常に困難でしょう。

 したがって、今回の切手に関しては、事前におよそのデザインなどは叛乱側で用意しておき、クーデターの成功を確認した上で、ただちに切手の制作作業を韓国郵政と印刷局に行わせたものと考えるのが自然です。そういう目で見ると、日付と記念文字の入った切手の下の部分が、なんとなくたいまつを持つ兵士(その手つきもプロの絵にしてはどこか怪しげです)の胴体をぶった切って無理やりに押し込まれているように見えるのですが、気のせいでしょうかねぇ。
 
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 アラブの都市の物語:チュニス
2006-05-15 Mon 23:59
 NHKのアラビア語会話のテキスト6・7月号が出来上がってきました。僕の連載「切手に見るアラブの都市物語」ですが、今回は、ワールドカップの出場国であるチュニジアに敬意を表して、チュニスを取り上げました。その記事に使ったものの中から、今日は、テキストではスペースの都合で一部分しかお見せできなかったカバー(封筒)の全体像をお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

チュニス・イタリア局

 これは、1869年9月、チュニスに置かれていたイタリアの郵便局からジェノバ宛に差し出されたカバーです。

 19世紀に入ってヨーロッパ列強による植民地進出の波が北アフリカにも及ぶようになると、当時、チュニジアを支配していた王朝のフサイン朝は、税制改革や西洋式の諸制度の移入など、日本の明治維新にも似た中央集権化と近代化でこれを乗り切ろうとしました。しかし、急激な近代化はフサイン朝の財政を大きく圧迫し、結果的に、チュニジアの国家財政は破綻してしまいます。

 その結果、チュニジアの財政は、1869年、イギリス・フランス・イタリアの三国による共同管理下に置かれることになります。

 その後、近代化改革の是非をめぐって、1877年、保守派がクーデターを起こすと、列強はフランス、イタリアにチュニジアの自由権の承認。その後、1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が認められると、フランスによる本格的な侵攻が行われ 、1881年のバルド条約、1883年のマルサ協定によって、チュニジアはフランスの保護領となりました。

 さて、フランスが正式の保護領とするまでの間、チュニスにはフランスとイタリアの郵便局が設置されていました。そのうちのイタリア局では、イタリア切手が持ち込まれ、いろいろなタイプの郵便印が使われましたが、今回のカバーには、チュニスを意味する“235”の番号が入った菱形の印と“TUNISI /POSTE ITALIANE”(チュニス イタリア郵政)の文字が入った円形の印が押されています。

 チュニスは地中海の要衝ですし、歴史的にもカルタゴにまで遡ることができますから、“チュニスの歴史”なんてコレクションを作ったら、結構、面白いものができるかもしれません。学生時代の夏休みに数週間、チュニスの語学学校に通っていたことのある僕としては、自分の個人的な思い入れもあるので、いずれ挑戦したいテーマの一つではあります。

 ただ、そのためには、イタリア局のカバーも今回ご紹介したようなものではなくって、もっと消印がバッチリ読めるモノを手に入れないといけないのですが、それはなかなか難しそうです。

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 ロシアの母
2006-05-14 Sun 22:45
 今日は母の日。というわけで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ロシアの母

 これは、1941年8月、ソ連で発行された切手で、戦場へと向かう息子を送り出す母親と“英雄になりなさい!”とのロシア語のスローガンが入っています。

 この切手が発行されるよりも2ヵ月ほど前の6月22日、ドイツ軍はソ連領内への奇襲攻撃を開始し、いわゆる独ソ戦(ソ連側の呼称は“大祖国戦争”)がはじまりました。ドイツは、ドイツ軍300万を主力にイタリア・フィンランド・ハンガリー・ルーマニア軍も動員し、強力な戦車隊と航空機の援護のもとにソ連領に侵入。電撃戦によって快進撃を続け、10月初めにはモスクワの西方約60キロの地点にまで迫っています。

 この切手は、ドイツ軍がウクライナを席捲し、レニングラード、そしてモスクワへと迫りつつある中で、祖国防衛のために戦う若者の士気を鼓舞し、兵士として戦争に動員していくために発行された、典型的なプロパガンダ切手の1枚です。

 若者に対して戦場に行くよう呼びかけるキャンペーンのキャラクターとしては、アメリカが第一次大戦のときに作ったアンクル・サムのポスターが有名ですが、ソ連の場合は若者の尻を叩くのは“ロシアの母”になっています。

 マッチョな白人社会のアメリカが祖国愛を訴えるキャラクターとしてアンクル・サムのオヤジを持ってくるのに対して、“母なる大地 母なるロシア”の大地信仰が根強いロシア(ソ連)では、母親のために戦う=祖国のために戦うというイメージが国民に対して訴える力を持っていたということなのかもしれません。

 さて、3月にちくま新書の1冊として上梓した『これが戦争だ!』では、国民を戦争に駆り立てていくための手段として、切手や郵便がどのように使われてきたのか、さまざまな角度から読み解いてみました。また、今回の切手も含めて、旧ソ連のプロパガンダ切手や絵葉書(デザイン的に、なかなか興味をそそられるモノが少なくありません)もいくつかご紹介しています。ご興味をお持ちの方は、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。

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 切手の中の建設物:大慈恩寺大雁塔
2006-05-13 Sat 19:01
 この4月から、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』という雑誌で、「切手の中の建設物」という連載をやっています。で、今月は、こんな1枚を取り上げてみました。

大雁塔

 これは、1994年12月15日、中国が発行した「中国古塔」切手4種のうちの1枚で、西安の大慈恩寺大雁塔が取り上げられています。

 西暦648年、当時、唐王朝の皇太子であった李治(後の第三代皇帝・高宗)は、亡き母、文徳皇后の冥福を祈るため、都の長安(現・西安)に大寺院を建立し、大慈恩寺と名付けました。一方、ちょうどこの頃、インドから膨大な量の仏典を持ち帰り、その漢訳に没頭していた玄奘三蔵は、その保存のために塔を建立することを進言。これを容れて、652年に建てられたのが大慈恩寺塔です。

 なお、現在、この塔は“大雁塔”の名で呼ばれていますが、これは、建設に際して、空を飛ぶ雁の群れから地上に落ちて死んだ一羽を菩薩の化身とみなし、埋葬して塔を建てたというエピソードにちなむものです。

 大雁塔は土と煉瓦でできており、建設当初は高さ60メートルの5層の塔でしたが、則天武后(在位690-705)の時代に大改造を行い、十層になりました。ただし、その後の戦乱などで上部が崩壊し、現在は七重の塔になっています。高さ64.5メートル(塔本体59.9メートル+土台4.6メートル)の雄大な姿は、現在、西安のランドマークになっており、最上層のアーチ型の窓から見る眺めは西安随一の絶景なのだそうです。

 ベージュのバックに墨一色で印刷された切手は、すっきりとしたしあがりで、いかにも中国風の雰囲気が漂っていて、なかなか良い感じの1枚に仕上がっているのではないかと思います。

* なお、4月に出た第1回目では京都の紫宸殿を取り上げたのですが、こちらは以前、こんな記事を書いたことがあるので、特にこのブログではご紹介しませんでした。あしからず、ご了承ください。

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 ナポリターノ・ナポリターナ
2006-05-12 Fri 23:56
 先日、イタリアの新しい大統領に就任したジョルジョ・ナポリターノ元内相(元下院議長でもある)ですが、お名前から察すると、ナポリにゆかりの家柄なんでしょうね。お名前を聞いて、僕なんかは咄嗟にスパゲティ・ナポリタンを連想してしまいましたが、“ナポリタン”がらみということで、今日はこんな1枚を持ってきました。

イタリア・ナポリ切手100年

 この切手は、1959年、イタリアで発行された“ナポリ切手発行100年”の記念切手の1枚で、1858年に発行されたナポリ最初の切手が取り上げられています。

 統一以前のイタリアでは、ナポリはシチリアと共に両シチリア王国を構成していましたが、切手に関しては、ナポリとシチリアで別のものが発行されていました。

 このうち、ナポリの切手は1858年1月1日に発行されたもので、紋章周囲の輪郭が円型のものと角型のものがありますが、いずれも、ナポリの紋章が取り上げられています。紋章のデザインは、3本足のメドゥーサとナポリの馬、ブルボン家の白百合を組み合わせたものとなっています。

 オリジナルの切手を持ってこようとも思ったのですが、版面が綺麗な上体のものが手元になくって(この切手は掠れたような印刷のものが多いんです)、“切手の切手”をご紹介することにしました。

 その後、イタリア統一戦争の過程で、ナポリは1860年9月、ガリバルディに征服されますが、ガリバルディの支配下でも“ナポリ切手”の発行は続けられ、1861年の統一イタリア王国の建国宣言を経て、1862年に“イタリア切手”が登場するまで、イタリア南部ではナポリ切手が使われていました。

 さて、ナポリの切手ですから、当然のことながら、“ナポリの”という意味の形容詞が切手にも表示されていますが、形容詞が修飾する名詞posta(郵便)が女性名詞であるため、形容詞も男性形のナポリターノ(Napoletano)ではなく、女性形のナポリターナ(Napoletana)になっています。まぁ、この辺は、ご愛嬌と思って見逃してくださいな。

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 THANK YOU AMERICA
2006-05-11 Thu 23:59
 今日はボブ・マーリーの没後25周年の日です。で、ボブ・マーレィの切手を持ってくるということも考えたのですが、あんまり面白いものが見つからないので、範囲をちょっと拡大してジャマイカがらみのものということで、こんなカバー(封筒)を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジャマイカのカバー

 これは、太平洋戦争開戦まもない1941年12月20日に、ジャマイカの首都キングストンからカナダ宛に差し出されたもので、右下の方に(ひっくり返っていて読みづらいのですが)“THANK YOU AMERICA”の文字が入った印が押されています。印には、星条旗とユニオンジャックが並べて描かれているほか、勝利を意味するVの文字も入っています。

 1939年に始まった第二次欧州大戦は、当初、ドイツ軍が圧倒的優位な状況のまま進行し、ドイツと戦うイギリスは苦境に陥っていました。もちろん、アメリカはイギリスを側面から支援はしていましたが、イギリスの苦境は改善されず、イギリスとしてはアメリカが直接参戦して、ともにドイツと戦ってくれることを期待していました。

 このため、1941年12月、日本がアメリカ・イギリスに戦線を布告し、それに付随するかたちで、アメリカがドイツ・イタリアとの戦争にも本格的に参戦することになったのは、イギリスにとっては待ちわびた援軍の到来というわけで、非常に歓迎すべきことでした。今回のカバーに押されている印は、当時は英領であったジャマイカで、そうしたイギリス側の心情をストレートに表現するものとして用いられたものと考えてよいでしょう。

 それにしても、エアメールの封筒に描かれている飛行機が、どことなく、のんびりしたジャマイカの雰囲気を漂わせていて、ほのぼのとして気分にさせられます。こんな飛行機に乗ってカリブ海の上空を飛べたら、気持ちいいんでしょうねぇ。

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 比叡の上を飛ぶ鶴
2006-05-10 Wed 23:47
 今日(5月10日)からバードウィークが始まったということなので、何か野鳥関連のものはないかなと思って探してみたところ、こんな1枚が机の上に転がっていました。

      皇帝訪日(2回目)

 この切手は、1940年6月から7月にかけて、“紀元2600年”の祝賀のために皇帝溥儀が日本を訪問したことを記念して、満洲国が発行したものです。

 “日満一体”を国是としていた満洲国では、日本の紀元2600年にあわせて天照大神を建国の元神として迎え、建国神廟を造営することになっていました。そして、そのためのパフォーマンスとして、皇帝溥儀が日本を訪問し、直接、昭和天皇から三種の神器を受け取るということが企画されます。これに対して、日本側、特に、天皇本人はもとより、宮内庁や神道関係者は、異民族である満洲国の皇帝が日本の民族宗教である神道を祀ることに違和感を感じ、困惑を隠しませんでしたが、最終的には、「満洲国側がそこまで言うのなら勝手にどうぞ」というニュアンスで建国神廟の造営を黙認。剣や鏡を訪日の“記念品”として溥儀に送りました。

 さて、今回の皇帝訪日に際して記念切手を発行することが決定されると、切手発行の実務的な処理を担当する郵政総局郵政処企画科は、宮内府、総務庁弘報処、満洲帝国国立中央博物館、協和会中央本部弘報科、満洲事情案内所、日満文化協会、日本海軍武官府などの協力を得て、デザイン制作のための資料を収集。洋画家の大田洋愛によって、満洲国の軍艦旗と鶴を描くデザインが制作されました。

 この画題が選ばれたのは、1935年4月の最初の皇帝訪日(このときのことについてはこちらをご覧ください)の途中で、
つがいの鶴が皇帝溥儀のお召し“比叡”の上空に飛来したことをとらえ、溥儀は「禽獣にいたるまで日満両国の親善を喜ぶものにして、天地の気と人と物と自ずから相通ずるものあり」と発言したというエピソードにちなむんだものです。なお、切手では、鶴とともに、満洲国の軍艦旗と日本の海軍旗章の一つである長旗を配することで、鶴が“比叡”の上空に飛来したことが表現されています。

 切手の原画制作を担当した太田洋愛は、後に植物画家として大成し、“日本のボタニカルアートの父”とまで称された人物ですが、当時は満洲国の民政部嘱託の画家として、満洲国国定教科書の挿絵を担当していました。

 2回に及ぶ皇帝溥儀の訪日については、昨年刊行した『皇室切手』でも触れましたが、現在制作中の切手で満洲国の歴史を読み解こうという企画の本では、『皇室切手』には収め切れなかった内容も大幅に加筆しています。満洲の本は、なんとか、今年9月の満洲事変75周年には間に合わせたいと思って、現在、鋭意制作中です。刊行が近くなりましたら、またこのブログでもご案内申し上げますので、よろしくお願いします。

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 朝鮮の子供を救え!
2006-05-09 Tue 23:59
 少子化が深刻な問題となっている我らが日本ですが、お隣の韓国の事情はもっと深刻なようで、韓国の統計庁が8日に発表した暫定値では、昨年の合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子供の数の平均値)は1.08にまで落ち込んだそうです。日本でさえ、2004年の合計特殊出生率は1.29ですから、ちょっとこれはすさまじい数字です。

 というわけで、今日は朝鮮人の子供を取り上げたこんな絵葉書をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

ハンガリーの絵葉書

 これは、朝鮮戦争中、ハンガリーが作成したプロパガンダ絵葉書で、“平和な世界”の表現として、ヨーロッパ系・アジア系・アフリカ系の3人の子供が並べられています。葉書の下の方に書かれているハンガリー語の内容がわからないのですが“koreaert”の文字も見えますので、朝鮮戦争に際して、いたいけな子供たちを犠牲にしている“アメリカの戦争”を非難する内容のものであろうと考えて間違いないでしょう。ということは、ヨーロッパ系の子供はハンガリー人、アジア系は朝鮮人がモデルということになっているはずですが、さて、アフリカ系の子供はどこの子なんでしょう。案外、アメリカ国籍だったりして…。

 当時の社会主義陣営やその信奉者たちの理解では、「朝鮮の子供を救え!」といえば、“アメリカ帝国主義者”から韓国の子供たちを守ろうという意味だったわけですが、現在、同じスローガンを掲げると、北朝鮮で悲惨な境遇に置かれている子供たちを援けようという意味で理解する人が大半でしょう。まさに隔世の感があります。

 もっとも、いくら「子どもを救え」と叫んでみたところで、肝心の子供がいなければどうにもならない訳で、その点、合計特殊出生率1.08の韓国の事態は、ある意味、北朝鮮よりも深刻です。まぁ、この先、この数字が落ちるところまで落ち込んで、韓国人の子供が“絶滅危惧種”になってしまうようなことがあれば、それはそれで「朝鮮の子供を救え!」というスローガンが別の意味でリアリティをもってくるわけですが…。

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 コシツェ版小型シートと菩提樹
2006-05-08 Mon 23:58
 今日(5月8日)は、VEデイ。ヨーロッパでのナチス・ドイツに対する勝利の記念日です。というわけで、第二次欧州大戦の終結を物語るカバー(封筒)の中から、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      チェコスロバキアのカバー

 第二次大戦中、チェコスロバキアはナチス・ドイツによって分割され、チェコがドイツ保護領のボヘミア・モラビア、スロバキアが親独国家となっていました。このうち、スロバキア地域に関しては、ソ連軍が1944年末までに進駐し、勢力扶植に乗り出していましたが、チェコ地域へのソ連軍の進駐は1945年春まで遅れます。このため、1945年4月、スロバキア東部の都市、コシツェでチェコスロバキア共産党が「コシツェ綱領」を発表し、エドヴァルド・ベネシュを中心とするロンドン亡命政府との連立政権を発足させました。ちなみに、チェコ全土の“解放”は、ドイツ降伏後の1945年5月9日のことでした。

 さて、このカバーに貼られているのは、そうした解放直後のチェコ地域、ハブリチクーフ・ブロートから差し出されたもので、ベネシュ帰国の記念小型シート(6月25日発行)と菩提樹を描く10ハレーシュ切手(10月8日発行)が貼られています。

 この小型シートはコシツェで作られたもので、収集家の間では“コシツェ版”と呼ばれています。1945年の段階では、チェコスロバキアは共産国家ではありませんが、すでにソ連赤軍兵士の横顔が切手に取り上げられるなど、ソ連とのその後の関係が暗示されているようです。

 一方、菩提樹の切手は、ドイツ時代のものと同じデザインで、旧チェコ地域でのみ有効とされていたものですが、はやくも11月15日には使用禁止になっています。10月8日の切手発行から使用禁止までの間はわずか39日しかなく、11月12日の消印が押されているこのカバーの場合も、使用禁止3日前に何とか間に合ったという感じです。

 なお、消印はドイツ時代のものが使われましたが、さすがに、地名のドイツ語表示はまずいということになったのか、その部分は削り取られています。

 いずれにせよ、ドイツが降伏し、ソ連軍が進駐して、チェコスロバキアという国家の枠組が再建されつつあった時代をいろいろな面から物語ってくれているカバーとして興味深いマテリアルなので、図体はでかくて収納に困るのですが、それなりに気に入っています。

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 シンガポールの自由
2006-05-07 Sun 23:58
 7日未明に結果が明らかになったシンガポールの総選挙は、与党の人民行動党が84議席中82議席を獲得し、予想通り圧勝したそうです。シンガポールに関する切手や郵便物はいろいろと面白いものもあるのですが、やはり、日本人にとって一番なじみの深いものといえば、下の2枚でしょう。(画像はクリックで拡大されます)

シンガポール陥落

 これは、太平洋戦争中の1942年2月、シンガポールの陥落を記念して日本で発行された切手です。

 現在、我々が(アジア)太平洋戦争と呼んでいる戦争は、当時の大日本帝国は、白人支配のアジアを解放するための“大東亜戦争”と呼んでいました。この戦争の目的に照らして考えた場合、イギリスのアジア支配の拠点であるシンガポールを陥落させることは極めて重要な意味を持つものでした。それゆえ、山下将軍が敵将パーシバルに「イエスかノーか」と迫ってシンガポールを陥落させた翌日の2月16日には、事前に用意されていた記念切手がいっせいに発行されています。

 切手は、戦況をにらみながら突貫作業で作られたため、当時の通常切手に「シンガポール陥落」の文字と上乗せされる国防献金の金額(+の後に示されている)を印刷するかたちで調整されました。いわゆる加刷切手は、既にできあがっている切手に対して上から文字などを付け加えて印刷するものですが、今回の場合は、もともとの通常切手の部分と文字部分を同時に刷っているので、加刷切手というよりも2色刷の切手と言ったほうが適切でしょう。(見かけは“加刷切手”ですが)

 日本軍占領下のシンガポールでは、“東亞解放”の理念とは裏腹に、住民に対しては異論を許さない強権的な支配が行われていたことは広く知られている通りです。

 もちろん、日本軍によって現地の多くの人々が犠牲になり、苦難の生活を強いられたことは事実ですから、その点は我々としても真摯に受け止めなくてはならないのですが、そうした過去への贖罪意識にとらわれるあまり、現在なお、シンガポールでは“開発独裁”の教科書のような状況が続いているという現実に目をつむってしまうのは、さてさて、いかがなものでしょう。

 そもそも、84議席中82議席を与党が独占することじたい極めて異常な現象ですが、“建国の父”リー・クアンユーが、1965年の独立以来、一貫して最高実力者として君臨し続ける体制や、今回の選挙後も野党の幹部が拘束されているということなど、世界的な“人権”の基準からすると、この国には、かなり問題があるように思われます。もちろん、国民がそれで満足しているというのなら、我々外国人がとやかく言うべきことではないのですが、ある程度以上の経済発展を遂げてしまったシンガポールの人たちが、今後も、自由や民主といった価値観と無縁なまま生活していくことができるのかどうか、常識的に考えると、大いに疑問なのですが…。

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 万博切手帳の製造工程
2006-05-06 Sat 22:19
 今日は東京・目白の切手の博物館で開催中の<テーマテーマ収集グッド10!>の会場で、ギャラリートークを行ってきました。内容は、1970年の大阪万博にあわせて発行された記念切手帳で、会場に展示してある下の画像のマテリアル(クリックで拡大されます)を使って、その製造工程などをお話しました。お集まりいただきました皆様には、この場を借りてあらためてお礼申し上げます。ただ、口頭の説明ではいささかわかりにくいという声も若干ありましたので、このブログでも、ちょっと復習的に説明しておきましょう。

万博切手帳未裁断(2次)

 *画像は第2次発行のものです。第1次発行分の画像は、こちらをご覧ください。

 万博の切手帳は、万博の記念切手のうち、7円切手5枚、15円切手・50円切手各一枚を組み合わせ、中央部で2つ折りにして表紙に貼り付けた形態となっています。切手帳の周囲はストレートエッジ(目打を穿孔しない裁ち落しの状態)になっていますので、切り離して単片にしてもシート切手とは容易に区別することができます。

 切手帳は開いた状態で、縦の長さは7円切手5枚分で、中央の余白は切手1枚分のスペースになっています。このため、下の図のように(出典は『切手』1970年4月27日号です)、輪転機に給される巻取紙を横断する方向にペーンの長辺が来るように並べ、連続櫛型2段抜きで目打の穿孔を施すというのが基本的な製造方法となります。(まぁ、単純化すると2段ずつ|_|_|_|といった感じの目打針を打っていくと考えてください)

万博切手帳・目打図

 その際、表紙を付けないペーン(切手帳の中身の切手部分)のみを印刷するのであれば、印刷のシリンダー1本で切手帳10冊分を連続して刷っていけばよいのですが、今回は表紙を付けてから1冊ずつ裁断していくという作業が入るため、途中で位置あわせのスペースを設ける必要が生じます。

 このため、4ペーン連続の状態のものをふたつ並べて中央に1枚分の余白部分を挿入したうえで、その余白部分に裁断用のトンボ類を入れ、ここで切り離して枚葉紙(巻いていない状態の紙)の状態にしたものをトンボであわせて表紙を貼りこみ、最後に4分割するという手法が取られました。

 一方、目打に関しては、連続櫛型2段抜きの目打枠を切手帳用にするため、不要の目打針が抜かれました。その際、50円切手の側は全て目打針を外すので問題ないのですが、7円切手の側は、上端部分で縦の目打針を残すという発想で目打針を組み立てると目打は完成した切手帳の上部へ突き抜ける状態となり、横の目打針を全て外すという発想で目打針を組み立てると目打穴は突き抜けない状態となります。上の図では、右側が目打の状況を示したものになります。

 実際の作業では、当初つくられた切手帳は目打が上部へ突き抜けていますが、途中から、目打の突き抜けていないものが製造されるようになっています。おそらく、作業効率の点で改善が図られたためでしょう。

 さて、今回ご紹介した未裁断シートの現物を展示している<テーマテーマ収集グッド10!>の会期は、明日(7日)までです。なかなか、表に出てくるマテリアルではありませんので、ご興味をお持ちの方は、是非お見逃しなきよう!

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 幼帝の“ご真影”
2006-05-05 Fri 22:11
 今日は子供の日。というわけで、子どもの姿が見えるマテリアルということで、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

幼帝溥儀

 これは、清朝末期の幼帝・溥儀、すなわち宣統帝の家族写真として最も有名な1枚を取り上げた絵葉書で、北京からベルギー宛に送られたものです。

 映画「ラストエンペラー」のモデルとなった愛親覚羅溥儀は、1906年、北京の醇王府に生れました。父親は光緒帝の弟・醇親王(載澧)、母親は大学士(皇帝の顧問官)栄禄の娘・瓜爾佳氏でした。

 1908年10月21日、光緒帝が亡くなると、清朝の最高実力者・西太后は溥儀を皇位継承者に決定。これにより、溥儀は父を摂政として三歳で即位し、年号は宣統と改められました。この年号には、「清朝歴代祖先の輝かしい文武の功績を宣揚し、清朝が万世一系の統治を続けられるように」との願いが込められていたといわれています。

 さて、この絵葉書のものになった写真は、溥儀が宣統帝として即位する以前に撮影された家族写真で、写真の右側に、推定2歳の彼が立っています。中央の椅子に座っているのが父親で後に溥儀の摂政となる醇親王、抱かれている幼児が弟の溥傑です。

 19世紀の末から20世紀初頭にかけて、絵葉書は世界的なブームとなり、各国貴顕人士の肖像は絵葉書の格好の題材としてもてはやされていました。そうした風潮の中で、今回の家族写真やそこから宣統帝・溥儀の部分のみを取り出して絵葉書としたもののが数多く作られ、流通しています。

 さて、溥儀ぼっちゃんは1909年に宣統帝として即位し、皇帝としての人生を歩み始めますが、即位から3年と経たない1911年10月には辛亥革命が起こって、清朝そのものが消滅してしまいました。

 ちなみに、即位の大典の際、ぐずって泣き止まない“皇帝”に向かって父親で摂政の醇親王が「もうじき終わるからね」となだめたというエピソードが残っていますが、まさに、その通りになったというわけです。

 何日か前の日記にも書きましたが、今年の秋に満洲国を題材とした単行本を出す予定で、現在、鋭意作業を進めているのですが、その過程で出てきた“子供”関連のマテリアルというわけで、ここにご紹介してみました。

*イベントのご案内
 明日5月6日(土)、午前11時からと午後2時30分からの2回、東京・目白の切手の博物館3階の<テーマ収集グッド10>会場にて、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ・トークを行います。お題は、本の表紙にもなった万博記念に発行された切手帳。切手帳の製造工程といった通好みの話から、切手帳をめぐる当時の収集家の泣き笑い騒動記まで、盛りだくさんの内容でお届けする予定ですので、皆様のお越しをお待ちしております。(午前・午後のトークは同内容です。また、展示会場への入場料が必要となりますので、あらかじめご了承ください)

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 南米の野口英世切手
2006-05-04 Thu 23:23
 アフリカを歴訪中の小泉首相が、ガーナで野口英世が使っていた研究室を訪れた際、アフリカの医療に貢献した研究者を対象に“野口英世賞”を創設する意向を表明したと新聞に出ていました。というわけで、野口英世関連の切手ということで、今日はこんな1枚を持ってきました。

野口英世生誕100年記念

 この切手は、1976年にエクアドルが発行した“野口英世生誕100年”の記念切手ですが、大きさが9・5センチ×11・4センチもあり、実質的には小型シートとみなしても良いでしょう。とにかく、野口英世関連の切手の中では、一番インパクトのある1枚ではないかと思います。(画像はクリックで拡大されますが、とにかくデカイです)

 1913年、麻痺性痴呆(通称・脳梅毒)患者の組織内にトリポネーマ・パリドウムを発見して梅毒と麻痺性痴呆の因果関係を証明したことで、一躍、世界的な細菌学者となった野口は、1918年7月、“黄熱病”が猛威を振るっていたエクアドルのグアヤキル市に派遣されます。そして、赴任早々、病原体を“発見”し、ワクチンを製造しました。

 野口の発見したのは、現在では、黄熱病のウィルスではなく、黄熱病とよく似た症状のワイル氏病の原因となる細菌・レプトスピラであったと考えられていますが(ただし、これは、当時の顕微鏡の精度では黄熱病の病原体を発見することができなかったためで、必ずしも野口個人にのみ責任を帰することはできないでしょう)、野口のワクチンにより、エクアドルでは“黄熱病”の患者が激減。このため、彼はエクアドルを救った医学の英雄として、エクアドル名誉軍医外科部長、キト・グアヤキル両大学名誉医学博士号の称号を贈られました。

 しかし、当然のことながら、野口のワクチンは、本来の黄熱病には全く効果がなく、1928年、研究のために滞在していたアフリカのアクラで黄熱病に感染して殉職したのは広く知られている通りです。

 黄熱病の発見という点では業績を残せなかった野口ですが、エクアドルでは、現在もなお野口の功績を称え、キト市内に博士の胸像が建てられているほか、「野口英世通り」という名の通りもあるほどで、そのことが、こうした切手の発行にも繋がったのは間違いありません。

 ところで、僕が読んだ新聞記事には、件の研究室には、母親からの手紙が展示されていたとのことですが、どんな切手が貼られ、どんな消印が押されているんでしょうね。当時の日本からアクラ宛の郵便物なんて、そうそうお目にかかれるものではありませんから、僕としては、手紙の文面よりも、そっちのほうがよっぽど気になります。

 なお、野口の母親からアメリカ滞在中の野口宛の手紙は、教科書にも取り上げられている有名なもので、こちらについては、福島県の野口英世記念館でもレプリカがお土産として売られています。アクラの展示品は、まさか、その“お土産”ではないと思いたいのですが…。

*イベントのご案内
 5月6日(土)、午前11時からと午後2時30分からの2回、東京・目白の切手の博物館3階の<テーマ収集グッド10>会場にて、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ・トークを行います。お題は、本の表紙にもなった万博記念に発行された切手帳。切手帳の製造工程といった通好みの話から、切手帳をめぐる当時の収集家の泣き笑い騒動記まで、盛りだくさんの内容でお届けする予定ですので、皆様のお越しをお待ちしております。(午前・午後のトークは同内容です。また、展示会場への入場料が必要となりますので、あらかじめご了承ください)

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 6万アクセス
2006-05-03 Wed 23:58
 今朝起きてきたら、カウンターが6万アクセスを越えていました。皆様、いつもいつもご贔屓ありがとうございます。というわけで、額面が“6”の切手の中から、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      満洲國赤十字社5周年

 この切手は、1943年10月、満洲国赤十字社5周年を記念して満洲国で発行されたもので、担架を運ぶ赤十字の看護婦(“女性看護士”じゃ格好がつかないので、こう呼ばせてください)が描かれています。満洲国の郵便料金は、1942年3月1日から1944年9月末まで、封書の基本料金が6分でしたので、この切手も額面は6分です。

 満洲国の赤十字社に相当する組織としては、1934年に溥儀が皇帝となった際の下賜金100万円をもとに作られた“恩賜普済会”が活動していましたが、これとは別に、満鉄付属地と関東州に関しては、日露戦争以来、日本赤十字社満洲委員本部が活動を続けていました。

 ところで、赤十字の活動は人道上、戦地・紛争地でのあらゆる攻撃から無条件で保護されているため、その標章は赤十字社のみが使用できることになっています。また、赤十字の条約加盟国では、赤十字社ないしはそれに相当する組織は単一でなければならず、赤十字社以外の法人などがこの標章を使うことはできません。

 このため、いささか逆説的ですが、満鉄付属地が満洲国の権限の及ばない治外法権区域であるかぎりにおいては、日本赤十字社の出先機関である満洲委員本部がこの地域の赤十字活動を担当していても問題はないのですが、1937年12月に日本側が治外法権を返上し、満鉄付属地が消滅してしまうと、日本側・満州国側双方の赤十字組織が並存することになってしまい、赤十字の大原則に照らして問題が生じてしまいます。このため、治外法権の撤廃に向けて各種の具体的な協議が行われていた1937年7月、両社を統合するために満洲国赤十字社設立準備委員会が発足しました。

 時あたかも、1937年7月7日に盧溝橋事件が起こり、日本政府の“不拡大方針”とは裏腹に、華北では日中間の全面戦争が始まります。直接の戦争地域とはなっていないものの、隣接する満洲国でも、日本の戦争をバックアップする立場から、赤十字体制の整備を進めることは緊急の課題となっていました。

 こうして、各種の調整が行われた結果、1938年7月16日、溥儀の勅令によって満洲国赤十字社法が公布され、満州国側と日本赤十字社との各種協議ならびに手続きを経て、同年10月1日、恩賜普済会と日本赤十字社満洲委員本部を統合するかたちで、財団法人・満洲国赤十字社が発足します。ただし、日本の租借地であった関東州域内に関しては、その後も、終戦まで、日本赤十字社満洲委員本部が赤十字活動を継続していました。

 当時の国際社会では、満洲国を正規の国家として承認していたのは少数派で、満洲国赤十字社は国際赤十字の正式加盟国にはなれませんでした。とはいえ、現実に満洲国の領域内で赤十字の活動が行われなくても良いということにはなりませんから、国際赤十字も“私的機関”である満洲国赤十字社が赤十字活動を行うことを黙認するという立場を取っています。それゆえ、国際社会にほとんど足場を持たない満洲国にとって、赤十字社の存在ないしは赤十字社を通じた国際交流は、外交上、重要な意味を持っていたともいえるのです。

 こうしたことから、満洲国は赤十字社の創立に際しても記念切手を発行しましたが、その5周年にあたる1943年にも、今回ご紹介しているような記念切手を発行したというわけです。

 なお、今回の切手をよく見てみると、看護婦の後方に飛行機が飛んでいます。切手の図案だけでは機種などはよく分かりませんが、戦闘機のつもりでしょうか。

 1943年といえば、すでに太平洋戦争の戦局は日本にとって不利になっており、占領地域での対日強力を確保するため、ビルマとフィリピンが日本軍によって“独立”を付与されたという時期です。太平洋の戦場からは遠くはなれ、比較的、平穏な日々であったとされる満洲国でも、こんなところに戦争が影を落としていたといえるのかもしれません。

 実は、今年の秋に満洲国を題材とした単行本を出す予定で、現在、その執筆作業が生活の中心になっています。例によって、なかなか作業は進まず、ちょっと疲れ気味の日々が続いていますが、切手の看護婦さんのような女性に励まされたら、少しは元気も出るかもしれません。

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 茶摘み
2006-05-02 Tue 23:29
 今日は八十八夜。というわけで、そのものズバリ茶摘みの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

茶摘み5円

 この切手は1949年11月に発行された5円切手で、見ての通り、茶摘みの場面が取り上げられています。

 当時の日本の通常切手は、戦後復興にむけての国民の労働意欲をかきたてるため、重要産業で働く人々の姿を取り上げたデザインが取り上げられており、収集家の間では“産業図案切手”と総称されています。

 額面5円の切手は、当初は炭坑夫のデザインでした。(この切手の画像と解説はこちらをご参照ください)ところが、1949年5月日に郵便料金の値上げがあって、書状の基本料金が5円から8円になったことに伴い、炭鉱夫のデザインは8円切手にそのまま横滑りし、その余波で5円切手のデザインが変更されることになり、茶摘みが切手に取り上げられることになったというわけです。

 なお、この切手が発行された1949年11月の時点で5円という料金は、外国宛の印刷物(50gまで)料金でした。当時は、外国宛印刷物用の料金の切手は緑色とするという万国郵便連合(UPU)の規定が活きていましたから、緑色にピッタリくる題材ということも、茶摘みがデザインとして取り上げられた理由の一つかもしれません。

 なお、明治から大正にかけて生糸とならんで日本の主要な輸出品のひとつであった茶は、第一次大戦を契機に、ヨーロッパでのマーケットを喪失。このため、日本茶業界は日本国内のマーケット拡大に活路を求め、彼らの努力の甲斐あって、日本国内で煎茶が急速に普及することになります。もちろん、切手の発行された1949年の段階でも、日本茶産業の主要なマーケットは海外ではなく日本国内です。

 ということは、茶摘みの切手で日本茶産業をどれだけアピールしても、この切手が貼られた郵便物を受け取るであろう外国人には、その意図は全くといってよいほど伝わらなかったのではないでしょうか。もっとも、この切手の場合、本来の発行目的に沿って外信印刷物に使われたケースはあまり多くはないようですので、メディアとしての効果を云々する以前の問題と言ってしまえばそれまでなのですが…。

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 5月6日(土)、午前11時からと午後2時30分からの2回、東京・目白の切手の博物館3階の<テーマ収集グッド10>会場にて、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ・トークを行います。お題は、本の表紙にもなった万博記念に発行された切手帳。切手帳の製造工程といった通好みの話から、切手帳をめぐる当時の収集家の泣き笑い騒動記まで、盛りだくさんの内容でお届けする予定ですので、皆様のお越しをお待ちしております。(午前・午後のトークは同内容です。また、展示会場への入場料が必要となりますので、あらかじめご了承ください)

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 サグントの労働者のために
2006-05-01 Mon 23:31
 今日(5月1日)はメーデー。というわけで、“労働者”ネタで何かないかなと思って探してみたら、こんなものが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

サグントの労働者のために

 このカバー(封筒)は、1938年8月、市民戦争下のスペイン・バルセロナからキューバのハバナ宛に差し出されたものです。

 1936年7月、フランコの叛乱によって、フランコ側と共和国側の内戦(市民戦争)に突入したスペインでは、両陣営がそれぞれ、自らの支配の正統性を示すため、独自の切手を発行し、支配下の住民に使用させていました。

 このカバーの差出地であるバルセロナは、1939年1月まで、共和国側の支配地域にあり、共和国側の郵政が発行した“スペイン共和国(Repubulica Espanola)”表示の切手が使われていました。

 カバーに貼られている切手のうち、黒色のものと青色のものは「サグント(バレンシア近郊の都市)の労働者のために」と題されており、左翼政権である共和国側のイデオロギーと合致するような内容です。一方、右上の赤い切手は赤十字の寄付金つき切手で、負傷兵を運ぶ看護婦が描かれています。また、カバーの右側は検閲によって開封された痕跡があり、「スペイン共和国 検閲済」の印も押されています。これらが組み合わさって、このカバーは市民戦争時の状況を生々しく伝える好材料になっていると思います。

 スペイン市民戦争の際には、共和国側・フランコ側双方が入り乱れてさまざまなローカル“切手”が作られたほか、検閲や各種スローガンの表示など、郵便の面でもいろいろと面白いモノが生み落とされています。それらについては、3月に刊行した拙著『これが戦争だ!』(ちくま新書)でも、簡単ではありますが、まとめてみましたので、ご興味をお持ちの方はご覧いただけると幸いです。


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 5月6日(土)、午前11時からと午後2時30分からの2回、東京・目白の切手の博物館3階の<テーマ収集グッド10>会場にて、『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』の刊行を記念して、ミニ・トークを行います。お題は、本の表紙にもなった万博記念に発行された切手帳。切手帳の製造工程といった通好みの話から、切手帳をめぐる当時の収集家の泣き笑い騒動記まで、盛りだくさんの内容でお届けする予定ですので、皆様のお越しをお待ちしております。(午前・午後のトークは同内容です。また、展示会場への入場料が必要となりますので、あらかじめご了承ください)

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