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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 こわい切手:悪魔に殺傷された子供たち
2022-03-16 Wed 00:16
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、雑誌『ザ・フナイ』2022年3月号が発行されました。僕の連載「こわい切手」は、戦争で犠牲になった子供について取り上げましたが、その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・ミサイル攻撃の犠牲者追悼(1987)

 これは、イラン・イラク戦争末期の1988年、敵国のイランを非難するため、イラクが発行した“イランによるビラート・シュハダー学校へのミサイル攻撃の犠牲者追悼”の切手シートで、イラン国旗の袖から突き出た悪魔の手の上に、犠牲となった子供の生首を置いた毒々しいデザインとなっています。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。
 

★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 3月20日(日) 21:55~  拉致被害者全員奪還ツイキャス
 3月20日(日)、拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。

 3月21日(月) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 武蔵野大学のWeb講座
 4月6日-7月12日 鏑木清方と江戸の残り香
 詳細はこちらをご覧ください。
 
 4月13日-7月19日 日本の郵便150年の歴史2 占領時代(1945年の終戦から1952年)
 詳細はこちらをご覧ください。
 
 5月18日-8月23日 日本の歴史を学びなおす― 近現代編その2― 幕末
 詳細はこちらをご覧ください。

 5月4日(水・祝) 13:00~ よみうりカルチャー北千住 公開講座 
 よみうりカルチャー北千住にて、公開講座「アフガニスタン現代史」を行います。拙著『アフガニスタン現代史』の内容を90分にギュッと凝縮した内容をお届けいたします。お申込など詳細は、こちらをご覧ください。
 

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 911同時多発テロ事件とその後のアフガニスタン空爆から20年。西側が支援した新共和国が崩壊し、再びタリバンが実効支配下に置いたアフガニスタン。英国、ソ連、米国…介入してきた大国の墓場と呼ばれてきたこの国の複雑極まりない現代史を、切手や郵便資料も駆使しながら鮮やかに読み解く。

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 パレスチナ人民連帯国際デー
2020-11-29 Sun 02:11
 きょう(29日)は、1947年11月29日に国連でパレスチナ分割決議が採択されたことにちなみ、“パレスチナ人民連帯国際デー”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・パレスチナ人民連帯国際デー

 これは、1980年にイラクが発行した“パレスチナ人民連帯国際デー”の記念切手です。パレスチナ分割決議案が採択された11月29日を“パレスチナ人民連帯国際デー”とすることは、1977年12月2日の国連総会で決議され、翌1979年12月12日に最落の国連総会決議34/65Dでは、加盟各国に対して記念切手の発行が要請されました。この切手もそれを受けて発行されたものですが、1980年の時点で、イラクにとってパレスチナは従来とは異なる重要な意味を持っていました。
 
 1978年9月のキャンプ・デイヴィッド合意で、イスラエルとの単独和平を進めたエジプトが“アラブの盟主”の座から滑落すると、イラクに対して、新たに“アラブの盟主”の候補として、パレスチナ問題にも積極的に関与していくことが期待されるようになります。

 もともと、1968年に発足したイラクのバアス党政権は、必ずしもパレスチナ問題に熱心に取り組んでいたわけではありませんでした。

 そもそも、イラクはイスラエルと直接に国境を接しておらず、1967年の第三次中東戦争においても、エジプトヨルダンシリアなどのようにイスラエルによって領土を占領されたわけではありません。また、戦争の被害に関しても、上記の国々に比べるとイラクの損害は比較的軽微でした。

 このため、失地奪還のために対イスラエル戦争を準備していたエジプトやシリアとは異なり、バクル政権は、パレスチナ問題には深入りせず、1972年の石油国有化を経て国内の経済建設に邁進することを基本的なスタンスとしていました。1973年の第四次中東戦争に際しても、シリア・バアス党に対して、自分たちこそがアラブ民族主義の嫡流であると主張している建前から参戦はしたものの、実際の戦闘にはほとんど参加せず、石油戦略の発動によって巨額の富を得ていました。

 さて、1977年、イラクでは革命指導評議会副議長のサッダーム・フセインが革命指導評議会メンバーと閣僚を自分の側近に入れ替え、バクルに代わって政府の実権を掌握します。

 フセインは、大統領のバクルとは同郷の親戚ということもあって、1968年の革命後、わずか31歳にして治安機関の責任者に任じられ、バクルの政敵粛清に辣腕を振るい、バクルの権力基盤を強化。そして、1969年には、32歳で革命指導評議会(RCC)副議長に任命され、バクルの後継者としての地位を確保し、徐々に、力を蓄えていきました。なお、当時のフセインは、石油国有化によって確保した石油収入を背景に農業の機械化や学校教育の充実などの近代化政策を推進し、それなりの成果を挙げたため、有能な官僚政治家として高く評価されていました。

 一方、バクル政権下のフセインは、イラク・バアス党をシリア・バアス党の影響下から引き離すべく、バアス党結党の理念であるアラブ民族主義を徐々に骨ぬきにし、「イラク人民とは文明の発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」とする“イラク・ナショナリズム”を掲げており、個人的には、パレスチナ問題について強い関心を持っていた形跡は見られません。

 こうした状況の下で、1979年2月、イランでイスラム革命が発生。さらに、同年7月にはイラクで副大統領の地位にあったフセインが病身のバクルに代わって、正式にイラク大統領に就任します。

 新大統領に就任したフセインは、革命イランに対する戦争を発動することで、国境問題を自国に有利に解決して新たな油田地帯を獲得するとともに、周辺諸国へのイスラム革命の波及を防ぎ、それにより、アラブ世界における新たな盟主の座に就くことで、シリア・バアス党に対するイラク・バアス党の優位を確立するというシナリオを考えます。さらに、対イラン戦争の勝利という実績とともに、1982年にバグダードで非同盟諸国会議が予定通り開催されれば、議長国のイラクが一挙に第三世界の主導権を得ることも夢ではないとフセインは考えました。

 こうして、1980年9月、イラク軍はイランの主要な空港を爆撃し、国境を超えてイラン領内への侵入を開始。イラン・イラク戦争が勃発します。

 フセイン政権にとっては、イランとの戦争は“アラブの盟主”の座を得るためのステップという面もありましたから、開戦後まもない1980年11月、前年の国連総会決議に応じて今回ご紹介の切手を発行し、あらためて“アラブの大義(=パレスチナ解放)”を強調することは政治的にも重要な意味を持っていました。

 もっとも、奇襲攻撃で侵攻作戦を開始したイラク軍は、緒戦こそ、革命イランの混乱に乗じて赫々たる戦果を挙げましたが、潜在的な国力でいえば、イランはイラクとは比べ物にならない大国です。じっさい、イラク軍の侵攻を受けたことで、イラン国内では祖国防衛が火急の課題となって国内の権力闘争が収束し、本格的な反攻が開始されます。その結果、奇襲攻撃による短期間での勝利を想定していたイラク側の目論見は大きく外れ、補給体制の不備などもあってイラク側の攻撃も次第に緩慢なものとなり、イラン・イラク戦争が泥沼の長期戦に突入することで、革命イランを打倒して新たなアラブの盟主になるというフセインの野望も自然と潰えてしまいました。

 なお、この辺りの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 イラク・共和国記念日
2018-07-14 Sat 03:02
 きょう(14日)は、1958年7月14日にイラクで革命が発生し、ハーシム家の王制が倒れ、共和制が樹立されたことにちなみ、イラクでは共和国記念日の祝日です。というわけで、今年は60周年の節目の年でもありますので、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・革命加刷カバー

 これは、1958年の共和革命後、王制時代の国王の肖像切手に“イラク共和国”を意味するアラビア語の文字を加刷した切手を貼り、バグダードからウィーン宛に差し出した書留便です。

 第一次大戦後、オスマン帝国の解体によって建設されたイラクは、ハーシム家の親英王制の支配下にありました。

 ところが、1958年2月、第一次大戦後の中東諸国の枠組を否定し、各国での共和革命の実現を掲げるアラブ民族主義国家のエジプトとシリアが合邦し、アラブ連合共和国(UAR)が発足。このことは、ハーシム家による王政国家のイラクとヨルダンにとって深刻な脅威となりました。

 このため、1958年2月14日 ヨルダンのフセイン国王主導の下、ハーシム家連合としてヨルダン=イラク同盟(アラブ連邦王国)が成立。イラク80%、ヨルダン20%の負担割合で軍を統一することになりました。

 こうした状況の中、同年7月上旬 イラクおよびヨルダンで王打倒のクーデター計画が発覚。ヨルダンで摘発されたクーデター参加者はエジプト(人)の関与をほのめかし、計画は中止されたと自供しましたが、イラクはヨルダン支援のため、軍部隊派遣を決定します。

 一方、イラク国内では、ナセルのアラブ民族主義に感化されたアブドゥルカリーム・カーシムやアブドゥッサラーム・アーリフらの将校たちが、地下組織として“自由将校団”を組織していましたが、イラク政府は、ヨルダン派遣軍の指揮官に、よりによってカーシムとアーリフの2人を任命してしまいます。この結果、武力をえた2人は、7月14日、バグダードでクーデターを敢行し、王族全員と首相のヌーリー・サイードを殺害し、王制の妥当と共和制の樹立を宣言しました。これが、イラク7月14日革命で、今回ご紹介のカバーには、王制を否定するために国王の肖像を加刷文字で抹消した切手が貼られています。

 7月14日のクーデターに、UARが実際に関与していたか否か、さらに、関与していたとして、それはどの程度のものだったのかは不明ですが、革命後ただちに、UARは新政権への支援を表明し、シリア=ヨルダン国境を封鎖しました。

 そこで、ヨルダンとレバノンは米国に軍事支援を要請。特に、ヨルダンはイスラエル経由での通商路の確保のため、米国に仲介を依頼します。米国はレバノンに海兵隊を派遣するとともに、イラクのヨルダン・ウェートへの攻撃やサウジアラビアの政情不安に備えて、沖縄駐留の海兵隊をペルシャ湾に派遣することを決定。さらに、英国もイラク軍の侵攻に備えてヨルダンとクウェートに兵力を派遣しました。

 これに対して、イラクの新政権は、クウェートの領有権は主張したものの、実際には、ヨルダン、クウェートへの侵攻作戦は行わず、また、石油生産で西側諸国との協力を強める意志があることを表明したため、8月初頭には、米英も新政権を承認し、事態は次第に沈静化に向かいました。

 なお、イラクの共和革命を含め、1950-70年代のアラブ民族主義諸国については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

 
★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。

 なお、会期中の21日、内藤は、以下の3回、トーク・イベントをやります。
 13:00・9階会議室 「国際切手展審査員としての経験から テーマティク部門」
 14:30・8階イベントスペース 「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」
 16:00・8階イベントスペース 『世界一高価な切手の物語』(東京創元社)


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

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 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 きょう、イラク総選挙
2018-05-12 Sat 13:43
 イラクで、きょう(12日)、昨年末の“イスラム国”ことダーイシュ掃討完了宣言後、初の発の国会選挙(定数329)が行われます。というわけで、きょうはイラクの切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・対日国交75年(500)

 これは、前回のイラク国会選挙が行われた2014年に発行された“日本との外交関係樹立75周年”の記念切手のうち、500ディナール切手です。

 現在のイラク国家の地域は、第一次大戦以前はオスマン帝国の支配下に置かれていましたが、1918年、第一次大戦でオスマン帝国が敗北すると、そのモースル州・バグダード州・バスラ州(ただし、現在のクウェート国家に相当する地域を除く)は英国の勢力圏とされ、1921年、この地域に英国委任統治領メソポタミアが成立しました。

 英国は、ハーシム家(イスラムの預言者ムハンマドの直系の子孫で、聖地メッカの地方君主を輩出した家系)の出身で、大戦中のアラブの指導者であったファイサル・イブン・フサインを国王として招き、親英王制を樹立したうえで、1932年、ファイサルを国王とするイラク王国を独立させます。

 このイラク王国と日本との正式な外交関係は、1939年11月、日本がイラクに公使館を設置したところから始まりましたが、第二次大戦により両国関係は一時途絶。1952年、日本が講和独立を達成したことで、両国の外交関係は復活し、1955年12月、イラク側が在日公使館を開設しました。

 1956年9月には、考古学者でもある三笠宮殿下を長とする日本の学術調査団がイラクを訪問。翌1957年にはイラクの皇太子が日本を公式訪問するなど、両国の皇室も友誼を通じていましたが、1958年7月の革命でイラクの王制は打倒され、現在のイラク共和国が発足します。

 共和革命後の1960年、イラクの日本公使館が大使館に格上げされると、在日イラク公使館も大使館に格上げされます。さらに、1964年には両国間で貿易協定が、1974年には経済技術協力協定が結ばれました。特に、石油危機直後の1974年には、日本は10億ドルの円借款と引き換えに10年間の原油供給保証をイラク側から受けており、これを機に、日本の商社はイラクの高速道路、病院、セメント工場、発電所、バグダード国際空港などの大型プロジェクトを受注しています。

 しかし、1980年にイラン・イラク戦争が勃発すると、イラクにおける日本企業の活動は大いに減退。さらに、1990年のイラク軍によるクウェート侵攻を経て1991年に湾岸戦争が勃発すると、それに伴い国連による対イラク経済制裁が発動され、日本とイラクの輸出入は事実上停止されました。

 サダム・フセイン政権崩壊後の2003年以降、日本は国際社会と協調してイラクの復興・民主化支援を行っており、同年のマドリード会合では、無償支援15億ドルと円借款35億ドルの支援を表明。また、ムサンナ州サマーワへの自衛隊を派遣して人道的支援も行い、現地住民の歓迎を受けました。また、2007年と2011年にはヌーリー・アル=マーリキー首相(当時)が訪日しています。

 さて、“日本との外交関係樹立75周年”の切手は、同図案の3種と小型シートのセットで発行されましたが、そのうち、今回ご紹介の500ディナール切手は、印面下方の記念銘のアラビア語表記が間違っていることで話題になりました。これは、右から左に書くべきアラビア文字の順番が、左から右になってしまったためで、おそらく、パソコンでの入力ならではのミスでしょう。ちなみに、他の切手は正しいアラビア語表示になっていますので、なぜ、500ディナール切手にだけそうしたミスが生じたのか、ちょっと不思議です。(下に正しい表示の切手とアラビア語の正誤それぞれの画像を貼っておきます)

      イラク・対日国交75年(250)

 250ディナール切手の正しいアラビア語表示 

      イラク・対日国交75年(250部分)

 500ディナール切手の間違った(左右文字の順番が逆の)アラビア語表示
      
      イラク・対日国交75年(500部分)


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が7月刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

 なお、当初、『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

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 イラク全土、解放宣言
2017-12-10 Sun 14:40
 イラクのハイダル・アバディ首相は、きのう(9日)、“イスラム国”を自称する過激派組織、ダーイシュを国内から一掃し、全土を解放したとして「戦争の終結」を宣言しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・モスル解放(2017)

 これは、今年(2017年)、イラクで発行されたモースル解放の記念切手です。

 2003年の“イラク戦争”によってサダム・フセイン政権が崩壊した後、イラクは米英を中心とする有志連合の軍事占領下に置かれ、連合国暫定当局(CPA)によって統治されていましたが、2004年6月28日、国家の主権は暫定政権に移譲されました。これに伴い、有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事することになります。

 2005年1月30日に行われた議会選挙の結果、3月16日に国民議会が召集され、10月25日、新憲法が可決承認されます。これに伴い、12月15日、新生イラクの正式政府発足に向けた議会選挙が行われましたが、政権を巡りスンニ派とシーア派、クルド人勢力の対立から治安が極端に悪化し、イラク国内は実質的に内戦状態に突入しました。

 当時、イラク国内でテロ活動を展開していたイスラム過激派としては、“イラクの聖戦アル・カーイダ組織”が最大のものでしたが、この組織は、2006年1月、外国人義勇兵とイラク人民兵の対立から“ムジャーヒディーン諮問評議会”と改称。さらに、同年10月には他組織と統合し、“イラクのイスラム国(ISI)”を自称するようになりました。

 ISIは、2009年以降、バグダードをはじめ国内各地で自爆テロを実行し、多くの民間人を殺傷していましたが、2013年4月、ISIの指導者、アブー・バクル・バグダーディーは、シリアで活動するヌスラ戦線がISIのの下部組織であり、両者と合併して“イラクとレヴァントのイスラム国(ISIL)”ないしは“イラクとシリアのイスラム国(ISIS)”に改称すると宣言します。ちなみに、ダーイシュというのは、そのアラビア語のالدولة الاسلامية في العراق والشام‎の頭文字をとった呼称です。

 さて、ダーイシュはシリアの反アサド政権組織から武器の提供や、戦闘員の増員を受けて、急速に軍事力を強化し、2013年12月30日のイラク西部アンバール県ラマーディーから侵攻を開始し、2014年1月にはラマーディーと同県の都市であるファルージャを掌握、3月にはサーマッラーを襲撃しました。さらに、6月10日にはモースルを陥落させたほか、同月17日にはバグダード北東約60キロのバアクーバまで進撃。6月29日には、バグダーディーを“カリフ”として、当時、彼らの勢力が及んでいたシリア北部のアレッポからイラク中部のディヤラ州までを領域とする“イスラム国”の樹立を一方的に宣言します。

 これに対して、同年8月7日、フランスの求めにより国連安保理の緊急会合が非公式で開催され、ダーイシュによる攻撃で、危機に直面しているイラクを支援することが呼び掛けられました。これを受けて、翌8日、米国がイラク国内のダーイシュ拠点に対して空爆を開始すると、フランス、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、バーレーンも作戦参加表明。9月19日には、国連安保理が全会一致でISILの壊滅に向けて対策強化を求める議長声明を採択しました。

 以後、3年半に及ぶ掃討作戦により、一時はイラク国土の4割を支配していたダーイシュは次第に追い詰められ、イラク軍は、ことし7月にはモースルを、11月17日には最後の拠点都市だった西部ラワをダーイシュから撤退。その後は、国境付近の砂漠地帯で、組織一掃のための作戦が行われていました。
 

 * けさ、アクセスカウンターが186万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は14日!★★

 12月14日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、12月16日から公開予定の映画『ヒトラーに屈しなかった国王』にちなんで、第二次大戦中のノルウェーについてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 勤労感謝の日
2017-11-23 Thu 10:56
 きょう(23日)は勤労感謝の日(もともとは収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する新嘗祭)です。というわけで、農家の方々に感謝して、“収穫”を取り上げた切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・バアス党23年

 これは、1970年4月7日、イラクが発行した“バアス党創設23周年”の記念切手で、バアス党の理念である汎アラブ旗(パレスチナの旗と同じ)を持つ軍人を先頭に、工員や鎌と収穫された麦の穂を持つ農民などが描かれています。

 バアス党の党名は、日本語に訳すと、アラブ社会主義復興党となります。“アラブ社会主義”は、きわめて単純化してしまえば、金融を含む重要産業の国有化と計画経済による開発独裁体制のことで、いわゆるマルクス・レーニン主義のように、宗教を“民衆のアヘン”として排斥するものではありません。このアラブ社会主義と、アラブ世界における既存の国境を解体してアラブの再統合を図るというアラブ民族主義が、バアス党の基本綱領として掲げられています。

 バアス党のルーツは20世紀初頭にも遡るとされることもありますが、制度的には、1940年12月、シリアの民族主義者(宗教的にはアラウィ―派)のザキー・アルスィーズィーらがダマスカスで秘密結社として組織した“アラブ・バアス党”がその源流となっています。

 シリア独立後の1947年4月7日、同党は、ミシェル・アフラクとサラーフッディーン・ビータールらを中心に結党大会を開いて公然組織となり、以後、シリアを本部として、イラク、レバノン、ヨルダン、イエメンに支部を拡大していきます。党名が現在のアラブ社会主義バアス党となったのは、1953年にアラブ社会党と合併してからのことです。

 1958年にエジプトとシリアの合邦により発足したアラブ連合共和国は、1961年、シリアの離反によって破綻。その後もナセルは“アラブ連合”の大義名分を放棄せず、アラブ諸国の再統合を水面下で模索し続けましたが、その際、自分に代わって各国のバアス党が連携して国家統合を進めることには警戒感を抱いていた。

 こうした背景の下、イラクでは、1963年2月にバアス党も加わったラマダーン革命が発生。しかし、革命後の同年11月、非バアス党員でナセル主義者のアブドゥッサラーム・アーリフはバアス党を政権から追放し、革命の果実を独占します。

 アブドッゥサラーム・アーリフは、1966年4月13日の飛行機事故で亡くなり、その後は、アブドゥッラフマーン・バッザースによる3日間の暫定大統領を経て、アブドゥッサラームの兄、アブドゥッラフマーン・アーリフが大統領職を継承しました。アーリフ兄弟はいずれもエジプトとの連携を強化し、1967年の第三次中東戦争にも参戦したが、結果として敗北。翌1968年のバアス党のクーデターでアブドゥッラフマーンは失脚し、トルコへ亡命しました。

 ところで、イラクがアーリフ政権下にあった1966年、シリアでは大統領のアミーン・ハーフィズに対して、ハーフィズ・アサドとサラーフ・ジャディードがクーデターを起こし、バアス党内の実験を掌握します。これに伴い、バアス党の創設者の一人にして、その代表的なイデオローグであり、クーデター発生時のシリア・バアス党の委員長だったミシェル・アフラクが失脚しました。

 この結果、アフラクの権威を否定するシリア・バアス党と、従来通り、アフラクをバアス党の理論的支柱とみなすイラク・バアス党の間で対立が生じました。

 1966年のシリアでのクーデター直後、ダマスカスで開催された第9回バース党大会でアフラクとその支持者が追放されると、これを受けて、当時、アーリフ政権下で下野していたイラク・バアス党は直ちにベイルートで“真の”第9回党大会を開き、アフラクを民族指導部事務総長として迎え入れます。以後、アラブ世界各地のバアス党運動はシリア派とイラク派に分裂し、両者は対立するようになりました。

 こうした経緯を経て、1968年、イラクでバクルひきいるイラク・バアス党政権が成立。同政権は、1970年4月7日、今回ご紹介の切手を発行し、アフラクを迎えた自分たちこそがバアス党の本流であることを誇示しようとしたわけです。

 すなわち、この切手は1947年、アフラクも参加してダマスカスで行われたバアス党結党大会から起算して“23周年”になるのを記念して発行されたもので、「社会主義」「自由」「統一」というバアス党のスローガンが掲げられ、アラブの連帯の象徴としてパレスチナの地図と岩のドームも描かれています。その一方で、“シリア”をイメージさせる要素は一切なく、あたかも、イラク・バアス党が1947年以来、バアス党運動の中軸を担ってきたかのような印象操作が行われています。

 なお、このあたりの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


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 岩のドームの郵便学(53)
2017-08-19 Sat 11:38
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』652号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1990年年代後半のイラクについて取り上げました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・礼拝するフセイン(2000)

 これは、2000年2月、イラクが“ヒッティーンの戦い”をテーマに発行した切手のうち、岩のドームを背に礼拝するサッダーム・フサインの姿を取り上げた1枚です。

 1990年代後半、パレスチナ自治政府がイスラエルへの配慮から、岩のドームの切手をほとんど発行しなかったのに対して、岩のドームをしばしば切手に取り上げていたのが、イラクでした。

 湾岸戦争後間もない時期のイラクは、戦争による打撃に加え、国連の経済封鎖クウェイト侵攻から4日後の1990年8月6日に安保理で採択されたもので、この時点では、イラク国内の非人道的行為の停止を含む全ての停戦決議の履行がない限り、イラクに対するいっさいの輸出入を禁止)によって、経済的にどん底の状態にありました。

 しかし、1995年頃から、イラクをめぐる国際世論の風向きは徐々に変わり始めます。国連によるイラクへの経済制裁に対して、イラクのみならず、諸外国から不満の声が高まっていったためです。

 そもそも、湾岸戦争の直前でさえ食糧自給率が3割程度しかなかったイラクに対して、食糧を含む輸出入を禁ずることに対しては、経済制裁が開始された当初から、人道上の理由で反対する声が欧米でも少なくありませんでした。また、潜在的な域内大国であるイラクとの経済関係を遮断することは周辺諸国にとって多大な経済的犠牲を強いることになりました。さらに、産油国イラクとの交易再開を求める声は、終戦から3年以上経過すると、西側諸国の間でも無視できないものとなっていましたし、戦争被害に対する補償や国連自身のイラクでの活動に必要な資金をまかなうためにも、イラクに一定の石油を輸出させ、その代金を活用すべきだという案は国連にとっても魅力的なものでした。

 その結果、1995年4月、半年間に20億ドルを越えない範囲での石油輸出を許可し、食糧・医薬品などの人道物資の輸入を認めるという国連安保理決議986号が採択されます。当初、イラク側は、経済制裁の完全解除を求めて同決議を拒絶しましたが、1996年に入ってこれを受諾し、同年12月から原油の輸出を再開しました。

 その後、イラクは、ロシア、フランス、中国を味方につけて国連との交渉を有利に進め、その結果、イラクに対する経済制裁は次第に有名無実化。石油輸出の上限が廃止された1999年以降、イラクは実質的に国際経済への復帰に成功しました。

 こうした情況の好転に伴い、イラク切手の題材も国際社会に対するルサンチマンを表明するものから、独裁者としてのサッダーム・フサインに対する個人崇拝を国民に浸透させるための内向きのメディアへと性格を変質させていくことになります。

 その一環として、1998年2月には、岩のドームを背景に、サラーフッディーン(サラディン)とサッダームを並べて描く切手も発行され、サッダームを“現代のサラディン”になぞらえようとするプロパガンダ政策が展開されました。

 サッダームはイラク北部、ティクリート出身ですが、この地は、十字軍と戦い、エルサレムを奪還した英雄、サラディンの出身地でもあります。このため、リンケージ論を展開するようになったサッダームは「パレスチナ問題の解決を訴えて二重基準と戦う自分は、現代のサラディンである」との自己演出を展開したわけです。

 加えて、サッダームを“現代のサラディン”とする言説には、パレスチナ問題とは別に、クルド人問題を意識したものでもありました。

 クルド人は、トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等にまたがるイラン系の民族集団で、人口は2500-3000万人。これは、独自の国家を持たない民族集団としては世界最大の規模です。このうち、イラク国内のクルド人に関しては、バアス党政権下の1970年、自治区が設置されましたが、イラン・イラク戦争中の1985年から88年にかけて、イラク東部のサルダシュトやハラブジャなどでは、主としてクルド系住民がイラン側に協力したとして、サッダーム政権はマスタードガス、サリン、VXガスなどの化学兵器をクルド人自治区で使用し、多くの住民を殺害。こうしたこともあって、1991年に湾岸戦争が勃発すると、クルド人はイラク政府に対して武装蜂起しました。

 その後、イラクに進攻した多国籍軍はイラク北部の北緯36度以北に飛行禁止空域を設けてクルド人を保護。これにより、イラク北東部のアルビール県、ドホーク県、スレイマニヤ県、ハラブジャ県の4県にまたがる“クルディスタン地域”が設定され、クルド人は自治権を獲得し、1992年には反体制派の大同団結集会も行われています。そして、それに伴い、自治区独自の旗が制定され、独自の通貨と切手も発行されました。

 ところが、クルディスタン地域の自治区内では、二大政党であるクルド民主党とクルド愛国同盟の対立が激しく、1994年以降、大規模な戦闘が発生し、クルディスタン地域は事実上の分裂状態に陥ります。このうち、クルド愛国同盟が反バアス党を優先してイランの支援を受けたことに対抗し、クルド民主党はイラク中央政府と結託。1996年8月には、イラク中央政府の支援を受けたクルド民主党が対立勢力を放逐し、クルディスタン地域は再びバアス体制に取り込まれることになりました。

 サッダームとサラディンを並置させるプロパガンダは、こうした背景の下、サッダームがサラディンと同じくクルド人の血統であることを強調することで、サッダーム=クルド人を含めたイラク国家の国父というイメージを演出しようとした意図がありました。

 もっとも、自らをサラディンになぞらえようとするサッダームの自己演出は、イラク国外ではほとんど支持者を得られませんでしたたが、彼が敵対している米国を“現代の十字軍”になぞらえて批難するロジックは、この頃から、アラブ世界の言論空間でも目立つようになってきます。

 その典型的な事例としては、1998年2月23日、ウサーマ・ビン・ラーディン、アイマン・ザワーヒリー(エジプトの原理主義組織“ジハード団”の指導者)、アブ・ヤシル・リファーイー・アフマド・ターハー(エジプトの“イスラム集団”の指導者)、ミール・ハムザー(パキスタン・ウラマー協会の書記官)、ファズルール・ラフマーン(バングラデシュの“ジハード運動”の指導者)が連名で“ユダヤ人と十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線”の結成を宣言したことが挙げられます。

 同宣言では、米国が湾岸戦争以来「7年にわたって、最も神聖な土地、アラビア半島にあるイスラムの地を占領し、富を略奪し、為政者に命令を下し、民を辱め」ており、「十字軍(=米国)とシオニストの同盟によって、大いなる荒廃がイラク国民に与えられた」としたうえで、「アクサー・モスクと聖なる(メッカの)モスクを彼ら(=十字軍とシオニスト)を彼らの支配から解放し、彼らの軍隊をイスラムの全ての土地から排除するため…(中略)…米国人とその同盟者を、軍人・民間人を問わず、殺害することを決断するのは、それが可能な国に住むすべてのムスリムにとって、各人が個人として果たさねばならない義務である」と謳っており、米国を現代の十字軍になぞらえて、ムスリムの敵と認定しています。

 その際、エルサレムにおけるイスラムの聖地であるアクサー・モスクを持ち出すことによって、“十字軍”の語は、単なる比喩を越えて、歴史上の十字軍のイメージと、サッダームの提起した“リンケージ論”を具体的なイメージとして結びつける触媒となっています。その意味では、サッダームとビン・ラーディンという、本来は全く無関係であったはずの二人が、“十字軍”というキーワードによって、アラブ・イスラム世界の大衆心理においては、反米のヒーローに祀り上げられたといってもよいでしょう。

 今回ご紹介の切手は、そうした背景の下、2002年2月、サラディンがエルサレムを奪還したことで知られる“ヒッティーンの戦い”を題材に発行されたモノの1枚で、岩のドームを背に礼拝するサッダームの姿が取り上げられています。このデザインは、“現代のサラディン”が現代の十字軍に戦いを挑むというイメージが、より多くのアラブ大衆の心をつかみうるものであることを想定して制作されたものであることは間違いありません。なお、当初、この切手は1999年に発行の予定だったようで、一部の切手には“1999年”の年号が入っていますが、実際の切手発行は2000年にまでずれ込んでいます。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、現在、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』(仮題)の刊行に向けて、制作作業を進めています。発売日などの詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。 


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は24日★★★ 

 8月24日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第7回が放送予定です。今回は、放送日が独立記念日のウクライナにスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、高校野球の順延などにより、24日の放送がなくなる可能性もありますが、その場合はあしからずご容赦ください。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


 ★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

      タウンミーティング in 福山

  2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。
      
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

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 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 モスル解放
2017-07-10 Mon 11:05
 イラクのアバディ首相は、きのう(9日)、“イスラム国”を自称する過激派組織のダーイシュが同国最大の拠点としてきたモスルを訪れ、ダーイシュに勝利し、モスルを解放したと宣言しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・モスルのミナレット

 これは、1967年にイラクが発行した観光宣伝の切手のうち、モスルのヌーリー・モスク(光のモスク)のミナレットを取り上げた1枚です。

 ヌーリー・モスクは、1172年、ザンギー朝・シリア地方のスルターンであったヌールッディーン・マフムードの命により、もともとこの地にあったモスクを改修・拡張するかたちで建立されました。モスクの名前は、ヌールッディーンに由来します。

 今回ご紹介の切手に取り上げられたミナレットはモスクの敷地の北西隅に位置しており、地中8.8m、高さ15.5mの直方体の基部の上に、高さ45mの円筒形のシャフト部が乗った構造です。円筒形のシャフト部の外壁には、鉛直方向に7パターンの異なる幾何学模様が並ぶように装飾煉瓦が貼られているため、外見上、7層の塔のように見えます。また、基部の東面にはアーチ状の入口があり、内部の螺旋階段を使って、頂上に上ることも可能です。

 このミナレットはすでに14世紀には傾いており、このため、“湾曲”を意味するアラビア語の“ハドバーゥ”の愛称でも親しまれています。その理由については、コーラン第17章に記されているムハンマドの天界飛翔の際、天馬にまたがったムハンマドに敬意を表してミナレットが自ら傾きそのままになったという伝承が伝えられていますが、実際には、外壁の煉瓦が昼夜の温度差で膨張と収縮を繰り返し、南東側が縮んだということのようです。

 親英王制下の1942年、イラク政府はヌーリー・モスクの大規模な改修を行い、モスク本体は“近代化”されてしまいましたが、バドバーゥはそのまま残されました。その後、調査により倒壊の危険があることが分かったため、1970年代には補修工事が行われましたが、その工事途中の1980年、イラン・イラク戦争が勃発。翌1981年に工事は完了したものの、イランの空爆によりモスルの街の下水設備が破壊され、モスクの排水機能が損害を受けたことで、バドバーゥはさらに傾くことになりました。

 2014年6月、モスルを占領したダーイシュは、当初、バドバーゥを破壊するとの声明を出しましたが、地元住民の激しい抵抗の前にこれを断念。7月4日には、ダーイシュの首領、アブー・バクル・バグダーディーがヌーリー・モスクの金曜礼拝に姿を現し、カリフ制の復活と、自らがカリフとなることを宣言しました。

 こうして、ダーイシュ支配下でも維持されるかに見えたヌーリー・モスクとバドバーゥでしたが、イラク政府軍によるモスル奪還作戦が展開されていく過程で、2017年6月21日、追い詰められたダーイシュはモスクとバドバーゥを破壊。その後、彼らの残党はモスルを脱出して、彼らが“首都”と位置付けるラッカなどで活動を継続しています。


 ★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月15-17日(土ー月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオーストラリア切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2017ポスター

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。

 ことしは、香港“返還”20周年ということで、内藤も昨年(2016年)、ニューヨークの世界切手展<NEW YORK 2016>で金賞を受賞した“A History of Hong Kong(香港の歴史)”をチャンピオンクラスに出品します。また、会期中、16日(日)15:30~、展示解説も行いますので、皆様よろしくお願いします。


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 父の日
2017-06-18 Sun 10:19
 きょう(18日)は“父の日”です。というわけで、“母の日”の時と平仄をあわせて、パレスチナ関連の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ムハンマド・ドゥラ事件(イラク)

 これは、2001年9月20日にイラクが発行した“パレスチナのために”の切手のうち、銃撃されるジャマールとムハンマドのドゥラ父子を取り上げた1枚です。

 オスロ合意後の和平プロセスが停滞する中で、2,000年7月、イスラエルのエフード・バラック労働党政権はパレスチナ自治政府に対してヨルダン川西岸地区からのイスラエル軍の撤退を含む“寛大な申し出”を行うことで和平の進展を目指しましたが、東エルサレムの帰属に固執するアラファトはこれを拒否。和平交渉は決裂します。

 こうした状況の下、9月28日、翌2001年2月の首相公選をにらんで支持拡大を狙っていた野党リクードの党首、アリエル・シャロンが、護衛の警官1000人とともに、エルサレムの“神殿の丘”に上るパフォーマンスを行いました。

 第三次中東戦争の結果、東エルサレムはイスラエルの占領下に置かれましたが、岩のドームを含むハラム・シャリーフ(ユダヤ教の用語では神殿の丘)は歴史的にワクフが設定されていることから、ヨルダン宗教省が引き続きその管理を行い、原則として、ユダヤ教徒とキリスト教徒による宗教儀式は禁じられているという変則的な状況となっていました。

 ちなみに、ワクフというのはイスラムに独特の財産寄進制度で、なんらかの収益を生む私有財産の所有者が、そこから得られる収益を特定の慈善目的に永久に充てるため、その財産の所有権を放棄すること、またはその対象の財産やそれを運営する組織を意味しています。一度、ワクフとして設定された財産については一切の所有権の異動(売買・譲渡・分割など)が認められません。パレスチナ、特に、ハラム・シャリーフがワクフであるとの根拠は、638年、第2代正統カリフのウマルが、エルサレムの無血開城に際してギリシャ正教会総主教と結んだ盟約にあるとされています。

 これに対して、イスラエル国内の反アラブ強硬派は神殿の丘にあるイスラムの建物を破壊してユダヤ教神殿を再建することを主張していましたから、対パレスチナ強硬路線を掲げていたシャロンが神殿の丘に登ることはきわめて挑発的な行為として、パレスチナ域内のみならず、イスラム世界全域から強く非難されました。しかも、事前にパレスチナ側の強い反対があったにもかかわらず、イスラエルのバラック政権はシャロンの行動を阻止しなかったため、翌29日、パレスチナのムスリム2万人が抗議行動を開始。その過程で、嘆きの壁で祈祷していたユダヤ教徒への投石を機に、パレスチナ全域で大規模な民衆蜂起が発生しました。

 これが、第二次インティファーダです。

 第二次インティファーダ発生翌日の9月30日、ガザ地区でジャマールとムハンマドのドゥラ父子が、“イスラエル軍監視所方向から”の銃撃を受け、父親のジャマールは重傷を負い、当時12歳だったムハンマド君が亡くなります。ちなみに、事件当日、ガザ地区内の学校は休校措置が採られており、ムハンマドも家にいて、当初はインティファーダを見に行きたいといっていました。しかし、棄権が大きすぎるとの両親の反対で断念。代わりに、父親のジャマールとともに車の競売(ジャマールはその直前に、それまで乗っていた1974年式のフィアットを売却しており、新たな車が必要だったそうです)に出かけ、その途中で遭難したわけです。

 フランスのテレビ局、フランス2のパレスチナ人カメラマン、タラール・アブー・ラフマは、市街地での銃撃戦に巻き込まれて恐怖の表情で身を隠す父子の映像と、しばしの中断の後、銃撃されたぐったりした父子の映像を撮影。これが、フランス2のみならず、CNNなどを通じて全世界に放送され、全世界に衝撃を与えるとともに、インティファーダの激化を招きました。

 件の映像が放映された直後、イスラエル当局はイスラエル軍による発砲を認めて“謝罪”を表明。これを受けて、アラブ諸国は、父子への銃撃をイスラエルの非道を象徴するものとして、こぞって悲劇の場面を取り上げた切手を発行します。今回ご紹介のイラクの切手もその1枚ですが、事件はガザ地区での出来事にもかかわらず、サッダーム・フサインの主張するリンケージ論を強く印象付けるため、エルサレムの岩のドームを左上に配した図案構成になっています。なお、この切手では、ムハンマド少年の亡くなった日は“2000年10月1日”となっていますが、上述のように、少年が亡くなったのは9月30日で、切手に記された日付は少年の死が報じられた日というのが正確です。

 ところが、2002年3月、ムハンマド少年の遺体が、事件後、解剖などの捜査もないまま、異例の速さで埋葬されたことなどに疑問を抱いたドイツのテレビ局ARDが現地で聞き取り調査などを実施し、ドキュメンタリー番組を作成。背後の壁に残された弾痕の形状やイスラエル軍の監視所の位置関係から、少年の命を奪ったのは、イスラエル軍の発砲による可能性は低く、むしろ、パレスチナ側からの発砲による可能性が高いと指摘しました。

 これを受けて、イスラエルは再調査の上、2005年に少年の死はイスラエル軍による発砲だったとの見解を撤回。2013年の最終報告書では、イスラエル軍の発砲によって父子を殺傷することは物理的に不可能だったと結論づけています。

 一方、父親のジャマールとエンダリン、フランス2は、少年の死はあくまでもイスラエルの発砲によるものと主張。2012年には、フランス2が、同局の“捏造報道”を非難するジャーナリストのフィリップ・カーセンティを名誉棄損で提訴し、翌2013年、カーセンティには7000ユーロの罰金を科す判決が出るなど、事件をめぐる対立は現在も続いています。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、懸案となっている「ユダヤと世界史」の書籍化と併行して、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』(仮題)の刊行に向けて、現在、制作作業を進めています。発売日などの詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。 


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★ 

 6月15日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第4回目は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は6月29日(木)16:05~の予定ですので、引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、15日放送分につきましては、放送から1週間、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

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 HAPPY NOWRUZ!
2017-03-20 Mon 21:38
 今日(20日)は春分の日。日本ではお墓参りの日ですが、イランを中心にその文化的影響が及んでいる国や地域では、新年のお祭り・ノウルーズの日です。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・ノールーズ加刷

 これは、1970年にイラクが発行した“ノウルーズ”の記念加刷切手です。

 さて、イスラム世界では預言者ムハンマドと信徒たちがメッカからメディナに移住し、イスラムの共同体を作った“ヒジュラ”のあった年を紀元とするヒジュラ暦が使われていますが、このヒジュラ暦は完全太陰暦で、かつての日本の旧暦のように閏月を入れて調整するということは行われていませんから、毎年、11日ずつ、太陽暦の日付とズレが生じます。

 この点について、ムスリムたちは、信徒の義務であるラマダン月(ヒジュラ暦の9月)の断食が、毎年、少しずつ季節を移動していくことによって、地域ごとの断食の負担の格差が是正されるメリットがあると説明しています。たとえば、ラマダン月が真冬の時期に当たると、熱帯の国では比較的楽に断食が行えますが、寒冷地域の断食は非常に厳しいものがあります。逆に、ラマダン月が真夏にぶつかると、熱帯と寒冷地域では、その負担の重さは逆転します。

 したがって、全世界の信徒にとって、断食の負担の平準化を図るためには、ラマダン月が毎年季節を移動していくことはポジティブにとらえられており、それゆえ、ヒジュラ暦は調整なしの完全太陰暦なのだ、というロジックが導き出されることになります。

 とはいえ、いくら宗教的に重要な意味があるとはいえ、毎年、暦の日付と季節がずれていけば、農作業などでは不便も多く生じます。このため、イスラム世界の各地では、イスラム暦とは別に、太陽暦に連動した農事暦が用いられることも多く、イランの場合は、イスラム以前から使われていたイラン暦として春分を元日とした太陽暦も用いられています。

 この元日が、いわゆる“ノウルーズ”(直訳すると“新しい日”の意味)と呼ばれるもので、イランを中心に中央アジアの5共和国でも祝日になっています。また、クルド人がノウル-ズを祝う習慣があることから、トルコではクルド人に対する宥和政策の一環として国民の休日に指定されているほか、イラク国内のクルド人自治区(クルディスタン)でも、ノウルーズは祝日に指定されています。今回ご紹介の切手が発行された1970年は、バアス党政権下の1970年、クルド人自治区が設定された年ですので、加刷切手の発行も、彼らに対する融和政策の一環だったということなのでしょう。

 なお、しばしば誤解されることですが、ノウルーズはイスラム圏全体に共通の行事ではなく、アラブ世界ではほとんど無視されているのが実情です。じっさい、イラクの場合も、ノウルーズはあくまでもクルド人自治区の祝日であり、国として休日・祝日には指定されていません。ちなみに、イスラム世界全体としては、イスラム教徒としての新年はヒジュラ暦のムハラッム月(第1月)1日に祝うのが主流ですが、こちらは上述のように年によって季節は一定していません。

 現在、イラク国内では過激派組織ダーイシュ(自称イスラム国)との戦いが激しさを増しており、クルド人の間でも、“戦時下”という状況に鑑みて、ノウルーズに際しても派手なことは控える風潮が強くなっているのだとか。一刻も早くダーイシュを掃討し、来年こそは、クルディスタンでも盛大にノウルーズのお祝いができるようになると良いですね。


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 岩のドームの郵便学(23)
2014-11-24 Mon 17:50
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』553号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、1977-78年にエジプト以外の各国で発行された岩のドームの切手をご紹介する4回目。今回はこの切手を取りあげました。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・強制貼付切手(パレスチナ1977)

 これは、1977年10月、“パレスチナにおける自由の戦士と殉難者の遺家族の福祉のために”と題してイラクが発行した強制貼付切手です。

 イラクでは、1949年にもパレスチナに対する義捐金を集めるために強制貼付切手を発行したことがありますが、その後、1974年までに発行された強制貼付切手の発行名目は、いずれも、国防献金の徴収でした。もちろん、イスラエルの攻撃から自国を守るための“国防献金”ということであれば、パレスチナと全く無関係とは言えないわけですが、今回ご紹介の切手のように“パレスチナ”を直接的な題材としたのは、じつに25年ぶりのことでした。

 第3次中東戦争後の1968年、イラクでは、いわゆる“7月11日革命”によって、陸軍のアフマド・ハサン・バクルを大統領とするイラク・バアス党(以下、特記なき限り、バアス党)政権が発足します。

 バアス党はアラブ民族主義を掲げる政党ですが、イラク国家そのものはイスラエルと直接に国境を接しておらず、1967年の第3次中東戦争においても、エジプトやヨルダン、シリアなどのようにイスラエルによって領土を占領されたわけではありません。もちろん、戦争の被害に関しても、他のアラブ諸国に比べると比較的軽微でした。

 このため、失地奪還のために対イスラエル戦争を準備していたエジプトやシリアとは異なり、バクル政権は、パレスチナ問題には深入りせず、1972年の石油国有化を経て国内の経済建設に邁進することを基本的なスタンスとしていました。1973年の第4次中東戦争に際しては、バアス党政権としてアラブ民族主義の嫡流を自称する建前から参戦したものの、実際の戦闘にはほとんど参加せず、石油戦略の発動によって巨額の富を得ています。

 むしろ、当時のバクル政権にとっては、イスラエルよりも、米国の支援で“湾岸の憲兵”をなった隣国イランの軍事的な脅威をいかにして減殺するかということが深刻な課題でした。

 その一環として、バクル政権は、バローチスターン問題に介入します。

 バローチスターンは、行政上はパキスタン南西部の州の名ですが、地域概念としては、パキスタンのバローチスターン州に加えて、イラン東南のスィースターン・バルーチェスターン州からアフガニスタン南部にまで及ぶバルーチ人の居住地域で、各国で中央政府からの分離独立を唱える活動が展開されていました。

 親英王制時代の1950年代から、イラクは、イランの安全保障上の関心を東部国境に向くようにむかせるべく、ダッド・シャー率いるイラン国内のバルーチ人の分離独立勢力による武装闘争を支援していました。ダッド・シャーは1957年に殺害され、親英王制は1958年の革命で崩壊しますが、革命後のカーシム政権もバルーチ人に対する支援を継続します。

 1960年代に入ると、イラン側の弾圧により、バルーチ人の分離独立運動は下火になり、活動家たちは地下に潜伏しましたが、バクル政権が発足した1968年、イラクを中心にアラブ諸国はバルーチ人を支援し、再び叛乱を起こさせました。バルーチ人の叛乱は1975年まで続きますが、この間、イラクは叛乱の最大の支援国はイラクでした。

 また、イラン国内のバルーチ人のみならず、パキスタン国内のバルーチ人分離独立派も、1973年から1977年にかけて、イラクの支援を受けてパキスタン政府に対する武装闘争を展開していました。じっさい、パキスタンでの叛乱のきっかけは、1973年2月、イスラマバードのイラク大使館で不正に持ち込まれた兵器が発見されたことから、当時のズフリカル・アリー・ブット政権がバローチスターン州政府を解体し、バルーチ人活動家3人を逮捕した事件でした。この件に関して、パキスタン政府は、ソ連と結んだイラクがパキスタンとイランに挑戦しようとしていると非難の声明を発しています。

 結局、1977年、パキスタンはイランの支援を受けてバローチスターンの叛乱を鎮圧。1973年以来獄中にあった活動家を国外追放処分としました。

 一方、イラク国内に目を転じると、1977年は、革命指導評議会副議長のサッダーム・フセインが革命指導評議会メンバーと閣僚を自分の側近に入れ替え、バクルに代わって政府の実権を掌握した年でもあります。

 1968年にバクルが無血クーデターを起こした際、バアス党の若き活動家だったサッダームは、戦車でバグダードの大統領宮殿に乗り付けて政府中枢を制圧するなど、クーデターの成功に大いに貢献。その功績が買われて、1931年生まれのサッダームは、わずか31歳にして治安機関の責任者に任じられ、クーデターに協力したアブドゥッ=ラッザーク・ナーイフ首相の国外追放、イブラーヒーム・ダーウード国防相の逮捕など、バクル大統領の権力基盤を強化しました。その結果、1969年には、革命指導評議会(RCC)副議長に任命され、バクルの後継者としての地位を確保し、徐々に、力を蓄えていきます。

 サッダームは、イラク・バアス党をシリア・バアス党の影響下から引き離すべく、バアス党結党の理念であるアラブ民族主義を徐々に骨ぬきにし、「イラク人民とは文明の発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」とする“イラク・ナショナリズム”を掲げていました。当然のことながら、パレスチナ問題への関心もつよくはありません。

 しかしながら、イランおよびパキスタンでのバルーチ人に対する支援工作が頓挫したのと時を同じくして、バクルに代わってサッダームが実質的に政権を掌握したというタイミングをとらえて、イラク政府としては、政権の“変化”を国民に印象付けるべく、あえて“パレスチナ”を直接的な題材とする強制貼付切手を25年ぶりに発行したものと考えられます。

 なお、翌1978年のエジプト・イスラエル和平により、エジプトは“アラブ世界の盟主”としての座を失ったことを受けて、野心的なサッダームはイラクこそがエジプトに代わって新たな“盟主”になるべきだと考えるようになりました。強制貼付切手の発行は、エジプト・イスラエルの緊張緩和という流れを見据えて、そうした主張を展開するための下準備であったと見ることも可能かもしれません。


 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★

      チャンネルくらら写真

 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです)

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は1月6日(12月は都合によりお休みです)で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 モースル陥落
2014-06-11 Wed 10:06
 2011年末の米軍撤退完了後、宗派対立により深刻な治安悪化が続いているイラクで、昨日(10日)、同国北部にある第2の都市モースルが、国際テロ組織アルカイダの影響下にある過激派“イラク・レバントのイスラム国(ISIL)”に制圧されました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      モスル加刷

 これは、第一次大戦後の1919年、英軍占領下のモースルで発行された暫定加刷切手です。

 現在のイラク国家の枠組は、基本的に、旧オスマン帝国時代のモースル州・バグダード州・バスラ州(からクウェートを除いた地域)から構成されていますが、このうち、一番北にあるモースル州は第一次大戦以前から石油の産地として知られ、1916年のサイクス・ピコ協定による密約では、戦後、フランスの勢力圏内に組み込まれるものとされていました。

 1918年10月30日、第一次大戦でオスマン帝国が降伏した時点では、モースルは依然としてオスマン帝国が維持していましたが、戦後の混乱に乗じて、英軍は11月に入ってからモースルを占領します。今回ご紹介の切手は、そうした英軍占領下のモースルで使用するため、1919年7月、オスマン帝国の印紙を接収し、 「IEF “D”」の文字を加刷したものです。加刷文字の“IEF”はインド遠征軍(Indian Expeditionary Force)の略で、 “D”がモースル地区の担当を意味しています。

 第一次大戦の勃発後、英軍はペルシァ湾に面する港湾都市バスラに上陸し、バグダードへ向けて進撃を開始しましたが、フォン・デア・ゴルツ将軍ひきいるオスマン朝軍の守りは堅く、クートから先にはなかなか進むことができませんでした。このため、1916年8月以降、英印軍が投入され、翌1917年3月、ようやくバグダードが陥落。その後、英印軍はモースルの占領にもかかわったため、今回のような加刷切手が発行されることになりました。なお、通貨単位がインド・ルピーで4アンナとなっているのもそのためです。

 第一次大戦後のオスマン帝国の旧領分割をめぐっては、フサイン・マクマホン書簡の密約によるアラブ国家の樹立を求めるアラブ側と、サイクス・ピコ協定の履行を求めるフランスとの間で英国は板挟みになりますが、1920年4月のサンレモ会議では、フランスがイラク北部のモースルの支配を放棄する代償として、現在のシリア・レバノンの地域を自らの勢力圏とすることを最終的に英国に承認させました。

 この結果、モースル州はバグダード州、バスラ州は“イラク”として、英国の委任統治下に置かれることにな李、それが、現在のイラク国家のルーツとなりました。

 さて、7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。講座では、今回取り上げたイラクのみならず、オスマン帝国の崩壊により現在の中東諸国の枠組ができあがっていくプロセスについても、当時の切手や郵便物等を使ってわかりやすく解説する予定です。名古屋エリアの方は、ぜひ、遊びに来ていただけると幸いです。 


 ★★ 講座「切手を通して学ぶ世界史:第一次世界大戦から100年 」のご案内 ★★ 

       中日・講座チラシ    中日・講座記事

 7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。

 講座では、ヨーロッパ、中東、日本とアジアの3つの地域に分けて、切手や絵葉書という具体的なモノの手触りを感じながら、フツーとはちょっと違った視点で第一次世界大戦の歴史とその現代における意味を読み解きます。

 詳細は、こちらをご覧ください。

 * 左の画像は講座のポスター、右は講座の内容を紹介した5月20日付『中日新聞』夕刊の記事です。どちらもクリックで拡大されますので、よろしかったらご覧ください。
 

 ★★★ 『年賀状の戦後史』が電子版になりました! ★★★

  日本人は「年賀状」に何を託してきたのか?
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 アマゾン紀伊国屋書店ウェブストアなどで、6月10日から配信が開始されました。よろしくお願いします。


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 岩のドームの郵便学(16)
2014-04-22 Tue 21:17
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』532号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、第3次および第4次中東戦争の戦間期のアラブ世界の状況のうち、シリアとイラクのバアス党にスポットをあてました。その中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

       イラク・国軍の日(1971)

 これは、1971年にイラクで発行された“国軍の日”の記念切手の小型シートで、右側の40フィルス切手にはパレスチナの地図に岩のドームを描き、行進するイラク軍の兵士が描かれています。

 1958年7月14日、自由主義将校団によるクーデターでハーシム王制が打倒されたイラクでは、1963年2月に再度クーデター(ラマダーン革命)が発生し、ナセル主義者のアブド・サラーム・アーリフがバアス党と連携して政権を掌握しました。

 バアス党の党名は、日本語に訳すと、アラブ社会主義復興党となります。アラブ社会主義(きわめて単純化してしまえば、金融を含む重要産業の国有化と計画経済による開発独裁体制のことですが、いわゆるマルクス・レーニン主義のように、宗教を“民衆のアヘン”として排斥するわけではありません)と、アラブ世界における既存の国境を解体してアラブの再統合を図るというアラブ民族主義を基本綱領として掲げており、その意味では、エジプトのナセルと基本路線に大きな相違はありません。

 そのルーツは20世紀初頭に遡るもいえるのですが、制度的には、1940年12月、シリアの民族主義者(宗教的にはアラウィ―派)のザキー・アルスーズィーらがダマスカスで秘密結社として組織した“アラブ・バアス党”がその源流で、シリア独立後の1947年4月7日、ダマスカスで第1回に公式の結党大会を行い、公然組織となりました。その後、シリアを本部として、イラク、レバノン、ヨルダン、イエメンに支部を拡大します。

 1958年にエジプトとシリアの合邦により発足したアラブ連合共和国は、1961年、シリアの離反によって破綻しましたが、その後もナセルは“アラブ連合”の大義名分を放棄せず、アラブ諸国の再統合を水面下で模索し続けます。その際、彼は、自分に代わって各国のバアス党が連携して国家統合を進めることには警戒感を抱いていました。

 こうした背景の下、イラクでは、1963年2月のラマダーン革命後、非バアス党員でナセル主義者のアブド・サラーム・アーリフが、同年11月、バアス党を政権から追放し、革命の果実を独占することに成功します。

 アブド・サラーム・アーリフは、1964年5月26日、エジプトと合同大統領評議会を立ち上げ、アラブ社会主義のエジプトとの統合を見据えて主要産業を国有化。同年末には統合のためのプランまで発表しました。しかし、すでにエジプトとシリアの国家統合が破綻していたこともあって、エジプトとの統合には慎重論も根強く、結局、統合論は有耶無耶になってしまいます。

 そうしているうちに、1966年4月13日、アブド・サラームは飛行機事故により死亡し、アブド・ラフマーン・バッザースによる3日間の暫定大統領を経て、アブド・サラームの兄、アブド・ラフマーン・アーリフが大統領職を継承しました。

 アブド・ラフマーンは、弟の路線を引き継ぎ、ナセルと連携して1967年の第3次中東戦争にも参戦しましたが、イスラエルの前にイラク軍も惨敗。この結果、翌1968年7月17日、アフマド・ハサン・バクルらバアス党員のクーデターによって失脚し、トルコへ亡命しました。

 ところで、アーリフ政権時代の1966年、シリアでは大統領のハーフィズに対して、ハーフィズ・アサドとサラーフ・ジャディードがクーデターを起こし、バアス党内の実験を掌握します。これに伴い、バアス党の創設者の一人にして代表的なイデオローグで、クーデター発生時のシリア・バアス党の委員長だったミシェル・アフラクが失脚。アフラクを否定するシリア・バアス党と、従来通り、アフラクをバアス党の理論的支柱とみなすイラク・バアス党の対立が生じました。

 クーデター直後、ダマスカスで開催された第9回バース党大会でアフラクとその支持者が追放されると、イラク・バアス党は直ちにベイルートで“真の”第9回党大会を開き、アフラクを民族指導部事務総長として迎え入れました。以後、バアス党運動はシリア派とイラク派に分裂し、両者は対立するようになります。

 その後、1970年11月13日、シリアでは国防大臣のハーフィズ・アサドによるクーデターが発生し、事実上の最高権力者であったサラーフ・ジャディード(公的な地位としてはシリア・バアス党第2書記)を失脚させました。

 ジャディードの政治路線は、アラブ諸国との軍事同盟よりもシオニストとの“人民戦争”を重視するという基本方針の下、イスラエルとサウジアラビア(アラブ社会主義の視点からは“反動アラブ諸国”の筆頭と目されていた)に対して強硬路線を採るというものでしたが、第3次中東戦争の敗戦によりその権威は大きく損なわれ、さらに1970年9月、ヨルダンで発生したブラック・セプテンバー事件でのPLO支援などによって、バアス党内の穏健派(現実主義派)と激しく対立していました。

 1970年11月のシリアでのクーデターはこうした背景の下で発生したもので、政権を掌握したアサドは、ジャディードに連なる党内左派を追放するとともに、“(ナセル時代の行きすぎた)革命の矯正”を進めていたサダトとも連携し、第3次中東戦争で失ったゴラン高原の奪還を目指して軌道修正に乗り出します。

 この間、アフラクは1970年のブラック・セプテンバー事件に対してイラク政府が介入するよう求めたものの、バクル政権から拒否されたことに抗議してレバノンに逃れています。一方、アサド政権は、翌1971年、欠席裁判でアフラクに死刑判決を下しました。

 こうした事態の変化を受けて発行されたのが、今回ご紹介の切手です。

 イラクの「国軍の日」は毎年1月6日となっていますが、これは、親英王制時代の1921年1月6日にイラク王国軍が発足したことによるもので、1971年はそこから起算して50周年にあたっていました。

 2種類発行された記念切手のうちの40フィルス切手にはパレスチナの地図を背景にした岩のドームと、そこに向かって進軍するイラク軍が描かれています。切手には、額面数時の40以上に大きな文字で“50(周年)”と表示しており、あたかも、イラク国軍がパレスチナ解放の大義のために50年間戦ってきたかのようなイメージになっています。

 もちろん、これは歴史的な事実には反するのですが、1947年にシリアでバアス党が正式に発足する以前から存在していたイラク国軍とパレスチナ解放の大義を結びつけることによって、自分たちこそがアラブ民族主義の嫡流であることを主張しようとしたと理解することができましょう。

 もっとも、1968年にイラクの政権を掌握したバクルのバアス党は、そうした建前とは裏腹に、必ずしもパレスチナ問題に熱心に取り組んでいたわけではありません。

 そもそも、イラクはイスラエルと直接に国境を接しておらず、1967年の第3次中東戦争においても、エジプトやヨルダン、シリアなどのようにイスラエルによって領土を占領されたわけではなく、戦争の被害に関しても、他のアラブ諸国に比べると比較的軽微でした。

 このため、失地奪還のために対イスラエル戦争を準備していたエジプトやシリアとは異なり、パレスチナ問題には深入りせず、1972年の石油国有化を経て国内の経済建設に邁進するというのが、バクル政権の基本的な姿勢となっていました。

 その姿勢は、結果的に、翌1973年、アラブ民族主義の嫡流を自称する建前から第4次中東戦争に参戦するものの、実際の戦闘にはほとんど参加せず、石油戦略の発動によって巨額の富をイラクにもたらすことになるのです。


 ★★★ 切手が語る台湾の歴史 ★★★

 5月15日13:00から、よみうりカルチャー北千住にて、よみうりカルチャーと台湾文化部の共催による“台湾文化を学ぶ講座”の一コマとして、「切手が語る台湾の歴史」という講演をやります。

 切手と郵便はその地域の実効支配者を示すシンボルでした。この点において、台湾は非常に興味深い対象です。それは、最初に近代郵便制度が導入された清末から現在に至るまで、台湾では一貫して、中国本土とは別の切手が用いられてきたからです。今回の講演では、こうした視点から、“中国”の外に置かれてきた台湾(史)の視点について、切手や郵便物を題材にお話しする予定です。

 参加費は無料ですが、事前に、北千住センター(03-3870-2061)まで、電話でのご予約が必要となります。よろしかったら、ぜひ、1人でも多くの方にご来駕いただけると幸いです。


 ★★★ 講座「世界紀行~月一回の諸国漫郵」のご案内 ★★★ 

亀戸講座(2014前期)・広告

 東京・江東区亀戸文化センターで、5月から毎月1回、世界旅行の気分で楽しく受講できる紀行講座がスタートします。美しい風景写真とともに、郵便資料や切手から歴史・政治背景を簡単に解説します。受講のお楽しみに、毎回、おすすめの写真からお好きなものを絵葉書にしてプレゼントします!

 詳細は、こちらをご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

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 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 FLASH 4月2日号
2013-03-19 Tue 17:44
 きょう(19日)、光文社の雑誌『FLASH』4月2日号が発売になりました。同誌に掲載の「新シリーズ『いま』を究める!FLASHグラビア新書Vol.12」では、“「趣味の切手」進化論!”と題して、7ページの切手特集が組まれています。(下の画像は雑誌の表紙と特集の扉です。以下、画像はクリックで拡大されます)

        FLASH 切手特集号表紙     FLASH 切手特集扉

 で、その特集記事には、僕も登場して“世界のオモシロ切手”として、各国の事情を示す切手などをご紹介しています。その中から、こんなモノをご紹介します。

        フセイン抹消カバー

 これは、2003年のイラク戦争(そういえば、明日=20日は、イラク戦争の開戦10周年でしたな)により、サダム・フセイン政権が崩壊した直後の6月29日(消印は“92日”になっていますが)、バグダードで差し出された市内便で、フセイン政権時代に発行されたフセイン65歳誕生日の記念切手が、肖像部分をペンで抹消して使用されています。

 1991年の湾岸戦争後、イラクが受諾した停戦決議(決議687)では、イラクは大量破壊兵器の保持してはならないとされ、UNSCOM(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)がイラクの兵器の保有状況、製造設備などを調査することになりました。当初、イラク側は、UNSCOMの調査に比較的協力的でしたが、UNSCOMの主任査察官が米国の諜報関係出身者であり、調査に米国の意向が反映されたことに反発。次第に、調査に対して協力しなくなり、偽装工作や査察妨害などが行われるようになりました。これに対して、米国は安保理決議688を根拠としてイラク北部に飛行禁止空域を設定しただけでなく、1992年にはフランス、イギリスと協調してイラク南部にも飛行禁止空域を設定。これに反発したイラクは、地対空ミサイルの配備や軍用機による意図的な空域侵犯を行い、米英が制裁としてイラク軍施設を攻撃するという構図が繰り返され、UNSCOMは1998年末で活動停止に追い込まれました。

 一方、1995年ごろから、イラクに対する経済制裁に対しては国際社会からも不満の声が高まるようになります。

 そもそも、湾岸戦争の直前、食糧自給率が3割程度しかなかったイラクに対して、食糧を含む輸出入を禁ずることに対しては、経済制裁が開始された当初から、人道上の理由で反対する声が欧米でも少なくありませんでした。また、潜在的な域内大国であるイラクとの経済関係を遮断することは周辺諸国にとって多大な経済的犠牲を強いることにもなっていました。さらに、産油国イラクとの交易再開を求める声は、終戦から3年以上経過すると、西側諸国の間でも無視できないものとなっていましたし、戦争被害に対する補償や国連自身のイラクでの活動に必要な資金をまかなうためにも、イラクに一定の石油を輸出させ、その代金を活用すべきだという案は国連にとっても魅力的なものでした。

 このため、1995年4月、半年間に20億ドルを越えない範囲での石油輸出を許可し、食糧・医薬品などの人道物資の輸入を認めるという国連安保理決議986号が採択されます。当初、イラク側は、経済制裁の完全解除を求めて同決議を拒絶しましたが、1996年に入ってこれを受諾し、同年12月からイラク産原油の輸出が再開されました。以後、イラクは、ロシア、フランス、中国を味方につけて国連との交渉を有利に進め、その結果として、イラクに対する経済制裁は次第になし崩しとなっていきます。そして、石油輸出の上限が廃止された1999年以降、イラクは実質的に国際経済への復帰を果すことになりました。

 こうして、イラク情勢は安定に向かうかと思われましたが、2001年、イラクを露骨に敵視するブッシュJr政権が発足すると、再び、イラクと米国の関係は緊張。米国は、イラク側が停戦条件に違反して大量破壊併記を秘密裏に製造しており、国際テロ組織アルカイダを支援している疑いがあるなどと主張し(ただし、戦後になって、大量破壊兵器は存在しなかったことが明らかになり、フセイン政権とアルカイダとの関係は立証できませんでしたが…)、国連の査察を受け入れないことを理由として、英国などとともに多国籍軍を構成し、2003年3月20日、対イラク戦争の開戦に踏み切りました。

 イラクに侵攻した多国籍軍は、4月10日までに首都バグダードを制圧するなど、開戦後約3週間でイラクの主要都市を攻略し、フセイン政権を崩壊させました。そして、5月1日、ブッシュJr大統領が“大規模戦闘終結宣言”を発し、イラクはアメリカ・イギリスを中心とする有志連合の軍事占領下に置かれ、連合国暫定当局(CPA)によって統治されることになりました。今回ご紹介のカバーは、そうした時期のもので、新体制下での切手発行が間に合わなかったための暫定的な使用例です。

 その後、フセインは2003年12月に逮捕され、1982年に自国のシーア派住民を大量殺害したことが人道に対する罪にあたるとして死刑判決を受け、2006年12月に処刑されましたが、イラク国内はスンニ派とシーア派、クルド人勢力の対立から治安が極端に悪化し、テロが横行する状況となりました。

 こうしてみると、“民主化”によって国民の言論の自由は保障されたものの、人々が生命の危険を身近に感じるようになっている状態と、秘密警察による監視の目が張りめぐらされた恐怖支配ではあっても、宗派対立が抑え込まれて治安はよい状態とでは、はたして、どちらの方が国民にとって幸福であるのか、評価の分かれるところでしょうな。

 さて、今回の『FLASH』の切手特集では、昭和30-40年代に発行された記念切手の現状や中国の切手バブルの話、そして、各国事情が反映された“世界のオモシロ切手”の話など、盛りだくさんの内容となっております。雑誌は全国書店はもとより、駅売店・コンビニなどでも実物をお手に取っていただけますので、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 イラク議会選挙
2010-03-07 Sun 17:37
 イラク連邦議会選挙の投票が現地時間7日午前7時から始まりました。イラクで全国規模の選挙が行われるのは2003年以来5度目のことです。というわけで、きょうは最近のイラク切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      イラク・反テロ

 これは、2008年にイラクで発行された“反テロ”宣伝の切手です。アラビア語で“No”を意味する“la”(印面中央右のXに見えるような文字です)の文字の間から、しゃれこうべを持つ手がにゅっと出ていて、左側におびえて泣く子の写真が取り上げられているのが印象的なデザインです。

 2003年の“イラク戦争”によってサダム・フセイン政権が崩壊した後、イラクはアメリカ・イギリスを中心とする有志連合の軍事占領下に置かれ、連合国暫定当局(CPA)によって統治されていましたが、2004年6月28日、国家の主権は暫定政権に移譲されました。これに伴い、有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事することになります。

 2005年1月30日に行われた議会選挙の結果、3月16日に国民議会が召集され、10月25日、新憲法が可決承認されます。これに伴い、12月15日、新生イラクの正式政府発足に向けた議会選挙が行われましたが、政権を巡りスンニ派とシーア派、クルド人勢力の対立から治安が極端に悪化し、イラク国内は実質的に内戦状態に突入しました。

 バグダードを始め都市部では自爆テロが相次ぎ、治安を維持するために米軍とイラク国防軍が介入したことで、これに反発するテロが発生するという悪循環で犠牲者は増大していったことは周知のとおりです。今回の議会選挙に際しても、反政府勢力は投票妨害を狙った攻撃を予告していましたが、はたしてバグダード市内では投票開始から数時間の内に30発以上の迫撃砲が発射され、うち3発は官庁や米大使館、軍施設などが集中する旧米軍管理区域(グリーンゾーン)に着弾。またバグダッド北東ではロケット弾で12人が死亡、8人が負傷する事態となっています。

 選挙後の新体制がどのようなものになったにせよ、イラクの治安を回復できるかどうかは甚だ心もとないというのが実情でしょう。“民主化”によって国民の言論の自由は保障されたものの、人々が生命の危険を身近に感じるようになっている状態と、秘密警察による監視の目が張りめぐらされた恐怖支配ではあっても、宗派対立が抑え込まれて治安はよい状態では、はたして、どちらの方が国民にとって幸福であるのか、なかなか判断に苦しむところですな。


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 試験問題の解説(2008年7月)-6
2008-08-06 Wed 10:15
 きのうに引き続き、都内の某大学でやっている「中東郵便学」の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 イラク国王像(民族服)

 これは、1927年にイラクで発行された通常切手で、国王ファイサルの肖像が取り上げられています。

 オスマン帝国時代の旧バスラ州・バグダード州・モースル州の地域のうち、旧バスラ州と旧バグダード州は、第一次大戦中、英印軍によって占領され、軍政が敷かれていました。一方、モースル州に関しては、休戦時にはオスマン帝国が維持していたのですが、1918年11月、イギリスが休戦時の混乱に乗じて占拠。これら3州は、第一次大戦後の1920年4月、サンレモ会議の決定により、一括してイギリス委任統治領のイラクとされました。

 これに対して、戦後のアラブ国家独立の密約を反故にされたアラブ側は激昂。同年6月から10月にかけて、イラクのほぼ全域で反英暴動(1920年革命)が起こります。

 このため、現地住民を慰撫する必要に迫られたイギリスは、同年11月、暫定アラブ政府(国民評議会)を設置。翌1921年3月、イギリスの植民地相であったウィンストン・チャーチルは、いわゆるカイロ会議を招集し、①イラクの行政権をアラブ政府に委譲する、②アラブの英雄・ファイサルを確実にイラク王とするためにイギリスは影響力を行使する、③委任統治に代わる同盟条約をアラブ政府と締結する、というイラク政策の基本方針を決定しました。これを受けて、同年8月に行われた国民投票の結果、イギリスの目論見どおり、ファイサルがイラク国王(アミール)となり、イラクにおける親英政権の基盤が確立しました。

 その後、1922年10月、1926年1月、1927年12月、1930年6月の4回にわたり、イギリス・イラク間での各種の協定ないしは条約が調印されることでイラク側の自立性が高められ、1932年にイラクが国際連盟に加盟したのを受けて、イギリスの委任統治は完全に終結します。

 今回の切手は、ファイサルを描く切手としては最初のもので、伝統的な民族衣装の姿で描かれています。額面がアラブ式のフィルス・ディナールではなく、インド式のアンナ・ルピー(この切手は1ルピー)となっているのは、大戦中、英印軍がイラクを占領して以来の名残りで、1932年の独立以降は通貨改革により、フィルス・ディナール額面の切手が発行されるようになっています。

 試験の解答としては、この切手がイギリス委任統治下のイラクで発行されたモノであること、肖像の人物が国王ファイサルであること、を示したうえで、現在の“イラク”という枠組みが出来上がるまでの経緯を説明してもらえれば十分です。

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 バハマ宛のカバー
2008-07-10 Thu 10:07
 きょう(7月10日)は西インド諸島の島国、バハマが1973年に独立した記念日だそうです。というわけで、バハマがらみのネタはないかと探してみたら、こんなモノが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

 バハマ宛カバー

 バハマ宛カバー(裏)

 これは、1920年11月、イギリス占領下のモースル(イラク)から、バハマの首都・ナッソー宛に差し出された書留便で、1921年1月のナッソーの着印も押されているのが嬉しいところです。

 現在のイラク国家を構成する地域は、オスマン朝時代、バスラ・バグダード・モースルの三州から構成されていました。

 第一次大戦が勃発すると、イギリス軍はペルシァ湾に面する港湾都市バスラに上陸し、バグダードへ向けて進撃を開始します。しかし、フォン・デア・ゴルツ将軍ひきいるオスマン朝軍の守りは堅く、イギリス軍はクートから先にはなかなか進むことができませんでした。このため、1916年8月以降、英印軍が投入され、翌1917年3月になってようやくバグダードが陥落します。そして、1918年11月、イギリスは休戦時の混乱に乗じて北部のモースル(イラク有数の油田地帯で、休戦時には陥落していませんでした)を攻撃してここを占拠し、イラク全域を勢力圏内に収めることになりました。

 イラクを占領したイギリス軍は、オスマン朝時代の切手に、当初は“BAGHDAD IN BRITISH OCCUPATION”の文字を、ついで、バグダードをイラク“IRAQ IN BRITISH OCCUPATION”の文字を、それぞれ加刷した暫定的な切手を発行しています。なお、これらの暫定切手の額面は、英印軍による占領の影響により、インド式のアンナ・ルピーで表示されていました。今回ご紹介のカバーは、この時期の使用例です。

 その後、1920年4月になると、サンレモ会議の決定に従って、イラク(シリア・パレスチナ地域と異なり、分割されずに単一の行政単位とされました)は正式にイギリスの委任統治領となりましたが、これに対して、同年6月から10月にかけて、イラクのほぼ全域で反英暴動(現地では1920年革命と呼ばれる)が発生。このため、現地住民を慰撫する必要に迫られたイギリスは、同年11月(ちょうど、このカバーが差し出された時期ですな)、暫定アラブ政府(国民評議会)を設置しています。

 こうした経緯を踏まえて、翌1921年3月、イギリスの植民地相であったウィンストン・チャーチルは、いわゆるカイロ会議を招集。その結果、①イラクの行政権をアラブ政府に委譲する、②ファイサル(イギリスとともにオスマン帝国と戦ったアラブの英雄)を確実にイラク王とするためにイギリスは影響力を行使する、③委任統治に代わる同盟条約をアラブ政府と締結する、というイラク政策の基本方針が決定され、同年8月に行われた国民投票の結果、イギリスの目論見どおり、ファイサルがイラク国王(アミール)となり、イラクにおける親英政権の基盤が確立することになりました。

 オスマン帝国が解体され、アラブ諸国が形成されていく時期の切手や郵便については、以前、『中東の誕生』という本でまとめてみたことがあるのですが、現在は版元品切れという状況のようです。その後、いろいろとマテリアルも増えたことですし、そろそろ、リニューアル版を作ってみたいのですが、あんまり売れそうにないジャンルですからねぇまぁ、気長にチャンスを待つしかなさそうですな。

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 アラブの都市の物語:バスラ
2007-09-21 Fri 03:25
 NHKのアラビア語会話のテキスト10・11月号が出来上がってきました。僕の担当している連載「切手に見るアラブの都市の物語」では、今回は、イラク第2の都市、バスラを取り上げました。その記事に使ったものの中から、今日は、こんなモノをお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

バスラのカバー

 これは、第1次大戦中、バスラを占領した英印軍の野戦郵便局からミラノ経由でジュネーブ宛に差し出された書留便です。書留ラベルにはしっかりと“BASRA BASE”の文字が入っているます。また、貼られている切手は、インド切手にIEFの文字を加刷したインド遠征軍用のものです。

 イラク南部の港湾都市であるバスラは、第1次大戦以前はオスマン帝国の支配下にありました。

 列強の世界分割が進む中で、ベルリン・ビザンティウム(イスタンブール)・バグダードの3B政策を展開していたドイツは、イスタンブールとバグダードを結ぶ鉄道建設を進めましたが、各国は、いずれその路線がバスラまで延長され、ペルシャ湾へと繋がるものと考えていました。このため、インド防衛の観点から両国の進出を警戒したイギリスは、1899年、バスラに隣接するクウェートの支配者であったサバーフ家との間に、オスマン帝国の頭越しにクウェートを保護国とする条約を調印。さらに、第一次大戦が勃発すると、英印軍がバスラに上陸してこの地を占領しています。

 その後、イギリスの占領下でバスラは補給基地としてインフラ整備が進められ、1917年には近代港湾施設が築港されます。その結果、大戦後、イギリスの委任統治領時代を経て親英政権のイラク王国として独立すると、バスラは同国随一の貿易港として発展していくことになりました。

 今回の「切手に見るアラブの都市の物語」では、西暦7世紀に軍営都市としてバスラが建設されてから、イラク戦争後、この地に駐留していたイギリス軍の縮小・撤退が論議されている現在までのバスラの歴史をご紹介しています。ご興味をお持ちの方は、是非、現在発売中のNHKアラビア語会話のテキストをお手にとってご覧いただけると幸いです。
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 試験問題の解説(2007年1月)-1
2007-01-27 Sat 00:37
 現在、都内の大学で週に何度か、非常勤講師をしています。講義の題目は学校によってさまざまですが、基本的には、何らかのかたちで“切手”を絡めた話をしています。

 で、今年度はほとんどの学校で成績評価の課題はレポートにしたのですが、1ヶ所だけ試験をやった学校があります。その科目では、中東・イスラム世界の近現代(史)について説明していますので、切手や郵便物の図版を出して、その背景を説明してもらうという問題もいくつか出題してみました。そこで、今日から3回に分けて、その解説をしてみたいと思います。僕が大学で授業をする機会があると、どんなことを話しているのか、という一つのサンプルとして、しばし、お付き合いください。

 さて、初回の今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

アーミリーヤ事件10年

 これは、2001年2月、アーミリーヤ・シェルター事件10周年を記念してイラクが発行した切手(図 )です。デザイン的には、犠牲となった子供を抱きかかえて悲嘆に暮れる母親と、破壊されたシェルターの現場写真とが組み合わされ、残虐なアメリカのイメージが強調されています。

 アーミリーヤ・シェルター事件というのは、バグダード住宅街の地下シェルターへの多国籍軍の空爆で、イラク側の発表によれば、一般市民約500名が死亡したとされる事件で、アメリカの非人道性を示すものとして、フセイン政権時代は盛んに取り上げられていたものです。

 1990年にイラクがクウェートに侵攻して以来、湾岸戦争の終結後も、国連はイラクへの経済制裁を続けていました。しかし、1995年ごろから、経済制裁に対しては、イラクのみならず、諸外国から不満の声が高まるようになります。

 そもそも、湾岸戦争の直前、食糧自給率が3割程度しかなかったイラクに対して、食糧を含む輸出入を禁ずることに対しては、経済制裁が開始された当初から、人道上の理由で反対する声が欧米でも少なくありませんでした。また、潜在的な域内大国であるイラクとの経済関係を遮断することは周辺諸国にとって多大な経済的犠牲を強いることにもなっていました。さらに、産油国イラクとの交易再開を求める声は、終戦から3年以上経過すると、西側諸国の間でも無視できないものとなっていましたし、戦争被害に対する補償や国連自身のイラクでの活動に必要な資金をまかなうためにも、イラクに一定の石油を輸出させ、その代金を活用すべきだという案は国連にとっても魅力的なものでした。

 このため、1995年4月、半年間に20億ドルを越えない範囲での石油輸出を許可し、食糧・医薬品などの人道物資の輸入を認めるという国連安保理決議986号が採択されます。当初、イラク側は、経済制裁の完全解除を求めて同決議を拒絶しましたが、1996年に入ってこれを受諾し、同年12月からイラク産原油の輸出が再開されました。

 こうした国際世論の風向きの変化を察知し、イラクは経済制裁の非人道性を訴えるとともに、湾岸戦争中のアメリカの非道を強調し、国際社会のイラク包囲網に楔を打ち込もうとします。その際、アーミリーヤ・シェルター事件は、アメリカの残虐性をアピールする上で格好の題材となり、1997年には事件7周年の記念切手も発行されています。

 その後、安保理決議986号による石油輸出を再開したイラクは、以後、ロシア、フランス、中国を味方につけて国連との交渉を有利に進め、その結果として、イラクに対する経済制裁は次第になし崩しとなっていきます。そして、石油輸出の上限が廃止された1999年以降、イラクは実質的に国際経済への復帰を果すことになりました。

 これに伴い、イラクはしばらくアメリカを直裁に非難するような内容の切手を発行しなくなったのですが、2001年、イラクを露骨に敵視するブッシュJr政権が発足すると、再びアメリカ主導のイラク包囲網が強まることを警戒して、今回ご紹介しているような切手を発行したというわけです。

 試験の答案としては、この切手がアーミリーヤ・シェルター事件10周年の記念切手であることを明らかにした上で、アメリカの非人道性を非難するイラクの意図とその背景が説明できているかどうかがポイントとなります。そのうえで、経済制裁のダメージが大きかった時期に発行された事件6周年の記念切手と、イラクが実質的に国際経済に復帰した後に発行された10周年の記念切手とでは、印刷物としての品質にも大いに差があることまで指摘できていれば、バッチリです。

 なお、今日のブログには登場しなかったアーミリーヤ・シェルター事件6周年の記念切手をはじめ、この時期のイラクの切手に関しては、拙著『反米の世界史』をご覧いただけると幸いです。
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 フセインは殉教者になるか
2007-01-04 Thu 00:41
 三が日も終わって、いよいよ2007年も始動というわけですが、正月休みの間の最大の出来事といえば、なんといっても、年末の30日にイラク元大統領のサダム・フセインが処刑されたことでしょう。というわけで、まずはこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

銃を持つフセイン

 これは、2002年4月のエルサレムの日にイラクで発行された切手の1枚です。

 絞首台でのフセインの最期の言葉は「神は偉大なり。イラクは勝利するだろう。パレスチナはアラブのものだ」というものだったそうですが、「神は偉大なり」というフレーズの入ったイラク国旗の側でエルサレムの“岩のドーム”を背景に銃を掲げるフセインの姿を取り上げた今回の切手は、まさに、そうした彼の最期の言葉の内容を凝縮したようなデザインといって良いように思われます。

 冷静にフセインの生涯をたどってみると、湾岸戦争以前の彼は、イスラム革命に対する防波堤という役回りでイランに対する侵略戦争を発動したばかりか、国内でもいわゆるイスラム原理主義者たちに対して容赦なく弾圧を加えてきた人物です。また、アラブ民族主義政党であるバアス党の指導者としても、かならずしも、パレスチナ問題に熱心に取り組んできたわけでもありません。

 しかし、湾岸危機から湾岸戦争へのプロセスの中で、国際的に孤立したフセイン政権は、アラブ世界ないしはイスラム世界の世論を味方につけるため、パレスチナ問題とクウェート問題は同時に解決すべきだとか、イスラム世界を代表して不義不正なるアメリカと戦うといったプロパガンダを展開するようになります。

 これは、客観的に見れば、フセインが苦し紛れに持ち出した方便に過ぎないともいえるのですが、そうした主張が、イスラエルの国連決議違反(国連決議を無視して1967年の第3次中東戦争での占領地の一部にイスラエルが居座り続けていることなど)に対しては寛容であるにもかかわらず、イラクに対しては厳しい措置を取ったアメリカと国際社会のダブルスタンダードに対して、強い反感と不信感を抱いているアラブ世界ないしはイスラム世界の人たちに対して、説得力あるものとして受け止められていたことも事実です。

 今回のフセインの処刑は、多くのイスラム教徒にとっては、寛容の精神を示す犠牲祭の期間中に行われたということもあって、処刑を断行したイラク政府と、その後ろ盾になっている(と少なくともイスラム世界では理解されている)アメリカに対する反感と嫌悪感を増幅させる結果になってしまったことは否定できないでしょう。少なくとも、今回の一件で、フセインが“殉教者”に祭り上げられてしまう可能性はきわめて高いといえます。そして、こうした殉教者としてのフセインのイメージは、生前の彼が繰り返してきた、犠牲を顧みず理不尽なアメリカと戦う英雄というイメージの、いわば完成形ともいっても良いかもしれません。

 なお、生前のフセインが、切手という国家のメディアを使ってどのような自己演出を行おうとしていたかという点については、2005年に刊行の拙著『反米の世界史』でも(簡単にではありますが)触れていますので、機会があれば、是非、ご一読いただけると幸いです。
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