2018-04-26 Thu 02:48
きのう(25日)発売の『週刊文春』に、林芳正文部科学相が公用車を使って“セクシー個室ヨガ”ないしは“キャバクラヨガ”に通っていたとの趣旨の記事が掲載されましたが、実際には、件のヨーガ店は性的なサービスとは無縁の健全なヨーガスタジオで、店側は謝罪と訂正を求めています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1991年12月30日にインドが発行したヨーガの切手のうち、“ウッティタ・トリコナーサナ”のポーズを取り上げた1枚です。 ヨーガの起源は明らかではありませんが、紀元前800年-紀元前500年に成立した『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』にはヨーガについての最古の記述がみられます。その後、紀元後2-4世紀にヨーガの実践方法として『ヨーガ・スートラ』がまとめられ、同書を根本教典として「ヨーガ学派」が成立。さらに、19世紀後半から20世紀前半に、ティルマライ・クリシュナマチャーリヤが、古典ヨーガをベースに伝統武術や西洋の身体文化を融合させて“ハタ・ヨーガ”の名で体系化。これが、ヨーガ体操として近現代のヨーガのベースとなっています。 切手に取り上げられた、“ウッティタ・トリコナーサナ”のポーズはヨーガの基本ポーズのひとつで、直訳すると“強く伸ばす三角形のポーズ”という意味のサンスクリットです。足を広く開き、右足先を90度外側に向け、左足先も少し内側に向けたうえで、右手で右足の持てるところを持ち、左手を上に伸ばす姿勢で、体側を伸ばすことで、内臓内の毒素を排出しやすくするほか、ウェストのくびれを作る効果があるとされています。 さて、『週刊文春』の記事で問題となったヨガ店の経営者、庄司ゆうこ氏は元グラビア・モデルですが、記事で書かれいる“元AV女優”というのは事実と異なります。また、店では女性インストラクターが1対1でヨーガを指導した後、頭や手のマッサージを行っていますが、あくまでも健全なヨーガスタジオであり、いわゆる性風俗店ではありません。このため、庄司氏は「あたかもいかがわしい内容を想像させるもので事実とはまったく違う」とブログで反論し、謝罪と訂正を要求しています。まぁ、政権批判に前のめりとなったメディアの勇み足と言ってしまえばそれまだなのでしょうが、関係者の方々には、本当にお気の毒としか言いようがありませんな。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が5月に刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2011-12-12 Mon 23:10
1911年12月12日に英領インド帝国皇帝(にして大英帝国の国王)のジョージ5世が首都(行政府所在地)をカルカッタからデリーに移転すると宣言してから、ちょうど100年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1991年にインドで発行されたニューデリー60周年の記念切手で、ニューデリー中心部の主要な建物が連刷形式で取り上げられています。ニューデリーを首都とする宣言が出されたのは1911年ですが、そこからスタートした新首都が完成したのは1931年でしたので、切手は後者から起算した年回りで発行されました。 ムガール帝国の時代、帝国の首都はデリーに置かれていましたが、1858年に大反乱(いわゆるセポイの乱)を鎮圧してインドを制圧したイギリスはカルカッタに行政府を置きました。しかし、カルカッタはインド全体からみると東に偏っていることもあって、旧ムガール帝国の帝都であったデリーこそインドの首都にふさわしいとの声は根強く、ジョージ5世による1911年12月の遷都宣言になったというわけです。 ジョージ5世の宣言を受けて、ムガール帝国時代の首都中心部(現在、オールドデリーと呼ばれている地域)の南側、シャー・ジャハンが建設した地域にあった副王の宮殿に新首都の礎石が置かれ、エドウィン・ラッチェンスとハーバード・ベイカーにより新都の都市計画が立案されました。 ラッチェンスの立案した都市計画は、第一次世界大戦で戦死した兵士を追悼するためのインド門から総督府(現大統領官邸)まで東西に伸びるラージパト通りを中心に、そこから放射状に街路を伸ばす構造となっており、ラージパト通りと平行にベイカーの設計した国会議事堂など行政機関が配されています。また、放射状の街路のもう一つの焦点であるコンノートプレイスは、商業地区として建設されました。 ちなみに、現在のインドでは、オールドデリーとニューデリーを含む“デリー首都圏”が置かれていますが、日本語の媒体では「インドの首都は“ニューデリー”」とされることが多いようです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 年賀状の戦後史 角川oneテーマ21(税込760円) 日本人は「年賀状」に何を託してきたのか? 「年賀状」から見える新しい戦後史! ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星、TBSラジオ鈴木おさむ 考えるラジオ(12月10日放送)、12月11日付『京都新聞』で紹介されました。 amazon、bk1、e-hon、HMV、livedoor BOOKS、紀伊國屋書店BookWeb、 セブンネットショッピング、楽天ブックスなどで好評発売中! ★★★ 好評既刊より ★★★ ハバロフスク(切手紀行シリーズ④) 彩流社(本体2800円+税) 空路2時間の知られざる欧州 大河アムール、煉瓦造りの街並み、金色に輝く教会の屋根… 夏と冬で全く異なるハバロフスクの魅力を網羅した歴史紀行 シベリア鉄道小旅行体験や近郊の金正日の生地探訪も加え、充実の内容! amazon、bk1、e-hon、HMV、livedoorBOOKS、紀伊國屋書店BookWeb、セブンネットショッピング、楽天ブックスなどで好評発売中! |
2009-03-07 Sat 11:58
5日にニューヨークで行われたオークションに、インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンディーの眼鏡や革サンダルなど5点が出品され、インド人実業家マリヤ氏が180万ドル(約1億8000万円)で落札しました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1994年にインドが発行したガンディー生誕125年の記念切手で、今回のオークションに出品されたガンディーのメガネ、サンダル、懐中時計の3点が描かれています。 彼の活動として取り上げられているもののうち、糸車で糸を紡ぐ姿、右上と左側はインド独立運動時の塩の行進の際の写真をもとにしたものです。その足元に懐中時計が見えますが、おそらく、この時計が今回の出品物でしょう。 この時計は、1910年頃のゼニス社製で、ガンディーが終生愛用していたもの。1948年に彼が暗殺された後は形見分けで姪のアブハ(ガンディーは彼女に看取られて亡くなりました)が引き継いでいました。 塩の行進というのは1930年3月12日から4月6日まで、ガンディーとその支持者が、イギリスの植民地政府による塩の専売に反対し、グジャラート州のアフマダーバードからダーンディー海岸までの約380kmを行進した抗議行動のことで、ガンディーの非暴力不服従による独立運動の象徴的な出来事とされています。 切手の元になった写真のうち、左側の立ち姿のものは行進中のもの、右側の腰をかがめた姿のものは1930年4月5日、ダーンディー海岸で泥と塩の塊を持ち上げているようすを撮影したものですが、いずれも、サンダルの鼻緒や甲のひもなどが確認できます。ただし、80kmも徒歩で行進していれば、サンダルもボロボロになってしまい、途中で新しいものに変えている可能性もありますから、これが今回のサンダルそのものかどうかは微妙かもしれません。ちなみに、ガンディーが作った最初の塩につけられた値段は1600ルピー(当時の750ドルに相当)でした。 さて、今回、ガンディーの遺品を落札したマリヤ氏は、その代金をきちんと支払った上で、祖国に寄贈するのだそうです。なんとも太っ腹な話ですが、長距離輸送ビジネスのオーナーでもある同氏にとっては、会社の宣伝費用としてみればそれほど高くはないということなのかもしれません。 ところで、以前の記事でも少し書きましたが、現在、毎週1回のペースでThe Dairy NNA アジア総合版に「切手から読み解くインド」というコラムを連載しています。今回ご紹介のネタの完全版を含め、インド関連のできるだけタイムリーな話題を切手を絡めて書くようにしていますので機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 誰もが知ってる“お年玉”切手の誰も知らない人間ドラマ 好評発売中! 『年賀切手』 日本郵趣出版 本体定価 2500円(税込) 年賀状の末等賞品、年賀お年玉小型シートは、誰もが一度は手に取ったことがある切手。郷土玩具でおなじみの図案を見れば、切手が発行された年の出来事が懐かしく思い出される。今年は戦後の年賀切手発行60年。還暦を迎えた国民的切手をめぐる波乱万丈のモノ語り。戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの別冊として好評発売中! 1月15日付『夕刊フジ』の「ぴいぷる」欄に『年賀切手』の著者インタビュー(右上の画像:山内和彦さん撮影)が掲載されました。記事はこちらでお読みいただけます。 もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
2007-08-15 Wed 10:35
今日は終戦記念日ですが、インドの独立60周年の日でもあります。昨日(14日)はパキスタンのことを取り上げましたから、バランスを取って、今日はインドがらみ+昭和の戦争がらみということで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1993年に発行されたインド国民軍(INA)50年の記念切手で、国民軍の兵士を閲兵するスバース・チャンドラ・ボースが描かれています。 インド国民軍は、第二次世界大戦中の1942年、日本軍占領下の英領マラヤやシンガポールで、白人支配からアジアを解放するとの大義名分の下、捕虜となったインド人兵士から志願者を募って、日本軍によって創設されました。 当初、指揮官はモハン・シン大尉でしたが、1943年にインド国民会議派元議長のスバス・チャンドラ・ボースがドイツからドイツ潜水艦U180と伊号第二九潜水艦を乗り継いで来日し、インド国民軍はボースを国家主席とする自由インド仮政府(在シンガポール)の指揮下に入ります。切手はここから起算しての50周年というわけです。 ボースは、1897年、インドのオリッサ州出身。コルカタの大学を卒業後、ケンブリッジ大学に留学しましたが、1921年にガンディーの反英非協力運動に身を投じます。その後は、即時独立を求めるインド国民会議派の左派として活躍し、1937年と1939年には国民会議派の議長も務めましたが、INA創設当時はガンディーら穏健派と対立して国民会議派を除名されていました。 第二次世界大戦勃発後の1941年、ボースは密かにインドを脱出してアフガニスタン経由でソ連に入り、スターリンにインド独立の協力を要請しますが、断られたため、ソ連経由でナチス政権下のドイツに亡命。ムッソリーニやヒトラーにも協力を要請しますが、ここでも協力を拒否されてしまいます。それでも、彼はインド人から成るインド旅団を結成し、ベルリンからの反英ラジオ放送を行うなど、反英の一点でドイツに協力していました。 1941年12月、日英開戦の報を聞いたボースは、日本と手を結ぶことを考えます。日本側もこれを受け入れ、先に述べたような潜水艦を乗り継いでの東京行きが実現。シンガポールで結成されていた自由インド仮政府の国家主席ならびにインド国民軍の最高指揮官に就任します。ちなみに、ドイツのインド旅団はボースが日本に脱出した後も、ドイツ軍行動をともにしていました。 インド国民軍は1944年にはビルマに移動し、“自由インド”“インド解放”をスローガンに日本軍のインパール作戦に参加し、英領インドのコヒマを占領しましたが、イギリス側の反撃により撤退。さらに、戦争末期にはビルマからも撤退して終戦を迎えます。 日本の敗戦後、東西冷戦の開幕を予想したボースは、イギリスに対抗するため、ソ連と手を結ぶことを考え、再度、ソ連へ渡ろうとします。しかし、彼の乗った飛行機は台湾島の松山飛行場で墜落。非業の死を遂げ、その遺骨は東京都杉並区の蓮光寺に安置されてました。 一方、連合軍の捕虜となったINAの将校は、イギリスにより反逆罪で逮捕されたものの、まもなくインド独立の気運が高まったことで処分は有耶無耶になり、1947年のインド独立後は独立の英雄としてインド政府から年金を受けとるようになりました。 現在、インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボース、右にはガンディー、左にはジャワハルラール・ネルーの肖像画が掲げられているなど、インド国内でのボースと彼のINAへの歴史的評価はきわめて高いものとなっています。 なお、以前の記事で、インド国民軍に関係するのではないかと思われる葉書をご紹介したことがありますので、よろしかったら、そちらもご覧ください。 |
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