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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 古都ブハラ
2006-08-31 Thu 01:12
 カザフスタンとウズベキスタンを歴訪中の小泉首相は今日(31日)帰国だそうです。昨日(30日)のタシュケント(ウズベキスタン)での日本人抑留者記念塔への首相の献花にちなんで、この地に抑留されていた日本人のカバーでも持ってこれたらよかったのですが、あいにく、そういうものは手元にないので、代わりに、ウズベキスタンがらみということでこんな葉書を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ブハラの葉書

 この葉書は、1913年12月、帝政ロシアの支配下にあったブハラから差し出された葉書です。消印の表示はちょっと不鮮明ですが、局名はキリル文字で“CARDZUI BUKHARA”となっています。

 帝政ロシアが郵便料金前納の証紙として切手の発行を開始し、曲がりなりにも近代郵便制度をスタートさせたのは1858年1月1日のことでしたが、広大な領土の末端にまで郵便網が浸透するまでには、相当の時日が必要でした。

 たとえば、帝政ロシアの保護国としてトルキスタン総督府(1867年創設)の下に置かれていたブハラ・アミール国とヒヴァ・ハン国(これらの国の領域は、現在のウズベキスタンともかぶっています)では、1870年代、アムダリア川を利用した汽船郵便が制度として開始されたものの、郵便物の残存量から推測するに、この制度が住民の間に定着したのは、ブハラ・アミール国で1880年代以降、ヒヴァ・ハン国で1890年代以降のことと考えられています。

 なお、この両国では、1917年の革命まで、基本的にロシア本国の切手がそのまま用いられ、キリル文字の消印が利用されていました。今回ご紹介している葉書もその一例です。
 
 現在、ウズベキスタンの領土になっているブハラ、サマルカンド、フェルガナ、コーカンドなどは、かつてのシルクロードの古都として、教科書でもおなじみの名前です。当然のことながら、古代からの交通の要衝として、駅站制度のカバーのようなものが沢山残っていても良さそうなものなのですが、現実には、19世紀のカバーでさえも、なかなか実物を拝む機会は少ないというのが実情です。(20世紀以降になると、そこそこ、モノはありますが…)

 まぁ、今回ご紹介している葉書も、あんまり消印の状態が良くないので気に入らないといえば気に入らないのですが、話のタネに1~2点持っていればいいということであれば、これでも我慢しないといけないというところでしょうか。

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 イスラエルの首都
2006-08-30 Wed 00:48
 中米のコスタリカとエルサルバドルが、在イスラエル大使館をエルサレムからテルアビブに移転するのだそうです。これで、イスラエルが“首都”と主張しているエルサレムには、外国大使館がひとつもなくなることになりました。

 というわけで、こんなモノを引っ張り出してきました。(画像はクリックで拡大されます)

 第3次中東戦争FDC

 これは、第3次中東戦争の勝利を記念してイスラエルが発行した切手3種を貼って、テルアビブからライプツィヒ(当時は東ドイツ)宛に差し出されたものの、「平和維持に反する意図をもつ切手」が貼られているとして、差出人戻しとなったカバー(封筒)です。なお、付箋の文章は、万国郵便連合の公用語であるフランス語で書かれています。

 1967年6月の第3次中東戦争はイスラエル側の圧倒的な勝利で終わり、イスラエルの占領地は一挙に戦前の3倍に拡大します。昂揚した雰囲気の中で、戦争終結後の8月16日、イスラエル郵政は戦勝の記念切手を発行。その内訳は、①ダビデの星を背景にオリーブの枝と剣を描く15アゴロット切手(イスラエル軍の勝利を示す)、②チラン海峡を航行するイスラエル船を描く40アゴロット切手(アカバ湾の航行権確保を示す)、③「嘆きの壁」を描く80アゴロット切手(東エルサレムの占領を示す)の3種でした。

 しかし、この戦争がイスラエル側の先制奇襲攻撃ではじまったことから、イスラエルによる占領地拡大の正統性については、アラブ諸国はもとより、社会主義諸国や中立諸国なども懐疑的で、1967年11月の国連安保理では、占領地域からのイスラエル軍の撤退を要求する決議が採択されます。しかしながら、現在なお、イスラエル側が占領地からの完全撤退を履行していないのは周知の通りです。

 今回のカバーは、こうした事情から、第3次中東戦争でのイスラエルの“勝利”に抗議する意図を示すため、東ドイツ郵政が問題の記念切手の有効性を認めず、差出人戻しとしたものです。

 第3次中東戦争後、エルサレム全域を支配下に置いたイスラエルは、テルアビブからエルサレムへの“遷都”を宣言します。しかし、上記のような理由で、国際社会は、イスラエルによる東エルサレムの占領を認めておらず、必然的に、エルサレムを“首都”とするイスラエル側の主張も認めていません。このため、在イスラエルの外国大使館は、従来どおり、テルアビブにおかれるのが慣例となっています。

 今回、エルサレムからテルアビブに大使館移転に関して、エルサルバドル外務省は8月25日の声明で「レバノン停戦後の地域安定や、現在の中東情勢を考慮した措置」だと説明していますが、上記のような事情を考えれば、むしろ遅きに失した判断というほうが妥当なのかもしれません。

 なお、このカバーとその周辺をめぐっては、今年3月にちくま新書の一冊として上梓した『これが戦争だ!』でもページを割いて触れていますので、ご興味をお持ちの方はご覧いただけると幸いです。

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 テロリスト図鑑:金九
2006-08-29 Tue 00:36
 今日は、久しぶりの“テロリスト図鑑”として、生誕130年を迎えた朝鮮の独立運動家・金九を取り上げてみましょう。(画像はクリックで拡大されます)

金九

 金九(本名は金昌洙、号は白凡)は、1876年8月29日、黄海道海州に生まれました。

 彼の名が歴史に初めて登場するのは、韓国では“鴟河浦義挙”と呼ばれている1896年の日本人・土田譲亮に対する強盗殺人事件です。

 事件について、金九は、前年(1895年)の閔妃殺害事件に憤慨して、倭奴(日本人の対する蔑称)に対する懲罰として“日本陸軍中尉”の土田を殺害したと主張していますが、じっさいには、土田は長崎県出身の商人ですし、“鴟河浦義挙”と閔妃事件の関係を立証することは困難です。さらに、土田の殺害後、彼は金品を奪って逃走していますから、単なる強盗殺人事件の犯人というのが適切でしょう。まぁ、そもそも、事件のきっかけは、逮捕後の取調べ調書によれば、「食事を注文した時に女性の給仕が自分より先に土田に食膳を与えるのを見て憤慨した」ということですから、何をかいわんや、といったところです。

 さて、逮捕後の金九は、強盗殺人犯として死刑判決を受けたものの、後に特赦により減刑。さらに脱獄して、1899年 黄海道各地に学校設立運動などを行いました。

 1919年の三・一独立運動が失敗に終わると、金九は上海に亡命し大韓民国臨時政府の設立に参加します。しかし、臨時政府は内紛が絶えず、1925年に金九が実権を握るようになると、次第に運動は過激化していきます。そして、1931年に彼が中心となって組織された韓人愛国党は、暴力による独立闘争を指向するようになり、1932年には、李奉昌の昭和天皇暗殺未遂事件、尹奉吉の上海派遣軍司令官白川義則陸軍大将暗殺事件などを引き起こしました。

 こうして、すっかり“テロリストの頭目”(韓国側からすれば独立運動を代表する闘士)となった金九に対して、日本政府は巨額の懸賞金をかけて行方を追っていましたが、彼は中国各地を転々とし、1940年には臨時政府とともに重慶に重慶に脱出。蒋介石の中国国民党政府とともに抗日活動を展開し、爆弾テロを中心とする武装闘争によって独立を目指しました。

 1941年12月、いわゆる太平洋戦争が始まると、金九の大韓民国臨時政府は日本に対して宣戦布告を行います。このことが、現在、韓国内で、敗戦国・日本に対して朝鮮(韓国)は戦勝国であるとの主張の根拠の一つとされています。もっとも、当時の国際社会では、金九らの対日宣戦布告は事実上無視され、アメリカは朝鮮を“敵国・日本”の一部とみなしていました。(この点については、こちらをご覧ください)

 さて、1945年8月の朝鮮解放時、金九は重慶で臨時政府主席の地位にありましたが、アメリカが臨時政府の韓国政府としての正統性を否定したため、同年11月、亡命者として帰国。不屈の独立闘士として尊敬を集め、韓国独立党党首、国民会副会長などを務めます。その後、米ソによって分割占領された朝鮮の統一独立を主張して政治活動を展開しましたが、1948年8月の大韓民国樹立後、大統領の李承晩との確執から、1949年6月、李承晩派の陸軍将校・安斗煕に暗殺されるという非業の最期を遂げました。

 現在、金九は、韓国・北朝鮮ともに朝鮮独立運動の英雄として尊敬を集めています。ちなみに、今回ご紹介している切手は、いまから20年前の1986年に韓国で発行されたものです。

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 ヒゲとターバン
2006-08-28 Mon 01:45
 インドで、シーク教徒のデモが過激化し、警官隊との衝突で負傷者も出る騒ぎになったそうです。そもそものきっかけは、インド西部のジャイプールで、ガールフレンドとの関係をめぐるいざこざから、スィーク教徒の少年が拉致され、髪を無理やり切られる事件だったとか…。

 というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

スィク教徒

 これは、今年(2006年)インド郵政が発行した“スィーク連隊”の切手で、ターバンにヒゲという、おなじみの姿のスィーク教徒の兵士が大きく取り上げられています。

 スィーク教は、西暦15世紀にナーナクがヒンドゥー教の改革運動として、イスラムをはじめ当時の西北インドに広まっていたさまざまな宗教思想を取り込んで起こした宗教です。

 髪の毛と鬚を切らず、頭にターバンを着用するスタイルは、第10代のグル(指導者)、ゴービンド・シングが現在の教団組織を確立したときに、守るべき掟の一つとして定めたもので、彼らの外見的な特徴となっています。なお、カレー店のイラストなどでは“ターバンを巻いたインド人”というキャラクターを時々見かけますが、これは、スィーク教徒の中に、官吏や軍人として登用されたり、海外で活躍したりするものが多く見られたことで、彼らの姿が外国人にとってのインド人のイメージにつながったものと考えられています。(ちなみに、インドで多数派を占めるヒンドゥー教徒でターバンをしている人はほとんどいません)

 スィーク教徒は、インド社会ではマイノリティですが、富裕で教育水準の高いものが多いため、その社会的な影響力は無視できないものがあります。このことが、1980年代以降の原理主義的なヒンドゥー・ナショナリズムの高揚の中で、ヒンドゥー教徒との間に摩擦を起こすことになり、1984年のインド政府軍によるゴールデン・テンプル(スィーク教の聖地)の襲撃事件と、その報復としての翌1985年のスィーク教過激派によるインディラ・ガンディー首相暗殺事件という悲劇をもたらしています。

 こうした状況の中で、スィーク教徒の中には、ヒンドゥー教徒の標的になることを恐れて、ターバンをつけず、髪やヒゲも短くする人も少なくないようです。とはいえ、そうした人たちは、あくまでも自発的な意思で髪を切っているわけで、拉致されて無理やり髪を切られるようなことがあれば、スィーク教徒たちが怒るのも無理はありません。

 インド政府は、現在、排他的なヒンドゥー・ナショナリズムの行き過ぎには神経を尖らせており、国民に対して、多民族・多宗教の共存を呼びかけています。今日ご紹介しているスィーク連隊の切手も、そうした文脈に沿って発行されたわけですが、今回のような事件が起こるところを見ると、問題の根はなかなか深いといえそうです。

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 ガザのラムセス2世
2006-08-27 Sun 03:14
 カイロの駅前広場の名物として知られるラムセス2世(古代エジプトの王)像のお引越しというニュースをテレビで見ました。なんでも、カイロの中心街に置かれているため、排ガスや地下鉄の振動によって像の劣化が進んでいることもあって、2011年にギザに開館予定の“大エジプト博物館”の建設予定地に移されるのだそうです。

 というわけで、こんなモノを持ってきて見ました。(画像はクリックで拡大されます)

ガザ・ラムセス2世

 このカバー(封筒)は、1958年7月1日、エジプト統治下のガザ(パレスチナ)からカイロ宛に差し出されたもので、ラムセス2世を描くエジプト本国の切手に“PALESTINE”と加刷された10ミリーム切手が貼られています。なお、カバー左側の円形の印は、エジプト郵政の検閲印です。

 1948年に始まった第一次中東戦争は、イギリス委任統治領であったパレスチナからイギリスが撤退した後、前年12月、国連で採択されたパレスチナ分割決議を既成事実化してユダヤ国家の樹立をめざすシオニストと、それを阻止しようとするアラブ側との戦いでした。しかし、アラブ諸国はイスラエル国家の建国を阻止できなかったばかりか、エジプトとトランスヨルダンはどさくさに紛れて旧英領パレスチナの一部を占領し、自国の領土に編入。国連の分割決議では樹立されることになっていたパレスチナのアラブ国家は誕生しないままに終わってしまいました。

 戦争の結果、旧英領パレスチナのうち、ガザ地区を自国領に編入したエジプトは、この地で使うために、本国切手に英語とアラビア語で“パレスチナ”と加刷した切手を発行します。今回ご紹介している切手もその種の1枚で、1957年に発行されたラムセス2世の切手を、1958年のエジプト・シリア合邦後、額面・刷色はそのままに、国名表示を“UAR”とあらためて発行されたものです。

 ところで、現在のエジプトでは、何か大きなニュースがあると、すぐに「イスラエルの陰謀ではないか?」という“陰謀説”が大衆の間で広がるのですが、今回のラムセス2世像の移転も例外ではありません。

 すなわち、ラムセス2世は預言者モーゼが奴隷状態のユダヤ人を率いてエジプトを脱出した「出エジプト」の時代の王との説が一部にあることから、「カイロ中心部からの像の撤去はイスラエル政府が仕組んだもの」という噂がインターネット上で蔓延。さらに、「イスラエルの意をくんだ日本は、像の移設を円借款の条件にしている」との説明までまことしやかに付け加えられているそうです。

 もちろん、エジプト文化省は“陰謀説”を完全に否定しているのですが、それにしても、思いもよらぬかたちで日本とイスラエルの“闇のつながり”が噂になるなんて、なんだかなぁ…という気分です。

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 『郵趣』今月の表紙:シドニー・ヴュー
2006-08-26 Sat 07:10
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』9月号ができあがりました。

 『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、この1枚を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      シドニービュー

 これは、1901年に現在のオーストラリア連邦が結成される以前のオーストラリアのひとつ、ニュー・サウス・ウェールズ(現在は同名の州)の最初の切手で、そのデザインからシドニー・ヴューと呼ばれています。

 ニュー・サウス・ウェールズは、オーストラリアの中でもヨーロッパ人が最初に入植した土地で、はやくも1803年にはシドニー=パラマタ間の郵便サービスが開始されました。このときの郵便料金は2ペンスです。

 1838年、当時の郵便局長ジェイムズ・レイモンドは郵便料金前納の印面がついた封筒を発行しました。ペニー・ブラックが発行される2年前のことです。この封筒が上手くいけば、1841年にはニュー・サウス・ウェールズでも本国並みの近代郵便制度が導入される計画でしたが、残念ながら封筒は不評で、本格的な切手の発行は見送られました。

 その後、1842年にはメルボルン=シドニー間を蒸気船で結ぶ定期便がスタートし、1844年には英本国からの郵便船も到着するようになりました。シドニー・ヴューは、こうした前史をふまえて、1850年1月1日、この地の最初の切手として発行されたのです。

 切手は現地製で、入植者のシドニー港への上陸風景が描くものですが、船やミツバチの巣、釣竿なども描かれています。無味乾燥な紋章や肖像図案が主流だった時代にあっては異彩を放つモノといえましょう。ただし、1年後の1851年にはヴィクトリア女王の肖像を描く切手が発行されてしまったため、この魅力的な切手は短命に終わってしまうのですが…。

 なお、今月号の『郵趣』では、遅ればせながら、ワシントンで開かれた国際展Washington 2006について、僕が簡単なレポートを書いていますので、よろしかったら、そちらもご覧いただけると幸いです。

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 貼り替え
2006-08-25 Fri 00:47
 以前からこのブログでもご案内しておりますが、9月25日の『満洲切手』(角川選書)刊行まで、あとちょうど1月となりました。というわけで、その予告を兼ねて、今日はこんなモノをご紹介してみましょう。(画像はクリックで拡大されます)

日中貼り替えカバー

 第一次大戦後の1922年、中国の主権尊重・領土保全と門戸開放を原則とする9ヵ国条約が締結されました。この条約は、日本が第一次大戦中に獲得した山東省の権益を放棄させられたことで有名ですが、郵便に関しても重要な取り決めが行われています。すなわち、中国国内におかれた外国郵便局の撤退です。

 アヘン戦争以来の列強の中国進出の過程で、列強諸国は治外法権を援用するかたちで、中国の主要都市に郵便局を設け、自国の切手を発売して郵便サービスを提供していました。

 切手を発売して郵便サービスを提供するということは、その地域における国家主権の行使を可視化するための一手段ですから、本来、他国の領土において勝手に郵便局を開設するのは国家主権の侵害行為にあたります。ところが、清末の中国では、統一的な近代郵便制度がなかなか整備されなかったこともあって、当初、列強諸国は自国との通信の必要から領事館内に郵便局を設け、便宜的に中国と諸外国との通信を取り扱わざるを得ませんでした。こうして設置された列強の郵便局は次第に業務を拡大され、列強による中国進出の尖兵としての役割を果たしていました。

 これに対して、ワシントン会議で中国の主権尊重を大原則として掲げていた9ヵ国条約が調印されると、それに先立って「支那国ニ於ケル外国郵便局ニ関スル決議」が採択され、締約国は1922年末限りで中国各地に設けていた郵便局を閉鎖することを決定します。もちろん、日本も例外ではなく、1922年末までに、65の郵便局、93の切手類売捌所、184の郵便ポストを中国から撤廃しました。

 しかし、9ヵ国条約では、列強諸国の租借地については、従来どおり、列強の実質的な支配下に置かれるものとされていました。イギリスが香港の新界地区を中国に返還しなかったのは、その一番わかりやすい例といえましょう。

 ここで、日中間の懸案材料として、日露戦争の結果、日本が獲得した満鉄付属地の問題が浮上してきます。

 当然のことながら、中国側は、満鉄付属地はあくまでも鉄道の付属地という特殊な形態の地域であり、租借地と同等のものとみなすことはできないとして、付属地内の郵便局をすべて撤退させるよう要求しましたが、日本側は、満鉄付属地は関東州の租借地と同じく、日露戦争で日本が獲得した正当な権益であると主張し、両者の話し合いは平行線をたどっていました。

 結局、郵便局の撤退期限目前の1922年12月8日に調印された「日本帝國及ビ支那共和國ニ於ケル郵便物ノ交換ニ關スル約定」では、満鉄付属に関しては継続審議の懸案事項として問題の解決は先送りにされ、付属地の同じ町内に日中双方の郵便局が並存することになり、満鉄付属地における日本の郵便活動は、特殊な状況の下でさまざまな制約を受けています。

 もともと、日本の郵便局は、満鉄付属地間相互の郵便物に関しては、(日本円の1円と中国円の1円を等価として)中国側の料金よりも低くすることができませんでした。ただし、日本と清朝ならびに中華民国の郵便料金は長らく同額の時代が続いていたため、そのことが問題となることは実際にはなかったのですが、1925年11月1日、中国側が国内宛封書の基本料金を3分から4分に、葉書料金を1分5厘から2分に値上げすると、日本側も満鉄付属地間の郵便料金を値上げせざるを得なくなりました。

 この場合、満鉄付属地から中国宛の郵便物に関しては、所定の交換局を経て差し出すことになっており、その郵便物の料金は日本切手ではなく中国切手で支払うことになります。すなわち、郵便物を付属地内の日本局に差し出したり、日本局の設置したポストに入れたりする場合、差出人はその郵便物に日本切手を貼るわけですが、それを引き受けた日本側の郵便局は中国の切手を貼って(すなわち、別途、中国国内の郵便料金を納めて)中国側へ引き渡さねばなりませんでした。

 この結果、満鉄付属地内の日本局から差し立てられた中国国内宛の郵便物には、日本切手と中国切手が貼られることになりました。こうした郵便物は“貼り替え”と呼ばれています。“貼り替え”は、制度的には1910年の日清郵便約定以来のものですが、実際にその実例が大量に出てくるのは、この時代からです。もちろん、郵便物の取り扱い方法としては非常に面倒ですが、それでも、日本側にとっては、満鉄付属地の権益を維持するためには、まさに大事の前の小事で許容限度の範囲内と考えられていたようです。

 さて、今回ご紹介しているカバーは、その“貼り替え”の実例で、1927年8月21日に満鉄付属地の鞍山の日本局から天津宛に差し立てられたものです。当初、この郵便物が受け付けられた時は4銭分の日本切手で料金が納付されましたが、後に、日本側で4分の中国切手を郵便物に貼り、中継地の遼陽で中国側に引き渡されました。郵便物を受け取った中国側は遼陽で切手に消印を押して料金を収納し、そこから先は、牛荘を経て宛先地の天津まで郵便物を運んだというわけです。

 “貼り替え”のカバーは、日本と中国の2ヶ国の切手が貼られていて、単純に見ていて面白いので、収集家の間では結構人気があります。オークションにも年に何回かは確実に出品されていますので、そのうち手に入るだろうと暢気に構えていたのですが、いままではなかなかご縁がありませんでした。

 ところが、今回の『満洲切手』をつくるにあたって、“貼り替え”の話題を避けて通ることはできません。そこで、急遽、ある収集家の方にお願いして所蔵品を譲っていただき、なんとか図版として滑り込ませることができたというわけです。

 現在、いよいよ最終段階に突入した『満洲切手』の制作作業ですが、毎日バタバタしながらも、9月25日の刊行予定日には何とか皆様にご覧いただける状態に持っていけそうですので、いましばらくお待ちいただけると幸いです。
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 指はさみ注意
2006-08-24 Thu 01:58
 紙を裁断する業務用シュレッダーに幼児が指を巻き込まれて切断する事故が、今年3月と7月に相次いで発生していたことが明らかになりました。近年、プライバシー保護の意識が高まってきていますが(明らかに過剰反応と思えるケースも少なくないように思うのですが)、それに伴い、一般家庭でもシュレッダーを使う機会が飛躍的に増えてきています。したがって、こうした事故も、ある意味では、起こるべくして起こったと言う側面は否定できないわけで、今後の対策と利用者への啓発活動が求められるのはいうまでもありません。

 で、そんなことを考えながら、引っ張り出してきたのがこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

指はさみ注意

 これは、1972年に西ドイツ(西ドイツ)が発行した20ペニヒの普通切手で、電動のこぎりに指を挟まれないように訴えるデザインが取り上げられています。画像はペアになっていますが、これは、たまたま手元の切手がペアになっていたためで、単片に切り離しても良かったのですが、なんとなく、そのままスキャンしてしまったというわけです。

 この時期の西ドイツの普通切手は、今回ご紹介の20ペニヒ切手を始め、“事故防止”を統一テーマに、額面ごとに“火の用心”とか“飲酒運転禁止”などを表現したデザインとなっています。日常的に使われている切手を通じて、生活の安全に対する注意を促すというのは、なかなか、良いアイディアなんじゃないかと思います。切手をメディアとして使うというと、すぐに、特定のイデオロギーや国策を宣伝するどぎつい切手を連想しがちですが、こういう内容だったら、反対する人は少ないでしょう。

 切手を使う郵便というものが、単純な通信ないしは物流の手段として、今後も従来のまま生き残っていけるかというと、なかなか厳しいものがあるのは否定できないとおもいます。だとすれば、切手のメディアとしての特質を最大限に活用して、公共広告機構とのタイアップで“チーム-6%”だとか、薬物乱用防止、飲酒運転撲滅などの題材を取り上げていくという方向に活路を見出していくと言う発想があっても良いはずです。

 少なくとも、毒にも薬にもならない野鳥の切手や、子供だましのアニメの切手(切手に取り上げられているアニメが“子供だまし”と言うことではありません。念のため)を垂れ流しているよりは、よっぽど気が利いているんじゃないかと、僕は考えています。

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 硬派だけじゃないのね
2006-08-23 Wed 00:44
 昨日と一昨日(21日と22日)のメディアは、高校野球で優勝した早稲田実業(早実)の話題で持ちきりでした。というわけで、早実出身者を取り上げた切手の中から、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      竹久夢二

 これは、1999年に発行された「20世紀デザイン切手」の第3集のうち、“竹久夢二の活躍”を取り上げた2枚で、左側は“版画「宝船」”、右側が“半襟図案「玉椿」(部分)と肖像”というのが郵政側の説明です。

 1884年、岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)の造り酒屋に生まれた夢二(本名・茂次郎)は、1902年、上京して開校後まもない早稲田実業学校(早実の前身)に入学します。学生時代、スケッチを『読売新聞』等に投書するようになり、1905年に、友人の荒畑寒村の紹介で平民社発行の『直言』にコマ絵が掲載されたのを皮切りに、雑誌『光』や日刊『平民新聞』に諷刺画などの絵を掲載するようになります。そして、同年6月、『中学世界』に「筒井筒」が第一賞入選。このとき初めて夢二を名乗っています。なお、画業が忙しくなってきたためか、この年には、早稲田実業専攻科を中退しています。

 画家・詩人としての夢二が“大正浪漫”の頂点に位置するクリエーターであったことは広く知られていますが、さすが実業学校の出身者らしく、自分の仕事と能力を市場化する能力に秀でていた点も見落としてはならないでしょう。

 すなわち、1914年、夢二は東京呉服橋に港屋を開業し、みずから浴衣や小間物、楽譜のデザインを手がけ、生活美術・商業美術の分野でも先駆的な役割を果たしており、日本のグラフィック・デザイナーの草分けとして多大な業績を残しています。その意味では、今回ご紹介している右側の切手の背景に半襟の図案が取り上げるという選択は歴史的な理解としては妥当です。ただし、夢二本人だったら、おそらく、もっとお洒落なデザインの切手を作ったんじゃないかと思ってしまいます。

 いままで、早実っていうと、どうしても野球の王監督の印象が強いせいか、スポーツの強い硬派な学校だとばかり思っていただけに、今回、ネットで“早実”を検索してみて、OBの中に竹久夢二の名前を見つけたときはひっくり返らんばかりにビックリしてしまいました。まぁ、それだけ懐が深い学校ということなんでしょうけれど…。

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 外国切手の中の中国:アルバニア
2006-08-22 Tue 00:58
 ご報告が遅くなりましたが、18日付で、NHKラジオ中国語講座のテキスト9月号が刊行となりました。僕が担当している連載「外国切手の中の中国」では、今回はバルカンの国、アルバニアを取り上げました。その中から、こんな1枚をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

アルバニアの文革礼賛切手

 これは、1969年10月1日に発行された“中華人民共和国建国20周年”の記念切手の1枚で、『毛主席語録(毛語録)』を手にした紅衛兵と労働者が描かれています。

 第二次大戦中、ムッソリーニのイタリアに占領されていたアルバニアでは、レジスタンス闘争と内戦の時代を経て、共産主義者が実権を掌握。1946年にはエンヴェル・ホッジャを最高指導者とする共産主義政権、アルバニア人民共和国が樹立されました。

 ホッジャのアルバニアは、“正統派マルクス・レーニン主義”の名の下、スターリン主義を忠実に自国に導入しようとしました。すなわち、ソ連の“指導”の下、共産党の独裁政権を確立して秘密警察による恐怖支配を行い、農業・軽工業・国民の生活水準向上を無視して重工業化を推し進めようとしたのです。

 当初、アルバニアの国家建設に際しては、隣国のユーゴスラビアが多額の経済援助を行っていましたが(一時期、アルバニアの国家予算のほぼ半額にあたる援助をユーゴスラビアから受けていたこともある)、ティトーを首班とするユーゴスラビアが独自の社会主義路線を歩んでソ連と対立し、1948年にコミンフォルムから追放されると、アルバニアは、ユーゴスラビアと国交を断絶し、親ソ路線を鮮明に打ち出します。

 その後、アルバニアはコメコンとの関係を強化し、ソ連・東欧諸国からの借款を受けて順調に経済発展を続けましたが、1953年にスターリンが亡くなり、1956年にフルシチョフによるスターリン批判が行われると、スターリン主義の忠実な僕を自認していたアルバニアは大いに動揺します。そして、フルシチョフの対米宥和路線を“修正主義”として、これを激しく非難した中国の主張に賛同。中ソ対立が深まる中で、親中国の姿勢を鮮明にし、ソ連・東欧諸国との関係を断絶します。

 当然のことながら、ソ連・東欧諸国からの経済援助が打ち切られたことでアルバニア経済は大きな打撃を被りましたが、それに代わって中国が本格的なアルバニア支援に乗り出しました。

 こうした状況の下で、1966年、中国でプロレタリアート文化大革命(以下、文革)が起こります。

 文革の本質は、大躍進政策と呼ばれる無謀な社会主義建設が失敗し、その責任を問われて毛沢東の権威が大きく傷ついたという状況の下で、人民解放軍の林彪らが毛の権威を利用して(同時に、毛自身も林彪らを利用して)劉少奇・小平らの実務派の政治指導部を“実権派”として攻撃し、その追い落としを図った権力闘争でした。

 ただし、権力闘争は全国民を巻き込んだ“階級闘争”として展開されたため、“実権派”の同調者とされた人々はさまざまな迫害を受け、紅衛兵による暴行や殺戮が横行。極端な平等主義や知識軽視、“自力更生”の名による経済面での自給自足指向など、“原理主義”的なマルクス主義理解に基づいて、宗教や伝統文化が徹底的に否定され、教会や寺院などの宗教施設や貴重な文化財が多数破壊されました。

 ソ連の“修正主義”を敵視していたアルバニア国家の指導部は、こうした中国の文革に大きな刺激を受け、中国以上に、ブルジョア文化の排除と思想の純潔強化を国民に対して強要。1967年には宗教を完全に否定する“無神国家”の宣言がなされたのをはじめ、幹部・知識人の肉体労働の強化、英雄をたたえる文化活動、軍隊内での政治学習の強化などが中国以上に徹底して行われていきました。

 特に、1968年にソ連がチェコスロバキアに軍事介入すると、ソ連の軍事介入をおそれたアルバニアは、ワルシャワ条約機構から脱退。ソ連を実質的な仮想敵国とする軍事政策を展開し、ほぼ全国民にいきわたる量の銃器を保有する国民皆兵政策が導入され、中国との軍事的な関係も強化されていきます。

 こうした状況は、国家のメディアである切手にもさまざまなかたちで反映され、この時期のアルバニアは、中国との友好関係を強調するため、文革と毛沢東を礼賛する切手を次々と発行していくのです。

 今月の「外国切手の中の中国」では、そうしたアルバニアの文革礼賛切手をいくつかご紹介しています。ちょっと変わった角度から、社会主義プロパガンダ美術のキッチュな面白さを楽しんでみたいという方は、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 9万アクセス
2006-08-21 Mon 01:05
 昨日(20日)遅く、カウンターが9万アクセスを越えました。いつも遊びにきていただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

 さて、9万アクセスという区切りにちなんで、今日は9に絡む切手の中から、こんな1枚を引っ張り出してきました。(画像はクリックで拡大されます)

天女航空加刷

 これは、アメリカ施政権下の沖縄で1959年に発行されたエアメール用の切手で、9セントという額面は、中国本土・台湾・香港・マカオ・フィリピン・朝鮮宛の葉書の航空料金に相当しています。

 もともと、加刷の元になった切手は1957年8月に発行されたエアメール用の切手でしたが、1958年に沖縄では従来のB円に代わり、米ドルが使われるようになったため、B円時代の切手にドル表示の額面を加刷下切手が発行されることになったというわけです。

 ちょっと専門的なことをいうと、加刷文字の9cのうちのcの部分は、縦の棒が長いものと短いもの、さらにその中間のものという3つのタイプに分類されます。また、加刷切手の常として、加刷の位置が上下にずれたものや加刷の向きが上下逆になったものなども存在しています。もっとも、今回ご紹介しているくらいのズレ具合だと、特別なバラエティないしはエラーというのは、ちょっと無理があるでしょうが…。

 それにしても、加刷の元になった天女の切手は凹版印刷が素晴らしいですねぇ。アメリカ施政権下の沖縄切手って、この切手に限らず、概して同時代の日本切手に比べると、はるかに出来が良いんじゃないかと個人的には思っています。

 どうせ集めるんなら、綺麗な切手のほうが楽しいにきまっているので、そうした意味では、デザイン的に優れたものの多い沖縄切手は、これから切手をかじってみようという人にはお勧めのテーマだと思います。しかも、日本語の文献も揃っていますし、特別に高い切手もほとんどありませんからねぇ。どうです。あなたもやってみませんか?

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 満州の放送は楽しい?
2006-08-20 Sun 00:41
 今日(8月20日)は、現在の放送法に基づく特殊法人としての日本放送協会(NHK)の前身として、1926年に社団法人・日本放送協会が設立された日だそうです。別に、NHKの語学のテキストで連載をしているからといってゴマをする必要もないのですが、まぁ、せっかくですから、放送がらみで何か面白いものはないかと思って探し出してみたのがこの葉書です。(画像はクリックで拡大されます)

      満州標語葉書(放送)

 この葉書は、1941年5月に満洲国で発行されたもので、表面下部に“放送を聞いて一家で楽しもう”という趣旨の「圍聴放送 閤家歡樂」という標語が入っています。

 実際に戦闘状態にある中国や、モンゴルやソ連といった仮想敵国と国境を接していた満洲国は、敵味方入り乱れての激しい宣伝戦が繰り広げられていた地域でした。このため、関東軍は早くから軍事目的にラジオネットワークを構築することに努めており、1936年に開局した新京第2放送局(短波)は、辺境地域でも聴取可能なように、100キロワットという当時としてはきわめて巨大な出力を備えていました。

 宣伝工作の手法としては、娯楽が少ない辺境地域が“敵”のプロパガンダ攻勢に最もさらされているという事情を考慮して、堅苦しいお説教調のものよりも、娯楽的色彩を前面に押し出し、リスナーを“楽しませながら洗脳する”という方向性が目指されていたようです。葉書の標語が、ラジオの“楽しさ”を強調しているのも、そうした事情によるものと考えて良いでしょう。

 なお、この葉書は太平洋戦争の開戦後まもない1942年1月に、ソ連との国境に近い綏芬河から岩手県宛に差し出した年賀状ですが、この差出人も、そうした満洲国のラジオ放送を楽しみにしていた一人だったのでしょうか。

 さて、以前からこのブログでも時々話題にしていますが、9月25日付で、角川選書の一冊として『満洲切手』と題する新作を上梓します。同書では、満洲国の標語入り葉書をいろいろな角度から分析してみました。当初の予定では、全ての標語について詳しく論じるつもりだったのですが、紙幅の関係で、結局はいくつかの主なものの抜粋で済ませるという形式を取らざるを得なくなりました。

 今回の葉書(の標語)は、そうした事情で『満洲切手』には掲載しなくなりましたので、“社団法人・日本放送協会”の設立80周年にかこつけて、今日のコラムで日の目を見せてやった、という次第です。

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 エラー印
2006-08-19 Sat 00:18
 昨日(18日)は、急にフジテレビから呼び出しがあって、夕方のニュースにビデオでコメントを寄せることになりました。なんでも、相模原の郵便局で、機械印の日付を“8月16日”としなければならないところ、誤って“8月91日”として押印してしまったとのこと。で、「こういうものは値打ちがあるのか」とか「お前も何か、この手のエラー印を持っていないのか」ということで話を聞きたいといわれて出かけていったわけです。(放送は無事に終わりました。ご覧いただいた方には、この場をお借りしてお礼申し上げます)

 まぁ、いわゆるエラー印の類は、好きな人は非常に好きなのでしょうが、あいにく僕はほとんど興味がありません。手持ちのストックをゆっくりと探せば、いろいろと面白いものも出てくるのでしょうが、なにせお昼頃に最初の電話をもらって、14:30には撮影開始、17:20ごろ放送というスケジュールでしたから、とりあえず、すぐに出てきたものということで、こんなモノを持っていきました。(画像はクリックで拡大されます)

東北・マオ切手カバー

 これは、中国での国共内戦末期の1949年6月15日、共産党支配下の東北(かつて“満洲”と呼ばれていた地域です)の安東から北平(現・北京)宛に差し出されたカバー(封筒)で、“東北郵電管理総局”の国名表示が入った毛沢東の切手が貼られています。

 東北郵電管理総局は、1946年10月1日、東北解放区全体の郵政を統括する機関として哈爾浜(ハルピン)に設けられた機関で、東北郵電管理総局が成立。東北解放区共通のデザインの切手として、同年11月22日、毛沢東の肖像を描く管理総局として最初の切手を発行しました。以後1949年まで、管理総局は、国共内戦下のインフレに対応した新たな額面を加えながら、毛沢東の切手を発行し続けていくのですが、今回のカバーには1948年8月発行の第4版1000円切手1枚と1949年3月発行の第5版1500円切手2枚が貼られています。

 宛先の北平には、既に1949年1月に中国人民解放軍が入城しており、同年10月には、中華人民共和国の成立とともに北平は北京の旧称にもどります。それでも、東北では満洲国時代の櫛型印が使われているのがちょっと面白いところです。

 もっとも、そうした話は撮影とは全く関係がなくって、今回は、消印の日付部分が、年月日すべて完全に上下逆になっているというのが肝です。時刻表示の部分ははっきりと読めますから、比べてみていただくと、よくわかると思います。まぁ、僕個人としては、このカバーを買ったのは、押されている消印が“エラー印”だからというわけではないのですが…。

 さて、以前のブログでもお話しましたが、現在、9月25日に角川選書の一冊として刊行予定の『満洲切手』の制作作業が大詰めを迎えています。今回のカバーも同書の中で使っている関係で、最近は机の周りのすぐ手の届くところにあって、そのことが、撮影に連れて行く決め手となりました。

 ちなみに、『満洲切手』の元の原稿では、消印の日付部分が上下逆になっているということは特に触れなかったのですが、今回はそのことで公共の電波に乗せてしまいましたからねぇ。週明けに版元に戻すことになっている校正ゲラには、消印の日付のことを書き加えるべきか否か、ちょっと迷っています。

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 アペルドールン
2006-08-18 Fri 00:52
 皇太子ご一家が、妃殿下の療養を兼ねてオランダへご出発なさったそうです。ご滞在先は首都アムステルダムから東約90キロのアペルドールンにあるオランダ王室の別邸で、ご帰国は31日の予定とか。

 というわけで、こんなカバー(封筒)が出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

オランダ亡命政府

 第二次大戦が始まると、オランダは中立を宣言しましたが、1940年5月、ナチス・ドイツはこれを無視してオランダ領内に侵攻し、オランダ全土を占領してしまいます。これに伴い、ウィルヘルミナ女王はロンドンに亡命し、かの地に亡命政権を樹立しました。

 連合国によってオランダが解放されたのは、大戦末期の1945年5月4日のことで、翌5日、亡命政府がハーグに召集され、オランダ政府はようやく祖国復帰を果たします。

 今日ご紹介しているカバーは、そうした最末期のロンドン亡命政府の戦争省が本国宛に差し出したものですが、その宛先が、今回皇太子ご一家が滞在されるアペルドールンというのがミソです。

 切手が貼られていないのは、料金無料の政府公用便だからなのでしょうが、その結果として、ロンドンから差し出されたときの消印が押されていないのはちょっと残念です。もっとも、カバーの右上には、しっかりと1945年5月8日付のアペルドールンの到着印が押されているので、まぁ、よしとしましょうか。

 アペルドールンには、1685年建造のバロック様式の宮殿、ヘット・ロー宮殿があり、それがゆえに“ロイヤル・シティ”と呼ばれています。宮殿内に飾られている王家使用の馬車や家具、オラニエ家の肖像画、さらに、フランス人ダニエル・マロットの設計といわれる庭園などはオランダ観光の目玉の一つとされていますから、ご覧になった方も多いのかもしれません。

 8月も残りあと2週間となりましたが、これから夏休みのオランダ旅行に出かけるという方は、案外、現地で日本の皇太子ご一家をお見かけする、なんてことがあるかもしれませんね。

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 切腹前は刀なし
2006-08-17 Thu 00:43
 右翼団体の構成員と思われる男が、元自民党幹事長の加藤紘一議員の地元の住居兼事務所に入り込んで、放火したうえ、割腹自殺をはかったのだとか。なんとも、物騒な話です。

 まぁ、切腹というのは日本の伝統的な自殺方法のひとつで、外人にも“ハラキリ”の名で知られているくらいなので、切腹して果てた人物の切手というのはいくつかあるのですが、今日はその中から、こんな1枚を引っ張り出してみました。(画像はクリックで拡大されます)

写楽

 これは、1956年の切手趣味週間(以下、趣味週間)の切手として発行されたもので、取り上げられている浮世絵の正式名称は「市川鰕蔵の扮する竹村定之進」ですが、一般には、作者の名をとって“写楽”と呼ばれています。

 1956年の趣味週間切手に関しては、前年が歌麿の「ビードロを吹く娘」だったことから、男性を取り上げた浮世絵を選ぶという方針が早くから決められていました。ただ、題材の選択に際しては、刀が描かれていない(当時の郵政省の判断では、たとえ歌舞伎絵であっても、刀は“物騒”であるとして切手の題材として不適切とされていた)ということが重要なポイントであったため、選定作業は難航。紆余曲折の末、切手に取り上げられた“写楽”が切手に取り上げられることになりました。
 
 切手に取り上げられた「市川鰕蔵の竹村定之進」は、1794年5月、江戸の河原崎座で上演された「恋女房染分手綱」の登場人物、竹村定之進を演じる市川鰕蔵を描いたものです。

 ここで描かれている市川鰕蔵(1741~1806:寛保元~文化3)は、安永・天明期の江戸歌舞伎全盛期を代表する名優で、(3代目)松本幸四郎、(5代目)市川団十郎を名乗った後、1791(寛政3)年から鰕蔵を名乗りました。また、俳句や狂歌もよくし、太田蜀山人ら当代一流の文人とも親交があったことでも知られています。

 一方、彼が演じる竹村定之進は、物語中では、由留木家の能役者で腰元・重の井(1984年の趣味週間切手に取り上げられています)の父親。彼女が伊達の与作と通じたことから暇を出されたため、娘の不義を謝罪して、主君に秘曲道成寺の秘伝を伝え、鐘の中で切腹するという役回りとなっています。ということは、写楽の絵で物語後半のクライマックス部分が取り上げられていたりしたら、竹村定之進は切手に取り上げられることもなかったのでしょうね。

 ちなみに、切手では、原画の左端にあった「東洲斎写楽画」の署名や、版元・蔦屋重三郎の極印や紋印(富士山に蔦の葉)などがカットされていますが、それ以上に興味深いのは刷色です。というのも、当時の印刷局の設備では、4色までの印刷しかできなかったため、5色刷の原画を忠実に再現することはできません。このため、唇やまぶたの色は着物と同じ色を使って変化を持たせるという苦肉の策が取られています。

 なお、この切手をはじめ、1950年代の趣味週間切手黄金時代については、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅱ)ビードロ・写楽の時代 1952-1960』をご覧いただけると幸いです。

 *<解説・戦後記念切手>シリーズは、同書のほか、現在まで、『濫造・濫発の時代 1946-1952』『切手バブルの時代 1961-1966』『一億総切手狂の時代 1966-1971』をあわせて全4巻が刊行されています。1972年以降については、来年以降、逐次刊行予定の<解説・戦後記念切手>シリーズの続刊でまとめていくつもりですので、ご期待ください。

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 ヒズボラ切手
2006-08-16 Wed 08:15
 靖国問題の陰に隠れて、日本国内ではイマイチ小さな扱いですが、レバノンで停戦が成立しました。

 ということで、こんな切手(画像はクリックで拡大されます)をもってきてみました。

      ヒズボラ切手

 この切手は、1987年にヒズボラ(ヒズブッラー)の反イスラエル闘争を称えてイランが発行したものです。

 ヒズボラは、1982年に結成された急進的シーア派組織で、イラン型のイスラム共和国をレバノンに建国し、非イスラム的影響をその地域から除くことを運動の中心としており、イランならびにシリアの組織的支援を受けているとされています。

 その理論的指導者、ムハンマド・ファドルッラーは、1976年に発表した著書『イスラムと力の論理』で、「数の上では常に多数派を占めている弱者が信仰に立脚して不退転の決意をもって強者に抵抗する」ことを主張。「神の道のために努力する」というジハードの理念(日本語では「聖戦」と訳されることが多いが、必ずしも、ここでいう“努力”は戦闘にのみ限定されるものではありません)を武装闘争の理論と一体化させ、“殉教作戦”という名の特攻攻撃(いわゆる自爆テロ)を発明しました。

 殉教作戦が最初に発動されたのは、1983年10月23日のことで、ベイルートのアメリカ海兵隊本部に爆弾を満載したトラックが突入。海兵隊の一日の被害としては、第二次大戦後最大となる241名の死者を出しています。また、同日、フランス駐留軍の本部に対してもトラック爆弾が突入し56名が死亡。さらに、11月4日には、レバノン南部のチールにあったイスラエル占領軍の本部にもトラック爆弾が突入し、50名以上の死者が出るなどの“戦果”を挙げています。このような殉教作戦に加え、ヒズボラはレバノン在住の欧米人の誘拐事件も多数引き起こし、人々を恐怖のどん底に陥れました。

 この結果、国連の平和維持部隊の主力であったアメリカは、レバノン政府を支えてヒズボラを押さえ込もうとしたものの、結局果たせず、1984年前半にレバノンからの全面撤退を余儀なくされています。また、当時はレバノン南部がイスラエル軍によって占領されていましたが、ヒズボラは占領イスラエル軍に対するレジスタンス活動を続け、イスラエル軍をレバノン南部の国境線沿いの“安全保障地帯”にまで撤退させることにも成功しました。

 今回の停戦に関しても、イスラエル軍の撤退という事実をとらえて、ヒズボラ側は自らの勝利を大々的に宣伝し、イランのアフマディネジャド大統領も、「レバノンは一連の戦闘を通して目覚ましい抵抗を示した」「(今回の戦闘により)シオニスト政権の軍事的無敗の神話は崩壊した。ヒズボラの揺るぎない信念と抵抗に感謝する」と述べてヒズボラの勝利を称えています。その意味では、1985年の“勝利”と同じともいえるわけですが、さてさて、イラン郵政はまたもや記念切手を出すんでしょうか?
 
 僕としては、ちょっと気になるところです。

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 切手の中の建設物:靖国神社の大鳥居
2006-08-15 Tue 00:25
 今日は終戦記念日。というわけで、10日付で発行の(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』で僕が連載している「切手の中の建設物」では、今月は靖国神社の大鳥居を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

靖国神社の大鳥居

 終戦記念日が近くなるとニュースをにぎわす靖国神社ですが、そのシンボルともいうべき大鳥居(第一鳥居)は、じつは、神社創建の時からあったわけではなく、大正時代の1921年になって建てられたものです。なお、これ以前に、現在第二鳥居となっている鳥居が、1887年に大阪の砲兵工廠で作られて運び込まれています。

 大鳥居は、柱を地面に対して垂直に立てて笠木(上の横木)を乗せた神明系といわれる形式ですが、笠木が丸太状なのに対して、貫(柱の途中に渡されている横木)が角材で柱を貫通していない独特のスタイルになっています。これは、靖国神社だけでなく、全国の護国神社に共通して見られる形式で、一般に“靖国鳥居”と呼ばれています。

 太平洋戦争中の1943年、戦時下で十分なメンテナンスが行われなくなっていた大鳥居は、表面の青銅が剥がれ落ち、内部の鉄骨も腐食が進んだため、①戦争終結後に必ず再建すること、②解体後の銅と鉄は戦争に使うこと、などを条件に軍部によって撤去され、木造の仮鳥居が建てられました。この木造の仮鳥居建造の経緯については、今月号の雑誌『郵趣』に多賀正男さんのコラムが掲載されていますので、ご興味をお持ちの方はご一読ください。

 画像の切手は、1943年2月に発行された額面17銭(速達ならびに書留料金用)のものです。この年、大鳥居は撤去されたため、現在では切手そのままの大鳥居を見ることはできません。

 このような経緯から、関係者の間では、戦後、早急に大鳥居を再建したいという希望が強くありました。しかし、敗戦により靖国神社の存続そのものが危ぶまれるような状況でしたから、大鳥居の再建など夢のまた夢という状況がしばらく続きました。結局、戦後20年近く経った1974年になって大鳥居は再建されるのですが、世論の反対を考慮して再建計画は極秘裏に進められ、マスコミに情報が漏れるのを防ぐため、資金の調達も、企業からの大口の寄付ではなく、個人から少額の寄付を幅広く募るという方法がとられています。

 さて、大鳥居の再建に際しては、とにかく“日本一の大鳥居”を作るということが関係者の間の総意となっていたようで、見積りが開始された後になって、栃木県に当時日本一の大きさの鳥居が完成すると、急遽、仕様が変更されるということまであったそうです。
 
 設計陣は、当初、30メートルないしは35メートルの鳥居を目指していたともいわれていますが、結局、再建された大鳥居は、柱の高さが25メートル、笠木が約34メートルというサイズになりました。総重量は約100トン。これを支えるため、鉄に炭素・硅素・マンガンなどを加えた耐候性高張力鋼板という特別な合金が使われています。
 
 靖国神社をどう評価するかということとは別の次元で、“日本一の大鳥居”を作ろうとして奮闘した技術者たちの物語は、それこそ、いまはなき「プロジェクトX」風のドキュメンタリー番組にしてみたら面白いと思うのですが、まぁ、現状ではなかなか難しいでしょうねぇ。

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 インド製のパキスタン切手
2006-08-14 Mon 00:48
 10日にイギリスで発覚した航空機テロ未遂事件の容疑者グループ24人のうち22人はパキスタン系だそうです。で、そのパキスタンでは、今日(14日)が独立記念日ということで、国内でのテロ事件を警戒した厳戒態勢がしかれています。

 というわけで、パキスタンの独立記念日にちなんで、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

パキスタン加刷切手

 これは、独立直後の1947年10月1日、英領インド時代の切手に“パキスタン”の文字を加刷して発行されたパキスタン最初の切手の1枚です。

 パキスタンという国が誕生することになった経緯を理解するためには、インドのヒンドゥーとイスラムの関係についておさえておく必要があります。

 標準的なインド人の理解では、“ヒンドゥー”とはインドで生まれ、育ち、生活している人々やその生活様式のことで、その意味では、インドのムスリム(イスラム教徒)もヒンドゥーだということになります。また、いわゆるヒンドゥー教徒の発想では、「宗教の違いは同一の真理が別のかたちであらわれたにすぎない」とされていますから、その意味では、一神教のイスラムも多神教のヒンドゥー教も同等が建前です。

 この発想を敷衍していくと、全ての宗教は“平等”であるということになるのですが、彼らのいう“平等”というのは非常に曲者です。というのも、ここでいう“平等”は、たとえば、いわゆるヒンドゥー教とイスラムの違いを認めた上で対等の関係を認めるということではなく、すべてを“ヒンドゥー”としてひとくくりにしてしまって、自他の差異を認識しない、さらには、他者(ムスリムやキリスト教徒)の立場を尊重するということなど毛頭考えない、という態度を“平等”と称している色彩が濃厚だからです。そして、特定の宗教を差別もしなければ、優遇もしないという建前の下に、マイノリティや社会的弱者を保護することを、特定の者を優遇するという意味で“差別”として糾弾することさえあります。当然、マイノリティの社会的権利や彼らの伝統・習慣を尊重しようという発想はきわめて希薄です。

 ムガル帝国の時代、支配階層であったムスリムは、イギリスの植民地支配下で少数派に転落しましたが、そうなると、圧倒的多数の非ムスリム・ヒンドゥーの前に彼らの権利や習慣などは尊重されなくなってしまいました。こうしたことから、インド社会の中で、純粋なムスリムとしての生活を維持したいと考える人たちは、“ヒンドゥー”とムスリムは別の民族であり、ムスリムは“ヒンドゥー”とは別の共同体を樹立して分離すべきだという“二民族論”を展開。その結果、1940年以降、インド亜大陸の北西部(現在のパキスタンに相当する地域)と東部(現在のバングラデッシュに相当する地域)に、パキスタン(パンジャブのP、アフガン=北西辺境州のA、カシュミールのK、スィンドのS、バロチスタンのTANからなる人為的地名)を建国しようという運動が本格的にスタートしました。

 第二次大戦後、イギリスは、英領インドの独立に際して、現在のインド・パキスタン・バングラデッシュの3地域を基本単位とした緩やかな道州制の連邦国家を作ることを提案します。これは、二民族論を尊重した上で、旧英領インドの枠組を維持しようという、きわめて現実的な提案でした。

 これに対して、現在のインド政府は、この提案をムスリムが拒絶したことでインドとパキスタンの分離独立になったと主張していますが、近年明らかにされた資料によると、じっさいには、インド側は、旧英領インドをそのまま引き継いで中央政府が強力な権限を持つ中央集権国家(当然、マイノリティとしてのムスリムの権利はほとんど顧慮されない)を作ることに固執。このため、危機感を抱いたムスリムは分離独立を主張せざるを得なくなったというのが実情です。ただし、分離独立といっても、当然のことながら、すべてのムスリムがパキスタンに移住したわけではなく、現在のインド国家の領域に残り、“ヒンドゥー”と共存する道を選んだムスリムも大勢いましたが…。

 また、イギリスからの独立に際して、インド側は、“パキスタンの独立はあくまでも一時的なもの”という留保条件をつけてましたので、このことも、パキスタンのムスリムからすると、いつか、インドが自国を併合し、自分たちはムスリムの権利が保証されない体制に組み込まれてしまうかもしれない、という恐怖感の源になっています。

 さて、今回の画像は、上記のような事情で独立したパキスタンが最初に発行したものの1枚ですが、その加刷はムンバイ(ボンベイ)近郊のナーシク(行政上はインド・マハラシュトラ州に属する)で行われました。ナーシクはヒンドゥー教の聖地の一つですから、そういう土地で、ムスリム国家・パキスタン切手の暫定加刷が行われたというのは、なんとも皮肉な話です。“ヒンドゥー”を忌避して建国したとはいえ、南アジアにおけるインドの圧倒的なプレゼンスを無視しては生きていけないというパキスタンの悲哀がにじみ出ている1枚と言ったら、ちょっと言いすぎですかねぇ。

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 龍と雷
2006-08-13 Sun 01:31
 昨日(12日)の東京は、山手線もストップしてしまうほどのひどい雷雨に見舞われました。僕は、街中を歩いていて、突如襲ってきた雷雨にぶつかってひどい目に遭いましたが、悔しいので、その後会った友人には「どうだ、水も滴るいい男だろ」と強がってみました。まぁ、雷の多い年は稲が豊作だともいわれているようですから、それはそれで良しとしないといけないのでしょう。

 というわけで、雷がらみの切手ということで、今日はこんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

龍500文

 これは、いわずと知れた、1871年4月20日に発行された日本最初の切手“龍文切手”のうちの500文切手です。別に、他の額面のモノを持ってきても良かったのですが、100文は以前この記事で取り上げたこともありますし、200文もこの記事でカバーを紹介したこともありますので、ダブりを避けて、今日は500文にしたという次第です。

 さて、今日の主役は、切手の名前の由来になっている龍ではなくって、切手の周りにめぐらされているラーメン丼のマークのような文様です。

 この文様は、一般に古代中国で雷を図案化したものいわれており、それゆえ“雷紋”と呼ばれています。文様の一つずつは“□(四角)”で囲われた構成になっているため、その口の中に鬼や悪魔が来ても、雷紋で囲われた内側には入ってこられないということから、“魔よけ”の意味が込められているのだそうです。

 中国では古代の青銅器などにも使われていた文様ですが、日本へはまず有田に伝わり、江戸時代以降、そこから全国へと波及しました。ちなみに、ラーメン丼に広く使われるようになったのは、第二次大戦後のことです。

 一方、切手の中心的な題材である龍ですが、その位置づけは中国と日本では大いに異なっています。

 中国では完成した龍の姿は、帝王を象徴するものとされ、その姿は、宮殿、玉座、衣服、器物などに描かれていたのですが、これに対して、古代の日本では、中国から伝えられた“龍”は、四神の白虎、朱雀、玄武とともに、まず青龍が重要視され、都城の守護神として位置づけられていました。平安時代以降、仏教が全国民的な規模で広まると、仏法の龍が尊重されるようになり、龍は武具や寺院建築、仏具の装飾を飾るキャラクターとして定着していきますが、中国のように“聖獣”視されることはほとんどありませんでした。

 その後も、龍は法華信仰と結びつき、龍神ないしは龍王として、農業にとって重要な雨を司る存在として位置づけられるようになります。実際、江戸時代の日本人にとっての龍は、ヤモリやトカゲ、ヘビなどと同レベルの動物とみなされており、刺青の題材としても好んで用いられていました。

 それゆえ、豊作の暗示させる雷と龍という組み合わせは、明治初年の日本人にとっては、ごくごく自然なものだったと考えるのが自然なようです。

 なお、龍が日本最初の切手に取り上げられることになった背景事情については、去年刊行した拙著『皇室切手』でも詳しくまとめてみましたので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 サトウキビから作られた葉書
2006-08-12 Sat 00:43
 東京・目白の切手の博物館では、現在、夏休みの“自由研究”対応企画として、「切手でサイエンス」という企画展示を行っています。で、8月中は毎週土曜日の14:30から、関係者が交代で“切手を科学しよう”と題して30分程度のミニトークを行っているのですが、今日(12日)は僕が当番でお話しすることになっています。

 で、その教材(?)の一つとしてお見せする予定なのが、下の画像の葉書です。(画像はクリックで拡大されます)

台湾楠公

 この葉書は、太平洋戦争末期の1945年6月に発行された台湾製の葉書で、収集家の間では“台湾楠公”と呼ばれているものです。

 日本の敗色が濃くなっていた1944年10月、日本植民地下の台湾の郵便の責任者であった台湾総督府交通局の逓信部長は、日本との交通が途絶えて葉書の供給がストップし、在庫切れとなることを予想して、内地製のものと同形式で暫定的な葉書を現地で製造したいことを、東京の通信院(1943年11月の行政機構の簡素化により、逓信省が改組されたもの)に申し出て、了承を得ました。

 この結果、台湾では、サトウキビの絞りかすを用いて作ったバガス紙で葉書を製造します。

 バガス紙は、最近でこそ、“環境にやさしい”非木材紙として注目を集めていますが、当時はあくまでも、資源と設備の不足を補うための窮余の一策として葉書に用いられていました。色の感じはハトロン紙に似た雰囲気で、混じり物も多く、一言で言ってしまえば、粗末な紙です。画像を見ていただけるとお分かりのように、裁断もちょっとゆがんでおり、きちんとした製品を作ることができなかった当時の状況がしのばれます。

 なお、当初の計画では、台湾楠公の葉書は1945年4月1日の郵便料金改正(葉書は3銭から5銭に値上げされました)の前に発行される予定でしたから、印面は3銭で印刷されている。しかし、実際にこの葉書が郵便局の窓口に登場したのは、料金値上げ後の6月に入ってからのことだったため、郵便局の窓口では、あらかじめ“料金収納”ないしは“料金別納”等の印を押し、旧料金との差額分の2銭を徴収した上で、5銭葉書として販売されています。

 画像でご紹介している葉書は、竹北の料金別納印が押された上で軍事郵便として差し出されています。消印が省略されているので差出の日付はわかりませんが、受取人の書き込みによって宛先の新社庄には1945年7月11日に到着したことがわかります。

 今日のトークでは、この葉書を含めて、戦争が切手や葉書の品質にどんな影響を及ぼしたのか、ということをいろいろとお話しするつもりですので、よろしかったら、是非、遊びに来てください。

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 ベルリンから金沢へ
2006-08-11 Fri 01:11
 今日(8月11日)は、70年前のベルリン・オリンピックで、前畑秀子が女子平泳ぎ200mで優勝した日ですが、有名な「前畑ガンバレ」の実況放送にちなんで、“ガンバレの日”とされているそうです。

 というわけで、意外なところでベルリン・オリンピックとつながっている切手として、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

第2回国体

 これは、1947年10月に金沢で行われた第2回国体(国民体育大会)の記念切手です。

 1947年6月、国体にあわせて記念切手を発行することが決定された時点では、逓信省(当時)にはスポーツに関する資料がほとんどありませんでした。このため、作業は、8月23日、デザイナーたちが東京・神田の書店街をまわり、ベルリン・オリンピックの写真帳を購入するところからはじめられています。

 この写真帳と雑誌『アサヒカメラ』等をもとに、8月25日、ヨット・テニス・砲丸投げ(以上、加曾利鼎造が作成。以下、カッコ内は下図の作成者)・スタート(日置勝俊)・野球・テニス(久野實)・体操(渡邉三郎)・円盤投げ(吉田豊)の各図案の下図が作成されました。

 これに対して、8月9日に行われた全日本選手権水上競技会の400m自由形で古橋広之進(当時、日本大学在学中)が世界新記録を出したことから、切手には水泳を加えてほしいとの強い要望が地元から出されたことや、主催団体の大日本体育会(現・日本体育協会)からも女子の競技を加えてほしいとの希望が出されたことなどを踏まえて、最終的に、バレー、水泳(飛び込み)、ハードル、円盤投げの4種目を切手に取り上げることが決められました。

 これを受けて、9月3日、デザイナー達は大日本体育会に赴き、ロサンゼルス・オリンピックや明治神宮体育大会などの資料を借り受けて、原図の作成に取り掛かります。その過程で、女子バレーには適当な資料がなかったことから、これは男子競技に改められ、代わりに、水泳に女子が取り上げられることになりました。

 その際、水泳の図案については、飛び込みもしくはスタート場面が最適との判断から、ロサンゼルス・オリンピックの写真帳から飛び込みの場面を選んだうえで、2枚の写真を組合せ、方向を変えるなどの修正が施されています。また、ハードルもこの写真帳から題材がとられ、修正の上で原画が作成されました。これに対して、バレーボールは国内競技会の写真が元になっています。なお、円盤投げに関しては、ベルリン・オリンピックの写真を再現した当初の下図がそのまま用いられました。

 こうして、作られた切手に関しては、雑誌『郵趣』が「各オリンピツク寫眞帳から模寫して、臆面もなく切手にしたと云ふことは、誠と當局の資料不足と不勉強を物語るものである」として逓信省の姿勢を批判したほか、学生郵便切手会の機関誌『切手の友』にはモデルとなったアメリカ人選手からクレームがつかないかと心配する投書も寄せられましたが、一般には日本最初のスポーツ切手、しかも小型シート以外では世界初の田型連刷ということで、一般には好評を持って迎えられています。

 なお、この間の詳しい事情については、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅰ)濫造・濫発の時代 1946-1952』にまとめていますので、ご興味をお持ちの方は是非、ご一読いただけると幸いです。

 PS 1952年以降1971年までの国体切手については、同じく<解説・戦後記念切手>シリーズの『ビードロ・写楽の時代 1952-1960』『切手バブルの時代 1961-1966』『一億総切手狂の時代 1966-1971』をご覧いただけると幸いです。1972年以降については、来年以降、逐次刊行予定の<解説・戦後記念切手>シリーズの続刊でまとめていくつもりです。

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 イスラエルとは国交なし?
2006-08-10 Thu 01:51
 イスラエルによるレバノン攻撃以来、「アメリカの支援を得て人々を殺害するイスラエルに強い憤りを覚える」とイスラエルに対する批判を展開していたベネズエラのチャベス大統領ですが、いよいよ、イスラエルとの断交の可能性についても公式の場で発言しはじめました。というわけで、こんなカバー(封筒)を引っ張り出してみました。(画像はクリックで拡大されます)

ベネズエラに返送されたカバー

 このカバーは、1955年12月、ベネズエラからイスラエル宛に差し出されたものですが、どういうわけか、レバノンのベイルートに届けられてしまったため、いったん、差出人戻しの扱いとされてしまい、しかる後に、あらためて、アラブ諸国を経由せずイスラエルに配達されたものです。(不鮮明ながら、裏面にはベイルートとテルアビブの印が押されているため、そうした事情がわかります)

 宛名の下には、スペイン語で「イスラエルとは国交なし?」との意味の書き込みがなされており、届くはずと思っていた郵便物が返送されてきてしまったことに対するベネズエラ郵政の職員の困惑がうかがえます。

 現在のチャベス政権は、今月3日、イスラエルのレバノン攻撃に抗議してイスラエル駐在大使の召還を表明しているほか、「イスラエルのような国と外交関係を保つことに何の関心もない」と繰り返し述べていますから、短期間にせよ、両国間の国交断絶が現実のものとなりそうな気配です。

 そうなってくると、この先、ベネズエラからイスラエル宛の郵便物というのはどうなるのでしょうか。まぁ、実際には、日本から国交のない北朝鮮宛に郵便物を差し出しても、平壌までは確実に届いている(もっとも、ああいう国ゆえ、国内で無事に配達されているかどうかは保証の限りではありませんが)わけですから、仮に国交断絶という状況になっても、ベネズエラ=イスラエル戦争が勃発でもしない限り、両国間の郵便交換が途絶する可能性は低いと考えるのが常識的な判断でしょう。ただ、ちょっと、気になるところではありますけどね。

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 満洲から転戦した兵士の葉書
2006-08-09 Wed 01:31
 1945年8月9日に、アメリカが長崎に原爆を投下した最大の動機は、ソ連が日ソ中立条約を破棄して満洲国の領内に侵攻したことを受け(宣戦布告は8月8日の深夜)、極東でのソ連の影響力拡大を阻止するため、日本をできるだけ早く降伏させるというものでした。

 というわけで、ソ連の対日参戦を考えるネタの一つとして、今日はこんな葉書を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

満洲から転戦した兵士の葉書

 この葉書は、もともと、満洲国内の日本兵同士がやり取りしていたものですが、受取人はこの葉書を携行して南方へと転戦。そこで米軍と戦って、おそらく玉砕したものと思われます。というのも、葉書の中央下部に押されている円形の印は、この葉書が太平洋地域の米軍によって回収され、情報収集のために検閲されたものであることを示しているからです。 

 ソ連軍が158万という大兵力で満洲国への侵入を開始したとき、かつて無敵と恐れられていた関東軍は、見る影も泣く弱体化していました。太平洋上での激戦が繰り広げられる中、直接の戦場とならなかった満洲国内に駐留していた日本の兵力は、次第に、激戦地へと転戦するようになり(この葉書の元の持ち主もその一人だったのでしょう)、1945年の時点では、満洲の兵力は櫛の歯が抜けたような状態となっていたからです。

 こうしたことから、もともと、日ソ間の軍事力に差があったこともあり、ソ連軍は関東軍を蹴散らしながら、一日100キロの急進撃で東支鉄道に沿ったハイラル・大興安嶺の要塞地帯を攻撃・突破していきます。そして、後ろ盾を失った満洲国はあっけなく崩壊。満洲に残された日本人の多くが、ソ連軍による非道な暴行・略奪によって筆舌に尽くしがたい辛酸を舐めたことは広く知られている通りです。

 終戦前後のソ連の蛮行が許しがたいものであることは言を俟たないのですが、日ソ中立条約を過信して国際情勢を見誤り、対ソ防衛を軽視していた日本の国家指導層の対応が事態をより深刻なものとしてしまったという側面も決して否定はできないと思います。そういう意味で、あの戦争に対する政府や軍の責任については、日本人が自らの手できっちりと落とし前をつけておくべきだと思うのですが、まぁ、この辺の問題について話し始めると、ちょっとやそっとでは収拾がつかなくなるのは明らかですから、今日のところは、これ以上の深入りは止めておきましょう。

 さて、9月25日に角川選書の1冊として刊行予定の『満洲切手』では、今日ご紹介している葉書を含めて、さまざまな切手や郵便物を使って、満洲国のイメージを再構成してみることに挑戦してみました。刊行までには、まだ少し間がありますので、このブログでも、折に触れて一部予告編のような記事を掲載していきたいと思っていますので、よろしくお付き合いください。

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 1・2・3・4フィニッシュ
2006-08-08 Tue 01:42
 6日に行われたF1のハンガリーGP(グランプリ)でホンダのジェンソン・バトンが初優勝しました。ホンダの優勝は1992年のオーストリアGP以来14年ぶり(通算72勝目)のことで、単独参戦では1967年イタリアGP以来39年ぶりの快挙だそうです。というわけで、今日の1枚はこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マン島のマンセル切手

 これは、1988年にマン島がモーター・スポーツを題材に発行した切手の1枚で、ホンダのエンジンを搭載したマシンを操るナイジェル・マンセルが取り上げられています。

 マン島は、イギリスのグレートブリテン島とアイルランドに囲まれたアイリッシュ海の中央に位置する淡路島ほどの小さな島ですが、法的にはイギリス(正式には“グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国”)の一部ではなく、自治権を持ったイギリスの王領なので、独自の法律を持ち、通貨・切手もイギリスとは別のモノを発行しています。ただし、現実にはイギリスのスターリング・ポンドがそのまま通用しますが…。

 今回ご紹介している切手では、1986・87年のイギリスGP優勝者ということでマンセルが取り上げられているわけですが、このうち、1987年のレースでは、ホンダのエンジンを使用したウイリアムズとロータスが1位から4位までを独占するという離れ業を達成しています。ちなみに、その内訳は、優勝がウイリアムズのナイジェル・マンセルで、2位が同じくウイリアムズのネルソン・ピケ、3位がロータスのアイルトン・セナ、4位がロータスの中嶋悟でした。

 もっとも、切手のデザインを見る限り、マンセルの身体はほとんどがマシンの中に入っていますし、わずかに表に出ている頭部もヘルメットに覆われていますから、説明がなければ、コアなファンならともかく、素人目にはマンセルの切手とはちょっとわかりにくいですよね。それだったら、1987年のイギリスGPでホンダが1・2フィニッシュならぬ1・2・3・4フィニッシュを決めたことを書いてくれればよかったのに、と思うのはやっぱり僕が日本人だからなんでしょうね。

 さて、切手には、当然のことながら、ホンダのエンジンを搭載したマシンが描かれており、車体にはしっかりホンダのロゴが入っています。しかし、それ以上に広告スポンサーであるキヤノン(Canonのカタカナ表記は、ついつい、“キャノン”と書きたくなるのですが、ヤを大きく書くのが正式なのだそうです)のロゴのほうが目立っているような気がします。バブル華やかなりし頃とはいえ、そのスポンサー・フィーたるや大変なものだったでしょうね。

 まぁ、ホンダにしろキャノンにしろ、日本を代表する企業であることには変わりないわけで、その意味では日本人にとっては気になるジャポニカ切手(“日本”をテーマにした切手)の1枚といってよいでしょう。

 なお、この切手を含めて、ジャポニカ切手については、以前刊行した拙著『外国切手に描かれた日本』(光文社新書)でも、いろいろな角度からまとめてみましたので、ご興味をお持ちの方は是非1度お手にとってご覧いただけると幸いです。

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 レバノンの国軍
2006-08-07 Mon 00:34
 8月2日の記事に関連して、hillsidecnxさんから「ところで、”レバノン政府の正規軍”というものは今何をしてるんでしょうかね?」という書き込みをいただきました。そこで、ちょっと遅くなりましたが、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

レバノンの兵士

 これは、レバノンが独立26周年を記念して発行した切手で、国旗を掲げて行軍するレバノン国軍(正規軍)の兵士たちが取り上げられています。

 レバノンも独立国家ですから、当然のことながら、防衛力としての軍隊を持っています。

 もともと、さまざまな宗派がモザイクのように入り組んでいるレバノンでは、“宗派体制”といって、各宗派ごとにポストや予算を按分するという体制が取られていました。たとえば、大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンナ派ムスリム(イスラム教徒)、国会議長はシーア派ムスリム、といった具合です。当然のことながら、軍隊の編成も宗派ごとの人口バランスに沿ったものとなっており、1960年代までは、それなりに国軍としての機能を果たしていました。今回ご紹介している切手はこのレバノン国軍の姿です。

 ところが、1970年に、それまでヨルダンを拠点にしていたPLOがヨルダン政府と対立してヨルダンを追われ、レバノン南部に進駐した頃から事情が徐々に変わってきます。

 もともと、決して強い軍隊ではなかったレバノン国軍に対して、“歴戦の勇士”で構成されているPLOの軍事部門は軍事面で優位に立っていましたので、PLOが進駐していたレバノン南部は、すぐに、実質的なPLOの占領地のような形になってしまいました。このため、レバノンの各宗派は、もともと“外部勢力”であったPLOの勢力がレバノンで影響力を拡大していくことを恐れ、PLOに対抗して民兵組織を結成。こうして、国内にさまざまな武装組織が並存することになったことで、各宗派間の対立が軍事紛争化したのが1975年に始まったレバノン内戦の基本的な構図です。

 内戦が本格化すると、国軍の兵士たちの中には脱走して自分の宗派の民兵組織に参加してしまう者が続出。この結果、国軍は急速に衰退していきます。じっさい、イスラエルの攻撃により、PLOがベイルートからの撤退に追い込まれた1982年8月の時点では、国軍の兵力が約1万だったのに対して、レバノン国内には3万のシリア軍が駐留していたほか、シリアの支援を得ているパレスチナ・ゲリラが数千人、イスラム左派民兵3~4千人、イスラム・ドルーズ派民兵が数千人などが存在しており、国軍だけで彼らを抑えることは実質的に不可能な状況にありました。

 こうした構造は、基本的にはシリア軍が撤退した現在でも同じで、国軍の力だけでは、シーア派組織であるヒズボラが抱えている強大な軍事力を押さえ込むことが出来ないのが実情です。このため、レバノンの安定化のためには、国軍そのものを強化し、最終的にはヒズボラの兵力を吸収することが必要なのですが、それを実現するのはかなり困難だろうというのが、大方の見方のようです。

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 斧がささったままのシチリア
2006-08-06 Sun 00:04
 昨日に引き続いてサマーペックス(今日が最終日)ネタです。今日は、サマーペックス内で開催の<JUNEX>でグランプリを受賞された塩田一樹さんの作品「Italian Postal Cards , 1874-1889」に敬意を表して、手持ちのイタリアの葉書の中から、こんな1枚を引っ張り出してみました。(画像はクリックで拡大されます)

イタリア1945年の葉書

 これは、1945年4月16日、シチリア島南端シラクーザ県のカニカッティーニ・バーニから差し出された葉書です。

 第二次大戦中の7月10日、連合国がシチリア島に上陸すると、同24日、独裁者ムッソリーニはそれまでの敗戦の責任を問われて失脚。9月8日には、後継のバドリオ内閣が連合国に無条件降伏しました。

 その後、逮捕されていたムッソリーニはナチス・ドイツによって“救出”され、ナチスの支援を受けて“イタリア社会共和国”の樹立を宣言します。一方、南部は連合国の占領下に置かれ、1945年4月にイタリア社会共和国が崩壊するまで、イタリアは内戦状態に突入することになりました。

 こうした状況の下、連合国の占領地域では、ムッソリーニ時代の清算が進められていましたが、その一環として、1944年1月以降、ムッソリーニ時代の切手に入っていたファスケス(斧の回りに短杖を束ねたもの。古代ローマ帝国で執政官の権威の象徴として儀式の際に用いられていたもので、ムッソリーニの“ファッショ”の語源となった)のマークを取り除いた切手が発行されていきます。

 しかし、内戦によって国内経済が疲弊していたこともあって、公衆手持ち分の切手や葉書に関しては、連合国の占領地域でも、ムッソリーニ時代のモノの使用を認めざるを得ませんでした。

 今回ご紹介している葉書や切手は、いずれも、ファスケスが描かれているものです。イタリア本土から離れていたシラクーザには、なかなか新たな切手の配給は追いつかなかったのでしょうか。連合国が真っ先に上陸したはずの土地で、上陸から1年9ヵ月が経った1945年4月の時点でも、ファスケスの入った切手が使われていたというのはなんとも皮肉な話です。

 この葉書は、去年の<JAPEX>で“1945年”の特別展示に使おうと思って海外のオークションで買ったものの、手元に届いた時にはすでに<JAPEX>そのものが終わってしまっていた、という1枚です。まぁ、塩田さんの作品に展示されているものと比べると、半世紀以上も後のマテリアルですが、こういう機会でもないと、なかなか、日の目を見ることのないマテリアルなので、あえてご紹介してみました。

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 日露戦争とピョートル大帝
2006-08-05 Sat 01:53
 今日・明日(5・6日)の両日、東京・大手町のていぱーくでサマーペックスが開かれます。そこで、サマーペックスの会場内で行われる第34回全国ユース切手展のユースクラス(6~17歳)に「サンクトペテルブルグとエルミタージュ美術館」を出品し、最高賞を受賞された幸本有未さんに敬意を表して、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ピョートル大帝銅像

 これは、日露戦争に敗北した帝政ロシアが、日露戦争の戦没者遺児に対する義捐金を募る目的で1905年に発行した付加金つき切手の1枚で、サンクトペテルブルクのシンボルともいうべきピョートル大帝の銅像が取り上げられています。

 このとき発行された切手は4種類あるのですが、それぞれ額面に3コペイカを上乗せした金額で発売されています。したがって、今回ご紹介の7コペイカ切手は10コペイカで販売されたということになります。

 この切手は、帝政ロシアにおける最初の付加金つき切手というだけでなく、ヨーロッパ諸国において“日本”を題材にした切手(いわゆるジャポニカ切手)の最初の1点でもありますから、日本人の収集家にとってもなじみのある切手かもしれません。なお、幸本さんの作品のテーマに関していうと、サンクトペテルブルクを直接の題材として取り上げた最初の切手であるという点を付け加えておきます。

 さて、日露戦争に関しては、事前に日本の勝利を予想した者は欧米にはほとんどいませんでした。それだけに、日本の勝利のインパクトは大きかったといえます。当然、ロシア側からすれば、対日戦争敗戦の記憶は、できれば封印したい、忌まわしいものでしかありません。このため、戦争の戦没者遺児への義捐金を募らなければならないという本音とは裏腹に、ロシア郵政は自国の敗戦や“勝者”としての日本を連想させるものは、なにひとつ切手に取り上げていません。むしろ、それぞれの切手には、ピョートル大帝の銅像をはじめ、大国ロシアのプライドを誇示するものばかりが取り上げられており、これだけ見ると、ロシアは日露戦争に勝利を収めたのではないかと錯覚してしまいそうです。

 ちなみに、このとき発行された4種の切手にはいろいろと目打のバラエティがありますので、その辺に注目すると、トラディショナルのコレクションとしてもそれなりに遊べると思います。ただ、付加金つき切手の常として気の利いたカバーの類はなかなかないので、4種の切手だけで展覧会に出品できるような作品を作るのは、絶対に不可能とはいいませんが、かなり難しいでしょう。

 なお、この切手を含めて、終戦後に戦争の犠牲者を救済するための義捐金を集めるために発行された切手については、今年3月に刊行の拙著『これが戦争だ!』(ちくま新書)でもまとめてみましたので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

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 シマアカネ
2006-08-04 Fri 01:09
 明日・明後日(5・6日)の2日間、東京・大手町のていぱーくでサマーペックスが開催されます。今回の目玉は、現在の50円ならびに80円切手の原画作者として有名な日本郵政公社切手デザイン室長の森田基治さんによる、野鳥を描いた日本切手の原画展だそうで、会期中の5日(土)14:00からは、森田さんのトークも行われるそうです。

 というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

シマアカネ

 これは、1977年9月に発行された自然保護シリーズの1枚で、シマアカネを取り上げたものですが、この切手こそ、森田さんが原画制作を担当した最初の1枚です。

 さて、切手に取り上げられたシマアカネは小笠原諸島にしか生息しない固有昆虫の一種で、国の天然記念物にも指定されています。

 明治以降、開発が進められていた小笠原諸島でしたが、太平洋戦争中には全島民に避難命令が出され、さらに戦後は米軍統治下で住民の帰島が許されなかったことから、1968年の日本返還時には、かなり、自然が回復されていたと報告されています。

 シマアカネが天然記念物に指定されたのは、返還直後の1968年のことでしたが、この時点では、シマアカネは父島を中心に数多く生息していたこともあって、絶滅危惧種とは考えられておらず、小笠原諸島の固有種であることが重要視されていました。実際、1976年(切手発行の前年)の調査時には、まだ、シマアカネは父島辺りでは当たり前のように見られたということです。

 ところが、1980年代半ばから、シマアカネをはじめとする小笠原諸島の固有昆虫は目に見えて減少し始め、1990年代後半にはほぼ姿を消してしまいます。もちろん、現在ではシマアカネの絶滅が真剣に心配される状況となってしまいました。

 シマアカネが激減した原因は必ずしも明らかになっていないのですが、1980年代になって、人間がこの島に持ち込んだグリーン・アノールという中米原産のトカゲが生態系を大きく破壊したことが一因ではないかとする見方が有力なようです。すなわち、トカゲ類を効率よく捕食する鳥類がいない小笠原では、外来のトカゲであるグリーン・アノールは天敵のないまま、シマアカネをはじめとする昆虫を“食べ放題”の状態になっているというのです。

 こうやって見てみると、1970年代には当たり前のようにいた→1980年代半ばから激減→1990年代には絶滅が心配される、というシマアカネのたどってきた道は、なんだか、ジュニア収集家の置かれてきた状況と非常に似通っているような気がします。1980年代の小笠原へのグリーン・アノールの上陸とほぼ時を同じくして、テレビゲームなどの新たな娯楽が入ってきたことが切手少年の減少に拍車をかけたというのも、偶然のタイミングしてはできすぎです。

 今回のサマーペックスに併催される全国ユース切手展<JUNEX>の入賞結果を見る限り、徐々にではありますが、絶滅危惧種ともいわれた10代のコレクターの育成も着実に進んできているようです。このことは、喜ばしい限りですが、その影には、井上和幸さんをはじめ、ユース収集家の育成に携わっておられる方々の大変な努力があることを見落としてはなりません。

 ユースの育成活動に関して僕のできることといえば、サマーペックスの運営基金に寸志を寄付するくらいのことしかありませんが、暑い中、ユース収集家の育成に汗をかいてくれている人たちに対しては、これからもエールを送り続けたいと思っています。

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 カストロが首相ではなかった頃
2006-08-03 Thu 00:54
 キューバの国家評議会議長、フィデル・カストロが腸の手術のため議長職を弟のラウル第1副議長に暫定委譲したそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。

      キューバ・革命成就(1959)

 この切手は、1959年1月のキューバ革命後、革命政府が最初に発行した切手で、国旗を背にしたゲリラ兵士の姿が描かれています。

 バティスタ独立政権の打倒を目標とするカストロらの革命運動は1953年7月26日のモンカダ兵営襲撃事件から始まりました。事件はあっさり鎮圧され、逃げのびたカストロ本人も逮捕・投獄されてしまいます。しかし、襲撃事件に参加した若者に対する政府側の虐殺行為が明らかになるにつれ、国民の間に、しだいに反バティスタ気運が盛り上がり、カストロは釈放されてメキシコに亡命しました。

 その後、メキシコでのカストロは、反政府組織“7月26日運動(M26)”を組織し、1956年12月、キューバに再上陸。当初は圧倒的に不利な状況にありましたが、キューバ国内のさまざまな反バティスタ勢力に支えられ、各地の農村から集まってくる志願兵を受けいれるかたちで徐々に勢力を拡大。1959年1月、長年の独裁体制のツケですっかり国民の支持を失っていたバティスタの追放に成功しました。

 革命によって発足した臨時革命政府では、当初、バティスタ政権時代の教訓から、「軍人は政治には介入してはならない」としてシビリアン・コントロールの原則を守るため、カストロらゲリラの主要なメンバーは政府に参加せず、清廉の評価が高かった弁護士のミロ・カルドナが首相となり、判事のマヌエル・ウルティアが大統領に就任しました。

 もっとも、当初から、革命政府のなかで最も発言力を持っていたのがカストロらのゲリラ勢力であることは明らかで、彼らが名実ともに革命政権を掌握するのは時間の問題でした。はたして、昂揚した雰囲気の中で急進的な改革を求める革命勢力との対立から、1959年1月17日にはカルドナが就任わずか2週間あまりで辞任。7月にはウルティアも辞任に追い込まれます。この間、2月16日にカストロは首相に就任し、以後、今回の議長職の暫定移譲にいたるまで、47年以上に渡ってキューバの最高権力者として君臨し続けることになります。

 今回ご紹介している切手は、こうした状況の中で、カストロが首相に就任する以前の1月28日に“解放の日・1959年1月1日”の名目で発行されたものです。銃を掲げているゲリラ兵士は、特定の人物をモデルとしたものではないのですが、なんとなくカストロに雰囲気が似ているよう泣きがするのは僕だけでしょうか。

 なお、以前の記事でも書きましたが、革命当初のカストロは、必ずしもソ連型の社会主義国家の建設を志向していたわけではなく、あまりにも極端な富の偏在を是正する“改良主義”の立場に立っていました。しかし、カストロの“改良主義”の実現に際して革命政府が小作人への土地分与を掲げる土地改革と不正蓄財の没収を行ったことは、キューバの富を独占していたアメリカ資本をいたく刺激し、アメリカはカストロ政権を“アカ”とみなして、その転覆を企てることになります。そして、そのことが、結果的に、アメリカの“敵の敵”であるソ連とキューバの接近を招き、いわゆるキューバ危機につながっていくことになるのです。

 この辺の事情とキューバの切手に関しては、去年刊行した拙著『反米の世界史』でもまとめてみましたので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 フェニキア人の末裔
2006-08-02 Wed 01:00
 昨日の記事でレバノンの国旗の話を書いたら、hillsidecnxさんから、「(バンコクの2軒のレバノン料理屋は)ともにこの木をお店のマークにしている。レバノン人はこの木に特別な思い入れがあるようです。」との書き込みをコメント欄に頂戴しました。そこで、昨日の記事を補足する意味で、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

フェニキア人の活動

 これは、1966年9月にレバノンが発行した航空切手の1枚です。

 紀元前15世紀以降、現在のレバノン南部を中心に都市国家を形成したフェニキア人は、紀元前12世紀頃から海上交易を活発に行って北アフリカからイベリア半島まで進出して、地中海の覇者として君臨しました。切手は、そうした彼らの交易活動により、地中海全域にアルファベットが伝えられたことを表現するために、フェニキア人の活動範囲を示す地図を題材として取り上げたものです。

 まぁ、現在、レバノンに居住している人々がフェニキア人の直系の子孫であると言い切れるかどうかは微妙な問題ですが、かつてのフェニキア人の居住地域(現在のシリア領タルトゥースの近辺から、同イスラエル領カルメル山までの地中海沿岸)が、ほぼ、現在のレバノン国家の領域を重なっていることから、レバノン人の語るレバノンの歴史はフェニキアからスタートするのが常道となっています。

 ところで、そのフェニキア人の繁栄を支えたのが、レバノン山脈で採れるレバノン杉でした。レバノン杉はマツ科の針葉樹で、腐敗や虫に強く、フェニキア人じしんが船の建材として活用していただけでなく、エジプトやメソポタミアにも輸出され、宮殿や神殿の天井などに使われていました。古代イスラエル王国のソロモン王は、神殿を建設に際してレバノン杉を求めたといわれていますし、エジプトのピラミッドから発見された“太陽の舟”もレバノン杉でできています。

 こうしたことから、レバノン杉は古代フェニキア人の繁栄を象徴するものとして、フェニキア人の末裔を自認するレバノンの国旗にも大きく取り上げられているというわけです。

 もっとも、古代においてはレバノン全域に数多く自生していたレバノン杉ですが、長年の伐採がたたり、現在は約1200本しか残っていません。それでも、樹齢1200年以上のものが400本ほどあるそうですから、杉に込められた悠久の歴史を感じずにはいられません。なお、現在、レバノン中央部にあるカディーシャ渓谷は、レバノン杉の自生地としてユネスコの世界遺産にも登録されています。

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 レバノン国旗の意味
2006-08-01 Tue 02:46
 7月12日以来、イスラエル軍はレバノン南部のシーア派イスラム組織ヒズボラの拠点に対する掃討作戦と称して、レバノン南部への攻撃を続けています。イスラエル軍とヒズボラの戦闘がエスカレートするにつれ、女性や子供を含む一般市民の犠牲も拡大。当然のことながら、国際社会はイスラエルの行動を非難しています。

 この問題については、今後も何回かに分けて取り上げることになると思うのですが、とりあえず、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

レバノン国旗

 これは、2003年にレバノンが独立60周年を記念して発行した切手の1枚で、レバノン国旗の制定にあたって作られたラフ・スケッチが取り上げられています。実際の国旗は中央のレバノン杉の部分が若干異なっていますが、基本的な構図はこのままです。

 国旗の赤は勇気と(独立運動のために流された)尊い犠牲を、白は純潔と平和を象徴しており、白の部分の幅は赤の部分の幅の2倍と決められています。なお、中央はレバノン杉はいうまでもなく、レバノン国家のシンボルですが、同時に、国家の高潔さと不滅という意味も込められているのだそうです。

 イスラエルによるレバノンへの攻撃が始まってまもなく、フランスの大統領だったか外相だったかが「イスラエルはレバノンという国家そのものを解体するつもりなのか」と強い口調で非難していたのが強く印象に残っているのですが、最近の情勢を見ると、この表現は決して大げさなものとはいえなくなっています。

 一日も早く停戦が実現し、平和や国家の不滅といった、国旗に表現されている理念が、現実のものとしてレバノンに回復されることを願わずにはいられません。

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