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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 泰国郵便学(8)
2010-07-03 Sat 17:22
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第44巻第3号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回はラーマ6世(ワチラーウット)からラーマ7世(プラチャーティポック)への代替わりを中心に取り上げました。その中からこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ラーマ6世15年

 これは、1926年3月に発行されたワチラーウット即位15周年の記念切手で、国王の玉座が描かれています。本来なら未使用切手を持ってきたかったのですが、残念ながら、原稿の締め切りまでに間に合いませんでしたので、手持ちの使用済みを使いました。連載終了後に予定されている単行本化の際には、きちんと未使用切手に差し替えたいと思います。

 さて、ワチラーウットは、1925年10月、即位15周年を迎えました。これを記念して、翌1926年には即位15周年の記念式典が計画されていましたが、1925年11月26日、国王が突如崩御してしまいます。直接の死因は腸閉塞でしたが、もともと国王は糖尿病と腎臓病を抱えていたほか、ロンドン留学時代に盲腸炎をこじらせて数回にわたり開腹手術を受けた後遺症もあったといわれています。

 ワチラーウットには王位を継承できる子がなく、王位は弟のプラチャーティポックが継承します。

 プラチャーティポックは、1893年11月7日、チュラーロンコーン(ラーマ5世)と皇后サオワパーポーンシーの5男として生まれました。

 1906年、13歳でイギリスに留学し、イートン校で中等教育を終えた後、ウールウィッチ士官学校で軍事学を学び、1915年に帰国した後は陸軍に勤務し、兄で参謀総長のピサヌローク親王の副官などを務めた。ピサヌローク親王はワチラーウットのすぐ下の弟で、ワチラーウットは彼を後継者と考えていましたが、同親王は1920年に37歳で亡くなっています。

 1921年2月、病気療養のため欧州に出かけ、健康が回復すると、1921年末から1924年にかけてフランス陸軍大学に留学し、アメリカ、日本を経て帰国。バンコクの第2師団長に任じられました。

 しかし、留学中の1923年にはすぐ上の兄のペッチャブーン親王が、1925年には3番目の兄であるナコンラーチャシーマー親王があいついで亡くなったため、急遽、1925年2月に王位継承順位の第1位に昇格します。

 死の床にあったワチラーウットは、①生まれてくる子供が男子であれば、その子に王位を継承させ、プラチャーティポックが摂政として国王を補佐する、②女子であればプラチャーティポックが王位を継承する、との遺言を残していました。はたして、崩御の37時間前に生まれたワチラーウットの一粒種は、ペチャラットラーチャスダー王女であったため、プラチャーティポックがラーマ7世として王位を継承することになりました。

 ところで、ワチラーウット時代の末期、国王の濫費が原因で巨額の財政赤字が累積し、タイは財政危機に陥っていました。また、国王に取り入ることだけは巧みな侫臣・奸臣が少なからず大臣に就任した結果、大臣の任命者である国王に対する国民の非難は黙過できないレベルに達していました。

 こうした現状を打破するためにも、プラチャーティポックは、即位早々、5人の有力親王を最高顧問官に任命し、前国王ワチラーウットの治世下で極端に悪化した国家財政の再建に乗り出します。

 すなわち、具体的には、財政均衡が重視されて経費が削減され、1926年から28年にかけて、官庁組織の整理統合が進められ、陸軍の10師団は4師団に再編成されました。こうした財政再建策は一定の成果を収め、1926年から5年間、タイの国家財政は黒字となり、歳入もワチラーウット時代より増大しています。

 ところで、ワチラーウットの場合、即位戴冠式が行われたのは1911年12月2日のことで、1912年10月15日に彼の肖像を取り上げた最初の切手が発行されるまでの期間は11ヵ月弱です。この間、チュラーロンコーン時代の切手がそのまま使われていましたが、大量に発行されたチュラーロンコーンの肖像切手は、1912年10月までにすべてが消化されたわけではなく、その一部はプラチャーティポック治世下の1930年に加刷の台切手として用いられることさえありました。

 これに対して、プラチャーティポックの場合は、1926年2月25日に即位戴冠式が行われてから、1928年4月1日に最初の肖像切手が発行されるまでに2年以上の年月が経過しています。

 もちろん、この間に前国王・ワチラーウットの肖像切手がすべて消化されたわけではありませんが、在庫の処理は相当に進んだものと考えるのが自然でしょう。また、ワチラーウットの急死によって宙に浮いてしまったかたちの“国王即位15周年”の記念切手(本稿の冒頭で紹介した切手)に関しても、廃棄することなく、そのまま発行されています。これらもまた、緊縮財政と倹約の成果とみることも可能かもしれません。
 

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 イギリスへの亡命
2008-08-12 Tue 11:15
 タイのタクシン元首相が昨日(11日)、渡航先のロンドンから地元メディアに声明を送り「公正な裁判が望めないため、帰国せず英国に滞在する」として事実上の亡命を表明しました。タイからイギリスへの(事実上の)亡命というと、僕なんかが思いだすのは、やっぱりこのお方でしょうかねぇ。(画像はクリックで拡大されます)

 ラーマ7世(高額)

 これは、1928年にタイで発行された1バーツの通常切手で、立ち姿の国王ラーマ7世が描かれています。

 ラーマ7世は、1893年、ラーマ5世と側室の間の子として生まれ、青年時代にはイギリスやフランスに留学し、1924年の帰国後は軍務に就いていました。ところが、翌1925年に国王で異母兄のラーマ6世が成人した子を残さないまま亡くなったため、急遽、王として擁立されます。

 物心両面での準備が全く整わないまま国王となってしまったラーマ7世は、即位するといきなり、先王時代に膨らんだ財政赤字の問題に直面。このため、大規模な人員整理などの財政再建策に取り組み、財政を好転させることに成功します。しかし、当時のタイは一般の国民には参政権が与えられていなかったこともあって、王室や貴族の特権は維持されているにもかかわらず、国民に負担を強いたことで、フランス留学組の中堅官僚・軍人を中心に絶対王制への不満が高まりました。

 一方、国王は世界的に猛威をふるっていた共産主義がタイ国内にも流入し、革命が発生することを真剣に恐れ、次善の策として、段階的な国会開設の方針を立てました。具体的には、まず、国民の政治参加を訓練するための移行措置として、市制(地方自治制度)の導入が検討されましたが、そのモデルのひとつとされた日本の市制に関する文献の翻訳に手間取り、このプランは立ち消えになってしまいます。

 そうしているうちに、1929年10月、世界恐慌が発生。タイの輸出は大幅に減少し、経済状況が一挙に悪化すると、ふたたび、王制に対する不満が高まることになります。このため、国王は1932年4月のバンコク建都150年祭にあわせて、立法議会法案を含む憲法の公布を目指したものの、有力王族の反対で実現できませんでした。

 このため、同年6月24日、立憲君主制の実施を求めていた人民党がクーデターを起こして王族を人質に取り、国王に憲法公布を要求する立憲革命が発生。国王は人民党の要求を受け入れて人民主権の憲法に署名・公布し、ラーマ5世以来の絶対王制は終焉を迎え、タイは立憲君主制に移行します。

 ところが、革命後の人民党は、かつての“民主化”要求とは裏腹に複数政党制の導入を拒否して独裁色を強めていきます。これに対して、巻き返しを図る国王は“真の議会制民主主義”の実現を求めて人民党政権と対立しますが、かえって“護憲民主勢力”と自称する人民党は反対派を“旧体制への復帰を意図する憲法の敵”として弾圧してしまいました。

 このため、人民党の傀儡となることを嫌った国王は1934年1月、眼病治療の名目でイギリスに事実上亡命し、いつまで経っても民主制に移行しようとしない革命政権に抗議するため、1935年、自らの意志で退位してしまいました。このため、人民党政権は、スイス修学中の国王の甥をラーマ8世として即位させ、急場をしのいでいます。ただし、ラーマ8世は即位の大礼を終えた後、再びスイスへ戻ってしまい、タイは一時期、実質的に国王不在の状況に陥りました。
 
 なお、退位後のラーマ7世はその後もイギリスにとどまり、2度と帰国することのないまま、1941年にロンドンで客死。遺骨がタイに戻ったのは1949年のことでした。

 ちなみに、このあたりの事情については、拙著『タイ三都周郵記』でもいろいろとご説明していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 ラタナコーシン王朝記念日
2008-04-06 Sun 18:25
 今日(4月6日)は、タイでは現在のラタナコーシン王朝(チャクリー王朝とも)の創立記念日で祝日です。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 王朝150年(ラーマ1世+7世)

 これは、ラタナコーシン王朝150年を記念して1932年4月1日に発行された8種セットのうちの50サタン切手で、王朝の始祖であるラーマ1世と当時の国王であるラーマ7世が並べて描かれています。
 
 1925年に即位したラーマ7世の最大の課題は、先代のラーマ6世時代の放漫財政による財政赤字問題の解決でした。このため、国王は官吏の大規模な人員整理を行い、財政は一時的に好転しましたが、1929年に世界恐慌が起こると、タイの輸出は激減し、タイ経済は壊滅的な打撃を受けてしまいます。

 一方、当時は世界的に共産主義勢力の拡大が問題視されていた時代で、国王は革命を防止するためにも、漸次国会開設の方針を打ち出し(当時のタイは絶対君主制で一般国民の参政権は認められていませんでした)、国民の政治参加の訓練を目的として、市制(地方自治制度)導入を検討していました。しかし、このとき範例の一つとされた日本の地方自治制度に関する文献(日本語)のタイ語への翻訳に時間がかかってしまい、結局、市制は実施されませんでした。また、国王は立憲君主制への移行措置として1927年に勅撰議員からなる枢密院委員会を創設。1932年3月には外相から提出させた憲法草案を修正のうえ、同年4月のバンコク建都150周年(今回の切手の題材であるラタナコーシン王朝150年とほぼ同義です)の記念式典をめどに公布しようとしていました。

 ところが、1932年4月4日から8日の日程で行われた“バンコク建都150年祭”では、国王は、国家を人体になぞらえ、王族と人民は“一身一体”であると演説しましたものの、肝心の参政権の付与については明言を避けざるをえませんでした。有力王族の強硬な反対があったためです。

 150年祭が終わると、タイ政府は財政再建を目的として、給与税(年600バーツ以上の給与所得者への累進課税)の導入を決定します。この結果、それまで、課税対象の国民が一挙に拡大。さらに、家屋土地税も導入する一方で、王族に支給される歳費は非課税のままであったことから、ついに国民の間でも参政権要求の声が高まり、同年6月24日、立憲革命が勃発することになるのです。

 なお、王朝150年を記念するものとしては、今回ご紹介の切手のほか、バンコクのラタナコーシン地区とトンブリー地区を結ぶラーマ1世橋(ラーマ1世像はそのたもとにあります)があります。この橋やトンブリー地区などについては、拙著『タイ三都周郵記』でいろいろとご説明しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 ワイワイタイランド3月号
2008-02-21 Thu 12:01
 ご報告が遅くなりましたが、現在発売中のワイワイタイランド3月号では、僕の『タイ三都周郵記』をもとに「バンコク切手紀行」という特集を組んでいます。というわけで、今日は特集に取り上げられた切手の中から、こんな1枚をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

 ラーマ1世

 これは、1932年のラタナコーシン王朝(タイの現王朝)150年の記念切手の最高額1バーツ切手で、ラーマ1世像が取り上げられています。

 現在のラーマ9世(プミポン国王)に繋がるラタナコーシン王朝の始祖、ラーマ1世は、1735年、アユタヤの名門貴族の家に生れました。もともとの名はトーンドワン。ちなみに、ラーマX世という称号は、20世紀初頭のラーマ6世が始めたものです。

 1767年のアユタヤ陥落の際、トーンドワンはバンコクの西100キロのラーチャブリーで知事助役(ルワン・ヨククラバット)の地位にありましたが、身重の妻とともにビルマ軍の攻撃を逃れて森に逃げ込みます。その後、ビルマ軍を撃退したタークシンに先に仕えていた弟のブンマーのすすめにより、アユタヤの旧貴族とともにタークシンの集団に加わり、後に首都大臣(プラヤー・ヨマラート)の称号を受けています。

 1775年以降、タークシンは自ら出征しなくなりますが、トードワンはタークシンに代わって遠征の総司令官として活躍し、その勲功によりチャオプラヤー・チャクリーの爵位を得ます。そして、1781年、カンボジア遠征中にトンブリー(暁寺院ことワット・アルンのある地域です)で宮廷クーデターが発生すると帰還し、官僚たちから推戴されて国王として即位しました。

 国王となったチャオプラヤー・チャクリーは、アユタヤ王朝の理想に沿った国家建設に着手し、タークシン時代の都があったトンブリーの対岸に、アユタヤの理想に沿った新たな王都を建設します。王宮の建設に際して、国王はこの土地を“クルンテープ・マハーナコーン・ボーウォーン・ラタナコーシン・マヒンタラーユタヤー・マハーディロクポップ・ノッパラッタナ・ラーチャターニー・ブリーロム・ウドム・ラーチャニウェート・マハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカティッティヤ・ウィサヌカムプラシット”と名づけました。その冒頭の“クルンテープ・マハーナコーン・ボーウォーン・ラタナコーシン”は“インドラ神の造りたもうた崇高なる宝玉の(エメラルド仏が奉安されている)大いなる都市・神の都”の意味で、王宮のある地域をラタナコーシン地区といい、現王朝をラタナコーシン王朝と呼ぶのはここに由来するものです。

 ちなみに、現王朝のことをチャクリー王朝ということもありますが、こちらは、始祖であるチャオプラヤ・チャクリーの名前がその由来となっています。また、現在でも僕たち外国人はタイの首都を“オリーブの村”に由来するバンコクで呼ぶのが一般的ですが、タイでのバンコク都の行政上の公称は“クルンテープ・マハナーコーン”(大いなる都市・神の都)です。

 さて、タークシン時代の都であった対岸のトンブリーは、ラタナコーシン王朝の時代になると、廃都として忘れられた土地となり、ラタナコーシンが王都の心臓部として急成長を遂げていくことになります。しかし、20世紀に入るとバンコクの経済発展に伴い、トンブリー地区の再開発が課題として持ち上がってきました。このため、1932年、ラタナコーシン王朝150周年の記念事業の一環として、ラタナコーシンとトンブリーを結ぶラーマ一世橋が架けられることになり、その東詰に作られたのが、今回ご紹介している切手のラーマ1世像(高さ4.5メートル)というわけです。

 今回の雑誌『ワイワイタイランド』の特集では、拙著『タイ三都周郵記』に所収の「曼谷三十六景」のなかから、36ヶ所のスポットにまつわる切手をひとつずつピックアップして、カラーでご紹介しています。モノクロ図版の『タイ三都周郵記』の内容をフォローするものとして、ご覧いただけると幸いです。
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