2008-02-29 Fri 13:16
今日は4年に1度の2月29日です。というわけで、切手ではないのですが、この日にちなんだ絵葉書をお見せしましょう(画像はクリックで拡大されます)
これは、いまから100年前の1908年にアメリカで作られた絵葉書で、カウ・ガールがカウ・ボーイの首に縄をつけて教会まで連れて行く絵が描かれており、“Leap year in the West”というタイトルがつけられています。 英語でうるう年のことを“leap year”といいます。これは、うるう年は平年よりも1日多いので、曜日が“跳ぶ”(leap は「跳ぶ」という意味)ことに由来しています。具体的に言うと、2007年の1月1日は月曜日でしたが、今年は火曜日という具合に、平年の1年は52週と1日ですので、翌年の同じ日の曜日は、普通ですと1つずつずれます。ところが「うるう年」の2月29日以降は、2つずれてしまいまうので、曜日を1つ跳び越えてしまうということになるわけです。 さて、イギリスやアメリカでは、leap year proposal という習慣がありました。(今でもあるのかどうかは未確認ですが) 直訳すると、うるう年の求婚ということなのですが、これは、普通は男性から女性にしか認められていなかったプロポーズを2月29日に限っては女性から男性への結婚の申し込みを認めるというもので、男性がそれを断ることは原則として許されず、断った場合にはペナルティーが課せられることさえあったそうです。日本式のバレンタインデーのより強烈なものといった感じですが、日本でこの習慣にしたがって結婚にこぎつけた女性にはお会いしたことがありませんねぇ。このブログをお読みの独身女性で結婚をお考えの方は、今晩、ぜひお試しあれ。 さて、今回ご紹介の絵葉書も、そうした習慣を表わしたもので、アメリカ西部の女性が強引に意中の男性を引っ張っていって教会での結婚に持ち込もうとしている場面が描かれています。 leap year proposal を題材にした絵葉書というのはいろいろなバージョンがあるのですが、なかには、女性から求婚されるのを恐れて逃げ回っている男性の姿をコミカルに描いたものも結構あります。まぁ、僕の場合も、原稿の提出が遅れているため、担当の某女性編集者から逃げ回っているわけですが、leap year proposal を逃げる男性は今日1日やり過ごせば大丈夫なのに対して、こっちは1日遅れるとそのぶん事態が悪化するだけですからねぇ。現実逃避などせず、一生懸命、仕事をするしかありませんな。 ご案内 (1)ハルビン絵葉書アーカイブ・シンポ 今週土曜日、3月1日に東京・下高井戸の日本大学文理学部図書館3階オーバルホールにて開催のシンポジウムデジタルアーカイブ活用による東アジア史研究の新たな可能性にコメンテーターとして登場します。僕の出番は、午前中10:10からのセッション1「ハルビン絵葉書アーカイブ」です。入場・参加費等は無料ですので、よかったら、遊びに来てください。 (2)日本香港協会・春節パーティー 3月5日18:30より、東京・日本橋の香港上海銀行10階の大会議室にて、日本香港協会の春節パーティーが行われますが、その余興(?)として、拙著『香港歴史漫郵記』の内容を元に、切手や絵葉書、郵便物などから古きよき香港をたどるトークを行います。パーティーの会費はお1人6000円ですが、皆様お誘い合わせの上、ぜひご参加いただけると幸いです。(お申し込みはこちらからお願いします) |
2008-02-28 Thu 12:07
神戸大のパトリック・S・リカフィカ研究員と向井正教授が、太陽系9番目となる未知の惑星が海王星の外側に存在する可能性が高いことを計算で突き止めたのだそうです。というわけで、今日は宇宙ネタの中から、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1979年8月1日に発行された国際児童年の小型シートです。 国際児童年は、1979年が国際児童権利宣言の採択から20周年にあたることにちなみ、世界の子供たちの問題を見直し、国境を越えてその改善のためにいっそうの努力をするため、設けられました。わが国では、1978年6月、総理府に関係の省庁ならびに民間団体の代表者を集めて“国際児童年事業推進会議”が設けられ、「わが子への愛を世界のどの子にも」をスローガンとして、各種の広報活動やイベントが実施され、8月に愛知県長久手の愛知県青少年公園で開催の「世界と日本の子ども展」がそのメイン行事とされました。 今回の切手は、国際児童年事業推進会議の委員でイラストレーターの真鍋博がデザインしたもので、その原画は、宇宙遊泳をする男子と女子を描いた一枚の大判のものです。子どもの頃のイメージだと、なんとなく、この絵の中の星のどれかに“惑星X”と名前をつけたくなりますが、まさか、今朝のニュースでホンモノの“惑星X”の話が出てくるとは思いませんでした。なお、真鍋の原画は単片切手にすると細かくなりすぎるため小型シートの形式で再現され、別途、男子と女子の部分をトリミングした単片切手が発行されています。 ところで、今回の小型シートは、発行枚数こそ1150万枚ですが(単片切手は各2500万枚)、印刷する面積が大きいため、印刷局では、時間的な余裕を見て通常よりも早めに印刷を開始しています。また、通常は印面の周囲にある白いマージンがないため、目打の位置がずれていても判別しにくいため、印刷シートの余白部分に直径2ミリの青い小点を目打位置のガイドマークとして印刷し、この小点に目打穴が穿孔されていれば切手にも正確な位置に目打が穿孔されていることがわかるよう工夫したそうです。 また、今回の切手に関しては、消印の定着が悪く、濡れた手でこすると消印が消えてしまうケースが続出。このため、再使用防止という点から郵政当局はかなり頭を抱えたそうですが、発行当時の鮮明な消印が押された使用済みを入手したい収集家にとっても、頭の痛い1枚といえそうです。 さて、毎年4月に刊行している拙著<解説・戦後記念切手シリーズ>ですが、今年も4月20日をめどに、1979年の“近代美術シリーズ”から1985年の“つくば科学万博”までの記念・特殊切手についての記事をまとめた第6巻を刊行の予定です。もちろん、今回ご紹介の“国際児童年”についても、詳細な解説を載せていますので、刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。 ご案内 (1)ハルビン絵葉書アーカイブ・シンポ 今週土曜日、3月1日に東京・下高井戸の日本大学文理学部図書館3階オーバルホールにて開催のシンポジウムデジタルアーカイブ活用による東アジア史研究の新たな可能性にコメンテーターとして登場します。僕の出番は、午前中10:10からのセッション1「ハルビン絵葉書アーカイブ」です。入場・参加費等は無料ですので、よかったら、遊びに来てください。 (2)日本香港協会・春節パーティー 3月5日18:30より、東京・日本橋の香港上海銀行10階の大会議室にて、日本香港協会の春節パーティーが行われますが、その余興(?)として、拙著『香港歴史漫郵記』の内容を元に、切手や絵葉書、郵便物などから古きよき香港をたどるトークを行います。パーティーの会費はお1人6000円ですが、皆様お誘い合わせの上、ぜひご参加いただけると幸いです。(お申し込みはこちらからお願いします) |
2008-02-27 Wed 15:15
(財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2008年3月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1931年10月31日に発行されたニュージーランドの健康切手で、笑顔の少年を描いていることから“スマイリング・ボーイ”と呼ばれているものです。切手は額面1ペニーと2ペンスの2種類で、それぞれ額面と同額の寄付金がつけられていますが、画像は1ペニーのものです。 ニュージーランドは社会福祉制度の充実(と税負担の重さ)で知られていますが、そのさきがけとなったのは、1898年に世界最初の老人年金法が議会を通過し、高齢者への老人年金の支給が開始されたことに求められます。さらに、オーストラリア大陸での疫病の流行をきっかけとして1900年に国民保健法が制定され、以後、国民保健大臣の下で社会福祉政策の充実が進められていくことになりました。 具体的には、1908年の労働者補償保険法や第一次大戦後の軍人恩給法、1924年の視覚障害者への年金などの諸政策を経て、1936年には傷病者年金が法律化され、16歳以上の働ける見込みがない者に経済援助が与えられるようになります。そして、1938年に制定の社会保障法により、世界に先駆けて全国民を対象とした社会福祉制度が導入されました。その哲学は、社会全体が一部のメンバーを苦しめる事故に責任を負うということで、1974年には遺伝子や疾患によるすべての事故にまで社会的責任を拡大した無過失事故補償制度が導入されています。 当然のことながら、こうした高福祉政策には巨額の財源が必要であり、そのための国民の税負担も相当なものですが、その一助として、ニュージーランド郵政は1929年からは寄付金つきの“健康切手”を発行しています。今回ご紹介のものも、その1枚というわけです。 ところで、この切手では、少年の背景に山と湖が描かれています。この風景は、今回の切手のすぐ後の11月10日に発行された航空切手の山と湖に似ているようにも見えますが、同じ場所を取り上げたものかどうかはよく分かりません。ただ、おそらく、こういう感じの風景が典型的なニュージーランドの景観のひとつではあるのでしょう。 さて、今月号の『郵趣』では、巻頭特集で発行から60周年を迎えた“産業図案切手”を取り上げています。産業図案切手の登場の背景については、このブログの以前の記事でも書いたことがあります。また、産業図案15円切手(紡績女工)を流用した「われらの逓信文化展覧会」の小型シートについては、拙著『濫造・濫発の時代』でも詳しくご説明しておりますので、雑誌ともども、あわせてお読みいただけると幸いです。 ご案内 (1)ハルビン絵葉書アーカイブ・シンポ 今週土曜日、3月1日に東京・下高井戸の日本大学文理学部図書館3階オーバルホールにて開催のシンポジウムデジタルアーカイブ活用による東アジア史研究の新たな可能性にコメンテーターとして登場します。僕の出番は、午前中10:10からのセッション1「ハルビン絵葉書アーカイブ」です。入場・参加費等は無料ですので、よかったら、遊びに来てください。 (2)日本香港協会・春節パーティー 3月5日18:30より、東京・日本橋の香港上海銀行10階の大会議室にて、日本香港協会の春節パーティーが行われますが、その余興(?)として、拙著『香港歴史漫郵記』の内容を元に、切手や絵葉書、郵便物などから古きよき香港をたどるトークを行います。パーティーの会費はお1人6000円ですが、皆様お誘い合わせの上、ぜひご参加いただけると幸いです。(お申し込みはこちらからお願いします) |
2008-02-26 Tue 12:58
韓国では昨日(25日)、李明博新政権が発足し、金大中・盧武鉉と2代10年続いた左翼政権にピリオドが打たれました。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは5年前の2003年2月25日、盧武鉉政権発足に際して韓国郵政が発行した記念切手です。今回の李明博政権の発足にあたっても、韓国では新大統領の肖像が入った記念切手が発行されていますが、残念ながら、こちらはまだ入手できていません。 さて、盧武鉉政権の5年間を一言で総括すると、住宅、教育、物価、医療、年金などの福祉の拡充を目指したものの、結果的に、社会的な強者と弱者の二極化が進んでしまい、その不満の捌け口として“過去清算”の名の下に左派や親北の活動家たちを厚遇し、対米・対日関係を悪化させた、ということになると思います。 まぁ、IMF危機から韓国経済を立て直した金大中はともかく、“左派”の悪いところが一挙に噴出したのが盧武鉉の時代だったわけですが、韓国の“保守”と“左派(ないしは革新)”と言う概念は、外国人が考えているほど単純なものではないように思います。というのも、数百年単位の朝鮮史のスパンで考えると、実は、朝鮮の伝統的な価値観や思考回路は、現在の“保守”よりも“左派”に近いのではないかと考えられるからです。 現在の大韓民国は、朝鮮の歴史が始まって以来、最も繁栄した国であるわけですが、彼らがそうした成功を勝ち得たのは、李承晩から朴正煕を経て全斗煥にいたるまで、中国大陸と絶縁していたことが非常に大きな要因だったと思います。 歴史的に中国の圧倒的な影響下に置かれてきた朝鮮では、朝鮮風に“純化”された朱子学の発想法が社会の全体を覆いつくしており、現在でもその影響はぬぐいがたく残っています。たとえば、かつて共働きの女性に「ご主人が失業した場合、あなたはどうしますか」というアンケートを取ったところ、一番多い回答は「自分も仕事を辞める」というものでした。その理由は、「一家の長である夫よりも自分の収入が多いのは申し訳がたたない」というのだそうで、実利ではなく“朱子学的(といっていいのかどうかは分かりませんが)”な名分や“秩序”を重要視する彼らでなければ出てこない発想だと言ってよいでしょう。(まぁ、実際には、夫が失業したら、妻が働いて家計を支えるというケースが多いのでしょうけど) また、歴史的に見ると、朝鮮半島を侵略し続けてきたのは中国中央政府であって、日本による植民地時代はわずか36年しかないわけですが、それでも、日本統治時代のほうが彼らにとって不愉快な記憶として語り継がれているのは、それが歴史的に直近の出来事であるということもさることながら、彼らの脳内に染み付いた華夷秩序に照らして、日本は自分たちよりも劣っていた(いる)という暗黙の世界観があるのではないかとの指摘もしばしば行われています。 ところが、第二次大戦後、朝鮮は南北に分断され、韓国は敵国としての北朝鮮をはさんで中国から切り離され、大陸ではなく、海洋方面に目を向けて日本やアメリカと協調せざるを得なくなりました。この結果、伝統的な華夷秩序の意識が国民の精神構造から払拭されたわけではないにせよ、国家としては、そこから自由になり、東西冷戦という国際環境に対応してより実利的ないしは合理的な判断が可能となり、そのことが漢江の軌跡とよばれる高度経済成長をもたらしたとみることができます。その意味では、韓国保守政治の象徴とされる朴正煕こそ、実は、朝鮮史の長い伝統の中では極めて革新的な人物だったといえるわけです。 いわゆる386世代が主流となった左翼運動の本質は、ある意味で、そうした朴正煕的な“革新”に異議を唱えるものでした。彼らの国際認識にも、伝統的な華夷秩序の中では蛮族でしかない日本やアメリカを忌避し、北朝鮮や中国といった秩序の中心に親近感をもつものという側面があることは否定できないでしょう。 また、朴正煕や全斗煥に対する批判が、彼らが「大統領として何をやったか」ということ以上に、彼らがクーデターという不法な手段で政権を握ったという点に向けられるのも、興味深い現象です。本来、政治は結果責任のはずですが、こうした批判では、政権の結果よりも出自が問題とされているわけで、名分を過度に重視するという意味で、朝鮮儒学の発想が色濃く残っているといえます。韓国人による金日成への批判が、金日成の政策的な失敗よりも、彼がニセモノ(伝説の抗日英雄の名を騙ったソ連軍将校)であったことに向けられがちなのも同様の発想ですし、法の不遡及という近代法の大原則がしばしば無視されるのも、そうした“出自”に対する(我々の目から見ると)異様なこだわりの故と考えると腑に落ちるのではないでしょうか。 とすると、仮に“保守”を伝統的な価値観・思考方法に忠実なこととするなら、盧武鉉政権というのは、朝鮮史の文脈に照らしてきわめて“保守”的な政権だったと見ることも可能でしょう。いずれにせよ、今回発足した李明博政権は、世界的な潮流からすると保守とされる主義主張に近いがゆえに保守派政権と位置づけられていますが、むしろ、彼らの課題は、上述のような朝鮮儒学の思考法やしがらみにとらわれず、実利的・合理的な判断を下して、韓国社会を革新していくこと(すくなくとも、盧武鉉的な“保守”に陥らないこと)にあるのではないかと僕は考えています。 ご案内 今週土曜日、3月1日に東京・下高井戸の日本大学文理学部図書館3階オーバルホールにて開催のシンポジウムデジタルアーカイブ活用による東アジア史研究の新たな可能性にコメンテーターとして登場します。僕の出番は、午前中10:10からのセッション1「ハルビン絵葉書アーカイブ」です。 入場・参加費等は無料ですので、よかったら、遊びに来てください。 |
2008-02-25 Mon 11:24
2005年6月からスタートしたこのブログですが、毎日1回ずつ更新していたら、今日の記事がちょうど1000回目になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。
というわけで、“1000”に絡めて、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1975年4月22日に発行された1000円切手の小型シートです。1000円という額面は、現在なお日本の通常切手の中では最高額ですが、当時は書状の基本料金が20円の時代でしたから、そこから比例計算すると、現在の感覚では4000円くらいの価値に相当すると考えてもいいかもしれません。印刷物としての出来栄えも、グラビアと凹版のかけあわせによる見事なもので、最高額面の切手にふさわしい貫禄があります。 なお、通常のシート切手とは別に小型シートが発行されたのは、1975年4月に全日本切手展が25回という節目の年を迎えるため、その記念の意味合いを込めたものとも言われています。これは、1950年の切手趣味週間にあわせて宇治平等院鳳凰堂の通常24円切手を収めた小型シートが発行されたのと似たようなケースといってもいいでしょう。 さて、切手に取り上げられているのは、京都・浄瑠璃寺の吉祥天立像です。 浄瑠璃寺は京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院で、1047年、当麻(現・奈良県葛城市)の僧・義明上人が薬師如来を本尊として創建されたものといわれており、寺の名前の“浄瑠璃”は本尊である薬師如来の居所である東方浄瑠璃世界(東方浄土)にちなんでいます。なお、創建当時の本尊は薬師如来像のみでしたが、1107年、九体の阿弥陀如来像を安置する現在の本堂が建立され、現在ではこちらもともに本尊になっています。 この本堂と薬師如来像を安置している三重塔はいずれも国宝で(ただし、薬師如来像は国宝ではなく重文です)、1976年から発行が始まった第2次国宝シリーズで平安時代の国宝のうち切手に取り上げるものの候補にもなりました。ところが、切手の制作期間中、浄瑠璃寺では池を掘り返しての工事が行われていてデザイナーによる現地取材ができず、さらに、工事後に景観が変化する懸念があったため、結局、切手には取り上げられずに終わりました。 1000円切手に取り上げられた吉祥天立像は、鎌倉時代の1212年の作品で、本堂に安置されており、毎年、1月1日-1月15日、3月21日-5月20日、10月1日-11月30日の期間限定で公開される秘仏です。吉祥天は五穀豊穣と天下泰平を授ける幸福の女神で、しばしば、当時の理想的な美女の姿を投影した絵画や彫刻の題材となっています。切手の木像も、袖口から出た白い手の柔らかい感じなどはなんとも官能的な雰囲気をかもし出しており、国宝にこそ指定されていないものの、日本の仏教彫刻を代表する一体と評されるのも十分にうなずけます。 1970年代後半から1980年代初頭にかけての時代は、切手印刷の技術が飛躍的に向上したことに加え、凹版彫刻では戦後の名人・押切勝造が一番脂の乗っていた時期にあたっています。このため、いわゆる切手ブームの時代ではないため、1950年代のビードロや写楽のように目立った存在感はないものの、純粋に印刷物としての完成度という点で見ると、なかなか良い切手が多いように思います。昨年、刊行した<解説・戦後記念切手>シリーズの『沖縄・高松塚の時代』では、その前半部分をとりあげましたが、4月に刊行予定の『近代美術・特殊鳥類の時代』では、その後半部分を取り上げることにしています。『近代美術・特殊鳥類の時代』については、追々、このブログでもご案内していく予定ですので、よろしくお願いいたします。 |
2008-02-24 Sun 16:28
いわゆるロス疑惑で、日本で(殺人については)無罪が確定した三浦和義が、サイパンでアメリカ当局に逮捕されました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1941年11月に東京の日本橋からサイパン宛に差し出された郵便物ですが、1944年7月、日本側が玉砕した後、米軍に接収され、情報収集のために検閲されたものです。以前の記事でもご紹介しましたが、日本軍が各地で玉砕すると、米軍は亡くなった兵士などの遺品を回収して情報収集のために分析していますが、今回のカバーもそうしたものの一例です。封筒の真ん中あたりに円形の印がありますが、これが、米軍によって回収・検閲されたことを示すものです。 サイパン島に最初に上陸した欧米人はポルトガル人のマゼランですが、16世紀以降、サイパン島を含む北マリアナ諸島一帯はスペインの支配下に置かれます。そのスペインは、1898年に勃発した米西戦争で敗れ、衰退著しい中でドイツに北マリアナ諸島を売却しました。第1次大戦中の1914年、ドイツに宣戦布告した日本がドイツ領の南洋群島を占領。大戦後は、国際連盟による委任統治領という形式で北マリアナ諸島を支配しました。 日本時代、サイパンには南洋庁サイパン支庁が設けられていたほか、日本軍の司令部も置かれていました。このため、太平洋戦争中の1944年6月には、米軍を中心とする連合軍が上陸して激戦が展開され、日本側が玉砕したことは広く知られています。 その後、北マリアナ諸島は米軍の軍政下に置かれていましたが、1947年、国際連合によりアメリカの“太平洋諸島信託統治領ミクロネシア”の一部となります。そして、1986年11月3日 アメリカとの独自の交渉によりコモンウェルス規約を締結、レーガン大統領が北マリアナ諸島をコモンウェルスと宣言し、サイパン島のスペペがコモンウェルスとしての首都になりました。 コモンウェルスというのは、非常に単純化していうと、日本語で言う自治領とか保護領にほぼ相当するもので、アメリカの主権下でアメリカ大統領を国家元首とし、アメリカの法律の制限を受けるものの、自治政府による内政は認められているという立場になります。ただし、サイパン島の住民の場合、アメリカ大統領の選挙権はありません。その代わり、住民はアメリカの連邦税の納税義務を免除されているので、“代表なくして課税なし”といったところでしょうか。なお、軍事面では、アメリカが防衛権を持っています。 三浦和義逮捕のニュースで、“米自治領サイパン”という表現が散見されたのは、サイパンとアメリカの関係が上記のようなものであるためです。 ところで、この記事でコモンウェルスの説明を書いていたら、なんだか、日本のおかれている立場も結局はコモンウェルスみたいなものじゃないかという鬱々たる気分になってしまいました。まぁ、サイパンはかつて、日本の“絶対国防圏”の拠点として、戦争継続と日本本土の防衛のため、最低限確保しておかなければならない場所とされていましたからねぇ。「サイパンがコモンウェルスになっているということは、日本本土がコモンウェルス並みになっていても不思議はないのだ」といわれてしまえばそれまでなのですが…。 |
2008-02-23 Sat 11:36
雑誌『表現者』の第17号が出来上がりました。僕の連載「切手の中の日本と韓国」という連載では、前回に引き続き、1945年に米軍による南朝鮮(大韓民国ができるのは1948年のことです)の占領が始まった当時の話ということで、こんなモノも取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)
これは、アメリカ軍政時代の1946年3月8日、朝鮮殖産銀行の統営支店(慶尚南道)からソウルの朝鮮貯蓄銀行宛の郵便物です。貼られているのは、日本時代に使われていた東郷平八郎元帥の5銭切手ですが、この料金は、日本時代末期のものがそのまま踏襲されています。また、消印も年号こそ昭和から西暦に改められているが、それ以外は日本時代のものがそのまま使用されています。 1945年9月9日、南朝鮮占領のため、ソウルに入城したアメリカ第24軍(司令官はジョン・R・ホッジ中将)は、軍政開始後の第一声として、阿部信行総督を含む全ての日本人・朝鮮人は現職に留まったまま、従来どおり、朝鮮総督府の機能を継続させるとのプランを発表します。 日本の降伏は1946年以降にずれ込むものとながらく考えていたアメリカは、1945年8月の時点では、戦後の朝鮮占領について、なんら具体的なプランを策定していませんでした。そもそも、ホッジひきいる第24軍が南朝鮮に派遣されたのも、彼らが朝鮮に近い沖縄に駐留していたからというのが最大の理由だったほどです。このため、とりあえず南朝鮮に上陸したホッジにしても、とりあえずは“現状維持”からスタートするしかなかったというのが実情でした。 一方、朝鮮内では、日本の降伏イコール朝鮮の独立という空気が充満しており、敗戦で茫然自失となっていた日本の総督府の威令は急速に地に堕ち、治安が悪化します。このため、上陸したホッジは、なによりもまず、社会秩序の維持という占領の大原則を守るためにも、米軍の進駐に協力的であった日本人の支配機構を活用しておくのが便利だと考えたわけです。 ところが、独立を期待していた朝鮮人は、こうした米軍の対応に猛反発します。住民からの予想外の反発に当惑したホッジは、本国国務省やマッカーサーの指示もあり、9月11日、軍政の施行を宣言。翌12日、朝鮮総督府を廃止して阿部総督以下の日本人官吏を解任し、占領行政のための新たな機関として、アーノルド少将を長官とする軍政庁を設置しました。 もっとも、事前に十分な準備もせずに上陸した米軍が、ただちに、独自の統治機構を用意できるはずもなく、結局のところ、軍政庁の基本的なシステムは旧総督府をそのまま継承したものでしかありませんでした。また、日本人の元植民地官僚の中には、追放後も、軍政庁の顧問的な存在となっていた者も少なからずいましたし、日本人官吏追放後、軍政庁において部長職に就任したのは、多くの場合、旧総督府の官吏でした。アメリカ軍政下においても、当面、日本切手が使用されていたのは、こうした文脈によるものです。 こうして、建前はともかく、実態としては日本時代の継承というかたちで朝鮮の戦後史は始まるわけですが、日本の降伏イコール朝鮮の解放というイメージが強いためか、こうした“連続性”は往々にして無視されがちです。しかし、今回ご紹介したような郵便物を見てみると、南朝鮮においても“戦前”と“戦後”は間違いなく連続しているということがお分かりいただけるのではないかと思います。 |
2008-02-21 Thu 12:01
ご報告が遅くなりましたが、現在発売中のワイワイタイランド3月号では、僕の『タイ三都周郵記』をもとに「バンコク切手紀行」という特集を組んでいます。というわけで、今日は特集に取り上げられた切手の中から、こんな1枚をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1932年のラタナコーシン王朝(タイの現王朝)150年の記念切手の最高額1バーツ切手で、ラーマ1世像が取り上げられています。 現在のラーマ9世(プミポン国王)に繋がるラタナコーシン王朝の始祖、ラーマ1世は、1735年、アユタヤの名門貴族の家に生れました。もともとの名はトーンドワン。ちなみに、ラーマX世という称号は、20世紀初頭のラーマ6世が始めたものです。 1767年のアユタヤ陥落の際、トーンドワンはバンコクの西100キロのラーチャブリーで知事助役(ルワン・ヨククラバット)の地位にありましたが、身重の妻とともにビルマ軍の攻撃を逃れて森に逃げ込みます。その後、ビルマ軍を撃退したタークシンに先に仕えていた弟のブンマーのすすめにより、アユタヤの旧貴族とともにタークシンの集団に加わり、後に首都大臣(プラヤー・ヨマラート)の称号を受けています。 1775年以降、タークシンは自ら出征しなくなりますが、トードワンはタークシンに代わって遠征の総司令官として活躍し、その勲功によりチャオプラヤー・チャクリーの爵位を得ます。そして、1781年、カンボジア遠征中にトンブリー(暁寺院ことワット・アルンのある地域です)で宮廷クーデターが発生すると帰還し、官僚たちから推戴されて国王として即位しました。 国王となったチャオプラヤー・チャクリーは、アユタヤ王朝の理想に沿った国家建設に着手し、タークシン時代の都があったトンブリーの対岸に、アユタヤの理想に沿った新たな王都を建設します。王宮の建設に際して、国王はこの土地を“クルンテープ・マハーナコーン・ボーウォーン・ラタナコーシン・マヒンタラーユタヤー・マハーディロクポップ・ノッパラッタナ・ラーチャターニー・ブリーロム・ウドム・ラーチャニウェート・マハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカティッティヤ・ウィサヌカムプラシット”と名づけました。その冒頭の“クルンテープ・マハーナコーン・ボーウォーン・ラタナコーシン”は“インドラ神の造りたもうた崇高なる宝玉の(エメラルド仏が奉安されている)大いなる都市・神の都”の意味で、王宮のある地域をラタナコーシン地区といい、現王朝をラタナコーシン王朝と呼ぶのはここに由来するものです。 ちなみに、現王朝のことをチャクリー王朝ということもありますが、こちらは、始祖であるチャオプラヤ・チャクリーの名前がその由来となっています。また、現在でも僕たち外国人はタイの首都を“オリーブの村”に由来するバンコクで呼ぶのが一般的ですが、タイでのバンコク都の行政上の公称は“クルンテープ・マハナーコーン”(大いなる都市・神の都)です。 さて、タークシン時代の都であった対岸のトンブリーは、ラタナコーシン王朝の時代になると、廃都として忘れられた土地となり、ラタナコーシンが王都の心臓部として急成長を遂げていくことになります。しかし、20世紀に入るとバンコクの経済発展に伴い、トンブリー地区の再開発が課題として持ち上がってきました。このため、1932年、ラタナコーシン王朝150周年の記念事業の一環として、ラタナコーシンとトンブリーを結ぶラーマ一世橋が架けられることになり、その東詰に作られたのが、今回ご紹介している切手のラーマ1世像(高さ4.5メートル)というわけです。 今回の雑誌『ワイワイタイランド』の特集では、拙著『タイ三都周郵記』に所収の「曼谷三十六景」のなかから、36ヶ所のスポットにまつわる切手をひとつずつピックアップして、カラーでご紹介しています。モノクロ図版の『タイ三都周郵記』の内容をフォローするものとして、ご覧いただけると幸いです。 |
2008-02-19 Tue 15:12
昨年末のベナズィール・ブット元首相暗殺で延期されていたパキスタン下院総選挙の投開票が昨日(18日)、行われました。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1995年8月、ベナズィールとトルコ首相(当時)のタンス・チルレルの首脳会談を記念してパキスタンが発行した切手で、両首脳の肖像が取り上げられています。切手発行の名目は、イスラム教徒が圧倒的多数を占める国家としては、初の女性同士の首脳会談というものです。 1993年6月、トルコの首相に就任したチルレルは、EU加盟というトルコの悲願を果たすための切り札として登場しました。アメリカのイエール大学出身の女性経済学者という彼女の存在は、西側世界から女性差別的とのネガティブなイメージの強いムスリム国家のイメージを打破するうえで効果的と見られていた面もあったからです。 ただし、チルレル政権は、EUとの関税同盟締結や国営企業の民営化などの経済改革を進めたものの、インフレーションに伴う株価と通貨の暴落による経済の破綻、トルコ東南部でクルド労働者党による民族運動の激化、さらには、政権をめぐるスキャンダルの発覚により、次第に支持率が低下し、この切手の首脳会談が行われた直後の1995年9月、連立内閣は崩壊に追い込まれてしまいました。その後、同年11月には第2次チルレル内閣が発足したものの、翌12月の選挙でイスラム主義政党の福祉党が第一党となり、結局、チルレル政権は退陣に追い込まれています。 一方、1988年12月、現代のイスラム諸国で最年少 (当時35歳) かつ初の女性の政府代表としてパキスタンの首相となったベナズィールは、1990年8月、汚職を告発されて当時の大統領により首相の座を解任されましたが、1993年10月の総選挙で勝利を収めて首相に返り咲き、1996年11月まで政権を維持しました。今回の切手が発行された時期は、その第2次政権の時代にあたります。 1993年に相次いで首相となったチルレルとベナズィールは、1994年2月、紛争最中のボスニアに防弾チョッキを着て乗り込み、内戦で破壊された古都モスタルの修復費用拠出など、現地のムスリム指導者のイッゼトベコヴィッチと会談し、政治的、文化的支援を約束したことが当時話題になりました。 なお、ベナズィールがムスリム女性としてスカーフを身に着けているのに対して、チルレルはトルコの国是に従いスカーフをつけていないのは、両国の世俗主義に対する距離感が反映されているようで、なかなか興味深いものがあります。 ちなみに、パキスタンの現大統領のパルヴェーズ・ムシャラフは、徹底したプラグマティストで、近代トルコ建国の父、ケマル・アタテュルクにならった世俗主義的開発独裁を目指しているとされる人物で、その強権的な手法の是非はともかく、西側世界にとって“話のしやすい”人物であることは間違いありません。 これに対して、ベナズィールが長年党首を務めていたパキスタン人民党は、1967年、ベナズィールの父、ズルフィカール・アリー(後に大統領・首相)を中心として創設された左翼政党(じつは、社会主義インターナショナル加盟に加盟しています)で、産業の国有化などの社会主義的政策、労働者・農民の生活向上、国民の国防参加を主張しています。また、外交面では、パキスタンの伝統的な“全天候型親中政策”の忠実な継承者という立場を取っています。 今回の総選挙では、同党は、シャリフ元首相率いるムスリム連盟ナワズ・シャリフ派とともに第1党の座を争い、ムシャラフの与党・ムスリム連盟クアイディアザム派は惨敗する見通しだそうですが、そのことが国際社会にとって吉と出ようが凶と出ようが、パキスタンの“民主化”を求めていた我々は、その結果を甘受するしかないでしょうね。 |
2008-02-17 Sun 14:29
ご報告が遅くなりましたが、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の2月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手に描かれた建設の風景」では、今月は“落ちる”や“滑る”がタブーの受験シーズンにひっかけて、この切手を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1976年に西アフリカの内陸国、マリ共和国が発行した「社会保険制度20周年」の記念切手です。 モーリタニアの東南に位置するマリの地域は、1904年にフランスの植民地となり、フランス領スーダンと呼ばれていました。その後、この地域は1960年6月、隣国のセネガルと共に、マリ連邦を結成し、フランスから独立しましたが、同年8月、セネガルが連邦から離脱し、翌9月に現在のマリ共和国が発足します。国名の由来は、1235年にマリンケ人の王スンジャータによって、ニジェール川流域に建国された“マリ帝国”で、同国は、14世紀に即位したマンサ・ムーサ王のもとで、黄金貿易によって繁栄しました。 この切手が発行された当時のマリは、1968年の軍事クーデターで実権を握ったトラオレ軍事政権の時代でした。今回の切手が謳っているように、1976年に20周年ということは、マリの社会保険制度はフランス植民地時代にスタートしたことになります。その後、トラオレは1979年に大統領に就任しますが、1991年の クーデターによって退陣に追い込まれ、翌1992年に民政移管が実現しています。 さて、切手の下のほうには「足場に荷物を載せすぎないようにしよう」とのスローガンが入っており、レンガを積みすぎて足場が壊れ、転落する男性を描くことで、建築現場の事故防止を呼びかけようという意図が明確に伝わるデザインです。また、よく見ると、男性とともにレンガ積みに使うコテも落下しているところなど、なかなか芸が細かいですな。男性の表情がどことなく素朴な民芸調のユーモラスな感じなのも良い感じで、事故の悲惨さを感じさせないユーモラスなデザインに、なんとなく心が和む気がします。 |
2008-02-16 Sat 11:50
今日(2月16日)は、北朝鮮の“将軍様”こと金正日の誕生日です。というわけで、数ある北朝鮮の金正日切手の中から、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2000年7月の朝露首脳会談を記念して発行された切手で、プーチンと握手する金正日が取り上げられています。プーチンの身長は168センチといわれており、表向きは165センチとされている金正日と大差ないことになっています。しかし、この切手に見るように、前髪を逆立てた独特のヘアスタイルに、公然の秘密となっている厚底シークレットブーツ(切手の写真では確認できませんが)によって、金正日の見かけ上の身長が水増しされていることを考えると、実際の“将軍様”の身長は150センチ代半ばといったところじゃないかと思います。 この切手が発行された2000年といえば、韓国の大統領・金大中が北朝鮮を訪問し、ノーベル平和賞を受賞した年ですが、これを受けて、ロシア国内ではプーチンにもノーベル平和賞を取らせようというプロジェクト(ノーベル平和賞の頭文字をとってN-プロジェクトと呼ばれていたようです)が動き始めます。 プロジェクトに直接関わっていたアナトーリ・リー(韓国出身でゴルバチョフ、エリツィン前ロシア大統領の極東地域助言委員を務めた)によると、当時、再選をほぼ確実にしていたプーチンの周辺では、さらに憲法で禁じられている3選を狙って、大統領2期目の末期に国民の支持率を80%以上に引き上げて憲法を改正し、長期政権を樹立しようとの計画が検討されていました。ノーベル賞獲得プロジェクトも、そうした独裁基盤を強化する一環として具体的に検討され、①チェチェンなどに対する武力弾圧の中止、②ロシアと国境を接する朝鮮半島の和平促進の2点を“業績”としたらどうか、という案が浮上します。 このうち、朝鮮半島政策に関しては、シベリア横断鉄道を南北朝鮮の縦断鉄道と連結することや、北朝鮮の非核化、さらに北朝鮮への経済支援などが具体的な検討項目となり、その手始めに、南・北・ロシア3者首脳会談の開催に向けて水面下での交渉が開始されています。 当時の関係者の認識では、南北対話の推進で金大中がノーベル平和賞を受賞できたのだから、プーチン単独では無理だとしても、朝鮮半島の緊張緩和をさらに進めたという名目で、ポスト金大中の韓国大統領(この時点では、まだ盧武鉉は2002年選挙の有力候補にも挙がっていません)、金正日、プーチンの3人セットなら受賞の可能性もないわけではない、とみられていました。 結局、プーチンは大統領2期目の任期が切れた後は、首相になって院政を敷くというプランを採択し、N-プロジェクトは立ち消えになりましたが、それにしても、チェチェンの民族運動の圧殺や国内の反対派への弾圧で知られるプーチン閣下と、世界最大の収容所国家の主の将軍様、それに、法の不遡及の原則を無視してまで「親日反民族特別法(日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法)」を作って“親日分子”の子孫の土地や財産を国が没収してもいいと決めてしまった盧武鉉閣下のお三方がノーベル平和賞というのは、かなり強烈なブラックジョークですな。もっとも、この手の話は、当の本人たちが大真面目であるがゆえに、傍で見ていて笑えるわけですが…。 ちなみに、一昨日(14日)にクレムリンで開かれた記者会見で、プーチン閣下は、2000年に大統領に就任してから8年間の任期を振り返り「深刻な失敗は思いつかない。課題はすべて達成された」と強い自信たっぷりにお答えになったそうです。国民が飢餓と弾圧に苦しんでいても、自国のことを“地上の楽園”と言ってはばからない将軍様と個人的にウマが合うというのも、なんだかよく分かるような気がします。 |
2008-02-12 Tue 12:51
韓国・ソウル中心部にある南大門(崇礼門)で10日夜、火災が発生し、11日朝までに木造の楼閣部分が全焼しました。南大門に関しては、以前に、門を取り上げた最初の切手をご紹介しましたが、今日はこの1枚をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1965年8月15日に発行された“光復20年”の記念切手で、南大門の周辺に上がる花火が描かれています。 韓国では、日本の植民地支配からの解放を記念する“光復”の記念切手を節目の年ごとに発行していますが、今回の切手以前は、従来、独立門(ホントは日本からの独立ではなく清朝からの独立を記念した門なんですが…)や断ち切られた鎖、松明など、植民地支配からの解放という、光復の内容をストレートに表現したものを太極旗と組み合わせてデザインするというのが、定番でした。 これに対して、1965年の光復20年の切手は、今回ご紹介のものにせよ、もうひとつのもの(太極旗と煙突から煙をたなびかせた工場地帯が描かれています)にせよ、それまでのものとは大いに趣が異なっています。この背景には、日本との国交正常化が大詰めを迎えていたという、当時の事情が反映されていると見てよいでしょう。 1961年の軍事政権発足以来、政権を掌握した朴正煕は、韓国の経済成長のためには日本からの支援が必要不可欠との視点から、日本との国交正常化に力を注ぎ、中央情報部長の金鐘泌を日本に派遣して秘密交渉を開始。最大の懸案であった賠償問題を、韓国側の“請求権”に応じ、無償経済協力3億ドル、政府借款2億ドル等を日本側が支払うことで、大筋で決着しています。 賠償ではなく請求権という語が用いられたのは、戦争による被害の賠償ではなく、植民地時代に累積した債権を韓国側が請求するということで政治決着がはかられたためで、この中には、いわゆる従軍慰安婦を含め民間人への補償も全て含まれているというのが、日本側の一貫した主張です。 さて、こうした日韓交渉は、正規の外交ルートに乗せられることなく、軍政期間中に、韓国の国民世論をいっさい斟酌することなく処理されました。このため、多くの一般国民は、国交正常化交渉の経緯に対して疑問を持つことになり、当時、朴正煕-金鐘泌ラインは、選挙資金として日本から2000万ドルを受け取ったとの噂も流布しています。 さらに、1963年に民政が復活し、交渉が大詰めを迎えた1964年になると、野党側は政府の姿勢を“対日屈辱外交”であるときめつけ、大規模な反対運動を展開。この反対運動は、当初、政府の対日姿勢を糾弾するものであったが、次第に学生運動を吸収して急進化し、1964年5月以降、“朴政権下野”を公然と掲げる反政府運動に転換していきました。 こうした状況の中で、6月3日、学生デモが“朴政権打倒”を掲げるようになると、ついに政府は非常戒厳令を発し、デモ隊を鎮圧。非常戒厳令は、国会の請求で7月28日に解除されましたが、その後も、日韓条約反対の運動は続けられています。 一方、こうした韓国内の混乱に対応して、北朝鮮は、さかんに“日本軍国主義”非難を展開し、そうした日本軍国主義に対して屈辱的な姿勢で国交を乞う韓国政府を非難しました。その背景には、日韓交渉が南北分断を固定化するものとなるという建前論からの攻撃とあわせて、韓国内の反対派を、自らのシンパとして引き寄せたいとの思惑があったことも見逃してはならないでしょう。 結局、1965年2月、日本の外相・椎名悦三郎が訪韓して、国交正常化のための日韓基本条約の仮署名が行われると、これを受けて、請求権をはじめとする懸案事項が協議され、4月3日、漁業問題・請求権・在日韓国人の法的地位・文化協力に関する大綱で両国の合意(“4・3合意”と呼ばれる)が成立。両国の国交正常化は、この時点で、事実上達せられたといってよいでしょう。 その後、6月には、日韓基本条約と関連の諸規定が正式に調印され、韓国では8月14日に野党が欠席した国会本会議で、日本では11月12日の国会で、それぞれ、条約が批准され、12月18日、ソウルでの批准書交換を経て、日韓基本条約は正式に発効。こうして、1951年11月の日韓会談の開始いらい14年にわたる年月を経て、さらに、野党や学生の激しい反対を受けるなどの紆余曲折を経て、ようやく、両国間の国交が正常化されることになりました。 今回ご紹介の切手は、まさに、韓国国会での基本条約批准翌日の光復節というタイミングで発行されたものですから、日本による植民地支配を糾弾するような内容が避けられたというのもけだし当然のことといえましょう。 さて、南大門の焼失事件は、門に火を放った男が早くも逮捕され、犯行を自供しているそうです。南大門に花火なら見ていて楽しいですが、南大門に火花を散らした人物に対しては厳しい処罰を下してもらいたいものです。 |
2008-02-11 Mon 13:19
今日は建国記念の日。というわけで、建国神話に絡んだ1枚ということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1979年5月に発行された「近代美術シリーズ」第1集の1枚で、青木繁の「わだつみいろこの宮」が取り上げられています。 「わだつみいろこの宮」の作者、青木繁(1882-1911)は、久留米の出身で、16歳のときに上京して小山正太郎の不動舎に入門。1901年に東京美術学校へ入学して黒田清輝の指導を受け、記紀神話や天平時代の古代風俗に取材した幻想的な作品を残しました。 切手に取り上げられた「わだつみいろこの宮」は、『古事記』に登場する海幸彦(ホデリ)・山幸彦(ホオリ)の兄弟のうち、弟の山幸彦が海神・綿津見宮(わたつみのみや)を訪ね、海神の娘に会う場面を題材にしたもので、1907年の東京府勧業博覧会に出品され、3等賞を受賞しました。現在は、ブリヂストン美術館の所蔵品で、重要文化財に指定されています。 物語の主役・ホオリは、ニニギに国津神の子ではないかと疑われたコノハナノサクヤビメが、その疑いを晴らすために火中で生んだ子で、ホオリの名は火が消えた時に生まれたことにちなんでいます。 その昔、ホデリは海幸彦(漁師)として大小の魚をとり、ホオリは山幸彦(猟師)として大小の獣をとっていましたが、あるとき、ホオリは兄のホデリにそれぞれの道具を交換してみることを提案。ホデリはしぶったものの、これを受け入れ、2人は道具を交換します。しかし、ホオリは兄の釣針で魚を釣ろうとしたものの1匹も釣れず、さらに、その釣針を海の中になくしてしまいました。 結局、兄のホデリも獲物を捕えることができず、自分の道具を弟に返してもらおうとするのですが、ホオリは釣針をなくしてしまって返すことができません。このため、ホデリは激怒し、ホオリが自分の剣から1000の釣針を作っても、頑として受け取ろうとはしませんでした。 このため、ホオリは塩椎神に小船を作ってもらい、海神・綿津見宮(わたつみのみや)を訪ねます。海神の宮殿(これが“いろこの宮”です)に行くと、海神の娘・トヨタマビメの侍女が水を汲みに外に出て来たので、ホオリは水を所望。そこで、侍女が水を汲んだ器をホオリに差しだすと、ホオリは水を飲まずに首にかけていた玉を口に含んでその器に吐き入れます。この玉が器にくっついて離れなくなったので、侍女はトヨタマビメに事情を説明。不思議に思って外に出てみたトヨタマビメは、ホオリを見て一目惚れし(青木繁の絵は、まさにこの場面です)、2人は結婚して海神の元で3年間暮らすことになりました。この間、2人の間にできた子がウガヤフキアエズ(ただし、彼はホオリが地上に戻った後、地上で生まれています)で、さらにその子(ホオリから見ると孫)がカムヤマトイワレヒコ(後の神武天皇)ということになります。 その後、のんきにトヨタマビメと暮らしていたホオリですが、3年経ってようやくここに着た理由を思い出し、海神の協力を得て、アカダイの喉に引っかかっている釣針を発見。そこで、地上に戻ったホオリは、海神に言われた通りに呪いを込めて釣針を返し、海神の協力を得てホデリを撃退し、兄を臣従させることに成功した… 以上が、海幸彦・山幸彦の物語のあらましですが、冷静に考えてみると、ホデリは気の毒でなりません。 そもそもの発端は、弟の思いつきで強引に自分の道具を交換させられ、しかも亡くされたことにあるわけですから、この時点では兄は一方的に被害者です。弟が釣針を1000本作っても許さなかったことを狭量と見ることも可能でしょうが、プロの漁師の目から見れば、素人が作った釣針が一定の水準を満たしていたかどうか、かなり怪しいところです。僕自身の身に置き換えてみれば、100万円の切手を貸してなくした相手から、10円の切手を1000枚用意したから勘弁してくれ、といわれているような状況でしょうかね。 しかも、釣針を探しに行った弟は3年もの間、何の音沙汰もなく、しかも海神に気に入られて妻を娶り子どもまでもうけていたというのですから、兄があきれ果て、頭にくるのも当然です。現在に置き換えてみると、出張に出たまま連絡もせずに遊びほうけて、予定をかなりすぎてから、現地でナンパした彼女を同伴して戻ってくる、というのと同じではないでしょうか。 さらに、まったく落ち度がないにもかかわらず、弟のかけた呪いで万事うまくいかなくなった兄が、ついに我慢できなくなって弟を襲撃すると(先制攻撃を仕掛けてきたのは、呪いをかけてきた弟のほうですよね)、待ってましたとばかりにこれを撃退し、臣下にしてしまうというのですから、「兄上、本当にお気の毒です」としか言いようがありません。 ホントにひどい弟ですが、それもこれも、神武天皇のおじいちゃんということで許されるわけですが、神武天皇ご自身は気の毒な大叔父のことをどう思っておられたのか、ちょっと気になるところです。 さて、毎年4月に刊行している<解説・戦後記念切手>シリーズですが、今年4月に刊行予定の第6巻『近代美術・特殊鳥類の時代』(仮題)では、1979年の「近代美術シリーズ」から1985年の「つくば博」までを取り上げています。現在、本文の原稿はすべて完成して、編集作業を行っているところですので、表紙のデザインや定価、配本日などが正式に決まりましたら、また別途ご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。 |
2008-02-10 Sun 18:39
1980年代以降、大学など公的施設でのスカーフ着用が禁止されてきたトルコで、スカーフの着用を認める憲法改正案が可決・成立する見通しだそうです。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1956年にトルコで発行された“母の日”の記念切手で、“建国の父”ムスタファ・ケマル(ケマル・パシャとかケマル・アタテュルクとも呼ばれている人物です)の母親、ズベイデの肖像が取り上げられています。無目打の見本切手なので、ペアでお見せします。 ズベイデは1857年、サロニカの生まれ。ムスタファが6歳のときに夫と死別し、子連れの男性と再婚しましたが、ケマル少年は、これが気に入らなかったようです。なお、ズベイデは非常に敬虔なイスラム教徒で、息子をコーラン学校に通わせてイスラムの伝統的な教育を受けさせたがっていましたが、息子は結果としてイスラム教育に否定的な世俗主義の大物に育ちました。晩年、息子が推し進めた世俗主義政策は、さぞや、彼女を当惑させたことでしょう。イスラム教徒の女性として、スカーフ着用の肖像が切手に取り上げられいるのも、ムスタファ・ケマルの母親という立場を考えると、なんとも皮肉な話です。 イスラム教徒の女性が髪を隠すのは、髪を男性に見せると男性の劣情を刺激することになるとの考えによるものですが、じっさい、彼女たちの中には公衆の面前で髪を見せることを“恥ずかしい”と感じる人も少なくありません。 1923年にトルコ共和国を建国したムスタファ・ケマルは、脱イスラム化政策の一環として、1925年、帽子法を制定し、男性がフェズ(トルコ帽)などを着用することを禁じ、西洋風の山高帽の着用を奨励しました。日本でも、明治の初め、断髪令が出ていますが、それと同じような発想です。ただし、このときは女性のスカーフ着用が法律で禁止されていたわけではありませんでした。とはいえ、当時のトルコで大学へ通う女性というのは、都市部の豊かな階層に属している人たちで、彼らは概して世俗主義者でしたから、自分の意思でスカーフを着用しないことを選んでいました。 ところが、トルコの経済成長が進み、大学進学者の数が急増すると、伝統的なイスラムの価値観を尊重する女性たちも大学に進学するようになります。世俗主義者たちがスカーフの着用はイスラムの因習によって強制されたものと考えるのに対して、彼女たちは、自分たちはイスラム教徒であり、イスラム教徒としてスカーフの着用をする権利は誰にも否定されないはずだ、と考えます。 この結果、スカーフ問題は国論を二分する論争となり、1989年の法律で、大学キャンパスでのスカーフ着用が正式に承諾されたものの、すぐさま、憲法裁判所がこの法律を違法とする判決を出しています。トルコ憲法の原理である世俗主義をおかすことになるから、というのがその理由でした。 今回の憲法修正は、高等教育を受ける権利をすべての国民に保障する内容で、スカーフ問題について直接言及しているわけではないのですが、スカーフを理由に女子学生の教育機会を奪うことを間接的に禁じる内容となっています。ニュースなどで、「大学でのスカーフ解禁」という見出しが出ていたりするのは、そのためです。 エルドアン首相率いる与党の穏健イスラム政党・公正発展党(AKP)は、スカーフ着用を認める対象を学生のみとするなど世俗派に配慮を示しているものの、最大野党の世俗派政党・共和人民党(CHP)が「イスラム主義拡大への一歩だ」として憲法裁判所への申し立てを行う方針を表明しているほか、首都のアンカラでは世俗主義尊重をうたう女性団体や労組が大規模デモを展開しており、この問題はしばらく尾を引きそうです。 なお、その昔、僕は『マオの肖像』という本で、毛沢東の切手のうち、帽子をかぶっているものと脱帽のものとでは、どういう違いがあるのか考えてみたことがあるのですが、イスラム世界で発行された女性を描く切手のうち、スカーフを着用したものとしていないものの比率が国や時代によってどう違っているのかをたどってみたら、案外、面白いことが見えてくるような気がします。ちょっとやってみようかなぁ。 |
2008-02-09 Sat 10:55
ご報告が遅くなりましたが、現在発売中の雑誌『TV Bros』の「わらしべマッドサイエンティスト」というコーナーに僕のインタビューが掲載されています。このコーナーは、変わった研究をしている人間を呼んできて話を聴いてみるという趣旨で設けられており、そのなかでインタビューを受ける人間がお薦めの5点を囲み記事で紹介することになっています。
で、僕の場合は反米プロパガンダ切手5点を取り上げたのですが、その中から、きょうはこの切手をご紹介したいと思います。(画像はクリックで拡大されます) これは、1983年11月にイランが発行したアメリカ大使館占拠事件4周年の記念切手です。大使館に突入する学生たちと目隠しをされた人質の大使館員、炎に焼かれる星条旗などが取り上げられています。 1979年2月のイスラム革命後、開発独裁政策を進めてきた親米パーレビ体制に対する不満が爆発したものでした。このため、パーレビ王制崩壊後、国民の矛先は旧王制を支え続けてきたアメリカへも向かうことになります。そして、亡命中の国王が治療を名目にアメリカに入ったことで、急進革命派の反米感情は沸騰。1979年11月、国王の身柄引渡しを求めて急進派学生らがテヘランのアメリカ大使館を占拠する事件が発生。これを機に、対米関係は修復不可能なものとなりました。 こうした状況の下、1980年にイラン・イラク戦争が勃発。イランへの侵攻作戦を開始したイラク軍は、イラン側の革命の混乱に乗じて緒戦において赫々たる戦果を挙げましたが、イラク軍の補給体制の不備もあり、戦争が長期化するにつれて、戦況は次第に逆転していきました。 このため、イラン側の予想外の反攻により、守勢に立たされたイラク側は即時停戦を求める立場を強調し、国際世論を味方につけるべく外交戦略を展開することでイランに対抗。これが一定の効果を挙げ、イランの対イラク反攻はことごとく頓挫してしまいます。そもそも、イラン・イラク戦争はイラン革命の混乱に乗じてイラクが発動した侵略戦争でしたが、当時の国際社会は、そうした背景には目をつぶり、とりあえずイランのイスラム革命阻止ないしは反イランの立場で一致しており、とにかくイランの勝利を防ぐことを最優先課題としていたのです。 当然のことながら、イランは既存の国際秩序に対する不満を募らせ、アメリカ、イスラエル、エジプト、サウジアラビアなどに対する非難を強めていった。そして、それに伴い、イラン郵政は、過激なプロパガンダ切手を発行していくことになります。 今回ご紹介の切手もそうした文脈に沿って1983年に発行されたもので、同時期の国連の日、世界保健デーとならんで、非常に分かりやすい1枚です。 しかし、イランがどれほどイラン包囲網を形成している国際社会を非難しようとも、イラクの敗退を防ごうとする国際社会の壁は厚く、革命政府には徒労感が漂うようになっていきます。そこで、こうした状況を打開すべく、イランは外交方針を根本的に転換。1984年半ば以降、外相ヴェラーヤティーの下、「外交は原爆よりも威力を持つ」として、外交努力によりイラク支援体制を切り崩すべく“積極外交”と呼ばれる外交戦略を展開することになるのですが、このあたりについては、拙著『反米の世界史』をご覧いただけると幸いです。 PS 『TVBros』の記事で取り上げた5枚の切手は、今日ご紹介のものと、勅額切手、北ベトナムの米軍機撃墜記念切手、北朝鮮の日本語入り反米切手、イラクの湾岸戦争10年記念切手、です。 *昨日の午後、カウンターが29万ヒットを超えました。いつも遊びに来ていただいている皆様、ありがとうございます。 |
2008-02-07 Thu 12:18
今日(2月7日)は春節。ことしは、大晦日にあたる2月6日が丙子の日であることから、午前0時の子の刻に子年を迎えるという、ネズミが三拍子揃った年越しということで、中国ではかなり盛り上がっていたのだとか。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1987年6月9日、上海で差し出された郵便物ですが、封筒の左側に、ミッキーマウス(漢字で書くと米老鼠だそうです)らしきキャラクターが印刷されています。おそらく、中国お得意の“パクリ”ではないかと思います。 昨年(2007年)、北京の石景山遊楽園でミッキーマウスなどの違法なコピーが使われていることが報じられて問題になったとき、同社広報部はミッキーのパクリだとされたキャラクターを、「ネズミではなく、耳の非常に大きな猫」などと強弁したことは記憶に新しいところですが、今回の春節でも、干支にちなんで“福ネズミ”の置物が中国各地で飾られているそうですが、中には、ミッキーマウスもどきのモノも少なくないようです。ったく、懲りん連中ですな。 そういえば、いつだったか、中国切手の収集家の方から聞いた話ですが、中国では切手やカバーにも“オーダーメイド”があるのだとか。たとえば、切手市などで店を出しているオヤジに「かくかくしかじかのカバーを探している」というと、「2~3日したら、もう一回来てくれ」との答が返ってきて、実際に2~3日後にそのオヤジを再訪すると、探していたカバーがちゃんと出てくるのだそうです。もちろん、そのオヤジが家に帰ってから、安い未使用切手を使ってそれらしいニセモノカバーをでっち上げたというわけですが…。 ところで、ニセモノ天国といわれて久しい中国ですが、なかでもニセモノの本場はどこかというと、国務院研究室、公安部、中国社会科学院、労働・社会保障部、監察部などが2004年末に行った調査では、香港との“国境”に近い深圳市が堂々の第1位になったそうです。 たしかに、深圳といえば、ジャーダー(ニセモノのこと)の本場で、駅前一等地のビルのテナントの多くが堂々とジャーダーの専門店として商売を行っているくらいですからねぇ。また、服飾雑貨やCDなどの定番商品に留まらず、レストランなどでは、高級酒の瓶に安物の酒を詰めて(あるいは、高級酒を安物の酒で薄めて)客に出すということさえあるのだそうです。実際、深圳のレストランでメチル・アルコールの入った酒を飲まされて入院した中国人男性の写真というのをニュースで見たことがありますが、何ともひどい話です。 なお、深圳とその歴史に関しては、拙著『香港歴史漫郵記』でも、ページを割いていろいろと説明しておりますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。 |
2008-02-06 Wed 12:38
都内の某大学で担当している『中東郵便学』の授業の試験問題の解説、今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)を発行した政府についてせよ」という問題をとりあげましょう。
これは、1996年にアフガニスタンで発行された“イスラム革命4周年”の記念切手です。 1979年12月、ソ連軍は、前年(1978年)にアフガニスタンの人民民主党(共産党)政権と結んだ善隣協力条約の内乱条項に基づいて、内戦下のアフガニスタンに進駐します。いわゆるアフガニスタン侵攻です。 進駐したソ連軍はソ連の意向に忠実なバブラク・カルマルを大統領兼首相とする親ソ体制を樹立しましたが、正規軍が隣国に直接侵攻するという異常事態は、全世界から衝撃をもって受け止められ、多くの国がソ連の暴挙を非難し、西側諸国は1980年のモスクワ五輪をボイコットすることでこれに応えました。 一方、アフガニスタン国内では、ソ連軍の侵攻という新たな事態を受けて、1980年1月、反政府ゲリラの大同団結によるアフガニスタン解放イスラム同盟が結成され、ソ連軍とその支援を受けたカルマル政権に対するムジャーヒディーン(イスラム戦士)の抵抗運動が展開されるようになります。抵抗運動の組織としては、その後も、国民イスラム戦線、イスラム・ムジャーヒディーン同盟、アフガニスタン・ムジャーヒディーン・イスラム同盟などが成立しましたが、1985年5月、(新)アフガニスタン・ムジャーヒディーン・イスラム同盟へと統合され、彼らに対しては、イスラム世界全域からさまざまな支援が行われました。 結局、戦力的に圧倒的な優位を保持していたソ連軍は、国際社会の非難とムジャーヒディーンの頑強な抵抗により、1989年2月15日をもって、なんら得るところなく、アフガニスタンからの完全撤退を余儀なくされます。その後、ソ連軍撤退を受けて、ムジャーヒディーン諸派は暫定政権の樹立に合意。カブールの人民民主党政権打倒に向けて本格的な攻勢を開始しました。 ムジャーヒディーン諸派の攻勢が続く中、1991年5月、国連事務総長は和平提案を行い、7月から、ムジャーヒディーン諸派とパキスタン、イランの三者会談が始まります。また、同年9月には米ソ両国がアフガニスタンへの武器供給の停止で合意し、翌11月にはムジャーヒディーンとソ連との交渉でアフガニスタンの全権を(新設予定の)イスラム暫定評議会に移管することが決定されました。 こうした経緯を経て、1992年4月10日、国連の仲介によりイスラム暫定評議会の設立が正式に決定されます。そして、人民民主党政権は、ムジャーヒディーンがカブールを制圧したことで完全に瓦解。同年6月、ブルハーヌッディン・ラッバーニーが暫定評議会議長に就任し、翌1993年1月、ラッバーニーを初代大統領とするアフガニスタン・イスラム国が誕生します。 今回ご紹介の切手は、このアフガニスタン・イスラム国の下で1996年に発行されたもので、“イスラム革命4周年”というのは、人民民主党政権の崩壊とイスラム暫定評議会の設立から起算された年回りです。地図のシルエットの中に、アフガニスタンを構成する諸民族を描き、「アッラーの他に神なし ムハンマドは神の使徒なり」というイスラムの信仰告白が入った国旗が掲げられているのが、いかにも“イスラム国”らしいデザインです。 このイスラム国はあくまでも旧反ソ勢力諸派の妥協的な連合政権であったため、成立後まもなく新政権内部の主導権をめぐる内戦が勃発。内戦は、周辺諸国がそれぞれの思惑から各勢力を支援したことから泥沼化し、ふたたび大量の難民が発生することになります。 混乱が続く中、アフガニスタンは事実上の無政府状態に陥り、郵政も完全に機能不全に陥ってしまいます。その後、中央政府による新規の切手発行も停止され、アフガニスタンは郵便のない国へと転落するのですが、この間の経緯については、僕自身もいまいち調べ切れていません。ただ、今回の切手は、外貨獲得を狙った“売れ筋”のモノとは言いがたい内容ですから、少なくとも1996年の時点では、アフガニスタンの郵便はそれなりに機能していたと言えそうです。 さて、試験の答案としては、①この切手が、ソ連軍撤退後のアフガニスタン・イスラム国のものであるか説明しているか、②ソ連軍の侵攻とムジャーヒディーン諸派の抵抗運動について説明できているか、③イスラム国の実態が寄り合い所帯であったため、ソ連という共通の敵を失った各派による内戦が再燃したことが説明できているか、といったことがポイントになります。 なお、僕がパートタイム講師として担当している授業としては、いままでご紹介してきたもののほか、拙著『皇室切手』と『満洲切手』をテキストとしたもの、「朝鮮郵便学」と題して朝鮮の歴史と社会を切手から説明したものなどがあるのですが、それらは試験を行わず、レポートでの成績評価としました。 したがって、試験問題の解説と銘打ったコーナーは、とりあえず、本日で終了。明日(7日)からは、通常通りの内容に戻ることにします。 |
2008-02-05 Tue 12:50
一昨日の記事でも書きましたが、昨日(4日)、僕が都内の某大学で担当している『中東郵便学』と題する授業の試験をやりました。今回は、切手を使った問題を3問出したのですが、そのうちの1つは、この記事を見ていただければポイントはお分かりいただけると思いますので、今日・明日で残りの2問についての解説を書いてみましょう。
今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)が発行された背景について説明せよ」という問題をとりあげましょう。 これは、1948年6月15エジプトが発行したガザ“到着”の記念切手です。 1948年5月14日、パレスチナにおけるイギリスの委任統治が終了するのにあわせて、テルアビブの博物館でユダヤ国民評議会が開催され、イスラエル初代首相となったベングリオンが、「ユダヤ民族の天与の歴史的権利に基づき、国際連合の決議による」とするユダヤ人国家イスラエルの独立を宣言します。 これに対して、歴史的にも、現実の人口という点でもパレスチナはアラブのものと主張し、シオニスト国家イスラエルの独立を認めない周辺のアラブ諸国(エジプト、トランスヨルダン、レバノン、シリア、イラク)は、イスラエルに宣戦を布告。こうして、イスラエルとアラブ諸国との第一次中東戦争が勃発しました。 もっとも、イスラエルに宣戦布告したアラブ諸国には、純然たる“アラブの大義”のみから参戦したわけではなく、混乱に乗じて自国の権益を拡大しようという意図があったのは紛れもない事実です。このうち、エジプトは、開戦と同時に隣接するガザ地区を占領し、自国領に編入しています。そして、ガザがエジプトの支配下にあることを内外に誇示するため、占領当日の5月15日から、本国切手に英語とアラビア語で“パレスチナ”と加刷した切手(ただし、クリック先の画像は王制時代のモノではなく、革命後のモノですが)を発行して使用しています。このことは、エジプトが、第1次中東戦争の勃発を見越して、開戦後、ガザをただちに占領するプランを立てていたことをうかがわせるものといってよいでしょう。 今回の記念切手もこうした文脈で発行されたモノで、当時のエジプトがガザ占領の正統性を国際社会(特にアラブ世界)に認知させるため、国家のメディアとしての切手を活用していたことがわかります。 結局、第一次中東戦争は、1949年2月23日、イスラエルとエジプトの間で休戦条約が調印されたのを皮切りに、3月23日にはレバノンが、4月3日にはトランスヨルダンが、7月20日にはシリアが、それぞれ、休戦条約を調印。これら各国とイスラエルとの停戦ラインが事実上の“国境”となり、イスラエル国家の存在は実質的に認知されることで決着します。 一方、旧英領パレスチナのうち、アラブ軍団(実質的にはトランスヨルダン)の占領下に置かれていたヨルダン川西岸地区では、現地の親ヨルダン派のパレスチナ人指導者が死海北西岸のイェリコで「パレスチナ・アラブ評議会」を開催。トランスヨルダン国王アブドゥッラーを“全パレスチナ人の王”とし、彼に対して西岸地区のトランスヨルダンへの併合を要請する決議を採択するという手続きを経て、休戦協定成立後の1949年6月、トランスヨルダンはヨルダン川西岸地区と東エルサレムを併合し、新国家“ヨルダン・ハーシム王国”の建国を宣言することになります。 こうした戦争の結末は、その契機となった1947年11月の国連決議第181号と比べてみても、はるかに大きな犠牲をアラブ側に強いるものでした。 すなわち、国連決議ではパレスチナを分割し、アラブ国家とユダヤ国家を創設することになっていましたが、アラブ国家は実際には創設されず、イスラエルのみが成立しました。また、エルサレムを国連の信託統治下に置くというプランも、東西エルサレムがイスラエルとヨルダンによって分割されることにより、実現されないままに終っています。さらに、こうした決着は、問題の当事者であるはずのパレスチナ人を無視して決められたことも、将来に禍根を残すことになりました。 いずれにせよ、それぞれのアラブ諸国は彼ら自身の国益を考慮して動いているわけであって、そうした現実の前には、イスラエルのみならずアラブ諸国もパレスチナを抑圧する存在になりうるのだということは覚えておいて損はないでしょう。 さて、試験の解答としては、①第一次中東戦争についての説明があるか、②混乱に乗じて、エジプトがガザを占領し、自国領として編入したことが説明できているか、③戦争の結果がパレスチナ人に多大な犠牲を強いるものであったことを説明しているか、といった点がポイントになります。 |
2008-02-03 Sun 11:31
都内の某大学でやっている『反米の世界史』をテキストにした授業の試験問題の解説、最終回の今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げます。
この切手は、1954年2月、ベトナム・ソ連・中国の“三国友好月間(1950年1月18日に中ソ両国がベトナム民主共和国を承認してから4周年になるのを記念して設定された)”を記念するために発行されたもので、ホー・チ・ミンを中央に、左右にマレンコフと毛沢東の肖像が掲げられています。また、肖像の背後には、各国の国旗も掲げられています。 1945年3月、日本軍は明号作戦を発動してインドシナ全域を軍事占領下に置きましたが、同年8月には降伏してしまいます。こうした混乱の中で、フランスに対して植民地解放闘争を戦ってきた越南独立同盟(ベトミン)はベトナム独立を宣言してハノイで蜂起。ホー・チ・ミンを国家主席とするベトナム民主共和国が樹立されます。 これに対して、1945年9月、イギリスの支援を受けたフランス軍は、インドシナ半島に再上陸し、ベトミンと戦闘状態に突入。こうして、第一次インドシナ戦争がはじまりました。 当初、インドシナ戦争は国際共産主義運動と無関係に推移していました。これは、東欧や北朝鮮の共産党政権が現地に進駐したソ連軍によって樹立されたのに対して、ベトミンの政権がソ連の支援を受けずに樹立されたためです。 ところが、1949年10月に中華人民共和国が成立し、翌1950年6月に朝鮮戦争が勃発するという国際情勢の中で、インドシナ戦争は否応なしにアジアの冷戦構造に巻き込まれていくことになります。 すなわち、朝鮮戦争勃発直前の1950年5月、アメリカはフランスに対して1000万ドルのインドシナ戦費の援助を開始。第一次インドシナ戦争が終結した1954年には、インドシナでのフランスの戦費の8割弱を負担するまでになっています。その背景には、インドシナが共産主義者の手に落ちれば、周辺諸国は連鎖的に共産化してしまうのではないか、とのドミノ理論の強迫観念がありました。 一方、ベトナムの共産主義者たちにしても、戦況を好転させるためには、隣国となった中国の共産党政権の支援が必要でした。かくして、1951年2月、インドシナ共産党がベトナム・ラオス・カンボジア3国の共産党に分割された際、新たに誕生したベトナム労働党の党規約は、マルクス・レーニン主義とならんで“毛沢東思想”を党の思想的基盤・行動の指針として掲げ、彼らは自らを東南アジアにおける社会主義陣営の前進基地をして売り込んでいくことになります。 結局、ベトナムの共産主義者は中国・ソ連の支援を受けて戦況を好転させ、1953年11月に始まるディエンビエンフーの戦いに勝利を収めます。この結果、ベトナムの国土の4分の3がベトナム民主共和国の支配下に入り、共産主義者によるベトナム全土の“解放”が現実味を帯びて語られるようになりました。 今回の切手は、こうした状況の下で発行されたものです。当時のベトナムは、インドシナ戦争の最終勝利、すなわち、全土の解放を達成するためにも、中ソ両国からの支援を引き続き得ていくことが不可欠でしたから、中ソ両国との友好関係を内外にアピールすることは重要な課題であり、その一環として“友好月間”が設定され、国家のメディアとしての切手もその宣伝に一役買うことになったというわけです。 ちなみに、この切手では、中央のホー・チ・ミンの肖像は、正面ではなく右側、すなわち、毛沢東の方向を向いています。当時のベトナムにおいては、このスタイルのホー・チ・ミン像が広く用いられていましたから、切手上にこのスタイルの肖像が取り上げられても、それじたいは不思議なことではありません。ただし、当時、中国がソ連をはるかに凌駕する支援をベトナムに対して行っていたことを考えると、毛沢東の方を向くホー・チ・ミンという構図は、なんとも暗示的ではあります。 もっとも、どれほどベトナムが“最終勝利”をめざそうとも、この切手が発行された1954年初頭の時点では、周辺の大国、なかでも中国はそれを望んでいませんでした。 中国にしてみれば、ベトナム全土の共産化によってアメリカの軍事介入を招くことは、まさに、朝鮮戦争の悪夢の再現であり、なんとしても避けたいというのが本音でした。特に、朝鮮戦争の後遺症を癒しつつ、国内の社会主義建設を安定的に進めていくためには、中国の国境沿いに米軍が出現する可能性を排除し、安全保障を確保することが絶対に必要でしたから、インドシナ半島を分割して、アメリカを刺激しない程度の“北ベトナム”という緩衝国をつくることがベストとはいえなくともベターな選択でした。 この結果、1954年7月、インドシナ戦争は停戦協定(ジュネーブ協定)にこぎつけ、ベトナムは北緯17度線を軍事境界線として、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)に分断されます。当時、インドシナ停戦の実現は中国が以降の勝利と喧伝されましたが、その内実は、中国が自国の安全保障のために小国ベトナムに犠牲を強いた結果でしかなかったのです。まぁ、かの国の語る“平和”なんて、所詮はそんなものだといってしまえばそれまでですが…。 さて、試験の答案としては、この切手が第一次インドシナ戦争時のベトナム(共産側)で発行されたものであることを示した上で、①第一次インドシナ戦争の概要について触れる、②第一次インドシナ戦争と東西冷戦の関係を説明する、③第一次インドシナ戦争に対する中ソ、特に中国の思惑を説明する、といった点がポイントになります。 以上で、『反米の世界史』をテキストにした授業の試験問題のうち、切手を題材としたものについての解説はオシマイです。切手以外の、一般的な歴史的事象についての問題に関しては、学生諸君が自分で調べることも可能でしょうから、このブログでの解説は省略します。 なお、明日(4日)には、『中東郵便学』と題する授業の試験もあって、こちらでも切手を使った問題をいくつか出しているのですが、それらの解説については、明後日(5日)以降にこのブログに掲載する予定です。 |
2008-02-02 Sat 11:55
昨日に引き続き、都内の某大学でやっている『反米の世界史』をテキストにした授業の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)と“修正主義”の関係について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。
これは、1963年1月1日、キューバ革命4周年を記念して中国が発行した記念切手の1枚で、戦車を背景に銃を掲げるキューバの兵士が描かれています。 1953年にソ連の独裁者スターリンが亡くなると、後継の共産党書記長となったフルシチョフは、1956年2月の共産党大会で、帝国主義との戦争は不可避としていたスターリンを批判し、米ソの平和共存を打ち出します。 政治的なプラグマティストであったフルシチョフは、スターリン時代に鬱積された国民の不満を政府支持に転換・利用しようとするためにスターリン批判を行ったに過ぎないともいわれていますが、その国際的な影響は大きく、1956年10月から11月にかけて、ハンガリーでは民主化を求める反ソ動乱も発生しています。 ところで、フルシチョフの下で、ソ連が対米宥和路線を打ち出したことは、中国をはじめとするアジアの社会主義諸国からは“変節”ととらえられました。たとえば、中国にすれば、米軍との死闘が繰り広げられた朝鮮戦争の休戦は、わずか3年前のことでしたし、なによりも、アジアでは北ベトナムや北朝鮮などの友邦が、冷戦の最前線として、“アメリカ帝国主義”の脅威に直接さらされていたからです。 この結果、中国は次第に“修正主義”のソ連と距離を置き始め、1957年11月にモスクワで開かれた共産党・労働者党代表者会議では、毛沢東が「東風は西風を圧倒する」「アメリカ帝国主義は張子の虎」などと、ことさらにアメリカとの対決姿勢を鮮明にしました。こうして、中ソの亀裂は決定的なものとなりました。 1962年10月のキューバ危機はこうした状況の中で起こったわけですが、その結果は、アメリカがキューバを侵攻しないことを保証し、トルコのミサイル基地を撤去する代償として、ソ連はキューバのミサイル基地を撤去するというものでした。しかし、アメリカ側の譲歩は当時、公表されなかったため、一般には、キューバ危機は、アメリカの毅然たる態度の前に、ソ連が“一方的な譲歩”をしたことで核戦争が避けられたとの印象を与えることになります。 こうしたソ連の“弱腰”は、自国の安泰のためにキューバという友邦を売り渡したものとして、アジアの共産主義国家に深い失望感を与えることになります。同時に、中ソ間の亀裂は修復しがたいものとなり、アジアでは、キューバの反米闘争を支援するということが“修正主義”とは一線を画すということの裏返しの表現として用いられるようになっていくのです。 今回ご紹介の切手も、そうした文脈で発行されたもので、中国が、ともにアメリカ帝国主義と闘う同志として、キューバのカストロ政権を高く評価していたことの現われとみなすことができます。なお、切手上の「革命的社会主義キューバ万歳」とのスローガンは、“革命的社会主義”という表現を用いて、“修正主義(=ソ連)”とは一線を画していることをアピールしたものと見ることも可能でしょう。 もっとも、当のキューバにしてみれば、ソ連から多額の援助を受けていることもあり、中国に追随してソ連との関係を断ち切ってしまうことは自殺行為にほかならなかったため、中ソ対立の中で微妙な舵取りを余儀なくされます。その結果、こうしたキューバの姿勢は、後に文化大革命に突入した中国から、“修正主義”のソ連と密通するものとして攻撃されることになり、以後、キューバと中国との関係は急速に冷却することになるのです。 試験の答案としては、この切手が、キューバ支持を訴える中国切手であることを明らかにしたうえで、①“修正主義”の内容、②キューバ危機がアジアの共産主義諸国に大きな衝撃となったこと、③キューバ支持が修正主義反対の隠喩となっていること、の3点がきちんと説明できているかどうかがポイントになります。 |
2008-02-01 Fri 14:10
僕の本業はモノ書きですが、そのほかに、現在、都内の大学で週に何度か、パートタイム講師をしています。講義の題目は学校によってさまざまですが、基本的には“切手”から歴史や社会を読み解くという話をしています。 そのうちの『反米の世界史』をテキストに話をしている授業の試験を今日やりましたので、例によって、今日・明日・明後日は、順不同で試験問題の解説をしてみたいと思います。しばし、お付き合いください。
さて、初回の今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)と“スプートニクショック”の関係について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。 これは、1958年に北朝鮮が発行した国際地球年の記念切手で、ソ連を象徴するモスクワのクレムリンから打ち上げられているロケットと、地球を周回する人工衛星が描かれています。 1949年9月、原爆実験に成功し、アメリカによる核兵器の独占体制を崩したソ連は、その後も、1953年8月には水爆実験を成功させ(ちなみに、アメリカの水爆実験は1952年11月です)、1954年までに、アメリカ本土への奇襲攻撃が可能な長距離爆撃機バイソンを開発して、その量産体制に突入していました。 現実には米ソの軍事力には相当の開きがあり、アメリカ政府も、1956年7月から開始したU-2型偵察機によるソ連の偵察(もちろん、領空を侵犯してのことである)の結果、そうした実情を正確に把握していたのですが、U-2型機による偵察は極秘裏に行われたため、偵察の結果は一般国民には知らされず、アメリカ国内では、戦略爆撃機や戦略ミサイルの数において、アメリカはソ連に劣っているという“ボンバー・ギャップ”や“ミサイル・ギャップ”の議論が説得力を持って語られていました。 こうした状況の中で、1957年10月、ソ連は人工衛星スプートニク1号を発射し、地球を周回させることに成功します。 人工衛星を打ち上げるためのロケットは、そのまま、大陸間弾道ミサイル(ICBM)に転用することが可能であり、その弾頭に、人工衛星ではなく核兵器を搭載すれば、地球上のどこからでも敵国を攻撃することができます。したがって、ソ連にしてみれば、アメリカに先んじて人工衛星の打ち上げに成功したことは、軍事的な劣勢を挽回するうえで重要な意味を持つものであり、西側諸国はこれを深刻に受け止めることになりました。これがいわゆる“スプートニク・ショック”です。 当然のことながら、こうした状況は、ソ連を盟主と仰ぐ社会主義諸国にとって非常に好ましいものとして受け止められ、東西冷戦の最前線にあった東ドイツと北朝鮮では、1957年7月から1958年12月までの“国際地球観測年”の名目でスプートニクの成功をたたえる切手(今回の切手はその1枚です)を発行し、ソ連の人工衛星により“アメリカの脅威”が大幅に抑制されたことへの国家としての“感謝”の意を表すことになります。 とはいえ、翌1958年1月には、アメリカも人工衛星人工衛星エクスプローラ一号の打ち上げに成功しており、全体として、ソ連が劣勢に立たされているという状況には大きな変化はありませんでした。こうした情勢を挽回するため、ソ連はキューバへのミサイル配備を検討し始め、そのことがやがて“キューバ危機”へとつながっていくのです。 試験の答案としては、①スプートニク1号が打ち上げられた当時の状況が説明できているか、②西側と東側ではスプートニク1号に対する評価の違いを説明できているか、③この切手が東西冷戦の最前線である北朝鮮によって発行されたものであることを説明しているか、といった点がポイントになります。 |
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
|