2023-12-20 Wed 07:26
『東洋経済日報』2023年12月15日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」では、今回は、尹錫悦大統領のオランダ訪問中の発行でしたので、韓蘭関係に関するマテリアルとして、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、朝鮮戦争中の1951年3月9日、朝鮮に派遣されたオランダ軍の兵士が本国宛に差し出した郵便物です。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 また、朝鮮戦争中の国連軍に参加した各国の状況については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 12月20日(水) 10:00~ ニッポンジャーナル インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がゲスト出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。 12月22日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『龍とドラゴンの文化史』 12月26日発売!★ 辰年にちなんで、中国 の龍を皮切りに、 日本 、朝鮮、琉球、東南アジア、キリスト教世界など、世界の龍について、そのベースとなる文化史や興味深いエピソードなどを切手とともにご紹介します。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★ 『今日も世界は迷走中』 好評発売中!★ ウクライナ侵攻の裏で起きた、日本の運命を変える世界の出来事とは!内藤節炸裂。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-07-28 Sat 04:38
北朝鮮は、昨日(27日)、朝鮮戦争の休戦協定締結から65周年の記念日にあわせて、朝鮮戦争で戦死した米兵の遺骨55柱を米側に返還しました。というわけで、朝鮮戦争に参加した米兵関係のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1950年12月1日、米ヴァージニア州のスタントンから朝鮮に派遣されていた米兵宛に送られたカバーです。当初の宛先は、釜山に置かれていた第59野戦郵便局気付となっていますが、名宛人の所属部隊が38度線を越えて北上したことに伴い、郵便物の宛先も平安南道の黄海に面した粛川(第24野戦郵便局)に変更されています。ちなみに、粛川は、隣接する順川とともに、国連軍が38度線を越えて北上していた1950年10月20日から23日まで、北朝鮮政権首脳と北朝鮮軍主力の退路遮断、平壌付近に拘置されている国連軍捕虜の救出を目的として、大規模な空挺作戦が展開された場所でした。 しかし、郵便物が朝鮮半島に到達したときには、いわゆる“12月の撤退”が始まっていたため、名宛人と彼の部隊は38度線以北から退避。その際、おそらく名宛人も負傷したらしく、郵便物は各地を転々とした後、最終的に、朝霞(第613野戦郵便局)を経て、名宛人が収容されていた第361野戦病院に送られています。 1950年6月25日、朝鮮人民軍の奇襲攻撃によって朝鮮戦争が勃発すると、国連安保理は北朝鮮の南侵を侵略行為と規定し、北朝鮮に対して38度線以北への撤兵を要求。しかし、朝鮮人民軍はこの安保理決議を無視してさらに南侵を続け、6月28日にはソウルを占領しました。 このため、米国大統領・トルーマンは、極東海・空軍に対して、38度線以南の朝鮮人民軍への攻撃を指令。国連安保理も、「北朝鮮の侵攻を撃退するため、加盟国は韓国が必要とする軍事援助を与える」との決議を採択して、米国の軍事介入を追認します。 この時点では、トルーマンは、地上軍を本格的に投入して、朝鮮戦争に全面的に介入すれば、ソ連の介入を招きかねないとして慎重な姿勢を取っていました。 これに対して、日本占領の総司令官として東京にいたマッカーサーは、6月29日、陥落直後のソウルを漢江南岸から視察。本国政府に地上軍の本格的な投入を主張し、このマッカーサー報告を受けて、翌30日、トルーマンも地上軍の投入を決断します。 もっとも、急遽、朝鮮半島に派遣された米国軍第24師団(開戦当時は九州に駐留していました)は準備不足のためもあって、7月5日に行われた烏山の戦闘で北朝鮮側にまさかの敗北を喫してしまいました。こうした状況の中で、7月7日、国連安保理は国連軍の創設を決議し、その司令官の任命をトルーマンに委任。これを受けて、翌8日、マッカーサーが国連軍司令官に就任します。 一方、首都・ソウルを陥落させた朝鮮人民軍は、その後も破竹の勢いで南侵を続け、7月4日には水原(京畿道)を、同20日には大田(当時は忠清南道)を、それぞれ占領。この間、国連軍の創設を受けて、7月13日には米第8軍司令部が横浜から大邱(慶尚北道)に進出したものの、朝鮮人民軍の南侵は止まず、16日に大邱に撤退した韓国政府は、早くも翌17日にはさらに釜山への移転を余儀なくされました。 その後も、朝鮮人民軍は南侵を続け、7月27日には河東・咸陽・安義、30日には晋州(いずれも慶尚南道)を占領。こうした事態を受けて、8月1日、米第8軍司令官のウォルトン・ハリス・ウォーカー中将は、洛東江陣地線への後退を指令。以後、いわゆる釜山橋頭堡(朝鮮半島南東部の馬山=洛井里=盈徳を結ぶ南北153キロ、東西90キロの防御線)の攻防をめぐり、激戦が展開されることになります。 さて、1950年8月初の時点では、戦局は全体として北朝鮮側が圧倒的に有利ではあったものの、すでに北朝鮮の補給能力は限界を超えており、朝鮮人民軍は2度にわたって猛攻をかけたものの、結局、釜山橋頭堡を制圧できませんでした。 一方、国連軍側は緒戦段階から制空権・制海権を掌握していましたが、8月以降、釜山には兵員・物資が続々と陸揚げされていったことで、国連軍は徐々に戦力を回復。こうした状況の中で、国連軍総司令官のマッカーサーは朝鮮人民軍の後背地にあたる仁川への上陸作戦を敢行します。 1950年9月上旬の時点で、北朝鮮の主力は洛東江戦線に集中しており、仁川の防御は手薄になっていたこともあって、マッカーサーの奇襲作戦は見事に成功。1950年9月15日、米国第1海兵師団の1個大隊が仁川市対岸の月尾島に上陸を開始し、国連軍は翌16日までに仁川を奪還してソウルに向けて進撃し、17日には国連軍が金浦空港を奪還しました。 一方、釜山橋頭堡をめぐる洛東江戦線では、米第8軍が仁川上陸に呼応して攻勢に転じ、大邱=金泉=大田=水原のラインに沿って朝鮮人民軍を撃滅する作戦を開始。9月21日以降、退路を絶たれた朝鮮人民軍は総崩れとなりました。 仁川に上陸した米国海兵師団は、ただちにソウルへの進撃を開始し、9月20日には漢江の渡河に成功。激しい攻防戦の後、25日、米軍はようやくソウル西側の高地帯と南山を占領。9月28日にはソウルの奪還に成功し、中央政庁には、ふたたび、太極旗が掲げられました。 国連軍のソウル奪還後、米国政府の内部では38度線を突破するか否か、意見が分かれましたが、最終的に、この問題はマッカーサーの判断に委ねられます。その結果、10月1日、韓国第1軍団が東海岸で38度線を突破すると、マッカーサーは北朝鮮に降伏を勧告。翌2日には国連軍に38度線を越えて北進することを命じました。さらに、7日には国連安保理が国連軍の北進を追認。9日には西部の開城付近で米第1軍団が38度線を突破し、翌10日には韓国第1軍団が東海岸の元山を占領します。 その後も韓国・国連軍は北上を進め、10月17日には韓国第1軍が咸興・興南を、米第1軍団が沙里院を、それぞれ占領。19日には韓国第1軍団が平壌市内に突入し、翌20日までに国連軍が平壌占領を完了しました。その後も韓国・国連軍は北進を続け、10月26日、韓国第6師団の第7連隊が、ついに楚山で鴨緑江に到達しました。 これに対して、北朝鮮国家が潰滅する可能性が出てきたことで、10月8日、中国は「唇滅べば歯寒し」として、朝鮮戦争への参戦を決定。「抗美援朝 保家衛國」をスローガンに中国人民志願軍を派遣します。 国共内戦の経験からゲリラ戦に秀でていた中国側は人海戦術を展開し、銅鑼を鳴らし、ラッパを吹いて、歓声を上げながら波状攻撃を繰り返して国連軍を包囲分断。これにより、国連軍は総崩れとなり、2週間ほどの間に、38度線以南まで後退し、計3万6000名もの損害が発生しました。 これが、いわゆる“12月の撤退”です。 さらに、12月31日、中国側は正月攻勢を発動。このため、韓国・国連軍は再び後退を余儀なくされ、翌1951年1月4日にはソウルを放棄し、平沢=丹陽=三陟を結ぶラインまで撤退しました。 その後、韓国・国連軍はそれまでの正面対決方式を止め、中国側の攻勢が始まってから1週間は緩やかに後退して中国側の食糧・弾薬が尽きるのを待ち、攻勢が弱まった後、相手に補給と休養の隙を与えず、戦車を集中的に用いて反撃する作戦に変更。1951年2月には中国側の攻勢を撃退し、2月20日からは北進に転じ、3月15日にはソウルの再奪還に成功し、月末までに38度線以南の要地を確保しました。 以後、韓国・国連軍は1953年7月の休戦までソウルを確保し続けるものの、戦況は北緯38度線付近で一進一退の膠着状態が続くことになります。 なお、朝鮮戦争と切手・郵便については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-02-16 Fri 01:40
きょう(16日)は旧正月・春節です。というわけで、戌年の正式なスタートですから、干支にちなんでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1952年5月31日、朝鮮戦争に派遣された米兵が清平里から米国宛に差し出された軍事郵便で、“AIR MAIL FROM KOREA”の文言の下、ハチにお尻を刺されて走る犬のイラストが入った印が押されています。印の下部にある“HUBBA HUBBA”は、この場合は、「急いで、すぐに」を意味する米俗語で、朝鮮戦争期の米軍の軍事郵便では、今回ご紹介のような犬のイラストと組み合わせた印がしばしば使われました。 今回ご紹介の郵便物の差出地、清平里はソウル(忘憂)=春川間を結ぶ京春線(韓国鉄道公社)の駅がある場所です。清平里を含む加平郡は、韓国・京畿道の北東部に位置しています。郡域は38度線を南北にまたがっているため、第二次大戦後、朝鮮半島が米ソによって南北に分割占領された際には、清平里を含む郡の大半は米軍政下に置かれたものの、一部はソ連の占領下に置かれました。その後、朝鮮戦争を経て、1953年7月27日の休戦協定の結果、 群全体が韓国領とされ、現在に至っています。 なお、朝鮮戦争と切手・郵便の関係については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取っていただけると幸いです。 ★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は22日!★★ 2月22日(木)16:05~ NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第16回が放送予定です。今回は、前日の21日が国際母語デーということで、この国際デーの由来となったバングラデシュとベンガル語についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ 世界切手展< THAILAND 2018>作品募集中! ★★★ 本年(2018年)11月28日から12月3日まで、タイ・バンコクのサイアム・パラゴンで世界切手展<THAILAND 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不肖・内藤がお引き受けすることになりました。 現在、出品作品を3月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、お待ちしております。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-06-25 Sun 12:10
今年もまた、朝鮮戦争の始まった“ユギオ(韓国語で625の意)”の日がやってきました。というわけで、毎年恒例、朝鮮戦争ネタのなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、朝鮮戦争初期の1950年8月18日、米オハイオ州から釜山宛に差し出されたものの、戦争により、朝鮮宛の郵便物が取扱停止となっていたため差出人戻しとなった葉書です。 1950年6月25日、南侵を開始した北朝鮮の朝鮮人民軍は、3日後の6月28日、首都・ソウルを陥落させた後も破竹の勢いで南侵を続け、7月4日には水原(京畿道)を、同20日には大田(当時は忠清南道)を、それぞれ占領しました。 その後、7月7日、国連安保理が国連派遣軍(以下、国連軍)の創設を決議し、7月13日には米第8軍司令部が横浜から大邱(慶尚北道)に進出したものの、朝鮮人民軍の南侵は止まず、16日に大邱に撤退した韓国政府は、早くも翌17日にはさらに釜山に移転。その後も、朝鮮人民軍は南侵を続け、7月27日には河東・咸陽・安義、30日には晋州(いずれも慶尚南道)を占領します。 こうした事態を受けて、8月1日、米第8軍司令官のウォルトン・ハリス・ウォーカー中将は、洛東江陣地線への後退を指令。以後、いわゆる釜山橋頭堡(朝鮮半島南東部の馬山=洛井里=盈徳を結ぶ南北153キロ、東西90キロの防御線)の攻防をめぐり、激戦が展開されることになりました。今回ご紹介の葉書は、まさに釜山橋頭堡をめぐる攻防戦最中の釜山宛に差し出されたものです。 なお、1950年8月の時点では、戦局は全体として北朝鮮側が圧倒的に有利ではあったものの、すでに北朝鮮の補給能力は限界を超えており、朝鮮人民軍は2度にわたって猛攻をかけたものの、結局、釜山橋頭堡を制圧できませんでした。一方、国連軍側は緒戦段階から制空権・制海権を掌握していましたが、米本土からの弾薬船が釜山に到着するようになったのは8月下旬以降のことで、それまで、第8軍は日本本土に備蓄されていた弾薬で急場をしのがざるをえず、苦境が続いていました。 こうした中で、8月以降、釜山には兵員・物資が続々と陸揚げされていったことで、ようやく国連軍は徐々に戦力を回復。北朝鮮側の戦力が釜山橋頭堡攻略に集中している機会をとらえて、9月15日、国連軍総司令官のマッカーサーは朝鮮人民軍の後背地にあたる仁川上陸作戦を敢行。これにより、戦況は一挙に逆転し、朝鮮人民軍は敗走していくことになります。 なお、朝鮮戦争と関連の切手・郵便物については、拙著『朝鮮戦争』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は29日!★★★ 6月29日(木)16:05~ NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第5回目が放送予定です。今回は、7月1日の香港“返還”20周年を前に、香港にスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-04-10 Mon 11:44
きょう(10日)は、ジョーゼフ・ピュリッツァーの誕生日(1847年)です。今年は、彼の生誕170周年にして、彼の冠した“ピュリッツアー賞”の第1回授賞式が1917年に行われてから100周年ということで、彼の誕生日にあたる今日、授賞式が行われるそうです。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1947年に発行されたピュリッツァー生誕100周年の切手で、彼の肖像と、自由の女神を背景に「我々の共和国と報道は一蓮托生だ」との彼の言葉が取り上げられています。 ピュリッツァー賞にその名を留めるジョーゼフ・ピュリッツァーは、1847年4月10日、ハプスブルク帝国支配下のハンガリー南部のマコーで、ユダヤ人家庭に生まれました。南北戦争中の1864年、米国に移住し、北軍兵士としての従軍経験を経て、1868年、コロンビア大学を卒業します。 その後、ミズーリ州セントルイスでドイツ語の日刊紙『ウェストリッヒ・ポスト』で働き始めるとともに、共和党に参加し、1869年にはミズーリ州議会議員に選出されました。 ちなみに、現在でこそ、米国の民主党はマイノリティの権利を尊重するリベラル派というイメージが定着していますが、これは、20世紀のフランクリン・ローズヴェルト政権以降のことです。一方、共和党は、もともと、1854年に奴隷制反対を掲げ、南部を牙城とする民主党に対抗するために結成されたという経緯もあって、19世紀の時点では、民主党に比べると、人種間の平等という点でははるかにリベラルな立場を取っていました。 さて、州議会議員としてセントルイスでの社会的な地歩を固めたピュリッツァーは、1872年、3000ドルで『ウェストリッヒ・ポスト』を買収。さらに、1878年には、ライバル紙の『セントルイス・ディスパッチ』を2700ドルで買収し、2紙を統合して『セントルイス・ポスト・ディスパッチ』を創刊し、セントルイスのメディアを牛耳る存在となります。 ローカル紙で成功を収めたピュリッツァーは、全米制覇の足掛かりとして、“泥棒男爵”ことジェイ・グールドが所有していた『ニューヨーク・ワールド』(以下、『ワールド』)紙に目をつけます。当時、米国内の鉄道を盛んに買収していたグールドにとって、年間4万ドルの赤字を垂れ流していた『ワールド』の売却話は渡りに船でしたから、1883年、同紙は34万6000ドルでピュリッツァーに売却されました。 『ワールド』を買収したピュリッツァーは、1833年に創刊の『ニューヨーク・サン』が大衆向けに犯罪報道や、自殺、死去、離婚といった個人的事件を報道して成功していたことに倣い、よりセンセーショナルなスキャンダル中心の編集方針を掲げます。彼の狙いは見事に当たり、1883年に1万5000部しかなかった『ワールド』の部数は、1885年には米国最大の60万部にまで急増しました。 『ワールド』の躍進を支えた名物記者としては、1887年に入社した女性記者のネリー・ブライ(本名:エリザベス・ジェーン・コクラン。ユダヤ人ではなくアイルランド系)が有名です。彼女は、患者を装ってブラックウェル島の女性精神病院に潜入し、秘密を調査し暴露したほか、1888年にはジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』をモデルとして実際に世界一周リポートを行うなど、当時としては斬新な企画で多くの読者を獲得しました。 米国一の新聞王となったピュリッツァーは、1892年、母校のコロンビア大学に世界初のジャーナリズム・スクールを設立する資金の提供を申し出ましたが、当時の学長セス・ロウはこれを拒絶しています。生真面目な学者のロウからすれば、ユダヤ人で、なおかつ“いかがわしい新聞”の発行者からの資金など受け取れないということだったのでしょう。ちなみに、ピュリッツァーの資金でコロンビア大学にジャーナリズム大学院が設立されるのは、彼が亡くなった後の1912年のことでした。 さて、1895年2月17日、それまで雑誌『トゥルース』に連載されていたリチャード・F・アウトコールトの漫画『ホーガンズ・アレイ』が、『ワールド』に場所を移して連載スタートします。『トゥルース』での『ホーガンズ・アレイ』はモノクロの不定期連載でしたが、『ワールド』では同年5月5日からカラー版が掲載されるようになり、ニューヨークではその人気が沸騰しました。 ところが、ほぼ時を同じくして、1895年に『ニューヨーク・ジャーナル』紙(以下、『ジャーナル』)を買収したアイルランド系プロテスタントのウィリアム・ランドルフ・ハーストは、同紙の目玉として、アウトコールトを引き抜き、『ホーガンズ・アレイ』は主人公のイエロー・キッドにちなんで『イエロー・キッド』と改題されて『ジャーナル』での新連載が始まりました。 人気のコンテンツを横取りされた格好のピュリッツァーは、対抗措置として、画家ジョージ・ラックスにイエロー・キッド漫画の新シリーズを書かせ、連載を継続します。この結果、イエロー・キッドの漫画が競合2紙で同時に連載されるという前代未聞の事態となりました。 三流新聞を揶揄していう“イエロー・ペーパー”との表現は、『ワールド』と『ジャーナル』が、いずれもセンセーショナルな記事を特徴とした大衆紙だったことにくわえ、イエロー・キッド漫画を掲載していたことに由来するものです。 ちなみに、イエロー・ペーパーに対して、“クオリティ・ペーパー”の筆頭とされることの多い『ニューヨーク・タイムズ』ですが、1851年創刊の同紙は、1896年、『チャタヌーガ・タイムズ』紙の経営者でユダヤ系移民2世のアドルフ・オークスによって買収されています。 生粋の新聞人として、『ワールド』と『ジャーナル』のイエロー・ペーパー戦争を苦々しく思っていたオークスは、「恐怖や好みに陥らない、公平なニュースを届ける」ことを編集方針の基本とし、1897年からは新聞の第一面に“All The News That's Fit To Print(印刷に値するニュースのすべてを)”とのスローガンを掲げ、『ワールド』や『ジャーナル』に対して真っ向から勝負を挑みました。 オークスは、資金的には必ずしも余裕があるわけではなかったにもかかわらず、広告も内容も吟味して不良スポンサーを排除し、料金も一部3セントから1セントに値下げします。そのうえで、質の高い編集方針を維持することで、1年で部数を3倍に延ばし、現在の同紙の基礎を築きました。 一方、イエロー・ペーパーとしての『ワールド』と『ジャーナル』の熾烈な競争は、やがて、1898年の米西戦争につながっていきます。 スペイン領だったキューバの地主たちの間では、19世紀を通じて製糖業と米国市場との結びつきが深まっていくにつれ、米国への統合を望む声も高まっていきましたが、1890年代半ばまでの米政府は、ヨーロッパの植民地主義に対する国民の嫌悪感に加え、いずれスペインはキューバを売却するものと確信していたこともあり、武力によってキューバを併呑することには否定的な態度をとりつづけていました。 こうした背景の下で、1895年4月、ホセ・マルティを指導者とする独立戦争(1868-78年の独立戦争と区別して第二次独立戦争ということもある)が勃発。マルティは「米国に統合してもキューバ人は幸せにならない」と主張してキューバ革命党を結成したカリスマ的人物でしたが、開戦早々に戦死してしまいます。しかし、その後もキューバ人による独立運動は粘り強く続けられ、マクシモ・ゴメス将軍ひきいる独立軍はスペイン軍をあと一歩のところまで追い詰めるところまでこぎつけました。 キューバの独立戦争がはじまると、米国内では、『ワールド』と『ジャーナル』は、スペインの“暴政”をセンセーショナルに取り上げ、自由を求めて戦うキューバ人を救い、米国の権益(米国はキューバの砂糖農場に莫大な投資をしていました)を擁護するためにも、スペインを討つべしとの世論を誘導します。 こうした状況の中で、1898年2月、ハバナ港に停泊中の米戦艦メイン号が爆発し、将兵ら266名が亡くなる事件が発生。現在では、爆発はメイン号の内部機関のトラブルによるものとの説が有力となっていますが、このことが明らかになるのはずっと後のことで、当時の『ワールド』と『ジャーナル』は、事件をきっかけに、より強烈な反スペイン・キャンペーンを展開しました。 「風景は散文詩にしかならない。キューバに戦争はない」と報告してきた特派員からの電報に対して、ハーストが「君は散文詩を提供せよ。僕は戦争を起こす」と返電したというエピソードは、映画『市民ケーン』にも採用されていますから、ご存じの方も多いかと思いでしょう。 案の定、加熱するキャンペーン報道に煽られた米国の世論は「メイン号を忘れるな」のスローガンとともに沸騰。4月25日、米国政府は、ついに、スペインに対して宣戦を布告し、米西戦争が勃発。戦争の結果、キューバは米国の勢力圏に組み込まれることになります。 このように、米西戦争は新聞が誘導した戦争として、メディアの歴史において特筆すべき出来事ですが、その一端を、ユダヤ人のピュリッツァーが経営する『ワールド』が担っていたということは、後に、“メディアを牛耳るユダヤ人”というイメージが形成される一因になったのではないかと思います。 なお、米西戦争については、拙著『反米の世界史』でも、まとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” スタート! ★★★ 4月13日(木)から、NHKラジオ第1放送で、隔週木曜日の16時台前半、内藤がレギュラー出演する「切手でひも解く世界の歴史」スタートがします。初回は、13日がタイの水かけ祭“ソンクラーン”の日なので、16:05から、タイの切手のお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2016-06-05 Sun 13:56
早いもので、5月28日から始まった世界切手展<NEW YORK 2016>は、昨日(4日・現地時間)、無事に終了しました。先ほど、現地時間で日附が変わった頃に作品とメダルのピックアップも終了し、本日のフライトでニューヨークを発ちます。というわけで、無事の帰国を願って、毎度恒例、2都市間のエアメールの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1947年のパンアメリカン航空(以下、パンナム)の世界周遊飛行によるニューヨーク=東京間の初飛行カバー(FFC)で、1947年9月26日にニューヨークを出発し、10月3日に東京に到着しています。 パンナムの世界周遊飛行は、サンフランシスコを出発してホノルル→東京→香港→バンコク→デリー→ベイルート→イスタンブル→フランクフルト→ロンドン→ニューヨークというルートの001便と、ニューヨークを出発して逆回りでサンフランシスコにいたる002便がありますが、今回は、ニューヨーク発の002便のカバーを持ってきました。ついでですので、9月27日に東京を発ち、10月3日にニューヨークに到着した001便のカバーの画像も下に貼っておきましょう。 さて、今回の切手展では、コミッショナーの吉田敬さん、アシスタント・コミッショナーの池田健三郎さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、いろいろと実りの多いニューヨーク滞在となりました。その成果につきましては、追々、皆様にもご報告して参りますが、まずは、現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。 なお、あす(日本時間で6日)の午後には、成田に到着の予定です。無事に帰国しましたら、すぐにそのまま、平常通り仕事をするつもりですので、内藤の不在によりご不便・ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、今しばらくお待ちくださいますよう、伏してお願い申し上げます。 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★ 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 2350円+税 【出版元より】 若く美しい女王の横顔に恋しよう! 世界最初の切手 欲しくないですか/知りたくないですか 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 2000円+税 【出版元より】 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-02-02 Tue 21:58
米大統領選での民主、共和両党指名候補争いの初戦となるアイオワ州の党員集会が、現地時間の1日夜(日本時間2日午前)、行われ、大統領選挙が本格的にスタートしました。というわけで、手持ちのマテリアルの中から、アイオワ州の消印が伊されたカバーをご紹介します。
これは、1950年7月21日、アイオワ州バーリントンから広島県の江田島(軍事郵便局:APO354 のアドレスから特定できます)に駐留していた米軍兵士宛に差し出された郵便物です。その後、朝鮮戦争の勃発に伴い、名宛人が“国連軍”の一員として韓国に派遣されたため、この郵便物も、彼の移動に伴い、横浜(APO503)を経て、大邱(APO25)に転送されています。 1950年6月25日、朝鮮人民軍の奇襲攻撃によって朝鮮戦争が勃発すると、国連安全保障理事会は、開戦翌日の6月25日午後2時(国連本部のあるニューヨーク時間。韓国時間では26日午前2時)、北朝鮮の南侵を侵略行為と規定し、北朝鮮に対して38度線以北への撤兵を要求しました。しかし、朝鮮人民軍はこの安保理決議を無視してさらに南侵を続け、6月28日にはソウルを占領します。 このため、米国大統領・トルーマンは、極東海空軍に対して、38度線以南の朝鮮人民軍への攻撃を指令。国連安保理も、「北朝鮮の侵攻を撃退するため、加盟国は韓国が必要とする軍事援助を与える」との決議を採択して、米国の軍事介入を追認しました。朝鮮人民軍がさらに南下を続けると、7月7日、国連安保理は“国連軍”の創設を決議し、その司令官の任命をトルーマンに委任。これを受けて、翌8日、日本占領の司令官として東京に駐在していたマッカーサーが司令官に就任しました。 これら一連の決議は、ソ連が欠席した安保理(当時のソ連は、中華人民共和国を“中国”として国連への代表権を与えるように主張し、それが否決されたことに抗議して安保理への出席を拒否していました)で採択されたことにくわえ、“国連軍”の派兵も、厳密には、国連憲章の定める手続きに則ったものでもありませんでした。 すなわち、国際連合憲章の第7章は、平和に対する脅威に際して、軍事的強制措置をとることができると定められていますが、その兵力は、あらかじめ安保理と特別協定を結んでいる加盟国が、安保理の要請を受けて提供することになっています。しかし、朝鮮戦争の時の事例も含めて、これまで、国連と兵力提供協定を結んでいる国はありませんので、国連憲章に基づき、安保理が指揮するという、厳密な意味での“国連軍”が組織されたことはこれまで一度もないということになります。したがって、朝鮮戦争への派遣部隊も、参加国の自由意思に基づく“多国籍軍”というのが正確な言い方です。 ただし、北朝鮮の侵略を阻止するための派兵に際して、国連は、国連軍司令部の設置や国連旗の使用を許可しているだけでなく、当時の国連加盟59ヵ国のうち、“国連軍”の派遣に賛成したのは52ヵ国と圧倒的多数を占めていました。また、米国以外にも計15ヵ国(このほか、病院船のみ派遣のデンマークや当時は国連未加盟で赤十字のみ派遣したイタリアなどの国もあります)が兵員を派遣しています。 こうしたことから、国連旗の下に朝鮮に派遣された多国籍軍は、当時の国際世論を反映した、事実上の“国連軍”とみなしても問題はないといえましょう。 なお、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 講座のご案内 ★★★ 2月9日(火)から、毎月第2火曜の19時より、東京・竹橋の毎日文化センターで新講座「宗教で読む国際ニュース」がスタートします。都心で平日夜のコースですので、ぜひ、お勤め帰りに遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 2350円+税 【出版元より】 若く美しい女王の横顔に恋しよう! 世界最初の切手 欲しくないですか/知りたくないですか 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 2000円+税 【出版元より】 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-03-10 Tue 12:41
1945年3月10日の東京大空襲から、きょう(10日)でちょうど70年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦中、米軍が日本本土への空襲に先立ち、攻撃対象の都市に対して空中から散布した“空襲予告”の伝単の残品に、戦後、米国切手を貼って消印を押して作った記念品です。 米軍による日本本土への空襲は、1942年のドゥーリットル空襲が最初ですが、1944年7月のサイパン陥落後、同島のマリアナ基地から発進した米軍機による日本本土への空襲は本格化します。特に、同年10月のレイテ沖海戦で日本海軍が事実上壊滅状態に陥った後は、京都・奈良などの例外を除き、北は北海道の釧路・帯広から南は西之表にいたるまで、終戦までの10ヶ月間にわたって全面的な本土空襲が連日行われました。 東京に関しては、1944年11月14日以降、終戦まで106回の空襲を受けていますが、被害が大きかったのは、1945年2月26日、28日、3月10日、4月13日、5月24日、25-26日の空襲です。中でも、1945年3月の東京大空襲は、東京・下町地区に壊滅的な打撃を与え、死者10万人以上、罹災者100万人以上という犠牲は、空襲としては史上最大規模の大量虐殺とされています。 なお、今回ご紹介の伝単の裏面は下の画像のような文章が印刷されています。画像の下に、文面を書き起こしておきましょう。(一部の漢字は新字体になっていますが、ご了承ください) 此のビラを皆様に投下する目的は皆様の住んで居られる都市が米空軍の次の攻撃目標として選ばれたことをお知らせする為です。此のチラシを投下してのち七十二時間以内即ち三日以内に爆撃を開始します。更に此のことを爆撃に先立ってお知らせする理由は日本軍部當局に充分な余裕時間を與へ皆様を我が空襲から護る為に必要な防禦措置を講ずるやうにさせる為であります。 皆様軍部がどんなに無力であるかと云ふことを見て居て下さい。 私達は日本の軍部が米國の確固たる戰爭遂行の決意や壓倒的攻撃を阻止することが出来ないのを知って居りますから はつきり私達の攻撃計画を通知して置くのです。 私達は軍部がどんなに無力であるか云ふことを皆様にお知らせしたいのです。 出鱈目な無茶な行動を採って 皆様を壊滅の窮地にまで陥し入れた軍部に盲目的に附いていく限り市から市へと猛烈な空襲を敢行して組織的に破壊して行くより外に途はないのです。 此の呪はしい軍部を倒すのは今です。 これこそ日本を救ふ唯一の道なのです。 非戦闘員の皆様は直ちに避難して下さい。 (転載終わり) ちなみに、日本政府は、サンフランシスコ講和条約により空襲被害に対する賠償請求権を放棄していますが、1945年3月10日の東京大空襲に関しては、都市としての東京そのものの殲滅するため、非戦闘員である多くの市民をも標的にした無差別爆撃が行われていることから、広島・長崎への原爆投下同様、戦争犯罪ではないかとの指摘もなされています。このため、2007年には、東京大空襲の無差別攻撃はハーグ陸戦条約3条違反として、いわゆる東京大空襲訴訟も起こされましたが、2013年5月9日、最高裁が原告側の上告を棄却し、原告側の全面敗訴が確定しています。 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 毎月1回(原則第1火曜日:3月31日、4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。(下の青い文字をクリックしていただくと、よみうりカルチャーのサイトに飛びます) ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 次回開催は3月31日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 3月25日発売! ★★★ 税込2160円 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 本書のご注文はこちら(出版元の予約受付サイトです)へ。内容のサンプルはこちらでご覧になれます。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2013-07-19 Fri 22:16
米国ミシガン州のデトロイト市が、現地時間の18日、連邦破産法9条の適用を申請し、財政破綻しました。同市の長期債務は約185億ドルと見られており、米地方自治体の財政破綻としては過去最大規模となります。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1951年に米国で発行された“キャデラックのデトロイト上陸250年”の記念切手で、切手発行時のデトロイトの街並みを背景に、キャデラックの上陸場面を描いています。ちなみに、GMの高級車“キャデラック”は、彼にちなんで命名されました。 デトロイト市の歴史は、1701年7月24日、毛皮商人のアントワン・キャデラックが上陸したことから始まります。地名は、フランス語で海峡を意味する“デトロワ(détroit)”に由来していますが、これは、北米五大湖のヒューロン湖からセントクレアー湖を介し、エリー湖までつなぐ川を、当初入植したフランス人が海峡に見立てたことによるもので、1760年、英国による占領に伴い、フランス語を英語読みした“デトロイト”が地名となりました。 19世紀にはいると、五大湖沿岸を結ぶ汽船の発達により、デトロイトは水上交通の拠点として発展。さらに、1901年にヘンリー・フォードが世界初の自動車大量生産ラインをこの地に設置したほか、GM、クライスラーが本拠地を構え、自動車産業の一大中心地として発展することになりました。また、交通信号機やフリーウェイ、大規模な駐車場を備えた郊外のショッピング・センターなど、自動車生活に欠かせない施設・設備は、いずれも、デトロイトが米国における発祥の地となっています。 デトロイト市の人口のピークは1970年の約150万人でしたが、一般に、都市として最も勢いがあったのは、今回ご紹介の切手が発行された1950年代初頭だったといわれています。しかし、1970年代以降、安くて高品質の日本車メーカーによる攻勢が本格化したことに加え、金融危機によるGM、クライスラーの破綻と不況が致命傷になり、経済規模が縮小。それに伴い、治安が悪化して若年労働者が流出し、不動産価格も大幅に下落して、税収が激減し、ついに自治体としての財政破綻にいたってしまったというわけです。 まぁ、栄枯盛衰は世の習いとはいえ、子供の頃、デトロイトの自動車工場がいかにすごいかという話を聞かされて育った世代としては、やはりさびしい話ですな。 ★★★ 内藤陽介の次回作(予告) ★★★ ★★★ 内藤陽介の最新作 ★★★ 『マリ近現代史』 北アフリカ・マリ共和国の知られざる歴史から混迷の現在まで、 切手・絵葉書等で色鮮やかに再現したオールカラーの本格的通史! amazon、e-hon、hontoネットストア、Honya Club、JBOOK、7ネット・ショッピング、紀伊國屋書店、版元ドットコム、ブックサービス、文教堂、丸善&ジュンク堂書店、楽天ブックスなどで好評発売中! ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★ 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。開催日は7月30日、9月3日(原則第1火曜日)で、時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2013-06-25 Tue 14:15
今年もまた、朝鮮戦争が始まった“ユギオ(韓国語で625の意)”の日がやってきました。というわけで、毎年恒例、朝鮮戦争ネタの中から、先日世界遺産に指定された北朝鮮南西部“開城市周辺の史跡群”にちなんで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、朝鮮戦争さなかの1951年9月、韓国・国連側の最前線である汶山と休戦交渉の行われていた開城をヘリコプターで往来した後、米国宛に送られたカバーです。 1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争は、1951年春には完全に膠着状態に陥り、1951年5月中の韓国・国連軍の損害は3万5770名(うち米軍は1万2293名)、共産軍側は推定8万5000名にものぼりました。 こうした消耗戦が続く中で、米国は、はやくも5月16日の国家安全保障会議で休戦実現の方針を固め、当時の最前線を維持したうえで、「38度線に沿う線での休戦」にむけて国連加盟諸国への根回しをはじめることになります。一方、中国・北朝鮮の後見役でもあったソ連は、米国との全面対立を阻止するためにも、中国に対して交渉のテーブルにつくことを求めていました。また、中国も人民志願軍の派遣が大きな負担となっており、ソ連からの支援が得られない以上、戦争継続は困難な状況に追い込まれていました。 このように、関係諸国の事情が絡み合う中で、6月23日、国連安保理でソ連代表のマリクが休戦を提案。中国がこれに同意するかたちで、7月10日から開城で休戦交渉が開始されました。 開城は、北朝鮮南西部の都市で、北緯38度線からみるとわずかに南に位置しています。第二次大戦後、米ソ両軍が朝鮮半島を分割占領した際には、米軍の占領下に置かれ、1948年の大韓民国成立時には韓国の領内にありましたが、朝鮮戦争がはじまると、国連軍が半島のほぼ全域を解放していた時期を除き、おむね、開城は共産側の占領下に置かれます。そして、休戦会談が始まったときも、両軍の前線の中間にあったとはいえ、共産側の支配下にありました。なお、休戦交渉の開始に伴い、開城は中立地帯とされ、休戦後は、正式に北朝鮮領内に編入されています。 当初、国連軍側は、1ヵ月程度で交渉は妥結するものと楽観視していましたが、会談は議題の設定をめぐって最初から難航。①議題の採択、②非武装地帯の設定と軍事境界線の確定、③停戦と休戦のための具体的取り決め、④捕虜に対する取り決め、⑤双方の関係各国政府に対する通告、という5項目を議題とすることが決定されたのは7月26日のことでした。 その後も、軍事境界線は、現在の勢力圏の北側にすべきとする国連側と、あくまでも38度線にすべきとする共産側との溝は埋まらず、交渉はただちに暗礁に乗り上げます。そして、8月22日、共産側は、国連軍機による開城上空の侵犯を理由に会談の打ち切りを通告。以後、10月25日に板門店に場所を移して会談が再開されるまで、会談は中断されました。 なお、新たに会談場となった板門店は、ソウルと新義州(朝鮮半島北西部の中朝国境の都市)を結ぶ京義街道の一寒村で、北緯38度線の南方5キロ、北朝鮮・開城市の東方9キロの地点、現在の休戦ライン上の西端に位置しています。ちなみに、ソウルからは北西に62キロ、平壤からは南方に215キロ、それぞれ離れています。 休戦会談が行われるようになった当初、この地は、パンムンジョムではなく、ノルムンリと呼ばれていました。当初の会談場所は、現在、テレビなどでおなじみの“板門店”と呼ばれている場所から約1キロ北側に位置しており、周辺には、草屋4棟の他は、会談場として使われたプレハブ2棟、簡易式の宿舎3棟しかなかったそうです。 その後、会談場が現在の地点に移された際、この会談に参加する中国の代表の便宜をはかり、会談場近くの雑貨店を漢字で「板門店」と表記したことから、この名が定着したそうです。 さて、10月25日に板門店で再開された休戦会談は、紆余曲折の末、11月27日になって「現在の接触線を基にする」との国連側の主張に沿って、「議題の採択」に次ぐ第2の議題(実質的な第1議題)であった「非武装地帯の設定と軍事境界線の確定」の問題が妥結。この間、中国・北朝鮮側は、占領地域で大規模な陣地を構築。全戦線で塹壕を掘り、西海岸と東海岸を結ぶ220キロにもおよぶ巨大な洞窟陣地を作り上げています。 その後も、第3の議題であった「停戦と休戦のための具体的取り決め」や第4の議題であった「捕虜に対する取り決め」などをめぐり、会談は紛糾が続き、1953年7月に休戦協定が調印されるまで、1076回にも及ぶ会談が延々と繰り返されました。 ちなみに、朝鮮戦争と当時の切手や郵便物については、以前、拙著『韓国現代史』でもいろいろとご紹介したことがあります。同書の刊行からはすでに5年が経過し、今回ご紹介のカバーを始め、その後に入手したマテリアルもいろいろありますので、そろそろ改訂版を出したいのですが…。 ★★★ ラジオ出演のご案内・今晩です! ★★★ 6月25日 24:00-24:45(正確には、26日00:00-00:45) TBSラジオ/AM 954kHz 荻上チキ・Session-22 上記番組に生放送出演して、切手から見る国際関係や歴史といった類の話をすることになりました。番組そのものは25日22:00スタートですが、僕自身は日付変更線をまたいでからの登場予定です。 聴取可能な地域の方は、ぜひ、お聞きください。 ★★★ 内藤陽介の最新作 ★★★ 『マリ近現代史』 北アフリカ・マリ共和国の知られざる歴史から混迷の現在まで、 切手・絵葉書等で色鮮やかに再現したオールカラーの本格的通史! amazon、e-hon、hontoネットストア、Honya Club、JBOOK、7ネット・ショッピング、紀伊國屋書店、版元ドットコム、ブックサービス、文教堂、丸善&ジュンク堂書店、楽天ブックスなどで好評発売中! ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★ 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。開催日は7月2日、7月30日、9月3日(原則第一火曜日)で、時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2013-01-16 Wed 12:09
「愛のコリーダ」「戦場のメリークリスマス」などで知られる映画監督の大島渚さんが、きのう(15日)、亡くなりました。享年80歳。謹んでご冥福をお祈りします。というわけで、「戦場のメリークリスマス」にちなんで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、朝鮮戦争休戦後の1953年12月、中立国停戦監視委員会のメンバーがスイス宛に差し出した葉書です。葉書には“Pnmunjom(板門店)”という差出地の書き込みがあり、差出の日付は12月6日です。その後、翌7日にアメリカの野戦局を経て、スイスまで届けられました。文面には、クリスマスと新年を祝う文言として、“Weihnachtsfest und ein glückliches Neues Jahr”とも書き込まれており、まさに“戦場からのメリークリスマス”というわけです。なお、絵葉書の絵面は下の画像のような感じで、クリスマスとは全く関係ありませんでした。 1953年7月27日、朝鮮戦争の休戦協定が調印されたことを受けて、板門店内には、同年10月以降、“中立国監視委員会”と“軍事停戦委員会”の本会議場が設置され、停戦協定遵守の監視を行うことになりました。なお、軍事停戦委員会の本会議場は韓国(国連)側、中立国監視委員会は北朝鮮側の施設となっています。 中立国停戦監視委員会は、スイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4ヵ国で構成されていました。このうち、チェコスロバキアとポーランドは(少なくとも形式的には)朝鮮戦争に関しては中立という立場を取っていましたが、1955年にワルシャワ条約機構に加盟したため、名実ともに中立国ではなくなりました。なお、両国の共産主義政権は1989年の革命で崩壊しましたが、いずれも1999年に北大西洋条約機構(NATO)に加盟したため、再び“中立国”ではなくなり、さらに、現在では両国とも委員会そのものから脱退。現在の委員会メンバーはスイスとスウェーデンだけになっています。 朝鮮戦争と郵便に関しては、以前、拙著『韓国現代史』でもある程度まとめてご紹介したことがあるのですが、今回ご紹介の葉書も含め、同書の刊行後に入手したマテリアルもいろいろありますので、そろそろ、アップグレード版を作りたいと思っています。ことしは朝鮮戦争の休戦から60周年という節目の年でもありますし、なんとか実現したいですね。 ★★★ テレビ出演のご案内 ★★★ テレビ朝日 2013年1月19日(土) 18:30~ 「雑学家族」 今回は「郵便」の特集で、内藤がゲスト出演して“切手の面白さ”をウンチクとともにお話します。ご視聴可能な地域の皆様は、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。なお、放送番組の常として、大事故・大事件など突発的な事情により、番組の内容・放送時間等が変更になる可能性もありますが、予めご了承ください。(番組HPはこちらです) ★★★★ 第1回ヨーロッパ切手展のご案内 ★★★★ 今月19・20日(土・日)の両日、東京・目白駅の切手の博物館にて「第一回ヨーロッパ切手展」が開催されます。今回のお題は“黒海”で、内藤も、北カフカース(コーカサス)を題材としたミニ・コレクションを展示します。競争展ではないので、テーマティクないしは郵便史の作品としてルールに沿ってきっちりまとめたものというよりも、北カフカースに関するマテリアルをいろいろとご紹介するという気楽な内容です。僕以外のコレクションはかなり見ごたえのある内容になっておりますので、よろしかったら、ぜひ遊びに来ていただけると幸いです。 【世界切手展BRASILIANA 2013のご案内】 僕が日本コミッショナーを仰せつかっている世界切手展 <BRASILIANA 2013> の作品募集要項が発表になりました。国内での応募受付は2月1―14日(必着)です。詳細はこちらをご覧ください。 ★★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★★ 『喜望峰:ケープタウンから見る南アフリカ』 いままでなかった喜望峰とケープタウンの物語 美しい風景とウンチク満載の歴史紀行!! アマゾン、セブンネット、版元ドットコム、楽天ブックス、e-hon、hmv、honto、JBOOK、livedoor BOOKSなどで好評発売中! なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したい、という方は、是非、ご連絡ください。資料を急送いたします。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-07-17 Tue 21:27
20世紀を代表するハモンド・オルガン奏者の一人で、英国のロックバンド、ディープ・パープル等で活躍したジョン・ロードさん(以下、敬称略)が、きのう(16日)、肺の塞栓症のため亡くなりました。享年71歳。謹んでご冥福をお祈りいたします。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1950年、米シカゴで使われたメーター・スタンプで、ハモンド・オルガンの広告が入っています。 ハモンド・オルガンは、トーンホイール(波の刻まれた金属製の円盤)を回転させて、ホイール近くに設置されたマグネティック・ピックアップにより磁界変化の波を音源として出力する電子オルガンの一種で、1934年にローレンス・ハモンドが発明しました。それ以前のパイプを用いるパイプ・オルガンに比べてはるかに軽量かつ小型で、運搬が容易なため、どこでも正確な音程で演奏できるという画期的なオルガンでしたが、当初はパイプを使わないということで“オルガン”とは認めない人もあったようです。このため、シカゴ大学のホールで聴衆を集めてパイプオルガンとハモンドオルガンを演奏し、ブラインド・テストを行った結果、“オルガン”として認められたという経緯があります。その意味では、今回のメータースタンプの局名がシカゴというのは、ハモンドオルガンの歴史を考えるうえで、まさにふさわしいと言えましょう。 さて、ハモンド・オルガンはパイプオルガンに比べて安価でもあったことから、黒人居住区の教会に普及し、ゴスペル音楽には欠かせない存在となり、ジミー・スミスのような名演奏家が多数現れました。きのう亡くなったジョン・ロードも、ジミー・スミスの演奏を聴いて、クラシック・ピアノから転向したといわれています。 1949年、米フェンダー社が世界初のソリッド・ボディーのエレクトリック・ギターとしてエスクワイヤーを発表。続いて、フェンダーは1950年にブロードキャスター(現テレキャスター)、1951年に世界初のエレクトリック・ベースとしてプレシジョン・ベースを発表。さらに、1952年にはギブソン社がソリッド・モデルのレスポールを発売するなど、電気楽器の登場により、音楽演奏の環境が大きく変わっていく中で、ハモンド・オルガンはさまざまなジャンルの音楽に使用されるようになりました。 1960年代後半に活躍したディープ・パープルは、オルガン奏者のジョン・ロードとギタリストのリッチー・ブラックモアが対等に渡り合う演奏スタイルで多くのファンを魅了しましたが、なかでも、彼らの代表曲の一つ「ハイウェイ・スター」は、クラッシック音楽の要素をロックに大胆に取り込んだという点で、音楽史上に大きな位置を占める存在となっています。特に、曲の中盤で演奏されるジョン・ロードのソロ・プレイは、バッハのコード進行を引用していることでも有名で、ハモンド・オルガンの名演奏のひとつといってもよいでしょう。 その後、1970年代後半になると、シンセサイザーの普及により、ハモンド・オルガンは急速に衰退していくことになりますが、その音色は、ジョン・ロードの名演とともに、ひとつの時代を象徴するものとして今後も語り継がれていくものと思われます。 あらためて、ジョン・ロードさんのご冥福をお祈りいたします。 ★★★ 内藤陽介・韓国進出! ★★★ 『韓国現代史』の韓国語訳、出ました 우표로 그려낸 한국현대사 (切手で描き出した韓国現代史) ハヌル出版より好評発売中! 米国と20世紀を問い直す意欲作 우표,역사를 부치다 (切手、歴史を送る) 延恩文庫より好評発売中! *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-03-12 Mon 23:18
きのう(11日)行われた政府主催の東日本大震災追悼式で、台湾代表に献花の機会を与えないという信じがたい非礼があったそうです。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦中のアメリカで作られた“愛国カバー”のひとつです。 日本人の感覚からすると違和感がありますが、アメリカ人の中には、さまざまな宣伝内容のイラストや文面の入った封筒を私信などに用いる人が少なくありません。ここで、宣伝の対象となっているのは、新商品やイベントの案内などにとどまらず、政治的な主義主張にいたるまで、実に多種多様ですが、特に戦時下において、戦意を高揚させ、愛国心を鼓舞する目的で制作・使用されるものは、愛国カバーと呼ばれることがあります。 愛国カバーの歴史は古く、既に南北戦争時には本格的に使われており、近年のアフガン戦争やイラク戦争にいたるまで、さまざまな戦争でさまざまな種類のものが作られ、使われています。 今回ご紹介のモノは、「地位または任務から解任する」または「退去させられる、いなくなる」を意味する“Kicked Out!”の表示の下に、文字通り、蹴飛ばされた格好の東條英機のイラストを描いており、その下に東條のセリフと思しき「本当にごめんなさい」を意味する“So Sorry!”の文言が書かれています。 昨年の東日本大震災に際して、台湾からの義捐金は官民合わせて約200億円と世界トップクラスであり、一般国民の多くは台湾の人たちの善意に心から感謝しています。しかし、日本の現政権は、そうした一般国民の気持ちを踏みにじるかのように、台湾を粗略に扱い続けているのが現状です。 その背景には、目先の経済的利益等のため、大陸の共産政権に阿り、彼らの主張する「一つの中国」論なる荒唐無稽なデタラメに追従している人々が日本の指導層に少なからず存在しているという事情があるのは言うまでもありません。 もちろん、震災に際して大陸からの支援がなかったとは言いませんし、そのことに感謝の意を表することには僕もやぶさかではありません。しかし、その規模は台湾とは比べ物にならないほど小さいわけですし、なによりも、彼らがわが国に向けて核兵器の照準を合わせ、わが国の領土である尖閣諸島に対する軍事侵略の意図を隠そうとしない国だという厳然たる事実を考えるなら、彼らの“支援”を無邪気に受け止める気にはなれないというのが正直な気持ちです。 きょう(12日)の衆院予算委員会で、今回の一件を追及された野田総理は、「本当に申し訳ない。行き届いていなかったことを深く反省したい」と陳謝したそうですが、これまでの民主党政権の媚中外交をいやというほど見せつけられてきた一国民としては、今回の一件についても、単なるミスではなく、確信犯的な悪意を感じますな。 そういう意味でも、今回ご紹介のカバーの文言にあるように、台湾の皆さんに対しては“So Sorry!”と申し上げ、野田総理と民主党政権に対しては“Kicked Out!”と言ってやりたいというのが、嘘偽りのない心境です。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 3月下旬から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順) よみうりカルチャー柏 3月23日(金)13:00-15:00(公開講座) 「ご成婚切手の誕生秘話――切手でたどる昭和史」 *柏センター移転、新装オープン記念講座です。 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ・よみうりカルチャー荻窪 3月27日(火) 13:30~15:30(公開講座) 「ご成婚切手の誕生秘話——切手でたどる昭和史」 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日 (毎月第2火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ・よみうりカルチャー錦糸町 3月31日(土) 12:30-14:30(公開講座) 皇室切手のモノ語り 4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日 (毎月第1土曜日) 12:30~14:30 郵便学者・切手博士と学ぶ切手のお話 |
2008-12-08 Mon 15:18
きょうは“真珠湾”の日です。というわけで、きょうはこんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、アメリカの“愛国カバー”の1種で、1947年1月18日、ペンシルバニア州ジャネットからニュージーランドのクライストチャーチ宛に差し出されたものです。 封筒に描かれているカシェは、刀を持った日本の軍人のところに“REMEMBER PEARL HARBOR”と書かれた爆弾が突っ込んでいる図で、その下には「1945年9月2日(=対日戦勝利の日)、仇を取った」との文言も見えます。また、上下には「われらがアメリカ海軍が1番」というスローガンも入っており、ある意味で非常にわかりやすいものとなっています。 カシェに記されている“1945年9月2日”との日付からも明らかなように、このカバーは第2次大戦の終結後に作られたものですから、戦時下での戦意高揚よりも、アメリカの勝利を寿ぐという面に力点が置かれたものです。特に、戦争に勝って“仇を取った”という文言も、“自由と民主主義のための戦い“などという嘘っぽい大義名分と比べて、当時のアメリカ国民の正直な感情を表しているのであろうと思います。 このカバーが差し出された1947年1月の時点では、いわゆる戦犯裁判が行われていた時期ですが、こうした“仇討”の感覚が蔓延する中では、公正な審理なんて望むべくもなかったであろうことは容易に想像がつきますな。 ただし、当時のアメリカにも、ロバート・タフト上院議員のように、ナチスの戦犯を裁くニュルンベルク裁判を“勝者による恣意的な裁き”と批判していた人々が少数ながらいたことも事実です。東京裁判についてのタフトの発言は確認できませんでしたが、同様のロジックでいえば、当然、彼は東京裁判についても批判的に見ていたと考えるべきでしょう。こうした人物が、いろいろと批判を浴びながらも、政界の実力者であり続けたところは、ある意味で、アメリカという国の底力といえるのかもしれません。 なお、タフトに関しては、拙著『大統領になりそこなった男たち』でも1章を設けてご紹介していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 ★★★ 年末年始はコタツにミカンと、この1冊 ★★★ <解説・戦後記念切手>シリーズの別冊 『年賀切手』が12月25日日付で刊行されます!(下の画像は出版元制作の広告:クリックで拡大されます) 奥付上の刊行日は12月25日ですが、すでに原稿は僕の手を離れて、印刷所の輪転機も回っていますので、17日の羽子板市の頃には実物はできあがっていると思います。なにとぞ、ご贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ アメリカ史に燦然と輝く偉大な「敗者たち」の物語 『大統領になりそこなった男たち』 中公新書ラクレ(本体定価760円+税) 出馬しなかった「合衆国生みの親」、リンカーンに敗れた男、第二次世界大戦の英雄、兄と同じく銃弾に倒れた男……。ひとりのアメリカ大統領が誕生するまでには、落選者の累々たる屍が築かれる。そのなかから、切手に描かれて、アメリカ史の教科書に載るほどの功績をあげた8人を選び、彼らの生涯を追った「偉大な敗者たち」の物語。本書は、敗者の側からみることで、もう一つのアメリカの姿を明らかにした、異色の歴史ノンフィクション。好評発売中! もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
2008-05-15 Thu 10:01
イスラエルの建国に伴う第一次中東戦争の開戦から今日(5月15日)で60年。というわけで、昨日に引き続き、今日はこんなマテリアルを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、イスラエル建国前後の混乱の中で、1948年4月21日にニューヨークからエルサレム宛に差し出されたものの、配達不能で差出人戻しとなったものです。カバー上には、第一次中東戦争開戦後の5月18日の日付の印が押されていますが、エルサレム宛の郵便がストップしたのは開戦の影響によるものなのか、あるいは、それ以前から既に配達不能となっていたのか、これだけではイマイチ判然としませんが、第一次中東戦争勃発前後の混乱を物語るカバーであることには間違いありません。 1947年11月29日、パレスチナ分割を決めた国連決議第181号が採択されて以来、パレスチナは事実上の内戦状態に突入し、多数のアラブ系住民が隣接するトランスヨルダンやシリアなどへと脱出。今日にいたるまで続く「パレスチナ難民」の問題が発生しました。 こうしたパレスチナ難民の存在は、アラブ諸国で難民への同情を喚起し、パレスチナへの本格的な軍事介入を求める世論が形成されていくことになります。この結果、1948年1月、シリアならびにトランスヨルダンからの義勇兵がパレスチナに到着。同年2月には、エジプト、トランスヨルダン、レバノン、シリア、サウジアラビア、イラクの6ヶ国がカイロで会議を開き、パレスチナでのユダヤ人国家の建設阻止の決議を採択。義勇兵の派遣を決定します。また、パレスチナにおいても、現地のアラブ系住民からなる義勇兵組織・アラブ救世軍が編成され、アブドゥル・カーディルを中心にゲリラ戦が展開されていきました。 これに対して、シオニストたちは、パレスチナ分割の国連決議を錦の御旗として、テルアビブにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府「ユダヤ国民評議会」を樹立し、新国家樹立の準備を進め、イギリスによる委任統治の期限が切れる1948年5月14日、ユダヤ人国家イスラエルの独立を宣言しました。 一方、イスラエルの独立を認めない周辺のアラブ諸国(エジプト、トランスヨルダン、レバノン、シリア、イラク)は、即日、イスラエルに宣戦を布告。翌15日、パレスチナに出兵しました。こうして、パレスチナの内戦は、イスラエルとアラブ諸国との第一次中東戦争へと拡大することになります。 開戦当時、アラブ側は兵員・装備ともにイスラエルを圧倒しており、緒戦の戦局はアラブ側有利で推移しました。特に、トランスヨルダンの精鋭部隊、アラブ軍団は、イラク軍とともに、エルサレム旧市街を含むヨルダン側西岸地区を占領。終戦までこの地を保持しています。また、エジプト軍は、5月15日、ガザ地区を占領し、自国領に編入しています。 もっとも、アラブ側の優位は長くは続かず、開戦から1週間後の5月22日には、国連安保理が再びパレスチナ問題を議題として取り上げ、パレスチナ全域での軍事行動の即時停止の呼びかけを決議。これを受けて、国連の仲介により、6月11日から7月8日までの4週間にわたり、第1次休戦が両軍の間で合意されることになります。 イスラエルが、この休戦期間を最大限に利用し、5月28日に創設されたイスラエル国防軍を中心に態勢を建て直していったのに対して、アラブ側では、休戦期間中に、各国の路線対立から指導部内の不協和音が表面化。イスラエルはアラブ側の足並みの乱れに乗じて緒戦での失地回復を目指して攻勢を展開し、次第に戦況は逆転していくことになります。 結局、イスラエルが華々しい戦果を挙げ、イギリス委任統治時代の旧パレスチナの領域を越えてシナイ半島に進攻したことで、エジプトを事実上の支配下に置いていたイギリスがイスラエル軍にシナイ半島からの撤収を強く要求。これをうけて、1949年2月23日、イスラエルとエジプトの間で休戦条約が調印されたのを皮切りに、3月23日にはレバノンが、4月3日にはトランスヨルダンが、7月20日にはシリアが、それぞれ、休戦条約を調印。これら各国とイスラエルとの停戦ラインが事実上の“国境”となり、イスラエル国家の存在が認知されることになりました。 もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
2008-03-14 Fri 11:28
今日は“ホワイト・デイ”。ということで、“ホワイト”がらみのネタという意味もこめて、ご報告が遅くなりましたが、雑誌『中央公論』に連載中の「大統領になりそこなった男たち」の最近の記事で取り上げた、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1945年11月に発行されたアルフレッド・スミスの追悼切手です。 アルフレッド・スミス(“アル・スミス”と呼ばれることのほうが多い)は、貧しいカアイルランド系カトリック信徒の移民3世として、ニューヨークのブルックリン・ブリッジのマンハッタン側、いわゆるローワー・イースト・サイドに生まれました。 早くに父親を亡くし、フルトン魚市場で肉体労働者として働きましたが、そこでの勤勉な働き振りがアイルランド系住民の強い影響下にあった政治団体、タマニー協会の目に留まり、政治家としての道を歩むことになり、1903年、ニューヨーク州議会議員に当選。1911年に起こったグリニッジ・ビレッジのトライアングル社火災事件(避難設備が劣悪なブラウス工場の火災で、女子工員ら145名が亡くなった事件)を機に、労働環境改善法を成立させたことで名をあげました。 大きな鼻で葉巻のチェイン・スモーカー、口角泡を飛ばしてしゃべりまくる姿は、いかにもニューヨーカーの雰囲気で女性の人気も高く、1918年、ニューヨークで婦人参政権が最初に認められた州知事(任期2年)選挙では、事前の予想を覆して初当選を果たします。その後、1920年の選挙では落選するものの、合計4期、知事を務め、ニューヨークの顔として全米に知られる存在となっていきました。 スミスが民主党の大統領候補として指名を受けたのは1928年の選挙のときのことです。当時は世界恐慌の直前、未曾有の好景気が全米を覆っていたこともあり、与党・共和党の候補が圧倒的に有利と見られていました。このため、民主党候補は一種の“自殺候補”と見られていましたが、そうした事情から、アイルランド系の彼に大統領候補となるチャンスがめぐってきたものと思われます。というのも、当時のアメリカでは、ワスプ(WASP)すなわちWhite(白人) Anglo-Saxon(アングロサクソン) Puritan(ピューリタン)ないしは Protestant(プロテスタント)の男性でなければならないとの不文律があり、“勝てる選挙”であれば、スミスが大統領候補となる可能性はきわめて低かったでしょう。 アメリカの建国神話では、清教徒が信仰の自由を求めて新大陸に渡ってきたことが建国のルーツになっているということもあって、カトリックに対する差別や偏見は根強いものがありました。はたして、共和党のフーバー陣営はスミスに対して「彼が大統領に当選したら、アメリカをローマ法王に献上してしまうのではないか」といったネガティブ・キャンペーンを展開。冷静に考えれば馬鹿げた話ですが、当時の一般有権者には結構、これが効果的だったようで、スミスの政策で恩恵を受けるはずの労働者層までもが共和党支持に回り、11月の選挙では、スミスはお膝元のニューヨーク州も落とすほどの惨敗を喫してしまいます。 1929年に発足したフーバー政権は、同年10月の世界恐慌に対してまったく無力であったことから、1932年の選挙では、今度は民主党が有利と予想されていました。スミスは、大恐慌後の経済再建が最大の争点になるのであれば、“カトリック”という要素は問題になるまいと捲土重来を期していましたが、“勝てる選挙”に際して、民主党の候補になったのはワスプ出身で後輩のニューヨーク知事、フランクリン・ルーズベルトです。 その後、スミスは政界を事実上引退し、ルーズベルトがアメリカ史上唯一の4選を果たした1944年に亡くなりましたが、ルーズベルトにとって、地元の有力な“先輩”は煙たい存在だったようで、彼の追悼切手が発行されたのは、ルーズベルトが亡くなった後の1945年11月のことでした。 今回の大統領選挙の有力候補の顔ぶれを見ていると、共和党がアイルランド系のマケイン、民主党がアフリカ系(黒人)のオバマか女性のヒラリー・クリントンか、といった具合で、ワスプ男性の有力候補者は一人もいません。スミスの時代と比べると、まさに隔世の感がありますな。 *お知らせ 12日に台湾から帰国後、愛用のノート・パソコンに不具合が生じ、現在、僕が普段使っているメール・アドレス(y-naitoで始まるものです)にお送りいただいても、メールを読むことができなくなってしまいました。どうやら、HDのトラブルが原因(寿命説が最有力)のようで、データは9割がた復旧できたのですが、パソコンの機械については、とりあえず家族共用のパソコンで急場をしのいでいるものの、近々、新しい機械を買わざるを得なくなりました。 つきましては、新しいパソコンを買ってメール環境を復旧させるまでの間、皆様にはいろいろとご迷惑をおかけいたしますが、あしからずご了承ください。 なお、お急ぎの方は、このブログの最新記事のコメント欄に、“管理者にだけ表示を許可する”をチェックの上、ご用件と返信先のメールアドレスをご記入いただければ対応いたしますので、お手数ですが、よろしくお願いいたします。 |
2006-10-05 Thu 08:54
北朝鮮外務省が核実験を行う方針を発表しました。というわけで、今日は核実験がらみのモノとして、こんなカバー(封筒)を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年7月1日、当時、唯一の核保有国であったアメリカがビキニ環礁で核実験を行った際に作られた記念カバーです。 このときの実験に際して、アメリカは“平和か破滅かの選択”と称して、東西のマスコミ関係者を集めて実験を公開していますが、あわせて、実験に参加した移動艦船郵便所(LST-861)では“原爆実験 ビキニ環礁”の文字が入った消印も使用されました。 核実験というのは、実験データを取るという本来の目的もさることながら、実験を行うことによって核兵器を保有しているということを諸外国に認識させるというデモンストレーションとしても重要な意味を持っています。こうした事情は、60年前も現在も、基本的にはなんら変わっていません。もっとも、現在では、そうしたデモンストレーションが国際社会に与える影響はネガティブなものでしかありませんから、こういう記念品がつくられるということもありえないでしょうね。 今回の北朝鮮の核実験予告声明に関して、モスクワ駐在の北朝鮮外交官は「政治的性格を持つ声明であり、軍事的なものではない」と述べたそうです。自ら危機を演出して相手の譲歩を引き出す、チキンレースまがいの“瀬戸際外交”は北朝鮮の得意技ですが、件の外交官の発言は、今回の核実験予告もその一例であることを物語っています。 もっとも、先日のミサイル発射事件でも、北朝鮮は、ブラフではないかという大方の予想を裏切って本当に発射してしまいましたから、今回も何をやらかすかわかりません。ただ、“政治的性格”の実験であるなら、なおのこと、その“効果”がマイナスにしかならないということをかの国の将軍様には十分に認識してもらいたいものです。 * 10月7日(土)の午前中10:30ごろから12:00ごろまでの間、東京・目白で開催の切手市場会場にて新刊の拙著『満洲切手』の即売(会場内のみでの特典つき)・サイン会を行います。よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 |
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