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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 エドワード7世の郵便学⑪
2023-10-28 Sat 07:05
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、雑誌『キュリオマガジン』2023年10月号が発行されました。僕の連載「エドワード7世の郵便学」は、今回は、1870-80年代のコンゴ問題と英国の関係について取り上げました。その記事の中から、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      KUT・リヴィングストンとの邂逅

 これは、1971年10月28日、ケニア・ウガンダ・タンガニーカの東アフリカ郵便連合が発行した“スタンリーとリヴィングストンのウジジでの邂逅100年”の記念切手です。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。

 * 昨日(27日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は11月10日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。

★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 10月30日(月) 18:10~18:20 私の正論
 ニッポン放送の「私の正論」に内藤がゲスト出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。

 10月31日(火) 10:00~ ニッポンジャーナル
 インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がゲスト出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。

 11月3~5日 ウクライナ切手展 於・都立産業貿易センター台東館
 11月3~5日(金・祝~日)、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館で開催の全国切手展<JAPEX 2023>と併催のイベントです。内藤も、1918年に発行されたウクライナ最初の切手の小コレクションと、最初の切手の原画作者、ヘオルヒー・ナルブートの画業を紹介する小コレクションを展示するほか、会期中、以下のトークを行います。

 11月3日(金・祝) 15:00~15:30 ウクライナ切手展・展示解説
 11月4日(土) 13:00~14:00 記念講演「ウクライナと切手・郵便」

 
 イベントそのものは事前予約不要・参加費無料ですが、会場の切手展へは入場料が必要です。詳細は全国切手展の主催者サイトをご覧ください。

 11月10日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

 謀略の世界史 11/11、12/9、1/6、2/3、3/2 13:00~14:30
 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

 武蔵野大学のWeb講座 
 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 

 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。


★ 『今日も世界は迷走中』 好評発売中!★

      今日も世界は迷走中

 ウクライナ侵攻の裏で起きた、日本の運命を変える世界の出来事とは!内藤節炸裂。

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 タンガニーカ独立60年
2021-12-09 Thu 04:18
 現在のタンザニアの大陸部分に相当するタンガニーカが1961年12月9日に独立してから、ちょうど60年になりました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      KUT・キリマンジャロ鉄道カバー

 これは、1947年8月19日、英領時代のタンガニーカ・モシからキリマンジャロ鉄道でタンガ港まで運ばれ、そこから米国宛に届けられたエアメールで、キリマンジャロ鉄道の鉄郵印が押されています。

 アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロは、タンザニア北東部に位置し、標高5895m、東西約50km、南北30kmに広がった成層火山で、西からシラ峰、キボ峰、マウエンジ峰から構成されています。中央のキボ峰のみが休火山で他の2峰は死火山で、地名の由来としては、スワヒリ語で“山”を意味する“キリマ”と、チャガ語で“白”を意味する“ンジャロ”の合成語で、“白く輝く山”の意味とされています。

 さて、ケニア南部からタンザニア北部一帯の先住民、マサイ人の間では“神の家”を意味する“ンガジェンガ”と呼ばれていたキリマンジャロの存在が、西洋人にも知られるようになったのは、1840年代のことでした。

 1847年、ケニアの東海岸で布教をしていたドイツ人宣教師のヨハネス・レブマンは、頂上が銀で覆われた高い山があることを聞いて内陸部に調査に向かい、翌1848年5月11日、チャガ人の土地で、山頂が白銀に覆われた高山を“発見”します。レブマンは、さっそく、この高山のことを報告しましたが、当時のヨーロッパの地理学者は熱帯に雪が存在するはずがないとの思い込みから、レブマンの報告を信じませんでした。

 その後、“熱帯の雪山”の存在が確認されると、ドイツ人将校のカール・クラウス・フォン・デア・デッケンと英国人地質学者リチャード・ソーントンが1861年には2500m地点まで、1862年には4280m地点まで到達します。

 列強によるアフリカ分割の過程で、キリマンジャロは英独の勢力圏の境界に位置するようになり、英国は山の北側に進出しました。しかし、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は山全体をドイツ領とすることを要求。1885年のベルリン会議では、ドイツの要求が認められ、ドイツ領東アフリカの領域が確定しました。

 第一次大戦でドイツが敗れると、旧ドイツ領東アフリカは解体され、英委任統治領タンガニーカとベルギー委任統治領のルワンダ=ウルンディに分割され、キリマンジャロは英領タンガニーカに組み込まれました。

 1920年、東アフリカにおける英領植民地は、ザンジバル、タンガニーカ、ケニア、ウガンダの4地域体制となりますが、このうち、ザンジバルを除く3地域では、1921年、共通通貨として、英国東アフリカ通貨局(1919年創設。EACB)の発行する東アフリカ・シリングが導入され、1922年には3地域を包括する関税同盟が結成されました。これに伴い、ザンジバルを除く大陸の3地域では郵便組織も共通となり、“ケニア・ウガンダ・タンガニーカ”(KUT)表示の切手が使用されることになります。今回ご紹介のエアメールに貼られているのも、そのKUT切手です。

 ところで、すでにドイツ領東アフリカ時代から、キリマンジャロ地域ではコーヒーのプランテーション栽培が始まっていましたが、英支配下の1921年、海岸のタンガ港から南麓のモシまで鉄道が開通。これにより、モシはコーヒーの集散地となり、1932年に設立された“キリマンジャロ原住民共同組合連合会”が品質管理を本格的に行うようになります。この結果、かつては粗悪品のイメージが強く、イエメンに運ばれて“モカ”にブレンドされていたこの地域のコーヒー豆は、“キリマンジャロ”として独自のブランドとなり、モシは急速に発展します。

 1961年12月9日、タンガニーカが独立すると、キリマンジャロは新国家のシンボルとなり、キボ峰の山頂はスワヒリ語で“自由”を意味する“ウフル”と命名され、山頂には“ウフル・トーチ(自由の松明)”が灯されたほか、初代大統領ジュリウス・ニエレレによる独立宣言が刻まれたレリーフが設置されました。

 その後、1964年、タンガニーカは対岸のザンジバルと連合し、タンガニーカ・ザンジバル連合共和国が発足。その後、新国家は、タンガニーカとザンジバル、それにアフリカ南部で栄えたアザニア文化の名前をあわせて“タンザニア連合共和国”と命名され、現在に至っています。

 ちなみに、現在のタンザニア国家は、1961年にタンガニーカが独立した12月9日を“独立記念日”とし、1964年に連合共和国が成立した4月26日は“統合記念日”としています。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内★

 12月13日(月) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

 武蔵野大学のWeb講座 2021年12月1日~2022年2月8日
 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編その1 ― 黒船来航」

 12月1日から2月8日まで、計7.5時間(30分×15回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。

 三鷹市生涯学習センター 「宗教と国際政治」 2022年1月10~23日
 国際紛争や諸外国のタイムリーな重大ニュースを取り上げ、その背後にある「宗教」をめぐる諸問題をじっくり解説する講座です。今回は、混迷続くアフガニスタンとその歴史に焦点を当ててお話します。お申し込みは12月11日(土)までで、ご応募多数の場合は抽選になります。詳細はこちらをご覧ください。


★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.2 戦後編』 11月20日刊行! ★

      切手でたどる郵便創業150年の歴史②表紙 2530円(本体2300円+税)

 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第2巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱った第1巻に続き、第二次大戦後の1946年から昭和末の1989年までを扱っています。なお、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

 ★★ 書籍無料ダウンロードを装った違法サイトにご注意ください!★★

 最近、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史』をPDF化して、無料でダウンロードできるかのように装い、クレジットカード情報を盗み取ろうとする違法サイトの存在が確認されました。

 この種のサイトは多種多様な出版物を無許可で取り扱っているものと思われます。

 内藤および拙著の出版元・販売元ではこのような行為は一切認めておらず、フィッシング詐欺等に巻き込まれる可能性もありますので十分ご注意ください。

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 失踪のウガンダ選手、身柄を保護
2021-07-21 Wed 04:58
 東京五輪に出場するため来日したものの、日本到着後の国際ランキング変更で出場資格を失い、五輪の開幕前に帰国する予定だったウガンダのジュリアス・セチトレコ選手(重量挙げ)が、今月16日、宿泊先の大阪府泉佐野市のホテルに「ウガンダでの生活が厳しく、日本で仕事がしたい」とのメモを残して失踪していた問題で、きのう(20日)午後、同選手が三重県四日市市内で見つかり、四日市南警察署に保護されました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      KUT・東京五輪(1964)

 これは、ケニア、ウガンダ、タンガニーカ・ザンジバルの“東アフリカ郵便連合”が1964年10月21日に発行した東京五輪(1964年)の記念切手です。

 近代以前の東アフリカのインド洋沿岸部はザンジバルの支配下に置かれていましたが、1840年代以降、ザンジバルのスルターンの保護の下にヨーロッパ人宣教師がモンバサの海岸周辺から内陸に向かって入植するようになりました。

 1872年、スコットランド出身のウィリアム・マッキノン率いる英領インド汽船会社(BI)がザンジバルへの航路を開設。これを機に、同社はアフリカ大陸内陸への進出を計画します。

 1884-85年のベルリン会議では、アフリカ分割の原則として、沿岸部を領有した国には後背地の領有権が認められました。これを受けて、すでに1884年にブルンディを植民地化していたドイツは、1886年、東アフリカ南部の領有を企図して、ザンジバルに艦隊を派遣。これに対して、ザンジバルは英国に支援を要請し、英国も派兵したため、フランスを交えた3国の協議の結果、同年、東アフリカ南部(現在のタンザニアの大陸部分に相当する地域)をドイツ領とし、北部(現在のケニアに相当する地域)を英領とすることで決着が図られています。

 こうして東アフリカに植民地を得た英国でしたが、当時は国策としてアフリカ大陸南部の権益確保に注力していたため、東アフリカに目を向ける余裕は乏しく、マッキノンのBIがアフリカ東部でのイギリスの勢力圏建設を担当。そこで、マッキノンは1888年、勅許会社の英国東アフリカ会社(IBEA)を設立し、ヴィクトリア湖北岸のブガンダ王国の領域(現在のウガンダの領域にほぼ相当)にも勢力を拡大しました。IBEAはモンバサからヴィクトリア湖に至るウガンダ鉄道の建設や農地開発などにも着手し、1894年にはブガンダ王国を保護国化し、英領ウガンダ植民地としました。しかし、ブガンダ王国の有力者や各地の宣教師たちとの対立もあって十分な植民地経営ができず、その収支は悪化。このため、1895年7月1日、英政府は東アフリカの保護領化を宣言し、英国外務省の管轄としました。なお、この間の1890年、ザンジバルは英独間のヘルゴランド=ザンジバル条約により英保護領となっています。

 第一次大戦でドイツが敗れると、旧ドイツ領東アフリカは解体され、英委任統治領タンガニーカベルギー委任統治領のルワンダ=ウルンディに分割されました。

 一方、英領東アフリカ植民地は、1920年、本国直轄のケニア植民地となり、東アフリカにおける英領植民地は、ザンジバル、タンガニーカ、ケニア、ウガンダの4地域体制となります。

 このうち、ザンジバルを除く3地域では、1921年、共通通貨として、英国東アフリカ通貨局(1919年創設。EACB)の発行する東アフリカ・シリングが導入され、1922年には3地域を包括する関税同盟が結成されました。これに伴い、ザンジバルを除く大陸の3地域では郵便組織も共通となり、“ケニア・ウガンダ・タンガニーカ”(KUT)表示の切手がこれら3地域で使用されました。

 一方、ザンジバルは歴史的にインド世界との経済的な結びつきが強かったため、1908年以来、英領インド・ルピーと等価のザンジバル・ルピーが使用されていましたが、1936年1月1日、1ザンジバル・ルピー=1½東アフリカ・シリングの交換レートで、東アフリカ・シリング圏に組み込まれます。

 第二次大戦後の1961年にはタンガニーカが、1962年にはウガンダが、1963年にはザンジバルとケニアが、それぞれ独立。これに伴い、各国は独自の切手を発行するようになりましたが、それと並行して、独立以前からのKUT切手も発行が続けられていました。

 なお、1964年1月、いわゆるザンジバル革命が発生し、同年4月、ザンジバル国家は対岸のタンガニーカと合併し、タンガニーカ・ザンジバル連合共和国が成立すると、KUT切手は、新生連合共和国の地域でも使われるようになりました。今回ご紹介の切手は、こうした状況の下、ケニア、ウガンダ、タンガニーカ(・ザンジバル)の3国が独立後最初に参加した五輪として、東京五輪を記念してKUT名義で発行されたものです。なお、タンガニーカ・ザンジバル連合共和国は、五輪終了直後の1964年10月29日、タンガニーカとザンジバル、それにアフリカ南部で栄えたアザニア文化の名前をあわせて“タンザニア連合共和国”と改称され、現在に至っています。

 さて、独立後も各国は植民地時代からの東アフリカ・シリングをそのまま使っていましたが、1966年、EACBの解体に伴い、ケニア、タンザニア、ウガンダの各国は、それぞれ、東アフリカ・シリングと等価の独自通貨を導入します。ただし、その後もKUT切手は引き続き、発行・使用されていました。

 その一方で、英領時代以来の東アフリカの政治的・経済的ネットワークの維持・発展を目指して、1967年、ジュリウス・ニエレレ(タンザニア)、ジョモ・ケニヤッタ(ケニア)、ミルトン・オボテ(ウガンダ)の3大統領は東アフリカ協力条約を締結し、タンザニアの首都アルーシャに東アフリカ共同体の本部と事務局が設置します。

 その後、1977年、ケニアとタンザニアの主導権争いや各国の国内事情などにより、共同体は事実上瓦解。1978年にはウガンダがタンザニアに侵攻して完全消滅しましたが、これに先立ち、1976年を最後にKUT切手も発行されなくなりました。

 なお、2001年、地域の情勢が安定したことを受けて、ケニア、タンザニア、ウガンダの3か国は東アフリカ共同体を再結成。2005年には関税同盟が発足するとともに、2007年以降は加盟国を拡大し、現在は原加盟3国にルワンダ、ブルンジディ、南スーダンを加えた6国体制となっています。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内★

 7月26日(月) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。

★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★

      世界はいつでも不安定Audible

 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。

★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★

      誰もが知りたいQアノンの正体 1650円(本体1500円+税)

 * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。

 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 世界の切手:東アフリカ郵便連合
2018-11-21 Wed 02:56
  ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年10月24日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回は、ケニア・ウガンダ・タンガニーカの東アフリカ郵便連合(以下、KUT)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      KUT・タンザニア混貼カバー

 これは、第一次東アフリカ崩壊後の1978年3月8日、KUT切手とタンザニア切手を混貼してタンザニアのムワンダからオーストリア宛に差し出された航空便です。

 近代以前の東アフリカのインド洋沿岸部はザンジバルの支配下に置かれていましたが、1840年代以降、ザンジバルのスルターンの保護の下にヨーロッパ人宣教師がモンバサの海岸周辺から内陸に向かって入植するようになりました。

 1872年、スコットランド出身のウィリアム・マッキノン率いる英領インド汽船会社(BI)がザンジバルへの航路を開設。これを機に、同社はアフリカ大陸内陸への進出を計画します。

 1884-85年のベルリン会議では、アフリカ分割の原則として、沿岸部を領有した国には後背地の領有権が認められました。これを受けて、すでに1884年にブルンディを植民地化していたドイツは、1886年、東アフリカ南部の領有を企図して、ザンジバルに艦隊を派遣。これに対して、ザンジバルは英国に支援を要請し、英国も派兵したため、フランスを交えた3国の協議の結果、同年、東アフリカ南部(現在のタンザニアの大陸部分に相当する地域)をドイツ領とし、北部(現在のケニアに相当する地域)を英領とすることで決着が図られています。

 こうして東アフリカに植民地を得た英国でしたが、当時は国策としてアフリカ大陸南部の権益確保に注力していたため、東アフリカに目を向ける余裕は乏しく、マッキノンのBIがアフリカ東部でのイギリスの勢力圏建設を担当。そこで、マッキノンは1888年、勅許会社の英東アフリカ会社(IBEA)を設立し、ヴィクトリア湖北岸のブガンダ王国の領域(現在のウガンダの領域にほぼ相当)にも勢力を拡大しました。IBEAはモンバサからヴィクトリア湖に至るウガンダ鉄道の建設や農地開発などにも着手し、1894年にはブガンダ王国を保護国化し、英領ウガンダ植民地としました。しかし、ブガンダ王国の有力者や各地の宣教師たちとの対立もあって十分な植民地経営ができず、その収支は悪化。このため、1895年7月1日、英政府は東アフリカの保護領化を宣言し、英国外務省の管轄としました。なお、この間の1890年、ザンジバルは英独間のヘルゴランド=ザンジバル条約により英保護領となっています。

 第一次大戦でドイツが敗れると、旧ドイツ領東アフリカは解体され、英委任統治領タンガニーカとベルギー委任統治領のルワンダ=ウルンディに分割されました。

 一方、英領東アフリカ植民地は、1920年、本国直轄のケニア植民地となり、東アフリカにおける英領植民地は、ザンジバル、タンガニーカ、ケニア、ウガンダの4地域体制となります。

 このうち、ザンジバルを除く3地域では、1921年、共通通貨として、英国東アフリカ通貨局(1919年創設。EACB)の発行する東アフリカ・シリングが導入され、1922年には3地域を包括する関税同盟が結成されました。

 なお、ザンジバルは歴史的にインド世界との経済的な結びつきが強かったため、1908年以来、英領インド・ルピーと等価のザンジバル・ルピーが使用されていましたが、1936年1月1日、1ザンジバル・ルピー=1½東アフリカ・シリングの交換レートで、東アフリカ・シリング圏に組み込まれます。

 第二次大戦後の1961年にはタンガニーカが、1962年にはウガンダが、1963年にはザンジバルとケニアが、それぞれ独立。独立当初、各国は植民地時代からの東アフリカ・シリングをそのまま使っていましたが、1966年、EACBの解体に伴い、ケニア、タンザニア(1964年にタンガニーカとザンジバルが統合して発足)、ウガンダの各国は、それぞれ、東アフリカ・シリングと等価の独自通貨を導入せざるを得なくなりました。ただし、その後もKUT切手は引き続き、発行・使用され続けます。

 その一方で、英領時代以来の東アフリカの政治的・経済的ネットワークの維持・発展を目指して、1967年、ジュリウス・ニエレレ(タンザニア)、ジョモ・ケニヤッタ(ケニア)、ミルトン・オボテ(ウガンダ)の3大統領は東アフリカ協力条約を締結し、タンザニアの首都アルーシャに東アフリカ共同体の本部と事務局が設置します。

 その後、1977年、ケニアとタンザニアの主導権争いや各国の国内事情などにより、共同体は事実上瓦解。1978年にはウガンダがタンザニアに侵攻して完全消滅しました。なお、1976年を最後にKUT切手は発行されなくなっていましたが、その後も、KUT切手そのものは無効とされなかったため、今回ご紹介のような混貼使用例が生まれることになりました。

 なお、2001年、地域の情勢が安定したことを受けて、ケニア、タンザニア、ウガンダの3か国は東アフリカ共同体を再結成。2005年には関税同盟が発足するとともに、2007年以降は加盟国を拡大し、現在は原加盟3国にルワンダ、ブルンジディ、南スーダンを加えた6国体制となっています。

 さて、『世界の切手コレクション』10月24日号の「世界の国々」では、KUTの歴史についての長文コラムのほか、サファリラリー、ウガンダ鉄道、マケレレ大学、タンザニア独立の父ジュリウス・ニエレレ、東京五輪の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のKUTの次は、11月7日発売の同14日号でのメキシコ、同14日発売の同21日号でのブルガリア、同21日発売の同28日号でのスリランカの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください)

 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 
 午前中 「韓国現代史と切手」

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★

      表紙帯つき 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 
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 タンザニア、ケニアに医師500人派遣
2017-03-19 Sun 19:09
 昨年12月からの100日間に及んだ医療関係者のストライキで、医療サービスがマヒ状態になっているケニアに対して、隣国タンザニアのジョン・マグフリ大統領は、きのう(18日)、500人の医師を派遣すると発表しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ケニア・ウガンダ・タンザニア:ケニヤッタ病院

 これは、1973年12月12日、ケニア・ウガンダ・タンザニア名義で発行されたケニア独立10周年の記念切手で、ケニアの首都、ナイロビのケニヤッタ国立病院が取り上げられています。

 近代以前の東アフリカのインド洋沿岸部はザンジバルの支配下に置かれていましたが、1840年代以降、ザンジバルのスルターンの保護の下にヨーロッパ人宣教師がモンバサの海岸周辺から内陸に向かって入植するようになりました。

 1886年、ドイツがザンジバルに艦隊を派遣すると、ザンジバルからの支援要請を受けた英国も派兵。このため、フランスを交えた3国の協議の結果、東アフリカ南部(現在のタンザニアの大陸部分に相当する地域)をドイツ領東アフリカとし、北部(現在のケニアに相当する地域)を英領東アフリカとすることで決着が図られました。この時きめられた英領東アフリカの範囲は、タナ川の河口からモンバサを経てドイツ領東アフリカとの境界線までの150マイル(240キロメートル)の海岸線とその内陸部です。

 第一次大戦でドイツが敗れると、旧ドイツ領東アフリカは解体され、英委任統治領タンガニーカとベルギー委任統治領のルワンダ=ウルンディに分割されます。

 その後、1927年、英国は東アフリカのウガンダ、ケニア、タンガニーカ、ザンジバルの4地域を包括する関税同盟を結成し、同盟の域内では共通通貨として東アフリカ・シリングの使用が開始されます。これに伴い、ザンジバルを除く大陸の3地域では郵便組織も共通となり、“ケニア・ウガンダ・タンガニーカ”表示の切手がこれら3地域で使用されました。

 その後、1961年にタンガニーカが、1962年にウガンダが、1963年にケニアが、それぞれ独立した後も、各国の切手と並行して“ケニア・ウガンダ・タンガニーカ”表示の切手の発行は継続され、1964年にタンガニーカとザンジバルの統合によって現在のタンザニア国家が誕生すると、今回ご紹介の切手のように、“ケニア・ウガンダ・タンザニア”に国名表示を変更した切手が1976年初まで発行されていました。

 さて、今回ご紹介の切手に取り上げられたケニヤッタ病院は、1901年、先住民を対象としたネイティヴ市民病院として、40床で開業しました。ちなみに、当時のケニアでは、現地在住の白人に対する医療行為は、同病院の近くにあるヨーロッパ病院(現ナイロビ病院)で行われていました。その後、1952年に宗主国の君主である英国王ジョージ6世が崩御すると、ネイティヴ市民病院はジョージ6世病院と改称されましたが、独立後は“建国の父”ジョモ・ケニヤッタにちなんで、ケニヤッタ国立病院と改称されました。現在のスタッフ数は6000人、ベッド数は1800床です。
 
 さて、ケニアでは、昨年12月、各地の公立病院で医療関係者約5000人が賃上げと労働環境の改善を求めてストライキを開始。今月14日、ケニア政府と労働側の合意が成立し、ようやくストライキが終結したものの、医師の中にはいまだに職場復帰していない者もおり、職場復帰した医療関係者は診療を待つ大勢の患者たちへの対応に追われています。

 今回のタンザニア政府による医師派遣は、タンザニア最大都市のダルエスサラームでマグフリ大統領とケニアのクレオパ・マイル保健相率いる代表団が会談した後、発表されたもので、ケニア側は派遣される医師たちに対して「所定の給与を支払い、住居を用意し、良好な環境で働けるようにする」ことになっています。
 
 まぁ、タンザニアからすれば、地続きの隣国のであるケニア国内の衛生環境が悪化すれば、自国にも深刻な影響が生じることが懸念されるわけで、事態を放置できなかったというのが正直なところでしょうが、かつての英領時代の紐帯が、こんなところで生きてくるというのもなかなか興味深い話ではあります。


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 ケニアで反密猟サミット
2016-04-30 Sat 10:40
 ケニア中部のナニュキで、きのう(29日)から、野生動物の密猟と象牙密輸の防止をテーマに、アフリカ諸国の首脳級も参加する“反密猟サミット”が始まりました。会議はきょう(30日)まで2日間の日程で、きょうは密猟根絶に向けた取り組み強化をアピールするため、ケニア国内で保管されている象牙100トン以上が一斉焼却処分される予定だそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ケニア・ウガンダ・タンガニーカ・象(1954)

 これは、1954年にケニア・ウガンダ・タンガニーカで発行されたアフリカゾウの切手です。

 近代以前の東アフリカのインド洋沿岸部はザンジバルの支配下に置かれていましたが、1840年代以降、ザンジバルのスルターンの保護の下にヨーロッパ人宣教師がモンバサの海岸周辺から内陸に向かって入植するようになりました。

 1886年、ドイツがザンジバルに艦隊を派遣すると、ザンジバルからの支援要請を受けた英国も派兵。このため、フランスを交えた3国の協議の結果、東アフリカ南部(現在のタンザニアの大陸部分に相当する地域)をドイツ領東アフリカとし、北部(現在のケニアに相当する地域)を英領東アフリカとすることで決着が図られました。この時きめられた英領東アフリカの範囲は、タナ川の河口からモンバサを経てドイツ領東アフリカとの境界線までの150マイル(240キロメートル)の海岸線とその内陸部です。

 第一次大戦でドイツが敗れると、旧ドイツ領東アフリカは解体され、イギリス委任統治領タンガニーカとベルギー委任統治領のルワンダ=ウルンディに分割されます。

 その後、1927年、英国は東アフリカのウガンダ、ケニア、タンガニーカ、ザンジバルの4地域を包括する関税同盟を結成し、同盟の域内では共通通貨として東アフリカ・シリングの使用が開始されます。これに伴い、ザンジバルを除く大陸の3地域では郵便組織も共通となり、“ケニア・ウガンダ・タンガニーカ”表示の切手がこれら3地域で使用されました。

 その後、1961年にタンガニーカが、1962年にウガンダが、1963年にケニアが、それぞれ独立した後も、各国ごとの切手と並行して“ケニア・ウガンダ・タンガニーカ”表示の切手の発行は継続され、1964年にタンガニーカとザンジバルの統合によって現在のタンザニア国家が誕生すると、“ケニア・ウガンダ・タンザニア”に国名表示を変更した切手が1976年初まで発行されていました。

 さて、今回の反密猟サミットの開催にあたって、議長を務めるケニアのケニヤッタ大統領は「象たちを失うことは、わが国の遺産の重要な部分を失うことを意味する。われわれはそれを許さない。象が殺されているのを傍観することはできない」との基調演説を行いました。その主張はお説ごもっともで、反対すべき点は何もないのですが、そのアピールのために、象牙を焼却部分にするというのはどうなんでしょうかねぇ。むしろ、政府が象牙をきちんと管理して輸出し、その収益を野生動物の保護にまわという方が良いのではないかと、僕などは思ってしまうのですが…。


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 4月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。
 

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