2021-06-18 Fri 09:33
バイデン米大統領は、きのう(17日。以下、日付などは現地時間)、6月19日を奴隷制廃止を記念する連邦の祝日とする法案に署名しました。連邦の祝日が新たに制定されるのはキング牧師記念日が定められた1983年以来のことで、ことし(2021年)は6月19日が土曜日に当たるため、大半の連邦政府職員はきょう(18日)に振替休日をとるそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1940年10月20日に米国で発行された“合衆国憲法修正第13条75周年”の記念切手で、ワシントンDCのリンカーン記念堂近くの奴隷解放記念碑が描かれています。 合衆国憲法修正第13条は、南北戦争中の1863年1月にリンカーン大統領が発した奴隷解放宣言を具体化するため、戦争末期の1865年1月31日に連邦議会で可決成立した憲法修正で、戦争終結とリンカーン暗殺を経て、1865年12月18日、米国憲法の修正の発効に必要な(南部諸州も含めて)諸州の4分の3による批准が達せられました。その文言は以下の通りです。 第1節 奴隷制もしくは自発的でない隷属は、アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、存在してはならない。ただし犯罪者であって関連する者が正当と認めた場合の罰とするときを除く。 第2節 議会はこの修正条項を適切な法律によって実行させる権限を有する。 ちなみに、6月19日が“奴隷制廃止記念日”になっているのは、修正第13条が連邦議会を通過した後の1865年6月19日、北軍のゴードン・グレンジャー少将がテキサス州ガルベストンで奴隷制の廃止を宣言したことに由来するもので(ただし、テキサス州として修正第13条を批准したのは1870年2月18日)、この日は1980年にテキサス州の祝日となりました。 切手に取り上げられている奴隷解放記念碑は、南北戦争以前の旧逃亡奴隷法(奴隷制度を認めている“奴隷州”から奴隷制度を禁止する“自由州”に逃げ込んだ逃亡奴隷については、自由州の側は奴隷州に身柄を引き渡さなければならないとする法律)の時代に、自由州に逃れたものの、不幸にして逮捕されてしまった最後の男性が、奴隷解放宣言を読み上げるリンカーンの足元に跪いているようすを造形化したものです。 記念碑は、ヴァージニア在住のシャーロット・スコットという女性が、奴隷の身分から解放された後、米国市民として働いて得た初めての収入の中から5ドルを差し出し、黒人の寄付でリンカーンに感謝する像を作ろうと提案したことがきっかけとなり、奴隷の身分から解放された黒人市民の献金を中心に建立費用が賄われました。それゆえ、この像はまさに米国社会が、女性や黒人の人権もきちんと認めて、社会の融和を目指していくことの象徴ともいうべきものになっています。 ところが、2020年5月、すなわち、リベラルによるポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)が猖獗を極め、多くの米国人が息苦しさを感じる中、偽札使用の詐欺容疑で拘束されたジョージ・フロイド容疑者が拘束中に死亡する事件が起きると、アンティファを自称する一部のリベラル過激派は“反差別”を口実に日頃の鬱憤を晴らすかのように暴行・略奪を繰り返し、歴史上の人物を顕彰する銅像等を損壊・汚損する事件(未遂を含む)が続発しました。 その流れの中で、アンティファは奴隷解放記念碑についても「跪いた黒人奴隷をリンカーンが見下ろしているのは差別である」、「リンカーンが国父として黒人に“解放”を与えるイメージの構図はパターナリズム(家父長主義)であり、パターナリズムは差別である」などと言いがかりをつけて、この銅像を引き倒すべきだと主張します。 当然のことながら、米国政府もこれを看過することはできず、2020年6月26日夜、トランプ大統領(当時)は、ニュージャージー州ベッドミンスターのゴルフ場に行くはずだった予定をキャンセルしてワシントンに残り、抗議活動の一環として歴史的な記念碑や像を損壊・撤去する行為を取り締まるべく、大統領令に署名しました。 そのポイントをトランプの言葉と共にまとめておくと、次のようなものです。 抗議活動の参加者はアメリカの歴史について完全に無知であり、「実際に記念碑や像を破壊する暴徒やその支持者、放火犯、極左活動家などは、マルクス主義など、特定のイデオロギーに基づき、合衆国の政治体制を破壊しようとしている また、解放記念碑を破壊しようとすること自体、米国(史)に対する「無知」の何よりの証拠なわけですが、記念碑はまだ破壊されていませんので、トランプは別の例を紹介します。 たとえば、サンフランシスコでは、第18代大統領ユリシーズ・グラントの像(グラントは奴隷を所有していましたが、南北戦争では、奴隷制に反対する北軍の将軍として南部連合軍を破っています)や、北軍に参加した移民の像や、南北戦争の際に結成されたアフリカ系アメリカ人部隊の記念碑なども、最近、破壊されている。 少し、補足しておくと、アンティファは、彼らが“差別主義者”と認定した人物の像や記念碑のみならず、南北戦争の北軍に従軍した元奴隷や、あるいは奴隷州から逃げて自由州で育った元奴隷の子孫の2世、3世の黒人たちで構成された“アフリカ系米国人部隊の記念碑”も破壊していたわけです。もはや、“銅像を見れば破壊したくなる”という精神疾患に冒されていると言っていいでしょう。 あるいは、破壊衝動を満たしたいがために、中国の文化大革命のときの紅衛兵よろしく、なんでもかんでも破壊しても「造反有理」(文革当時に紅衛兵が使っていた「謀反には道理がある」という意味のスローガン)の代わりに「差別だ!」といえばすべてが許されるというような錯覚に陥っているのかもしれません。 それに応えるような形で、トランプは大統領令の中で「記念碑の建立や撤去を平和的に訴える権利は、誰にでも、そしてどんな団体に対しても認められている。しかし、いかなる記念碑であろうとも、暴力を用いて傷つけたり、汚したり、撤去したりする権利はない」と述べ、誰もが否定できない“常識”を強調していたことは、もっと知られても良いのではないかと思います。 なお、この辺りの事情については、拙著『世界はいつでも不安定』でも縷々まとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★★ 全日本切手展のご案内 ★★★ 昨年(2020年)はコロナ禍で中止のやむなきに至った全日本切手展(全日展)ですが、本年は、6月25-27日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で開催されます。詳細は切手展の公式HPをご覧ください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 6月21日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 7月3日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座 7月3日・10日・17日・24日・31日、8月7日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。お申し込みを含め、詳細については、こちらをクリックしてご覧ください。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-12 Thu 03:12
今月3日の米大統領選と同時に実施された上院選は、きのう(11日)までにアラスカ州の共和党候補で現職のダン・サリバン議員が、民主党候補のアル・グロス氏を抑えて再選を確実にしました。というわけで、きょうはアラスカに関連してこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1937年11月12日に米国が発行した“アラスカ準州”の切手で、アラスカのシンボルとして知られるマッキンリー山(現デナリ山)が取り上げられています。 18世紀末以降、ロシア人は狩猟や交易のために北米大陸の太平洋岸に進出していましたが、1853年から56年にかけてのクリミア戦争で財政が大いに逼迫したため、ロシアはアラスカの売却を決定します。ただし、クリミア戦争で敵対した英国にだけは売却したくなかったため、1859年、米国に話を持ち込みます。ところが、交渉途中の1861年に南北戦争が勃発。このため、アラスカ売却の話もうやむやになってしまいました。 そこで、戦争終結後の1867年、ロシア側は改めて米国にアラスカ売却交渉をもちかけ、1867年3月30日、国務長官のウィリアム・スワードはアラスカ購入条約の調印にこぎつけています。 米国がアラスカの58万6412平方マイル(151万8800平方キロ)の土地に対して支払った金額は720万ドル。1エーカー(約4000平方メートル)あたり、わずか2セントという金額でした。ちなみに、当時の米国の書状基本料金が3セントでしたから、封書1通差し出すよりも、アラスカの土地1エーカーの方が安かったということになります。 もっとも、当時のアラスカは人跡未踏の辺境の地でしたから、条約そのものは4月9日に上院で批准されたものの、世論の評判は散々で、新聞各紙は新たな合衆国領土を“スワードの冷蔵庫”ないしは“ジョンソンのホッキョクグマ庭園”などと揶揄し、アラスカ購入は“スワードの愚行”として散々たたかれました。 結局、スワードが1872年に亡くなるまで、米国民はアラスカ購入をぼろくそに批判し続けるのですが、1896年、アラスカで金鉱が発見されるとその評価は一変。チャップリンの『黄金狂時代』に見られるようなゴールドラッシュとアラスカ・ブームが到来し、人々は突如として、スワードの“先見の明”を褒めたたえるようになったというのですから、勝手なものです。 なお、米国がアラスカを購入して以来、カナダとの間で国境問題をめぐる対立が続いていましたが、1903年に調停が成立したことでで現在の国境が確定。1912年にはアラスカは“準州”となり、1959年には米国の49番目の州に昇格し、現在にいたっています。 * 昨日(11日)の八重洲・イブニング・ラボでの内藤のトーク・イベントは、無事、終了いたしました。ご参加いただきました皆様ならびに開催の労を取ってくださいました上念司さんをはじめスタッフの方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。 ★ 11月12・19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月12日(木)と19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-07-09 Tue 01:55
米国の大富豪で、40人もの未成年売春を斡旋し、傷つけた罪で13か月の服役した前科のあるジェフリー・エプスタインが、6日(現地時間)、14歳の少女を含む未成年者に対する人身売買容疑であらためて逮捕・起訴されました。エプスタインは、彼が所有する米領ヴァージン諸島のリトル・セント・ジェームズ島と米本土を自家用ジェット(通称“ロリータ・エクスプレス”)で往来しつつ、性的目的で未成年の男女を人身売買し、その顧客には、ビル・クリントン元大統領を含む各界の著名人も多数含まれていたとの疑惑がもたれています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1937年に米国が発行した米領ヴァージン諸島領有20周年の記念切手です。 西インド諸島のプエルト・リコの東に位置するヴァージン諸島は、かつては、スペイン、デンマーク、フランス、英国が分割して領有していました。このうち、最も西側のビエケス島やクレブラ島などは、当初はスペイン領でしたが、1898年の米西戦争によって米領となり、現在はプエルト・リコの一部となっています。一方、最も東側のトルトラ島とヴァージン・ゴルダ島などは現在も英領のままです。 これに対して、中間地域のセント・トーマス島とセント・ジョン島などは、1666年にデンマークが領有権を獲得。さらに、残るセント・クロイ島に関しても、もともとはフランス領でしたが、1733年にデンマークが買収し、先の2島を中心とした地域と併せて、デンマーク領西インド諸島 が成立しました。 デンマーク領西インド諸島の中心となったセント・トーマス島は、1851年から1885年にかけて、スペイン領ヴァージン諸島との交易の中心となっていました。郵便に関しては、1856年以降、デンマーク領西インド名義の正刷切手が使用されましたが、これと並行して、1867年から1879年までは、英国局も設けられ、英本国の切手が持ち込まれ、“C51”の番号が入った抹消印が使用されています。 その後、第一次世界大戦中の1917年、米国はパナマ運河をドイツ軍から防衛するため、デンマークからデンマーク領西インド諸島を 2500 万ドルで購入。これが、現在の米領ヴァージン諸島のルーツとなりました。 ただし、米領ヴァージン諸島は、行政的には、“非法人地域”の扱いとされているため、市町村に相当する基礎自治体は存在せず、したがって、住民には、米国の市民権が与えられ、本土への渡航や本土での就職は自由であるものの、大統領および連邦議会議員の選挙権は認められていない(ただし、連邦下院に、投票権のない代表を 1 名参加させる権利は認められています)などの制約があります。 こうした事情のゆえに、米領ヴァージン諸島の島々の中には、米国当局の手が届きにくい場所もあり、エプスタインはそれを利用して悪事を働いていたというわけです。エプスタインの“ロリータ・エクスプレス”の利用者は、クリントン元大統領の他にも、米国の政財界、芸能界のみならず、英国王室や日本、中国、香港などにも、数多く存在していたとみられており、今後の捜査状況によっては、全世界規模の大スキャンダルに発展する可能性も大いにありそうです。 ★★★ 全日本切手展のご案内 ★★★ 7月13-15日(土-月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにポーランド切手展が開催されます。全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-07-04 Thu 00:51
きょう(4日)は米国の独立記念日です。というわけで、来週13日から東京・錦糸町のすみだ産業会館で開催予定のポーランド切手展(全日本切手展と併催)のプロモーションを兼ねて、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1933年に米国が発行した“コシチュシュコ(コシューシコとも)没後150年”の記念切手で、ホワイトハウスに隣接したラファイエット公園のコシチュシュコ将軍像が描かれています。 アンジェイ・タデウシュ・ボナヴェントゥラ・コシチュシュコは、1746年、現在のベラルーシ領コサヴァ市近郊で、ベラルーシ系貴族の家庭に生まれた。ワルシャワの幼年学校を卒業後、1769年から1774年の間、ドイツ、イタリア、フランスに派遣されて軍事教育を受け、1776年から1783年まで、米独立戦争に義勇兵として参加。ジョージ・ワシントンの副官として戦い、その戦功により陸軍准将に昇進しました。今回ご紹介の切手のみならず、その元になった銅像がホワイトハウスのすぐ近くに建てられていることからも、外国人でありながら、米国独立のために尽くした志士としてのコシチュシュコに対して、米国社会が深い尊敬の念を抱いていることがわかります。 さて、米国独立後、コシチュシュコは帰国し、1791年にはポーランド・リトアニア共和国の4年議会に議員として参加。ヨーロッパ初の民主主義成文憲法「5月3日憲法」の制定に尽力しました。しかし、1792年、新憲法めぐるロシア帝国の干渉と戦ったポーランド・ロシア戦争に敗れ、ライプツィヒ、パリに亡命します。 1793年、第2回ポーランド分割が行なわれると、ポーランドに戻ってクラクフで蜂起。ラツワヴィツェの戦いでロシア軍に大勝し、一時はワルシャワ、ヴィリニュスを制圧したものの、最終的にロシア・プロイセン連合軍に圧倒され、1794年10月には彼自身もロシア軍の捕虜となりました。そして、コシチュシュコの敗北によりポーランド国家は完全に消滅してしまいます。 なお、ポーランド消滅後、コシチュシュコはフランスを経てスイスに移住し、1817年、ゾーロトゥルンで亡くなりました。 さて、ことしは、1919年に日本とポーランドの外交関係が樹立されて100周年ということで、7月13-15日に東京・錦糸町のすみだ産業会館で開催の全日本切手展では、日本・ポーランド国交樹立100周年の記念事業として、駐日ポーランド共和国大使館ならびにポーランド広報文化センターのご後援の下、ポーランド切手展を併催します。 同展では、ポーランドの切手・郵便史のコレクションとしては世界有数の質・量を誇る山本勉コレクションを中心にした展示のほか、1964年にポーランドで発行された“笑う猫”の切手をモチーフにした小型印(下の画像)も使用されますので、ぜひ、遊びに来てください。 ★★★ 全日本切手展のご案内 ★★★ 7月13-15日(土-月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにポーランド切手展が開催されます。全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-08-15 Wed 01:49
1948年8月15日に大韓民国政府が正式に発足して、きょうで70年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1944年11月、米国が発行した“枢軸国に抑圧されている国々”の切手のうち、“KOREA”を題材とした切手で、中央には太極旗が大きく描かれています。なお、田型ブロックのうち、左上の1枚は、“KOREA”とすべき国名表示の部分が、“E”の字がつぶれて“KORPA”になっているように見えるバラエティになっているのがミソです。 韓国の現行憲法は、その前文で、現在の大韓民国が「三・一運動により建てられた大韓民国臨時政府の法統」を継承すると規定しています。そして、この“臨時政府”が大韓民国23年(西暦の1941年に相当)12月10日付で大韓民国臨時政府主席の金九ならびに同外交部長の趙素昴の名義で「大韓民国臨時政府対日宣戦声明書」を発したことを根拠に、韓国は連合国の一員であり、対日戦勝国であるということになっています。 “大韓民国”の建国を、上記の“臨時政府”ができた1919年4月13日とみるか、米ソによる朝鮮半島の南北分割を経た1948年8月15日とみるかについては、韓国内でも長年、論争となってきました。大雑把にいうと、いわゆる左派は、1987年の民主化以前の韓国を否定的に評価する立場から、前者の立場をとり、いわゆる保守派(ただし、朝鮮半島の歴史的な文脈では、彼らは保守ではなく、革新派ですが…)は後者の立場をとっています。前大統領の朴槿恵が、2016年8月15日の演説で「光復70年、建国67年」としているのに対して、現大統領の文在寅が昨年(2017年)8月15日の演説で「2年後の2019年は韓国の建国と臨時政府樹立100年になる特別な年」と語っているのは、その典型的な事例です。 また、文在寅のこうした立場を反映して、過去10年ごとに発行された“大韓民国政府成立”の周年記念切手も、今回は発行が見送られています。 歴史的事実という点から言えば、第二次大戦以前の世界では、アジア・アフリカ地域の大半は植民地支配下にありましたから、大韓民国臨時政府も、名称はどうあれ、その他地域の独立運動組織と同様の存在とみなされていました。ただし、“臨時政府”が連合国・枢軸国の双方から、国際的に正規の“亡命政府”として承認されることはありませんでした。したがって、彼らが1941年に発したとされる“宣戦布告”も国際法上は何らの効力もありません。ちなみに、実質的に日本の属国ないしは傀儡政権とみなされていた満洲国でさえ、ドイツ、イタリア、スペイン、バチカンなど23ヵ国から国家承認を受けていましたが、“臨時政府”のプレゼンスはそれとは比べぶべくもなく、ロンドンに拠点を構えていたポーランドやフランス、オランダ、ノルウェーの亡命政権にくらべるとはるかに格下の存在というのが国際的な理解でした。 このため、日本の敗戦後、朝鮮半島の38度線以南に進駐した米軍は(そもそも、国際社会が朝鮮を戦勝国と認知しているなら、朝鮮半島を米ソ両軍が分割占領することはもないはずです)、ただちに臨時政府の正統性を否定。1948年の大韓民国成立後、大統領の李承晩が「対日講和条約に戦勝国として参加したい」という要求しても、(真の対日戦勝国である)米英両国はこれを一蹴しています。 ところで、第二次大戦に参戦した米国は、自らの戦争目的を「ファシズムに対して自由と民主主義を守ること」であると主張。このため、大戦中の1943年11月、ローズヴェルト、チャーチル、蒋介石の三国首脳は「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、しかるべき順序を経て朝鮮を自由かつ独立のものとする」ことをうたったカイロ宣言を発表します。この一項は、中国の強い要望を容れるかたちで盛り込まれたものですが、のちに、ソ連もこれを承認。その結果、ともかくも日本降伏後の朝鮮の独立ということが連合諸国の基本方針として確定しました。今回ご紹介の切手も、そうした文脈に沿って発行されたものです。 ちなみに、米国は1943年以降、“枢軸国に抑圧されている国々”をテーマとした17種類のシリーズ切手を発行しています。切手はいずれも、中央に抑圧された国の国旗を描き、左側にはアメリカを象徴するワシを、右側には解放を象徴する女神を描くという統一の形式にとっており、韓国を取り上げた切手はその最後の1枚として登場しました。 たしかに韓国も、枢軸国の日本によって“抑圧されている国”といえなくもないのでしょうが、韓国併合は1910年のことで、これを第二次世界大戦と結びつけるのはかなり無理があります。そもそも米国は、1905年、日本の首相・桂太郎と、特使のタフト(当時、陸軍長官。後に大統領)との秘密協定により、自らのフィリピン支配を日本に認めさせる代償として、韓国における日本の優越権を認めており、日本が朝鮮半島を植民地化することに“お墨付き”を与えていたという経緯もありました。 それにもかかわらず、米国があえて韓国を切手に取り上げたのは、日本によって“抑圧されている国”の実例として挙げられるのが、他になかったためと考えてよいでしょう。 第二次大戦中の日本軍占領地域の大半は、開戦以前、連合諸国が植民地支配を行っていましたから、ビルマやフィリピンなどを“日本によって抑圧されている国”と非難するなら、戦前、これらの地域を支配していた英国や米国も“抑圧者”ではないのか、という当然の疑問が投げかけられることになる。これは、ファシズムに対して自由と民主主義を守るためという“正義の戦争”を標榜する連合国にとって天に唾する結果になりかねません。そこで、米国としては「日本はアジアの解放を唱えながら朝鮮や台湾を植民地化し抑圧しているではないか」と言い出したと見るのが妥当と思われます。 ただし、米国が朝鮮半島の状況を正確に理解したうえで、その解放を真剣に考えていたかというと、たとえば、この切手に描かれている太極旗のデザインを見ると、どうやらそういうわけではなさそうです。 旧大韓帝国の国旗でもあった太極旗は、朝鮮王朝時代の1882年8月、朝鮮の特命全権大使にして修信使の朴泳孝が日本に向かう船中でその原型を考案したとされています。船上で朴が考案したという太極旗のプロトタイプは、中央に青と赤で陰陽を表現した太極文様(ただし、太極文様の陰陽は単色で表現されるが一般的で、韓国の国旗に見られるような二色使いのものは中華文化圏の伝統からすると例外的です)を描き、その周囲に八卦を配するデザインでした。 しかし、英国人船長ジェームスから、八卦が複雑で区別しにくく、朝鮮国旗として他国が制作する場合に誤りが生じやすいとの指摘があったため、八卦のうち半分の4つを削って、残りを45度かたむけて四隅に配するというパターンに改められました。ちなみに、現行の太極旗に取り上げられている卦は、左上が天を示す“乾”、右下が地を示す“坤”、右上が月を示す“坎”、左下が日を示す“離”となっています。 太極旗のデザインは、卦の大きさや位置、太極の構図などが細かく変化しており、朴泳孝の時代から1945年までの約60年の間にもさまざまなヴァリエーションがつくられましたが、今回ご紹介の切手の太極旗は、中央の太極文様が19世紀のスタイルのままとなっており、第二次大戦中に使われたもの(現行の太極旗と同じ)とは異なっています。米国が“臨時政府”を正規の“亡命政権”として認知していたのであれば、当然、国旗のデザインも臨時政府側に照会の上、当時の正式な太極旗を正確に切手上に再現したはずですが、現実にはそうなっていません。 いずれにせよ、米国が“抑圧されている国々”の一つとして韓国を取り上げたのは、あくまでも目の前の敵である日本を非難するための手段でしかなく、太極旗の文様が多少間違っていようと、そんなことは些事でしかないと考えられていたように見えるということは留意しておいても良さそうです。 なお、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-01-21 Sat 10:13
昨年11月の米大統領選挙で当選したドナルド・トランプが、20日正午(日本時間21日午前2時)、首都ワシントンの連邦議会議事堂前での大統領就任式で宣誓し、第45代米国大統領に就任。新大統領は就任演説で、“米国第一”主義を宣言し、「我々は二つの簡単なルールに従う。米国製品を買い(バイ・アメリカン)、米国人を雇う」と述べました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1933年3月4日、フランクリン・デラノ・ローズヴェルト(ルーズヴェルトとも。以下、FDR)の大統領(1期目)就任記念のカバーで、大恐慌からの脱却のための方策としてFDRが選挙中に掲げていた“バイ・アメリカン”のスローガンの書かれた封筒に切手を貼り、就任式当日のFDRゆかりのニューヨーク市庁舎別館局の消印が押されています。 大恐慌の最中に成立したFDR政権は、世界的な保護貿易主義の高まりを反映して、はやくも1933年、バイ・アメリカン法(Buy American Act of 1933)を制定しました。これが、“バイ・アメリカン法”のルーツで、同法の規定そのものは現在も残っているほか、各州においても同様のバイ・アメリカン法が制定されています。 その後、米国が1947年にGATT(貿易と関税に関する一般協定)および1995年にGATTの規定を事実上吸収したWTO協定(世界貿易機関を設立するマラケシュ協定)の政府調達協定(GPA)の締約国になったため、協定締約国についてはバイ・アメリカン法の適用が免除されることになりました。逆に、中国、インド等の非加盟国・地域に対しては、現在でもバイ・アメリカン法の完全適用が可能になっています。また、国防省工兵隊など一部に除外規定があるほか、州政府レベルでWTO協定の対象となっているのはカリフォルニアなど37州にとどまっています。 ちなみに、トランプ新大統領が何かと槍玉にあげているメキシコはGPAの加盟国ではありませんが、NAFTA(北米自由貿易協定)の加盟国として、同協定で加盟国は相互に国産品優先調達を廃止することが合意されていることをもって、バイ・アメリカン法から除外されてきました。 トランプ新政権が強調する“バイ・アメリカン”ですが、じつは、オバマ前政権も2009年に景気対策として打ち出したことがあります。この時は、景気対策によって実施される公共工事の調達において、バイ・アメリカン法を適用し、米国製鉄鋼および製造品の使用を義務づけたもので、当初の法案では、GPAやNAFTAなどによる除外が考慮されておらず、保護主義的な側面が強かったために国際的な非難を浴び、諸協定で定められた対象諸国が適用を除外されるように修正されて議会を通過したという事情がありました。 それにしても、あまりにも先鋭化した左派リベラルの跋扈に辟易とした善男善女の支持を集めて大統領に当選したトランプが、米国の左派リベラルの源流ともいうべきFDRの金看板(の一つ)を就任式で強調するというのも(しかも、2人とも、ニューヨークの出身!)、なんだか歴史の皮肉を感じさせますな。もっとも、左派リベラルが反国家と直結しがちなどこかの国と違って、保守であれ、リベラルであれ、国益が第一という大原則は変わらないのだと言われれば、それまでなのですが…。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-11-09 Mon 22:45
きょう(11月9日)は、1938年に“水晶の夜”と呼ばれる大規模な反ユダヤ暴動が発生した日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、“水晶の夜”から間もない1938年12月6日、米国ミネアポリスからドイツ北部、ハンブルク=アルトナのユダヤ人女性宛に差し出されたものの、“移住”先不明で差出人戻しとなった郵便物です。 1933年1月30日、反ユダヤ主義を掲げて政権を獲得したヒトラーとナチス(国家社会主義労働者党は、当初から、ユダヤ系ドイツ人を迫害しており、1935年9月15日には、いわゆる“ニュルンベルク法(具体的には「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」と「帝国市民法」)を制定し、4人の祖父母のうち1人でもユダヤ人がいる者を“ユダヤ人”と規定。ユダヤ系の市民を、“完全ユダヤ人”から“第2級混血ドイツ人”までに3分類したうえで、“完全ユダヤ人(4人の祖父母のうち3人以上がユダヤ人、同2人以上がユダヤ人で、本人がユダヤ教徒、ユダヤ人と結婚している者、ドイツ人とユダヤ人の間に生まれた者)” の公民権を剥奪しました。 ただし、この規定は、あくまでもドイツ国籍を持つユダヤ系住民を対象としたもので、ドイツ国内に居住する外国籍のユダヤ人に対しては、さすがのナチス・ドイツも、他の在住外国人としての権利が認めざるを得ません。こうした状況の下で、ドイツ在住のユダヤ系外国人のうち、大きな勢力となっていたのがポーランド国籍の保有者でした。 現在のポーランド国家は、国民の90%以上がポーランド人(カシュープ人やグラル人を含む)によって構成されており、事実上の単一民族国家となっていますが、これは、第二次世界大戦末期のポツダム会談の結果、領土全体が地理的に西側へ移動したことによるもので、第一次大戦後にポーランド第2共和国が発足した時点の民族構成では、ウクライナ人14.3%、ユダヤ人10.5%、ベラルーシ人3.9%、ドイツ人3.9%などと、少数民族が人口の約3割を占める多民族国家でした。こうした中で、(狭義の)ポーランド人の間には反ユダヤ主義の風潮が根強く、1936-37年にはポーランド各地で流血を伴う反ユダヤ暴動が発生しています。 このため、ポーランド政府は国内のユダヤ人口を減少させることが問題の解決になると考えるようになり、ユダヤ人の国外移住を“奨励”。その結果、隣国であるドイツ国内には、ポーランド国籍のユダヤ人が多数居住するという状況になっていましたが、ナチスによるユダヤ人迫害が激しさを増すにつれ、ユダヤ系ポーランド人の中にはポーランドに帰国する者も急増します。 これに対して、上述のような事情から、ユダヤ系国民の帰還を望んでいなかったポーランド政府は、1938年10月6日、ポーランド政府は、発行済みの全てのポーランド旅券に、あらためて検査済みの認印を押さなければならないとする新旅券法を布告。同法の施行により、ドイツをはじめ国外在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効化しようとします。 一方、当時のナチス・ドイツは、みずからの支配地域からユダヤ人を追放することを政策として掲げていたため、ポーランドの新旅券法が施行される10月30日以前に彼らをポーランドに強制送還すべく、10月28日、警察組織を動員して、ユダヤ系ポーランド人1万7000人をポーランドとの国境地帯に移送します。ところが、ポーランド側は国境を閉鎖して、“ポーランド国民”であったはずのユダヤ人の受け入れを拒否します。 こうして、国境地帯でユダヤ系ポーランド人が事実上の難民生活を余儀なくされる中、彼らの一人であったセンデル・グリュンシュパンが、パリ在住の息子、ヘルシェルに惨状を訴えました。ヘルシェルはドイツに対する怒りから、ドイツ大使館員を暗殺することで世界にユダヤ人の惨状を訴えることを企図し、11月7日、駐仏ドイツ大使館の三等書記官エルンスト・フォム・ラートを射殺します。 この事件をきっかけに、11月9日から10日にかけて、ドイツ各地(併合後まもないオーストリア、ズデーテン地方を含む)で大規模な反ユダヤ暴動(官製暴動である疑いが極めて濃厚)が発生。フランスとの国境に近いドイツ西部を中心に、177のシナゴーグと7500のユダヤ人商店や企業が破壊され、91人のユダヤ人が殺害されました。 ちなみに、“水晶の夜”という名称は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたとしてゲッベルスが命名したものですが、その由来となったガラス被害だけで、ユダヤ人の損害額は600万ライヒスマルクに及んでいます。 一連の事件を通じて、被害者であるはずのユダヤ人3万人が警察に逮捕され、彼らを収容するためにダッハウ、ブーヘンヴァルト、ザクセンハウゼンの各収容所は拡張されたほか、各種の法令により、ユダヤ人の人権は次々に剥奪され、12月以降、ユダヤ人は公の場から事実上追放されてしまいました。この結果、多くのユダヤ人がドイツを脱出して国外へ亡命しようとしますが、実際には、彼らの多くは各地の港をたらいまわしにされたうえ、最終的にヨーロッパへと戻ってこざるを得ませんでした。そこへ、1939年9月、第二次大戦が勃発し、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺が本格的にスタートすることになるのです。 なお、“水晶の夜”に関しては、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 2350円+税 【出版元より】 若く美しい女王の横顔に恋しよう! 世界最初の切手 欲しくないですか/知りたくないですか 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 2000円+税 【出版元より】 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-01-15 Thu 16:20
米カリフォルニア州のヨセミテ国立公園にある巨大な一枚岩“エルキャピタン”で、米国人プロ・クライマーのトミー・コールドウェルとケビン・ジョージソンが、きのう(14日)、道具を使わないフリークライミングで、最難関とされるルート“ドーン・ウォール”の登頂に成功しました。世界初の快挙だそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1934年に米国で発行されたヨセミテ国立公園の切手で、手前には、今回話題となったエルキャピタンが大きく描かれています。 ヨセミテ国立公園はカリフォルニア州中央部のシエラネバダ山脈西麓に位置し、ヨセミテ渓谷を中心に、3081平方キロメートルの広さがあります。 この地域は、およそ1000万年前にシエラネバダ山塊が隆起し、その後傾斜したことで、西側の緩やかな高原と、東側の急峻な山肌が誕生するとともに、川の流れも急になり、深い渓谷が形成されました。次いで、約100万年前に、降り積もった雪と氷が氷河となって高山の草原帯を覆い、その流れによる浸食の結果、U字谷が形成されます。そして、そそり立つ白い花崗岩の絶壁と流れ落ちる多くの巨大な滝、谷や木々の間を流れる澄んだ大小の川、ジャイアントセコイアの巨木の林、アメリカグマや、アライグマなどの哺乳類が約100種類、鳥類が200種類以上棲息するという多様な生物環境が形成されました。 今回話題となったエルキャピタンはヨセミテ渓谷の北側にそそり立つ巨岩で、渓谷の谷床からは約1000メートルの高さがあり、花崗岩の一枚岩としては世界最大です。ロッククライミングに開放されたのは1950年代以降のことで、1958年、ウォレン・ハーディングらが初登頂に成功しました。 ちなみに、エルキャピタンという名前は“(岩の)族長”を意味するスペイン語で、米墨戦争によってカリフォルニアが米国領となった後の1851年、ジム・サヴェジ少佐が率いるマリポサ歩兵大隊の医師、ラファイエット・バンネルが命名しました。 なお、米墨戦争とその前後の状況については、拙著『大統領になりそこなった男たち』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ イベント「みんなで絵手紙」(2月8日)のご案内 ★★★ 2月8日(日) 10:00-17:00に東京・狛江のエコルマホールにて開催のイベント「みんなで絵手紙 見て、知って、書いて、楽しもう」のトークイベントに内藤陽介が登場します。内藤の出番は13:30-14:15。「切手と絵・手紙」と題してお話しする予定です。是非、遊びに来てください。主宰者サイトはこちら。画像をクリックしていただくと、チラシの拡大画像がごらんになれます。 ★★★ 講座「切手と郵便物に刻まれた“終戦”」(2月20日)のご案内 ★★★ 2月20日13:00~14:30、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、「切手と郵便物に刻まれた“終戦”」と題する講座を行います。 2015年は第二次世界大戦の終戦から70周年にあたります。終戦の年の1945年はあらゆる意味で社会が激変した年ですが、その影響は切手や郵便物にもさまざまな痕跡を残しています。今回の講座では、当時の切手や郵便物を読み解いていくことで、一般の歴史書では見落とされがちな終戦の諸相を、具体的なモノの手触りとともに明らかにしてみたいと思っています。 詳細は、こちらをご覧ください。(画像は、日本の降伏文書調印が行われた米軍艦ミズーリ号から降伏文書調印日に差し出された郵便物の一部分です) ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 毎月1回(原則第1火曜日:2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 次回開催は2月3日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました! ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-02-10 Fri 22:11
東日本大震災からの復興施策を統括する復興庁が、きょう(10日)発足し、本格的に業務をスタートさせました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1933年8月15日にアメリカで発行された“全国復興庁”を宣伝するための切手です。全国復興庁の英文名称は“National Recovery Administration:NRA”ですが、きょう発足したわが国の復興庁の英文名称もこれと同じだそうです。 1933年1月にアメリカ大統領に就任したフランクリン・デラノ・ルーズヴェルトは、金看板であるニューディール政策を実施するための最も重要な法律として、同年6月、全国産業復興法(National Industrial Recovery Act:NIRA)を制定します。同法の骨子は、企業の生産活動を規制すると同時に、労働者の団結権や団体交渉権を認め、最低賃金を確保して生産力や購買力の向上を目指そうとするものでした。そして、その施行を管轄するための行政組織として設置されたのが、今回ご紹介の切手の主題となったNRAだったというわけです。 ちなみに、今回ご紹介の切手のデザインは、NRAの宣伝ポスターを元に作られましたが、ポスターでは、左から2番目の人物がルーズベルトになっていました。ところが、昨年まで、アメリカでは存命中の人物は原則として切手に取り上げないという不文律がありましたので、切手収集家でもあったルーズベルトが直々にポスターの自分の顔に髭を加えるなどの修正を施して、この切手が世に出ることになったといわれています。 なお、ニューディール政策に関しては、左派リベラル色が強すぎるとしてアメリカ国内にも批判が強かったのですが、特に、その中核をなす産業復興法への反発は強く、1935年、合衆国最高裁判所は同法に違憲判決を下しています。この結果、産業復興法は2年足らず廃止され、最低賃金や労働時間などを定めた労働法に関する部分は1935年の全国労働関係法に引き継がれることになりました。 それにしても、米国のNRAがルーズベルト政権発足から半年後には発足していたのに対して、わが国のNRAは震災から1年が過ぎようとする今日になって、ようやく発足ですか。まぁ、単純な比較はできないにしても、今までの遅れをリカバーすべく、これからはネジを巻いて頑張ってもらうしかありませんな。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 年賀状の戦後史 角川oneテーマ21(税込760円) 日本人は「年賀状」に何を託してきたのか? 「年賀状」から見える新しい戦後史! ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(2011年11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、12月1日付『全国書店新聞』、『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星、TBSラジオ鈴木おさむ 考えるラジオ(12月10日放送)、12月11日付『京都新聞』読書欄、同『山梨日日新聞』みるじゃん、12月14日付『日本経済新聞』夕刊読書欄、同サイゾー、12月15日付『徳島新聞』鳴潮、エフエム京都・α-Morning Kyoto(12月15日放送)、12月16日付『岐阜新聞』分水嶺、同『京都新聞』凡語、12月18日付『宮崎日日新聞』読書欄、同『信濃毎日新聞』読書欄、12月19日付『山陽新聞』滴一滴、同『日本農業新聞』あぜ道書店、[書評]のメルマガ12月20日号、『サンデー毎日』12月25日号、12月29日付エキレピ!、『郵趣』2012年1月号、『全日本郵趣』1月号、CBCラジオ「朝PON」(1月26日放送)、『スタンプマガジン』2月号、『歴史読本』2月号、『本の雑誌』2月号で紹介されました。 amazon、bk1、e-hon、HMV、livedoor BOOKS、紀伊國屋書店BookWeb、 セブンネットショッピング、楽天ブックスなどで好評発売中! |
2011-12-08 Thu 16:35
1941年12月8日の真珠湾攻撃と日米開戦から、きょうで70年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、日米開戦直前の1941年11月25日、アメリカのノース・カロライナ州ウィルミントンから蘭印ジャワのバタヴィア宛に差し出されたものの、開戦により現地への送達が不能となったため差出人戻しとなったカバーです。カバーに貼られている切手には、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱した“モンロー主義”で知られる第5代大統領のジェームズ・モンローの肖像が描かれています。真珠湾攻撃を機にアメリカがそれまでの(名目的なものであるにせよ)中立政策を廃し、日独伊に対して宣戦布告することになったことを考えると、このカバーにモンローの切手というのは何とも皮肉な組み合わせですな。 いわゆる太平洋戦争の開戦は国際郵便の世界にも大きな影響をもたらし、送達不能で差出人戻しとなる郵便物が多数生まれました。これまで、このブログでも、アメリカから、香港宛、フィリピン宛、朝鮮宛、ガダルカナル宛に差し出されたものの、差出人戻しとなったカバーをご紹介しましたが、まだ、ビルマ宛、中国大陸宛、日本宛、マレー・シンガポール宛、ボルネオ宛などはご紹介していません。さらに、これらの地域からアメリカ宛のものや、他の連合諸国から差し出された返戻便なども考えると、その組み合わせはかなりの数になるはずですから、それだけで見ごたえのあるコレクションができそうです。 ちょっと腰を据えて取り組んでみようかな。 ★★★ ラジオ出演のご案内 ★★★ ・12月10日(土) 鈴木おさむ 考えるラジオ TBSラジオ(954kHz )で19:00から放送の番組に『年賀状の戦後史』の著者として内藤が生放送出演します。ぜひ聞いてやってください。なお、放送番組の常として、諸般の事情により、急遽、内容が変更となる可能性もありますが、その場合はあしからずご容赦ください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 年賀状の戦後史 角川oneテーマ21(税込760円) 日本人は「年賀状」に何を託してきたのか? 「年賀状」から見える新しい戦後史! ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星で紹介されました。 amazon、bk1、e-hon、HMV、livedoor BOOKS、紀伊國屋書店BookWeb、 セブンネットショッピング、楽天ブックスなどで好評発売中! ★★★ 好評既刊より ★★★ ハバロフスク(切手紀行シリーズ④) 彩流社(本体2800円+税) 空路2時間の知られざる欧州 大河アムール、煉瓦造りの街並み、金色に輝く教会の屋根… 夏と冬で全く異なるハバロフスクの魅力を網羅した歴史紀行 シベリア鉄道小旅行体験や近郊の金正日の生地探訪も加え、充実の内容! amazon、bk1、e-hon、HMV、livedoorBOOKS、紀伊國屋書店BookWeb、セブンネットショッピング、楽天ブックスなどで好評発売中! |
2008-10-18 Sat 10:19
きょうから、東京・六本木ヒルズとBunkamura をメイン会場に第21回東京国際映画祭がスタートします。というわけで、今日は映画ネタの切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1944年10月31日、アメリカで発行された“映画50年”の記念切手です。 一般的には、映画の歴史は、1895年12月28日にフランスのリュミエール兄弟によって映画が最初に公開されたことから始まるとされていますが、1891年、アメリカの発明王トマス・エジソンが、大きな箱の中にフィルムを装填し、筒の中を覗き込むという“キネトスコープ”を発明。このキネトスコープによって見るための映画は1894年に制作されています。今回の切手も、ここから起算しての50年ということのようです。 この切手が発行された当時は、第二次大戦の真っただ中でしたので、南太平洋の戦場での慰問映画の上映場面が取り上げられています。 ところで、南太平洋での慰問映画というと、僕は、マッカーサーがらみで、以下のようなエピソードを思い出します。 ガダルカナル島をめぐる激戦が展開されていた頃、日本の船隊に壊滅的な打撃を与えたものの、自らも大きな損害を被った海兵隊の航空部隊が、ガダルカナル島の南にあるエスピリッツ・サント島にたどり着きました。彼らは自分たちの戦果が大々的に報じられるものと思っていましたが、発表された戦況公報では、なんと、マッカーサーは海兵隊のことには何も触れず、自分の指揮下にある航空隊(実際には、このときの戦闘からかなり離れた場所にいた)が日本の船隊をやっつけたと事実を曲げて発表しています。 手柄を横取りされた格好の海兵隊の怒りは収まらず、マッカーサーへの不満が鬱積。公報が発表された晩、将兵慰問のニュース映画で、たまたま、マッカーサーが登場する場面が映し出されるや、彼らの不満が爆発。スクリーンには雨あられの如くヤシの実が投げつけられ、映画小屋もめちゃくちゃに破壊されてしまいました。この一件以降、海兵隊では“マッカーサー”は完全にタブーとなり、ニュース映画を映す場合には、必ず前もって点検し、マッカーサーの登場場面をことごとく切り取るようにしたのだそうです。 なお、僕の最新作『大統領になりそこなった男たち』(中公新書ラクレ)では、マッカーサーについても1章を使って、その波乱に富んだ生涯をまとめています。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 * 昨日、東京・南麻布での『韓国現代史:切手でたどる60年』のトークは、盛況のうち、無事終了いたしました。ご参加いただきました皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。また、けさ、カウンターが41万PVを越えました。重ねてお礼申し上げます。 イベントのご案内 10月18日(土) 「大統領になりそこなった男たち」刊行記念トーク 18:00~ 於・日本郵便文化振興機構(東京・用賀) 資料代として500円(ワイン・ソフトドリンク・軽食含む)を申し受けます。あしからずご了承ください。 詳しくは、主催者の告知ページをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ アメリカ史に燦然と輝く偉大な「敗者たち」の物語 『大統領になりそこなった男たち』 中公新書ラクレ(本体定価760円+税) 出馬しなかった「合衆国生みの親」、リンカーンに敗れた男、第二次世界大戦の英雄、兄と同じく銃弾に倒れた男……。ひとりのアメリカ大統領が誕生するまでには、落選者の累々たる屍が築かれる。そのなかから、切手に描かれて、アメリカ史の教科書に載るほどの功績をあげた8人を選び、彼らの生涯を追った「偉大な敗者たち」の物語。本書は、敗者の側からみることで、もう一つのアメリカの姿を明らかにした、異色の歴史ノンフィクション。好評発売中! もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
2008-10-16 Thu 20:13
先ごろ、今年度のノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎・米シカゴ大名誉教授について、文部科学省は、国別・分野別に集計しているノーベル賞受賞者の一覧表の中で、南部先生を米国の受賞者としてカウントすることを決めたそうです。まぁ、日本出身で米国籍を取得した人というのは、平たく言えば、日系アメリカ人(1世)ということになるわけですが、“日系人”というと、僕なんかはこんなカバーを思い出してしまいます。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦中、アメリカのニューメキシコ州ローズバーグの日系人収容所に抑留されていた日系人が差し出したカバーです。 1941年12月の日米開戦以前から、アメリカ国内では日系人に対するいわれなき差別感情が蔓延していましたが、日米開戦とともにアメリカ国内の反日感情が爆発。1942年2月19日、大統領のルーズベルトは、日本人移民とアメリカ市民である日系2世・3世(日本人の血が4分の1以上の者)を、戦争遂行を成功させるために強制収容するように命令。この結果、約12万人が全米10ヵ所に設けられた“戦時転住センター(Relocation Center)”という名の強制収容所に閉じ込められました。 当時、おなじくアメリカにとっての敵国民であったドイツ人・イタリア人に対しては、一部の反米的な人物が短期間、拘留されることはあったものの、集団強制収容はありませんでしたから、日系人に対するアメリカ側の措置が人種差別に基づくものであったことは明白といえましょう。 今回ご紹介のカバーも、そうした日系人差出のマテリアルで、宛先は、コロラド州アマチ収容所に収容されていた差出人の妻となっています。日系人男性の中には、親日の度合いが強いと認定された場合など、家族とは別の収容所に抑留されるケースもままありましたが、このカバーの差出人の男性もその一人であったと考えられます。 カバーには切手が貼られていないが、これは、アメリカ側が抑留者を“捕虜”として扱っていたため、捕虜の通信は無料で扱われるというジュネーブ協定が適用されたためです。また、このカバーは収容所当局から抑留者に支給されたもので、便箋を折りたたんで封筒状にするようになっており、内側には1943年1月5日発信との記述も見られます。なお、手紙などは同封できませんでした。もちろん、この手紙は、アメリカ側によって検閲を受けています。 ノーベル賞の南部先生は御年87ということですから、終戦時には24歳。米国籍を取得されたのは1970年ということなので、ジャパニーズ・アメリカンとしてはニューカマーの1世ということになるのでしょうが、同年代の方々の中には、筆舌に尽くしがたい体験をされた方々も数多くおられるということを考えると、先生には全く罪なきこととはいえ、あらためて、いろいろなことを考えさせられてしまいます。 イベントのご案内 以下の通り、トークイベントを行います。よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 10月17日(金) 在日本大韓民国民団記者懇談会 「韓国現代史:切手でたどる60年」(福村出版)をめぐって 18:30~ 於・在日本大韓民国民団中央会館8階会議室 (地図などはこちらをご覧ください) 激動の韓国現代史は、切手や郵便物にもさまざまな痕跡を残しています。切手や郵便物を通じて国家と歴史、時代や社会を読み解く“郵便学者”内藤陽介が、今年7月に刊行した『韓国現代史:切手でたどる60年』を題材に、切手というモノから見える韓国現代史のリアルな諸断面についてお話しします。参加は無料で、どなたでもご参加いただけます。なお、会の終了後、懇親会(会費5000円)を実施予定。 10月18日(土) 「大統領になりそこなった男たち」刊行記念トーク 18:00~ 於・日本郵便文化振興機構(東京・用賀) 資料代として500円(ワイン・ソフトドリンク・軽食含む)を申し受けます。あしからずご了承ください。 詳しくは、主催者の告知ページをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ アメリカ史に燦然と輝く偉大な「敗者たち」の物語 『大統領になりそこなった男たち』 中公新書ラクレ(本体定価760円+税) 出馬しなかった「合衆国生みの親」、リンカーンに敗れた男、第二次世界大戦の英雄、兄と同じく銃弾に倒れた男……。ひとりのアメリカ大統領が誕生するまでには、落選者の累々たる屍が築かれる。そのなかから、切手に描かれて、アメリカ史の教科書に載るほどの功績をあげた8人を選び、彼らの生涯を追った「偉大な敗者たち」の物語。本書は、敗者の側からみることで、もう一つのアメリカの姿を明らかにした、異色の歴史ノンフィクション。好評発売中! もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
2008-03-29 Sat 11:52
太平洋戦争末期の沖縄・渡嘉敷島と座間味島の集団自決をめぐって、集団自決を命じたとの虚偽の記述により名誉を傷つけられたとして、座間味島の守備隊長だった梅沢裕元少佐と、渡嘉敷島の守備隊長だった赤松嘉次元大尉の弟が、ノーベル賞作家で『沖縄ノート』著者の大江健三郎と出版元の岩波書店に出版差し止めと損害賠償などを求めていた裁判で、大阪地裁は旧日本軍が集団自決に「深く関与」していたと認定した上で原告の訴えを棄却する判決を出しました。
というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1945年3月28日、米軍の慶良間列島(渡嘉敷島・阿嘉島・座間味島)への上陸を記念して作られた“愛国カバー”で、上陸の日のバーモント州ビクトリー局の消印が押されています。イラストは「兵士たちが早く凱旋帰国できるように、国債を買おう」という趣旨のものです。おそらく、もともと戦時国債の購入を訴える封筒を慶良間列島上陸の記念カバー用に流用したのでしょう。 さて、今回の裁判で問題となっている渡嘉敷・座間美の集団自決については、占領時代の1950年に朝日新聞社から刊行された沖縄タイムス編『鉄の暴風』の記述を根拠に、軍が住民に集団自決を命じたとされてきました。占領時代の刊行ということを考えると、当時のラジオ番組「真相はかうだ」と同様、事実関係としての真偽はともかく、ことさらに日本軍の“旧悪”の噂を暴きたてようという時代の要請があったことは容易に想像がつくのですが、このあたりについては、とりあえず深入りするのは止めておきましょう。 今回の裁判となった大江の『沖縄ノート』の記述は、この『鉄の暴風』に依拠して書かれたものですが、『鉄の暴風』の記述に関しては、作家の曽野綾子が渡嘉敷島の集団自決の生存者を取材して1973年に発表『ある神話の背景』によって、隊長“命令”説は根拠に乏しいことが明らかになっています。さらに、座間味島についても、元守備隊長が自決命令はなかったと主張しており、隊長に自決用の弾薬をもらいに行ったが断られたという女性の証言があるほか、戦後の琉球政府で旧軍人軍属資格審査委員として軍人・軍属 や遺族の援護事業に携わった照屋昇雄も「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類をつくった」と証言し、当事者として軍命令説 を否定しています。 こうしたことから、沖縄戦の過程では、末端の軍人が住民に手榴弾を配って自決を強要したり、住民を殺傷したりすることがあったのは事実ですが、日本軍として組織的に沖縄住民に自決を強要したことがあったのかどうかは、大いに疑問であるという見方が近現代史の専門家の間では主流のようです。 昨年の昨年の高校日本史教科書の検定では、例えば「日本軍に集団自決を強制された」との記述が「日本軍の関与のもと、配布された手榴弾などを用いた集団自決に追い込まれた」と改められたのも、軍の“強制”の有無についての確証がない以上、教科書としては断定的な記述は避けるべきだという常識的な判断によるものです。この点を“誤解”して、ときどき、文部省は集団自決に軍がかかわっていたことを否定しようとしていると騒ぐ人がいますが、これは明らかに議論を取り違えています。 今回の裁判でも、原告側は集団自決に軍ないしは軍人が全く無関係であったと主張しているわけではなく、「軍が組織としてそれを命令したことはなかった」として『沖縄ノート』の記述に異議を唱えているわけですが、判決は「自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない」として肝心の“命令”についての判断をさけており、やはり、議論がかみ合っていない印象を禁じえません。控訴審では、ぜひとも、正面からかみ合った論戦を期待したいものです。 ちなみに、大江健三郎同様、いわゆる“進歩的知識人”の方々が高く評価している家永三郎の『太平洋戦争』では、以前は、渡嘉敷島での集団自決に関して隊長命令があったとの記述がありましたが、歴史学的に疑問が呈されるようになった1986年以降、問題の記述は削除されています。 もっとも、大江健三郎は作家であって歴史家ではないと考えるのなら、彼の著書の記述が事実であるかどうかは、それほど重要な問題ではないという議論もありうるのかもしれません。というよりも、僕としては、歴史家としてではなく、フィクションの大家としてノーベル賞までもらった大江が、なぜ、「自分の作品と事実を混同してもらっては困る」と言わないのか、不思議でならないのですが…。 |
2007-12-08 Sat 09:05
今日(12月8日)はいわずと知れた“真珠湾”の日。というわけで、定番ネタですが、日米開戦がらみということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、いわゆる太平洋戦争の開戦前にアメリカから香港に差し出されたものの、開戦により送達不能となって差出人戻しとなった書留便で、合計25セント分の切手が貼られています。裏面には、1941年10月25日のサンフランシスコ局の印と1942年4月29日のフォレスト・ノールの印が押されています。カバーには開封・検閲された痕跡はありません。おそらく、このカバーを積んだ船は、サンフランシスコを出た後、航海途中で日米開戦になり、サンフランシスコに引き返したのではないかと思います。 宛先の北京道(ペキン・ロード)は、地下鉄の尖沙咀(チムサチョイ)の駅の一番南側、Eの出口の近くで九龍一の繁華街、彌敦道(ネイザン・ロード)とぶつかる道です。九龍の土地勘のある人でしたら、現地の地理に明るい人でしたら、中国旅行社の看板の近くで、のぞきこむと上海料理の名店、滬江大飯店(ウーコン・シャンハイ)のド派手なネオン看板が見えるところといった方がイメージしやすいかもしれません・ 日英開戦に伴い、香港から海外宛に郵便物を差し出せなくなったことは以前の記事でもご紹介しましたが、今回はその逆バージョンとでもいうモノです。両者を並べてみると、戦争による香港の孤立を表現することができます。 太平洋戦争の開戦により、送達不能で差出人戻しとなった郵便物というのはいろいろあって、それらを発着地ごとにまとめてミニ・コレクションを作ってみようかと考えたこともあるのですが、なかなか実現しません。まぁ、気長に取り組むしかないでしょうね。 7月に刊行した拙著『香港歴史漫郵記』は、2004年のアジア展に出品したコレクションをベースに作ったのですが、当然のことながら、それ以降に入手したマテリアルも使っています。今回のカバーもそのひとつなのですが、書籍ではモノクロ図版でのご紹介してみたものの、なかなか実物を展示に使う機会もないので取り上げてみたという次第です。 |
2007-06-07 Thu 01:25
太平洋戦争のターニング・ポイントとなった1942年6月5~7日(アメリカ標準時では4~7日)のミッドウェイ海戦から、ちょうど65年になります。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、太平洋戦争勃発後の1942年3月23日(ミッドウェイの海戦の2ヶ月半前ですな)、ミッドウェイのアメリカ海軍基地から差し出された郵便物です。消印には“U.S. NAVY”だけで地名は入っていませんが、カバー左上には差出人がしっかりとMidway Islandsと差出地名を書き込んでいます。 ミッドウェイ島は、その名の通り、ハワイ諸島の北西、太平洋のほぼ真中にある島で、1859年7月、探検家のキャプテン・ブルックスによって発見されました。その後、1867年にアメリカが領有を宣言し、その際にミッドウェー島と命名されています。 ハワイを併合する以前、アメリカはそれまで無人島だったミッドウェイ島に人間を住まわせ、太平洋の補給基地を作ろうとしましたが、結果的に失敗。1903年に太平洋横断ケーブル敷設工事のため、関係者が上陸したものの、その後も、アメリカ海軍の下、わずかな海兵隊員が駐留するだけに留まっていました。 しかし、1935年にパンナムの飛行艇によるアメリカ=中国航路が開設されると、ミッドウェイ島は太平洋を横断する航空機の中継地として注目されるようになり、ハワイ防衛の拠点として軍事基地化が進められています。太平洋戦争中のミッドウェイ海戦も、そうしたアメリカの軍事的要衝を攻撃・占領することで、アメリカ海軍をおびき出して打撃を与えようとして、日本側が企画したものでした。 第2次大戦後も、ミッドウェイ島にはアメリカ海軍の基地が置かれていましたが、冷戦終結後、島は自然保護区に指定され、1996年に基地は閉鎖されました。その後、一時は観光客も受け入れられていたのですが、現在ではそれも中止されています。 さて、ミッドウェイ海戦は太平洋戦争の歴史を語る上で欠かせない出来事ですが、戦闘そのものはわずか3日間しか行われていませんから、それを切手や郵便物で表現しようとするのはかなり困難です。歴史的な重要性にもかかわらず、ブツがないという点では、5・15事件と並んで、昭和史のテーマティク・コレクションにとっての最大の泣き所の一つといえそうです。 結局、僕自身も、昨年ワシントンの国際展に出品した作品では、ミッドウェイ海戦のリーフは、今回ご紹介のカバーを持ってきてなんとか誤魔化したというのが正直なところです。ただ、以前の拙著『切手と戦争』では、スペースの都合でこのカバーは図版として使えず、アメリカの第2次大戦シリーズの切手のみの掲載だったので、それよりは大分ましですが…。 この辺りのマテリアルについては、友人の磯風さんがやっておられるブログ軍事郵便保存会・関西事務局員の日記に何か面白いモノが出てないかと思ってみてみたのですが、なんと、磯風さんのブログでは、今月下旬の拙著『香港歴史漫郵記』の刊行にあわせて早くも“香港祭り”をやってくださっていることが判明。今の時期に香港ネタを盛り上げてくださっている友情には感謝・感激なのですが、その一方で、磯風さんのブログにすごいものがズラズラっと並んでしまうと、僕の本は見劣りしてしまうなぁ、と少し心配になっている内藤でした。 |
2006-12-07 Thu 01:00
日米開戦の日を前に、第二次世界大戦中、アメリカ政府が“敵性外国人”として約12万人の日系人を抑留した“戦時転住所”(いわゆる強制収容所の米国側の正式名称)の一部を復元し保存する法案が米下院で可決されたそうです。
というわけで、こんなマテリアルを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、アメリカ西海岸の日系人に対して“戦時転住所”への移住を命じた指示書の文面を印刷した葉書です。ちなみに、裏面は、こんな感じになっています。 1941年12月8日の真珠湾攻撃をきっかけに日米が戦争状態に突入すると、アメリカ政府は日独伊出身の“敵性外国人”に対する監視を強化するようになります。このうち、有色人種への偏見もあって日系人は特に目をつけられ、“敵性外国人”として強制収容する計画が秘密裏に進められていきました。 こうした中で、1942年2月、日本の潜水艦によるカリフォルニア州の製油施設砲撃が成功すると、アメリカ人の反日感情はピークに達し、大統領のルーズベルトは、軍が必要がある場合(国防上)に強制的に外国人を隔離することを承認する「大統領行政令9066号」に署名しました。 これにより、アメリカ国内においては日本人の血が16分の1以上混ざっている日系アメリカ人は逮捕、拘束され収容所へ送られることとなります。収容所に送られることになった日系人の数は約12万人。彼らは家や財産を安値で買い叩かれ、砂漠地帯や人里から離れた荒地に送られ、苦難の生活を強いられます。もちろん、“敵性外国人”としてのドイツ系・イタリア系の人々も拘束されましたが、彼らの大半は収容所に送られることもなく、まもなく釈放されたのに対して、日系人は終戦まで収容所での生活を余儀なくされており、その待遇は明らかに差別的なものでした。 日系人の強制収容をめぐっては、1988年、レーガン大統領が「日系米国人補償法」に署名して公式に謝罪。一人当たり2万ドルの補償金の支払いを決めていますが、その後も収容所の保存運動が続き、アリゾナ州のポストン収容所で生まれた日系のドリス・マツイ下院議員(民主党)らが法案を提出し審議が続けられていました。 今回の法律では、アメリカ国立公園局が日系米国人組織などの協力を得て収容所の研究を進め、一部が復元・保存されることになっているとのことです。 今回ご紹介している葉書は、以前、拙著『切手と戦争』でも図版として使っているモノですが、イマイチ図版が小さくて文面が読みづらかったので、今回のニュースにあわせて取り上げてみました。もっとも、現物でも印刷されている文字は非常に小さくて読みづらいので、あまりお役には立てなかったかもしれませんが…。 |
2006-07-07 Fri 23:41
今日は7月7日。まぁ、世間では七夕の日というのでしょうが、天の川がらみで気の利いた切手が手元にあるわけでもないし、東京は曇り空で星は全く見えません。というわけで、やっぱり、盧溝橋事件の日にちなんで、こんな1枚を持ってきてしまいました。(画像はクリックで拡大されます)
この切手は、日中戦争のきっかけとなった1937年7月7日の盧溝橋事件から5周年を機にアメリカで発行されたもので、“中国人民の抗日5周年”との題名がつけられています。抗日戦争を戦う中国への支援を継続していく意志を内外に鮮明にするとともに、中国に対しては抗日戦争の継続を訴えようというアメリカの意図がはっきりと表現された切手です。 切手全体の構図は、中央に中国地図をはさんで、左右にリンカーンと孫文を配しており、孫文の下には彼の唱えた三民主義のスローガン“民族、民権、民生”が、リンカーンの下には有名なゲチスバーグ演説の一節“人民の、人民による、人民のための(政府)”が、それぞれ入っています。また、地図上には、中華民国の国章である晴天白日章が置かれ、その中には“抗戦建国”の文字と、抗日戦争の期間を示す“1937年7月7日”ならびに“1942年7月7日”の日付が入っています。 “抗戦建国”とは、1938年3月29日から4月1日まで、武漢大学礼堂で行われた中国国民党臨時全国大会で採択された方針で、「抗戦の目的は日本帝国主義の侵略に抵抗して国家民族の滅亡を回避することにあると同時に、抗戦中の工作をしっかりとこなし、建国という任務を完成させることにある」というものです。 次に、孫文とリンカーンの組み合わせですが、これは、孫文の三民主義がリンカーンの“人民の、人民による、人民のための(政府)”から着想を得たものであるとの中国側の主張に沿ったものと思われます。ただし、三民主義については、その文言のイメージから一般に誤解されている部分も少なくないので、若干の補足的な説明をしておく必要があるでしょう。 結論からいうと、孫文の三民主義は大衆=愚民という大前提に立っており、その点で、西欧風の普通選挙に基づく議会制度とは大いに異なっています。当然、“人民の、人民による、人民のための政府”に対しても、孫文は一貫して否定的な立場を取っていました。その根底にあるのは、中国の政治的伝統である“賢人支配の善政主義(選ばれた有能なエリートが能力のない大衆を善政によって導くことによって国家社会の幸福を実現する)”です。 たとえば、晩年の孫文は、政府と人民との関係について、「諸葛亮(孔明。『三国志演義』の天才軍師)は能(力)を持っていたが(主)権をもたず、阿斗(劉備の子。無能な皇帝として有名)は権を持っていたが能はなかった。阿斗は能を持たなかったが、政務をすべて諸葛亮にゆだね、諸葛亮が有能であったから、西蜀で立派な政府を樹立することができた」との比喩を用いて説明しています。これは「国民主権」の建前とは別に、国民を愚民視して政治参加を制限し、全権は国民党の政府にゆだねるべきとの意味にとらえられます。 さらに、孫文の後を継いだ蒋介石の国民政府は、孫文の路線をさらに徹底し、自らの支配地域において一党独裁を敷いており(もっとも、共産党の支配地域も一党独裁体制でしたが)、一般国民の自由な政治参加の道は事実上閉ざされていました。それゆえ、大戦中、国民政府が首都としていた重慶では政府関係者の腐敗が蔓延しており、アメリカとしても、事態を憂慮しています。 しかし、対日戦争の勝利という目先の目標が最優先された結果、アメリカは国民政府の抱えるさまざまな問題には目をつぶり、彼らを“民主主義陣営”の一員として支援する道を選んだのです。切手上で、本来、全く異質なものであるはずの三民主義と“人民の、人民による、人民のための政府”が同一視されているのも、そうしたアメリカの便宜主義の表れとみなしてよいでしょう。 なお、切手の背景に描かれている地図ですが、これは中国側が1938年にアメリカとの友好を訴えるために発行した切手と基本的には同じもので、共通の敵である日本を前に中国との連携を強めたいアメリカが、この時点では、中国の主張する“自国の領域”を無条件に認めていた様子がうかがえます。 先日、国際世論の警告を無視してミサイルをぶっ放した某国に対しては、日本を含む関係各国が連携して圧力を掛けていくことが必要です。その意味では、この問題ではアメリカと中国が足並みを揃えてくれると良いのですが、まぁ、実際には難しいでしょうねぇ。それよりも、下手に協力を求めると、中共政府は「チベットのことをとやかく言うな」とか「“釣魚島(もちろん、日本領の尖閣諸島のことです)”は中国領と認めろ」といった無理難題を吹っかけてくる可能性が高そうです。いやはや、まさに、現状は前門の狼・後門の虎ということなんでしょうか。頭の痛いところです。 |
2006-05-25 Thu 23:55
今日からワシントンDCでの国際切手展に出品者として参加するため、アメリカに滞在しています。作品の内容は、例によって新潮新書の『切手と戦争』の元になった「昭和の戦争と日本(Japan and the 15 Years' War 1931-1945)」です。
昨日の日記でもちょっと書きましたが、今回は日程の都合で大韓航空で成田から仁川経由でワシントン着というフライトになりました。で、昭和の戦争に絡めて、日本・韓国(朝鮮)・アメリカという三題噺になりそうなネタとしてご紹介したいのが、こんなカバー(封筒)です。(画像はクリックで拡大されます) 1910年以来、日本の植民地支配下にあった朝鮮は大日本帝国の一部として日本の戦争に動員されていました。日中戦争が本格化すると、朝鮮内では日本の官憲の弾圧もあり、独立運動の活動家が活動することは極めて困難となり、彼らは主として中国やソ連極東地域、アメリカなどに脱出。朝鮮の人々は、内心はともかく、建前としては日本の戦争に協力するという姿勢をとらざるを得なくなりました。 今回ご紹介しているカバーは、そういう状況の下で、太平洋戦争初期の1942年、ニューヨークから朝鮮北東部の咸興宛に差し出されたもので、朝鮮宛の郵便物は“敵国ないしは敵国占領地宛”という理由で差出人に返送されたものです。当時の朝鮮の人が内心でどのように思っていようと、朝鮮は日本の一部ということ国際的な認識であったことをうかがわせます。 ただし、太平洋戦争の勃発後、アメリカは“敵の敵は味方”と言うロジックで、李承晩らの反日独立運動を支援しはじめます。そして、1943年11月、日本敗戦後の東アジアの秩序が話し合われた米英中三国のカイロ会談では、中国の強い意向もあり、連合国として1943年11月のカイロ会談の結果、日本の降伏後に朝鮮を独立させる方針が決定されたものの、アメリカが(南)朝鮮政策についてなんら具体的なプランを組み立てることのないうちに、1945年8月、日本が降伏。朝鮮半島は新たな混乱の渦に放り込まれることになるのです。 今回、ワシントン展に出品している作品には、今日のカバーは展示していないのですが、いずれ、朝鮮半島の現代史を題材にした作品を作る機会があったら、まずその最初に持ってきたいマテリアルだと考えています。 *これからしばらく、滞在先のアメリカ東部時間にあわせての更新にしますので、アップされる時間に関して日本との時差が生じますが、ご容赦ください。 |
2006-03-06 Mon 23:46
今日は啓蟄。冬眠していた虫やらカエルやらヘビやらが起き出す日だそうです。というわけで、最新作の『これが戦争だ! 切手で読み解く』の中から、ヘビにちなむモノ(すみません、虫とカエルのモノはありませんでした)ということで、こんなものを引っ張り出して見ました。
このカバー(封筒・画像はクリックで拡大されます)は、第二次大戦中の1943年9月、ニューヨークからアルゼンチン宛に差し出されたもので、左側には途中で当局の開封・検閲を受けた痕跡が残っています。ご注目いただきたいのは、日独伊三国の首脳を3匹の蛇に見立ててアンクル・サムの足が踏みつけているイラストです。ドイツのヒトラーとイタリアのムッソリーニについてはすぐにそれと分かるのですが、日本に関しては昭和天皇なのか、東条英機なのか、イマイチはっきりとしません。まぁ、知名度からいったら、彼らは“ヒロヒト”のつもりで描いたんでしょうけど…。 戦争が始まると、どんな国でも敵国に対する敵愾心をあおるものですが、その過程で、敵国の指導者に対するカリカテュアがさかんに作られます。2月25日の記事でご紹介したスターリンのパロディもその一例ですが、今日の封筒の場合は、民間で作られた“愛国カバー”であるだけに、その表現はよりストレートです。(“愛国カバー”の詳細については、昨年7月2日の記事をご覧ください) まぁ、通常の神経の人間にとって初対面の人間を殺すということは普通できないわけで、その意味では、戦争遂行上、敵の連中は“人間”ではないということを刷り込むことは重要なイメージ操作ということになります。そういえば、アメリカ人がこのカバーを使っていた時期、日本では“鬼畜米英”というスローガンが国中に充満していましたっけ。 このたび、ちくま新書の1冊として上梓した『これが戦争だ! 切手で読み解く』では、今日のカバーを含めて、“嗤うべき敵の姿”を取り上げたプロパガンダの切手・郵便物をいろいろご紹介しています。機会があれば、是非一度、ご覧いただけると幸いです。 |
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