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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 米連邦議事堂にアメリア・イアハート像
2022-07-29 Fri 07:40
 27日(現地時間)、米ワシントンの連邦議事堂彫刻ホールで、女性初の大西洋横断単独飛行に成功した米国の飛行士アメリア・イアハートの銅像の除幕式が行われました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米・アメリア・イアハート(1963)

 これは、1963年7月24日、米国が発行したアメリア・イアハートの航空切手です。

 詳細につきましては、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 8月12日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

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 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 


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 それぞれの切手には、いずれも世に出るだけの理由が必ずある。
 その理由を求めて、描かれた題材の歴史的・文化的・社会的背景を探っていくと、
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 アイゼンハワー没後50年
2019-03-28 Thu 03:46
 米国のドワイト・アイゼンハワー元大統領が、1969年3月28日に亡くなって、ちょうど50年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アイゼンハワー・無料便

 これは、1961年10月19日、大統領退任後のアイゼンハワー名義で差し出された無料郵便のカバーです。

 米国では大統領経験者やその夫人(未亡人を含む)には郵便物を無料で送ることができる特権が与えられているため、彼らの差し出す郵便物には、そのことを示すサイン(の印刷)が封筒に表示されます。今回ご紹介のカバーでは、退任後のアイゼンハワーが隠棲していたペンシルベニア州ゲティスバーグの地元局で、彼のサインをデザインした専用の郵便印を使用することで対応しています。

 さて、アイゼンハワーは、1890年10月14日テキサスの農家に7人兄弟の3男として生まれました。高校卒業後、大学進学を希望していたものの、経済的に困難な状況であったため、ベルスプリングのバター工場で働いていましたが、陸軍士官学校と海軍兵学校は授業料が無料であることを知り、陸軍士官学校に進学。1915年に同校を卒業後は、陸軍大学を経て、おもに陸軍省で補給兵站の立案に従事し、1932年、陸軍参謀総長ダグラス・マッカーサーの主任補佐武官となりました。

 1935年、マッカーサーが参謀総長を退任し、フィリピンの軍事顧問に就任すると、マッカーサーの下で、1939年まで現地軍の育成に従事。1940年に米国に戻り、第3師団参謀長、第9軍団参謀長などを歴任し、1941年9月には准将に昇進しました。ただし、この時季までのアイゼンハワーは陸軍官僚としての管理能力は高く評価されていたものの、実戦での指揮経験が全くなく、大きな作戦の司令官となる可能性は低いとみられていました。

 1941年12月の日米開戦後、フィリピンに関する知識を買われ、参謀本部戦争計画局次長に就任。ここで、陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将の信任を得て、1942年3月には参謀本部に新設された作戦部の初代部長に就任し、対独作戦として、英国を拠点とした大規模な上陸作戦を立案。同年6月、ロンドンに司令部を置くヨーロッパ戦域の連合国軍最高司令官に着任します。

 1942年11月8日に開始された“トーチ作戦(モロッコとアルジェリアへの連合軍上陸作戦)”では、最高司令官の座を要求するフランスのアンリ・ジロー大将を説得し、北アフリカにおける民政長官の座を与えることで収めたことで、その高い調整能力が評価され、1944年3月、大将に昇進。以後、イタリア戦線の最高指揮官として、ジョージ・パットンやバーナード・モントゴメリーらを調整し、同年9月8日にはイタリア王国との休戦条約を締結しました。さらに、1944年6月、ノルマンディー上陸作戦を指揮してフランスを解放。1944年12月、元帥に昇進し、1945年5月、ドイツを無条件降伏させ、欧州での戦争を終結させました。

 戦後は、1945年11月に陸軍参謀総長に就任。1948年の退役後は、コロンビア大学学長に就任。1950年、北大西洋軍最高司令官となりましたが、1952年の大統領選挙に共和党から大統領選挙に出馬して当選。以後、1953-61年まで2期8年、大統領を務めました。

 大統領1期目は、朝鮮戦争および第一次インドシナ戦争の休戦協定調印などの実績を挙げましたが、1957年に始まる2期目では、東西冷戦の莫大なコスト負担による経済の停滞、人種問題の爆発、さらにソ連に人工衛星打上げで先を越されたスプートニクショック、1960年の安保闘争による日本訪問中止など、政権運営は順調とは言いがたいものでした。

 なお、1959年に発生したキューバ革命に関しては、当初、アイゼンハワー政権は静観の構えを取っていたものの、同年5月17日、カストロ政権が第1次農地改革法を公布し、米国企業の所有する農地を接収すると、キューバに対する経済制裁を発動。この結果、カストロ政権は“敵の敵”であるソ連との関係を強化していくことになります。このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


 ★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★

 4月20日(土)14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパスにて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

      
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      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 ホノルル空港がイノウエ空港に
2017-05-03 Wed 09:21
 ハワイ・ホノルル国際空港の正式名称が、第二次大戦で米陸軍日系人部隊の一員として戦い、右腕を失いなかがらも1963年から連続9期上院議員を務めた日系2世のダニエル・イノウエ米上院議員にちなみ、ことし4月27日付で “ダニエル・K・イノウエ国際空港(以下、イノウエ空港)”に改称されたことが、きのう(2日)、明らかになりました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ホノルル国際空港(1962)

 これは、1962年8月22日にホノルル国際空港(当時)内の郵便局からニューヨーク宛に差し出された葉書で、“ジョン・ロジャーズ・ターミナル”完成の記念のカシェが押されています。

 イノウエ空港のルーツは、1927年3月、ハワイ初の本格的な空港として開港したジョン・ロジャーズ空港です。空港名となったロジャーズは、米海軍航空隊における初期のパイロットの1人で、1925年に米海軍航空局次官に就任しましたが、ワシントンDCからフィラデルフィアに空路移動中、1926年8月、機体トラブルで殉職しました。

 1941年12月の真珠湾攻撃の後、空港はロジャーズ海軍航空基地となり、海軍管理の下で新たな管制塔とターミナルが建設されるなど拡張が進められ、戦後の1946年にハワイ準州(ハワイが米国の50番目の州に昇格するのは1959年)に返還されたときには、16.26平方キロの敷地に地上滑走路4本、飛行艇用滑走路3本を有する米国内最大の空港となっていました。

 これを受けて、1946年、パンナムはホノルル経由で米西海岸とオセアニア地域(フィジーニューカレドニア、ニュージーランド)を結ぶ路線の運行を開始し、翌1947年にはミッドウェイ、ウェイク島経由で東アジアまで航空路を延伸します。

 こうした状況を踏まえて、1947年、空港名はジョン・ロジャーズ空港からホノルル空港に改称され、さらに、1951年にはホノルル国際空港へと改称されます。その後も乗り入れる航空会社の増加にあわせて空港の拡大は続き、1950年までには年間の離着陸数で米国内第3位に、1953年には当時世界最長の3992メートルの滑走路を備える巨大空港に成長しました。

 1962年8月22日には新ターミナルとして“ジョン・ロジャーズ・ターミナル”が完成し(今回ご紹介の葉書は、その当日、記念カシェを押して差し出したものです)、同年10月4日から運用が開始されます。さらに、1970年から1978年にかけて、ウラディミール・オシポフの設計による大規模な増改築が行われ、ダイアモンド・コンコース(1970年)、エワ・コンコース(1972年)、中央コンコース(1980年)などが相次いで作られました。

 2006年3月には、総額23億ドルを投じ、12年かけて空港および関連施設を大々的に刷新する計画が発表され、2009年にはその第1期工事が、2010年には第2期工事が完了。現在は、新コンコースの建設などが進められています。1963年から2012年に亡くなるまでハワイ選出の議席を維持していたイノウエ上院議員は、こうした大規模リニューアルの予算確保に大いに貢献。そのことが、今回の空港名の改称の理由となりました。

 
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 米国籍の孫文
2011-06-07 Tue 23:07
 中国の“国父”とされる孫文が「ハワイ・マウイ島生まれ」として米国籍を取得していたことが、アメリカ政府の歴史資料から明らかになったそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米・辛亥革命50年

 これは、1961年10月にアメリカで発行された“辛亥革命50年”の記念切手で、孫文の肖像が大きく取り上げられています。孫文の肖像を描くアメリカ切手は、第二次大戦中の1942年に発行された“中国人民の抗日5周年”いらい2度目のことです。

 この切手が発行された1961年の時点では、アメリカは大陸の中華人民共和国政府を承認しておらず、台湾の中華民国政府こそが“中国”の正統政権であるという立場を取っていました。この切手もまた、そうした文脈に沿って、中華民国と辛亥革命の50周年を記念して発行されました。

 アメリカ製の孫文切手というと、日中戦争下で発行されたアメリカン・バンクノート社製の“ニューヨーク版”の切手がすぐに思い浮かびますが、こちらは、あくまでも中華郵政が発行したものですから、“米国籍の孫文”ということであれば、やはり、今回ご紹介のアメリカ切手の方がよいでしょうな。

 さて、台湾各紙の報道によると、孫文は、本来、中国広東省香山県翠亨村(現中山市)の生まれですが、アメリカで移民局に拘束されたことがあり、アメリカで中国革命の準備をするならアメリカ国籍を取得した方が良いと勧められ、これを受け入れ、1904年にアメリカ国籍を取得したそうです。その際、彼は出身地を「ハワイ・マウイ島」と偽っています。これは、まぁ、国籍取得のためということで理解できるのですが、誕生日も1870年11月24日としているのは(実際の誕生日が1866年11月12日です)、ちょっと首を傾げるところです。ちなみに、11月24日というのは、1894年に彼がハワイのホノルルで革命組織の興中会を結成した日ですが、1870年というのはどこから出てきたんでしょうかねぇ。

 ところで、国民党の党史館の邵銘煌主任は、孫文がアメリカ国籍を取得していたことについて「革命のために取った非常手段」と説明していますが、共産党の一党独裁体制と戦うために、あえて、日本国籍を取得する中国人は、評論家として活躍している石平さん以外に、どのくらいいるのでしょうか。そういう義士に対しては、僕もできる限りの応援をしたいとは思うのですが、先日の大震災後の中国人の帰国ラッシュなんかを見てみると、現実には、日本生活も長くなったし、とりあえず日本国籍は取得するが、いざとなったら、日本を逃げ出して中国に帰るという人の方がほとんどなんでしょう。きっと。本来なら、国籍取得というのは、どこの国であれ、その国を好きになって、その国に骨をうずめるつもりでやってほしいのですがね。


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 大統領になりそこなった男たち:コーデル・ハル
2008-11-08 Sat 12:26
 雑誌『中央公論』12月号が発売になりました。僕の連載「大統領になりそこなった男たち」では、今回は12月号ということで“真珠湾”にちなみ、この人物を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      コーデル・ハル

 これは、1963年に発行されたコーデル・ハルを顕彰する切手です。

  日米開戦の直接の引き金とされる“ハルノート”を突き付けた国務長官、コーデル・ハルは、1871年、テネシー州に生まれました。学生時代から熱心な民主党員として活動し、わずか19歳でクレイ郡民主党の議長に選ばれています。1893年、テネシー州の州議会議員に当選。1898年に始まる米西戦争では義勇兵(階級は大尉)としてキューバでスペイン軍と戦いました。

 その後、ハルは1911年から1931年まで、民主党全国委員会議長を務めた1922-23年を除き、連邦下院議員を11期務め、主として低率関税の改定に尽力しています。

 さて、ハルが民主党の大統領候補指名を目指したのは、下院議員時代の1928年のことでした。当時は世界恐慌の直前でアメリカは空前の好景気に沸いていたため、与党・共和党の候補が圧倒的に有利とみられており、民主党の候補者指名は盛り上がりを欠き、ハルのほかは元陸軍長官のニュートン・ベーカーと元ニューヨーク州知事のアル・スミスくらいしか有力候補はいませんでした。結局、6月の民主党大会では、過去にも2回、大統領候補に名前が挙がっていたスミスが1回目の投票で過半数を制し、ハルは次点となったものの、あえなく敗退しています。もっとも、1930年の選挙でハルは連邦上院議員に転身していますから、本選挙での当選は難しいとみられていた民主党の候補指名に名乗りを上げたのも、鞍替えを見据えて名前を売るための“選挙運動”の一環だったのかもしれません。

 1932年の大統領選挙では、ハルは早々にフランクリン・ルーズベルト支持を明らかにし、翌1933年にルーズベルト政権が発足すると国務長官に任命されます。そして、1944年に健康問題で辞任するまで、その地位にとどまりました。この間、日米開戦の直接の引き金とされるハルノートを突きつけたことはよく知られています。

 国務長官としての最大の業績は、国際連合のアイディアを提案し、国連憲章の起草にも大きく関与したことでしょう。このため、しばしば彼は“国連の父”と称され、国連発足後の1945年には「国連憲章の起草を称えて」との理由でノーベル平和賞も受賞しました。

 とはいえ、戦争を始めた国務長官が“平和賞”をもらうというのは、僕なんかからすると、どうにも違和感を感じてしまいますねぇ。まぁ、国連憲章で“敵国”に指定されている敗戦国民のひがみだといわれてしまえば、それまでなのでしょうが…。

 さて、1年間にわたり『中央公論』誌上で連載を続けてきた僕のコラム「大統領になりそこなった男たち」は、今回で最終回となりました。連載記事をもとに、9月には中公新書ラクレの1冊として『大統領になりそこなった男たち』を刊行することもできました。いままでご愛読いただきました皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。

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 アメリカ史に燦然と輝く偉大な「敗者たち」の物語    
 『大統領になりそこなった男たち』 中公新書ラクレ(本体定価760円+税)
 
 出馬しなかった「合衆国生みの親」、リンカーンに敗れた男、第二次世界大戦の英雄、兄と同じく銃弾に倒れた男……。ひとりのアメリカ大統領が誕生するまでには、落選者の累々たる屍が築かれる。そのなかから、切手に描かれて、アメリカ史の教科書に載るほどの功績をあげた8人を選び、彼らの生涯を追った「偉大な敗者たち」の物語。本書は、敗者の側からみることで、もう一つのアメリカの姿を明らかにした、異色の歴史ノンフィクション。好評発売中!

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。
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