2023-09-04 Mon 06:46
ことし6月、「ウクライナ侵攻を巡り日本が西側諸国と“非友好的”な行動をしている」などとして、第二次世界大戦の終結を祝う9月3日の祝日の名称を“軍事的栄光の日”から“軍国主義日本に対する勝利と第二次世界大戦終結の日”に変更したロシアで、きのう(3日)、新たな名称での初めての祝賀行事が行われました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者が長野県宛に差し出した葉書(抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書の往片)とその通信文です。 通信文はソ連当局が検閲しやすいようにとの理由で全文カタカナ書きになっていますが、それを漢字とひらがなで句読点を補って現代仮名遣いで書き起こすと以下のようになります。 母上様、その後お変わりはありませんか。自分も相変わらず身体は丈夫ですからご安心ください。 思いもよらぬロシヤで仕事をしておりますが、気候も良く大助かりです。 今では何事も思わずにただ一日も早く母上様と暮らすことのできる日を待っております。 父、兄、弟のこともわからぬことと思います。 では、皆様によろしく。 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を破棄し、満洲、北朝鮮、千島、樺太に侵攻。ソ連側は捕虜となった旧日本兵に「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み(今回ご紹介の葉書にも「思いもよらぬロシヤで仕事をしております」とあります)、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。 新たな祝日名について、ロシア議会は、「軍国主義日本に対する勝利は、連邦法で明記されるべき」で、「改名は日本の非友好的な行為に対する対応策の一つだ」としていますが、彼らがそのつもりなら、我々も、大戦末期にソ連が行った非道の数々(旧満洲などでの凄惨な暴行・略奪行為、北方領土の不法占拠、シベリア抑留など)を民族の記憶として子々孫々まで語り継ぎ、永久に記憶するとともに、現在進行中のウクライナ侵略と結びつけて、広く世界に訴えていかねばなりますまい。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 9月8日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『今日も世界は迷走中』 好評発売中!★ ウクライナ侵攻の裏で起きた、日本の運命を変える世界の出来事とは!内藤節炸裂。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2023-06-22 Thu 03:52
ロシア議会上院は、きのう(21日)、「ウクライナ侵攻を巡り日本が西側諸国と“非友好的”な行動をしている」などとして、第二次世界大戦の終結を祝う9月3日の祝日の名称を“軍事的栄光の日”から“軍国主義日本に対する勝利と第二次世界大戦終結の日”に変更する法案を可決しました。すでに、下院では20日に同法案は可決されており、プーチン大統領の署名をへて成立する見込みです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者が静岡県に差し出した葉書(抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書の往片)とその通信文です。中継地のウラジオストク局の印の日付がはっきりと読めないのですが、葉書の右下に“No87”の表示がある“タイプ3”と呼ばれるフォーマットなので、1948年ないしは1949年のもので、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には3月1日の書き込みがあります。 ちなみに、通信文はソ連当局が検閲しやすいようにとの理由で全文カタカナ書きになっていますが、それを漢字とひらがなで書き起こすと以下のようになります。(人名はカタカナ表記のまま) お便り拝見しました。お父様はじめ皆元気で暮らしておること喜んでおります。自分もおかげで元気です。今年は正月を内地でと思っていましたが、あきらめました。餅なしの年取りです。黒パンにスープです。北満の兄さんたちも元気で帰ったこと嬉しく思っています。アラヤの家のところの人に会いました。カモガワという人です。2月に出ました。近い人も沢山おります。我々の生活も内地の皆様の想像以上です。では、家内皆様の健康を祈ります。親類の人たちによろしく。さよなら。 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲、北朝鮮、千島、樺太に侵攻。ソ連側は捕虜となった旧日本兵に「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。 今回の祝日名の変更について、ロシア議会は、「軍国主義日本に対する勝利は、連邦法で明記されるべき」で、「改名は日本の非友好的な行為に対する対応策の一つだ」としていますが、彼らがそのつもりなら、我々も、大戦末期にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して行った非道の数々(旧満洲などでの凄惨な暴行・略奪行為、北方領土の不法占拠、シベリア抑留など)を民族の記憶として子々孫々まで語り継ぎ、絶対に忘れてはなりますまい。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 6月23日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『現代日中関係史 第2部 1972-2022』 好評発売中!★ 2022年11月に刊行された「第1部1945-1972」の続編で、日中国交”正常化”以降の1972年から2022年までの半世紀の、さまざまな思惑が絡まり合う日中関係の諸問題を、切手とともに紐解いていきます。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2022-08-09 Tue 00:35
きょう(9日)は、第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連が、日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、満洲に侵攻したことにちなむ“反ロシアデー(旧反ソ連デー)”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者が長野県に差し出した葉書で、抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書の往片部が使われています。正確な差し出し日は不明ですが、ウラジオストクの中継印は1946年11月10日になっており、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には11月26日の書き込みがあります。 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲、北朝鮮、千島、樺太に侵攻。ソ連側は捕虜となった旧日本兵に「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。 今回ご紹介の葉書の文面にも「この便りを随分驚きのことと思います」とあり、この葉書の差出人もソ連に騙されてシベリアに連行されてきたことが伺えます。 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。このことは、我々日本人が民族の悲劇として決して忘れてはなりません。 詳細につきましては、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 また、旧ソ連、特にスターリン体制の恐ろしさについては、拙著『本当は恐ろしい!こわい切手』でも、ウクライナを例にご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 8月12日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『本当は恐ろしい! こわい切手』 好評発売中!★ 怨霊、ゾンビ、鬼、そして人間の闇 …… 古今東西の奇妙な切手を集めた一冊。 それぞれの切手には、いずれも世に出るだけの理由が必ずある。 その理由を求めて、描かれた題材の歴史的・文化的・社会的背景を探っていくと、 そこからさまざまなドラマが浮かび上がってくる。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-08-09 Sun 00:59
きょう(9日)は、第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連が、日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告し、満洲に侵攻したことにちなむ“反ロシアデー(旧反ソ連デー)”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、(右下に“No87”の表示があるタイプIIIと呼ばれるもの使用例です。 葉書が差し出された時期は特定できませんが、ウラジオストクの中継印は1948年6月19日のように見え、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には7月29日の書き込みがあります。 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲、北朝鮮、千島、樺太に侵攻。ソ連側は捕虜となった旧日本兵に「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。 日本人捕虜に対する思想・洗脳工作の一環として、ソ連当局は、満洲から略奪してきた奉天(現・瀋陽)の満洲日日新聞社の活字と用紙を用いて(ただし、最初期は略奪資材が使えなかったため、印刷物としての品質はきわめて粗悪でした)、1945年9月15日から1949年12月30日まで、週3回、タブロイド判の『日本新聞』を全629号刊行しました。 敗戦によって武装解除されたにもかかわらず、旧軍の秩序とそれに付随するさまざまな特権を維持しようとしていた将校・下士官への不満を募らせていた下級兵士の中には、“日本軍国主義”批判を展開する『日本新聞』の内容に対して一定の理解を示す者もあり、ソ連側は、そうした日本人捕虜を横断的に組織するためのメディアとして『日本新聞』を活用。1946年5月25日、同紙を使っての輪読・勉強会としての“日本新聞友の会”の結成を呼び掛けました。“友の会”では、ソ連側との交渉のやり方や編集部との連絡方法などが具体的に示され、“友の会”やこれを母体とする“民主グループ”は必然的に収容所内での主導権を握ることになります。 さらに、1947年3月から4月にかけて、ハバロフスク地区の各収容所の民主グループの幹部57人を集めて約1ヵ月にわたりハバロフスク地区代表者会議が開催されます。徹底的な“学習”によって洗脳・思想改造された参加者は、活動分子(アクティブ)として各地の収容所に戻り、所内につくられた反ファシスト委員会のメンバーとして“民主化”の名の下に、ソ連当局の意に沿わない“反動分子”や“ファシスト”の摘発に狂奔しました。摘発され、吊るし上げの対象となれば、食事の量を減らされたり、より過酷な重労働を課せられたりするため、多くの捕虜たちは面従腹背で“民主化運動”をやり過ごし、ときには、密告によってわが身を守るしかなかったことは、多くの抑留体験者の手記などによって広く知られています。 今回ご紹介の葉書は、まさに、そうした収容所内の環境を反映したもので、以下のような文面がつづられています。(原文は旧字体の漢字カナ交じり書きですが、読みやすさを考えて、句読点を補い、新字体・現代仮名遣いの漢字かな交じりに直しました) 停戦になってからアッと思う間にもう二年半も経ちました。 故国も随分変わった事ばかりと思います。当方、相変らず元気で、す越し(=過ごし)にくいと心配して居たシベリヤの冬も、モーこれで三回。今年こそ帰国の実現が濃厚になって居ります。父上様、母上様皆々様にまもなく(秋頃までには)帰ると申して下さい。保江も十日で四回目の誕生日を迎えますね。故国よりこちらに来て居る手紙を見ますと、インフレ、失業、国民大衆の為の生活が非常に恵まれないとか。早々明るい政治で日本を再建せねばなりませんね。こちらに居る人はみんな熱心に日本の再建、明朗日本の建設のため頑張ローと申し合わせて居ります。 もう一つ書く事は、ソ連邦の人々の人種的偏見なく非常に気持ち良いです。日本人は大いに学ぶべきです。 健康で何も変わりなければ返事不要。私のことは心配なく。 (下に、文面の記された葉書裏面の画像を貼っておきます。一部、判読不能だった箇所について、小村啓さんにご教示いただきました。ありがとうございます!) シベリア抑留者用の往復葉書のうち、現存するモノの大半は、収容所から日本宛てに送られた往片の使用済みで、今回ご紹介のもののように、復片のついた状態のモノは少なく、復片の使用例はさらに少なくなっています。これは、ソ連側が捕虜の帰還に際して、受け取った郵便物を持ち帰ることを原則として禁じていたことによるものです。今回の葉書に関しては、文面に「返事不要」とありますが、実際に家族がそのまま言葉を真に受けて返事を出さなかったとは考えにくいので、「まもなく(秋頃までには)帰る」との文面通り、葉書が到着する前に差出人が帰国して、返事を出す必要がなかったのではないかと推測されます。 また、葉書の文面を読むと、収容者には、米国の事実上の単独占領下で日本は悲惨な状況にあると思わされており、それゆえ、帰国後は再建のために団結しようと収容者たちが話していること、ソ連は立派な国であり、日本は大いに学ぶべき国であることなどが書かれています。この葉書の差出人が、心底、そのように思っていたのか、それとも、生き延びるために洗脳されたふりをしていたのかは定かではありませんが、ソ連当局としては、収容所で洗脳した捕虜たちが、帰国後、日本に共産主義勢力を扶植するための尖兵となることを期待していたことは事実です。 シベリアからの葉書は、日本到着後、検閲の対象となりましたが、今回ご紹介の葉書などは、東西冷戦が進行していく中で、ソ連による洗脳工作がどの程度(元)捕虜の間に定着しているのか、さらに、元捕虜のうち日本における反米親ソ勢力の活動家(となる可能性が高い者)は誰かといったことを探るうえで重要な情報を米国と日本政府にもたらすものとなりました。 この葉書が日本に到着してからほぼ1年後の1949年8月11日、日本国内では、「引揚者の秩序保持に関する政令」が公布され、引揚者は船長や引揚援護局長の指示に従う義務があるとされ、違反者には1年以下の懲役もしくは1万円以下の罰金が科されることいなりました。これは、ソ連からの引揚船が入港した舞鶴や各地の引揚特別列車の停車駅などで“赤い帰還者”による騒擾事件が頻発したためですが、彼らの多くは、抑留体験を通じて、ソ連の意に背いた行動をとると帰国を取り消されて再びシベリア送りになると信じ込まされていた偽装共産主義者(表面だけ赤いという意味で“赤カブ”とも呼ばれました)だったともいわれています。しかし、そうした実情を知らない日本国民は当惑するばかりで、占領当局と日本政府は共産主義者が全国に拡散していくことへの警戒を強めていきました。 また、1949年1月23日に行われた第24回衆議院総選挙では、吉田茂ひきいる保守系の民主自由党が264議席を獲得して大勝した一方で、日本共産党がそれまでの4議席から35議席へと劇的に躍進。ドッジラインの強行による深刻な経済不況の到来により労働運動は激化し、こうした中で発生した下山・松川・三鷹の三大事件には共産党の関与が疑われていました。このため、占領当局と日本政府は、「真の指導者(アクティブ)は港において早期に見付けられる事を防ぐために、蔭に潜み郷里において世論を基礎として潜かに活動する事を(ソ連に)許可された」 との認識の下、帰還した元捕虜を監視対象としていました。 その際、ソ連を賛美し、日本の状況を否定的に述べていたり、帰国後、アクティブになりうると推測されるような内容の葉書を書いたりした人物(今回ご紹介の葉書の差出人もその1人でしょう)は、当局の要注意人物のリストに加えられ、帰国後も苦難の日々を歩むことになったことは想像に難くありません。 なお、シベリア抑留者の郵便については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-08-09 Fri 11:37
きょう(9日)は、第二次大戦末期の1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告したソ連が満洲に侵攻したことにちなむ“反ロシアデー(旧反ソ連デー)”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプⅠA2と呼ばれるものです。 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプⅠと呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。表題2行目の“Й”が1行目の“О”の下にあるタイプⅠA2と呼ばれるもので、今回ご紹介のモノは、表面が濃い緑色・裏面が白色の用紙に印刷されています。 葉書が差し出された時期は特定できませんが、ウラジオストクの中継印は1949年6月23日になっており、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には8月18日の書き込みがあります。 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲、北朝鮮、千島、樺太に侵攻。ソ連側は捕虜となった旧日本兵に「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。 日本人捕虜に対する思想・洗脳工作の一環として、ソ連当局は、満洲から略奪してきた奉天(現・瀋陽)の満洲日日新聞社の活字と用紙を用いて(ただし、最初期は略奪資材が使えなかったため、印刷物としての品質はきわめて粗悪でした)、1945年9月15日から1949年12月30日まで、週3回、タブロイド判の『日本新聞』を全629号刊行しました。 敗戦によって武装解除されたにもかかわらず、旧軍の秩序とそれに付随するさまざまな特権を維持しようとしていた将校・下士官への不満を募らせていた下級兵士の中には、“日本軍国主義”批判を展開する『日本新聞』の内容に対して一定の理解を示す者もあり、ソ連側は、そうした日本人捕虜を横断的に組織するためのメディアとして『日本新聞』を活用。1946年5月25日、同紙を使っての輪読・勉強会としての“日本新聞友の会”の結成を呼び掛けました。“友の会”では、ソ連側との交渉のやり方や編集部との連絡方法などが具体的に示され、“友の会”やこれを母体とする“民主グループ”は必然的に収容所内での主導権を握ることになります。 さらに、1947年3月から4月にかけて、ハバロフスク地区の各収容所の民主グループの幹部57人を集めて約1ヵ月にわたりハバロフスク地区代表者会議が開催されます。徹底的な“学習”によって洗脳・思想改造された参加者は、活動分子(アクティブ)として各地の収容所に戻り、所内につくられた反ファシスト委員会のメンバーとして“民主化”の名の下に、ソ連当局の意に沿わない“反動分子”や“ファシスト”の摘発に狂奔しました。摘発され、吊るし上げの対象となれば、食事の量を減らされたり、より過酷な重労働を課せられたりするため、多くの捕虜たちは面従腹背で“民主化運動”をやり過ごし、ときには、密告によってわが身を守るしかなかったことは、多くの抑留体験者の手記などによって広く知られています。 今回ご紹介の葉書は、まさに、そうした収容所内の環境を反映したもので、以下のような文面がつづられています。(原文はカタカナ書きですが、読みやすさを考えて、句読点を補い、漢字かな交じりに直しました) お母さん、お元気ですか。お義父さんや兄弟たちはいかがでしょうか。お尋ねします。 僕は相変わらず元気で、ソ同盟の暖かな配慮により何不自由なく暮らしているのみか、文化的にも恵まれた明るい生活を送っておりますから、どうか僕のことはご心配なく。 当地にもいよいよ春が訪れました。この春より日本海を渡って祖国に帰る希望に燃えて張り切って勉強しています。今年こそはお母さんにもお目にかかり、僕がどんなにたくましくなったかを、そして、今後どんなに戦うかをお目にかけられるかを楽しみにしています。 では、皆によろしく。さようなら。 この葉書の差出人が、心底、ここに書かれているように思っていたのか、それとも、生き延びるために洗脳されたふりをしていたのかは定かではありませんが、ソ連当局としては、収容所で洗脳した捕虜たちが、帰国後、日本に共産主義勢力を扶植するための尖兵となることを期待していました。 シベリアからの葉書は、日本到着後、検閲の対象となりましたが、今回ご紹介の葉書などは、ソ連による洗脳工作がどの程度(元)捕虜の間に定着しているのか、さらに、元捕虜のうち日本における反米親ソ勢力の活動家(となる可能性が高い者)は誰かといった点で、東西冷戦が進行していく中で、重要な情報をもたらすものとなりました。 この葉書が日本に到着する直前の1949年8月11日、日本では、「引揚者の秩序保持に関する政令」が公布され、引揚者は船長や引揚援護局長の指示に従う義務があるとされ、違反者には1年以下の懲役もしくは1万円以下の罰金が科されることいなりました。これは、ソ連からの引揚船が入港した舞鶴や各地の引揚特別列車の停車駅などで“赤い帰還者”による騒擾事件が頻発したためですが、彼らの多くは、抑留体験を通じて、ソ連の意に背いた行動をとると帰国を取り消されて再びシベリア送りになると信じ込まされていた偽装共産主義者(表面だけ赤いという意味で“赤カブ”とも呼ばれました)だったともいわれています。しかし、そうした実情を知らない日本国民は当惑するばかりで、占領当局と日本政府は共産主義者が全国に拡散していくことへの警戒を強めていきました。 また、1949年1月23日に行われた第24回衆議院総選挙では、吉田茂ひきいる保守系の民主自由党が264議席を獲得して大勝した一方で、日本共産党がそれまでの4議席から35議席へと劇的に躍進。ドッジラインの強行による深刻な経済不況の到来により労働運動は激化し、こうした中で発生した下山・松川・三鷹の三大事件には共産党の関与が疑われていました。このため、占領当局と日本政府は、「真の指導者(アクティブ)は港において早期に見付けられる事を防ぐために、蔭に潜み郷里において世論を基礎として潜かに活動する事を(ソ連に)許可された」 との認識の下、帰還した元捕虜を監視対象としていました。 その際、ソ連を賛美し、日本の状況を否定的に述べていたり、アクティブであると推測されるような内容の葉書を書いたりした人物(今回ご紹介の葉書の差出人もその1人でしょう)は、当局の要注意人物のリストに加えられ、帰国後も苦難の日々を歩むことになったことは想像に難くありません。 なお、シベリア抑留者の郵便については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-04-10 Tue 11:06
第二次世界大戦後のシベリア抑留で、旧日本軍将兵ら114人がスパイ罪などで銃殺刑の判決を受けていたことが、富田武・成蹊大名誉教授の調査により、ロシアの公文書で確認されました。日本人抑留者の銃殺刑については、これまで、帰還者らの証言はありましたが、公文書で明らかになったのは初めてだそうです。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者が差し出した葉書で、裏面の書き込みによると、1946年10月26日に差し出され、同年11月10日にウラジオストクを経由し、日本到着後、12月4日にGHQの検閲を受け、埼玉県の宛先まで届けられています。 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプⅠと呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目冒頭の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介の葉書は“Й”が1行目の“О”の右下にあるタイプⅠA3と呼ばれるものです。 さて、1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲、北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。戦争が終わり、これで帰国できると信じていた旧日本兵の心理を逆手にとって、国家ぐるみで騙したのです。 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。 ソ連当局が“捕虜”に対して各自の家族に通信することを許可すると発表したのは、終戦後1年以上が経過した1946年9月のことで、同年10月20日付で、日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」を発し、抑留者と祖国との通信が始まりました。ただし、これは抑留者全員に許可されたわけではなく、ソ連側の基準で“(労働などの)成績の良好な者”に限られていたといわれています。 また、ソ連側の検閲基準では、反ソヴィエト的ないしは親ファシスト的と彼らが判断した内容の記述がある葉書は没収されたほか、①各収容所や特設病院、労働大隊に収容されているその他の軍事捕虜についての記述、②各収容所や特設病院、労働大隊に滞在時に病死したか事故死した軍事捕虜についての情報、③各収容所や特設病院、労働大隊、軍事捕虜が働いている企業の配置場所、④軍事捕虜が遂行している労働の性格、などを日本宛の葉書に書くことは「絶対に禁止」されており、必要に応じて“問題個所”を検閲担当者が抹消した後、日本宛に送られました。今回ご紹介の葉書も、下に示すように、文面の一部が検閲によって塗りつぶされています。 抑留者たちが書いた葉書は、内務省沿海地方本部検閲課を経由してウラジオストクから日本宛に発送されましたが、収容所の所在地などを葉書に記載することは禁じられていたため、1949年まではウラジオストク郵便局の、1950年代以降はバロフスク郵便局の私書箱が、差出人の住所として記載されています。 なお、シベリア抑留者の郵便については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-01-13 Fri 12:04
きのう(12日)、外務省はあらたに外交文書24冊を一般公開しましたが、それにより、戦後、旧ソ連が抑留した日本軍捕虜を徹底した共産主義の思想教育で洗脳しようとした「赤化工作」の実態がかなり具体的に明らかになりました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、シベリアに抑留されていた日本人男性が差し出した葉書で、1948年2月15日にウラジオストクを経由し、日本到着後、3月11日にGHQの検閲を受け、静岡県の宛先まで届けられています。 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ3と分類されているモノ(右下に“No87”の表示がある)の往片です。 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲、北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。 日本人捕虜に対する思想・洗脳工作の一環として、ソ連当局は、満洲から略奪してきた奉天(現・瀋陽)の満洲日日新聞社の活字と用紙を用いて(ただし、最初期は略奪資材が使えなかったため、印刷物としての品質はきわめて粗悪でした)、1945年9月15日から1949年12月30日まで、週3回、タブロイド判の『日本新聞』を全629号刊行しました。 敗戦によって武装解除されたにもかかわらず、旧軍の秩序とそれに付随するさまざまな特権を維持しようとしていた将校・下士官への不満を募らせていた下級兵士の中には、“日本軍国主義”批判を展開する『日本新聞』の内容に対して一定の理解を示す者もあり、ソ連側は、そうした日本人捕虜を横断的に組織するためのメディアとして『日本新聞』を活用。1946年5月25日、同紙を使っての輪読・勉強会としての“日本新聞友の会”の結成を呼び掛けました。“友の会”では、ソ連側との交渉のやり方や編集部との連絡方法などが具体的に示され、“友の会”やこれを母体とする“民主グループ”は必然的に収容所内での主導権を握ることになります。 さらに、1947年3月から4月にかけて、ハバロフスク地区の各収容所の民主グループの幹部57人を集めて約1ヵ月にわたりハバロフスク地区代表者会議が開催されます。徹底的な“学習”によって洗脳・思想改造された参加者は、活動分子(アクティブ)として収容所に戻り、所内につくられた反ファシスト委員会のメンバーとして“民主化”の名の下に、ソ連当局の意に沿わない“反動分子”や“ファシスト”の摘発に狂奔しました。摘発され、吊るし上げの対象となれば、食事の量を減らされたり、より過酷な重労働を課せられたりするため、多くの捕虜たちは面従腹背で“民主化運動”をやり過ごし、ときには、密告によってわが身を守るしかなかったことは、多くの抑留体験者の手記などによって広く知られています。 今回ご紹介の葉書は、まさに、そうした収容所内の環境を反映したもので、以下のような文面がつづられています。(原文はカタカナ書きですが、読みやすさを考えて、漢字かな交じりに直しました) しばらくでした。皆様も元気のことと思います。私も至極元気で丸々と太って、毎日楽しくそして愉快に仕事をしております。 そちらの様子は手紙によってはっきりわかっております。なぜそのようにつらいのか、苦しいのか、私はまた戦争はいかに悪いものかをはっきりと知りました。そして人間としての、正しい、生きがいのある本当に幸せな生きる道を知り、働く者の世の中でなければ、少しの人数の金持ちだけがうまいことをしている世の中では、働く者はいつまでたっても生活が楽にならず、幸せは絶対に来ないのです。この国の人は幸せな、そして私たちをこのように親切にしてくれます。では元気で頑張ってください。 この葉書の差出人が、心底、ここに書かれているように思っていたのか、それとも、生き延びるために洗脳されたふりをしていたのかは定かではありませんが、ソ連当局としては、収容所で洗脳した捕虜たちが、帰国後、日本に共産主義勢力を扶植するための尖兵となることを期待していました。 シベリアからの葉書は、日本到着後、検閲の対象となりましたが、今回ご紹介の葉書のように、占領日本の現状や資本主義体制を批判する内容の葉書などは、ソ連が米国による対日占領政策をどのように国民に説明しているのか、ソ連による洗脳工作がどの程度(元)捕虜の間に定着しているのか、さらに、元捕虜のうち日本における反米親ソ勢力の活動家(となる可能性が高い者)は誰かといった点で、東西冷戦が進行していく中で、重要な情報をもたらすものとなりました。 一方、1947年後半以降、1949年8月11日に「引揚者の秩序保持に関する政令」(引揚者が船長や引揚援護局長の指示に従う義務を定め、違反者には1年以下の懲役もしくは1万円以下の罰金を科すことが定められていました)が公布されるまでの間、ソ連からの引揚船が入港した舞鶴や各地の引揚特別列車の停車駅などでは、“赤い帰還者”による騒擾事件が頻発。彼らの多くは、抑留体験を通じて、ソ連の意に背いた行動をとると帰国を取り消されて再びシベリア送りになると信じ込まされていた偽装共産主義者(表面だけ赤いという意味で“赤カブ”とも呼ばれました)だったとさていますが、そうした実情を知らない日本国民は当惑するばかりで、占領当局と日本政府は共産主義者が全国に拡散していくことへの警戒を強めることになります。 さらに、1949年1月23日に行われた第24回衆議院総選挙では、吉田茂ひきいる保守系の民主自由党が264議席を獲得して大勝した一方で、日本共産党がそれまでの4議席から35議席へと劇的に躍進。ドッジラインの強行による深刻な経済不況の到来により労働運動は激化し、下山・松川・三鷹の三大事件が発生し、共産党の関与が疑われていた時期でもあり、「真の指導者(アクティブ)は港において早期に見付けられる事を防ぐために、蔭に潜み郷里において世論を基礎として潜かに活動する事を(ソ連に)許可された」 との認識の下、占領当局と日本政府は帰還した元捕虜を監視対象としていました。 その際、ソ連を賛美し、日本の状況を否定的に述べていたり、アクティブであると推測されるような内容の葉書を書いたりした人物(今回ご紹介の葉書の差出人もその1人でしょう)は、当局の要注意人物のリストに加えられ、帰国後も苦難の日々を歩むことになったことは想像に難くありません。 なお、シベリア抑留者の郵便については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-10-19 Wed 11:16
日本と旧ソ連の国交を回復し、平和条約締結後に北方領土の歯舞、色丹両島を返還すると明記した日ソ共同宣言が1956年10月19日に調印されてから、今日でちょうど60年です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、ハバロフスク近郊で強制労働に従事させられていた日本人抑留者宛に差し出された葉書とその文面です。 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ4と分類されているモノの復片です。 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲、北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシュケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。戦争が終わり、これで帰国できると信じていた旧日本兵の心理を逆手にとって、国家ぐるみで騙したのです。 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。 ソ連当局が“捕虜”に対して各自の家族に通信することを許可すると発表したのは、終戦後1年以上が経過した1946年9月のことで、同年10月20日付で、日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」を発し、抑留者と祖国との通信が始まりました。ただし、これは抑留者全員に許可されたわけではなく、ソ連側の基準で“(労働などの)成績の良好な者”に限られていたといわれています。 また、ソ連側の検閲基準では、反ソヴィエト的ないしは親ファシスト的と彼らが判断した内容の記述がある葉書は没収されたほか、①各収容所や特設病院、労働大隊に収容されているその他の軍事捕虜についての記述、②各収容所や特設病院、労働大隊に滞在時に病死したか事故死した軍事捕虜についての情報、③各収容所や特設病院、労働大隊、軍事捕虜が働いている企業の配置場所、④軍事捕虜が遂行している労働の性格、などを日本宛の葉書に書くことは「絶対に禁止」されており、必要に応じて“問題個所”を検閲担当者が抹消した後、日本宛に送られました。 スターリン時代の粛清の嵐の中で、秘密警察により、多くのソ連国民が無実の罪を着せられて収容所に送られましたが、そうした人々もまた、収容所内の他人の消息を外部に伝えることが禁じられていました。シベリア抑留の捕虜郵便についても、この規定がそのまま踏襲されたとみてよさそうです。 抑留者たちが書いた葉書は、内務省沿海地方本部検閲課を経由してウラジオストクから日本宛に発送されましたが、収容所の所在地などを葉書に記載することは禁じられていたため、1949年まではウラジオストク郵便局の、1950年代以降はバロフスク郵便局の私書箱が、差出人の住所として記載されています。 私書箱の所在地がウラジオストクからハバロフスクに変更されたのは、1949年までに抑留者の帰還がそれなりに進み、1950年以降は収容所の数が激減(ピーク時の1946年に509ヵ所あった極東25地区の収容所は、1950年には15ヵ所となりました)し、そのうちの過半数(1950年の時点では8ヵ所)がハバロフスクに集中していたという実情を踏まえたものと考えられます。 さて、シベリアに抑留されていた日本人に支給された葉書用紙のうち、タイプ4は抑留末期の1954-56年に使用されたと考えられています。この葉書には裏面に「9月10日発信」との書き込みはありますが、年号の記載はありません。ただし、文中には「日ソ交渉も十月には總理大臣が訪ソして再開する見込みに付き君達の帰国も遠からず実現するものと希待して居ます」との文言があります。これは、1956年10月12日からの鳩山訪ソのことだと思われますので、この葉書は1956年の差出と考えて良いでしょう。 鳩山が10月19日にモスクワで調印した日ソ共同宣言では、「日ソ両国は戦争状態を終結し、外交関係を回復する」としたうえで、「ソ連は戦争犯罪容疑で有罪を宣告された日本人を釈放し、日本に帰還させる」とうたわれており、これにより、ソ連領内に残されていた日本人抑留者の帰国が実現することになります。 なお、シベリア抑留者の郵便に関しては、拙著『ハバロフスク』でその概要についてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ イヴェントのご案内 ★★★ 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イヴェントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイヴェントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください) ★★★ 講座のご案内 ★★★ 11月17日(木) 10:30-12:00、東京・竹橋の毎日文化センターにてユダヤとアメリカと題する一日講座を行います。詳細は講座名をクリックしてご覧ください。ぜひ、よろしくお願いします。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-04-19 Tue 10:28
1991年4月18日に日ソ間で捕虜収容所問題の速やかな処理を目的に「捕虜収容所の収容者に関する政府間協定(捕虜・収容所協定)」が締結されてから25周年を迎えたのにあわせて、昨日(18日)、都内で記念集会が開かれました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、シベリアに抑留されていた日本人男性が差し出した葉書で、1949年2月5日にウラジオストクを経由し、日本到着後、3月31日にGHQの検閲を受け、新潟県の宛先まで届けられています。 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ3と分類されているモノ(右下に“No87”の表示がある)の往片です。 1945年8月9日、ソ連は、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲、北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。戦争が終わり、これで帰国できると信じていた旧日本兵の心理を逆手にとって、国家ぐるみで騙したのです。 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、6万人が亡くなったといわれています。 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。 ソ連当局が“捕虜”に対して各自の家族に通信することを許可すると発表したのは、終戦後1年以上が経過した1946年9月のことで、同年10月20日付で、日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」を発し、抑留者と祖国との通信が始まりました。ただし、これは抑留者全員に許可されたわけではなく、ソ連側の基準で“(労働などの)成績の良好な者”に限られていたといわれています。 また、ソ連側の検閲基準では、反ソヴィエト的ないしは親ファシスト的と彼らが判断した内容の記述がある葉書は没収されたほか、①各収容所や特設病院、労働大隊に収容されているその他の軍事捕虜についての記述、②各収容所や特設病院、労働大隊に滞在時に病死したか事故死した軍事捕虜についての情報、③各収容所や特設病院、労働大隊、軍事捕虜が働いている企業の配置場所、④軍事捕虜が遂行している労働の性格、などを日本宛の葉書に書くことは「絶対に禁止」されており、必要に応じて“問題個所”を検閲担当者が抹消した後、日本宛に送られました。 スターリン時代の粛清の嵐の中で、秘密警察により、多くのソ連国民が無実の罪を着せられて収容所に送られましたが、そうした人々もまた、収容所内の他人の消息を外部に伝えることが禁じられていました。シベリア抑留の捕虜郵便についても、この規定がそのまま踏襲されたとみてよさそうです。 ちなみに、収容所送りとなったソ連国民が、外部に対して、収容所内の家族・友人の情報を外部に伝える場合には、「XX(人名)と同じ収容所にいる/病気で入院している」という直接的な表現ではなく、「XXと話をした/会った」という表現を用いることが行われていましたが、今回ご紹介の葉書でも、そうした表現が見られます。以下、その文面を書き起こしてみましょう。 ソ同盟に来てから数回手紙を出したが一度も返事がないので消息を案じて居る。私はこちらに来てから三年余りになるが非常に元気で暮らして居るから安心して呉れ。 哈爾濱組の植村、菊池其他数名の家族からは返信が来て居るから多分お前達も無事帰っていることを信じて居る。新聞其他に依れば終戦後の日本は相当困難なる状況を呈して居るとか。女手一つで生計も難しいだろうが之も試練、兎に角頑張って呉れ。 新潟の方に起居していることと思うが子供の教育には特に意を用うる様頼む。暇があれば西市の方にも行って呉れ、同僚は続々帰国しつつある。私達の帰国も近い。楽しみに待ってて呉れ。御両親様によろしく。睦子に私は元気だと伝えてください。 上記の文面のうち、「哈爾濱組の植村、菊池其他数名の家族からは返信が来て居るから…」と記した部分は、まさに、戦前の満洲で交流のあった知人が同じ収容所で抑留されていることを間接的に伝えるもので、彼らの置かれていた苦しい状況がしのばれます。 なお、シベリア抑留者の郵便に関しては、拙著『ハバロフスク』でもその概要についてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 講座のご案内 ★★★ ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」 4月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 2350円+税 【出版元より】 若く美しい女王の横顔に恋しよう! 世界最初の切手 欲しくないですか/知りたくないですか 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 2000円+税 【出版元より】 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-08-29 Sat 20:38
ロシアで、きょう(29日)、一連の対日戦勝70年記念行事の最初の行事として、ハバロフスクで軍事パレードが行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、ハバロフスク近郊で強制労働に従事させられていた日本人抑留者宛に差し出された葉書です。 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ4と分類されているモノの復片です。 1945年8月9日、ソ連派、日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲、北朝鮮、千島、樺太に侵攻。捕虜となった旧日本兵に対して、ソ連側は「トウキョウ、ダモイ」すなわち東京へ帰還(ダモイ)させると甘言を弄して彼らをシベリア鉄道の貨物列車に詰め込み、東はカムチャッカ半島のペトロパブロフスクから西はウクライナのクタイス、北は北極圏のノリリスクから南は中央アジア・ウズベキスタンのタシケントやフェルガナまで、およそ2000ヵ所にも及ぶ収容所へと移送しました。戦争が終わり、これで帰国できると信じていた旧日本兵の心理を逆手にとって、国家ぐるみで騙したのです。 収容所では、十分な食糧も与えられないまま重労働を課せられ、過重なノルマを達成できなければ容赦なく食事を減らされました。また、医療・衛生環境もきわめて不十分でしたから、過酷な自然環境とあわせて、多くの犠牲者が出るのも当然でした。厚生労働省が把握しているだけでも約56万1000人の日本人が抑留され、5万3000人が亡くなったといわれています。 また、ソ連当局による洗脳工作と恣意的な反ソ分子の摘発と拷問、密告の奨励など、抑留者たちは、肉体だけでなく、精神的にもきわめて過酷な環境に置かれ続けました。 ソ連があらゆる国際法規を無視して(たとえば、対日参戦に際してソ連が署名していたポツダム宣言には、連合国の捕虜となった日本兵を本国へ早期帰還させることがはっきりと規定されています)日本人を抑留し、強制労働を課したのは、ドイツとの戦争で荒廃しきった自国の経済復興のため、奴隷同然の安価な労働力が必要だったためです。 じっさい、1945年8月23日付の国家国防委員会決議第9898号「日本軍事捕虜の受け入れ、配置および労働利用について」と題する極秘文書によれば、ハバロフスク地方だけで「6万5000人。その内訳は、ライチハ・キヴジンスク石油採掘に2万人、ヒンナン錫鉱採掘に3000人、国防人民委員部住宅開発部の兵舎建設に5000人、石油産業人民委員部のサハリン石油と石油精製工場に5000人、森林産業人民委員部の木材調達に1万3000人、海洋移送および河川移送人民委員部に2000人、運輸人民委員部のアムール鉄道に2000人、建設人民委員部のニコラエフスク港建設およびコムソモリスクのアムール鉄鋼と第199工場建設に1万5000人」を動員する方針が記されています。 さて、終戦後、日本政府は連合国側の指示を待つまでもなく、ただちに、復員・引揚事業に着手しました。ソ連を除く連合諸国も、迅速な在外邦人の復員・引揚を希望し、1946年3月16日に“引揚に関する基本指令”が発せられたときには、中国・東南アジア・南洋諸島などでは既に大規模な引揚が行われました。しかし、この基本指令では、ソ連の占領地域(旧満州・北朝鮮・千島・樺太)からの引揚に関しては“適当な協定が成立した場合”と規定されているのみで、引揚の基礎となる法的文書さえもできていない状態でした。 その後、1946年9月になって、ようやく、ソ連当局は捕虜が各自の家族に通信することを許可すると発表。10月20日付で、日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」を発し、抑留者と祖国との通信が始まりました。ただし、これは抑留者全員に許可されたわけではなく、ソ連側の基準で“(労働などの)成績の良好な者”に限られていたといわれています。 抑留者の通信に関しては、専用の往復葉書が用いられ、それ以外の葉書や封書での交信は禁止されていましたが、今回ご紹介のタイプ4とされるモノは、抑留末期の1954-56年に使用されました。 抑留者たちが書いた葉書は、内務省沿海地方本部検閲課を経由してウラジオストクから日本宛に発送されましたが、収容所の所在地などを葉書に記載することは禁じられていたため、1949年まではウラジオストク郵便局の、1950年代以降はバロフスク郵便局の私書箱が、差出人の住所として記載されています。 私書箱の所在地がウラジオストクからハバロフスクに変更されたのは、1949年までに抑留者の帰還がそれなりに進み、1950年以降は収容所の数が激減(ピーク時の1946年に509ヵ所あった極東25地区の収容所は、1950年には15ヵ所となりました)し、そのうちの過半数(1950年の時点では8ヵ所)がハバロフスクに集中していたという実情を踏まえたものと考えられます。 なお、シベリア抑留者の郵便に関しては、拙著『ハバロフスク』でその概要についてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 10月から毎月1回(原則第1火曜日:10月6日、11月3日、12月1日、1月5日、2月2日、3月1日)、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で下記の一般向けの教養講座を担当します。(下の青い文字をクリックしていただくと、よみうりカルチャーのサイトに飛びます) ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 初回開催は10月6日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 好評発売中! ★★★ 税込2160円 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました! 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾン、boox store、e-hon、honto、YASASIA、紀伊國屋書店、セブンネット、ブックサービス、丸善&ジュンク堂、ヨドバシcom.、楽天ブックスをご利用ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-08-08 Sat 12:06
第二次大戦末期の1945年8月8日(モスクワ時間)、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告してから、きょうでちょうど70年です。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年10月、いわゆるシベリア抑留者が差し出した葉書とその文面です。 1945年8月8日の宣戦布告を受けて、翌9日、満洲に侵攻したソ連軍は、その後、北朝鮮、千島・樺太にも侵攻し、武装解除した旧日本軍将兵のみならず、名目をつけて逮捕した日本人男性の多くをシベリアに連行します。 ドイツとの死闘で2000万人以上の犠牲者を出し、経済的に疲弊しきっていたソ連にとって、占領地域の日本人は、戦後復興のための最も安価な労働力としてきわめて便利な存在とみなされ、それゆえ、彼らは、あらゆる国際法規・条約を無視して、日本人をシベリアの奥深くに連行し、2年から4年、長い人では11年にわたって奴隷さながらの重労働に従事させました。いわゆる北方領土問題や中国残留孤児・婦人問題などとあわせて、ソ連という共産主義国家が終戦のどさくさに日本と日本人に対して何をやったのか、僕たちは民族の記憶として決して忘れてはなりません。 さて、終戦後、日本政府は連合国側の指示を待つまでもなく、ただちに、復員・引揚事業に着手しました。ソ連を除く連合諸国も、迅速な在外邦人の復員・引揚を希望し、1946年3月16日に“引揚に関する基本指令”が発せられたときには、中国・東南アジア・南洋諸島などでは既に大規模な引揚が行われました。しかし、この基本指令では、ソ連の占領地域(旧満州・北朝鮮・千島・樺太)からの引揚に関しては“適当な協定が成立した場合”と規定されているのみで、引揚の基礎となる法的文書さえもできていない状態でした。 その後、1946年9月になって、ようやく、ソ連当局は捕虜が各自の家族に通信することを許可すると発表。10月20日付で、日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」を発し、抑留者と祖国との通信が始まりました。ただし、これは抑留者全員に許可されたわけではなく、ソ連側の基準で“(労働などの)成績の良好な者”に限られていたといわれています。 今回ご紹介の葉書は、裏面に昭和21年10月20日(上記指令の発せられた日付)との書き込みがありますので、これが正しいとすると、抑留者からの発信としては最初期の使用例とみてよいでしょう。ちなみに、ウラジオストク局の中継印の日付は(1946年)11月5日ですが、日本到着時の検閲印に書き込まれた日附は9らしき数字が見えるものの、それ以外は判読不能です。 裏面の文面は、ソ連当局による検閲の都合上、全文カタカナ書きです。ソ連側が検閲を行った痕跡としては、三日月の脇に“ВЦ”の文字の入った小型の角印が、その下に星形の印(番号はウラジオストクの中継印と重なって判読不能)が押されています。このうち、“ВЦ”は軍事検閲を示すロシア語の“военной цензуры”ないしはそれに類する語句の頭文字であろうと思われます。裏面の文面を漢字と平仮名で書き起こすと、以下の通りです。 お父さん、お母さんはじめ皆元気でおることと思います。また、ヨシミも元気ですか。喜雪も元気でおりますから、安心してください。奥山ユタカさんも一緒におりますから心配しないでくださいませ。お隣の皆様にもよろしく伝えてください。おうちからのお便りを首長にお待ちしております。皆さん元気でね。では、これにてお別れいたします。さようなら。 この文面で注目すべきは、「奥山ユタカさんも一緒におりますから心配しないでください」との記述です。というのも、ソ連側の検閲基準では、反ソビエト的ないしは親ファシスト的と彼らが判断した内容の記述がある葉書は没収されたほか、①各収容所や特設病院、労働大隊に収容されているその他の軍事捕虜についての記述、②各収容所や特設病院、労働大隊に滞在時に病死したか事故死した軍事捕虜についての情報、③各収容所や特設病院、労働大隊、軍事捕虜が働いている企業の配置場所、④軍事捕虜が遂行している労働の性格、などを日本宛の葉書に書くことは「絶対に禁止」されていたからです。 このため、抑留者は葉書が検閲で没にされないためにも、「XX(人名)と同じ収容所にいる/病気で入院している」という直接的な表現ではなく、「XXと話をした/会った」という表現が多く用いられました。その一方で、今回ご紹介の葉書が無事に検閲をパスしている事例もありますので、実際にある郵便物を検閲で通過させるか否かの判断は、検閲担当者個人の裁量次第だった面も大きかったようです。 ちなみに、シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプⅠと呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介のものは、“Й”の文字が上の行の“С”の下にあるタイプのⅠA1と呼ばれるものですが、このⅠA1は専門的にはさらに細かく分類されます。 なお、シベリア抑留者の通信については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧ください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 好評発売中! ★★★ 税込2160円 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました! 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾン、boox store、e-hon、honto、YASASIA、紀伊國屋書店、セブンネット、ブックサービス、丸善&ジュンク堂、ヨドバシcom.、楽天ブックスをご利用ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-10-13 Sat 21:11
ご報告が遅くなりましたが、『メディア史研究』第32号ができあがりました。今号は特集が「検閲の諸相」ということで、僕も「シベリア抑留前期の捕虜郵便と検閲」と題する論文を投稿しています。というわけで、きょうは拙稿の中から、この葉書をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプIIB2と呼ばれるものです。 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、往信部右下の番号が613で、赤十字・赤新月の入っていないものはタイプIIとされています。タイプIIは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介のモノは、表題2行目の“Й”が1行目の“O”の右下にあるタイプIIB2呼ばれるものです。 さて、ソ連側の検閲基準では、反ソビエト的ないしは親ファシスト的と彼らが判断した内容の記述がある葉書は没収されたほか、①各収容所や特設病院、労働大隊に収容されているその他の軍事捕虜についての記述、②各収容所や特設病院、労働大隊に滞在時に病死したか事故死した軍事捕虜についての情報、③各収容所や特設病院、労働大隊、軍事捕虜が働いている企業の配置場所、④軍事捕虜が遂行している労働の性格、などを日本宛の葉書に書くことは「絶対に禁止」されており、必要に応じて問題個所を検閲担当者が抹消した後、日本宛に送られたといわれていました。 このため、規則上は、捕虜郵便の差出人住所に“収容所”の語を記載することは禁じられており、ウラジオストクないしはハバロフスクの郵便局私書箱(実際の葉書の記述例としては“郵便函”となっている事例が多い)をリターンアドレスとすることになっています。そして、収容所によっては、日本人の通訳または収容所当局の担当者が一括してロシア語で差出人住所を記入する場合ありました。 ところが、今回ご紹介の葉書のように、収容所側がロシア語での差出人の住所を記載した場合には、収容所当局みずからが“収容所”を意味するロシア語の“Лагерь”の印を押した事例がしばしばみられます。日本に送る郵便物なので、ロシア語の読めない日本人には意味が分かるまいとの判断だったのでしょう。こうした制度や規則と実際の運用とのズレというのは、文献資料を眺めているだけでは絶対に見えてこないわけで、実際のマテリアルを直接手に取ってみることの重要さを改めて教えてくれます。 今回の『メディア史研究』に掲載の拙稿では、今回ご紹介の葉書以外にも、いろいろな実例を挙げながら、ソ連側の検閲規定とそれが実際にどのように運用されていたのかという点について、多角的に検証しています。拙著『ハバロフスク』には掲載されていない葉書も少なからず取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ T-moneyで歩くソウル歴史散歩 ★★★ ・よみうりカルチャー荻窪 10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30 8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、ソウルの歴史散歩を楽しんでみようという一般向けの教養講座です。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 ★★★★ 電子書籍で復活! ★★★★ 歴史の舞台裏で飛び交った切手たち そこから浮かび上がる、もうひとつの昭和戦史 『切手と戦争:もうひとつの昭和戦史』 新潮社・税込630円より好評配信中! 出版元特設HPはこちらをクリック ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-09-30 Sun 19:13
きょうは十五夜です。残念ながら、東海から東日本にかけては、台風の影響でお月見どころではないのですが(台風の通過地域にあたる皆様は十分ご注意ください)、年に一度のことですので、こんな関連マテリアルをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプIIA1と呼ばれるものです。 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、往信部右下の番号が613で、赤十字・赤新月の入っていないものはタイプIIとされています。タイプIIは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介のモノは、表題2行目の“Й”が1行目の“C”の下にあるタイプIIA1と呼ばれるものです。なお、シベリア抑留の日本人用専用はがきについては、拙著『ハバロフスク』でも概要をまとめておりますので、紀伊會がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 さて、葉書の裏面には「今夜は十五夜で十一時の“サイレン”迄眺めて母さんやお前の事等で頭が一パイです」との記述があります。ウラジオストクの中継印は不鮮明ですが、年号はどうやら1948年のようですので、そうだとすると、はがきに出てくる“今夜”は1948年9月17日ではないかと推測されます。 阿倍仲麻呂以来、異国の地で月を見ながら祖国・日本を思い望郷の念に駆られるという例は枚挙に暇がありませんが、ソ連による理不尽な抑留の下、シベリアで十五夜の月を見ながら「お別れしてからもう八年に成りますね。どんなにか故里の方も変わっている事でせう」と書いている日本人がいたことを、僕たちは決して忘れてはなりません。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 10月から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順) T-moneyで歩くソウル歴史散歩 ・よみうりカルチャー荻窪 10月2日、10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30 * 10月2日は公開講座として、お試し聴講も可能です。 ・よみうりカルチャー北千住 10月17日、12月19日、1月16日、2月20日、3月20日 13:00-15:00 ★★★★ 電子書籍で復活! ★★★★ 歴史の舞台裏で飛び交った切手たち そこから浮かび上がる、もうひとつの昭和戦史 『切手と戦争:もうひとつの昭和戦史』 新潮社・税込630円より好評配信中! 出版元特設HPはこちらをクリック ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-09-08 Sat 10:58
太平洋を囲む21の国と地域が参加するAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の首脳会議が、きょう・あす(8・9日)の日程で、ロシア・ウラジオストクで開催されます。というわけで、ウラジオストクがらみのマテリアルです。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプⅠA2と呼ばれるものです。 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプⅠと呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。表題2行目の“Й”が1行目の“О”の下にあるタイプⅠA2と呼ばれるもので、表面が濃い緑色・裏面が白色の用紙に印刷されています。 葉書が差し出された時期は特定できませんが、ウラジオストクの中継印は1946年12月3日になっています。また、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には1月4日の書き込みがあります。赤十字の下に押されているソ連側の長方形の検閲印は、1946-47年の葉書に押された例が多いようで、1948-49年になると、菱形の検閲印が多くなります。 なお、シベリア抑留者の通信については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧ください。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 9月下旬から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順) 公開講座 ソウル・国立中央博物館へ行ってみよう ・よみうりカルチャー北千住 9月19日(水)13:00-15:00 T-moneyで歩くソウル歴史散歩 ・よみうりカルチャー荻窪 10月2日、10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30 ・よみうりカルチャー北千住 10月17日、12月19日、1月16日、2月20日、3月20日 13:00-15:00 ★★★★ 電子書籍で復活! ★★★★ 歴史の舞台裏で飛び交った切手たち そこから浮かび上がる、もうひとつの昭和戦史 『切手と戦争:もうひとつの昭和戦史』 新潮社・税込630円より好評配信中! ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-24 Tue 12:33
ご報告がすっかり遅くなりましたが、今月から、スタンペディア・エキシビションのサイト内で、昨年の<JAPEX>に出品した1Fコレクション「シベリア抑留日本人用往復葉書」を公開しております。そのご案内を兼ねて、きょうはコレクション冒頭のこの葉書をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプⅠA1と呼ばれるものです。 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプⅠと呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介のものは、“Й”の文字が上の行の“С”の下にあるタイプのⅠA1と呼ばれるものですが、このⅠA1は専門的にはさらに細かく分類されます。 葉書が差し出された時期は特定できませんが、ウラジオストクの中継印は1946年11月14日になっています。シベリアの日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」は1946年10月20日付で発せられていますので初期の使用例と言ってよいでしょう。なお、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には11月29日の書き込みがあります。 この葉書のには、ソ連側の検閲印として、三日月の脇に“ВЦ”の文字の入った小型の角印が、その下に7の番号の入った星形の印が押されています。このうち、“ВЦ”は軍事検閲を示すロシア語の“военной цензуры”ないしはそれに類する語句の頭文字であろうと思われます。 シベリア抑留者の通信については、現在なお未解明の部分も多いので、まずは、データを蓄積していくことが必要だろうと思います。今回、スタンペディア・エキシビションで公開した僕のコレクションにもいろいろと誤りや勘違いもあると思いますが、そうした点についても皆様にご教示いただければ幸いです。 なお、シベリア抑留者の通信については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-03-02 Fri 17:29
ご報告が遅くなりましたが、2月24日付の『岐阜新聞』社会面に「シベリア抑留 家族への便り」という記事が掲載されました。記事は、岐阜県内の元抑留者の方がご自身の差し出した葉書を手にインタビューに応じたもので、僕も電話取材に応じて簡単なコメントを寄せています。というわけで、きょうはその記事に掲載の葉書と同形式のモノで、なおかつ、岐阜県宛のモノが手元にありましたので、記事で紹介された葉書の写真と並べてご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
葉書は、これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプ1A2と呼ばれるもので、左側が僕の手元にあったもの、右側が新聞で紹介されたものです。 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプ1と呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介のものは、表題2行目の“Й”の文字が1行目の“О”の真下にあるため、タイプ1A2という分類になります。なお、『岐阜新聞』の記事では、「黄ばみが濃くなった粗末な紙」との説明がありますが、新聞に掲載された葉書は、写真で見る限り、コンディションこそ悪いものの、黄ばんでいるのではなく、もともと左の葉書と同じ茶紙のモノであったと思われます。 左の葉書には、赤月の下に薄くウラジオストク局の中継印が押されています。日付がよく見えないのですが、スキャンした画像を拡大してみると、どうやら、1947年1月と読めますので、検閲を経てウラジオストクまで届けられる時間を考えると、葉書が書かれたのは、1946年中だったのではないかと推測されます。シベリアの日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」は1946年10月20日付で発せられていますので、比較的、初期の使用例といってよいでしょう。なお、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には4月17日の書き込みがあります。 一方、『岐阜新聞』の葉書は消印が不鮮明で分かりづらいのですが、ウラジオストク局の中継印の“月”の部分は12のようです。差出人の後藤政吉さんによると、この葉書がシベリア・モシカ収容所からの第1信だそうですから、中継印の年度は1946年ではないかと思います。そうだとすると、左の葉書とほぼ同時期の使用例といえそうです。 さて、タイプ1の葉書は2色刷ですが、今回、2枚の葉書を並べてみると、赤十字と赤新月の赤色の部分の形状が酷似しており、同じ版を用いたのかもしれません。タイプ1の赤色の部分にはさまざまなバラエティがあり、明らかに別の版を用いたと思われるケースも多いのですが、今回の2枚のように、黒色・赤色ともに同じ版を用いていると考えられる葉書が確認されたことで、2枚の葉書が同じ時期に同じ印刷所で作られたのではないかとの推測も十分に成り立つと思います。 シベリア抑留者の葉書の大半は、黒・紺・紫色のインクで文字が書かれていますが、右側の葉書は赤色で書かれています。差出人の後藤さんによると、これは「赤い木の実をつぶした汁で書いた」ことによるものだそうです。他の収容所でも、右側の葉書のように、抑留者が通常の筆記具とインクを使うことができなかったケースがあったのかもしれませんが、僕自身はそうした事例を確認できていません。 また、後藤さんによると、「発信人の欄は日本人の通訳が書いた」とのことですが、たしかに、日本人抑留者の多くはロシア語の読み書きがほとんどできないわけですから(なまじっかロシア語ができるとスパイ扱いされるという事例も少なくなかったようです)、当然の措置といえましょう。あらためて、今回ご紹介のタイプ1A2の葉書のうち以前の記事でご紹介したモノをチェックしてみると、発信人とは別の筆跡でロシア語の返送先が書かれていました。 これに対して、左側の葉書は差出人本人が日本語で返送先が書かれているほか、裏面の通信文もカタカナ(ちなみに後藤さんの葉書を含め、抑留者の葉書は全てカタカナ書きの文面のものが少なくありません)ではなく漢字交じりの通常の日本語で書かれています。検閲担当者が日本人(の通訳)であるから、そのまま日本語で書いても構わないと現場で判断されたためでしょう。 いずれにせよ、シベリア抑留者の通信については、現在なお未解明の部分も多いので、まずは、データを蓄積していくことが必要だろうと思います。その意味でも、今回の『岐阜新聞』のような記事はありがたいですな。 なお、シベリア抑留者の通信については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 3月下旬から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順) よみうりカルチャー柏 3月23日(金)13:00-15:00(公開講座) 「ご成婚切手の誕生秘話――切手でたどる昭和史」 *柏センター移転、新装オープン記念講座です。 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ・よみうりカルチャー荻窪 3月27日(火) 13:30~15:30(公開講座) 「ご成婚切手の誕生秘話——切手でたどる昭和史」 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日 (毎月第2火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ・よみうりカルチャー錦糸町 3月31日(土) 12:30-14:30(公開講座) 皇室切手のモノ語り 4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日 (毎月第1土曜日) 12:30~14:30 郵便学者・切手博士と学ぶ切手のお話 |
2011-11-04 Fri 09:10
きょう(4日)から6日まで、東京・池袋のサンシャイン文化会館で全国切手展<JAPEX>が開催されます。僕も、拙著『ハバロフスク』のプロモーションとして「シベリア抑留日本人用往復葉書」と題する1フレーム作品を出品しております。というわけで、きょうはその作品の中からこの1点です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプ2の未使用です。 シベリア抑留の日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、タイプ2は、赤十字・赤新月が入ってたタイプ1と文字部分が同一で、赤十字・赤新月が入っていない形式となっています。 シベリア抑留者用の往復葉書のうち、現存するモノの大半は、収容所から日本宛てに送られた往片の使用済みで、復片のついた状態のモノ(葉書が到着する前に差出人が帰国して、返事を出さなかったケースなどが考えられます)は少なく、復片の使用例はさらに少なくなっています。これは、ソ連側が捕虜の帰還に際して、受け取った郵便物を持ち帰ることを原則として禁じていたことによるものです。 そこから考えると、そもそも、支給された葉書を未使用のまま保存し、それをソ連側の監視の目をくぐりぬけて収容所から持ち出すのは、かなり難しかったのではないかと思います。じっさい、僕自身は、往片・復片がつながったままの未使用の葉書は、これ以外には見たことがありません。 いわゆる捕虜郵便のコレクションというと、実逓カバーで構成される“郵便史”のスタイルで構成するのが一般的です。このスタイルだと、今回ご紹介の未使用は作品に含めないのが原則となります。 しかし、シベリア抑留者用の往復葉書に関しては、葉書のフォーマットや用紙などにさまざまなバラエティが存在していますので、いわゆる伝統郵趣(トラディショナル)のスタイルで構成してみるのも面白いのではないかと前々から考えていました。そこで、今回の出品作品「シベリア抑留日本人用往復葉書」では、今回ご紹介の未使用の葉書も加えて、葉書の形式分類を中心に、伝統郵趣のステーショナリーの作品として組み立てています。 拙著『ハバロフスク』では、ハバロフスク発着のモノに限らず、シベリア抑留者用の往復葉書の概要についてご説明しておりますが、今回の出品作品は、拙著に掲載しきれなかったモノを含めて、葉書の実物を20数点展示しています。1フレームだけとはいえ、シベリア抑留者用の往復葉書がまとまったコレクションとして展示される機会はめったにないのではないかと思いますので、ぜひ、会場にてご覧いただけると幸いです。 なお、あす(5日)11時からは、会場内の特設スペースで、『ハバロフスク』の刊行記念トークを行いますが、あわせて、出品作品の「シベリア抑留日本人用往復葉書」についても簡単な解説を行います。 こちらの方も、ぜひ、ご参加ください。 ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★ 11月5日(土)、東京・池袋で開催される全国切手展<JAPEX>会場内で、以下のトークを行います。 ・11:00 ハバロフスク…日本人の足跡を訪ねて 切手紀行シリーズ④『ハバロフスク』の刊行を記念してのトークです。同書の中から、シベリア抑留の痕跡を中心に、ハバロフスクに残る日本人の活動の跡をたどります。なお、1フレーム作品として出品の「シベリア抑留日本人用往復葉書」についても、あわせて、簡単な解説を行います。 ・16:00 年賀状の戦後史 角川 one テーマ21(新書)『年賀状の戦後史』の刊行を記念してのトークです。同書の内容をご紹介しつつ、10日の一般発売に先駆け、会場内でのみの先行発売(限定30部)も行います。 今回は、2冊の刊行時期が接近しているため、トークイベントもダブル・ヘッダーとなりました。ぜひ、遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 11月10日発売! 年賀状の戦後史 角川oneテーマ21(税込760円) 日本人は「年賀状」に何を託してきたのか? 「年賀状」から見える新しい戦後史! amazon、e-hon、セブンネットショッピング、楽天ブックスなどでご予約受付中! ★★★ 好評既刊より ★★★ ハバロフスク(切手紀行シリーズ④) 彩流社(本体2800円+税) 空路2時間の知られざる欧州 大河アムール、煉瓦造りの街並み、金色に輝く教会の屋根… 夏と冬で全く異なるハバロフスクの魅力を網羅した歴史紀行 シベリア鉄道小旅行体験や近郊の金正日の生地探訪も加え、充実の内容! amazon、bk1、e-hon、HMV、livedoorBOOKS、セブンネットショッピング、楽天ブックスなどで好評発売中! |
2011-09-12 Mon 21:50
きょう(12日)は十五夜です。というわけで、現在制作中の『(切手紀行シリーズ④)ハバロフスク』の中から、“月”に絡めて、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者が差し出した専用の往復葉書で、往片・復片の上部には赤十字と赤新月のマークが入ったタイプ1と呼ばれる形式のものです。シベリア抑留の日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、赤十字・赤新月が入っているのはタイプ1のみです。 今回ご紹介の葉書の上部には、上下さかさまになった最上段の文字の一部が見えます。このことから、(少なくとも1ヶ所は)上下頭合わせの状態となった複数の葉書を何面か組み合わせて印刷した後、裁断して作られたことがわかります。 葉書が書かれた日時は不明ですが、ウラジオストクの中継印は1948年1月17日で、日本到着後、検閲を受けた後、宛先に配達されたものの、返信部は使用されないまま残されています。この時期になると、日本人抑留者の帰国もそれなりに進んでいましたので、あるいは、葉書よりも先に差出人本人が帰国していたということなのかもしれません。 さて、第二次大戦後のハバロフスクには多くの日本人が抑留されており、日本人が建設・改修に動員された建物も数多く残されています。11月に刊行予定の拙著『(切手紀行シリーズ④)ハバロフスク』では、いわゆるシベリア抑留についても相応のスペースを割くとともに、抑留者用の往復はがきのタイプ1~4とそのバラエティなども示しながら、抑留者の郵便についての概説も書いてみました。 正式な発売日や定価など、詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご案内してまいりますので、どうかよろしくお願いします。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 5月29日付『讀賣新聞』に書評掲載 『週刊文春』 6月30日号「文春図書館」で 酒井順子さんにご紹介いただきました ! 切手百撰 昭和戦後 平凡社(本体2000円+税) 視て読んで楽しむ切手図鑑! “あの頃の切手少年たち”には懐かしの、 平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、 そんな切手100点のモノ語りを関連写真などとともに、オールカラーでご紹介 全国書店・インターネット書店(amazon、boox store、coneco.net、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、エキサイトブックス、丸善&ジュンク堂、楽天など)で好評発売中! |
2011-08-13 Sat 23:59
きのう(12日)の午後、予定通り、ハバロフスクから無事に戻ってきました。というわけで、きょうは、ハバロフスクから戻ってきたマテリアルです。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、ハバロフスク近郊で強制労働に従事させられていた日本人抑留者宛に差し出されたものの、抑留者がすでに帰還していたため、差出人に返送された葉書です。 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ4と分類されているモノの復片です。 タイプ4は抑留末期の1954-56年に使用されたと考えられており、その往片については、以前の記事でもご紹介したことがあります。ただし、今回ご紹介のモノとは紙質が違いますが…。 シベリア抑留関連の郵便物は、その性質上、抑留者発信の往片よりも抑留者宛の復片の方がはるかに少ないのですが、その中では、タイプ4の復片は比較的残されている方ではないかと思います。もっとも、タイプ4など、後期の復片の中には、航空料金相当の航空切手や普通切手を貼ったものがごく少数あり、それらは、そうした分野の専門収集家も鵜の目鷹の目で狙っているため、オークションに出品されればかなりの高値になることは確実で、僕自身もまだ入手できずにいます。 さて、今回のハバロフスク取材では、ハバロフスク市内中心部に残る、日本人抑留者ゆかりの場所もいろいろとまわってきました。それらについては、今秋、<切手紀行シリーズ>の第4巻として刊行予定の『ハバロフスク』(仮題)で御紹介するつもりです。なお、同書の刊行予定日やページ数、価格など、詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご報告してまいりますので、よろしくお願いいたします。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 5月29日付『讀賣新聞』に書評掲載 『週刊文春』 6月30日号「文春図書館」で 酒井順子さんにご紹介いただきました ! 切手百撰 昭和戦後 平凡社(本体2000円+税) 視て読んで楽しむ切手図鑑! “あの頃の切手少年たち”には懐かしの、 平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、 そんな切手100点のモノ語りを関連写真などとともに、オールカラーでご紹介 全国書店・インターネット書店(amazon、boox store、coneco.net、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、エキサイトブックス、丸善&ジュンク堂、楽天など)で好評発売中! |
2011-08-09 Tue 08:10
きのう(8日)の記事にも少し書きましたが、現在、極東ロシアのハバロフスクに来ています。今回の旅行の目的は、切手紀行シリーズの第4巻として現在制作中の『ハバロフスク』(仮題)の追加取材で、帰国は12日の予定です。というわけで、せっかくハバロフスクにいるということで、ハバロフスクからのこんな葉書をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1954年9月に日本人シベリア抑留者が日本宛に差し出した葉書で、差出人の住所は“ソ同盟ハバロフスク市郵便函5120-41”となっています。裏面の書き込みによると、葉書が書かれたのは9月6日のことで、収容所での検閲を経てウラジオストクに持ち込まれたのが9月29日、そして、日本到着は(押されている私印によれば)10月22日となっています。 この葉書が日本に到着して間もない12月10日には、日ソ国交回復を公約として掲げる鳩山一郎内閣が発足しましたが、その日ソ交渉で領土問題と並ぶ最優先課題が日本人抑留者の帰国問題でした。 周知のように、1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲国内に侵攻。強盗・略奪・強姦の限りを尽くしたほか、捕虜とした多数の日本人をシベリアに抑留し、過酷な強制労働を課しました。いわゆる北方領土問題や中国残留孤児・婦人問題などとあわせて、ソ連という国家が終戦のどさくさに日本と日本人に対して何をやったのか、僕たちは民族の記憶として決して忘れてはなりません。 きょうは、奇しくも、その8月9日。この地で無念の死を遂げた方々のご冥福をお祈りしつつ、“日本人抑留者の痕跡”のうち、昨年3月のハバロフスク訪問時には回り切れなかった場所をいろいろと訪ねて歩いてくるつもりです。 おまけ 本日撮影したハバロフスクの中央郵便局の外観(左)と内部の様子(右)です。いかにも社会主義時代の雰囲気を感じさせる局舎は、シベリア抑留の時代とほとんど変わっていないのかもしれません。“郵便函”(私書箱)は入口の近くにありました。もちろん、シベリア抑留者用の“郵便函”は、一般向けのものとは異なっていたとは思いますが、かの国の“郵便函”の写真というのもなかなかないのではないかと思い、アップしてみました。なにかのご参考になれば幸いです。 * 昨日、カウンターが89万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 5月29日付『讀賣新聞』に書評掲載 『週刊文春』 6月30日号「文春図書館」で 酒井順子さんにご紹介いただきました ! 切手百撰 昭和戦後 平凡社(本体2000円+税) 視て読んで楽しむ切手図鑑! “あの頃の切手少年たち”には懐かしの、 平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、 そんな切手100点のモノ語りを関連写真などとともに、オールカラーでご紹介 全国書店・インターネット書店(amazon、boox store、coneco.net、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、エキサイトブックス、丸善&ジュンク堂、楽天など)で好評発売中! |
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