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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 モーリタニア=アルジェリア国境、開放へ
2017-11-10 Fri 11:43
 北アフリカ・モーリタニアの同国国営通信によると、1960年の同国独立以来封鎖されてきたアルジェリアとの国境が開放されることになった(ただし、国境開放の具体的な日時などは現時点では未定)そうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      モーリタニア独立

 これは、1960年のモーリタニア独立に際して同国が発行した記念切手で、同国地図と国旗を掲げる白人と黒人の手が描かれています。この地図のうち、今回開放されることになったアルジェリアとの国境は同国の北端から南東方向に延びている部分で、その東の頂点から水平方向に西に延びた部分と南へ下った部分はマリとの国境になります。

 モーリタニアの沿岸には、15世紀以降、ポルトガルやスペイン、オランダなどの西洋人が交易を求めて姿を現すようになりましたが、17世紀以降はサン・ルイ(現セネガル)に基地を確保したフランスが影響力を拡大。19世紀末から20世紀初頭にかけての征服戦争を経て、1904年、モーリタニアは“民政区”として、1895年に設立された“仏領西アフリカ連邦”に編入されました。

 第二次大戦末期の1944年1月、フランスは仏領コンゴの首府ブラザヴィルで“フランス=アフリカ会議”を開催。会議の結果として採択されたブラザヴィル宣言では、①原住民制の廃止、②強制労働の廃止、③教育の整備、④工業開発の重視、⑤(戦後に予定される)フランス制憲議会への現地代表参加、⑥フランス国会への現地代表参加、⑦フランス連合の連邦議会の設置、⑧セネガルの植民地議会同様の議会を各植民地に設置、などの項目が、ヴィシー政府打倒後の新政権への勧告として盛り込まれていました。いわば、植民地は戦争協力と引き換えに、戦後の自治権拡大を約束された格好になります。

 これを受けて、大戦後の1945年10月21日、憲法制定のための制憲議会選挙が行われ、翌1946年5月5日に憲法草案が制定されて国民投票が行われました。ただし、この時の憲法草案は否決されたため、6月2日に再度、制憲議会選挙が行われ、再度作成された憲法草案が10月13日に国民投票にかけられて可決され、10月27日、フランス第四共和政がスタートしました。

 第四共和政下では、仏領西アフリカはフランス連合を構成する海外領土となり、モーリタニアにも地方議会が置かれ、フランス本国に代表を送るための選挙が1946年中に実施されました。

 その後、アルジェリア情勢が緊迫する中で、仏領植民地の自治拡大は急速に進み、1956年6月の基本法でフランス人の高等弁務官を首相とし、アフリカ系を副首相とする行政府が組織され、弁護士のムフタール・ワルド・ダッダーが初代のモーリタニア副首相に就任します。

 さらに、1958年の国民投票により、モーリタニアはフランスからの完全独立はせず、セネガルなどのアフリカ諸国とともにフランス共同体内の共和国として残留することを選択。これに伴い、同年10月、モーリタニア・イスラム共和国が発足します。しかし、その後、フランス共同体の解体は急速に進み、1960年夏には旧フランス領アフリカ諸国の大半が独立。同年11月28日には、モーリタニアも独立を宣言しました。今回ご紹介の切手は、これに伴って発行されたものです。

 さて、1960年11月の独立時、アルジェリアは独立戦争の最中にあり、モーリタニアとしてもアルジェリアとの国境を開放できるような状況にはありませんでした。また、1660年に成立したアラウィー朝(モロッコの現王朝)が、かつて、現在のモーリタニアを含む北西アフリカの一帯を支配下に置いていたことを根拠として、1956年に再独立したモロッコはモーリタニアの自国への再統合を主張し、モーリタニアの独立に異議を唱えていました。

 これに対して、モーリタニア国内にもモロッコの主張に同調する勢力が一体数存在していたことに加え、北アフリカ諸国の加盟するアラブ連盟もモロッコを支持したため、モーリタニアは独立を維持するためにフランスおよび穏健外交路線を採る旧仏領諸国(ブラザヴィル・グループと呼ばれた)との関係を強化することになります。

 これに対して、そもそもフランス共同体への参加を拒否したギニアや、セネガルとの連邦が破綻した後、汎アフリカ主義者として急進化したモディボ・ケイタのマリ、旧英領アフリカ諸国で独立運動の中心となったガーナが、ブラザヴィル・グループに対抗して急進派諸国を糾合した会議を開催することを計画すると、モロッコ国王ムハンマドはこれに協力し、1961年1月4日から7日まで、カサブランカ会議を開催。開催国モロッコのほか、エジプト、ガーナ、タンガニーカ、ギニア、マリと、独立戦争のさなかにあったアルジェリアのアルジェリア共和国臨時政府が参加し、“カサブランカ・グループ”を構成しました。

 その後、モロッコとアルジェリアは国境地帯のティンドゥフとベシャールの帰属をめぐり、砂戦争を戦うことになりますが、上記のような経緯もあって、モーリタニアは460キロにわたるアルジェリアとの国境を封鎖し、国境地帯を軍事区域として民間人の往来を禁止し続けてきました。

 もっとも、両国の国境地帯はほぼ無人の砂漠が延々と広がっており、実際には、武器や石油、薬物の密輸、移民の密入国が横行武装勢力の衝突も絶えない状況が続いていました。今回の国境“開放”は、国境地域の管理をきちんと行うことで、治安の改善を図ろうというもので、アルジェリアのベドゥイ、モーリタニアのアブデッラの両国内相は、国境開放で地域がより安全になると強調しています。

 * 昨日、アクセスカウンターが185万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★

  11月9日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第11回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、11月30日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、9日放送分につきましては、16日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

 明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


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 モーリタニアの地図
2008-01-05 Sat 11:52
 今日(5日)スタートの予定だったダカール・ラリーは、コース途中のモーリタニアの治安が悪化したことにくわえ、テロ組織からと見られる脅迫があったため、開幕前日の4日になって、急遽、レース全体が中止になりました。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

モーリタニア地図切手

 これは、1988年にモーリタニアで発行された国勢調査の記念切手で、各州の名前を書き込んだモーリタニア地図が取り上げられています。

 独立以前のモーリタニアは、セネガルなどとともにフランス領西アフリカ(現在の国名でいうと、モーリタニア、セネガル、マリ共和国、ギニア、コートジボワール、ニジェール、ブルキナファソ、ベナンに相当する地域をカバーしていました)を構成する“民政区”でしたが、この地域のフランス支配の拠点はサンルイ(現ダカール)にあり、現在のモーリタニア地域は、どちらかというと軽んじられていました。

 ただし、中世のサハラ越え貿易の時代には、シンゲッティ(切手の地図で中央北よりAdrar:アドラール州にあります)、ウワダン(同じくアドラール州にあります)、ウワラタ(切手の地図で中央東よりTagant:タガン州にあります)、ティシット(同じくタガン州にあります)などが隊商交易の拠点として繁栄しており、その古い町並みはユネスコの世界遺産にも登録されているほどです。

 昨年(2007年)のダカール・ラリーのコースは、かつての交易ルートをなぞってアドラール州を南下して州都のアタールを通過した後、東進してタガン州のティシットを通り、西南方向に進んでマリ経由でセネガルのダカールを目指すというルートでしたが、2006年のコースは、アタールの後、いったん西進して首都のヌアクショット(切手の地図ではNouakuchott)を経由してから東のティシットを回って西南方向、セネガルを目指すというルートでした。ちなみに、今年のレースが予定通り行われていれば、アタールの後、コースはほぼまっすぐ南西方向に進み、セネガルに入るルートとなっていました。ご参考までに、ウィキペディアに出ていた去年のルートの地図を貼っておきましょう。

昨年のパリダカ地図


 こうした世界遺産のオアシス都市と比べると、首都のヌアクショットは歴史のない街です。

 もともと、ヌアクショットは大西洋岸の漁港にすぎなかったのですが、1950年代後半になって、フランス領西アフリカの解体とモーリタニアの分離独立が現実味を帯びてきたことで、突如、“首都”に指定されます。こうしたことから、1990年代までは市内に信号機は一箇所しかなく、伝統的なテント・スタイルの宿屋も営業しているなど、一国の首都としてはのんびりとした田舎町の雰囲気が色濃く残っていました。

 ところが、インフラが整備され、都市化が進んだことで、ヌアクショットへは周辺諸国からも人口の流入が進み、1969年に2万人だった人口は2000年には50万人を突破。さらに、2004年末、首都のヌアクショット沖合で石油と天然ガスの埋蔵が確認されたことで、世界各国のビジネスマンがこの地に殺到し、都市化の流れにますます拍車がかかるという状況が続いています。ダカール・ラリーを中止に追い込んだ“治安の悪化”もまた、その副作用というべきものなのでしょう。

 まぁ、ラリーが中止になってしまった代わりといっては何ですが、今夜は、近所のスーパーで買ってきた“モーリタニア産”のタコでもつまみながら、遠いかの地に思いをはせてみることにしますかね。
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 アラブの都市の物語:ヌアクショット
2007-07-18 Wed 09:19
 NHKのアラビア語会話のテキスト8・9月号が出来上がってきました。僕の担当している連載「切手に見るアラブの都市の物語」では、今回は、アラブ連盟加盟国で一番西側の国・モーリタニアの首都、ヌアクショットを取り上げました。その記事に使ったものの中から、今日は、こんなモノをお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

ヌアクショット

 これは、1962年に発行された国連加盟の記念切手で、国連本部のあるニューヨークとヌアクショットの風景が対比して描かれています。

 15世紀以降、ポルトガルやスペイン、オランダなどの西洋人が交易を求めてモーリタニア沿岸に姿を現すようになりましたが、17世紀以降はサンルイ(現セネガル)に基地を確保したフランスが影響力を拡大。19世紀末から20世紀初頭にかけての征服戦争を経て、1904年、モーリタニアは“民政区”としてフランス領西アフリカ(1895年設立)されました。

 第2次大戦末期の1944年、植民地各国の独立運動が高揚する中で、フランスはフランス領コンゴでブラザヴィル会議を開催し、植民地の自治を拡大することを決定。これに伴い、戦後制定されたフランス第4共和制憲法で、フランス領西アフリカはフランス連合を構成する海外領土となり、モーリタニアにも地方議会が置かれ、フランス本国に代表を送るための選挙が1946年に実施されました。

 その後、アルジェリア情勢が緊迫する中で、フランス植民地の自治拡大は急速に進み、1956年6月の基本法でフランス人の高等弁務官を首相とし、アフリカ系を副首相とする行政府が組織され、弁護士のムフタール・ワルド・ダッダーが初代のモーリタニア副首相に就任しました。

 翌1957年、新政府は将来の独立を見据えて、それまでのフランス支配の拠点だったサンルイに代えて、大西洋岸の漁港だったヌアクショットを新首都に指定。1万5000人を目標に人口を増やすとともに、本格的な都市建設が開始されます。

 1958年の国民投票により、モーリタニアはフランスからの完全独立はせず、セネガルなどのアフリカ諸国とともにフランス共同体内の共和国として残留することを選択。これに伴い、同年10月、モーリタニア・イスラム共和国(al-Jumhuriyah al-Islamiyah al-Mauritaniyah)が発足します。しかし、その後、フランス共同体の解体は急速に進み、1960年夏には旧フランス領アフリカ諸国の大半が独立。同年11月28日には、モーリタニアも独立を宣言することになり、ヌアクショットは新生国家の首都となりました。

 今回ご紹介の切手には、その当時の首都の遠景が取り上げられているわけですが、なにぶんにも、本格的な都市建設が開始されてから日が浅い時代のことですから、インフラ整備はほとんど整っていません。第1回の国会はテントのような建物の中で行われたともいわれていますが、切手の画面奥に描かれているのがそうなのかもしれません。

 ちなみに、1990年代までのヌアクショットは一国の首都としてはのんびりとした田舎町の雰囲気が色濃く残っていましたが、都市開発が進むにつれ、周辺から職を求めて流入する人口が急増。くわえて、近年は沖合いで石油と天然ガスが見つかったこともあって、1969年に2万人だった人口は2000年には50万人を突破し、サハラ地域では最大の都市になりました。

 今回の「切手に見るアラブの都市の物語」では、日本ではあまり語られることのないヌアクショットとモーリタニアの歴史について、簡単にではありますがご紹介しています。ご興味をお持ちの方は、是非、現在発売中のNHKアラビア語会話のテキストをお手にとってご覧いただけると幸いです。
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