2011-11-22 Tue 11:39
きのう(21日)、ハンガリー政府が国際通貨基金(IMF)と欧州連合(EU)に金融支援を要請しました。ハンガリーはEU加盟国ではあるものの非ユーロ圏ですが、通貨が下落するなど信用不安が台頭したとのことで、ギリシャ発の欧州債務危機がいよいよユーロ圏の外側にも波及し始めたということなのでしょうか。というわけで、きょうはハンガリーがらみでこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1887年1月、オーストリア・ハンガリー二重帝国支配下のブラッソ(現ルーマニア領ブラショフ、ドイツ語名クローンシュタット)からヘルマンシュタット(ドイツ名、ハンガリー語ではナジセベン。現ルーマニア領シビウ)充てに差し出された書留便で、ハンガリー切手で20クロイツァー相当が貼られています。 首都ブカレストに次ぐルーマニア第2の都市、ブラショフの歴史は12世紀にハンガリー王ゲーザ2世がザクセン人(ドイツ人)を入植させたことに始まります。このため、この街の呼び名は、国王から与えられた都市ということで、英語のクラウン・シティに相当するドイツ語のクローンシュタット、または、単に“王冠”を意味する中世ラテン語のコロナが同時に使われていました。 その後、1211年にはハンガリー王エンドレ2世の招きに応じて、国境防衛のためにテュートン騎士団(ドイツ騎士団)が“森の彼方の地方”すなわちトランシルヴァニアのブルツェンラント(これが、現在のブラショフ県の範囲にほぼ相当)を所領として与えられました。このブルツェンラントの中心都市が、現在の行政区域でいうブラショフ市にほぼ相当します。 ブラショフを含むトランシルヴァニアの地は、オスマン帝国との抗争を経てハプスブルク帝国の支配下に置かれ、当初はオーストリア切手がそのまま使われていました。ところが、1867年、オーストリア・ハンガリー二重帝国が発足すると、軍事・外交および財政のみは中央政府が担当するものの、その他はオーストリアとハンガリーの両政府がそれぞれ独自に担当することになり、ハンガリー王国に編入されたトランシルヴァニアではハンガリー切手が発行・使用されることになりました。 ハンガリー政府はトランシルヴァニア編入の翌年にあたる1868年から、民族法や教育法をはじめとするハンガリー化政策を推進。その一環として、このカバーにみられる消印の地名もドイツ語のクローンシュタットからハンガリー語のブラッソに改められています。その後、第一次大戦を経てトランシルヴァニアがルーマニアに編入されると、消印の地名表記もブラッソからルーマニア語のブラショフに変更されました。 ちなみに、旧ハプスブルク帝国に関わる領域で、ユーロ圏に加盟しているのはオーストリア、スロヴァキア、スロベニアで、チェコ、ハンガリー、ルーマニアは非加盟ですが、いずれも、ハンガリーとのつながりが浅からぬ国だけに、ギリシャ、イタリアなどのユーロ圏の状況悪化に加え、ハンガリーの経済危機の影響から無傷でいられるというわけにはいかなさそうですな。 なお、今回ご紹介のブラショフを含むトランシルヴァニアについては、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 11月17日、TBSラジオのニュース番組、 森本毅郎・スタンバイで紹介されました。 年賀状の戦後史 角川oneテーマ21(税込760円) 日本人は「年賀状」に何を託してきたのか? 「年賀状」から見える新しい戦後史! amazon、bk1、e-hon、HMV、livedoor BOOKS、 セブンネットショッピング、楽天ブックスなどで好評発売中! ★★★ 好評既刊より ★★★ ハバロフスク(切手紀行シリーズ④) 彩流社(本体2800円+税) 空路2時間の知られざる欧州 大河アムール、煉瓦造りの街並み、金色に輝く教会の屋根… 夏と冬で全く異なるハバロフスクの魅力を網羅した歴史紀行 シベリア鉄道小旅行体験や近郊の金正日の生地探訪も加え、充実の内容! amazon、bk1、e-hon、HMV、livedoorBOOKS、セブンネットショッピング、楽天ブックスなどで好評発売中! |
2011-07-05 Tue 21:47
オーストリア・ハンガリー二重帝国を支配したハウスブルク家の最後の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルク氏が、きのう(4日)、98歳で亡くなりました。というわけで、きょうは、ハプスブルク帝国ネタの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1851年6月30日、ヘルマンシュタット(現ルーマニア領シビウ)から差し出されたオーストリアの新聞切手の使用例です。 新聞というと、日本では各家に配達されるか駅やコンビニで買うものというイメージが強いのですが、19世紀以前のヨーロッパでは、郵便で送られるものでもありました。現在でも『XXポスト』と題する新聞がいくつかありますが、それらはいずれも、もともと郵送されるものでした。一方、郵政当局の側からすれば、まとまった部数の新聞を定期的に郵送してくれる新聞社は上得意ですから、一般の利用者に比べて料金を割安に設定するなどの優遇措置が講じられます。その結果、新聞を送るための専用切手(新聞切手)を発行する国も少なからずありました。 さて、今回ご紹介の郵便物は、1851年にオーストリアで発行された世界最初の新聞切手の使用例で、切手に描かれているのは、ローマ神話の商業神・マーキュリーです。マーキュリーは、ラテン語読みではメルクリウスで、ギリシャ神話のヘルメス(日本ではフランス語読みの“エルメス”といった方が通りが良いかもしれません)と同一視されています。ヘルメスは、ゼウスとマイアの子でオリュンポス12神の1柱で、 旅人、泥棒、商業、羊飼いの守護神にして神々の伝令役であることから通信の象徴ともされており、ヨーロッパの切手にはしばしば取り上げられています。 切手には額面の表示はありませんが、刷色によって額面が決まっており、青色は0.6クロイツァーに相当します。切手の上部には“新聞”を、下部には“切手”を意味するドイツ語が印刷されており、国名の表示はないものの、左側にはドイツ語の“Kaiserlich-Koeniglich”の頭文字に相当する“KK”の表示も見られます。 “Kaiserlich-Koeniglich”は直訳すると“帝国にして王国(の)”という意味で、オーストリア皇帝とボヘミア王、ハンガリー・クロアチア王を兼ねる君主としてのハプスブルク家の支配体制をあらわします。この場合、トランシルヴァニアのヘルマンシュタットは、ハンガリー王としてのハプスブルク家の支配下にある地域という位置づけです。 その後、ハプスブルク家は、1853年にバルカン半島での権益をめぐってロシアと対立してからは坂道を転げ落ちるかのごとく衰退の一途をたどり、1859年にはイタリア統一を目指すサルディニャとの戦争に敗れてロンバルディアを失い、1866年にはプロイセンとの戦争に大敗を喫し、KK体制の維持もおぼつかなくなってしまいました。 そこで、彼らが起死回生の策として打ち出したのが、KKの人口の2割を占めるハンガリー人と友好を結び、ドイツ人とハンガリー人によって体制を維持しようとする“二重帝国”のプランでした。 かくして、1867年、オーストリア・ハンガリー二重帝国が発足。これに伴い、“Kaiserlich-Koeniglich”のKaiserlich(帝国)とKoeniglich(王国)は同格に並立するものとなり、英語のandに相当するundを間に入れた“Kaiserlich und Koeniglich”の略称“K.u.K.”が使われるようになります。 そして、二重帝国体制の下では、オーストリア皇帝にしてハンガリー国王にであるハプスブルク家の人物の下、軍事・外交および財政のみは中央政府が担当するものの、その他はオーストリアとハンガリーの両政府がそれぞれ独自に担当することになりました。このため、ハンガリー政府の担当地域では従来のオーストリア切手に代わって独自のハンガリー切手が発行・使用されることになりました。 今回ご紹介のマテリアルの差出地であるヘルマンシュタットは、二重帝国の発足に伴い、ハンガリーの領域とされ、消印の表示もドイツ語のヘルマンシュタットからハンガリー語のナジセベンに改められました。そして、第一次大戦によりハプスブルク帝国が崩壊し、トランシルヴァニアがルーマニア領となると、ヘルマンシュタットないしはナジセベンと呼ばれていた地名もルーマニア語でシビウと呼ばれるようになりました。 なお、シビウを含むトランシルヴァニア地方の過去と現在については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 5月29日付『讀賣新聞』に書評掲載 『週刊文春』 6月30日号「文春図書館」で 酒井順子さんにご紹介いただきました ! 切手百撰 昭和戦後 平凡社(本体2000円+税) 視て読んで楽しむ切手図鑑! “あの頃の切手少年たち”には懐かしの、 平成生まれの若者には昭和レトロがカッコいい、 そんな切手100点のモノ語りを関連写真などとともに、オールカラーでご紹介 全国書店・インターネット書店(amazon、boox store、coneco.net、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、エキサイトブックス、丸善&ジュンク堂、楽天など)で好評発売中! |
2009-10-09 Fri 12:53
今年のノーベル文学賞は、ルーマニア出身のドイツ人女性作家、ヘルタ・ミュラーが受賞しました。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第一次大戦後の1919年、セルビア占領下のバナトで発行された切手です。 ドナウ川、ティサ川、ムレシュ川、南カルパチア山脈に囲まれた地域は、歴史的にはバナトと呼ばれており、その主要部分はルーマニア領に、西部の3分の一ほどがセルビア領となっています。(ほかに、北部のごくわずかな地域がハンガリー領です) 第一次大戦以前、バナトの地はハプスブルク帝国の支配下にあり、ルーマニア人、ドイツ人、セルビア人、ハンガリー人などが住んでいました。第一次大戦末期の1918年10月31日、ハプスブルク帝国の降伏を前に、この地のドイツ人とハンガリー人を中心に、“敗戦国”の一部としてバナトが分割されることを避けるとともに、マイノリティとしてのドイツ人・ハンガリー人の権利を守るため、ティミショアラでバナト共和国の独立が宣言され、ハプスブルク側もこれを承認します。 しかし、ほどなくしてバナトへはセルビア軍が進駐。バナト共和国も解体され、1919のヴェルサイユ条約と1920年のトリアノン条約により、バナトはルーマニア、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国(後のユーゴスラビア)、ハンガリーの3ヶ国に分割されてしまいます。今回ご紹介の切手は、そうした状況の下で、セルビア占領下のバナトで発行されたもので、ハンガリー切手への加刷はティミショアラで行われました。 さて、ノーベル賞を受賞したヘルタ・ミュラーの祖父は、こうしたバナト地方のドイツ系の富農だった人物です。ハプスブルク帝国の解体後、一家はルーマニアの支配下でドイツ系マイノリティとして生活することになりましたが、第二次大戦中、ルーマニアがドイツと同盟時代にあった時期には、彼女の父親はSSで働いていたこともあります。また、彼女の母親は、戦後、ソ連軍によって強制連行され、シベリアに抑留されました。まさに、彼女の家族史はバナトにおけるドイツ人の歴史と重なっているといってよいでしょう。 共産政権発足後の1953年生まれの彼女は、ティミショアラ大学でドイツ研究とルーマニア文学を学び、工場で翻訳の仕事をしていましたが、秘密警察への協力を拒否したことで解職されています。また、1982年に小説家としてデビューしましたが、1984年に西ドイツで過去の作品を未検閲の状態に改めて発表し、チャウシェスク政権下を批判。1987年に夫ともに西ドイツに政治亡命しました。 さて、今年はチャウシェスクの処刑で全世界に衝撃を与えたルーマニアの民主革命から20周年にあたります。ヘルタ・ミュラーのノーベル賞受賞も、そうした節目の年にふさわしい出来事といえますが、僕も、彩流社の“切手紀行シリーズ”の第2弾として、ルーマニアを舞台とした拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』を11月5日付で刊行する予定です。現在、印刷作業も順調に進んでおり、月末には現物ができあがってくると思いますので、何卒よろしくお願いします。 ☆☆ お待たせしました! 半年ぶりの新刊です ☆☆ 全世界に衝撃を与えた1989年の民主革命と独裁者チャウシェスクの処刑から20年 ドラキュラ、コマネチ、チャウシェスクの痕跡を訪ねてルーマニアの過去と現在を歩く! “切手紀行シリーズ”の第2弾 オールカラーで11月5日、いよいよ刊行! 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行:ルーマニアの古都を歩く』 (彩流社 オールカラー190ページ 2800円+税) 10月31日(土) 11:00から、<JAPEX09>会場内(於・サンシャイン文化会館)で刊行記念のトークイベントを行いますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! 『切手が伝える仏像:意匠と歴史』 彩流社(2000円+税) 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! |
2009-09-25 Fri 12:40
きょう(25日)から東京・六本木の国立新美術館でTHEハプスブルク(ハプスブルク展)がスタートします。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1850年に発行されたオーストリア最初の切手のうちの6クロイツァー切手で、クローンシュタット(現ルーマニア領ブラショフ)の消印が押されています。ハプスブルク家の紋章が消印の文字の隙間に収まっていてハッキリと見えるので、持ってきました。 首都ブカレストに次ぐルーマニア第2の都市、ブラショフの歴史は12世紀初にハンガリー王グーザ2世がザクセン人(ドイツ人)を入植させたことに始まります。この地のドイツ語名が、国王から与えられた都市ということで、英語のクラウン・シティに相当する“クローンシュタット”となっているのはこのためです。 その後、1211年にはハンガリー王エンドレ2世の招きに応じて、国境防衛のためにテュートン騎士団(ドイツ騎士団)が“森の彼方の地方”すなわちトランシルヴァニアのブルツェンラント(これが、現在のブラショフ県の範囲にほぼ相当する)を所領として与えられましたが、“クローンシュタット”はその中心都市となりました。 オスマン帝国との抗争を経て、1691年、トランシルヴァニアはハプスブルクの支配下に入ります。ハプスブルク体制の下、クローンシュタットの中心部は基本的にザクセン人の居住地とされ、人口の多数を占めるルーマニア人は城壁の外側に放逐されていました。彼らは城壁内に住むことを許されず、商売などのために城壁の内側の街区に入るには、特別の許可を得たうえで、城門のところで入場料を支払わなければなりませんでした。 1850年の時点でも、クローンシュタットはオーストリアの支配下にありましたから、オーストリア切手が使われ、ドイツ語による地名表示の消印が使われていました。その後、1867年にオーストリア=ハンガリー二重帝国が成立すると、トランシルヴァニアはハンガリーの支配下に置かれ、ハンガリー切手が使用され、ハンガリー語の消印が使用されるようになります。これに伴い、消印の地名表示も“ブラッソ”と変更されました。 第一次大戦後、戦勝国となったルーマニアは、ようやく、ルーマニア人が多数を占めるトランシルヴァニアを自国の領土に編入します。それに伴い、クローンシュタットないしはブラッソと呼ばれていたこの地も、ルーマニア語の“ブラショフ”が正式名称となり、ブラショフ表示の消印が使われるようになりました。 さて、今年はチャウシェスクの処刑で全世界に衝撃を与えたルーマニアの民主革命から20周年にあたります。これにあわせて、11月には、彩流社の“切手紀行シリーズ”の第2弾として、ルーマニアを舞台とした拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』(仮題)を刊行する予定です。すでに、原稿はすべて書きあがっており、現在は編集作業中ですが、発売日や定価などが決まりましたら、逐次、このブログでもご案内してまいりますので、どうかよろしくお願いします。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! 『切手が伝える仏像:意匠と歴史』 彩流社(2000円+税) 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! |
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