2007-08-31 Fri 03:46
イギリスのダイアナ元皇太子妃が事故で亡くなってから、今日(8月31日)でちょうど10年になります。ダイアナ元皇太子妃関係の切手は、世界中から数多く発行されていますが、今日はその中からこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1989年11月、チャールズ=ダイアナ夫妻の香港訪問を記念して発行された小型シートです。 1984年12月、香港返還に関する英中共同宣言が調印され、1997年7月1日の香港返還というスケジュールが確定すると、返還後の香港の中国化を進めたい中国と、返還後も香港社会に一定の影響力を残しておきたいイギリスとの間で、さまざまな駆け引きが行われるようになります。 こうした状況の中でイギリスが重要視したのが、香港の“民主化”でした。 そもそも、香港では総督が絶大な権力を持っており、住民には基本的自由はあっても政治参加はほとんど認められておらず、イギリス支配下の香港の政治制度も決して民主的なものではありませんでした。しかし、返還が間近に迫ったことで、イギリスは方針を転換。返還後の香港でイギリスの“代理人”となりうる民主派を育成すべく、急遽、上からの民主化に着手したのです。 こうして、1985年9月、イギリスは香港の立法評議会に間接選挙を導入。これにより、香港では一挙に直接選挙導入の機運が高まることになります。 当然のことながら、中国政府は香港の民主化が一党独裁体制にとっての“蟻の一穴”となることを警戒。基本法の起草作業が完了するまでは直接選挙を実施すべきではないとしてイギリス当局に圧力をかけ、英中関係は緊張していきました。 1989年6月4日、いわゆる天安門事件が発生すると、イギリス側は、「イギリスは香港の住民を独裁政権の手に売り渡すのか」という国際社会の批判を逆手にとって、同年10月、香港政庁が総額1270億香港ドルに達する総合的な社会資本整備計画(PADS)を打ち出したほか、11月には、本国のサッチャー政権が最大5万世帯の香港住民にイギリスの居住権を認めるパスポートを発給する方針を明らかにするなど、イギリスは対中外交で攻勢に転じていきます。 チャールズ=ダイアナ夫妻の香港訪問は、こうした親英勢力を育成するための駄目押しとして企画されたのです。 当時、世界的な人気を誇っていたチャールズ皇太子とダイアナ妃の来訪は、中国への不満と不安を感じていた香港市民から熱烈な歓迎を受けました。香港郵政の発行した記念切手も歓迎ムードを盛り上げ、住民の親英感情を増幅させる上で一定の役割を果たしています。イギリスによる“上からの民主化”の真意が香港での親英勢力の育成・扶植にあることを考えれば、このときの皇太子夫妻の訪問もそうした政治的文脈から切り離して考えることはできないでしょう。 なお、こうした“過渡期”の英中間の駆け引きについては、拙著『香港歴史漫郵記』でもまとめていますので、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-08-28 Tue 12:02
今夜(8月28日夜)は、日本全国で皆既月食が見られます。月の欠け始めは16時52分、月食が元に戻るのは22時24分。この間、18時52分から20時22分までの間、晴れていれば、皆既食が楽しめるということです。
というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1967年1月27日に発行された国際商業衛星通信開始の記念切手で、月と地球の間を回る人工衛星、ラニバード2号が描かれています。ご承知のように、月食は太陽からの光によってできた地球の影の中を月が通過するときに見られる現象で、太陽-地球-月が一直線にならんだ時に見られます。この切手の場合は、画面を越えてずっと右側に太陽があるようで、月と地球それぞれ、光の当っている部分とそうでない部分が描き分けられています。もちろん、月食の時の位置ではありません。 さて、1957年11月、ソ連が人工衛星スプートニク一号の打ち上げに成功したことで、米ソの2大国は本格的な宇宙開発競争に乗り出しますが、それと併行して通信衛星の開発も開始されます。 わが国では、郵政省、電信電話公社(現NTT)、国際電信電話会社(KDD)、NHKが協議会を作り、1962年にアメリカと衛星通信の実験に関する取り決めが結ばれ、翌1963年11月にはリレー1号による第1回日米間衛星通信テレビ伝送実験が実施されました。 しかし、当時の衛星は周回衛星であるため、情報通信の送信側と受信側の両地点から同時に見える時間が短く、その時間帯も毎日変わっていくという点で利用には大きな制約がありました。このため、アメリカは静止通信衛星の開発を進め、1963年7月、シンコム2号が大西洋上に、翌1964年8月にはシンコム3号が太平洋上に、それぞれ、打ち上げられました。 これを受けて、1964年8月、日米をはじめ11ヶ国が参加して世界商業衛星通信を行うための暫定通信衛星組織(インテルサットシステム、現国際電気通信衛星機構、ITSO)が設立されます。そして、インテルサットシステムが、1965年4月、インテルサット1を打ち上げ、大西洋上に静止させたことで、衛星通信は実用化時代に突入しました。 太平洋地域に関しては、1966年にインテルサット2が打ち上げられたものの、これは静止軌道投入に失敗したため、1967年1月11日、あらためてインテルサット2B(ラニーバード)が打ち上げられています。 これを受けて、同年1月27日から、わが国でもKDD(当時)がこの衛星を通じてアメリカ本土ならびにオーストラリア、ハワイとの商業通信を開始され、これにあわせて今回ご紹介の記念切手が発行されたというわけです。 当時の郵政省は、早くから衛星通信の開始にあわせて記念切手を発行することを計画していましたが、人工衛星の打ち上げには不確定要素が多く、また、インテルサット2の失敗や、インテルサット2Bの打ち上げ時期がなかなか確定しなかったことから、記念切手の発行日はなかなか確定せず、担当者はやきもきしたそうです。 結局、衛星が1月11日に打ち上げられた後、27日に衛星通信を開始することが決定され、切手の発行日もこの日に発行されることが確定するのですが、この間の経緯については、拙著『一億切手狂の時代』で詳しくまとめていますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。 |
2007-08-26 Sun 10:20
(財)日本郵趣協会発行の『郵趣』2007年9月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げ、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1933年4月、飛行船グラーフ・ツェッペリン号のローマ飛行にあわせてイタリアが発行した6種セットの切手の1枚で、フォロ・ロマーノ上空を飛ぶツェッペリン号が描かれています。 フォロ・ロマーノは、ローマにある古代ローマ時代の遺跡群です。もともとは丘の間の湿地帯でしたが、紀元前5世紀頃から神殿が建てられ始め、時の有力者たちの記念建造物によって飾り立てられました。凱旋門だけでも、アウグストゥスの凱旋門、セプティミウス・セウェルスの凱旋門、ティトゥスの凱旋門、パルティア凱旋門(の跡)があるほか、アントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿やウェスタ神殿ほか、多くの神殿(跡)があって、ローマ観光の名所となっています。 このとき発行された6種セットの切手では、他に、アウグストゥス時代に建てられたケスティウスのピラミッド(3リラ)、執政官クラッススの息子の妻、チェチリア・メッテラの墓(5リラ)、ムッソリーニ・スタジアム(現オリンピック・スタジアム、10リラ)、もともとは皇帝ハドリアヌスの霊廟として建設されたサンタンジェロ城(12リラ)、フォリ・インペリアリ通から望む円形闘技場、コロッセオ(20リラ)といった観光名所が取り上げられており、いずれも、その上空をツェッペリン号が飛んでいるデザインになっています。(実際の雑誌の表紙では、これらすべての写真をご覧いただけます) 古代ローマの栄光を示す遺跡の中に、1点だけ、1930年代になって建てられたムッソリーニ・スタジアムが混じっていますが、これは、これらの切手が、古代ローマ帝国の復興を呼号したムッソリーニ政権のプロパガンダ政策の一環として発行されたためと見て良いでしょう。 さて、今月の『郵趣』では、いよいよ10月に迫った郵便事業の民営化を前に、世界主要国で日常使われている普通切手のデザインを横断的に眺めてみようという企画が巻頭特集です。さきごろ、50円・80円の2種類だけですが、民営化以降の新普通切手のデザインも発行されましたが、これから発行される新切手が各国のモノと比べて遜色のないものとなってほしいと願うのは僕だけではないでしょう。 このほか、カラーページでは、9月21日から開幕の江戸悪奴会の切手展の名品集も掲載されていますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2007-08-25 Sat 10:24
今日(25日)から大阪で陸上の世界選手権(世界陸上)が行われるそうです。今回の世界陸上にあわせて23日に発行された記念切手では、為末大とか室伏広治とか、現役の有名選手が切手に取り上げられて話題になりましたが、 過去にも“現役”のアスリートが日本切手に取り上げられた例はないわけではありません。そのひとつが、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1956年に発行された世界柔道選手権の記念切手で、名人と謳われた三船久蔵が描かれています。 嘉納治五郎の提唱による国際柔道連盟が設立されたのは、嘉納が亡くなった後の1951年のことでしたが、このIFJが主催する柔道の世界選手権大会の第1回大会は、1956年5月3日、東京の蔵前国技館で開催されました。今回ご紹介の切手は、これを記念して発行されたものです。 原画の制作に当たって、郵政省のデザイナーであった渡辺三郎は、東京・水道橋の講道館を訪ね、庶務課長の老松信一に取材。資料として三船久蔵が著した柔道のテキスト『道と術』(1954年刊)を借り受け、講道館を見学した上で、同書の中の「大車を施した瞬間」の写真をもとに、1956年1月までに下図を完成させています。 しかし、この下図は当時の郵務局長・松井一郎(彼自身が熱心な柔道家だった)の決裁を得られなかったため、渡辺は前年末に『朝日新聞』で紹介された柔道映画『神技三船十段』 のなかから“隅落とし(空気投げ)”の技がかかる場面を選び、再度、下図の制作に取り掛かろうとします。しかし、その矢先に渡辺が急病で入院してしまったため、急遽、木村勝が代わりに原画を作成。木村は1月20日に原画を完成し、松井の指示により、三船本人のチェックを受けています。その際、三船からは、①手を修正することと、②彫刻の際にポーズが変わらないよう気をつけること、との注文が付けられたそうです。 まぁ、1945年に10段になって“柔道の神様”の地位を確立した三船久蔵が、切手発行時も実際に試合をしていたかどうかは別として、前年には柔道映画に出演して技を披露しているわけですから、その意味では、切手発行時にはまだまだ現役のアスリートだったといっても差し支えないでしょう。 1947年に発行の第2回国体以来、日本でも数多くのスポーツ切手が発行されていますが、郵政のデザイナーたちは基本的にはそれぞれのスポーツの専門家ではないため、実際の競技や練習の場面を取材したり、過去の写真などから原画を作っています。もちろん、今回の世界陸上の切手のように、現役選手の名前を明示するケースは異例ですが、それでも、関係者の回想などから、切手に取り上げられたプレーヤーを特定することが可能なケースも少なくありません。 それらについては、戦後記念切手の“読む事典”として2001年から刊行している解説・戦後記念切手シリーズでも、できる限り解明していますので、是非、ご覧いただけると幸いです。 |
2007-08-23 Thu 03:02
甲子園の高校野球は佐賀北高校の優勝で幕を閉じました。関係者の方々、おめでとうございます。というわけで、佐賀県がらみの切手のなかから、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1976年10月24日から29日まで佐賀県で開催された“若楠国体”の記念切手です。ただし、開会式の行われた10月24日は日曜日だったため、記念切手は前日の23日に発行されました。 切手は、“若楠国体の心を表現するものとして、躍動する若い女性の姿を描く”という主旨の下、当時は珍しかった女子新体操のフープ(輪)競技に競技場を配したデザインとなっています。 ネット上でルールを調べたところ、競技に使うフープはプラスチック製で重さは300g以上、直径は80~90センチのモノを使うことになっているのだそうです。競技としては、手具を体の一部で回したり、転がしたりと柔軟性よりも技術が重要視される種目で、ダイナミックな技が魅力となっています。その反面、誤ってフープを落として怪我をしやすい・フープが壊れやすいなどの難点もあるそうです。 切手にはフープを持って飛び跳ねる女性が2人描かれていますので、団体競技としての参加人数はどうなっているのか、日本体操協会のサイトで調べてみたところ、国体やインターハイをはじめ、今年度(2007年度)、団体種目としてフープ競技を実施する大会では、いずれも3人でのエントリーとなっており、2人でエントリーする競技はこん棒でした。30年前はフープの団体も2人でやっていたのかもしれませんが、3人でやっていたのをデザインの都合で2人しか描かなかったというのであれば、残りの1人にちょっと気の毒な気がします。 それにしても、切手に描かれている選手は、現在と比べてなんとなく垢抜けませんねぇ。やっぱり30年という時代の差なのか、それとも、単にデザイナーの技量の問題なのか、そのあたりは、ちょっと判断に迷うところですな。 なお、今回ご紹介の切手と佐賀国体については、拙著『沖縄・高松塚の時代』でもまとめていますので、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-08-22 Wed 01:43
今年4月から行われていた高松塚古墳の石室解体作業が、昨日(21日)で一応完了したそうです。今後はカビなどによる劣化が進んだ飛鳥美人や青龍などの壁画の修復・保存作業が本格的に始まるわけですが、すべての作業が完了するまでには10年はかかるのだとか。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1972年3月21日の高松塚古墳の壁画発見からほぼ1年後の1973年3月26日に発行された“飛鳥地方における歴史的風土および文化財の保存等に必要な資金に充てるための寄附金つき郵便切手”(正式名称があまりにも長いので、普通は“高松塚保存基金”と呼ばれている)の切手のうち、東壁に描かれた男子像の壁画を描いたものです。 東壁には4人の男子像が描かれていますが、切手に取り上げられているのはその左側の2人です。切手中右側の人物は後ろを振り向き、肩から柳筥のようなものを懸けており、左側の人物は太刀袋と見られる茶色の袋を担いでいます。彼らは、いずれも、埋葬者の従者と考えられています。 切手印刷の面では、左側の人物の着物の青緑色とその輪郭やひだの描写、右側の人物の顔などが見所と印刷局は説明しています。また、オリジナルの壁画の漆喰の雰囲気を出すため、通常の切手用紙とは異なる特殊な用紙の表面に微粉顔料を塗布するという工夫も施されました。 高松塚保存基金の寄附金つき切手は、今回ご紹介のものを含めて3種類発行されていますが、発行前から大変な人気を呼んでいました。 切手発行前日の3月25日、高松塚古墳のある明日香地方は粉雪の舞う寒さでしたが、すでに10名近くの徹夜組が明日香局の臨時出張所が設けられた高市小学校の校庭に並び、発行日の26日午前5時には30名近く、午前7時には100名近く、さらに発売時刻の午前8時には600名もの行列が並び、上空には報道各社のヘリコプターが飛び回るという騒然とした雰囲気の中で、1人1回2シートの制限販売が行われました。 その後も、春休み中の高市小学校の校庭には、正午頃まで常に200名前後の行列が並んでいましたが、ハト印の押印終了のため講堂は正午に入口が閉鎖。ハト印の押印処理は午後2時までに終了しました。 講堂の閉鎖後は、明日香局前の2ヵ所に出張所を移して風景印のみの押印が行われました。同局に75万枚配給された切手のうち、予約分の55万8000枚を除いた19万2000枚は、20円切手が午後3時までに、同じく50円切手が午後4時までに、それぞれ完売となり、それからしばらくの間、周辺の土産物屋でも扱われていたといわれています。 なお、高松塚保存基金の切手については、拙著『沖縄・高松塚の時代』でも詳しくまとめていますので、是非、ご一読いただけると幸いです。 * この記事を書いている間に、カウンターが22万ヒットを越えました。沢山の方々の御訪問、心よりお礼申し上げます。 |
2007-08-21 Tue 11:16
昨日(20日)、台湾の中華航空機が那覇空港で爆発炎上した事件にはビックリしました。まぁ、乗客・乗員165人全員が無事に脱出できたことは奇跡的な幸運といっても良いことですし、テロ事件ではないようなのでまずは一安心というところです。
ところで、ニュースを聞きながら、台湾がらみで飛行機の爆発炎上ってのは何かなかったかなと思って考えてみたら、こんなネタを思い出しました。(画像はクリックで拡大されます。) これは、1977年9月に発行された毛沢東没後1周年の追悼切手の1枚で、バンドン会議から帰国した周恩来を空港で出迎える毛沢東の写真が取り上げられています。何事もなかったかのようにニッコリ笑っている2人ですが、周恩来はこのときのインドネシア行きの途中、あやうく暗殺されかかっています。 1950年代、中国共産党政権は、“中国”を代表する存在として着々とその国際的な地歩を固めていました。1954年にインドと共同で発せられた「平和五原則」は、内政不干渉の美名の下にチベットにおける共産党政府の苛烈な支配への批判を封じようとするものでしたが、当時の国際世論の大半は、無邪気にその美辞麗句を信じていました。また、同年7月、インドシナ戦争の停戦を決めたジュネーブ会議では、中国は自国の防衛のためにベトナムを南北に分割したうえでその北半部をアメリカに対する防波堤として確保することに成功しますが、国際社会は北ベトナムの犠牲には目をつぶり、中国主導の“平和”を賞賛しています。 このように、中国の国際的なプレゼンスが高まっていくことに強い危機感を抱いた台湾は、中国に対抗すべく香港で合法・非合法を含めたあらゆる政治工作を展開します。このうち、非合法活動の代表例がカシミール・プリンセス号事件です。 1955年4月、インドネシアのバンドンで開催される「第1回アジア・アフリカ会議」に出席する代表団のため、中国はインド国際航空の“カシミール・プリンセス号”をチャーターしました。当時の中国民航には中国本土からインドネシアに飛行できる民間航空機を保有していなかったからです。 このため、北京を出発した代表団は、同月11日、香港でカシミール・プリンセス号に乗り換え、インドネシアに向けて出発することになっていました。そこで、中国国民党の特務機関は、香港の空港に勤めている中国人清掃員の一人を買収し、旅客機右翼の着陸装置の格納庫に発火装置を仕掛けて、事故に見せかけて周恩来を暗殺することを計画しました。 しかし、計画を事前に察知した中国側は、虫垂炎の手術という理由で周恩来の出発を4月14日に延期。このため、カシミール・プリンセス号は報道記者5名(新華社の記者3名とポーランドとオーストリアの通信社の報道記者)と中国政府派遣団6名の乗客11名と乗員8名を乗せて、予定通り香港を出発。離陸から4時間後に南シナ海のボルネオ島沖の上空で爆発し、16名の死者が出るという惨事となりました。 事件後、中国外交部は「事件はアメリカ合衆国と国民党特務が周恩来総理暗殺を目的として企てた謀略事件」との声明を発表。香港政庁に対しても、中国側が事前に注意を促していたにもかかわらず、事件を防げなかったことを非難し、事件の徹底究明を求めます。 捜査の結果、事件にはアメリカ製のMK-7爆弾が使用されていたことが判明。また、容疑者として国民党に買収された中国人が特定されましたが、容疑者は台湾に逃亡。台湾側は容疑者の香港当局への身柄引き渡しを拒否しています。このため、香港政庁は香港で活動している台湾の特務を国外追放とし、事件の決着を図られました。 なお、1950年代から1960年代にかけての香港は、国共両派によるさまざまな政治工作の舞台になっていますが、そのあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご説明しておりますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。 |
2007-08-15 Wed 10:35
今日は終戦記念日ですが、インドの独立60周年の日でもあります。昨日(14日)はパキスタンのことを取り上げましたから、バランスを取って、今日はインドがらみ+昭和の戦争がらみということで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1993年に発行されたインド国民軍(INA)50年の記念切手で、国民軍の兵士を閲兵するスバース・チャンドラ・ボースが描かれています。 インド国民軍は、第二次世界大戦中の1942年、日本軍占領下の英領マラヤやシンガポールで、白人支配からアジアを解放するとの大義名分の下、捕虜となったインド人兵士から志願者を募って、日本軍によって創設されました。 当初、指揮官はモハン・シン大尉でしたが、1943年にインド国民会議派元議長のスバス・チャンドラ・ボースがドイツからドイツ潜水艦U180と伊号第二九潜水艦を乗り継いで来日し、インド国民軍はボースを国家主席とする自由インド仮政府(在シンガポール)の指揮下に入ります。切手はここから起算しての50周年というわけです。 ボースは、1897年、インドのオリッサ州出身。コルカタの大学を卒業後、ケンブリッジ大学に留学しましたが、1921年にガンディーの反英非協力運動に身を投じます。その後は、即時独立を求めるインド国民会議派の左派として活躍し、1937年と1939年には国民会議派の議長も務めましたが、INA創設当時はガンディーら穏健派と対立して国民会議派を除名されていました。 第二次世界大戦勃発後の1941年、ボースは密かにインドを脱出してアフガニスタン経由でソ連に入り、スターリンにインド独立の協力を要請しますが、断られたため、ソ連経由でナチス政権下のドイツに亡命。ムッソリーニやヒトラーにも協力を要請しますが、ここでも協力を拒否されてしまいます。それでも、彼はインド人から成るインド旅団を結成し、ベルリンからの反英ラジオ放送を行うなど、反英の一点でドイツに協力していました。 1941年12月、日英開戦の報を聞いたボースは、日本と手を結ぶことを考えます。日本側もこれを受け入れ、先に述べたような潜水艦を乗り継いでの東京行きが実現。シンガポールで結成されていた自由インド仮政府の国家主席ならびにインド国民軍の最高指揮官に就任します。ちなみに、ドイツのインド旅団はボースが日本に脱出した後も、ドイツ軍行動をともにしていました。 インド国民軍は1944年にはビルマに移動し、“自由インド”“インド解放”をスローガンに日本軍のインパール作戦に参加し、英領インドのコヒマを占領しましたが、イギリス側の反撃により撤退。さらに、戦争末期にはビルマからも撤退して終戦を迎えます。 日本の敗戦後、東西冷戦の開幕を予想したボースは、イギリスに対抗するため、ソ連と手を結ぶことを考え、再度、ソ連へ渡ろうとします。しかし、彼の乗った飛行機は台湾島の松山飛行場で墜落。非業の死を遂げ、その遺骨は東京都杉並区の蓮光寺に安置されてました。 一方、連合軍の捕虜となったINAの将校は、イギリスにより反逆罪で逮捕されたものの、まもなくインド独立の気運が高まったことで処分は有耶無耶になり、1947年のインド独立後は独立の英雄としてインド政府から年金を受けとるようになりました。 現在、インドの国会議事堂の正面にはチャンドラ・ボース、右にはガンディー、左にはジャワハルラール・ネルーの肖像画が掲げられているなど、インド国内でのボースと彼のINAへの歴史的評価はきわめて高いものとなっています。 なお、以前の記事で、インド国民軍に関係するのではないかと思われる葉書をご紹介したことがありますので、よろしかったら、そちらもご覧ください。 |
2007-08-14 Tue 11:28
パキスタンが英領インドから分離独立して、今日(8月14日)で60周年になります。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、いまから25年前、1982年の独立記念日に発行されたパキスタン地図の切手です。主要都市や周辺諸国の位置関係がわかりやすく描かれています。 ここでご注目いただきたいのが、北部のカシミール地方と中国の位置関係です。ご承知のように、英領時代、カシミールは中央の保護下にある藩王国の支配下に置かれていましたが、英領インド帝国の解体に伴い、その帰属が問題になります。その結果、1947年10月、第1次印パ戦争が勃発し、カシミールは、インド寄りの3分の2をインド領“ジャンムー・カシミール州”、パキスタン寄りの3分の1をパキスタン領“アーザード・カシミール州”(北部地区)として分割されました。 この結果、アーザード・カシミールを領有したパキスタンは、チベットや新疆とも国境を接することになります。これらの地域は、パキスタンが独立した時点では必ずしも中国中央政府の統制が及んでいたわけではありませんでしたが、1949年10月1日に中華人民共和国が建国された後、順次、中共政府はこれらの地域を“解放”し、1951年にはチベットに人民解放軍が進駐します。こうして、パキスタンと新中国は国境を接する隣国となりました。 1950年代のパキスタンは、宿敵・インドが非同盟・中立を志向し、親ソ的な外交姿勢を取っていたことに対抗して、アメリカが組織した反共軍事同盟の東南アジア条約機構(SEATO)に加盟。台湾問題やチベット問題、中国の国連代表権問題などに関して、アメリカと共同歩調をとっていました。 ところが、1960年代に入って中印関係が悪化し、1962年には、大規模な軍事衝突(中印紛争)が勃発します。こうした情勢の変化に対して、中国封じ込めを優先したアメリカはインドを支援。このため、パキスタンはインドへの対抗上、中国へ急速に接近していきます。特に、1965年9月の第2次印パ戦争に際して、ソ連がインドへの軍事支援・経済支援を増やしたのに対して、アメリカは戦争の勃発と同時にパキスタンへの軍事援助を停止してしまったため、パキスタンは中国に支援を要請し、中国とパキスタンとの強固な友好関係の礎が築かれました。 その後、1970年代に入って、パキスタンがインドに対抗して本格的な核開発に着手した際、それを最初に支援したのは、1964年に濃縮ウランを使う核爆発に成功していた中国でした。 このように、パキスタンにとって中国は宿敵・インドとの戦いを支援してくれる友好国でしたが、中国にとっても、外交戦略上、パキスタンは重要な存在でした。 たとえば、パキスタンは、1971年にアメリカの国務長官、ヘンリー・キッシンジャーが中国を極秘訪問した際の仲介役を果たしたほか、中国の国連安保理常任理事国入りを実現するために奔走しています。 また、1978年にパキスタン陸軍と中国人民解放軍の共同作業によって完成したカラコルム・ハイウェーは中国の新疆ウイグル自治区とイスラマバード(パキスタンの首都)を結ぶものですが、これにより、中国はパキスタン経由でインド洋の出口を確保。パキスタンは中国にとって物理的な意味でも外界への窓として機能しています。さらに、1979年、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻し、パキスタンが反ソ闘争の最前線となると、中国はパキスタンに対する軍事援助を拡充。その見返りとして、パキスタンはイランやサウジアラビアなどの中東イスラム諸国との仲介役を果たし、1988年には中国製ミサイルのサウジアラビア向け輸出に道を開いています。 その後も両国の関係は、インドという共通の敵に対する“全天候型友好関係”とも呼ばれ、現在にいたるまで、パキスタンの外交・安全保障の基本となっています。 これに対して、近年、インドが対中関係の改善に乗り出したことから、中国にとっては、以前にくらべてパキスタンのの戦略的な重要性は相対的に低下しているのが実情です。ちなみに、こうした両国の関係は、パキスタン側が中国との国交樹立50周年の記念切手を発行しているにもかかわらず、中国側がパキスタンとの国交樹立50周年の記念切手を発行していないというところからも垣間見ることができます。 |
2007-08-13 Mon 10:56
タイにいる間もネットで主なニュースはチェックしていたのですが、帰国後、ゆっくりと留守中の新聞を読み返していたら、先月末から今月初めにかけて、バンコクで旧1万円札(聖徳太子)の偽札が大量に見つかって騒動になっていたことを知りました。現地にいる間に気がつかなかったのは間抜けな話ですが、遅ればせながら、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1975年にバンコクで開催された第8回東南アジア競技大会の記念切手の偽造切手が貼られたカバーです。1976年(タイの仏暦では2519年)3月19日、タイ東北の都市、ウドンターニーから差し出されたものの、貼られている切手が偽造切手であることが見破られたため、消印は押されず、ニセ切手が貼られている旨の書き込み(切手の左側・二重下線)がされて差出人に返送され、料金未納扱いとして倍額の1.5バーツが徴収されています。 なお、到着は4月14日と国内便にしてはかなり時間がかかっていますが、これは、差出人が偽造グループと関わっているかどうかを捜査するためにカバーが開封・検閲されたことによるものでしょう。僕がいままで見た範囲では、このニセ切手が貼られたカバーはことごとく、開封・検閲を受けて、裏面には再度封をするための封緘紙が貼られています。ちなみに、カバーの最下段には「外側を返してください」との書き込みがあります。おそらく、警察当局としては偽造切手の証拠品として手紙だけ返して封筒は押収したかったのでしょうが、差出人からの申し出でカバーごと返すことになったのでしょう。 正規の切手とニセ切手との最大の違いは目打(ミシン目)のピッチで、正規の切手が11×13(目打の数値は20ミリの間にいくつ目打があるかで表示することになっています)なのに対して、ニセモノは11.5×11です。したがって、印面だけ見て違いがわからなくても、正規の切手と並べてみれば、目打部分のギザギザがずれてきますから容易に見分けがつきます。他にも、正規の切手とニセ切手とでは、紙質が違うなどの特徴もあります。 収集家を欺くためではなく、一般の人を騙して郵便料金分の金額を詐取するための偽造切手としては、日本では菊切手の例が有名ですが、今回ご紹介のタイ切手の例も世界的にはそこそこ有名で、注意していると年に1~2回はどこかのオークションに出てきます。値段も、菊切手のニセモノが単片でも数十万円するのに対して、タイ切手のほうは、こうしたカバーでもせいぜい2~3万円というところですから、“郵便使用を目的とした偽造切手”のサンプルとして一つ持っておきたいという方には、オススメの一点です。 なお、偽装切手に関しては、第二次大戦中に、アメリカが作ったヒトラーの偽造切手など、国策として偽札を作るのと同じ主旨で作られるモノもあります。それらについては、拙著『これが戦争だ!』でもご紹介していますので、機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-08-12 Sun 11:01
昨日(11日)の午後、無事にタイから帰国しました。で、僕がタイに行っている間に、娘は学校のサマースクールでニュージーランドに行ってしまいました。というわけで、見送りにも行かなかった不義理な父親としては、遅ればせながら、せめてもの餞として、こんなカバーを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1941年11月11日、ニュージーランドのオークランドからフィジーのスバまでの航空便の就航第一便で運ばれたカバーです。 このカバーが差し出された時点では、すでにヨーロッパでは大戦の最中で英連邦の一員としてのニュージーランドも戦時体制にあり、さらに、カバーが差し出されてから1月と経たない12月8日には太平洋戦争が始まるわけですが、そのことを反映するかのように“LEST WE REGRET/ DON'T TALK(後悔しないように、お喋りは慎め)”という標語印が押されています。 太平洋戦争の開戦により日本と戦うことになるイギリスとその関連地域でも、既にイギリスとドイツが戦争状態に入っていたこともあって、この時期、消印をメディアとして活用し、国民に防諜を呼びかけることが行われていました。 たとえば、英領海峡植民地(現在のマレーシアに属するペナン、マラッカとシンガポールを合わせた地域)では、「船については書くな(DON’T WRITE ABOUT SHIPS)」との具体的な指示が入った印も使われています。これと比べると、今回のニュージーランドの印は非常に漠然とした内容ですが、まぁ、どこに敵国(ドイツ・イタリア)や仮想敵国(日本)のスパイが潜んでいるかわからないから注意しなければ、という緊張感は伝わってきます。 もっとも、僕の娘の場合は、短期の語学研修でニュージーランドに行くわけですから、現地の人たちと積極的にお喋りして、少しでも会話能力を高めてもらわないと困るわけで、その意味では、今回の標語印とは逆に“LEST YOU REGRET/ TALK MORE(後悔しないように、いっぱい喋ってこい)”と声をかけてやりたいところです。 なお、今回ご紹介したカバー以外にも、政府が切手や消印を使って国民に防諜を呼びかけた実例については、拙著『これが戦争だ!』でもまとめて取り上げたことがありますので、機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-08-10 Fri 08:39
今回のタイ旅行に先立ち、タイの切手に取り上げられている風景や建物などがどこにあるのか、簡単なエクセルの一覧表を作ってみたのですが、やっぱり、バンコクがらみのモノが一番多いという結果になりました。もっとも、その切手にゆかりの場所がバンコクにあることはわかっていても、それがバンコクのどこにあるのか良くわからないモノというのも幾つかあります。下の切手もその一例です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1915年4月3日に発行された暫定加刷切手です。もとの台切手は1905年12月に発行された通常切手で、当時のラーマ5世とワット・アルン(暁寺院)を組み合わせたもの。ワット・アルンはバンコク随一の観光地のひとつですから、その場所がわからないというわけではありません。 じつは、僕がここで問題にしたいのは、切手本体ではなくって加刷のほうです。というのも、この加刷は、当時バンコクにあった日本人企業の大山商店に委託して行われたからなのです。 バンコクにおける日本人商店の進出が始まったのは1895年のことで、同年1月に日本シャム商会が、8月に大山商店と桜木商店が、11月に図南商会が、それぞれ開店しています。このうち、大山商店は、いったん閉鎖された後、翌1896年10月に営業を再開。他の日本人商店がすべて雑貨商だったのに対して、大山商店は、当初はビールと鉱泉水の販売、再開後には陶器を取り扱っていたという特異な存在でした。 この大山商店は、1913年にラーマ6世シリーズへの暫定加刷を担当したのを皮切りに、1930年までの間、しばしばタイ切手の加刷を担当しています。当時、バンコクには他の印刷所もありましたし、じっさい、1913年以前には別の会社が加刷を担当しているのですが、どういう経緯で大山商店が加刷を担当するようになったのか、よくわかりません。ただ、ラーマ7世の時代には、やはりバンコク在住の日本人、三木栄が王の玉座を制作していますから、当時のバンコクでは、コスト・パフォーマンスと技術力のバランスという点で、日本人は高く評価されていたということなのかもしれません。 大山商店の当時の所在地がわかれば、せっかくなのでその跡地にでも行ってみたいのですが、あいにく、現時点では調べきれていません。仕方がありませんので、せめて今夜は、大山商店が販売していたというビールを飲みながら、かつての日本人の活躍に思いを馳せつつ、バンコク最後の夜を過そうかと考えています。 |
2007-08-08 Wed 08:30
1967年8月8日にアセアン(東南アジア諸国連合、ASEAN)が結成されてから、今日でちょうど40年になります。というわけで、せっかくタイに来ていることでもありますし、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1982年12月にタイが発行したアセアン15周年の記念切手です。アセアン設立の宣言(バンコク宣言)は、各国の外相による共同宣言の形式で8月8日にバンコクで発せられたのですが、今回の記念切手はその記念日ではなく、おそらく記念式典か何かの日にあわせて発行されています。 デザインは、アセアンのマークを中心に加盟各国の国旗で作った輪の下に、各種の産業を示すシルエットを配したものとなっています。 アセアンはもともと、ベトナム戦争の時代に、タイ・インドネシア・シンガポール・マレーシア・フィリピンの反共5ヶ国が、経済・社会分野での地域協力のために毎年1回、外相会議を開くというところから始まりました。6番目の加盟国としてブルネイが加盟したのは1984年1月のことで、今回の切手の5年後に発行のアセアン20周年の記念切手には六ヶ国の国旗が登場しています。なお、現在の加盟国は、さらに、ベトナム、ビルマ(ミャンマー)、ラオス、カンボジアが加わり、10ヶ国です。 さきほど、タイ郵政のサイトをチェックしたら、案の定、今日、アセアン40周年の記念切手が発行されるのだそうです。せっかくタイにいることですし、郵便局で発行されたばかりの切手を買ってエアメールでも出してみますかね。 |
2007-08-06 Mon 08:14
タイ上陸3日目(実質2日目)。今日は、これから、かつてのアユタヤ朝(1351-1767)の古都・アユタヤに行ってきます。アユタヤといえば、なんといってもバーン・パイン離宮。ただ、この離宮の切手が貼られたカバーのうち、気の利いたモノは以前の記事でもご紹介してしまいましたので、今日は、パソコンに取り込んである画像の中から、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1939年7月8日、バンコクからアユタヤ宛に差し出された葉書です。バンコクでの差出時にはタイ語の標語印が押されていますが、あいにく僕はタイ語には不案内なので、どなたか訳していただける方がおられたら幸いです。なお、アユタヤでの到着印の欧文表示は、現在よく目にするAYUTTHAYAではなく、AYUDHAYAになっています。 葉書は、現国王ラーマ9世(プミポン国王)の兄、ラーマ8世の時代のもので、印面は彼の肖像です。 ラーマ8世は1925年に父であるソンクラーナカリン親王の留学先、ハイデルベルグで生れました。1928年に父親王が亡くなると、スイスのローザンヌに移り、1935年に国王として即位。ただし、当時は10歳と幼少のため、国王じしんはスイスに留まり、国内には摂政が置かれました。タイへの帰国は、国王が成人し、第二次大戦が終結した1945年のことですが、翌1946年には射殺体で発見(犯人は不明)されるという、数奇な運命をたどっています。 ラーマ8世の時代は、ちょうど、昭和の戦争の時代とかぶっていることもあって、僕にとっては、切手や葉書の印面に描かれた少年王の肖像には、なんとなくなじみがあります。ちなみに、以前の記事でご紹介したバーン・パイン宮殿の切手は1941年発行の通常切手のシリーズですが、このシリーズの低額面の切手のデザインは、この葉書と同じ構図のラーマ8世の肖像です。 |
2007-08-04 Sat 01:02
突然ですが、今日(8月4日)の夕方から11日までタイに行ってきます。今年(2007年)は“日タイ修好120年”ということで、11月の<JAPEX>では外務省お墨付きの記念事業の一環としてタイ切手展を開催するのですが、それにあわせて、タイを題材にした本を刊行すべく、現在作業を進めています。今回のタイ行きはその取材が主な目的です。
というわけで、今日は、とりあえず、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、いまから20年前の1987年に発行された日タイ修好宣言調印100年の記念切手です。 近代国家としての日本とタイとの国交は、1887年に調印の「修好通商ニ關スル日本國暹羅國間ノ宣言」によって樹立され、東京とバンコクに両国公使館が置かれたことから始まります。日本と他の東南アジア諸国との国交関係はいずれも第二次大戦以降(東南アジア諸国の独立が基本的に戦後のことなので、当然といえば当然ですが)ですが、それだけに、わが国にとって、タイは戦前からの友好国として重要な存在といえましょう。 今回ご紹介の切手は「エメラルド寺院と桜」を描くもの。エメラルド寺院は、正式には、ワット・プラシィーラッタナ・サーサダーラームと呼ばれる王室寺院で、現在のタイの王朝である羅タナコ-スィン朝の創設にあわせて、王宮付属寺院として1782~3年ごろ建立されたものです。本尊がエメラルド色の硬玉でできているため、一般には、エメラルド寺院(ワット・プラケオ)と呼ばれています。 切手の手前に描かれているのは、寺院を守護するために門のところに置かれている夜叉で、その奥に(手前から順に)プラ・シーラッタナチェーディー(金色の仏舎利塔)、プラ・モンドップ(タイ様式の経蔵)、プラサート・プラテープ・ピドーン(クメール様式の塔。歴代国王の彫像を安置)が見えます。切手の構図は、寺院の北側、王宮前広場から眺めたものです。 タイでは、エメラルド寺院に関する切手をいろいろと発行していますので、今回の取材旅行では、それぞれの切手が寺院のどの部分をどういう角度から取り上げているか、じっくり見てこようかと思っています。 なお、タイへはパソコンを持って行き、あらかじめ、取り込んでおいた切手類の画像を元に、いつもどおり毎日1本ずつ記事を書いていく予定ですが、現地のネット環境等により更新ができないことがあるかもしれません。その場合は、あしからずご容赦ください。 |
2007-08-02 Thu 01:25
昨日(1日)に引き続いて“中東郵便学”の前期試験の問題についての解説の3回目(最終回)です。今日は「この切手について説明せよ」という問題を取り上げましょう。(画像はクリックで拡大されます)
これは、イギリスによるパレスチナの委任統治が開始されたことを受けて、1920年9月に発行された切手です。 第一次大戦中、イギリスは、アラブに対してはフサイン・マクマホン書簡、フランスに対してはサイクス・ピコ協定、シオニストに対してはバルフォア宣言と、ひとつの土地に3通の権利書を発行するような矛盾した外交政策を展開。その火種は、大戦の終結とともに一挙に噴出します。 そもそも、第一次大戦末期の1917年12月、アレンビーひきいるイギリス軍がエルサレムに入城したとき、70万ともいわれたパレスチナの人口のうち、ユダヤ系は約5・6万人しかいませんでした。ところが、大戦後の1919年に開催されたパリ講和会議には、シオニスト代表としてワイズマンが出席し、パレスチナをユダヤ人が排他的に支配することを主張。結局、“パレスチナ”の範囲はワイズマンの主張よりも大幅に縮小されましたが、会議では、バルフォア宣言に従い、パレスチナをイギリスの委任統治領として、将来、シオニストに対して自治を付与するという大枠が決定されます。 そして、1920年7月、サンレモ会議を経て、イギリスによるパレスチナ統治が実質的にスタートし、統治の最高責任者である高等弁務官としてハーバート・サミュエルが着任。今回の切手は、こうした状況の下で、従来、この地域で使用されていたエジプト遠征軍の切手にアラビア語・英語・ヘブライ語で“パレスチナ”と加刷した発行されたものです。 パレスチナに着任したサミュエルは、当初、自らもシオニズムの支持者として、パレスチナへのユダヤ人の移民枠を年間1万6500人と規定します。しかし、1921年4~5月にかけて、サミュエルの決定に憤激したアラブ系の反ユダヤ暴動がパレスチナ各地で発生すると、事態の収拾に迫られたサミュエルは、一転してパレスチナへのユダヤ人移民の受け入れの一時凍結を発表してしまいます。こうしたイギリス当局の場当たり的な姿勢は、当然のことながら、シオニスト側の不信感も醸成することになりました。 さて、7月に僕の授業に関して実施した前期試験のうち、切手や郵便物が絡む問題については、とりあえず、今日で解説を終わります。切手と関係のない一般的な語句説明の問題(たとえば、「スルタン・カリフ制とは何か、説明せよ」といった類の問題です)については、ネットでもいろいろと調べられるでしょうから、ご興味をお持ちの受講者の方はご自身で対応していただきますよう、お願い申し上げます。 なお、後期の試験は2008年1月に行うことになると思うのですが、その際には、今回の「反米の世界史」と「中東郵便学」以外の科目もあるので、よく言えば、ネタに困ることはなさそうです。ただ、受験者の方々へのフォローも必要でしょうが、さりとて、ブログの中身が試験問題の解説ばっかりだと一般の方々は退屈なさるのではないかとの不安がないわけではありません。まぁ、あと半年ありますので、なんとか上手くバランスを取る方法を考えてはみますが…。 |
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