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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ウリジナルの典型
2008-07-31 Thu 11:57
 中国の人気ポータルサイト・網易の掲示板で「韓国ネットユーザーが中国の八卦図は韓国国旗のパクリと批判」との文章が発表され、悶着を起こしているのだとか…。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 宜昌書信館(八卦)

 これは、1894年に中国・宜昌の書信館が発行した切手で、発行年の1894の文字を中心に、周囲を八卦図で囲むデザインとなっています。中央の年号の部分に太極文様を入れれば、現在の韓国国旗の元になった、伝統的な太極図となります。もちろん、切手を発行した書信館サイドとしては、八卦は中華文明を象徴するものとの認識の下に、デザインを作成したことは言うまでもありません。

 1842年、アヘン戦争の講和条約として南京条約が調印され、上海が開港されました。これに伴い、同年、イギリスが租界(行政・治安を外国人が掌握し、清朝の主権が及ばない開港地内の地域)を設置すると、1847年、アメリカもこれに続き、両者は1863年9月に合併して共同租界をつくります。一方、イギリスのライバル・フランスも、1848年から、上海に租界を設置していました。

 これらの租界地区では、その行政機関として工部局が設けられていましたが、この上海工部局は、1863年2月、年50両(のちに30両に値下げ)を出資した外国人商社を対象に、切手を貼らず、回数も無制限で手紙をやり取りできる集捐制度を開始します。そして、このサービスを実施するための機関として設立されたのが、いわゆる上海書信館です。

 その後、1865年になって上海書信館は集捐制度を未加盟の商社や旅行者などにも拡大。その料金前納の証として、独自の切手も発行しました。さらに、同年、上海書信館は、寧波に分室を設けたのを皮切りに、書信館による郵便物の取扱は中国各地に拡大していきます。

 ところで、書信館の郵便は集捐制度を基本として運営されていましたが、事業としては赤字が続いていました。このため、1893年からは、集捐制度が廃止され、すべての郵便物は完全に有料化され、これに伴って切手が貼られるようになります。

 こうした状況の中で、1893年5月、漢口の分局では、上海からの切手の供給が途絶えたのを機に、独自の切手を発行するようになりました。そして、これに続いて、各地の書信館で独自の切手が発行されていきます。今回、ご紹介のモノもそうした書信館切手の1枚です。

 さて、今回の切手に取り上げられている八卦は古代中国から伝わる易における8つの基本図像、乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤のことです。それぞれの基本図像は掛と呼ばれ、─陽(剛)と--陰(柔)の爻を3つ組み合わせた構造になっており、8つの掛を2つずつ組み合わせて64のバリエーションが生まれます。

 八卦のルーツは、中国の古代周王朝の時代にさかのぼるともいわれていますが、実際に現在のようなかたちで整備されたのは、11世紀の北宋の時代のことと推測されています。ちなみに、朝鮮半島の人々のメンタリティに絶大な影響を与えた南宋の朱熹は、天地自然の秩序を表すとされる八卦を、人間社会の秩序にも援用した独自の世界観を展開しています。

 今回、問題になっている韓国人の書き込みによれば、「1882年、国王の命を受けて訪日した朴泳孝が国家代表として国旗は不可欠と考え、伝統的な太極図をモチーフに作ったのが現在の国旗・太極旗である。その後、発掘された古代の梵鐘からも太極図が発見されており、大極図は朝鮮民族の英知の結晶である」のだそうです。まぁ、韓国には、孔子は韓国系で、漢字も朝鮮が起源であるとする“ウリジナル(韓国語で我々を意味するウリとオリジナルを組み合わせた造語)”論を展開する人が少なからずいますから、今回の八卦のことなど、大した問題ではないと考えているのかもしれません。

 ちなみに、韓国では現在でも“著作権”の概念に理解を示さない人が多く、「著作物といっても、それは文化の中で生まれ育ってきたもの、すべての人々が豊かな文化の産物を利用できるようにするべき」と主張する市民団体もあるくらいですが、そういう人たちに限って、“ウリジナル”にこだわって屁理屈をこねて来るのは困ったものです。

 もっとも、今回、彼らの標的にされた中国といえば、いまや世界に冠たるニセモノ国家として名を馳せていますからねぇ。その点では、どっちもどっち、としか言いようがありませんな。

 ちなみに、今回ご紹介の切手を印刷したのは、東京の築地活版製作所ですが、同社に関しては、拙著『外国切手に描かれた日本』でまとめたことがありますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 * 昨夜から今日にかけて、アダルト系のコメント書き込みが大量にありましたので、コメント欄への書き込みは僕の承認後、表示される形式に変更しました。ご不便をおかけしますが、ご了承ください。

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 祝・イチロー3000安打
2008-07-30 Wed 18:51
 野球のメジャー・リーグ、シアトル・マリナーズのイチロー選手が日米通算3000安打を達成しました。通産3000安打は、大リーグでは過去27人しかいないとのことで、この記録を達成した選手はほぼ確実に野球殿堂入りしているそうです。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      大リーグの名選手

 これは、2000年にアメリカで発行された“野球の伝説”と題する16種セットの切手で、野球殿堂入りすた往年の名選手20人が取り上げられています。その内訳は、以下のとおりです。(参考までに、3000安打以上の選手は名前を太字にしました)

 最上段(左から)
・ジャッキー・ロビンソン(黒人初のメジャー・リーガー)
エディ・コリンズ(20世紀最高の二塁手の1人)
・クリスティ・マシューソン(歴代3位となる通算373勝。シンカーを初めて実戦で投げたとされる)
タイ・カッブ(首位打者12回、メジャー歴代1位の通算打率.366を誇る球聖)
・ジョージ・シスラー(イチローに抜かれるまでの年間最多安打記録保持者)
 2段目(左から)
・ロジャース・ホーンズビー(3冠王を2回獲得)
・ミッキー・カクレーン(1920~30年代の最高の捕手)
・ベーブ・ルース(伝説の本塁打王)
・ウォルター・ジョンソン(通算417勝の剛速球投手)
ロベルト・クレメンテ(ヒスパニック系メジャー・リーガーのさきがけ。首位打者4回)
 3段目(左から)
・レフティ・グローブ(通算300勝。最優秀防御率9回)
トリス・スピーカー(通算二塁打792、通算捕殺450のメジャー記録を持つ外野手)
・サイ・ヤング(歴代最多の通算511勝の大投手)
・ジミー・フォックス(1930年代を代表する右打者。MVP3回。三冠王1回)
・パイ・トレーナー(7559打数でわずか278三振の巧打者)
 最下段(左から)
・サチェル・ペイジ(黒人リーグで約2500試合に登板、2000勝以上をあげたとされる。メジャー・リーグでは42歳の最高齢新人となり、通算28勝31敗。59歳での史上最高齢登板記録を持つ)
ホーナス・ワグナー(史上最高の遊撃手。首位打者8回。打点王・盗塁王各5回など)
・ジョシュ・ギブソン(プエルトリコのウィンター・リーグで1シーズン約200試合で84本、生涯17シーズンの通算で800本以上の本塁打を放ったとされる“黒いベーブルース”。メジャーでのプレイ経験はなし)
・ディズィ・ディーン(1932年から4年連続奪三振王。引退後はスポーツキャスターとしても功績を残す)
・ルー・ゲーリック(2130試合連続出場。首位打者1回。本塁打王3回。打点王5回の強打者)

 イチローの場合、日本での1278安打をどう考えるかで、今回の3000安打についての評価も違ってくるでしょうが、仮に、今後、メジャーだけで3000安打(計4278安打)をクリアするようなことになると、通算4278安打という数字は、ピート・ローズの持つ4256本を上回ります。ちなみに、ローズが3000本安打を達成したのは37歳の時で、彼は46歳までプレイしています。イチローは現在34歳で、このまま年間200本以上を打ち続けるとあと6年強、40歳の時にローズの記録に追いつくことになる計算ですから、決して荒唐無稽な話ではないでしょう。

 彼がメジャー・リーグだけで3000本安打を達成することになれば、50年後くらいには、彼を取り上げた“野球の伝説”の切手がアメリカで発行されることいなるかもしれませんね。

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 カシミールの切手
2008-07-29 Tue 19:48
 インドとパキスタンの双方が領有権を主張しているカシミール地方で、昨日(28日)から今日(29日)にかけ、両国軍が12時間以上にわたり衝突。一部報道によると、2003年の停戦合意以降、最悪となる死者(パキスタン側4人、インド側1人)が発生した模様です。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 カシミールの切手

 これは、1866年にジャム・カシミールで発行された1/2アンナ切手です。独立以前のインドでは、英領インド帝国の切手は別に、各地の藩王国では独自の切手が発行されていたケースがあります。ジャンムー・カシミールもその一例で、この切手はランヒール・シンの時代に発行されたものです。

 1846年、イギリスは、現在のカシミール地方を含む広大なギルギットやラダック地方を含む広範な領土を治めていたシーク教徒の藩王(マハラジャ)と戦い、これを撃破しました。戦後、イギリスは、このときの戦いで自分たちに協力したジャンムー地方の藩王に土地を売却。これが、藩王国としてのジャムー・カシミールのルーツとなります。  

 それから1世紀後の1947年8月、英領インド帝国は解体され、インドとパキスタン(当時は、現在のパキスタンに相当する西パキスタンと、現在のバングラデッシュに相当する東パキスタンから構成されていた)が分離・独立すると、各地の藩王はインドとパキスタンのどちらに帰属するかを自分の意志で決めることができましたが、その際、カシミールの藩王は両国とは別に独立することを企図していました。

 これに対して、住民の70%がムスリムであったという事情もあって、パキスタンはカシミールが自国に帰属するのは当然と考えており、藩王に決断を迫ります。しかし、色よい返事が得られなかったため、1947年10月、ムスリムの山岳部族をカシミールに侵入させます。このため、藩王はインド帰属の文書調印と引き換えに、インド軍の支援を仰ぎ、カシミールの帰属をめぐる第1次印パ戦争が勃発しました。

 戦争は1949年1月、国連の仲介で停戦となり、カシミールは、インド寄りの3分の2をインド領「ジャンムー・カシミール州」、パキスタン寄りの3分の1をパキスタン領「アーザード・カシミール州」(北部地区)として分割されましたが、その後も、カシミールの帰属をめぐる両国の対立が続いていることは周知のとおりです。

 もっとも、インド・パキスタンの両国とも、本音ではカシミール問題は現状維持のままがベストと考えているともいわれています。その背景としては、カシミール問題の存在が、巨額の軍事支出を正当化する最大の根拠となっていることに加え、国民の不満が高まった場合にガス抜きの手段として有効な材料となっていることなどが指摘されています。この解釈が正しいとすると、今回の両国の紛争も、一種の“なれあい”のようなものと見ることができるのかもしれません。
 
 ただし、そうはいっても、両国ともに、中央の思惑とは別に、ひょんなことから事態が急展開するということもありえない話ではありません。現に、カシミールの停戦ラインをめぐる緊張は今年春以降、急速に高まっており、5月以降、少なくとも4回の交戦が起きているわけで、ちょっと気になるところではあります。

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 馬上の愛国者
2008-07-28 Mon 19:10
 今日はペルーの独立記念日です。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ペルー独立100年

 これは、1921年に発行されたペルーの独立100年の記念切手で、独立の英雄、サン・マルティン将軍の騎馬像が取り上げられています。

 16世紀、インカ帝国の滅亡後、ペルーはスペインのペルー副王の下で過酷な支配を受けていました。

 1780年、副王の圧政に耐えかねたペルーの人々は反乱を起こします。反乱は、当初、白人も含んだ大衆反乱でしたが、次第にインカ帝国の復興という目標を掲げて、白人に対する暴行、殺害が相次ぐようになっていきました。結局、首謀者のトゥパク・アマルー2世は部下の裏切りにより捕らえられ、処刑されてしまいます。

 18世紀末から19世紀初めにかけて、フランス革命とナポレオン戦争でヨーロッパが大混乱に陥ると、本国の混乱に乗じて、1809年にはキトやチャルカスで、1810年にはカラカスやブエノスアイレス、サンタフェ・デ・ボゴタ、サンティアゴ・デ・チレなどで自治政府が作られ、独立運動がおこります。しかし、ペルー副王のフェルナンド・アバスカルは遠征軍を送って自治政府を鎮圧。同時期に起こったマテオ・ガルシア・プマカワの放棄も鎮圧されてしまいました。

 こうした状況の中で、1821年、ラテン・アメリカ全体の解放を目指すシモン・ボリバルのラ・プラタ連合州がペルーにも遠征軍を派遣、同年7月28日、ホセ・デ・サン・マルティン将軍が首都のリマを解放し、独立を宣言しました。その後も、革命側と副王政府の戦闘は続きましたが、1824年、アヤクーチョの戦いでペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナの軍は撃破され、 ペルーは事実上の独立を達成。1826年1月23日にはカヤオ要塞に籠ったスペイン軍の残党も降伏し、ようやくペルーの完全独立が達せられました。

 ところで、ネットの外信ニュースを見ていたら、ペルーでは独立記念日を前に、馬の背中に国旗を敷き、その上でヌード写真を撮影した女性モデルのことが大問題になっているという記事が出ていました。

 なんでも、この写真をめぐって、フローレス国防相が「これら愛国心の象徴には全面的な敬意が必要であり、不適切な使用には罰が与えられる」として検察当局に捜査を命じ、モデルの女性には国家侮辱罪で最高4年の禁固刑を科される可能性があるのだとか。これに対して、モデルの女性は「犯罪を犯したわけではない。ペルーを愛しており、それを全身全霊で表現する」と語っており、写真撮影も愛国心のためだったと主張しているのだそうです。

 まぁ、僕の個人的な好みということでいわせてもらえば、馬上の愛国者ということであれば、今回の切手のサン・マルティン将軍よりも、彼女の“雄姿”のほうを、ぜひとも拝んでみたいものですが…。

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 休戦協定55年
2008-07-27 Sun 16:26
 7月23日はいまから55年前の1953年に朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた日です。というわけで、新刊の拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の中から、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 中国軍事絵葉書(朝鮮休戦)

 これは、中国で作られた軍事郵便用の絵はがきで、朝鮮戦争の休戦を喜ぶ朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の兵士たちの写真が取り上げられています。

 朝鮮戦争の休戦交渉(朝鮮軍事会談)は、1951年7月10日、開城ではじまりました。

 当初、国連軍側は、1ヵ月程度で交渉は妥結するものと楽観視していましたが、会談は議題の設定をめぐって最初から難航。①議題の採択、②非武装地帯の設定と軍事境界線の確定、③停戦と休戦のための具体的取り決め、④捕虜に対する取り決め、⑤双方の関係各国政府に対する通告、という5項目を議題とすることが決定されたのは7月26日のことでした。

 しかし、その後も、軍事境界線は、現在の勢力圏の北側にすべきとする国連側と、あくまでも38度線にすべきとする共産側との溝は埋まらず、交渉はただちに暗礁に乗り上げた。そして、8月22日、共産側は、国連軍機による開城上空の侵犯を理由に会談の打ち切りを通告。以後、10月25日に板門店に場所を移して会談が再開されるまで、会談は中断となります。

 再開された休戦会談は、紆余曲折の末、11月27日になって「現在の接触線を基にする」との国連側の主張に沿って、「議題の採択」に次ぐ第2の議題(実質的な第1議題)であった「非武装地帯の設定と軍事境界線の確定」の問題が妥結。その後も、第3の議題であった「停戦と休戦のための具体的取り決め」や第4の議題であった「捕虜に対する取り決め」などをめぐり、会談は紛糾が続き、1953年7月に休戦協定が調印されるまで、1076回にも及ぶ会談が延々と繰り返されました。

 一方、休戦の機運が高まるに連れ、韓国政府は不満を募らせるようになります。

 そもそも、韓国側にしてみれば、朝鮮戦争が北朝鮮の侵略によって始まったものでしかありません。したがって、侵略者に対して徹底的な勝利を収めないかぎり、何の罪もないまま、多大な犠牲を強いられた国民を納得させることは困難です。さらに、朝鮮戦争の休戦交渉は、基本的には、国連軍という名の米軍と、共産軍との間で進められており、当事者であるはずの韓国はほとんど蚊帳の外に置かれているのも同然の状態にありました。

 こうしたことから、休戦が近づくに連れ、韓国内では休戦反対のデモがしばしば発生。大統領の李承晩も、休戦に対しては絶対反対の立場を取りつづけ、アメリカは“頑固な老人”に大いに手を焼くことになります。

 結局、1953年6月17日、韓国警備隊は捕虜収容所から、中国・北朝鮮への送還が決まっていた“反共捕虜(中国・北朝鮮への帰還を望まない捕虜)”を釈放するなど、最後の抵抗を試みたものの、アメリカ側が、米韓安全保障条約の締結、韓国軍の20個師団増設、戦後復興に対する援助などの代償として、韓国側も休戦に反対しないことを約束させ、ようやく、休戦のための条件が整えられました。

 こうして、1953年7月27日、板門店の休戦会談本会議場において、国連軍首席代表のハリソンと朝鮮人民軍(朝鮮人民軍)代表の南日との間で休戦協定が調印されました。また、国連軍総司令官のクラーク、朝鮮人民軍総司令の金日成、中国人民志願軍総司令の彭徳懐は、それぞれ、後方の司令部で休戦協定に署名しています。

 しかし、韓国側は、休戦に反対派しないが署名もしないとの李承晩の姿勢を反映して、協定の調印を拒否しています。

 こうした“休戦”に対する南北の姿勢を反映するかのように、共産側では朝鮮戦争の“勝利”を祝う切手やハガキなどが発行されていますが、韓国ではそうしたものは発行されていません。

 なお、朝鮮戦争については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。

 * カウンターの不具合で、昨日以前のPV数表示がゼロになる状態が続いています。累計分はそのまま残っていますし、本文をご覧いただく分には支障はないのですが、ご不便・ご迷惑をおかけすることがありましたら、ご容赦ください。

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 ベルリンでの演説
2008-07-26 Sat 09:17
 アメリカ民主党の大統領候補に内定しているバラク・オバマが中東・欧州を歴訪し、24日にはベルリンのブランデンブルク門近くで演説し、市民ら約20万人が集まったのだそうです。このニュースを聞いて、その昔、ジョン・F・ケネディがベルリンで演説したエピソードを思い出しましたので、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ケネディ・ベルリン訪問

 これは、1963年6月のケネディのベルリン訪問記念の印が押されたカバーです。

 東西冷戦下の1961年8月、いわゆるベルリンの壁が建設され、西ベルリンの周囲は封鎖され、自由な交通は阻害されてしまいます。当時、西ベルリン市民は占領国の米英仏が何らかの対抗措置を打ち出すものと信じていましたが、壁はあくまでも東側の領域内で行われており、西ベルリン側に対する侵略行為はなかったため、西側諸国には手の出しようがないというのが実情でした。これに対して、西ベルリン市民は、西側諸国から見捨てられたとの思いを抱くようになります。

 こうした中で、当時、アメリカ大統領だったケネディは、壁の建設が始まって約2年後の1963年6月に西ベルリンを訪問。市民も熱狂的な歓迎を受ける中、シェーネベルク地区の市庁舎前で演説を行います。その時の演説で、彼は「『私は一ベルリン市民である』――この言葉こそ、現在、自由世界において最も誇らしくいえる言葉だ」との名文句をはいています。

 ちなみに、ケネディのスピーチライターであったテッド・ソレンソンは、現在80歳で存命というばかりか、実は、オバマのスピーチライターをしているそうです。なるほど、オバマ陣営が、やたらと自らをケネディのイメージと重ね合わせようとする演出(かなり無理がありますが)を行っている一因は、こんなところにもあったんですな。

 * カウンターの不具合で、昨日以前のPV数表示がゼロになってしまいました。累計分はそのまま残っていますし、本文をご覧いただく分には支障はないのですが、ご不便・ご迷惑をおかけすることがありましたら、ご容赦ください。

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 マスクの奴は来るな
2008-07-25 Fri 14:18
 間近に迫った北京のオリンピックですが、アメリカ・イギリスなどの外国選手が大気汚染遮断用マスクを使用する可能性が高まっていることに対して、中国側はこれを“中国に対する侮辱”として反発しているのだそうです。このニュースを読んで、ついつい、こんな切手を思い出してしまいました。(画像はクリックで拡大されます)

 ソ連・反戦キャンペーン

 これは、第一次大戦の開戦20周年にあたる1934年、ソ連が発行した反戦プロパガンダの切手で、 ガスマスク姿の巨大な兵士に追われる民衆の姿が描かれています。社会主義の総本山として、資本家による帝国主義の戦争に反対するという立場をとっているソ連としては、戦争によって被害を受けるのは人民大衆であることを強調することで、「万国の労働者、団結せよ!」とアピールする意図をこめて、このような切手を発行したのでしょう。

 ガスマスクの歴史は、1799年に鉱山技師のアレクサンダー・フォン・フンボルトが開発した粉塵防護用の物が最初だと言われています。その後、1823年には消防用の煙保護マスクが開発されました。

 現在のガスマスクの原型ができたのは1874年のことで、このとき開発された“スバートン式”と呼ばれるものは、酸素ボンベを背負って、酸欠状態でも活動できるようになっています。その後、第一次大戦で毒ガス兵器が使用されるようになると、軍事目的のガスマスクが急速に普及し、イギリスでは目を覆うゴーグルとガスマスクをセットにしたタイプのものが支給されるようになりました。

 今回、アメリカ・イギリス両国のオリンピック委員会が用意したマスクについては、最新機器ということでその詳細は公表されていませんが、とにかく、中国の大気汚染は半端じゃないですからねぇ。全くの丸腰で立ち向かうというのはかなり無謀です。実質的に毒ガスの中での競技を余儀なくされる選手たちの保護のためには、やはり、古典的なガスマスクの系譜を継ぐようなスタイルのものを持ち込んで使いたいというのは当然のことです。もっとも、酸素ボンベをつけて使うということは、競技という観点からすると、さすがに認められないでしょうがね。

 まぁ、チベットの例を持ち出すまでもなく、基本的人権の尊重なんて観念がない国のことですから、選手個人の健康が犠牲になっても、そんなこと知ったこっちゃない、むしろ、国家の体面が守られることの方が大切だという思考回路に沿って行動するであろうことは、ある意味、想定の範囲内といってもいいのかもしれません。

 おそらく、中国側はマスクをつけた外国人選手たちが開会式で入場してきたりしたら、外国人選手を罵倒し、列強による侵略を受けた屈辱の近代史を持ち出して国民の愛国心をあおるのでしょう。彼らにかぎらず、共産主義諸国の説明によれば、この切手に見られるように、外から帝国主義列強が攻めてきて人民大衆が塗炭の苦しみを味わうということになるのでしょうが、冷静に歴史を振り返ってみると、スターリンの粛清にしろ、中国の文革にしろ、社会主義国家の場合、国内の弾圧による犠牲者の数は戦争にまるとも劣らない規模ですからねぇ。人民の目からすれば、ガスマスクをつけて襲いかかってくる兵士というのは、実は、外国人ではなくて自国の政府の方だといったほうが、リアリティを感じるような気がします。

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 もう一度切手を集めてみたくなったら
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。
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 岩手山の切手
2008-07-24 Thu 11:35
 きょう未明、東北地方を中心に強い地震があり、岩手県北部の洋野町で震度6強、同県野田村と青森県八戸市、同県五戸町、同県階上町で震度6弱を観測したそうです。東北では、先月14日にも岩手・宮城内陸地震があったばかりで、何とも心配です。被災者の皆様には心よりお見舞い申し上げます。

 というわけで、きょうはお見舞いの意味も兼ねて、震源地(気象庁によると、岩手県沿岸北部だそうです)岩手県がらみの切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 第25回国体

 これは、1970年10月に岩手県で開催された第25回国体の記念切手で、馬術競技と岩手山が描かれています。

 このときの大会は、1970年10月10日から15日まで、岩手県下24市町村56会場で、1万7244名が参加して行われました。開会式は、10月10日、昭和天皇ご夫妻の臨席の下、盛岡市の県営運動公園で行われ、中尊寺の法灯から採火した炬火が会場で点火されています。
 
 切手の右下に描かれているのは、岩手県花の桐の花で、本来はここに示すように紫色で印刷されていますが、一部にピンク色で印刷されたものが存在しています。今回の切手は、当初の発行予定枚数2100万枚から、発行直前に50万枚増やされて、最終的に2150万枚の発行となりましたから、ピンク色のバラエティというのも、そのこととなにか関係があるのかもしれません。

 もっとも、僕自身は“ピンクの桐の花”とされる切手を何度か見せられたことがあるのですが、いずれも、紙が焼けてシミが出ているなど、コンディションがあまり良くないモノばかりで、元の状態から褪色ないしは変色したものなのか、あるいは、元からピンク色で印刷されたモノなのか、いまいちよくわからなかったというのが正直なところです。インクのバラエティということであれば、当然、それなりの枚数が存在しているはずですから、誰が見ても間違いのない、コンディションの良いモノをぜひ一度拝んでみたいものです。

 なお、この切手を含む基本料金15円時代の記念・特殊切手については、拙著『一億総切手狂の時代』でもいろいろと解説しておりますので、よろしかったら、ぜひご一読いただけると幸いです。

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 ふみの日
2008-07-23 Wed 10:52
 毎月23日は語呂合わせで“ふみの日”に指定され、この日を契機に手紙を書くことを普及・啓発する運動が展開されています。その一環として、1979年以来、毎年、文月(ふみづき)の7月23日に発行されている“ふみの日”切手が、今年で30回目の発行を迎えるので、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ふみの日(1979年・20円)

 これは、1979年に発行された最初の“ふみの日”切手のひとつで、手紙を抱えた少女がイラスト風に描かれています。

 郵政省は、昭和50年(1975)度から毎月23日を“ふみの日”とし(このネーミングは北海道の森実弘による)、各地方別に手紙を書く運動を展開していましたが、昭和54年(1979)度からは、「国民に手紙を書いてもらうことを勧め、それを積み重ねることによって、生活の中に、ものを書く習慣を取り戻し、人と人との心の交流を盛んに」するとの趣旨で、全国的な規模でキャンペーンを展開することになりました。

 その一環として、“ふみの日”のシンボルマークが制定されたほか、4月以降、毎月23日には全国の郵便局で小型印が使用されました。このほか、昭和54年度中のキャンペーンとしては、10月23日にNHK総合テレビの番組「テレビファソラシド」で“ふみの日”にちなむ「手紙特集」が放送されたほか、3月23日と7月23日の2回、「手紙のある世界」と題する新聞広告が各紙に掲載されています。

 しかし、当初発表された昭和54年度の記念特殊切手の発行計画では、“ふみの日”に記念切手を発行する予定はありませんでした。

 ところが、3月2日の衆議院予算委員会の分科会で社会党議員の後藤茂が、郵政省が毎月23日を“ふみの日”として手紙を出そうと呼びかけているものの、その周知宣伝がほとんど行われていないことを指摘。その周知宣伝の手段として「この日だけは、普通切手に代わって、ふみの日の特殊切手を作り売ることを考えて欲しい」と提案します。これに対して、郵政大臣の白浜仁吉が「ふみの日についてはもっと周知を徹底させる。特殊切手については、とても良いご提案なので、ぜひ前向きに検討したい」と答弁したことから、事務方は切手発行の準備を開始。4月に入り、新年度になってから、陰暦七月の“文月”にあわせてキャンペーン切手を発行することを発表しました。

 こうして7月23日に発行された切手は、額面20円と50円の2種類の切手が、各5000万枚発行されています。これが、現在まで続く“ふみの日”切手の第一号となりました。

 その後、“ふみの日”切手には、デザイン公募のものがあったり、人気デザイナーの永田萌の作品が取り上げられるなど、いろいろな話題があるのですが、1984年までのモノについては、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でもいろいろと解説していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 * 本日未明、カウンターが36万PVを越えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。

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 バンコクの7月22日広場
2008-07-22 Tue 10:39
 タイのバンコクには、かつて日本人バックパッカー御用達の安宿として有名なジュライホテルがありましたが、このホテルの名前は、ホテルに面した“7月22日広場“にちなむものです。で、きょうはその7月22日なので、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 タイ・victory加刷

 これは、1918年12月、第一次大戦の勝利を記念してタイで発行された切手で、当時の国王、ラーマ6世を描く通常切手にVICTORYの文字が加刷されています。実は、“7月22日”というのは、1917年にタイが第一次大戦への参戦を決めた日で、戦後、戦勝国となったことを記念して、国王から下賜された土地に“7月22日広場”が作られたというわけです。

 第一次世界大戦が勃発すると、タイはドイツとイギリスのどちらが勝つかを見極めたうえで、勝ち馬に乗って参戦し、列強諸国との不平等条約改正交渉を進めようと考えました。一方、食料の輸出国であったタイの参戦は、連合国側にとっても歓迎すべき申し出だったのですが、タイ側が関税自主権の回復を代償として求めたことなどから、連合国のうちフランスがタイの参戦に難色を示し、タイの参戦問題はうやむやのまま放置されてしまいます。

 それでも、戦争が長期化すると、連合国はタイの参戦を強く求めるようになり、1917年7月22日、国王ラーマ六世はついに参戦を決意。同年9月28日付でドイツに対して宣戦を布告しました。ちなみに、現在のタイの国旗は、この参戦を機に三色旗風のものに改められたもので、それ以前は赤字に白抜きの像を描くものでした。

 さて、参戦を決めると、タイではヨーロッパ派遣の義勇兵の募集が始まります。その第1陣がマルセイユに上陸したのは1918年7月30日のことで、それから、彼らはフランス軍による訓練を受け、その一部が陸上輸送部隊として実際に戦争に参加したのは、10月17日のことでした。

 ところが、それから1ヶ月もたたない11月11日にドイツは降伏。タイは最小限の犠牲で“戦勝国”としての地位を獲得し、タイの兵士たちはパリでの凱旋パレードにも参加します。もちろん、敗戦国となったドイツ、オーストリアとの不平等条約は即座に撤廃され、講和会議にも参加する資格を与えられたほか、国際連盟が設立されるとその原加盟国になるなどタイの国際的な地位は向上しました。

 もっとも、パリの講和会議でタイは連合諸国との不平等条約改正を訴えましたが、実質的にタイの主張は無視されています。ただし、1920年9月1日、アメリカがタイとの新条約を締結して、治外法権の撤廃と関税自主権の獲得が達せられると、他のヨーロッパ諸国もタイの国内法が整備されれば不平等条約を撤廃するとの条約を締結せざるを得なくなり、1926年までにヨーロッパ各国との不平等条約は改正されることになりました。

 日本で7月22日広場が話題となる場合には、かつて日本人バックパッカー御用達だったジュライホテルとの関連で取り上げられることが圧倒的に多いのですが、バンコクの歴史散歩のポイントという点でも、7月22日広場は見逃せないポイントだろうと僕は思っています。

 なお、昨年刊行の拙著『タイ三都周郵記』では、バンコクの歴史散歩と切手や絵はがきをからめた「曼谷三十六景」なる1章も設けてみましたので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。

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 海戦大勝370年
2008-07-21 Mon 18:26
 今日は海の日。というわけで、新刊の拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の中から、海にちなんでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・海戦大勝4ウォン

 これは、1962年8月14日に発行された“海戦大勝370年“の記念切手の1枚で、李舜臣の亀甲船が取り上げられています。

 1961年5月のクーデターで政権を掌握する以前から、朴正煕は、経済開発のためには外資の導入が不可欠であり、そのためには日本との国交正常化を急ぐ必要があると考えていました。このため、朴は政権掌握早々、日本との関係改善にむけて積極的に動き出し、“5・16革命”から半年後の1961年11月には、社会的な混乱が続く中で、みずから訪米の途上で日本に立ち寄り、日本の首相・池田勇人と会談しています。

 ところで、韓国の最高指導者となった朴は日本の陸軍士官学校を卒業していますが、このことは、日本側には好感を持って迎えられた反面、韓国国内では“(ネガティヴな意味での)親日派”としてとらえられ、そのことは日韓会談そのものへの反対論の一要因ともなっていました。

 そこで、悪しき“親日派”とのイメージを払拭し、民族主義者としてのイメージを強調することが求められた朴政権は、国内世論への配慮から、1962年8月14日というタイミングで、今回ご紹介している“海戦大勝370年”の記念切手を発行します。

 切手の題材とされた“海戦”とは、1592年の“壬辰の倭乱”(日本でいう“文禄の役”です)に際して、李舜臣ひきいる朝鮮水軍が亀甲船を用いて日本水軍に壊滅的な打撃を与えた戦いのことです。この事件じたいは韓国国民にとってきわめて重要な歴史的意義を持つものですが、370年という半端な年回りで、あえて記念切手が発行されたことについては、やはり、“日本に対する勝利”を強調することで、国民の“親日派”批判に答えようとしたという意図が政府にあったとみることができます。ちなみに、歴史的な事実関係でいえば、朝鮮水軍が大勝利を収めたのは、1592年7月でしたが、切手の発行日は8月14日で設定されており、翌15日の光復節(解放記念日)が意識されているのは間違いないでしょう。

 もっとも、日本との国交正常化を進めようという中での李舜臣の扱いというのは微妙なものがあったようで、今回の切手でも、韓国側の勝利を大々的に宣伝する一方で、悪役としての日本についてはほとんど触れていません。これは、たとえば、1982年の「歴史絵画シリーズ」で、やはり、李舜臣の海戦を取り上げた切手が発行された際に、撃退される日本の水軍が描かれているのとは対照的で、韓国なりの日本に対する“配慮”があったということなのかもしれません。

 いずれにせよ、歴代の韓国政府は、国内問題でトラブルが発生すると、“反日“を持ち出してきて求心力を高めようという悪癖があるのですが、その場合の“反日”の度合いが本音のところではどの程度のものであるのか、我々からはなかなか見えにくいのが厄介なところです。

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 モカの木
2008-07-20 Sun 11:55
 日本のモカ・コーヒーの98%以上を占めるエチオピア産のコーヒー豆からから基準値以上の残留農薬が検出され、輸入が事実上ストップしているそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 モカ・カバー

 これは、1958年にイエメンの首都サナアから当時は英領だったアデン宛のカバーで、モカ・コーヒーの木を描く6ブガシュ切手が貼られています。この切手は、1947年に製造されたものの、、1958年6月までは正規に発売されなかったといわれていますが、その理由などは調べきれませんでした。なお、今回は切手の向きを優先して、カバーとしては上下逆の画像になっていますが、ご了承ください。

 “モカ”(アラビア語の発音では“ムハ“に近い)というのは、もともとは紅海に面したサナアの外港の地名です。いわゆるモカ・コーヒーの木はエチオピアが原産ですが、アラビア商人たちがそれを世界に広めたため、いつしか、その積出港であったモカの名がコーヒーの名前となりました。現在では、モカの港はすっかり寂れてしまいましたが、かつてこの港からイエメン産・エチオピア産のコーヒー豆が輸出されていたことから、現在でも、両国産のコーヒー豆は“モカ”と総称されています。

 イエメン産とエチオピア産を特に区別する必要がある時は、イエメン産のものを“モカ・マタリ”と呼ぶことがあります。 かつて、“コーヒー・ルンバ”に歌われたのは、このモカ・マタリで、エチオピア産に比べると値段も高めです。したがって、単に“モカ”とだけある場合には、エチオピア産とみてよさそうです。

 ところで、今回の農薬問題に関しては、すでに業界トップのUCC上島珈琲がモカを使った業務用商品の販売を停止し、ブレンドコーヒーの一部もモカ以外の豆で代替し始めたほか、喫茶店チェーンの珈琲館でも先週17日からモカのネット販売を休止するなど、 そろそろ、影響が出始めています。

 もちろん、業界側もこの問題を放置していたわけではなく、今年6月には全日本コーヒー協会が現地に調査団を派遣し、麻袋から残留農薬を検出するなどしましたが、結局、原因は特定できなかったようです。これに対して、エチオピア側は「日本は細かすぎる。他の国は何も言ってこない」などと主張しており、現時点では輸入再開のめどが立っていません。

 このまま行くと、モカ・マタリとフツーのモカの値段が逆転するようなことになるのかもしれませんが、味の実力という点では、やはりモカ・マタリの方が上ですからねぇ。妙な下剋上にならないといいのですが…。

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 世界のダム:昭陽ダム
2008-07-19 Sat 11:05
 ご報告が遅くなりましたが、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の7月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手の中の世界のダム」では、『韓国現代史:切手でたどる60年』の刊行にあわせて、今回はこの1枚を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 昭陽江ダム

 これは、1973年10月15日に発行された昭陽江ダムの切手です。

 ソウルの東、約80kmの地点にある江原道の道庁所在地、春川というと、日本ではドラマ「冬のソナタ」の舞台として紹介されることが多いのですが、韓国では、郊外の昭陽江ダム(あるいはそのダム湖である昭陽湖)とダッカルビ(鉄板鳥焼肉)を連想する人のほうが圧倒的に多いようです。このため、日本での“冬ソナ”ブームを知らなかった地元の人たちが、なぜ、日本人観光客が突如として押し寄せるようになったのか、理由がわからず、当初は戸惑いを隠せなかったとか。もっとも、現在では、彼らもしっかりと“冬ソナ”ブームに便乗しているのですが…。

 さて、春川のランドマークともいうべき昭陽江が完成したのは、1973年10月のことでした。

 昭陽江ダムは、漢江水系の支流にあたる昭陽江に建設された韓国最大の多目的ダムで、春川駅からバスで30分ほどのところにあります。その規模は、堤高123メートル、堤頂長530メートル、総貯水量は29億トン。完成すれば日本最大規模となる予定の徳山ダムが総貯水量6億6000万トンであることを考えると、かなり巨大なものです。

 昭陽江ダムの建設事業は、1967年に着工となりましたが、その建設資金の一部は、日韓国交正常化の一環として1970年6月22日に東京で署名された「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」(日韓請求権・経済協力協定)に基づき、日本から78億円の借款を得てまかなわれています。

 今回ご紹介の切手は、ダムの完成に合わせて発行されたもので、左側には、ダムの風景と送電線が描かれています。これは、発電施設としての昭陽江ダムに対する韓国政府の期待が表現されたものと考えてよいでしょう。一方、右側には、ソウルとダムの位置を示す地図が描かれています。

 昭陽江ダムは軍事境界線から50キロ程度しか離れていない(実際、朝鮮戦争の際には、春川の市街地は戦闘により壊滅的な被害を受けている)場所にあるため、韓国当局もダムのセキュリティには神経質になっており、建前としては、許可なくダムの写真を撮影することは禁じられています。もっとも、実際には、紅葉の時期などには写真撮影をして帰る観光客も多く、当局もそれを黙認しているようですが…。

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 10日遅れの朝顔市
2008-07-18 Fri 10:47
 毎年、7月6~8日に開催される東京・入谷の朝顔市ですが、今年は、サミット開催のため今日(18日)から3日間の開催だそうです。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 あさがお

 これは、1961年8月1日に“花切手”の第8集として発行された“あさがお”の切手です。

 四季折々の花を切手に登場させようという花切手の企画が最初に持ち上がったのは、1955年のことで、郵政省の事務方と郵政審議会・切手図案審査専門委員の一人で植物学者(東京大学名誉教授)の小倉謙は、昭和31年度に花切手を発行すべく、審議会に提案しています。しかし、このときは、時期尚早との理由からこの企画は採択されませんでした。

 いったんお蔵入りしていた花切手の企画ですが、1961年が郵便創業九十年にあたっており、その記念行事の一環として発行されることが決まり、1960年10月以降、シリーズ発行に向けての具体的なプランが決定されます。その結果、1961年1月の“すいせん”を皮切りに、毎月1種ずつ、季節の花を題材として発行する花切手のシリーズがスタートしました。

 8月の花に選ばれた“あさがお”の原画は、印刷局の中島桂が以前に描いていたものをシリーズの企画に合わせて描きなおしたもの(1961年2月6日に完成)と、郵政省の大塚均が制作したもの(2月16日に完成)を比較・検討したうえで、中島の作品を修正のうえ採用することとされました。これは、大塚の作品が、半開きの花と全開きの花が並んでいるという、現実には起こりえない状態であったためです。

 ちなみに、朝顔といえば、東京・入谷の朝顔市が有名であることから、下谷入谷局が初日押印を担当することとなり、同局では、8月1日の切手発行に先立ち、朝顔市初日の7月6日から、鬼子母神と朝顔を描いた風景印が使用されています。

 なお、この切手を含む“花切手”については、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。(アマゾンでは古書として高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 韓国の制憲節
2008-07-17 Thu 12:22
 きょう(7月17日)は、韓国では、いまから60年前の1948年に最初の大韓民国憲法が公布されたことにちなみ、“制憲節(憲法記念日)”になっています。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 憲法公布

 これは、1948年8月1日、アメリカ軍政下の南朝鮮(大韓民国の発足は2週間後の8月15日です)で発行された「憲法公布」の記念切手の1枚で、中央政庁(旧総督府庁舎)を背景に家族が描かれています。

 大韓民国の正式発足を控えて、1948年7月17日、政府組織法とともに公布された大韓民国憲法は、制憲憲法ないしは第1共和国憲法とよばれており、前文と103条の条文から構成されています。ちなみに、アメリカ軍政終了後の国号を“大韓民国”とすることは、1週間前の7月10日に国会で正式に決めらました。

 当初、憲法の草案では、大韓民国の政体は国務総理を置く議院内閣制とされていましたが、制憲国会議長の李承晩が米国式の大統領制を強硬に主張し、調整は難航。このため、8月15日に予定されていた新国家発足に間に合わせるべく、大統領の下に国務総理を置き、大統領は国会議員の間接選挙で選ぶとする妥協案が出され、ようやく決着しました。

 ところで、今回ご紹介の切手の印面には、憲法公布当日の7月17日の日付が入っていますが、実際の発行日は8月1日までずれ込んでいます。こうした事例は、当時の南朝鮮切手では珍しいことではなく、初代大統領就任の記念切手も8月5日の発行であるにもかかわらず、切手上には7月24日との日付が入っています

 なお、この切手では、日付表示の年号が西暦ではなく、“檀紀(伝説上の朝鮮の始祖・檀君に由来する暦年。西暦に2333年をプラスする)4281年”となっています。制憲憲法の前文は、「悠久の歴史及び伝統に光輝く我が大韓国民は~」との文言で始まり、「檀紀4281年7月12日この憲法を制定する」との一節で終わっていますので、切手もこれと平仄を合わせた形になっています。これは、アメリカ軍政の終了と新国家のスタートに合わせて西暦を廃し、自国の伝統とナショナリズムをより前面に押し出すことが必要と判断された結果といえましょう。

 なお、1945年の“解放”後、1948年に大韓民国が正式に発足するまでの、アメリカ軍政下の南朝鮮に関しては、いろいろと面白いマテリアルがあるのですが、その一部については新刊の拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもいくつかご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 魚屋さんの切手
2008-07-16 Wed 16:56
 燃料費の高騰で、漁に出るほど赤字になり、このままでは3割の漁師が廃業しかねないとして、昨日(15日)、20万隻の漁船が漁業の窮状を訴えるために全国一斉に休漁しました。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 日本橋

 これは、1962年の国際文通週間に発行された切手で、広重の「日本橋」が取り上げられています。1958年の「京師」に始まる「東海道五十三次」の文通週間切手では、それまで、逓信博物館の所蔵品として原画に用いられていましたが、今回の「日本橋」に関しては、国立博物館の所蔵品が用いられています。これは、逓信博物館所蔵の版画は初版ではない上に、刷りも不鮮明だったためです。

 さて、江戸時代、日本橋の南側には高札場や晒場があり、また北側には下流の江戸橋との間に魚市場が並び、日本橋魚河岸といわれていました。切手の元になった浮世絵に天秤棒を担ぐ魚屋さんの姿が見えるのも、このためです。

 この市場は、家康の招きで摂津佃島の名主森孫右衛門が佃村・大和村の漁師33名とともに現在の佃島を開拓した際、漁師たちが、漁を営む権利を与えられた謝礼に幕府へ魚を上納し、その残りを一般に売っていたことから始まり、江戸・東京の魚河岸として定着しました。ちなみに、現在の築地の魚市場は、1923年の関東大震災の後、復興計画の一環として日本橋の市場が移転してできたものです。

 昨日の一斉休漁のニュースをテレビで見て初めて知ったのですが、水産物の値段はセリによって決められ、魚をとってきた漁業関係者は基本的に値段を決めることができないのだとか。これに対して、仲卸は小売価格が上昇し、消費者の魚離れが進むことを恐れて、どうしてもセリの値段を抑え目にしますから、燃料高騰のしわ寄せは漁業関係者がかぶることになるという構図になっているようです。

 幕府なり大名家なりへ納めた残りを一般向けに販売していた時代であれば、こうした流通システムでも、十分、漁業関係者はやっていけたんでしょうが、幕府や大名家はとっくに存在しませんからねぇ。漁業関係者の廃業が相次いで日本の漁業が衰退してしまえば、結局、困るのは僕たち消費者なのですから、そろそろ、彼らの生活が成り立つように、水産物の流通システムの変更をまじめに検討しなければならないように思います。

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 地中海連合発足
2008-07-15 Tue 11:39
 地中海沿岸と欧州の43カ国の代表が参加する首脳会議がパリで開かれ、沿岸国を中心に構成する新たな枠組み「地中海連合」が創設されました。というわけで、なにか“地中海”ネタはないかと思って探してみたら、こんな切手が出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

 レバノン・ユスティニアヌス法典

 これは、1967年にレバノンが発行した切手で、首都のベイルートがローマ法学の拠点だったことが表現されています。中央の人物は、ローマ法の集大成『ローマ法大全』の編纂を命じたユスティニアヌス帝で、背後には、ローマ法の影響下にあった地中海世界の地図が描かれています。

 ベイルートのルーツは、古代地中海の交易で栄えたフェニキア人の都市、ベリトスです。この都市は、ローマ時代には東地中海における交易の中心地であると同時に、文化的にも重要な都市となりました。現在のようベイルートと呼ばれるようになったのは、西暦7世紀、イスラム世界に編入されてからのことです。(ただし、アラビア語の発音はバイルートとなりますが…)

 今回の地中海連合の発足にあたっての目玉の一つは、シリアがレバノンとの国交樹立に合意したことにあります。

 さて、第一次大戦以前、東地中海のアラブ地域は“シリア”(歴史的シリア)と呼ばれていました。もちろん、現在はレバノンの首都になっているベイルートも、以前は“シリア”の領域に含まれていました

 ところが、大戦の結果、この地を支配していたオスマン帝国が崩壊すると、歴史的シリアは英仏によって分割されます。このうち、フランスの支配下では、キリスト教徒が人口の過半数を占めるように“大レバノン”が分割され、フランス委任統治領としてのシリアの領域は大きく制限されてしまうことになります。こうした、シリアとレバノンの分割は、1940年代に両国が相次いで独立した後も維持されました。それゆえ、シリア側はレバノンは歴史的にシリアの一部であり、レバノンを“外国”として認めないという姿勢をとってきたわけですが、今回の地中海連合発足にあたって、そうした従来の政策を大きく転換することになったというわけです。

 なお、シリアは、今回、トルコを介してイスラエルとも接触するなど、独立以来の大きな転換点にあり、しばらくは目が離せない状況が続きそうです。

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 女神に導かれるのは…
2008-07-14 Mon 14:25
 今日はパリ祭の日です。というわけで、新刊の拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』にちなんで、韓国切手の中からこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 フランス革命200年(韓国)

 これは、1989年7月14日、韓国が発行したフランス革命200年の記念切手で、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」の一部が取り上げられています。

 「民衆を導く自由の女神」は、1830年7月のフランス7月革命を題材に制作されたもので、フランスの象徴である女性・マリアンヌは自由を、乳房は母性すなわち祖国を表しているとされています。オリジナルの作品では、マリアンヌの脇に、ドラクロワ本人と思しきマスケット銃を手にしたシルクハットの男性をはじめ、マリアンヌに導かれる多数の男性が描かれていますが、今回の切手ではそれらは思い切ってカットされています。

 こうした構図になったのは、基本的には、デザイン上の都合だろうと思うのですが、もしかすると、男性が女性に導かれるという構図に対して抵抗感があったということもあったのかもしれません。

 韓国社会には、良くも悪くも儒教的な価値観が染み付いており、現在でも「男女有別」「女必従夫」「夫唱婦随」などの男尊女卑的な考え方が根強いことは広く知られています。

 たとえば、韓国民主化の成果ともいうべき1987年の憲法では、男女の平等という原則の下、女子の労働は、特別の保護を受け、雇用・賃金及び勤労条件において、不当な差別を受けない(第32条第4項)、国は、女性の福祉と権益の向上のために努力しなければならない(第34条第3項)、国は母性の保護のために努力しなければならない(第36条第2項)など、国として男女平等を推進するための方針が盛り込まれました。しかし、この時点では、まだまだ“男女平等“に対する国民の心理的な抵抗感は根強かったようで、共働きの女性に「ご主人が失業した場合、あなたはどうしますか」というアンケートを取ったところ、一番多い回答は「自分も仕事を辞める」という結果が出ています。その理由は、「一家の長である夫よりも自分の収入が多いのは申し訳がたたない」というのだそうで、実利ではなく“朱子学的(といっていいのかどうかは分かりませんが)”な名分や“秩序”を重要視する彼らでなければ出てこない発想だと言ってよいでしょう。(まぁ、実際には、夫が失業したら、妻が働いて家計を支えるというケースが多いのでしょうけど)

 したがって、おそらく、この切手が発行された1989年の時点では、国家の名前で発行される切手に、“女性に従う男性”という構図の絵画が取り上げられることに抵抗を感じる人も少なくなかったのではないかと思います。

 もっとも、最近では朴正熙の長女、朴槿恵がハンナラ党の代表となり、大統領選挙の有力候補として名前が挙がるなど、韓国社会でも、以前に比べれば、女性指導者に対する抵抗感はだいぶ薄まってはきたようですが…。

 ちなみに、日本でも、いまから10年前の1998年、“日本におけるフランス年”の記念切手に「民衆を導く自由の女神」が取り上げられたことがありましたが、こちらは、オリジナルの作品を忠実に再現したデザインとなっています。

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 カピトリーノの狼・ルーマニア篇
2008-07-13 Sun 21:19
 古代ローマに先立つエトルリア美術の傑作とされ、ローマ市の象徴となっていたブロンズ像“カピトリーノの雌狼”(バーリの狼)が、放射性炭素年代測定の結果、定説とされていた紀元前5世紀の作品ではなく、中世(8~14世紀)のものだったことが明らかになったそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ルーマニア・エッセン切手展

 これは、1978年にドイツのエッセンで開かれた切手展の記念切手で、“カピトリーノの狼”が取り上げられています。

 伝説によると、イタリア半島の都市、アルバ・ロンガの王プロカは長男ヌミトルに王位を譲って亡くなりましたが、ヌミトルの弟アムリウスは兄の王位を簒奪し、ヌミトルの息子は殺され、娘レア・シルウィアは処女を義務付けられたウェスタの巫女となります。ところが、ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マルスが降りてきて彼女と交わり、シルウィアは双子を出産。怒った叔父の王は双子を川に流してしまいますが、双子は狼に育てられて成長します。その後、兄弟は協力して大叔父を討って、祖父ヌミトル王の復位に協力。兄弟は自分たちが育った丘に戻り、新たな都市を築きました。この丘が現在のローマのルーツです。

 カピトリーノの狼は、この伝説をもとに狼の乳を飲む兄弟の姿を現したもので、ローマの紋章にも取り上げられています。“ローマ“との歴史的紐帯にアイデンティティを求めているルーマニアに対しては、20世紀初頭、イタリアが友好のあかしとして“バーリの狼”像を贈りました。先日、ルーマニアに行った際には、その写真もとってきましたので、ご紹介しましょう。

 ブカレストのバーリの狼

 現在、この像はブカレスト中心部に設置され、その南側のロータリー部分は“ロマーナ広場”と呼ばれています。ちなみに、狼像は道の真ん中にあるのですが、そこから南側の広場の景色はこんな感じです。

 ロマーナ広場

 ところで、狼像は、ブカレストだけではなく、ハンガリーとの国境に近い西部の都市、ティミショアラにもありました。こんな感じです。

 ティミショアラ・勝利広場

 像の部分を拡大するとこうなります。

 ティミショアラ・狼像

 ティミショアラの狼像は、大聖堂前の勝利広場に鎮座しているのですが、周囲が芝生と花に囲まれているので、道路の真ん中で直接、排ガスを浴びているブカレストの狼像よりも絵になります。

 ティミショアラは、その地理的な関係からしても、ハンガリー系の多い街で、第一次大戦後にルーマニア領となった都市ですから、ルーマニア当局としても、ローマとのつながりを強調する意味で、あえてこうした像を街中に建設したのでしょう。

 さて、ルーマニアから帰国して早くも半月が過ぎようとしていますが、いろいろとこなさなければならない用事が多くて、なかなか、昨年の『タイ三都周郵記』に続く“切手紀行シリーズ”の第2弾となる、ルーマニア本の制作に取り掛かれないでいるのが実情です。なんとか、やりかけの仕事を要領よく片付けて、記憶が薄れないうちに作業に取り掛かりたいのですが…。

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 海金剛
2008-07-12 Sat 11:30
 北朝鮮の景勝地、金剛山地区で韓国人の女性観光客が北朝鮮兵士に撃たれて死亡したそうです。というわけで、今日は、金剛山関係のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 海金剛

 これは、1957年に韓国で発行された55ファン切手で、“海金剛”の景観が取り上げられています。中朝国境の白頭山とともに朝鮮を代表する名山とされる金剛山は、現在の行政区域でいうと北朝鮮の江原道にありますが、韓国としては、自分たちこそが朝鮮半島を代表する唯一の正統政府であり、本来、金剛山は自分たちのモノであるということをアピールするため、あえて、こうした図案の切手を発行したものと考えるのが妥当でしょう。

 さて、金剛山の領域は、東西40km、南北60kmとかなり広範なエリアに広がっており、大きく内金剛・外金剛・海金剛の3地域に区分されています。このうち、内金剛と外金剛の境界は、最高峰の毘盧(ビロ)峰がある中央連峰で、その西側が内金剛、東側が外金剛となっています。これに対して、東端の海岸部は海金剛と呼ばれています。今回の事件が起こった場所は金剛山の海岸ということですから、この切手に取り上げられている海金剛の地域ということになります。なお、日本の昭和切手(7銭)に取り上げられているのは、外金剛の萬物相と呼ばれる奇岩です。

 韓国からの金剛山観光は、この地域出身の鄭周永(現代財閥の創業者)が北朝鮮側に働きかけたことで、1998年11月から始まりました。当初、観光船は韓国側の江原道東海港を出航していましたが、2000年3月からは釜山港からの出航が始まります。その後、2001年7月以降は出航地は江原道・束草港に一本化されましたが、2003年9月以降、南北間の軍事境界線を直接越える陸路観光が本格的に行われるようになり、現在では陸路観光に一本化されています。

 当初、北朝鮮側は外金剛と海金剛の一部のみを観光区域としていましたが、昨年6月からは内金剛の観光も行われるようになりました。ただし、金剛山地域は軍事境界線に近いこともあって(“金剛山”の範囲を最も広くとると、その一部は韓国の領域にもかかることになります)、北朝鮮側は周辺の警備についてはかなり神経質になっています。

 今回の事件でも、北朝鮮側が現代峨山(金剛山観光を行っている韓国企業)に行った説明によると、亡くなった女性が観光区域の海岸にあるホテルから1人で砂浜を散策中、進入が禁じられている軍事保護施設区域に入ったため、見張りの兵士が停止を命じ、警告射撃を繰り返したにもかかわらず、女性が逃走したため、発砲したということですが、これが事実であるならば、(亡くなった女性には気の毒ですが)韓国人の“平和ボケ”もかなり進行しているということになるのでしょうかね。

 なお、朝鮮を代表する名山だけに、金剛山は韓国・北朝鮮の切手に何度となく取り上げられています。それらの切手には、さまざまな歴史的・社会的背景が隠されているのですが、そのあたりについては、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でも、いろいろと分析しておりますので、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 大統領になりそこなった男たち:アレクサンダー・ハミルトン
2008-07-11 Fri 10:38
 雑誌『中央公論』8月号が発売になりました。僕の連載「大統領になりそこなった男たち」では、今回は、アメリカの10ドル紙幣にも取り上げられている初代財務長官、アレクサンダー・ハミルトンを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      ハミルトン

 アレクサンダー・ハミルトンは、1755年1月、英領西インド諸島のネイビス島で生まれました。

 父親のジェイムズは、14世紀にまでさかのぼることができるスコットランドの名門の出身でしたが、4男だったため家の財産を相続することはできず、西インド諸島で砂糖や農業用品の売買に手を出したものの、典型的な“士族の商法”でことごとく失敗し、アレクサンダーが生まれた時には落魄の身でした。

 一方、母親のレイチェルは、ネイビス島で小さな砂糖農園を営む家に生まれました。16歳の時、彼女の財産目当てに近づいてきたデンマーク人商人のヨハン・ラビーンと結婚しましたが、夫が自分の財産を食いつぶしていくだけなのに耐え切れなくなって、夫の元から出奔。しかし、“金づる”を失うことを恐れたラビーンは離婚を承諾せず、彼女はセントキッツ島(セントクリストファー島)へと逃れ、この地で知り合ったジェイムズと暮らし始めるようになります。ただし、正式な離婚は成立していないので、二人は内縁関係ということになります。

 こうしたことから、“私生児”として生まれたハミルトンは、青年時代まで非常に苦労を重ね、1773年にニューヨークのキングズ・カレッジ(現在のコロンビア大学)に入学。在学中に独立戦争がはじまったことから、これに参加して頭角を現し、総司令官のジョージ・ワシントンの副官を務め、各ステイツの寄り合い所帯でしかなかった北米植民地を統一国家としてまとめあげるため、1787年にフィラデルフィアで憲法起草会議を開催することを提案。憲法の草案を実質的にまとめあげ、1789年にワシントン政権が発足すると、34歳の若さで初代財務長官となり、税関や連邦中央銀行、造幣局の創設などを主導してアメリカ資本主義の基礎を築きました。

 ワシントン政権の政策実務を実質的に一人で取り仕切っていた彼は、いずれは大統領になりたいという野心を抱いていましたが、1796年にワシントンが引退した時点では、61歳だった副大統領のジョン・アダムズや53歳だった元国務長官のトーマス・ジェファーソンに比べて、41歳と若すぎたことや、カリブ海の島国で“私生児”(両親は正式な結婚ができなかった)として生まれたという出自の問題、さらにはハミルトンの剛腕に対して反感を持つ者が多かったことなどから、彼を大統領として擁立しようという雰囲気は、ついに、大きな動きとはなりませんでした。

 第2代大統領に当選したアダムズは、ハミルトンに政府を牛耳られることを嫌い、彼を遠ざけましたが、閣僚たちはハミルトンの影響を受けた者が多数派を占めていました。1797年には、マリア・レイノルズという人妻との不倫関係や彼女の夫、ジェイムズに強請られていたスキャンダルが持ち上がりますが、これはハミルトンの名声にとって必ずしも致命的な打撃とはなりませんでした。
 
 しかし、1799年、長年の庇護者であったワシントンが亡くなり、1801年、長年対立してきたジェファーソンが大統領に就任すると、ハミルトンの政治的な影響力は急速に減退。1804年のニューヨーク州知事選を前に、地元メディアが選挙に立候補した副大統領のアーロン・バーとハミルトンの対立を面白おかしく煽ったことで、名誉を傷つけられたと感じたバーと決闘するはめになり、同年7月11日(ちょうど今日が命日ですな)、バーの銃弾に斃れてしまいます。享年49歳。

 その墓碑銘には「アメリカ国家を創った人物 アレクサンダー・ハミルトン、ここに眠る」と刻まれています。

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 バハマ宛のカバー
2008-07-10 Thu 10:07
 きょう(7月10日)は西インド諸島の島国、バハマが1973年に独立した記念日だそうです。というわけで、バハマがらみのネタはないかと探してみたら、こんなモノが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

 バハマ宛カバー

 バハマ宛カバー(裏)

 これは、1920年11月、イギリス占領下のモースル(イラク)から、バハマの首都・ナッソー宛に差し出された書留便で、1921年1月のナッソーの着印も押されているのが嬉しいところです。

 現在のイラク国家を構成する地域は、オスマン朝時代、バスラ・バグダード・モースルの三州から構成されていました。

 第一次大戦が勃発すると、イギリス軍はペルシァ湾に面する港湾都市バスラに上陸し、バグダードへ向けて進撃を開始します。しかし、フォン・デア・ゴルツ将軍ひきいるオスマン朝軍の守りは堅く、イギリス軍はクートから先にはなかなか進むことができませんでした。このため、1916年8月以降、英印軍が投入され、翌1917年3月になってようやくバグダードが陥落します。そして、1918年11月、イギリスは休戦時の混乱に乗じて北部のモースル(イラク有数の油田地帯で、休戦時には陥落していませんでした)を攻撃してここを占拠し、イラク全域を勢力圏内に収めることになりました。

 イラクを占領したイギリス軍は、オスマン朝時代の切手に、当初は“BAGHDAD IN BRITISH OCCUPATION”の文字を、ついで、バグダードをイラク“IRAQ IN BRITISH OCCUPATION”の文字を、それぞれ加刷した暫定的な切手を発行しています。なお、これらの暫定切手の額面は、英印軍による占領の影響により、インド式のアンナ・ルピーで表示されていました。今回ご紹介のカバーは、この時期の使用例です。

 その後、1920年4月になると、サンレモ会議の決定に従って、イラク(シリア・パレスチナ地域と異なり、分割されずに単一の行政単位とされました)は正式にイギリスの委任統治領となりましたが、これに対して、同年6月から10月にかけて、イラクのほぼ全域で反英暴動(現地では1920年革命と呼ばれる)が発生。このため、現地住民を慰撫する必要に迫られたイギリスは、同年11月(ちょうど、このカバーが差し出された時期ですな)、暫定アラブ政府(国民評議会)を設置しています。

 こうした経緯を踏まえて、翌1921年3月、イギリスの植民地相であったウィンストン・チャーチルは、いわゆるカイロ会議を招集。その結果、①イラクの行政権をアラブ政府に委譲する、②ファイサル(イギリスとともにオスマン帝国と戦ったアラブの英雄)を確実にイラク王とするためにイギリスは影響力を行使する、③委任統治に代わる同盟条約をアラブ政府と締結する、というイラク政策の基本方針が決定され、同年8月に行われた国民投票の結果、イギリスの目論見どおり、ファイサルがイラク国王(アミール)となり、イラクにおける親英政権の基盤が確立することになりました。

 オスマン帝国が解体され、アラブ諸国が形成されていく時期の切手や郵便については、以前、『中東の誕生』という本でまとめてみたことがあるのですが、現在は版元品切れという状況のようです。その後、いろいろとマテリアルも増えたことですし、そろそろ、リニューアル版を作ってみたいのですが、あんまり売れそうにないジャンルですからねぇまぁ、気長にチャンスを待つしかなさそうですな。

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 タイ=カンボジア国境
2008-07-09 Wed 12:56
 タイとカンボジアの国境未画定地域にあるヒンドゥー教寺院・プレアビヒアが、カンボジア単独の申請により世界遺産に登録されたことで、両国間の国境をめぐる対立が再燃する気配となっています。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 バッタンバン

 これは、現在、カンボジア領となっているバッタンバンでのタイ切手の使用例です。

 学校の教科書では「第二次大戦以前、東南アジアの国々が次々と植民地化されていく中で、タイは独立を保った」という記述が出てきますが、そのためにタイが払った代償は決して小さくはありませんでした。その最たるものが領土の縮小です。

 1868年にラーマ5世が即位した頃のタイは、現在の領土のみならず、現在の国名でいうラオスのほぼ全域やベトナムの北部、カンボジア西部、さらには、マレーシアの北部までをも勢力化に収めた域内の大国でした。もっとも、タイのラタナコーシン王朝(チャクリー王朝)の直接支配はその全域に及んでいたわけではなく、地方の小領主がバンコクの王室に服属し、結果として緩やかな連合国家を形成されていたというのが実態でしたが…。

 イギリスとフランスは、こうしたタイ国家の構造を利用して、周辺の属国をラタナコーシン王朝の支配下から切り離すことで領土を拡大していったわけですが、なかでもフランスは、インドシナ全土の植民地化を企ててタイ領への領土拡張を狙い、1893年7月13日、砲艦二隻にチャオプラヤー川をさかのぼらせ、「ラオスの宗主権は(すでにフランスが植民地化していた)ベトナムが持っていた」と主張してラオスの割譲を要求する砲艦外交を展開します。これがいわゆる“シャム危機”と呼ばれる事件です。

 フランスの軍事的圧力に屈したタイは、メコン川東岸のラオス全域をフランスに割譲することになるのですが、その後も、フランス軍はシャム危機での賠償金支払い完了までの保障占領としてチャンタブリーとトラートに駐留し続けます。このため、1904年、タイはフランス軍の撤退を求めて、メコン川右岸のマノープライ、チャンパーサック、ルアンプラバーン州をフランスに割譲。さらに、1907年には、フランスのアジア系保護民の治外法権撤廃軍の代償として、カンボジアのバッタンバン、シムエレアプ、シーソーポンをフランスに割譲させられています。

 今回ご紹介のマテリアルは、バッタンバンがまだタイ領であった時代のものですが、フランスへの割譲後は、この地域でもフランス領インドシナの切手が使われることになりました。

 こうした経緯から、タイ国民の間には、ラオスやカンボジアの西部は本来はタイの領土であるとの意識が強く、そのことがタイ=カンボジア間の領土紛争の背景となっています。

 なお、このあたりの事情については、拙著『タイ三都周郵記』でもご説明しておりますので、よろしかったら、ぜひご一読いただけると幸いです。

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 幻のガボン事件
2008-07-08 Tue 12:15
 北海道洞爺湖サミット参加のため来日中のアフリカ連合(AU)のジャン・ピン委員長が、体調不良のため札幌市内の病院に入院したのだそうです。一日も早いご快復をお祈りいたします。

 というわけで、今日は委員長の出身国であるガボンがらみのネタとして、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

全斗煥・ガボン訪問

 これは、1982年8月、当時の韓国大統領・全斗煥がアフリカ歴訪の一環としてガボンを訪問したことを記念して発行された切手です。このときのアフリカ歴訪の記念切手では、今回ご紹介したガボンとケニア・ナイジェリア・セネガルの計4ヶ国について、全と各国首脳の2ショットの切手が発行されています。ちなみに、この切手に取り上げられているオマール・ボンゴ・オンディンバ大統領は、こんにちなお現職ガボン大統領です。

 1960年代以降、中ソ対立によって“自主外交”路線を歩まざるを得なくなった北朝鮮は、第三世界諸国に対する外交攻勢を強め、彼らを取り込むことで国際社会での立場を強化しようと考えます。具体的には、新興独立諸国に対して、軍事顧問団を派遣したり、国連加盟に際してのサポートを行うなどしたりする代償として、北朝鮮こそが朝鮮半島の正統政府であることを認めさせようという戦略です。こうした北朝鮮の第三世界外交は、当時、それなりに身を結び、アフリカ諸国の多くは、北朝鮮の“友好国”となっていました。

 1980年に発足した全斗煥政権は、経済力を背景に、こうした北朝鮮の第三世界外交に楔を打ち込み、北朝鮮に対する国際的なシンパを切り崩すべく、積極的なアフリカ外交を開始。その成果として、1982年5月には、リベリアの国家元首の訪韓を、さらに翌6月にはザイール(現コンゴ民主共和国)大統領の訪韓を実現させています。さらに、同年8月には、全斗煥自身が、ケニア、ナイジェリア、ガボン、セネガルを歴訪しました。

 これらの国々の元首と全斗煥が会談するたび、韓国郵政は両国元首の肖像と国旗をあしらった記念切手を発行。このため、一時期、韓国の切手はアフリカ一色となったかの観がありました。

 これに対して、北朝鮮は、それまでの“縄張り”であったアフリカ諸国が韓国の外交攻勢によって切り崩されていくことに深刻な危機感を感じ、その報復として、全斗煥のアフリカ歴訪の機会を捉えて彼の暗殺を計画します。

 その暗殺の舞台としては選ばれたのは、今回取り上げている切手のガボンでした。これは、全の訪問国のうち最も経済規模の小さかったため、万一、北朝鮮による犯行が露見して国交断絶となっても、影響も小さいと金正日が判断したためです。

 かくして、北朝鮮は、ザイールの北朝鮮大使館を拠点として、3名からなる暗殺チームを派遣。このうち、2名は、日本の偽造パスポートを持ち、日本語で会話するなどして、日本人の集団になりすまし、出入国記録に名前を残さないよう、外交特権を利用して、自動車でガボンに密入国しました。

 一味は、リモコン爆弾を利用して全を暗殺した後、首都リーブルビル近郊の港に停泊させていた特殊工作船・東建愛国号で脱出する手はずを整えていたようです。そして、暗殺の成功が確認されたら、朝鮮人民軍はただちに南侵する計画になっていたといわれています。

 ところが、大統領の暗殺と武力南侵により、アメリカとの全面対決が起こることをおそれたソ連共産党書記長のブレジネフが、暗殺計画に強硬に反対。また、金日成も、暗殺事件によりアフリカ全体を敵に回すことを懸念し、金正日を説得したため、計画は中止され、大事には至りませんでした。

 もっとも、翌1983年には北朝鮮はラングーンで爆破テロ事件を起こしており、ガボンでの計画中止は全斗煥暗殺計画の延期でしかなかったのですが…。

 なお、新刊の拙著『韓国現代史』では、こうした北朝鮮による対南工作についても、いろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 きょうから洞爺湖サミット
2008-07-07 Mon 10:19
 今日から北海道洞爺湖サミットが始まります。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 洞爺湖

 これは、1971年12月6日に発行された「支笏洞爺国立公園」の切手のうち、洞爺湖畔と羊蹄山を取り上げた7円切手です。支笏洞爺国立公園の切手は、1953年7月にも発行されていますが、このときは支笏湖の5円切手と羊蹄山の10円切手という組み合わせでした。

 洞爺湖は、北海道南西部に位置する日本第9位の大きさの湖(カルデラ湖としては屈斜路湖、支笏湖に次いで第3位)で、東西約11km、南北約9kmのほぼ円形をしています。切手前面に見えるのは湖中央に浮かぶ中島で、後方で雲がかかっているのが羊蹄山です。

 もともと、この湖はアイヌ語で“キムン・トー”(山の湖)と呼ばれていましたが、和人が“湖の岸”を意味する“トー・ヤ”を湖の名と勘違いしたことから、洞爺湖という名前になったようです。

 今回のサミットの開催地としては、洞爺湖のほかに①京都・大阪・兵庫の関西地域、②横浜・新潟両市 、③岡山・香川両県(瀬戸内地域) が候補として名乗りを上げていましたが、最終的に、交通・地形の面で警備がしやすいということが決め手になり、洞爺湖が開催地として選ばれたのだそうです。ちなみに、メイン会場となるザ・ウインザーホテル洞爺は民間の大手警備会社のセコムの関連会社だそうですから、その点でも、警備という点ではバッチリと考えられたのでしょう。

 ところで、サミットが日本で開催された年(1979年・1986年・1993年・2000年)には、これまで、必ず衆議院の解散・総選挙が行われています。支持率が低迷している福田政権としては、現時点では、とても解散に打って出られるような状況ではないと思うのですが、何分にも“一寸先は闇”の政界のこと。残りの半年で、アッと驚く出来事が起こって、情勢が一変することがあるやもしれませんな。

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 香港國際機場10年
2008-07-06 Sun 14:36
 現在の香港国際空港(香港國際機場)がオープンして、今日でちょうど10周年です。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 香港国際空港

 これは、1998年7月6日の新空港開港に合わせて発行された香港の記念切手です。6種連刷の構成で、空港のみならず、空港と中心部を結ぶエアポート・エクスプレスやランタオ大橋なども取り上げられています。

 かつての香港の国際空港は、九龍市街地のそばにあった啓徳空港でしたが、同空港は1980年代後半の時点で処理能力の限界を越えて稼働されており、しかも地理的に状況から拡張は不可能な状況にありました。

 このため、香港の中国への返還を控えた1989年10月、新空港ならびに中心部から空港までアクセスのための道路・鉄道、地下鉄新路線、大規模コンテナターミナルなどを中心とするPADS計画が発表されます。

 同年6月の天安門事件を機に、香港内のみならず国際社会からも「イギリスは香港の住民を独裁政権の手に売り渡すのか」という批判が噴出。事件後、香港の景気は急速に冷え込み、香港政庁は新たな対応を迫られていました。

 PADS計画は、こうした状況の下で、総額1270億香港ドルに達する総合的な社会資本整備計画として策定されたもので、香港の将来(=返還後)に向けた投資計画を前面に押し出すことで、景気を回復させ、香港経済に対する信任を回復しようとしたものです。

 これに対して、中国側は、PADS計画は資金の負担が大きすぎ、返還後の香港の財政を悪化させると反発。事前に香港政庁からの説明がなかったことへの感情的な反発もあいまって、以後、この問題は財源問題で大きくもめることになっていきます。結局、英中間の最終的な合意は1994年11月に成立するのですが、それまでの間、PADS計画は過渡期の主権問題の象徴としてくすぶり続けることになりました。

 香港国際空港は、このPADS計画の目玉として大嶼(ランタオ)島沖に建設されたもので、当初は、1997年7月1日の返還に合わせて開港のyていでした。ところが、実際には工事が遅れ、大嶼島へ渡る青馬大橋は返還直前に開通したものの、肝心の空港開港は返還後の1998年にずれ込んでいます。

 なお、このあたりの英中間のやり取りについては、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご紹介していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 * 昨日の切手市場での『韓国現代史』の即売・サイン会は無事終了しました。お越しいただきました皆様には、この場をお借りしてあらためてお礼申し上げます。

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 農水省30年
2008-07-05 Sat 07:11
 1978年7月5日に農林省が農林水産省と改称されてから、今日でちょうど30年です。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 農林水産振興100年

 これは、1981年4月7日に発行された「農林水産振興100年」の記念切手です。切手のデザインは、農業、林業、水産業のイメージをそれぞれ穀物、木、さかなとして表現し、デザイン化した“100”をバックに描いたものです。なお、記念切手の名称はちょっと生硬な表現ですが、これは、1881年4月7日、当時の殖産興業政策の一環として、内務省駅逓局、山林局、勧農局、博物局と大蔵省商務局を統合して農商務省が設置され、統一的な農林水産行政が始まってから100周年という意味です。

 1881年に発足した農商務省は、1885年12月に内閣制度が始まった後も維持されます。ただし、このときの官制改革で、工部省が廃止されて逓信省が設置されたことにより、旧工部省の鉱山事務・工作事務は農商務省に統合され、農商務省の駅逓事務・管船事務は逓信省に移管されました。

 大正時代に入ると米価が高騰し、安価な外国産米が輸入されるようになりましたが、これに反発する農業関係者は、農商務省を廃止して農務省を設置するよう再三に渡って建議。このため、1925年4月1日、 農商務省は分割され、農林省と商工省になります。

 しかし、戦時下の1943年、軍需産業強化のため、商工省の大半と企画院を統合して軍需省が設置されると、旧商工省が所管していた繊維産業や日常生活物資についての統制事務は農林省に移管され、農林省はふたたび農商省となりました。

 1945年の敗戦により軍需省が廃止されると、農商省は農林省に戻り、組織・所管は戦前に復します。そして、1949年6月1日、農林省官制等に基づく農林省が廃止され、農林省設置法に基づく(新)農林省が発足しました。

 この(新)農林省が、1978年7月5日には農林水産省となったわけですが、現在の農林水産省は、2001年の省庁再編により、現在の(新)農林水産省設置法(平成十一年法律第九十八号)に基づくものとして、厳密には、1978年の農林水産省とは別の組織ということになっています。

 ここのところ連日、ウナギや飛騨牛などの食品偽装の問題がマスコミをにぎわせていますが、食品偽装を監視するのも農水省の仕事で、同省では現在、“食品特別表示Gメン”20人が警察とも連携して、全国での広域調査体制を敷いています。

 もっとも、現在の日本農林規格(JAS)法では、業者に是正指示・命令はできるものの、実際には警察が捜査に乗り出さない限り、悪質な業者にペナルティーを課すことはできません。それゆえ、食品偽装に対する規制の強化が求められるわけですが、とはいえ、規制が強くなりすぎると良心的な業者の経営まで圧迫することになってしまうわけで、そのあたりのさじ加減はなかなか難しいのでしょうね。

 なお、今回ご紹介の切手と同時期の日本の記念・特殊切手に関しては、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』で詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 おしらせ 
 きょう(7月5日)、東京・池袋で開催の切手市場にて、午前中・11:30ごろまで、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の刊行を記念して即売・サイン会を行います。入場は無料ですので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

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 星条旗と自由の女神
2008-07-04 Fri 10:42
 今日はいわずと知れたアメリカの独立記念日です。というわけで、新刊の拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の中から、アメリカがらみのストレートな1枚として、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 国連軍感謝シリーズ(アメリカ)

 これは、朝鮮戦争中の1951年9月15日、韓国が国連軍参加各国に感謝して発行した“国連軍感謝シリーズ”の1枚で、自由の女神像を中心に太極旗と星条旗が並べられています。

 “国連軍感謝シリーズ”は、1951年9月15日と同年10月25日の2回に分けて、国連軍参加21ヵ国の国旗と太極旗を並べて発行したもので、両国国旗の間には、今回ご紹介しているモノのように自由の女神を配したものと、国連マークと鳩を配したものの2パターンがあります。また、“イタリア“に関しては、当初、誤って旧王制時代の国旗を取り上げた切手を発行してしまったため、1952年2月10日に共和国の国旗を取り上げたものも改めて発行されました。この結果、シリーズ全体の構成は、(21+1)×2=44種類という勘定になっています。

 1950年6月25日に北朝鮮・朝鮮人民軍の奇襲攻撃により朝鮮戦争が始まると、国連安全保障理事会は北朝鮮の南侵を侵略行為と規定し、北朝鮮に対して38度線以北への撤兵を要求します。しかし、朝鮮人民軍はこの安保理決議を無視してさらに南侵を続け、6月28日にはソウルを占領してしまいました。

 このため、アメリカ大統領・トルーマンは、極東海・空軍に対して、38度線以南の朝鮮人民軍への攻撃を指令。国連安保理も、「北朝鮮の侵攻を撃退するため、加盟国は韓国が必要とする軍事援助を与える」との決議を採択して、アメリカの軍事介入を追認しました。

 その後、7月7日になって、国連安保理は北朝鮮の何侵を食い止めるべく、国連軍の創設を決議し、その司令官の任命をトルーマンに委任。これを受けて、翌8日、マッカーサーが国連軍司令官に就任しています。

 これら一連の安保理決議は、当時、ソ連が欠席した安保理(ソ連は、中華人民共和国を中国の正統政府として国連への代表権を与えるように主張し、それが否決されたことに抗議して安保理への出席を拒否していました)で採択されたため、後に、いわゆる“進歩的知識人”たちは、国連軍の創設は国際世論を反映したものではないと批判する余地を残すことになったとされています。

 しかし、当時の国連加盟59ヵ国のうち、国連軍の派遣に賛成したのは52ヵ国と圧倒的多数を占めていました。また、アメリカ以外にも、英連邦5ヵ国を含む総計21ヵ国(この中には、病院船のみ派遣のデンマークや当時は国連未加盟で赤十字のみ派遣したイタリアも含まれる)が兵員を派遣していたことを考えると、国連軍の派遣は、やはり、当時の国際世論を反映したものとみなすのが自然といえるでしょう。

 今回ご紹介の“国連軍感謝シリーズ”は、そうした国連軍参加各国に感謝の意を表するために発行され、国連軍の兵士等に記念品として配布されました。このため、最大の兵員が派遣されたアメリカを取り上げた切手が各5万枚の発行になっているのに対して、デンマークやインド、イタリア(新旧両国旗とも)、ルクセンブルク、オランダ、ノルウェーといった、小規模参加の国の分は各1万枚の発行というバラつきがあります。

 なお、新刊の拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』では、朝鮮戦争の具体的な経緯のみならず、戦後の韓米関係史の重要なポイントに関しても、その全体像が俯瞰できるよう、さまざまな項目を設けています。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 おしらせ
 あす7月5日、東京・池袋で開催の切手市場にて、午前中・11:30ごろまで、同書の刊行を記念して即売・サイン会を行います。入場は無料ですので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

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 韓国現代史:切手でたどる60年
2008-07-03 Thu 10:21
 以前からこのブログでもご案内しておりましたが、7月1日付で福村出版から『韓国現代史:切手でたどる60年』を上梓いたしましたので、あらためてご挨拶申し上げます。(画像は帯つきの状態での表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)

 韓国現代史:帯つき

 今回の拙著は、週刊の日韓経済専門紙『東洋経済日報』2002年2月8日号から2007年3月30日号まで206回にわたって連載した「切手で見る韓国現代史」の中から、主要な記事をピックアップし、加筆・修正を施して書籍向けに編集したものがベースになっています。また、『東洋経済日報』の連載終了後、その補遺のようなかたちで雑誌『表現者』(第15~18号:2007年11月~2008年5月号)に「切手の中の日本と韓国」と題する連載記事を書いていましたので、今回の書籍化に際しては、解放以前および解放直後の部分については、こちらの内容も抜粋して付け加えています。

 内容的には、1945年の“光復(解放)”から2008年2月の李明博政権の発足までの歴史を、見開き2ページずつのコラム形式で編年体でたどったもので、項目ごとに、最低1点以上、切手ないしは郵便物の図版を掲載し、その背景となる歴史的・社会的状況を説明しています。その中には、南北両政府の成立や朝鮮戦争、日韓国交正常化、朴正熙政権下の独裁体制と漢江の奇跡と呼ばれた高度経済成長、朴大統領暗殺と全斗煥のクーデター、民主化運動とソウルオリンピック、日韓共催のサッカー・ワールドカップ、南北首脳会談、盧武鉉政権の混乱など、韓国現代史のポイントは勿論、以下のような話題も含まれています。

 ・日韓両国の間で政治問題化した竹島切手騒動(1~3次)の顛末
 ・昭和天皇暗殺未遂犯の切手
 ・ドラマ『冬のソナタ』の舞台となった春川と昭陽江ダム
 ・よど号事件に翻弄された郵便物
 ・テポドンや小泉元首相を取り上げた北朝鮮のプロパガンダ切手

 このほかにも、本書では、週刊誌連載5年分の蓄積を生かして、今年8月で建国60年を迎える大韓民国の政治・経済・外交・文化・社会など、あらゆる領域に着いて網羅的にカバーしています。各項目は見開き(1200字程度)で収まる分量で、それぞれ読み切り形式になっていますから、冒頭からページ順にお読みいただいても、あるいは、お好きな部分を適宜ピックアップしてお読みいただいても、どちらでもお楽しみいただける構成になっています。

 なんだかんだいっても、われわれ日本人が、隣国である韓国についてある程度知っておくべきであることはいうまでもありません。その意味では、切手や郵便物という具体的なモノを通して、韓国現代史のリアルな全体像を俯瞰した本書は、皆様の参考書としてお役に立つことができるのではないかと思います。

 一般書店の店頭などへの配本は今週末から来週早々になるところが多いようですが、すでに、アマゾンbk1などのオンライン書店での取り扱いが始まっているほか、一部切手商の店頭などでは実物をお手にとってご覧いただくことも可能となっています。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 なお、7月5日、東京・池袋で開催の切手市場にて、午前中・11:30ごろまで、同書の刊行を記念して即売・サイン会を行います。入場は無料ですので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

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 帰朝しました!
2008-07-02 Wed 20:45
 本日午後、無事にルーマニアから帰国いたしました。昨日の日記でも少し触れましたが、EFIROのコミッショナー、佐藤浩一さんをはじめ、現地でお世話になった皆様には、あらためてお礼申し上げます。また、6月18日いらい、2週間にわたって日本を留守にしておりましたので、その間、各方面にご不便・ご迷惑をおかけしたものと思われますが、なにとぞご容赦ください。

 さて、ヨーロッパからの帰国ということで、今日は定番ネタのこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 裕仁ご帰朝カバー

 これは、1921年9月に発行された“皇太子殿下(後の昭和天皇)御帰朝”の4銭切手2枚と10銭切手1枚が貼られた航空便です。昭和4年と発行後だいぶ経ってからの郵趣家便ですが、この切手の気の利いたカバーは他に持っていないので、とりあえず、今日のところはこれで勘弁してください。

 第一次大戦に際して、日本は日英同盟を口実にドイツに宣戦を布告し、ヨーロッパ列強がアジアに目を向ける余裕を失った隙に乗じて、山東半島の膠州湾ドイツ租借地とドイツ領南洋群島を占領。さらに、建国後まもない袁世凱の中華民国に“二十一ヶ条の要求”をつきつけます。これに対して、大戦中こそ、欧米列強は日本の行動を黙認していたものの、大戦の終結と同時に、彼らは異議を唱えるようになります。その急先鋒となったのが、グアム・フィリピンを領有し、太平洋地域で日本を仮想敵国とみなしていたアメリカでした。

 ところで、日本の躍進を支えた日英同盟は、1902年に締結された当初は、帝政ロシアを仮想敵国としてスタートしましたが、その後、日露戦争での日本の勝利に伴い、主要な仮想敵国はドイツへと変化します。ところが、第一次大戦を通じて、帝政ロシアは崩壊し、ドイツも敗北すると、同盟じたいの存在理由は希薄になっていました。

 こうした情勢の変化を見て取ったアメリカは、日本の脅威を殺ぐため、日英の離間を画策しようとすることになります。

 一方、日本側は自国の繁栄の礎となっていた日英同盟を、大戦後も維持しようと考えていました。そして、そのための宣伝活動として考え出されたのが、1921年3月から9月にかけて行われた皇太子・裕仁皇親王の訪欧だったわけです。

 古今東西、皇族(王族)は自国民にとってのスターであると同時に、対外的にも重要な広告塔の役割を担っています。イギリスのダイアナ元皇太子妃が、生前、世界的な人気を誇っていたのはその何よりの証拠といってよいでしょう。裕仁親王も、そうした広告塔の役割を期待され、同盟国イギリスの王室と友誼を通じ、日英両国の絆を内外にアピールすることで、イギリス国民の間に日英同盟存続の世論を喚起するために訪欧することになりました。

 さて、裕仁親王は、3月3日、御召艦「香取」に乗って横浜を出港。イギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアなどをまわり、半年後の9月3日に帰国しました。バッキンガム宮殿での華やかな歓迎パーティーだけでなく、スコットランドのアリール公爵の居城でのアットホームなパーティー、フォンテーヌブローの森でのドライブや地下鉄の体験など、このとき、彼は生まれて初めて“人間”としての自由な生活を味わっています。そのことが、皇太子の人格形成に大きな影響を与えたことは疑いの余地はなく、後年、天皇ご自身が「いまもあのときの経験が役立ち、勉強になって、今日の私の行動があると思います」と語っておられるほどです。もちろん、東洋の若きプリンスは、行く先々で熱烈な歓迎を受け、日本国内では、皇太子の初めての外遊は成功裏に終わったと判断するものがほとんどでした。

 皇太子の外遊が期待以上の成果を上げていると考えた政府は、その成功を謳いあげる最後の仕上げとして、7月16日、記念切手の発行を正式に決定します。もっとも、切手の発行が決定されてから2日後の18日には、皇太子は最後の訪問地ナポリを後にし、一路、帰国の途についているため、切手発行の名目は、“ご訪欧記念”ではなく、“ご帰朝記念”になりました。

 2ヶ月弱の突貫作業で制作された切手には、御召艦の「香取」と供奉艦の「鹿島」が取り上げられました。

 これら2艦は、日露戦争の開戦後の1904年5月、イギリスに発注されたものの、両艦が完成した1906年にはすでに日露戦争は終わっていました。しかも、同年、より性能のすぐれたドレッドノート型戦艦がイギリスで進水していたこともあり、生まれ落ちたその瞬間から、「香取」と「鹿島」はすでに二級艦として中途半端な存在でした。それにもかかわらず、皇太子の訪欧に用いられたのは、これらイギリス製の戦艦を派遣すれば、訪欧の主要な目的地であるイギリスの印象も良くなるのではないかとの政治的な配慮があったためです。その意味では、イギリス世論における対日感情の向上という大役を果たした皇太子の“ご帰朝”を祝う記念切手の題材として、この両艦は格好の素材であったといってよいでしょう。

 しかし、1921年末から翌1922年にかけて、アメリカが召集したワシントン会議は、皇太子訪欧の“成果”に酔いしれていた大日本帝国に頭から冷水を浴びせる結果となりました。

 すなわち、会議では、大戦後のアジア・太平洋問題と軍備制限が議題として取り上げられ、米・英・日の主力艦の保有率を5・5・3とする海軍軍縮条約をはじめ、太平洋での相互不可侵を決めた4ヶ国条約、そして、中国の主権尊重・領土保全・門戸開放・機会均等を定めた9ヶ国条約が締結されました。この結果、日本は大戦中に獲得した山東半島の権益を放棄させられ、肝心の日英同盟も、4ヶ国条約の締結により意義を失ったとして破棄されてしまいます。しかも、“ご帰朝”の記念切手に取り上げられた「香取」と「鹿島」は、このとき締結された海軍軍縮条約により、廃棄されるというオマケつきでした。

 なお、大正時代の皇太子・裕仁親王にまつわる切手とその背後の歴史的文脈については、拙著『皇室切手』でもいろいろと分析していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 お知らせ
 福村出版から刊行の拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』については、明日・7月3日付の記事で、くわしくご案内します。

 なお、7月5日、東京・池袋で開催の切手市場会場にて、午前中・11:30ごろまで、同書の刊行を記念して即売・サイン会を行います。入場は無料ですので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

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 これから return
2008-07-01 Tue 13:51
 早いもので、ルーマニア滞在も最後の日になりました。EFIROのコミッショナー、佐藤浩一さんをはじめ、現地でお世話になった皆様には、あらためてお礼申し上げます。今日は、午後の早い便でブカレストを発ち、ロンドン経由で明日のお昼頃、成田に到着する予定です。“香港返還”の記念日に、香港ネタの作品を持って日本に帰るというのも、なにかの因縁でしょう。というわけで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ルーマニア・香港切手展

 これは、香港返還の年(1997年)の1月に香港で行われた切手展<HONG KONG’97>に際してルーマニアが発行した記念切手で、小平とサッチャーの返還交渉の写真が切手として取り上げられています。

 新界地区の租借期限が切れる1997年7月以降の香港の地位に関する英中間の本格的な交渉は、1982年9月、イギリス首相のマーガレット・サッチャーが中国を訪問することで始まりました。

 当初、イギリス外務省は、1997年以降、イギリスの香港支配を続けることは事実上不可能で、香港の主権を中国に返還せざるを得ないとサッチャーに進言していました。共産中国の成立以来、中国は香港の現状維持を追認しており、そのことは結果として英中両国に利益をもたらしてきましたが、その大前提として、香港の主権が中国側にあるという建前は最大限尊重されなければならないという、中国側の面子の問題がありました。1997年以降、(実態はともかく建前としては)香港の主権を中国に返還すべきというイギリス外務省の判断も、こうした過去の経緯を踏まえたものだったわけです。

 ところが、サッチャーはこうした経緯を全く理解しようとしませんでした。当時の彼女は、フォークランド戦争に勝利を収め、“鉄の女”としてイギリス経済を立て直しつつあるという自信に満ちており、香港問題でも強硬姿勢を貫けば中国は譲歩するはずだと思い込んでいました。このため、彼女は香港島と九龍市街地はイギリス領であると声高に主張し続けます。

 ところが、サッチャーの強硬姿勢は中国側の態度を硬化させただけで、小平も「もし中国が1984年末までに香港の主権問題で合意しなければ、中国政府は独自の解決を宣言する」と応じることになります。

 もっとも、中国にしても、建国以来の基本方針として、香港を“外国”として維持したいというのが本音でしたから、仮にイギリスが、外務省の方針通り、香港の一括返還を中国に申し入れていたら、中国はそれを受け入れざるを得ず、かえって苦しい立場に追い込まれたものと考えられます。その意味でも、サッチャーの強硬姿勢は小平にとって好都合でした。中国は、あくまでもイギリスの要求に配慮するという建前の下に、香港の“現状維持”という果実を勝ち取ることが可能になったからです。

 結局、1983年3月、サッチャーは趙紫陽(中国首相)宛の書簡で「妥当な解決策が見出せれば、香港の主権の委譲を議会に提案する」と表明せざるを得なくなりますが、イギリス側は香港の行政権には固執するなどの抵抗を続け、中英交渉は難航しました。

 こうした状況の下で、1983年9月、香港ではブラック・サタデーと呼ばれる株式・金融市場の大暴落が発生。事態を収拾する必要に迫られた香港政庁は、ニクソンショック以来の変動相場制を放棄し、香港ドルを米ドルにリンクさせるペッグ制を導入せざるを得なくなりました。一方、中国側もこのときの香港ドルの暴落で11億米ドルもの外貨を一瞬にして失ったといわれています。

 こうして、返還交渉がこれ以上長引くことは、香港の安定と繁栄を損ない、英中両国のどちらにとっても利益とはならないことは誰の目にも明らかとなったことから、1983年10月、結局、サッチャーもついに香港の行政権返還に事実上同意。以後、交渉は中国ペースで急速に進展し、1984年9月26日、北京での「香港の将来に関する大ブリテン及び北アイルランド連合王国政府と中華人民共和国政府の協定草案」の仮調印を経て、12月19日、香港返還に関する英中共同宣言が正式に調印されました。この共同宣言によって、英領香港は1997年7月1日をもって中国に一括返還されることが決定。以後、香港は“中国香港”となり、中華人民共和国の特別行政区として、50年間(2047年6月30日まで)、英領時代の社会・経済制度が維持されることとされたのは、周知のとおりです。

 なお、香港返還をめぐる英中間の様々な駆け引きについては、ちょうど1年前に刊行の拙著『香港歴史漫郵記』でも解説していますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。

 お知らせ
 本日・7月1日付で福村出版から刊行の『韓国現代史:切手でたどる60年』は、すでに本として出来上がっており、販売もされているようですが、いかんせん、僕自身はルーマニア滞在中で実物を確認できませんので、詳細は明日・7月2日に帰国した後で、ご案内します。

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