fc2ブログ
内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
<!-【↓2カラムテーブルここから↓】-->
 スケボーの四十住が金、開が銀、レスリングの川井友が金、ボクシングの並木が銅
2021-08-05 Thu 05:16
 現在開催中の東京五輪ですが、きのう(4日)は、スケートボード女子パークの四十住さくらが金、開心那が銀、レスリング女子62キロ級の川井友香子が金、ボクシング女子フライ級の並木月海が銅、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      コソヴォ・東京五輪(レスリング・2021)

 これは、今年(2021年)7月20日、コソヴォが今回の東京五輪を記念した発行した切手シートで、レスリングが取り上げられています。

 コソヴォはバルカン半島中部の内陸部に位置しており、北東をセルビア、南東を北マケドニア、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれています

 セルビア民族の揺籃の地とされるコソヴォは、12世紀末には中世セルビア王国・セルビア正教会の中心でしたが、14世紀末にオスマン帝国に占領され、それ以後、多くのセルビア人は北方に移住。代わりに、オスマン帝国支配下のアルバニアからイスラム教に改宗したアルバニア系が入植が進みます。

 20世紀初頭のバルカン戦争の後、1912年に独立を宣言したアルバニアはコソヴォの領有を主張しますが、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニアではなく、セルビアに組み込まれます。その後、第一次世界大戦中のオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国の占領時代を経て、大戦後にユーゴスラヴィア王国が成立しましたが、第2次大戦中、コソヴォ地域はブルガリアに併合されていました。

 第2次大戦後、第2のユーゴとなるユーゴスラヴィア連邦共和国が成立すると、コソヴォ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、セルビア共和国内の自治区とされました。しかし、欧州一の出生率を誇るアルバニア人の急激な人口増加(過去50年間で人口が約4倍に急増。1948年の46万人から1998年には183万人へ)や、強烈なカリスマを持った建国の父、ティトーが亡くなり、連邦の分裂傾向が強まる中で、次第に、コソヴォのアルバニア系住民の間では自治州から共和国への格上げを求める声が高まっていきました。

 これに対して、“ユーゴスラヴィア”の枠組を維持したかったミロシェビッチ政権は、コソヴォでは少数派のセルビア系住民が抑圧を受けるようになったこともあり、1989年、コソヴォの自治権を縮小。さらに、翌1990年、アルバニア系住民が住民投票を経て“コソヴォ共和国”の独立を宣言すると、コソヴォ議会を解散して自治権を剥奪し、独立運動に対する弾圧を本格化します。

 その後、コソヴォ民主同盟代表のルゴバらが平和的手段によるコソヴォの独立運動を展開したものの、事態の進展はなく、1998年2月にアルバニア系のコソヴォ解放軍(KLA)とセルビア治安部隊との間に武力衝突が発生。これにユーゴ連邦軍が介入し、コソヴォ紛争は本格化しました。

 武力紛争は、1999年5月にG8外相間で合意された和平案をもとに、同年6月10日、国連安保理決議1244が採択されて終結。セルビア人部隊は撤退し、コソヴォは国連コソヴォ暫定行政ミッション(UNMIK)の統治下、すなわち、“独立国ではない”ものの“特定国家の実効支配下にない”という微妙な立場におかれることになります。

 なお、切手に関しては、2000年3月15日、UNMIKの名の下にドイツマルク額面の切手が発行され、以後、2002年5月からは額面をユーロに変更して、UNMIK名での独自の切手発行が続けられてきましたが、2008年の独立宣言とともに“コソヴォ共和国”名での切手が発行されるようになりました。

 2008年の独立宣言に対して、コソヴォ独立を一貫して否定してきたロシアとセルビアは猛反発。特に、セルビアはコソヴォの分離独立を「永遠に認めない」と主張しています。一方、2010年7月、国際司法裁判所は、コソヴォ独立宣言は国際法に違反しないとの勧告的意見を発表。これを受けて、わが国を含む西側諸国の多くはコソヴォの独立を承認しましたが、安保理常任理事国の中露がセルビア政府の合意なしにはコソヴォの独立を承認しないとの立場をとっていたほか、少数民族の独立運動を抱えているインドやスペインなどもコソヴォ独立を承認しない意向を表明しています。

 現在のコソヴォ国家の基本方針は、独立承認国(2019年8月現在,101か国以上)を増やし、国連等国際機関への加盟を達成することが当面を目標としており、将来はEUにも加盟したいとの意思を示しています。

 なお、コソヴォは欧州最貧国(のひとつ)で、旧ユーゴ及びセルビアからの援助に依存しており、経済的に自立する基盤がありません。主要産業の農業は小規模な家族経営が大半で、褐炭、亜鉛等の鉱物資源はあるものの、設備投資はほとんど行われず、恒常的な貿易赤字と税収の不備、電力不足、若年層を中心とする大量の失業など課題が山積しています。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内★

 8月9日(月) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。


★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★

      世界はいつでも不安定Audible

 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。

★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★

      誰もが知りたいQアノンの正体 1650円(本体1500円+税)

 * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。

 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | コソヴォ | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 コソヴォの独立は合法
2010-07-23 Fri 21:00
 ハーグの国際司法裁判所は、きのう(22日)、2008年のコソヴォ独立宣言が国際法に違反しないとの判断を示しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

           コソヴォ独立1周年

 これは、昨年(2009年)2月に発行されたコソヴォ独立1周年の記念切手です。

 セルビア民族の揺籃の地とされるコソヴォは、12世紀末には中世セルビア王国・セルビア正教会の中心でしたが、14世紀末にオスマン帝国に占領され、それ以後、多くのセルビア人は北方に移住。代わりに、オスマン帝国支配下のアルバニアからイスラム教に改宗したアルバニア系が入植が進みます。

 20世紀初頭のバルカン戦争の後、1912年に独立を宣言したアルバニアはコソヴォの領有を主張しますが、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニアではなく、セルビアに組み込まれます。その後、第一次世界大戦中のオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国の占領時代を経て、大戦後にユーゴスラビア王国が成立しましたが、第2次大戦中、コソヴォ地域はブルガリアに併合されていました。

 第2次大戦後、第2のユーゴとなるユーゴスラビア連邦共和国が成立すると、コソヴォ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、セルビア共和国内の自治区とされました。しかし、欧州一の出生率を誇るアルバニア人の急激な人口増加や、強烈なカリスマを持った建国の父、ティトーが亡くなり、連邦の分裂傾向が強まる中で、次第に、コソヴォのアルバニア系住民の間では自治州から共和国への格上げを求める声が高まっていきました。

 これに対して、なんとしても“ユーゴスラビア”の枠組を維持したかったミロシェビッチ政権は、コソボでは少数派のセルビア系住民が抑圧を受けるようになったこともあり、1989年、コソヴォの自治権を縮小。さらに、翌1990年、アルバニア系住民が住民投票を経て“コソヴォ共和国”の独立を宣言すると、コソヴォ議会を解散して自治権を剥奪し、独立運動に対する弾圧を本格化します。

 その後、コソボ民主同盟代表のルゴバらが平和的手段によるコソボの独立運動を展開したものの、事態の進展はなく、1998年2月にアルバニア系のコソヴォ解放軍(KLA)とセルビア治安部隊との間に武力衝突が発生。これにユーゴ連邦軍が介入し、コソヴォ紛争は本格化しました。

 武力紛争は、1999年5月にG8外相間で合意された和平案をもとに、同年6月10日、国連安保理決議1244が採択されて終結。セルビア人部隊は撤退し、コソヴォは国連コソヴォ暫定行政ミッション(UNMIK)の統治下、すなわち、“独立国ではない”ものの“特定国家の実効支配下にない”という微妙な立場におかれることになります。

 なお、切手に関しては、2000年3月15日、UNMIKの名の下にドイツマルク額面の切手が発行され、以後、2002年5月からは額面をユーロに変更して、UNMIK名での独自の切手発行が続けられてきましたが、2008年の独立宣言とともに、今回ご紹介しているようなコソヴォ共和国名での切手が発行されるようになりました。

 2008年の独立宣言は、セルビアやロシアが主張していたコソヴォの“現状維持”を廃して、コソヴォを正規の独立国家とすることで問題の決着を図ろうとするもので、現在までに、米英やわが国をはじめ西側諸国を中心に69ヵ国が独立を承認しています。今回の国際司法裁判所の判断に法的拘束力はないものの、これによりコソヴォを承認する国が増えることは確実で、今後、独立を認めないセルビアへの圧力も強まることでしょう。

 なお、いままでコソヴォ独立を一貫して否定してきたロシアは、今回の決定後も独立不承認の姿勢を変えないとする声明を発表しましたが、コソヴォ独立の承認と引き換えに、グルジアからの独立を承認した南オセチアやアブハジアの独立の正当性を国際社会にさらに強く訴えていく可能性が強いとみられており、この問題は、今後ともしばらく尾を引きそうです。

 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

  総項目数552 総ページ数2256  
  戦後記念切手の“読む事典”(全7巻) ついに完結!

      昭和終焉の時代  『昭和終焉の時代』 日本郵趣出版 2700円(税込)

 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。

 全国書店・インターネット書店(amazonbk1JBOOKlivedoor BOOKS7&Y紀伊国屋書店BookWebゲオEショップ楽天ブックスなど)で好評発売中!

別窓 | コソヴォ | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 コソボの独立宣言
2008-02-18 Mon 17:30
 国連暫定統治下にあるセルビア共和国南部コソボ自治州の議会がセルビアからの独立宣言を採択しました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 コソボ・国際平和デー

 これは、2006年9月21日、国連暫定統治ミッションの名で発行された“国際平和デー”の切手で、コソボの旗を背景に、独立運動団体・コソボ民主同盟のルゴバ代表が平和文書に署名する写真が取り上げられています。

 セルビア民族の揺籃の地とされるコソボは、12世紀末には中世セルビア王国・セルビア正教会の中心でしたが、14世紀末にオスマン帝国に占領され、それ以後、多くのセルビア人は北方に移住。代わりに、オスマン帝国支配下のアルバニアからイスラム教に改宗したアルバニア系が入植が進みます。

 20世紀初頭のバルカン戦争の後、1912年に独立を宣言したアルバニアはコソボの領有を主張しますが、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、セルビアに組み込まれます。その後、第一次世界大戦中のオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国の占領時代を経て、大戦後にユーゴスラビア王国が成立しましたが、第2次大戦中、コソボ地域はブルガリアに併合されていました。

 第2次大戦後、第2のユーゴとなるユーゴスラビア連邦共和国が成立すると、コソボ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、セルビア共和国内の自治区とされました。しかし、欧州一の出生率を誇るアルバニア人の急激な人口増加や、強烈なカリスマを持った建国の父、ティトーが亡くなり、連邦の分裂傾向が強まる中で、次第に、コソボのアルバニア系住民の間では自治州から共和国への格上げを求める声が高まっていきました。

 ところが、なんとしても“ユーゴスラビア”の枠組を維持したかったミロシェビッチ政権は、コソボでは少数派のセルビア系住民が抑圧を受けるようになったこともあり、1989年、コソボの自治権を縮小。さらに、翌1990年、アルバニア系住民が住民投票を経て“コソボ共和国”の独立を宣言すると、コソボ州議会を解散して自治権を剥奪し、独立運動に対する弾圧を本格化します。

 その後、コソボ民主同盟代表のルゴバらが平和的手段によるコソボの独立運動を展開したものの、事態の進展はなく、1998年2月にアルバニア系のコソボ解放軍(KLA)とセルビア治安部隊との間に武力衝突が発生。これにユーゴ連邦軍が介入し、コソボ紛争は本格化しました。その過程で、国際社会の和平案をユーゴ政府が受け入れず、コソボにおける人道的惨事が発生する可能性が高まったとして、1999年3月24日、北大西洋条約機構(NATO)がユーゴ空爆を開始。これに対して、セルビア側(ユーゴ政府)は治安部隊によるKLA掃討活動を強化し、多数のアルバニア系住民が難民として流出しました。

 武力紛争は、1999年5月にG8外相間で合意された和平案をもとに、同年6月10日、国連安保理決議1244が採択されて終結。セルビア人部隊は撤退し、コソボは国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)の統治下に置かれることになりました。

 この結果、コソボの国際的な地位は極めて微妙な状況になります。

 すなわち、1991年のユーゴスラビアから分離独立宣言は、アルバニア以外の国際社会からは承認されなかったため、コソボの国際的な位置づけは、あくまでも正規の独立国ではなく、ユーゴスラビア(その後、セルビア・モンテネグロ、次いでセルビア)の一自治州でしかないというのが建前でした。しかし、現実には1999年のコソボ紛争後、コソボはセルビアの実効支配下から完全に脱しており、セルビアの自治州とみなすのは非合理的です。この結果、1999年以降のコソボは“独立国ではない”ものの“特定国家の実効支配下にない”という微妙な立場におかれ続けてきました。

 なお、切手に関しては、2000年3月15日、UNMIKの名の下にドイツマルク額面の切手が発行され、以後、2002年5月からは額面をユーロに変更して、UNMIK名での独自の切手発行が続けられてきました。ただし、現地では依然としてセルビア・ディナールが流通し、セルビア切手も有効であることから、多くの住民はこちらを利用しており、UNMIK切手のフィラテリックではない使用例というのは非常に少ないのが実情のようです。

 今回の独立宣言は、セルビアやロシアが主張していたコソボの“現状維持”を廃して、コソボを正規の独立国家とすることで問題の決着を図ろうとするもので、わが国をはじめ、西側諸国の大半は独立を承認する見込みですが、当然のことながら、セルビアやロシアは反発しており、セルビア側はコソボ独立を承認した国からの大使召還やコソボ旅券の所持者の入国拒否などの対抗措置に出る模様です。

 ということは、まもなく登場すると見られる新生コソボ切手に関しても、セルビア側はこれを認めず未納扱いにしたり、あるいは、受け入れを拒否したりすることも予想されます。このほかにも、セルビア切手やUNMIK切手の使用禁止や暫定的な猶予期間の使用例など、郵便史的にもいろいろと面白いマテリアルが登場しそうで、真面目に取り組んでみると、それなりに楽しめるかもしれません。
別窓 | コソヴォ | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
<!-【↑2カラムテーブルここまで↑】-->
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/