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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 クレーンの日
2008-09-30 Tue 21:12
 きょう(9月30日)は「クレーン等安全規制」が公布されたことにちなみ、クレーンの日なのだそうです。というわけで、今日はこんな切手をもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 第12回国際港湾協会総会

 これは、1981年5月に発行された「第12回国際港湾協会総会」の記念切手で、会議の英文名称が入ったコンテナ船とクレーンが描かれています。

 国際港湾協会は、①広く各国港湾関係者の親睦、②各国港湾の機構行政管理・運営および振興に関する情報交換、③港湾運営管理の改善進歩、④各国間の港湾手続きの標準化および簡素化、を目的に設立された国際NGO団体です。

 そのルーツは、1952年10月、日本港湾協会が、創立30周年記念事業として神戸市で国際港湾会議の開催を呼びかけたことに求められます。このときの会議で、日本港湾協会会長の松本学と神戸市長・原口忠次郎 のイニシアチブにより、世界港湾の恒久的機関をつくるという決議が採択されました。これを受けて、1955年11月にロサンゼルスで開かれた第2回港湾会議では、参加各国の満場一致で国際港湾協会の設立が可決され、1956年1月、中央事務局が東京に開設されています。

 その後、国際港湾協会は、1955年のロサンゼルス会議を第1回とし、1964年以降は2年に1度、総会を開催しています。その第5回総会は1967年5月に東京で開催され、記念切手も発行されましたが、協会の創立25周年にあたる1981年の第12回総会は、1981年5月23日から30日まで、名古屋市で開催され、各国から約700名が参加しています。ちなみに、発行日が会期初日5月23日ではなく、25日に設定されているのは、会議の実質討議が始まった日にあわせたためでしょう。

 なお、今回ご紹介の切手を含め、1980年代前半の記念切手については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』で詳しく解説しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

  
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 『郵趣』今月の表紙:ブルー・ノーズ
2008-09-29 Mon 13:42
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2008年10月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、原則として僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルー・ノーズ

 その昔、カナダ・ノバスコシアの漁師たちは青い鼻の者が多かったそうです。これは、漁師たちが青い手袋をはめて極寒の北大西洋で寒さに震えて鼻をこするうち、いつしか手袋の染料が鼻にうつったためといわれており、ブルー・ノーズは漁師のシンボルと言われるようになりました。

 1920年、帆船競争の第1回国際フィッシャーマンズレースでライバルのアメリカに屈辱的な敗北を喫したカナダは、雪辱を期して、誇り高き漁師たちのシンボルである“ブルー・ノーズ”の名を冠した帆船を建造。翌1921年10月の第2回レースで見事に優勝を果たします。以後、ブルー・ノーズは1938年まで18年連続で、出走した全レースで優勝するという大記録を打ち立てました。

 ブルー・ノーズの快進撃はカナダ国民を大いに熱狂させ、連勝記録更新中の1929年には20セントの通常切手にも取り上げられています。その名にちなみ濃青色の凹版印刷で作られた切手からは、大海原に君臨する世界最速の帆船の威風堂々たる気品が漂っており、名品の名にふさわしい一枚に仕上がってます。

 その後、漁船の世界ではトロール船が主流になったこともあり、ブルー・ノーズは1942年に貨物船として売却され、1946年にハイチ沖で座礁してその生涯を終えるのですが、その後もカナダ国民のブルー・ノーズに対する人気は衰えることなく、1963年には“ブルー・ノーズ2世”と称するレプリカが作られたのだそうです。

 
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 小泉引退に思うこと
2008-09-28 Sun 10:30
 小泉純一郎元首相が次期総選挙には出馬せず、引退するのだそうです。このニュースを聞いて、少し考えることがあったので、こんな切手をもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 アンドリュー・ジャクソン

 これは、1863年にアメリカで発行されたアンドリュー・ジャクソン(第7代大統領)の2セント切手です。

 ジャクソンは1767年、サウスカロライナの片田舎に北アイルランド移民の子として生まれました。貧困家庭の出身でほとんど教育を受けられませんでしたが、独学で法律を学び、20歳で弁護士になっています。その後、1788年にテネシー州憲法会議委員となったのを皮切りに、1796年に下院議員、1797年に上院議員となり、1798年には州の最高裁判事に任命されています。

 1804年に政界から一時引退し、テネシー州ナッシュビルで綿花農場を経営していましたが、1812年に米英戦争が勃発すると義勇軍を率いて出陣。1814年にはイギリスの支援を受けてアメリカ軍と戦っていたクリーク・インディアンを多数虐殺したうえで彼らの土地を奪い、彼らをアラバマ・ジョージア両州の辺境から追放してしまいます。この功績によって、ニューオリンズでイギリス軍と戦う部隊を指揮する権限が与えられ、有名なニューオリンズの戦いでイギリス相手に勝利を挙げることになりました。

 ニューオリンズの戦いにより、ジャクソンは一躍国民的な英雄として、アメリカ全土にその名をとどろかせ、1828年の大統領選挙で当選。1932年には現職大統領として再選を目指すことになります。

 このときの選挙の争点は銀行問題でした。

 アメリカで、連邦政府が最初に特許(有効期限20年)を付与した銀行は、1791年にフィラデルフィアで設立された第一合衆国銀行です。同行は実質的に連邦政府の銀行として金兌換の銀行券を発行する権限も与えられていましたが、1811年に特許更新の時期を迎えた際、中央政府による金融の統制強化を望まない反連邦派陣営は同行の特許更新を阻止し、同行は廃止に追い込まれています。

 このため、1816年、第一合衆国銀行の業務を引き継ぐものとして第二合衆国銀行が設立され、州ごとにまちまちだった通貨管理を統一するためにも、連邦全体を統一した銀行制度の確立を目指すことになります。

 このため、免許の更新期限が残り4年に迫っていた1832年、連邦議会の重鎮で野党の大統領候補となったヘンリー・クレイの主導で、特許更新法案が連邦下院を通過しました。

 ところが、大統領のジャクソンは、この特許更新法案に対して拒否権を発動。上院ではこれを覆すことができず、第二合衆国銀行の命運は風前のともしびとなってしまいます。

 ジャクソンが第二合衆国銀行の特許更新に対して拒否権を行使したのは、経済学的な裏付けがあったからではなく、国民世論の間に蔓延していた反銀行感情を利用して、クレイら反ジャクソン派に打撃を与えようとしたためでした。当時の国民の間には、第二合衆国銀行は公金で特権階級の便宜を図り、投資の利益を分配するものとして、連邦政府と特権的資本家との癒着の象徴とみられており、世論を読むことに長けていたジャクソンは、合衆国銀行をモンスターと呼び、第二合衆国銀行総裁のニコラス・ビドルを人民の敵として非難することで喝采を浴びたのです。

 しかし、第二合衆国銀行を感情的に否定してしまえば、混乱した通貨管理の問題を適切に処理することはできず、政府としては極めて無責任です。

 結局、選挙では、国民的な人気を背景に、“敵”を特定して国民の感情的対立をあおるジャクソンが、286人の大統領選挙人のうち219人を獲得してクレイに圧勝。第二合衆国銀行についての冷静な議論を展開したクレイは惨敗してしまいます。

 再選を果たしたジャクソンは、第二合衆国銀行に止めをさすべく、1833年、連邦政府預託金を同行から引き揚げ、「ペット・バンク(Pet Bank)」と呼ばれた民主党系の7つの州法銀行へ分配しました。この結果、ジャクソン政権が発足した1829年には4800万ドルだった紙幣の流通量は、彼が退陣した1837年には1億5000万ドルと3倍以上にも膨れ上がってしまいました。さらに、ペット・バンクは新たに振り込まれた資金を用いて投機を行いましたから、地価は暴騰し、インフレはますます深刻なものとなります。このため、ジャクソン政権は1836年に正貨流通令を出して公有地払い下げの支払いは金貨ないしは銀貨に限るとしたのですが、金銀のリザーブが少なかった多くの州法銀行は紙幣と金銀との交換を停止してしまいました。

 この結果、彼らの発行する紙幣は紙くず同然となって、経済状況はますます悪化。対策を求める資本家たちに対してジャクソンは「来る場所が違う。ビドルに頼め!」と言い放ち、すげなく追い返したそうです。

 さて、1830年代のジャクソン政権の事例は、意図的に“抵抗勢力”を作り出して国民的な人気を演出し続けてきた小泉政権と妙にイメージが重なるような気がするのは、果たして僕だけでしょうか。ちなみに、ジャクソンが2期8年の任期を務めて引退した後、大統領に彼の中心だったヴァン・ビューレンが就任することになりますが、ヴァン・ビューレンはジャクソンの残した負の遺産に苦しみ、再選はおろか、次期選挙では与党候補にすらなれませんでした。小泉元総理の忠臣として後継総理になった安倍晋太郎が1年で政権を投げ出し、さらにその後継となった福田康夫も1年で政権を投げ出すという構図もまた、ジャクソンと小泉の相似形を感じさせるエピソードといえましょうか。

 なお、ジャクソンと戦い、敗れたクレイについては、拙著『大統領になりそこなった男たち』でも1章を設けて取り上げていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 
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 ニューヨークのライオン
2008-09-27 Sat 11:00
 プロ野球のパリーグは西武がリーグ優勝しました。というわけで、きょうはライオンの切手をもってきてみました。

      ニューヨーク市立図書館

 これは、2000年にアメリカで発行された10セントのコイル切手で、ニューヨーク市立図書館正面のライオン像が取り上げられています。

 ニューヨーク市立図書館は、1911年、アスター図書館とレノックス図書館という 2つの図書館を統合して設立されました。正面のライオン像は、ベニスのサンマルコ大聖堂前の馬の像からヒントを得て、アメリカの彫刻家エドワード・クラーク・ポッターがデザインし、ビシリーリ兄弟によって彫り上げられました。素材はグランドセントラル駅ロビーの床石と同じピンクテネシー大理石ですが、長年の風雨にさらされて現在ではグレーになっています。

 もともと、2頭のライオンには、図書館の前身にちなんで、アスターとレノックスという名前が付けられていましたが、世界恐慌さなかの1930年、当時のラガーディア市長によってペイシェンス(忍耐)とフォーティチュ―ド(不屈の精神)とのニックネームが付けられ、現在では、こちらのほうが定着しているのだそうです。

 ちなみに、ニューヨーク市立図書館は、建物自体が映画やドラマにちょくちょく登場する名所となっていますが、そのシンボルともいうべきライオン像には、ときどき、シルクハットやニット帽、サンタの帽子などがかぶせられることもあるのだとか。まぁ、日本でも、いろいろな扮装のご当地キティなんてのがありますからね。似たような発想なのかもしれません。

 なお、このライオン像がペイシェンスとフォーティチュードと名付けられた1930年当時の大統領は、共和党のフーバーでしたが、前回1928年の選挙でフーバーに敗れた元ニューヨーク州知事のアル・スミスは、フーバーの経済失政を目の当たりにし、捲土重来を期して1932年の大統領選挙を目指して運動していました。しかし、その彼の前には、後輩のニューヨーク州知事であったフランクリン・ルーズベルトが立ちはだかり、スミスはまたしても涙をのむことになります。

 大統領になる夢破れたスミスは、晩年、ニューヨーク五番街の動物園の向かい側にある高級アパートでひっそりと余勢を過ごし、しばしば動物園を訪れていたといいます。失意の彼の心を慰めたのは、大理石ではなく、ホンモノのライオンだったのかもしれません。

 なお、スミスの生涯については、拙著『大統領になりそこなった男たち』でも1章を設けて解説していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 
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 台湾+沖縄
2008-09-26 Fri 14:49
 きのうまで、台湾の李登輝元総統が沖縄を訪問していました。というわけで、今日は台湾+沖縄ということで、こんな1枚をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ガランピ・宮良

 これは、終戦直後、アメリカ軍政下の沖縄・八重山地区で発行されたもので、台湾最南端の鵞鑾鼻燈台を描く戦前の40銭切手に逓信部長・宮良賢副の印を押した暫定切手です。

 太平洋戦争終結後の1945年12月23日、アメリカ海兵隊は八重山諸島に上陸し、軍政を施行しました。翌1946年1月29日、東京のGHQにより「外郭地域分離覚書」の指令が発せられ、八重山諸島を含む北緯30度以南の沖縄・南西諸島は日本の行政権から分離され、同年4月22日には八重山にも民政府が置かれました。

 もっとも、沖縄本島とは異なり、八重山の場合は比較的戦争の被害が軽微であったこともあり、1947年5月までは、米軍の支配下で日本切手がそのまま使用されていました。日本切手の使用禁止後、八重山では一時、“料金別納郵便”の印が郵便物に押されていましたが、1948年1月になって、今回ご紹介しているような暫定切手が発行されました。ただし、この年の7月にはいわゆる“琉球切手”が発行されたため、宮良印の押された暫定切手も使用禁止となりました。

 さて、今回の沖縄訪問中、元総統は「台湾も沖縄の人も心配しているが、尖閣列島は日本の領土。戦前は沖縄の漁民が漁場として魚を捕り、台湾に荷揚げし売っていた」と強調し、日台間の領土問題は「農水省や台湾の農業委員会との話し合いで解決していた」と語ったほか、「台湾の国際的な地位がはっきりしない中、中国に傾斜することは、台湾の地位を勝手に決めることと同じ。絶対に許されない」として馬英九政権を批判しています。

 こうした主張は、いずれも、客観的な歴史事実に照らして至極まっとうなものですが、かの地では反発も多いのでしょうね。それだけに、日本としては、“真の友人”としての元総統に対して敬意を払い、厚遇すべきだと思うのですが、ネットのニュースを検索した限りでは、尖閣列島の話は引っ掛かるものの、中国への傾斜に対する批判については、紙版の『読売新聞』には出ていたものの、ネット上ではヒットしませんでした。ニュースバリューがないと判断されたからなのか、あるいは、“一つの中国”なる妄論を掲げる中国共産政府への配慮からなのかはわかりませんが、何とも情けない気分になるのは僕だけではないでしょう。


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 40万PV
2008-09-25 Thu 12:41
 けさ、カウンターが40万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。というわけで、今日は額面“40”のこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
 
      韓国・アイク訪韓(1960)

 これは、1960年6月のアイゼンハワー訪韓を記念して韓国が発行した40ファンの切手です。

 1960年3月、韓国の李承晩政権による大統領選挙の不正は、国民の自然発生的な抗議行動を招き、その後の4・19学生革命で李承晩政権は崩壊します。

 アメリカにとっては、韓国は冷戦の最前線であり、李承晩の退陣後も、その重要性に変わりはありませんでしたから、非民主的で腐敗の蔓延する李政権に代わって、韓国に民主的で安定した政権が誕生し、西側陣営の一員として応分の負担をしてくれるというのが、理想的なシナリオでした。

 これに対して、北朝鮮は、4・19学生革命を“李承晩徒党のファッショ・テロ統治を撤廃するための英雄的ソウル学生、市民たちの大衆的蜂起”として歓迎する談話を発表するなど、ポスト李承晩体制が固まらないうちに、韓国内の“反帝・反封建民主主義革命”を促し、“平和的統一”のイニシアティブを握ろうとさかんに外交攻勢をかけていました。

 こうした状況の中で、アメリカ大統領のアイゼンハワーが1960年6月に韓国を訪問。今回の訪韓は、李承晩時代に企画されたもので、アメリカとの深い絆を国民に改めて印象づけることを目的としていたものでしたが、李の退陣によって、李承晩という看板がなくなっても、アメリカと韓国の同盟関係は従来どおり維持されることを、あらためて、アピールする意味を持つことになります。

 アイゼンハワーは、朝鮮戦争の終結を公約に大統領に当選し、当選後は直ちに次期大統領として韓国を訪問。1期目の1953年7月には休戦を実現しているほか、ワシントンで米韓相互防衛条約にみずから署名するなど、韓国内では、北朝鮮の脅威から韓国を防衛する上で重要な役割を果たしてきた大統領というイメージが強かったようです。それゆえ、学生革命直後の混乱のなかで、北朝鮮の主張する“平和的統一”に幻惑され、韓国内に反米勢力が形成される懸念が否定しきれない状況の下では、彼の訪韓の政治的な効果に対する韓国政府の期待も大きかったといえましょう。

 もっとも、今回のアイゼンハワーの訪韓は、フィリピン、台湾、沖縄、日本などアジア歴訪の一部として企画されたもので、そのメインは“日米修好100年”の記念行事として企画された訪日でした。このため、訪韓の比重は決して大きくなものとはいえません。ただし、肝心の日本では、日米安全保障条約の改定をめぐる大規模な反対闘争が展開されていたため、アイゼンハワーの訪日は中止に追い込まれてしまったのは、何とも皮肉な話です。

 なお、当時の韓国の状況については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でも詳しくご説明しています。また、大統領の座をめぐってアイゼンハワーと戦い、敗れた人物には朝鮮戦争の英雄であったダグラス・マッカーサーもいますが、彼については拙著『大統領になりそこなった男たち』でも1章を設けています。よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。


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 的に当たるか外れるか
2008-09-24 Wed 17:43
 自民党の麻生太郎総裁が国会で第92代の内閣総理大臣に選出されました。麻生新総理に関してはいろいろとネタもあるのですが、1976年のモントリオール五輪でクレー射撃の日本代表にも選ばれたという異色の経歴にちなんで、今日はこの切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 第21回国体(クレー射撃)

 これは、1966年10月に発行された“第21回国体”の記念切手のうち、クレー射撃を取り上げたものです。なお、国体の記念切手は翌年の1967年からグラビアの1種のみの発行となりましたので、連刷の凹版切手としては、このときが最後の発行となりました。

 1966年の国民体育大会の夏季ならびに秋季大会は大分県内各地を会場として開催されました。会期は、夏季大会が9月18日から4日間、秋季大会が10月23日から6日間です。

 大分県による国体誘致の活動は、同県とほぼ同じ規模の富山県で開催された1958年(昭和三十三)の国体が成功裏に終了したことに刺激されて始められ、同年12月、県体協が国体の招致を決議。これを受けて、翌1959年3月の県議会での招致決議を経て、同年11月、県知事が国体招致を公式発表しました。その後、各種の手続きを経て1962年3月、県は開催申請書を提出し、同年8月、1966年の大会を大分県で開催することが決定されました。

 切手に取り上げられたクレー射撃は、散弾銃を用いて、空中などを動くクレーと呼ばれる素焼きの皿を撃ち壊していく競技です。同じく射撃の一種であるライフル射撃が動かない標的を狙う競技であるのに対して、動いている標的を狙うため、瞬間の判断力と決断力を要求されるとのことです。まぁ、どちらも指導者には必要な資質でしょうから、この道で日本のトップレベルにあった新総理には、その能力をぜひとも発揮していただいて、的外れな政策をもてあそぶことのないよう期待するしかありませんな。

 なお、この切手を含めて、封書15円・はがき7円の時代の記念特殊切手については、拙著『一億総切手狂の時代』でもいろいろと解説しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 * 東京スタンペックス2008は無事、終了いたしました。参観してくださった皆様には、あらためてお礼申し上げます。

 
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 蒙自
2008-09-23 Tue 14:51
 きのう(22日)、文化審議会漢字小委員会が、常用漢字表に追加する188字の字種候補から“蒙”を外し、“刹” “椎” “賭” “遡”の4字を入れることを決めたそうです。なんでも、“蒙”の字は、使用頻度が高いものの、実際の使用例が“蒙古”という固有名詞に片寄っているからなんだとか。それなら、ということで蒙古以外の蒙に関するものとして、こんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 仏印・蒙自加刷

 これは、1903年、中国雲南省東南部、現在のベトナムとの国境に近い蒙自のフランス郵便局で使用されるために発行された切手で、蒙自を示す“MONGTZE”の加刷が施されています。加刷の台切手として使われているのは、航海の神と商業の神を並べてデザインしたフランス植民地共通デザインの切手で、国名表示の部分はインドシナとなっています。

 1899年、広東省の雷州半島東側付け根にある湾の一帯(現在の広東省湛江市)を占領し、“広州湾”の租借地とすることに成功したフランスは、翌1900年、この地をハノイのインドシナ総督の管轄下に置き、フランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジアにほぼ相当)の飛び地のような扱いとします。

 さらに、広州湾を租借して、華南への進出の足がかりを確保したフランスは、1900年以降、治外法権を援用するかたちで、インドシナ郵政総局の管轄下に、蒙自、雲南府(昆明)、海口、広州、北海、重慶の各地に郵便局を設置していきました。

 蒙自局の開局は1900年1月25日のことで、当初は、フランス領インドシナから距離的に近いこともあってインドシナの切手をそのまま使っていました。その後、1903年になって、今回ご紹介したような独自の加刷切手が発行されています。

 広州や海口で使用された切手は、“CANTON”に対して“廣州”、“HOI HAO”に対して“瓊州(海南島の意味)”といった具合にバイリンガルの加刷となっていますが、蒙自に関しては地名が欧文表示だけになっています。

 蒙自には中国側の郵便局も当然ありましたので、漢字で“蒙自”と表示された消印も使用されています。今日のお題からすると、ホントはそちらをお見せすればよかったのですが、どこへ行ったのか家の中を探しても見つかりませんでしたので、今日のところはこちらの切手でご勘弁ください。ちなみに、額面表示に見られる“仙”は通貨単位のセントの音訳で、マレー半島やボルネオなど、東南アジアで中華系の人口が多い地域では、切手や貨幣の額面表示にしばしば見られる表記で、以前の記事でもこんなマテリアルをご紹介しています。


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 “世紀のお引越”から40年
2008-09-22 Mon 10:19
 1968年9月22日にエジプトのアブ・シンベル神殿の移築工事が完了してから、ちょうど40年になりました。というわけで、今日はこんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 アブ・シンベル神殿

 これは、“ヌビア神殿保存のための国際協力”に感謝して、1965年にエジプトで発行された切手の1枚で、アブ・シンベル神殿正面の4体のラムセス2世像のうち、右側2体が取り上げられています。

 アブ・シンベル神殿は、ナイル川上流のエジプト・スーダン国境地帯の砂岩でできた岩山を掘り進める形で作られた岩窟神殿で、新王国時代第19王朝の王、ラムセス2世が建造しました。切手に取り上げられた 大神殿は太陽神ラーを祭神としています。

 1960年に建設工事が始まったアスワン・ハイ・ダムは、完成すると、アブ・シンベル神殿を含むヌビア遺跡が水没することになっていました。しかし、貴重な文化遺産を保護すべきとの国際世論の声が強く、ユネスコにより、1964年から1968年の間に、正確に分割されて、約60m上方、ナイル川から210m離れた丘に移築されました。

 今回ご紹介の切手は、その移築工事の期間中に発行されたもので、ユネスコのマークもしっかり入っています。なお、この神殿移築をきっかけに、歴史的価値のある遺跡、建築物、自然等を国際的な組織運営で守ろうという機運がうまれ、1972年11月16日、ユネスコのパリ本部で開催された第17回ユネスコ総会で、世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)が満場一致で成立しています。

 さて、自民党の総裁選は今日の午後にも結果が確定し、麻生新総裁の誕生ということでケリがつくことになりそうです。新総裁はそのまま新総理になるわけですが、総理官邸に引っ越したとたんに、解散総選挙で大負けして退陣を余儀なくされ、再度お引っ越し…ということになるのかどうか、今後に注目したいところです。

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 きょう22日は休館日ですが、あす23日まで、東京・大手町のていぱーくで開催中の東京スタンペックス2008にて、今年6月のルーマニアでの国際展に出品した作品「香港の歴史(A History of Hong Kong)」を出品しています。昨年刊行の『香港歴史漫郵記』をさらにパワーアップした内容となっていますので、よろしかったら遊びに来てください。

 
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 高松の鯛えびす
2008-09-21 Sun 09:47
 昨日から(財)日本郵趣協会の全国会員大会で高松に来ています。せっかく、こちらにいるのですから、今日もご当地ネタで行きましょう。(画像はクリックで拡大されます)

 鯛えびす

 これは、昭和34(1959)年用の年賀切手で、高松の“鯛えびす”が取り上げられています。

 かつて高松地方では、嫁入りに際しての土産物として“嫁入り人形”を持参し、隣近所はもちろんのこと、遠方から来た子供にも人形を配るという習慣がありました。この嫁入り人形は、もともとは、土を型抜きにして日干しにし、胡粉で彩色した素朴なもので、題材としては鯛えびすとちん鯛が好まれました。
 
 嫁入り人形の習慣は、第二次大戦後の混乱の中で急速に衰退し、切手が発行された1958年には、高松市栗林町の宮内フサ(当時74歳)が作るのみでした。なお、当時の宮内は、破損を防ぎ、軽量化を図るため、土製ではなく張り子の人形を作っていました。

 さて、昭和34年用の年賀切手の題材に関しては、1958年9月初の時点で、郷土玩具研究家の森山太郎が郵政省に福島県会津の天神、熊本の桐べんた、高松のふり槌などの写真を資料として持参していました。さらに、9月4日には、郵政省の関係者が日本画家の西沢笛畝 のもとを訪ね、西沢がスケッチした郷土玩具の肉筆集を借り受けています。これらの資料をもとに検討された結果、高松の鯛えびすと米沢の亀(笹野彫)が切手の題材の候補となり、木村勝が下図を作成しました。

 木村の下図に対して、郵政審議会専門委員会での討議の結果、亀は中国ではマイナスイメージが強いことや、東北地方に関しては、過去に三春駒とこけしが二回取り上げられていることなどが考慮され、鯛えびすが題材として取り上げられることになりました。

 ところで、木村は、西沢の肉筆集をもとに原画を作成しましたが、実物を確認しようとしたところ、西沢は彼の膨大なコレクションの中から鯛えびすを探し出す時間的な余裕がなかったため、松山郵政局を通じて、10月初、宮内フサの作った鯛えびすが東京に届けられています。

 宮内の作った鯛えびすは西沢のコレクションのものとは形が異なっていましたが、郵政省は鯛えびすにはさまざまな形があることを確認。また、その後の調査で、20世紀初頭に梶川政吉(宮内の父)が製造した鯛えびすが西沢のスケッチしたものとよく似ていることもわかり、木村の原画のまま、切手が製造されることになりました。

 こうして、12月20日、昭和34年用の年賀切手が発行されました。発行日には、高松市役所の市長室で高松市長および高松観光協会会長から宮内フサへの感謝状の贈呈式が行われ、その席上、松山郵政局長から鯛えびす切手一シートが贈呈されています。

 なお、詳細については、年末に刊行予定の年賀切手についての本でも詳しくご紹介しています。正式な書名や刊行日、定価などが決まりましたら、このブログでもご案内していきますので、よろしくお願いいたします。

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 高松に行ってきます
2008-09-20 Sat 08:54
 きょうは(財)日本郵趣協会の全国会員大会で、これから高松に行ってきます。というわけで、高松関連の切手をもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 高松博

 これは、1949年3月に発行された観光高松大博覧会(以下、高松博)の記念切手です。

 高松博は、高松市の市制60年記念行事の一つとして、1949年3月20日から5月20日にかけて、香川県と高松市の共催で開催されました。会場は、現在の中央公園付近(第一会場、なお、その中でも高松中央球場がメーン会場となった)と栗林公園(第二会場)で、会期中の総入場者数は57万3980でした。なお、収支決算は、6890万6000円の黒字で、この種の博覧会としては、一応、財政上も成功を収めたといえるでしょう。

 高松博に関しては、、当初、記念切手発行の計画はありませんでした。しかし、1949年2月になって、岡山産業文化大博覧会(岡山博)の記念切手が発行されることを察知した松山逓信局は、逓信省に対して、愛媛県産業復興松山大博覧会(以下、松山博)の記念切手発行を猛烈に働きかけ、切手発行を実現します。その際、松山逓信局は同時期に開催される高松博の記念切手発行も申請していたことから、この3つの地方は九の記念切手が同時に発行されることになりました。

 しかし、準備期間が短かったため、これら3つの博覧会の切手は、いずれも瀬戸内地域で開催されるとの理由から、会期直前の3月10日に発行された外信葉書の印面(舞子の浜を図案としていた)を流用したものが発行されることになりました。なお、「舞子の浜」の図は、舞子の浜付近から淡路島を眺めたもので、もともとは、1948年4月に発行された50銭の外信葉書の印面に用いられていました。
 
 なお、3種の記念切手は、いずれも赤系統の色で印刷されていることに加え、切手上には記念名がないので区別しにくいことで有名ですが、松山博の刷色として発表された“蘇芳色”は、第二次昭和切手の東郷平八郎を描く5銭切手の刷色ですから、並べてみるとわかりやすいかもしれません。

 岡山・松山・高松の三3の地方博覧会の記念切手は、いずれも、同図案で刷色を若干変えただけという安易なもので、収集家の懐をねらった逓信省の増収策という姿勢が露骨であったため、きわめて不評でした。

 具体的な売上枚数をみてみると、高松博の切手は50万枚が発行され、そのうちの20万枚が地元の高松局に配給されていますが、発行初日からの10日間の売上枚数は、配給枚数の1割にも満たない、わずか1万6400枚 にすぎませんでした。当然、初日カバー等の郵頼もきわめて低調でしたが、このため、かえって高松局の対応は迅速で、この点だけは収集家にも好感を持って迎えられたといわれています。

 なお、これら地方博の切手については、拙著『濫造・濫発の時代』で詳しくまとめていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 コロンブスと望遠鏡
2008-09-19 Fri 15:28
 カリブ海のセントキッツ・ネイビス(セントクリストファー・ネイビスとも)が1983年9月19日に英連邦の一国として独立してから、今日でちょうど25周年です。というわけで、今日はこの切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 セントキッツ・ネイビスのコロンブス

 これは、英領セントキッツ・ネイビス時代の1903年に発行された1シリング切手で、望遠鏡を使うコロンブスが描かれています。ちなみに、英領セントキッツ・ネイビスとしての切手発行は1903年に発行されたこの切手のシリーズが最初で、それ以前は、この地域では1890年からは英領リーワード諸島の切手が、それ以前はそれぞれの島で別の切手が使われていました。

 セントキッツ島の“キッツ”というのは、クリストファーの愛称ですが、ここでいうクリストファーとは、島の発見者であるクリストファー・コロンブスのことです。島の名前を、セントクリストファー島と言ったり、セントキッツ島と言ったりするのは、このためです。一方、ネイビス島は、スペイン語で“雪”を意味するニエベ(Nieve)に由来していますが、これは、コロンブスらスペイン人が島を発見した時、島の最高峰であるネイビス山の頂上が真っ白な雲に覆われている様子を見て、山の頂上が雪が積もっていると勘違いしたことによります。

 ところで、コロンブスがセントクリストファー島とネイビス島を発見したのは、1493年11月12日のことでしたが、望遠鏡の歴史は、一般に、1608年10月、オランダ・ミッテルブルフの眼鏡職人ハンス・リパシューが2枚のレンズ組み合わせた望遠鏡についての特許申請をオランダ総督に提出したことに始まるとされています。したがって、コロンブスの時代には望遠鏡は存在していなかったわけで、この切手のデザインは“間違い図案”ということになります。

 なお、ネイビス島といえば、アメリカの初代財務長官を務めたアレクサンダー・ハミルトンが、この島の出身です。彼の波乱に満ちた生涯については、拙著『大統領になりそこなった男たち』で詳しくご紹介していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 東京スタンペックス2008
2008-09-18 Thu 11:59
 きょう(18日)から、東京・大手町のていぱーくで開催中の東京スタンペックス2008の第3幕がスタートします。僕も、今年6月のルーマニアでの国際展に出品した作品「香港の歴史(A History of Hong Kong)」を出品していますが、その中から、こんな1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

 香港占領

 これは、1943年9月8日、日本占領下の香港から中立国のマカオ宛に差し出されたカバーで、日光東照宮の陽明門を描く10銭切手が2枚貼られています。

 第二次世界大戦中、日本軍は中立国ポルトガル領のチモール島を占領しましたが、マカオに関しては、“国際社会への窓”として活用したいという意図があったため、海上封鎖こそ行ったものの、あえて占領はしていません。

 占領当初の香港では、イギリス時代の香港ドルと日本の軍票が併行して流通させられていましたが、1941年12月末から九龍で、翌1942年1月から香港島で、軍票1円に対して香港ドル2円の割合で交換が開始されます。この交換レートは、同年7月には軍票1円に対して香港ドル4ドルへと変更され、香港ドルを駆逐して軍票を占領香港の基軸通貨とするプランが着々と実行に移されていきました。公租公課の納入が軍票に限定され、軍票需要者に対する軍票交換所が設けられたのもこの時期の出来事です。

 さらに、1943年7月以降、占領香港の行政機関である香港占領地総督部は香港ドルの使用を全面的に禁止し、住民に対して香港ドルをすべて軍票交換に交換することを義務づけます。その際に発せられた総督令には「軍票の流通を拒んだり、香港ドルを隠し持ったりしている物は厳罰に処する」との内容の文面があり、憲兵政治の下で、香港の住民が軍票の使用を余儀なくされていた状況がうかがえます。

 こうして住民から回収された香港ドルは、国際的には、イギリスの信用により価値が維持されていたため、中立国のマカオでの物資購入の資金に充てられました。日本軍がマカオをあえて占領せず、“国際社会への窓”として活用しようとしたのもこのためです。

 もっとも、太平洋戦争中も香港とマカオの間では(制度上は)戦前同様、交通・通信が行われていたため、日本軍がマカオで使用した香港ドルが、まわりまわって、香港へと戻ってきて、占領当局を苛立たせることも少なからずあったようですが…。

 さて、江戸悪奴会は日本切手専門収集家のグループで、今回の展覧会も見応えのある展示が並んでいます。「香港の歴史」と題した僕の作品なんかは、本来、出る幕ではないのですが、まぁ、こんな感じの日本関連のマテリアルも展示されているということで許してやってください。

 なお、占領時代の香港(=香港で日本切手が使われていた時代)に関しては、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろと書いていますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。


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 キャンプ・デービッド合意30年
2008-09-17 Wed 11:57
 エジプト・イスラエル和平の画期となった、いわゆるキャンプ・デービッド合意が1978年9月17日に結ばれてから、今日でちょうど30年です。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 平和の人・サダト

 これは、1977年にエジプトが発行した“平和の人・サダト”の切手です。

 1970年、ナセル急死の後を受けてエジプトの大統領となったアンワル・サダトにとって最大の課題は、第3次中東戦争で失ったがシナイ半島の奪還でした。

 サダトは、それぞれの思惑から中東に関与しているだけの米ソ両国に任せていてもシナイ半島の奪還は無理であると喝破し、武力による自力奪還以外に、エジプトの採るべき現実的な選択はないという結論に到達。こうした判断にもとづき、サダトは、シリア大統領ハフィズ・アサドとも連携をとりながら、1973年10月、第4次中東戦争を発動。開戦当初の3日間、エジプト軍はイスラエルに対する大規模攻撃を展開し、スエズ運河を渡河して、イスラエルの航空機50機と戦車550両を撃破するという華々しい戦果を挙げています。

 第4次中東戦争での、エジプト・シリア連合軍の優位は永くは続きませんでしたが、ともかくも、サダトはイスラエル敗北の既成事実を作った上で停戦協定を結び、その後のシナイ半島返還交渉の道筋をつけることに成功します。

 ところで、当時のアメリカが目指していた中東和平構想は、端的にいえば、“アラブの盟主”とされるエジプトとイスラエルの単独和平を実現することであり、全当事国間の和平の実現やパレスチナ問題の抜本的解決はその中には含まれていませんでした。アメリカが、テロ組織とは交渉しないとして、国際社会全般では「パレスチナ人の唯一正統な代表」として国連オブザーバーの資格も得ていたPLOを無視しつづけていたのはその象徴的な出来事といってよいでしょう。

 サダトはこうしたアメリカの思惑を利用する形で、1973年12月、米ソ両国の主導により、ジュネーブで開催された中東和平会議に参加。翌1974年1月、①40日以内に、イスラエルがスエズ西岸の橋頭堡を放棄し、スエズ東岸で運河から約20マイル撤兵する、②エジプトは東岸に一定の兵力を維持する、③両軍の間を国連の休戦監視軍がパトロールする、というシナイ半島の兵力分離協定に調印します。この協定は、キッシンジャーと協議を重ねたサダトが、イスラエルに譲歩し、運河東岸には最低限のエジプト軍兵力しか残さないというイスラエルの要求を受け入れたことを受けて締結されたものです。

 イスラエル軍撤兵の悲願を実現させたサダトは、さらに同年2月、1967年の第3次中東戦争以来途絶していた米国との外交関係を再開し、ニクソンをエジプトに招待。さらに、イスラエルに対する融和的な姿勢を強め、1975年9月にはシナイ半島での第二次兵力分離協定の調印にも成功しました。そして、1977年11月、サダトは、ついに、アラブ国家の元首としてはじめてイスラエルを公式訪問。イスラエル国会で演説し、イスラエルとの単独和平を目指す姿勢を明らかにしています。

 しかし、サダトの一連の行動は、関係国との個別交渉を通じて問題の解決を図ろうとするイスラエルの方針に沿ったものであり、“アラブの大義”という点からは絶対に許容されえないものとして、アラブ諸国から激しい非難を浴びることになりました。そして、シリア、アルジェリア、リビア、南イエメン、リビアがエジプトと断交します。

 シナイ半島からのイスラエル軍の撤兵という2国間の問題はともかく、アラブ世界を代表してイスラエルと交渉しているとの建前を掲げていたエジプトは、パレスチナ問題を前進させない限り、アラブ世界から完全に孤立してしまいます。このため、サダトはイスラエルに対して、パレスチナ人国家の樹立と、そのためのヨルダン川西岸とガザ地区からの撤兵を求めますが、これはイスラエルにとってみずからの存立基盤に関わる問題であり、とうてい妥協することのできないものでした。

 こうして、エジプトとイスラエルの交渉が停滞すると、業を煮やしたアメリカのカーター政権は、1978年9月、サダトとベギン(イスラエル首相)をキャンプ・デービットの大統領別荘に呼び、両国に対して、巨額の経済援助と引き換えに成立させたのが、キャンプ・デービット合意だったわけです。

 この合意では、シナイ半島の返還に関してはエジプトの主張が大幅に認められており、両国間の平和条約調印(1979年3月に実現)も定めていましたが、イスラエル占領下のヨルダン側西岸とガザ地区に関してはイスラエル側の主張が認められたかたちとなっていました。

 このため、キャンプ・デービット合意は、自国の利益のためにパレスチナをイスラエルに売り渡したものとして、エジプトを除く全アラブ諸国から激しく非難され、エジプトは周辺諸国から完全に孤立してしまいました。ちなみに、キャンプ・デービット合意の主役であったサダトは、1981年10月6日、第4次中東戦争の戦勝8周年記念式典で軍事パレードを閲兵中、いわゆるイスラム原理主義の信奉者によって暗殺され、現在にいたるホスニ・ムバーラクの時代が幕を開けることになるのです。


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 証券取引所の切手
2008-09-16 Tue 16:33
 アメリカの大手証券会社リーマン・ブラザーズの破綻で、世界の証券市場はパニック状態ですが、そんな中で、明日(18日)、東京では全国証券大会が開催されるのだそうです。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 証券取引所100年

 これは、いまから30年前の1978年9月14日に発行された“証券取引所100年”の記念切手です。

 欧米での“証券取引所”の語源となったフランス語の“Bourse”は、13世紀頃にラテン語で鞄を意味する“bursa”から派生して単語といわれています。おなじく13世紀中頃のイタリアでは、銀行員が各地の都市国家の政府の証券が取引されていたことが知られています。

 これより少し遅れて、オランダでは、株主に企業へ投資させて、その利益と損失を共有するという株式会社のシステムが始まり、1602年には、オランダ東インド会社がアムステルダム証券取引所で最初の株を発行し、今日の意味でいう有価証券を発行した最初の会社となりました。

 わが国では、1878年5月、現在の東京証券取引所の前身にあたる東京株式取引所が渋沢栄一らによって、大蔵卿・大隈重信の免許の下に設立されたのが証券取引所の最初です。なお、売買立会は同年6月1日から開始されたほか、6月17日には大阪株式取引所が設立されています。

 今回ご紹介の切手は、ここから数えて100周年ということで発行されたわけですが、切手の発行日は、最初の売買立会のあった6月1日ではなく、この年の全国証券大会をはじめ、各種の記念式典が翁われた9月14日で設定されました。

 切手に取り上げられているのは、1931年に建造された、東京証券取引所建物本館正面の装飾像です。装飾像は、彫刻家の斉藤素厳が制作したもので、4種8体が取引所正面の8本の柱上に鎮座しています。切手には、右から、ハンマーを手にした工業を象徴する男性像、お金の神である龍がまきついた鉾を持ち商業を象徴する男性像、地球とハトをもち交通・通信を象徴する女性像、稲の束を抱え農業を象徴する女性像が順に描かれています。

 なお、この切手については、拙著『沖縄・高松塚の時代』でも詳しく取り上げていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 
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 としよりの日
2008-09-15 Mon 17:02
 きょうは敬老の日。というわけで、ストレートにこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 としよりの日

 これは、いまから40年前の1968年9月15日、復帰前の沖縄で発行された“としよりの日”の切手で、琉球舞踊の“かぎやで風節“が取り上げられています。

 かぎやで風節は、琉球古典音楽の楽曲の一つで、翁と媼が登場し、翁が感謝の口上をのべ、国家安泰、延命長寿、五穀豊穣の願いをこめて舞われるものです。

 もともとは、琉球各地で豊年祭の際に踊られるものでしたが、1719年に尚敬王(琉球国王)冊封式典後の重陽の宴で「老人祝聖の事」として演じられ、 19世紀以降、琉球国王の冊封式典後の重陽の宴で、中国から来島した冊封使と国王の御前で、感謝と祈りを込めて踊られるようになりました。沖縄の祝儀曲の代表として、現在でも、結婚式の披露宴などの祝いの席では最初に演奏されています。

 ちなみに、切手上の“としよりの日”との表記ですが、日本本土で国民の祝日としての“敬老の日”が設けられたのは1966年のことでしたが、そのルーツは、1947年に兵庫県多可郡野間谷村(現・多可町八千代区)で始められた「としよりの日」です。すなわち、1947年、同村の門脇政夫村長と山本明助役が「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」との趣旨で、農閑期に当り気候も良い9月中旬の15日に敬老会を開いたのが最初で、これが1950年からは兵庫県全体で、さらに、後に全国へと拡大したとのことです。その後、“としより”という表現が良くないということで、1964年からは「老人の日」と呼ぶようになり、ついで現在の敬老の日になりました。

 ところで、日本でも有数の長寿地域として知られる沖縄県ですが、2005年度の都道府県別調査では、女性の1位はゆるぎなかったものの、男性は前回の4位から26位に大幅に後退しています。そこで、男性の主な年齢の平均余命を見ると、沖縄の65歳以上の平均余命は1位なのですが、40歳では9位、20歳ではベスト10から脱落といった具合で、沖縄の長寿を支えているのは、65歳以上の男女で、中年以下の男性は、短命化の傾向にあるのだそうです。

 その原因としては、高齢者が伝統的な沖縄の食文化を維持しているのに対して、中年以下の世代では動物性タンパク質や脂肪、また糖分等を多く摂取する欧米型の食事が中心になっているという点が指摘されています。メタボで不摂生な毎日を過ごしている僕には何とも耳の痛い話です。

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 月から見た地球
2008-09-14 Sun 21:26
 今日は十五夜。月に関する切手は世界各国からたくさん発行されていますが、先日刊行したばかりの拙著『大統領になりそこなった男たち』のヒット祈願を兼ねて、きょうはアメリカ切手の中からこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アポロ8号

 これは、1969年5月5日に発行された“アポロ8号”の切手です。アポロ8号は、ジョンソン政権末期の1968年12月21日、サターンVロケットで打ち上げられ、初めて月を10周して帰還しました。切手に取り上げられているのは、このとき撮影された“アース・ライズ”(地球の出)の写真です。切手に記されている“In the beginning, God”というのは、創世記の冒頭にある「初めに神が(天と地を創造した)」を踏まえたものと思われます。

 当時、米ソの宇宙開発競争は熾烈を極めていました。 CIAのスパイ衛星により、ソ連が新型ロケットを準備していることをつかんだアメリカは、急遽予定を変更してアポロ8号に月の周回軌道を廻らせることを決定します。じっさい、ソ連は12月9日にソユーズL1計画として2人乗り宇宙船の月往復を計画していました。ただし、1967年のソユーズ1号での墜落事故(コマロフ飛行士が死亡)を受けて及び腰になっていた政府から認可が下りず、12月9日の打ち上げは中止されています。

 さて、アメリカ側の計画の変更は突如行われたため、帰還する際の予備のロケットも準備されなかったため、万が一再点火しなければ、宇宙飛行士たちは永遠に月の軌道を廻っていた可能性もありました。このため、イギリスなど各国の天文学者は、アポロ8号の打ち上げは無謀であるとして中止を求める声も上がっていたそうです。

 それでも、打ち上げが強行された背景には、東西冷戦下で宇宙開発競争でソ連に負けてはならないという国家のメンツに加え、翌1969年1月には退陣する民主党のジョンソン政権の花道を飾るという面もあったのではないかと思います。

 1968年の大統領選挙は、当初、現職大統領のジョンソンがすんなりと再選される無風選挙と予想されていました。ところが、1968年1月30日、ベトナムでテトと呼ばれる旧正月の期間にあわせて、解放戦線が6万人以上の兵力を動員して南ベトナム全土で大規模な戦闘を展開。首都サイゴンでは市街戦が展開され、共産側の特攻隊がアメリカ大使館を一時的に占拠されてしまいます。

 純粋に軍事的な面からいうと、解放戦線側はテト攻勢により1週間で4万人もの死者を出したのに対して、アメリカ側の軍事的な損害はさほど大きなものではありませんでした。しかし、一連の戦闘の経過をメディアに訴えることで、共産側はアメリカと互角以上に戦っているとの印象を全世界に与えることに成功。共産側は政治的に大きな勝利を収めたことになります。

 また、テト攻勢での“敗北”は、アメリカの国際経済における威信にも大きく傷をつけ、1968年3月にはロンドン自由市場で金が暴騰。ついに、アメリカは民間金自由市場への金売却を停止せざるをえなくなりました。これは、第二次大戦後の金・ドル本位制による国際通貨体制が、事実上、崩壊したことを意味しています。

 このように、ベトナム戦争をめぐって、アメリカのおかれた状況が急速に悪化していく中で、3月12日、民主・共和両党の予備選挙が行われました。

 共和党は本命のリチャード・ニクソンが対抗馬のニューヨーク州知事、ネルソン・ロックフェラーの8倍もの票を獲得して貫録を示しましたが、民主党は、現職のジョンソンが2万6000票を獲得して1位となったものの、ジョンソン政権のベトナム政策を批判するユージン・マッカーシー上院議員も2万3000票を獲得してこれに肉薄。身内であるはずの民主党員の支持を失っていることを悟ったジョンソンは、3月31日、大統領選への不出馬とベトナム和平交渉の開始を表明しました。

 その後、民主党内では、現職大統領のヒューバート・ハンフリーに対して、ロバート・ケネディ上院議員が大統領候補指名をめぐって争う構図となりましたが、ロバート・ケネディは6月に暗殺され、ハンフリーが大統領候補となります。しかし、そのハンフリーは共和党のニクソンの前に敗れ去り、JFK以来の民主党政権は幕を下ろすことになりました。

 なお、拙著『大統領になりそこなった男たち』では、ロバート・ケネディを軸に、公民権運動とベトナム戦争に翻弄された1960年代のアメリカについても書いてみましたので、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 世界のダム:アコソンボ・ダム
2008-09-13 Sat 10:39
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の9月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手の中の世界のダム」では、今回はこの1枚を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 アコソンボダム

 これは、1967年にガーナで発行されたアソコンボ・ダムの切手で、夕日に照らされたボルタ湖の景観が描かれています。

 カカオ豆の産地として知られるアフリカ西部、ギニア湾に面したガーナのアソコンボ・ダムは、同国南東部を流れるボルタ川を堰き止めて造られました。

 ダム建設の計画が最初に建てられたのは、この地域がゴールド・コーストと呼ばれていたイギリス植民地時代の1915年のことでしたが、計画が具体的に動き出したのは1940年代に入ってからのことで、実際の建設作業はガーナとして独立した後の1961年から1965年にかけて行われました。ちなみに、細菌学者の野口英世が首都のアクラで黄熱病の研究中に殉職したのは、1928年のことでしたから、彼もダム建設の計画については耳にしたことがあったかもしれません。

 ダムの建設費用は、世界銀行と米英両国からの融資を含めて1億3000万ポンド。完成したダムは、幅660メートル、高さ114メートルの威容を誇り、100万ワットの発電能力を持っており、ガーナ国内はもとより、近隣のトーゴやベニンにも電力を供給しています。

 ダムの完成によってできた人造湖、ボルタ湖は世界最大規模の面積を誇り、その西側に広がるクジャニ野生保護区と併せて世界中から多くの観光客を集めています。また、ボルタ湖に沈む夕日は絶景として知られています。今回ご紹介の切手でも、日中の青空の下ではなく、夕日に照らされたダムが取り上げられたのは、そうした事情を踏まえてのことなのでしょう。

 * NHK「美の壺」の放送は無事に終了いたしました。ご覧いただいた皆様、ありがとうございました。

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 鳥取県民の日10年
2008-09-12 Fri 22:11
 9月12日は、1881年に現在の鳥取県が誕生したことにちなみ、1998年いらい、“鳥取県民の日”なのだそうです。というわけで、現在執筆中の年賀切手の本のなかから、鳥取がらみの切手ということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 1964年用年賀

 これは、1963年12月16日に発行された翌昭和34年(辰年)用の年賀切手で、鳥取県の郷土玩具“岩井挽物人形の辰”と山梨県の郷土玩具“龍神招福”がとりあげられています。

 切手の右側に描かれている岩井挽物人形の辰は、鳥取県岩井の小椋幸治による十二支の人形のうち、辰をかたどったものです。

 挽物細工に使うろくろは、木地師の祖とされる文徳天皇の第一皇子、推喬親王が、中央を離れて近江の小椋の庄に隠棲して仏道修行をしていた際に、経軸が回転するのを見て考案し、供奉の者に小椋の姓を与えてその技術を伝授したとの伝説があります。

 その後、江戸時代中期に中国山脈の鞍部作州の人形仙に住んでいた木地師の小椋佐助一家が因幡吉岡に移住。この小椋家は明治に入ってから岩井温泉に移り、盆、茶入れなどの茶道具や独楽、臼、壷などを挽いていました。小椋家に生まれた幸治は、地元特産のチシャ(エゴ)の木を使い、挽物細工で形を作った後、そのうえに胡粉を塗り泥絵具で彩色する“岩井挽物人形”を1934年に創作。同年開催の第21回商工省工芸展覧会で入選を果たしました。また、1960年には日本手工芸品対米輸出計画に基づく巡回展にも出品され、世界進出を果たしています。

 一方、切手左側の龍神招福は、甲斐の国造り神話に基づく玩具です。

 建国神話の第2代天皇にあたる綏靖天皇の時代、甲府盆地が泥湖の底にありました。この時代、湖のほとりを通りかかった一人の地蔵が、この湖の水を海に流して耕地を拓いてやれば、貧しく暮らすこの地の人は喜ぶだろうと考え、2人の神と相談のうえ、湖の主である龍王に頼んだところ、龍王はこれを聞きいれて昇天。2人の神に不動明王も加わり、地蔵の計画に沿って、山を割って湖の水を落とし、岩を穿って富士川に流して甲斐の国を造ったとされています。

 この伝説にちなみ、人々の幸福のために快く願いを聞き入れてくれた龍王の姿をかたどった玩具として作られるようになったのが龍神招福で、切手に取り上げられたものは、1957年頃から甲府市の早乙女勉が制作していたものです。板を組み合わせて作られた龍は、口が開閉できるようになっており、切手には描かれていませんが、尾の部分には「甲州鎮護 追難招福」と印刷した紙片が張り付けられています。

 昭和34年用の年賀切手の題材選定にあたっては、全国各地から干支の辰にちなむ郷土玩具が集められ、1963年6月下旬までに数点の原画が作られました。このうち、最終候補となった岩井挽物人形と龍神招福に関しては、いずれも形が面白く、図案としても甲乙つけがたいということになったため、7月15日、木村勝により、二枚の原画を一つにまとめた原画が改めて作成されたとのことです。

 * お知らせ 
 NHKテレビの「美の壺」の切手特集にちょこっとだけですが、出演しました。うっかりして5日の本放送のお知らせを忘れてしまいましたが、NHK総合で明日13日(土)の 05:15~05:40 の時間帯に再放送があるとのことですので、よろしかったら見てやってください。

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 もうひとつの911
2008-09-11 Thu 11:18
 “911”というと、2001年の同時多発テロ事件を思い出す人が多いと思いますが、ラテンアメリカでは必ずしもそうではないようです。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 パラグアイ・アジェンデ

 これは、今年6月、チリの元大統領サルバドール・アジェンデの生誕100年を記念してパラグアイが発行した切手です。ホントはアジェンデの祖国であるチリの生誕100年の記念切手を持ってきたかったのですが、入手が間に合いませんでした。

 アジェンデは、1908年にチリの港町バルパライソにバスク系の子孫として生まれました。チリ国立大学の医学部を卒業した後、チリ社会党結成に参加し、1938年には急進党を中心とする人民戦線政府に保健大臣として入閣。その後、左派の有力政治家として1958年と1964年の大統領選挙にも出馬し、1970年にはついに当選を果たします。

 当時は東西冷戦の真っただ中でしたから、チリ史上初の自由選挙によって社会党政権が成立したことは、「共産主義国は暴力革命によってしか生まれない」と主張していたアメリカのCIAとチリの反共勢力に大きな衝撃を与えました。アメリカなどの西側諸国は経済封鎖を発動し、会社・店などを経営する富裕層は左翼政権を嫌ってストライキをおこなうなど、アジェンデ政権に揺さぶりをかけましたが、これはかえって、国内の貧困層を団結させる結果となり、1973年の総選挙では、人民連合は大統領選よりさらに得票率を伸ばすことになりました。

 そこで、反アジェンデ勢力は、アメリカの支援と黙認の下で、武力による国家転覆を計画。9月11日、アウグスト・ピノチェト将軍が率いる軍が大統領官邸を襲撃し、アジェンデを殺害(自殺説もある)するクーデターを起こしました。ラテンアメリカ諸国では、現在でも、“911”といえば、35年前のこのクーデターのことを指すそうです。

 その後、クーデターの首謀者であったピノチェトが大統領に就任し、チリは16年の長きにわたり、軍事独裁下に置かれることになりました。もっとも、いまになってみれば、日本の革新知事たちがそうであったように、アジェンデ政権というのも、実は放っておけば政策的な行き詰まりでそう長くはもたなかったように思うのですが、当時のアメリカとピノチェトはそう考えなかったんでしょうねぇ。逆に、アジェンデにとっては、その悲劇的な幕切れのゆえに“英雄”としてラテンアメリカ史に名を残すことになったのは、政治家としてある意味で幸せなことだったのかもしれないと思えてなりません。

 * お知らせ 
 NHKテレビの「美の壺」の切手特集にちょこっとだけですが、出演しました。うっかりして5日の本放送のお知らせを忘れてしまいましたが、NHK教育で今月11日(木)の24:45~25:10、NHK総合で13日(土)の 05:15~05:40 の時間帯に再放送があるとのことですので、よろしかったら見てやってください。

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 大統領になりそこなった男たち:ウェンデル・ウィルキー
2008-09-10 Wed 17:20
 雑誌『中央公論』10月号が発売になりました。僕の連載「大統領になりそこなった男たち」では、今回は、この人物を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      ウェンデル・ウィルキー

 これは、1992年に発行されたアメリカの75セント切手で、1940年の共和党大統領候補、ウェンデル・ウィルキーが取り上げられています。

 ウィルキーは1892年2月18日、イリノイ州エルウッドの出身。インディアナ大学を卒業して弁護士となり、ニューヨークを拠点に、おもに大企業の顧問弁護士として活動していました。

 当初、彼は民主党員で、1932年の大統領選挙の際には、地元ニューヨーク出身のルーズベルトの選挙運動にも積極的にかかわっています。ところが、1933年に発足したルーズベルト政権が発動したニューディール政策は、彼の目には、国家が市場経済に介入しすぎて国家の役割が肥大化するものと映りました。また、なにより、企業間の自由な競争を制限しようとする政策が次々に導入されていたのも耐えがたいことでした。このため、国家の将来に強い危機感を持ったウィルキーは、ルーズベルト政権を打倒するため、1939年に民主党から共和党に鞍替えして自ら大統領を目指すことを決断します。

 それまで政治的なキャリアが全くない、無名の一弁護士がいきなり大統領を目指すなど、常識的に考えればかなり無謀な挑戦なのですが、ウィルキーは地道な運動を展開し、次第に支持を拡大していきます。

 当時の共和党で大統領選挙の有力候補と目されていたのは、ロバート・タフト(上院議員)やトマス・デューイ(ニューヨーク州知事)でした。

 ときあたかも、1939年9月に第二次欧州大戦がはじまり、ナチス・ドイツの電撃作戦に蹂躙されたヨーロッパ諸国に対する国民の同情が集まる中、タフトやデューイらプロの政治家たちが欧州への不関与を唱えて孤立主義の立場をとったのに対して、ウィルキーはイギリスを支援してドイツに対して強硬姿勢を取るとともに、徴兵制を実施して軍備のさらなる拡充を図るよう主張します。こうした対独強硬路線は、結果的に1940年5月以降、ナチス・ドイツの電撃作戦に蹂躙されたヨーロッパ諸国に同情する国民の支持を集めることになり、当初は単なる泡沫候補にすぎなかったウィルキーは共和党大会が開かれる一週間前のギャラップ社の世論調査では、デューイに次いで共和党の大統領候補にふさわしい人物の第2位に急浮上しました。

 6月24日から28日まで、フィラデルフィアで開かれた共和党の全国大会では、基調講演を行ったミネソタ州知事のハロルド・スタッセンがウィルキー支持を表明。大統領候補を決めるための第1回目の投票では、ウィルキーは4位でしたが、投票回数を重ねるごとに当初1位だったデューイが失速し、候補指名は次第にウィルキーとタフトの争いになります。そして、最後はミシガンやペンシルバニア、ニューヨークなど大票田の代議員たちは、世論の動きとウィルキーの勢いに期待して、デューイ支持からウィルキー支持へと乗り換えたため、ウィルキーがタフトを圧倒して共和党の大統領候補に指名されました。

 これに対して、現職として異例の3選を目指していたルーズベルトは、ウィルキーの主張をいれるかたちで国防予算の増額と徴兵制の導入を提案。すると、驚くべきことに、ウィルキーは国益第一の立場から大統領を支持してしまいます。これでは選挙に勝てるはずもなく、結局、秋の選挙ではルーズベルトが3選を達成するのですが、党利党略からネガティブ・キャンペーンばかりが目立つ昨今の大統領選挙を思うと、国士ウィルキーの私心なき態度はなんとも清々しい感じがします。

 さて、中公新書ラクレの1冊として本日付で刊行の拙著『大統領になりそこなった男たち』でも、“ミスター・リパブリカン(共和党)”と呼ばれたロバート・タフトとの関連で、ウィルキーのことを取り上げていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 なお、新書は刊行となりましたが、雑誌連載の残り2回では、紙幅の関係から、新書ではまとまった記述ができなかった人物を取り上げる予定です。

 * お知らせ 
 NHKテレビの「美の壺」の切手特集にちょこっとだけですが、出演しました。うっかりして5日の本放送のお知らせを忘れてしまいましたが、NHK教育で今月11日(木)の24:45~25:10、NHK総合で13日(土)の 05:15~05:40 の時間帯に再放送があるとのことですので、よろしかったら見てやってください。

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 北朝鮮60年
2008-09-09 Tue 17:10
 1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)政府が樹立されてから、今日でちょうど60年です。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      朝鮮民主主義人民共和国建国記念(濃紫)

 これは、1948年9月19日に発行された朝鮮民主主義人民共和国政府創建の記念切手です。デザイン面では、地図中の韓国領に相当する部分が国旗などでさりげなく隠されている点に注目したいところです。なお、切手上には9月9日との表示がありますが、実際の発行は10日後の19日のことです。このように切手上の日付と実際の発行日がずれているという現象は、アメリカ軍政下の南朝鮮でもしばしば観察される事例ですので、そのこと自体をとやかく言う必要はないでしょう。

 1948年8月15日、大韓民国が成立したのを受けて、ソ連軍占領下の北朝鮮では、8月25日に総選挙が実施され、9月8日の朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の成立宣言を経て、翌9日には金日成を首相とする政府が正式に発足。朝鮮半島の南北分断が確定します。

 1948年5月の南朝鮮単独選挙から南北両政府の成立までの経緯を、歴史的な事件のみを追ってみた場合、南北分断のイニシアティブを取ったのは南側であるかのような印象を受けるかもしれませんが、南北の分断と両政府の成立に関して、最初にアクションを起こしたのは、1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会を樹立した北側のほうであるという点は確認しておく必要があります。

 その後、同年5月、朝鮮に関する米ソ共同委員会が決裂すると、北朝鮮側は、米国の南朝鮮占領を帝国主義的植民地政策であるとして公然と非難。同年8月の北朝鮮労働党創党大会では、北朝鮮での単独政権樹立ならびに南朝鮮の「民主化」とその革命が基本方針とされています。

 こうした北朝鮮側の基本方針は、やがて民主基地路線(朝鮮半島が米ソの分割占領下に置かれている状況の下で、まず、北朝鮮を政治的・経済的・軍事的に強化し、その影響力によって北朝鮮主導の統一を実現することを目指す革命路線)として整理されていくことになります。

 たとえば、北朝鮮の1948年憲法には「いまだ土地改革が実施されない朝鮮内の地域においては、最高人民会議が規定する期日にこれを実施する(第7条)」との規定がありますが、これは、“いまだ土地改革が行われていない朝鮮内の地域”すなわち韓国を北朝鮮がいずれ吸収することを宣言したものとみなすことができます。そして、こうした民主基地路線の最終的な帰結が、1950年6月、北朝鮮の南侵による朝鮮戦争勃発となったことはあらためていうまでもないでしょう。

 なお、第二次大戦後の混乱の中で、朝鮮半島に南北両政府が誕生し、朝鮮戦争が勃発するまでの時期は、切手や郵便物に関してもいろいろと面白いモノが見られるのですが、それらについては、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 * お知らせ
 NHKテレビの「美の壺」にちょこっとだけですが、出演しました。うっかりして5日の本放送のお知らせを忘れてしまいましたが、NHK教育で今月11日(木)の24:45~25:10、NHK総合で13日(土)の 05:15~05:40 の時間帯に再放送があるとのことですので、よろしかったら見てやってください。

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 大統領になりそこなった男たち
2008-09-08 Mon 22:32
 以前からこのブログでもご案内しておりましたが、9月10日付で中公新書ラクレの1冊として拙著『大統領になりそこなった男たち』が刊行となります。その現物が出来上がってきましたので、あらためてご挨拶申し上げます。(画像は帯つきの状態での表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)

 大統領になりそこなった男たち

 今回の拙著は、現在、雑誌『中央公論』に連載中のコラムを大幅に拡大して新書としてまとめたものです。

 世界の最高権力者の一人、アメリカ合衆国の大統領を決める選挙は、4年に1度、夏季五輪と同じ年に行われます。

 大統領の椅子に座るためには、民主・共和両党いずれかの候補指名を獲得することが大前提になります。(もちろん、両党の指名を受けなくても立候補することはできますが、当選はまず不可能でしょう)

 そこで、2月から始まる州ごとの予備選挙を舞台として、有力政治家たちが熾烈な戦いを繰り広げることになります。この戦いを勝ち抜き、晴れて大統領候補になれば、一般有権者が大統領選挙人を選ぶ11月の本選挙まで、戦いはさらに続きます。こうして、10ヵ月(もしくはそれ以上)にも及ぶ苛酷な選挙戦を経て、たった1人の新大統領が誕生するまでには、落選者の累々たる屍が築かれていくのです。選挙戦が終わってしまえば、人々の関心は新大統領にばかり集中し、数多の“敗者”の物語はいつしか忘れ去られてしまうでしょう。

 しかし、仮に敗者となったとしても、4年に1度の“米国政治のオリンピック”の舞台に立つ資格が与えられるのは、能力・識見・経歴などの面でいずれも米国のトップクラスに属していること、折り紙付きの人物だけです。彼らの多くは、同時代の人々を魅了するオーラをまとい、大統領になろうがなるまいが、米国史の教科書に記録されるような業績を残しています。

 だとすれば、こうした“大統領になりそこなった男たち”の物語から、大統領を主役とする公式の歴史とは別の、もう一つの米国(とその歴史)のスケッチを描いてみることもできるのではないでしょうか。

 ところで、200年以上にも及ぶ米国大統領選挙の歴史において、志半ばに斃れた男たちはおびただしい数に上っているわけですが、本書では、その中から米国切手に取り上げられた8人をピックアップしてみました。

 ご承知のように、切手は国家の名において発行されるものですから(米国の郵便事業をになっているのは民間企業ではなくUSPSという公社です)、そこには、彼らのイデオロギーや歴史観が投影されます。したがって、ある人物の切手を発行することは、その人物が切手の発行国にとって顕彰に値する“偉人”であることを公式に認定したことの宣言にほかならないといってよいでしょう。それゆえ、大統領になれなかったにもかかわらず、切手に取り上げられている人物の生涯と業績は、米国人にとってきわめて重要な意味を持っているとみなすことができるわけですし、彼らの歴史認識のアウトラインを理解するうえで格好の素材と考えてもよいでしょう。

 今回の拙著は、いままでの僕の本と違って、郵便制度や切手そのものについての記述はほとんどありません。しかし、切手を入口として、その背後に広がる広大な物語の沃野をたどっていくという点では、切手の持つ面白さの一端を多くの方々に感じていただけるきっかけくらいにはなるのではないかと思っております。

 お近くの書店などで実物をご覧になりましたら、ぜひ、御手にとってご覧いただけると幸いです。

 なお、この記事をご覧の方で、拙著『大統領になりそこなった男たち』をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したいという方がおられましたら、ご一報いただければ(コメント欄をご利用ください)、すぐに資料をお送りいたしますので、よろしくお願いします。

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 香港立法会
2008-09-07 Sun 22:02
 きょう(7日)、香港で議会に相当する立法会(定数60、任期4年)選挙の投票が行われました。アンソン・チャン元政務官の不出馬など、民主派の退潮が著しいといわれるこの頃ですが、なんとか頑張って、親中派に有利な選挙制度改革案を否決できるよう、3分の1超の21議席を維持してもらいたいものです。

 というわけで、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 立法会大樓

 これは、1985年、英領時代の香港で発行された歴史的建造物の切手の1枚で、現在、立法会大樓(議事堂)として用いられている建物が取り上げられています。

 立法会大樓の建物は最高法院(日本の最高裁判所に相当)大樓として用いられていました。

 香港で最高法院大樓の建設が決定されたのは、ヴィクトリア朝時代の1898年2月28日のことで、当時のイギリスを代表する建築家、アストン・ウェブとイングレス・ベルが設計を担当しています。建設工事が始められたのは1900年のことで、以来12年の月日をかけて、1912年1月15日、香港上海銀行本店の正面に、花崗岩二階建て、新古典様式の堂々たる建築が完成しました。

 建物の1階は回廊が取り囲んでおり、柱と柱の間は小さなアーチが埋められています。一方、2階にはバルコニーがあり、建物の中央にはドームがついているのが特徴です。

 屋根には、公正な裁判を象徴するものとして、目隠しをして、右手に権力の象徴である剣、左手に公正の象徴である天秤を持つ正義の女神、テーミスの像が鎮座していますが、これは、ロンドンの中央刑事裁判所、オールドベイリーの屋根にある像のレプリカです。また、ドームの頂にはブロンズ製の王冠がつけられているが、これは、エドワード7世が1902年の戴冠式で使用したものを模しています。

 この建物は、切手が発行された1985年までは最高法院として用いられていましたが、その後は修復期間を経て、現在では立法会として用いられるようになりました。周囲には公園も多いので、休日になると、香港で働くフィリピンやインドネシア出身のメイドさんたちが新聞紙をしいて車座になっている光景が見られます。その昔、石川啄木は故郷の訛りを上野駅に聞きにいったわけですが、彼女たちにとっての“上野駅”はまさにこのエリアなのかもしれませんね。

 歴史的な文化遺産に乏しいと思われがちな香港ですが、20世紀初頭の建築は現在でもいろいろと残っています。拙著『香港歴史漫郵記』では、そうしたコロニアルな雰囲気あふれる香港の歴史的建造物を切手片手に訪ね歩いてみた話もいろいろと書きましたので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 アートな牛たち
2008-09-06 Sat 10:04
 東京・丸の内で2年ぶり3度目の“カウパレード東京 丸の内2008”が開幕しました。今回も、アートディレクターの浅葉克己さんや画家の寺門孝之さんら著名人のほか地元の中学生らがペイントした実物大のウシ型オブジェ73体が、高層ビルが立ち並ぶ通りやエントランスなどに展示されており、都心の街歩きが楽しくなりそうです。で、日本のカウ・ペインティングの元祖といえば、やっぱりこれだろうということで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 1961年用年賀

 これは、1960年12月20日に発行された1961年用の年賀切手で、1961年の干支にちなみ、“金のべこっこ”と“赤べこ”を描いた絵馬が取り上げられています。

 “金のべこっこ”は岩手県盛岡地方の郷土玩具です。

 平泉の金色堂を持ち出すまでもなく、かつての奥州は有数の金の産地で、創建当時の奈良の大仏の表面を覆っていた1万436両もの黄金もほとんどが欧州から運ばれました。山奥の金山から人里まで重い金を積んで運ぶ手段は牛しかなく、それゆえ、金を運ぶ牛をかたどった“金のべこっこ”が縁起物として作られるようになったと考えられています。

 なお、この切手は12月20日の発行ですが、直前の12月8日までの郵政大臣は、岩手県選出の鈴木善幸が務めていました。切手の題材選定は彼の在任中に行われたとみられており、このため、岩手の郷土玩具を取り上げた年賀切手の発行は、大臣の職権を利用した“大臣切手”ではないかとの批判もあったようです。

 一方、“赤べこ”は福島県会津若松地方の郷土玩具で、会津敦賀城主・蒲生氏郷が、藩内の武士の副業として京都から技術者を招いて作り方を教えたのがルーツと言われています。赤べこが郷土玩具の題材として選ばれたのは、807年に名僧として知られる徳一大師が会津柳津に福満虚空蔵堂を建立した際、資材を運ぶために使った赤牛が、寺が完成すると、長く仏の供をしたいと願って寺の前の石になったという伝説にちなんでいるとのことです。また、岩代地方に天然痘が流行して多くの子供が犠牲になった際、“赤べこ”を枕に置くと病気が治る子どもが続出したということから、現在では、“赤べこ”は子育てや安産の守り神として重宝されているそうです。

 さて、ひと月ほど前のことですが、今年の年末に年賀切手に関する本を出すことが急に決まり、現在、そのための作業に追われています。タイトルや発売日、定価など、詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご案内してまいりますので、よろしくお願いいたします。なお、季節商品としての年賀切手の本の仕事が入ってしまったため、切手紀行シリーズ第2巻“ルーマニア”の刊行は2009年以降にずれ込むことになりましたが、あしからずご了承ください。

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 クマ子の入院
2008-09-05 Fri 23:11
 今月に入ってから、富山県砺波市庄川町の集落で、民家の屋根裏などにある蜂の巣を目当てとみられる熊がたびたび侵入しているとのニュースをネットで読みました。というわけで、今日は現時点での僕の最新作『韓国現代史:切手でたどる60年』にちなんで、こんな熊の切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 韓国・交通安全

 これは、1990年7月25日に韓国で発行された“交通安全”のキャンペーン切手で、交通事故で怪我をして入院中の熊が描かれています。パジャマの色などからすると、この熊はどうやら雌のようですな。

 一昨日の記事でも少し書きましたが、朝鮮民族の始祖とされる檀君は、熊から人間になった熊女と天帝の息子・桓雄が交わって生まれたということになっています。

 そもそも、熊と虎が人間になることを願って、地上の神檀樹に降臨した桓雄のもとを訪ねた際、桓雄は彼らにヨモギ一握りとニンニク20個を与え、それを食べて100日間、太陽の光を見なければ人間になれると言い渡し、その約束を守った熊は21目に人間の女性(熊女)になったとされています。

 ところが、熊から人間になった熊女には結婚してくれる人間の男性はおらず(まぁ、そりゃそうでしょうねぇ)、彼女は神檀樹の下で人間の子どもを産むことを願っていたため、同情した桓雄が人間の姿に変じて彼女と交わり、子どもを産ませた、というのが檀君誕生の物語ということになっています。

 そう考えると、韓国人の感覚では、熊を擬人化する場合には、やはり男性よりも女性の方がイメージしやすいということで、こうした切手のデザインになったのかもしれません。

 なお、韓国では1973年以降、さまざまなテーマのキャンペーン切手を発行していますが、それらは、その時々の時代を反映した内容となっています。そのいくつかについては、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 アラスカ・ブームは来るか
2008-09-04 Thu 18:27
 アメリカの共和党大会では、大統領候補としてジョン・マケインが正式に指名されました。しかし、今回の共和党大会の話題は、なんといっても共和党初の女性副知事候補となったアラスカ州知事のサラ・ペイリンでしょう。というわけで、アラスカがらみの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      アラスカ購入

 これは、1967年にアメリカで発行されたアラスカ購入100年記念の航空切手で、トーテムポールが取り上げられています。

 18世紀末以降、ロシア人は狩猟や交易のために北米大陸の太平洋岸に進出していましたが、1853年から56年にかけてのクリミア戦争で財政が大いに逼迫したため、ロシアはアラスカの売却を決定します。ただし、クリミア戦争で敵対したイギリスにだけは売却したくなかったため、1859年、アメリカに話を持ち込みます。ところが、交渉途中の1861年に南北戦争が勃発。このため、アラスカ売却の話もうやむやになってしまいました。

 そこで、戦争終結後の1867年、ロシア側は改めてアメリカにアラスカ売却交渉をもちかけ、1867年3月30日、国務長官のウィリアム・スワードはアラスカ購入条約の調印にこぎつけています。

 アメリカがアラスカの58万6412平方マイル(151万8800平方キロ)の土地に対して支払った金額は720万ドル。1エーカー(約4000平方メートル)あたり、わずか2セントという金額でした。ちなみに、当時のアメリカの郵便料金は、書状の基本料金が3セントでしたから、封書1通差し出すよりも、アラスカの土地1エーカーの方が安かったということになります。

 もっとも、当時のアラスカは人跡未踏の辺境の地でしたから、条約そのものは4月9日に上院で批准されたものの、世論の評判は散々で、新聞各紙は新たな合衆国領土を“スワードの冷蔵庫”ないしは“ジョンソンのホッキョクグマ庭園”などと揶揄し、アラスカ購入は“スワードの愚行”として散々たたかれました。

 結局、スワードが1872年に亡くなるまで、アメリカ国民はアラスカ購入をぼろくそに批判し続けるのですが、1896年、アラスカで金鉱が発見されるとその評価は一変。チャップリンの『黄金狂時代』に見られるようなゴールドラッシュとアラスカ・ブームが到来し、人々は突如として、スワードの“先見の明”を褒めたたえるようになったというのですから、勝手なものです。

 なお、アラスカ購入の立役者となったスワードは、以前の記事でもご紹介したように、共和党の大統領候補指名をめぐってリンカーンと争い、敗れています。そんな彼の数奇な運命については、9月10日に中公新書ラクレの1冊として刊行予定の『大統領になりそこなった男たち』でも1章を設けてまとめていますので、刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 虎が煙草を吸っていた頃
2008-09-03 Wed 10:42
 元KGBのロシアのプーチン首相が、野生のシベリアン・タイガー(別名、アムールトラ、チョウセントラ)を視察中、同行していたTVスタッフに襲いかかってきたトラを麻酔銃で撃退したのだそうです。というわけで、清正ならぬプーチンの虎退治にちなんで、きょうはこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 韓国・民画の虎

 これは、1983年に韓国が発行した5000ウォンの通常切手で、民画の虎がとりあげられています。

 朝鮮の建国神話には、虎と熊が人間になることを願っていたものの、天帝の息子・桓雄の教えを守った熊が人間の女性の身体を得たのに対して、教えを守れなかった虎は人間になれなかったという物語があります。ちなみに、このとき人間の女性となった熊が桓雄と交わって生まれたのが朝鮮民族の始祖とされる檀君ということになっています。ただし、1988年のソウル五輪の際には、熊ではなく、“ホドリ”(虎の子)がマスコットのキャラクターに取り上げられています。まぁ、熊よりは虎の方が強さと敏捷性という点で、スポーツ向きのイメージがありますが…。

 さて、朝鮮では、日本語でいう神代の昔に相当する言い回しとして、「虎が煙草を吸っていた頃」というのがありますが、コロンブスが新大陸発見と同時に喫煙の習慣をヨーロッパにもたらしたのは1492年のことですから、それが朝鮮に伝わったのは、どんなに早くても16世紀以降ということになります。ということは、仮に朝鮮で虎がたばこを吸うとしても16世紀以降のことになるわけで、「虎が煙草を吸っていた頃」を歴史以前の大昔とするなら、李氏朝鮮以前には朝鮮には語るべき歴史は存在しなかったということになってしまいます。

 ところが、実際には李氏朝鮮以前にも高麗や新羅などの王朝が存在していたことは厳然たる事実です。また、朝鮮には檀君の即位から起算した檀紀というのがあって、これは西暦に2333年を加算するということになっています。彼らがしばしば“韓国5000年”を強調するのは、これが根拠となっているわけですが、当然のことながら、この時代には朝鮮には喫煙の習慣はありませんので、妙な話になってしまいます。

 まぁ、神話の類にいらぬ突っ込みを入れるのは無粋なことだと重々承知しているのですが、それでは「虎が煙草を吸っていた頃」という表現が実際にはいつ頃から広く使われるようになったのか、僕としてはそちらの方がちょっと気になるところです。

 なお、5000ウォンという、1983年当時としては超高額の切手が発行されたのは、オリンピックの開催決定を受けて、韓国経済が空前の好況を呈していたという背景があったわけですが、その辺の話については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』をご覧いただけると幸いです。

 * 今朝、カウンターが39万PVを越えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

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 白旗の後のドサクサ
2008-09-02 Tue 16:44
 昨日の福田首相の突然の辞意表明には驚きました。まぁ、にっちもさっちもいかなくなって白旗を揚げたということのようですが、それまでの政権が白旗を揚げた後の移行期間というか空白期間というか、そういう時期にはどさくさでいろいろなことが起こるのはよくあることです。そんなことを考えていたら、こんなモノを思い出しました。(画像はクリックで拡大されます)

 受降式典

 こては、1995年、英領時代の香港で発行された“第二次世界大戦終結50周年”の小型シートで、イギリス側による日本軍の降伏受理の場面の写真が取り上げられています。

 1945年8月15日、昭和天皇が“終戦”を正式に発表すると、蒋介石の重慶国民政府は翌16日、香港の日本軍の降伏を受け入れるとの声明を発表します。すでに8月11日、アメリカは中国に対して、北緯16度線以北の“中国戦区”内の日本軍は中国当局に降伏するようにとの命令を連合国軍最高司令官の名義で出すことを約束していました。ただし、中国は「香港における日本軍の降伏受理は中国戦区の統帥部が行うものの、中国政府は香港に対してなんら領土的野心を持っておらず、香港の問題は最終的に外交交渉を通じて解決されるべきである」とイギリスに伝えており、香港での日本軍の降伏の受理は、領土問題というよりも、共産党との内戦に備えて、各地の日本軍の降伏を受理する際の主導権を確保したいというのが本音だったようです。

 一方、蒋介石が共産党による占領の既成事実化を恐れたのと同様に、イギリスも蒋介石の軍隊が香港に駐留し、それを既成事実として香港に居座ることを恐れていました。

 すでに1943年の時点で、イギリスは香港計画局を設立し、戦後の香港統治再開に向けて動き出していましたが、1945年5月には、中国軍の香港進駐を阻止するために香港計画局の軍備化に着手。
1945年8月16日、赤柱の収容所で日本の降伏が発表された際、戦前の行政長官だったフランクリン・ギムソンは自分が香港の臨時総督であると宣言しています。

 これ受けて、8月20日、イギリス政府は、香港での日本軍の降伏受理はイギリス側が行うことを表明します。結局、両者の対立は、中国政府が香港占領のために軍隊を派遣しないという前提の下、イギリス側が投降接受の委託を中国側から受けるという形式を取ることで妥協が成立。8月29日にイギリス軍が進駐し、9月1日、海軍司令官のハートコートがラジオを通じて臨時香港軍政庁の成立を宣言しました。こうして、9月16日、イギリス海軍司令官のハートコートが日本軍の降伏を受け入れて、日本軍による香港の占領は完全に終結します。

 今回ご紹介の小型シートは、その降伏接受の式典を取り上げたものですが、下に示すオリジナルの写真と比べてみると、小型シートでは、元の写真に映っていた中国の青天白日旗がトリミングでカットされているのがわかります。

 受降式典(オリジナル写真)

 降伏接受の式典に際して、イギリス側は中国戦区最高統帥であった蒋介石について言及せず、イギリスが中国の委託を受けて日本軍の降伏を受理するという建前は、実際には完全に無視されていました。このことを聞いた蒋介石は「イギリスは受降式において自国を優先し、中国代表をことさらに冷遇した」と憤慨したが、結局は後の祭りということになりました。

 なお、第二次大戦終結前後の香港をめぐる英中間のやり取りについては、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご説明しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 防災の日
2008-09-01 Mon 13:00
 きょうは防災の日。というわけで、ストレートにこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 防災(40円)

 これは、1984年8月23日に発行された“防災”のキャンペーン切手です。

 この切手は、一般からの図案公募により作られたものですが、郵政省では、1980年の“ふみの日”を皮切りに、1981年の“省エネルギー”、1983年の“世界コミュニケーション年”とテーマを変えて切手デザインコンクールを実施しています。

 1984年のデザインコンクールのテーマに“防災“が選ばれた理由は定かではありませんが、国土庁の申請により切手の発行が決まったことから考えると、防災行政を担当する国土庁が1974年6月26日に発足してから十年の節目ということが考慮された結果と見るのが妥当でしょう。なお、国土庁は2001年の省庁再編により建設省、運輸省、北海道開発庁と統合して国土交通省となりましたが、防災行政は国土交通省ではなく内閣府の所管とされています。
 
 さて、切手発行およびデザインコンクール実施の趣旨として、郵政省は次のように説明しています。

  我が国では毎年災害による大きな被害が発生しています。災害の未然防止と被害の軽減を図るためには、防災関係機関だけでなく、国民一人ひとりが災害に対して十分の備えをすることが肝要です。特に東海地震をはじめ大規模地震や津波、台風、豪雨等による被害の未然防止は緊急の課題として、国民がひとしく重大な関心を持っているところです。
  このような観点から、本年度の重点施策として「防災切手」の図案は、郵政省・国土庁・防災週間推進協議会との共催で、広く公募することとした次第です。

 こうして、行われたコンクールの結果、小・中・高校生の部では、愛知県一宮市立萩原中学校一年の萩本求美の「炎と風」が、一般の部では埼玉県川越市の神田昇の「きずな」が、それぞれ特賞に選ばれ、それぞれ、40円切手と60円切手に取り上げられました。ちなみに、切手の発行日が“防災の日”にあたる9月1日ではなく、8月23日になったのは、この日から開催の“消防フェア”にあわせたものです。

 なお、この切手を含む、1980年代前半、図案公募により作られた記念切手ないしはキャンペーン切手については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でいろいろと解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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