2020-04-25 Sat 03:17
昨年9月、台湾と断交して中国と国交を結んだキリバスで、一昨日(23日)、総選挙が行われ、ターネス・マーマウ大統領を支持する与党連合が、台湾との外交復活を主張する野党の攻勢を前に、過半割れとなりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、キリバスの前身、英領ギルバート&エリスとして発行された最初の切手です。 現在のキリバス国家は、ギルバート諸島、フェニックス諸島、そしてライン諸島の一部などを領土としており、その範囲は赤道付近に3800平方キロにも散らばっています。このうち、中核をなすギルバート諸島は、1765年、ドルフィン号のバイロン司令官が南東部の島ニクナウを発見。1788年には、英国東インド会社のシャーロット号のトマス・ギルバート船長とスカボロー号のジョン・マーシャル船長が、、オーストラリアへ囚人を移送した帰路、アパママ、クリア、アラヌカ、タラワ、アベイアン、ブタリタリ(マキン環礁)、マキンを発見しました。ギルバート諸島の名は、このギルバート船長に由来するものです。 1892年5月27日、ギルバート諸島は隣のエリス諸島とともに英国の“ギルバート&エリス”保護領となりました。当初、この地の郵便は周辺を往来する船の幸便に託されていましたが、1911年1月1日から定期便が開設され、同日、ここに示すように当時のフィジー切手に“GILBERT & ELLICE / PROTECTORATE”と加刷した切手が発行されます。なお、1916年、ギルバード&エリスは英国の保護領から直轄植民地に変更され、その首府がタラワに置かれました。 1941年12月8日の日英開戦に伴い、日本軍はマキン環礁のブタリタリとタラワへの攻撃を開始し、12月10日には占領。これに対して、1942年8月17日、米軍がブタリタリを攻撃し、日本軍の守備隊に大きな打撃を与えましたが、翌18日、米軍はいったん撤退しています。 1943年に入り、アリューシャン、ソロモン諸島方面で勝利を収めた米軍は中部太平洋の拠点を確保すべく、1943年11月20日、第2海兵師団がタラワとブタリタリに侵攻。この島を要塞化した日本軍と壮絶な戦いを展開してギルバート諸島を制圧しました。その後、ギルバート諸島は1944年2月のマーシャル諸島攻略の拠点として使われることになります。 1945年の終戦後は英領ギルバート&エリスが復活しましたが、1956年から1962年にかけて、ライン諸島のクリスマス島(現キリスィマスィ島。インド洋のクリスマス島とは別の島)が米英両国の核実験場となります。 1971年、ギルバート&エリスは自治領になりますが、ギルバート諸島ではミクロネシア人が多数派を占めていたのに対して、エリス諸島ではポリネシア人が主流と、民族構成が異なっていたため、1974年、住民投票で両者の分離が決定。1978年にエリス諸島がツバルとして独立すると、翌1979年、ギルバート諸島は米領フェニックス諸島およびライン諸島(ただし、3つの島を除く)を統合してキリバスとして独立しました。ちなみに、独立後の国名となったキリバスは、ギルバートの現地語読みです。 かつて、キリバスにはリン酸塩の鉱床がありましたが、1979年の独立とほぼ同時に枯渇。現在は、コプラ、観賞用魚や海草が生産および輸出の大半を占めています。また、国土において海抜の低い環礁の占める面積が大きい多いため、近年の海面上昇で国土の半数以上は水没の危機にあり、2007年、キリバス政府は全国民の他国への移住計画を発表。当時のアノテ・トン大統領は、熟練労働者としての移住のため、日本、米国、オーストラリアなどに職業訓練の支援を呼びかけています。 こうしたこともあって、キリバス経済は慢性的な苦境に陥っており、近年は、国家予算の約50%を、日本、オーストラリア、ニュージーランド、台湾からの支援に頼らざるを得ない状況が続いていました。 これに対して、キリバスが太平洋のほぼ中央に位置し、地形的に空港や大型船が寄港できる深水港の建設が可能であることに目を付けた中国は、キリバスを軍民両用の拠点とすべく、札束攻勢を展開。これに呼応したマーマウ現政権は、昨年9月20日、ソロモン諸島が台湾と断交したのに続き、台湾と断交しました。 このため、キリバスでは台湾との断交の是非を巡って国内の対立が深刻化。今回の総選挙では、改選前に45議席中31議席を占めていた与党連合が過半数割れとなる22議席に転落し、野党側が23議席を獲得しました。 今回の選挙結果を受け、6月にも大統領選が行われる見通しとなり、現職のマーマウに対して、台湾との断交に懐疑的で、与党から離脱したバヌエラ・ベリナ議員が立候補の意向を示しています。今後の、キリバス国民の賢明な判断に期待したいですね。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-09-21 Sat 01:05
今月16日のソロモン諸島に続き、昨日(20日)、南太平洋のキリバスが台湾と断交しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1983年にキリバスが発行した“タラワの戦い40年”の記念切手のうち、太平洋上のタラワ環礁の位置を示した地図が取り上げられています。 現在のキリバス国家は、ギルバート諸島、フェニックス諸島、そしてライン諸島の一部などを領土としており、その範囲は赤道付近に3800平方キロにも散らばっています。このうち、中核をなすギルバート諸島は、1765年、ドルフィン号のバイロン司令官が南東部の島ニクナウを発見。1788年には、英国東インド会社のシャーロット号のトマス・ギルバート船長とスカボロー号のジョン・マーシャル船長が、、オーストラリアへ囚人を移送した帰路、アパママ、クリア、アラヌカ、タラワ、アベイアン、ブタリタリ(マキン環礁)、マキンを発見しました。ギルバート諸島の名は、このギルバート船長に由来するものです。 1892年5月27日、ギルバート諸島は隣のエリス諸島とともに英国の保護領となり、1916年には“ギルバート&エリス”として英領植民地となり、その首府がタラワに置かれました。 1941年12月8日の日英開戦に伴い、日本軍はマキン環礁のブタリタリとタラワへの攻撃を開始し、12月10日には占領。これに対して、1942年8月17日、米軍がブタリタリを攻撃し、日本軍の守備隊に大きな打撃を与えましたが、翌18日、米軍はいったん撤退しています。 1943年に入り、アリューシャン、ソロモン諸島方面で勝利を収めた米軍は中部太平洋の拠点を確保すべく、1943年11月20日、第2海兵師団がタラワとブタリタリに侵攻。この島を要塞化した日本軍と壮絶な戦いを展開してギルバート諸島を制圧しました。その後、ギルバート諸島は1944年2月のマーシャル諸島攻略の拠点として使われることになります。 1945年の終戦後は英領ギルバート&エリスが復活しましたが、1956年から1962年にかけて、ライン諸島のクリスマス島が米英両国の核実験場となります。 1971年、ギルバート&エリスは自治領になりますが、ギルバート諸島ではミクロネシア人が多数派を占めていたのに対して、エリス諸島ではポリネシア人が主流と、民族構成が異なっていたため、1974年、住民投票で両者の分離が決定。1978年にエリス諸島がツバルとして独立すると、翌1979年、ギルバート諸島は米領フェニックス諸島およびライン諸島(ただし、3つの島を除く)を統合してキリバスとして独立しました。ちなみに、独立後の国名となったキリバスは、ギルバートの現地語読みです。 かつて、キリバスにはリン酸塩の鉱床がありましたが、1979年の独立とほぼ同時に枯渇。現在は、コプラ、観賞用魚や海草が生産および輸出の大半を占めています。また、国土において海抜の低い環礁の占める面積が大きい多いため、近年の海面上昇で国土の半数以上は水没の危機にあり、2007年、キリバス政府は全国民の他国への移住計画を発表。当時のアノテ・トン大統領は、熟練労働者としての移住のため、日本、米国、オーストラリアなどに職業訓練の支援を呼びかけています。 こうしたこともあって、キリバス経済は慢性的な苦境に陥っており、近年は、国家予算の約50%を、日本、オーストラリア、ニュージーランド、台湾からの支援に頼らざるを得ない状況が続いていました。したがって、中国が札束攻勢を展開して台湾との断交を迫ってきたとき、キリバス側にはこれを受け入れる素地が十分にあったわけです。 いずれにせよ、先の大戦での激戦地だった場所というのは、太平洋上の要衝であり、日本の国防にとっても重要な意味を持っていることは言うまでもありません。先の大戦の米軍の動きに沿って、ソロモン諸島、そしてキリバスと中国の勢力が拡大している現状に対して、日本社会は深刻な危機感を共有すべきではないかと思います。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、「ガダルカナル島の近現代史」と題してお話しします。 先の大戦の激戦地というだけでなく、9月16日に台湾と断交して中国に乗り換えたソロモン諸島の首都、ホニアラの所在地として、ガダルカナル島がどのような歴史をたどってきたのか、そのあらましについて、関連する切手などとともにお話ししてみたいと思います。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 10/1、11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2009-07-12 Sun 23:21
1979年7月12日に南西太平洋の島国・キリバスがイギリスから独立して今日でちょうど30年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第2次大戦中の1944年11月14日、現在はキリバスの首都となっているタラワ(当時は英領ギルバート&エリス諸島の首府)からアメリカ・ニューヨーク州のオネオンタ宛てに差し出されたカバーです。裏面に押されている中継印などの情報も総合すると、このカバーはタラワで差し出された後、イギリス当局によって検閲を受け、その後、12月11日にスバ(フィジー)、翌1945年1月19日にアメリカ・カリフォルニア州のサンペドロ、1月30日にニューヨークを経由して、1月31日に目的地のオネオンタに到着しています。この間、アメリカ到着時にはアメリカ側の検閲も受けています。 現在のキリバスは、ギルバート諸島、フェニックス諸島、そしてライン諸島の一などを領土としており、その範囲は赤道付近に3800平方キロにも散らばっています。このうち、ギルバート諸島は隣のエリス諸島とともに1892年に英領となりました。その首府となったタラワでは、1943年11月20日から25日にかけて、この島を要塞化した日本軍とアメリカ軍との間で壮絶な戦いが繰り広げられた“タラワの戦い”の舞台としても知られています。 第二次大戦後の1971年、ギルバート&エリスは英連邦内の自治領となりましたが、1978年にエリス諸島がツバルとして独立。翌1979年に残りの地域が、周辺にあった米領の無人島とともにキリバスとして独立し、現在にいたっています。独立後のキリバスでも、第二次大戦がらみの周年記念切手は発行されていますが、それらについては、いずれ機会があればご紹介したいと思います。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 異色の仏像ガイド決定版 全国書店・インターネット書店(アマゾン、bk1、7&Yなど)・切手商・ミュージアムショップ(切手の博物館・ていぱーく)などで好評発売中! 『切手が伝える仏像:意匠と歴史』 彩流社(2000円+税) 300点以上の切手を使って仏像をオールカラー・ビジュアル解説 仏像を観る愉しみを広げ、仏教の流れもよくわかる! |
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