2022-06-22 Wed 03:33
ベルギー当局は、20日(現地時間)、コンゴ(旧ザイール)独立の英雄で、1961年に暗殺されたパトリス・ルムンバものとされる金歯を親族に返還しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2021年、コンゴが発行したルムンバ没後60年の記念切手の1枚で、笑顔のルムンバの写真が取り上げられています。ルムンバの切手は旧共産圏諸国やアフリカ諸国から少なからず発行されていますが、今回はルムンバの歯がしっかり見える1枚ということでこの切手を選んでみました。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 また、ルムンバと1960年代のコンゴ内戦については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 6月24日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 6月24日(金) 19:00~ 読書人Web 「切手がつなげた人と時代」 『切手でたどる 郵便創業150年の歴史』シリーズ完結を記念して、『読書人』で田中秀臣先生とトークイベントをやります。イベントの詳細とご来場チケット(1500円)の販売はこちら、オンラインのライブ配信チケット(1500円)の販売はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 4月6日-7月12日 鏑木清方と江戸の残り香 詳細はこちらをご覧ください。 4月13日-7月19日 日本の郵便150年の歴史2 占領時代(1945年の終戦から1952年) 詳細はこちらをご覧ください。 5月18日-8月23日 日本の歴史を学びなおす― 近現代編その2― 幕末 詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.3 平成・令和編』 好評発売中!★ 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの最終巻。平成以降、郵政省が郵政事業庁、日本郵政公社を経て、株式会社化され現在に至るまでを扱っています。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-02-21 Sun 04:11
テニスの全豪オープンは、きのう(20日)、女子シングルスの決勝があり、大坂なおみが6-4、6-3で米国のジェニファー・ブレイディを破り、2年ぶり2度目の優勝を果たしました。というわけで、テニス関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1923年にベルギー領コンゴで発行された官製絵葉書で、エリザベートヴィル(現ルブンバシ)にあったカタンガ高地鉱業組合のテニス風景が取り上げられています。ちなみに、当初は男子のみだった全豪オープンで女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門が創設されたのは、この葉書が発行される前年の1922年のことで、全豪オープンに出場した最初の女子選手たちも、この葉書とほぼ同じスタイルでプレーしていました。 さて、絵葉書の題材となったカタンガは、現在のコンゴ民主共和国南端の地域で、南西でアンゴラと、南でザンビアと国境を接しており、東はタンザニーカ湖がタンザニアとの国境になっています。 この地域の大半は標高1000メートルの高原地帯で、銅(1960年のコンゴ独立当時は世界生産量のの70%を産出していました)のほか、コバルトやウランなど豊富な地下資源が埋蔵されています。このため、1960年7月11日、旧宗主国ベルギーの支援を受けたモイーズ・チョンベが、レオポルドヴィル(現キンシャサ)の中央政府に反旗を翻し、カタンガ国の独立を宣言。熾烈な内戦の舞台となりました。 その後、国連軍などの攻撃によってカタンガ国は1963年に崩壊し、カタンガ州としてコンゴ中央政府が確保。1971年には、モブツ政権下のザイール化政策によって、州名がスワヒリ語で“銅”を意味するシャバに改称されましたが、1997年に現在のコンゴ民主共和国が成立すると、カタンガの旧称に復しました。なお、2015年、カタンガの地は、タンガニーカ州、上ロマミ州、ルアラバ州、上カタンガ州の4つに分割されて現在にいたっています ★★ テーマティク切手展、開催中! ★★ 2021年2月13-28日(土~日) *ご好評につき、会期(公開期間)を1週間延長しました! テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。 通常は東京・目白の切手の博物館を会場として開催しておりますが、ことしは、新型コロナウイルス感染防止の観点から、WEB上でコレクションを閲覧できる「オンライン切手展」となりました。ぜひ、こちらをクリックしてご覧ください。 ★★ 『世界はいつでも不安定』 3月10日発売!★★ 本体1400円+税 出版社からのコメント 教えて内藤先生。 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説! チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化! ご予約は、アマゾンまたは honto で受付中です。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-12-29 Sun 10:06
国連総会は、27日(ニューヨーク時間)、コンゴ動乱調停中の1961年、スウェーデン出身のダグ・ハマーショルド国連事務総長が墜落死した問題をさらに調査するよう求める決議を全回一致で採択しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1962年にコンゴが発行したハマーショルドの追悼切手です。 1960年、アフリカ諸国が相次いで独立する中で、同年6月30日、ベルギー領コンゴもコンゴ共和国として独立。コンゴ族同盟(アバコ党)の指導者であったジョセフ・カサブブが大統領に、コンゴ国民運動(MNC)を率いたパトリス・ルムンバが首相に就任しました。 しかし、コンゴ駐留のベルギー軍撤退問題をめぐり、対外強硬路線のルムンバとベルギー軍が衝突。さらに、混乱の中で、地下資源の豊かなカタンガ州を地盤とするモイーズ・チョンベは、7月11日、ベルギーの支援を受けて、カタンガの独立を宣言。親西側のカサブブと急進民族主義路線を掲げるルムンバの路線対立もあり、独立間もないコンゴは四分五裂の状態に陥りました。いわゆる第1次コンゴ動乱です。 ルムンバの要請を受けた国連は、7月14日、安保理決議143を採択。“国連軍”が編成され、カタンガ独立問題へ関与しないことを条件にコンゴに進駐すると、カタンガ政権は豊富な資金力を背景に白人の傭兵部隊を大量に雇い入れ、ルムンバ側からの攻撃に抵抗しました。 各派入り乱れての泥沼の内戦の中で、1960年9月、大統領のカサヴブが首相のルムンバを更迭すると、ルムンバ内閣は大統領の解任を決議。コンゴ共和国を政府を名乗る組織として、首都レオポルドビルのカサブブ政府と、スタンレービルを拠点とするルムンバ派政府が併存する事態となりました。しかし、CIAの支援を受けた陸軍参謀長ジョセフ・デジレ・モブツ大佐のクーデターにより、ルムンバは逮捕され、1961年1月17日、カタンガ政府のベルギー人顧問によって処刑されます。 ルムンバ処刑後の2月20日、カタンガ政府は「ルムンバはカタンガ当局の手から脱走したところ、とある村の住民に殺害された」として、ルムンバの死を発表すると、ルムンバ派の拠点であったスタンレービルでは兵士が激昂し、ルムンバの殺害にはレオポルドビル政府が関与しているとの思い込みから、キブ州制圧戦で捕虜となっていたレオポルドビル軍の士官が処刑されました。 国際世論は、一挙にスタンレービル政府に同情的になり、各国でルムンバ追悼のデモが行われたほか、ソ連はルムンバの死の責任を問うとして、国連事務総長ハマーショルドの解任とベルギーへの制裁、モブツおよびチョンベの逮捕を要求。また、ギニアとエジプトは、事件を機に、スタンレービル政府を正式に国家承認しています。 2月17日の国連安保理では、エジプト、リベリア、セイロの共同提案として、ルムンバの死を悼んだうえで、①国連が、休戦の取り決め、一切の軍事作戦の停止、衝突の阻止、必要な場合に限ってあくまで最後の手段としての武力の行使を含む、コンゴの内乱の発生を阻止するための一切の適切な措置を即時とること、②あらゆるベルギー人および他の外国の軍人および軍属、国連司令部の管轄に属しない政治顧問、および傭兵をコンゴから、即時撤退させ、引揚げさせる措置を講ずること、③すべての国に、上記の要員がコンゴに向かって、その領土から出発するのを防止し、彼らに輸送およびその他の便宜をはかることを拒否する措置を、即時且つ効果的に講ずること、などを要求する決議案を提案。21日、同決議案は「コンゴ問題にかんする決議S4741」として採択されました。 決議S4741では、国連の武力行使には強い制約が課せられていましたが、レオポルドビル政府およびカタンガ政府は、同決議を根拠として国連が無制限に武力介入してくると“誤解”。レオポルドビル政府首班のイレオは今回の国連決議を「コンゴの主権を侵害するもの」、カサブブは「国連はコンゴを裏切った」と声明し、カタンガのチョンベも「決議はコンゴ全体に対する国連の宣戦布告である」と猛反発し、南カサイのカロンジもこれに同調しました。 かくして、2月28日、カタンガの首都エリザベートビルに集まったイレオ、チョンベ、カロンジの3首脳は国連およびスタンレービル政府に対抗するための軍事協定を締結。3月には、マダガスカルの首都タナナリブで、あらためて、カサブブを大統領とする“ゆるやかな連邦国家”の設立を目指すとする「タナナリブ協定」が結ばれます。同協定では、コンゴ中央政府は権限を持たず、外交に関しては合同会議で協議するものの、内政に関してはカタンガをはじめとする“州国家”が実質的な独立国として扱われることになっていました。 タナナリブ協定を受けて、3月10日、ハマーショルドはコンゴ国連機構の現地代表代理としてスーダンのメッキー・アッバースを派遣し、決議S4741は必ずしもコンゴに対する無制限の武力行使を意味するものではないことをカサブブに理解させます。 ところが、3月23日、チョンベがコンゴ・ブラザビル(旧仏領jから独立)を訪問し、カタンガがコンゴ・ブラザビル領内のダム建設を支援することを骨子とする経済援助協定を調印。これは「外交に関しては合同会議で処理する」とのタナナリブ協定を無視するものであり、そもそも、外国を援助する資金があるならコンゴ国内の社会・経済再建のために提供すべきではないかとレオポルドビル政府は反発します。 このため、レオポルドビル政府は再びカタンガとは距離を置き、スタンレービルのルムンバ派政府との関係改善を模索するようになり、4月17日、カサブブはその一環として、安保理決議S4741の受け入れを表明。4月24日には、赤道州コキラビル(現ムバンタカ)でコンゴ諸勢力による会議が開催され、タナナリブ協定の原則について具体的な協議が行われ、安保理決議S4741の受け入れを宣言したうえで、①国連の強い指導のもとで諸問題の解決をはかるべきこと、②6月25日にレオポルドビル近郊のロバニウム大学で議会を(9ヶ月ぶりに)再開し、新しい中央政府を選出すること、が決められました。そして、安保理決議S4741の「外国人の即時撤退」の適用第1号として、チョンベが連れてきていた外人顧問を逮捕・追放し、チョンベも正式に拘束されます。 当初、チョンベは6月開会の議会への参加を拒否していましたが、会期直前の6月22日、モブツの説得を受けて議会への参加を表明し、拘束を解かれます。ところが、25日にカタンガに戻ったチョンベは「議会参加の約束は脅迫されてしたものだから無効」としてその破棄を宣言しました。 こうした経緯を経て、7月24日、国連軍一個大隊が警備する厳戒態勢の中で、当初より1ヶ月遅れで議会が開会。議場ではスタンレービル派が僅差で優勢だったため、米国はチョンベの参加を強く求めましたが、チョンべ本人は拘束の可能性を恐れて姿を見せず、旧ルムンバ派の出身でレオポルドビル政府の内相のシリル・アドゥラを首相とし、スタンレービル派、レオポルドビル派、カロンジ派、ルアラバ州政府代表を含む挙国一致内閣が組織されました。 混乱が続く中、1961年9月、戦闘目的ではなかったはずの国連部隊とカタンガの兵力が交戦状態に陥ったため、ハマーショルドは停戦交渉のため、現地に向かおうとします。しかし、その途中、9月18日にローデシア・ニヤサランド連邦のンドラ(現ザンビア領内)付近で乗機が墜落し、ハンマルフェルドを含む乗客乗員16名全員が死亡しました。 ハマーショルドの死に関しては、当時から、背後にさまざまな謀略があるとの推測がなされていましたが、2014年から再調査を担ってきた国連の調査団は、今年10月の報告書で「南アフリカと英米は、ほぼ間違いなく重要な情報を隠している」と批判。今回の国連決議も、これを受けてのもので、「特に報告書で言及された国は、保持している関連記録を公開するよう」促しています。 なお、ハマーショルドは1961年のノーベル平和賞を受賞しましたが、ノーベル賞は死者への追贈は行われないことになっているため、彼に関しては、すでに生前に授賞が決定されており、死後にそのことが発表されたと説明されています。 さて、ハマーショルドの死により、コンゴ情勢は一層の混乱が懸念されましたが、後任の事務総長となったウ・タントは、ハマーショルドの穏健路線とは対照的に、アドゥラの挙国一致政府を支援するかたちで、国連軍が外国人傭兵の逮捕・追放のための大規模な作戦を開始します。カタンガ政権に対する経済制裁も発動したため、資金源を断たれたカタンガ政権は急速に弱体化し、1963年1月に降伏チョンベもスペインに亡命したことで、ともかくもコンゴは外面上の統一を回復し、第1次コンゴ動乱も終結しました。 第1次動乱の終結後も、しばらくは国連の部隊がコンゴに駐留していましたが、1964年6月、国連軍が撤退するとピエール・ムレレ率いる共産ゲリラのシンバが中国の支援を得て反乱を起こし、第2次コンゴ動乱が勃発することになります。この第2次動乱には、キューバ革命の英雄だったチェ・ゲバラも深くかかわっていくことになるのですが、そのあたりについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ イベント等のご案内 ★★ 今後の各種イベント・講座等のご案内です。詳細については、イベント名をクリックしてご覧ください。 ・第11回テーマティク研究会切手展 1月11-12日(土・日) 於・切手の博物館(東京・目白) テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。今回の展覧会は、昨年に続き11回目の開催で、香港情勢が緊迫している折から、メインテーマを香港とし、内藤も「香港の歴史」のコレクションを出品しています。 また、会期中の12日13:00からは、拙著『(シリーズ韓国現代史1953-1865)日韓基本条約』の刊行を記念したトークイベントも行います。 展覧会・トークイベントともに入場無料・事前予約不要ですので、ぜひ、遊びに来てください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★ 2020年はアウシュヴィッツ収容所解放75周年!★ 本体2500円+税 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-09-14 Sat 01:01
コンゴ民主共和国の南東部、タンガニーカ州マイバリディ付近で、現地時間12日未明、貨物列車が脱線し、不正乗車(運賃を払わずに移動する屋根に乗るなど)をしていた人々が多数死亡しました。推定死者数の情報は大きく錯綜していますが、現場の目撃者や地元メディアによると、死者数が100人に上る可能性が高いそうです。というわけで、亡くなった方のご冥福をお祈りしつつ、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1948年、ベルギー領コンゴで発行された“マタディ=レオポルドヴィル鉄道開通50周年”の記念切手で、歓呼して1号列車を迎える人々と鉄道の路線地図が描かれています。 1865年に即位したベルギー国王レオポルド2世は、即位当初から植民地獲得の必要性を訴えていましたが、1876年9月、コンゴ探検を支援する“国際アフリカ協会”(のちにコンゴ国際協会に改組)を創設し、1879-83年、英国の探検家ヘンリー・スタンリーにコンゴ川流域を探検させ、先住民部族の部族長たちと独占的な貿易協定を締結しました。 これに対して15世紀以来、在地のコンゴ王国と関係のあったポルトガルが反発し、コンゴ川河口周辺の主権を主張。これを英国が支持すると、独仏はベルギーを支持し、列強の対立が深まります。 このため、1884-85年、欧米14カ国によるベルリン会議が開催され、コンゴを中立化し、門戸を開放して自由貿易の地にすることを条件として、コンゴはレオポルド2世の“私有地”とされ、1885年、レオポルド2世の私領“コンゴ独立国”が創設されました。なお、同国は自由貿易の国という意味で“コンゴ自由国”と呼ばれることもあります。 コンゴ独立国はあくまでもレオポルド2世の私領という扱いで、ベルギーの国家とは無関係という位置づけであったため、国王は専制君主として君臨するとともに、巨額の私費を投じ、さらには、個人の信用で国内外の投資家の投資を募って開発を進めました。 ところで、1880年代のコンゴ独立国では、コンゴ川水系の水運を利用して開拓が進められていましたが、コンゴ川河口近くの河港マタディと首都レオポルドヴィル(現キンシャサ)の間の交通は人力に頼っていました。このため、マタディ=レオポルドヴィル間にコンゴ独立国最初の鉄道を敷設すべく、1887年7月31日、コンゴ商工業会社およびコンゴ鉄道会社 が設立され、1890年に建設工事が始まります。 その後、1898年に全長366km(コンゴ川の渓谷を避け、ンポゾ川沿いの谷とモンデクリスタル山中を経由するルートになっています)が開通するまでに、過酷な工事により、1932人(うちアフリカ系1800人)が命を落としたほか、1923-31年の改良工事では、囚人や強制労働者が動員され、約7000人が犠牲となっています。 さて、コンゴ民主共和国の領内には、ベルギー植民地時代を中心に国内を結ぶ鉄道網の整備が進められましたが、1960年の独立後は、1960-65年のコンゴ動乱と1965-97年のモブツ独裁政権、さらに、その後も戦乱が続いたため、ほとんどメンテナンスが行われず、老朽化が進んでかなり危険な状態です。 このため、しかしコンゴ民主共和国では、大勢の犠牲者を出す鉄道事故が後を絶たず、2019年3月には中部のカサイ州で貨物列車が脱線して少なくとも24人が死亡。また、2017年には南ルアラバ州で燃料タンカーを連結した貨物列車が川に突っ込み、30人以上が死亡する事故も発生していました。 ★★ イベントのご案内 ★★ ・インド太平洋研究会 第3回オフラインセミナー 9月28日(土) 15:30~ 於・イオンコンパス東京八重洲会議室 内藤は、17:00から2時間ほど、“インド太平洋”について、郵便学的手法で読み解くお話をする予定です。 参加費など詳細は、こちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 10/1、11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年10月13日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 全7回) 切手と浮世絵 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回) ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-01-11 Fri 03:05
アフリカ中部コンゴ民主共和国(旧ザイール)の選管は、きのう(10日)、昨年12月30日に行われた大統領選の開票結果について、野党“民主社会進歩同盟(UDPS)”のフェリクス・チセケディ党首が38.57%で当選、別の野党候補の実業家マルタン・ファユル氏が34.8%で2位、ジョゼフ・カビラ大統領の後継候補ラマザニ前内相は23.8%で3位だったと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年、“コンゴ共和国時代”時代に発行された国家宮殿(現大統領官邸)の切手です。 キンシャサの国家宮殿は、もともとは、ベルギー植民地時代末期の1956年、ベルギー本国テルヒューレンの王立中央アフリカ博物館をモデルに、植民地総督の公邸として建設されました。 1960年、ベルギー領コンゴがコンゴ共和国として独立した際には、初代首相のパトリス・ルムンバがここで植民地支配の終焉を宣言。その後、中国の支援で人民宮殿(現在の国会議事堂)が完成するまで、国会議事堂としても利用されていました。 さて、2001年、ローラン・カビラ大統領が暗殺されると、息子のジョゼフ・カビラが29歳の若さで大統領に就任。ジョゼフは、2003年、2大反政府勢力のコンゴ民主連合ゴマ派(RCDゴマ)とコンゴ解放運動 (MLC) の指導者2人を含む4人を副大統領とする暫定政権を樹立し、政権の安定化を図ります。そして、2006年には新憲法を施行して大統領選挙を実施し、対立候補のジャンピエール・ベンバを下して大統領に当選。2011年の選挙でも再選されました。 しかし、2016年12月19日に任期満了となったものの、ジョゼフは大統領選の延期を繰り返すことで政権に居座り続けたため、国内では抗議デモが発生し、治安部隊の反撃により死者も発生しました。このため、いったんは与野党間で2017年末までに大統領選を実施することで合意が成立したものの、選管は有権者登録の遅れを理由に選挙実施を2018年4月以降に延期していました。 その後、2018年8月8日、ジョゼフは後継候補にラマザニ前副首相兼内務・治安相を指名したことを明らかにし、併せて12月に予定される大統領選挙に出馬しないと発表。ジョゼフとしては、ラマザニを大統領に当選させたのちは、みずからは首相に就任し、2023年の大統領選で返り咲くという“プーチン方式”を目論んでいたとされていますが、今回の選挙結果で、それは潰えたことになります。 なお、今回の大統領選挙の結果に関しては、コンゴ国内で最も信頼できる有力機関とされ、4万人の選挙監視員を展開させたカトリック教会の独自集計では、事前の世論調査でトップだったファユル候補が最も得票が多かったとされているほか、関係各国からも選管の発表した選挙結果を疑問視する声が相次いでいます。また、ファユル氏支持者の多い西部キクウィトでは、きのう(10日)、選管結果を不満とする抗議行動が発生し、警察の介入により死者が出るなど混乱が続いており、今回ご紹介の切手の国家宮殿が新たな主を正式に迎え入れるには、まだ紆余曲折がありそうです。 ★★ 昭和12年学会・第1回公開研究会 ★★ 1月19日(土)、14:00-17:30、東京・神保町のハロー貸会議室 神保町で、昭和12年学会の第1回公開研究会が開催されます。内藤は、チャンネルくららでおなじみの柏原竜一先生とともに登壇し、「昭和切手の発行」(仮題)としてお話しする予定です。 参加費は、会員が1000円、非会員が3000円。皆様、よろしくお願いします。 ★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) |
2018-12-11 Tue 01:11
ベルギーのブリュッセル郊外、テルフューレンにある王立中央アフリカ博物館(RMCA)が、おととい(9日)、5年間の改修工事を終えてリニューアル・オープンしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックでっ拡大されます)
これは、1908年、“ベルギー領コンゴ”の成立に伴い、コンゴ独立国の切手に“CONGO BELGE”の文字を加刷した切手です。 1865年に即位したベルギー国王レオポルド2世は、即位当初から植民地獲得の必要性を訴えていましたが、1876年9月、コンゴ探検を支援する“国際アフリカ協会”(のちにコンゴ国際協会に改組)を創設し、1879-83年、英国の探検家ヘンリー・スタンリーにコンゴ川流域を探検させ、先住民部族の部族長たちと独占的な貿易協定を締結しました。 これに対して15世紀以来、在地のコンゴ王国と関係のあったポルトガルが反発し、コンゴ川河口周辺の主権を主張。これを英国が支持すると、独仏はベルギーを支持し、列強の対立が深まります。 このため、1884-85年、欧米14カ国によるベルリン会議が開催され、コンゴを中立化し、門戸を開放して自由貿易の地にすることを条件として、コンゴはレオポルド2世の“私有地”とされ、1885年、レオポルド2世の私領“コンゴ独立国”が創設されました。なお、同国は自由貿易の国という意味で“コンゴ自由国”と呼ばれることもあります。 コンゴ独立国はあくまでもレオポルド2世の私領という扱いで、ベルギーの国家とは無関係という位置づけであったため、国王は専制君主として君臨するとともに、巨額の私費を投じ、さらには、個人の信用で国内外の投資家の投資を募り、マタディ=レオポルドヴィル鉄道の建設など、近代化政策を推進。その一方、莫大な開発コスト回収のため、1891年以降、象牙と天然ゴムが国王の独占事業とされ、先住民には過酷なノルマが課せられただけでなく、未達の場合は手足切断などの刑罰が科されました。 この結果、1885年に3000万人と言われたコンゴ独立国の人口は、1901年までに900万人にまで減少しましたが、250トン以下だった天然ゴムの生産量は6000トンに増大しています。 こうした圧政に対しては国際世論の批判も強かったため、1906年、ベルギー議会はコンゴを国王の私領からベルギー国家の植民地へ転換させる決議を採択。国王はこれに抵抗したものの、1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定し、国王はベルギー政府からの補償金との引き換えにコンゴ自由国を手放し、同年11月、コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになりました。 さて、今回、再開された王立中央アフリカ博物館は、1897年のブリュッセル世界万博に際して、コンゴ自由国の展示に使用された“植民地宮殿”がルーツで、翌1898年、“コンゴ博物館”として常設博物館となりました。現在の名称となったのは、1960年のことで、世界でも有数のアフリカ文明コレクションを誇り、長年にわたり、世界におけるアフリカ文明研究の中心となってきました。 なお、同館の展示内容については、以前は、レオポルド2世の残虐行為を無視しているとしてしばしば批判の対象となっていたことから、今回の再開にあたり、アフリカの人々によるビデオ証言やコンゴ人芸術家の作品展示を充実させるなど、アフリカそのものに焦点をあてる一方、植民地支配の歴史は1カ所のギャラリーに集められるなどの修正が行われたそうです。 ★★ トークイベント・講演のご案内 ★★ 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください) 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料 ★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) |
2018-10-01 Mon 00:45
プロ野球のパシフィック・リーグは、埼玉西武ライオンズが10年ぶり、22度目の優勝を果たしました。というわけで、ライオンにちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1999年にコンゴ民主共和国が発行した切手で、同国の仮の国章が描かれています。 現在のコンゴ民主共和国の領域はかつてはベルギーの植民地でしたが、1960年にコンゴ共和国として独立。しかし、同年、隣接する旧仏領の国もまったく同名の“コンゴ共和国”として独立したため、両者はそれぞれの首都の名を冠して、旧ベルギー領の国をコンゴ・レオポルドヴィル、旧仏領の国をコンゴ・ブラザヴィルと呼ぶなどして区別されていました。 旧ベルギー領のコンゴ・レオポルドヴィルでは、1960年の独立当初から(第1次)コンゴ動乱が始まり、各派入り乱れての内戦状態に突入しますが、そうした中で、1964年8月1日、隣国のコンゴ・ブラザヴィルと区別するため、コンゴ・レオポルドヴィルの国名は“(第1)コンゴ民主共和国”に変更されました。 翌1965年11月、第1次共和国では、国軍参謀総長のモブツが軍事クーデターを起こして大統領に就任します。モブツは独裁体制を確立し、植民地遺制を排除する“ザイール化政策”を展開。自らの名前をジョセフ・デジレ・モブツからモブツ・セセ・セコに改名したほか、首都レオポルドヴィルをキンシャサと改称し、1971年には国号をコンゴ民主共和国からザイールに変更しました。 モブツ政権は、東西冷戦という国際環境を利用し、アフリカにおける“反共の砦”として西側諸国から巨額の支援を引き出していましたが、海外からの経済支援や国内の鉱山資源などの利益は、モブツとその一族が大半を着服。ザイール国家はモブツ一派の私物化され、経済は衰退します。1965年からモブツが退陣する1997年までの間に、同国のGDPは65%も減少。国民は貧困にあえぎ、中央政府の地方統制も緩んで、反政府勢力は首都キンシャサから離れた東部を拠点に活動を展開するようになりました。 一方、ザイールの隣国ルワンダでは、1994年4月、フツ人過激派によるツチ族大虐殺が始まります。大虐殺は、同年7月に収束しましたが、この間、150万人もの難民が国境を越え、ザイール東部に流入。“難民”の中には、大虐殺の加害者であるフツ人過激派の残党もかなり含まれていましたが、モブツは彼らのルワンダ侵攻計画を支援。このため、ルワンダ政府は対抗上、ザイール東部の難民キャンプの解体、さらには、不安定要因の根源であるモブツ政権の打倒を目指すようになります。 こうした中、1996年8月、モブツが前立腺癌治療のためスイスの病院に入院すると、その隙を狙って、ルワンダの支援を受けたバニャムレンゲ(1960年以前からザイールに居住していたツチ人とその子孫)の大規模反乱が発生。モブツの長期独裁政権への不満から、ザイール国民が反乱勢力を支持する中、同年10月、人民革命党のローラン・カビラひきいるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) がツチ人の軍事力を背景にキンシャサに向かって進撃を開始します。さらに、周辺のルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ブルンジもそれぞれの思惑からAFDLを支援し内戦に介入しました。これが、いわゆる第1次コンゴ戦争です。 混乱の中、モブツは南フランスでの静養を理由に帰国せず、AFDLはザイール全土の約4分の3を制圧。これを受けて、米英仏や国連は調停工作に乗り出し、1997年5月7-8日、ザイール情勢を協議するための“中部アフリカ仏語諸国7ヶ国首脳会議”がガボンで開催されます。ここで、モブツは“健康上の理由”で次期大統領選挙には出馬しないことを約束。同月16日、キンシャサに戻ったモブツは引退を発表し、翌17日、AFDL軍がキンシャサに入城してカビラは“(第2)コンゴ民主共和国”の樹立を宣言し、モブツのザイール共和国は崩壊しました。ただし、現在でも、旧仏領のコンゴ共和国との区別が容易という理由から、コンゴ民主共和国に関しては“旧ザイール”と併記するケースがしばしば見られます。 今回ご紹介の切手の“国章”は、1997年の第2共和国発足に伴い、旧ザイール時代の国章に変わるものとして制作されたもので、向かい合う2頭のライオンの間に、コンゴ民主共和国を意味する青字に黄色の五芒星の上に乗った歯車と、その中に憲法と銃剣、鍬を組み合わせたデザインとなっています。しかし、2003年、第2共和国憲法が制定されたときには、今回ご紹介の切手のモノとは別の国章が採用されたため、切手の国章は“仮の国章”という位置づけのまま終わっています。 なお、旧ベルギー領コンゴから独立したコンゴの現代史については、拙著『喜望峰』でもその概略をご説明しているほか、ゲバラの遠征を軸に、現在制作中の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも、いろいろな角度からまとめています。諸般の事情で制作作業が予定よりも大幅に遅れており、心苦しい限りなのですが、正式な刊行日等、詳細が決まりましたら、このブログでも随時ご案内いたしますので、よろしくお願いします。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-05-17 Wed 10:59
1997年5月17日、ザイールのモブツ独裁政権が倒れ、(第2次)コンゴ民主共和国の樹立が宣言されてから、きょうで20年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、(第1次)コンゴ民主共和国時代の1966年に発行されたモブツ大統領の肖像切手です。 現在のコンゴ民主共和国の領域はかつてはベルギーの植民地でしたが、1960年にコンゴ共和国として独立。しかし、同年、隣接する旧仏領の国もまったく同名の“コンゴ共和国”として独立したため、両者はそれぞれの首都の名を冠して、旧ベルギー領の国をコンゴ・レオポルドヴィル、旧仏領の国をコンゴ・ブラザヴィルと呼ぶなどして区別されていました。 旧ベルギー領のコンゴ・レオポルドヴィルでは、1960年の独立当初から(第1次)コンゴ動乱が始まり、各派入り乱れての内戦状態に突入しますが、そうした中で、1964年8月1日、隣国のコンゴ・ブラザヴィルと区別するため、コンゴ・レオポルドヴィルの国名は(第1次)コンゴ民主共和国に変更されました。 翌1965年11月、第1次共和国では、国軍参謀総長のモブツが軍事クーデターを起こして大統領に就任します。今回ご紹介の切手は、これを受けて発行されたもので、切手に描かれたモブツの肩書は“コンゴ民主共和国大統領”です。 政権を掌握したモブツは独裁体制を確立し、植民地遺制を排除する“ザイール化政策”を展開。自らの名前をジョセフ・デジレ・モブツからモブツ・セセ・セコに改名したほか、首都レオポルドヴィルをキンシャサと改称し、1971年には国号をコンゴ民主共和国からザイールに変更しました。 モブツ政権は、東西冷戦という国際環境を利用し、アフリカにおける“反共の砦”として西側諸国から巨額の支援を引き出していましたが、海外からの経済支援や国内の鉱山資源などの利益は、モブツとその一族が大半を着服。ザイール国家はモブツ一派の私物化され、経済は衰退します。1965年からモブツが退陣する1997年までの間に、同国のGDPは65%も減少。国民は貧困にあえぎ、中央政府の地方統制も緩んで、反政府勢力は首都キンシャサから離れた東部を拠点に活動を展開するようになりました。 一方、ザイールの隣国ルワンダでは、1994年4月、フツ人過激派によるツチ族大虐殺が始まります。大虐殺は、同年7月に収束しましたが、この間、150万人もの難民が国境を越え、ザイール東部に流入。“難民”の中には、大虐殺の加害者であるフツ人過激派の残党もかなり含まれていましたが、モブツは彼らのルワンダ侵攻計画を支援。このため、ルワンダ政府は対抗上、ザイール東部の難民キャンプの解体、さらには、不安定要因の根源であるモブツ政権の打倒を目指すようになります。 こうした中、1996年8月、モブツは前立腺癌治療のためスイスの病院に入院しましたが、そのタイミングを狙って、ルワンダの支援を受けたバニャムレンゲ(1960年以前からザイールに居住していたツチ人とその子孫)の大規模反乱が発生。モブツの長期独裁政権への不満から、ザイール国民が反乱勢力を支持する中、同年10月、人民革命党のローラン・カビラひきいるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) がツチ人の軍事力を背景にキンシャサに向かって進撃を開始します。周辺のルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ブルンジもそれぞれの思惑からAFDLを支援し内戦に介入しました。これが、いわゆる第1次コンゴ戦争です。 混乱の中、モブツは南フランスでの静養を理由に帰国せず、AFDLはザイール全土の約4分の3を制圧。これを受けて、米英仏や国連は調停工作に乗り出し、1997年5月7-8日、ザイール情勢を協議するための“中部アフリカ仏語諸国7ヶ国首脳会議”がガボンで開催されます。ここで、モブツは“健康上の理由”で次期大統領選挙には出馬しないことを約束。同月16日、キンシャサに戻ったモブツは引退を発表し、翌17日、AFDL軍がキンシャサに入城してカビラは“(第2次)コンゴ民主共和国”の樹立を宣言し、モブツのザイール共和国は崩壊しました。ただし、現在でも、旧仏領のコンゴ共和国との区別が容易という理由から、コンゴ民主共和国に関しては“旧ザイール”と併記するケースがしばしば見られます。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2016-06-04 Sat 14:18
プロボクシングの元世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリ氏(以下、敬称略)が、きのう(現地時間3日)、亡くなりました。享年74歳。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1975年にザイール(現コンゴ民主共和国)で発行された“キンシャサの奇跡1周年”の記念切手です。 1966年、ヴェトナム戦争さなかの米国で、世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリは徴兵を拒否。このため、1967年、アリは一審で禁錮5年・罰金1万ドルの有罪判決を受け、プロボクサーとしてのライセンスを剥奪され、1970年まで正規の試合ができませんでした。 一方、違法賭博の胴元として何度も逮捕されていたドン・キングは、1971年に保釈されると、1972年、地元クリーヴランドでチャリティー・イヴェントとしてモハメド・アリによるエキシビジョンマッチを実現し、仲介手数料として8万ドルを手にしていました。 当時の米国では公民権運動が盛り上がり、黒人の間にも権利意識が高まっていましたが、こうした空気を利用して、キングは「アフリカは黒人の故郷である」として、ボクシングと人種問題を絡めてアフリカでの興行を考えます。 これに食いついてきたのが、ザイールの独裁者、モブツ・セセ・セコでした。コンゴ民主共和国の独裁者として国号をザイールに変更した彼にとって、アリの試合を開催することは、自分の命名した新国名を世界的に定着させるための絶好の舞台になると思われたからです。 かくして、モブツはキングに1000万ドルを提供し、1974年10月30日、元王者モハメド・アリと、当時の世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンとの世紀の一戦“ランブル・イン・ザ・ジャングル”が、ザイールの首都キンシャサの“5月20日スタジアム(現タタ・ラファエル・スタジアム)”で行われることになりました。(ちなみに、切手の加刷は1974年9月24日を変更して9月25日となっていますが、これらはいずれも試合当日の日付ではありません) 当時、アリは32歳。復帰後の1971年には当時のチャンピオン、ジョー・フレージャーと戦って敗れており、すでにボクサーとしてのピークは過ぎたと見られていました。一方、1973年にフレイジャーを破ってチャンピオンの座についたフォアマンは、当時25歳。まさに日の出の勢いで、試合は圧倒的にフォアマンが有利というのが大方の予想でした。 ところが、アリは、ロープにもたれながらフォアマンのパンチを腕でブロックし、相手の疲れを待つ“ロープ・ア・ドープ”という戦術によって、8回、疲れを見せたフォアマンに一気に反撃し、KO勝利を収めます。 試合の模様は全世界にテレビ中継され、人々はアリが劇的な復活をとげた“キンシャサの奇跡”に大興奮。アリの第2期黄金時代が開幕しました。 ちなみに、当時のザイールの通貨は、国名と同じ“ザイール”で、補助通貨はマクタ(1ザイール=100マクタ)でした、今回ご紹介の切手が発行される1年前の1974年、ザイール郵政はこの切手と同図案の切手を発行しており、その額面表示は20マクタとなっていましたが、今回ご紹介の切手は、“ザイール”の名前をより定着させるため、額面表示を“0.20ザイール”に変更しています。 “キンシャサの奇跡”により、ザイールとその首都キンシャサの名は一躍全世界の人々に認知されることになり、その点では、モブツの思惑通りとなったわけですが、今回ご紹介の切手もまた、そうした事情を反映したものとみてよいでしょう。 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★ 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 2350円+税 【出版元より】 若く美しい女王の横顔に恋しよう! 世界最初の切手 欲しくないですか/知りたくないですか 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 2000円+税 【出版元より】 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-08-28 Fri 22:32
コンゴ(旧ザイール)で政治活動をし、日本に逃れたマサンバ・マンガラ氏が、難民申請を退けた国の処分取り消しを求めた訴訟の判決で、東京地裁は、きょう(28日)、「政治的に迫害される恐れがある」として処分を取り消し、難民と認めるよう国に命じました。というわけで、この切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1999年にコンゴ民主共和国が発行した切手で、コンゴ民主共和国の成立を宣言するローラン・カビラ大統領が描かれています。 1965年のクーデターで独裁者となったモブツ・セセ・セコは、国号をコンゴ民主共和国からザイールに変更するとともに、東西冷戦という国際環境を利用し、アフリカにおける“反共の砦”として西側諸国から巨額の支援を引き出していました。 しかし、海外からの経済支援や国内の鉱山資源などの利益は、モブツとその一族が大半を着服。ザイール国家はモブツ一派の私物化され、経済は衰退しました。ちなみに、1965年からモブツが退陣する1997年までの間に、同国のGDPは65%も減少しています。国民は貧困にあえぎ、中央政府の地方統制も緩んで、反政府勢力は首都キンシャサから離れた東部を拠点に活動を展開するようになりました。 ところで、ザイールの隣国ルワンダでは、1994年4月、フツ人過激派によるツチ族大虐殺が始まります。大虐殺は、同年7月に収束しましたが、この間、150万人もの難民が国境を越え、ザイール東部に流入。“難民”の中には、大虐殺の加害者であるフツ人過激派の残党もかなり含まれていましたが、モブツは彼らのルワンダ侵攻計画を支援。このため、ルワンダ政府は対抗上、ザイール東部の難民キャンプの解体、さらには、不安定要因の根源であるモブツ政権の打倒を目指すようになります。 1996年8月、モブツは前立腺癌治療のためスイスの病院に入院しましたが、そのタイミングを狙って、ルワンダの支援を受けたバニャムレンゲ(1960年以前からザイールに居住していたツチ人とその子孫)の大規模反乱が発生。モブツの長期独裁政権への不満から、ザイール国民が反乱勢力を支持する中、同年10月、人民革命党のローラン・カビラひきいるコンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) がツチ人の軍事力を背景にキンシャサに向かって進撃を開始します。周辺のルワンダ、ウガンダ、アンゴラ、ブルンジもそれぞれの思惑からAFDLを支援し内戦に介入しました。いわゆる第1次コンゴ戦争である。 混乱の中、モブツは南フランスでの静養を理由に帰国せず、AFDLはザイール全土の約4分の3を制圧しました。 米英仏や国連は調停工作に乗り出し、1997年5月7-8日、ザイール情勢を協議するための“中部アフリカ仏語諸国7ヶ国首脳会議”がガボンで開催され、モブツは“健康上の理由”で次期大統領選挙には出馬しないことを約束。同月16日、キンシャサに戻ったモブツは引退を発表し、翌17日、AFDL軍がキンシャサに入城してカビラは“コンゴ民主共和国”の樹立を宣言し、モブツのザイール共和国は崩壊しました。 その後、カビラが2001年に暗殺されると、息子のジョゼフ・カビラが29歳の若さで大統領に就任。ジョゼフは、2003年、2大反政府勢力のコンゴ民主連合ゴマ派(RCDゴマ)とコンゴ解放運動 (MLC) の指導者2人を含む4人を副大統領とする暫定政権を樹立し、政権の安定化を図ります。そして、2006年には新憲法を施行して大統領選挙を実施し、得票率44%で大統領に当選。2011年の選挙でも再選され、現在まで政権を維持しています。ちなみに、報道によると、今回、難民認定されたマンガラ氏は、この間の2005年から反政府デモに参加し、2008年に逮捕されそうになったために逃亡して日本に逃れてきたそうです。 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 10月から毎月1回(原則第1火曜日:10月6日、11月3日、12月1日、1月5日、2月2日、3月1日)、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で下記の一般向けの教養講座を担当します。(下の青い文字をクリックしていただくと、よみうりカルチャーのサイトに飛びます) ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 初回開催は10月6日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 好評発売中! ★★★ 税込2160円 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました! 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾン、boox store、e-hon、honto、YASASIA、紀伊國屋書店、セブンネット、ブックサービス、丸善&ジュンク堂、ヨドバシcom.、楽天ブックスをご利用ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-06-10 Wed 22:20
アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2015年6月10日号が、先週刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はコンゴ民主共和国(旧ベルギー領)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1886年に発行された“コンゴ独立国”最初の切手です。 1865年に即位したベルギー国王レオポルド2世は、即位当初から植民地獲得の必要性を訴えていましたが、1876年9月、コンゴ探検を支援する“国際アフリカ協会”(のちにコンゴ国際協会に改組)を創設し、1879-83年、英国の探検家ヘンリー・スタンリーにコンゴ川流域を探検させ、先住民部族の部族長たちと独占的な貿易協定を締結しました。 これに対して15世紀以来、在地のコンゴ王国と関係のあったポルトガルが反発し、コンゴ川河口周の主権を主張。これを英国が支持すると、独仏はベルギーを支持し、列強の対立が深まりました。 このため、1884-85年、列強14カ国によるベルリン会議が開催され、コンゴを中立化し、門戸を開放して自由貿易の地にすることを条件として、コンゴはレオポルド2世の“私有地”とされました。これを受けて、1885年、レオポルド2世の私領“コンゴ独立国”が創設されます。なお、同国は自由貿易の国という意味で“コンゴ自由国”と呼ばれることも多いのですが、これは俗称です。 さて、コンゴ独立国はあくまでもレオポルド2世の私領という扱いで、ベルギーの国家とは無関係という建前でした。このため、国王は専制君主として君臨するとともに、巨額の私費を投じ、さらには、個人の信用で国内外の投資家の投資を募り、マタディ=レオポルドヴィル鉄道の建設など、近代化政策を推進しました。その一方で、莫大な開発コスト回収のため、1891年以降、象牙と天然ゴムが国王の独占事業とされ、先住民には過酷なノルマが課せられただけでなく、未達の場合は手足切断などの刑罰が科されています。 このため、1885年に3000万人と言われたコンゴ独立国の人口は、1901年までに900万人にまで減少しましたが、250トン以下だった天然ゴムの生産量は6000トンに増大しました。 こうした圧政に対しては国際世論の批判も強かったため、1906年、ベルギー議会はコンゴを国王の私領からベルギー国家の植民地へ転換させる決議を採択。国王はこれに抵抗しましたが、1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定。国王はベルギー政府からの補償金との引き換えにコンゴ自由国を手放し、同年11月、コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになりました。 さて、『世界の切手コレクション』6月10日号の「世界の国々」では、コンゴ独立国から1960年の独立と内戦を経て国名がザイールとなるまでの、この地域の近現代史について概観した長文コラムのほか、独立の英雄ルムンバ、ベルギーの漫画『タンタンのコンゴ探検』、ゴリラ、マタディ=レオポルドヴィル鉄道の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。 なお、本日発売の6月17日号では、「世界の国々」はセント・ヴィンセントを特集していますが、こちらについては、来週、このブログでもご紹介する予定です。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 好評発売中! ★★★ 税込2160円 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました! 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾン、boox store、e-hon、honto、YASASIA、紀伊國屋書店、セブンネット、ブックサービス、丸善&ジュンク堂、ヨドバシcom.、楽天ブックスをご利用ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-03-11 Wed 09:31
アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2015年3月11日号が、先週刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はザイール時代のコンゴ民主共和国を取り上げています。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1974年、キンシャサで開催されたモハメド・アリとジョージ・フォアマンの試合開催に際してザイールが発行した記念切手です。 1966年、ヴェトナム戦争さなかの米国で、世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリは徴兵を拒否。このため、1967年、アリは一審で禁錮5年・罰金1万ドルの有罪判決を受け、プロボクサーとしてのライセンスを剥奪され、1970年まで正規の試合ができませんでした。 一方、違法賭博の胴元として何度も逮捕されていたドン・キングは、1971年に保釈されると、1972年、地元クリーブランドでチャリティー・イヴェントとしてモハメド・アリによるエキシビジョンマッチを実現し、仲介手数料として8万ドルを手にしています。 当時の米国では公民権運動が盛り上がり、黒人の間にも権利意識が高まっていました。こうした空気を利用して、キングは「アフリカは黒人の故郷である」として、ボクシングと人種問題を絡めてアフリカでの興行を考えます。 これに食いついてきたのが、ザイールの独裁者、モブツ・セセ・セコでした。コンゴ民主共和国の独裁者として国号をザイールに変更した彼にとって、アリの試合を開催することは、自分の命名した新国名を世界的に定着させるための絶好の舞台になると思われたからです。 かくして、モブツはキングに1000万ドルを提供し、1974年10月30日、元王者モハメド・アリと、当時の世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンとの世紀の一戦“ランブル・イン・ザ・ジャングル”が、ザイールの首都キンシャサの“5月20日スタジアム(現タタ・ラファエル・スタジアム)”で行われることになりました。 当時、アリは32歳。復帰後の1971年には当時のチャンピオン、ジョー・フレージャーと戦って敗れており、すでにボクサーとしてのピークは過ぎたと見られていました。一方、1973年にフレイジャーを破ってチャンピオンの座についたフォアマンは、当時25歳。まさに日の出の勢いで、試合は圧倒的にフォアマンが有利というのが大方の予想でした。 ところが、アリは、ロープにもたれながらフォアマンのパンチを腕でブロックし、相手の疲れを待つ“ロープ・ア・ドープ”という戦術によって、8回、疲れを見せたフォアマンに一気に反撃し、KO勝利を収めます。 試合の模様は全世界にテレビ中継され、人々はアリが劇的な復活をとげた“キンシャサの奇跡”に大興奮。アリの第2期黄金時代が開幕しました。 一方、この一戦を通じて、ザイールとその首都キンシャサの名は一躍全世界の人々に認知されることになり、その点では、モブツの思惑通りとなっています。 さて、 『世界の切手コレクション』3月11日号の「世界の国々」では、今回ご紹介の“キンシャサの奇跡”とモブツ政権の歴史にスポットを当てた長文コラムのほか、謎の死を遂げた大統領夫人やルワンダとの国境に位置するキヴ湖、固有種のボノボ、伝統芸能の仮面の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。 なお、本日発売の3月18日号では、「世界の国々」はコンゴ共和国(旧仏領)を特集していますが、こちらについては、来週、このブログでもご紹介する予定です。 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 毎月1回(原則第1火曜日:3月31日、4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。(下の青い文字をクリックしていただくと、よみうりカルチャーのサイトに飛びます) ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 次回開催は3月31日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 3月25日発売! ★★★ 税込2160円 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 本書のご注文はこちら(出版元の予約受付サイトです)へ。内容のサンプルはこちらでご覧になれます。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2013-12-02 Mon 15:40
今年6月、コンゴ民主共和国の首都・キンシャサで、日本大使館が入る建物から火が出て、大使館が半焼した事件で、警視庁は、きょう(2日)、当時、3等書記官として大使館に勤務していた日本人の男を逮捕しました。男は着服を隠蔽する目的で放火した疑いがあるとみられいます。というわけで、コンゴ民主共和国がらみのマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第2次コンゴ動乱時の1964年、ベルギー領コンゴ時代の切手に“人民共和国(REPUBLIQUE POPULAIRE)”と加刷して発行された切手です。 1960年、アフリカ諸国が相次いで独立する中で、同年6月30日、ベルギー領コンゴもコンゴ共和国として独立。コンゴ族同盟(アバコ党)の指導者であったジョセフ・カサヴブが大統領に、コンゴ国民運動(MNC)を率いたパトリス・ルムンバが首相に就任しました。 しかし、コンゴ駐留のベルギー軍撤退問題をめぐり、対外強硬路線のルムンバとベルギー軍が衝突。さらに、混乱の中で、地下資源の豊かなカタンガ州を地盤とするモイーズ・チョンベは、7月11日、ベルギーの支援を受けて、カタンガの独立を宣言。親西側のカサヴブと急進民族主義路線を掲げるルムンバの路線対立もあり、独立間もないコンゴは四分五裂の状態に陥りました。いわゆる第1次コンゴ動乱です。 ルムンバの要請を受けた国連は、7月14日、安保理決議143を採択。“国連軍”が編成され、カタンガ独立問題へ関与しないことを条件にコンゴに進駐すると、カタンガ政権は豊富な資金力を背景に白人の傭兵部隊を大量に雇い入れ、ルムンバ側からの攻撃に抵抗しました。 各派入り乱れての泥沼の内戦の中で、1960年9月、大統領のカサヴブが首相のルムンバを更迭すると、ルムンバ内閣は大統領の解任を決議。しかし、CIAの支援を受けた陸軍参謀長ジョセフ・デジレ・モブツ大佐のクーデターにより、ルムンバは逮捕され、殺されます。 混乱の末、ようやく1961年7月、カサヴブは、カタンガ政権以外の勢力をまとめあげてシリル・アドウラを首相とする挙国一致体制を樹立。これを受けて、国連軍が外国人傭兵の逮捕・追放のための大規模な作戦を開始し、カタンガ政権に対する経済制裁も発動されました。資金源を断たれたカタンガ政権は急速に弱体化し、1963年1月に降伏。チョンベもスペインに亡命し、第1次コンゴ動乱も終結します。 ところが、1964年6月、国連軍が撤退するとピエール・ムレレ率いる共産ゲリラのシンバが中国の支援を得て反乱を起こし、第2次コンゴ動乱が勃発しました。 ムレレは、ルムンバ亡き後、一時期、外交官としてカイロに赴任した経験を持ち、モスクワ、ベイルートを経て、1962年3月から中国に滞在。ゲリラ戦術や政治教育の方法、銃器や爆発物などの知識と技術を身につけ、1963年7月、秘密裏にキンシャサに戻り、毛沢東主義に倣って農村を拠点に革命運動を展開していました。 ムレレの“革命”は急速に勢力を拡大し、一時はコンゴの2/3を制圧。革命開始から1964年9月にはスタンレーヴィルで“コンゴ人民共和国”の建国が宣言されました。今回ご紹介の切手は、こうした背景の下、シンバの支配地域で発行されたものです。 これに対して、窮地に陥ったコンゴ政府は、スペインに亡命していたチョンベを呼び戻して首相に据えるという荒業に打って出ます。チョンベは、アンゴラに逃げていたカタンガ憲兵隊と白人傭兵を呼び戻し、米国やベルギーからの支援も獲得。これで一気に形勢を逆転したコンゴ政府は、1964年11月にスタンレーヴィルへ大攻勢を行い、傭兵部隊やCIA特殊部隊、ベルギー軍特殊部隊の活躍によってシンバ政権を叩き潰し、国号をコンゴ共和国からコンゴ民主共和国に変更しました。 その後、コンゴ動乱は1965年に米国の支援を受けたモブツ・セセ・セコがクーデターを起こし、独裁政権を樹立したことで終結。モブツ政権は1971年に国号をザイール共和国と改称し、長期独裁体制を維持しました。 これに対して、1996年11月、ルワンダ、ウガンダ、ブルンジなどに支援されたバニャムレンゲやコンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)などが武装蜂起。周辺諸国をも巻き込んだ第1次コンゴ戦争が勃発し、1997年5月17日、首都キンシャサが陥落してモブツ政権は崩壊しました。これを受けて、国号もザイールからコンゴ民主共和国に戻され、現在にいたっています。 このように、旧ベルギー領コンゴの独立後の複雑な歴史については、拙著『喜望峰』でも各種のマテリアルをご紹介しながらまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩 ★★★ 2014年1月11日・18日・2月8日のそれぞれ13:00-15:00、文京学院大学生涯学習センター(東京都文京区)で、「絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩」と題する講座をやります。(1月18日は、切手の博物館で開催のミニペックスの解説) 新たに富士山が登録されて注目を集めるユネスコの世界遺産。 いずれも一度は訪れたい魅力的な場所ばかりですが、実際に旅するのは容易ではありません。そこで、「小さな外交官」とも呼ばれる切手や絵葉書に取り上げられた風景や文化遺産の100年前、50年前の姿と、講師自身が撮影した最近の様子を見比べながら、ちょっと変わった歴史散歩を楽しんでみませんか? 講座を受けるだけで、世界旅行の気分を満喫できることをお約束します。 詳細はこちら。皆様の御参加を、心よりお待ちしております。 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★ 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は12月3日(原則第1火曜日)で、以後、1月7日、2月4日、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★ 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より) 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2013-08-16 Fri 16:56
今年6月、コンゴ民主共和国の首都・キンシャサで、日本大使館が入る建物から火が出て、大使館が半焼した事件で、警視庁は、放火の疑いがあるとして、きょう(16日)、捜査1課や鑑識課の捜査員15人を現地へ派遣しました。日本の警察が在外公館の事件を捜査するのは異例のことだそうです。というわけで、きょうは、コンゴ民主共和国がらみのマテリアルということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、現在のコンゴ民主共和国がコンゴ共和国として独立した当初の1960年10月20日、同国東部のブカヴからベルギー宛に差し出された航空便で、旧ベルギー領時代の切手(メガネザルの50サンチーム)、旧ベルギー領時代の切手にコンゴ加刷の暫定切手(ハイビスカスの1F切手)、コンゴ独立後の正刷切手(独立記念の地図1フラン切手)が貼られており、独立初期の過渡的な使用例となっています。 19世紀のアフリカ分割の過程で、ベルギーは探検家スタンレーをコンゴに派遣し、多数の基地を設けて現地勢力の長たちと様々な取り決めを結んでいました。これに対して、以前から沿岸部の権益拡大を進めていたポルトガルが反発し、1882年にはコンゴ川河口地域における主権を宣言。イギリスはポルトガルを支持しましたが、フランスはベルギーを支持する一方で、自ら探検家ピエール・ド・ブラザをアフリカ内陸部に派遣。ドイツもポルトガル支持を見送りました。このように、各国の思惑が錯綜する中で問題解決のためのベルリン会議が1884年11月15日から1885年2月26日まで開催され、コンゴ盆地はベルギー国家でなくベルギー王の私財となり、フランスが権益を築いたコンゴ盆地北西端は“中央コンゴ”としてフランス領とされました。 その後、1908年、ベルギー政府は国王からコンゴ盆地を買い取り、同国の植民地としてベルギー領コンゴが発足。1950年代後以降、ジョゼフ・カサブブのコンゴ人同盟(アバコ党)やパトリス・ルムンバのコンゴ国民運動などが独立闘争を展開し、1960年6月30日、コンゴ共和国(旧仏領の隣国も正式な国名が“コンゴ共和国”だったため、区別するため、旧仏領=コンゴ・レオポルドビル、旧白領=コンゴ・キンシャサなど呼んで区別されることもあります)として独立しました。独立後の新政府では、コンゴ族同盟(アバコ党)の指導者であったカサヴブが初代大統領に、コンゴ国民運動を率いたルムンバが初代首相に就任しています。 しかし、コンゴ駐留のベルギー軍撤退問題をめぐり、急進左派のルムンバにベルギー軍が反発。コンゴ在住のベルギー国民への攻撃も相次いだため、7月8日、自国民保護のため、ベルギー軍が首相官邸を襲撃し、首都キンシャサの国際空港を占領すると、ルムンバはベルギーとの国交断絶を表明します。 混乱の中で、地下資源の豊かなカタンガ州(たとえば、カタンガの銅生産量は当時の世界総生産量の70%を占めていたほか、いわゆるレアメタルも豊富でした)を地盤とするモイーズ・チョンベは、7月11日、ベルギーの支援を受けて、カタンガの独立を宣言。親西側のカサヴブと急進民族主義路線を掲げるルムンバの路線対立もあり、独立間もないコンゴは政府が機能不全に陥り、四分五裂の状態に陥りました。いわゆる第1次コンゴ動乱です。 第1次コンゴ動乱は1965年に米国の支援を受けたモブツ・セセ・セコの独裁政権が樹立されるまで続きましたが、この間、1964年には国号がコンゴ民主共和国に改称されています。その後、モブツ政権は1971年に国号をザイール共和国と改称し、長期独裁体制を維持しました。 これに対して、1996年11月、ルワンダ、ウガンダ、ブルンジなどに支援されたバニャムレンゲやコンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)などが武装蜂起。周辺諸国をも巻き込んだ第1次コンゴ戦争が勃発し、1997年5月17日、首都キンシャサが陥落してモブツ政権は崩壊しました。 モブツ政権の崩壊後、大統領に就任したローラン・カビラは、国名をザイール共和国からコンゴ民主共和国に変更した後、AFDLの幹部を追放し、司法権を除く全権を大統領に付与すると発表するなど強権支配体制を敷いたため、これに反発する勢力はコンゴ民主連合を結成。1998年8月2日に蜂起し、いわゆる第2次コンゴ戦争が勃発しました。 第2次コンゴ戦争は、国内の民族対立に加え、ダイヤモンドやコバルトなどの豊富な鉱産資源に関する利権も絡み、ウガンダとルワンダが反政府勢力のコンゴ民主連合 (RCD) を、ジンバブエ、ナミビア、アンゴラが政府軍を支援したことで泥沼化。2003年に和平合意が成立するまでに、戦闘などで住民20万人以上が死亡し、紛争に伴う食糧・医薬品不足などでさらに150万人が死亡したといわれています。 しかし、その後も東部地域(イトゥリ州、南キヴ州、北キヴ州)では情勢が安定せず、2012年4月には北キブ州において、国軍を離脱した元反政府勢力が国軍と軍事衝突を起こして、以後、他の武装勢力も活発化しているようです。 このように、旧ベルギー領以来のコンゴ民主共和国の情勢はかなり複雑で、それらを切手や郵便物を通じて追いかけてみるとかなり面白いコレクションができそうです。そのごく一部については、拙著『喜望峰』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★ 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より) 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。 * 出版元特設ページはこちらをご覧ください。 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★ 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は9月3日(原則第1火曜日)で、時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-12-25 Tue 09:28
きょうはクリスマスです。というわけで、聖母子関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1961年2月6日、第一次コンゴ動乱期のカタンガ政権下のコルウェジから差し出されたカバーで、ベルギー領コンゴ時代の1959年に発行された聖母子像のクリスマス切手に“CONGO”加刷の切手(キンシャサ政権発行)と“KATANGA”加刷(カタンガ政権発行) の切手が混貼されているのがミソです。切手に加え、カタンガ独立を訴えるラベルも貼られているのも良いですな。 1960年、アフリカ諸国が相次いで独立する中で、同年6月30日、ベルギー領コンゴもコンゴ共和国(キンシャサ政権)として独立。コンゴ族同盟(アバコ党)の指導者であったジョセフ・カサヴブが初代大統領に、コンゴ国民運動(MNC)を率いたパトリス・ルムンバが初代首相に就任しました。 しかし、コンゴ駐留のベルギー軍撤退問題をめぐり、急進左派のルムンバにベルギー軍が反発。コンゴ在住のベルギー国民への攻撃も相次いだため、7月8日、自国民保護のため、ベルギー軍が首相官邸を襲撃し、首都キンシャサの国際空港を占領すると、ルムンバはベルギーとの国交断絶を表明します。 混乱の中で、地下資源の豊かなカタンガ州(たとえば、カタンガの銅生産量は当時の世界総生産量の70%を占めていたほか、いわゆるレアメタルも豊富でした)を地盤とするモイーズ・チョンベは、7月11日、ベルギーの支援を受けて、カタンガの独立を宣言。親西側のカサヴブと急進民族主義路線を掲げるルムンバの路線対立もあり、独立間もないコンゴは政府が機能不全に陥り、四分五裂の状態に陥りました。いわゆる第1次コンゴ動乱です。 ルムンバの要請を受けた国連は、7月14日、安保理決議143を採択。ベルギー軍のコンゴからの撤退を求め、コンゴ国軍が治安維持を行なえるようなるまでコンゴ共和国と協議の上、各国から軍事援助を行なえる手段を取ることを国際連合事務総長に求めました。こうして“国連軍”が編成されてベルギー軍と交代し、カタンガ州内へも独立問題へ関与しないことを条件に進駐します。 国連軍の進駐により、治安が次第に回復すると、ベルギーと米国は、治安が安定しているカタンガ州への国連軍進駐は、“暴動によって混乱した治安の回復”を目的とする国連軍の目的を越え、コンゴへの内政干渉にあたると抗議。これに対して、ルムンバ政権とソ連をはじめとする東側諸国はカタンガ州への国連軍進駐を強硬に主張し、両社は激しく対立しました。 カタンガ政権は、「我々は共産主義(彼らの理解ではルムンバ派や国連のことです)の魔の手からアフリカの白人を護るための十字軍である」との大義名分の下、南アフリカや英領中央アフリカ連邦(現在のジンバブエ・ザンビア・マラウイで構成)で身体頑健で軍隊経験のある白人をリクルートしました。基本給は、士官が月250ポンド、下士官が180ポンド、兵卒が70-120ポンドでした。 このとき、南アの傭兵の中心人物となったのが、マイク・ホアレです。 ホアレは、1919年、インドでアイルランド系の両親の下に生まれました。8歳でロンドンの寄宿学校へ入学し、高校卒業後、英国国防義勇軍に入隊。その後、下士官養成学校と将校養成学校を首席で卒業し、偵察連隊へ配属。第二次世界大戦ではビルマで戦い、コヒマの攻防戦にも参加しています。退役後は、1949年に南ア・ナタール州に移住し会計士として働いていましたが、1961年2月、白人傭兵部隊「インターナショナル・カンパニー」を設立し、第1次コンゴ動乱に参戦しました。 各派入り乱れての泥沼の内戦の中で、1960年9月、大統領のカサヴブが首相のルムンバを更迭すると、ルムンバ内閣は大統領の解任を決議。政府機能は完全に麻痺し、首都の治安も崩壊する中で、9月14日、ついに国軍が動くことになります。すなわち、CIAの支援を受けた陸軍参謀長ジョセフ・デジレ・モブツ大佐がクーデターを決行したのです。 クーデターは大統領の支持を受けて成功し、ルムンバは逮捕され、翌1961年1月に殺害されました。これに対して、ルムンバ派は、コンゴ東部のスタンレーヴィル(現キサンガニ)を拠点に、ソ連やアラブ諸国からの支援を受けて新政府の樹立を宣言。ルムンバの殺害によって国際世論の同情を集めたスタンレーヴィル政権は、国連からコンゴの正統政権として承認を受けました。 これに対して、同年7月、カサヴブは、カタンガ以外の勢力(ルムンバ派も含む)をまとめあげてシリル・アドウラを首相とする挙国一致体制(アドウラ政府)を樹立。この挙国一致政府を支援するかたちで、国連軍が外国人傭兵の逮捕・追放のための大規模な作戦を開始し、カタンガ政権に対する経済制裁も発動されました。資金源を断たれたカタンガ政権は急速に弱体化し、1963年1月に降伏。大統領のチョンベもスペインに亡命し、ようやく、第一次コンゴ動乱も終結しました。 さて、拙著『喜望峰:ケープタウンから見る南アフリカ』では、マイク・ホアレとの関連で、今回ご紹介のカバー以外にも、コンゴ動乱がらみのマテリアルをいろいろとご紹介しております。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★★ 『喜望峰:ケープタウンから見る南アフリカ』 いままでなかった喜望峰とケープタウンの物語 美しい風景とウンチク満載の歴史紀行!! アマゾン、セブンネット、版元ドットコム、楽天ブックス、e-hon、hmv、honto、JBOOK、livedoor BOOKSなどで好評発売中! なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したい、という方は、是非、ご連絡ください。資料を急送いたします。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
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