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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 きょうから<JAPEX 2019>
2019-11-15 Fri 00:40
 きょう(15日)から17日まで、東京・浅草の東京都立産業貿易センター台東館6・7階で全国切手展<JAPEX 2019>が開催されます。今回は、日本オーストリア友好150周年ならびに日本ハンガリー外交関係開設150周年ということで、“ハプスブルク帝国切手展”という企画出品の部門があるので、僕も、11月25日付で刊行予定の拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』のプロモーションを兼ねて「アウシュヴィッツ/オシフィェンチム ハプスブルク時代」と題して、ハプスブルク支配下のアウシュヴィッツ/オシフィェンチムについてまとめた1フレーム作品を出品しております。というわけで、きょうはその作品の中からこの1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツから上海宛

 これは、1905年12月9日、ハプスブルク支配下のオシフィェンチムから上海宛に差し出された郵便物で、宛先が“ゴールドシュタイン(Goldstein)”というユダヤ系特有の名前の企業になっていること、名宛人と差出人が同姓で差出人の名前に敬称がつけられていないことから、ユダヤ人の親族間の通信ではないかと推測されます。

 バグダードとイラク南部のパシャ(地方君主)の下で代々、会計主任を務めていたユダヤ人のサスーン家は、地元政府の弾圧を受けたことからペルシャを経てボンベイ(ムンバイ)に移住し、1832年、当時の当主だったデイヴィッドがサスーン商会を設立。時あたかも、英国はインド産のアヘンを中国に輸出して巨額の利益を得ていた時代で、サスーン商会はアヘン貿易で巨額の利益を蓄えます。

 1842年、アヘン戦争の講和条約として南京条約が結ばれ、上海が開港されると、外国人の居留地ができましたが、1845年には、英国やフランスが黄埔江(長江の支流)の西岸に租界(外国人が行政・警察機構を握り、中国の主権が及ばない開港地内の地域)を形成。それらは、後に英米列強と日本の租界を纏めた共同租界と、フランスのフランス租界に再編されます。

 デイヴィッドは、ここに次男のイリアスを派遣し、サスーン商会上海支店を開設。以後、サスーン商会は英・米・仏・独・ベルギーなどのユダヤ系商事会社、銀行を組合員として、インド、東南アジア、インドシナ、中国に投資を展開していきましたが、それと同時に、サスーン商会の関係者や取引先などを中心として、上海にもユダヤ人コミュニティが形成されていきます。19世紀後半から20世紀初頭にかけての上海在住のユダヤ人の出身地としては、インドが最も多く、これにドイツ、ロシアが続きましたが、ハプスブルク地域やフランス、イタリアの出身者も少数ながら存在していました。今回ご紹介のカバーの名宛人も、おそらくその一人だったのでしょう。

  現在のポーランドに相当する地域では、1264年、カリシュ公国のボレスワフ敬虔公がユダヤ人を対象としてポーランド国内の移動の自由、商業の自由、宗教の自由など多くの権利を認め、ユダヤ人の共同体を自らの保護下に置いています。

 1335年、カジミェシュ3世が首都クラクフのヴィスワ川対岸に新たな町、カジミェシュを建設し、ユダヤ人移民に居住地を提供すると、この地域はユダヤ人の集住地区となり、ユダヤ人の居住地区はカジミェシュの領域を超えてクラクフ中心部にも拡大していきました。

 18世紀末のポーランド分割後、クラクフとカジミェシュはハプスブルクの支配下に置かれましたが、新たな支配者となったハプスブルク帝国がカジミェシュを“クラクフ市”に編入したことで、クラクフ市は、中欧随一のユダヤ人口を抱える都市となります。さらに、1867年制定のオーストリア=ハンガリー帝国憲法において、クラクフのみならず、オーストリア=ハンガリー帝国在住のすべてのユダヤ人に完全なる市民権が与えられると、クラクフからオシフィェンチムを含む帝国各地に移住するユダヤ人も増加。そこから極東へ移住していくユダヤ人も出てきたというわけです。

 今回ご紹介のカバーは、上海に到着した後、まずは現地のドイツ郵便局(1886年8月16日開局)が引き受けます。上海のドイツ局では、当初、一般的な欧文表示の“SHANGHAI”と表示された郵便印を使用していましたが、1905年8月28日以降、ドイツ語風に“SCHANGHAI”と表示した郵便印が使用されています。このカバーは、ドイツ局でその“SCHANGHAI”表示の印が押された後、そこから地元の郵便局(“LOCAL POST”の印がある)に引き渡され、名宛人に配達されました。

 時代は下って、1938年3月、独墺合邦が行われると、同年8月、オーストリアのユダヤ人は、ナチス・ドイツの迫害を逃れ、イタリア船で上海に亡命。その後も、ドイツ占領下の旧ハプスブルク地域(オーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキアポーランドなど)からは多くのユダヤ難民が上海に集まり、北外灘の舟山路は“リトル・ウィーン”と呼ばれるほどになりましたが、このカバーは、その遠いルーツを偲ばせる一点といえるかもしれません。

 さて、2015年に刊行した拙著『アウシュヴィッツの手紙』ですが、おかげさまで在庫がほぼなくなりました。また、同書の刊行以降、 Postal History of Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア2018年のエルサレムと2度の世界切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。

 そこで、11月25日付で増補改訂版を出版すべく準備を進めていましたが、明日午前中にも、実物ができあがってくる見込みです。そこで、主催者のご厚意で、明日の午前中に増補改訂版を<JAPEX>会場に持ち込み、15日午後からをめどに先行販売をさせていただくことになりました。会場へお越しの方は、ぜひ、お手に取ってご覧いただけますと幸いです。


★★ 講座のご案内 ★★

 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)

日本史検定講座(全8講)
 12月13日(日)スタート!
 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。

・武蔵野大学生涯学習秋講座 
 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年12月15日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 )



★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★

       (増補改訂版)アウシュヴィッツの手紙・表紙  本体2500円+税(予定)
 
 出版社からのコメント
初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 日墺修好150年
2019-10-18 Fri 02:35
 1869年10月18日(明治2年9月14日)に、日本とオーストリア=ハンガリー帝国(以下、ハプスブルク帝国)の間で日墺修好通商航海条約が結ばれ、日本とオーストリアおよびハンガリーとの外交関係が樹立されてから、ちょうど150周年です。というわけで、ハプスブルク関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ハプスブルク・オシフィェンチム消(1879)

 これは、1879年7月28日、ハプスブルク支配下のオシフィェンチム(ドイツ語名 アウシュヴィッツ)で使用されたフランツ・ヨーゼフの10クロイツァー切手です。

 第二次大戦中、ナチス・ドイツ最大の収容所があった場所として知られるアウシュヴィッツは、14世紀以来、オシフィェンチム公国の支配下に置かれていましたが、1564年、ポーランド王ジグムント2世によりクラクフ県シロンスク郡に併合され、オシフィェンチム公国は名実ともに消滅しました。

 1772年、プロイセン、ハプスブルク、ロシアの3国は第1回ポーランド分割を行い、3国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得。これにより、旧オシフィェンチム公国の領域は、ハプスブルク家の支配下に組み込まれ、“ガリツィア・ロドメリア王国(ウクライナ語でハリーツィヤ・ヴォロディームィリヤ王国)およびクラカウ大公国・アウシュヴィッツ公国・ザトル公国(ポーランド語でクラクフ大公国・オシフィエンチム公国・ザトル公国)”の一部となりました。以後、オシフィェンチムはハプスブルク体制の支配下に置かれ、1804年までは神聖ローマ皇帝が、1806年から第一次大戦終結の1918年まではオーストリア皇帝がアウシュヴィッツ公(オシフィエンチム公のドイツ語読み)の称号を継承します。

 1795年、第3次ポーランド分割によってポーランド国家が消滅すると、ハプスブルク支配下のオシフィエンチムは事実上、プロイセンとの国境の町となり、人口こそ多くなかったものの(1792年の時点で2118人)、域内における物流の中継地点として定期市も開かれるようになりました。

 なお、1850年にオーストリアで最初の切手が発行されると、今回ご紹介のマテリアルのように、オシフィェンチムにもオーストリア切手が持ち込まれ、ハプスブルク帝国の崩壊まで使用されています。

 さて、2015年に刊行した拙著『アウシュヴィッツの手紙』ですが、おかげさまで在庫がほぼなくなりつつあります。また、同書の刊行以降、 Postal History of Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア2018年のエルサレムと2度の世界切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。

 そこで、このたび、2015年の拙著の増補改訂版を出版することになりました。すでに初校の作業は終了しており、現在、最後の編集作業を進めているところです。正式な発売日や定価など、詳細が決まりましたら、このブログでもご案内していきますので、よろしくお願いいたします。


★★ 講座のご案内 ★★

 10月からの各種講座のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治
 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可)

・武蔵野大学生涯学習秋講座 
 切手と浮世絵
 2019年10月31日 ー11月21日 (毎週木曜・4回)

 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年―
 2019年12月15日(日) 
 (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 )


★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 橋の日
2015-08-04 Tue 23:44
 きょう(4日)は、8-4の語呂合わせで橋の日です。というわけで、橋を取り上げたマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      オシフィエンチム・ソワ川

 これは、1914年にハプスブルク帝国支配下のオシフィエンチム(ドイツ語名アウシュヴィッツ)から差し出された絵葉書で、ソワ川の河畔に建つオシフィエンチム城と橋が取り上げられています。

 ポーランド南部の古都でユネスコの世界遺産にも登録されているクラクフから、ヴィスワ川(現在のポーランド=チェコ国境近くのバラニャ山を水源とする大河)を南西に約60km遡上していくと、支流のソワ川との分岐点になります。この一帯には、西暦12世紀頃までには、ソワ川を見下ろす丘の上に建てられた城砦(現オシフィエンチム城)を中心に町が築かれており、それが、ポーランド語名でオシフィエンチム、ドイツ語名でアウシュヴィッツとして知られる都市となりました。

 オシフィエンチムを含むシロンスク(現在のポーランド南西部からチェコ北東部の地域。日本語ではシレジアと呼ばれることが多い)の地域は、もともと、ポーランド大公を世襲したピャスト家の支配下にあり、14-16世紀にはオシフィエンチムを首府とするオシフィエンチム公国も存在していましたが、1564年、ポーランド王ジグムント2世は、オシフィエンチム公国をクラクフ県シロンスク郡に併合し、オシフィエンチム公国は名実ともに消滅します。ただし、称号としてのオシフィエンチム公は、公国の消滅後もポーランド王が名乗り続けることで存続しました。

 その後、1772年にプロイセン・オーストリア・ロシアの3国によって第1回ポーランド分割が行われ、3国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得。これにより、旧オシフィエンチム公国の領域は、ハプスブルク家の支配下に組み込まれ、“ガリツィア・ロドメリア王国(ウクライナ語でハリーツィヤ・ヴォロディームィリヤ王国)およびクラカウ大公国・アウシュヴィッツ公国・ザトル公国(ポーランド語でクラクフ大公国・オシフィエンチム公国・ザトル公国)”の一部となります。これにより、オシフィエンチムはハプスブルク体制の支配下に置かれ、1804年までは神聖ローマ皇帝が、1806年から第一次大戦が終結した1918年まではオーストリア皇帝がアウシュヴィッツ公(オシフィエンチム公のドイツ語読み)の称号を継承することになりました。

 さて、以前も少し書きましたが、現在、“アウシュヴィッツ”を題材にした拙著を刊行すべく準備を進めています。一般に、オシフィエンチムないしはアウシュヴィッツというと、ナチス・ドイツによる強制収容所のイメージが強いのですが、拙著では、そもそも、オシフィエンチムないしはアウシュヴィッツとはどういう場所だったのかという点についても、歴史的に遡って、関連するマテリアルをいろいろと読み解いていく予定です。詳細が決まりましたら、このブログでもいろいろご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。
 

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 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

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