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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 切手と郵便に見る1945年
2006-03-31 Fri 19:34
 このたび、天野安治さんと僕の2人が中心になって構成・解説を担当した『切手と郵便に見る1945年』(下は表紙の画像です)が刊行になりましたので、ご挨拶申し上げます。

『切手と郵便に見る1945年』表紙

 本書は、昨年10月、東京・池袋のサンシャイン文化会館で行われた全国切手展<JAPEX05>の特別企画展示の中から全体の構成が把握できるよう、470リーフを抜粋してまとめた写真集です。

 一般に“歴史”が語られる場合、時系列に沿ってある国や地域の事件やデータを並べていく “縦割り”のスタイルが多いものと思われます。しかし、今回の企画展示は、そうした“縦割り”の歴史スタイルではなく、“1945年”という一点に注目して、特定の地域に限定せず、広く世界のマテリアルを展示することにで、“世界史”を横断的にながめてみることを試みたものです。

 あらためていうまでもないことですが、切手を利用する郵便制度は世界中のほぼすべての地域で行われています。したがって、そうした切手の特色を生かして、ある特定の時代の各国・各地域の切手や郵便物を比較することによって、それぞれの国の国力や社会状況などを広い視点から理解することも可能になるはずです。それゆえ、切手の持つさまざまな面白さ、奥行きの深さの一端を広く社会的にご理解いただくうえで、そうした同時代資料としての広がりをみせていくことは意義のあることではないかと思います。

 そうしたことから、昨年(2005年)、第二次世界大戦終結60周年という節目の年に当たっており、さまざまなかたちで先の大戦をふりかえる企画が試みられていたという時勢をもふまえて、企画・構成したのが本書の元になった特別展示です。

 もっとも、この種の企画展示は展覧会の会期が終わると、展示されている切手やカバー(封筒)の類はそれぞれの持ち主の元に戻り、再び一つの作品としてまとめることは不可能です。そこで、展示のエッセンスを資料として保存するために書籍として、<JAPEX>の主催者である(財)日本郵趣協会として、本書を刊行したという次第です。 

 本来であれば、もう少し早く刊行できれば良かったのですが、写真図版263ページ(うちカラー80ページ)という分量ということもあって、年度末ギリギリの刊行となりました。

 本書は少部数の限定出版で定価も18000円と高価なため、気軽に「買ってください」とお願いするわけにもいかないのですが、学校・図書館など、多くの人が利用する公共機関に1冊でも多く配架されれば、と願っております。このブログをご覧の方で、学校・図書館などにリクエスト・カードをお出しいただける方がおられれば、歴史資料としての切手の重要性と面白さを広く一般の方にご理解いただくためにも、是非とも、お骨折りいただけると幸いです。

 なお、末筆ながら、<JAPEX>での企画展示にご協力いただいただけでなく、会期終了後も本書制作のための写真撮影や解説原稿の執筆などで多大なご協力をいただきました皆様方には、あらためて、この場を借りてお礼申し上げます。

 *本書の入手方法その他詳細につきましては、(財)日本郵趣協会事務局(Phone:03-5951-3311 FAX:03-5951-3315、e-mail:[email protected])まで、お問い合わせください。

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 危うく切り取るところだった・・・
2006-03-30 Thu 21:26
 今日(3月30日)は、1990年にバルト三国の一つ、エストニアがソ連に対して独立宣言を突きつけた日だそうです。というわけで、エストニアがらみのものということで、こんなカバー(封筒)をご紹介します。

エストニアのカバー

 雑誌『郵趣』の4月号によると、2004年5月にEUに加盟したエストニアでは、2007年1月1日のユーロへの通貨統合を目指して、今年(2006年)1月から、従来のエストニア・クローンとユーロを併記した切手を発行するようになったそうです。

 で、このカバー(画像はクリックで拡大されます。なお、住所部分は画像では隠してあります)では、上段中央に貼られているトリノ・オリンピックの記念切手が、そのクローン・ユーロ併記切手で、残りはクローン表示のものとなっています。

 ちなみに、トリノ・オリンピックの切手の右側に貼られているのは、エストニア出身の帝政ロシアの海軍将校、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの切手です。彼は、1803-06年に世界一周航海を行い、そのときのことを『世界周航記』という本にまとめたことでヨーロッパで走られた人物で、1804年には、かの遣日使節レザノフの護衛として来日しています。近年、韓国政府が日本海のことを“東海”と呼ぶように国際社会に訴えていますが、フォン・クルーゼンシュテルンの著作では、日本海はしっかり“日本海”と記されており、歴史的にも“日本海”という呼称のほうが定着していたことがうかがえます。

 実は、このカバーはインターネット・オークションe-bayの落札品(このマテリアルについては、そう遠からず、このブログでもご紹介することになるかと思います)を送ってもらったときのものです。普段は、自宅宛の封筒は切手の部分だけ切り取ってしまうことも多いのですが、何気なく、『郵趣』を読んでいて、上段左の切手のことが記事の写真に取り上げられていた(記事では、同じ図案のクローン・ユーロ併記切手と並べられていました)のに気がついて、切手部分を切り取るのを止めたというわけです。

 なお、郵趣の記事では書かれていなかったのですが、ユーロの導入後も、おそらく一定期間はクローン額面表示の切手が使われることになると思います。せっかくですから、来年の年明け早々、今回の業者から何か買って、両通貨の切手が混貼されたカバーで品物を送ってもらうことにしましょうか。でも、万事に飽きっぽく忘れっぽい僕が、それまでこの話を覚えているかどうか…それが最大の問題になりそうです。

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 武漢の桜
2006-03-29 Wed 21:35
 中国の武漢大学にある桜の木について「植えたのは旧日本軍。侵略戦争のシンボルだ」と批判する声が急増、中国の大手ウェブサイト「ネットイース(網易)」では「武漢大の桜は中国の恥か」と題する公開討論を始めたそうです。

 というわけで、日本占領時代の武漢大学に関係するものとして、今日はこんなものを持ってきました。

武漢大学

 1937年12月、南京が陥落すると、中国国民政府は重慶への遷都を宣言しますが、その過程で、揚子江中流の都市、漢口が首都機能を担うことになります。このため、1938年8月、日本軍は、国民政府の事実上の首都であった漢口と武昌・漢陽からなる武漢地域の攻略作戦を開始。30万もの兵力を動員し、約2ヶ月後、漢口を陥落させます。作戦は、11月11日に岳州が陥落したところで完了し、以後、日本軍は占領地域を拡大しない方針を固めました。

 今日、ご紹介しているのは、こうした状況の下で設けられた武漢大学野戦郵便局で使用された風景印で、大学の校舎と風景が描かれています。以前、拙著『切手と戦争』でもご紹介したものですが、クリックして画像を拡大していただくと、細部までご覧いただけるものと思います。

 南京から漢口に逃れた蒋介石は、1938年3月29日(そういえば、今日は3月29日ですね)から4月1日まで、武漢大学礼堂で中国国民党臨時全国大会を開催し、そこで“抗戦建国”の基本方針を採択します。これは、「抗戦の目的は日本帝国主義の侵略に抵抗して国家民族の滅亡を回避することにあると同時に、抗戦中の工作をしっかりとこなし、建国という任務を完成させることにある」というもので、以後、抗日戦争の勝利にいたるまで、国民政府の基本方針の一つとなりました。

 このように、“抗戦建国”のゆかりの地であり、中国側の抗日活動の拠点ともなっていた武漢大学を野戦局の風景印の題材として取り上げられたのは、この地が日本軍の掌握するところとなっており、“抗戦建国”がその意味をもはや失っている、ということをアピールする意図があったためとみてよいでしょう。

 まぁ、こうした経緯を考えると武漢大学が“抗日の聖地”となっているのはわからなくもないのですが、だからといって、桜の木には何の罪もないわけで、いまさら“坊主憎けりゃ袈裟まで”のようなことをいわれても、日本人としては当惑するばかりです。こういうとき、日本人同士なら、花見でもしながら酒を酌み交わして腹を割って話すという解決策もあるんでしょうが…でも、その花見じたいが彼らはいやだっていうんですからねぇ。うーん。

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 智積院の桜
2006-03-28 Tue 23:37
 今日(3月28日)東京で桜が満開になったと気象庁が発表しました。

 というわけで、桜がらみの切手の中から、今日はこの1枚を取り上げてみましょう。

大阪万博寄付金つき切手

 この切手は、1970年の大阪万博の費用を集めるため、1年前の1969年に発行された寄付金つき切手の1枚です。

 大阪万博の開催にあたっては、1964年の東京オリンピックの3倍にあたる約1200億円の経費が必要と考えられていました。このため、オリンピックの際の先例に倣い、1966年7月、「日本万国博の準備等のために必要とする特別措置に関する法律」(通称・万国博特別措置法)が施行され、経費捻出のために寄付金つき切手を発行できるよう法的な基盤が整えられました。

 これを受けて、大阪万博のオープン1年前に当たる1969年3月15日に、15円+5円の切手と同時に発行されたのが、今日ご紹介している50円+10円の切手です。

 切手の原画は、京都・智積院の障壁画のうちの「桜図」で、切手としての原画構成は久野実が担当しました。智積院・大書院の障壁画は長谷川等伯父子の作品で、切手になった「桜図」は息子の久蔵が担当したといわれていますが、桃山時代の傑作のひとつであり、桜という画題とともに、“日本”を象徴するものとして切手に取り上げられたものです。

 この切手は準備作業が遅れ、1月8日の報道発表から3月15日の発行日までの周知期間が短かったことから、東京中央郵便局切手普及課による通信販売は行われませんでした。このため、いままでの寄付金つき切手が概して不評であったことを踏まえ、切手の売れ行きを懸念した郵政省は、この切手のシート構成を「見返り美人」、「月に雁」以来の五面構成とするなどの、販売上の工夫をしています。

 しかし、切手そのものの出来栄えが見事だったこともあって、この切手は収集家の前評判もよく、一部の郵趣誌には、発行以前からプレミアム付の完封買入広告が掲載されるほどで、地元・関西では早々に売り切れる局も少なくなかったようです。

 さて、2001年から、僕は<解説・戦後記念切手>シリーズとして、戦後記念切手の“読む事典”を刊行しています。その第4巻として、来月上旬に、1966年から1971年までの封書15円時代の記念切手(もちろん今日ご紹介している切手も含まれています)を扱った『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』が刊行の運びとなる予定です。

 今後、このブログでも随時、予告記事を掲載していきますので、よろしくお付き合いください。

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 思わぬ発見
2006-03-27 Mon 22:17
 学研の歴史群像シリーズ『満洲帝国・北辺に消えた“王道楽土”の全貌』が発売になりました。

 この本(雑誌というべきかも)では、カラー口絵で満洲国の切手や郵便物についてのページがあって、僕が図版を提供し、簡単な解説文を書きました。その中から、こんな1枚を取り上げてみましょう。

      張景恵の書

 これは、1940年の日本の神武紀元2600年にあわせて満洲国が発行した記念切手の1枚で、満洲国の国務総理であった張景恵の揮毫した「慶祝日本紀元二千六百年」の文字が大きく取り上げられています。
    
 1940年は、皇紀(神武天皇の即位を元年とした暦年)2600年にあたるとされていた。これは、1873年10月、神武天皇の即位の日として『日本書紀』に記されている“辛酉年春正月庚辰朔”が、西暦では紀元前660年2月11日に相当する、と明治政府が布告したことに基づいています。

 紀元前660年というのは、日本では腰蓑一枚の縄文土器の時代ですから、明治政府の布告にあるような年代で初代の天皇が即位したというのは、それがそのまま歴史的な事実であるとは考えにくいものです。しかし、“万世一系の天皇”を国家元首としていただく大日本帝国にとっては、それが史実にかなっていようがいまいが、神武天皇の物語は自らの正統性の根拠としてきわめて重要な意味を持つものでした。

 で、親分にあたる日本の一大慶事ということで、子分格の満洲国でも大々的に記念のイベントが行われ、記念切手も発行されたというわけです。

 切手の右側にはテンショ体で「日満一徳一心」のフレーズが書かれていますが(画像をクリックし、拡大してご覧ください)、これは、1935年に溥儀が発した“囘鑾訓民詔書”の一節で、「朕日本天皇陛下ト精神一体ノ如シ」という前提の下、日本と満洲国が運命共同体であることを強調したものです。満洲国が皇紀2600年を祝う理由として、一番わかりやすいものといえましょう。ちなみに、左側の篆書体の文字は、満洲年号での切手の発行時期に当たる“康徳七年九月”と書かれています。

 実は、この切手に「日満一徳一心」のフレーズが入っていることは、今回の仕事で切手を大きく拡大して初めて気が付きました。(切手の下部に蝶が描かれているのは、前から気づいていたのですが)

 自分がよく知っているつもりの切手でも、いま一度注意深く観察してみると、時には思わぬ発見があるものだということをあらためて実感させられた次第です。

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 ニジェールの摺鉢山
2006-03-26 Sun 23:35
 今日(3月26日)は、太平洋戦争末期の硫黄島の戦いが終結した日です。硫黄島の戦いというと、摺鉢山の星条旗(↓)を思い出す人が多いと思います。

硫黄島の星条旗

 まぁ、この切手の元になった写真については、以前の記事でも取り上げたのですが、そうした経緯はともかくとして、国旗を掲げる兵士たちの姿がデザイン的に格好いいものであることは誰もが認めるところでしょう。

 でも、あんまり格好いいからといって、こういうことをやったらまずいよねぇ~というのが、今日の主役、下の切手(画像はクリックで拡大されます)です。

ニジェール

 この切手は、アフリカ西部、サハラ砂漠南縁の国、ニジェールが1989年に発行した1枚で、1974年4月に陸軍のセイニ・クンチェ参謀長がクーデターで軍事政権「最高軍事評議会」を樹立してから15周年になるのを記念して発行されたものです。

 まぁ、兵士が旗を掲げている場面なんて、どれも似たりよったりといってしまえばそれまでですが、普通の感覚からすると、どう見たって、“摺鉢山の星条旗”をパクっているようにしか見えません。おそらく、ニジェールあたりだと万国著作権条約にも加盟していないのでしょうから(間違ってたらごめんなさい)、パクリ放題と言ってしまえばそれまでですが、普通は国家の面子というものを考えてあんまり露骨なことはしないでしょうね。でも、ここまで分かりやすいと、かえって微笑ましくも思えてくるから不思議なものです。

 ちなみに、「最高軍事評議会」の首謀者であるクンチェは、この切手が発行される以前の1987年11月に亡くなり、彼の後を継いだサイブ政権は、この切手が発行された1989年の12月に民政移管を発表します。まさか、アメリカから、パクリの件は見逃してやるから“民主化”しろという圧力が掛かったわけではないんでしょうけれど…。

 なお、今回の切手は、3月10日に刊行したばかりの拙著『これが戦争だ!』(ちくま新書)の口絵にも取り上げました。同書では、世界各国のさまざまな戦争プロパガンダの切手が、豊富な図版とともに取り上げられていますので、是非、お読みいただけると幸いです。

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 クレタがギリシャでなかった頃
2006-03-25 Sat 21:40
 今日(3月25日)はギリシャの独立記念日だそうです。というわけで、手持ちのギリシャ関連のストックの中から、こんな1枚を引っ張り出してみました。

クレタ・コンビネーション

 このカバー(封筒:画像はクリックで拡大されます)は、1871年6月、当時、オスマン帝国の支配下にあったクレタ島(現在はもちろん、ギリシャ領です。念のため)のハニアからアテネ宛に差し出されたものです。

 クレタ島におけるオスマン帝国の郵便局は、1865年に州都カンディアに設置されたのが最初です。ついで1868年にハニアに、1871年にレティムノンにそれぞれ郵便局が設置され、1880年代までには島内の主要地点に14箇所に郵便局を開設したことが確認されています。

 これらクレタ島内のオスマン帝国の郵便局では、帝国本土と同様の切手・葉書がそのまま使用され、料金体系も帝国と同様のものが適用されていましたが、クレタ島とオスマン帝国の領域外、特に、ヨーロッパ諸国との通信は、主としてオーストリア・ロイド社(以下、ロイド社)とフランス郵船会社の2つの外国系企業が担当していました。

 このうち、ロイド社は、1837年、南欧から中東に広がる巨大な通信網の一環として、ハニアに代理店を開設し、本格的にクレタ島発着の郵便物を取り扱いはじめたほか、1845年にはカンディアとレティムノンにも代理店を開設しています。

 本来、クレタ島発の外信便は、同島の主権者であるオスマン帝国が取り扱うべきで、ロイド社やフランス郵船会社の活動は、当初は、オスマン帝国の外国郵便制度が整わない状況下での、あくまでも便宜的なものでした。しかし、ロイド社の代理店は、オーストリア切手を持ち込んで料金の徴収を行うなど、しだいに国家の出先機関としての性格を強めるようになり、1865年にオスマン帝国がカンディアに郵便局を開設した後も、既得権益を理由に撤退せずに活動を継続しています。これは、領事裁判権などと同様に、本来は恩恵としてオスマン帝国から西欧諸国に与えられた各種の特権が、次第に帝国主義的な進出の道具と化していくプロセスと相似形をなしているといってよいでしょう。

 今回ご紹介しているカバーも、そうしたロイド社の活動を示す一例で、当時は一般郵便連合(現・万国郵便連合)が発足していなかったため、各国の発行する切手は、原則として自国の領域内においてのみ有効で、外国との郵便交換とその料金精算は、それぞれ二国間の条約ないしは協定によって処理されていたことを示しています。

 すなわち、このカバーの場合、1871年6月20日にハニアのロイド社の代理店で引き受けられた後、中継地のシラ(Syra)を経由してアテネに届けられたのですが、その際、ロイド社の代理店で料金が徴収されたことを示すオーストリア切手は、シラまでしか有効ではありませんでした。このため、シラでギリシャ郵政に引き渡されると、このカバーは、アテネに到着後、受取人からギリシャ国内の料金に相当する額(20レプタ)をギリシャ切手で徴収されています。

 バルカン半島の近現代史は非常に複雑で概説書を読んでいても頭が痛くなるのですが、そのことは同時に、切手や郵便史の世界では、非常に面白い題材がごろごろ転がっていることを意味しています。本気で取り組んでみると、それなりに楽しめるテーマだと思うのですが、文字の壁もあって、日本人にはなかなか敷居が高いようです。

 実は、数年前、<ギリシャ切手展>というのを企画した関係で、行きがかり上、クレタ島の郵便史についての簡単なコレクションを作ったことがあります。そのときのコレクションが現在もそのまま残っているので、これを元ネタにして何か面白いことができないだろうか、と時々ふっと思い出したように考えることがあります。どこかの新書で『クレタ島』なんてタイトルで仕事ができればベストなんですがね。

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 『郵趣』今月の表紙:ブラック・スワン
2006-03-24 Fri 23:56
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の4月号ができあがりました。

 『郵趣」では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけています。で、今月号はこの1枚です。

      ブラックスワン

 1901年に現在のオーストラリア連邦が発足するまで、オーストラリアはいくつかの英領植民地に分かれていました。今回ご紹介しているのは、そのうちの一つである西オーストラリアの最初の切手として1854年8月1日に発行されたもので、“ブラック・スワン”と称されています。

 西オーストラリアの存在がヨーロッパ人に知られるようになったのは1616年のことですが、スワン川流域に流刑植民地が設置され、本格的な植民が始まったのは1826年のことです。スワン川というのは、この地で発見された黒鳥(ブラック・スワン)にちなんで、オランダの探検家ウィレム・ド・ヴラミングによって命名された名前です。

 黒鳥はオーストラリア全域に生息していますが、特に、スワン川やモンガー湖(州都パース北西にある)のものが有名です。ヨーロッパ人にとって、“ブラック・スワン”は長らく空想上の生物であったため、「オーストラリアは、大地が赤く、白鳥は黒い」という探検家たちの証言は驚きを持って迎えられました。黒鳥が西オーストラリア最初の切手に取り上げられたのも、そうしたインパクトのゆえに、この鳥がこの地を象徴するものとしてみなされていたためと考えてよいでしょう。ちなみに、現在、黒鳥は西オーストラリア州の州鳥に指定されています。

 画像の切手は、結果的に黒一色で印刷されているため(そういえば、世界最初の切手であるペニー・ブラックも黒一色の印刷です)、まさに“ブラック・スワン”のイメージをそのまま再現するものとなりました。なお、ホンモノの黒鳥はくちばしの辺りが赤ですが、まぁ、19世紀半ばの切手にそこまで求めるのは酷でしょうね。

 今年は日豪交流年ですので、秋の<JAPEX>では、オーストラリアにちなんだ展示をしたいと実行委員会(僕もメンバーです)では考えています。今日ご紹介したブラック・スワンについても、どなたかのご協力を得て、少しまとまった展示ができればいいのですが…。

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 釜山港へ帰れ
2006-03-23 Thu 21:21
 今朝、ぼんやりテレビを見ていたら、往年のヒット曲「釜山港へ帰れ」が別の曲の盗作と認定され、作者が損害賠償を請求されたというニュースをやっていました。

 で、そういえば、こんなものもあったよなと思って引っ張り出してきたのが、この1枚です。

釜山日本局

 江戸時代、徳川幕府と李氏朝鮮とは、対馬の宗氏を仲介役として、きわめて良好な外交関係を築いていました。しかし、徳川幕府に代わり日本の支配者となった明治新政府と朝鮮との関係は波乱の幕開けとなりました。

 維新直後の1868年、明治政府は朝鮮側に対して文書で政権の交代を通告しましたが、その文書中、日本側が天皇親政の文書形式に従って「皇」「勅」などの文字を用いられていたため、これらの文字を、宗主国である清朝の皇帝とその命令の意味で用いていた朝鮮側は「日本の新政府は従来の友好関係を破棄して朝鮮の上に立とうとしている」と言い出して、日本側の文書を受理しませんでした。

 その後、明治政府は、1875年9月、いわゆる江華島事件(朝鮮沿岸での日朝間の武力衝突事件)を起こして朝鮮側に圧力を加え、翌1876年2月、日本側の治外法権等を認めさせた日朝修好条規(大日本朝鮮修好条規)を締結。こうして、長年の懸案だった日朝間の国交問題は、日本側が不平等条約を朝鮮に押し付けて強引に開国させるというかたちで決着しました。

 日朝修好条規の締結に伴い、日本は釜山に居留地を獲得し、1877年、居留地内に郵便局を開設します。この日本局の活動が、朝鮮において近代郵便が実施された最初の事例となりました。

 今回、ご紹介しているのは、その釜山の日本局で使われた日本切手で“釜山浦”の消印が押されています。消印が切手に対して逆向きなので、今回の画像(クリックで拡大されます)はあえて、消印の向きを優先して、切手を上下逆には貼っています。ちなみに、この“釜山浦”というのが、現在の釜山港のルーツです。

 朝鮮の開国とともに、釜山は日本の朝鮮進出の拠点となり、日本による併合後は朝鮮半島と日本を結ぶ交通・物流の拠点となります。現在の在日コリアンの7割前後が、釜山港から日本に渡ってきた人とその子孫ともいわれているのも、そうした背景があるためです。

 彼らの中には、1960年代に、北朝鮮の掲げた「地上の楽園」のプロパガンダ(とそれに追従した“進歩的知識人”の甘言)に騙されて、いわゆる帰還事業で北朝鮮の清津や元山に“帰ってしまった”ことで、その後、この世の地獄を体験した人が少なからずいます。そうした人たちに対して、いまさら「素直に釜山港へ帰っていれば…」といってみても、それは歴史のifでしかないわけですが、なんとも、切ない気分にさせられます。

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 外国切手の中の中国:タイ
2006-03-22 Wed 22:06
 ここのところ、いろいろと記事のネタがあってご報告が遅くなりましたが、NHKのラジオ中国語のテキスト4月号が発売になりました。僕の連載「外国切手の中の中国」は今年度も継続しますので、よろしかったらチェックしていただけると幸いです。

 さて、今回のお題はタイ。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

中タイ友好

 この切手は、1995年に中国とタイの国交20周年を記念してタイが発行したもので、共同発行として、ほぼ同じデザインの切手が中国からも発行されています。

 第二次大戦後、東西冷戦の下で一貫して反共を国是としてきたタイですが、1970年代に入ると、ようやく1960年代の開発独裁的な手法に対する反発が強まります。この結果、1973年10月、社会正義・公正・平等を求める“学生革命”(血の日曜日事件)が起こり、軍事政権は崩壊して文民政権が発足。1971年のいわゆる米中接近を経て、台湾に代わり中国の国連加盟が承認されたことをふまえ、1975年には中国との国交正常化も実現されました。

 文民政権は、1976年の軍事クーデターで崩壊しますが、その後もタイと共産中国との関係はそのまま維持され、両国の経済的な結びつきは強化されていきます。そして、1994年に中国がASEAN地域フォーラム(安全保障問題について議論するアジア太平洋地域における唯一の政府間フォーラム。ASEANを中核に、23か国+EUが参加)に参加し、1996年にアセアン対話国に昇格したのをきっかけに、中国とタイの関係も一挙に緊密化していきます。タイ最大のコングロマリットであるチャルーンポーカパン・グループ(CPグループ)が“正大集団”の名で中国最大の外資系企業としてゆるぎない地位を確保しているのは広く知られている通りです。

 中国から見ると、タイは単に東南アジアで重要な地位を占めているだけでなく、ASEAN主要国の中では、例外的に、南沙諸島問題と無関係な国です。このため、中国の対アセアン外交は、タイを戦略上重要な“友好国”として取り込むことを常に重要な課題として展開されています。

 それだけに、中国としては経済的な協力関係を人質にとりつつ、まずは、台湾問題(余談ですが、台湾も南沙諸島の領有権を主張しています)でタイを味方につけておこうという外交戦略を立てているように見えます。

 たとえば、1994年、当時の台湾総統であった李登輝が訪タイした際、中国政府がタイ政府に対して強硬な抗議を行っているのは、その典型的な事例といってよいでしょう。じっさい、この事件の後、タイは台湾問題に対して慎重な姿勢をとらざるをえなくなっています。

 1995年に「中泰建交20周年」の記念切手が発行された背景にも、あるいは、この機会をとらえて、前年の李登輝問題をめぐってギクシャクした両国関係を修復するという意図が込められていたのかもしれません。

 今回の「外国切手の中の中国」では、そうしたタイ=中国関係史のアウトラインをまとめてみました。ご興味をお持ちの方は是非、ご覧いただけると幸いです。

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 キューバ・リブレ
2006-03-21 Tue 23:04
 野球のWBCは日本がキューバを下して優勝しましたね。日本人として素直に嬉しいです。

 というわけで、勝者の余裕というわけでもないんですが、キューバ・チームの健闘とスポーツマンシップに則ったさわやかな態度(いや、別に準決勝で対戦した某国のことを問題にしたいわけじゃないんですが)を称えて、キューバがらみのモノの中から、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

自由キューバ

 スペインの植民地支配に対するキューバの第一次独立戦争は1868年から1878年まで続きました。その間の1874年、革命派は革命資金を捻出するため、キューバ国旗を描いた“自由キューバ”の切手を発行することを計画。アメリカのフィラデルフィアでここにご紹介しているような切手を制作しました。
 
 ところが、国旗の下に記された“自由キューバ”のスペルが、“CUBA LIBRA (正しくはCUBA LIBRE)”となっていたため、この“切手”は実際に発行されず終わっています。

 どうでもいいことですが、僕なんかは、“キューバ・リブレ”といえば、ラムをコーラで割ったカクテルを思い出してしまいますが、これは、1898年の米西戦争でアメリカがキューバの独立を“支援”したことにちなんでつくられるようになったものです。もっとも、スペインから独立した後のキューバは、1957年のカストロによる革命まで実質的なアメリカの植民地支配下に置かれてしまうわけで、この辺の事情については、ご興味がおありの方は、拙著『反米の世界史』もご覧いただけると幸いです。

 ちなみに、今回の“切手”が発行された1874年は、キューバで初めて野球の公式戦が行われた年でもあります。記念すべき第1試合は、同年12月、サマンサス球場で行われたハバナ対マタンサスの対戦で、結果は51対9でハバナが勝ったそうです。それにしても、51点というスコアが出てくる試合って…。やってる選手たちも、見てる観客も、さぞかし、しんどかったでしょうね。

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 ハンニバル
2006-03-20 Mon 23:55
 今日(3月20日)は3年前にイラク戦争の始まった日ですが、今年に限ってはチュニジア(北アフリカ中央・イタリア対岸のアラブの国)の独立記念日という方にスポットをあてましょう。なにせ、1956年の独立からちょうど50周年なのですから。しばらく前に、今年は日本とチュニジアの国交50年という記事をどこかで見てちょっと気になっていたのですが、なんのことはない、それ以前はチュニジアという国が存在していなかったということだったんですね。

 で、チュニジアといえばカルタゴ(じっさい、首都のチュニスから電車で20分もあれば、カルタゴの遺跡に行けます)、カルタゴといえばハンニバル、というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。

ハンニバル

 この切手は、1967年にチュニジアが自国の歴史遺産を題材とした発行した6種セットの切手(日本でいう“国宝シリーズ”みたいなもんでしょうか)の1枚で、ハンニバルの胸像が取り上げられています。

 歴史の教科書でおなじみのハンニバル・バルカ(紀元前247~183)は、いわずと知れたカルタゴの名将です。

 地中海の覇権をめぐるローマとカルタゴが戦った第一次ポエニ戦争でカルタゴはシチリアをローマに奪われましたが、ハンニバルは、当時未開の地であったイベリア半島を制圧し、5万の兵と37頭の象を連れ、アルプス山脈を越えてイタリアへ進軍。第二次ポエニ戦争を始め、イタリア半島各地でローマ軍を撃破しました。

 しかし、カルタゴ本国の無策から、ローマはハンニバルの拠点であったイベリア半島を攻略。さらに、勢いに乗ったローマ軍は、北アフリカへ逆侵攻し、カルタゴ本国での敗戦に狼狽した政府はハンニバルを本国に召還し、紀元前202年のザマの戦いで、カルタゴは敗北しました。

 第二次ポエニ戦争後、カルタゴはローマから懲罰として巨額の賠償金(ローマはカルタゴがこれを拒否したら、カルタゴに宣戦布告し、カルタゴを滅亡させようと考えていました)を課せられましたが、ハンニバルは財政再建の為に経費節減による行政改革を徹底、賠償金返済を完遂し、政治指導者としても並々ならぬ力量を発揮します。

 しかし、国内の権力闘争から反ハンニバル派が「シリアと内通している」とローマへ訴えたことで、ハンニバルはカルタゴを脱出し、シリアへと亡命します。その後、彼は、シリア軍を率いてローマと対峙するが、結局は敗北、ハンニバルは逃亡し、クレタ島、そして黒海沿岸のビテュニア王国へと亡命、その後服毒自殺しました。

 何年か前、『ハンニバル』という映画が公開されたとき、僕は、てっきり、悲劇の将軍を主人公とした時代劇を期待していたのですが、実際の映画はカルタゴと全く関係ないことがわかって、ものすごく失望した記憶があります。まぁ、映画『ハンニバル』で主役をやっていた俳優(すみませんが、まったく興味がないので名前がわかりません)の顔は、ハンニバルというより、敵役の大スキピオ向きのような気がするのですが、そういうことを言っているうちは、やっぱり世間様と感覚がずれてるんでしょうねぇ。

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 5万アクセス
2006-03-19 Sun 22:54
 今日、カウンターの数字が5万アクセスを越えました。前回、4万アクセスを超えたのは1月29日のことでしたので、この間、ほぼ50日。1日約200アクセスというペースそのままの達成となりました。このペースだと、5月の連休前後に6万アクセスに到達できそうです。引き続き、頑張っていきたいと思いますので、これからもよろしくお付き合いください。

 さて、5万アクセスということで、5にちなむ切手として、今日はこの1枚を持ってきました。

犬山子供博

 これは、1949年5月5日に「こども博覧会」を記念して発行された小型シートです。(画像はクリックで拡大されます)

 こども博覧会というのは、1949年4月1日から5月31日まで、中部日本新聞社(現・中日新聞社)ならびに同事業団の主催により、愛知県犬山町遊園地で開催されたイベントです。会期中には、毎年4月の第1土・日曜日に開催される犬山祭もあったことから、多数の観光客が博覧会場を訪れました。

 博覧会の開催に先立ち、主催者である中部日本新聞社は、名古屋逓信局とともに、逓信省に対して記念切手の発行を申請しています。当初、逓信省サイドは単なるローカルイベントに記念切手を発行することに難色を示していたのですが、結局押し切られ、同年5月5日の「こどもの日」にあわせて記念切手を発行することから、この切手を流用するかたちで無目打の小型シートを発行したのです。

 こうして、博覧会も会期後半に突入した5月5日、「こどもの日」の記念切手発行にあわせて犬山・名古屋中央・岐阜・麻布(東京)の各郵便局で、「こどもの日」の記念切手を10枚組み合わせた小型シートが発行されました。

 今回の小型シートは、博覧会の初日ではなく「こどもの日」の記念切手発行日にあわせて発行されたことや、その「こどもの日」記念切手を流用しただけのものであること、さらには、売価が50円と高額であったことなどから、多くの収集家はこれを逓信省の露骨な増収策の一つであるとして強く非難しています。ちなみに、既存の切手や葉書の印面を流用して地方のイベントに小型シートを発行するという逓信省の切手発行政策は、この切手をもってようやく終息しました。ただし、その後も昭和24年度中は記念・特殊切手の新発行ラッシュが続き、収集家の苦労が解消されるまでにはしばらく時間がかかっています。

 このように、小型シートが世に出た経緯にはいろいろと問題がないわけでもないのですが、日置勝駿のデザインした切手そのものは、いい出来だと思います。日置については、2月24日の記事できついことも書きましたが、この切手は発行当時から評判が非常によく、彼の最高傑作として日本の切手史上に燦然と輝く1枚と評価されています。

 まぁ、単片の1枚をお見せしても良かったのですが、5万アクセスという節目の回でもありますし、今回は、景気よく10枚つながった小型シートをご覧いただきました。野球のWBCでは日本が決勝進出を決めたことですし、単純に見ていて明るい気分になる切手というのもたまには悪くないでしょう。

 なお、この時代の記念切手についてご興味をお持ちの方は、拙著『濫造・濫発の時代』をご覧いただけると幸いです。

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 アラブの都市の物語:アンマン
2006-03-18 Sat 18:25
 NHKのアラビア語会話のテキスト4・5月号が発売になりました。僕の連載「切手に見るアラブの都市物語」は今年度も継続ですので、よろしかったら、書店でチェックしてみてください。

 で、今回のお題はヨルダンの首都・アンマンですが、今日は、テキストではスペースの都合で一部分しかお見せできなかったカバー(封筒)の全体像をお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

アンマンのカバー

 このカバーは、1924年12月、建国間もないトランスヨルダンの首都・アンマンからエジプト宛に差し出されたもので、ヒジャーズの切手に“東ヨルダン政府”と加刷された切手が貼られています。

 第一次大戦後、オスマン帝国が崩壊し、英仏が帝国のアラブ地域を分割していく過程で、東地中海南部を勢力圏に収めたイギリスは、1921年、ヨルダン川東岸地域に委任統治領としての“トランスヨルダン(ヨルダン川東岸を意味する)”を創設。大戦中、いわゆるアラブ叛乱でオスマン帝国との戦いで重要な役割を果たしたハーシム家のアブドゥッラーをアミール(首長)として、アンマンに政府を樹立しました。

 イギリスの政治的意図から人工的に創設された国家、トランスヨルダンは、当初、総人口が約40万人しかおらず、自立した独立国の運営をまかなえるだけの資源もなければ産業もありませんでした。このため、1927年にいたるまで正刷切手(オリジナル・デザインの切手)を発行することができず、イギリスのエジプト遠征軍の切手やヒジャーズ(アラビア半島北西部、紅海沿岸に樹立された国家。国王は、最初はアブドゥッラーの父・フサイン、ついで兄のアリー)の切手に“東アラブ政府”または“東ヨルダン”といった文字を加刷した暫定的な切手が用いられていました。

 今回ご紹介しているカバーはその実例というわけですが、なにせ人口40万の小国ですから、実際に郵便に使われたカバーで気の利いたものを手に入れようとすると、それなりに苦労します。このカバーも、消印がイマイチ読みにくいところがあって、完璧な状態とはいいがたいのですが、まぁ、当面は仕方のないところでしょう。

 NHKのテキストでの連載も今年で3年目。今年度が終わると、取り上げた都市の数は18になります。できれば、あと2年くらい連載を続けて30都市を取り上げたうえで、イランやトルコの都市なんかも加えて「切手で見るイスラム都市の物語」といった感じの本を作りたいのですが、NHK出版さん、乗ってくれないですかねぇ。

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 日墨修好
2006-03-17 Fri 22:33
 野球のWBCは、メキシコがアメリカに勝ってくれたおかげで、日本は首の皮が一枚つながりましたね。というわけで、今日はこの1枚です。

日墨修好

 これは、1988年、日墨(日本とメキシコ)修好通商条約締結100年を記念してメキシコで発行された記念切手です。メキシコとの同時に、日本でも記念切手が発行されていますが、メキシコ側の切手は日本ではあまり紹介されたことないと思いますので、今日はこちらを取り上げました。

 1888年当時、日本は、朝鮮とは日朝修好条規(日本に有利な“逆不平等条約”)を、清とは日清修好条規(平等条約)を結んでいましたが、欧米諸国とは不平等条約がそのままになっていました。このため、条約改正の足がかりとして、アジア以外の国と対等条約を結んで前例をつくりたかった日本政府はメキシコに白羽の矢を立てたます。

 日本とメキシコとの関係は、鎖国以前の1609年、房総の御宿海岸に漂着したドン・ロドリゴ総督の一行を日本側が助けたことからはじまり、支倉常長もローマ教皇に謁見すべくローマへ向かう途中でメキシコに立ち寄って歓待を受けています。このため、日墨関係は、全くのゼロからのスタートというわけでもありませんでした。

 一方、メキシコとしても、当時、東アジアとの貿易のために日本か清と交流を持ちたいと思っていた矢先のことでしたので、日本からの条約締結の提案は、渡に船といったところだったようです。

 かくして、お互いの話がスムースに進み、1888年11月30日、無事に条約締結の運びとなりました。日本政府は、アジア以外での初の本格的な平等条約の締結を非常に喜び、メキシコ大使館の用地として永田町の一角を提供しています。

 メキシコ以外にも、一般にはあまり知られていないものの、日本人が恩義を感じるべき国というものが、いくつか存在しています。このブログでも、これからは、そういう国のことも機会を見つけて取り上げていかないといけないかもしれません。

 とりあえず、今日のところは最後に一言

 メキシコ、ありがとう!

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 日本に勝って・・・
2006-03-16 Thu 23:36
 野球の日本代表、残念ながら、負けてしまいましたね。で、勝った韓国はそりゃ嬉しいんでしょうけど、彼らがアメリカやメキシコに勝ったことよりも“日本に”勝ったことをあんまり強調するようだと、日本人としてはちょっと癪に障ってしまいます。

 そんなことを思って引っ張り出してみたのが、この1枚です。

ケイスンヒ

 この切手は、1996年のアトランタ五輪で北朝鮮のケイスンヒ(そういえば、最近結婚したそうですね。おめでとうございます)が女子柔道でメダルを取ったことを記念して、彼女を称えるために発行されたものです。

 まぁ、かの国のことですから、スポーツも国威発揚の一手段として用いられているのは当然なわけで、金メダリストの切手が発行されることじたいは、取り立ててどうということはありません。

 ただ、この切手の場合、左側のシート地に小さく、ガッツポーズを取るケイと彼女に敗れてうなだれる田村亮子の姿が描かれているのが曲者です。(画像はクリックで拡大されます)

 彼らにしてみれば、ケイの金メダルは単なる金メダルではなくって、“日本に勝っての金メダル”ということが重要なのでしょうが、日本人としては、なにもわざわざ、うなだれる田村の姿を切手に入れなくても…というのが、通常の感覚でしょう。なお、切手に用いられている写真が、正規に撮影されたものというより、テレビの画像などからぱくってきたもののように見えるのは気のせいでしょうか。

 韓国・北朝鮮のどちらも、こと“日本と戦う”ということになると、やたらとヒートアップしますからねぇ。このままの勢いで、韓国チームが世界一になったりしたら、おそらく、記念切手も出るんでしょうが、そのときのデザインは決勝戦の場面ではなく、日本戦の1シーンから取る・・・なんてことになるんじゃなかろうか、とついつい勘ぐりたくなります。
 
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 taxe
2006-03-15 Wed 21:10
 所得税の確定申告は今日まででしたが、皆さんは無事に済まされましたか?手回し良く2月中に済ましたという方も多いのでしょうが、僕なんかは今年もまた〆切ギリギリの提出で、ようやくホッと一息ついたというところです。

 というわけで、今日は“taxe(=tax)”に関するモノということで、こんな1枚をお見せしましょう。

フランス不足料

 これは、1859年にフランスで発行された不足料切手です。

 近代郵便が料金の前納制を原則としている以上、料金の未納・不足というのは一定の割合で必ず発生します。そうした場合、郵便サービスを提供する側としては、不足分+ペナルティを受取人から徴収しようとするわけですが、そうしたペナルティ込みの料金を徴収するための切手、すなわち不足料切手を発行している国というのは少なからずあります。(日本では発行されたことがありません)

 今回ご紹介しているのは、フランス最初の不足料切手ですが、1867年から翌1868年にかけてフランスに滞在していた渋沢栄一が日本に持ち帰り、日本最初の切手を作る際にデザインの参考資料にもされたともいわれているものです。(これは日本の“郵便の父”といわれる前島密の回想録に出てくるエピソードですが、冷静に分析してみると、いろいろと不自然なところがないわけではありません。その点については拙著『皇室切手』をご覧いただけると幸いです)
 
 さて、フランス語では郵便料金(=郵税)のことをtaxeといいますが、郵便物の上にその頭文字のTが表示されている場合には、それは、不足料を徴収すべきであることを意味しています。今回の切手にも、しっかり、TAXEの文字が入っているので、よろしかったら画像(クリックで拡大されます)で確認してみてください。

 なお、国際的な郵便交換のための組織である万国郵便連合の公用語はフランス語ですから、Tの表示はフランス国内のみならず、世界的にも使われています。まぁ、税というのは徴収するものですから、これ以上、わかりやすい略号もないような気がします。

 なお、日本で郵便を示すマークは〒ですが、最初は逓信省の頭文字であるTをデザインしたものでした。ところが、国際的にはTは不足料の表示でどうもイメージが良くないので、横棒をもう一本付け足して〒とし、これは逓信省の“テ”であるということにしたという経緯があります。間抜けといえば間抜けな話ですが、泥縄生活を続けている僕は、こういう機転の利かせ方って実は嫌いじゃありません。

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 白船
2006-03-14 Tue 23:28
 今日はホワイト・デイ。というわけで、“白”に関する話題になりそうなものとして、こんな絵葉書(画像はクリックで拡大されます)を持ってくることにしました。

白船歓迎(国旗)

 この絵葉書は、1908年10月のアメリカ大西洋艦隊訪日の“白船騒動”の際に、日本で発行された“歓迎”の絵葉書です。

 日露戦争の前後からアメリカは日本をアジア・太平洋方面での仮想敵国のひとつと考えていました。こうした中、海軍拡張政策への国民への支持を取り付けようと考えた大統領のローズヴェルトは、1907年12月、大西洋艦隊をサンフランシスコへ向けて出航させます。

 当初、出向の目的について、アメリカ政府は沈黙を守っていましたが、艦隊が南米最南端のマゼラン海峡を廻って太平洋を北上し、1908年3月、メキシコのマグダレナ湾に到着すると、ローズヴェルトは、突如、大西洋艦隊の目的地はサンフランシスコではなく“世界一周”であると発表します。艦隊が日本を威嚇するために太平洋を渡ろうとしていることは誰の目にも明らかでした。

 ローズヴェルトの発表に全世界は驚愕。フランスでは日米開戦必至と見て日本国債が暴落。米西戦争の記憶が生々しいスペインでは、日本への資金援助を申し出る貴族や資本家が続出したといわれています。

 これに対して、日本政府は、アメリカの攻撃を恐れながらも、欧米世論の挑発には乗らず、むしろ、大西洋艦隊を“歓迎”することで危機を脱しようと考えました。このため、国内では朝野を挙げて、“白船(大艦隊は船体の色からグレイト・ホワイト・フリートと呼ばれており、これが日本語では白船と訳された)”歓迎のありとあらゆるキャンペーンが展開されました。

 今回ご紹介している絵葉書も、そうした文脈に沿って逓信省が発行したもので、白船の乗務員全員に無料で配られています。

 結局、1908年10月18日に横浜に入港した白船は、同月25日、歓迎責めに当惑する乗員を乗せて無事、横浜を出航。欧米で予想されていた日米戦争は起こりませんでした。

 もっとも、白船が横浜を出港してから2週間後、日本海軍の連合艦隊は、米軍が奄美大島を占領したことを想定した大規模な演習を実施。こうして、大日本帝国は、“仮想敵国・アメリカ”に対する準備をはじめることになるのです。

 なお、白船騒動と関連する絵葉書については、拙著『反米の世界史』でもそれなりのスペースを割いて説明していますので、ご興味をお持ちの方は、ご一読いただけると幸いです。
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 北朝鮮切手60年
2006-03-13 Mon 22:04
 北朝鮮では、平壌市中区域の“朝鮮切手展示館”(朝鮮郵票社の建物のことでしょうか)で、切手発行60周年の記念切手展が行われているそうです。(写真は“会場の様子”とされるもの。元記事はこちら

北朝鮮切手展

 この写真を見る限り、展示は最近の切手が主なようで、1950年代までの貴重な切手・カバー(封筒)類がゴロゴロ展示されているというわけではなさそうですので、現地に乗り込んでいかなくてすみそうです。(なにせ、その昔、『北朝鮮事典』なんて本を作りましたからねぇ。当然向こうのブラックリストには入ってるでしょうから、現地に行くとなるとただではすまないでしょう。)

 で、HIDENさんのブログでこの展覧会のことを知るまですっかり忘れていたのですが、そういえば、北朝鮮最初の切手が発行されたのは1946年3月12日ですから、昨日でちょうど北朝鮮切手は60周年というわけです。

 それなら、ということで、北朝鮮最初の切手の画像をお見せしましょう。
 
 北朝鮮最初の切手

 北朝鮮で、日本切手に加刷したものではなく、正刷切手(オリジナル・デザインの切手)がこの時期に発行されているのは、その後の南北分断の歴史を考えると極めて重要な意味を持っています。

 この点については、以前の記事でも書いたことがありますが、もう一度おさらいしておきましょう。

 日本が降伏した1945年8月の段階で、ソ連が日本降伏後の朝鮮半島に衛星国を建設するという明確なプランを持っていたのに対して、アメリカは朝鮮半島の戦後処理についてなんら具体的な計画を持っていませんでした。このため、とりあえず、米ソの間で暫定的な境界線として北緯38度線が設定され、朝鮮半島は米ソによって分割占領されます。その後、同年12月にモスクワで開催された米ソの話し合いの結果、朝鮮半島を一定期間の信託統治下に置くというプラン(モスクワ協定)が決定され、発表されます。

 モスクワ協定が発表されると、即時独立を求める南朝鮮(大韓民国はまだできていません)では大規模な反対闘争が発生。これに対して、ソ連が着々とソビエト体制化をすすめていた北朝鮮では、ソ連の意を汲んだ金日成が信託統治を“ソ連による後見”と読み替えて賛成の意向を示します。そして、それに引きずられるかたちで、南朝鮮の左翼勢力も信託統治に賛成を表明し、南朝鮮は信託統治の是非をめぐって社会的に混乱しました。

 さて、ソ連は、モスクワ協定の段階では、朝鮮に南北統一の政府を作ることも考えていましたが、その後の南朝鮮の状況を見て南北の統一は無理と判断。とりあえず、自分たちが占領している北半部だけでも、自分たちの意のままになる政府を作り、そこから、影響力を南半部にも拡大していこうとする民主基地路線に大きく舵を切ります。そして、1946年2月には、事実上の北朝鮮政府として北朝鮮臨時人民委員会を発足させ、南北分断に向けての第1歩を踏み出すのです。

  今回ご紹介している切手は、そうした状況の下で、北朝鮮臨時人民委員会の名において発行されたもので、まさに、彼らが郵便の分野においても、自分たちの存在をアピールするためにつくったものとみなすことができます。

 ちなみに、北朝鮮では、1946年3月12日に、今回ご紹介したムクゲの切手とあわせて金剛山を描く切手も発行しています。この切手に関しては、またいろいろと面白い読み解き方ができるのですが、その辺については、今日のところは随分文章も長くなりましたので、又の機会にお話しすることにしましょう。

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 ボスニア紛争とイラン
2006-03-12 Sun 23:41
 元ユーゴスラビア大統領のスロボダン・ミロシェビッチが亡くなりました。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきました。

      ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリム支援

 旧ユーゴスラビア連邦が解体していく過程で、1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言します。これに対して、国内のセルビア人とクロアチア人・ボシュニャク人(イスラム系住民)が対立し、セルビア人が分離を目指して内戦となったのが、いわゆるボスニア紛争です。

 ボスニア紛争に際しては、旧ユーゴの中心であったセルビアが介入してイスラム系住民に対する“民族浄化”が大々的に行われたことが報じられ、ミロシェビッチとセルビアは国際的に指弾されました。このため、彼はその責任を問われて旧ユーゴ国際戦犯法廷で裁判を受けている途中でした。

 さて、今回ご紹介している切手は、ボスニア紛争が始まってまもない1992年にイランが、ボスニア・ヘルツェゴビナのイスラム系住民への支援を呼びかけて発行したものです。

 イスラム共和国の看板を掲げているイランは常々“全世界のムスリム、団結せよ!”と主張していますから、この切手もそうした彼らの国是に沿ったもので、彼らの頭の中では、こうした切手を発行することは自然なことなのでしょう。なお、イランでは、その後も何度かボスニアのムスリム支援を題材としたプロパガンダ切手を発行していますが、デザイン的には、今回のものが一番インパクトがあるように思います。

 ボスニア紛争に関しては、切手や郵便の面でも、さまざまな国のいろいろなプロパガンダが飛び交っていて、丹念に見ていくと面白いだろうと思います。ただ、僕自身は、まず旧ユーゴの紛争そのものの知識がほとんどないので、まずはそこから整理してみないと、はっきりいって何がなんだかよく分からないというのが正直なところです。ま、とりあえず、今日のところは、手持ちのストックの中から、パッと取り出せたものをご紹介してみました。

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 アゼルバイジャン
2006-03-11 Sat 23:52
 ニュース・サイトに、アゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領が来日して小泉首相と会談し、日本の国連安保理常任理事国入りへの支持を明記した共同声明に署名したとのニュースが小さく出ていました。

 というわけで、アゼルバイジャン・ネタとして、こんな1枚を引っ張り出してみました。

アゼルバイジャン切手

 この切手は、ロシア革命後の1919年にアゼルバイジャン民主共和国が発行した切手で、首都バクーの旧市街を取り囲む(ユネスコの世界遺産)が取り上げられています。(画像はクリックで拡大されます)

 カスピ海の西南岸に位置するアゼルバイジャンは、近代以前は、おおむねペルシアの支配下にありましたが、19世紀に帝政ロシアに征服されました。その後、アゼリー(アゼルバイジャン人)は、ロシア革命後の混乱に乗じ、1918年5月にアゼルバイジャン人民共和国を樹立することに成功します。アゼリーたちは、当初はオスマン帝国の、オスマン帝国が第一次大戦に敗れた後はイギリスの支援を得て国家建設を行い、ベルサイユ講和会議には代表団も送っています。

 今回ご紹介しているのは、この時期に新生アゼルバイジャンの切手として発行された1枚ですが、マッチのラベルみたいな素朴な感じがお洒落で、結構お気に入りの一枚です。

 もっとも、バクーという一大油田地帯を抱える国をモスクワ政府が放っておくはずがなく、1919年8月、イギリス軍が撤退すると、1920年、ボリシェヴィキ政権は赤軍をバクーに侵攻させて共和国を解体し、ソヴィエト政権を樹立してしまいます。そして1922年末のソ連結成に伴い、ザカフカス・ソビエト連邦社会主義共和国の一部に組み込まれ、1936年以降はアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国として、以後、1991年8月に独立を回復するまで、ソビエト連邦を構成する共和国の一つにされてしまいました。

 さて、今回来日した大統領は、イルハム・アリエルは、2003年に父親のヘイダルから権力を委譲された2代目です。

 中央アジアの旧ソ連地域では、概して強権的な独裁体制を取る国が多いので、プロパガンダに興味を持っている人なら、けっこう楽しめるネタには困らないかもしれません。ただし、こうした国々に関しては、どこぞのエージェントが政府に無断で作っているインチキ切手(ハリウッドのスターやスポーツ選手などが取り上げられているものなど)が多く、実際の郵便にはどんな切手が使われているのか、よく分からないのが実情です。この辺をクリアできると、いろいろと面白いものも見えてくるんでしょうけれど…。

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 破壊された奉天停車場
2006-03-10 Fri 19:42
 1945年に昭和の戦争で日本が負けるまで、3月10日は陸軍記念日でした。日本の陸軍記念日は、1905年、日露戦争の奉天会戦で日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領したのを記念して、翌1906年に設けられたもので、当然のことながら、戦後は廃止されました。なお、1945年の東京大空襲は、意識的にこの日を狙って行なわれたものです。

 さて、今日はその陸軍記念日の100周年というわけで、こんな絵葉書を持ってきてみました。

奉天停車場

 これは、日露戦争終結後の1905年10月15日、逓信省が発行した絵葉書「明治37-8年戦役紀念郵便絵葉書 奉天ノ部」として発行したものの1枚で、“大山(巌)總司令ノ奉天入城”との題名がつけられています。(画像はクリックで拡大されます)

 入城場面の写真と組み合わせれているのは、“戦後ノ奉天停車場”で、破壊された駅舎とくすぶる余燼が戦闘の激しさを物語っています。このような題材が取り上げられたのは、奉天の陥落直前、ロシア軍が奉天停車場付近の建物に火を放って退却を始めたことにふまえたもので、この地を破壊したロシア軍と、戦後、秩序回復のために入城する日本軍を対比させる意図が込められていたと見るのが妥当でしょう。

 なお、教科書や旅行ガイドなどに時々写真が出てくる“奉天駅(現在の瀋陽南駅)”は、たいてい、1910年に南満州鉄道(満鉄)によって建てられたもので、今回の奉天停車場とは別物です。ついでにいうと、この奉天駅は東京駅を設計した辰野金吾の設計で「東京駅に似ている」とよくいわれますが、東京駅の完成は1914年なので、東京駅が奉天駅に似ているというのが正しいのかもしれません。

 さて、各国の戦争にまつわる切手や絵葉書を探してみると、敵国の蛮行の痕跡を示すものとして、または、自国の被害を強調する素材として戦跡をとりあげている国が少なからずあります。今回の葉書以外の具体的な事例については、本日付で刊行の拙著『これが戦争だ!』でもいろいろと書いてみましたので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 世界最初の記念切手
2006-03-09 Thu 22:31
 今日は“記念切手記念日”。1894年、日本で最初の記念切手(明治天皇の銀婚式を記念するもの)が発行された日です。この切手に関しては、以前の記事で詳しく書いたので、今日は世界最初の記念切手をご紹介してみましょう。

世界最初の記念切手

 “記念切手”の定義にもよりますが、世界最初の記念切手というと、一般的には、1871年4月にペルーで発行されたペルー中央鉄道を題材とした切手が挙げられます。

 ペルー中央鉄道は南米最初の鉄道で、1851年、リマ=カヤオ間が開通。その後、1871年に路線がカヤオからチョリヨスにまで延長されました。山岳地域で産出する鉱山資源を、リマの外港であるカヤオまで運ぶのが目的でした。

 今回ご紹介している切手(画像はクリックで拡大されます)は、その中央鉄道の開通20周年と、カヤオまでの路線延長をあわせて記念するために発行されたものです。ただし、切手上には“開通20周年”を意味する表示も、“記念”の文字もないため、一見しただけでは、それが“記念切手”であることは分かりにくく、「こんなものは記念切手ではない」とケチを付ける人も時々います。

 さて、この切手は、印面がかすれた感じのものが多く、鮮明な印刷のものを入手しようとすると案外苦労します。まぁ、荒くれ男たちがたむろする鉱山の町で使われる切手っぽくていいじゃないか、といわれてしまえばそれまでなのですが…。

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 たたかうエジプト女性
2006-03-08 Wed 23:53
 今日は国際女性デー。1908年3月8日ニューヨークで行なわれた女性達によるパンと参政権を要求したデモに感嘆したドイツの社会主義者クララ・ツェトキンが、1910年にコペンハーゲンで行なわれた国際社会主義者会議で「女性の政治的自由と平等のためにたたかう」記念の日とするよう提唱して始まった記念日だそうです。ということで、こんな1枚を持ってきました。

スエズ戦争

 この切手は、1956年のスエズ戦争(スエズ運河の国有化を宣言したエジプトに対するイギリス・フランス・イスラエルの干渉戦争。英仏はスエズ運河地帯を空爆したが、国際世論の圧力で撤退を余儀なくされた)に際して、エジプトが発行した戦意高揚切手です。

 一番左側に描かれた女性は手榴弾を手に持っており(画像はクリックで拡大されます)、「男女を問わず侵略者を打倒すべく戦おう!」というナセル政権のプロパガンダが読み取れます。

 男性と同じように戦うことを呼びかける以上、エジプト政府は女性に対しても男性同様の権利を与えなくてはいけないはずなのですが、現実には、エジプトをはじめとするアラブ諸国では女性の社会的権利は大きく制限されているのが実情です。いずれ、そうした女性に対する制約が表れている切手を探し出してきて並べてみると、彼らの本音と建前の使い分けがイメージとして浮かび上がってくるかもしれません。

 以前の記事でも書いたことがあるのですが、切手にみる女性の描き方を眺めてみると、その国の“女性”のあり方がみえてくるのではないかと考えています。以前、アメリカ切手に描かれた女性のイメージについて短い文章を書いたことがありましたので、そうした仕事と組み合わせて、このアイディアを膨らませていけば、それこそ、新書1冊分くらいのネタには困らなさそうです。

 なお、このたび刊行の拙著『これが戦争だ!』(ちくま新書)では、あまり女性と戦争の話は触れられませんでしたが、今回の切手の背景になったスエズ戦争をめぐる切手とプロパガンダについてはそれなりにスペースを割いて説明しています。よろしかったら、是非一度、ご覧いただけると幸いです。


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 台児荘の神話
2006-03-07 Tue 23:53
 中国の外務大臣が、7日、日中関係について「歴史上、中国国民は被害者である」と改めて戦争被害の事実を強調した上で、「いま大切なことは、日本の個々の指導者が十分な誠意と勇気を持って自分たちの誤った行動を改めることだ」と述べ、日中関係修復に向けて小泉純一郎首相らの靖国神社参拝を中止するよう強く求めたそうです。

 日中間で“歴史認識”が問題になるたびに思うことなのですが、日中戦争で一般の中国人が大きなダメージを受けたことが事実であるにせよ、現在の中国政府の主張には、客観的事実という点で非常に問題が多く、そのことがかえって、彼らの信頼性を損なう結果しかもたらしていないように思えてなりません。そうしたことを考えながら、引っ張り出してみたのがこの1枚です。

台児荘の勝利

 この切手は、1995年、“抗日戦争勝利50年”を記念して中国が発行したものの1枚で、“台児荘での大勝利”が取り上げられています。

 徐州作戦を開始する直前の1938年4月、日本の北支那方面軍第二軍の一部は台児荘(徐州の北東60キロの地点にある県城)を攻撃しました。このとき、城内には推定約10万の中国軍がおり、わずか5000人前後だった日本軍の攻略部隊は、戦闘が有利に進まなかったこともあり、後退して態勢を整えることにしました。

 ところが、正面の敵が退却したのを確認した中国側は“台児荘の勝利”を大々的に宣伝し、「日本軍の死傷2万余人(!)、歩兵銃1万余・歩兵砲77・戦車40・大砲50余を鹵獲」という現実とはかけ離れた戦果を発表。その後も、この発表が事実として一人歩きし、中国では台児荘は抗日戦争における中国側の輝かしい勝利のモニュメントとして人民の脳裏に深く刻み付けられるようになっています。

 “台児荘”で起こった歴史的事実に関しては、調べてみればすぐに分かるはずなのですが、それにもかかわらず、こうした事例を切手の題材として持ってくるところに、現在の中国が強調する“愛国教育”の胡散臭さを感じてしまうのは僕だけではないでしょう。

 さて、10日付で発売(大手書店では、もう店頭で売られているようですが)の拙著『これが戦争だ!』(ちくま新書)では、今回の切手をはじめ、戦争の記憶がメディアとしての切手上においてどのように取り上げられているかという点についても、さまざまな切手をご紹介しながら論じています。ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。


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 3匹のヘビ
2006-03-06 Mon 23:46
 今日は啓蟄。冬眠していた虫やらカエルやらヘビやらが起き出す日だそうです。というわけで、最新作の『これが戦争だ! 切手で読み解く』の中から、ヘビにちなむモノ(すみません、虫とカエルのモノはありませんでした)ということで、こんなものを引っ張り出して見ました。

      枢軸国の毒蛇

 このカバー(封筒・画像はクリックで拡大されます)は、第二次大戦中の1943年9月、ニューヨークからアルゼンチン宛に差し出されたもので、左側には途中で当局の開封・検閲を受けた痕跡が残っています。ご注目いただきたいのは、日独伊三国の首脳を3匹の蛇に見立ててアンクル・サムの足が踏みつけているイラストです。ドイツのヒトラーとイタリアのムッソリーニについてはすぐにそれと分かるのですが、日本に関しては昭和天皇なのか、東条英機なのか、イマイチはっきりとしません。まぁ、知名度からいったら、彼らは“ヒロヒト”のつもりで描いたんでしょうけど…。

 戦争が始まると、どんな国でも敵国に対する敵愾心をあおるものですが、その過程で、敵国の指導者に対するカリカテュアがさかんに作られます。2月25日の記事でご紹介したスターリンのパロディもその一例ですが、今日の封筒の場合は、民間で作られた“愛国カバー”であるだけに、その表現はよりストレートです。(“愛国カバー”の詳細については、昨年7月2日の記事をご覧ください)

 まぁ、通常の神経の人間にとって初対面の人間を殺すということは普通できないわけで、その意味では、戦争遂行上、敵の連中は“人間”ではないということを刷り込むことは重要なイメージ操作ということになります。そういえば、アメリカ人がこのカバーを使っていた時期、日本では“鬼畜米英”というスローガンが国中に充満していましたっけ。

 このたび、ちくま新書の1冊として上梓した『これが戦争だ! 切手で読み解く』では、今日のカバーを含めて、“嗤うべき敵の姿”を取り上げたプロパガンダの切手・郵便物をいろいろご紹介しています。機会があれば、是非一度、ご覧いただけると幸いです。

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 飛べない鳥
2006-03-05 Sun 22:52
 以前からこのブログでもご案内しておりました『日曜喫茶室』(NHK-FM)の放送は無事に終わりました。お聞きいただいた皆様には、この場を借りて改めてお礼申し上げます。

 さて、今回の番組はラジオなので、基本的に画像無しでも通じるような内容のお話をしてきたつもりなのですが、この切手に関しては、やはり画像をお見せしたほうがわかりやすかったかもしれません。

愛鳥週間

 この切手は、1971年5月、第25回愛鳥週間を記念して発行されたもので、収集家の間では間違い図案の切手として割と有名な存在です。

 じつは、切手に描かれている中央の親鳥の左右の翼のうち、右の翼(切手では手前)の羽の重なり方が逆になっていて、このままでは、シジュウカラはたちまちキリもみ状態になって墜落することは必至です。正しくは、この初列風切羽(しょれつかざきりば)と次列風切羽の重なり方は、第一羽が第二羽の下へ、第二羽が第三羽の下へと順次重なっていないといけないわけですが、切手では、確かに翼の表面から見た右翼が同じ重なり方をしているように描かれています。(詳しくは画像をクリックして拡大画面でご覧ください)

 この図案のミスについては、発行後まもなく春日井市のタカ匠が指摘し、日本野鳥の会名古屋支部の例会でもそれが確認されて、新聞でも大きく取り上げられました。

 今回の番組では、僕の登場早々、共演者のパラダイス山元さんが「そういえば、子供の頃、“飛べないシジュウカラ”って切手がありましたよね」と話をふってくださったので(もちろん、事前の打ち合わせはなし)、上に書いたようなことをご説明しました。

 実は、現在、4月半ばに<解説・戦後記念切手>シリーズの第4巻『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』を刊行すべく準備をしていて、この切手についての原稿を書いたばかりだったので、たまたま、そうしたエピソードを覚えていただけなのですが、そうした事情を知るわけもない皆さんに僕のことを“専門家”っぽく見せる演出としては効果があったみたいです。まぁ、普段はできの悪い学生が、試験のヤマがドンピシャで当ってしまって難関校に合格したのと同じことかもしれません。(ちょっとズルっぽかったですかね)

 で、この切手についての詳しい説明については、4月半ばに日本郵趣出版から刊行予定の上記『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』をご覧いただくとして、まずは、今週発売の『これが戦争だ! 切手で読み解く』(ちくま新書)を是非お手に取っていただきたいというのが僕の正直な気持ちです。

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 明日の「日曜喫茶室」
2006-03-04 Sat 11:57
 以前の日記でもご案内しましたが、明日・3月5日(日)、NHK-FMの「日曜喫茶室」に、パラダイス山元さんと一緒にゲスト出演します。放送時間は12:15~14:00です。

 で、昨日、その収録に出かけてきました。

 今回は一人当たりの持ち時間が、40分以上あるんですが、実際に話してみると、あれも話したい、これも話したいで、結局、時間がいくらあっても足りないという感じです。この辺がトーク番組に慣れていない要領の悪さなのでしょう。

 ゲストとして1曲リクエストを出せるのですが、いろいろ考えて、僕は山下達郎さんのThe War Songをお願いしました。理由は簡単、放送翌日の3月6日に書店の店頭に並ぶ『これが戦争だ!』のことを宣伝したかったので、そのものズバリのタイトルの曲を選んだというわけです。

 収録では、司会のはかま先生がかなり強力に『これが戦争だ!』のことをプッシュしてくださいましたが、公共放送ですからねぇ。放送時にはカットされてしまうかもしれません。そういえば、子供の頃、先生のエッセイが家に1冊あって、何度も読んでいたことを思い出しました。(昨日、お会いした時にその話をすればよかった)

 幼少の頃、切手少年だったということで共演したパラダイス山元さん(当然のことながら、昨日はサンタの格好ではありませんでした)は、切手の博物館にも時々お見えになるとのこと。展示のことをえらくお褒めいただいた上、「博物館の女性は皆さんお綺麗で、彼女たちを見に行くだけでも博物館に行く価値がある」とも仰ってくださいました。思わず、「それってどこか別の博物館じゃないですか?」と聞きかえしそうになった僕は、やっぱり性格が悪いのでしょうか。

 ここのところ、ラジオ中国語・アラビア語のテキストでの連載に加え、昨年の視点論点、1月の中東切手展の取材など、NHKさんの仕事が結構多いので、渋谷には足を向けて寝られないといった心境です。

 収録では皆さん、話が盛り上がって、実際の放送時間よりもかなり長く話してしまったので、編集で大分カットされると思うのですが、全体としては楽しい雰囲気に仕上がっていると思います。

 明日午後の放送を、是非、お聞きいただけると幸いです。

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 テロリスト図鑑:ゾヤ・コスモデミヤンスカヤ
2006-03-03 Fri 23:58
 3月3日は桃の節句ということで、たまには妙齢の女性を取り上げてみましょう。

ゾヤ

 この切手は、1944年、ソ連が発行したもので、ゾヤ・コスモデミヤンスカヤが取り上げられています。

 彼女は、第201モスクワ中学校の女生徒であった1941年10月に、戦闘パルチザン部隊に入りました。その後も、レジスタンスの闘士としてしばらく生活していたものの、1941年11月末、軍事行動を遂行中に捕まり、モスクワ郡ベレイスキイ地区ペトリシチェヴォ村で、ドイツ軍によって絞首刑に処せられました。そして、ソ連邦英雄となった最初の女性となっています。その後も、多くの通(ストリート)、コルホーズ、学校が彼女の名前ゾヤを記念しています。

 さて、1941年11月29日、ドイツ軍は、モスクワ近郊のペトリシチェヴォ村での放火事件で、ターニャという名の娘を捕らえました。ヒトラー一派は一晩中彼女を拷問し、その結果、彼女を絞首刑にしました。1942年1月14日、この村が解放され、2日後に、モスクワから新聞記者が村に訪れました。1月27日、『プラヴダ』紙上に、ナチスに責め殺された勇敢なパルチザン女性についての「ターニャ」という記事が掲載されました。スターリンはこの記事を気に入り、彼女をとくに称えて、「これこそが民族の英雄である」と述べていますが、のちに、このターニャは、ゾヤ・コスモデミヤンスカヤであることが明らかとなりました。

 さて、彼女はきりっとした美人さんなので(けっして嫌いな顔じゃありません)、こういう美女のテロにあって殺されるのならそれもまた一興とか考える人もあるのかもしれません。しかし、ある種の無差別放火殺人犯であることには変わりはないわけで、対独レジスタンスの闘士というだけで、彼女を“英雄”に祭り上げてしまうのもいかがなものかと個人的には思わなくもありません。実際、この点に関しては、現在のロシアでもさまざまな論争が展開されているようです。

 さて、3月10日付で刊行の『これが戦争だ!』では、今回取り上げた切手も含めて、さまざまなかたちで国民を戦争に駆り立てていくプロパガンダ切手の数々をご紹介しています。ご興味をお持ちの方は、是非、ご覧いただけると幸いです。

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 アメリカ製の太極旗
2006-03-02 Thu 23:50
 戦争をする国というのは、自分たちこそが正義の戦争を戦っているのだと主張します。もっとも、“正義”の内実について問い詰めてみると、かなり怪しげな答えしか返ってこないというケースも少なくありません。

 そんなことを連想させる切手がこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
 
      アメリカ製太極旗

 第二次大戦中の1943~44年、アメリカは“枢軸国に抑圧されている国々”をテーマとした17種類のシリーズ切手を発行しました。それらの切手はいずれも、中央に抑圧された国の国旗が描かれ、その左側にはアメリカを象徴するワシが、右側には解放を象徴する女神が描かれています。そのシリーズの最後の一枚として、1944年11月に発行されたのが、今回ご紹介している韓国を題材とする切手です。

 たしかに韓国も、枢軸国の一つである日本によって“抑圧されている国”といえなくもないのですが、韓国が日本の植民地になったのは1910年で、これを第二次世界大戦と結びつけるのは相当無理があります。そもそもアメリカは1905年に、日本の首相・桂太郎と、特使のタフト(当時、陸軍長官。後に大統領)との秘密協定により、自らのフィリピン支配を日本に認めさせる代償として、韓国における日本の優越権を認めており、日本が朝鮮半島を植民地化することに“お墨付き”を与えていたという経緯もあります。

 それにもかかわらず、このシリーズの中でアメリカが、あえて韓国を取り上げているのは、日本によって〝抑圧されている国〟の実例として挙げられるのが、韓国以外になかったためと考えるのが妥当でしょう。

 この時期、東南アジアや太平洋地域で日本が占領していた地域は、太平洋戦争の開戦以前は、連合諸国が植民地支配を行っていました。それゆえ、ビルマやフィリピンなどを“日本によって抑圧されている国”と非難するなら、戦前、これらの地域を支配していたイギリスやアメリカも“抑圧者”ではないのか、という疑問が投げかけられることになります。ファシズムに対して自由と民主主義を守るためという“正義の戦争”を標榜する連合国にとって、下手をすると天に唾する結果になりかねません。

 そこで、アメリカとしては「日本はアジアの解放を唱えながら朝鮮や台湾を植民地化し抑圧しているではないか」と指摘する必要に迫られたのだ、と考えられます。

 もっとも、それではアメリカが韓国のことを理解し、その解放を真剣に考えていたかというと、甚だ疑問です。たとえば、この切手に描かれている太極旗(旧大韓帝国の国旗で、現在の大韓民国旗)の中央の太極文様は、本来の太極旗の文様とは微妙に異なっており、アメリカの韓国理解のいい加減さがよく分かります。

 ちなみに、アメリカは旧大韓帝国時代の1895年に、旧大韓帝国の切手製造を請け負っていますが、そのときの太極旗の文様も正確とは言いがたいものでした。このことは、「韓国」に対するアメリカの理解が、50年たっても一向に深化しなかったことを物語っています。

 もっとも、アメリカが、“抑圧されている国々”の一つとして韓国を取り上げたのは、日本を非難するためだったのですから、太極旗の文様が多少間違っていようと、アメリカにとってはどうでもいいことだったのかもしれません。

 3月10日付で刊行予定の拙著『これが戦争だ! 切手で読み解く』(ちくま新書)では、「我々は正義のために戦う!」という1章を設け、切手というメディアを通じて表現されてきた“戦争の大義”のいかがわしさをさまざまな角度から分析しています。

 是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。


★★★★★★★★★★★★★★★ ラジオ出演の予定! ★★★★★★★★★★★★★★★

 3月5日(日) 12:15~14:00 
 NHK-FMの「日曜喫茶室」に、パラダイス山本さんと一緒にゲスト出演します。僕の持ち時間のタップリありますので、近況報告も含め、いろんな話をしてくるつもりです。
 一人でも多くの皆様にお聞きいただけると幸いです。
 
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 どこまで中国?
2006-03-01 Wed 23:42
 3月1日はいろいろな出来事が起こった日なので、何を取り上げようかと迷うのですが、とりあえず、満州国の建国記念日(1932年)ということで、満州国がらみのネタとして、こんな1枚を持ってきました。

美国開国150年

 この切手は、日中戦争下の1938年、中国国民政府が「美国(=米国)開国150年」を記念して発行したもので、中国の青天白日旗と米国の星条旗の背後に、中華民国の地図が描かれています。当時、日本と戦う中国に対して、少なからぬ協力を行っていたアメリカに対する中国側の感謝の意を込めて発行されたものです。

 さて、この切手に関して、ご注目いただきたいのは、背後に描かれている地図で、当時、“満州国”の支配下に置かれていた東北部が中国の領土として描かれている点です。これは、中国側が切手というメディアを通じて、満州国の存在は絶対に認めないという強い意志を内外に明らかにしたもので、国民の抗日意識を鼓舞する意図が込められています。

 当時、北京や南京、上海などの大都市の多くは日本軍の占領下に置かれていましたが、郵便に関しては、従来どおり、日本軍の占領地であっても国民政府の切手がそのまま使用されていた。しかし、この記念切手は例外で、日本の占領当局はこれを“有害な切手”に指定し、占領地域内でこの切手を郵便に使用することを禁止したばかりか、この切手を所持しているだけでも取り締まりの対象としたといわれています。

 ところで、この切手は、上述のように、満州国に対する抗議の切手というかたちで紹介されることが多いのですが、実はよくよく見てみると、この切手で中華民国の領土とされている地域には、満州国の支配下にあった東北部のみならず、ソ連の衛星国・モンゴル人民共和国の支配下におかれていた外蒙古や半独立状態にあったチベットなど、国民政府が独立を認めていなかった地域も含まれています。

 モンゴルでは、1911年12月、辛亥革命の混乱に乗じて、ボグド・ハーンを元首として清朝からの独立が宣言されます。しかし、新たに誕生した中華民国は、ロシアとともにモンゴルの独立を否認。モンゴル人の居住地域を内モンゴルと外モンゴルに分割したうえで、外モンゴルのみに自治を認めるという決定を押しつけています。その後、ロシア革命後の混乱の中で、1921年、モンゴルは立憲君主国として再度独立を宣言しますが、1924年、ソ連の強い影響力の下に共産主義政権の人民共和国へと政体を変更しました。

 一方、チベットも、清朝の滅亡後、独立を宣言。中国中央政府の統制の及ばない地域として、事実上の自治領のようなかたちで自立するようになっていました。

 これに対して、歴代の中華民国政府は、外モンゴルとチベットを管轄する機関として、蒙蔵委員会を設置し、両地域の独立は断固認めないとの姿勢を明らかにしています。

 切手に描かれている地図は、あくまでも中国側の主張している“中国”の範囲を示したものなわけで、それがそのまま国際的に通用していたわけでないところに、プロパガンダと実態のズレが感じられて、僕なんかは興味をそそられてしまいます。

 さて、3月10日付で刊行の『これが戦争だ!』では、今回取り上げた切手も含めて、領土問題に関するプロパガンダ切手の数々をご紹介しています。ご興味をお持ちの方は、是非、ご覧いただけると幸いです。


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