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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 大日本帝国の終焉:予告編(3)
2005-07-31 Sun 09:48
 戦争末期の日本では、連日のように大都市が空襲にあっていました。当然のことながら、空襲にあった都市は焦土と化し、郵便を宛先に届けようと思っても、宛先そのものがなくなっていたりして配達不能ということがままありました。

 で、このような場合、宛先へ届けられなかった郵便物は差出人に返送されます。その際、配達を担当する郵便局では、事情を説明した印を押したり、付箋を貼ったりするわけですが、その実際のサンプルを下に示します。

空襲葉書

 この葉書は、終戦後の1945年12月、山口県から大阪宛に宛てられたもので、「戦災後転居先不明」という文言の入った印が押されています。配達できなかった理由が“戦災”であったことが明示されており、空襲の被害を記録する郵便物としてわかりやすいモノと思います。

 8月6・7日(土・日)に東京・大手町のていぱーく(逓信総合博物館)で開催のサマーペックス では、この葉書を含めて、終戦前後の日本の状況をたどった作品「大日本帝国の終焉」を展示する予定です。両日とも、14:30からは展示の簡単な解説も行いますので、是非、お運びいただけると幸いです。
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 大日本帝国の終焉:予告編(2)
2005-07-30 Sat 09:46
 昨日に引き続き、来週の展示の予告編。今日は硫黄島の星条旗を取り上げた切手です。

      硫黄島の星条旗

 1945年2月18日、米軍は硫黄島への上陸を開始。以後、3月22日の日本軍玉砕にいたるまで、軍事史上稀な激戦が展開されました。

 硫黄島といえば、切手にもなったジョー・ローゼンソールの写真が有名ですが、この写真の星条旗は、擂鉢山占領直後のものではなく、その後に撮り直したものです

 実は、最初の星条旗が掲揚された後、視察のために訪れた海軍長官が国旗を記念に持ち帰りたいと言い出したため、憤慨した現地の将兵たちは、最初に掲げられた国旗は部隊で保管し、別の国旗を代わりに掲揚して、長官に渡すことにしたのです。

 ローゼンソールの写真は、そのときの模様を撮影したもので、「弾丸の飛び交う中での国旗掲揚」という事実と異なるコメント付で新聞に掲載されると、アメリカ国内で異様な興奮を巻き起こします。また、写真の6人が、ニューイングランドの紡績工、ケンタッキーのタバコ農夫、ペンシルバニアの炭鉱夫の息子、油田地帯テキサスの元学生フットボールのスター選手、酪農地帯ウィスコンシンのカトリックの青年、アリゾナのアメリカ先住民といった具合に、アメリカ社会の各地域・各階層(この時代は、まだ、アジア系やアフリカ系はアメリカ社会の正当なメンバーとはみなされていませんでした)にまたがっていたことも、国民をいっそう興奮させる要因になったことは間違いありません。

 こうして、一種の“宗教画”ともなったこの写真は、はやくも1945年3月7日、後に駐日大使となるマンスフィールド下院議員の提案で、戦時国債募集のポスターに採用されます。そして、5月9日(ドイツ降伏の翌日)から7月4日(独立記念日)までの約2ヶ月間にわたって行われた戦時国債募集のキャンペーンでは、この写真の影響もあって、当初目標の2倍にもあたる26億3000万ドルもの金額が集まりました。ちなみに、翌1946年度のアメリカ政府の総予算は56億ドルです。

 こうした状況の中で、“硫黄島の星条旗”は、きたるべき日本との本土決戦に備えて、国民の戦意高揚をはかるため、1945年7月11日には切手にも取り上げられます。大統領であっても存命中は切手に取り上げないというアメリカの不文律は、国民の興奮の前に、あっさりと覆されたのでした。

 もっとも、戦意高揚のために発行された“硫黄島の星条旗”でしたが、発行から1月後の8月には日本が降伏します。このため、現在では、なんとなくアメリカの戦勝記念のようなイメージでとらえている人も少なくないようです。

 来週の土・日、8月6・7日に東京・大手町のていぱーく(逓信総合博物館)で開催のサマーペックス では、この切手を含めて、終戦前後の日本の状況をたどった作品「大日本帝国の終焉」を展示します。両日とも、14:30からは展示の簡単な解説も行いますので、是非、お運びいただけると幸いです。
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 大日本帝国の終焉:予告編(1)
2005-07-29 Fri 09:43
 来週の土・日、8月6・7日に東京・大手町のていぱーく(逓信総合博物館)で開催のサマーペックス にて、「大日本帝国の終焉」と題するコレクションを展示します。今回のサマーペックスは、会期初日が8月6日ということで、広島の原爆60周年を前面に押し出した企画展示になっていますが、僕の作品は、より一般的な歴史的背景を理解してもらうための概説として、1945年を中心に、終戦前後の日本の状況を切手や郵便物でたどっています。

 で、これからしばらく、イベントそのもののプロモーションを兼ねて、今回の作品に使う予定のものをいくつかご紹介したいと思います。

 初回の今日は、いわゆる勅額切手とその使用例です。

勅額切手

剥ぎ取り使用例

 1945年4月1日に郵便料金が値上げされた(書状の基本料金は7銭から10銭になった)のにあわせて、元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」の文字を書いたとされる筥崎宮の拝殿の額(通称・勅額)を図案とする10銭切手が準備・発行されました。まさしく、“神風”を期待する戦争末期の精神状態が反映されていたといってよいでしょう。

 切手は5月に入って出回りはじめましたが、まもなく、8月15日の終戦となります。降伏したのは敵国の鬼畜米英ではなく、自分たちということになったわけです。このため、この切手が進駐軍を刺激することを恐れた日本の郵政は、急遽、8月24日付でこの切手の発売を停止。公衆手持分については、郵便物に貼られた場合には、ここに示す葉書のように、この切手を剥がして“料金収納”の表示を行ったり、“敵国降伏”の文字部分を墨で塗りつぶしたりして対応しました。

 もっとも、この勅額切手に関しては、進駐軍の兵士の中には、日本が降伏したことの記念切手と勘違いする者も少なかったようで、彼らはこの切手を“サレンダー・スタンプ”と呼んでもてはやしたようです。

 この話は、切手をかじったことのある人の間ではポピュラーなものですが、案外、一般には知られていないようなので、簡単にご紹介しました。

 なお、勅額切手については、、僕の『反米の世界史 』でも少し触れていますが、現在発売中の雑誌『郵趣 』や近刊予定の『郵趣研究』(くわしくは発行元の財団法人・日本郵趣協会 にお問い合わせください)に詳しい記事が出ていますので、ご興味がある方はご一読ください。
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 土用の丑の日
2005-07-28 Thu 09:41
 今日は土用の丑の日。いわずと知れたウナギの日です。

 僕は子供の頃から大のウナギ好きで、誕生日にはケーキはいらないからウナギが食いたいと騒いでいた変なガキでした。いまでも、月に最低でも2回はウナギを食べますし、3~4日なら毎日ウナギを食べていても飽きが来ません。もちろん、今日も夜にはウナギを食べる予定です。(お昼には食べ損なった)

 ウナギの料理法といえば、やっぱり蒲焼がベストだと思いますが、それでも、海外に出かけると、その土地のウナギ料理を食べて見たりします。いままでで一番印象に残っているのは、10年位前にシンガポールで食べたウナギのチリソース炒めですかねぇ。ウナギをぶつ切りにして軽く揚げたものを、海老の代わりにチリソースで炒めるというもので、プリプリの食感は何ともいえないもので、忘れることができません。

 で、蒲焼以外のウナギ料理の中で、いま一番関心を持っているのが、毎年9月にスウェーデン南部のスコーネ地方で開かれるというウナギ・パーティです。なんでも、フライ、ボイル、燻製などあらゆる類のウナギ料理が並ぶんだそうで、ウナギ好きとしては非常に心を惹かれます。まぁ、実際に行って食べてくると、やっぱり東京の蒲焼がベストだというところに落ち着くんでしょうが…。

 ちなみに、スウェーデンでは、下のようなウナギの切手も発行されています。

スウェーデンのウナギ

 かの地では、9月にはみんなでこいつを食べるんですかねぇ。白人を相手にしているせいか、日本のウナ君たちよりも鼻筋が通っている気がしますが、いったいどんな味なのでしょう。興味津々です。
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 光明星もしくはテポドン
2005-07-27 Wed 09:39
 日本人宇宙飛行士の野口さんを乗せたスペースシャトルが無事に打ち上げとなりましたが、宇宙を題材とした切手というのは数多く存在しています。

 そもそも、宇宙開発と軍事が切り離せないものであり、国威発揚の重要な手段ともなっている以上、国家のメディアである切手が宇宙を積極的に取り上げるのは自然なことといってよいでしょう。また、そうした政治的な生臭さを別にしても、宇宙やロケットは人気のある題材ですから、切手の販売をビジネスとして考えている国は、小遣い稼ぎのために、宇宙に関する切手を盛んに発行するものです。

 さて、そうした宇宙関連の切手の中で、今日は、北朝鮮が発行した“光明星(テポドン)”の切手をご紹介しましょう。

テポドン

 ご承知のように、1998年8月、北朝鮮がテポドン(この名前は、実はアメリカがつけたコードネームで北朝鮮側の呼称ではありません)ミサイルの発射実験を行い、日本社会を震撼させました。

 このミサイル発射について、北朝鮮側は、人工衛星(光明星1号)の打ち上げであり、打ち上げには成功し、地球の周回軌道に乗った衛星は「金日成将軍の歌」を地上に向けて発信し続けていると主張していますが、これは事実として確認されていません。おそらく、弾道ミサイルの試射をかねた人工衛星の打ち上げだったが失敗、というのが真相でしょう。

 まぁ、北朝鮮にしてみれば、国産人工衛星の打ち上げ“成功”というのは(それが事実であれば)快挙ですから、記念切手を発行して内外に広くアピールするということもわからんではないのですが、それにしてもねぇ、「なんだかなぁ」としか言いようのない切手であることは間違いありません。
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 エジプトの革命記念日
2005-07-26 Tue 09:37
 先日、シナイ半島の南端、紅海に面したエジプトの保養地、シャルム・シェイクでテロ事件がおきましたが、そのニュース解説で“革命記念日を狙った”との表現がありました。

 ここでいう“革命”とは、ナセルの率いる自由将校団による王制打倒のクーデタのことで、クーデタの発生した日が1952年7月23日、ファールーク国王が亡命してクーデタが完了した日が同26日です。したがって、エジプトの“革命記念日”という場合、7月23日もしくは7月26日のいずれを取るかは解釈次第ともいえそうですが、とりあえず、現在のエジプト政府は、7月23日を革命記念日の公式な祝日としています。ちなみに、ナセルの有名なスエズ運河国有化宣言は、1956年7月26日に“革命記念日”の記念演説の一部として行われたものですし、カイロ市内には“7月26日通り”という大通りがありますから、7月26日を革命の記念日と考えても、間違いとはいえないでしょう。

 さて、今日はそのエジプト革命の後、1954年5月にアレキサンドリアからホノルル宛に差し出されたカバー(封筒)をご紹介しましょう。

ファールーク抹消

 カバーの左端の切手は、王制時代の切手の国王部分を3本線で抹消したものです。王制時代のエジプトでは、通常切手には国王の肖像が取り上げられていましたが、革命後、切手上の国王の肖像を抹消する加刷を施した暫定的な切手が用いられました。このカバーに貼られているのもその1枚です。

 一方、右側の切手は、革命後、国王の肖像を描いた切手に代わるものとして、1953年から新たに発行された通常切手で、カイロのスルタン・ハサン・モスクが取り上げられています。こうした切手が一般に出回るようになると、革命直後の混乱も少しは落ち着いてきたような感じをうけます。

 もっとも、このカバーは、外国宛の郵便物ということもあって、当局による検閲を受けており(左下のほうに押されている円グラフのような形の印がそのことを示しています)、依然として暫定的な加刷切手も貼られていますから、多少は落ち着いたとはいえ、当時のエジプト社会が過渡的な状況にあったこともわかります。

 この日記を書いていて気がついたのですが、来年はナセルのスエズ運河国有化宣言とそれに続くスエズ戦争(第2次中東戦争)から丁度50年。なにか、それにちなんだ作品を発表できたらいいな、とふと思ってしまいました。
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 オランダ消滅
2005-07-25 Mon 09:30
 今日はオランダの独立記念日だそうです。というわけで、手許にあるオランダ関連のマテリアルの中から、面白そうなものを探してきてご紹介することにしました。

 オランダ1940

 オランダ1940ウラ

 このカバー(封筒)は、1940年7月、ユトレヒトからアメリカ宛に差し出されたものです。

 第2次大戦中の1940年5月、オランダはドイツ軍の電撃作戦の前に敗北し、女王はロンドンに逃れて亡命政権を樹立します。このカバーでは、まだ女王の切手がそのまま使われていますが、裏面(下の画像)を見ると、ナチス・ドイツによって開封・検閲されています。その後、オランダでは、同年10月から、ドイツへの抵抗を続ける女王の肖像を外した、数字図案の切手が発行されますが、このカバーはそれ以前の過渡的な時期のものです。

 年表の数字から歴史を見る癖がついてしまっている我々は、ついつい、1940年5月にオランダがドイツに占領されたというと、ただちに、戦前の女王の切手も使用が停止されたと考えがちですが、現実の社会生活がそうそうデジタル的に切り替わるはずもないことは、こうした過渡的なカバーを見ればリアルに実感できるでしょう。

 さて、オランダがドイツに敗北し、事実上、本国政府が消滅したことで、日本はアジア・太平洋地域の一大油田地帯であったオランダ領東インドに食指を動かすようになります。そして、そのことがいわゆる太平洋戦争へとつながっていくのですが、この点については、また別の機会に関連のマテリアルをご紹介することにしましょう。
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 試験の解説(3)
2005-07-24 Sun 09:29
 今回の試験では、問題用紙のスペースの関係から、切手と消印の部分しか出しませんでしたが、このブログではカバー(封筒)の全体像を示して説明します。

リション・レツィオン

第一次大戦中のイギリスの二枚舌外交の結果、イギリス委任統治下のパレスチナでは、在地のアラブ系住民とユダヤ系入植者の対立が絶えませんでした。特に、第二次大戦中、イギリスはマクドナルド白書を発してユダヤ系移民の受け入れを制限し、将来的にアラブ主導の独立国を作ることを約束するなどしたため、ユダヤ系は反発。一部の過激派は反英テロを繰り返すようになました。

 この結果、大戦で疲弊したイギリスは自力でパレスチナ問題を解決する意欲と能力を失い、1947年2月、問題の解決を国連にゆだねると一方的に宣言。このため、国連は同年5月、パレスチナ問題特別委員会を設立し、パレスチナにアラブ、ユダヤの2独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連の信託統治下に置くというパレスチナ分割案を発表。この分割案が、同年11月29日、国連決議第181号として採択されます。

 しかし、この分割案はユダヤ系に有利な土地の配分になっていたため、アラブ側は猛反発し、反ユダヤ暴動が頻発するようになります。こうして、国連決議に基づいてユダヤ国家の創設を既成事実化しようとするユダヤ系と、それを阻止しようとするアラブ系の間でテロの応報が繰り広げられ、パレスチナは事実上の内戦状態に突入していきました。

 さて、国連決議第181号の採択を受けて、ユダヤ系は新国家の樹立に向けて、テルアビブにユダヤ人居住区を統治するための臨時政府として“ユダヤ国民評議会”を樹立。ユダヤ国民評議会は、自らのプレゼンスを内外に示すため、暫定切手を発行し、郵便サービスの提供を開始します。

 ところで、ユダヤ国民評議会の郵政組織とは別に、アラブ側との戦闘で外界との連絡が途絶する可能性のあった地方のユダヤ人地区では、外部との通信を確保するため、独自の特殊な郵便制度を導入するところもありました。

 このカバーはその一つのサンプルで、テルアビブ南方のリション・レツィオン近郊のナハト・イェフーダからテルアビブ宛に差し出された装甲車郵便(アラブ側の襲撃に耐えられるよう、装甲車で郵便物を運ぶ制度)のカバーです。貼られている切手は、リション・レツィオンのローカル切手で、装甲車とユダヤ系の兵士を描いています。

 カバーの余白には、ユダヤの象徴であるダビデの星を挟んで、上下にシオニズムの父、テオドル・ヘルツルの『ユダヤ人国家』の一節と、国連決議第181号の文字が印刷されており、イスラエル国家建国直前の高揚した雰囲気が伝わってきます。

 こうした状況の中で、1948年5月14日、イギリスのパレスチナ委任統治期間が終了すると、ユダヤ国民評議会はイスラエルの建国を宣言。これに対して、イスラエルの建国を阻止しようとする周辺アラブ諸国が介入し、第一次中東戦争が勃発するのです。

 試験の問題では、切手と角型の消印部分のみを拡大して、この切手が発行されるに至った経緯や歴史的背景について説明してもらうことにしましたので、カバー余白の文言や、カバーの宛先などについての説明は不要です。

 さて、今回の試験では、5つの問題を出し、その中から2問を選んで解答してもらうことにしていましたが、切手がらみの問題は一昨日、昨日、そして今日の3問で、残りの2問は、とりあえず、切手とは無関係の歴史的背景を問う設問でした。こちらに関しては、わざわざ僕のブログを見なくとも、調べる手立てはいくらでもあると思いますので、解説は省略します。

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 試験の解説(2)
2005-07-23 Sat 09:21
 昨日に引き続き、試験問題の解説です。

 大レバノン

 この切手は、1924年、フランスが“大レバノン”で用いるために発行した加刷切手です。

 第一次大戦中、イギリスは、アラブがオスマン帝国に対して反乱を起こす代わりに、戦後のアラブ国家樹立を認めるという密約を結びます。これをもとに、大戦後、現在の国名でいうとシリア・レバノンの地域を占領したファイサルは、アラブ王国の建国を宣言し、アラブ国家の存在を既成事実化しようとしました。

 しかし、同じくイギリスと大戦後の中東分割について密約を結んでいたフランスは、シリア・レバノン地域を自分たちの勢力下におくことを強硬に主張。結局、フランスのこの主張が通り、1920年7月、ファイサルの勢力はシリア・レバノン地域から駆逐されてしまいます。

 その後、フランスはこの地域を委任統治下に置き、レバノン国・ダマスカス国・アレッポ国・アラウィ自治区に分割。各地域に知事を置き、これを高等弁務官が統括するという古典的な分割統治政策を行いました。

 このうち、レバノンに関しては、1920年8月、“大レバノン”が設置され、オスマン帝国時代の1860年に設置された旧レバノン県(キリスト教徒自治区)にトリポリ、ベイルート、シドンなどの海岸地区とベカー高原を加えた区域が、内陸シリアとは別の行政単位となりました。この“大レバノン”は、旧レバノン県に比べて面積は2倍以上になりましたが、キリスト教系住民が人口の過半数を維持することを最優先にして、これ以上は拡大されませんでした。これは、フランスが“大レバノン”を、イスラム教徒が多数を占める内陸シリアから分離して、中東支配の拠点として育成しようとしたためです。

 ところで、当初、フランスの委任統治下に置かれたシリア・レバノンの全域では、共通の切手が使われていましたが、1924年、フランスの分割統治が軌道に乗ってきたことで、それぞれの地域で別個の切手が使用されるようになり、ここに取り上げた“大レバノン”加刷の切手が発行されるようになったというわけです。

 その後、フランスは1926年5月、委任統治下の保護国として“レバノン共和国”を創設。これにより、“大レバノン”という呼称は使われなくなりました。なお、現在のような完全な独立国家としてのレバノン共和国が発足したのは、1943年のことです。

 試験の解答としては、まず、フランスによるシリア・レバノン地域の分割統治政策に沿って、第一次大戦後、新たに“大レバノン”という行政区域が創設されたことをきちんと指摘したうえで、切手の説明をしているかどうかが大きなポイントになります。その上で、旧レバノン県との比較や、内陸シリアと“大レバノン”を分割しようとしたフランスの意図が説明できていれば、完璧といえましょう。
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 試験の解説(1)
2005-07-22 Fri 09:19
 現在、都内の大学で週に何度か、非常勤講師をしています。講義の題目は学校によってさまざまですが、基本的には、何らかのかたちで“切手”を絡めた話をしています。

 僕の授業は基本的に通年科目なので前期試験はやらないのですが、1ヶ所だけ前期試験をやった学校があります。その試験には、当然、授業内容とからめて切手を題材に出題した問題もありますので、今日から何日かに分けて、その解説をしてみたいと思います。

 さて、初回の今日は、↓の切手です。

エジプト・シリア合邦

 この切手は、1958年2月、エジプトとシリアの国家連合が成立し、アラブ連合共和国(UAR)が発足したことを記念して発行されたものです。左側がエジプトの発行、右側がシリアでの発行です。デザインは、エジプトとシリアの地図を「アラブ連合共和国」の文字の入ったアーチでつなぎ、新たな時代の夜明けを象徴する太陽を背後に配したものとなっています。“合邦”の表現として、両国ともに同じデザインの切手となっていますが、通貨の統合は行われなかったため、エジプトのミリーム(切手上の表示はM)、シリアのピアストル(切手上の表示はp)は、従来どおり使われています。

 いわゆるアラブ民族主義は、アラブ諸国は西欧の植民地主義によって分断されている現状を打破するためには、各国で共和革命を起こして西欧諸国におもねらない独立の民族主義政権を作り、そうした国々が連帯してアラブを再統合し、その力をもってパレスチナ問題を解決する、というプランを持っていました。

 1956年のスエズ戦争(第二次中東戦争)の結果、ナセルの権威はアラブ諸国でゆるぎないものとなり、彼の唱えるアラブ民族主義は大きな影響力を持つようになります。しかし、当時の東西冷戦の文脈では、アラブ民族主義は“ソ連寄り”というレッテルを貼られ、西側諸国は民族主義政権のエジプト・シリアの封じ込めを狙います。特に、シリアがヨルダンの民族主義者を支援して発生したクーデタを、ヨルダン王室がアメリカの支援を受けた鎮圧すると、シリア・アメリカ関係は極端に悪化しました。

 このため、外圧に抵抗する必要に迫られたシリアは、同じく民族主義政権のエジプトとの国家連合によって事態を乗り切ろうとします。そして、米英への対抗上、ソ連からの支援を受けて、経済建設を進めようとしたのでした。ちなみに、UARの大統領はエジプトのナセルで、シリアの大統領だったアサリは副大統領に就任しました。

 UARの誕生は、当初、アラブ民族主義の理想が実現に向けて動き出した第1歩として高く評価されました。しかし、政権内の指導権争いや、統制経済の度合いが強いエジプトの政策がシリアでも実施されていったことによる摩擦、さらには、経済的な格差に起因するシリア側のコンプレックスとエジプト側の尊大な態度などが絡み合い、国家連合の内実は悲惨なものでした。

 結局、1961年9月、シリアでクーデタが発生し、新政権はUARからの脱退を宣言。アラブ民族主義の盟主であったナセルの権威は大きく傷つくことになりました。

 試験では、上記のような歴史的背景に触れつつ、この切手について説明することを求めましたので、おおむね、僕がここに書いたようなことが書けていれば、その学生さんには満点を差し上げます。
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 反米の世界史・拾遺
2005-07-21 Thu 09:15
 『反米の世界史』の刊行から1ヶ月が過ぎ、ボツボツ、いろんな方からご意見・ご感想などを頂戴しています。その中で、ある読者の方から、「こんな話もあるよ」というご提案をいただきましたので、ご紹介しましょう。

 まずは、下の切手を見てください。

      マリエンヴェーダー

      アメリカの第一次大戦

 このうち、上の切手は、第一次大戦後、国際連盟の管理下に置かれていたマリエンヴェルダーで発行されたものです。マリエンヴェルダーはドイツとポーランドの国境地帯にあり、大戦後は連盟の管理下に置かれていましたが、1920年に住民投票でドイツへの帰属が決定されました。

 切手は、連盟の管理下にあることを示すため、女神の背後に4大戦勝国の国旗を掲げていますが、そのうちの一つが日章旗です。(ちなみに、外国の切手としては、これが日章旗を描いた最初の例となります)

 一方、下はアメリカが発行した第一次大戦勝利の記念切手ですが、こちらも、女神の背後に主要な戦勝国の国旗を掲げるという構図を取っています。ところが、こちらの切手には、日章旗は取り上げられていません。

 第一次大戦を通じて、日本はアジア・太平洋地域での勢力を急速に拡大しましたが、そのことに強い警戒感を持っていたのが、フィリピンを領有していたアメリカでした。このため、アメリカは、アジア・太平洋地域の戦後処理として、ワシントン条約体制を作り上げ、“現状維持”の名の下に日本の拡大を食い止めようとします。

 アメリカの大戦勝利の記念切手に日章旗が取り上げられていないのも、そうしたアメリカの日本に対する警戒感が背後にあったのではないか、という推測は十分に可能なものと思われます。

 ワシントン条約体制は、いわば太平洋戦争のルーツともいうべきものですから、『反米の世界史』でも相応のスペースを割いて説明していますが、マリエンヴェルダーの切手とアメリカの切手を比較することはしていませんでした。まぁ、この話は“反米”というよりは“反日”に近いものではありますが、当時の日米関係を考える上で興味深いエピソードであることだけは、間違いないでしょう。
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 スーパーJチャンネル
2005-07-20 Wed 09:14
 突然ですが、先ほど、テレビ朝日から電話があり、本日夕方の「スーパーJチャンネル」にVTR出演することになりました。時節柄、昭和史ネタのコメントです。

 放送時間の関係で、14:00までにスタジオ入りしなくてはなりませんので、いまから家を出ます。

 詳細は、帰宅後、ご報告いたしますので、今しばらくお待ちください。

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 たったいま、撮影が終わって戻ってきました。

 今回は、幻といわれていた国策映画のフィルムが3本(「東亜の鎮め:陸軍記念日を祝う歌」、「愛国行進曲」、「生きた慰問袋」)が発見されたので、その内容について、簡単にコメントするという仕事でした。

 3本とも、いわゆるプロパガンダ映画なのですが、それなりに興味深い点もいくつかありました。

 「東亜の鎮め」では、各国の軍事的脅威を国民に見せ、だから日本の陸軍も頑張らないといかんのだ、という作りになっていましたが、各国の軍事力の紹介部分は各国の宣伝映画からパクっているため、歩兵の行進ばっかりの日本軍にくらべて、アメリカやソ連の強さばかりが目立ってしまい、おもわず、「これじゃ戦争に負けるのも仕方ないわな」と思ってしまいました。

 2番目の「愛国行進曲」は、あの「愛国行進曲」を広めるために作られたもので、一部、現在のカラオケにも通じるつくりなのが新鮮です。

 3番目の「生きた慰問袋」で、慰問袋を作る女性や子供の映像とか、慰問袋の中身、袋の集荷・配布の様子など、資料的には、いちばん興味深く見ることができました。

 放送は18:15~18:20ごろからの3分程度ということなので、僕自身はまぁ30秒も映れば御の字でしょう。ご興味をお持ちの方は、その時間、テレビ朝日系列(東京では10チャンネル)をご覧いただけると幸いです。
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テロリスト図鑑:アブラハム・シュテルン
2005-07-19 Tue 09:12
 昨日の日記にも少し書きましたが、イギリスの委任統治下にあったパレスチナでは、ユダヤ系入植者を受け入れることになっていましたが、在地のアラブ系パレスチナ社会の実情を考慮して、受入数には制限がありました。その制限が緩和されると、入植者が増えてアラブ系が反発し、逆に、制限が厳しくなると入植できなくなる移民希望者が増えてユダヤ系あるいはシオニストが反発。それぞれ、パレスチナ社会の不安定要因になるという状況が続いていました。

 こうした中で、シオニストの立場から、イギリスからの独立を唱えて過激なテロ活動を展開し、1978年にはイスラエル建国の“英雄”として切手にも取り上げられたのがアブラハム・シュテルンです。

シュテルン

 アブラハム・シュテルンは、1907年、ポーランドで生まれ、1925年にパレスチナに移住しました。その後、フィレンツェ大学で西洋古典学を学ぶため、一時、パレスチナを離れますが、1929年、ハガナ(シオニストの民兵組織。現在のイスラエル国防軍の前身)に加入します。しかし、1929年のアラブ側の大規模な反ユダヤ暴動を機に、シオニストたちの間には、より直接的にユダヤ国家の独立を目指す勢力が生まれ、彼らは1931年にイルグンを組織。アブラハムも、このイルグンに参加しました。

 さて、1939年、シオニストたちを激昂させた「マクドナルド白書」が発表されると、アブラハムは、イルグンと袂を分かって、レヒ(イスラエル解放戦士団。ただし、この名前が正式に採用されるのは彼の死後のことです)を組織。パレスチナへのユダヤ系移民の入植を制限するイギリス当局に対するテロ活動を展開し、イギリス当局によって逮捕・投獄されています。ちなみに、レヒは反英テロリストとして名を売ったリーダーのアブラハムにちなんで“シュテルン・ギャング”と呼ばれていました。

 アブラハムは、イギリスを打倒するためなら、ユダヤ最大の敵であったナチス・ドイツと手を組むことさえ厭わないと主張しており、イギリスの戦争遂行上の大きな障害となっていました。このため、1942年2月、イギリス当局は彼を暗殺します。

 しかし、レヒのテロ行為はその後もとどまるどころか、いっそう過激化し、1944年のイギリスの植民地大臣ウォルター・モインの暗殺、1948年4月のデイル・ヤーシーン村でのアラブ系住民254人の虐殺事件、同年9月のスウェーデン赤十字総裁フォルク・ベルナドッテ伯暗殺などを通じて、“シュテルン”の名は凶悪なテロリストの代名詞として全世界に広く知れ渡るようになりました。その一方で、彼らのテロ行為が、結果的に、パレスチナからアラブ系住民を追い出し、イスラエル国家の建国を前進させることになったことも事実で、そのことが、現在のイスラエル国家はシュテルンを“英雄”視する原因となっています。

 いずれにせよ、パレスチナをめぐる“テロ”というと、どうしても日本ではアラブ側のやることというイメージが強いのですが、イスラエル国家が建国されていく過程では、シオニスト側も相当に過激なテロを展開していたことを見逃してはならないでしょう。
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 リトアニアのユダヤ人
2005-07-18 Mon 09:10
 第二次大戦下の1940年、リトアニア には、ナチス・ドイツの迫害を逃れてヨーロッパから脱出しようとするユダヤ系難民があふれていました。彼らに対して、7月18日から9月4日までの間に、2000枚以上の日本通過ビザを発給した杉原千畝のエピソードは、広く知られています。(杉原千畝については、大正出版の社長で、牛切手の世界的なコレクターでもある渡辺勝正さんの『杉原千畝―六千人の命を救った外交官 』、『決断・命のビザ 』、『真相・杉原ビザ 』が詳しいので、ご興味をお持ちの方は、ご一読をおすすめします)

 さて、そのことにちなんで、今日はこんなカバーをご紹介しましょう。

リトアニア

 このカバーは、まさにこの時期のリトアニアからパレスチナ宛に差し出されたカバーで、封筒にはリトアニア語・ヘブライ語・英語で「100万人のユダヤ人がイギリスによるバルフォア宣言の履行を求めている。ユダヤ国際嘆願書に署名しよう!」との文言が入っています。

 “バルフォア宣言”というのは、第一次大戦中、イギリスが、外相バルフォアの名前で、イギリス・シオニスト連盟会長ロスチャイルドに送った書簡の中で、「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設する」ことに同意をしめしたものです。イギリスがヨーロッパやアメリカのユダヤ人の支持を獲得し、また、ユダヤ系財閥の財政的支援を取り付けるために出されたもので、戦後、独立アラブ国家の建設を認めていた“フサイン・マクマホン協定”とは明らかに矛盾するもので、現在のパレスチナ問題の直接的なルーツといってよいでしょう。

 大戦間期のパレスチナでは、このバルフォア宣言をもとにパレスチナにユダヤ系移民が大量に流入したことで、在地のアラブ系パレスチナ人との間に摩擦が絶えませんでした。これに対して、パレスチナを委任統治領としていたイギリス当局の政策はまさに行き当たりばったりで、問題の解決は先延ばしにされていましたが、1939年、アラブ人の土地所有の保護や、ユダヤ人入植者の大幅な制限、アラブ主導のパレスチナ国家の独立をうたった“マクドナルド白書”をパレスチナ統治政策の柱として打ち出します。

 当然、シオニスト側は、マクドナルド白書に反発します。特に、ナチスの迫害を逃れてパレスチナへ避難することを求めるユダヤ人が急増している中で、パレスチナへのユダヤ人の入植を制限しようとするイギリス当局の姿勢は、彼らの目からすれば、バルフォア宣言を反故にした裏切り行為以外の何者でもありませんでした。

 今回ご紹介しているカバーは、こうした状況の中でつくられたもので、バルフォア宣言の履行、すなわち、パレスチナでのユダヤ国家の建設とユダヤ系移民の入植制限の撤廃を求めたものです。ナチスの迫害で生命の危機にさらされている彼らとしては、まさに必死の訴えだったといえます。
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 切手市場とガレージセール
2005-07-17 Sun 09:07
 昨日は久野徹さん主催のイベント、切手のガレージセール・横浜 (以下、横浜ガレージ)に出かけてきました。例によって、『反米の世界史』の行商(笑)です。

 久野さんのイベントは、以前は目白でやっていたのですが、今年の6月から会場をパシフィコ横浜に移し、目白のほうは高崎真一さんが切手市場 というかたちで引き継いでいます。横浜ガレージ、切手市場ともに、原則毎月開催です。

 さて、今月は6月20日に『反米の世界史』が刊行されてから1ケ月以内ということなので、切手市場・横浜ガレージの両方にテーブルを出して本を売らせてもらいました。

切手市場

 どちらのイベントも基本的には切手を買いにくるお客さんを対象としたフリーマーケット形式のものなので、僕の本が飛ぶように売れるというわけには行かないのですが、それでも、1日(切手市場の場合は午前中のみ)、テーブルの前に座って本を並べていると、ポツポツ、お買い上げいただく方がいて、最終的にはそこそこの売り上げになります。まさに、「ちりも積もれば」といったところでしょうか。

 それよりも、著者としてお客さん(読者の方)と直接お話ができるのは嬉しいものです。やっぱり、今後のマーケティングのためにも、切手収集家の方々の反応というのは押さえておきたいですから。

 今後も、新しい本を出したときなど、機会があれば切手市場や横浜ガレージには顔を出すつもりです。その場合には、このページでも告知しますので、このページを書いている内藤が、一体どんな奴なのか、実物を見てみたいという方は是非、遊びに来てください。
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テロリスト図鑑:辛光洙
2005-07-16 Sat 09:04
 現在の日本人にとって、最も身近な話題となったテロといえば、北朝鮮による拉致事件ということになりましょう。

 その実行犯の一人で、原敕晁さんを拉致した北朝鮮の元スパイ、辛光洙(シンガンス)が、北朝鮮に拉致された曽我ひとみさんと横田めぐみさんの教育係であったことが2~3日前の新聞等で報じられ、話題となりました。

 辛は、北朝鮮の元工作員で、1980年6月、原さんを宮崎県の青島海岸から誘い出し拉致し、その後は原さんになりすまして日本のパスポートを取り、アジア各国で出入国を繰り返していました。そして、1985年に韓国で逮捕され死刑判決を受けたものの、1999年末に恩赦で釈放され、2000年9月、非転向長期囚として北朝鮮に送還されました。

 ちなみに、非転向長期囚を迎えた北朝鮮は、2000年12月、彼らの帰還の日の写真を取り上げた切手の小型シートを発行し、その余白に非転向長期囚の顔写真を並べています。(↓)

非転向長期囚


シンガンス

 小型シートに取り上げられた非転向長期囚のうち、下から3列目の一番右側には、辛の顔もしっかりと取り上げられており(下はその拡大図です)、北朝鮮側が辛を“英雄”視していることが分かります。

 国家テロの実行犯を“英雄”として切手に取り上げるという神経は、我々には到底理解しがたいものですが、それこそが、“テロリスト国家”の面目躍如ということなのかもしれません。

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 幻の東京五輪
2005-07-15 Fri 09:02
1940年の皇紀2600年にあわせて、東京オリンピックと万博が計画されていたものの、日中戦争によっていずれも中止に追い込まれたことは広く知られています。

 1940年にオリンピックを東京で開催することが正式に決まったのは、1936年7月31日(ベルリンオリンピック開会式の前日)。日本政府が正式に大会の開催中止を決定したのは1938年7月15日でしたから、この間、日本では1940年のオリンピックを宣伝するマテリアルがいろいろと作られました。↓のカバー(封筒)もその一例です。

東京五輪1940

カバーの封筒は、日本郵船がつくったもので、同社の所有する客船の船室にも備え付けられていたものと思われます。このカバーの場合は、1938年3月、同社の所有する龍田丸の乗客がアメリカ宛に差し出したものです。なお、この封筒は大量に作られたため、大会の中止が決定された後、オリンピックの文字を抹消して使用されました。

 1940年の東京オリンピック関連のマテリアルは、“幻のオリンピック”のドラマ性もあって昔から人気があり、マーケットではそれなりの値段で取引されています。

 中国政府のオリンピック開催能力に?が付けられたり、新たにオリンピックの会場となったロンドンがテロに見舞われたりしていますが、今後も“幻のオリンピック”が生まれる可能性はあるのでしょうか。

 もっとも、仮に中国でのオリンピック開催が不可能となったとしても、すでに2008年のオリンピックに向けて中国が発行した切手類は大量に市場に出回っていますから、それらが“お宝”になるのは期待できそうにありませんが。


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  ◎ 7月16日(土) 切手のガレージセール・横浜
 (詳細は同イベントのHP をご覧ください)
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 テロリスト図鑑:ロベスピエール
2005-07-14 Thu 08:59
 “テロリズム”という言葉は、フランス革命時のジャコバン派による“恐怖政治(regime de la Terreur 1793年6月 - 1794年7月)が語源となっています。で、その恐怖政治の主役だったのが、今日ご紹介するロベスピエールでした。

 マクシミリアン・ロベスピエールは、もともとは弁護士で、1789年、三部会にアルトワ州の第三身分代表として参加しました。同年、革命が起こると、最左翼ジャコバン派に属して頭角を現し、国王ルイ16世の処刑問題では主導的な役割を果たしました。革命の収束をめざすジロンド派内閣と対立し、サンキュロット(職人などの労働者庶民階級)の支持を得て、1793年6月2日、国民公会からジロンド派を追放。同年7月、彼は独裁的な権力を掌握します。そして、公安委員会、保安委員会、革命裁判所などの機関を通して、“恐怖政治”を断行し、反対派を次々とギロチン台に送って粛清し、独立小生産者による共和制樹立を目指しました。1793年10~12月までの処刑者は177名です。

 しかし、革命後の混乱の中でジャコバン派の経済統制は期待された成果を挙げることがなく、ハイパーインフレが進行。また、革命で土地を得た農民や経済的な自由を求める商工業者が保守化し、ジャコバン派の独裁と恐怖政治に対する不満が強まるなかで、1794年7月27日反ジャコバン派の起こしたテルミドールのクーデターによって逮捕、処刑されました。

ロベスピエール

 さて、ロベスピエールの肖像は、1950年に、彼に処刑されたダントンら他の革命指導者とともに寄付金つき切手に取り上げられています。

 ロベスピエールに関しては、死後ながらく、恐怖支配を主導した“ルソーの血塗られた右手”とのネガティブ・イメージが強かったのですが、20世紀になると、彼個人の清廉潔白なキャラクターが見直され、恐怖政治は革命を守るための非常手段であったという再評価がなされるようになっています。切手の発行も、そうした歴史の見直しに沿って行われたものであることは間違いありません。

 7月14日のフランス革命記念日ということで、今日は、元祖“テロリスト”のロベスピエールを取り上げてみました。


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 何故、龍なのか
2005-07-13 Wed 08:57
 日本切手の歴史を考える上で避けて通れないのは、なぜ、日本最初の切手(↓)には龍が取り上げられたのか、という問題です。この点については、「唾で舐めたり消印を押したりする切手に天皇の“ご尊顔”を印刷するのは畏れ多いので、代わりに天子の象徴として龍を取り上げた」という説明がしばしばなされているようです。

龍100文

 しかし、この説明、冷静に考えてみると、実は、きわめて根拠が薄弱です。

 そもそも、日本最初の切手には裏糊はついていません。したがって、裏糊を舐めるから“ご尊顔”を印刷するのは不敬、という発想は、そもそも成り立ちません。

 次に、消印についてですが、実は、前島密(日本の郵便創業の父)が切手を導入することを決意した時、彼は切手の再使用防止の手段として消印を押すということがあることを知りませんでした。それゆえ、彼は薄くて破れやすい紙に印刷すれば、いったん封筒に貼った切手をはがそうとしても、破れて再使用が出来なくなるはずだ、と考えていました。もちろん、郵便創業までの間に、彼は消印という手段があることを知り、日本の郵便は創業時から消印を使っているのですが、そういう有様ですから、最初の切手の発行を企画していた段階では、“ご尊顔”が消印で汚れるという発想は、前島にはなかったはずです。

 いずれにせよ、「舐めたり消印で汚れたりするモノ」と「“ご尊顔”なんて畏れ多い」のふたつが組み合わさるのは、もっと後の時代になってからの考えるのが妥当なようで、日本最初の切手に天皇の肖像が使われなかった理由については、もう少し別の視点からも原因を考えてみないといけないでしょう。

 また、「“ご尊顔”を使わない」ということと、「龍を使うこと」の間にも、もう少し何か事情があったんじゃないか、ということも再検討してみたほうが良いように思っています。

 いずれにせよ、今年の秋に刊行予定の皇室切手には、なんとか、日本最初の切手が龍であった理由について、僕なりの新たな仮説を示してみたいと考えています。そして、現在、その後の時代についての原稿を書き進めつつも、常にこの時代に関する資料を眺めて、いくつかの可能性について調査を進めている状況です。

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 ホフマン絵葉書の昭和天皇
2005-07-12 Tue 08:55
 ヒトラーのお抱え写真師だったハインリッヒ・ホフマンは、ナチスやヒトラーに関する絵葉書を多数、制作・発売していますが、その中から、現在製作中の皇室切手本にも使えそうなものを1枚みつけました。

ホフマン絵葉書

 これは、ナチス・ドイツの同盟国である大日本帝国の元首として、昭和天皇の肖像写真を取り上げたもので、ちょっと見づらいですが、下のほうには“Kaiser HIROHITO der Tenno von Japan”という説明書きもしっかり入っています。

 葉書に使われている元の写真は、もちろん、ホフマン自身が撮影したものではなく、1928年(昭和3)11月の昭和大礼にあわせて日本側で撮影したもののうち、大元帥の正装をしたものです。その後、国内はもとより、在外公館を通じて海外でも配布されたもので、戦前の昭和天皇の写真としては、おそらく、世界的に最も流布していたものの一つではなかろうかと思います。なお、オリジナルの写真は全身像ですが、葉書ではトリミングされています。

 それにしても、カイザー・ヒロヒトとかテンノー・フォン・ヤパンなんてフレーズ、ドイツ語では当たり前の表現なのかもしれないけど、口にしてみるとなんだか妙に新鮮で、印象的です。


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 テロリスト図鑑:レーニン
2005-07-11 Mon 08:53
 最近でこそ、世間的にはテロといえば“イスラム原理主義”というイメージが固まっているようですが、一昔前までは、テロの主流を占めているのは、左翼過激派による、いわゆる“赤色テロ”でした。

 “白色テロに対する赤色テロ”という用語は、すでに、マルクスの文献にも登場していますが、それを大掛かりに実行に移したのは、ロシア革命を経て誕生したレーニンのボルシェビキ政権です。

 すなわち、1918年9月、いわゆる“赤色テロル”政令を発して、「白色テロには赤色テロで応じる」ことを宣言したレーニンは、秘密警察チェカ(非常委員会、後のKGB)を動員して反対派を徹底的に粛清。国民に密告を奨励して、“反革命”とみなされた人々を次々と逮捕し、処刑しました。チェカの地方幹部が暗殺されると、ボルシェビキ政権は、報復として市民500人を銃殺。さらに、ロマノフ朝最後の皇帝であったニコライ2世一家がエカテリンブルグで全員処刑されると、“赤色テロ”による恐怖支配に全世界は震撼しました。

 さて、レーニンの切手は、ソ連をはじめとする(旧)共産圏諸国で山のように発行されていますが、今回は、とりあえず、定番モノとして、↓の切手をご紹介しておきましょう。

レーニン

 この切手は、1924年にソ連が発行したもので、レーニンの肖像切手としては最初のものです。切手収集家の視点からすると、目打(周囲のミシン目)の有無を始め、製造面・使用目でバラエティがいろいろある切手なので、分類して楽しめる題材となっています。もっともこの切手ばかり並んでいるアルバム・ページというのは、知らない人が見たら、かなり異様な雰囲気だと思いますが…。

 なお、全世界で発行された膨大な数のレーニン切手を一つずつ丁寧に分析していくと、世界各国の共産主義の歴史を考える上でいろいろと面白い事実が拾えるのではないかと思います。いずれ、手を付けてみたいテーマの一つではあるのですが、果たして、仕事としてまとまった形に出来るのはいつのことになるやら…。この日記を書きながら、今すぐやらねばならぬことの多さに改めて気づき、少し気分が鬱になりました。
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 韓国美術5000年
2005-07-10 Sun 08:50
 本日未明、カウンターが5000アクセスに達したようです。ここを訪れていただいた沢山の方に、まずはお礼申し上げたいと思います。

 さて、5000アクセスにちなみ、なにか5000に絡んだモノはないかと探していて見つけたのが、この切手です。

韓国5000年

 この切手は、1980年に韓国が5回にわけ、計10種セットで発行した“韓国美術5000年”のシリーズの1枚で、石造りの虎が取り上げられています。韓国語には、“昔々~”という意味を表すとき、“トラがタバコを吸っていた頃”という言い回しがありますので、ある意味で“韓国美術5000年”というシリーズにはぴったりの1枚ということもできるかもしれません。

 自国の歴史的伝統を強調したいというのは人間として自然な感情ですから、どんな国でも、歴史学的に確認できない時代からすでに自国の歴史は始まっていたとする物語が語られています。日本の場合も、いまから2665年前の縄文式土器の時代に神武天皇が即位したという建国神話がありますが、これもその典型です。

 さて、この切手が発行された頃、たしか“中華三昧”という、ちょっと値段が高めのインスタントラ-メンが発売され、“中国4000年の~”というフレーズが盛んにCMで流れていました。それが耳になじんでいた一中学生は、切手屋さんの店先に並んでいたこの切手とその説明を見て、教科書に出てくる古代文明の中国でさえ4000年なのに韓国はどうして5000年になるんだろうと単純素朴に疑問に思ったものです。

 その後、韓国の切手について少し知識が出てきて、戦後の韓国では郵便物の消印にも一時、檀紀(建国神話の檀君が即位したとされる西暦の紀元前2333年を紀元とする暦年)が使われていたことを知り、仮にその暦を用いたとしても、5000年には全然足りないのに、5000年という言葉の根拠はどこから出てくるのか、不思議でなりませんでしたが、そのことはいつしか忘れていました。

 さて、大学生の頃、夏休みにテュニジアでバカンスを兼ねたアラビア語の語学研修を受けていた時、クラスのメンバーに対して、それぞれの国について外国人から見て疑問に思うことを質問するというレッスンがありました。そのとき、突如、中学生の頃の疑問が頭の中によみがえり、同じクラスにいた韓国人の友達に、「日本人も歴史を水増しして2600年というけど、韓国では5000年って言うよね。で、実際のところ、5000年前の韓国って、本当はどんな感じだったんだろう?やっぱり、他の国とおんなじで、みんな腰蓑一枚で歩いてたのかな」との不躾な質問をぶつけてみました。

 この質問に、他の連中(ほとんどがヨーロッパ人です)は、「5000年だって!いくらなんでもそいつはありえないだろ」と驚いていました。また、教師には、内藤は数詞の使い方を間違ってるんじゃないかとも言われました。

 で、友人の韓国人は返答に窮してしまい、困った顔をしていたのですが、最後に一言。「まぁ、日本よりは韓国のほうが国家(王朝)としての歴史が古いってことでいいじゃないか」

 ハイ、お説ごもっともです。

 韓国5000年ということで、ちょっと懐かしく思い出したお話でした。
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 テロリスト図鑑:安重根
2005-07-09 Sat 08:48
 その昔、芥川龍之介は「善は悪の異名である」と書き記しましたが(猿蟹合戦)、ある現象に対して、立場が変わると正反対の評価が下されるということは、しばしばあります。

 たとえば、アメリカの建国の父とされ、日本でも道徳の教科書の定番ネタとなっているジョージ・ワシントンは、(少なくとも当時の)イギリス人にいわせれば、“盗人の頭目”でしかありませんでした。

 社会の秩序を脅かすテロリストたちを鎮圧するのは、国民の生命・財産を守る国家の側からすれば当然のことですが、一方、そうした既存の体制そのものに異議を唱え、その解体を主張する人たちからすれば、体制側が“テロリスト”と認定した人こそ、“英雄”ということになります。たとえば、植民地時代に民族解放闘争に従事していた“テロリスト”の中には、独立後、“民族の英雄”に祭り上げられ、国家のお墨付きを得て切手にまで取り上げられるようになる人物も少なくありません。

 そこで、どれだけ実例を挙げられるかわかりませんが、これから、このブログでは切手になった“(元)テロリスト”たちを不定期連載のかたちで紹介していきたいと思います。

 もちろん、僕は、これからご紹介していく“テロリスト”たちの主義主張に賛同しているというわけではありません。ただ、同じ事柄でも我々とは反対側から見たらどう見えるか、という視点の切り替えないしは頭の体操の材料を皆さんに提供できたら、と考えているだけなのです。この点については、くれぐれも誤解なきよう。

 さて、前置きが長くなりましたが、記念すべき第1回目の今日は、日本人にとっても超メジャーなこの人に登場してもらいましょう。

安重根

 切手に描かれているのは、皆さんもよく御存知の伊藤博文暗殺犯、安重根です。

 念のため、彼の個人データをまとめておくと、安重根は、1879年、黄海道の海州出身。1894年の甲午農民戦争(日本では、“東学党の乱”といったほうが通りが良いかもしれません)の際には父親と共に政府側の義兵を起こして農民軍と戦っています。その後、カトリックに入信し、日露戦争後、日本による韓国の植民地化が進む中で、これに反対する義兵闘争を展開。1909年、ハルビン駅頭で、前韓国統監の伊藤博文を暗殺しました。事件後、安は直ちに逮捕されて死刑判決を受け、1910年3月、旅順監獄で処刑されました。日本では国家の元勲を暗殺したテロリストですが、韓国では、独立運動の義士として、現在でも広く社会的な尊敬を集めています。

 さて、安重根が切手に取り上げられたのは、全斗煥政権下の1982年のことでした。当時、日韓両国の間では、日本の高校歴史教科書が、文部省の検定圧力によって日本の大陸“侵略”が“進出”にあらためられたという報道(後に誤報であったことが明らかになりましたが)をめぐって、いわゆる教科書問題が持ち上がっていました。これが、現代まで続く教科書問題のルーツとなります。


 こうした背景の下、当時の韓国政府としては、現在の大韓民国が日本による植民地支配とそれに対する抵抗運動を経て成立したという主張を、内外に広くアピールするため、このような切手を発行したものと思われます。その意味では、一昨日、7日の日記でも中国を例にとって少し書いたように、安の肖像は現代韓国の“建国神話”にとってきわめて重要なイコンとして、現在なお機能しているといってよいでしょう。

 なお、現在、韓国出身の芸能人たちが日本でも人気を集めていますが、彼らの中にも安重根への尊敬の念を堂々と表明している人たちは少なくありません。このため、“安重根は単なるテロリスト”という認識をもつ人たちの中には、そうした芸能人をCMに起用している企業の商品の不買運動を呼びかけるグループもあるようで、“テロリスト”と“義士”をめぐる歴史認識の溝は、思った以上に根が深いのだということを再認識させられます。


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  ◎ 7月16日(土) 切手のガレージセール・横浜
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 奉祝唱歌
2005-07-08 Fri 08:46
 ここのところ、外国の切手に関するネタが続いていましたが、皇室切手本の作業は毎日続けています。

 で、皇太子時代の昭和天皇の御成婚のことを調べている過程で、↓のようなモノにぶつかりました。

奉祝唱歌

 これは、昭和天皇の結婚式当日に、“奉祝唱歌”の印刷された紙に切手を貼って消印を押して作った記念品です。

 ご存じの方も多いと思いますが、昭和天皇の結婚式は、当初、1923年11月に予定されていましたが、同年9月1日の関東大震災のために延期され、翌1924年1月に行われました。震災のため、用意されていた記念切手が焼失し、発行されずに終わったことは切手をかじったことのある人なら、皆さん、ご承知の通りです。

 さて、今回の記念品に関しては、用紙に印刷されている“奉祝唱歌(皇室の慶事を祝して作られる歌)”が、昭和天皇の御成婚の際に作られたものなのか、それとも、大正大礼など別の慶事の際に作られたものだったのか、いろいろ調べてみたのですがよく分かりませんでした。

 しかし、ふとしたことから、埼玉県の長瀞にある寶登山神社に昭和天皇のご成婚の際に作られた奉祝唱歌の碑があることが分かりましたので、同神社に問い合わせたところ、ご丁寧にも、碑に刻まれた歌詞を書き写してFAX してくださいました。

 その結果、今回の記念品に印刷されている奉祝唱歌は昭和天皇のご成婚のときのものではないことが確認されたのですが、宮司さんといろいろお話し(先方は、何でまた僕が奉祝唱歌の碑に関心を持ったのか、不思議に思われたようですが、不発行となった切手のことも話すと、非常に興味をもたれたようでした)、励ましの言葉までいただいてしまいました。

 やっぱり、見ず知らずの方から応援していただくと、純粋に嬉しいものですね。ここのところ、気候のせいか疲れ気味でしたが、少し元気になった気がします。

 PS それにしても、この記念品に印刷されている奉祝唱歌について、どうやって調べたら良いですかねぇ。だれかお知恵を貸していただけると幸いです。
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 七七抗戦紀念
2005-07-07 Thu 08:44
 今日は7月7日。七夕の日ですが、盧溝橋事件の日でもあります。

 どんな国にも建国の“神話”というものがあります。その神話は、洋の東西を問わず、いまの体制が出来上がる前は、いかに国民が悲惨な目にあっていたかを強調し、現在の体制を築くために、いかに多くの英雄たちが血を流して倒れたか、ということを強調するという基本パターンがあります。たとえば、アメリカの独立戦争やフランス革命が、それぞれの国の教科書で子供たちにどのように教えられているか、ということを考えれば、そうした神話の持っている意味はすぐに了解されるはずです。

 そうした“神話”を信じ込んでいる人たちに向かって、客観的な歴史的事実と彼らの神話との齟齬を指摘してみても、おそらく、不毛な議論にしかならないでしょう。熱心なクリスチャンに対して、聖母マリアの処女懐胎は科学的事実としてありえないと噛み付いてみたところで、彼らに対する嫌がらせにしかならないのと同じことです。

 それゆえ、孫子の「敵を知り己を知らば百戦して危うからず」ではありませんが、それぞれの国の“神話”を信じている人たちと付き合うときは、彼らの世界観はそうした“神話”に基づいて出来上がっているのだ、と割り切ってお話しするしか、お互いにいやな思いを最小限に食い止める方法はなさそうです。

 現在の中国共産党政権にとって、抗日戦争を勝利に導いた共産党という構図は、彼らにとっての建国神話の重要な部分を占めています。そして、その神話が、国内の矛盾に対する国民の不満をそらすための手段として活用されることで、中国国内の反日感情が増幅されてきているのは(我々にとっては迷惑至極なことですが)、皆様ご存知の通りです。

 そういうわけで、中国切手の中には抗日戦争を題材にしたものが少なからずあり、その中には、当然、戦争の出発点となった“七七”関連を取りあげたものもあります。“七七”というのは、中国側の盧溝橋事件の呼称で、事件が起きた日付にちなんだ名前です。満州事変のきっかけとなった柳条湖事件を、その発生の日にちなんで、“九一八”と呼ぶのと同じ発想です。

 さて、その七七関連の切手のうち、今日はこんなものをご紹介しましょう。

解放区小型シート

 この小型シートは、1947年の“七七”10周年にあわせて、東北(旧満州)の解放区(共産党支配地域)の郵政を管轄していた東北郵電管理総局が発行した切手を四種、収めたものです。

 1945年、抗日戦争の勝利とともに、中国各地で、国民党と共産党の対立が再燃し、国共内戦が勃発します。その過程で、共産党側は自らの支配地域で独自の解放区切手を発行していたわけですが、この小型シートもその一枚というわけです。

 切手のデザインには、抗日戦争の勝利を祝すとともに、目の前の国民党との戦いに向けて支配下の住民の戦意を高揚させる意図も込められていたことは間違いありません。どうせかの国では、今日あたり大々的に“抗日戦争勝利”の特番なんかやったりして騒いで“極悪非道な日本軍と戦う英雄的な共産党”を賛美しまくってることと思います。まぁ、見ていて気分のいいもんじゃありませんが、夕方のニュースではいやでも映像が流れるでしょう。

 しかし、そうしたプロパガンダの背景とは別に、この切手のデザインは、単純に“戦うぞっ”という気合がみなぎっていて、決して嫌いではありません。なんだか、蒸し暑さでだらけきった僕の身体に喝を入れてくれそうですし・・・。

 さて、昼食後のお休みタイムは終了。そろそろ仕事に戻るとしますか。

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 北朝鮮祭
2005-07-06 Wed 08:43
 この日記でも宣伝していましたが、昨日は新宿ロフトのトークライブ、「復活!!!!北朝鮮祭り~最近の北鮮総括!」に出演してきました。

 今回は、『反米の世界史』の刊行から日も浅いので、そのプロモーションになるような話をして、会場で本を売りたいと思っていました。そこで、“北朝鮮祭”とのからみで、自分の受け持分は「ぬるいぞ、将軍様。世界の反米切手はこんなにすごいっ!~最近の北朝鮮ソーカツ」と勝手に演題をつけて、『反米の世界史』の中から、インパクトの強い図版の実物をいくつかご紹介しました。

 お客様の反応としては、6月13日の日記 でもご紹介した、反米切手を貼ってTOEFLの事務局に差し出されたイランのカバーがバカ受け。皆さん、貼られている切手とのミスマッチを面白がって下さったようです。

 で、本の販売の方は、おかげさまで用意した部数が完売となりました。やはり、本の内容をご紹介する“実演販売”方式が、営業成績という点では効果的なようです。

 僕の仕事のメインは執筆ですが、講演も積極的にお引き受けしています。真面目でお堅いスタイルのものだけでなく、今回のように“お笑い系”の内容にも十分、対応しておりますので、よろしかったら、まずはお気軽にお声をおかけください。

 PS 2日(土)の切手市場での即売&サイン会についてのご報告は、いましばらくお待ちください。

PS-2 当日の出演者の1人、葉寺覚明さんにトラックバックを付けていただきました。葉寺さん、ありがとうございました。
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 毛沢東の“黒人支持”
2005-07-05 Tue 08:41
 昨日・一昨日の流れで、今日は中国がアメリカの人種差別を取り上げた事例として、1968年5月に中国が発行した“アメリカ黒人の闘争支持”の切手が貼られたカバーをご紹介します。

反米マオ

 切手には、キング牧師の暗殺を機に毛沢東が『人民日報』に発表した論説、「アメリカ黒人の抗暴闘争を支持する声明」の末尾部分が、毛の肖像の左側に印刷されています。赤地に金という、文革期特有の配色のため、画像では文字が読みにくいのですが、勘弁してください。

 さて、切手に印刷されている論説の日本語訳は、以下のようになります。

 世界各国の労働者、農民、革命的知識分子およびアメリカ大国主義に反対する全ての人々は、行動に立ち上がって、アメリカ黒人の闘争に力強い声援を送ろう!全世界人民はいっそう固く団結して、我々の共同の敵、アメリカ帝国主義とその共犯者どもに対して持久的な、猛烈な攻撃をしかけよう!

 いかにも、文化大革命(文革)の時期を髣髴とさせる勇ましいスローガンですが、実は、文革指導部は、そろそろ、混乱を収拾する方向に動き出しています。というのも、劉少奇・小平らの“実権派”を打倒するという、彼らの真の目的がほぼ達せられつつあったからです。

 ところで、文革の発動以来、紅衛兵は“修正主義反対”を唱え、外交機関に対する乱暴狼藉の限りを尽くしていました。この結果、多くの国々が中国大使を召還し、1950年代に重視された第3世界諸国との友好関係も破綻。中国は国際的に孤立します。

 このため、文革の混乱が収束に向かいつつある中で、各国との関係修復の必要に迫られた中国政府は、文革の最大の目標であった“修正主義(=ソ連)の打倒”よりも、“反米”や“民族解放”をキーワードとして持ち出し、第3世界諸国との連帯を回復しようとします。この切手も、その一環として発行されたものと考えられます。

 ちなみに、封筒の余白には毛語録の一節が印刷されていますが(これもまた、文革期の郵便物の特色のひとつです)、その内容は、「民衆が軍隊を自分の軍隊とみなせるよう、軍隊は民衆と一体になるべきで、そうなれば、この軍隊は天下無敵となる」というものです。差出人はこのような封筒を選ぶことで、破壊と暴力を繰り返す紅衛兵たちへの鬱積した嫌悪感や、秩序の回復と社会の安定を求める気分がこめたのではないか、と考えたくなります。

 今日の切手もまた、アメリカの黒人問題が他国のプロパガンダに使われたという事例として興味深いものといえましょう。


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 レオナード・ペルティエ
2005-07-04 Mon 08:38
 今日は7月4日。いわずと知れたアメリカ合衆国の建国記念日です。

 アメリカという国が作られていく過程で、白人による西部開拓で、ネイティブ・アメリカン(いわゆるアメリカ・インディアン)が居留地に押し込められて苦境に追いやられたことは周知の通りです。近年、世界的な人権・環境保護の意識が高まったことで、アメリカ政府は過去の搾取への補償と土地返還などを求められていますが、その対応は必ずしも十分とはいえないようです。

 一方、いわゆるインディアンの側でも、白人社会に対する反応はさまざまですが、中には、既存のアメリカ社会に激しい敵意をあらわにしているグループもあります。その代表的なものが、1973年、ウーンデッド・ニー占拠事件を起こしてアメリカ政府軍と戦ったアメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)でした。

 で、そのAIMの中心人物としてFBIからマークされ、1977年にネイティブ・アメリカン居住区で起きたFBI捜査官の殺人事件の容疑者として逮捕され、現在も獄中にあるのが、レオナード・ペルティエです。ただし、ペルティエの逮捕に関しては、アメリカ国内でも証拠が不十分な上、裁判が公正に行われていないというとの批判も少なくなく、議論の的になっています。いずれにせよ、現代のアメリカ社会で、ネイティブ・インディアンの問題が語られる時、ペルティエのことは避けて通れない話題となっているようです。

 さて、そうしたペルティエの存在は、アメリカン人種差別を糾弾しようという側からすれば、格好の素材となっているわけで、たとえば、東西冷戦下の1985年、当時のソ連は、学生たちに、↓のようなカバーを組織的に差し出させています。

ペルティエ嘆願カバー

 カバーには、4000万人を超えるソ連の若者が、“アメリカ・インディアンの権利を求める闘士”ペルティエの解放を求めている旨の英語の文面が貼り付けられています。宛先は、ホワイトハウスで、おそらく、同種の内容の手紙(学校などで組織的に作られたものでしょう)が同封されていたものと思われます。

 アメリカの切手の中にはネイティブ・アメリカンを題材にしたモノもないわけではないのですが、当然のことながら、それらはアメリカ社会の暗部を記録したものとはなっていません。そこで、搦め手的なアプローチですが、ネイティブ・アメリカンの問題を切手や郵便物から語るための素材としては、こんなモノもあるんだよ、という意味で、このカバーをご紹介してみました。

 なお、アメリカの人種差別を告発するソ連のプロパガンダに関しては、ちょうど一月前、6月4日の日記 もあわせてご覧いただけると幸いです。


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 メキシコの“黒人”切手
2005-07-03 Sun 08:36
 昨日から今日の午後にかけて、サーバーのメンテナンスの関係で、このブログにアクセスすることが出来なくなり、皆様にご迷惑をおかけしました。

 で、復活したので、新たな記事をアップしようと思っていたところ、メキシコで発行された漫画の切手(↓)が、アメリカ国内で物議をかもしているというニュースが飛び込んできました。とりあえず、速報としてご紹介しておきます。

      メキシコ・メミン・ピンギン

 この切手は、6月29日に発行されたもので、メキシコの代表的な漫画「Memin Pinguin」を題材としたものです。この漫画は、1940年代にスタートし、現在まで続いているもので、日本で言えば、まぁサザエさんとか鉄腕アトムとか、そのクラスに相当するんでしょう。主人公の黒人少年は、漫画特有の誇張された表現で、分厚い唇と大きく見開いた目という、黒人(アフリカ系アメリカ人)のステレオタイプに一致する容姿となっています。そして、白人たちが少年の容姿やしゃべり方や振る舞いをからかって、笑いのタネにするというのが、この作品の一つのポイントになっています。

 この切手に対して、アメリカ国内では、ジェシー・ジャクソンをはじめ黒人指導者が、黒人差別を助長するものとして猛反発。メキシコ政府に対して、切手の発売中止を求めているとのことです。

 一方、メキシコ郵政当局の担当者は、切手は黒人を差別するものではなく、その意図もないと説明。「男の子はメキシコ文化の一部を表す伝統的なキャラクターだ」と主張しており、両者の主張は平行線をたどっています。

 ただ、今年5月、メキシコのフォックス大統領が、「メキシコの労働者は米国で、黒人さえやりたがらないような仕事をして、米国社会に貢献している」と発言し、アメリカの黒人社会から猛反発を受けているという経緯があるだけに、この問題、ちょっと長引きそうで、僕としては目が話せないところです。

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 タコの日
2005-07-02 Sat 08:32
 今日は半夏生。関西や瀬戸内の一部では、半夏生にタコを食べる習慣がある(夏至にも食べるのだと聞いたことがあります)とかで、7月2日は“タコの日”になっているんだそうです。

 で、タコがらみの何か面白いネタはないかと探していたら、こんなものが出てきました。

      タコ天皇

 日本人の感覚からすると違和感がありますが、アメリカ人の中には、政治的スローガンの入った封筒を私信で用いる人が少なくありません。これは、郵便が差出人から名宛人に届くまでに、多くの人間の目に触れることを利用して、郵便物そのものを広告として活用してしまおうという発想によるものです。そうした“広告カバー”のうち、戦時に戦意高揚のスローガンやイラストなどを刷り込んだものを“愛国カバー”と呼ぶことがあります。

 愛国カバーの歴史は古く、既に南北戦争時には本格的に使われてましたが、対日戦争であった太平洋戦争でも、さまざまな愛国カバーが民間で作られています。

 今日、ご紹介しているのはその一つで、大ダコに見立てた昭和天皇に対して、米軍の鉄槌が下されるというイラストが描かれています。フィリピンまで延びていたタコの足は既にちょん切られており、日本軍の勢力範囲が着々と狭められている様子が戯画化されて取り上げられています。なお、このカバーに関しては、料金無料の軍事郵便であるため、切手は貼られていません。

 国家の名において公式に発行される切手や消印は、いくらどぎついモノとはいえ、ある程度の節度が求められます。それに対して、昨日のアヘン戦争のカリカテュアもそうですが、民間が売るために作るカバーのイラストは、“お客”を意識して、俗語や卑語も使い、より刺激の強い内容になりがちです。

 そうした行儀の悪さは、槍玉に挙げられた側にとっては不愉快なものですが、人々の直截な感情を表現したものとして、資料的にはいろいろと興味をそそられるものであることは間違いありません。その意味では、感情的な好悪とは別に、愛国カバーはいつか真面目に取り組んでみたい材料ではあります。


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 アヘン戦争のカリカテュア
2005-07-01 Fri 02:12
7月1日というのは区切りの良い日だけに、いろんな記念日が重なっていますが、僕としては個人的に1997年の香港返還が印象に残っています。

 意外と見落とされがちですが、アヘン戦争の起こった1840年はイギリスで世界最初の切手が発行された年でもあります。

 ところで、当時のイギリスでは、世界最初の切手と同時に、料金込みの封筒(この封筒を使えば、切手を貼らなくても郵便物を出すことができた)を発行しました。この封筒には、イラストとして、大英帝国が進出していった世界各国の風景が描かれており、近代郵便のネットワークが世界を結ぶというイメージが表現されています。この封筒は、イラストの作者の名前を取って“マルレディ・カバー(カバーは封筒の意味)”とよばれています。

 イギリス政府としては、切手よりもこのマルレディ・カバーのほうが人気が出ると思っていたのですが、実際には、マルレディ・カバーはとても評判が悪く、そのデザインをおちょくったカリカテュアの封筒がいくつも民間で作られています。

カリカテュア

 この封筒には、左下に清朝の官吏に痛めつけられる“哀れなアヘン商人”の姿が描かれており、当時のイギリスの重要な政治問題であった中国とのアヘン貿易が取り上げられています。ただ、イラストの筆致からすると、イラストの作者は、アヘン貿易を妨害する清朝のほうに非があると見ているようで、こんなところからも、当時の大英帝国の世界観の一端が透けて見えるように思います。

 1997年の香港返還を前に、僕は『切手が語る香港の歴史―スタンプ・メディアと植民地 』という本を出版しました。今回のカバーは、その制作時には間に合わず、この本には掲載できませんでした。

 あれから8年が過ぎ、香港関係のマテリアルもそれなりに増えてきましたので、そろそろ、1997年に出した香港本のリニューアル版を出したいところです。その際には、今日ご紹介したカバーをぜひとも使ってやりたいものだと、毎年、7月1日になると思っています。

★★★★★ イベント告知 ★★★★★

 『反米の世界史』の刊行を記念して、下記のイベントを行います。
 皆様、お気軽に遊びに来ていただけると幸いです。

◎ 7月2日(土) 即売・サイン会@切手市場
 (詳細はhttp://kitteichiba.littlestar.jp/ をご覧ください)
◎ 7月5日(火) トークイベント@新宿ロフト
  「復活!!!!北朝鮮祭り~最近の北鮮総括!」
 (詳細はhttp://www.piks.or.tv/ をご覧ください)
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