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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 コアラ来日40年
2024-10-25 Fri 04:03
 1984年10月25日、日豪友好のシンボルとして、オーストラリアから日本にコアラ計6頭が寄贈され、多摩動物公園(東京都日野市)と東山動植物園(名古屋市)、平川動物公園(鹿児島市)で飼育が始まってから、ちょうど40年になりました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      オーストラリア・コアラ1938

 これは、1937年2月1日、オーストラリアが発行した4ペンスの普通切手で、コアラを描いた切手としては世界最初の切手となります。
 
 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 10月25日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 10月27日(日) 13:30~  アメリカ大統領選挙~より理解するために
 よみうりカルチャー荻窪にて、アメリカ大統領選挙をより理解するための基礎知識と最新情報を交え解説します。詳細はこちらをご覧ください。

 10月29日(火) 10:00~ ニッポンジャーナル
 インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。

 11月3日(日・祝) 14:00~ 正しい多文化共生セミナー 
 TKP新橋汐留ビジネスセンターにて、救国シンクタンク主催の第8回セミナーとして、埼玉県南部の川口市を中心とした“クルド人問題”を中心に内藤がお話しします。お申込みなどの詳細はこちらをご覧ください。

 11月4日(月・振休) 09:00~ 減税&規制廃止カンファレンス 
 2017年から開催されてきた日米の「税制改革」について議論するシンポジウム“Japan-US Innovation Summit”を継承したイベントで、内藤も15:00から登壇します。お申込みなどの詳細はこちらをご覧ください。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30
 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

 武蔵野大学のWeb講座 
 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 

 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

 ★ 『切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード』 好評発売中!★

      切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード

 「動物と植物」「科学技術」「社会と文化」「神話/伝説と宗教」の4章立てで、犬、猫、宇宙開発、飛行機、クリスマスといったテーマで、初めて描かれた切手図案にまつわる秘話、思いがけない発行に至る背景に加え、シーラカンスやテレビ、警察官、タトゥー、髑髏といった、あっと驚く意外なテーマの一番切手も登場します!

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 豪、先住民めぐる改憲否決
2023-10-15 Sun 08:31
 オーストラリアで、きのう(14日)、アボリジニ(アボリジナルとも)などの先住民を“最初のオーストラリア人”と明記するほか、先住民の意見を政策に反映させる代表機関の創設を謳った憲法改正の是非を問う国民投票が行われましたが、6州全てで反対多数となり、否決されました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      オーストラリア・ヴィクトリア州100年

 これは、1934年7月2日、オーストラリアが発行した“ヴィクトリア州100周年”の記念切手で、メルボルン南部を流れるヤラ川をはさんで、左側にアボリジニを、右側に当時のメルボルンの街並みを描き、100年間で未開の原野がいかに発展を遂げたかが表現されています。“アボリジニ”を取り上げた切手としては、これが最初の1枚になります。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 10月18日(水) 10:00~ ニッポンジャーナル
 インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がゲスト出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。

 10月23・30日(月) 18:10~18:20 私の正論
 ニッポン放送の「私の正論」に内藤がゲスト出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。

 10月27日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 11月3~5日 ウクライナ切手展 於・都立産業貿易センター台東館
 11月3~5日(金・祝~日)、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館で開催の全国切手展<JAPEX 2023>と併催のイベントです。内藤も、1918年に発行されたウクライナ最初の切手の小コレクションと、最初の切手の原画作者、ヘオルヒー・ナルブートの画業を紹介する小コレクションを展示するほか、会期中、以下のトークを行います。

 11月3日(金・祝) 15:00~15:30 ウクライナ切手展・展示解説
 11月4日(土) 13:00~14:00 記念講演「ウクライナと切手・郵便」

 
 イベントそのものは事前予約不要・参加費無料ですが、会場の切手展へは入場料が必要です。詳細は全国切手展の主催者サイトをご覧ください。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

 謀略の世界史 11/11、12/9、1/6、2/3、3/2 13:00~14:30
 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

 武蔵野大学のWeb講座 
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      今日も世界は迷走中

 ウクライナ侵攻の裏で起きた、日本の運命を変える世界の出来事とは!内藤節炸裂。

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 本日、展示解説やります
2017-07-16 Sun 05:27
 昨日(15日)から、東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展2017(以下、全日展)がスタートしました。本日(16日)は僕も15:30から、チャンピオンクラスに出品中の「香港の歴史」について、展示解説をやります。というわけで、全日展と併催のオーストラリア切手展とも絡めて、今回の出品作品の中から、オーストラリア切手が貼られたマテリアルをご紹介します。

      オーストラリア・香港宛返戻

 これは、日英開戦日の1941年12月8日、オーストラリア・ニューサウスウェールズ州のドラモインから香港・九龍の金巴利道(キンバリー・ロード)宛に差し出されたものの、戦争により郵便物の取り扱いが停止されたため、その旨の事情説明の印を押して差出人に返戻された郵便物です。
 
 1939年の欧州大戦勃発を受けて、1940年6月、英国の香港政庁は香港在住のヨーロッパ人の女性と子供をオーストラリアへ避難させるよう、住民に命じます。“敵国”(名指しこそないものの、それが日本を意味することは明白でした)から攻撃を受け、香港が戦場となる可能性が高まっていると判断したためです。

 特に、1940年9月、日本軍が北部仏印に進駐し、米国を仮想敵国とする日独伊三国軍事同盟を結ぶと、日本と連合諸国の関係は一挙に悪化し、香港社会の緊張も一挙に高まります。

 すなわち、市街地の重要なビルには土嚢が積み上げられ、天星小輪(スターフェリー)の船着場にはおびただしい数の砲台が並べられました。また、灯火管制の演習は頻度を増し、街頭の新聞スタンドの売り子は「我々は最後の血の一滴まで香港を守ってみせる」と豪語していました。根も葉もない噂に注意しようとの香港政庁のキャンペーンが展開され、それをもじって「不確かな情報は国家を危機に追いやる。代わりに、タイガー・ビールについて話をしよう」という広告がいたるところで見られるようになり、各種の戦時公債・基金の募集もさかんに行われています。

 もっとも、大英帝国の宰相チャーチルは、日本との戦争が始まった場合には香港の防衛は絶望的で、日本の敗戦以外に香港を奪還することは不可能だとの見通しに立っていました。このため、1941年初頭の段階では、英国の香港駐留軍の内訳は、本国から派遣された歩兵二個大隊とインド軍二個大隊を中心にごくわずかな砲兵隊、自動車部隊、義勇軍、わずかな小型戦闘艦艇、飛行艇二機、三隻の水雷艇(ただし、いずれも肝心の水雷は装備していません)のみという脆弱なものでした。また、香港の守備隊を増強することはかえって日本軍を刺激して危険であるという判断さえなされていました。

 さらに、1940年から1941年にかけての香港社会には、日本軍がまさか香港を攻撃するはずがないという根拠のない楽観論が満ち溢れていました。じっさい、香港政庁が欧米系の全婦女子に香港島からの避難を命じた後も、彼女たちのうちの900人は何かと口実をつけて、日英開戦まで香港に居残り続けています。

 こうした楽観的な世論の背景には、日中戦争の長期化に伴う余得で、香港が空前の経済的活況を呈していたという事情がありました。

 すなわち、1931年には85万弱といわれていた香港の人口は、いわゆる日中戦争の勃発した1937年には100万を越え、その後、上海廣州からの難民が大量に流入したこともあって、1941年の時点では175万人にまで膨れ上がっていました。その中には富裕な実業家も少なからず含まれており、香港には、日本軍の占領下で陸の孤島と化した上海に代わる中国経済の拠点という地位が突如として転がり込んできたわけです。

 こうした楽観的な空気を反映して、香港駐留のインド軍司令官、クリストファー・マルトビーは、中国=香港間の国境から英国の防御線である醉酒灣防線までは12マイルもあり、国境の守備隊が九龍に撤退する時間は十分に稼げるし、シンガポールから援軍が到着するまで守備隊は持ちこたえることが可能であるとの見通しを持っていました。

 強気のマルトビーに引きずられるかたちで、本国のチャーチルも、それなりに香港の軍備を増強すれば、香港が日本軍の進撃を食い止める防波堤として機能し、日本軍に大きな打撃を与えることも可能なのではないかと考えるようになります。

 こうして、カナダから旅団司令部、通信中隊、歩兵2個大隊が派遣され、1941年11月16日、香港に到着。英領バルバドスから赴任してきたばかりの新総督マーク・ヤングの下に合計1万2000名からなる香港防衛軍が編成されました。しかし、カナダからの増援部隊の兵士は、ほとんどがフランス語圏の出身であったため、既存の香港駐留軍との連携が上手く取れず、そのうえ、彼らには実戦経験もほとんどなく、とうてい、実戦経験の豊かな日本軍に太刀打ちできるようなレベルではありませんでした。

 これに対して、米英との開戦を決意した日本軍は着々と香港攻略の準備を進め、カナダ軍が香港に到着する10日前の11月6日には大本営陸軍部が「香港攻略作戦要領」を完成させ、3970人の兵員の配置を完了しています。

 日英開戦2週間前の11月25日、香港政庁は市民に対して、香港島と九龍市街地に数箇所の避難場所を設け、そこに食糧を備蓄していることを公表。あわせて、住民の居住地ごとに、日本軍の攻撃が始まった場合の避難先も指定されています。在留日本人の帰国も相次ぎ、開戦3日前の12月5日には日本語新聞も休刊になりました。

 こうして、日英開戦に向けての緊張が一挙に高まっていく一方で、香港の市街地では、依然、戦争は他人事といった空気も濃厚で、開戦前日、12月7日の新聞にはクリスマス・ギフトの広告があふれ、半島酒店(ペニンシュラ・ホテル)はクリスマスや新年のためのディナーやコンサート、宿泊の予約を募っています。

 一方、国境を越えた深圳河一帯には日本陸軍の第38師団が集結していた。彼らが暗号電「ハナサク ハナサク」を受信し、深圳河をこえて進軍を開始するのは、香港の人々がまだ深い眠りの中にあった12月8日午前3時51分のことでした。その後、同月25日、香港の英軍は降伏し、香港における日本占領時代がスタートします。これに伴い、1945年の終戦まで香港と海外との通信も遮断され、香港は国際社会から物理的に孤立することになります。

 なお、このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

* 昨日、アクセスカウンターが181万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


 ★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月15-17日(土ー月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオーストラリア切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2017ポスター

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。

 ことしは、香港“返還”20周年ということで、内藤も昨年(2016年)、ニューヨークの世界切手展<NEW YORK 2016>で金賞を受賞した“A History of Hong Kong(香港の歴史)”をチャンピオンクラスに出品します。また、会期中、16日(日)15:30~、展示解説も行いますので、皆様よろしくお願いします。


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 無事帰国しました。
2017-04-07 Fri 02:12
      メルボルン展終了直後

 昨晩、無事メルボルンから帰国いたしました。アジア国際切手展<Melbourne 2017>の会期中ならびに会期終了後のガダルカナル取材では、多くの方に大変お世話になりました。この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。

 冒頭の写真(以下、記事中の写真はすべてクリックで拡大されます)は、展覧会の終了後、作品のピックアップを終えて宿に戻ってきたときに、拝領したばかりの賞状を手に、現地で購入したセーターを着て、友人に撮影してもらったものです。今回は審査員でもなければ、コミッショナーでもなく、純粋に一出品者としての切手展参加でしたので、メルボルン滞在中は、あえてオフィシャル・ホテルには泊まらず、キッチン付のサーヴィス・アパートメントを借り、マーケットで肉や魚介類、野菜などを調達して自炊したり、友人を招いて一緒に食事をしたりしていました。

 さて、今回の切手展では、僕の出品作品は以前と同じ金賞を頂戴しましたが、1日のパルマレスで拝領したメダルは、切手展のロゴをベースに、賞のランクに応じて金・銀・銅などの色分けされた1913年のカンガルー切手を貼り付けたデザインでした。(下の画像)

      メルボルン展・メダル

 賞のランクを示すカンガルー切手の部分をトリミングしてみたのが下の画像で、実際の切手を並べるとこんな感じになります。

      メルボルン展・メダル(部分)  オーストラリア・カンガルー(1913年・1ペニー)

 1901年1月1日、オーストラリア連邦が成立する以前、濠洲大陸では地域ごとに植民地の自治政府が存在し、それぞれ個別に切手を発行していました。具体的には、1850年にニュー・サウス・ウェールズで発行された“シドニー・ヴュー”を皮切りに、1850年にはヴィクトリアが、1853年にはタスマニアが、1854年にはウェスタン・オーストラリアが、1855年にはサウス・オーストラリアが、そして1860年にはクイーンズランドが、それぞれ最初の切手を発行しています。

 1901年1月1日に連邦が発足すると、各自治政府は連邦の州となり、「郵便・電信・電話その他これに類する事業」は連邦政府が行うとの憲法の規定に従い、同年3月1日には、連邦郵政省が設立されます。しかし、実際には、その後も各州独自の切手発行は続けられ、郵便料金も州ごとに異なったままでした。

 このため、まずは1911年5月1日、連邦政府は“大英帝国”の一部として英本国と同様の郵便料金体系を連邦全土に統一的に導入するとともに、連邦統一の切手を発行すべく、デザインを公募。その結果、1000点を超える応募作品の中から、オーストラリア地図を背景にカンガルーを描くデザインが採用され、1913年1月2日、オーストラリア連邦として最初の切手(半ペニーから2ポンドまでの15額面)が発行されました。今回、メダルの画像の脇には、メダルの色に近いということで、そのうちの1ペニー切手を並べてみました。 
 
 ちなみに、今回の切手展会場では、オーストラリア郵政のブースで、1913年のカンガルー切手をデザインしたチョコレートも販売されていました。

      オーストラリア・カンガルー切手チョコ

 このチョコレートは、ただ単に、パッケージにカンガルー切手が印刷されているだけでなく、下の画像のように、パッケージの裏面にはステーショナリーとしての額面がついていて、そのまま宛名を書けば、オーストラリア国内の宛先に郵送できる仕掛けになっています。

      オーストラリア・カンガルー切手チョコ(裏面)

 パッケージのデザインは、他にもいろいろありましたので、お遊びとして、オーストラリアの印面付チョコレートのコレクションをまとめてみるのも楽しいかもしれません。

 なお、今年は、この後、8月にインドネシア・バンドンで、10月にブラジル・ブラジリアで、それぞれ世界切手展が予定されています。このうち、8月の切手展に関しては、セカンド・コミッショナーとして、ファースト・コミッショナーの山崎好是さんをサポートすることになっており、関係の皆様にはいろいろとお世話になることがあるかと思われますが、よろしくお願いいたします。
 

★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
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 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
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 <Melboure 2017>開幕
2017-03-30 Thu 22:15
 きょう(30日)から、オーストラリア・メルボルン郊外のコーフィールド競馬場でアジア国際切手展<Melbourne 2017>が開幕しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      オーストラリア・メルボルン展(1928)

 これは、1928年10月29日から11月1日にかけてメルボルンで開催された最初の国際切手展を記念して発行された切手です。

 1928年の国際切手展は、第4回全豪切手展を兼ねて開催されましたが、これにあわせて、組織委員会事務局長のアレク・ローゼンブラムはオーストラリア郵政のハリー・ブラウンに同国初の“小型シート”の発行を提案。これ於受けて、オーストラリア郵政は、メルボルン市役所の会場内に印刷機を持ち込んで、ガッターで囲まれた田型(今回ご紹介の画像の状態)を15組、計60枚で構成される記念切手の製造・販売を行いました。

 記念切手は、1913年のカンガルー切手に次いで1914年に発行されたワライカワセミを描く茶色の6ペンス切手を、刷色を青色に変更し、額面を3ペンスとしたもので展覧会場では会期初日の11月29日から発売され、会期終了後の11月2日からオーストラリア各地の郵便局で発売されています。

 ちなみに、メルボルンでの国際切手展の開催は、1928年の展覧会を皮切りに、1963年10月7-12日に国際展覧会の<MIPEX’63>が、1984年9月21-30日にFIP(国際郵趣連盟)展の<AUSIPEX’84>が、1999年8月4-10日にFIP展の<Australia 99>が、2013年5月10-15日にFIP展の<Australia 2013>が開催されていますが、FIAP(アジア郵趣連盟)展は今回の<Melbourne 2017>が最初です。

 なお、今回の<Melbourne 2017>は、地元ヴィクトリア王立郵趣協会の創立125周年を記念したもので、会期は4月2日まで。アFIAP加盟各国から1100フレームの作品が出品されています。

 *オマケ
 今回はオープニング・セレモニーなどが行われなかったため、それらしい写真が撮れなかったのですが、郵便局には日替わり発行の切手を求めて並ぶ行列ができていました。とりあえず、会期初日の風景の記録として、下に画像をアップしておきます。

      メルボルン展・会場初日の風景


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 ANZAC DAY
2015-04-25 Sat 18:20
 きょう(25日)は、第一次大戦中の1915年4月25日、オーストラリア・ニュージーランド軍団(アンザック ANZAC:Australia New Zealand Army Corps)がガリポリ半島に上陸したことを記念したアンザック・デイです。というわけで、今年はちょうど100周年でもありますし、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        オーストラリア・アンザック(1935)

 これは、1935年、アンザックのガリポリ上陸20周年を記念してオーストラリアが発行した記念切手で、ロンドンのホワイトホール(シティ・オブ・ウェストミンスター内を南北に走る道路で、軍事関連の施設が多い)にあるアンザック顕彰碑が描かれています。

 1914年8月5日、英本国はドイツと戦争状態に突入し、大英帝国にとっての第一次世界大戦が始まります。

 大戦の勃発とともにオーストラリア海軍は英本国の指揮下に置かれ、オーストラリア連邦政府は、連邦領土に隣接するドイツ領ニューギニア占領するための部隊を編成するとともに、海外派兵を目的とするオーストラリア軍団の設立を正式に決定しました。

 オーストラリア兵は、1914年11月、ニュージーランド兵とともに“アンザック”ANZAC”として西オーストラリアのアルバニーを出港。1915年4月25日、ダーダネルス海峡北岸のガリポリ半島に展開するトルコ軍戦線を突破するため、英本国の部隊とともに半島南端に上陸しました。

 ちなみに、当時のオーストラリア海軍は、1911年に発足したばかりで弱小であったため、南洋群島を含む広大な“ニューギニア保護領”を領有するドイツと戦い、オーストラリアの通商航路を確保するためには、西太平洋最大の海軍力を持つ日本の協力が不可欠でした。実際、この時期、オーストラリア海軍が太平洋を自由に航行しえたのは、日英同盟による日本の海軍力が彼らの安全を保証していたからで、アンザック兵や物資・食料を運ぶオーストラリア船の護衛を日本海軍が担当することもありました。

 さて、ガリポリの戦いは、純粋に軍事的な見地からすれば、オスマン帝国の予想外の頑強な抵抗にあって、英側は3万3000人以上の戦死者を出して撤退しており、アンザックにとっても負け戦です。したがって、英本国にとっては、どちらかというと“歴史上の汚点”ともいうべき出来事であって、積極的に評価すべきこととは言えません。

 しかし、オーストラリアとニュージーランドの両国にとっては、初の本格的な海外遠征であったことに加え、5万人のANZACが勇敢に戦って8000人の犠牲を出したこと(ただし、単純な戦死者数でいえば、英本国の方がはるかに多いです)は、両国のアイデンティティと愛国主義形成にとって重要な契機となりました。

 このため、上陸1周年にあたる1916年4月25日には、ガリポリ半島で軍による戦死者追悼の式典が行われたほか、1920年代中頃にアンザック・デイがオーストラリアの祝日として各州に広まりました。現在では、アンザックデイは、ガリポリの戦いの犠牲者のみならず、第二次大戦朝鮮戦争など、両国が関わった全ての戦没者慰霊の日として、両国にとって最も重要な記念日とされています。

 なお、このうちの朝鮮戦争におけるアンザック軍については、拙著『朝鮮戦争』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * 本日の浅草でのトークイベントは、無事、盛況のうちに終了いたしました。ご参加いただきました皆様ならびにスタッフの方々には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』 発売! ★★★ 

         日の本切手 美女かるた・表紙 税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 切手の帝国:オーストラリア
2013-04-26 Fri 09:15
 ご報告が遅くなりましたが、大修館書店の雑誌『英語教育』2013年5月号が発売になりました。僕の連載「切手の帝国:ブリタニアは世界を駆けめぐる」は、今回は、5月にメルボルンで開催の世界切手展<AUSTRALIA 2013>にちなんでオーストラリアを取り上げました。その記事の中から、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        オーストラリア・カンガルー(1913)

 これは、1913年に発行されたオーストラリア連邦(以下、連邦)最初の切手で、地図を背景にカンガルーが描かれています。

 1901年1月1日、オーストラリア連邦が成立する以前、濠洲大陸では地域ごとに植民地の自治政府が存在し、それぞれ個別に切手を発行していました。具体的には、1850年にニュー・サウス・ウェールズで発行された“シドニー・ヴュー”を皮切りに、1850年にはヴィクトリアが、1853年にはタスマニアが、1854年にはウェスタン・オーストラリアが、1855年にはサウス・オーストラリアが、そして1860年にはクイーンズランドが、それぞれ最初の切手を発行しています。

 1901年1月1日に連邦が発足すると、各自治政府は連邦の州となり、「郵便・電信・電話その他これに類する事業」は連邦政府が行うとの憲法の規定に従い、同年3月1日には、連邦郵政省が設立されます。しかし、実際には、その後も各州独自の切手発行は続けられ、郵便料金も州ごとに異なったままでした。

 このため、まずは1911年5月1日、連邦政府は“大英帝国”の一部として英本国と同様の郵便料金体系を連邦全土に統一的に導入するとともに、連邦統一の切手を発行すべく、デザインを公募。その結果、1000点を超える応募作品の中から、オーストラリア地図を背景にカンガルーを描くデザインが採用され、1913年1月2日、オーストラリア連邦として最初の切手(半ペニーから2ポンドまでの15額面)が発行されました。今回ご紹介の切手は、そのうちの1シリング切手です。

 今回の記事では、このほか、連邦発足後も発行されていたヴィクトリア州の切手や、連邦として英国王の肖像を取り上げた最初の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 日豪戦争⑫
2011-07-08 Fri 20:36
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第433号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回からは何回かに分けてオーストラリアの捕虜の話を書きますが、そのなかから、まずは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      豪POW:善通寺宛

 これは、第二次大戦中の1944年12月、オーストラリアのシドニーから善通寺の捕虜収容所宛てに差し出された航空便で、航空料金相当の5ペンス分の切手が貼られています。

 先の大戦で日本軍の捕虜となったオーストラリア人は約2万2000人、そのうち、8301人が亡くなったとされています。当時のオーストラリアの人口は約700万人ですから、35人に1人(小中学校の1クラスに1人というほどの割合となりましょうか)で日本軍占領下での捕虜生活を過ごしたことになります。

 一方、大戦でのオーストラリアの戦死者の合計は約1万9000人。このうち、パプア・ニューギニアでの戦死者が2165人、マレー・シンガポールでの戦死者は約1800人、北アフリカの激戦地、エル・アラメインの戦いでの死者が1225人、その他の地中海戦線での死者が3366人だったことを考えると、日本軍の捕虜として亡くなったのが8301人というのは、きわめて大きな数字です。

 オーストラリア人が対日戦争の記憶を語る際に、「捕虜」が避けて通ることのできないファクターであり、その犠牲の大きさゆえに、彼らが日本軍による「虐待」を声高に指弾するという構図も理解できないことではありません。

 これに対して、オーストラリア軍の捕虜となり、オーストラリア国内の収容所に収容されていた日本人の捕虜は、1944年8月の時点で2223名(うち、544名は海運業者)。日本軍の捕虜となったオーストラリア人捕虜の1割ほどです。

 この点に関しては、日本軍将兵には、『戦陣訓』に記された「生きて虜囚の辱めを受けず」の1節が骨の髄まで沁みついていたため、捕虜とならずに死ぬまで戦う者が大半だったからだという説明されることが多いようです。

 たしかに、戦陣訓の呪縛は事実ですし、1944年8月5日、1104人の日本人捕虜のうち545人が脱走を企て、231人の死者と108人の負傷者を出したニューサウスウェールズ州カラウ収容所の事件でも、戦陣訓の1節が事件の重要な動機となっていたといわれています。

 しかし、その一方で、1942年1-2月のマレー・シンガポール攻防戦で、追い詰められたオーストラリア軍が「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」という原則の下で動いていたという事実も見逃してはなりません。要するに、彼らは負傷した日本兵を見つけると、捕虜として収容し、治療を施すのではなく、その場で容赦なく殺害したのです。

 この「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」という原則が、オーストラリア軍による正規の命令であったことを証明する公的な文書はありませんが、戦後になって刊行された元オーストラリア兵の体験記などによると、負傷した日本兵は殺害するというのは、当時、その場に居合わせた将兵が異議なく合意していたことであり、軍上層部による「指示」であると信じていた者が多かったようです。もちろん、その背景には、白豪主義というパラダイムの下、有色人種である日本人への露骨な差別感情があったでしょうし、なによりも、伝統的にオーストラリア人が抱き続けてきた大日本帝国のにたいする恐怖感もあったでしょう。

 いずれにせよ、捕虜にする前に殺してしまったのだから「捕虜虐待」には当たらないといわれればそれまでですが、こうした事情を無視して、日本軍の非道を一方的に責める日本人がときどきいることに、僕は強烈な違和感を覚えます。

 さて、日豪開戦後、オーストラリア国内に残された家族は将兵の安否を案じる日々が続いていましたが、ようやく、1942年7月23日になって、一部の兵士の家族に対して、その兵士が“行方不明”であるとの公式の報告が届けられ、それからほどなくして、行方不明者の名簿が発表されました。その後、1942年10月になって、オーストラリア赤十字社は日本との戦闘で行方不明になったオーストラリア軍将兵宛の通信の受け付けを開始しますが、行方不明者のうち、捕虜として日本軍の収容所での生存が確認された者の家族へその旨の連絡が届いたのは1943年2月、さらに、捕虜本人から家族宛の手紙が到着したのは同年9月頃のことだったそうです。

 捕虜との通信は確実に先方に届とは限らず、無事に届いたとしても、所要日数は概して半年以上でしたが、それでも、家族にとっては、捕虜の生存を確認し、捕虜と連絡を取る唯一の手段は郵便しかありませんでした。

 今回ご紹介のカバーに関していうと、オーストラリアを出る時に、開封・検閲された後に、オーストラリア当局によってあらためて封をされ、検閲済みであることを示す菱形の印が押されており、宛先の善通寺収容所に到着したときには、収容所側の検閲を受け、そのことを示す「善俘 検閲済」(“善俘”は善通寺俘虜収容所の略)の角型の印を押されていますので、ともかくも、無事に名宛人に渡されたのでしょう。

 また、到着日や受取日を示す書き込みなどはありませんが、シドニーで差し出されたのが1944年12月だったことから推測すると、名宛人はこの郵便物を受け取って間もなく、終戦を迎え、解放されたのではないかと思われます。

 なお、今回は捕虜宛のカバーをご紹介しましたが、今月25日配信予定の次回記事では捕虜差出の郵便物をご紹介する予定です。


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 日豪戦争⑪
2011-06-05 Sun 22:40
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第430号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は、ポートモレスビー攻防戦の話を書きましたが、そのなかから、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ミルン湾野戦局

 これは、1942年12月、ミルン湾飛行場に置かれていたオーストラリア軍の野戦郵便局から差し出された郵便物です。

 いわゆる太平洋戦争の開戦後、日本側が制海権を掌握し、南方とのシーレーンを確保するためには、委任統治領のトラック(チューク)諸島にあった海軍基地が有効に機能していることが大前提となっていました。そこで、開戦早々の1942年1月22日、トラック防衛のため、日本軍はニューブリテン島のラバウルに上陸し、ここを攻略して前進拠点とするとともに、ニューブリテン、ニューアイルランド、ブーゲンビルなどの島嶼部やニューギニア本島の北岸を占領しました。

 ところが、ラバウルをはじめ、これらの地域は蘭印と隣接するオーストラリア領ニューギニアの中心都市、ポートモレスビーの基地から爆撃圏内にありますので、その安全を確保するためには、ポートモレスビーも押さえておくことが必要となります。

 そこで、1942年5月、日本軍は珊瑚海海戦で海からのポートモレスビー攻略を目指しましたが、これは連合国側によって阻止されました。なお、珊瑚海海戦に参加した連合国の主力は米海軍でしたが、J.C.クレース少将を司令官とする第3群にはオーストラリア海軍の重巡洋艦オーストラリアと軽巡洋艦ホバートも参加していたことは記憶にとどめておいてよいでしょう。

 さらに、1ヶ月後の同年6月、ミッドウェイ海戦で日本海軍は虎の子の大型空母4隻を失い、海からポートモレスビーを攻略することは不可能となりました。

 そこで、日本軍は、ニューギニア島南東端まで600キロの全長があり、標高4072メートルのヴィクトリア山を擁するオーエンスタンレー山脈のジャングルを越えてポートモレスビーを目指すことになります。

 一方、オーストラリアにとっては、ポートモレスビーは本土防衛のための防衛線として、絶対に譲ることのできない拠点でした。また、フィリピンから撤退してオーストラリアを反攻の拠点としていたマッカーサーは、オーストラリアからニューギニアの島伝いに北上して前進基地を確保し、最終的にフィリピンに到達するという基本方針を立てていました。いわゆる「蛙飛び作戦」です。

 このため、珊瑚海海戦と前後して、ポートモレスビーのオーストラリア行政府は多数の現地住民を徴用し、対日戦に備えての軍事関連施設の建設を急ぎます。これに加えて、約3000名といわれる米軍工兵隊も飛行場建設のためにニューギニアに上陸。1942年6月には、マッカーサーがトマス・ブレイミー(オーストラリア軍最高司令官)指揮下のニューギニア部隊司令官であったバジル・モリス少将にブナの確保を命じ、オーストラリア軍第39大隊が派遣されました。

 ブナはニューギニア島の東部北側にある海辺の町で、ポートモレスビーからはオーエンスタンレー山脈(以下、スタンレー山脈)を越えて155キロの地点にあります。さらに、ブナとポートモレスビーの間にあるのが、オーストラリア領ニューギニア唯一の飛行場があったココダです。

 第39大隊の派遣に伴い、オーストラリア行政府は、約800人の現地男性を徴用し、ココダ街道の出発点から中継地点まで食料を運ばせました。また、ブナの近郊では、小型艦艇によって運び込まれた物資を運ぶため、さらに1500人の労働者が徴用され、さらに多くの者がココダ街道沿いで徴用されています。

 高低の激しく、人跡未踏のジャングルが広がる中での荷役作業はきわめて過酷でしたが、オーストラリア支配下のニューギニアでは、現地住民がオーストラリア行政府の命に背いて徴用を拒否すれば、厳しい処罰が待ち受けていたため、彼らはしぶしぶ作業を引き受けていたといわれています。

 こうした状況の下で、1942年7月21日、ついに、日本陸軍第17軍の南海支隊(高知の歩兵第144聯隊と福山の歩兵第41聯隊を主力とし、独立工兵15聯隊などの配属部隊から編成)の先遣隊が、ニューギニア島北岸のバサブアに上陸。スタンレー山脈をめざして進撃を開始し、29日にはココダのオーストラリア軍陣地を占領しました。

 日本軍の上陸とともに、現地住民からなるニューギニア兵の多くが逃亡。彼らの間では、東南アジアを席巻していた日本軍に対してオーストラリア軍には勝ち目がないとの判断が一般的でしたし、さらに、オーストラリア行政府による白人支配に反感を持つ者も少なくなかったからです。実際、ブナ近郊では、それまでのオーストラリア行政府に対する“復讐”として、撃墜された米軍航空兵5名が殺害され、オーストラリアの軍人5名、宣教師6名、民間人4名が捕らえられる事件も起こりました。

 一方、オーストラリア側は、現地住民の徴用をさらに強化することで、補給の拡充をはかろうとします。また、米陸軍航空隊から複数のダグラスDC-3輸送機を確保し、DC-3輸送機は戦線に近いミョーラ地区(元は湖でしたが干上がって陸地になったという地区)に補給物資の空中投下を行いましたが、投下された軍事物資の多くが将兵の手に渡らずにジャングルの中に紛れ込んだか、投下の際に破損してしまったとのことです。

 続いて8月18日には、南海支隊主力がブナに上陸し、ポートモレスビーへむけての進撃を開始。日豪両軍は、8月26日、スタンレー山中のイスラバでついに激突します。迎え撃つオーストラリア軍は、現地住民を動員して堅牢な陣地を築いていましたが、第144連隊は苦戦の後、第41連隊の増援を得て同月31日、ついに、イスラバが陥落しました。

 その後、日本軍は9月2日にギャップ、4日にスタンレー山脈の峠と駒を進め、8日にはエフォギを占領し、13日には、イオリバイワのオーストラリア軍第25旅団への攻撃を開始。イオリバイワからポートモレスビーまではわずか50キロです。

 さて、オーストラリア軍の司令官だったモリスは、イオリバイワへの増援として、2個大隊をもつ第21旅団(旅団長はアーノルド・ポッツ准将)と第53大隊を送るとともに、焦土戦略により、日本軍が期待していた現地での物資補給の芽を摘む戦略を採用しました。過酷な自然条件のスタンレー山中では、時間を稼げば稼ぐほど、日本軍は消耗し、みずから撤退せざるを得なくなるだろうとの判断によるものです。

 実際、日本軍の食糧と武器弾薬はこの頃には枯渇しており、第144連隊は病人が続出する中で、地元の農民の畑から芋をあさり、1人1日1合の粥をすすりながら、敵陣への攻撃を続けていたといわれています。

 この結果、9月16日、イオリバイワがついに陥落。この戦闘での日本側が死者72、負傷者81だったのに対して、オーストラリア軍の遺棄死体は120にものぼりました。

 ここにいたり、マッカーサー司令部は、ポートモレスビー陥落の危険性を本気で危惧するようになります。

 そこへ、新たにニューギニア部隊司令官として着任したシドニー・ラウェル中将が、日本軍は長期にわたる進出とオーストラリア軍の抵抗によってかなり消耗しており、増援部隊が到着しない以上、オーストラリア軍第21ならびに第25旅団で日本軍を撃破することは十分に可能だと主張しました。

 じっさい、この頃にはガダルカナルでの戦闘が始まっており、日本軍がガダルカナルとニューギニアの無謀な“二正面作戦”に突入していたこともあって、ラウェルの状況分析は結果的に正しかったといえます。1942年8月下旬から9月初旬にかけて、ニューギニア島東端のミルン湾において、連合軍が建設した飛行場(今回ご紹介のカバーは、同飛行場に置かれていたオーストラリア軍の野戦郵便局から差し出された郵便物です)に対して、日本軍が海軍陸戦隊を上陸させて占領を試みたものの敗退した「ミルン灣の戦い」は、まさに、その予兆ともいうべきものでした。

 しかし、それまで、日本軍の前に敗走を重ねていた(少なくとも、マッカーサーの眼にはそう映っていた)オーストラリア軍に対する司令部の不信感は払拭されず、第21旅団を率いたポッツはもちろん、ラウェル中将も、指揮権を剥奪されてしまいます。

 結局、1942年12月1日、マッカーサーは米陸軍第1軍団の軍団長ロバート・アイケルバーガー少将に、「ブナを奪還せよ、さもなくば生還を許さず」と厳命し、部隊をブナへ派遣。みずからもオーストラリアからポートモレスビーに移って態勢を整え、12月末には、米軍がブナの飛行場は奪取しました。

 そして、翌1943年1月2日、ブナの日本軍守備隊が壊滅。日本軍のラバウル攻略からほぼ1年後の同月21日、米豪連合軍がギルワ陣地を占領し、ポートモレスビーの攻防戦は完全に終結することになります。

 一連の戦闘で、日本側は将兵1万1000名のうち7600名が戦死あるいは戦病死という甚大な損害を受けましたが、オーストラリア軍もマラリアで亡くなる者が続出したほか、第16旅団と第25旅団は激しく消耗し、第30旅団が半減するなどの多くの犠牲を払っています。

 また、日豪両軍は、物資の運搬や死傷者の搬送のために多くの現地住民を動員しましたが、いずれの陣営でも、彼らに対して十分な休養や食事、避難所や医療の給与が与えられることはありませんでした。現地住民の住居は撤退する兵士によって焼かれたり、航空機の機銃掃射を受けたりするなどして破壊されたほか、日豪両軍はともに彼らの畑を襲い、部隊が駐留した地域ではマラリアなどが蔓延しています。

 現在のオーストラリアでは、大戦中のニューギニアの現地住民がオーストラリアに対して献身的に協力したとして、彼らを“黒い天使”と称賛しています。ただし、白人の絶対的優位を信じて疑わない“白豪主義”が社会のパラダイムとなっていた当時のオーストラリアで、一般のオーストラリア国民が“黒い天使”に心から敬意を払っていたのかどうか、僕などはいささか疑問を感じずにはいられません。


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 日豪戦争⑩
2011-05-04 Wed 22:04
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第427号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は、マッカーサーがフィリピンからオーストラリアへ退却してきた話を書きましたが、そのなかから、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      在豪・米野戦局

 これは、1942年4月11日、オーストラリアのメルボルンに置かれていた米軍の軍事郵便局から差し立てられたカバーです。

 1941年12月8日、日米開戦と同時に日本軍は米国の保護領であったフィリピンへの攻撃を開始。その後も先制攻撃の利を活かして進撃を続ける日本軍に対して、米比軍はバターン半島とコレヒドール要塞を拠点として持久戦を展開しようとしましたが、米本国からの援軍は来らず、1942年2月22日、大統領のローズヴェルトはマッカーサーに対して、コレヒドールを脱出してオーストラリアに向かうよう命じました。

 日米開戦直後から、米軍はメルボルンに米極東軍の補給担当の司令部を置いていましたが、これに伴い今回ご紹介のカバーの“501”局も1942年1月に設置されていました。これは、太平洋における米軍の戦いにとって、オーストラリアが重要な後方基地として位置付けられていたことの証であり、オーストラリアにいったん退避して反攻のための戦略を練り直すという発想もここに由来するといってよいでしょう。

 かくして、3月11日深夜、マッカーサーは妻子、サザーランド参謀長、マーシャル参謀副長、ロックウェル提督ら40名とともに4隻の高速魚雷艇に分乗してコレヒドール島を脱出し、キューヨー諸島の無人島を経て、14日未明、ミンダナオ島北部の中央海岸に到着。デルモンテ飛行場からB-17に乗り、17日、オーストラリア北部準州(ノーザンテリトリー)のバチェラー空軍基地(余談ですが、同基地は1942年10月24日に日本軍の空襲を受けています)に到着した。

 一行はそこから、そこからさらに北部準州内のアリススプリングスに飛び、そこからアデレード行の鉄道で南へ向かいましたが、途中、車両交換のために下車したテロウィーの駅で、マッカーサーが記者団を前に発したのが有名な“アイ・シャル・リターン”の演説です。

 オーストラリアに到着したマッカーサーは、ローズヴェルトがそこに反攻のための兵力と武器弾薬を用意していると期待していましたが、実際には反攻のための兵力は確保されていませんでした。結果的に、フィリピンの米兵を見捨てて自分たちだけオーストラリアへ逃走した格好となったマッカーサーはすっかり面目をつぶされて激怒しましたが、米本国では彼を“リンカーン以来の英雄”に祭り上げる空気が醸成されていきます。

 すなわち、破竹の進撃を続ける日本軍に対して連合国の敗北が続く中、孤立無援の抵抗を続けてきたマッカーサーの姿は、それだけで、米国民に強い共感をあたえていましたが、さらに、コレヒドールからの退却を“戦略的撤退”と称し、“アイ・シャル・リターン”の名文句を効果的に新聞記者の前で語ったことで、米国民のマッカーサー人気は急上昇。じっさい、当時のアメリカでは、男の子が生まれるとダグラスと名づける親が続出し、マッカーサーの名を冠した郵便局も開局されています。

 もともと、米国内の政治的・思想的スタンスからするとマッカーサーとローズヴェルトは水と油の関係でしたが、天才的なポピュリストでもあったローズヴェルトはマッカーサーの大衆的な人気を有効に活用することを考え始めます。

 その結果、長年のフィリピン勤務の経験により“米軍一のアジア通”ということになっていたマッカーサーは、1942年4月18日、海軍首脳の反対を押し切るかたちで、南西太平洋方面連合軍(以下、南西太平洋軍)司令官に任命され、太平洋戦線における連合軍の最高指揮官という立場を確保しました。

 さて、南西太平洋軍の総司令部は、メルボルンで発足した後、1942年7月21日以降、クイーンズランド州の州都ブリスベンの中心部、クイーン・ストリートとエドワード・ストリートの角にあったAMPビルに置かれています。AMPビルは、1930年から1934年にかけて建設され、戦前はオーストラリア相互年金協会の本部が入っていました。1944年までマッカーサーが執務室として使っていた9階の部屋は、現在、“マッカーサー博物館”として毎週、火・木・日曜日に公開されています。

 南西太平洋軍の設置により、オーストラリアは日本に対する反攻の前線基地として100万の米軍部隊が駐屯することになりました。日本との戦いにおいて頼りにならない英国に代わり、オーストラリアに駐留した米軍は、以後、ニューギニアから島伝いに北西へと反攻の兵を進めていきます。そして、オーストラリアは米軍とともに日本軍と戦うことになりました。

 なお、マッカーサーとその生涯については、拙著『大統領になりそこなった男たち』でも1章を設けて説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


  ★★★ イベントのご案内 ★★★

 ・5月7日(土) 10:15- 切手市場
 於 東京・池袋 東京セミナー学院
 詳細は主催者HPをご覧ください。最新作の『切手百撰 昭和戦後』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。

 会場ならではの特典もご用意しておりますので、ぜひ、遊びに来てください。


  ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

        切手百撰・昭和戦後
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 日豪戦争⑨
2011-04-05 Tue 13:57
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第424号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は、1942年2月のダーウィン空襲について取り上げましたが、そのなかから、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ダーウィン野戦局

 これは、第二次大戦中にポートダーウィンの空軍野戦局から差し立てられた書留便です。

 1941年12月8日、日本に対して宣戦を布告したオーストラリアは、マレー半島で日本軍と戦うとともに、日本軍のオランダ領東インド(蘭印。現インドネシア)進攻に備えて、12月中旬までにオランダ領ティモール(ティモール島西部)に、下旬にはアンボンに陸軍部隊と空軍の爆撃機部隊を派遣。さらに、12月17日にはオランダ軍とともに、ポルトガル領ティモール(東ティモール)に駐屯します。

 年明けの1942年1月10日に発足した米英蘭豪連合部隊のABDAコマンドはインドおよび中東方面から到着する増援兵力をシンガポールに集中させ、シンガポール、ジャワ、ポートダーウィンの線に集中させる方針を決定しました。しかし、マレー・シンガポール方面での敗色が濃厚となると、シンガポールへの増援を断念し、2月中旬に中東から到着予定だった第6オーストラリア師団をジャワに、2月末に到着予定だった第7オーストラリア師団をスマトラに転用することとします。

 1月11日、タラカン(ボルネオ島)とメナド(セレベス島)への進攻により蘭印作戦を開始した日本軍は、1月31日、オーストラリア軍が待ち構える蘭豪連合軍が待ちかまえるアンボンに上陸。アンボン市内の防衛を担当していた蘭印軍司令官カーピス中佐以下800名の蘭印軍守備隊は、早くも2月1日未明には降伏し、郊外を守っていたオーストラリア軍部隊も3日には投降しました。

 アンボンが陥落すると、いよいよ、オーストラリア本土のポートダーウィンは日本軍の制空圏内に入ります。はたして、2月19日、日本軍は連合国側の蘭印防衛の拠点となっていたポートダーウィンに対する大規模空襲を行いました。

 すなわち、オーストラリア北西のティモール海に停泊していた赤城、加賀、飛龍、蒼龍の4隻の空母から発進した188機の日本海軍艦載機は、午前10時、ポートダーウィンを空襲し、9隻の船舶を撃沈したほか、市街地に大きな被害を与えました。さらに、同日11時55分から行われた2度目の空襲では、54機の陸上爆撃機は市街地を空軍基地にさらなる打撃を与え、20機の軍用機を破壊。また、一連の空襲で連合国側の251人が亡くなり、3-400人が負傷しましたが、日本側の損害はわずか4機が撃破されただけでした。

 空襲により、ポートダーウィンの郵便局も罹災したため、2月20日、空軍の野戦局が開設され、民間人の郵便物を取り扱うことになりいます。野戦局は、当初、被災したダーウィン局の跡地で業務を行っていましたが、ほどなくして、ダーウィン駅に近いベリマ病院内に移転して業務を行うようになりました。今回ご紹介のカバーは、そのベリマ病院内に設けられたダーウィンの空軍野戦局から1944年に差し出されたものです。

 その後も、ポートダーウィンへは日本軍機による空襲が何回か行われていますが、一般に“ダーウィン空襲”というと、1942年2月19日の空襲をさすことが多いようです。

 日本軍による空襲の目的は、あくまでも、蘭印作戦を遂行する上で障害となる連合国側の基地をたたくことにあり、オーストラリア本土に進攻しようという意図はありませんでした。しかし、1901年の連邦発足以来、ひたすら“日本の脅威”に怯え続けてきたオーストラリアにしてみれば、ダーウィン空襲は、ついに日本軍によるオーストラリア侵略の幕が切って落とされたものと受け止められたのです。

 さらに、ダーウィン空襲翌日の2月20日未明、日本軍がティモール島に上陸。1940名の連合軍守備隊(そのうちの1500名がオーストラリア軍)は必死に抵抗し、西部のクーパンを放棄して退却する際には日本軍に100名近い損害を与えたが、23日には降伏を余儀なくされました。

 こうした状況の下で、第6ならびに第7オーストラリア師団の蘭印増派は中止され、代わりに米英両政府は第7オーストラリア師団のビルマへの転用を要請するのでが、ここにいたり、オーストラリアの英本国に対する不信感が爆発します。

 すなわち、英本国のアジア・太平洋防衛は、難攻不落のシンガポール要塞を拠点とすることが前提となっていましたが、肝心のシンガポールは無気力な英将パーシヴァルの無為無策により、第8オーストラリア師団の多くの犠牲とともに、すでに、2月15日に陥落していました。

 さらに、2月19日のダーウィン空襲を皮切りに、オーストラリア本土が日本軍の直接攻撃にさらされているにもかかわらず、英本国はオーストラリアに救いの手を差し伸べるどころか、貴重な第6ならびに第7師団の兵力をオーストラリア防衛のためにではなく、ビルマ防衛のために転用したいといいだしたのです。米英の要請に従えば、マレー・シンガポールの時と同様、オーストラリア兵は祖国の防衛とは全く無縁の戦いで犬死させられることは明らかでした。

 このため、日豪開戦直前の1941年10月に首相となったジョン・カーティンは、第6ならびに第7師団のビルマへの移動を拒否して、本国に帰還させてしまいます。さらに、カーティンは、外相のハーバート・エバットを、チャーチル戦時内閣のオーストラリア代表として英本国に派遣。エバットはオーストラリアに犠牲を強いるばかりの英本国への不満をチャーチルにぶつけ、英本国の防衛よりもオーストラリアの防衛を優先する立場を公言しました。

 当然のことながら、チャーチルはカーティンとエバットの姿勢を苦々しく思っていたが、オーストラリア国民は、威張ってばかりで自分たちを駒として利用することしか考えていない(ように見える)英本国に対して一歩も引かず、“国益”を主張するカーティンとエバットを愛国主義者として大いに称揚されることになります。

 かくして、オーストラリアにとっての第二次大戦には、英本国からの“独立戦争”という側面も生じることになりました。


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 日豪戦争⑥
2011-01-06 Thu 14:48
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第415号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は、第二次大戦勃発後の1939-1941年の状況を取り上げましたが、そのなかから、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      オーストラリア軍

 これは、1940年7月15日、オーストラリアが発行した戦意高揚切手です。

 1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次欧州大戦が勃発します。1939年4月に発足したロバート・メンジーズ政権は、第一次大戦の先例に倣い、オーストラリアも自動的に戦争状態に突入したと宣言。英本国政府の要請に従い、志願兵からなる4師団を設立し、そのうちの3師団を中東ならびに地中海戦線へと派兵しました。

 参戦に伴い、国家安全保障法が制定され、オーストラリア国内では戦時体制が構築されます。ドイツ系ならびにイタリア系の住民が敵国人として抑留されるとともに、情報省が設立されて報道管制が敷かれ、郵便物の検閲も行われました。

 ところで、1937年7月以降の支那事変(日中戦争)では、日本の軍事行動は9ヵ国条約で定めた“中国の領土保全”の原則に反するとして米英が中国を支援していました。特に、1938年、近衛文麿内閣が9ヵ国条約を真っ向から否定するような東亜新秩序声明を発表したことに反発した米国は、1939年7月26日、日米通商航海条約を廃棄し(翌1940年1月26日失効)、日本向けの屑鉄・航空機用燃料の輸出制限に乗り出します。

 第二次欧州大戦はこうした状況の下で勃発し、1940年5月、オランダがドイツに降伏。オランダ本国はドイツの占領下におかれ、ウィルヘルミナ女王はロンドンに亡命しました。この結果、オランダ領東インド(蘭印)はオランダ亡命政府の最大の拠点となっていましたが、この蘭印に対して、日本は“現状維持”の見返りとして、石油・ゴム・錫など13品目の輸出拡大を要請します。米国の輸出制限に対抗して軍需物資を確保するためでした。

 さらに、1940年6月にフランスがドイツに降伏。英国も劣勢に立たされていました。これを受けて、日本は援蒋ルート(米英から中国への支援物資の補給路)の遮断を試み、イギリスに対してビルマ・ロードの閉鎖を要求。これに対して、イギリスも、7月18日、いったんは日本の圧力に屈してビルマ・ロードをいったん閉鎖します。

 ビルマ・ロードの封鎖に続き、1940年9月、日本軍は仏印(フランス領インドシナ)ルートを遮断するため、北部仏印にも進駐。さらに、日独伊三国軍事同盟を締結しましたが、三国軍事同盟は米国を事実上の仮想敵国としていたため、米国は態度を硬化させ、屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止。英国も、10月8日、ビルマ・ロードを再開しました。

 このため、日本は、ますます、蘭印との交渉によって軍需物資を確保する必要に迫られますが、蘭印当局は、敵国・ドイツと軍事同盟を結んだ日本に対する警戒感を強め、日本軍の蘭印侵攻を見越して米英に支援を求めるようになります。

 一方、蘭印の危機は、オーストラリアにとっても直接的な脅威として受け止められていました。オーストラリアと蘭印はニューギニアを介して、直接国境を接する隣国だったからです。したがって、1901年の連邦結成以来、日本を仮想敵国としてきたオーストラリアからすれば、日本が蘭印を攻略すれば、引き続きその矛先は自国に向かってくるのではないかと考えるのも自然の成り行きでした。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下で発行されたもので、三軍の兵士と従軍看護婦が描かれています。切手のデザインは『オーストラリア・ウィメンズ・ウィークリー』の表紙を飾ったヴァージル・ライリーのイラストを元に、F.D.マンレイが原画を構成したもので、英連邦の一員として国民が団結し枢軸国と戦おうというプロパガンダです。

 ちなみに、1940年6月、香港政庁は香港在住のヨーロッパ人の女性と子供をオーストラリアへ避難させるよう、住民に命じています。“敵国”(名指しこそないものの、それが日本を意味することは明白であった)から攻撃を受け、香港が戦場となる可能性が高まっていると判断しての措置でしたが、“敵国”の脅威を逃れて香港から避難してきた婦女子を受け入れたオーストラリア国民は、いずれそれが自国の周囲にも拡大することは避けられないと確信したに違いありません。


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  1月9日(日) 切手市場  
  於・東京・浅草 台東区民会館 11:00~20:00 

 拙著『マカオ紀行』の即売・サイン会(行商ともいう)を行います。僕は午前中から会場にいる予定です。入場は無料で、当日、拙著をお買い求めいただいた方には会場ならではの特典をご用意しておりますので、よろしかったら、遊びに来てください。詳細はこちらをご覧いただけると幸いです。

 
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 日豪戦争⑤
2010-12-11 Sat 17:15
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第412号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は、1930年代の両国関係についてまとめてみましたが、そのなかから、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      オーストラリア製品愛用標語印

 これは、1936年にオーストラリアで使われた国産品愛用を呼びかけるスローガンの入った標語印です。

 1934年5月、副総理兼外相のジョン・レイサムは、満洲事変がひと段落した後、日本の南進の意思とその可能性を探るべく、貿易促進の名目の下、日本を含む東アジア諸国を歴訪しました。その結果、日本にはオーストラリアとその周辺への野心はないと判断したレイサムは、日本との友好親善を華々しく謳いあげます。そして、その外交辞令を額面通りに受け取った日本側は、翌1935年7月、特命全権大使として出渕勝次を答礼使節としてオーストラリアに派遣し、「日濠關係は未だ曾つて見ることを得ざる好關係」との認識をもつようになりました。

 ところが、翌1936年2月以降、オーストラリア国内の対日世論は突如、暗転します。そのひとつのきっかけとしてオーストラリア側が指摘したのが、元海軍少佐で作家の石丸藤太が書いた『日英必戦論』でした。

 石丸は1881年、佐賀県生まれ。海軍大学校を卒業し、海軍砲術学校教官などを務め、1915年に少佐で退役。その後は、軍事評論家・作家として活動し、当時流行していた“未来戦記”(架空の戦争シミュレーション小説)の作品も数多く残しています。

 問題となった『日英必戦論』も、日英間の戦争を題材にした未来戦記のひとつで、1933年9月、春秋社から刊行されました。その中には1936年9月3日、日本が英国に対して宣戦を布告し、6日後の9日にポート・ダーウィンとダービーを爆撃し、壊滅的な打撃をもたらしたとの内容の記述があります。その後、石丸のシミュレーションによれば、オーストラリアは英本国に対して軍艦の派遣を要請するものの、英国にその余裕はなく、また、戦略上の要衝であるシンガポール防衛を優先させるため、オーストラリアの要請は無視されます。この結果、オーストラリアは“独立”を主張するようになり、英国との関係を断って米国との結合を求めるようになるのです。

 当時の日本社会では、彼の未来戦記は荒唐無稽な夢物語とみられていましたが、多くのオーストラリア国民にとっては、石丸の小説は、最悪のシナリオとして少なからず現実味があるものと受け止められる素地がありました。さらに、『日英必戦論』が刊行された後の日本は1934年12月、日本はワシントン軍縮条約の破棄を各国に通告(同条約は1936年12月に失効)。1936年1月にはロンドン海軍軍縮条約からも脱退。以後、世界は制限なき軍艦建造競争の時代に突入します。

 石丸の『日英必戦論』の英訳がJapan must fight Britain のタイトルをつけられてロンドンで刊行されたのは、その直後の1936年2月のことで、その内容はただちにオーストラリアでも紹介され、元海軍少佐という著者の肩書もあって、オーストラリア国民に大きな衝撃を与えました。

 オーストラリア国家が、連邦成立以来、一貫して日本を仮想敵国としてきたことを理解していれば、オーストラリア側の対日友好姿勢はあくまでも表面的なもので、ごく些細なきっかけでほころびが生じることは十分に予測できたはずなのですが、当時の日本人は相手の豹変に戸惑うばかりでした。はたして、この問題は1936年5月12日の貴族院でも取り上げられ、外相の有田八郎が、日本はオーストラリア方面への野心はないと答弁しています。

 ところで、世界恐慌後の英連邦は、経済危機を打開するため、自国の勢力圏外からの輸入を制限するブロック経済政策を採っており、1936年 英国は、国内産業保護のため、英連邦以外からの綿布と人絹を輸入許可制にしました。当然、日本製品は規制の対象となります。

 一方、当時の日豪間の経済関係は、オーストラリア産の羊毛が日本の羊毛輸入の9割を占める一方、オーストラリアにとっても、1935年には、日本はオーストラリアの輸出の14%、輸入の6%を占める貿易相手国となっていました。このような状況の下で、英連邦の一員として本国によるブロック経済政策の方針に従い、一挙に対日貿易を制限すれば、国内においても関係業界の強い反発を招くことは必至でした。

 結局、1936年春、オーストラリア政府は“貿易転換政策”を発動。5月22日、関税改正と輸入許可制を実施して、日本ならびに米国製品の輸入を制限しました。その際、日本国内に対しては、英連邦の一員として英本国の意向には抗しきれないとの説明されましたが、石丸の小説を機に盛り上がった国内の日本脅威論はあえて放置されています。あわせて、国民に対しては国産品愛用のキャンペーンが展開され、今回ご紹介のような「品質と価格ゆえにオーストラリア製品を!」と訴えるスローガンの入った消印が使用されることもありました。

 これに対して、日本側は報復措置として、6月25日、オーストラリアに対する通商擁護法を発動。オーストラリア産の羊毛の輸入を制限するとともに、羊毛の買い付けを南アフリカやアルゼンチンへと多角化することで対抗しようとします。

 その後、8月下旬頃より日豪間の交渉が再開され、織物輸出・羊毛輸入数量などをめぐる交渉は難航したものの、1936年末に交渉が妥結。在シドニー村井総領事とガレット豪通商条約担当相との間で書簡が交換され、最終的に1938年の日豪通商協定の締結により、事態は一応収拾されました。

 ただし、1937年に支那事変(日中戦争)が始まり、日本に対する国際社会の圧力が強まる中で、オーストラリアの対日政策も新たな局面を迎えることになります。

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 『郵趣』今月の表紙:ジョージ5世在位25年
2007-05-01 Tue 00:12
 スタンプショウ(昨日、無事に終了しました)があったりして、ご報告が遅くなりましたが、(財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2007年5月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジョージ5世即位25年

 これは、1935年にオーストラリアが発行したジョージ5世即位25周年の記念切手です。

 イギリス国王ジョージ5世は1910年、父王エドワード7世の崩御によってイギリス国王として即位し、1935年に即位25周年を迎えました。この機会を捕らえて、英連邦のさまざまな国と地域が記念切手を発行していますが、その多くは国王の肖像とウィンザー城を描く共通図案のオムニバス形式のモノでした。これに対して、オーストラリアでは、愛馬アンザック(Anzac)にまたがる国王の姿が描く独自のデザインの切手(F.D.マンレイが制作)が発行されています。

 アンザックとは、もともとAustralian New Zealand Army Corpsの略で、オーストラリア人とニュージーランド人とで構成されたイギリス軍のなかの軍団の名。第一次大戦中のガリポリ半島(ダーダネルス海峡の西側、エーゲ海とマルマラ海に面する半島)の上陸作戦では多くの犠牲を出したことで有名です。第一次大戦中、ザクセン・コーブルク・ゴーダ家という家名がドイツ風だったため、ウィンザー家と改称したジョージ5世とオーストラリアの関係を語るのにふさわしい題材といえそうです。

 ちなみに、ジョージ5世本人は、この切手が発行された翌年の1936年に崩御。次の国王として即位したのが、シンプソン夫人との“王冠をかけた恋”で有名なエドワード8世です。

 さて、今月号の『郵趣』では、巻頭のタイ切手特集が読み応えアリです。今年は夏にバンコクでアジア国際切手展も開催されるほか、秋の<JAPEX>でもタイの特集展示をやる予定です。それぞれの切手展への参観を予定していられる方は、是非、今月号の『郵趣』でタイ切手の概要をおさらいしてみてはいかがでしょうか。

 【飛鳥美人の救出まであと9日】
 5月10日、劣化の激しい高松塚古墳・西壁壁画“飛鳥美人”の取り外し作業が始まります。この壁画の発見当時の美しい姿を再現した「高松塚保存基金」の切手(1973年3月発行)と、当時の高松塚ブームならびに切手ブームについては、拙著『沖縄・高松塚の時代』をご覧ください。
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