2020-11-30 Mon 04:39
東アフリカのエチオピアで連邦政府軍と北部自治州・支配勢力、TPLF(ティグレ人民解放戦線)との軍事衝突が続く中、隣国エリトリアの首都、アスマラにロケット弾が撃ち込まれ、紛争の拡大が懸念されています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1930年、イタリア領時代のエリトリアで発行された5リラ切手で、アスマラのデゲ・セラム宮殿が描かれています。 19世紀後半、エチオピアへの進出を目論んだイタリアは、1883年、標高2300mの高地でマラリアを媒介するハマダラカがいなかったことから、現在のアスマラの地に軍事基地を建設。ここを拠点に、1885年、エチオピア北東の紅海沿岸の一帯を占領し、1889年のウチャリ条約でエチオピアのメネリク2世にこの地の保護領化をエチオピアに認めさせました。翌1890年、イタリアはここをラテン語で“紅海”を意味する“Mare Erythraeum”にちなんで、エリトリアと命名します。 現在のアスマラの地がイタリア領エリトリアの正式に首府となったのは1900年のことで、1920-30年代には、アスマラを“小ローマ(ピッコラ・ローマ)”として開発するとのムッソリーニ政権の方針を受けて、イタリア本国の建築家によりアール・デコ建築や未来派建築が数多く建設されました。当時の街並みは現在でも残っており、2017年には“アスマラ:近代主義的アフリカ都市”としてユネスコの世界遺産に登録されています。 第二次大戦中の1941年、英国はエリトリアのイタリア軍を駆逐し、ここを軍政下に置きました。1952年、英軍が撤退すると、エリトリアは内政自治権を保持したまま、エチオピアと“エチオピア・エリトリア連邦”を形成。アスマラはエリトリアの首都となります。しかし、同連邦ではエチオピアがエリトリアの自治権を尊重しなかったため、1962年、エリトリア議会は連邦離脱を決議。これに対して、エチオピアは軍で議会を包囲し、エリトリアの併合を宣言し、エリトリアをエリトリア州としました。これに伴い、アスマラはエリトリア州の州都となります。 以後、これを不満とするエリトリア住民は独立闘争を展開。1991年、独立勢力のうちの最大勢力、エリトリア人民解放戦線 (EPLF) が、ティグレ人民解放戦線 (TPLF) 等とともに首都アディスアベバに突入し、5月29日、エリトリアの独立を宣言。1993年5月にはエチオピアもこれを承認し、国民投票によりアスマラは独立エリトリアの首都となりました。 1998年5月6日、バドメでエチオピア民兵がエリトリア兵8名を殺害する事件が発生すると、両国間で国境紛争に発展。紛争そのものは、2000年6月18日、アフリカ統一機構の調停により停戦合意がまとめられましたが、この間、10万人の死傷者と多数の難民が発生しています。 2002年4月13日には、オランダ・ハーグに設置された国際委員会により、両国間の新国境案が提案されましたが、エチオピアはこれに強く反発。その後も、20年に渡り対立が続いていましたが、2018年に発足したエチオピアのアビィ・アハメド政権は、エリトリアとの関係改善に向けた対話路線を取り、2002年の国境案の受け入れを表明します。エリトリア側もこれを歓迎し、エチオピアに外交団を派遣するなど関係改善が進み、2018年7月9日には20年ぶりの首脳会談が実現。同年9月5日にはアスマラで、エチオピア、エリトリア、ソマリアの3国による「包括協力協定」が署名され、さらに同16日、サウジアラビアの仲介によりエチオピアとエリトリアの間で「ジッダ平和協定」が署名されます。アビィはその功績が認められ、2019年にはノーベル平和賞を受賞しました。 ところで、アビィ政権は、オロモ人民民主機構(OPDO)、アムハラ民族民主運動(ANDM)、南エチオピア人民民主運動(SEPDM)、ティグレ人民解放戦線(TPLF)の4大組織を中心に、その他の小政党で構成される政党連合の“エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を政権与党としていました。これに対して、アビィは、ノーベル賞の権威を背景に政権基盤の強化を図り、受賞後の2019年12月、政党連合のEPRDFを単一政党の“繁栄党(PP)”に再編します。 もともと、オロモ人のアビィは2018年の政権発足以来、ティグレ人の高官の拘束や罷免を行うことで、TPLFの政治的影響力を削いでいました。このため、TPLFは、繁栄党は、旧EPRDFの最大勢力、OPDOがティグレ人を排して政権を事実上独占するものとみなして反発。繁栄党には参加せず、TPLFの拠点であるティグライ州では連邦政府への反発が強まっていました。 こうした中で、2020年に入るとエチオピアでも新型コロナ禍が拡大したため、同年8月に予定されていた総選挙が延期されましたが、これをオロモ人による権力独占の延長・継続ととらえたTPLFは、9月にティグライ州の議会選挙を強行。この選挙を違法とみなすアビィ政権との緊張関係が高まります。 そして、11月4日朝、アビィ政権は、TPLFが政府軍基地を襲撃し、政府軍に犠牲者が出たことを理由に開戦を宣言し、ティグライ州に対して空爆を含む攻撃を開始しました。 その後の戦闘によって多数の市民が犠牲にとなっており、同9日にはティグライ州西部のマイカドルで600人近い市民の虐殺が起きたと報告されています。また、隣国スーダンへは11月14-15日の2日間で約25万人が流入しました。これに対して、TPLFはエチオピア政府への協力を理由に、エチオピア北部のアムハラ州とエリトリアの首都アスマラ空港にロケット弾攻撃を実施して抵抗していました。 その後、政府軍はティグライ州の州都メケレを包囲し、TPLFに対して25日夜までの降伏を呼びかけましたが、TPLFはこれを拒否。このため、翌26日、政府軍はティグライ州に対する“最終攻撃”を開始し、28日までにメケレを掌握したと発表しました。これに対してTPLFは戦闘の継続を宣言し、29日には、アスマラに少なくとも6発のロケット弾を撃ち込みました。 仮に、今後、エチオピアの内戦がエリトリアも巻き込んだ国際紛争へと拡大するようなことがあれば、首都アスマラは大きな被害を受けることになるでしょう。“小ローマ”として世界遺産にも指定された“近代主義的アフリカ都市”が瓦礫の山となり、さらなる死傷者や難問が生じる事態は、なんとしても回避していただきたいものです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-29 Sun 02:11
きょう(29日)は、1947年11月29日に国連でパレスチナ分割決議が採択されたことにちなみ、“パレスチナ人民連帯国際デー”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1980年にイラクが発行した“パレスチナ人民連帯国際デー”の記念切手です。パレスチナ分割決議案が採択された11月29日を“パレスチナ人民連帯国際デー”とすることは、1977年12月2日の国連総会で決議され、翌1979年12月12日に最落の国連総会決議34/65Dでは、加盟各国に対して記念切手の発行が要請されました。この切手もそれを受けて発行されたものですが、1980年の時点で、イラクにとってパレスチナは従来とは異なる重要な意味を持っていました。 1978年9月のキャンプ・デイヴィッド合意で、イスラエルとの単独和平を進めたエジプトが“アラブの盟主”の座から滑落すると、イラクに対して、新たに“アラブの盟主”の候補として、パレスチナ問題にも積極的に関与していくことが期待されるようになります。 もともと、1968年に発足したイラクのバアス党政権は、必ずしもパレスチナ問題に熱心に取り組んでいたわけではありませんでした。 そもそも、イラクはイスラエルと直接に国境を接しておらず、1967年の第三次中東戦争においても、エジプトやヨルダン、シリアなどのようにイスラエルによって領土を占領されたわけではありません。また、戦争の被害に関しても、上記の国々に比べるとイラクの損害は比較的軽微でした。 このため、失地奪還のために対イスラエル戦争を準備していたエジプトやシリアとは異なり、バクル政権は、パレスチナ問題には深入りせず、1972年の石油国有化を経て国内の経済建設に邁進することを基本的なスタンスとしていました。1973年の第四次中東戦争に際しても、シリア・バアス党に対して、自分たちこそがアラブ民族主義の嫡流であると主張している建前から参戦はしたものの、実際の戦闘にはほとんど参加せず、石油戦略の発動によって巨額の富を得ていました。 さて、1977年、イラクでは革命指導評議会副議長のサッダーム・フセインが革命指導評議会メンバーと閣僚を自分の側近に入れ替え、バクルに代わって政府の実権を掌握します。 フセインは、大統領のバクルとは同郷の親戚ということもあって、1968年の革命後、わずか31歳にして治安機関の責任者に任じられ、バクルの政敵粛清に辣腕を振るい、バクルの権力基盤を強化。そして、1969年には、32歳で革命指導評議会(RCC)副議長に任命され、バクルの後継者としての地位を確保し、徐々に、力を蓄えていきました。なお、当時のフセインは、石油国有化によって確保した石油収入を背景に農業の機械化や学校教育の充実などの近代化政策を推進し、それなりの成果を挙げたため、有能な官僚政治家として高く評価されていました。 一方、バクル政権下のフセインは、イラク・バアス党をシリア・バアス党の影響下から引き離すべく、バアス党結党の理念であるアラブ民族主義を徐々に骨ぬきにし、「イラク人民とは文明の発祥の地、古代メソポタミアの民の子孫である」とする“イラク・ナショナリズム”を掲げており、個人的には、パレスチナ問題について強い関心を持っていた形跡は見られません。 こうした状況の下で、1979年2月、イランでイスラム革命が発生。さらに、同年7月にはイラクで副大統領の地位にあったフセインが病身のバクルに代わって、正式にイラク大統領に就任します。 新大統領に就任したフセインは、革命イランに対する戦争を発動することで、国境問題を自国に有利に解決して新たな油田地帯を獲得するとともに、周辺諸国へのイスラム革命の波及を防ぎ、それにより、アラブ世界における新たな盟主の座に就くことで、シリア・バアス党に対するイラク・バアス党の優位を確立するというシナリオを考えます。さらに、対イラン戦争の勝利という実績とともに、1982年にバグダードで非同盟諸国会議が予定通り開催されれば、議長国のイラクが一挙に第三世界の主導権を得ることも夢ではないとフセインは考えました。 こうして、1980年9月、イラク軍はイランの主要な空港を爆撃し、国境を超えてイラン領内への侵入を開始。イラン・イラク戦争が勃発します。 フセイン政権にとっては、イランとの戦争は“アラブの盟主”の座を得るためのステップという面もありましたから、開戦後まもない1980年11月、前年の国連総会決議に応じて今回ご紹介の切手を発行し、あらためて“アラブの大義(=パレスチナ解放)”を強調することは政治的にも重要な意味を持っていました。 もっとも、奇襲攻撃で侵攻作戦を開始したイラク軍は、緒戦こそ、革命イランの混乱に乗じて赫々たる戦果を挙げましたが、潜在的な国力でいえば、イランはイラクとは比べ物にならない大国です。じっさい、イラク軍の侵攻を受けたことで、イラン国内では祖国防衛が火急の課題となって国内の権力闘争が収束し、本格的な反攻が開始されます。その結果、奇襲攻撃による短期間での勝利を想定していたイラク側の目論見は大きく外れ、補給体制の不備などもあってイラク側の攻撃も次第に緩慢なものとなり、イラン・イラク戦争が泥沼の長期戦に突入することで、革命イランを打倒して新たなアラブの盟主になるというフセインの野望も自然と潰えてしまいました。 なお、この辺りの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-28 Sat 01:15
カール・マルクスと共にマルクス主義を創設したフリードリヒ・エンゲルスが1820年11月28日に生まれて、ちょうど200年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1919年、ハンガリー・ソヴィエト共和国が発行した80フィレール切手で、エンゲルスの肖像切手としては最初の1枚となります。 第一次大戦でのオーストリア=ハンガリー二重帝国の敗北が避けられなくなった1918年10月28日、チェコスロヴァキアが分離独立を宣言。これに対して、10月31日にブダペストでも暴動が発生し、11月16日にハンガリー人民共和国(第一共和国)が樹立され、カーロイ・ミハーイが大統領兼首相に就任しましたが、カーロイ政権は講和と土地問題ですぐに行き詰まります。 こうした中で、11月4日、モスクワでハンガリー共産党を創立したクン・ベーラが帰国し、カーロイ政権への批判を展開して勢力を拡大。共産主義者のデモが過激化するなかで、1919年3月20日、共産党は社会民主党左派と合同して社会党を結成します。そして、ロシア10月革命に倣って“革命統治評議会”と称する政府を組織し、ハンガリー・ソヴィエト共和国の成立を宣言。翌21日、カーロイ大統領を辞職させました。今回ご紹介の切手はこうした状況の下、ソヴィエト共和国が社会主義政権としての性格を鮮明に示すために発行したもので、エンゲルスと同時に、世界で最初のマルクス切手も発行されました。 なお、ハンガリーのソヴィエト共和国は一般国民には不人気で、フランスの支援を受けたルーマニア軍の干渉や、ホルティ・ミクローシュひきいる国民軍の蜂起によって8月6日には崩壊します。 切手に取り上げられたエンゲルスは、1820年11月28日、プロイセン支配下のライン州北部、バルメンで繊維工場経営者の家庭に生まれました。1837年、エルバーフェルトのギムナジウム(高等学校)を中退。1841年、兵役義務を果たすためにベルリン近衛砲兵旅団に1年志願兵として入隊し、軍務の合間をみてベルリン大学で哲学などを聴講してヘーゲル左派に加わりました。除隊後、父親が共同経営者となっているマンチェスターのエルメン・アンド・エンゲルス商会の紡績工場で働きつつ、産業資本主義下の英国の労働者階級の実情をつぶさに見聞して社会主義者となり、マルクスとルーゲが発刊した『独仏年誌』に、1844年、『国民経済学批判大綱』を発表しました。 1844年8月、英国よりドイツへの帰途、パリでマルクスに会って意気投合し、ドイツ帰国後の1845年、マルクスとの最初の分担執筆として、ヘーゲル左派を批判した『聖家族』を発表。1845年4月にはブリュッセルに移ってマルクスと合流し、共同で『ドイツ・イデオロギー』を執筆し、唯物史観を提示しました。さらに、1848年2月には共産主義者同盟の綱領として、マルクスと共著で『共産党宣言』 を発表します。 1848年3月、ドイツで3月革命が勃発すると、エンゲルスはマルクスとともに『新ライン新聞』を発刊。さらに、革命派の義勇軍の副官として戦闘に直接参加しましたが、革命の敗北により、1849年、マルクスのあとを追ってロンドンに亡命しました。 ロンドンでは、マルクスの『新ライン新聞・政治経済評論』の発刊に協力し、『ドイツ農民戦争』などの論文を寄稿する一方、マンチェスターのエルメン・アンド・エンゲルス商会に勤務し、1864-69年には同社の事務所支配人としてマルクスへの経済的援助を続けます。この間、1864年に英仏の労働者が結束して「国際労働者協会(第一インターナショナル)を組織すると、マンチェスターで企業経営に打ち込んでいたエンゲルスは、中央評議会の重職を務めることはなかったものの、マルクスに対してさまざまな情報とアドバイスを提供しました。 1870年、実業から引退してロンドンに移り、以後、マルクス家の近くに住居を構えて、著述と政治活動に専念。1883年にマルクスが亡くなると、マルクスが第1巻しか刊行できなかった『資本論』を、マルクスの遺稿に基づいて完成させ、1885年に同第2巻を、1894年に同第3巻を公刊し、マルクス理論を世に広めることに尽力しました。ロンドン時代のエンゲルス自身の主著としては、『空想より科学へ』(1880)、『家族、私有財産および国家の起原』(1884)、『ルートウィヒ・フォイエルバハとドイツ古典哲学の終結(フォイエルバハ論)』(1886)などがあります。 1889年には第二インターナショナルの名誉会長に就任し、各国の革命家たちが社会主義政党を結成するのを理論面・資金面で援助しました。1895年8月5日、ロンドンで亡くなりました。 なお、エンゲルスは、プロテスタントの信仰が強いバルメンで、保守的な敬虔主義者の父親のもとで育ち、父親への反発から、キリスト教を徹底的に研究してから無神論に転じた人物です。したがって、彼の議論は、キリスト教(特にプロテスタント)の思考回路を自家薬籠中の物としたうえで、無神論者としてキリスト教批判を展開したという面があり、ロンドンの労働者に対する観察の結果、以下のような言葉を残しています。 イギリスはある階級が社会のどん底にあればあるほど、無教養であればあるほど、ますます多くの未来をもつという奇妙な事実を示している。これはあらゆる革命期の特徴である。特にこれはキリスト教を生み出した宗教革命の際に示された通りだ。幸いなるかな、貧しき者よ。 ちなみに、この辺りの事情については、拙著『みんな大好き陰謀論』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-27 Fri 01:20
アルゼンチンが生んだ伝説のサッカー選手、ディエゴ・マラドーナ氏(以下、敬称略)が、25日(現地時間)、ブエノスアイレス郊外ティグレの自宅で心不全のため亡くなりました。享年60歳。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1986年、アルゼンチンが発行した同年のFIFAワールドカップ優勝の記念で、優勝トロフィーを掲げるマラドーナが田型連刷で取り上げられています。 ディエゴ・アルマンド・マラドーナは、1960年10月30日、アルゼンチンのブエノスアイレス南部のラヌースで生まれました。1976年、15歳11カ月でアルゼンチン・リーグ史上最年少でプロデビューし、1977年に歴代最年少でアルゼンチン代表に選出。1979年にはU-20アルゼンチン代表としてFIFAワールドユース選手権で優勝して大会最優秀選手に選ばれました。また、国内1部リーグで、1979年、1980年に得点王、1979-81年にアルゼンチン年間最優秀選手、1979-80年に南米年間最優秀選手のタイトルを得ています。 1981年、幼少時からの熱狂的なファンであったボカ・ジュニアーズへ移籍し、40試合出場してチームの優勝に大きく貢献しました。ちなみに、ジュニアーズの本拠地があるブエノスアイレス南東部、ラ・ボカ地区カミニートは鮮やかな家と歩行者用の通りがある観光スポットとして知られていますが、地元の英雄として、フアンとエビータのペロン夫妻と並んでマラドーナの人形を掲げた家や、マラドーナの肖像を描いた壁画などが見られます。 さて、1981年のリーグ戦でボカ・ジュニオールは優勝したものの、マラドーナ獲得時の莫大な移籍金などが負担となってチームの財務状況は悪化したこともあって、1982年、マラドーナはスペインの名門バルセロナに移籍。バルセロナでの活躍により、世界的な有名選手となりましたが、奔放な私生活でホセ・ルイス・ヌニェス会長との関係が悪化。さらに、1983年には対戦相手のビルバオの度重なる激しいマークに激怒し、試合後、ジャージ姿の相手選手の顔面を膝蹴りして乱闘騒ぎを起こしたため、3ヵ月の出場停止処分となり、1984年にはイタリアのSCナポリに移籍します。 ナポリには7年間在籍し、1986-87シーズンはクラブ史上初のセリエA優勝を飾り、コッパ・イタリアとの2冠を達成。さらに、後述するアルゼンチン代表でのワールドカップMVPの活躍と合わせて世界最優秀選手賞に選ばれました。1987-88シーズンには15得点を決めてアルゼンチン人として初のセリエA得点王に輝き、1988-89シーズンにはUEFAカップを制覇。さらに、1989-90シーズンは2度目のセリエA優勝を飾り、チームを国内屈指の強豪に育て上げました。 FIFAワールドカップには1982年大会から4大会連続で出場しましたが、1986年に開催されたメキシコ大会では、彼の活躍により、アルゼンチン代表は2度目の優勝を果たしています。なかでも、フォークランド紛争以来の因縁となった準々決勝のイングランド戦は、相手GKピーター・シルトンと交錯したマラドーナが空中のボールを左手ではたいた“神の手”ゴールと、5人抜きドリブルでのゴールという伝説的なプレーをした試合として有名です。 選手時代から、コカインなど違法薬物の使用が取り沙汰されていましたが、1994年のW杯では大会中のドーピング検査で陽性と判定され大会からの即時追放と15ヵ月の出場停止処分を受け、1995年10月、14年ぶりにアルゼンチンのクラブ・チーム、ボカ・ジュニアーズへ復帰しましたが、衰えは隠せず、1997年に現役を引退しました。 引退後の2000年、ウルグアイ滞在中に心臓発作を起こした際、親交のあったフィデル・カストロを頼ってキューバの医療施設に入所。その後、コカイン中毒の治療も兼ねて、数年間、カストロの賓客として2005年ごろまでキューバに長期滞在していましたが、2008年、アルゼンチン代表監督に就任。2010年W杯の南米予選を辛くも突破したものの、本大会では準々決勝で敗れました。2010年7月にはコーチ陣の処遇を巡って、アルゼンチンのサッカー協会と対立して解任。その後、UAEのクラブチーム監督を経て、2018年9月、メキシコ2部のドラドス・デ・シナロアの監督に就任し、チームを2季連続でプレーオフ決勝に導きましたが、翌2019年6月、健康上の理由により退任。さらに、同年9月、アルゼンチンのヒムナシア・ラ・プラタの監督に就任したものの、11月に辞任していました。 謹んでご冥福をお祈りいたします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-26 Thu 01:02
きょう(26日)は三の酉です。ちょうど、プロ野球の日本シリーズは、福岡ソフトバンクホークスが読売ジャイアンツを4連勝で下して4年連続11度目の日本一となったことですし、一の酉・二の酉のとき同様、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』の増刷を祈念して、ソロモン諸島が発行した鳥切手の中から、鷹を描くこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2015年にソロモン諸島が発行したアカオオタカの切手です。 アカオオタカは、オーストラリア北部を中心に標高1000m以下の森林に棲息するタカ目タカ科の鳥で、生物学的には最も原始的なタカの1つだと言われています。オーストラリアの準州・ノーザンテリトリーのティウィ諸島を中心に、対岸のカカドゥ国立公園(ノーザンテリトリー)、ダギラー国立公園(クイーンズランド州)、セダー・ベイ国立公園(同)などが、棲息地として保護区に指定されています。 最も原始的なタカの一つとされ、体長45-60cm、翼幅100-130cm。体毛は全体的に赤褐色で、首の後ろは白地に黒い斑点があり、翼の先端は黒味を帯びています。小型鳥類や爬虫類を餌とし、地上20mの高木の樹上に巣を作ります。 森林伐採や農薬散布により個体数が減少しており、2010年にはつがいが約700組しか残っていないことから、準絶滅危惧種として、オーストラリアで最も希少な猛禽類の一つとされています。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-25 Wed 01:00
ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』第769号が配信されました。僕の連載、「沖縄切手モノ語り」は、今回は1950年2月15日に発行されたハト航空および速達切手について取り上げましたが、その中からきょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます。
これは、1950年2月15日に発行された“ハト航空”の8円切手です。 米施政権下の“琉球”における航空郵便は、1947年11月1日に再開されました。当時の料金は、宛先までの距離が5000キロ未満(主要都市としては、上海、マニラ、東京、ソウル、グアム、香港、サイゴン、バンコク、ラングーン、シンガポール)の書状基本料金が7円(はがきは4円)、5000~1万キロ(カルカッタ、ジャカルタ、アンカレッジ、カラチ、ホノルル、シアトル)が12円(同7円)、1万キロ以上(南北アメリカ大陸の大半、欧州、アフリカ、豪州など)が15円(9円)でした。 当初、エアメール用の航空切手は発行されておらず、“郵便料金別納”の印と、料金と受付日を手書きで記入する枠の入った“PAID”の印が郵便物に押されていましたが、1949年8月1日の料金改定で、5000キロ未満の料金が8円(はがきは4円)、5000~1万キロが12円(7円)、1万キロ以上が16円(9円)となり、翌1950年2月15日、この新料金に対応する航空切手が発行されます。 それが、今回ご紹介の“ハト航空”で、額面は8円、12円、16円の3種類。色違いの同図案で、切手の原画は、第2次普通切手の発行に先立ち行われた図案公募の7等入選作品となった我如古恵寛の「ハトと琉球地図」を修正して制作されました。 ところで、この切手に描かれている“琉球地図”は、いわゆる沖縄県の範囲のみならず、奄美群島を含めた米施政権下の地域となっている点は注目しておいてよいでしょう。 明治以前、奄美群島は対外的には琉球王国の一部とされていましたが、実質的には薩摩藩の支配下に置かれていました。 1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により、奄美群島は鹿児島県の実効支配下に置かれましたが、形式的には琉球に属するものとする状況が続きました。1879年に琉球王国が完全に消滅し、沖縄県が設置されると、奄美群島には大島郡および大島郡役所が設置され、正式に日本の領域となります。 先の大戦中、奄美群島には連合軍は上陸せず、小規模な空襲が行われただけでしたが、1945年9月2日の降伏文書調印を受けて、奄美群島は“琉球”に含まれるとして日本本土から分離されました。 ただし、同年9月22日、現地守備隊に対して米第10軍が提示した降伏文書には奄美群島が“Northern Ryukyu(北部琉球)”と書かれていたため、日本側は、奄美群島は鹿児島県に属するとして署名を拒否。このため、米第10軍司令官が譲歩し、奄美群島を鹿児島県に属する“北部南西諸島”とする妥協の後、現地での武装解除と降伏手続きが進められました。 1946年2月2日、連合国最高司令官名の覚書「若干の外郭地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚書」(SCAPIN677。外郭分離覚書)によって、北緯30度線以南の南西諸島(島内に北緯30度線が通る口之島を含む)が米施政権下に置かれます。その範囲は、戦前の沖縄県の領域に加え、奄美群島、さらに吐噶喇列島(十島村)のうち役場のある中之島を含む下七島が米施政権下に置かれ、上三島は日本側に分断されることになりました。 このうち、戦前の鹿児島県に属していた地域に関しては、3月16日、米国海軍軍政府北部南西諸島命令「大島支庁の行政権」により、南西諸島米海軍軍政府監督下、大島支庁(名瀬)の管轄となり、ロス・セントクレアが初代の北部南西諸島軍政府長官として着任。セントクレアは、6月4日、統治体制の整備の一環として、住民による選挙を認めた命令第4号ならびに、集会・言論・出版・宗教の自由を認めた命令第5号を公布します。 その後、同年10月3日、 大島支庁は臨時北部南西諸島政庁に改称され、支庁長の豊島至が臨時北部南西諸島知事に、副知事に支庁次長兼経済課長の中江実孝が就任しました。 豊島知事の時代、臨時北部南西諸島政庁は米軍の指令にもとづき、法制改訂委員会を設置したほか、北部南西諸島赤十字社の設立、経済委員会の設置、低物価政策、対日貿易の開拓、税制改革、教育面の刷新などの諸改革を実施。また、命令第4号および第5号に謳われた“民主化”の方針への期待から、1947年8月9日には名瀬市民集会が開催され、5000余名が参加して「胎動する大島民主化の声」を公言。さらに、9月7日に開催された「市民大会結果報告演説会」では、奄美群島住民が日本への復帰を望んでいることが確認され、私設市町村長会では、日本へ帰りたい郡民の希望を軍政府へ伝達することを決定しています。 ところが、セントクレアの後任として第2代軍政府長官に就任したフレッド・ラブリーは、1947年1月の年頭談話で「デモクラシーは大小幾多の革命の所産」と述べ、セントクレアの民主化路線を修正する意図を明言。島民たちの復帰要求が盛り上がってきた8月には「占領軍は南西諸島を一つのグループにまとめ信託統治を行う。日本復帰はありえない。北部南西諸島が日本に帰るという意見はまったく迷惑である」と言明し、復帰運動への敵意を露にします。 こうした経緯の後、ラブリーは9月11日付で「北部南西諸島の住民に告ぐ」と題する命令第13号を発し、「集会の自由、言論の自由出版の自由、信教の自由、平和的結社又は労働組合組織の自由を付与したる北部南西諸島合衆国海軍軍政府命令第五号は之を廃止する」として、本土復帰運動を封じ込めました。 さらに、同命令が発せられてまもない9月20日、知事の豊島が、ワイル氏病が流行する沖永良部島での民情視察・衛生状況調査中に病気で急逝。同26日に副知事の中江が知事に昇格するなどの混乱もあって、奄美群島の祖国復帰運動は一時的に勢いを削がれた格好になります。 しかし、沖縄戦で疲弊した沖縄本島に資金が集中されたことに加え、本土との分離により換金作物や物産の販売経路の途絶などにより、奄美群島の経済は給食に疲弊。飢餓の兆候さえ生じるに至り、米軍政への住民の不満は日に日に増大し、祖国復帰運動も激しさ増していきます。日本本土でも、鹿児島県に属する奄美群島は沖縄県よりも先に復帰すべきであるとの世論が強くなり、1950年2月には吉田茂首相も「奄美は日本に帰属すべきであり、この問題に対して意思表示の自由がある」と答弁するほどでした。 そうした世論を牽制する必要に迫られた軍政当局は、第二次普通切手のために公募した作品群の中から、今回ご紹介のハト航空など、下七島と奄美群島を含む“琉球”地図を描く作品を切手の図案に取り上げ、「外郭分離覚書」に規定された地域を米軍が支配することの正統性をアピールしようとしたものと考えられます。 なお、奄美の復帰運動はその後も終息する気配を見せず、1951年2月19日には全島規模で日本復帰を願う大規模署名が開始されました。署名は最終的に14歳以上の住民の99.8%に達し、マハトマ・ガンディーの非暴力運動にならい集落単位または自治体単位でハンガーストライキを行い、小中学生が血判状を提出する事態も発生しました。 このため、1951年9月、対日講和条約が調印されると、米国は奄美群島の統治を諦め、1952年2月10日にはトカラ列島の、1953年8月8日には奄美群島の権利を放棄。1953年12月25日、奄美群島は“クリスマス・プレゼント”として日本に返還されることになります。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-24 Tue 01:04
きょう(24日)は“11(いい)24(節)”の語呂合わせで“鰹節の日”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1991年11月16日にソロモン諸島が発行した“世界切手展<PHILANIPPON 91>”の記念切手のうち、鰹節を題材にした切手シートで、鰹だしを使った料理の例として、鳥南蛮と赤味噌の味噌汁の切手が収められています。 1971年、独立以前の英領ソロモン諸島政府は、大洋漁業との間で、大洋漁業が75パーセント、英領ソロモン諸島政府が25パーセントの比率で合弁企業設立の合意を締結。大洋漁業は、同年6-9月にガダルカナルを基地に行った試験操業の結果(水揚げは総計1215トン、17万ドル相当でした)を踏まえ、同年中に小さな缶詰工場と燻製工場からなる海岸拠点をツラギに建設。この海岸拠点はソロモン諸島における大洋漁業の支店本部の役割も担い、翌1972年、ソロモンタイヨー社としての営業が正式に開始されました。 ソロモンタイヨー社は、主として沖縄・宮古諸島の伊良部島出身の漁師を中心に操業し、日本本土から大洋漁業のスタッフが業務監督者としてツラギに常駐するという体制で、水揚げされた魚は、冷凍の後、米領サモア、プエルトリコ、米本土の缶詰業者に輸出されたほか、ツラギとノロの缶詰工場に送られて加工されました。また、1974年5月には日本向けの鰹節の製造が始まったほか、136名の漁業者と306名の地上スタッフを現地雇用し、250トンの鮮魚をホニアラ市場に提供するなど、ソロモンタイヨーは、ソロモン諸島の経済にとって重要な地位を占めるようになります。 1978年にソロモン諸島が独立すると、我が国は同年中に青年海外協力隊派遣取極ならびに日・ソロモン漁業協定を締結。無償協力として、沿岸漁業振興センター設立計画を実施し、ソロモン諸島に対する経済協力を開始しました。 一方、ソロモン諸島政府は国立カツオ漁業会社を設立し、1982年にソロモンタイヨーとの第1期10年の合弁契約が終了すると、第2期10年の合弁契約を結び、両者の出資比率は50:50となり、法人の現地化が図られることになります。 もともと、ソロモンタイヨーに参加していた沖縄・宮古の船主や漁業者たちは、ソロモン諸島での漁を長期にわたって継続するのではなく、数年間の勝負と考えていたこともあり、大洋漁業は第二期の契約更新と前後して、大洋漁業は優秀なソロモン人乗組員や地上スタッフを年間20人、冬期に1ヵ月間、日本に招いて研修を受けさせるなどして、技術移転にも力を入れました。 この結果、1984年には同社のカツオ・マグロ類および加工品の輸出は2900万ソロモンドルに達し、ソロモン諸島の水産物輸出の約97パーセント、外貨収入の約3分の1を占めるほどにまでなります。また、ソロモンタイヨーの漁業および加工部門の雇用は、この時点で全雇用の約5パーセント(約1000人) を占め、同社の存在はソロモン諸島にとって欠かすことのできないものとなりました。日本で開催される世界切手展の記念切手に鰹節が取り上げられたのも、こうした事情を反映したものです。 その後、1990年代に入っても、ソロモンタイヨーはまき網漁と餌釣り漁の両方の設備を備えた新たな沿岸拠点をノロにつくるなど、事業を継続していましたが、1998年末から始まったガダルカナル紛争で部族対立が激化し、治安が悪化したことから、2000年にはマルハ(1993年に大洋漁業から改称。現マルハニチロ)が撤退し、ソロモンタイヨーはソロモン政府が100パーセント出資する官営企業になり、現在にいたっています。 なお、ソロモンタイヨーについては、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-23 Mon 00:34
きょう(23日)は勤労感謝の日です。もともとの由来は、収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する新嘗祭の日ですので、収穫の場面を描く切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年に英領ソロモン諸島が発行した普通切手で、カカオの収穫場面が描かれています。ちなみに、僕が2017年に現地を訪ねた際、ガダルカナル島のナナで見かけたカカオの実は、こんな感じでした。 第二次大戦以前のソロモン諸島の主要産業はほぼココヤシのプランテーションでしたが、1951年、植民地政府は、英国王室御用達の製菓会社、キャドバリーの社の提案を受けて、アウキとマライタで第1次の、ククムとガダルカナルで第2次の、カカオの試験栽培を開始します。さらに、翌1952年にはサンタ・イザベルでの栽培も始まり、1955年にソロモン諸島におけるプランテーション経営の雄だったリーヴァーズ社もカカオ生産に参画したことから、カカオ栽培はソロモン諸島全域で急速に拡大します。 1950年代半ばには、白人によって植えられたカカオは、レンドヴァとショートランドで5万本、ラッセルとサンタ・イザベルで3万2000本にもおよびました。一方、同時期のソロモン人によるカカオ栽培はマライタを中心にソロモン諸島全域で5万2000本でした。このように、カカオの栽培が急速に増加したため、1958年、植民地政府は農業省内にカカオ専門の担当部署を設けて、本格的にカカオの栽培と輸出の支援に乗り出しています。 その結果、カカオの実を収穫し、乾燥させた後に出荷する輸出量は、1959年には0.40トンだったものが、1960年には7トン、1965年には72トン、1968年には104.9トン、そして、1970年には英領時代のピークとなる128.4トンに達するなど急成長を遂げ、カカオ栽培はソロモン諸島にとっても重要な外貨獲得源となりました。 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下、ソロモン諸島のカカオ産業を内外に宣伝するために発行されたものです。なお、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』では、カカオ栽培以外にも、ガダルカナルを中心としたソロモン諸島のさまざまな産業についてご紹介しておりますので、機会がありましたら、お手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-22 Sun 00:27
きょう(22日)は、いまから150年前の1870年11月22日に太政官布告によって日本海軍の制服が定められ、前面2行各9個、後面2行各3個の金地桜花のボタンをつけることが決められたことを記念する“ボタンの日”です。というわけで、ボタンにちなむ切手のなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2010年にポーランドが発行した““カティンの森事件70周年”の追悼切手で、犠牲になったポーランド人将校のボタンで作られた十字架がデザインされています。 1939年9月、第二次大戦の勃発により、ポーランドは独ソ両国によって分割占領され、旧ポーランド政府は、当初はパリに、後にロンドンに亡命政権を樹立して抵抗を続けました。 ところで、ソ連占領下のポーランド東部では多くのポーランド人が捕虜として収容所へ送られましたが、1941年に独ソ戦が勃発すると、ポーランド亡命政府はソ連と条約を結び、ポーランド人捕虜を釈放して部隊を編成し、ドイツと戦うことになります。 ソ連の占領下のポーランド東部では、将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明となっていましたが、実際に対独戦のポーランド人部隊に集められたのは、将校1800人、下士官と兵士27000人に過ぎませんでした。このため、亡命政府側はソ連に対して捕虜の即時釈放を要求しましたが、ソ連側は、事務手続きや輸送の問題で遅れているだけで、すでに捕虜は釈放したと回答。ところが、実際には、ソビエト内務人民委員部(NKVD)により、2万2000人のポーランド人捕虜(将兵のみならず、聖職者や一般市民を含む)がスモレンスク近郊のグニェズドヴォの森で銃殺されていたのです。 一方、独ソ戦の勃発後、スモレンスクを占領下に置いたドイツ軍は、1943年2月27日、カティン近くの丘でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見。“国際的に通用しやすい名前”であるカティンの名にちなみ、カティン虐殺事件として報告書を作成し、ワルシャワ、ルブリン、クラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告しました。これが、4月13日に世界各国で報じられ、“カティンの森事件”は全世界に知られるようになりました。 これに対して、ソ連側は、ポーランド人の遺体はドイツ軍によって殺害されたものと主張しましたが、捕虜がスモレンスクにいたことを亡命政府に説明していませんでした。さらに、亡命政府の調査によれば、ポーランド人捕虜の殺害時期は独ソ戦以前の1940年3-4月であることが判明。このため、ポーランドとドイツの赤十字社はジュネーブの赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼します。すると、ソ連は亡命政府を猛烈に批判し、亡命政府に対して、“カティンの森事件”はドイツの謀略であったと声明することを要求。亡命政府がこれを拒否すると、ソ連は亡命政府と断交しました。 第二次大戦後の東西冷戦下で、ポーランドが共産化すると、カティンの森事件は“ドイツの犯行”とするソ連の主張がポーランド政府の公式見解とされ、ポーランド国内ではこれに疑義を呈することはタブーとされます。 これに対して、1985年以降、ソ連でゴルバチョフによるペレストロイカとグラスノスチ(情報公開)の風潮が高まったことを受け、1987年、ソ連・ポーランド合同の歴史調査委員会が設置され、事件の再調査がスタート。冷戦終結後の、カティンの森事件はNKVDの犯行であることを示す機密文書が発見されたことで、1990年4月13日、ソ連国営のタス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意」を表明しました。 ちなみに、カティンの森事件について、現在のロシア政府は“スターリンの犯罪”であり、“正当化できない全体主義による残虐行為」”としてソ連の責任を認めつつも、ロシア国民に罪を被せるのは間違っているとして、謝罪は拒否しています。 なお、第二次大戦とポーランドについては、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-21 Sat 12:23
1620年11月21日、メイフラワー号が現在の米マサチューセッツ州ケープコッドに投錨し、乗客の男性たちが後の米国の連邦制の基礎の一つとなった文書の“メイフラワー誓約”に署名してから、400年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、いまから100年前の1920年12月21日に米国で発行された“ピルグリム上陸300年”の記念切手のうち、メイフラワー号を描く1セント切手です。 1534年にイングランド国教会が確立されると、イングランドでは、カトリックはもとより、プロテスタントの中でも国教会からの分離を求めるグループは“分離派”と呼ばれ、弾圧を受けていました。 このため、信仰の自由を求めた清教徒を含む102人は、貨物船として、フランスを中心に欧州大陸とイングランドの間を往来していたメイフラワー号に乗り、1620年9月16日、北米・北ヴァージニアのハドソン川河口付近を目指して英プリマス港を出港。しかし、66日間の航海の後、船は予定のコースを外れて目的地よりもはるか北方のケープコッドに到着。この時点で、すでに現地は厳しい冬の時季になっており、当初の目的地に向かうことは危険と判断されたため、11月21日にケープコッドの先端に錨をおろします。そして、乗船客のうち41人の男性が船上で「神と互いの者の前において厳粛にかつ互いに契約を交わし(中略)公正で平等な法、条例、法、憲法や役職をつくり、それらに対して我々は当然の服従と従順を約束する」とするメイフラワー誓約を結びました。その後、彼らは同地に上陸して雪で覆われた周辺を探検し、アメリカ先住民の作った塚を掘り起こし、埋めていたトウモロコシと発見するとともに、結果的に墓を暴いて、船に戻っています。 メイフラワー号は1620年12月に湾の対岸のプリマスへ移り、冬の間、乗客らはメイフラワー号の船内で過ごしましたが、船内では壊血病、肺炎、結核などの病気が発生したため、乗客の約半数が命を落とし、生き延びた53人は春が来るのを待って海岸に小屋を建て、1621年3月31日、メイフラワー号を離れ、イングランドからニューイングランド地方への最初の永久移民となり、後に“ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)”と呼ばれるようになりました。なお、メイフラワー号は、4月15日にイングランドへ向かって入植地を出航し、5月16日、帰国しています。 米国の建国神話では、彼らピルグリム・ファーザーズが入植したプリマスが合衆国のルーツとされており、そこから、米国は、プロテスタントの白人がみずからの信仰を守るために建国した国であるから、WASP(=White:白人、 Anglo-Saxon:アングロ・サクソン、 Protestant:プロテスタント)が国家の指導層を独占するのは当然という考え方がかつては常識とされていました。しかし、1970年代以降になると公民権運動の影響もあってWASPの社会的影響力は徐々に低下。大統領選挙で共和・民主両党の大統領候補がともにWASP男性だったのは、ジョージ・ブッシュJrとアル・ゴアが戦った2000年の選挙が最後で、以後は、どちらか一方は非WASP候補となっています。 ちなみに、非WASPの大統領は、1961年に就任したアイルランド系でカトリックのジョン・F・ケネディが最初で、2009年に就任したアフリカ系のバラク・オバマが2人目(宗教的にはプロテスタント)。今回の大統領選挙で、民主党候補として多数の選挙人を確保した(とされる)ジョゼフ・バイデンはアイルランド系のカトリックですので、来年(2021年)1月に大統領に就任すれば、3人目の非WASPの米国大統領ということになります。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-20 Fri 04:56
きょう(20日)は、国連で「児童の権利に関する宣言」(1959年)と「児童の権利に関する条約」(1989年)が採択されたことにちなむ“世界こどもの日”です。というわけで、子供を取り上げた切手の中からこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2008年8月20日に発行された“ソロモン地域支援ミッション(RAMSI)派遣5周年”の記念切手のうち、ソロモン諸島の子供を抱きかかえるRAMSIのフィジー人警察官(腕にフィジーの国旗が付けられています)を取り上げた1枚です。 1978年、ソロモン諸島が独立すると、首都ホニアラのあるガダルカナルは、他の島々に比べると諸外国の支援による開発が進められ、現金収入の手段も多かったため、マライタをはじめ、他の島々からの移住者が急増。1990年代後半にはマライタ人がホニアラの人口の45%を占めるほどになりましたが、マライタ人移民は、公務員などの給与所得者として就職したり、実業家で成功したりする者と、ガダルカナルに来たものの職に就くことができず、暴力や犯罪に手を染める者に二極化し、ガダルカナル人の不満は鬱積していきます。 こうした状況の下、1998年12月初、ソロモン諸島中央政府の元首相でガダルカナル州主席のエゼキエル・アレブア(ガダルカナル出身)が、中央政府への不満から、ラジオのインタビューで、ガダルカナル島内に居住する島外出身者から補償金を徴収する意向を表明。これを機に、ガダルカナル人は島内在住のマライタ人への不満を隠そうとはしなくなり、マライタ人に対する暴力事件が頻発。いわゆるガダルカナル紛争が発生します。 ガダルカナル紛争は、2001年10月のタウンズヴィル和平協定でひとまず収束したものの、その後もホニアラでは政権に近い人物を狙った銃撃事件や 強盗事件が相次ぎ、元警察長官のフレデリック・ソアカイがマライタ島で殺害される事件が発生するなど、情勢はなかなか安定しませんでした。 このため、ソロモン諸島政府首相のアラン・ケマケザは、2003年4月末、オーストラリアのハワード政権に対して、ソロモン諸島への介入を要請。さらに、6月には、ケマケザが自らオーストラリアを訪問して、あらためて、ハワード豪首相にソロモン諸島への介入を申し入れます。 そこで、7月24日、“友人援助作戦(Operation Helpum Fren)”の下、オーストラリアが主導して、ニュージーランド、パプアニューギニア、 フィジー、トンガの太平洋諸島フォーラム(PIF)加盟国の警察・軍隊からなるソロモン地域支援ミッション(RAMSI)2200人が、ソロモン諸島の法と秩序回復・財政再建のために派遣されました。ちなみに、RAMSI関係者の大半はオーストラリア人で、トップの特別調整官もオーストラリアに割り当てられており、オーストラリアは事実上、RAMSIのパトロンでした。 はたして、RAMSIの派遣後まもない2003年8月10日、ハロルド・ケケ率いる武装勢力の“ガダルカナル解放戦線(GLF: Guadalcanal Liberation Front)”は、ケマケザ首相特使である日系議員Y・サトーの説得に応じ、停戦に同意、武装解除のうえ投降するなど、ソロモン諸島の治安は劇的に改善されます。 その一方、ソロモン諸島政府の意思決定や行政実務の実権はRAMSIがほぼ独占し、ケマケザら政府首脳はそれにほぼ追従する状況が生まれました。ただし、ケマケザ政権はRAMSIの意向に忠実に従ったというわけではなく、あくまでも、国内の反対派を封じ込めるため、RAMSIの権威を最大限に利用していたにすぎません。このため、ケマケザとその周囲の利権を侵しかねない「森林法」の制定や電力公社の民営化、さらに、州政府の機能強化など、彼らの意に沿わない改革については、ケマケザ政権はサボタージュで抵抗しています。 RAMSIの権威を利用して政権を私物化するケマケザ政権の腐敗は日に日にエスカレート。さすがにこれを看過できなくなったRAMSIは、2005年、汚職追放の一環として現職閣僚3人を逮捕しましたが、逮捕された閣僚の中には、RAMSIやオーストラリアに批判的な者がいたものの、汚職の“本丸”と見られていたケマケザは逮捕されなかったことから、一般国民の間には、RAMSIの“押しつけ”に対する不満が徐々に鬱積していくことになりました。 なお、この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 11月12・19日のInterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!の内藤出演回は、無事に終了しました。お聴きいただきました皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-19 Thu 01:47
きょう(19日)は11月の第3木曜日。いわずと知れたボジョレ(ボージョレ、ボジョレーとも)・ヌーヴォーの解禁日です。というわけで、へそ曲がりの僕としては「ボジョレだけがワインじゃないよ」ということで、毎年恒例、フランス以外のワイン関連の切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1954年11月23日にイスラエルが発行した“エドモン・バンジャマン・ジャム・ド・ロチルド(エドモン・ド・ロートシルト、英語読みでエドモンド・べンジャミン・ジェームス・ド・ロスチャイルドと表記されることも)没後20年”の切手で、エドモンの肖像と彼が英委任統治下のパレスチナでワイン産業に大規模な投資をしたことにちなみ、ブドウが描かれています。 切手に取り上げられたエドモンは、1845年8月19日、パリ・ロチルド家の祖、ジェームス(ロスチャイルド財閥の祖とされるマイヤーの5男。誕生時の名はヤーコプ)の末子として、パリ郊外のブローニュ=ビヤンクールで生まれました。 エドモンの父、ジェームスは1792年にフランクフルトで生まれましたが、1811年にパリに移住。ナポレオン戦争で巨額の利益を得たロスチャイルド家は、戦後のウィーン体制下では、一時、フランスの賠償金の調達から排除されるなどの苦杯をなめましたが、1818年、ジェームスはフランス公債を大量に買って一気に売り払うことで圧力をかけ、オーストリア帝国の宰相、クレメンス・フォン・メッテルニヒから高く評価されることになります。そして、1822年にはロスチャイルド一族全員がハプスブルク家より男爵位と、五兄弟の団結を象徴する五本の矢を握るデザインの紋章が与えられました。 その後、ジェームスは、7月王制の国王、ルイ・フィリップと親密な関係を保つことに成功し、彼のロチルド銀行はフランス国債を独占的に扱うようになったほか、鉄道や水道事業などへの投資で巨額の利益を上げています。 ところで、ロンドン・ロスチャイルド家の祖、ネイサンの子でジェームスの銀行で働いていたナタニエルは、1853年、メドックのポーイヤック村のワイナリー、シャトー・ブラーヌ=ムートンを競売で落札。これをシャトー・ムートン・ロートシルトと改名し、ロスチャイルド家としてワイン生産を開始します。これが、高級ワインとして知られる“ムートン・ロートシルト”のルーツです。 一方、ナタニエルの叔父だったジェームスは、1868年8月、ナタニエルの農場に隣接するワイナリーのシャトー・ラフィットとシャトー・カリュアド(後にラフィットと統合)がヴィンテーンベルグ家によって競売に出されると、これを444万フランで落札。ジェームスはその3ヵ月後に亡くなりますが、シャトー・ラフィットは“シャトー・ラフィット・ロートシルト”と改名され、ムートンとともに高級ワインの代名詞となりました。 ちなみに、ジェームスの事業は、長男のアルフォンスと次男のギュスターヴが継承しましたが、末弟のエドモンは実業にはほとんど関心を示さず、シオニズム運動の熱心な支援者としての活動。その一環として、1882年、パレスチナの地にワイナリーを創設し、南仏の品種を導入して、ユダヤ系入植者によるワイン製造を積極的に支援しています。もっとも、当時のパレスチナ・ワインは、ユダヤ教の儀式に使用される甘口赤ワインが中心で、品質はあまり高くはありませんでしたが…。 なお、ロスチャイルド家とその事業については、拙著『みんな大好き陰謀論』でも、いわゆる陰謀論を否定する立場から、いろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 11月19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。前編にあたる12日の放送分のradikoでのタイムシフト視聴を含め、詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-18 Wed 02:42
今月9日(以下、日付は現地時間)、マルティン・ビスカラ元大統領が汚職疑惑を理由に罷免され、副大統領が空席のため、マヌエル・メリーノ国会議長が暫定大統領に就任していたペルーで、15日、メリーノ暫定大統領が突如辞任。これを受けて、16日、ペルー国会は、新たな国会議長としてフランシスコ・サガスティ議員を選出。これにより、サガスティ新議長が暫定大統領に就任し、ペルーでは1週間に3人の大統領(暫定を含む)が交替するという異例の事態となりました。というわけで、きょうはこの切手です。
これは、2011年にペルーが発行した政府宮殿(大統領公邸)の切手です。 1535年1月18日、インカ帝国を征服したスペイン人のフランシスコ・ピサロは、ペルー支配の拠点としてリマック川の右岸に“副王たちの都(La Ciudad de los Reyes)”を創設し、現在のリマの基礎を築きました。その際、ピサロの邸宅兼植民地政府公邸として建設されたのが現在の政府宮殿のルーツです。 1541年にピサロが亡くなると、翌1542年にスペイン王室によりペルー副王領が創設され、ピサロ派との抗争の末、1549年にペルーにおけるスペイン王権の支配は確立。リマは南米の全スペイン領全てを統括するペルー副王領の首都となります。これを受けて、ピサロの旧宅はそのまま“副王宮殿”となり、政府庁舎にして副王の公邸として利用されました。 18世紀末から19世紀初めにかけて、フランス革命とナポレオン戦争でヨーロッパが大混乱に陥ると、ラテンアメリカのスペイン領では、本国の混乱に乗じて、1809年にはキトやチャルカスで、1810年にはカラカスやブエノスアイレス、サンタフェ・デ・ボゴタ、サンティアゴ・デ・チレなどで自治政府が作られ、独立運動がおこります。しかし、ペルー副王のフェルナンド・アバスカルは遠征軍を送って自治政府を鎮圧しました。 これに対して、1821年、ラテン・アメリカ全体の解放を目指すシモン・ボリバルのラ・プラタ連合州がペルーにも遠征軍を派遣。同年7月28日、ホセ・デ・サン・マルティン将軍が首都のリマを解放し、副王宮殿で独立を宣言しました。その後も、革命側と副王政府の戦闘は続きましたが、1824年、アヤクーチョの戦いでペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナの軍は撃破され、 ペルーは事実上の独立を達成。1826年1月23日にはカヤオ要塞に籠ったスペイン軍の残党も降伏し、ようやくペルーの完全独立が達せられます。 これに伴い、旧副王宮殿はペルー政府に接収されて“政府宮殿”となり、ペルー政府の庁舎ならびに大統領公邸として利用されることになりました。ただし、ペルー独立時の政府宮殿の建物は1884年の火災により焼失。再建された建物も1921年の火災により焼失し、現在は1938年に完成した建物が用いられています。このため、地元では“ピサロ・ハウス”と呼ばれている政府宮殿ですが、ピサロの時代から残っているのは、宮殿中庭に植えられているイチジクの木だけだそうです。 さて、今回就任したサガスティ暫定大統領は、1944年、リマ生まれ。米ペンシルヴァニア大学で博士号を取得し、国連開発科学技術諮問委員会委員長、世界銀行戦略計画部長、同上級顧問、パシフィコ大学およびポンティフィシア大学カトリカ・デル・ペルー教授などを歴任し、2020年3月から中道右派政党の“紫の党”の国会議員を務めています。今後は、来年(2021年)4月11日に予定されている大統領・議会選挙の実行を含め、ビスカラ元大統領の本来の任期である2021年7月まで暫定大統領として、職務の遂行にあたる予定です。 ★ 11月19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。前編にあたる12日の放送分のradikoでのタイムシフト視聴を含め、詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-17 Tue 03:43
旧ソ連のモルドヴァ共和国で、15日、任期満了に伴う大統領選の決選投票が行われ、親欧州派の野党「行動と連帯」のマイア・サンドゥ党首が親露派の現職、イゴル・ドドン大統領を下し、初当選を果たしました。モルドヴァで女性が大統領に当選するのは、これが初めてです。というわけで、モルドヴァに関連して、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1914年、ロシア帝国支配下ベッサラビアのソロキィ(現在はモルドヴァ領となっているドニエストル右岸の都市)から差し出された郵便物と、裏面に貼られた切手の部分の画像です。 現在のルーマニアの東の国境線となっているプルート川=ドナウ川とドニエストル川にはさまれた地域は、かつてモルダヴィア公国の領土でしたが、1812年、露土戦争の結果結ばれたブカレスト条約で、この地域はロシアに割譲され、その支配下で、かつてこの地を支配したワラキア公バサラブにちなんで“ベッサラビア”と呼ばれるようになりました。 もともと、ベッサラビアの地は長年にわたってモルダヴィア公国の支配下に置かれていただけに、住民の大半はルーマニア人でルーマニア語を話していましたが、新たな支配者となったロシアのロマノフ王朝は、この地を南下政策の重要拠点と位置付けて、ロシア人やウクライナ人の入植を進め、ロシア化政策を推進。1859年にモルダヴィア=ワラキア連合公国が成立した時も、ベッサラビアはその埒外としてロシアの支配が継続されました。今回ご紹介の郵便物は、こうした事情の下、ロシア支配下のベッサラビアからロシア切手を貼って差し出されたものです。 第一次大戦中の1917年、ロシア革命が起こると、1918年2月16日、モルドヴァ議会はキシナウでロシアからの独立を宣言。つづいて同年4月9日、同議会はベッサラビアのルーマニアとの統一を圧倒的多数で議決し、これをルーマニア議会が承認するというかたちで、ベッサラビアはルーマニア領に復帰しました。 ところが、ロシアのボリシェヴィキ政権はモルドヴァ議会の決定は無効であると主張し、1919年9月、レーニン、スターリン、トロツキーら革命首脳部はベッサラビア政府の転覆をめざすことを決定。さらに、1922年末に誕生したソ連はルーマニアとの国境画定交渉を行ったものの、1924年に交渉は決裂。このため、スターリンは、ドニエストル川東岸のトランスニストリアと呼ばれる地域にモルダヴィア・ソヴィエト社会主義自治共和国を創設し、ベッサラビア奪還の機会を虎視眈々と狙うことになります。 はたして、1939年8月23日、ソ連は独ソ不可侵条約の付属秘密議定書において、ベッサラビアの割譲をドイツに認めさせ、翌1940年6月26日、議定書に含まれていなかった北ブコヴィナとともにベッサラビアを併合しました。 ソ連に併合されたベッサラビアは、南部のドナウ川とドニエストル川にはさまれた地域(南ベッサラビア)とそれ以外の地域に分けられ、南ベッサラビアは北ブコヴィナとともにウクライナ共和国に、それ以外の地域はモルダヴィア・ソヴィエト社会主義自治共和国とあわせてモルダヴィア・ソヴィエト社会主義共和国とされます。 その後、独ソ戦が勃発すると、枢軸側としてソ連に宣戦布告したルーマニアは、一時的にベッサラビアの地を回復したものの、戦後、ベッサラビアは再びソ連の支配下に編入されます。 第二次大戦後のソ連は、モルドヴァのルーマニア民族主義が分離主義につながることを警戒し、ロシア人のイニシアチブの下、モルドヴァの多数派民族はルーマニア人ではなくモルドヴァ人であり、モルドヴァの言語はルーマニア語ではなくモルドヴァ語であると強調し続けてきました。 しかし、1985年以降のペレストロイカの流れの中でモルドヴァでも民族主義が高揚。特に、1989年のルーマニア革命の後、モルドヴァ人の間でルーマニアとの統合を求める声が上がり、1990年8月、南ベッサラビアのガガウズ人(トルコ系正教徒)がガガウズ・ソヴィエト社会主義自治共和国の樹立を宣言。ついで、同年9月、ドニエストル川東岸に住むロシア人およびウクライナ人が、ソ連保守派の支援の下、沿ドニエストル・ソヴィエト社会主義自治共和国の樹立を宣言しました。 こうした中で、1991年8月、現在のモルドヴァ共和国が独立を宣言すると、沿ドニエストル共和国がモルドヴァからの分離独立を宣言。モルドヴァ人と非モルドヴァ人(特にロシア人)の対立は先鋭化する中で、1992年にはロシア系武装集団(後にロシア軍が介入して支援)とモルドヴァ軍との間で戦闘が発生しました。 停戦合意の結果、モルドヴァの領土保全とロシア軍の撤退の代償として、モルドヴァは沿ドニエストルに特別な法的地位を与え、モルドヴァとルーマニアが統一する場合には沿ドニエストルの分離権を保障することが定められました。しかし、沿ドニエストル側は、あくまでもモルドヴァとの対等の地位を求めており、両者の境界線ではロシア、ウクライナ、沿ドニエストル合同の平和維持軍による停戦監視が行われ、沿ドニエストルはモルドヴァ政府の統制が及ばない地域となっています。 こうした経緯もあって、モルドヴァ国内では親露か親欧米かが大きな対立軸の一つになっていましたが、2016年に成立した民主党のパヴェル・フィリプ政権(親欧米)は、同党の事実上のオーナーで政商(オルガリヒ)のウラジミル・プラホトニュークによる政権の私物化と腐敗があまりにもひどかったため、2019年2月の総選挙では、親欧米派の“行動と連隊党(PAS)”と親露派の社会主義者党が民主党追い落としで一致。イゴル・ドドン大統領の社会主義者党(社会党)が34議席を獲得して30議席の民主党を上回ったものの、過半数を得られなかったため、PASのマイア・サンドゥを首班とする連立政権が樹立されます。 これに対して、モルドヴァ民主党は連立政権を違憲として憲法裁判所に提訴。6月8日、プラホトニュークの事実上の影響下にあった憲法裁判所は、ドドンを職務停止とし、フィリプ首相を大統領代行とする決定を下し、翌9日、フィリプ大統領代行は議会解散と、9月の総選挙実施を決定しましたが、さすがに、これには内外からの反発が強く、6月14日、欧米露の合意の下、米国の註モルドヴァ大使がプラホトニュークに引導を渡したため、プラホトニュークは国外に脱出。憲法裁判所は一転して8日の違憲判決を破棄し、サンドゥ連立政権が権力を掌握しました。 しかし、その後の腐敗対策のための司法改革めぐって、改革断行派のサンドゥと、プラホトニュークの追放後、国内の利権を掌中に収めつつあった社会党との対立が深刻化。そこへ、民主党が社会党に同調したことで、11月14日、議会でサンドゥ内閣不信任案が可決。同日、社会党と民主党の支持をうけたイオン・キク新内閣が発足していました。 なお、今回の大統領選挙では、サンドゥは、①司法、秩序、規律の回復、②就業の確保、③最低年金2000レイの実現、④村落近代化のための年間20億レイの支出、⑤国際的孤立から脱し、EUと関係改善、ルーマニアやウクライナ、米、露と良好な関係を構築すること、などを公約に掲げて当選したことから、今後、モルドヴァは親欧米の欧州統合路線を目指すことになるのでしょう。ただし、現実には、欧州の最貧国とされるモルドヴァと他のEU諸国では格差が大きすぎ、モルドヴァ国内には「アフリカ並みの給与で、どうやってEUで暮らせるというのか」との欧州統合路線への批判も根強いうえ、沿ドニエストル問題でのロシアとの軋轢もあることから、その前途は相当に多難なものと予想されます。 ★ 11月19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。前編にあたる12日の放送分のradikoでのタイムシフト視聴を含め、詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-16 Mon 02:27
南半球最大の航空会社、カンタス航空が1920年11月16日に設立されてから、ちょうど100周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1953年6月2日、英国王エリザベス2世(エリザベス女王)の戴冠式を記念して、カンタス航空の前身、カンタス・エンパイア・エアウェイズが行った”コロネーション・フライト”により、英領ソロモン諸島の首府、ホニアラからロンドン宛に運ばれたエアメールで、同社の記念ロゴが入った航空書簡が使われています。 カンタス航空は、1920年11月16日、オーストラリアのクイーンズランド州西部のロングリーチで設立されたカンタス社がそのルーツで、当初は、地元の観光飛行や州政府の助成を受けての郵便飛行などを行っていました。 1934年、カンタスは英本国のインペリアル・エアウェイズと合弁企業“カンタス・エンパイア・エアウェイズ”を設立。ブリスベン=シンガポール間の運航を開始します。すでに、前年の1933年にインペリアル・エアウェイズはロンドン=シンガポール間の定期便を開設していたため、カンタス・エンパイア・エアウェイズとインペリアル・エアウェイズを乗り継いで英豪間の飛行機での移動することが可能になりました。 第二次世界大戦中、カンタス・エンパイア・エアウェイズの機材の多くはオーストラリア軍に徴用されましたが、1943ー1944年にはパース (西オーストラリア州)=セイロン間の直航便を運航。セイロンで英国海外航空(ブリティッシュ・エアウェイズの前身)と連絡し、英豪間の航空路を確保していました。 第二次大戦後は、ベン・チフリー首相率いるオーストラリア労働党政権がカンタス・エンパイア・エアウェイズを接収。親会社のカンタスは解散し、航空事業は連邦政府が株式の100%を保有する非上場の公営企業として存続し、英国海外航空と共同でシドニー=ロンドン間の運航が開始されます。なお、現在のカンタス航空(カンタス・エアウェイズ)に社名が変更されたのは、1967年のことでした。 ソロモン諸島へは、1949年6月、シドニー=ツラギ間の定期チャーター便が就航したほか、シドニーからラエ(パプアニューギニア)経由でホニアラ、さらにバラコマ(ヴェラ・ラヴェラ島)を結ぶ路線が開設されています。 カンタス航空によるコロネーションフライトは、1953年6月2日の戴冠式当日、ロンドンとシドニー、シンガポール、カラチ、コロンボ、オークランド、スヴァ(フィジー)、クック諸島、モーリシャス、ポート・モレスビー、ホニアラ、ノーフォーク、ヴィラ(ニューヘブリデス)を結ぶ12の路線で実施され、それぞれのフライトで運ばれた郵便物には、王冠とエリザベス女王の統治を示す“ER”の文字の入ったカシェが押されました。 ちなみに、ホニアラの国際空港として利用されたヘンダーソン飛行場は、第二次大戦中、日本軍がルンガ飛行場として建設したのが前身で、ここをめぐって日米が激突したのがガダルカナルの戦いです。この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 11月19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。前編にあたる12日の放送分のradikoでのタイムシフト視聴を含め、詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-15 Sun 01:38
“西サハラ”のモーリタニアとの国境にあるゲルゲラト付近、モロッコ側と“ポリサリオ戦線(独立派)”実効支配地域との間にある緩衝地帯付近で、13日、モロッコ軍が軍事作戦を開始しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2017年11月6日にモロッコが発行した”緑の行進42周年”の記念切手で、モロッコがタルファヤ(モロッコ本土の南西端、西サハラとの境界に位置する大西洋沿岸の都市)近郊に設置した風力発電施設と、西サハラをモロッコ領とする地図を組み合わせたデザインとなっています。ちなみに、切手中央にはラテン文字とアラビア語でタルファヤと記されていますが、その行間をまっすぐ東西に伸ばすと、モロッコ本土と西サハラの境界線になります。 現在のモロッコを含む北西アフリカの一帯は、ながらく、1660年に成立したアラウィー朝(現王朝)の支配下に置かれていましたが、1912年までに、フランス保護領、スペイン保護領、タンジールに3分割され、事実上の植民地に転落しました。 1956年、アラウィー朝のモロッコが再独立を果たすと、スペインはセウタ、メリリャ、イフニ(いずれも飛び地となっています)とモロッコ南部保護領(タルファヤ地方)を除いてスペイン領の領有権を放棄し、国際管理都市となっていたタンジールも10月にモロッコ領に復帰。1958年にはモロッコ南部保護領が、1969年イフニが、それぞれモロッコに返還されましたが、西サハラに関してはスペインが領有を続けます。 一方、モロッコとモーリタニアは、いずれも、スペイン領西サハラに対する領有権を主張していましたが、1975年10月、国際司法裁判所は、モロッコおよびモーリタニアのいずれも西サハラに対して領土権を有しないとして、その要求を却下。これに対して、1975年11月、モロッコ国王、ハサン2世の号令一下、35万人の非武装のモロッコ人が越境大行進を行い、西サハラを実効支配する“緑の行進”が行われ、モロッコは西サハラが“自国領”であることを改めてアピールしました。 翌1976年、スペインは西サハラの領有を断念し、西サハラはモロッコとモーリタニアが分割して“再統合”することになりましたが、これに対して、スペイン領時代の1973年から独立運動を続けていたサギア・エル・ハムラ・リオデオロ解放戦線(ポリサリオ戦線)は、アルジェリアの支援を得て両国に対する武力闘争を開始。さらに、1976年2月27日、アルジェでサハラ・アラブ民主共和国(SADR)の樹立を宣言します。 アルジェリアの支援を受けたポリサリオ戦線の攻撃に対してモーリタニアは敗走を重ね、1978年にはクーデターで政権が崩壊。1979年にはモーリタニア政府はポリサリオ戦線と単独和平協定を締結します。 こうした中で、同年、アフリカ統一機構(OAU)は、西サハラの住民が自決への権利を行使できるように住民投票の実施を呼びかけます。また、OAU加盟50ヵ国(当時)中、過半数の26ヵ国が1982年までにSADRを承認しました。 西サハラ問題での国際的な圧力が強まる中、1981年6月に開催されたOAU首脳会議で、モロッコのハサン2世は西サハラで独立かモロッコへの帰属かを問う住民投票を行う意思があると表明。住民投票の実施までに膨大な数のモロッコ人を西サハラに移住させ、あくまでも“民主的”な自由投票の結果、西サハラはモロッコに帰属するという結論を導き出そうと企図します。 ハサン2世の提案を受けて、8月にケニアのナイロビで開催されたOAUの実務者委員会は、西サハラでの停戦と国連PKO部隊の派遣、OAUおよび国連の監視下で住民投票を行うまでの暫定統治機関の設置などを提案しました。 ここまでは、モロッコとしても予想の範囲内でしたが、翌1982年2月、エチオピアのアディスアベバで開催されたOAUの理事会では、当初の議事予定になかったSADRの加盟問題が取り上げられ、賛成多数でSADRの加盟が電撃的に承認されてしまいました。 当然のことながら、住民投票の実施以前にSADRを独立国として扱い、モロッコによる西サハラ支配を全面的に否定するような決定に対して、モロッコは激怒し、モロッコに近い17ヵ国とともに、直ちにOAUの理事会を退席。さらに、1982年のOAUの年次総会は、8月にリビアのトリポリで開催される予定でしたが、上述のモロッコを含む18ヵ国に加え、リビアと対立していたエジプト、チャド(北部の内戦にはリビアが関与していた)が早々に欠席を表明します。 当時のOAUの規定では、総会は(議長国を除き)加盟国の3分の2以上の出席をもって成立することになっていましたから、加盟50ヵ国中、最低でも(議長国を除き)30ヵ国の出席が必要でした。したがって、20ヵ国が欠席した時点で総会は成立しません。そこで、OAUは、当初の予定を延期して11月にも再度、総会を招集しましたが、やはり、定足数を満たすことができず、流会となりました。 1982年の総会が流会となったことを受け、1983年6月、アディスアベバで開催されたOAU総会は、SADRの総会出席資格を一時的に停止するという便法を使うことで、何とか流会を免れます。その後、あらためて、同年12月、翌1984年9月に西サハラで住民投票を実施すべく実務レベルの協議が再開されたのですが、1984年2月には、長年、モロッコと共にSADRの存在を否認し続けてきたモーリタニアが、ついにSADRの独立を承認。西サハラ問題でモロッコは孤立してしまいます。 これを受けて、強行突破でSADRを総会に参加させてしまえば、モロッコも妥協せざるを得ないとにらんだOAUは、同11月12日、アディスアベバで開催された総会にSADR代表の出席を認めました。 しかし、たとえ最後の一国になろうとも、絶対にSADRの存在は認めないとのモロッコの決意は固く、モロッコは直ちにOAUを脱退。その後、OAUは2002年にアフリカ連合(AU)へと発展的に改組されましたが、モロッコはAUへも参加を拒否し続けてきました。しかし、2016年9月23日、SADRの独立は認めないという立場は維持したまま、モロッコはAUへの加盟を申請し、2017年3月、33年ぶりに(再)加盟しています。 AU再加盟後のモロッコの西サハラ問題に対する立場は、西サハラはモロッコ領であり、その独立は認めないが、西サハラに対して自治権はふよするというもので、昨年(2019年)6月、米国はジョン・J・サリバン国務副長官をモロッコへ派遣し、モロッコの解決案への支持を表明していました。 モロッコ側の主張によると、今回の軍事作戦再開の発端となったのは、今年10月以降、ポリサリオ戦線の支持者ら約60人がモーリタニアにつながる主要道路を占拠したため、モロッコ外務省が声明で「政治プロセス再開の機会を失わせる」と非難。13日には、モロッコ軍が道路封鎖を行っている勢力を排除に乗り出すと警告したうえで、「ポリサリオ側の妨害から、国境の自由な往来を回復するため」として、ゲルゲラト付近で軍事作戦を再開しました。 これに対して、ポリサリオ戦線側は“モロッコ軍の侵略”に抗議して、1991年以来の停戦の“終了”を宣言。一部ではすでに武力衝突が始まり、緩衝地帯に平和維持部隊を派遣している国連やアルジェリア、モーリタニアが双方に自制を促している状況です。 ★ 11月19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。前編にあたる12日の放送分のradikoでのタイムシフト視聴を含め、詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-14 Sat 00:16
きょう(14日)は二の酉です。というわけで、というわけで、一の酉の時と同様、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』の重版を祈念して、同書で取り上げた“鳥”の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1970年6月15日に英領ソロモン諸島が発行した”1970年憲法公布”の記念切手です。図案は、当時の英領ソロモン諸島の国章で、英国を象徴する獅子の下、4分割された縦の左上にマライタ島のシンボルである鷲が、右下にソロモン諸島東部のシンボルであるグンカンドリが、それぞれ配されています。 英領ソロモン諸島としての最初の憲法は1960年に公布されましたが、この1960年憲法では、立法評議会の議員は任命制で、住民の選挙権・被選挙権も想定されていませんでした。 そこで、1964年9月25日、選挙規定を盛り込んだ新憲法が立法評議会を通過し、1965年2月1日に公布されました。 1964年憲法では、立法評議会の民間人議員10名のうち8名が住民の選挙によって選ばれることを規定。8名の内訳は、人口に応じて、マライタ選挙区が3名、中央選挙区が2名、東部選挙区、西部選挙区、首都のホニアラ選挙区が各1名でした。なお、ホニアラ選挙区では成人男女が直接投票を行う普通選挙が行われましたが、他の選挙区に関しては、当時のソロモン諸島の交通・通信のインフラ事情では選挙実務を行うことが困難だったため、選挙区ごとに選挙人を選び、選挙人の投票によって議員を選出する間接投票が採用されています。 また、行政評議会の構成は、3名の公務員経験者、2名の高級官僚、5名の民間人となっていましたが、民間人議員の中には、立法評議会の議員を兼ねる3人のソロモン人が入っており、より民意が反映される制度改正となりました。 さらに、人口動態の変化なども踏まえて、1966年2月23日には憲法の一部改正が行われ、立法評議会の議員構成は、3名以上の公務員経験者、12名以下の現職公務員(任命制)、14名の民間人(選挙で選出)と変更されています。 今回ご紹介の切手の題材となっている1970年憲法は、こうした経緯を経て公布されたもので、立法評議会と行政評議会を統合した管理評議会を新設。管理評議会は、高等弁務官を長とし、9名の官選議員(公務員経験者3名以上と現職公務員6名以下で構成)に対して、選挙区選出の民間議員が14名から17名に増員され、初めて、評議会の過半数となりました。なお、17名の議員を選出する選挙区の内訳は、マライタ選挙区6、中央選挙区(首府ホニアラを含む)6、西部選挙区3、東部選挙区2でした。その後、1973年には、公務員(経験者)の官選議員制度も廃止され、代わりに、選挙区議員の定数も24名に増員されています。 ちなみに、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』では、英領ソロモン諸島が1978年に独立するまでの経緯についてもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(13日)、アクセスカウンターが227万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 11月19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。前編にあたる12日の放送分のradikoでのタイムシフト視聴を含め、詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-13 Fri 02:19
南アフリカ共和国(南ア)のラマポーザ大統領は、11日、観光・接客部門を後押しする措置の一環として、すべての国との往来を解禁すると発表しました。現時点では、解禁措置の詳細や解禁日については明らかにされていませんが、1年後の来年11月9-13日にケープタウンで開催予定の世界切手展<Cape Town 2021 (IPEX2021) i>の日本コミッショナーを仰せつかっている僕としては気になるニュースです。というわけで、南ア宛の郵便物の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1901年8月7日、南大西洋の火山島、セントヘレナに設置されていたボーア戦争の捕虜収容所から英領ケープ植民地のバリー・ドール宛に差し出された郵便物で、ちょっと薄いのですが、切手の左には収容所の検閲印が押され、検閲担当者のEWのサインも書き込まれています。 1899年10月に始まった第2次ボーア戦争は、当初、アフリカーナー(ボーア)軍が英軍を圧倒していましたが、1900年2月、英本国からの増援部隊が到着。2月18日から27日にかけてのパールデベルグの戦いで英軍がボーア軍を破ったことで戦況は逆転し、3月13日にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンが、6月5日にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアが陥落します。さらに、英軍は、6月11日から12日にかけて、プレトリア近郊のダイアモンド・ヒルでボーア軍の残党を掃討し、正規軍同士の戦いは事実上終結しました。 第2次ボーア戦争開戦直前の1899年7月29日、ハーグ陸戦条約が署名され(発効は1900年9月4日)、同条約により、捕虜と親族との通信が認められて“捕虜郵便”の運用が開始されます。これを受けて、英国はアフリカーナーを対象とした捕虜収容所を、南ア域内はもとより、遠くセイロンやインド、セント・ヘレナにも設置し、捕虜となった約2万8000人のアフリカーナーのうち、2万5630人を海外の収容所に送しました。このうち、今回ご紹介のカバーの差出地であるセント・ヘレナの収容所に関しては、ナポレオンさえも脱出できなかった流刑地というメージを連想させ、捕虜たちに対する精神的なダメージを与える意図もあったのではないかといわれています。 一方、正規軍の戦いが終結した後も、英国の侵略から祖国を守ろうとするアフリカーナーの士気は衰えず、彼らはゲリラ戦を展開し、激しく抵抗していました。 これに対して、英軍の総司令官ホレイショ・キッチナーは、ゲリラ殲滅のため、焦土作戦を敢行。ゲリラに対する補給を断つとともに、ゲリラ側の戦意を喪失させるためとして、アフリカーナーの家屋や農場を容赦なく焼き払いました。 その過程で浮上してきたのが“強制収容所”問題です。 当時の英軍は、いかなる理由であれ(とはいえ、実際には戦禍によるものが大半でしたが)住居を失った現地住民を対象に、人道上の見地から、避難所を設置します。この避難所は、当初、“refugee camp”と呼ばれていました。文字通りに訳すと、難民キャンプです。 ところが、キッチナーによる焦土作戦が発動され、アフリカーナーに対する事実上の無差別攻撃が開始されると、住居を失うアフリカーナーが急増。ゲリラとみなされた成人男性は処刑されるか遠方の捕虜収容所へと送られ、夫や父親などと引き離された女性や子供、老人は収容所での集団生活を強要された。これが“concentration camp”で、本来の訳語としては“集団生活所”とすべきでしょうが、その実態に照らして、一般に“強制収容所”と呼ばれています。 しばしば、“集団生活所(=強制収容所)”を設けたのはボーア戦争時の英国が最初といわれていますが、厳密にいうと、米西戦争(1898年)以前のスペイン領キューバやフィリピン、さらには米西戦争後の米比戦争などでの事例があります。ただし、ボーア戦争期の“集団生活所(=強制収容所)”は、現在の南アフリカ共和国に相当する地域のほぼ全域で、住民をもともとの居住地から組織的に駆逐し、収容所での集団生活を強要したという点で、フィリピンなどの先例に比べてはるかに大規模なものであり、その意味では、世界最初の本格的な強制収容所といってよいでしょう。 英国はアフリカーナーを対象に45ヵ所、アフリカ系黒人を対象に64ヵ所の収容所を設置しましたが、焦土作戦が本格化した後、各収容所には明らかに収容能力を超える人々が抑留され、食糧や医療、衛生環境は極端に悪化。戦時下ゆえに物資の補給が困難であったことに加え、多くの収容所では当局が事態の改善にまじめに取り組みませんでした。さらに、ゲリラとして反英闘争を続けている者が家族にいる場合には食料の配給も減らされ、最終的に2万6000人を超える女性と子供が収容所で命を落としたといわれています。また、アフリカーナーと異なり、アフリカ系の黒人は英国から“敵国人”とみなされていたわけではありませんでしたが、やはり、焦土作戦によって住居を失う者が多く、数万人が強制収容所送りとなり、また1万4154人が死亡しました。 ちなみに、ナチス・ドイツで設置されていた“Konzentrationslager”という施設に関して、ヒトラーは1941年に「Konzentrationslagerの発明者はドイツ人ではない。英国人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べているほか、ゲーリングはニュルンベルク裁判で「Konzentrationslagerはボーア戦争の際に英国が南アフリカに建設したconcentration campをモデルにした」と証言しており、少なくとも、彼らの意識の中では、ナチスの強制収容所は、ボーア戦争以来の先例を踏襲したものと理解されていたことがうかがえます。 なお、第2次ボ-ア戦争に始まる“強制収容所”の歴史については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 11月19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。前編にあたる12日の放送分のradikoでのタイムシフト視聴を含め、詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-12 Thu 03:12
今月3日の米大統領選と同時に実施された上院選は、きのう(11日)までにアラスカ州の共和党候補で現職のダン・サリバン議員が、民主党候補のアル・グロス氏を抑えて再選を確実にしました。というわけで、きょうはアラスカに関連してこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1937年11月12日に米国が発行した“アラスカ準州”の切手で、アラスカのシンボルとして知られるマッキンリー山(現デナリ山)が取り上げられています。 18世紀末以降、ロシア人は狩猟や交易のために北米大陸の太平洋岸に進出していましたが、1853年から56年にかけてのクリミア戦争で財政が大いに逼迫したため、ロシアはアラスカの売却を決定します。ただし、クリミア戦争で敵対した英国にだけは売却したくなかったため、1859年、米国に話を持ち込みます。ところが、交渉途中の1861年に南北戦争が勃発。このため、アラスカ売却の話もうやむやになってしまいました。 そこで、戦争終結後の1867年、ロシア側は改めて米国にアラスカ売却交渉をもちかけ、1867年3月30日、国務長官のウィリアム・スワードはアラスカ購入条約の調印にこぎつけています。 米国がアラスカの58万6412平方マイル(151万8800平方キロ)の土地に対して支払った金額は720万ドル。1エーカー(約4000平方メートル)あたり、わずか2セントという金額でした。ちなみに、当時の米国の書状基本料金が3セントでしたから、封書1通差し出すよりも、アラスカの土地1エーカーの方が安かったということになります。 もっとも、当時のアラスカは人跡未踏の辺境の地でしたから、条約そのものは4月9日に上院で批准されたものの、世論の評判は散々で、新聞各紙は新たな合衆国領土を“スワードの冷蔵庫”ないしは“ジョンソンのホッキョクグマ庭園”などと揶揄し、アラスカ購入は“スワードの愚行”として散々たたかれました。 結局、スワードが1872年に亡くなるまで、米国民はアラスカ購入をぼろくそに批判し続けるのですが、1896年、アラスカで金鉱が発見されるとその評価は一変。チャップリンの『黄金狂時代』に見られるようなゴールドラッシュとアラスカ・ブームが到来し、人々は突如として、スワードの“先見の明”を褒めたたえるようになったというのですから、勝手なものです。 なお、米国がアラスカを購入して以来、カナダとの間で国境問題をめぐる対立が続いていましたが、1903年に調停が成立したことでで現在の国境が確定。1912年にはアラスカは“準州”となり、1959年には米国の49番目の州に昇格し、現在にいたっています。 * 昨日(11日)の八重洲・イブニング・ラボでの内藤のトーク・イベントは、無事、終了いたしました。ご参加いただきました皆様ならびに開催の労を取ってくださいました上念司さんをはじめスタッフの方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。 ★ 11月12・19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月12日(木)と19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-11 Wed 02:29
ロシアのプーチン大統領は、きのう(10日)、9月27日に発生したナゴルノ・カラバフ紛争に関して、アゼルバイジャンのアリエフ大統領とアルメニアのパシニャン首相が共同声明に署名し、「完全停戦」に合意したと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1992年1月6日に独立を宣言した“ナゴルノ・カラバフ共和国(アルツァフ共和国)”が、翌1993年に発行した最初の正刷切手で、同国の国旗がデザインされています。国旗のデザインは、アルメニアの国旗を基調に白線を加えたもので、ナゴルノ・カラバフがアルメニア本土から切り離された“飛び地”であることを意味しています。 アゼルバイジャン西部のナゴルノ・カラバフの地域は、第一次大戦まで帝政ロシアの支配下に置かれていました。 1917年のロシア革命を経て、1918年5月、アルメニアとアゼルバイジャンが相次いで独立を宣言すると、ムスリム国家アゼルバイジャンの領域内にありながら、キリスト教徒のアルメニア人が多数居住している“飛び地”のナゴルノ・カラバフをめぐり両国は激しく対立しましたが、1920年に赤軍が進駐したことで両国はいずれも崩壊。翌1921年、ロシア革命政府はナゴルノ・カラバフを“自治州”としてアゼルバイジャンに帰属させました。 ソ連時代には、アゼルバイジャンとアルメニアはともに連邦を構成する社会主義共和国だったため、ナゴルノ・カラバフ問題もとりあえず棚上げとなっていましたが、1985年以降、ゴルバチョフの下でソ連のペレストロイカ改革が進む中、ナゴルノ・カラバフではアルメニア人の民族意識が再び台頭。彼らが自治州のアルメニアへの編入をモスクワに請願したことで、ナゴルノ・カラバフをめぐるアルメニアとアゼルバイジャンの対立が再燃し、ソ連の枠内での内戦に発展します。 さらに、1991年8月30日にアゼルバイジャンが、9月21日にアルメニアが再独立すると、ナゴルノ・カラバフ紛争は内戦から国際紛争に転化し、1992年1月6日、“ナゴルノ・カラバフ共和国(アルツァフ共和国)”の独立が宣言されました。 国際社会はナゴルノ・カラバフ共和国を承認しませんでしたが、戦況はアルメニア有利に展開され、1994年5月12日には停戦が成立。ナゴルノ・カラバフ共和国は、アルメニアの事実上の保護国として、アゼルバイジャンの統制が及ばない地域となりました。さらに、アルメニア側は、ナゴルノ・カラバフとアルメニア本国を連結する形で旧自治州の領域を越えてアゼルバイジャンの領土を占領して実行支配を続けたため、停戦合意後も、小規模な衝突が散発的に発生。特に、2016年4月には、大規模な衝突として、双方の政府発表で、アゼルバイジャン兵12人、アルメニア兵18人が死亡する“4日戦争”が勃発しました。 今年(2020年)に入ってからは、7月12-14日、ナゴルノ・カラバフ地区ではありませんが、アルメニア北東部とアゼルバイジャン国境のドブズ地域(アゼルバイジャンからロシア、ジョージアを経由して、トルコに向かう石油・天然ガスパイプラインの経由地)でアゼルバイジャン側12人、アルメニア側4人の死者が発生する衝突が起きており、9月20日にはアゼルバイジャンのアリエフ大統領が「アルメニアが新たな戦争の準備をしている」と非難するなど、両国の緊張が徐々に高まり、9月27日、ついにナゴルノ・カラバフで武力衝突が発生。10月10日にはロシアの仲介で最初の停戦合意が成立したものの、翌11日には早くも停戦は破られ、その後も何度か停戦が合意されるもののすぐに破綻する状況が続いていました。 一連の戦闘は、終始、アゼルバイジャン有利に進み、11月9日には、アゼルバイジャン軍がナゴルノ・カラバフの中心都市ステパナケルトから南に11キロの位置にある要衝、シュシー(アゼルバイジャン側の呼称はシューシャ)を占領。続いて、ステパナケルト近郊でも戦闘が始まり、このまま紛争が続けば、アゼルバイジャンがナゴルノ・カラバフ全域を制圧する可能性も高くなってきたため、アルメニア側もロシアの仲介による停戦を受け入れやむなしとなりました。 停戦合意では、(1)アルメニア側が実効支配していた同自治州と周辺地域のうち、今回の戦闘でアゼルバイジャンが占領した地域は原則的にアゼルバイジャンが確保する、(2)アルメニアは過去の紛争で支配下に置いた自治州周辺の3地域をアゼルバイジャンに返還し、数週間以内にアルメニア軍を撤退させる、(3)ロシアは1960人の平和維持軍を派遣して前線警備を担当し、トルコも平和維持プロセスに参加する、(4)双方の捕虜の交換、(5)全ての経済と運輸の接触の再開、などがうたわれています。 今回の合意について、アゼルバイジャンのアリエフ大統領は、この合意は「歴史的に重要なもの」で、アルメニアは“降伏”したに等しく、「目標は達成された。最も望ましい形での決着だ」と表明。アゼルバイジャンの支援国であるトルコも「重要な勝利だ」と祝福しています。 一方、アルメニアのパシニャン首相は、「筆舌に尽くせない苦痛だが、やむを得ない選択だった」が、「これは勝利ではないが、敗北と思わなければ敗北ではない」と釈明。しかし、首都エレバンでは停戦に納得しない数千人の住民が大規模な抗議デモを行っており、数百人が「我々は諦めない」と叫びながら政府庁舎や国会議事堂になだれ込み、首相官邸ではパシニャンの「コンピューターや時計、香水、運転免許証など」が盗難被害に遭うなどの混乱が続いています。 ★ 11月11日(水) 八重洲・イブニング・ラボに内藤登場★ 11月11日(水) 経済評論家、上念司さんの八重洲・イブニング・ラボに内藤が登場します。会員限定のイベントですので、手続き方法などの詳細はこちらでご確認の上、ぜひ会員登録の上、お申し込みください。よろしくお願いします。(宣伝文句がかなり大げさで、ちょっとビビってますが・笑) ★ 11月12・19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月12日(木)と19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-10 Tue 04:01
ロシア保健省当局者は、きのう(9日)、ロシアの国立ガマレヤ研究所が開発している新型コロナウイルス感染症ワクチン“スプートニクV”について、感染を防ぐ有効性が90%を超えているとの見解を表明しました。というわけで、“スプートニクV”に絡んで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ソ連によるスプートニク5号(コラブリ・スプートニク2号)の打ち上げ成功を記念して、1961年1月28日、ブルガリアが発行した記念切手です。 1960年5月15日にコラブリ・スプートニク1号(スプートニク4号)が打ち上げられた後、6月28日の打ち上げ失敗を経て、8月19日、バイコヌール宇宙基地からコラブリ・スプートニク2号が打ち上げられました。 コラブリ・スプートニク2号はヴォストーク有人宇宙船の試験機として、生命維持装置を備えた気密室と大気圏突入のための構造を備えており、人間こそ乗らなかったものの、ストレルカとベルカと名づけられた2匹の犬に加え、1匹のウサギ、42匹のネズミ、2匹のラット、ハエ、沢山の植物や菌類が乗せられていました。 2匹の犬はモスクワで捕獲された雑種の野良犬で、選別に当たっては、①メスであること(宇宙服とトイレの調達がオスに比べて容易)、②体重7キロ以下、③体毛が明るい色(カメラ写りがよいように)、という条件が付けられていました。ちなみに、名前のストレルカはロシア語で“矢”、ベルカはロシア語で“リス”の意味で、今回ご紹介の切手にも取り上げられています。 8月19日に打ち上げられたコラブリ・スプートニク2号は軌道へ到達した後、地球を18周した後、無事帰還。この間、ボンのラジオ局が衛星からの信号を始めて受信し、3周目にはスウェーデンのラジオ局がそれを確認しました。なお、打ち上げの正確な時刻については、08:38:24 UTC(協定世界時)と08:44:06の2説があります。 宇宙から無事に帰還した世界初の生物となったストレルカとベルカは、ソ連の宇宙技術の優越性を示すアイドルとして、当時、メディア等でも盛んに取り上げられ、1961年6月3-4日、同年1月に米国大統領に就任したばかりのジョン・F・ケネディとフルシチョフがウィーンで首脳会談を行った際、晩餐会でフルシチョフの隣に座ったファースト・レディのジャクリーンは、ストレルカとその子犬について話題にしています。もっとも、ジャクリーンとしては、フルシチョフとの会話に詰まって、とっさに無難な話題として犬のことを話しただけだったようですが、ヴォストーク1号の成功で得意絶頂のフルシチョフは、即座に、ストレルカの産んだ子犬をケネディの娘、キャロライン(後の駐日大使)に贈ることを決断しました。 ところで、ブルガリアでは、1954年3月、ヴァルコ・チェルヴェンコフが共産党第一書記の座を追われ、トドル・ジフコフが第一党書記として党を掌握。ただし、この時点では、1911年生まれのジフコフは若く一般的な知名度も高くはなかったため、チェルヴェンコフはひとまず首相の座にとどまっていました。 ところが、1956年2月、ソ連共産党の第20回党大会でフルシチョフがスターリン批判を展開すると、同年4月、ジフコフはブルガリア共産党大会を開催し、フルシチョフの脱スターリン路線を採用するとともに、フルシチョフの承認の下、チェルヴェンコフを解任。かくして、1989年まで33年の長きにわたってブルガリアに君臨するジフコフ体制が本格的にスタートします。 当時のジフコフ政権はフルシチョフの支持を権力の基盤としており、それゆえ、ソ連に対する忠誠心を示すことに腐心していました。今回ご紹介の切手もそうした文脈に沿って発行されたもので、“衛星国”のブルガリアが宗主国のソ連へのゴマすりに汲々としていた時代の産物といえましょう。 ★ 11月11日(水) 八重洲・イブニング・ラボに内藤登場★ 11月11日(水) 経済評論家、上念司さんの八重洲・イブニング・ラボに内藤が登場します。会員限定のイベントですので、手続き方法などの詳細はこちらでご確認の上、ぜひ会員登録の上、お申し込みください。よろしくお願いします。(宣伝文句がかなり大げさで、ちょっとビビってますが・笑) ★ 11月12・19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月12日(木)と19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-09 Mon 02:39
1970年11月9日にシャルル・ド・ゴール(以下、ドゴール)が亡くなって、ちょうど50年になりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1943年にフランスのレジスタンス勢力が制作したドゴールの“謀略切手(プロパガンダ・ラベル)”です。 第二次欧州大戦中の1940年6月、フランスはドイツ軍に降伏し、パリを含む北部フランスはドイツに占領され、南部はフィリップ・ペタンを国家主席とし、ヴィシーを首都とする親独派政権(フランス国)の支配下に置かれます。これに対して、ドイツへの降伏を潔しとせず、抗戦継続を主張する前国防次官のシャルル・ド・ゴールらはロンドンに亡命して“自由フランス”を結成。フランス本国が親独派と抗戦派に分裂する中で植民地政府の対応も割れ、同年10月にはドゴールが仏領コンゴのブラザヴィルに入城し、自由フランス側はここから巻き返しを図ることになります。 1941年6月に独ソ戦が始まると、同年11月、ヴィシー政権は反共フランス義勇軍を派遣し、ソ連軍と戦いました。さらに、1942年6月、ヴィシー政権首相のピエール・ラヴァルは、対独協力をさらに進め、共産主義を阻止するためにドイツの勝利を支持すると声明し、ドイツがフランス人捕虜1人解放すればフランス人労働者3人をドイツ支配下のの工場に送ることを発表。1943年1月、ラヴァルはドイツの労働力配置総監フリッツ・ザウケルの要求に応じて、1920-22年生まれの若者(当時の年齢で21-3歳)25万人をドイツの支配地域に送りました。その後、1944年1月にはドイツ側から100万人のフランス人労働者を送るよう要求があり、これに対して、フランス側は7月21日までに総計60-65万人を送っています。 こうしたラヴァルの親独政策に対してはレジスタンス組織が結成されて抵抗運動が展開されていましたが、その一環として、ニースを中心とするアルプ=マリティーム県の地下組織“COMBAT”は、レジスタンス側の士気を鼓舞するため、1942年、ヴィシー政権下で使われていたペタンの肖像入り普通切手を模して、ペタンの代わりにドゴールの肖像を入れた1フラン50サンチームの“切手”を制作しました。 “切手”は3×3の9面シートで、印刷工のロベール・ティランが原版を制作し、ジョルジュ・フォナが印刷、ジョルジュッテ・ウーデが目打の穿孔を担当しました。なお、ティランは1943年2月3日、ニースでゲシュタポに逮捕され、拷問の末に殺害されています。 彼らが作った“切手”は、1943年7月28日に摘発されるまでCOMBATの関係者によって秘かに販売されました。ヴィシー政権の国家郵政が発行した正規の切手ではないため、本来は郵便料金前納の証紙としては無効なはずですが、郵便関係者にもCOMBATの支援者がいたこともあり、同月22日から30日にかけて、ニースの他、マルセイユ、トノン、リヨン、カンヌ、ロシュギュード、ブサンソン、モンペリエでは、この“切手”を貼って配達された郵便物の例が報告されています。 なお、1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦が開始され、連合軍がフランスに再上陸すると、その直前の6月3日にアルジェでフランス共和国臨時政府を組織していたドゴールは、祖国に戻って自由フランス軍を率いてドイツとの戦闘に参加。同年8月25日にパリが解放されるとフランス共和国臨時政府はパリに移転し、ヴィシー政権は事実上崩壊して、ドゴールは正式に臨時政府の主席に選出されました。 ★ 11月11日(水) 八重洲・イブニング・ラボに内藤登場★ 11月11日(水) 経済評論家、上念司さんの八重洲・イブニング・ラボに内藤が登場します。会員限定のイベントですので、手続き方法などの詳細はこちらでご確認の上、ぜひ会員登録の上、お申し込みください。よろしくお願いします。(宣伝文句がかなり大げさで、ちょっとビビってますが・笑) ★ 11月12・19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月12日(木)と19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-08 Sun 01:16
今上陛下の弟宮、秋篠宮親王殿下が皇位継承順位の第1位にある“皇嗣”のお立場を承継することを、陛下が内外に宣明される“立皇嗣の礼”が、きょう(8日)、行われます。というわけで、きょうはこの切手です、(画像はクリックで拡大されます)
これは、1916年11月3日に発行された皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)の立太子礼の記念切手のうち、黄丹闕腋袍に織り出された“巣の中のオシドリ”の文様が取り上げられています。 明治以前の皇室では、皇位の継承についての明確な規定はなく、直系の皇子のみならず、皇族宮家の中から皇太子が指名されることもあったため、立太子礼は、誰が皇太子(=次期皇位継承者)であるのかを内外に明らかにするうえで重要な意味を持っていました。なお、歴史的に見ると、皇位継承順位1位の皇族が、天皇の子である場合だけでなく、兄弟やその他の親族である場合も、“皇太子”と称されることが一般的です。 ご在位中の天皇の弟宮が皇位継承順位1位とされたのは18例ありますが、そのうち、“皇太弟”の称号が与えられたのは3例のみで、大半は“皇太子”の称号が使われています。したがって、秋篠宮殿下に関しても“皇太子”として“立太子礼”が行われてもおかしくはないのですが、現行の皇室典範では、皇位継承順位1位の皇族が天皇の弟宮である場合の称号が定められていないため、今回は先例にない“皇嗣”の称号が作られ、“立皇嗣の礼”が儀式の名称となりました。 さて、1889年、「大日本帝国憲法」と同時に公布された「皇室典範」は、第一条で「大日本國皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ繼承ス」、第二条で「皇位ハ皇長子ニ傳フ」と明確に規定し、皇位は原則として天皇の第一皇子に継承されることが正式に決定されました。この結果、第一皇子は生まれながらにして皇太子となることが確定したので、立太子礼の意味合いも明治以前とは異なり、一定の年齢に達した時に行う、いわば元服や成年式に近い性格のものになりました。 この「皇室典範」に基づき、1899年11月、さっそく、嘉仁親王(後の大正天皇)の立太子礼が行われましたが、この時は儀式の詳細については先例に従うとして明確な規定がなく、1909年になって、ようやく、儀式の詳細を定めた「立儲令」が定められます。裕仁親王の立太子礼は、この「立儲令」に沿って行われた最初の儀式で、大正天皇の大礼後、親王16歳の1916年11月3日(=明治節)に行われました。 記念切手の図案制作を担当した樋畑雪湖は、当初、壺切剣(皇太子の象徴として、立太子礼に際して天皇から皇太子に親授される相伝の秘宝)を題材とすることを考えましたが、剣が宮中の秘宝であることに加え、写生に関しても宮内省からの許可が下りなかったため、皇太子が儀式の際に見につける服装から題材が選ばれます。 具体的には、儀式に際して皇太子がお召しになる黄丹闕腋袍に織り出された文様の、巣の中のオシドリを中央に配し、周囲には天皇の礼服である黄櫨染御袍から取られた桐の文様が配された図案となっています。ちなみに、天皇は、即位礼のみならず、立太子礼に際しても、この服を着用することになっており、黄櫨染御袍と黄丹闕腋袍の組み合わせは皇位継承の象徴として、切手にも取り上げられました。 また、中央の文様部分は、黄丹闕腋袍にちなみ、黄色と赤を組み合わされた刷色となっています。今回ご紹介の3銭切手は、この黄色と赤の2色刷ですが、同時に発行された同図案の1銭5厘切手に関しては、裕仁親王の将来を祝福する意味をこめて、周囲の部分は若草をイメージさせる緑色で印刷されています。今回は、御年54歳の秋篠宮殿下の話題ですので、“若草”というのもどうかと思い、3銭切手を選んでみた次第です。 ★ 11月11日(水) 八重洲・イブニング・ラボに内藤登場★ 11月11日(水) 経済評論家、上念司さんの八重洲・イブニング・ラボに内藤が登場します。会員限定のイベントですので、手続き方法などの詳細はこちらでご確認の上、ぜひ会員登録の上、お申し込みください。よろしくお願いします。(宣伝文句がかなり大げさで、ちょっとビビってますが・笑) ★ 11月12・19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月12日(木)と19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-07 Sat 02:43
きょう(7日)は、1917年11月7日(ロシア暦10月25日)にロシア10月革命が起こり、ボリシェヴィキ政権(ソヴィエト社会主義ロシア共和国)が発足したことにちなむロシア革命記念日であると同時に、米国では“共産主義犠牲者の国家的記念日”とされています。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1937年4月、ソヴィエト社会主義共和国検察庁が、レニングラードの強制収容所(ラーゲリ)の収容者に対して、拘束に対する異議申し立てと再審査の請求を却下する旨を通知した葉書です。基本的な文面が印刷されていることから、当時のソ連の体制下では、身に覚えのない罪状で収容所送りとなり、異議申し立てと再審査の請求を行っていた人が相当数いたことがうかがえます。 ボリシェヴィキ政権の発足当初から、レーニンはラーゲリと呼ばれる強制収容所を設置し、“反革命”とみなされた人々を、財産没収の上、次々に連行しました。特に、1922年末のソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)成立を経て、レーニンの後継者となったスターリンは、1926年に刑法を改正して“反革命罪”を正式に導入。じっさいに、“政治犯(密告による冤罪を含む)”のみならず、当局が“敵対的”と見なした民族(フィンランド人、ポーランド人、ドイツ人、朝鮮人、バルト三国人、ウクライナ人、モルダビア人、ユダヤ人、テュルク系諸民族など)、敵階級(自営農家、資本家、貴族など)の人々がラーゲリに連行されていきます。さらに、1941年6月の独ソ戦勃発以降は、戦時国際法に違反して、枢軸側の捕虜たちもラーゲリに送られました。 ソ連政府によって設置されたラーゲリの数は、ソ連全土で500ヵ所を超えるとされており、収容者数は、全労働人口の1割以上、最低でも数百万人規模に達していたといわれています。彼らの中には、過酷な労働や体罰・拷問により、“刑期”を満了する以前に命を落とした人々も多数いました。 ソ連政府はラーゲリの収容者を事実上の“奴隷”として扱い、彼らに過酷な重労働を課すことによって、社会主義建設や第二次大戦中・戦後の労働力を賄っていました。世界恐慌の最中、スターリン政権は第一次五カ年計画を“超過達成”したとして、資本主義に対する社会主義の優位を誇示していたが、それを支えていたのが、まさに強制収容所の“奴隷”労働力だったわけです。 さて、米国の“共産主義犠牲者の国家的記念日”は、ロシア革命100周年に当たる2017年にトランプ大統領が宣言したもので、その趣旨は以下のように説明されています。 本日の共産主義犠牲者の国民的記念日は、ロシアで起きたボリシェヴィキ革命から100周年を記念するものです。ボリシェヴィキ革命は、ソヴィエト連邦と数十年に渡る圧政的な共産主義の暗黒の時代を生み出しました。共産主義は、自由、繁栄、人間の命の尊厳とは相容れない政治思想です。 前世紀から、世界の共産主義者による全体主義政権は1億人以上の人を殺害し、それ以上の数多くの人々を搾取、暴力、そして甚大な惨状に晒しました。このような活動は、偽の見せかけだけの自由の下で、罪のない人々から神が与えた自由な信仰の権利、結社の自由、そして極めて神聖な他の多くの権利を組織的に奪いました。自由を切望する市民は、抑圧、暴力、そして恐怖を用いて支配下に置かれたのです。 今日、私たちは亡くなった方々のことを偲び、今も共産主義の下で苦しむすべての人々に思いを寄せます。彼らのことを思い起こし、そして世界中で自由と機会を広めるために戦った人々の不屈の精神を称え、私たちの国は、より明るく自由な未来を切望するすべての人のために、自由の光を輝かせようという固い決意を再確認します。 (引用ここまで) 以後、2018年と2019年の11月7日には、トランプ大統領は、「平和と繁栄に基づく民主の核心的価値、すなわち自由、正義と個々の生命の価値に対する深い尊重を再確認し、すべての人々が平和と繁栄の未来を確保することへの支援」を謳った声明を発表してきましたので、おそらく、今年も同様の声明が出されるものと思われます。 なお、この記事を書いている時点では、先日行われた大統領選挙の最終的な結果はまだ確定していませんが、トランプ大統領の再選はほぼ絶望的な状況です。そうすると、来年1月に発足するであろう民主党のバイデン政権は極左暴力集団のアンティファに対しても宥和的とみられているだけに、来年以降も現在のようなかたちで“共産主義犠牲者の国家的記念日”が継続されるかどうかは、ちょっと微妙かもしれません。 ちなみに、ソ連のラーゲリを含む世界の強制収容所歴史については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(6日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は12月11日(金)の予定ですので、引き続き、よろしくお願いします。 ★ 11月11日(水) 八重洲・イブニング・ラボに内藤登場★ 11月11日(水) 経済評論家、上念司さんの八重洲・イブニング・ラボに内藤が登場します。会員限定のイベントですので、手続き方法などの詳細はこちらでご確認の上、ぜひ会員登録の上、お申し込みください。よろしくお願いします。(宣伝文句がかなり大げさで、ちょっとビビってますが・笑) ★ 11月12・19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★ 11月12日(木)と19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-06 Fri 03:41
ロンドンを含む英国のイングランド全域で、新型コロナの“第2波”を受け、昨日(5日)から外出制限を伴う4週間のロックダウンが始まりました。というわけで、イングランド関連のマテリアルの中からこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1769年、ロンドン西部、テムズ河畔のアイズルワースからロンドン市内のアーガイル宛に差し出された郵便物で、差出地アイズルワース(ISLEWORTYH)の局名印と、9月15日付のビショップ・マークが押されています。 17世紀のイングランドには、ロンドンを起点とした六街道(エディンバラに向かう北街道、チェスター街道、ブリストル街道、プリマス方面に向かう西街道、ドーヴァー街道、東に向かうヤーマス街道)がありましたが、それぞれの街道を結ぶ脇街道は発達していませんでした。 このため、異なる街道の沿線にある都市間の往来は大きく迂回せざるを得ないケースも少なからずあり、郵便物に関しては、取扱数を中央が把握する必要もあって、いったん、ロンドン経由することになっていました。 たとえば、エクセター=ブリストル間の直線距離は131.6キロ(81.8マイル)ですが、途中、ロンドンを経由すると、507キロ(315マイル)になります。当時の郵便料金は距離に応じて決められていましたので、当然、エクセター=ロンドン間とロンドン=ブリストル間の料金の合算という割高なものとなってしまいます。 こうした不合理を解消するため、1696年、エクセター=ブリストル間をダイレクトに結ぶ“クロス・バイ・ポスト(Cross and Bye Posts)”が導入され、その後、その範囲が徐々に拡大されていきました。 さらに、1707年の連合王国成立を受けて、1711年、新たな郵便法(第2の郵便憲章とも呼ばれました)が制定されます。 同法の最大の目的は、スコットランドの郵便法を廃止し、ロンドンの郵政省が英国全体を統括することにありましたが、このほか、郵便事業の官営独占の強化、ロンドンの官営ペニー・ポストの承認、植民地郵便などの内容も盛り込まれました。さらに、フランスやオランダとの植民地争奪戦争がさかんに行われており、政府にとって戦費調達が急務となっていたという事情を踏まえて、同法では、郵便事業の利益を戦費にも使えるようになります。 ところで、クロス・バイ・ポストの導入により、ロンドンを介さずに地方間で郵便を直接やり取りするようになったことは、郵便逓送の大幅なスピードアップをもたらす一方、各地の郵便局の中には、郵便物の取扱数をごまかし、本省に納める金額を過少申告する事例も後を絶たず、郵便事業の収益は悪化しました。 そこで、1720年、27歳の若さで、ロンドンの郵政省と年間6000ポンド・7年契約でクロス・バイ・ポストの事業を請け負ったラルフ・アレンは郵便事業全体の改革に取り組みます。 アレンがまず取り組んだのは、郵便逓送の実態を正確につかむことでした。このため、彼は郵便局長に対して、四半期ごとに、郵便物の受発信を記録した伝票を作成・提出させました。その情報を分析することで、不正の疑いや不備などがあれば、郵便監察官が査察に入ります。 また、当時の郵便料金は、ロンドンの官営ペニー・ポストなど一部の例外を除き原則として受取人払いだったため、郵便物が配達不能になった(=郵便料金を受け取れなかった)場合には、ロンドンの郵政省が現場の郵便局に対して費用弁償のための補償金を支払っていましたが、このことを悪用して、“配達不能”の郵便物を偽造し、補償金を詐取しようとする局長も少なからずいました。 その対策として、アレンは郵便物を引き受けた際には、従来の日付印(ビショップ・マーク)に加え、その郵便局の局名印を押すことを強く求め、“配達不能”とされた郵便物の真贋を判定するための材料としました。今回ご紹介の郵便物で、アイズルワースの印が押されているのはこのためです。 このように、アレンは郵便局長による不正に対しては厳しく接する一方で、伝票で料金徴収額を正直に申告した局長に対してはボーナスを支給するなど、“飴と鞭”の対応で接しています。 こうした施策は徐々に効果を上げ、当初、7年だった契約は次々に更新され、1764年、71歳で亡くなるまで、アレンはクロス・バイ・ポストの責任者としての地位を維持し続けました。40年以上にも及ぶ彼の活動によって、英国の郵便事業は150万ポンドもの利益を得たとも称されています なお、1840年に世界最初の切手“ペニー・ブラック”が発行されるまでの英国とその郵便制度の歴史については、拙著『英国郵便史 ペニー・ブラック物語』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 11月6日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 11月11日(水) 八重洲・イブニング・ラボ ★ 11月11日(水) 経済評論家、上念司さんの八重洲・イブニング・ラボに内藤が登場します。会員限定のイベントですので、手続き方法などの詳細はこちらでご確認の上、ぜひ会員登録の上、お申し込みください。よろしくお願いします。(宣伝文句がかなり大げさで、ちょっとビビってますが・笑) ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-05 Thu 02:06
ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第54巻第5号ができあがりました。というわけで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1979年4月6日にタイが発行した“赤十字(募金)”の切手で、アイバンク事業が取り上げられています。 角膜の交換によって視力を回復させようという試みは、1789 年、フランスのペリエ・ド・ケンシーがガラスを使って試みたのが初めといわれています。その後、各国で、動物の角膜やセルロイドなどの人工角膜を使って多くの実験と研究が行われましたが、1928年、オデッサ大学(当時はソ連。現ウクライナ)教授のウラディミル・ペトロヴィッチ・フィラトフが初めて人間の死体眼から採取した角膜を用いて全層角膜移植に成功し、人間には人間の角膜を移植することが極めて有効であると証明されました。 ただし、フィラトフが活動していたスターリン時代のソ連ならともかく、現実の問題としては、死体からとはいえ、移植手術に必要なドナーの確保は容易ではありませんでした。 そこで、角膜移植によってしか視力を回復できない患者のために、死後、眼球を提供することに本人または遺族の同意を得て、移植を待つ患者に斡旋する公的機関として、1945年、世界初のアイバンクがニューヨークで設立されます。この組織はすぐに米国各地に広がり、更に欧州各国に普及したため、欧米ではドナー角膜の入手が比較的容易となり、多数の角膜移植が行われるようになりました。 タイでは、タイ赤十字社事務総長のスクマビナンドラ親王らを中心に、1965年、眼球の寄附と斡旋についての委員会が設置され、同年5月18日、タイ赤十字アイバンクが創設。タイのアイバンクは、1969年8月17日、最初の眼球の提供を受け、移植手術を成功させたことから、毎年8月17日には記念の啓発イベントが行われています。 タイでは毎年、赤十字(募金)切手を発行していますが、1979年のテーマにアイバンクが取り上げられたのは、ここから10周年になるのを記念してのもので、切手の右側には「目を与えよ 新しい命を与ええよ」との標語が入っています。また、切手発行時の報道資料には、「眼疾患は失明の原因にもなりますが、角膜移植によって治癒が可能な場合もあります。タイ赤十字社は眼球をご寄贈いただける方とそのご厚意を歓迎します」として、アイバンク事業への理解と協力を求める文言も記されています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 11月6日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-04 Wed 01:33
オーストリアの首都ウィーンで、現地時間2日午後8時(日本時間3日午前4時)ごろ、ユダヤ教のシナゴーグ、“市民神殿(シュタットテンペル)”付近を皮切りに6ヵ所で銃乱射のテロ事件があり、市民4人が死亡し、警察官1人を含む20人以上が負傷しました。というわけで、犠牲者の方々の御冥福と負傷者の方々の一日も早い御快癒をお祈りしつつ、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1976年にオーストリアが発行した“市民神殿150年”の記念切手で、神殿内部の様子が取り上げられています。 1782年、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世(自身はカトリック教徒)は、ガリツィアを除くハプスブルク領内において、ユダヤ人に課されていた職業制限、服装制限、特別税、移住制限など多くの法規制を撤廃(寛容令)。これを受けて、ウィーンでもシナゴーグの建立が計画されました。 ヨーゼフ2世は1790年に崩御しますが、その後、フランス革命とナポレオン戦争による混乱もあって、実際にウィーン市内でヨーゼフ・ケルンホイゼルの設計によるシナゴーグの建設が始まったのは1823年のことで、完成は1826年のことでした。なお、ヨーゼフI2世の寛容令ではシナゴーグは通りに面して建てることが禁じられていたため、一般の住宅用建築の中に設置されるというスタイルになっています。 1848年にオーストリア皇帝として即位したフランツ・ヨーゼフはユダヤ人に寛大な姿勢をとり、1860年代にはユダヤ人に課せられていた各種の制限を撤廃。時あたかも、東欧ではポグロム(流血を伴うユダヤ人迫害)が横行していたこともあり、ウィーンには多くのユダヤ系移民が流入。1869年に6.6%だったユダヤ人口は、1880年には10.1%にまで急増します。 この結果、1920年代には、ウィーン市内のシナゴーグとユダヤ教の礼拝所は130を超えるほどになりましたが、1938年3月の独墺合邦を経て、オーストリア域内でもユダヤ人迫害が本格化。同年11月9日から10日にかけての“水晶の夜”では、ウィーン市内のシナゴーグやユダヤ教施設は根こそぎ破壊されます。しかし、市民神殿に関しては、一般の住宅用建築の中に設けられていたために、辛くも破壊と放火を免れました。 ところが、1979年4月22日、パレスチナ過激派による爆弾テロが発生。さらに、1981年8月29日には、やはりパレスチナ過激派による乱射事件が発生し、死者2名、重傷者21名という大惨事となりました。以後、市民神殿は常時2人以上の警察官が警備する体制となっています。 さて、今回のテロ事件ですが、報道によると、犯行グループは自動小銃と拳銃、ナタで武装し、市民神殿付近で発砲を開始。ついで、飲食店3軒、ユダヤ教のコミュニティセンター、ヒルトンホテルの計6ヵ所で銃を乱射しました。オーストリアでは、新型コロナウイルス対策として、3日から夜間外出禁止になるため、2日夜は多くの人が外出しており、そのタイミングを狙っての反抗とみられています。 その後、実行犯の1人が射殺され(自爆したとの情報もあり)、1人が逃亡しましたが、射殺されたのは、オーストリア国籍を有する北マケドニア系の20歳の男で、“イスラム国”を称する過激派組織、ダーイシュに参加するためシリアに渡航しようとしたとして昨年4月に実刑判決を受け、12月に出所したことが明らかになっています。また、オーストリア当局は、今回の事件に関して18ヵ所を家宅捜索し、14人を拘束したそうです。 なお、今回の事件について、オーストリアのセバスティアン・クルツ首相は「事件の背景についてはまだ何も言えない」とした上で、「反ユダヤ主義が背景にある可能性は排除できない」と述べていますが、反ユダヤ主義の歴史と現状については、拙著『みんな大好き陰謀論』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 11月6日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-03 Tue 02:00
きょう(3日)は、米国の大統領選挙の投票日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1944年6月15日、ガダルカナル島駐留の二等軍曹(S/Sgt.)が同年秋の大統領選挙への郵便投票の用紙を請求するため、本国での住所が登録されているニューヨーク州の州務長官宛に差し出した葉書です。 今回の大統領選挙では、新型コロナウイルス禍の中での投票方法の一つとして郵便投票が注目を集めていますが、もともと、郵便投票の制度は、南北戦争中の1864年の大統領選挙に際して、従軍していて選挙区の投票所に行くことができない将兵のために始められ、その後、対象者が拡大されていったという経緯があります。 1941年12月に米国が第二次大戦に参戦してから1945年9月の日本降伏まで、米軍の戦争動員数は1635万3659名(内訳は、陸軍1126万名、海軍418万3466名、海兵隊66万9100名、沿岸警備隊 24万1093名)にも上りました。このうちのすべてが1944年11月の大統領選挙投票日に海外勤務だったわけではありませんが、それでも、数百万人規模の有権者が海外で軍務に就いていました。そこで、彼らは、専用の葉書を選挙区のある州の州務長官に送って郵便投票の用紙を請求し、送られてきた投票用紙に必要事項を書き込んで返送することで投票権を行使したわけです。 なお、いわゆるガダルカナル島の戦いは、1942年8月7日、米海兵隊第1海兵師団(師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将)を主力とする連合軍が同島テナル川東岸付近に上陸を開始したことから始まり、1943年2月7日に日本軍の撤退が完了したことで終了します。 大規模な戦闘がなくなったガダルカナルでは、連合軍の航空基地としてヘンダーソン飛行場が拡充されただけでなく、戦闘によって破壊された村落の復旧や、新たに英領ソロモン諸島の中心地となったホニアラのインフラの整備などが進められたことで、むしろ、来島する米軍スタッフの数は増加しました。米軍の大半は、1945年末でガダルカナル島から撤退しましたが、その後も、1950年までは少数の調査スタッフが活動を続けています。 今回ご紹介の葉書を扱った第717軍事郵便局は、そうしたガダルカナル駐留の米軍スタッフのために設けられたもので、1943年9月28日付でニューカレドニアのヌメアで編成され、同年11月1日、人員がガダルカナル島に到着。1943年11月17日から1945年4月4日までガダルカナルで米軍ならびに関係者の郵便物を問い扱いました。その後は、ミンダナオ島(フィリピン)のザンボアガに移動し、同地で終戦を迎えています。 なお、ガダルカナル島の戦いとその後の同島における米軍の活動については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 11月6日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-02 Mon 01:36
きょう(2日)は“一の酉”です。というわけで、最新の拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』の重版を祈念して、同書で取り上げた“鳥”のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1961年1月19日に英領ソロモン諸島が発行した“1960年憲法公布”の記念切手です。切手の鳥は、ソロモン諸島東部を象徴として、国章にも描かれているグンカンドリです。 英領ソロモン諸島では、1921年4月25日、高等弁務官(植民地行政の責任者)のセシル・ロッドウェルが、地区担当官が必要に応じて住民から地域の実情等や意見を聴取したり、植民地政府の方針を住民に伝達したりするための組織として、“諮問委員会”を設置しましたが、基本的に、住民が自らの意思を行政に主体的に反映させるための制度は存在しておらず、住民の人権も事実上無視されていました。 第二次大戦中、ガダルカナル島を中心にソロモン諸島に米軍が進駐すると、メラネシア系住民の側も、米軍では黒人兵が“人間”として扱われ、白人と同じ軍服を着て食事の席も同じくしていることに衝撃を受けます。一方、米軍も、英植民地当局がメラネシア系住民を家畜同然に扱っていることに憤慨し、彼らの労働に対しては正規の給料を支払うなどの処遇を行ったため、メラネシア系住民の権利意識や政治意識が覚醒。戦後の1946-47年、マライタ島出身者を中心に自治権拡大運動としてマアシナ・ルール運動が展開されました。 この運動は、最終的に植民地当局によって弾圧されましたが、その一方で、1947年のインド・パキスタンの分離独立を機に、英国は、植民地をある程度自立させることで植民地経営のコストを削減させる方向へと政策を転換。ソロモン諸島でも、1953年以降、メラネシア系住民の意見を植民地行政に反映させるための地区評議会の創設に向けた準備が各地で始まります。 こうして、1960年10月18日、事実上の憲法に相当するものとして、英領ソロモン諸島憲章(いわゆる1960年憲法)が公布。ソロモン諸島においても初めて立法評議会と行政評議会(長は高等弁務官)が設置され、それまでの諮問会議は廃止されました。 発足当初の両評議会の議員は、全て高等弁務官による任命で、住民による選挙は行われませんでした。両評議会とも定員は21名で、議員の構成は、3名以上の公務員経験者、8名以下の現職公務員、10名の民間人となっていましたが、民間人議員の中には、6名のメラネシア系住民(いずれも地区の指導者)が含まれていました。また、立法評議会を通過した法案はそのまま法律となるとされていましたが、高等弁務官には立法評議会に諮ることなく法令を制定する権限が与えられていたほか、英国王の承認を得るという名目で法案を留保することも認められていました。 なお、1960年憲法は、ソロモン諸島最初の憲法としては画期的なもので、以後、数次にわたる憲法改正によってソロモン諸島の自治権が拡大され、最終的に、1978年の独立につながっていくことになります。 この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 11月6日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-11-01 Sun 00:20
1920年11月1日に明治神宮が鎮座して100周年になりました。というわけで、きょうはストレートにこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1920年11月1日に発行された“明治神宮鎮座紀念”の3銭切手です。 1912年に明治天皇が崩御された際、そのご遺体は京都の伏見桃山陵に葬られましたが、東京でも、都内に神宮を建設したいとの運動が自然発生的に発生。実業家の渋沢栄一、東京市長の阪谷芳郎らによる有志委員会が組織され、代々木御苑に神宮を建設する建設案が作られました。 神社造営の用地として白羽の矢が立てられた代々木御苑は、もともとは肥後藩藩主・加藤家の別邸があった土地で、1640年以降は彦根藩藩主・井伊家の下屋敷となっていたところ、維新後の1874年、明治政府が買い上げて南豊島御料地となっていました。敷地面積は22万坪(約73ヘクタール)です。 有志委員会は政府の実力者とも折衝を重ね、1913年には衆議院で神宮建設の建議が両院で可決。これを受けて、同年末、政府は閣議によって原敬内務大臣を長とする神社奉祀調査会を設置しました。 さらに、1914年4月、昭憲皇后(明治天皇の皇后)が崩御されると、政府は大正天皇の裁可を受け、同年7月までに、社号を明治神宮、社格を官幣大社とすることを内定。同年12月、帝国議会は神宮造営を大正4-9年度の6年間の継続事業として、当初の総予算345万7000円を可決しました。 実際の造営作業は、1915年5月1日、内務省告示で官幣大社明治神宮の創建を発表した後、同年10月3日に地鎮祭が行われてスタート。当時は第一次大戦中の好景気だったこともあり、建設資材は高騰し、関係者はその調達に苦労したそうですが、全国から1万1129名の国民が労働奉仕に参加し、当初予定より1年遅れの1920年11月1日、鎮座祭が行われ、翌2日には大正天皇の名代として皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が行啓なさいました。 なお、明治神宮の造営以前、周囲は現在の御苑一帯を除いては畑がほとんどで、荒れ地のような景観でしたが、造成工事が始まると、日本全国はもとより、植民地の樺太(現サハリン)や台湾、満洲(中国東北部)、朝鮮などからも境内に植えるための樹木が奉納されます。その数は365種類10万本。こうして、もともとは人工林として出発した“神宮の森”でしたが、その後、東京の気候にあわない樹木が枯れるなどして、ほぼ自然林に近い状態となり、現在は247種類17万本の緑が生い茂っています。 さて、明治神宮の鎮座に際して記念切手を発行することは、1920年7月初めに正式に決定され、7月7日、図案の政策を担当する樋畑雪湖が造営中の拝殿と本殿を取材して資料用の写真を撮影しました。 切手の図案としては、中央左寄りに拝殿が描かれ、その奥に本殿の屋根だけが見えています。また、前景の松は拝殿の階段左右に植え付けられたものです。 切手周囲の文様は、本殿内陣の壁代の紐の地紋に施された三重襷を元にしています。壁代は、もともとは貴族の邸宅で目隠しのために用いられていた帳で、御簾の内側に垂らされ、これを上方に掲げるために紐が付けられています。 一方、三重襷は、斜線を交差させた中に菱を入れ、さらにその中に花菱や四つ菱を入れた文様で、もともとは、公卿の夏の日常着の文様として使われることが多かったのですが、明治神宮では壁代の紐の地紋として採用されました。 また、記念切手には四隅に“鎮座紀念”の文字を篆書体で入れ、大日本帝国郵便の文字と額面は下部に配されています。図案の下には“明治神宮”の画題と“大正九年十一月”の発行年月が表示されているが、これは、日本切手としては初めてのことでした。さらに、この切手は外国郵便に関しては中国大陸宛のものにしか使用できなかったため、欧文の表示は不要と考えられたのか、額面数字は漢数字のみで算用数字や“錢”を示すSNなどの表示も入っていません。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 11月6日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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