2019-06-23 Sun 01:34
第二次大戦中、いわゆるインパール作戦の舞台となったインド北東部マニプール州インパールで、きのう(22日)、攻略作戦に臨んだ日本軍の撤退から75年の戦没者慰霊式典が行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、インパール作戦に参加した自由インド仮政府が、1943年に発行しようとして、果たせなかった“切手”です。本来は、旗の部分が、上からオレンジ・白(虎)・緑のストライプとなっていないといけないのですが、今回ご紹介のマテリアルは緑が抜けてオレンジのみとなっており、しかも、位置がずれているという“エラー”になっています。 1939年9月、第二次大戦が勃発し、英独が戦争状態に突入すると、インド独立運動の志士で、国民会議派の元議長だったスバース・チャンドラ・ボースは、これを独立運動の好機ととらえて武装闘争の準備を開始。さらに、翌1940年6月、フランスが降伏し、7月にはドイツによる英本土上陸作戦の前哨戦としてバトル・オブ・ブリテンが始まると、ボースはガンディーに対して、反英レジスタンス蜂起のためのキャンペーンを行うよう要求。ガンディーはこれを時期尚早として退けましたが、ボースは大衆デモの煽動と治安妨害の容疑で逮捕されました。 獄中でのボースは、ハンガーストライキを行い、衰弱のため仮釈放されていた12月にインドを脱出。アフガニスタン経由で、ソ連に亡命しようとしましたが、アフガニスタン駐在のソ連大使がボースの入国を認めなかったため、1941年4月2日、ベルリンに逃れます。 ベルリンに到着したボースは、4月9日、ドイツ外務省に対して、インドでの独立派の武装蜂起と枢軸国軍によるインド攻撃を提案。ドイツ外務省は情報局内に特別インド班を設置し、1941年11月には“自由インドセンター”を創設。同センターはインドに対する宣伝工作を行うとともに、北アフリカ戦線で捕虜となったインド兵から志願者を募り自由インド軍団(兵力3個大隊、約2000人)を結成しましたが、対英和平の可能性を探っていたヒトラーは、インド独立への支持を明らかにすることは和平交渉の生涯になると考え経ていたため、おおむね、ボースらの独立運動には冷淡でした。 一方、日英開戦が現実のものとして迫りつつあった1941年9月、日本の陸軍参謀本部はアジア各地のインド人の反英闘争を組織化するため、バンコクで“藤原機関”を結成。同年12月、いわゆる太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発し、日本軍がマレー半島に進攻すると、藤原機関は英軍の中核を占めるインド人兵士への降工作を行い、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募って、インド国民軍を編制し、マレー半島西岸の街アロースターで投降してきたモーハン・シン大尉がその司令官に就任していました。 インド国民軍はインド独立を最終目標と掲げ、白人支配からアジアを解放するためことを大義名分として掲げ、1942年8月には4万2000の兵力を擁するまでに成長しましたが、司令官に就任したシンにはその地位に見合った能力がなく、軍内は混乱。このため、インド独立運動の指導者として声望の高かったスバース・チャンドラ・ボースが招聘されることになります。 こうして、1943年5月、ボースはドイツから日本に渡り、当時の首相・東条英機からインド独立のための支援の約束をとりつけ、シンガポールに乗り込み、同年7月2日、インド国民軍の総司令官に就任。10月21日にはシンガポールで結成された“自由インド仮政府”の首班に就任しました。 日本政府は、はやくも同月23日、自由インド仮政府を承認。同政府首班としてのボースは、11月5-6日、日本の戦争目的である“アジア解放”を宣伝するために東京で開催された“大東亜会議”にオブザーバーとして招聘され、日本軍の占領下に置かれていたアンダマン・ニコバル諸島を同政府の統治下に置くことが決定されています。 ところで、自由インド仮政府は、その発足とともに、自らの存在をアピールするための手段として切手を発行することを計画。今回ご紹介のものを含めて切手の製造をドイツに発注しました。しかし、戦況の悪化で、完成品がドイツから仮政府の拠点があったラングーンまで届けらることが困難となり、この切手も発行されないまま終わってしまいました。 さて、日本占領下のビルマから国境を越えてインドへ進攻しようというプランは、日英開戦後の早い時期から検討されていましたが、1943年11月の大東亜会議でボースがその実施を要請し、首相・東条英機がこれを強く支持したこともあって、1944年3月8日、ビルマとの国境に近いインドの都市インパールの攻略作戦が発動されます。 日本軍は、インド国民軍とともに、4月29日の天長節までにインパールを攻略することを目標としていましたが、その作戦計画は補給面を軽視するなど杜撰なものでした。このため、日本軍はいったん、インパール近郊のコヒマを占領したものの、ジャングル地帯での作戦は困難を極め、空陸からの英軍の反攻が始まると前線は補給路を断たれて餓死者が大量に発生。最終的に、インパール作戦での日本側の損害は、戦死3万、戦傷4万2000を数え、ガダルカナルの4倍以上の被害を蒙り、惨憺たる結果に終わりました。 インド国民軍は、その後もイラワジ会戦などで日本軍とともに英軍と戦ったものの敗走を重ねます。さらに、ビルマでは、敗色濃厚となった日本軍の能力を見限ったアウン・サン率いるビルマ国軍が反ファシスト人民解放連盟を組織し、日本軍から離反したため、仮政府とインド国民軍は、日本軍とともにビルマからタイに撤退し、そこで終戦を迎えました。 日本が降伏すると、ボースは戦後の東西冷戦を見越して、英国の“敵の敵”であるソ連に渡って独立闘争への支援を得ようとしましたが、1945年8月18日、移動中の台湾で飛行機事故により死亡。彼の死により、仮政府は自然消滅状態となり、インド国民軍も英軍に降伏しました。 戦後、英植民地政府はインド国民軍幹部を英国王に対する反逆罪で裁こうとします。しかし、ガンディー率いるインド国民会議派と一般のインド国民の激しい抗議活動にあい、被告は釈放。現在でも、チャンドラ・ボースをはじめとする仮政府幹部はインド独立の志士として、インド国民の尊敬を集めています。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2013-12-20 Fri 11:53
中国の軍事侵略に備えるため、インド軍と海上自衛隊の艦艇によるベンガル湾での合同演習がきのう(19日)から始まりました。日印両国が手を携えて共通の敵に立ち向かうということでいえば、やはり、この切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1944年にチャンドラ・ボースの自由インド仮政府が発行しようとして、果たせなかった“切手”です。 英国の植民地支配下で、反英独立運動の闘士として戦っていたボースは、第2次大戦が始まると、“敵の敵は味方”というロジックでナチス・ドイツの協力を得てイギリスと戦おうとします。さらに、いわゆる太平洋戦争が始まると、1943年、東南アジアを占領してインド侵攻を計画していた日本の要請を受け、ボースはドイツから潜水艦に乗って日本にわたり、同年10月21日、シンガポールで日本の支援を得て自由インド仮政府を組織しました。また、ボースは、日本軍の捕虜となったインド兵を中心に結成されたインド国民軍の最高司令官にも就任。インド国民軍が、“Chalo Delhi(デリーへ進め)”のスローガンを掲げ、日本軍とともにインパール作戦で戦ったことは広く知られています。 自由インド仮政府は、その発足とともに、自らの存在をアピールするための手段として切手を発行することを計画し、切手の製造をドイツに発注しました。しかし、戦況の悪化で、完成品をドイツから仮政府の拠点があったラングーンまで届けることが困難となり、ドイツ製の切手を発行することは不可能となりました。このため、1944年、急遽、ラングーンで製造されたのが今回ご紹介の切手です。 切手は、デリーの象徴である“赤い城壁”を描き、その下には“Chalo Delhi(デリーへ進め)”のスローガンが入っています。インパール作戦が成功し、自由インド仮政府がインド本土に拠点を築いた暁には、その支配地域で使用することが想定されていましたが、インパール作戦が失敗に終わったため、切手も日の目を見ずに終わりました。 なお、インパール作戦に関する切手については、拙著『切手と戦争』(電子版)でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩 ★★★ 2014年1月11日・18日・2月8日のそれぞれ13:00-15:00、文京学院大学生涯学習センター(東京都文京区)で、「絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩」と題する講座をやります。(1月18日は、切手の博物館で開催のミニペックスの解説) 新たに富士山が登録されて注目を集めるユネスコの世界遺産。 いずれも一度は訪れたい魅力的な場所ばかりですが、実際に旅するのは容易ではありません。そこで、「小さな外交官」とも呼ばれる切手や絵葉書に取り上げられた風景や文化遺産の100年前、50年前の姿と、講師自身が撮影した最近の様子を見比べながら、ちょっと変わった歴史散歩を楽しんでみませんか? 講座を受けるだけで、世界旅行の気分を満喫できることをお約束します。 詳細はこちら。皆様の御参加を、心よりお待ちしております。 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★ 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は1月7日(原則第1火曜日)で、以後、2月4日と3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★ 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より) 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2011-02-10 Thu 06:33
私事で恐縮ですが、インドで開催される世界切手展<INDIPEX 2011>に参加するため、この記事を書いたら、デリーに向けて出発します。 展覧会の会期は12日から18日までなのですが、前日の11日までに作品を搬入しなければなりませんので、きょう(10日)午前11時に成田を発ち、現地時間の18時にデリー入りする予定です。なお、せっかくインドまで行くのに、展覧会終了と同時に帰ってきてはもったいないので、会期終了後はデリーを離れ、ゴアなどをまわり、23日朝に帰国の予定です。 この間、ノートパソコンを持っていきますので、このブログも可能な限り更新していく予定ですが、なにぶんにも海外のことですので、無事、メール・ネット環境に接続できるかどうか、不安がないわけではありません。場合によっては、諸般の事情で、記事の更新が遅れたり、記事が書けなかったりする可能性もありますが、ご容赦ください。 さて、冒頭に掲げた画像(クリックで拡大されます)は、1943年にチャンドラ・ボースの自由インド仮政府が発行しようとして、果たせなかった“切手”です。 イギリスの植民地支配下で反英独立運動の闘士として戦っていたボースは、第二次大戦が始まると、“敵の敵は味方”というロジックでナチス・ドイツの協力を得てイギリスと戦おうとします。さらに、太平洋戦争が始まると、1943年、東南アジアを占領してインド侵攻を計画していた日本の要請を受け、ボースはドイツから潜水艦に乗って日本にわたり、同年10月21日、シンガポールで日本の支援を得て自由インド仮政府を組織しました。また、ボースは、日本軍の捕虜となったインド兵を中心に結成されたインド国民軍の最高司令官にも就任。インド国民軍が、“Chalo Delhi(デリーへ進め)”のスローガンを掲げ、日本軍とともにインパール作戦で戦ったことは広く知られています。 自由インド仮政府は、その発足とともに、自らの存在をアピールするための手段として切手を発行することを計画。上に掲げたものを含めて切手の製造をドイツに発注しました。しかし、戦況の悪化で、完成品がドイツから仮政府の拠点があったラングーンまで届けらることが困難となり、この切手も発行されないまま終わってしまいました。 今回ご紹介の切手は、本来は黒・朱・緑の3色刷ですが、今回ご紹介のモノのように、朱・緑の印刷漏れ(=黒1色刷)や緑の印刷漏れなども存在しています。 それでは、僕も自分の作品を抱えて“Chalo Delhi!”と参りましょうか。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ マカオ紀行:世界遺産と歴史を歩く 彩流社(本体2850円+税) マカオはこんなに面白い! 30の世界遺産がひしめき合う街マカオ。 カジノ抜きでも楽しめる、マカオ歴史散歩の決定版! 歴史歩きの達人“郵便学者”内藤陽介がご案内。 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、boox store、coneco.net、DMM.com、HMV、JBOOK、livedoor BOOKS、Yahoo!ブックス、カラメル、紀伊国屋書店BookWeb、ゲオEショップ、ジュンク堂、セブンネットショッピング、丸善、楽天ブックスなど)で好評発売中! |
2006-06-02 Fri 22:08
ワシントンで開催中の世界切手展<Washington 2006>の賞が発表となりました。僕の作品は、5年前の東京での展示とおなじく、なんとか金賞を取ることができました。で、今回はもう一人、日本からは小岩明彦さんがインドの軍事郵便のコレクションで金賞を受賞されました。おめでとうございます。
というわけで、今日は小岩さんに敬意を表して、僕の作品の中からインドがらみのマテリアルということで、こんな葉書をご紹介してみましょう。(画像はクリックで拡大されます) この葉書は、インパール作戦に参加したインド国民軍の兵士が差し出した軍事郵便ではないかと考えられているモノです。切手は貼られていませんが、左上に“検閲済(Censored)”の書き込みがあるほか、右上には1944年4月18日に相当するヒンドゥー暦の日付が書き込まれています。葉書は、日本軍占領下のマレー半島、スレンバンの訓練キャンプから、おなじくマレーのアロスター宛に差し出されたもので、日本語のフリガナが付されています。 裏面を引っくり返してみると、「いつでもデリーへ行って母なるインドのために戦う準備はできている」とか「インド万歳(Jai Hind)」といった類の文面が読めて、インド独立のために戦うインド国民軍の兵士の意気込みが伝わってくるようです。 消印の類が押されていないので見た目はあまりパッとしないマテリアルですし、そもそも、インド国民軍の軍事郵便というものがどういうものだったのか、不勉強な僕は、イマイチよく分かっていないのですが、まぁ、後から作られたニセモノではないだろうなという感触は持っているのですが、さて、いかがでしょうか。この辺の事情にお詳しい方が折られたら、いろいろとご教示いただけると幸いです。 * 米国滞在中の5月31日から6月4日にかけて、ネットの接続環境が悪く、記事を書けるものの、アップできたりできなかったり、という状況が続いていました。このため、5日の帰国後、まとめての更新となりました。あしからず、ご了承ください。 |
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