2006-09-30 Sat 00:50
プロ野球のセリーグは昨日(29日)からの阪神・中日3連戦が天王山ですが、とりあえず、緒戦を2位の阪神がおさえたことで首位・中日とのゲーム差が2に縮まり、なかなか面白い展開になってきたみたいです。というわけで、龍と虎が合間見える切手ということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1971年11月に政府印刷事業100年の記念切手として発行されたもので、橋本雅邦の「龍虎図屏風」が題材として取り上げられています。 明治維新によって誕生した新政府は、国内体制整備の基盤として1871年5月10日、新貨条例を公布して旧一両を一円と改称。同年7月の廃藩置県の断行と併行して、旧藩札や新政府の発行した太政官札、民部省札などをすべて新紙幣と交換整理することにしました。これに伴い、紙幣の製造、発行、償還、藩札との交換などの業務を担当させる官庁として、同年7月27日、大蔵省紙幣司(同年8月10日に紙幣寮と改称)を設置。さらに、同年11月22日には、工部省に活字製造場(1874年に印書局に合流)を設置し、政府による印刷事業を開始しました。切手は、ここから100年を記念して行われた印刷局の創立100年記念式典にあわせて発行されたものです。 今回の記念切手は、印刷局を題材としたものだけに、印刷局としても彼らの技術力を内外に示すため、階調凹版の版式を用いて切手が製造されました。 階調凹版は印刷局が独自に開発した版式で、グラビアと直刻凹版(いわゆる通常の凹版)の長所を組み合わせたものといわれています。 グラビアは多色刷に適した印刷方式ですが、版面が小さな格子ないしは網点状になっているため、直線や曲線にシャープさが欠けるほか、切手のように小さな印刷物の場合には、スクリーンが見えてしまい、全体にぼやけた感じがしてしまいます。一方、直刻凹版では、シャープな画線で立体的な画像を再現できますが、細かい部分は線の寄せ集めのため、段階的な調子を再現するのが難しく、全体に硬い印象を与えてしまいます。また、凹版の場合には一つの版面で複数の印色をまとめて印刷するザンメル印刷の方式もあります。 こうしたことを踏まえて、両者の長所を生かすために、銅版にグラビアスクリーンを用いて通常の凹版と同じタイプの版面を作り、絵柄に応じて必要な画線を手彫りで加える(あるいは、その逆に、あらかじめ手彫りで彫刻がなされた版面に、画線部以外の部分にグラビアの格子ないしは網目を製版する)というかたちで、一つの版面上で直刻凹版の画線とグラビアの格子ないしは網目を組み合わせることが考えられました。 こうして出来上がった版によって印刷すると、凹版でありながら豊富な階調を表現できるようになります。これが、階調凹版と呼ばれる由縁です。 階調凹版は、油絵のように全体がぼかしになっているような題材には不向きですが、日本画や水墨画のように線画の部分があるものを再現する時には威力を発揮します。雅邦の「龍虎図屏風」が題材として取り上げられたのも、この作品がそうした階調凹版の特性を生かしうるものというのが最大の理由です。 また、当時の印刷局関係者によると、切手に取り上げられた虎には印刷局の虎ノ門工場を、水の上の龍にはおなじく瀧野川工場を、それぞれ象徴する意味合いが込められていたのだそうですが、こうした事情は一般に説明されなかったため、印刷局と雅邦の作品がどのように関係しているのか、切手を見て首を傾げる人も少なくなかったようです。 さて、以前からこのブログをご覧いただいている皆様はご存じの通り、僕は、2001年から戦後記念切手の読む事典として<解説・戦後記念切手>シリーズを上梓しています。現在、このシリーズは、第4巻の『一億総切手狂の時代 1966-1971』までが刊行済みとなっており、戦後最初の記念切手(1946年の郵便創始75年)から封書15円時期の記念切手まで(つまりは、今日とりあげた「政府印刷100年」までです)をカバーすることができました。 おかげさまで、『満洲切手』も無事に刊行となりましたし、明日からは10月という区切りの時期でもありますので、そろそろ、シリーズ第5巻の制作作業にも取り掛からないといけないのですが、なかなか筆が進まないのが頭の痛いところです。 |
2006-09-29 Fri 06:32
昨日(28日)は、著名な韓国切手のコレクターである飯塚悟郎さんのご紹介で、飯塚さんが会長を務めておられる東京江北ロータリークラブで「満洲国の遺産」と題するテーブル・トークをしてきました。トークでは、刊行されたばかりの拙著『満洲切手』の中から、こんなカバー(封筒)を取り上げて、のなかから、僕なりに考えていることをお話してきました。(画像はクリックで拡大されます)
1945年8月に日本が降伏すると、蒋介石は「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と演説して中国人に日本人への復讐をしないよう戒め、毛沢東も「日本軍国主義に罪があり、日本人民には罪はない」と繰り返し強調していますが、これらは、いずれも、戦後復興に向けて日本人の能力を活用したいという思惑から発せられた発言で、彼らが寛大な人格者であったからなされた発言というわけではありません。 じっさい、国共内戦の過程で、国共両陣営に動員された日本人は三万人をくだらないといわれていますが、特に、終戦時に旧満州にいた日本人の医師や看護婦をはじめ、技術者たちの中には、さまざまな口実を設けて帰国することをなかなか許されず、数年にわたって中国人同士の内戦に駆り出される者が多かったことは広く知られています。 そうした中で、1948年2月、東北最大の工業施設であった鞍山製鉄所を支配下に収めた中共は、同年11月以降、安東に破格の待遇で“幽閉”していた日本人技術者約100人(家族をあわせると約280人)を鞍山に送り、中国人労働者に対する本格的な技術指導を行わせました。 1949年10月に中華人民共和国の建国が宣言されると、その歴史的な興奮が中国全土を覆う中、鞍山の街には、長年の戦乱で荒廃した製鉄所を復興しようとする熱意があふれ、中国各地から優秀な人材がこの地に送り込まれていきます。 その際、指南役を担った日本人技術者は、製鉄所の技術指導のみならず、中国人技術者に技術の伝承を図り、積極的に新たな技術革新を提言するなど、大きな成果を挙げました。同時に、一般の中国人労働者が、各種の訓練組織で高度な製鉄技術と専門知識を学ぶことを許され、昇進と昇格の機会を与えられたのも、おそらく、このときが最初のことです。 その後、1950年6月には朝鮮戦争が始まり、同年10月には中国も派兵しますが、鞍山では製鉄所を復興し、生産を軌道に乗せるための努力が営々と続けられました。この間、中国政府は、日本人ならびに旧国民党系の中国人技術者といった“仇敵”の過去を実質的に不問に付したばかりか、彼らに対して、当時の中国の生活水準からすると破格の待遇を与え、技術面での指導と協力を仰いでいます。 今回ご紹介しているカバーは、そうした状況の下で、1951年3月、鞍山にいた日本人が日本宛に差し出したカバーです。“鞍山市鞍鋼外籍職工科”という書き込みからすると、差出人は、製鋼所で働いていた日本人労働者ないしはその家族と見て間違いないでしょう。 ところで、カバーに貼られている切手は、1950年2月に調印された「中ソ友好同盟相互援助条約」の調印を記念して、同年12月に発行されたものです。この条約は、両国が“日本または日本と連携するその他の国(具体的にはアメリカを指す)”による再侵略や平和の破壊を阻止するためにはあらゆる措置を取ることを謳っており、中ソ両国のどちらかが“日本または日本と連携するその他の国”から攻撃を受けて戦争状態に陥った場合には、もう1ヵ国は「直ちに全力をつくして軍事上その他の援助を与える」として、“日本または日本と連携するその他の国”への警戒感を露わにしていました。 しかし、そうした建前としての日本脅威論が、国家建設の実利の前には容易に骨抜きにされるという現実は、ほかならぬ中ソ友好同盟相互援助条約の記念切手を貼ったカバーを、鞍山在住の日本人労働者が差し出していることにも象徴的にあらわれているように思えます。 鞍山に残った日本人の技術者・労働者の活動は、1949年から1952年にかけてのいわゆる“三年恢復期”が終わり、1952年後半に第1次5カ年計画が始まるまで続きます。第1次5ヵ年計画がスタートすると、日本人に代わり、ソ連人の技術者が中国人の指導にあたることになり、日本人技術者はようやく“お役御免”ということで帰国が許されたからです。満洲国の崩壊から8年が過ぎた1953年のことでした。 旧満洲国が、基本的には、日本によって日本のために樹立された国家であり、現在の中国人の視点から見れば、“偽国”とのレッテルを免れ得ない面が多々あったことは、否定できない事実でしょう。しかし、その後の中国が、(その是非善悪は別にして)かつて現実に存在していた旧満洲国の“遺産”から完全に無縁な状態で存在しえなかったこともまた事実です。現在の“中国人民”が好むと好まざるとにかかわらず、1949年以降の国家建設に際して、中国政府が旧満洲国時代の“遺産”が活用し、当時の中国の指導層もそのことを充分に認識していたという歴史の現実を見落としてはならないでしょう。 さて、先日刊行した拙著『満洲切手』では、こうした満洲国と現代中国との連続性についても、切手や郵便物の背景をたどりながら読み解いてみようと試みました。機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
2006-09-28 Thu 01:14
(財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』10月号ができあがりました。
『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、この1枚を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます) 南米大陸の南部、アルゼンチンのパタゴニア沖400kmの南大西洋に浮かぶフォークランド諸島は、狭い海峡を挟んだ東フォークランド島と西フォークランド島を中心に、200余の小島から構成されています。 この地域は、1600年以降、イギリス、フランス、スペインが相次いで入植・撤退を繰り返すなどしていましたが、1816年に最寄に位置するアルゼンチンがスペインより独立したのを契機に領有を宣言します。その後、1829年に米軍が上陸しフォークランド諸島の中立を宣言しますが、1833年にはイギリスが再占領して領有を宣言します。ちなみに、アルゼンチンはその後もフォークランド諸島(彼らの呼称ではマルビナス諸島)の領有権を主張し続け、そのことが1982年のイギリスとアルゼンチンの間のフォークランド戦争につながったことは広く知られている通りです。 さて、英領フォークランドでは、1933年にイギリスによる領有100年を記念して、12種類の切手を発行しました。そのうちの、オウサマペンギンを取り上げた5シリングが、今日ご紹介している切手です。 オウサマペンギンは、皇帝ペンギンに次いで2番目に大きなペンギンで、フォークランド諸島のみならず、亜南極の島々に広く分布しています。皇帝ペンギンに良く似ているのですが、くちばしなどの突起部分がやや大きく、勾玉色の斑紋の黄色もよりあざやかでオレンジ色に近いのが特徴です。 G.ロバーツのデザインした切手は牧草地に立つペンギンの姿が見事な凹版印刷で再現されており、英領凹版切手の最高峰の一枚といわれています。ちなみに、1933年の英領フォークランド100年記念切手の最高額1ポンド切手のデザインは国王ジョージ5世の肖像で、その次に高額の10シリング切手のデザインは紋章です。 さて、今月号の『郵趣』では、郵趣協会60周年のメモリアル記事として、1993年に亡くなった初代理事長・水原明窗さんの思い出を簡単に書いています。『郵趣』編集部から原稿の依頼を受けたのは、“水原学校”の思い出について触れた『満洲切手』のあとがきを書き終わってすぐのことだっただけに、なんだか不思議な縁というものを感じてしまいました。 |
2006-09-27 Wed 01:45
昨日(26日)、東京は午後から大雨に見舞われて、僕もびしょぬれになりました。発足したばかりの安倍政権にとっても、まさに、嵐の船出といったところでしょうか。
というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1960年、日米修好100年の名目で発行された記念切手の1枚で、嵐の中を進む咸臨丸(咸臨丸乗組運用方・鈴木勇次郎が描いた「咸臨丸烈風航行之図」をもとにつくられました)が取り上げられています。 日米修好通商条約の調印は1858年でしたから、通常の感覚でいえば、その百周年は1958年とするのが自然です。実際、1958年には、同条約によってもたらされた開港100年の各種記念行事が行われ、記念切手も発行されました。 これに対して、日本政府は、条約の批准書をアメリカに届けたのは1860年であり、批准書の交換なくして条約が発効しない以上、1960年こそが条約の100周年としてふさわしいと主張。各種記念行事を1960年に実施しています。 たしかに、条約の批准・発効という点でいえば、1960年を日米修好100年ととらえるのは正しいことなのでしょうが、日本とタイの修好100年行事が日タイ修好宣言(日暹修好通商に関する宣言)の調印100年にあたる1987年に行われており、批准書交換100年の1988年に行われているわけではないことや、日本がアジア以外の国と結んだ初めての平等条約であるメキシコとの修好条約(日墨修好通商条約)の100周年記念行事が条約の署名100周年の1988年に行われていることなどを考えると、今回に限って、条約の批准・発効にこだわって記念行事を計画するのは不自然です。 また、そもそも、日米修好通商条約は典型的な不平等条約でしたから、その100周年を祝うことが果たして妥当なのかどうかということも大いに疑問です。 それにもかかわらず、日本政府が1960年を日米修好100年と位置づけて大々的に記念行事を行おうとしたのは、この行事を安保改定と結びつけて盛大に祝いたいという意図があったためです。 1951年、サンフランシスコ講和条約と同時に調印された日米安保条約(旧安保条約)は、日本側から見ると、基地を貸して安全保障を得るという「モノと人との協力」を前提にしたものでしたが、その内容は、アメリカの日本防衛義務が明文化されていなかったばかりでなく、日本はアメリカの同意なしに第三国に基地を提供できず(第三国の駐留権禁止条項)、日本国内の内乱に際しては米軍が出動できる(内乱条項)など、あまりにも片務性と不平等性が強いものでした。 このため、日本側には、アメリカによる日本防衛の義務を明文化し、その義務と日本がアメリカに基地を提供することの義務との間の双務性を明確にすると同時に、内乱条項をはじめとする旧安保条約の不平等な部分を改定したいという希望がありました。 そこで、1957年に発足した岸信介内閣は安保改定を最大の課題として掲げ、1960年1月、それまでの行政協定に代わる地位協定や事前協議に関する交換公文とともに、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約(新安保条約)」を調印にこぎつけます。もちろん、新安保条約も、本質的には、日本がアメリカに基地を貸して安全保障を得るという旧安保条約の構造を継承したものであり、その意味では対等の相互防衛条約ではありませんでしたが、それでも、形式的には、新条約は旧条約に比して、はるかに、日米の関係は“平等”なものでした。 この新条約の調印を受け、アメリカ大統領アイゼンハワーの訪日が正式に決定され、アメリカ側は返礼として皇太子ご夫妻(現在の両陛下)の訪米を要請します。もっとも、新安保条約の成立を記念して皇太子が訪米するというのは、条約そのものへの賛否とは別に、皇室の政治利用であるとして国内世論の強い反発を招くことが予想されました。そこで、大義名分として考え出されたのが“日米修好100年”だったというわけです。 岸信介の歴史的な評価としては、激しい反対運動にも屈せず毅然として安保改定を成し遂げたことを高く評価する向きが少なくありませんが、僕は、そうした見方には賛成できません。 当時の日本が置かれていた国際環境を冷静に考えた場合、共産革命でもおきない限り、アメリカとの同盟関係を破棄することができないのは誰の目にも明らかです。さらに、新安保条約は、旧安保条約に比べて、(形式的にせよ)はるかに対等な日米関係を規定するものだったわけですから、本来、もっと国民から歓迎されてしかるべきもののはずです。 それにもかかわらず、激しい反対運動が起きてしまったのは、新安保条約の必要性や旧条約と比べて改善された点などを国民にわかりやすく説明し、理解を求めようとしなかった岸の姿勢にも大きな問題があったからだと僕は考えています。少なくとも、国会での強行採決に抗議するデモ隊に言及して「今日も後楽園球場は満員だった」と言い放つ感覚は、国民の信任こそが民主国家の政治指導者の最大の源泉であるということへの絶望的なまでの無理解から来るものと思えてなりません。 こうした彼の姿勢が、結果的に、左翼・反米勢力につけこまれ、無用の摩擦と対立を招いたという面は否定できないでしょう。すくなくとも、池田勇人や中曽根康弘のように、国民にわかりやすく政策を訴えようとした政治家であれば、あそこまで騒動は大きくならなかったように思います。その意味では、岸は天才的な官僚ではあっても、一国の宰相にふさわしい器量を備えていたのかどうか、はなはだ疑問です。 さて、日米修好100年の切手とその時代に関しては、この他にもいろいろと書きたいことがあるのですが、いいかげん、長文になりましたので、今日はこの辺で打ち止めにしておきます。もしよろしかったら、この続きは、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅱ)ビードロ・写楽の時代:グリコのオマケが切手だった頃 1951-1960』をお読みいただけると幸いです。 |
2006-09-26 Tue 01:36
かねてお知らせしているとおり、いよいよ本日(26日)、拙著『満洲切手』(角川選書)が発売となります。というわけで、くどいといわれるのを百も承知で、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、南満洲鉄道株式会社(いわゆる“満鉄”です)が満洲国を外国人に紹介するために作った絵葉書で、満洲国の主要都市と満洲国内の鉄道路線、主要産業の概要などが示されています。正確な制作年代は調べ切れなかったのですが、鉄道の総延長が8772キロというところから察すると、鉄道の距離が一挙に増えた中東鉄道の買収(1935年3月)から記念切手にもなった鉄道一万キロ突破(1939年10月)までの間の出来事ということで、1937年前後に作られたものとみてよいでしょう。 特定の地域を題材とする本をつくるときは、読者の皆様の便を考えて、できる限り、地図を入れることにしているのですが、今回はうまい具合に、この絵葉書を見つけることができましたので、それをそのまま口絵の図版として使うことにしました。豚や羊、高粱や大豆などの記号を含めて、全体に非常にモダンな感じのデザインで、先日の記事でご紹介した地図切手とは、また違った良さがあるように思うのですが、いかがでしょうか。(なんだか、mapstampfanさんのページみたいになってしまいましたが…) 余談ですが、今日、日本の総理大臣となる安倍晋三の祖父である岸信介は、1936年10月に、農商務省から満州国国務院実業部総務司長(のち総務庁次長)に転じ、1939年に商工省に時間として復帰するまで、満洲国の産業開発に辣腕をふるったことは広く知られています。まさに、この絵葉書の作られた時代の話です。 さて、拙著『満洲切手』では、岸個人はほとんど登場しないのですが、切手から読み取ることができる満洲国の産業(開発)に関しては、いろいろな角度から取り上げてみました。ご興味をお持ちの方は、是非、ご覧いただけると幸いです。 |
2006-09-25 Mon 00:48
いよいよ、明日(26日)は『満洲切手』の配本日ですが、まぁ、世間様の関心は、安倍政権の誕生(ものすごく突発的なアクシデントが起これば別ですけど…)に向いているのは間違いないでしょう。
というわけで、小泉首相さよならスペシャルとして、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、2002年9月17日に行われた日朝首脳会談を記念して、同年10月、北朝鮮が発行した小型シートの1種で、小泉首相と金正日総書記が握手する場面が取り上げられています。 2002年9月、現職総理としてははじめて北朝鮮を公式訪問した小泉首相は、北朝鮮の最高実力者、金正日・朝鮮労働党総書記と会談し、1970~80年代の日本人拉致事件が北朝鮮側の犯行であったことを認めさせ、一部被害者の帰国を実現しました。このことが、日本の対北朝鮮政策においてエポック・メイキングな出来事であったことは誰も否定できないでしょう。 もっとも、小泉首相は、訪朝時に、日朝国交正常化の前提として、過去の植民地支配に対する“お詫び”や北朝鮮に対する経済支援、相互に安全を脅かす行為を取らないことなどを盛り込んだ平壌宣言に署名しており、その是非について賛否が分かれているのは周知の通りです。 今回ご紹介している小型シートは、そうした日朝首脳会談の終了を受けて、北朝鮮側が同年10月に発行した2種類の小型シートのうちの1枚です。 北朝鮮では、2000年に行われた韓国大統領・金大中と金正日との南北頂上会談以来、ロシア大統領プーチンや中国国家主席・江沢民など、国家元首が金正日と会談した場合には、彼ら握手する金正日の写真を図案とする切手を発行しています。したがって、日本の首相は国家元首とほぼ同等であるということからすれば、小泉・金正日切手もそうした先例に従ったものであり、この切手発行も、必ずしも、特殊な出来事とはいえません。 ただし、これらの切手で注目しておかなければならないのは、金正日との会談を記念する切手とはいっても、会談の当日に発行されるのではなく、会談終了後、しばらく時間が経ってから発行されているという点でしょう。 これは、おそらく、切手を発行する前に、首脳会談が成功裏に終わったことを確認した後でないと、記念切手も発行できないという彼らのメンタリティによるものと思われます。なにせ、オリンピックについても自国選手が入賞するまで国内ニュースでは放送されないというお国柄ですから、会談が不調に終わったと北朝鮮側が判断すれば、当然のことながら、記念切手なんか発行されるはずがありません。会談当日に撮影した写真を切手の図案としているのも、こうした文脈に沿ったものと考えてよいでしょう。 なお、この切手は、2002年10月にクアラルンプールで両国外務省による国交正常化のための事務レベル協議が行われる直前に発行されており、北朝鮮側は、切手という国家のメディアを通じて、日本との国交正常化に真剣に取り組む(このことは、日本に対しては、北朝鮮への経済支援をうたった平壌宣言の履行を迫ることと表裏一体です)意図があることを示したものと理解できます。 同時に、小泉と握手する金正日という図像は、“日本軍国主義”を敵視してきた対日姿勢を転換することを、国民に周知する意図も込められていたと推測することも可能でしょう。 2002年9月の小泉訪朝をきっかけに、それまで半ばタブー視されていた“北朝鮮”というネタが一挙にマスコミでも取り上げられるようになりました。2001年に『北朝鮮事典』という本を刊行していた僕も、そのおこぼれにあずかるかたちで、一時は毎日テレビのワイドショーで北朝鮮の切手を見せながらお喋りをするという“北朝鮮特需”を体験することができました。 2001年に発足した小泉政権の金看板は“郵政民営化”でしたから、僕もそっちがらみで少しは仕事が来るかとかなり期待していたのですが、結果はサッパリでしたねぇ。いまだから言いますけど、<解説・戦後記念切手>シリーズの第1作に『濫造・濫発の時代』なんてタイトルをつけて、“現代まで受け継がれてきた戦後郵政の暗部”なんて感じのコピーで売り出そうとしたのも、小泉さんの人気と郵政民営化の話題にあやかろうとしていた面がないわけではありませんでした。 残念ながら、『濫造・濫発の時代』の売り上げは期待通りとはいきませんでしたが、そのかわりに北朝鮮がらみの仕事はかなり降ってきたので、まぁ、全体の収支としてはなんとかプラスになったというのが、僕にとっての小泉時代5年半の決算ということになりましょうか。 |
2006-09-24 Sun 00:46
お相撲は千秋楽を待たずに、またもや朝青龍の優勝が決まってしまいました。というわけで、例によってモンゴルがらみのネタとして、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1940年に満洲国が臨時国政調査を行った際に、宣伝キャンペーンのために発行した切手の1枚で、世帯主から調査員に対して申告書が提出される場面の下に、中国語とモンゴル語で宣伝の標語が入っています。 満洲国の建国後、1935年と翌1936年の2回、首都新京をはじめ国内の78市で簡単な戸口調査が行われたものの、国内全域をカバーしたうえに、詳細な内容の人口調査は行われていませんでした。その後、国家建設が進められていったことから本格的な統計調査の必要が生じ、1940年に調査が行われることになりました。なお、今回の調査は、調査を行うための法的な整備が整っていなかったため、“臨時”の名が冠せられていましたが、実質的には本調査と変わらぬ内容のものです。 ところで、満洲の地においては、今回の臨時国政調査以前に、本格的な住民調査が行われたことはなかったため、日本人以外の住民の大半は、そもそも、国政調査とは何かを理解していませんでした。このため、国勢調査の実務を担当する臨時国政調査事務局では、まず、国勢調査の趣旨を住民に説明することから始めたのですだが、“五族協和”の満洲国内では各民族がさまざまな言語を日常的に用いていることに加え、日本人・朝鮮人以外の識字率が必ずしも高くはないこともあって、調査の周知宣伝は思うように進みませんでした。 そこで、臨時国政調査事務局は、ほとんど全ての国民が日常的に目にする切手を宣伝媒体として活用することを思いつき、切手の発行に繋がったというわけです。 今回ご紹介している切手には、中国語とモンゴル語で国勢調査に際して用いられた標語が入れられています。これは、言語別の人口構成を考慮した場合の効果を考慮した結果で、第一公用語であった日本語を理解する人口は決して多くなかったと言う満洲国の現実が反映されているといってよいでしょう。 ちなみに、調査に際して用いられた宣伝の標語は、中国文が「國勢調査之基 照實填不可虚」、日本文が「國の礎國勢調査 書いて出しませう有のまゝ」でしたが、切手のモンゴル語はこのうちの中国文の訳に近いようです。もっとも、僕はモンゴル語が読めないので、どなたか、その真偽をご指摘いただけると幸いです。 さて、いよいよ明後日、9月26日に角川選書の一冊として刊行の拙著『満洲切手』では、“満蒙”と称されたかの地域の“蒙”の部分にもさまざまな角度からスポットを当ててみました。刊行の暁には、是非、お読みいただけると幸いです。 |
2006-09-23 Sat 00:42
昨日(22日)午前10時少し前にアクセス・カウンターの数字が10万を超えました。
昨年6月、友人から勧められて恐る恐る始めたこのブログですが、毎日、予想外に沢山の方々に遊びに来ていただいていることが励みになって、何とか続けてこられました。この場を借りて、あらためて日頃のご厚情にお礼申し上げます。 そういうわけで、今日は今月26日に刊行の新作『満洲切手』(角川選書)の中から、10がらみの1枚としてこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1942年3月1日、満洲国の建国10周年に発行された記念切手のうちの10分(1角)切手で、満洲国の理念として掲げられていた“王道楽土”を意味する“王”の文字の中に満洲国の地形図が描かれています。 この切手の地図は、いわゆる平面的なものではなく、地形がわかるように俯瞰的なデザインになっているのが特徴で、興安嶺山脈と長白山脈のほか、黒龍江、海拉爾河、哈爾浜河、松花江、牡丹江、ウスーリ江、遼河、鴨緑江、豆満江などの主要河川を確認することができます。 満洲国が建国以来の10年間に発行した記念切手は14件ありますが、このうち半数の7件で切手のデザインとして地図が取り上げられていますから、切手に地図が登場する頻度はかなり高いといってよいでしょう。 メディアとしての切手を通じて、満洲国という国家が現実に存在しているという事実を広くアピールするためには、満洲国ならではの題材を取り上げて周知宣伝する必要があります。とはいえ、満洲国内の文化遺産や伝統的な風俗習慣などは、満洲国と中国ないしはモンゴルの差別化を図るうえで必ずしも最適な題材とはなりにくいのが現実です。さりとて、建国から間もない満洲国には独自のランドマークは決して多くありませんでした。こういう状況では、とりあえず、“満洲国”の表現として、地図を取り上げるということが手堅い選択であったと理解するのが妥当なのでしょう。 満洲国の建国10周年に関しては、今回ご紹介の切手をはじめ、日満両国が記念切手を発行しているほか、日中戦争下の日本軍占領地域でも記念切手が発行されています。また、各種の特印や葉書なども入れると、関連するマテリアルはかなりな種類にのぼります。 9月26日に角川選書の1冊として刊行の拙著『満洲切手』では、そうした建国10周年関連のさまざまなマテリアルから、当時の満洲社会の諸相を多角的に読み解いてみました。刊行の暁には、是非、お読みいただけると幸いです。 |
2006-09-22 Fri 00:51
以前からこのブログでもご案内の通り、9月26日に角川選書の1冊として拙著『満洲切手』が刊行となります。その現物が出来上がってきましたので、あらためてご挨拶申し上げます。(画像は帯がついた状態の表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)
今年は、映画『ラスト・エンペラー』のモデルとなった愛新覚羅溥儀の生誕100周年であると同時に、満洲事変から75周年にあたります。 この機会をとらえて、本書では、1932年3月から1945年8月までの満洲国の13年半を切手や郵便物を使って読み解いていこうと考えました。また、満洲国の崩壊後、満洲国の“遺産”をめぐって繰り広げた国民党と共産党の駆け引きについても触れてみました。 現在の“中国人民”が好むと好まざるとにかかわらず、現代中国が旧満洲国時代の“遺産”を活用し、当時の中国の指導層もそのことを充分に認識していたという歴史の現実は、切手やカバーの背景をたどっていけば、自然に行き当たる事柄のように思います。そうした視点から、幻の“王道楽土”の現在的な意味を考えるための素材を提供できるよう、精一杯の努力をしたつもりです。切手収集家の方はもちろん、満洲国や昭和史に興味をお持ちの方にも関心を持っていただける一冊に仕上がったのではないかと考えております。 奥付上の刊行日は今月30日ですが、配本日は26日ですので角川選書の棚のある大手書店の店頭には、来週半ばには並んでいると思います。店頭で画像の表紙の本をお見かけになりましたら、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2006-09-18 Mon 00:44
今日は“918”。ちょうど75年前の1931年、いわゆる満洲事変の発端となった柳条湖事件の起こった日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、満洲事変の1周年に際して満洲国で用いられた特印(特殊通信日付印の略。要は記念の消印)です。 中国にとっての9月18日は日本による侵略戦争の始まった日という位置づけですが、満洲事変の結果として誕生した満洲国にとっての9月18日は建国記念日に次いで自らのルーツとして慶賀すべき日付でした。 このため、事変の1周年にあたる1932年9月18日、発足間もない満洲国交通部はここに挙げたような特印を使用することになりました。そんなに重要な日付なら記念切手を発行してもよかったじゃないかという声も聞かれそうですが、建国後の混乱の中で満洲国最初の通常切手(画像で取り上げられているものは、その一例です)が発行されたのが7月26日のことでしたから、とても記念切手を発行するような余裕はなかったと見るのが自然でしょう。 さて、画像でご紹介しているのは満洲国と朝鮮との国境の町・安東(現・丹東)で押されたもので、年号は満洲国の元号である“大同元年”と表示されています。 印の上部にはコウモリが描かれていますが、これは、コウモリを吉鳥として尊ぶという中国の伝統(蝙蝠の「蝠」の字が「福」と同じ発音であることに由来する)に従ったものです。なお、日本語の“コウモリ”の語源は、“カハホリ”の音便、蚊を好むところからカモリ(蚊守)の義、カハヤ(厠)モリの義とする説がありますが、いずれも、おめでたいという感じではありませんね。この辺は、彼我の感覚の違いということなのでしょう。 さて、以前からたびたびこのブログでもご案内しておりますが、あと1週間ほどで拙著『満洲切手』(角川選書)が刊行となります。同書の図版には今回ご紹介している特印も含まれていますので、無事に刊行の暁には、コウモリ神社として知られる天間舘神社(青森県)にでも本を1冊奉納したら少しは売上が伸びるかもしれないな…などと考えている今日この頃です。 |
2006-09-15 Fri 01:19
NHKラジオ中国語講座のテキスト10月号が出来上がりました。今回は刊行日の9月18日が満洲事変75周年の当日ですし、なにより、26日刊行の拙著『満洲切手』のプロモーションを兼ねた内容にしたかったので、満洲国関連の日本切手(具体的には、1935年の皇帝訪日の記念切手と1942年の満洲国建国10周年の記念切手の2件)を取り上げました。その中から、今日はこの1枚をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)
この切手は、1942年9月15日に日本で発行された「満洲帝国建国10周年」の記念切手で、地球の上を日満両国の子供が手をつないで歩く図案が取り上げられています。 満洲事変の後、満洲国が建国を宣言したのは1932年3月1日のことで、満洲国は毎年この日を建国節(建国記念日)としていましたが、建国10周年の記念式典は3月1日ではなく、1932年に日満議定書が締結された記念日(=日本による満洲国承認記念日)の9月15日にあわせて、新京(現・長春)郊外の南嶺総合競技場と東京の日比谷公会堂で行われました。 満洲国は漢族・満州族・蒙古族・朝鮮族と日本人の“五族協和”を理想に掲げて建国を宣言したものの、実質的には、国家の実権は日本人の手に握られており、諸外国は満洲国を日本の属国とみなしていました。日本による国家承認の記念日にあわせて、記念式典が行われたことは、そうした日満両国の特殊な関係を象徴的に示しているといってよいかもしれません。 さて、記念切手は日満両国で、3月1日と9月15日の2回に分けて発行されましたが、今回ご紹介しているのは日本側で9月15日に発行されたものの1枚です。 日本切手の中で子供の姿が取り上げられたのは、これが最初のことでした。おそらく原画作者の大塚均としては“日満一体”の関係がずっと続いていく未来を、将来の可能性に満ちた子供の姿によって表現しようとしたのでしょうが、実際には、この切手が発行されてから約3年後の1945年8月、日本は太平洋戦争に敗れ、満洲国もあっけなく崩壊してしまったのは周知の通りです。 満洲国の建国10周年に関しては、日満両国が記念切手を発行しているほか、日中戦争下の日本軍占領地域でも記念切手が発行されています。また、各種の特印や葉書なども入れると、関連するマテリアルはかなりな種類にのぼります。 9月26日に角川選書の1冊として刊行の拙著『満洲切手』では、そうした建国10周年関連のさまざまなマテリアルから、当時の満洲社会の諸相を多角的に読み解いてみました。刊行の暁には、是非、お読みいただけると幸いです。 |
2006-09-14 Thu 01:27
民主党の小沢一郎代表が無投票で再選されました。というわけで、こんな切手を引っ張り出してきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1949年10月30日に発行された「緯度観測所50年」の記念切手です。 1895年9月、ベルリンで開かれた国際測地学協会の総会で、緯度の共同観測を行うことが決められ、その観測地として、北緯39度8分にある、イタリアのカルロフォルテ、アメリカのゲイザースバーグとシンシナティ、ユカイア、日本の水沢(岩手県)、ロシアのチヤルジュイが選ばれ、1899年の秋から冬にかけて、この6ヵ所で緯度観測が開始されました。これに伴い、当時30歳の木村栄を責任者として設置されたのが、水沢の緯度観測所(当初の名称は臨時緯度観測所)です。 さて、1900年に入り、各地の観測結果がドイツ・ポツダムの測地学研究所に置かれていた国際測地学協会中央局に報告されたところ、水沢の観測結果が精度50点で最低との結果が発表されます。これに納得のいかなかった木村は、“失敗”の理由は緯度変化を求める公式じたいに誤りがあるためと考え、1902年、従来のX項・Y項に加え、Z項を用いた新たな公式を発見。この新公式に基づいて計算したところ、水沢の観測結果は圧倒的に精度が高いことが判明しました。木村は一躍世界的な天文学者としての地位を獲得します。 なお、1899年に緯度観測を開始した水沢を含む6都市のうち、世界大戦などの困難を克服して50年間観測を継続しえたのは水沢とユカイアのみでした。このことは、敗戦により自信を失っていた当時の日本人を大いに勇気づけています。 1949年は、上記のような水沢緯度観測所の創立50周年にあたっていたことに加え、水沢出身の幕末の偉人・高野長英の自刃100周年ならびに水沢の町制施行60周年、水沢駅開設70周年など、水沢にとって記念事項の多い年となっていました。この時期に郵政大臣の地位にあったのが、水沢を選挙区としていた小沢佐重喜、つまり小沢一郎の父親でした。 こうしたことから、地元サイドは、町の記念日にあたる10月30日に記念切手を発行するよう、小沢に強く働きかけます。この結果、記念切手は、観測所の創立記念日にあたる12月12日ではなく、10月30日付で発行されることになりました。 ところで、今回の切手発行から4日後の1949年11月3日から、いわゆる文化人切手(当時は“文化切手”と言われていた)の発行が始まりましたが、それに先立つ10月27日の新聞発表で、シリーズの一枚に水沢緯度観測所の所長だった木村栄が取り上げられることも公表されています。 実際に木村の肖像を描く切手が発行されたのは1952年9月のことでしたが、それにしても、わずか3年ほどの間に、それまで一般にはほとんど無名だった水沢緯度観測所関連の切手が二回も発行されているのは、やはり、なんらかのかたちで小沢佐重喜の影響力が働いたものと考えるのが自然なように思われます。 なお、この切手や文化人切手などを含む終戦直後の記念切手に関しては、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅰ)濫造・濫発の時代 1946-1952』でまとめていますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。 |
2006-09-13 Wed 08:54
まずは、このカバー(封筒)を見ていただきましょう。(画像はクリックで拡大されます)
これは、太平洋戦争中の1944年4月9日、ガダルカナル島のヘンダーソン基地から差し立てられたアメリカの軍事公用便のカバーです。ガダルカナル島での日米の激戦については、過去の記事をお読みいただくとして、今回は、封筒の右上に印刷されている注意書きにご注目いただきたいと思います。 注意書きには、「郵便料金を払うのが嫌で(この封筒を)私用で使った場合の罰金は300ドル」と書かれています。当時のアメリカの郵便料金は書状1通(基本料金)3セントですから、罰金はその1万倍ということになります。現在、日本の郵便料金は80円ですから、罰金の金額は、感覚的に80万円ということになるのかもしれません。いずれにせよ、非常に高額です。 今回ご紹介しているカバーは、別に珍しいものでもなんでもなく、至極ありふれたものですが、日常的にこうした表示のある封筒を目にしている人たちは、見つかれば莫大な金額の罰金を払わされるリスクを犯してまで、3セントの郵便料金をケチろうとは、普通、考えないでしょう。 飲酒運転による事故が後を絶たないことから、事故の加害者に対する刑罰を引き上げることが検討されています。そのことじたいは賛成なのですが、厳罰を課すことによる抑止効果を期待するのであれば、そのことを周知徹底しなければ効果は半減してしまうように感じるのは僕だけでしょうか。 10代の頃、カービン銃ギャング事件の主犯で元死刑囚(2審で無期懲役に減刑)の大津健一の回想録を読んだことがありますが、その中で印象に残っているのが「強盗・強姦バカがする」といった発言です。大津によると、強盗なり強姦なりをして逮捕されて刑務所に入ってくる連中の大半は、自分たちの犯した罪に対する刑の重さを知らず、判決を聞いてビックリするのだそうです。そこから、大津は小学校の頃から、殺人を犯せば懲役X年、強盗はX年、放火はX年などと繰り返して教えていれば、自然と抑止効果があがるのではないかと提案しています。 日本の刑罰は、理論上は、懲罰ではなく犯罪者を教育し更生させるためのものということは僕とて理解しています。ただ、現実の問題としては、起こってしまった犯罪を裁くことよりも、そもそも、犯罪が起きないようにすることのほうが大事なわけで、その意味では、犯罪に対する刑罰の“レート”を理解させ、割に合わないことをしないように思いとどまらせることは重要じゃないかと思います。 飲酒運転に関しても、厳罰化を進めるのであれば、一体どれほどの刑が待ち受けているのか、“ひき逃げ”や証拠隠滅をすれば、正直に自首した場合と比べてどれほどの刑が加算されるのか、といったことを、具体的な数字を挙げて、もっと周知徹底すべきでしょう。法律に関しては“知らなかったほうが悪い”というのが建前ですが、現実には、六法全書を家庭に備えて常に参照している人なんて滅多にいないのですから、法律が改正されたときにだけその内容が報じられておしまい、というのでは、いかにも不十分なように思われてなりません。 |
2006-09-12 Tue 02:49
帰宅したら、中国切手研究会(CPS)の会報が家に届いていました。会報をめくっていたら、このブログのことも紹介されていたので、ちょっと嬉しくなりました。
というわけで、今日はこんなものをご紹介したいと思います。(画像はクリックで拡大されます) これは、満洲国建国後の1932年4月18日、豊楽鎮(現在の行政区分だと、黒龍江省大慶地級市の肇州県内にあります)から差し出され、甜草崗(肇州県の東辺にあり、現在は黒龍江省綏化地級市に属する肇東市となっています)を経由してオーストリアのウィーン宛に差し出されたカバー(封筒)の一部です。 画像は、カバー裏面の切手と消印の部分のみですが、表の画像はこんな感じです。孫文の肖像と彼の遺訓である「革命、いまだ尚成功せず」のスローガンが入っているのが、満洲国の建国に抵抗の意志を示そうとしている差出人の心情を表現しているようで、なかなか、興味深いといえます。 1932年3月1日、満洲国の建国が宣言されましたが、満洲国が独自の切手を発行できたのは7月26日のことでした。この間、満洲国内の郵便は、従来どおり、中華郵政が担っており、中国切手が使用されていました。 今回ご紹介しているカバー(1932年4月18日の差出)には、中華郵政が東三省で使用するために「限吉黒貼用」の文字を加刷した2角5分相当の切手が貼られていますが、これは中華郵政の料金体系で万国郵便連合加盟国宛の書状料金に相当しています。なお、消印の年号表示も満洲国の大同年号ではなく、中華民国暦21年(=1932年)と表示されています。 このカバーも、8月25日のカバー同様、9月26日刊行の『満洲切手』を制作するにあたって、あるCPS会員の方から譲っていただき、滑り込みで間に合わせたものです。 さて、拙著『満洲切手』の刊行まで、いよいよあと2週間となりました。今回の拙著では、今回のカバーも使いながら、満洲国の建国から最初の切手が発行されるまでのドタバタぶりについてもまとめてみました。その間の経緯は、切手や郵便史を離れて、歴史の物語としても結構おもしろいと思いますので、2週間後の刊行の暁には、是非、お読みいただけると幸いです。 |
2006-09-11 Mon 00:06
2001年9月11日にアメリカで起こった同時多発テロ事件から5年が過ぎました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、事件翌日の2001年9月12日、東京からアメリカ宛に差し出されたものの、配達不能で差出人戻しになったカバー(封筒)です。 同時多発テロ事件はアメリカの中枢で起きただけに、その影響は多方面に及んでいますが、その痕跡は郵便物の上にも残されています。 例えば、事件後、アメリカとカナダの空港が閉鎖されたため、この両国に関係する国際的な物流ネットワーク(両国発着のみならず、両国を経由するものも含まれる)は途絶し、アメリカでは海外からの郵便物の引き受けも一時的に停止されました。これを受けて、事件翌日の9月12日、日本もアメリカ(サイパン、ハワイ、グアムを含む)、カナダおよび両国を経由して逓送される中南米諸国宛の航空郵便物の取扱を停止。すでにポストに投函されるなどした郵便物に関しては、今回ご紹介しているもののように、事情を説明した付箋がつけられて、差出人に返送されました。 なお、北米宛の郵便物は他の地域宛のものに比べてはるかに多いことから、東京国際郵便局では返送のための付箋をつける作業が職員総出(管理職は泊まり込み)で行われたそうです。また、日本から北米宛の航空郵便は、アメリカ・カナダの空港が業務を再開したことで、9月16日には再開されましたが、その後も郵便物の配達が大幅に遅れるなどの混乱が続きました。 事件の起こった日のことは、今でも鮮明に覚えています。 その日は夕方から映画評論家の四方田犬彦さんとお会いしていろいろとお話し、白金のピツェリアで軽く一杯やって良い気持ちで帰宅してテレビをつけたところ、WTCビルが炎上している場面がライブ映像で流れていました。事情がよく飲み込めないままテレビを見ていたら、2機目の飛行機がビルに突っ込み、一気に酔いが吹っ飛びました。不謹慎ですが、咄嗟に、アメリカ宛の郵便は途絶になるだろうから、いますぐアメリカ在住の友人宛に手紙を出さなくっちゃ、と考えたのはフィラテリストの悲しい性といえるのかもしれません。(結局、手紙は出さずに、付き合いのある出版社の方から、今回のカバーを譲ってもらいました) ところで、事件の数日後、すでに『反米の世界史』の制作作業を始めていた僕は、講談社現代新書の名物編集長だったUさんに「この際だからフィリピンやらベトナムの話をカットして、中東の話で1冊にまとめたほうが良いんじゃないでしょうか」と相談したのですが、Uさんからは「急がなくていいから、当初の予定通りやりましょうよ」といわれて、結局、当初の予定通り、ハワイ、フィリピンから始まる『反米の世界史』の作業を続けることになりました。(ただし、刊行時期は当初の予定から大幅に遅れましたが) で、その代わりにと言っては変なのですが、「誰か中東ネタで面白いものが書けそうな若い子はいないか」とUさんから聞かれて、僕が名前を出したのが大学時代の後輩、池内恵さんでした。これをきっかけに、池内さんがお書きになったのが、名著『現代アラブの社会思想』です。まぁ、今じゃ、すっかり池内さんは大物になってしまい、むしろ、僕のほうが仕事を紹介してもらいたいくらいです。 なお、同時テロ事件の後、猪瀬直樹さんの出版記念パーティでダイヤモンド社のTさんとお会いして、それがきっかけで、都内の某大学で教えていた際の講義ノートを出版化することになったのが『なぜイスラムはアメリカを憎むのか』です。 こうして振り返ってみると、あの事件は、現場から遠く離れた極東のチンピラ物書きの生活にもそれなりの影響を及ぼしたんだなぁと、なんだかしみじみ感じ入ってしまいます。 |
2006-09-09 Sat 00:38
1976年9月9日に毛沢東が亡くなって、今日で、ちょうど30年になります。毛沢東の切手というのは非常に種類が多いのですが(ちなみに、以前、僕は『マオの肖像』という本を作ったこともあります)、その中でも今日は、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
この切手は、1945年10月(7月説もあります)、中国共産党(以下、中共)支配下の“山東解放区”で発行された「中国共産党第7次全国代表大会」(以下、7代大会)の記念切手で、毛沢東の肖像が大きく取り上げられています。 7代大会は、1945年4月23日から6月11日(50日間の会期)にかけて延安の楊家嶺中央大講堂で開催されました。大会に出席した正式代表は547人、候補代表は208人で、全国の121万の党員を代表していたとされています。 大会の主要な議事日程は、毛沢東による政治報告(『聯合政府論』)、劉少奇による党規約の改正報告、朱徳による軍事報告(『解放区の戦場を論ずる』)、周恩来による報告(『統一戦線を論ずる』)、任弼時による党の歴史問題に関する報告、新しい党規約の制定、新しい中央委員会の選挙でした。大会の開会に際して、毛沢東は『愚公、山を移す』のエピソードを引いて演説をしたことが知られています。 さて、『人民中国』の日本語版によると、この大会は「毛沢東思想の全党における指導的地位を確立し、歴史の経験を総括して新民主主義の新中国を作り上げるために、正しい路線、方針、政策を制定して、思想的、政治的、組織的に、全党をかつてないほど団結させた。」と書いてあって、イマイチわかりづらいのですが、本音の部分での大会の最大の眼目は、抗日戦争の終結後の対応をどうするか、という点にありました。 実際、このときの大会で、毛沢東は「もし、我々が全ての根拠地を失っても、東北さえ確保できれば、それで中国革命の基礎を築くことができる」と発言しており、日本降伏後、満洲国が解体されたら、国民政府がよりも前に中共側が東北に進駐して、“解放区(共産党支配地域)”を拡大する方針が固められています。 なお、9月26日に角川選書の一冊として刊行予定の拙著『満洲切手』では、満洲国崩壊後、満洲国の“遺産”をめぐる中共の対応についても簡単にまとめてみましたので、是非、お読みいただけると幸いです。 |
2006-09-08 Fri 08:10
今日(9月8日)は、1951年にサンフランシスコ講和条約の調印記念日です。というわけで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、「平和条約調印」の記念切手のエッセ(実際には発行されなかった試作品)です。実際に発行された切手(下の画像)と良く似ていますが、良く見ると、旗のはためき具合がちょっと違っているのがお分かりになると思います。 国家の一大慶事である講和条約調印に際して記念切手を発行するということは、すでに1947年の段階で企画されていました。もっとも、この時点では講和条約がいつ、どのような内容で調印されるかという点については、全く白紙の状態であったため、“条約成立”記念切手の発行も、あくまでも“期日未定”の仮定の話の域を出ていませんでした。 講和条約の記念切手発行が正式に決定され、具体的な実務作業が開始されるようになったのは、1951年7月になって、講和会議が9月上旬に行われることが確定してからのことです。 「平和条約調印」の記念切手は戦後の記念切手の中でも最も重要なものと位置づけられていたため、期日が切迫しているにもかかわらず、題材の選定は慎重に行われ、議事堂や平和の鳩、握手する手、菊花など、郵政省の各デザイナーにより7種の下図が作られ、その中から笛を吹く天女、鳩を持つ少女、菊花の3種類が候補作とされました。 これらの候補作品は、7月21日、緊急に召集された郵政審議会図案審査会に提出されましたが、審査会は郵政省提出の原案を全面的に改め、菊花と国旗が題材として取り上げられることになります。 急な変更でしたが、講和条約の記念切手ということで印刷庁側の士気はきわめて高く、特に、占領下では日陰者の扱いであった日章旗が表舞台にようやく復帰するということもあって、国旗を描く8円切手に関しては旗のはためき具合などを調整するために刷り上った製品の半分近くを廃棄してまで作り直しが行われるなど、休日返上のハードスケジュールで作業が続けられました。このため、今回ご紹介したようなエッセが発生することになったというわけです。 いまから10年前、今回ご紹介のエッセを「戦後記念切手の専門書で図版として使いたい」と頼まれて貸し出したことがあるのですが、その本の解説で「目打もれ横3枚ストリップは、郵便局の窓口から、正規に発売されたものではない。欧米の郵趣用語では“Printers Waste”(印刷廃紙)と呼び、エラーとは言わない」などとトンでもない大嘘の説明をされて困惑したことがあります。その後、その出版社と解説者には抗議しましたが、結局、訂正広告などは出してもらえませんでしたので、僕自身が自分の本で使うときには、今回のマテリアルはエッセであることをくどいくらいに強調してきました。今日の記事も、そうした名誉回復のための一環というつもりです。 なお、「平和条約調印」の記念切手に関しては、今日ご紹介した以外にもいろいろとエピソードがあるのですが、それらについてご興味をお持ちの方は、拙著『解説・戦後記念切手 濫造・濫発の時代 1946-1951』をご覧いただけると幸いです。 |
2006-09-06 Wed 02:19
昨日の記事では、北朝鮮の炭鉱のことを取り上げましたが、今日は、その続編ということで、この切手をネタに、韓国の炭鉱労働者の話を取り上げることにしましょう。(画像はクリックで拡大されます)
この切手は、朴正煕政権下で行われた第1次経済開発5ヵ年計画(1962~66年)を宣伝するため、1963年に発行された切手の1枚で、採炭車と炭鉱労働者が取り上げられています。 1963年当時の韓国社会において、石炭産業は5ヵ年計画における重点項目となっていただけではなく、外貨獲得のための重要な機会になっていました。といっても、北朝鮮に比べて石炭の埋蔵量が豊富とはいえない韓国は、石炭を輸出することで外貨を獲得しようとしたわけではありません。 1963年当時、韓国では公式統計に現れただけでも失業者は250万名にものぼっており、深刻な社会問題化していました。一方、韓国同様、東西冷戦下の分断国家であった西ドイツは、この頃、深刻な労働力不足に悩んでいました。このため、西ドイツ側が、月収600マルク(米ドル換算で160ドル)の条件で、ルール炭鉱で働く韓国人労働者を募集すると、100倍を越える希望者が殺到。その後、1978年までに7800人余りの“派独鉱夫”がルール炭鉱に渡ることになります。 “派独鉱夫”の労働は非常に苛酷なもので、1966年12月、3年間の雇用期間を終えて帰国した第一陣(142人)のほとんど全員がドイツ滞在中に骨折を経験していたほか、失明者・死亡者も少なからずいたといわれています。 “派独鉱夫”が西ドイツで受け入れられると、これにつづいて、月収440マルクの条件で、韓国人女性が看護婦として西ドイツに派遣されるようになります。彼女たちもまた、死体洗浄など、ドイツ人の嫌がる重労働を担い、激務をこなしていました。 “派独鉱夫”および“派独看護士”による本国への送金は、まだまだ貧しかった当時の韓国に貴重な外貨をもたらし、その額は、一時GNPの2%台に達したこともあったといわれています。このため、1964年12月、ルール炭鉱を訪れた朴正煕は“派独鉱夫”のブラスバンドが演奏する愛国歌に感激し、涙ながらに彼らへの感謝の演説を行ったというエピソードもあります。 このように、“派独鉱夫”の存在もあって、1960年代半ばの韓国と西ドイツの関係は非常に良好でした。 ところが、1967年7月、いわゆる“東ベルリン事件”で両国の関係は一挙に暗転します。 事件は、東ベルリン(当時)を拠点とした北朝鮮の工作員が、欧米在住の研究者、留学生、芸術家等に工作資金を渡してスパイ活動を行っていたというもので、裁判の結果、趙栄秀、鄭奎明の2名に死刑判決が下ったほか、32名の被告全員が有罪判決を受けました。 事件そのものも充分に衝撃的なものでしたが、それ以上に、国際問題化したのは、韓国中央情報部による調査の手法です。すなわち、中央情報部は、事件の容疑者を滞在国であるドイツやフランスの主権を無視して、直接、韓国に連行してしまったため、西ドイツ、フランス両国政府は韓国政府に釈明を要求。特に、西ドイツでは“拉致事件”に対する学生の抗議デモが行われ、駐韓大使が本国に召還されたほか、西ドイツの対韓援助も中止寸前に追い込まれています。 あわてた韓国政府は、急遽、大統領特使を派遣したものの、やはり、西ドイツとの関係は冷却化してしまいました。 それにしても、韓国による東ベルリン事件や後の金大中事件、北朝鮮による一連の日本人拉致など、南北共に政府が関わった外国での拉致事件というものが何度も繰り返されてきたというのは、日本人の感覚からすると、ちょっと驚かされます。まさか、拉致が朝鮮民族の伝統的な習慣というわけではないんでしょうけれど、他国で真面目に生活している韓国人・朝鮮人にとっては、なんとも迷惑な本国政府の仕儀といえましょう。 |
2006-09-04 Mon 02:13
バスケットボールの第15回男子世界選手権でスペイン悲願の初優勝を果たしたのだそうです。というわけで、こんなモノを引っ張り出してみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、スペイン内戦中の1937年11月、国民政府(フランコ側)地域のコルーニャからアメリカ宛に差し出されたカバー(封筒)で、封筒の左側に戦時税を集めるための10センティモスのローカル切手が貼られ、“Viva Espana(スペイン万歳)”のスローガンの印が上から押されています。カバーの右側には、このカバーが当局によって開封・検閲された痕跡があって、当時の緊張した雰囲気が生々しく伝わってきます。 1936~39年の内戦時代、スペインでは、共和国側とフランコ側のふたつの政府が並存しており、それぞれの政府はそれぞれの実行支配地域で別個の切手を発行していました。さらに、正規の切手に加え、地方の各都市では、それぞれの中央政府が発行するものとは別に、戦時税を集めるためのローカル切手(戦時税切手)やラベルが独自に発行され、郵便物にも貼られることがありました。 今回ご紹介しているカバーの切手もそのうちの一つで、ドン・キホーテを思わせる騎士と国旗をはさんで、切手の上部には“祖国のために”、下部には“スペイン万歳”というスローガンがそれぞれ入っています。 この類の切手は、未使用はゴロゴロ転がっていて安いのですが、実際に郵便に使われたものを探そうとすると、案外、苦労します。このカバーの場合、本体の郵便料金が切手ではなくメータースタンプで納付されているのが残念ですが、ローカル切手を抹消しているのが切手にも書かれている“VIVA ESPANA”のスローガン印ですし、右側の封緘紙も“戦時検閲(Censura Militar)”の文字が読めるように貼られているのは嬉しいところです。 なお、今年3月に刊行した拙著『これが戦争だ!』では、ごくごく簡単にではありますが、フランコ側のみならず、共和国側の“ローカル切手”についてもいくつかのサンプルをご紹介していますので、ご興味をお持ちの方はご覧いただけると幸いです。 |
2006-09-03 Sun 01:47
現在、(財)日本郵趣協会の会員大会のため、大阪に来ています。昨日は、旧水原コレクションの「中国東北郵便史」のリニューアル展示のお披露目があり、構成者の稲葉良一さんの講演と展示解説もあり、興味深く拝見・拝聴いたしました。稲葉さんには、満洲に関する僕の過去の記事についていろいろとアドバイスを戴いたので、『満洲切手』の刊行までに、直すべきところを直したいのですが、時間的にちょっと難しいかもしれません。まぁ、再版の時には必ず直しますが…。
というわけで、せっかくなので満洲と大阪の両方に絡んだブツが何か手元にないかなと思って探してみたら、こんなものが出てきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1938年1月、満洲国随一の製鉄所・昭和製鋼所のあった鞍山から大阪宛に差し出されたカバー(封筒)で、日本切手と満洲切手が混貼されています。 1932年に満洲国が建国された後も、同国内の満鉄付属地は日本の支配下に置かれ、満洲国の権力が及ばない治外法権地域になっていました。 しかし、1937年11月5日に締結された「滿洲國ニ於ケル治外法權ノ撤廢及南滿洲鐵道株式會社附属地行政權ノ委譲ニ關スル日本國滿洲國間条約」により、同年12月1日をもって満鉄附属地は撤廃され、満洲国における日本の治外法権は消滅。これを受けて、旧満鉄附属地内に設置されていた日本の郵便局は閉鎖され、旧付属地でも日本切手に代わり満州国の切手が使用されることになりました。 もっとも、既に発売済みの日本切手に関しては、猶予期間として、治外法権の撤廃から3ヶ月後の1938年2月末日までは満鉄附属地発の郵便には有効とされたほか、4月末日までは、満洲国の郵便局に持ち込めば、額面で日本円1銭=満洲円1分の計算で満洲国の切手と交換することも可能でした。 こうしたことから、1937年12月から1938年2月までの猶予期間の間、旧満鉄附属地から差し立てられた郵便物の中には、日本と満州国の両方の切手を混ぜて貼ったものが存在することになります。 今回ご紹介しているカバーは、その実例で、1938年(消印上の日付は、満州国年号で康徳5年と表示されています)1月21日、鞍山から大阪の大手建設会社・大林組の社長宛に差し出されたものです。貼られている切手は、日本の3銭切手と満州国の1分切手で、これは、当時の書状基本料金の4銭(または4分)に相当しています。 ただし、この郵便物は重量オーバーで倍額の8銭(または8分)を本来支払わなければならなかったため、到着時に郵便を取り扱った大阪東郵便局は受取人から不足料金を徴収することになりました。 ところが、このときの大阪東郵便局では、この郵便物が上記のような移行期間内に差し出されたものであることを知らなかったためか、貼られている1分の満州国切手の分までをも無効扱いとして処理しています。この結果、本来、受取人から徴収されるべき不足料は、不足額4銭の倍額8銭で済むはずなのですが、郵便局側は、5銭の不足として倍額10銭を受取人から徴収してしまいました。 まぁ、満鉄付属地というところは、郵便も含めて、各種の制度や法令・規則がめまぐるしく変わっていますから、プロの郵便局員でさえも勘違いしてしまうというのも、無理からぬことといえるのかもしれません。 さて、今月26日に刊行予定(予定が変更となりました)の拙著『満洲切手』でも、こうした満鉄付属地の郵便について1章を割いてまとめてみました。機会があれば、是非、ご覧いただけると幸いです。 |
2006-09-02 Sat 00:47
昨日の日記にもちょろっと書きましたが、今日・明日(2・3日)の2日間、(財)日本郵趣協会の会員大会で大阪まで行ってきます。というわけで、大阪がらみの切手の中から、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1970年の大阪万博に際して、アフリカのマリが発行した記念切手です。 貧しい途上国が、外貨稼ぎの一環として日本人コレクターを意識した切手を本格的に発行するようになるのは、東京オリンピック(1964年)後の1960年代後半に入ってからのことで、1970年の大阪万博はその最初のピークになりました。 今回の切手を発行したマリは、アルジェリアの南側にあるムスリム国家で、1960年にフランスから独立したものの、綿花を主たる産業とする農業国で、さしたる輸出産業もないことから、切手の輸出による外貨の獲得にも力を入れていることで知られています。 大阪万博に際しては、当然のことながら、パヴィリオンを出展する余裕などありませんでしたが、そうしたことにはお構いなしに記念切手を発行しているのは、いつもの通りです。ちなみに、当時のマリは日本に大使を派遣していませんでしたが、日本側もマリには大使を派遣しておらず、隣国のセネガル大使館が業務をかねているというありさまで、端的にいってしまえば、両国の関係ははなはだ希薄でした。 さて、そうしたマリが大阪万博に際して発行した今回の切手には、左側にマリの首都バマコを背景にしたマリの女性が、右側に“大阪道頓堀”を背景にした日本女性(切手発行に際して発表された資料による)が、それぞれ描かれています。 このうち、“日本女性”の顔つきは、我々の目からすると、日本人の顔というよりも、アフリカ諸国の木彫の民芸品によく見られるような表情となっています。また、女性の着物が振袖ではなく、裃のようなスタイルになっているのは、かなり珍妙ですし、手にしている扇子も、どうみても日本的とは言いがたく、デザイナーの脳内世界ででっちあげられた“ゲイシャ・ガール”の雰囲気がプンプン漂ってきます。 もっとも、この切手を制作したデザイナーがまだ存命で、ひところ東京・渋谷界隈にはびこっていたガングロ系の女子高生の映像なんかを見たら、「ほれ見ろ、やっぱり俺の描いた日本女性の姿は、大筋で間違っていなかったじゃないか」というなんてことが…やっぱりあるわけないですよね。 なお、この手の外国で発行されたトンでも系のフジヤマ・ゲイシャの切手に関しては、拙著『外国切手に描かれた日本』でも詳しくご説明していますので、興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。 |
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