2021-07-31 Sat 03:11
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(30日)は、柔道女子78キロ超級の素根輝とフェンシング男子エペ団体の日本代表が金、バドミントン混合ダブルスの渡辺勇大・東野有紗組が銅、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ことし(2021年)7月23日(五輪開会式の日)、ルーマニアが発行した東京五輪の記念切手のうち、フェンシングを取り上げた1枚です。ちなみに、ルーマニアがフェンシングでメダルを獲得したのは、2016年のリオデジャネイロ五輪のフェンシング女子エペ団体での金メダルが最初で、今大会では、アナマリア・ポペスクが女子エペ個人で銀メダルを獲得しています。 さて、わが国におけるフェンシングの歴史は、西洋の軍人のたしなみであった剣技を陸軍が導入すべく、1884年、陸軍卿・西郷従道の命を受けた陸軍戸山学校が“片手軍刀術”を教えるフランス人教官を募集したのがルーツとされています。 1896年にアテネで第1回近代オリンピックが開催されると、フェンシングも正式種目として採用されましたが、当時は競技方法やルール等がまちまちだったため、国際大会が開催されるたびにさまざまなトラブルが発生しました。このため、1914年6月、パリで開催されたIOC国際会議で統一的な「競技規則」が採用され、現在のフェンシングの基礎が確立されます。 ところで、岩倉具視の養子・具綱の孫にあたる岩倉具清は、この時代にフランスのグルノーブル大学に留学し、趣味としてフェンシングとその統一ルールを習得して1932年に帰国。帰国後は駐日アルゼンチン公使館に勤務し、1935年、アルゼンチン臨時代理公使アルトゥーロ・モンテネグロらの後援を得て“日本フェンシング倶楽部”を設立し、スポーツとしてのフェンシングを日本に紹介しました。 五輪のフェンシング競技への日本代表の派遣は、1952年のヘルシンキ五輪に、慶應OBの牧真一が“視察員”の名目で、事実上のフェンシング日本代表として参加したのが最初で、さらに、1956年のメルボルン五輪には同じく慶應OBの佐野雅之が“視察員”の名目で出場しました。日本フェンシング協会が正規の選手団を派遣したのは1960年のローマ五輪が最初で、1964年の東京五輪では男子フルーレ団体が4位に入賞しました。 五輪でのメダルは、2008年の北京五輪の男子フルーレ個人で太田雄貴が銀メダルを獲得したのが最初で、続く2012年のロンドン五輪でも男子フルーレ団体で銀メダルを獲得。今回の東京五輪で、悲願の金メダル到達となりました。 * 昨日(30日)、アクセスカウンターが238万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月2日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-30 Fri 03:24
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(29日)は、柔道女子78キロ級の浜田尚里、柔道男子100キロ級のウルフ・アロンが金、卓球女子シングルスの伊藤美誠が銅、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、昨年(2020年)6月2日、リヒテンシュタインが発行した今回の東京五輪の記念切手で、現地在住の日本人画家、山野敬子の原画による柔道が取り上げられています。 リヒテンシュタインはスイスとオーストリアに挟まれた欧州の小国です。オーストリアの貴族だったリヒテンシュタイン家は、その財力を活かし、1699年にシェレンベルク男爵領を、1712年にファドゥーツ伯爵領を購入し、1719年、神聖ローマ帝国の諸侯となってリヒテンシュタイン侯国を建国しました。その後、1806年に神聖ローマ帝国が崩壊すると独立国となり、1815年にドイツ連邦に加盟。1852年にオーストリアと関税同盟を締結し、1866年の普墺戦争を経てドイツ連邦が解体されると、戦後の軍縮交渉に便乗して1867年、非武装の永世中立国を宣言したこともあり、その後は、事実上、オーストリアの一部とみなされていました。 第一次大戦の結果、ハプスブルク帝国が崩壊すると、1919年、リヒテンシュタイン家はオーストリアとの関税同盟を解消したうえで、スイスとの合意により軍事・外交をスイスに委託。さらに、1921年には憲法を改正してスイスフランを通貨とし、1923年にはスイスと関税同盟を結び、国境にはスイスの関税官が常駐することになりました。 こうしてリヒテンシュタインは経済的にはスイスと一体化する一方、タックス・ヘイブンとして、税金免除を目的とした外国企業のペーパーカンパニーを積極的に誘致。この結果、人口よりも法人・企業の登記数が多いという状況で、そうした企業の収める法人税(税収の4割を占めています)により一般国民は直接税(所得税、相続税、贈与税)が免除されています。なお、EUとの課税に関する条約を調印していることから、国内にあるEU市民の預金に関しては利子に課税されることになっていますが、リヒテンシュタイン政府は預金者の情報を相手国に通知せず、一括して課税分を相手国に支払うという措置が取られています。 さて、今回の東京五輪は、当初、2020年7月24日から8月9日までの日程で開催の予定でしたが、同年3月24日、新型コロナウイルス禍により1年延期となりました。しかし、リヒテンシュタイン側は、当初の開催スケジュールにあわせて同年6月に切手を発行すべく、すでに切手の印刷も終えていたため、記念切手の発行は会期に合わせて延期されず、当初の予定通り2020年6月の発行となりました。 切手の原画を担当した山野敬子は、大学卒業後、大学の英語講師・翻訳家として活動していましたが、2000年にクモ膜下出血で倒れて臨死体験をし、その際に“光りに溢れた世界”を見たことが画家を志した原点だそうです。その後、リヒテンシュタインに移住し、“心象画家”として、日本の伝統的な色彩や書道の手法を活かした油彩作品を発表しています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月2日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-29 Thu 03:29
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(28日)は、競泳女子200メートル個人メドレーの大橋悠依(400メートル個人メドレーに続いての2冠)、柔道女子70キロ級の新井千鶴、体操男子個人総合の橋本大輝が金、競泳男子200メートルバタフライの本多灯が銀、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ことし(2021年)6月29日にイスラエルが発行した今回の東京五輪の記念切手のうち、水泳を取り上げた1枚です。切手本体には、イスラエル国旗をイメージした青の曲線の間に、飛び込んで水に入る瞬間の女性選手の背中が描かれており、タブには男性選手が描かれています。昨日の水泳の日本選手のメダルは男女一つずつでしたので、男女がそれぞれ取り上げられたマテリアルということで持ってきました。 1948年5月に建国を宣言したイスラエルは1952年のヘルシンキ大会から五輪に参加し、前回のリオデジャネイロ大会までに夏季五輪では総計9のメダル(セーリングで金1、銅2、柔道で銀1、銅4,カヌーで銅1)を獲得しています。 五輪とイスラエルの関係では、イスラエルの代表選手そのものよりも、イスラエル国家の存在を(公式には)認めていないアラブ諸国・イスラム諸国出身の選手がイスラエル選手との対戦を拒否する(またはそのように本国政府から強要される)ことがしばしば問題になります。 今大会でも、柔道男子73キロ級に出場する予定だったアルジェリアのフェティ・ヌリンが、組み合わせの結果、1回戦でスーダンのモハメド・アブダルラソールと対戦した後、2回戦でイスラエルのトハー・ブトブルと当たる可能性が生じたとして大会そのものを棄権しています。 また、柔道男子81キロ級で“モンゴル代表”として銀メダルを獲得したサイード・モラエイはもともとはイランの選手でしたが、2019年夏に日本武道館で行われた世界選手権の際、決勝でイスラエルの選手と対戦する可能性が高まったことから、イラン政府から試合を棄権する指示が入ったものの、これを無視して試合を続行。このため、「親が住む家に公安組織が待機している」と伝えられるなど、さまざまな圧力を受けています。 結局、モラエイは準決勝で敗れ、3位決定戦にも負けた後、ドイツに亡命し、棄権を迫られたことを公表。このことが世界に報じられたことで、イラン柔道連盟は五輪などを除く国際大会への出場資格停止処分を受け、モラエイは難民選手団として国際大会に復帰します。その後、2019年末にモンゴル国籍を取得したことで、今回の東京五輪では“モンゴル代表”として出場を決めたという経緯があります。 さらに、7月23日の開会式では、1972年9月のミュンヘン五輪で殺害されたイスラエル選手・コーチ11人を追悼する黙祷が行われたことも話題となりました。五輪開会式でミュンヘン大会の犠牲者を追悼するのは初めてのことです。 1970年にエジプト大統領のナセルが亡くなると、リビアの独裁者、カダフィはその衣鉢を継いで汎アラブ主義の後継者を自認し、PLO やその傘下のテロ組織を支援して反イスラエルの旗印の下でアラブ諸国を糾合しようとしました。このため、当時のファタハやPFLPのテロ活動の背後にはリビアの影が見え隠れすることも珍しくはありませんでしたが、その典型的な事例が、いわゆるミュンヘン五輪事件です。 ミュンヘン五輪開催中の1972年9月5日、ファタハが組織した秘密テロ組織の“ブラック・セプテンバー”は、五輪選手村でイスラエル選手団を人質にとって、イスラエル国内に収監されているパレスチナ人200人の解放を要求。銃撃戦の末、人質9名全員と警察官1名が死亡し、犯人側は8名のうちリーダーを含む5名が死亡し、残りの3名が逮捕されました。 ところが、同年10月29日、ブラック・セプテンバーのメンバー2人が、パルマ・デ・マリョルカ発フランクフルト行きのルフトハンザ615便をハイジャックし、人質となった乗客と交換に、ミュンヘン五輪事件で逮捕された3人の釈放を要求。これに対して、当時の西ドイツ政府は、イスラエル政府と協議することなく、即座にハイジャック犯の要求に応じ、収監中のブラック・セプテンバーのメンバー3人を釈放してしまいます。釈放された3人は、その後、“アラブの英雄”として堂々とリビア入りを果たしており、一連の事件にカダフィ政権が関与していることが明らかになりました。 なお、ミュンヘン五輪事件とその背景については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月2日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-28 Wed 00:27
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(27日)は、柔道男子81キロ級の永瀬貴規とソフトボールの日本代表(13年ぶりの連覇)が金、サーフィン男子の五十嵐カノアが銀、サーフィン女子の都筑有夢路、重量挙げ女子59キロ級の安藤美希子が銅、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ことし(2021年)6月5日、“新しい五輪競技”のテーマでドイツが発行したスポーツ振興の寄附金つき切手のうち、ソフトボールを取り上げた1枚です。 ソフトボールは、1887年、米国のジョージ・ハンコックがシカゴで冬季に野球を練習するためのスポーツとして考案したもので、当初は、インドア・ベースボールないしはプレイグラウンドボールと呼ばれていました。わが国には、1921年、米国留学から帰国した大谷武一や石黒寅次によって、学校体操科の遊戯として紹介されました。 五輪競技としては女子種目のみで、1996年のアトランタ五輪で、男子の野球と共に正式競技に採用されました。当初はアトランタ大会限定とされていましたが、2008年の北京五輪まで継続して行われました。 しかし、国際オリンピック委員会(IOC)が「五輪の肥大化に歯止めをかける」との方針を出したため、世界的に見ると普及度が低いことなどを理由に、2012年のロンドン五輪では野球と共に正式競技から外されました。このため、関係者は2016年のリオ五輪での復活を目指してPR活動を続けましたが、2009年8月13日、IOCはリオ五輪の競技には加えないことを決定します。 当初、2020年に予定された今回の東京五輪でも正式種目としては採用されませんでしたが、開催都市提案の追加種目として実施されています。したがって、今回ご紹介の切手の“新しい五輪競技”というのは、(ドイツ語のニュアンスの問題もあるのかもしれませんが)ちょっと違和感がありますね。 なお、野球とソフトボールは、次回(2024年)のパリ五輪では実施されないことがすでに決まっていますが、2028年のロス五輪に関しては未定です。 五輪競技としてのソフトボールの出場枠は8ヵ国で、1996年のアトランタ五輪からの“皆勤賞”は日米豪加の4国です。また、1996‐2004年は米国が三連覇しており、この間、日本代表は4位(1996年)、2位(2000年)、3位(2004年)でしたが、2008年の北京五輪では決勝で米国を下して悲願の初優勝を果たし、13年の空白の後、今大会の優勝で2連覇を達成したということになります。 ちなみに、欧州勢では、これまで、イタリア(2000年5位、2004年8位、2020年6位)、オランダ(1996年7位、2008年8位)、ギリシャ(2004年7位)の3国が五輪出場経験がありますが、今回ご紹介の切手を発行したドイツは一度も出場していません。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月2日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-27 Tue 02:08
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(26日)は、スケートボード女子ストリートの西矢椛(日本選手の金メダル最年少記録を更新)、柔道男子73キロ級の大野将平(2大会連続)、卓球混合ダブルスの水谷隼・伊藤美誠組が金、体操男子団体総合の日本代表チームが銀、スケートボード女子ストリートの中山楓奈、アーチェリー男子団体の日本代表チーム、柔道女子57キロ級の芳田司が銅、の各メダルを獲得しました。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ことし(2021年)7月23日(五輪開会式の日)、中国が発行した東京五輪の記念切手のうち、卓球の混合ダブルスを取り上げた1枚です。 卓球が五輪の正式競技に採用されたのは1988年のソウル五輪からで、2004年のアテネ五輪までは男女シングルスと男女ダブルスの計4種目が実施されていました。その後、2008年の北京五輪からは男女ダブルスに代わり、男女団体(1チーム3人)が実施されています。 このうち、1992年のバルセロナ五輪は4種目実施で銅メダルが各2個授与されたため、前回(2016年)のリオデジャネイロ五輪までのメダルの総数は100個になりますが、このうち、中国が獲得したメダル数は金28、銀17、銅8の計53で他を圧倒していました。ちなみに、わが国は、2012年のロンドン五輪で女子団体が銀、2016年のリオデジャネイロ五輪で男子団体が銀、女子団体と男子シングルスの水谷隼がそれぞれ銅の計4で、これまで金メダルはありませんでした。 こうした過去の実績から、今回の東京五輪から新種目として行われる混合ダブルスについても、中国は金メダルの最有力候補とみられており、そうした前評判を踏まえ、中国側は自分たちが新種目の初代王者となることを見越して記念切手の題材を選んだのでしょうが…。 ちなみに、五輪で中国選手が敗れたのは、2004年のアテネ五輪で男子シングルス決勝以来のことで、女子がタイトルを逃したのは初開催となった1988年のソウル五輪ダブルス以来のことでしたから、水谷隼・伊藤美誠組の金メダルは、日本卓球界初の快挙という枠を超えて、世界の卓球史に残る歴史的快挙の大金星といっても過言ではありません。日本人としては、実に喜ばしいですな。 * 昨日(26日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・8月2日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 8月2日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-26 Mon 02:57
現在開催中の東京五輪ですが、きのう(25日)は、競泳女子400メートル個人メドレーの大橋悠依、スケートボード男子ストリートの堀米雄斗、柔道女子52キロ級の阿部詩、柔道男子66キロ級の阿部一二三(詩の兄)の4選手が金メダルを獲得しました。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、今年(2021年)3月30日にサンマリノが発行した東京五輪の記念切手のうち、スケートボードを取り上げた1枚です。 サンマリノは、周囲をイタリアに囲まれた半島中東部の内陸国で、国土は、標高749メートルのティターノ山を中心に広がる山地および丘陵地の61.2平方キロ(十和田湖とほぼ同じ)。独立国として、今回の五輪にも、射撃2人、柔道、競泳、レスリングの各1人、計5人の選手が参加していますが、国家としての実態はイタリアの保護国に近く、国防の実務はイタリアに依存しています。 郵便に関しては、1833年、当時は教皇領だったリミニとの国境付近に最初の郵便局が設置され、イタリア統一後は上述の友好善隣条約を受けて、イタリア郵政がイタリア切手を用いてサンマリノ内の郵便を取り扱っていましたが、同条約の改定により、1877年3月2日に独自の切手が発行され、現在に至っています。 さて、今回の東京五輪では、空手、スケートボード、スポーツクライミング、サーフィンの4競技16種目が新競技として初採用されていますが、サンマリノが発行した今回の記念切手は、そのうちのスケートボード、スポーツクライミング、サーフィンについて、郵便配達員に扮した動物たち競技している3種セットで構成されています。 記念切手の原画を制作したのは、イタリアの画家・漫画家、フランコ・マティッキオです。 マティッキオは、1957年、イタリア北部、ロンバルディア州ヴァレーゼ生まれ。1979年、ミラノに拠点を置く老舗の全国紙『コッリエーレ・デッラ・セーラ(Corriere della Sera)』でデビューしました。ちなみに、『コッリエーレ・デッラ・セーラ』は、もともとは左派系の論調で知られていましたが、1977年、当時の親会社のリッゾーリ社が保守系のジュリオ・アンドレオッティ政権(キリスト教民主党)と対立して銀行からの融資を止められて資金難に陥ったことから、リッゾーリ社はヴァチカン銀行のポール・マルチンクス総裁が調達した資金を受け入れ、同紙編集長のピエーロ・オットーネ(左派論客として有名な人物でした)を解任。その後は保守主義的な論調を取るようになりました。ただし、過去の経緯もあって、日本では朝日新聞が提携先になっています。 さて、保守的な論調に転向した直後の、『コッリエーレ・デッラ・セーラ』でデビューしたマティッキオは、その後、『リヌス(Linus)』、『キング(King,)』、『モーダ(Moda)』、『サルヴァ(Salva)』、『リネア・ドンブラ(Linea d'Ombra)』などのメディアで作品を発表し、1994年には『リヌス』に発表した作品をまとめた『ナンセンス(Sensa Senso)』で各種の出版賞を受賞。現在でも複数のメディアで連載を抱えているほか、書籍の装丁も担当するなど、精力的な活動を続けています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月26日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-25 Sun 00:42
23日に始まった東京五輪は、きのう(24日)、柔道男子60キロ級の高藤直寿が金、柔道女子48キロ級の渡名喜風南が銀のメダルを獲得しました。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ことし(2021年)7月23日(五輪開会式の日)、国連(ジュネーヴ事務局用)が「平和のためのスポーツ2021」と題して発行した東京五輪の記念切手シートのうち、柔道をテーマにした1点です。 1947年の国連総会で、アルゼンチンの外交官でフィラテリストのホセ・アルセが、第二次大戦以前の国際連盟や常設国際司法裁判所(現国際司法裁判所)等の先例に倣い、国連用の切手を発行すべきと提案。この提案を受けて、1947年11月20日、国連総会は事務総長に対して国連としての郵便機関の創設の可否を調査するよう求める決議を採択。さらに、1948‐49年には、国連事務総長に対して郵便機関創設のための準備を進めるよう追加の決議が採択されました。 こうした経緯の後、1950年11月16日、国連郵政が正式に発足。1951年3月28日、ニューヨークの国連本部内の郵便局が米国から国連に移管され、額面を米ドルで表示した国連としての最初の切手が発行されました。 その後、1968年には国連郵政はスイス郵政と協定を結び、1969年10月4日、ジュネーヴ事務局内の郵便局で販売・使用するためのスイスフラン表示の切手の発行を開始。さらに、1979年にはウィーン事務局内の郵便局で販売・使用するための切手の発行を開始し、現在に至っています。 さて、今回の東京五輪に際して6種の切手シートを発行。そのうち、ニューヨークの本部用のシートはセーリングと野球を、ジュネーヴ事務局用はダイビングと今回ご紹介の柔道を、ウィーン事務局用のシートは馬術とゴルフを、それぞれ題材としています。また、これらの切手シートの原画は、いずれも、横浜市を拠点に活動しているイラストレーター、橋本聡が制作しました。 さて、このブログでは、毎回、五輪開催期間中の日本選手応援企画として、日本選手がメダルを獲得した場合には、その競技にちなんだマテリアルをいろいろとご紹介しています。今回の東京五輪でも、その先例に従おうと思いますので、しばらくはスポーツ切手の話題が中心になり、内容的なバランスに偏りが生じるかもしれませんが、よろしくお付き合いください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月26日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-24 Sat 01:14
ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』2021年7月9日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、東京五輪の開幕にあわせて、上下2回の特別企画として、1964年の東京五輪と朝鮮半島について書いてみました。その前編の中から、この切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年9月5日、北朝鮮が発行した東京五輪(1964年)の記念切手のうち、自転車競技を取り上げた1枚です。 大韓民国成立直前の1948年7月に開幕したロンドン五輪以来、朝鮮戦争最中の1952年冬季のオスロ大会を除き、韓国は1960 年まで五輪の全大会に選手団を派遣してきました。 これに対して、北朝鮮は韓国が出場する大会には参加すべきではないとの大義名分や、朝鮮戦争とその後の戦後復興という国内事情などもあり、五輪にはほぼ無関心の姿勢を取っていましたが、メルボルン五輪終了後の1957年、突如、次回(1960年)のローマ五輪に合同選手団による参加を呼びかけます。この提案は、韓国側の拒絶により実現しませんでしたが、この頃から北朝鮮が統一工作の一環としてスポーツ交流を考えていたことがうかがえ、興味深いものがあります。 ローマ五輪終了後の1962年7月、北朝鮮のオリンピック委員会は1964年の東京五輪への南北単一チームによる参加を再び提案。これを受けて、1963年5月には南北間で第1回実務者協議が行われましたが、合同選手団の名称や、韓国関係者の北朝鮮関係者に対する不信感、選手団選考などで両者の溝が埋まらず、交渉は難航。7月には2度目の会談が行われたものの、この席上で韓国側から会談打切り通告があり、結局、合同選手団は破談となりました。 このため、同年10月、北朝鮮は“DPRK”として国際オリンピック委員会(IOC)に正式加盟し、1964年冬季のインスブルック五輪以降、南北は別個に選手団を派遣しました。 ところが、東京五輪への北朝鮮への参加に関しては、あらたに“新興国競技大会(GANEFO)”問題が発生します。 1962年8月、インドネシア・ジャカルタでの第4回アジア競技大会開催に先立ち、インドネシア当局は、アラブ諸国および中国との連携を重視して、イスラエルおよび台湾選手団に対してビザを発給せず、入国を認めませんでした。これに対して、IOCはじめ各競技の国際組織は、参加資格がある国の参加を認めないことを理由に、第4回アジア大会を正規の競技大会とは認めず、翌1963年4月にはIOCがインドネシアの資格停止(=オリンピック出場停止)を決議。すると、対抗措置としてアラブの12ヵ国が1964年の東京五輪のボイコットを示唆して、対立が深まりました。 このため、1963年4月28日、インドネシアは、ソ連、中国(当時はIOC非加盟)などの社会主義諸国や反イスラエルのアラブ諸国、アフリカの新興独立諸国に呼びかけ、GANEFOを開催すると発表。すると、IOCや各競技の国際組織はGANEFOに出場した選手は五輪参加資格を失うと発表します。 結局、1963年11月、GANEFOはジャカルタで開催され、中国から有力選手が多数参加して多くのメダルを獲得したのに対して、ソ連をはじめ多くの国は二線級の選手を派遣してお茶を濁していました。北朝鮮はIOCへの加盟がGANEFOの開催直前だったこともあって、結果的にGANEFOに有力選手を参加させてしまい、多くの選手が五輪への出場禁止の対象となります。 当時の北朝鮮は、最終的にIOCは北朝鮮選手の東京五輪出場を認めると楽観視していたようで、予定通り、東京五輪に参加することを前提に、会期約1ヶ月前の1964年9月5日、今回ご紹介の1枚を含む東京五輪の記念切手を発行した。ちなみに、北朝鮮では、それまで切手に漢字を表示することを避けていましたが、今回は “東京”と表記しており、東京五輪の記念切手に漢字の表示を避けた韓国とは好対照をなしています。 一方、韓国側は、1964年3月、大韓体育大会会長の閔寛植が来日し、駐日代表部、在日本大韓民国居留民団(民団)、在日本大韓体育会(在日体育会)に支援を要請。民団中央顧問の李裕天を会長とする東京オリンピック在日韓国人後援会(以下、後援会)が結成されました。 後援会は、①韓国選手の強化練習の支援、②韓国からの五輪参観団3000人の招請、③在日同胞応援団の結成、を目標とし、1億4600万円を目標に募金活動を行っています。 その際、重要な役割を果たしたのが、1957年、銀座で町井一家を母体に「東洋の声に耳を傾ける」との理念を掲げて“東声会”を結成した鄭建永でした。 右翼・尊王・反共を旨として、朝鮮総連に対する防波堤をもって任じていた東声会は、首都圏を中心に1600人の構成員を抱える広域暴力団で、1963年、鄭は児玉誉士夫の仲介により、三代目山口組・田岡一雄組長の舎弟となっていました。ちなみに、1964年2月、警視庁は東京五輪に向けて「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団の全国一斉取締りを開始しましたが、東声会もしっかりとその対象に入っています。 大韓体育会の閔会長はこうした事情を十分に理解したうえで、東声会にも後援会への支援を求め、鄭もこれに応えて後援会を物心両面から支えていたわけです。 なお、この辺りの事情については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月26日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-23 Fri 02:14
新型コロナウイルス禍により、史上初の1年延期となった東京オリンピックの開会式が、今夜(23日夜)、行われます。というわけで、ストレートにこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、東京オリンピックの開幕一月前の6月23日に発行された「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会 切手帳」に収められている4種の切手シートのうち、切手帳専用のシートで、今大会のメインスタジアムとなる(新)国立競技場が取り上げられています。 2008年5月29日、文部科学省は、1958年に開場した国立霞ヶ丘競技場陸上競技場(旧・国立競技場)の老朽化に対応するため、サッカー専用競技場化などの大規模改修も視野に入れて施設としてのあり方を見直す調査研究協力者会議を発足させました。 ところで、2009年、東京都は2016年夏季五輪の開催都市として立候補しましたが、その際、国立霞ヶ丘競技場をサッカー会場として使用し、陸上競技などを開催するメインスタジアムは、晴海に新たなオリンピックスタジアムを建設する計画を立てていました。しかし、2009年10月2日のIOC総会では、2016年の夏季五輪はリオデジャネイロでの開催が決まり、東京は落選したため、専用球技場への改修は白紙となります。 その後、2011年に東京都は改めて2020年夏季五輪への立候補を表明。2012年、東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会は、国立霞ヶ丘競技場を8万人収容のスタジアムに改築し、開閉会式、陸上競技、サッカー決勝戦、ラグビーの会場とする開催基本計画を正式に発表。これを受けて、2012年に開かれた国際コンペでザハ・ハディドによる特徴的なデザインが選ばれました。 2013年9月7日(日本時間8日)、ブエノスアイレスで開かれたIOC総会で、東京が2020年夏季五輪の開催地に選ばれると、国立競技場も大会のメイン会場とすることが決定されます。 当初、(旧)国立競技場の解体工事は2014年7月に始まる予定でしたが、日本スポーツ振興センター (JSC)による入札の不手際により工事は2015年1月までずれ込みます。さらに、同年5月18日、建設コストが当初予算よりも大幅に膨らんだことに対して、国民の批判が強まったことから、下村博文文科相は、工期・費用の問題から計画の簡素化を発表。7月17日には安倍晋三首相が計画の白紙化と、予定していたラグビーW杯(2019年9月)の新競技場での開催断念を表明。そこで、再コンペが実施され、12月22日、大成建設・梓設計・隈研吾のチームによる建設案(総整備費約1490億円)が「優先交渉権者」となりました。 これを受けて、2016年12月、新競技場が着工となり、2019年11月に竣工。12月21日の開場式を経て、2020年1月1日、こけら落としイベントとして、天皇杯 JFA 第99回全日本サッカー選手権大会の決勝戦(ヴィッセル神戸vs鹿島アントラーズ)が行われました。 隈研吾の設計によるスタジアムの外観は、周辺(明治神宮外苑)との調和を目指した“杜のスタジアム”をコンセプトとし、屋根や軒庇などを鉄骨と木材のハイブリッド構造で、最大高さは47.4m。47都道府県から集められた杉材およびカラマツ約2000平米分が使用されており、屋根の下には法隆寺五重塔からヒントを得たといわれる三層の庇で水平ラインを強調したデザインとなっています。 スタンドは、約350m×約260mの地上5階・地下2階の3層式で、観客席は約6万8000席(うち車いす500席)。地下2階部分に当たるフィールドは、9レーンの全天候型トラックと107m×71mの天然芝ピッチが配置されています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月26日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-22 Thu 04:30
きょう(23日)は“海の日”です。というわけで、海に関する切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1874年1月1日に発行された6銭切手で、中央の楕円の枠の中に青海波が描かれています。(下にその部分をトリミングして貼っておきます) 青海波は日本の古典柄のひとつで、扇形を繰りかえり描くことで波を表現したもので、 どこまでも広がる大海原に絶えず繰り返される穏やかな波のように、 平穏な暮らしがいつまでも続くようにという願いが込められています。「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」という“海の日”の趣旨にも合致するかと思います。 さて、郵便創業から間もない1873年8月、シート単位での切手の枚数管理を容易にするため、以後、新たに発行される切手の印面にはカタカナを入れることにしたことが決定されました。 今回ご紹介の6銭切手はこれを受けて発行された最初の切手で、その刷色から“墨六”とよばれています。 カナは、40面のシートは同一で、たとえば、今回ご紹介の切手には“ロ”のカナが入っていますが、この切手が含まれていたシートは、残りの39枚のカナも“ロ”です。なお、カナ入りの切手には、和紙に印刷されたものと洋紙に印刷されたものがありますが、この切手は和紙に印刷されています。なお、和紙・洋紙あわせて、最終的に手彫切手に入れられたカナは、イロハ順でイからムまで、23種類があります。 今回ご紹介の6銭切手は、4隅に桜の花こそ配されているものの、それ以前の桜切手とは全く趣の異なるデザインで、“メダリオン”と呼ばれる楕円形の枠内に青海波と菊花紋章、郵便切手の文字を置き、額面数字や管理記号としてのカナはベルト風にデザインされた枠の上に記されています。 なお、カナ入りの切手については、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月26日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-21 Wed 04:58
東京五輪に出場するため来日したものの、日本到着後の国際ランキング変更で出場資格を失い、五輪の開幕前に帰国する予定だったウガンダのジュリアス・セチトレコ選手(重量挙げ)が、今月16日、宿泊先の大阪府泉佐野市のホテルに「ウガンダでの生活が厳しく、日本で仕事がしたい」とのメモを残して失踪していた問題で、きのう(20日)午後、同選手が三重県四日市市内で見つかり、四日市南警察署に保護されました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ケニア、ウガンダ、タンガニーカ・ザンジバルの“東アフリカ郵便連合”が1964年10月21日に発行した東京五輪(1964年)の記念切手です。 近代以前の東アフリカのインド洋沿岸部はザンジバルの支配下に置かれていましたが、1840年代以降、ザンジバルのスルターンの保護の下にヨーロッパ人宣教師がモンバサの海岸周辺から内陸に向かって入植するようになりました。 1872年、スコットランド出身のウィリアム・マッキノン率いる英領インド汽船会社(BI)がザンジバルへの航路を開設。これを機に、同社はアフリカ大陸内陸への進出を計画します。 1884-85年のベルリン会議では、アフリカ分割の原則として、沿岸部を領有した国には後背地の領有権が認められました。これを受けて、すでに1884年にブルンディを植民地化していたドイツは、1886年、東アフリカ南部の領有を企図して、ザンジバルに艦隊を派遣。これに対して、ザンジバルは英国に支援を要請し、英国も派兵したため、フランスを交えた3国の協議の結果、同年、東アフリカ南部(現在のタンザニアの大陸部分に相当する地域)をドイツ領とし、北部(現在のケニアに相当する地域)を英領とすることで決着が図られています。 こうして東アフリカに植民地を得た英国でしたが、当時は国策としてアフリカ大陸南部の権益確保に注力していたため、東アフリカに目を向ける余裕は乏しく、マッキノンのBIがアフリカ東部でのイギリスの勢力圏建設を担当。そこで、マッキノンは1888年、勅許会社の英国東アフリカ会社(IBEA)を設立し、ヴィクトリア湖北岸のブガンダ王国の領域(現在のウガンダの領域にほぼ相当)にも勢力を拡大しました。IBEAはモンバサからヴィクトリア湖に至るウガンダ鉄道の建設や農地開発などにも着手し、1894年にはブガンダ王国を保護国化し、英領ウガンダ植民地としました。しかし、ブガンダ王国の有力者や各地の宣教師たちとの対立もあって十分な植民地経営ができず、その収支は悪化。このため、1895年7月1日、英政府は東アフリカの保護領化を宣言し、英国外務省の管轄としました。なお、この間の1890年、ザンジバルは英独間のヘルゴランド=ザンジバル条約により英保護領となっています。 第一次大戦でドイツが敗れると、旧ドイツ領東アフリカは解体され、英委任統治領タンガニーカとベルギー委任統治領のルワンダ=ウルンディに分割されました。 一方、英領東アフリカ植民地は、1920年、本国直轄のケニア植民地となり、東アフリカにおける英領植民地は、ザンジバル、タンガニーカ、ケニア、ウガンダの4地域体制となります。 このうち、ザンジバルを除く3地域では、1921年、共通通貨として、英国東アフリカ通貨局(1919年創設。EACB)の発行する東アフリカ・シリングが導入され、1922年には3地域を包括する関税同盟が結成されました。これに伴い、ザンジバルを除く大陸の3地域では郵便組織も共通となり、“ケニア・ウガンダ・タンガニーカ”(KUT)表示の切手がこれら3地域で使用されました。 一方、ザンジバルは歴史的にインド世界との経済的な結びつきが強かったため、1908年以来、英領インド・ルピーと等価のザンジバル・ルピーが使用されていましたが、1936年1月1日、1ザンジバル・ルピー=1½東アフリカ・シリングの交換レートで、東アフリカ・シリング圏に組み込まれます。 第二次大戦後の1961年にはタンガニーカが、1962年にはウガンダが、1963年にはザンジバルとケニアが、それぞれ独立。これに伴い、各国は独自の切手を発行するようになりましたが、それと並行して、独立以前からのKUT切手も発行が続けられていました。 なお、1964年1月、いわゆるザンジバル革命が発生し、同年4月、ザンジバル国家は対岸のタンガニーカと合併し、タンガニーカ・ザンジバル連合共和国が成立すると、KUT切手は、新生連合共和国の地域でも使われるようになりました。今回ご紹介の切手は、こうした状況の下、ケニア、ウガンダ、タンガニーカ(・ザンジバル)の3国が独立後最初に参加した五輪として、東京五輪を記念してKUT名義で発行されたものです。なお、タンガニーカ・ザンジバル連合共和国は、五輪終了直後の1964年10月29日、タンガニーカとザンジバル、それにアフリカ南部で栄えたアザニア文化の名前をあわせて“タンザニア連合共和国”と改称され、現在に至っています。 さて、独立後も各国は植民地時代からの東アフリカ・シリングをそのまま使っていましたが、1966年、EACBの解体に伴い、ケニア、タンザニア、ウガンダの各国は、それぞれ、東アフリカ・シリングと等価の独自通貨を導入します。ただし、その後もKUT切手は引き続き、発行・使用されていました。 その一方で、英領時代以来の東アフリカの政治的・経済的ネットワークの維持・発展を目指して、1967年、ジュリウス・ニエレレ(タンザニア)、ジョモ・ケニヤッタ(ケニア)、ミルトン・オボテ(ウガンダ)の3大統領は東アフリカ協力条約を締結し、タンザニアの首都アルーシャに東アフリカ共同体の本部と事務局が設置します。 その後、1977年、ケニアとタンザニアの主導権争いや各国の国内事情などにより、共同体は事実上瓦解。1978年にはウガンダがタンザニアに侵攻して完全消滅しましたが、これに先立ち、1976年を最後にKUT切手も発行されなくなりました。 なお、2001年、地域の情勢が安定したことを受けて、ケニア、タンザニア、ウガンダの3か国は東アフリカ共同体を再結成。2005年には関税同盟が発足するとともに、2007年以降は加盟国を拡大し、現在は原加盟3国にルワンダ、ブルンジディ、南スーダンを加えた6国体制となっています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月26日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-20 Tue 09:30
1971年7月20日に東京・銀座の三越百貨店1階に、ハンバーガーチェーン店の“マクドナルド”の日本1号店がオープンして、ちょうど50年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2004年8月28日から9月1日まで、シンガポールで開催された世界切手展<Singapore World Stamp Championship 2004>の事前プロモーションのため、2002年にシンガポールが発行した切手シートで、2枚の記念切手とマクドナルド社のロゴとドナルド(同社のキャラクターとなっているピエロ)を取り上げたタブが入っています。 2004年のシンガポール世界切手展のテーマは、“グローバル都市(レジャーとライフスタイル)”だったため、主催者のシンガポール郵政は、人々のレジャーとライフスタイルにゆかりの深いグローバル企業として、今回ご紹介のマクドナルドのほか、コカ・コーラ、スウォッチ、リーダーズ・ダイジェスト、アメリカン・エキスプレスの各社とのコラボ企画として、各社のイメージを表現したタブ(切手としては無効なラベル)を入れた切手展の小型シートを販売しました。 さて、現在のマクドナルド社のルーツは、1940年、米カリフォルニア州サンバーナーディノでモーリスとリチャードのマクドナルド兄弟が創業したドライブイン・レストランで、当初は、ホットドッグを販売していました。 1948年、兄弟はいったん店を閉めた後、“スピード・サービス・システム”のキャッチフレーズと、工場式のハンバーガー製造方法、そしてセルフサービスの仕組を導入して、ハンバーガーのドライブインストアとして新装開店し、地元では繁盛店となりました。なお、マクドナルドのアーチ形のMのデザインは、この時、弟のリチャードが考えたものです。 1954年、両親がチェコ・ユダヤ系のセールスマン、レイ・クロックがミルクシェイク用ミキサーを売り込もうと兄弟の店を訪問。クロックは客席の回転率が高く、少人数で多くの客を効率的にさばいているシステムに興味を持ち、このシステムをフランチャイズ形式にして販売するよう、兄弟に勧めます。 兄弟はフランチャイズ化には消極的で、クロックを断念させようとかなり高額の契約金を吹っ掛けましたが、クロックはあきらめず、最終的に「兄弟はこの店以外干渉しない」、「クロックは兄弟の店には干渉しない」、「マクドナルドという名とシステムは、クロックが事業に使う」ことで合意します。 クロックは、第一次大戦中、赤十字の衛生兵として同じ部隊に勤務していた戦友、ウォルト・ディズニーの伝手を頼って、マクドナルドのシステムをディズニーランドに売り込もうとしましたが、これは失敗。そこで、イリノイ州デスプレーンズに最初のフランチャイズ店を出店し、これが成功したことで、翌1955年3月2日、新会社のマクドナルド・システムを創業し、同年4月、シカゴに直営店の1号店をオープンさせました。なお、1960年には、社名がマクドナルド・コーポレーションに変更されています。 今回ご紹介のシートにも取り上げられているキャラクターのドナルドは、1960年代初頭、ワシントンDCでマクドナルドのフランチャイズ営業をしていたオスカー・ゴールドスティンが“ボゾズ・サーカス”のスポンサーとなったことがきっかけで、サーカスの団員だった道化師のウィラード・スコットをゴールドステインがマスコットキャラクターとして雇ったのが始まりです。なお、キャラクターの名前は、“ロナルド・マクドナルド”ですが、マクドナルドが日本に進出する際には、日本人には発音しづらいとの理由から、日本語名称は“ドナルド・マクドナルド”となりました。 その後、クロックは1961年にマクドナルド兄弟から商権を270万ドルで買収。1965年に株式を公開し、日本を含む世界進出を進め、2020年の時点で世界118カ国で3万4000店舗以上を擁する巨大な企業帝国の基礎を築き揚げました。 * 昨日(19日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・19日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月26日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-19 Mon 04:59
環境省と気象庁は、きょう(19日)を対象に、熱中症警戒アラートを、東京都・青森県・福島県・栃木県・群馬県・新潟県・石川県・愛知県・京都府・鳥取県・八重山地方に発表しました。今年に入って全国での本運用が始まって以降、東京都・栃木県・福島県・青森県で発表されたのは初めてです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1987年にカリブ海のセント・ヴィンセントが発行した”子供の健康”の切手のうち、母親が子供に経口補水療法(ORT=Oral Rehydration Therapy)を行っている場面を描いた50セント切手の無目打ペアです。 ORTは脱水症の治療法のひとつで、経口補水液を飲むことによって、点滴をするのと同じような水・電解質補給効果があります。 もともとは、“コレラによる脱水症”に対して、点滴を行うことが困難な途上国での治療法として注目されていましたが、近年の気候や環境の変化からくる熱中症の増加、災害時のさまざまな水問題、インフルエンザや急性胃腸炎など、先進諸国でも脱水リスクが高まったことから、全世界的に普及。わが国でも、2000年代以降、小児や高齢者を中心に行われるようになり、2015年に日本救急医学会が公表した『熱中症ガイドライン2015』では、熱中症患者に起こる脱水改善のために経口補水療法の活用が推奨されています。 経口補水液は薬局・薬店などでも購入できますが、水1リットルに対して砂糖40グラムと塩3グラムを溶かせば簡単に作れます。今回ご紹介の切手でも、子供を抱いた母親の前に水と砂糖と塩が並べられているのもこのためです。 さて、気温、湿度、輻射熱の3要素から計算される暑さ指数(WBGT)は国際的に用いられる指標で、その数値が25を超えると“警戒”レベルとなり、熱中症の危険が増すとされています。さらに、28を超えると“厳重警戒”レベルとなり、熱中症の危険性が高いので激しい運動は避け、運動をする場合には小まめに休息と水分・塩分の補給を行うべきで、体力の低い人や暑さに慣れていない人は運動を中止すべきとされています。そして、31を超えると“危険”レベルになり、高齢者は安静状態でも熱中症になる危険性が高く、特別の場合を除いて運動は中止すべきとされています。 熱中症患者発生率との相関が気温よりも良好で、暑さ指数が「厳重警戒」ランク以上だと熱中症患者が著しく増加することがわかっています。また、暑さ指数が「危険」ランクの場合は運動は原則中止すべきとされています。 熱中症警戒アラートは、“危険”ランクの中でもさらに重要度の高い暑さ(WBGTが33以上)が予想される場合に発表されるもので、昨年(2019年)は関東甲信の1都8県を対象に“熱中症警戒アラート(試行)”として運用されていましたが、今年から全国で本運用が始まりました。 きょう(19日)は、太平洋高気圧が勢力を広げて北日本から東日本を覆い、東京で34℃、福島で36℃、内陸部では35℃以上の猛暑日が予想されています。アラートの発表があった地域では、湿度も高く熱中症の危険性も高まりますので、こまめな水分補給・塩分補給を行うなどの対策を心がけましょう。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月19日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-18 Sun 11:46
ロココ美術を代表するフランスの画家、アントワーヌ・ヴァトーが1721年7月18日に亡くなって、ちょうど200年です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1956年12月8日にフランスが発行した赤十字切手のうち、ヴァトーの代表作『ピエロ』を取り上げた1枚です。 アントワーヌ・ヴァトーは、1684年10月10日、フランス北西部のヴァランシエンヌで生まれました。地元の画家、ゲランの下で絵画の基礎的な訓練を積んだ後、1702年、パリに出てノートル・ダム橋で宗教画や風俗画の複製を作る仕事をしながら、舞台装飾の第一人者だったクロード・ジローの下で修業を続けました。 1717年に発表した『シテール島の巡礼』でアカデミーへの入会を認められ、将来を嘱望されていました。しかし、その直後に健康を害し、1719年にロンドンに移ったものの回復せず、1721年、結核と思われる病のため、フランスへ戻って間もない7月18日に亡くなりました。 切手に取り上げられた『ピエロ』は1718‐19年に制作された作品で、元俳優のベローニが所有するカフェの看板だったと考えられていますが、詳細は分かっていません。かつては、この作品はピエロ役の男性の名前から『ジル』と呼ばれており、1956年に発行された切手もそのようになっていますが、作品のほとんどをピエロが占めていることから、現在では『ピエロ』と呼ばれるのが一般的になっています。また、作品の下部には、イタリア喜劇のキャラクター4人(ロバにまたがる医者、恋人同士のリアンドロとイザベラ、船長)の半身が木の葉に隠れる形で描かれています。 フランス第一帝政中、この作品はナポレオン博物館の館長、ヴィヴァン・デノンが所有していましたが、その後、18世紀絵画の熱心なコレクターであったルイス・ラ・カズを経て、1869年、ラ・カズの死後、ルーヴル美術館に遺贈されました。なお、ルーヴルの18世紀フランス絵画のコレクションは、ラ・カズの旧蔵コレクションがベースになっています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月19日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-17 Sat 03:27
東京五輪選手村の韓国選手団居住棟に太極旗と共に李舜臣将軍の言とされる「今臣戦船、尚有十二、舜臣不死(今、臣にはまだ戦船12隻が残っております。舜臣は死んでいません)」をもじった「臣にはまだ5000万国民の応援と支持が残っております」との文言の横断幕が掲げられていたことが明らかになり、「“反日横断幕”はオリンピック憲章が禁止する政治的利用に該当するのでは?」などと物議をかもしています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年9月10日、米軍政下の南朝鮮で発行された10ウォン切手で、李舜臣の肖像が取り上げられています。 米軍政下の南朝鮮では、当初、無加刷の日本切手がそのまま使われていましたが、1946年2月1日にハングル加刷切手が発行され、同年5月1日、最初の正刷切手として解放切手が発行されました。 解放切手は事実上の普通切手として使用されていましたが、建前としてはあくまでも“日本統治からの解放”の記念切手という扱いでした。このため、同年9月から11月にかけて、解放切手に代わってソウルの京和印刷所が製造した新普通切手が5種類発行されます。切手の図案としては解放後の南朝鮮でのナショナリズムを喚起するようなものが選ばれているほか、解放切手では額面の表示に漢数字も使われていたのに対して、この時発行された切手からは漢字はなくなり、すべてハングル表示となっています。なお、切手の原画はすべて呉周煥が制作しました。 今回ご紹介の10ウォン切手はその1枚で、“抗日の英雄”としての李舜臣は、日本からの解放を象徴する題材として取り上げられたことはいうまでもありません。もっとも、李舜臣の生前に作成された肖像画は現存していないことから、切手の肖像は原画作者の呉周煥による完全な創作です。なお、この辺りの事情については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 さて、今回の横断幕の元ネタになった「今臣戦船、尚有十二、舜臣不死」は、1597年9月16日の鳴梁海戦に先立ち、李舜臣が三道(慶尚・全羅・忠清)水軍統制使に再任された際の言葉とされています。 1592‐93年の文禄の役の後、日本と明の和平交渉は決裂し、1597年2月、秀吉は「全羅道を徹底的に撃滅し、さらに忠清道にも進撃すべきこと」、「これを達成した後は守備担当の武将を定め、帰国予定の武将を中心として築城すること」を命じる軍令を発しました。これを受けて、同年5-6月、日本側の主力は渡海。7月15日の漆川梁海戦で朝鮮水軍をほぼ壊滅状態に追い込んだ後、左軍と右軍の二手に分かれて全羅道に向けて進撃し、8月15日には左軍が南原城を、翌16日には右軍が黄石山城を陥落させました。さらに、8月19日には両軍が全羅道の主府全州を占領。順調に作戦を進め、9月中旬には全羅道攻略戦は同道の南部を残すのみとなっていました。 ところで、文禄の役の際に亀甲船を率いて戦果を挙げた李舜臣は、1593年に三道水軍統制使に任じられましたが、慶弔の役直前の1597年1月、慶尚右道水軍節度使の元均らの中傷により無実の罪で捕らえられ、将軍から兵卒に身分を落とされていました。しかし、漆川梁海戦で元均が戦死したことから復権し、三道水軍統制使に再任されます。 その際、右水営に残った朝鮮水軍わずか12(または13)隻しかなく、戦力は圧倒的に劣勢でしたが、李舜臣は国王・宣祖に対して「今臣戦船、尚有十二、舜臣不死」 と上奏文を奉じたとされています。 もっとも、いかに李舜臣が軍事の才にすぐれていたとしても、日朝間の戦力差はいかんともしがたかったため、朝鮮水軍は日本水軍の先鋒30隻を攻撃し(李舜臣本人による『乱中日記』には「賊船三十隻撞破」との記述があります)、ある程度の打撃を与えた後、北方の古群山島付近まで撤退。その結果、水軍の戦力はとりあえず温存されたものの、鳴梁海峡の制海権は完全に日本側が掌握することになりました。 ところが、現在の韓国では、この鳴梁海戦について「李舜臣率いる少数の朝鮮水軍が日本軍に勝利を収めた戦い」として、「日本軍330隻の船を12隻で迎え撃った」などとの伝説を信じる人が少なからずいるのがややこしいところです。じっさい、大韓体育会関係者もこうした“誤解”に基づき、「今大会は日本で開催するだけに、特別なメッセージを準備した」、「選手たちの士気が上がるような応援文句を探していたが、ある職員の提案で当該横断幕を準備した」と述べています。 まぁ、歴史的事実を冷静に見てみれば、朝鮮王朝にとっての鳴梁海戦は、とても勝ち戦と呼べるようなものではなく、虎の子の水軍を温存するための撤退戦という性質のものだったわけですから、この横断幕が掲げられた宿舎で生活せざるを得ない選手たちこそ、「自分たちは日本を恐れ、命からがら逃げだすために東京に来たわけじゃないんだぞ」と怒っても良さそうなものなんですがねぇ。また、平素は極端なまでに“平等”にこだわるリベラル派諸氏が「民主国家の選手を“臣”扱いするのもおかしい」と騒がないのも不思議な話です。「知らぬが仏」と言ってしまえば、それまでのことなのかもしれませんけれど。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月19日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-16 Fri 01:37
ズマ前大統領収監への抗議に端を発した略奪や放火、暴行が拡大し、14日(現地時間)までに、少なくとも72人が死亡し、1200人が逮捕される事態になっている南アフリカで、マピサヌカクラ国防相は、同日、特に治安の悪化が深刻なクワズールー・ナタール州(ズマ前大統領の地元)とハウテン州(州都はヨハネスブルク)の2州に対し、兵士最大2万5000人を展開し、配備数を10倍にする計画を明らかにしました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、(第2次)ボーア戦争中の1899年12月6日、トランスヴァ―ル占領下の英領ナタール植民地(現在のクワズールー・ナタール州の前身)のダンディーから、トランスヴァ―ルのハイデルベルク(現在は南アのハウテン州)宛に差し出された郵便物で、占領軍の持ち込んだトランスヴァ―ル切手が貼られているのがミソです。 1886年、ヨハネスブルク近郊で金鉱が発見されると、ボーア人(オランダ系移民)の支配下にあったトランスヴァ―ル共和国の領域(現在の南ア北東部に相当)には金鉱を求めて多くの人々が集まるゴールドラッシュが到来しました。 これを受けて、現地の英国人企業家を代表するセシル=ローズは、ケープ植民地の首相に就任するとともに、英国南アフリカ会社(BSAC)を設立。1890年、南アフリカ会社は遠征を開始し1894年までに南東アフリカ地域の広大な土地を支配下に収め、“ローデシア”と命名しました。 このローデシアを拠点に、ローズはトランスヴァール共和国への侵攻を企てたものの失敗し、1896年に失脚しましたが、英本国政府はローズの植民地拡大策を継承し、ボーア人のトランスヴァ―ル共和国とオレンジ自由国を挑発。両国に対して、在留英国人に選挙権を与えることを要求するとともに、両国内の同胞が“奴隷状態”に置かれていると宣伝して、国民の開戦熱を煽り、1899年10月、両国に対する侵略戦争を開始しました。 開戦当初の戦況は、地元のボーア軍が圧倒的に優位で、ボーア軍は国境を越えて英領ケープ植民地や同ナタール植民地の域内に進攻していくつかの都市を占領します。今回ご紹介のカバーの差出地、ダンディーは、ダーバンの北北西約 200kmの地点に位置しており、石炭、鉄鉱石採掘の中心地であったことから、当時は激戦地となり、一時はボーア軍が占領していました。 しかし、1900年2月、英本国からの増援部隊が到着。2月18日から27日にかけてのパールデベルグの戦いで英軍がボーア軍を破ったことで戦況は逆転し、3月13日にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンが、6月5日にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアが陥落します。さらに、イギリス軍は、6月11日から12日にかけて、プレトリア近郊のダイアモンド・ヒルでボーア軍の残党を掃討し、正規軍同士の戦いは事実上終結しました。 しかし、その後もボーア人はゲリラ戦術で激しく抵抗。大苦戦を余儀なくされた英国は、ボーア人ゲリラに対する食糧補給を断つべく、ボーア人の婦女子を強制収容所に隔離するなど、なりふり構わぬ戦術を展開しました。ちなみに、後にヒトラー政権はユダヤ人の収容所に“強制収容所”との名前を付けていますが、これは、ボーア戦争時の英国の先例に倣ったものと言われています。 なお、第2次ボ-ア戦争に始まる“強制収容所”の歴史については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月19日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-15 Thu 01:47
2016年7月15日、トルコでレジェプ・タイップ・エルドアン政権に対するクーデター未遂事件が起きてから、ちょうど5年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2016年7月16日のクーデター鎮圧を受けて、同年8月5日、トルコが発行した“7月15日 殉教者の日(祖国よ、汝は偉大なり)”の切手で、トルコ地図を背景に、事件当日の写真をフィルム風にコラージュした図案になっています。 1923年に発足したトルコ共和国は、ムスタファ・ケマルの導入した厳格な政教分離政策(ライクリッキ原則)を国是としてきました。ケマルは1938年に亡くなりましたが、彼の死後も、“建国の父”としての権威は絶大で、トルコ国内ではケマル批判は現在なおタブーとなっています。 ところが、トルコは国民の90%以上がムスリムですから、ライクリッキ原則を貫徹しようとすれば、社会的な摩擦は避けられません。 このため、国軍が“世俗主義の守護者”となり、イスラム勢力の伸長を力尽くで抑え込んできたというのが、20世紀末までのトルコの基本的な構造でした。 これに対して、2003年3月9日、「軍部の政治介入をやめさせて、トルコを“先進的な民主国家”にする」との公約を掲げて、政権を獲得したのがAKP(公正発展党)のエルドアンです。ちなみに、当時のトルコでは、大統領は形式的な元首だったため、当初、エルドアンは政治的実権を持つ首相に就任しました。 エルドアン政権は、2003年以降、徹底した政教分離というトルコ共和国建国の理念に対して、イスラム色の強い政策を推進するとともに、憲法改正を行って大統領の権限を大幅に拡大したうえで、2014年の大統領選挙に出馬して当選。世俗派の牙城である軍の権限を縮小するなどの政策を進めます。そのことは、人口の90%以上を占めるムスリムの国民から歓迎される一方、世俗派の守護者だとする軍は、政治のイスラム化は受け入れられないとして、政権と対立していました。 こうした状況の下、2016年5月5日、与党・公正発展党党首で首相のアフメト・ダウトオールがエルドアンと対立して辞任を表明し、エルドアンによる強権体制の強化が懸念されるようになります。 そこで、2016年7月15日、エルドアンが休暇のため、リゾート地マルマリスに滞在していた隙をついて、トルコ軍の一部反乱勢力が蹶起。イスタンブールのボスポラス海峡に架かるボスポラス大橋とファーティフ・スルタン・メフメト橋、アタテュルク国際空港などが部分的に封鎖され、フルシ・アカル参謀総長がアキンジ空軍基地で身柄を拘束されました。 さらに、反乱側は、エルドアンの身柄を拘束すべく、滞在先のホテルに乗り込んだものの、その直前にエルドアンは間一髪ホテルから退避。マルマリスでは反乱勢力と大統領側の治安部隊、地元警官隊との間で銃撃戦が発生しました。 その後、反乱勢力は“祖国平和協議会”と称し、テレビや電子メールを通じ、権力を掌握したと発表。自らをトルコ正規軍より上に立つ存在であると主張しましたが、マルマリスからイスタンブールに向かっていたエルドアンはスマートフォンのテレビ電話アプリFaceTimeを利用してCNNトルコに出演。国民に対して、クーデターに抗議して広場や空港に集まるよう呼びかけます。さらに、トルコ政府は、今回の事件は軍の一部が指揮系統から外れ、民主的に選出された政府を打倒する試みであり、トルコの民主主義に対する攻撃であるとして、国際社会に対してトルコ国民との連帯を要請します。 日付が変わって16日未明、イスタンブールのアタテュルク国際空港に到着したエルドアンは、一連の政権転覆の試みは、在米トルコ人のイスラム説教師のフェトフッラー・ギュレンを支持する一派によるものであると断定。これに対して、反乱勢力はアンカラの大統領府付近で空爆を行ったものの、一般市民に多数の負傷者を出してしまいます。一方、正規軍は反乱勢力が大統領府外に展開した戦車に対し、F16戦闘機による空爆を実施し、16日正午までに反乱を鎮圧しました。 クーデター鎮圧後、エルドアン政権は反対派に対する大規模な粛清を開始。クーデターに関与したとされる軍関係者、司法関係者7500人以上が拘束され、警察官約7900人、地方の知事や首長30人を含む公務員8700人が解任されています。そして、2020年11月26日、トルコの裁判所はクーデター未遂事件をめぐり、元空軍パイロットら337人に対し殺人や憲法違反、エルドアン大統領の暗殺未遂などの罪で終身刑を言い渡しました。 事件が起きた2016年当時、米国のオバマ政権は、「エルドアンによる“秩序の回復”には人権侵害の恐れがある」として、エルドアンを批判し、トルコ政府がクーデターの黒幕と名指ししたフェトフッラー・ギュレンの引き渡しを要求すると、それを拒否。この結果、米国との関係は冷却化します。 これに対して、事件当初からロシアは「エルドアン支持」を鮮明にしていたため、エルドアンは、米国の支持が得られなかったことを逆手に取ってNATOと米国から堂々と距離を取りはじめ、(特にシリア問題に関して)ロシアとの連携を強化。ロシアの支援を受けて、シリアでのISとクルド人勢力“ロジャヴァ”を排除するための軍事介入に踏み切りました。 この間、トルコ国内では、「クーデター未遂事件は米国の謀略である」などとする陰謀論が拡散しましたが、トルコ政府はこれをあえて放置することで、国内の政治基盤の強化に活用しています。 たとえば、2020年7月15日の「民主主義と国民連帯の日(クーデター未遂事件鎮圧の記念日)」の大統領演説で、エルドアンは次のように語っています。 「(クーデターを企てたメンバーが)もし十分な力を備えていたら、この議会議事堂を迷わず跡形もなく破壊したであろうことを、あなた方に確信していただきたい。彼らがもし十分な力を備えていたら、大統領と首相をはじめ、選ばれたすべての指導者を迷わず殺していたであろうことを、確信していただきたい」 「7月15日は、この地で我々が生き、何世紀にもわたり存亡をかけて繰り広げてきた一連の戦いの最終ラウンドである。その背後では大きな計算が動いており、それが現実のものとなれば歴史的な転換期が訪れる。自らの利益のためにトルコを炎に投げ込むつもりでいる狂信者に対し、あくまでも、7月15日の夜にそうだったように、必要とあらば我が国民と一致団結して、この祖国、民主主義、独立を守り続ける」 さらに、シェントプ国会議長も、クーデター未遂事件は、トルコが世界で発言力を持ち、既存の世界秩序の不正に抗議する力を持つようになったことに起因するとしたうえで、「経済、防衛産業、エネルギーの自給自足の努力、教育、医療、対外政策、それ以外にもさらに多くの分野でトルコがどんどん力をつけたことが、7月15日のクーデター企てが起きた本来の理由である。どのクーデターの目的および主要な出発点も、トルコが一勢力として台頭すること、独自の政策を打ち出すこと、世界の利害関係者の標的ではなく主体になることを妨害することにある」と発言。7月15日のクーデター未遂(鎮圧)は、現在のエルドアン政権にとっての正統性の大きな根拠となっています。 なお、この辺りの事情については、拙著『世界はいつでも不安定』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月19日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-14 Wed 00:54
きょう(14日)は巴里祭(フランス革命記念日)です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1870年10月11日にフランス発行されたセレス(豊穣の女神)図案の20サンチーム切手で、明治初期に横浜に置かれていたフランスの郵便局で使用されたことを示す“5118”の番号の入った消印が押されています。 1858年に安政の5ヵ国条約が結ばれ、翌1859年に日本が本格的に開国すると、横浜・長崎・函館の開港地には外国人が訪れるようになり、外国との通信も必要になりました。しかし、当時の飛脚には海外との通信を取り扱う能力はなかったため、1860年7月、英国は横浜に郵便局を設置し、本国との通信を取り扱い始めます。 一方、フランス宛の郵便物については、1860年5月の英仏郵便交換条約改定により、日本発着の郵便物は香港経由のルートで取り扱われていましたが、1865年9月7日、横浜にフランス局が開局。本国の切手が持ち込まれ、1876年5月まで、連点で構成された菱形の中に“5118”の番号の入った消印が使用されました。 その後、1871年4月20日のわが国の近代郵便創業を経て、1873年2月、日米間で「皇米郵便交換条約」が結ばれると、1875年1月1日、米国経由での日本の外国郵便が正式にスタートします。さらに、1877年6月にわが国が万国郵便連合に加盟すると、在日外国局の存在意義は消滅しますが、フランスはその後も1880年3月31日まで横浜局での活動を継続しました。 なお、幕末から明治初期にかけての在日外国局については、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月19日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-13 Tue 10:28
キューバで、11日(現地時間)、共産党の一党独裁体制としては異例の反政府デモが複数の都市で突発的に広がり、多くの人々が「独裁を打倒せよ」などと声を上げて通りを行進しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1963年1月1日に中国が発行した“キューバ革命4周年”の記念切手のうち、“キューバ人民のデモ”を取り上げた1枚です。もっとも、この切手の場合は、カストロ政権下の官製デモの光景を取り上げているので、今回のデモとは方向性が全く逆なのですが…。 現在、キューバでは電力・食料の不足が慢性化しており、最大の支援国であったソ連が崩壊した1991年以降で最悪の経済状態にあると言われています。 今回のデモでは、首都ハバナで数百人が「自由が欲しい」、「もう沢山だ」などとシュプレヒコールを上げながら市内のマレコン通りを行進。一部は警官隊に投石を行いました。デモ隊が国会議事堂前に集まると、重武装の兵士や警官隊が展開し、デモ隊に催涙ガスを使用し、プラスチック製の警棒で殴打するなどしたほか、少なくとも10人を逮捕したと伝えられています。 また、ハバナの南西約30キロの町サン・アントニオ・デ・ロス・バニョスでは、ディアスカネル大統領の同地訪問を前に若者を中心に数千人がデモを開始し、与党支持者らに囲まれた大統領が住民のやじを受けている動画がインターネットに流されました。 一方、キューバでの異例のデモ発生に米国は、11日、ジェイク・サリバン米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)が「米国は、キューバ全土における表現と集会の自由を支持し、普遍的な権利を行使している平和的なデモ参加者を標的とし暴力を振るうあらゆる行為を強く非難する」とツイッターで表明しています。 これに対して、12日、キューバのディアスカネル大統領は、テレビ演説で「キューバの社会不安を引き起こすため経済的に窒息させる政策」を追求しているとして米政府を非難。長年にわたる米国の制裁で生じた数多くの難題に「立ち向かい、克服してきた」のがキューバ政府だと反論しています。 また、メキシコで左派政権を率いるロペスオブラドール大統領は“干渉主義者”は不要と訴えるとともに、「医療と食料は基本的権利だ」として、「新型コロナウイルスのワクチンを含む医薬品はもちろん、食料も支援できる」とキューバに呼び掛けました。さらに、ロシア外務省のザハロワ情報局長も、「主権国家への内政干渉、あるいは不安をあおる破壊活動は許されない」、「キューバ内外の状況を注視している。キューバ市民の利益に基づき公共の秩序回復のため、キューバ政府はあらゆる必要な措置を行える」との声明を発し、米国を牽制しています。 こうした“親キューバ派”の反応を受けて、ブリンケン米国務長官は、今回のデモが「米国が実行したことの結果だとキューバ政府が解釈したとすれば、大間違いだ」と反論。「経済失政や新型コロナへの不適切な対応に、キューバ国民はうんざりしている」と主張しています。 なお、今回ご紹介の切手は、1962年10月に発生した“キューバ危機(ミサイル危機)”が、形式的にはソ連の“一方的な譲歩”(実際には米国も一定の譲歩をしていましたが、このことが明らかになるのは後日のことです)で解決されたかのような印象を世界に与えたことを受けて発行されたものです。 すでに、1956年にフルシチョフがスターリン批判を行って以来、対米宥和路線を掲げるフルシチョフのソ連に対して、中国は“修正主義”との非難を繰り返していましたが、1962年のミサイル危機はその亀裂を決定的なものとしました。こうした背景の下、中国は“修正主義の犠牲者”としてのキューバとの連帯を強調するために、今回ご紹介の切手を発行。ミサイル危機で最後の一兵まで米国と戦う姿勢を示したキューバは、頼りにならない修正主義のソ連と異なり、“革命的社会主義”の国として中国と連帯することができる(し、そうすべきである)との主張を表現しようとしたわけです。 もっとも、キューバじたいはソ連から多大な軍事的・経済的支援を受けており、中国に追随してソ連と断交して、ソ連からの支援を失うのは自殺行為でしかありませんでした。このため、1966年、中国が“プロレタリアート文化大革命(文革)”に突入すると、“修正主義打倒”をスローガンとして掲げていた中国は、中ソ両国とのバランスを取った外交を目指していたキューバを“修正主義”のソ連と密通するものとして糾弾。1967年1月、中国はキューバ駐在大使を召還し、キューバ側も中国から大使を引き上げ、両国の関係は急速に冷却化していくことになります。 なお、この辺りの事情は、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(12日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・19日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月19日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-12 Mon 05:09
ご報告がすっかり遅くなりましたが、公益財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第55巻第3号ができあがりました。というわけで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1980年4月6日にタイが発行した赤十字(募金)切手で、抗蛇毒血清を作るために、蛇毒を採取している場面が取り上げられています。 タイにおける蛇毒の研究・治療の中心となっているのは、サオワパー王妃研究所(QSMI:QUEEN SAOVABHA MEMORIAL INSTITUTE)付属のスネーク・ファームです。 1911年、ラーマ5世(チュラーロンコーン)の異母弟、ダムロン・ラーチャーヌパープ親王の娘が狂犬病に罹患しました。しかし、当時のタイでは狂犬病のワクチンは利用できず、不幸にして彼女は亡くなりました。このため、内務大臣の職にあったダムロン親王は、ワクチンセンターを設立し、狂犬病予防のワクチンを独自に開発するよう、即位後まもない新国王のラーマ6世(ワチラーウッド)に建議。勅許を得て、現在のファランポーン鉄道駅近くのバムルン・ルアン通りにあった王室所有の建物をセンターとして活用することになりました。なお、センターの設備・備品は、王母のサオワパー・ポーンシー妃の資金拠出と国民からの浄財により賄われています。 センターは、1913年4月26日、ワクチン製造の先駆者であるルイ・パストゥールに敬意を表して“パストゥラ・サブハ”の名で開所し、後に“サタン・パストゥール”に改称。センター長に就任したレオポルド・ロバート博士はパリのパストゥール研究所の支援を受けて、狂犬病、天然痘、コレラ、腸チフス、その他の伝染病のワクチンを製造しました。また、1917年、センターは勅命により内務省からタイ赤十字社に移管され、ロバート博士はタイ赤十字社科学研究部門の初代責任者に就任しています。 1920年5月24日、前年に崩御したサオワパー王妃の埋葬儀式が終わると、ラーマ6世は母の名を冠した医学研究所の建設を決定。巨額の資金とラーマ4世通りに面した土地をタイ赤十字に下賜し、研究部門の公休的な本部ビルの建設を命じます。これに、サワーン・ワッタナー妃からの寄附と赤十字社独自の予算により、本部ビル本館の両脇に2棟の建物が作られ、1922年12月7日、現在のサオワパー王妃研究所が正式にオープンし、サタン・パストゥールの全業務はそちらに移管されました。 1923年11月22日には、その付属機関としてスネーク・ファームが開設。その背景には、当時は首都バンコクでも、パドゥン・クルン・カセーム運河の外側の新市街では毒蛇の被害が後を絶たず、人々は夜間の外出を控えていたという事情がありました。ちなみに、現在では都市の開発が進んだことに加え、血清の普及により、蛇毒の被害はほぼ北部の山岳地帯に限られています。 スネーク・ファームは、①タイ国内に必要な解毒剤を生産・確保すること、②蛇に咬まれた際の対処方法についての知識を広く普及させること、③蛇に関する研究を重ね、より深い知見を得ること、を中心に活動を続けていますが、その一環として、スライドの上映や蛇毒採取のデモンストレーションも1日2回(土日祝日は1日1回)行われており、デモンストレーションの後は蛇との記念撮影もできるので、家族連れには人気のスポットになっています。 タイでは人間に被害を及ぼす毒蛇が10種程度棲息していますが、そのうち、特に被害が大いのはコブラ3種、マムシ2種で、血清の製造もこの5種に対応するものが中心です。毒性の物質はヘビによって異なるので、蛇にかまれることの多い山間部での活動には、5種類の血清と毒蛇の彩色図をあらかじめ用意しておき、蛇にかまれた被害者は彩色図でどの蛇にかまれたかを識別したうえで、対応する血清を注射しています。蛇にかまれる者は年間2-300人ほどですが、死者は5人程度に抑え込まれているそうです。 なお、QSMIは腸チフス、熱病、ポリオ、日本脳炎、破傷風、インフルエンザ、コレラなどの予防接種を実施しており、タイ国民のみならず、外国人旅行者も接種を受けることができます。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月12日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-11 Sun 05:47
1921年7月11日にモンゴル人民党がモンゴル人民政府を樹立した“モンゴル革命”から、ちょうど100年になりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1981年5月20日にモンゴルが発行した“モンゴル人民革命党60周年”の切手シートで、モンゴル国旗と政府宮殿前のスフバートル像が描かれています。 1911年11月、滅満興漢をスローガンとする辛亥革命が起こり、清朝が亡んで中華民国が発足すると、モンゴル人には新たな中国中央政府に対して忠誠を誓う大義名分がなくなります。新政府は、建前として“五民族(漢人、チベット人、満洲人、モンゴル人、ウイグル人)の平等”を掲げていましたが、孫文であれ袁世凱であれ、政治の中枢は漢族の出身者がほぼ独占しており、清朝の時代のように、満州人やモンゴル人が優越的な地位を占めることはもはやありえません。このため、彼らはロシアの援助を受け、ジェブツンダンバ8世(ボグド・ゲゲーン、ボグド・ハーンとも)を元首として推戴し、独立を宣言しました。 しかし、“清朝の継承者”を名乗る中華民国政府は、1912年4月23日、内務部に蒙蔵事務処(同年7月、蒙蔵事務局に改組)を設置し、おなじく清朝の滅亡と同時に“中国”からの離脱を宣言したチベットとともに、モンゴルはあくまでも自国の領土であるとする姿勢を強調。このため、1912年11月の露蒙協定では、モンゴルは独立宣言を自治宣言に格下げせざるを得なくなります。さらに、1913年11月の露中宣言では、ロシアは外モンゴルにおける中華民国の宗主権を認め、中華民国は内政・通商・産業にわたる外モンゴルの自治を認めることとされました。これを受けて、1914年9月から1915年6月まで行われたキャフタ会議では、モンゴル人の居住地域を中露が定めた境界による内蒙古(南モンゴル)と外蒙古(北モンゴル)の分割したうえで、内蒙古を中国領と認めたうえで、外蒙古に関しては中華民国の宗主権を認めたうえでの自治地域とすることをモンゴル側も受け入れざるをえませんでした。 1917年にロシア革命が起こると、中華民国は混乱に乗じて外蒙古への支配の拡大をもくろみ、ウルガ(現ウランバートル)に派兵してボグド・ハーンの宮殿を包囲し、自治の返上を強要。1919年11月に発した中華民国大総統令で外蒙古の自治を撤廃し、1920年1月2日、ボグド・ハーン政権はいったん崩壊しました。 ところで、ロシア革命後の内戦の中で、1920年末、白軍のロマン・ウンゲルンが外蒙古に進出し、中華民国占領軍を駆逐し、1921年2月にボグド・ハーンを復位させます。当初、モンゴル人はウンゲルンを解放者として歓迎したものの、ウンゲルンは外蒙古で恐怖支配を行ったため、ボグド・ハーンまでも密かに北京政府に救援を頼むほどでした。 こうした状況の下、1920年春、ホルローギーン・チョイバルサン(1939‐52年、モンゴル首相)らの“領事館の丘”グループと、ダムディン・スフバートルらの”東庫倫”グループが合流し、モンゴル人民党(1924ー2010年はモンゴル人民革命党)を創立します。 スフバートルは、1893年(1894年説もあり)、ウルガ郊外生まれ。1909年、駅逓の馬方となり、1911年のモンゴルの独立後は兵士として同政府軍に参加しました。1918年には同政府の印刷所の植字工となりましたが、中華民国と無能なモンゴル支配層への反感から、ロシア革命に共鳴。モンゴル人民党の結成後は、同党の軍事部門の責任者として、同志とイルクーツクに行って赤軍に支援を要請し、1921年、人民義勇軍を結成し、自らその総司令官に就任しました。 1921年3月、モンゴル人民党はキャフタでモンゴル臨時人民政府の成立を宣言。スフバートル率いる400人の義勇軍は中国軍を駆逐します。さらに、臨時政府はボリシェヴィキ政権に援助を求め、これに応じた赤軍および極東共和国軍はモンゴルに介入して義勇軍とともにウンゲルン軍を駆逐し、総勢1万の兵力でウルガに入城。1921年7月11日、ボグド・ハーンを君主として戴く連合政府として、モンゴル人民政府を樹立しました。 義勇軍の総司令官として革命の英雄となったスフバートルは新政権の国防大臣に就任したものの、1921年9月には人民政府軍の実権はエルベクドルジ・リンチノが掌握。モスクワを訪問し、レーニンと会談したものの、帰国後の1923年2月22日、亡くなりました。死因については、公式には病死とされていますが、暗殺説もあります。 若くして亡くなったスフバートルは、“近代モンゴル軍の父”、“モンゴル革命の父”と称され、生前の1921年にレーニン廟を模してウランバートル中心部に建立されたスフバートル廟に遺体が安置されていました。 今回ご紹介の切手に取り上げられた騎馬像は、革命25周年を記念してスフバートル廟の周囲にスフバートル広場が整備された際、そのシンボルとして彫刻家チョインボルが制作したもので、台座には独立宣言時のスフバートルの発言が刻まれています。また、広場に面したオペラ劇場と国会議事堂(の正面)は現地に抑留された旧日本軍将兵が建造したものです。 なお、1989年の民主化を経て、社会主義政権が崩壊すると、スフバートル廟の廃止が決定され、2004年、彼の遺体は仏教の僧侶によって荼毘に付されます。翌2005年には、スフバートル廟の建物も撤去され、その跡地にはチンギス・ハーン記念像が建立されましたが、切手の騎馬像はそのまま残されました。 * 昨晩(10日)、アクセスカウンターが237万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月12日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-10 Sat 02:44
ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』第793号が配信されました。僕の連載、「沖縄切手モノ語り」は、今回は1953-54年の新聞週間の切手について取り上げましたが、その中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます。)
これは、1954年10月1日に発行された新聞週間の記念切手で、ペン先と當間嗣合の肖像が描かれています。米施政権下の沖縄では、1953・54・57年の3回、新聞週間の記念切手が発行されていますが、このうちの1953年と1954年の切手の図案は、1949年に日本本土で発行された新聞週間の記念切手とよく似ていることから、沖縄側は日本の切手を参考に図案を制作したものと推測されています。 切手に取り上げられた當間は、1884年、首里で士族の家庭に生まれました。上京して国学院大学に進学したものの、中退して帰郷し、1906年、琉球新報社に入社。主筆の太田朝敷の下で政治記者を務めました。 當間が記者を務めていた『琉球新報』は尚順を中心とする首里門閥の影響下にあり、首里門閥の広報紙のような趣でした。1914年、沖縄県知事として着任した大味久五郎は、翌1915年の選挙で政友会から当選した岸本賀正と護得久朝惟を離党させて政友会支部をつぶすとともに、当時の沖縄金融界で絶大な影響勅を持っていた農工銀行の頭取に護得久を指名。さらに、琉球新報社長の渡久地政瑚を農銀専務として、県政への批判を封じ込めようとしました。 これに対して、1913年の憲政擁護運動で桂太郎内閣が退陣に追い込まれたことに感銘を受けていた當間は、1915年、(首里)門閥批判を掲げ、仲吉良光、嘉手川重利、末吉麦門冬、小橋川南村とともに琉球新報を退社。同年11月10日の大正大礼に合わせて、「われらが言論を」との旗印をかかげて沖縄朝日新聞社を創立。自ら社長に就任します。 もっとも、高邁な理想とは裏腹に、有力者に叛旗を翻して出発した沖縄朝日新聞社は資金難から厳しい経営が続き、翌日の新聞を刷る紙が夕方までに調達できないことも珍しくなく、関東大震災の際には取材の電報料1か月分500円を払えないというありさまでした。 その後、政治記者としての経験を活かし、首里市議、同議長を経て、1930年には沖縄の貧困救済を訴えて民政党から衆議院議員に当選。沖縄県振興15ヵ年計画の実現に尽力しています。 また、沖縄県内で展開されていた標準語励行運動に関しては、昭和15年1月17日付の『沖縄朝日新聞』に山田正孝のペンネームで「標準語の奬勱:獨自の信念を持て」と題する論説を発表し、沖縄の住民が日常的に使用する生活言語としての沖縄方言を禁止することは不可能であるとしたうえで、標準語を習得することの必要性を見逃してはならないと主張して、“日本の沖縄県”という立場を強調しました。 1940年12月、戦時統制により、沖縄が一県一紙体制になったのを受けて、琉球新報、沖縄朝日新聞、沖縄日報の3社が合併して沖縄新報が発足すると、當間は専務に就任(ちなみに、社長は男爵の伊江朝助)しました。1946年8月24日、熊本県で没。 1953年のペルリ来琉150年を機に、沖縄切手の題材は、沖縄と日本との関係を強調するものが増えていきますが、今回ご紹介の當間の切手もそうした文脈に沿ったものといってよいでしょう。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月12日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『世界はいつでも不安定』 オーディオブックに! ★ 拙著『世界はいつでも不安定』がAmazonのオーディオブック“Audible”として配信されました。会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。お申し込みはこちらで可能です。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-09 Fri 00:34
本年3月に刊行した拙著『世界はいつでも不安定』のAudible版ができあがり、本日(9日)から配信開始となりました。これまでにも、いわゆる電子書籍は何点も刊行してきましたが、オーディオブックは初めてのことですので、一言、ご挨拶申し上げます。(画像は表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)
Amazonのオーディオブック“Audible”は、プロのナレーターが朗読した本をアプリで聴けるサービスで、会員登録すると、最初の1冊は無料で聴くことができます。今回の拙著『世界はいつでも不安定』については、数多くの ニュース番組、スポーツ番組、CMなど幅広い分野で活躍している岡本昇さんに朗読していただき、非常に聞きやすい仕上がりになりました。なお、お申し込みはこちらで可能です。 さて、拙著『世界はいつでも不安定』は、2018年4月からインターネット放送「チャンネルくらら」で配信している「内藤陽介の世界を読む」のうち、2020年に配信した動画の内容の一部を再構成し、配信後のアップデート情報も加えつつ、大幅に加筆したもので、切手や郵便物はほとんど登場しません。なお、章立てとしては以下のようになっています。 第1章【アメリカを読む】南北問題で知る、米大統領選と左翼運動 第2章【中国を読む】香港征服を狙う野望を読み解く 第3章【中東を読む】日本人のためのイスラエルと湾岸諸国入門 第4章【ロシア・トルコを読む】リビアからコーカサスにいたる紛争ベルトの重要性 もともと、僕は切手や郵便物から得られるさまざまな情報を集積し、その分析を通じて、歴史や地域事情、国際関係などについて考えようという“郵便学”を本業としており、それゆえ、基本的には世界各国がそれぞれどんな切手を発行しているのか、およそのイメージはほぼ把握しており、ある国や地域の名前を聞けば、その国・地域の切手の画像が頭の中に思い浮かぶ回路はできあがっています。(少なくとも、オリンピックの入場行進に登場するレベルの国・地域であれば、全く知らないということはまずありません) ただし、当然のことながら、切手に取り上げられている個々の題材については把握しきれていないことも多いので、切手や郵便物の解析のために必要な基礎データや背景事情をまとめるとともに、文章のトレーニングと自分の仕事のプロモーションを兼ねて、2005年6月から、その時々の話題にあわせて、あるいは、自分の仕事の宣伝になるように、毎日1点ずつ切手や郵便物を選んで、簡単な文章を書く「郵便学者・内藤陽介のブログ」、つまりはこのブログを続けています。 その結果として、世界の国々の切手を読み解く基礎的な知識・情報に関しては、(あくまでも、広く浅くではありますが)ある程度の蓄積もできてきましたので、その一端を(切手や郵便物ぬきに)原稿としてまとめたり、メディア等でお話したりする機会も少しずつできてきました。「チャンネルくらら」の番組もその一つです。いわば、レストランとして食事を出すことを目的に、小さな農場を作って野菜や果物を植え、鶏・豚・牛などを買っていたところ、料理とは別に、副業として、肉や野菜も売るようになったというのと似たような感じでしょうか。 さて、切手や郵便物というモノを起点に考える習性が骨の髄まで染みついている僕としては、研究ないしは観察対象としては、平和で安定した豊かな国にはあまり興味をそそられません。そうした国では政治や社会の激しい変動が起こりにくく、それゆえ、切手や郵便物への痕跡も乏しいからです。 これに対して、政治的・社会的に不安定な国の場合、切手や郵便物にはそうした状況が鮮明に反映されますから、(不謹慎な表現かもしれませんが)単純に面白いのです。また、特定のイデオロギーを国民に対して徹底的に浸透させようとしている国では、切手がプロパガンダの媒体として使われていますから、これまた興味をそそられます。そのため、そうした国・地域に関しては、熱心に調べてみたくなるのです。 そうした観点から、2010年にメディアファクトリー新書の一冊として上梓した拙著の書名は『事情のある国の切手ほど面白い』としたのですが、昨今の国際ニュースを見てみると、“事情のある”などという生易しい状況にない国が世界の中心にいくつもあることに気が付きます。もっとも、幸か不幸か、世界最初の切手が英国で発行された1840年以来、現在にいたるまで、世界のどこかで常に混乱や動乱、大規模な自然災害が起こり、各国間の派手な離合集散が繰り返されてきたわけで、世界が安定していることのほうがむしろ珍しいともいえるでしょう。 そうであればこそ、「国際ニュースの正しい読み方」と銘打った本書では、そもそもの議論の出発点として「世界はいつでも不安定」と最初に謳うことにしました。世界の混沌や不安定さを嘆くよりも、不安定であることを前提に、日本としての身の処し方を考えるほうが建設的で精神衛生上も良いのではないかと思います。 また、本書の帯にはバイデン(米大統領)、プーチン(ロシア大統領)、習近平(中国国家主席)、トランプ(米前大統領)、サルマーン(サウジ国王)に加え、わが国の菅総理の顔写真も加えています。本書の本文では菅総理については言及していないのですが、それでもあえて帯の写真に加えたのは、わが国が否応なしに「不安定な世界」の中で生きていかねばならないこと、そしてそのためには、国際ニュースを正しく読むことが必須の前提であることを読者の皆さんにイメージしていただきたかったからです。 世界の中で我々が「どうすべきか」という問いに答えるためには、世界が「どうなるか」を予測せねばならず、そのためには現状を正確に認識する必要があります。その一助として、今回配信開始となるオーディオブックを含め、皆様にとって使い勝手の良い形態でご活用いただければ幸です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月12日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-08 Thu 03:10
きのう(7日)、ハイチのジョブネル・モイーズ大統領が自宅で正体不明の集団に襲撃され、暗殺されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2000年にハイチが発行した観光宣伝の切手のうち、国家宮殿(大統領官邸)を取り上げた1枚です。なお、切手に取り上げられた国家宮殿の建物は2010年のハイチ地震により倒壊し、その後は再建されていません。モイーズ大統領が私邸で暗殺されたのも、こうした事情によるものです。 さて、ハイチでは2016年2月7日のミシェル・マテリ大統領の任期満了を前に、2015年10月25日に大統領選挙の第1回投票が行われ、ジョブネル・モイーズが32.81%、ジュード・セレスタンが25.27%の票を獲得したものの、過半数を得た候補がいなかったため、12月27日、この2人で決選投票が行われることになりました。 ところが、第1回投票の結果をめぐり、不正があったと主張する大規模な抗議デモが発生したため、いったん、決選投票は2016年1月に延期されます。しかし、その後も抗議は収まらず、2015年10月の選挙結果を無効としたうえで、2016年4月24日に再選挙が行われることになりました。 この間、2016年2月には、予定どおりマテリ大統領が退任したため、当初は首相のエヴァンス・ポールが、ついで上院議長のジョスレルム・プリベールが暫定大統領となりましたが、混乱は収束せず、実際に大統領選挙の再選挙が行われたのは2016年11月20日のことでした。 この時の選挙では、モイーズが第1回の投票で55.67%の票を獲得したため、2017年2月7日、モイーズが晴れて大統領に就任し、ジャック・ギ・ラフォンタンが首相に指名されます。 これにより、ようやく混乱も終息するかに思われましたが、2018年7月、石油関連製品の一斉値上げが発表されると、これに抗議する暴動が発生。ラフォンタンは首相辞任を余儀なくされ、翌9月、ジャン=アンリ・セアン氏が首相に指名されたものの、翌2019年3月には、議会でセアン内閣に対する不信任決議が可決されます。これを受けて、セアンの後継内閣を組織したジャン=ミシェル・ラパンは、同年10月に予定されていた選挙を実施しなかったため、2020年1月には下院議員全員と上院議員の3分の2が任期切れで失職。議会は事実上消滅し、モイーズは議会の承認を経ずに大統領権限を行使するという事態に陥りました。 ところで、ハイチでは、2004年に武装反乱が発生して当時のジャンベルトラン・アリスティド大統領が退陣したのを機に、国連平和維持軍(PKO)が派遣され、2010年のハイチ地震後も活動を続けていましたが、2019年10月、PKO部隊は撤退。その前後から、ハイチの治安は極端に悪化しました。 その背景には、モイーズ政権が権力維持と反体派の弾圧にギャングを利用している状況があるとみられており、ハーヴァード大学法科大学院国際人権クリニックは、2021年4月22日付の報告書において、2018-20年にギャング主導で行われた貧困地域への3件の襲撃事件(少なくとも住民240人の死亡が確認)について、その「計画、実行、隠蔽に政府上層部による関与」があり、ハイチ政府はギャングに資金、武器、車両を供与しただけでなく、実行犯グループを訴追から守っていたと指摘。実際、米国財務省も、報告書に先立つ2020年12月、襲撃事件の1つについて計画を支援したとして、ハイチの有名なギャングの首領とモイーズ政権の元当局者2人を制裁の対象に加えています。 2020年3月にはラパン内閣が退陣し、ジョゼフ・ジュトゥが後継首相に指名されますが、その後も事実上の無議会状態は続き、社会の混迷はさらに深まっていきます。政府も(自らの関与は否定するものの)ギャングによる犯罪の増加は認めざるを得ず、2020年の誘拐事件の件数は2019年の3倍に当たる234件にも及んだと発表しました。ただし、首都ポルトープランスの非営利組織「人権分析研究センター」所長のギデオン・ジャン弁護士によれば、実際には2020年には796件の誘拐事件が発生した記録があると指摘しています。 議会が消滅し、政府も社会秩序を維持できない状況が続く中、モイーズは自らの大統領任期(憲法の規定では5年)は2022年2月7日までと主張していましたが、野党側は大統領の任期はマテリ前大統領が退任した2016年2月を起点に大統領の任期は2021年2月までと主張。野党の主張する大統領任期切れの2021年2月を前に、大規模な反大統領デモが発生すると、2月7日、モイーズ政権は大統領の殺害計画を含むクーデター計画を事前に阻止したと発表し、最高裁判事や国家警察幹部ら少なくとも23人を逮捕しました。 この逮捕劇の後、4月14日にはジュトゥ内閣が退陣し、クロード・ジョゼフは新首相に指名されます。首相就任に際して、ジョゼフは「(2021年9月に予定されている)選挙実施を控えて、政権を揺さぶるために“反民主主義勢力”が暴力を煽り立てている」、「彼らは選挙実施を阻止するためにギャングを煽動している」と主張。一方、モイーズ本人は、同日、政府は最大限の努力を行っており、誘拐対策に投入するリソースを強化しているとしつつも、「誘拐が日常茶飯事になっており」、長引く治安悪化への取組みが「効果を上げていない」と説明しました。あるいは、この時点で、犯罪集団はすでに政権のコントロールが効かない状況になっていたということなのかもしれません。 いずれにせよ、犯罪組織の背後に政権の影がちらついていることへの不信感から、多くの国民はモイーズやジョゼフの説明を信用せず、4月15日には治安悪化に抗議するストライキがハイチ全土で発生。5月には、7つの民間企業団体のトップが、犯罪増加は容認できないレベルに達したとする共同声明を発表し、政権への不信感をあらわにしています。 こうして、ハイチの治安状況が悪化の一途をたどり、首都ポルトープランスでは武装集団による抗争事件もさらに激化していく中で、7月7日、米国麻薬取締局(DEA)の捜査官を名乗る武装勢力が、DEAの作戦と称して、ポルトープランス近郊にあるモイーズの私邸を襲撃。モイーズを射殺し、妻のマルティーヌも撃たれて病院に搬送されました。 なお、犯行グループに名前を騙られた形の米国は、バイデン大統領が「この凶悪な行為を非難する」との声明を発表。サキ報道官も、暗殺について「恐ろしい攻撃」と非難し、「捜査を行う際には、米国はハイチ国民と政府に、どのような形であれ支援する」と表明しています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月12日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-07 Wed 10:19
きょう(7日)は、1978年7月7日に独立したソロモン諸島国家の独立記念日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2018年7月25日にスペインが発行した“アルバロ・ド・メンダーニャ・ド・ネイラのオセアニア発見(450年)”の記念切手で、メンダーニャの肖像と彼が西洋人として初めてソロモン諸島を訪れたことを示す地図が描かれています。なお、切手は薄い木の板に印刷され、目打の型抜きをしたセルフ糊式です。 1492年、ジェノヴァ商人のクリストファー・コロンブスが西インド諸島のバハマ諸島に到着して以来、スペイン人のコンキスタドール(征服者)たちは交易品、特に黄金を求めてアメリカ大陸を探索し、インカやアステカを征服し、略奪の限りを尽くしていました。 コンキスタドールの一人であったペドロ・サルミエント・デ・ガンボアは、1555年、メキシコに渡り、1557年、そこからペルーへ移って、先住民文化への造詣を深めます。そして、1572年、当時のペルー副王、フランシスコ・デ・トレドの命を受けて、「インカ王朝が纂奪者の始めた専制君主のものであることを立証し、ペルーにおけるスペイン王主権の正当性を明らかにする」ことを目的に『インカ史』を著しました。 そこにいたる過程で、「船乗り“パウジ・トゥパク・ユバンギ”が9ヶ月におよぶ南方航海の末、”テラ・アゥストラリス”の地から莫大な富を持ち帰った」とする先住民の伝承を耳にしたガンボアは、コンキスタドールの一人として、その真偽を確認しようと考え、1567年、当時のペルー副王、ローベ・ガルシア・デ・カストロの甥で、25歳の若者だったアルバロ・ド・メンダーニャ・ド・ネイラを誘って探検隊を組織します。 探検隊は司令官のメンダーニャの下、兵士70名と牧師4名、それに、先住民の奴隷を加えた総勢150名で構成され、1567年11月19日、トドス・サントス号とロス・レイズ号 の2隻でリマ近郷のカヤオ港を出帆しました。 メンダーニャの船団は太平洋を西に進み、1568年1月15日、現在のツヴァル領でヌイ環礁を発見し、ここを島と誤認して“イエス島”と命名します。ただし、一行はイエス島へは上陸せず、1568年2月1日、ソロモン諸島北部のオントン・ジャワ環礁に停泊。やはり、ここを島と誤認し、“バクソス・デ・ラ・カンデラリア島”と命名しました。 さらに、一行は南下して、同7日、サンタ・イサベル島に到達したのを皮切りに、島伝いに、ラモス島(現マライタ島)、サン・ホルヘ島(現アル・シュ・デ・イザベル島)、フィレンツェ諸島、ガレラ島、ブエナビスタ島、サン・ディマスおよびグアダルーペ島(現・フロリダ諸島)と進んでいきます。 一行は木々に覆われた島々に上陸しましたが、高温多湿の密林の足元には腐った植物が堆積し、そこを毒蛇やトカゲなど不気味な動物が動き回っており、食料になりそうなものもほとんど見つかりませんでした。また、島民たちはメンダーニャら闖入者に対する敵意を剥き出しにして襲いかかってきましたが、ほどなくして、彼らの中にはカニバリズム(人肉食)や首狩りの習慣がある部族があることもわかったため、一行は恐怖に駆られて島々を移動せざるをえませんでした。もちろん、金銀財宝どころの話ではなく、疫病や先住民の襲撃などで多くの隊員が命を落としています。 そんな中で、一行は、先住民から“サブ”と呼ばれていた火山島の隣にある大きな島に上陸する。両島の間の海峡は、サブから転訛してサボ海峡と命名され、大きな島は、隊員のペドロ・デ・オルテガの故郷で、アンダルシアのグァダルカナルにちなんで、ガダルカナルと命名されました。 ガダルカナルを探索した一行は砂金を発見。ここが目的のテラ・アゥストラリスかと色めき立ったものの、いかんせん、あまりの過酷な自然条件と先住民の攻撃の前に長期間の滞在はかなわず、すぐに島を後にしています。 その後、一行はガダルカナル島南東のサン・クリストバル島(現マキラ島)に上陸し、この地に居留地を建設しようとしましたが、上陸の際、スペイン人が島民を殺害したことから、島民が結束して反撃。スペイン側にも大きな被害が出たことに加え、結局、ここでも金銀財宝はおろか、十分な食料を見つけることができなかったため、マーシャル諸島マロエラップ環礁(彼らの命名ではバクソス・デ・サンバルトロメ島)、ウェーク島(同じくサンフランシスコ諸島)まで回った後、5月11日に帰途に就き、翌1569年7月22日、ペルーのカヤオ港に帰着した。 そして、彼らが探査した島々は、「ガダルカナルの砂金は“ソロモン王の財宝(の一部)”である」との思い込みから、“ソロモン諸島”と命名されることになりました。 なお、メンダーニャの探検以降、第二次大戦中の激戦や1978年の独立を経て現在に至るソロモン諸島の歴史については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(6日)の「イマゲン」こと「今さら聞けない、減税の話 Tax Cut TV」のライブ配信は、無事、終了いたしました。アーカイブとしてこちらでもお聴きいただけますので、よろしかったら、ご利用ください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月12日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-06 Tue 02:17
中央アジアのタジキスタン国家安全保障委員会は、きのう(5日)、隣国アフガニスタンの政府軍と反政府勢力ターリバーン(タリバン)との衝突を受け、アフガン兵1037人が“命を守るため”、タジクに逃げてきたことを明らかにし、良好な隣国関係の原則と内政不干渉の立場から「アフガン兵がタジク領内に入ることを認めた」と発表しました。というわけで、タジキスタンとアフガニスタン(およびイラン)の歴史的な関係を示すものとして、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2010年にタジキスタンが発行した“聖者アブドゥッラー・アンサーリー”の切手です。アンサーリー(1005-1089)は、近世ペルシャ語・押韻散文の傑作『祈祷書』を執筆したヘラート(現アフガニスタン)の出身で、この切手は、かつての“タージーク”としての文化的紐帯を示すため、タジキスタン、イラン、アフガニスタンの3国で同図案のジョイントイッシューとして発行された1枚です。なお、切手の上部には3国の国旗も描かれています。 イスラム以前のペルシャ語では、イラン高原に最も近い地域に住むアラブ(アラビア語を母語とする人々)がタイー族と呼ばれており、漢文史料では “大食(タージー)”として記録されていました。 7世紀にイスラムの宣教が始まり、それに伴うアラブの大征服の過程で、中央アジアはウマイヤ、次いでアッバース朝の支配下に置かれますが、その結果、この地域にはアラブ系の入植が始まり、旧ササン朝系のペルシャ人もゾグディアナなど中央アジアの各地に移住することになりました。 西暦9世紀に入ると、アッバース朝のカリフは、次第に、ホラーサーン(現在のイラン東部)や中央アジア各地の支配を在地のイラン系有力者に委任するようになり、875年、ブハラ(現ウズベキスタン)を都として、マー・ワラー・アン・ナフル(アム川とシル川の間の地域。現在の国名でいうと、現在の国名でいうと、タジキスタンならびにウズベキスタンのほぼ全域、カザフスタン南部、キルギスの一部に相当)とホラサーンにまたがる王朝、サーマーン朝が成立します。 サーマーン朝は、それ以前の“中世ペルシャ語(旧ササン朝時代のペルシャ語。パフラヴィー語とも)”に代わり、アラビア文字とアラビア語の語彙を用いた “近世ペルシャ語”の確立に力を注いだこともあって、中央ユーラシアでは、タイー族に由来する“タージーク(以下、タジク)”は、次第に、アラブではなく、近世ペルシャ語を使用するムスリムのことを意味するようになりました。 さらに、トルコ系諸民族がイラン高原に進出するようになると、タジクは、トルコ系言語を母語とする遊牧集団の“テュルク”と対比させて、近世ペルシャ語(各地域の方言を含む)を話し、都市文化になじんだ民族集団を指す言葉となります。そして、中央ユーラシアの諸王朝では、騎馬軍事力を基にテュルクが軍事・政治を担当し、都市文化に精通したタジクが拠点都市で近世ペルシャ語を公用語として文書行政を担当するという棲み分けが定着しました。 19世紀後半、中央アジアの国境が画定されていく中で、タジクの居住地は各国によって分割されていきます。 1881年に清露間で国境画定のためのイリ条約が結ばれると、パミール高原東部、タジクが多数派を占めるタシュクルガンは清朝の領域とされ、1884年以降、新疆省が管轄することになりました。 一方、アム・ダリア以南、ヒンドゥークシュ山脈以北のタジクは、アフガニスタンの支配下に置かれたため、現在でも、アフガニスタン北部、ヘラートのオアシス、ヒンドゥークシュ山脈の南斜面のパンジシール州、ゴルベンド及びサラングの峡谷並びに北東辺境のバダフシャン州はタジクが人口の多数派を占めています。 一方、ロシアの支配地域では、タジクの居住地域は、1867年に設置されたトルキスタン総督府(北部)と1868年にロシアの保護下に入ったブハラ・ハン国に分割されます。ロシア革命を経て、1922年末にソ連が成立すると、1924年、ソ連中央政府は中央アジアを民族別の共和国に分割する「民族境界区分」を画定。これに伴い、“タジク人”は“中央アジアのイラン系言語(タジク語)を用いる定住民”と定義され、民族共和国を形成しうる“民族”として公認され、ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国内にタジク・ソヴィエト社会主義自治共和国が設定されます。しかし、タジク人には十分な発言権を与えられず、タジク人が数多く居住するブハラ、サマルカンド、フェルガナ盆地はウズベク領となり、タジク・ソヴィエト社会主義自治共和国はタジク人の民族共和国を名乗りながら、タジク人の歴史的領域の重要部分を失うという皮肉な結果になりました。 その後、タジク・ソヴィエト社会主義自治共和国は、1929年にタジク・ソヴィエト社会主義共和国に昇格。ソ連末期の1991年9月にタジキスタン共和国として独立を宣言し、現在に至っています。 * 昨日(5日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・12日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月6日(火) 21:00~ 今さら聞けない、減税の話 Tax Cut TV 本日21時からYoutubeで配信の「イマゲン」こと「今さら聞けない、減税の話 Tax Cut TV」に内藤がゲスト出演の予定です。こちらをクリックして、ぜひ、お聴きいただけると幸いです。 7月12日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-05 Mon 02:20
1946年7月5日、フランスのファッションデザイナー、ルイ・レアールがビキニスタイルの水着を発表してから、ちょうど75年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2005年5月7日にベルギーが発行した“ヴァカンス”の切手で、ビキニスタイルの水着でビーチに寝そべる女性が描かれています。 20世紀初頭まで、西洋での女性の水着は長袖で足首まで全身を覆うスタイルのものが主流でしたが(ただし、日本を含むアジア諸国では上半身は裸で泳ぐことも珍しくありませんでしたが)、1930年代に入ると、ラテックスやナイロン素材のものが登場して体にフィットするようになっただけでなく、女子の競泳競技が盛んになったこともあり、泳ぐ際のスピードを優先して、袖や足を覆う部分をなくして首や背中の露出を大きくしたデザインのものが生まれます。さらに、1930年代後半から1940年代にかけて、腹部を露出するツーピースの水着が流行しましたが、この時点では水着のボトムは大きく、女性たちはへそを隠して着用していました。 もともと自動車整備士であったルイ・レアールは、1940年頃、母親がパリで経営していた下着会社を引き継ぎましたが、ある時、南仏のサントロペのビーチで、女性たちが肌をきれいに焼くために水着の端をまくり上げているのを見て、橋をまくる必要のない小さな水着を作ることを考えついたものの、当時は第二次大戦中だったこともあり、製品化には至りませんでした。 第二次大戦後の1946年5月、フランスのファッションデザイナー、ジャック・エイムは新デザインのツーピースの水着を発表し、「それ以上分割できない」との意味を込めて“アトム(原子)”の商品名で、“いままでで最も小さい水着”の販売を開始します。その際、エイムは新商品の宣伝のため、地中海のリゾート地の上空に飛行機を飛ばし、“世界でいちばん小さい水着”という空中文字を見せるパフォーマンスを行わせました。 エイムに先を越されたレアールは、アトムよりもさらに小さく、世界で初めてへその部分が露出するように、新聞パターンをプリントした三角形の布を4枚、紐でつないだだけの水着(現在のストリング・ビキニの原型)を考案し、1946年7月5日、公共プールのピシン・モリトールで記者発表を行いました。なお、この時のモデルはカジノ・ド・パリ出身のヌードダンサー、ミシュリーヌ・ベルナルディーニが務めましたが、これは、レアールの水着が当時の常識からするとあまりにも露出度が高く、多くのモデルに着用を断られたためです。 ところで、記者発表直前の7月1日、米国は“平和か破滅かの選択”と称して、マーシャル諸島のビキニ環礁で原爆実験を行いましたが、レアールは、その報道からヒントを得て、水着の小ささと周囲に与える“破壊力”を原爆にたとえて、新商品を“ビキニ”と命名します。また、エイムに対抗するため、レアールはリヴィエラの上空に、空中文字で「世界最小の水着(=アトム)よりも小さい」と描くパフォーマンスを行いました。 レアールの発表したビキニはすぐにヨーロッパのファッション界に大きなセンセーションを巻き起こしましたが、その後も、レアールは「(ツーピースの水着であっても)結婚指輪をすり抜けられないなら、真のビキニではない」とする印象的な宣伝コピーの広告を打ったり、ツール・ド・フランスではビキニを着た女性を宣伝カーに乗せて選手の後を追わせたりするなど、巧みな宣伝戦略により人々の注目を集め、ビキニを女性の水着の一形態として定着させることに成功しました。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月5日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-04 Sun 02:17
きょう(4日)は米国の独立記念日です。というわけで、米国の象徴としてのハクトウワシと盾を取り上げた切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1869年に発行された米国の10セント切手で、明治初期に横浜に置かれていた米国の郵便局の消印が押されています。年号は不明ですが、“YOKOHAMA JAPAN”の文字と、7月22日の日付ははっきりと読めます。 1858年に安政の5ヵ国条約が結ばれ、翌1859年に日本が本格的に開国すると、横浜・長崎・函館の開港地には外国人が訪れるようになり、外国との通信も必要になりました。しかし、当時の飛脚には海外との通信を取り扱う能力はなかったため、1860年7月、英国は横浜に郵便局を設置し、本国との通信を取り扱い始めます。なお、1864年10月15日以降は英国局には香港切手が持ち込まれて使用されました。 一方、フランス宛の郵便物については、1860年5月の英仏郵便交換条約改定により、日本発着の郵便物は香港経由のルートで取り扱われていましたが、1865年、横浜にフランス局が開局し、本国の切手が持ち込まれて使用されています。 これに対して、南北戦争のため海外への進出が遅れていた米国も、1867年以降、横浜、長崎、兵庫、箱館に郵便局を開設し、本国の切手を使用しました。今回ご紹介の切手はその一例です。 なお、1871年4月20日にはわが国でも近代郵便が創業すると、翌1872年4月8日、明治政府は、まず、英仏米の在日郵便局を利用して外国との郵便交換を行うための「海外郵便手続」を公布。ついで、独自の外国郵便制度を創設するため、駐日米公使デロングの支援の下、米国人のサミュエル・ブライアンを交渉担当者として雇用し、米国との協議を開始します。 その結果、1873年2月、日米間で「皇米郵便交換条約」が結ばれ、1875年1月1日、米国経由での日本の外国郵便が正式にスタートし、前日の1874年12月31日限りで米国の横浜局も閉鎖されました。その後、1877年6月にわが国が万国郵便連合に加盟したことを受けて、1879年には英国局が、1880年にはフランス局が閉鎖され、在日外国局は終焉を迎えました。 ちなみに、幕末から明治初期にかけての日本と外国との郵便交換については、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.1 戦前編』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月5日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-03 Sat 10:37
ベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコ大統領は、きのう(2日)、同国独立記念日(3日:きょうです!)を前にした演説で、ウクライナから「大量の武器が流入している」として(ただし、真偽は不明)、ウクライナとの国境の完全封鎖を指示しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2018年1月10日にベラルーシが発行した“国境警備隊100周年”の記念切手です。 現在のベラルーシ国家の領域は長らくロシアとポーランドの両国が支配を争っていましたが、18世紀末、列強諸国によりポーランドが分割され消滅すると、ロシアの支配下に置かれ、次第にロシアと同化していきました。 1917年3月のロシア二月革命で帝政ロシアが崩壊すると、ベラルーシでグロマダ(ベラルーシ社会主義会議)などの民族派が独立を模索するようになり、同年7月、中央ベラルーシ会議が設置されます。中央ベラルーシ会議は、同年12月に全ベラルーシ大会を開催しましたが、十月革命で発足したロシアのボリシェヴィキは大会を解散させましたが、場所を変えて審議を継続し、執行委員会を選出しました。 一方、革命後の混乱で第一次大戦への参加継続が困難を判断したボリシェヴィキ政権は、1918年3月3日、 中央同盟国(ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国)と講和を条約を結び、第一次世界大戦から離脱。ベラルーシの地はドイツ軍の占領下に置かれ、3月25日、同条約第3条の規定に基づき、“ベラルーシ人民共和国”の独立が宣言されました。 これを受けて、5月28日、ベラルーシ人民共和国政府は国境警備隊を創設。今回ご紹介の切手は、ここから起算して100年を祝う式典が2018年5月28日に行われるのに先立ち、同年1月に発行されたものです。 しかし、ベラルーシ人民共和国が憲法や正規軍をなど国家としての体制を整える前に、1919年1月5日、赤軍がミンスクに侵攻。これにより、ベラルーシ人民共和国政府はあっけなく崩壊し、ボリシェヴィキ政権により白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国(BSSR)が創設されます。 その後、ポーランド・ソヴィエト戦争により、1920年、BSSRは東西に分割され、西部はポーランドに編入されました。一方、東部ではBSSRが存続し、1922年末に発足したソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)に参加しました。 1939年9月、第二次大戦が勃発し、独ソ両国がポーランドを分割占領すると、これに伴い、西部ベラルーシはソ連に占領され、BSSRに編入されました。さらに、1941年6月、独ソ戦が勃発すると、ベラルーシはドイツ軍に占領されました。そして、住民の3分の1が犠牲になるという壮絶な戦いの末、1944年、ドイツ軍はベラルーシから撤退。1945年7-8月のポツダム会談の結果、ソ連=ポーランド国境は西に移動し、ベラルーシ全域がBSSRとしてソ連の一部となりました。現在のベラルーシ国家は、その継承国家という位置づけです。 さて、きのうの演説で、ルカシェンコは、米国やドイツ、ウクライナが調整役となって政権転覆を企てていた“テロ組織”を摘発したとも述べましたが、ウクライナからの武器流入の主張も含めて現時点ではその真偽は不明です。 ベラルーシのルカシェンコ政権は、昨年8月の大統領選挙での大規模な不正とその後の国内反対派の弾圧に続き、今年5月にはギリシャからリトアニアに向かっていた国際線旅客機を自国に緊急着陸させ、 乗客の反体制派ジャーナリストらを拘束するなどしたことで、欧米から厳しい非難を浴びており、国際的な孤立を深めています。今回の発言も、そうした状況の中で、危機を煽ることで政権への求心力を高めようとする思惑によるものとみられています。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月3日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座 7月3日・10日・17日・24日・31日、8月7日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。お申し込みを含め、詳細については、こちらをクリックしてご覧ください。 7月5日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-02 Fri 10:38
英国の故ダイアナ元皇太子妃の生誕60年にあたる昨日(1日)、彼女の銅像がロンドンのケンジントン宮殿(生前の彼女の住居)の庭園に建てられ、長男ウィリアム、次男ヘンリー両王子が参加して除幕式が開かれました。ダイアナ元妃の切手は数多ありますが、式典では、両王子が慈善事業に熱心だった元妃の「人生と功績を象徴する」ものになれば、と述べたそうなので、ダイアナと慈善の組み合わせで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1982年5月3日、同年4月に発生したサイクロン“バーニー”の被災者救援のため、ソロモン諸島で発行された加刷切手の初日カバーです。切手は、前年のチャールズ皇太子結婚記念の切手に“サイクロン救援基金のため50セント課金”と加刷したもので、カバーの余白に押された公式カシェには、サイクロン“バーニー”の名前と、災害の起きた4月1日から8日までという日付も表示されています。 1982年4月1日、ソロモン諸島サンタ・イサベル島北方の熱帯収束帯で発達した低気圧はサイクロン“バーニー”となって南下し、同日夜、サンタ・イサベル島を横断。翌2日朝の中心気圧は990ヘクトパスカルでしたが、その後、3日間、勢力を強めながら南西方面に移動し、5日0時には945ヘクトパスカルまで発達。翌6日正午にはソロモン諸島の領域を通過し、9日から10日にかけてはニュージーランド北島沿岸部に到達し、各地に大きな被害をもたらしました。この間、瞬間最大風速は時速126キロと観測されています。 なお、南太平洋の島国の常として、ソロモン諸島ではしばしば深刻なサイクロンの被害に見舞われていますが、それらがこの政治や社会にどのような影響を及ぼしてきたかという点については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月3日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座 7月3日・10日・17日・24日・31日、8月7日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。お申し込みを含め、詳細については、こちらをクリックしてご覧ください。 7月5日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-07-01 Thu 04:13
きょう(1日)は、ことし(2021年)、創建100周年を迎える中国共産党の“創建記念日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1949年7月1日、中国東北部(旧満洲)の共産党支配地域の郵政を管轄していた東北郵電管理総局が発行した“中国共産党28周年”の記念切手の1枚で、鎌と槌の共産党旗と“共産建設”の文字の入った赤旗を掲げて行進する労働者と農民が描かれています。切手の右側には“在中國共產黨領導下前進(中国共産党の領導の下、前進あり)”との文言があり、その下には、歯車型の枠の中に“中國共產黨二十八周年 7.1.誕生紀念 1949”の文字が入っています。なお、切手は瀋陽東北画報社の印刷所で製造されました。 さて、中国共産党の創建記念日は7月1日とされていますが、歴史的事実からすると、同党は1921年7月1日に創建されたわけではありません。 中国共産党の設立会議とされる中国共産党第1次全国代表大会(第1回党大会)は、1921年7月23日、創立党員で上海代表の李漢俊の自宅で開催されました。具体的な地番としては、上海フランス租界内の望志路106号(現在の興業路76号)になります。 しかし、7月30日夜、密告によりフランス租界警察が会議の行われていた李漢俊宅を捜索。このため、参加者は上海を脱出し、翌31日、浙江省嘉興市の南湖に浮かぶ船上に場所を移して最終日の会議が行われました。 したがって、本来であれば、中国共産党創建の日は、会議初日の7月23日ないしは党綱領と役員が確定した最終日の7月31日とすべきなのでしょうが、上述のように会議は秘密裏に開催され、その記録も公開されなかったため、次第に会議の行われた日付などについての記憶も曖昧なものとなっていきました。 1937年、支那事変の勃発後、第二次国共合作が成立すると、蒋介石の国民政府はそれまで非合法としていた中国共産党を合法化します。これを受けて、翌1938年、中国共産党は創建17周年の記念日を公式に祝うことになりましたが、この時には共産党側に第1回党大会の記録は残されておらず、毛沢東を含め、第1回党大会の参加者のうち正確な開催日を記憶していた者はいませんでした。そこで、彼らの曖昧な記憶を元に、とりあえず、7月頃の開催だったことだけは間違いないということで、暫定的に、7月1日を“創建記念日”として祝賀行事が行われました。 その後も、中国共産党は(正確な第1回党大会の日付が不明なまま)7月1日を創建記念日としていましたが(今回ご紹介の切手も7月1日に中国共産党が“誕生”したと説明しています)、1949年の中華人民共和国成立を経て、1950年末、大会当時のロシア語の報告資料が発見され、そこに「上海フランス租界の党員の居宅で、7月23日に会が開かれた」との趣旨の記述が見つかります。 しかし、この時は既に約20年にわたり、中国共産党は7月1日を“創建記念日”として祝賀行事を行っており、その日付が定着していたため、歴史的事実としては第1回党大会は7月23日としたうえで、7月1日は祝賀行事などを行う“記念日”とすることで決着が図られ、現在に至っているというわけです。まぁ、歴史的事実よりも、政治的なプロパガンダが優先するかの国らしいといえば、それまでですが…。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 7月3日(土)~ 武蔵野大学の生涯学習講座 7月3日・10日・17日・24日・31日、8月7日の6回、下記のふたつの講座でお話しします。 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。お申し込みを含め、詳細については、こちらをクリックしてご覧ください。 7月5日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) * 編集スタッフの方が個人ブログで紹介してくれました。こちらをご覧ください。 ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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