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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 米、キューバ企業への訴訟解禁
2019-03-06 Wed 11:07
 米政府は4日(現地時間)、1959年の革命後にキューバ政府が革命後に接収した家屋や土地などの財産について、亡命キューバ人を含む米国人が損害賠償請求訴訟を提起することを認めると発表しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・製糖工場(1928年)

 これは、1928年3月22日、ハバナから米国宛の絵葉書で、絵面には米国資本の製糖工場が取り上げられています。

 キューバの砂糖産業は、1878年に終結する十年戦争(第一次独立戦争)以前は、サトウキビ畑と製糖工場、奴隷の住居、家畜小屋、倉庫などが1ヵ所に集まった“インヘニオ”の形態が主流を占めていましたが、十年戦争を経て、遠隔地の畑と工場、港湾を鉄道で結ぶ“セントラル”へと産業形態が徐々に変化していきます。

 その背景には、①欧州市場で甜菜糖が増加して砂糖価格の暴落、②奴隷制の廃止(1886年)により従来型のプランテーション経営が困難になったこと、③疲弊したプランターたちが土地や生産施設を米国資本に売却し、土地の集約が進んだこと、④技術革新により、鋼鉄製の線路が安価につくられるようになったこと、などの要因がありました。

 1890年から1894年の5年間でキューバの砂糖生産は50万トンから100万トンに倍増しましたが、キューバ産砂糖の9割以上が米国に輸出されるようになり、キューバ経済は完全に米属に従属することになります。

 さらに、米西戦争を経て、1902年、キューバは“独立”を達成しますが、これに先立つ憲法制定の過程で、米国はキューバ制憲議会に対して、①キューバの独立が脅かされたり、米国人の生命・財産が危険にさらされたりした場合には米国は介入できる、②キューバは(米国以外の)外国から資金を借りてはいけない、③キューバ政府は(米国以外の)外国に軍事基地を提供したりしてはいけない、③キューバ政府は米軍事基地を提供する義務を負う(この結果、設置されたのが、現在も存在するグアンタナモ米軍基地)、など8項目からなる付帯事項(プラット修正条項)を押し付けました。

 こうして、キューバは実質的に米国の支配下に置かれ、砂糖や煙草などの主要産品は米資本が独占するようになったばかりか、製糖所や煙草工場を動かすための電力、輸送のための鉄道、菓子や製薬などの副産物の生産などの関連産業を含め、米国はキューバの経済全体を支配します。

 たとえば、1959年に革命が達せられた時点で、米国系の砂糖会社が支配していた農地は全農地の47.5%、耕作地の70-75%パーセントを占めていました。米資本の土地では砂糖以外の作物の栽培は許されなかったため、キューバでは主食のコメのみならず、砂糖以外のほぼすべての食糧を輸入に頼らざるを得ず、革命前の食糧自給率は2割以下というありさまでした。

 革命当初、フィデル・カストロ(以下、フィデル)は必ずしもソ連型の社会主義国家の建設を志向していたわけではなく、上述のような、あまりにも極端な富の偏在を是正する“改良主義”の立場に立っていた。実際、革命直後の大統領だったウルティアは、当初、フィデルは共産主義者ではないとしてフィデルとは個人的に良好な関係を築こうとする一方で、チェ・ゲバラをはじめM26の共産主義者をフィデルから引き離すべきだとも主張していたほどです。

 こうした“改良主義”の最大の目玉が、5月17日に制定された第一次農業改革法でした。

 革命戦争の最中、叛乱側の支配していたシエラ・マエストラ山中の解放区やオリエンテ州のラウル・カストロ指揮下の第二戦線、カミーロとチェが勢力下においたシエンフエゴスなどでは、2カバジェリーア(約26.8ヘクタール。1カバジェリーアは約13.4ヘクタール)までの土地を農民に対して無償で分与する農地改革が実施されていました。

 革命後の1959年2月10日の閣僚会議では、こうした農地改革をキューバ全土で実施するための農業改革法のための委員会の設置が決定され、ウンベルト・ソリ・マリン農相が委員長に就任します。ただし、グアテマラのアルベンス政権がユナイテッド・フルーツ社と対立して1954年に崩壊に追い込まれたこともあって、政権内には、米国との対立を招きかねない農業改革には消極的な閣僚も少なくありませんでした。

 法案は4月28日の閣議提出を経て、5月5日、閣議で承認。さらに同17日には、革命戦争中に総司令部の置かれていたシエラ・マエストラ山中のラ・プラタで、大統領のウルティア、農相のソリ・マリンも出席して、フィデルが法案に署名する記念式典も行われ、(第一次)農業改革法は正式に公布されました。

 この時の農地改革では、土地の最高所有限度面積は30カバジェリーア(約403ヘクタール)とされ、それを超える土地は有償で接収されています。その上で、2カバジェリーア以下の土地しか持たない零細農民や小作人、あるいは営農希望者には、2カバジェリーアまでは無償で、2-5カバジェリーアまでは有償で土地が与えられました。ただし、それまで、米系企業による大規模プランテーションが農業の中心を占めていたキューバでやみくもに農地の細分化を行えば生産性が著しく低下することから、政府主導で大規模な国有農場や協同組合農場の形成が促進され、富の偏在の象徴となっていた外国人・外国企業による土地の所有も併せて禁止されています。

 その後、1960年4月4日、キューバ政府は農業改革法に基づいてユナイテッド・フルーツ社の農場を接収したのを皮切りに、6月10日、鉱山法および石油法を公布し、製油所を接収して国有化します。さらに、8月19日、米国がキューバに対する経済封鎖を発動すると、フィデルは米資本の工場や農園を次々に接収するとともに、9月2日には“第一ハバナ宣言”を発し、キューバは米州における“自由の地”であることを表明し、8月から10月にかけて、電力、銀行、鉄道、繊維、食品、煙草など、あらゆる業種の米系企業と大手企業が次々と国有化されていきました。

 このため、10月13日、米国政府はついにキューバに対して全製品の禁輸を宣言し、経済封鎖に乗り出すと、キューバ政府は13・14両日で400の銀行、製糖工場、その他工場を国有化して対抗しました。

 さて、米国は1996年にキューバ制裁強化を目的とした「ヘルムズ・バートン法」を制定し、その第3章で、接収財産に関する損害賠償請求についての規定も設けていましたが、同章については影響が大きいなどとして歴代大統領が凍結を続けてきました。今回、その凍結解除に踏み切ったのは、キューバへの圧力を強めるとともに、ベネズエラのマドゥロ大統領を支持するキューバ政府の方針に抗議する狙いがあるとみられています。

 なお、キューバ革命以降の米系資産の接収・国有化と米国の報復措置については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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