fc2ブログ
内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
<!-【↓2カラムテーブルここから↓】-->
 南アで偽造ワクチン 2400回分押収
2021-03-05 Fri 02:00
 フランスに本部を置く国際刑事警察機構(ICPO)は、3日(現地時間)、南アフリカ当局が北東部ハウテン州ジャーミストンの倉庫でおよそ2400回分の偽の新型コロナワクチンと大量の偽医療用マスクを押収し、中国人3人とザンビア人1人の計4人を逮捕したと発表しました。なお、ICPOは、昨年12月に新型コロナワクチン関連の犯罪に備えるよう加盟各国に警告していて、ユルゲン・ストック事務総長は「これは氷山の一角に過ぎない」とさらなる警戒を呼び掛けています。というわけで、ジャーミストンにちなんで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      トランスヴァ―ル・ジャーミストン→ドイツ

 これは、(第2次)ボーア戦争中の1901年3月8日、英占領下のジャーミストンからドイツのヴィスバーデン宛の郵便物で、トランスヴァ―ル切手に、英国ヴィクトリア女王の治世を意味する“V.R.I”と加刷した切手が貼られています。また、差出翌日の9日には経由地のヨハネスブルグで占領当局による開封・検閲を受け、ピンク色の封緘紙で封がされています。

 南アのジャーミストンはヨハネスブルクの東方13キロの地点に位置する都市で、ヨハネスブルクと連接して大都市圏を形成しています。

 1886年、ヨハネスブルク近郊で金鉱が発見されると、ボーア人(オランダ系移民)の支配下にあったトランスヴァ―ル共和国の領域(現在の南ア北東部に相当)には金鉱を求めて多くの人々が集まるはゴールドラッシュが到来しました。

 そうした状況下の1887年、英グラスゴー近郊のジャーミストン出身のジョン・ジャックと、ドイツのヴァ出身のアウグスト・ジンメルは、金鉱を求めてエーランズフォンテンから東へ移動する過程で現在のジャーミストン一帯の土地を購入し、この地で金鉱を掘り当てました。その後、一帯はジャックの故郷にちなんでジャーミントンと命名され、周辺の金鉱地帯の中心地となりました。現在でも、ジャーミントンには世界最大の金の精錬所があり、綿紡績,織物,鉄鋼,刃物,マッチ,薬品,化学,農業機械などの工業が盛んに行われています。

 ところで、トランスヴァ―ルで金鉱が発見されると、現地の英国人企業家を代表するセシル=ローズは、ケープ植民地の首相に就任するとともに、英国南アフリカ会社(BSAC)を設立。1890年、南アフリカ会社は遠征を開始し1894年までに南東アフリカ地域の広大な土地を支配下に収め、“ローデシア”と命名しました。

 このローデシアを拠点に、ローズはトランスヴァール共和国への侵攻を企てたものの失敗し、1896年に失脚しましたが、英本国政府はローズの植民地拡大策を継承し、ボーア人のトランスヴァ―ル共和国とオレンジ自由国を挑発。両国に対して、在留英国人に選挙権を与えることを要求するとともに、両国内の同胞が“奴隷状態”に置かれていると宣伝して、国民の開戦熱を煽り、1899年10月、両国に対する侵略戦争を開始しました。

 当初、ボーア軍は英軍を圧倒していましたが、1900年2月、英本国からの増援部隊が到着。2月18日から27日にかけてのパールデベルグの戦いで英軍がボーア軍を破ったことで戦況は逆転し、3月13日にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンが、6月5日にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアが陥落します。さらに、イギリス軍は、6月11日から12日にかけて、プレトリア近郊のダイアモンド・ヒルでボーア軍の残党を掃討し、正規軍同士の戦いは事実上終結しました。

 しかし、その後もボーア人はゲリラ戦術で激しく抵抗。大苦戦を余儀なくされた英国は、ボーア人ゲリラに対する食糧補給を断つべく、ボーア人の婦女子を強制収容所に隔離するなど、なりふり構わぬ戦術を展開しました。ちなみに、後にヒトラー政権はユダヤ人の収容所に“強制収容所”との名前を付けていますが、これは、ボーア戦争時の英国の先例に倣ったものと言われています。

  なお、第2次ボ-ア戦争に始まる“強制収容所”の歴史については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

★★  『世界はいつでも不安定』 3月10日発売!★★

      世界はいつでも不安定・表紙カバー 本体1400円+税

 出版社からのコメント
 教えて内藤先生。
 地上波では絶対に伝えられない国際情勢の事実をユーモアを交えて解説!
 チャンネルくらら人気番組「内藤陽介の世界を読む」が完全書籍化!

 版元特設サイトはこちら。また、ご予約は、アマゾンまたは honto で受付中です。


別窓 | トランスヴァール | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 放牧宣言
2017-01-06 Fri 11:26
 音楽ユニットの“いきものがかり”が、きのう(5日)、「リフレッシュのために一旦各自のペースでメンバーそれぞれの可能性を伸ばすことを目的」として、事実上、ユニットとしての活動休止となる「放牧宣言」を行いました。というわけで、“放牧”関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      南ア・ダチョウの放牧絵葉書(1911)  南ア・ダチョウの放牧絵葉書(1911.裏面)

 これは、1911年10月、南アフリカ連邦(当時)のステルクストルームからオーストラリアのシドニー宛の絵葉書で、絵面には、“典型的な南アフリカ:ダチョウ牧場”とのキャプションの下、オーツホーンでのダチョウの放牧風景が取り上げられています。

 郵便史的な観点からすると、今回ご紹介の葉書では、南ア連邦成立後の1911年に、旧トランスヴァール切手がケープ州で使用されているというのがミソです。

 すなわち、1910年、ケープナタール・トランスヴァール・オレンジの各植民地は大英帝国自治領の南ア連邦として統合されましたが、連邦結成以前に発行された旧植民地の切手に関しては、いったんプレトリアに集められた後、あらためて連邦各地に配給され、1913年9月までは、旧植民地の領域を超えて、連邦全域で有効とされていました。このため、今回ご紹介のマテリアルのように、トランスヴァール切手にケープ州の消印が押された事例が生まれることになります。

 なお、南ア連邦成立時のケープ州は、1994年、アパルトヘイトの撤廃に伴う州の再編により、、西ケープ州・東ケープ州・北ケープ州の3州と北西州の一部に分割され、今回ご紹介の葉書の差出地であるステルクストルームは東ケープ州に属することになりました。

 さて、1652年、ヤン・ファン・リーベック率いる艦船で喜望峰に上陸したオランダ人は、当初、他の野生動物同様、野生のダチョウを捕獲していましたが、ほどなくしてダチョウの飼育を開始。以後、ダチョウの生産はケープ植民地の主要産業のひとつとなりました。

 かつてのケープ植民地に相当する地域でダチョウの生産が特に盛んだったのは、オーツホーンです。 

 オーツホーンはスワートバーグ山脈とウテニカ山脈の間に位置する小カルー平原の田舎町で、1863年に本格的な入植がはじまるとすぐに、ダチョウの生産が始まりました。特に、1880年代以降、ダチョウの羽根を使ったファッションがヨーロッパで流行したこともあり、ダチョウの羽根は同じ重さの金と同じ値段で取引されることもあり、ダチョウで財を成す者が続出。オーツホーンには豪勢なダチョウ御殿も数多く建てられました。わが国でいうと、北海道のニシン御殿のようなものかもしれません。ちなみに、今回ご紹介の葉書の宛先であるオーストラリアでも、1886年にはダチョウ牧場が経営されていたという記録がありますが、ダチョウ産業の規模という点では、当時の南アフリカはオーストラリアを圧倒していました。

 なお、南アにおけるダチョウ牧場とその歴史については、拙著『喜望峰』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 

 * 昨日、アクセスカウンターが174万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。


 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

別窓 | トランスヴァール | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 南アの鉱山ストで34人死亡
2012-08-17 Fri 22:25
 南アフリカの北部マリカナのプラチナ鉱山で、きのう(16日)、ストライキ中の労働者約3000人に対して警官隊が発砲し、34人が死亡、78人が負傷しました。これは、1994年に同国でアパルトヘイト(人種隔離政策)が廃絶されて以来、警官の取り締まりによる事件としては、最悪の犠牲者数ということだそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       トランスヴァール(1869)

 これは、1869年に発行されたトランスヴァール共和国最初の切手です。今回の事件があったマリカナは、1910年の南アフリカ連邦結成以前は、トランスヴァールの領域にありました。なお、今回の事件について、現地のメディアなどは、1960年3月21日のシャープヴィル事件(ヨハネスブルグ近郊のシャープビルで発生した反アパルトヘイトの黒人に対する虐殺事件)になぞらえる向きもあるようですが、このシャープヴィルも旧トランスヴァール共和国の領域にありました。

 トランスヴァール共和国は、現在の南ア北部、ヴァール川北方に存在していた国家で、首都はプレトリアにおかれていました。正式名称は“南アフリカ共和国”で現在の南アと同じですが、一般には“ヴァール川の向こう側”を意味する英語の通称“トランスヴァール(共和国)”の名で呼ばれています。

 1815年、ケープ植民地は正式に英領となりますが、これに反発したオランダ系のアフリカーナーたちは内陸に集団移住し、ヴァール川の北方に拠点を建設。1852年にトランスヴァール共和国を建国しました。ちなみに、共和国の紋章を描く最初の切手が発行されたのは1869年のことで、国名表示は俗称のトランスヴァールではなく、正式名称である“南アフリカ共和国”を意味するアフリカーンス語の“Z. AFR. REPUBLIEK”となっています。

 さて、新生トランスヴァール共和国は内陸国で慢性的な財政難に悩んでいたため、一部の国民の中には、次第に、当初の理想を断念してイギリス植民地への再統合を求める者もあらわれるようになりました。こうした状況をとらえて、1877年、イギリス植民地相H.カーナヴォンはトランスヴァール問題に介入し、トランスヴァールの併合を宣言しました。

 これに対して、多くのアフリカーナーは抵抗し、1880年12月16日、副大統領のポール・クリューガーを司令官としてイギリスに宣戦を布告(第1次ボーア戦争)。1881年2月27日のマジュバ・ヒルの戦いでイギリスを破り、独立を回復しました。

 その後、1886年、ヨハネスブルグ近郊で金鉱が発見されると、トランスヴァール経済は急激に好転。しかし、急速な繁栄は、ふたたび、この地域に対するイギリスの野心を呼び覚ますことになり、1899年、第2次ボーア戦争が勃発しました。最終的に、1902年5月、第2次ボーア戦争はイギリスの勝利に終わり、トランスヴァール共和国はオレンジ自由国とともに大英帝国に併合されて消滅します。

 さて、毎年秋に刊行している彩流社の<切手紀行シリーズ>ですが、シリーズ5冊目の今回は、喜望峰を中心に取り上げる予定で、現在、制作作業中です。詳細につきましては、今後、随時このブログでもご案内していく予定ですので、よろしくお願いいたします。

 ★★★ 内藤陽介・韓国進出! ★★★

   『韓国現代史』の韓国語訳、出ました
    
       韓国現代史・韓国語版
     우표로 그려낸 한국현대사
    (切手で描き出した韓国現代史)

     ハヌル出版より好評発売中!


    米国と20世紀を問い直す意欲作

       切手、歴史を送る(正面)
       우표,역사를 부치다
       (切手、歴史を送る)

      延恩文庫より好評発売中!

 *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。


 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

別窓 | トランスヴァール | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
<!-【↑2カラムテーブルここまで↑】-->
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/