2007-02-26 Mon 00:47
イラン国営テレビによると、イランが初の宇宙ロケットの打ち上げに成功したとのことです。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
この切手は、1969年7月26日、イランがアポロの月着陸を記念して発行したものです。切手は、事前にイメージ図からデザインを作って準備しておいたものを、7月21日(イラン時間)に月着陸が成功したことを受けて、日付を入れて突貫作業で発行したものです。 石油国有化を宣言して民族主義強硬派路線を鮮明にしたモサデク政権に対して、1953年8月、アメリカはCIA主導のクーデタを敢行し、国王(いわゆるパーレビ国王です)中心の親米政権をイランに樹立することに成功します。 以後、アメリカはイランの石油権益を確保するとともに、イランを反ソ包囲網の拠点と位置づけて巨額の援助を行い、“湾岸の憲兵”の育成に力を注ぎます。一方、アメリカという強大な庇護者を得た国王も“白色革命”と称する開発独裁政策を展開していきました。 今回の切手は、そうした状況の中で発行されたもので、パーレビ王制が自らの“保護者”であるアメリカの歴史的快挙をたたえ、そうしたアメリカとの関係を今後とも強化していこうという意図の下に発行されたものと見てよいでしょう。 しかし、白色革命は、開発独裁政策の常として、ごく一部の特権的企業に巨万の富をもたらした一方で、伝統的な社会構造は大きな変革を迫られ、地主階級を構成していた宗教界やバザール商人、小規模手工業者らは大きな打撃を被ります。そうした彼らの不満を代弁したのが、後にイスラム革命の指導者となるホメイニでした。 結局、1979年2月のイスラム革命により、パーレビ王制は打倒され、“西でも東でもないイスラム共和国”が樹立されます。 東西冷戦時代、いわゆる非同盟諸国会議など、東西両陣営のいずれにも与することなく自立的な国家建設を行っていこうとする新興諸国は少なからず存在していました。もっとも、これらの新興諸国の多くは反帝国主義を基本にしており、その意味では、植民地主義の象徴・英仏を含む西側諸国から距離を置き、濃淡の差こそあれ、アメリカよりはソ連寄りの立場を取っていることが少なくありませんでした。 これに対して、革命イランの掲げた“西でも東でもないイスラム共和国”は意味合いが大きく異なっています。 すなわち、いわゆるイスラム原理主義者たちの理解によれば、正しい統治は神に由来するイスラム法に依拠していなければならないとされています。その意味では、共産主義であれ自由主義であれ、さらには反帝国主義であれ、イスラム法に基づかない(すなわち、人間の考案した)人造イデオロギーに基づく普通の国家は“正しい政府”ではありえません。このため、イスラム法に依拠している(ことになっている)革命イランの体制は、必然的に既存の東西の国家群からは明確に区別されるというのが彼らの主張であり、そこから“西でも東でもない”との表現が出てくるわけです。 ちなみに、ホメイニは、米ソの宇宙開発を皮肉って「彼らは月へでもどこへでも好きなところへ行くが良い」といった主旨の発言をしていますが、これもまた、“西でも東でもない”という革命イランの立場を表現したフレーズとして広く知られています。 現在のイランのアフマディネジャド政権は、ホメイニ亡き後のイランの対外宥和路線への不満を吸収して、革命の本義への復帰を掲げて誕生したわけですが、核開発に対する西側からの圧力が高まる中では、宇宙開発なんてどうでも良いとは言ってられなくなってきたということなんでしょう。 なお、ホメイニが生きていた時代のイランの切手に関しては、拙著『これが戦争だ!』でもページを設けて説明していますので、よろしかったら、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-02-25 Sun 01:02
(財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2007年3月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1861年10月1日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では同年10月13日)に発行されたギリシャ最初の切手のうちの1レプタ切手です。 1855年、最初の切手の発行を計画したギリシャ政府は、ロンドンのパーキンス・ベーコン社に見積もりを依頼しましたが、コスト面で折り合いがつかず、フランス最初の切手である“セレス”の彫刻者、ジャン・ジャック・バーレとアルベール・バーレの父子に切手製造を依頼します。 アルベールの制作した切手のデザインは、ギリシャ神話で神々の伝令役として登場し、通信の象徴とされるヘルメス(マーキュリー)神の頭像です。1886年から発行された新デザインの切手に比べて、ヘルメス像が大きく描かれているため、ラージ・ヘルメスと呼ばれています。ちなみに、1886年以降の切手のあだ名はスモール・ヘルメスです。 ラージ・ヘルメスのうち、最初に発行されたのは1、2、5、10、20、40、80レプタの7額面。どの切手も印刷シートと窓口シートの大きさは同じで、10X15の150面構成です。 このときの切手は、バーレの作った原版をもとに、パリのドイツ人印刷所アーネスト・マイヤーで印刷されたもので、10レプタの切手のみ裏に「10」という数字が印刷されていました。後に発行された切手では、このような裏面の料額数字がほかの額面にも入れられるようになりますが、これはフランスのセレス切手発行の際に印刷を担当したユロの発案だったといわれています。ちなみに、当時のギリシャの郵便基本料金は20レプタでした。 バーレのデザインということもあって、ラージ・ヘルメスはセレスの切手とよく似た雰囲気ですが、この時期のギリシャの郵便は、消印に関してもフランス風のモノが使われています。ラージ・ヘルメスの切手が実際に貼られた郵便物の実例としては、以前の記事でもご紹介したことがありますので、よろしかったら、そちらもご覧になってみてください。 |
2007-02-23 Fri 00:40
今日(2月23日)は、“富士山の日”(2・2・3の語呂合わせ)にして、ロータリークラブの設立記念日だそうです。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1978年の国際ロータリー東京大会の記念切手で、国際ロータリーのシンボル・マークの下に北斎の富士を配したものです。 ロータリークラブは、1905年、アメリカ・シカゴの青年弁護士ポール・ハリスが、石炭商のシルベスター・シール、洋服屋のハイラム・ショーレイ、鉱山技師のグースタブス・ローアの三人とともに集まり、仲間同士の親睦を深め、実業家、専門職業人の知り合いの輪を広げることを目的としたブースタークラブ(booster:相互応援の意)を結成したのがルーツになっています。 当時のシカゴは、万国博覧会後の慢性的な不況の中で荒廃しており、“悪徳と腐敗の街”という悪名が広まっていました。映画やミュージカルの『シカゴ』は、まさにそのイメージで作られたものです。当然、治安は悪く、人々は友情に飢えており、当初のクラブは、会員の親睦団体という色彩の強いものでした。また、メンバーの仕事場を見聞するため、会合は輪番制で行われていました。この輪番制(rotation)にちなみ、クラブの正式名称はロータリー(Rotary)となり、1906年、記章として車輪のマークが採用されました。 その後、ロータリークラブは、単なる親睦団体というだけでは毎月の例会に会員の出席を促すため、積極的に慈善事業に取り組むようになり、1907年、シカゴ市内に最初の公衆便所を設置しました。これにより、奉仕団体としてのロータリークラブの性格が決定付けられることになります。 以後、1908年にサンフランシスコに二番目のクラブが誕生したのを皮切りに、ロータリークラブは全米に拡大。1910年には全米ロータリー連合会が組織されます。また、同年、ウィニペグ(カナダ)に、翌1911年にはロンドン、ダブリン、ベルファスト等、アメリカ以外でもクラブの結成が進められ、ロータリー国際連合会が誕生。以後、ロータリークラブの活動は世界規模で広がり、日本でも、1920年10月、東京に最初のクラブが設立されました。 国際ロータリー・クラブは、世界中の事業および専門職務に携わる指導者からなる世界規模の組織で、人道的奉仕活動を行い、職業における高い道徳的水準を奨励し、世界中で親善や平和を築くための助力をしていますが、その最大の年次会合である大会は、毎年、各国持ち回りで開催されています。 今回の記念切手が発行された1978年の第69回大会は、5月14日から18日の5日間、「国際理解と人類への奉仕」をテーマに、東京・代々木の国立競技場をメイン会場として行われました。参加者は、海外からの約9000人を含めて、約4万人でした。なお、大会の会期は5月14日からでしたが、当日は日曜日だったため、記念切手は前日の13日の発行となっています。 切手に描かれている富士山は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』のうちの「相州梅沢左」から取られたものですが、切手では、オリジナルの作品の画面右上の富士が、前景の山を取り除き、左右の雲を取り除いた上で採用されています。 北斎の「相州梅沢左」は、その名のとおり、東海道の大磯と小田原の中間にあった立場(人馬が休憩する賭け茶屋が置かれている場所)の梅沢を舞台としたもので、大会開催地の東京とも、もちろん、ロータリー・クラブとも直接的には無関係の題材です。しかし、国際的なイベントの機会をとらえて日本文化を顕揚し、広く世界に紹介したいという意図から、①日本のシンボルである富士の姿の良いもの、②これまでの日本切手に登場したことのないもの、③瑞鳥である鶴が描かれていて慶事にふさわしいもの、④開催時期にふさわしい季節感が感じられるもの、という観点から、切手に採用されています。 さて、戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻『沖縄・高松塚の時代:切手ブームの落日 1972-1979』が、いよいよ、3月25日に刊行になります。 今回の採録範囲は、今日ご紹介の切手を含めて、1972年の「札幌オリンピック」から1979年の「国土緑化運動」まで。前作までと同様、対象期間の(公園・年賀を除く)全記念特殊切手についての情報がぎっしり詰まった1冊に仕上がっていますので、刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 なお、日本で開催された最初の国際ロータリーの大会の記念切手(1961年に発行)に関しては、2005年に刊行の<解説・戦後記念切手>シリーズの第3巻『切手バブルの時代』をご覧いただけると幸いです。 |
2007-02-22 Thu 00:36
ご報告が遅れましたが、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の2月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手の中の建設物」では、今までアメリカ大陸のモノを取り上げたことがありませんでしたので、今回は2月22日のジョージ・ワシントンの誕生日にちなんで、こんなものをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年の日米修好100年を記念してアメリカで発行された記念切手で、ワシントンDCのワシントン記念塔(Washington Monument)と桜が描かれています。 日米修好100年の記念行事が、日米修好通商条約調印100周年の1958年ではなく、批准100年にこだわって1960年に行われたのは、以前の記事でもご説明しましたが、この行事が実質的に1960年の日米安保条約の改訂と結び付けられていたためです。 さて、今回ご紹介の切手は、日米修好100年の記念行事の一環としてアメリカを訪問された皇太子ご夫妻(現在の両陛下)のワシントン到着にあわせて9月26日に発行されました。ワシントンを象徴するものとして、数ある建造物の中から選ばれたのが、ワシントン記念塔です。 ワシントン記念塔は、建国の父、ジョージ・ワシントンをたたえてワシントンの中心部に建造された巨大な白色のオベリスクで、1840年代のアメリカを代表する建築家、ロバート・ミルズが設計しました。塔の建設は、1848年7月に着工されたものの、途中、資金の不足や南北戦争などの影響で長らく中断され、冠石が完成したのは1884年12月のことで、完成の除幕式がおこなわれたのは翌1885年2月のことです。 塔は大理石と花崗岩、砂岩から構成されており、その高さは169メートル。1889年にパリのエッフェル塔が完成するまでは世界で最も高い建設物でしたが、現在でもワシントンDCでは最も高い建物です。建設中断の影響で、地上から46メートルのところで表面の大理石の色が異なっているのが肉眼でもはっきりとわかります。切手でも塔の色は青と赤に分けられていますが、実際の塔の色の変わり目(もちろん、青とか赤とか、そういう色が塗ってあるわけではありません)は切手に描かれているよりも、はるかに低い場所になります。 切手の原画はニューヨーク在住の日系二世の画家、ギヨウ・フジカワが制作したもので、記念塔にポトマック河畔の桜(日本から送られた苗木がもとになっている)を配して、日米の友好が表現されています。 なお、この切手と含めて、1960年の日米安保改定にまつわる切手の話に関しては、拙著『反米の世界史』でまとめていますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。 |
2007-02-20 Tue 00:22
2月20日は、いまから400年前の1607年に出雲の阿国が江戸城で将軍徳川家康や諸国の大名の前で初めて歌舞伎踊りを披露したことにちなんで、“歌舞伎の日”なんだそうです。というわけで、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます。)
これは、2003年1月15日に発行された「歌舞伎発祥400年」の記念切手です。この切手に関して、この画像とともに、当時の郵政事業庁がどのように報道資料で発表しているか、まずは、引用してみましょう。なお、今日の画像は、実物の切手からスキャンせず、ゆうびんホームページから取ってきているため、切手に斜線が入っていますが、これも、彼らの報道資料の内容をそのままお伝えしたかったからです。あしからずご了承ください。 (以下、引用) ・「歌舞伎発祥400年」について 歌舞伎は、我が国を代表する伝統芸能の一つで、文化財保護法に基づく国の重要無形文化財に指定されていますが、平成15(2003)年は、慶長8(1603)年に出雲阿国が京都で歌舞伎踊を初演してから400年に当たります。 ・デザインについて (1) 阿国歌舞伎図屏風(部分) 「阿国歌舞伎図屏風」(出光美術館所蔵)に描かれた出雲阿国をデザインしています。 出雲大社の巫女であったといわれる阿国は、出雲大社社殿修復のための勧進と称して諸国で芸能を演じました。歌舞伎踊は、阿国が当時の流行唄や狂言小歌などを取り入れた筋のある踊として始めたもので、慶長8年に北野神社境内で演じてから評判となりました。 (2) 「暫」と「土蜘」 前方に九代市川團十郎が演じる「暫」の「鎌倉権五郎景政」を、後方に五代尾上菊五郎が演じる「土蜘」の「土蜘の精」をデザインしています。 九代市川團十郎は、七代の五男で、六代河原崎権之助の養子となり、河原崎長十郎、権十郎、権之助、三升を経て、明治7(1874)年に九代目を襲名しました。荒事から時代物、世話物まで役柄の幅も広く、活歴物と呼ぶ史劇を創始し、新歌舞伎十八番を制定しました。屋号は「成田屋」です。 「暫」は、七代團十郎が制定した歌舞伎十八番の一つで、江戸の荒事の典型的な演目です。 五代尾上菊五郎は、三代の女婿の十二代市村羽左衛門の二男で、市村九郎右衛門、羽左衛門、家橘を経て、慶応4(1868)年に母方の名跡を継ぎ、五代目を襲名しました。特に世話物を得意とし、新古演劇十種を制定しました。屋号は「音羽屋」です。 「土蜘」は、新古演劇十種の一つで、五代菊五郎が三代追善に際して尾上家の当り芸の所作事を能様式に移して舞踊化したものです。 九代市川團十郎及び五代尾上菊五郎は、初代市川左團次とともに「團・菊・左」と称された明治の名優で、平成15年が両人の没後100年に当たることもあって、今回意匠として採用することとしたものです。 (以上、引用終わり。なお、改行などの体裁は一部修正していますが、文章はそのままコピペしています) さて、僕が問題にしたいのは、この文章では、“「暫」と「土蜘」”の切手に関して、その元になった写真について、なんら触れていないという点です。 この切手の元になった写真は、明治初期の写真家で“写真大儘”とも呼ばれた鹿嶋清兵衛が撮影したもので、日本の写真史上、きわめて重要な1枚とされています。 オリジナルの写真『9代目団十郎の《暫》の舞台写真』は、わが国最初の舞台写真として、それだけでも歴史的な意義のあるものですが、当時としては巨大な写真として人々の度肝を抜いたという点でも歴史的に興味深いものです。 現在でこそ、小さなネガやデータから大きく引き伸ばす技術がありますが、そうしたことが不可能だった時代、清兵衛はイギリスから全紙4倍の暗室カメラを取り寄せ、この写真を撮影したのです。良い写真を撮るためには資金に糸目を付けなかった“写真大儘”ならではの仕事と言って良いでしょう。 現在、この写真のオリジナルは、歴史的文化財として早稲田大学演劇博物館(以下、演劇博物館)に保管されています。 ところが、この切手の報道発表その他のどこを見ても、オリジナルの写真が演劇博物館に保管されているという記述がないのです。また、記念押印の指定局で、早稲田大学に関係の深い東京の新宿北局(ちなみに、2001年に、ふるさと切手「早稲田大学大隈講堂」が発行されたときは、同局が初日印の指定局になっています)の名前が出てくるわけでもなく、なにやら、当時の郵政事業庁としては、この切手と早稲田とを結び付けたくないのでは、という印象が拭えません。これは、“阿国歌舞伎図屏風”に関して、出光美術館蔵と明記されているのと比べるとなんともアンバランスです。 実は、僕はこの点について、この切手が発行された当時、非常に違和感をおぼえたので、演劇博物館に電話をかけて聞いてみました。すると、演劇博物館としては、今回の切手の件に際して、基本的には一切関知していないという返事が返ってきてビックリしたことがあります。もちろん、演劇博物館側がクレジットを出してくれるなと頼んだこともないそうです。その後、周辺の人たちにも話を聞いてみたのですが、切手の制作に際して郵政の関係者が演劇博物館を取材し、いくつかの資料を入手して帰った際、具体的にどの資料をどのように使うかということに関して演劇博物館には(すくなくとも、実際に資料を扱っているスタッフには)いっさい相談や連絡はなかったそうです。そして、報道発表が終わり、実際に切手が発行される段階になって、ようやく、郵政は演劇博物館に事後承諾を求めてきただけだった、というのです。(あくまでも、関係者の証言によれば、ですが) 電話で応対してくれた演劇博物館の人は温厚な方で「まぁ、テレビなんかの場合もかなり対応がいい加減ですから、別にいいですよ」といった感じでした。それにしても、郵政は“オリジナルの写真は早稲田大学演劇博物館蔵”と入れればいいだけなのに、どうしてそうしなかったのか不思議でなりません。出光美術館はうるさいからきちんと出典を書くけれど、演劇博物館なら文句は言わないだろうと舐めきっていたということなのでしょうか。 “「暫」と「土蜘」”の切手に関しては、写真そのものの権利はとっくに切れているということもあるのかもしれません。でも、それなら、“阿国歌舞伎図屏風”だって同じことです。あるいは、担当者たちは、郵政事業庁から日本郵政公社への組織替えの直前の発行だったので、ドサクサ紛れにやってしまえばなんとかなると思っていたのでしょうか。 まぁ、郵政側の言い分もきちんと聞かなければいけないとはいえ、僕が聞いている話が事実だとすると(そうではないと信じたいのは山々ですが)、切手制作の現場にいる人たちの体質というものは、どこか、「あるある大事典」のスタッフや不二家の工場にも通じる面があるように思えてなりません。こういうことが、切手そのものに対する世間の信用を損ねる結果に繋がらなければいいのですが…。 ちなみに、旧郵政省時代も“著作権”についての認識の甘さから、深刻なトラブルが起こっています。その話については、何れ機会を見て、このブログでもご紹介しましょう。なお、3月25日に刊行の『沖縄・高松塚の時代』では、その話についても詳しく取り上げていますので、同書が刊行の暁には、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただければ幸いです。 *おことわり 今日の記事の内容は、あくまでも僕の個人的な意見・見解で、僕が関係している団体・組織とは一切関係ないことを明記しておきます。 |
2007-02-19 Mon 00:48
18日は春節でした。というわけで、遅ればせながら、タイトルどおり“皆様、ハッピーな春節を!”というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1937年12月15日、満洲国が1938年用の年賀切手として発行したもので、縁起物の双喜の文字がデザインされています。 中国世界では、西暦の1月1日よりも春節の方が重要視されているわけですが、日本の強い影響下に置かれていた満洲国では、年賀切手も日本式に西暦の元日を想定されて発行されたようです。もっとも、元日を想定して切手を発行しておけば、その後の春節にも切手は使えるわけですから、問題ないといえばそれまでなのですが…。 なお、満洲国では春節のお休み中に発行された切手というのがあります。それは、1942年2月16日発行のシンガポール陥落の記念切手で、この日は前日の15日が春節にあたっていました。このため、たまたま、切手を売り出した各地の郵便局には二重の祝賀気分で記念切手を買い求める長蛇の列ができ、用意された切手のほとんどは発行初日の16日のうちに完売となっています。 この辺りの詳しい事情については、ぜひとも、昨年刊行の拙著『満洲切手』をご覧いただけると幸いです。 |
2007-02-18 Sun 00:54
女優の藤原紀香が、昨日(17日)の結婚式で十二単を着て話題になったとのだとか。というわけで、今日は、十二単の女性が描かれている切手の中から、この1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第2次国宝シリーズの第2集として1977年1月20日に発行された「平家納経」の切手です。 平家納経は、願文1巻、法華経28巻等33巻からなり、1164年、平清盛が一門を率いて厳島神社に奉納したものといわれています。金銀の優美な金具をつけた表紙と見返しに経典の内容にふさわしい文様や絵が加えられ、さらに本紙にも金銀の切箔や野毛(細長く切った切箔)を散らすなどの意匠が凝らされており、装飾経の最高傑作のひとつといわれています。 切手に取り上げられたのは、厳王品の見返し部分で平安時代の代表的な美人である引目鉤鼻の二人の貴婦人が左上方からたなびく金色に向かって合掌している様子が描かれています。これは、二人の女性を妙荘厳王の物語の信仰篤い二王子、浄蔵と浄厳に見立てたものです。 法華経の妙荘厳王本事品第27には、浄蔵、浄眼の2人の王子と、浄徳夫人の3人が、外道の父(妙荘厳王)を法華経に帰依させた物語が説かれています。物語では、王子が両親に自分たちの師である雲雷音宿王華如来という仏に会うことを勧める際に、「(仏に会うのは)優曇華の花が咲くのを見るのが難しいように、また、片目の不自由な亀が大海に浮かぶ木の穴を見つけるのが難しいように、じつに希なことである。幸い私たちは、仏法にめぐり会うことができ、こんな嬉しいことはない」という趣旨の発言をしているのですが、オリジナルの平家納経では、そのことを踏まえて、添景として甕(亀)、水に浮かぶ経巻(浮き木)などの絵模様も配されています。 切手では肝心の部分がトリミングでカットされているので、ただ単に十二単の女性が二人描かれているようにしか見えないのが残念なのですが、まぁ、印面の構図を考えたら仕方のないことでしょう。 さて、戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻『沖縄・高松塚の時代:切手ブームの落日 1972-1979』が、いよいよ、3月25日に刊行になります。 今回の採録範囲は、今日ご紹介の切手を含めて、1972年の「札幌オリンピック」から1979年の「国土緑化運動」まで。前作までと同様、対象期間の(公園・年賀を除く)全記念特殊切手についての情報がぎっしり詰まった1冊に仕上がっていますので、刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2007-02-17 Sat 01:19
洋画家の岡本太郎が制作し、メキシコで発見された巨大壁画「明日の神話」の最初の下絵が見つかったのだそうです。というわけで、今日は子の1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1978年5月に東京で開催された第23回国際眼科学会の記念切手で、岡本太郎が原画を制作したものです。 国際眼科学会は、世界各国の眼科学会が加盟している国際眼科学会連合の総会で、第1回の会議は1857年にベルギーのブリュッセルで開かれました。その後、原則として4年ごとに欧米各地を中心に開催され、研究成果の発表や眼科医学をめぐる諸問題についての討議が行われています。 1978年の第23回国際眼科学会は、わが国で初めて、国立京都国際会館を会場として5月14日から20日までの日程で開催されました。会議は、眼免疫と網膜色素上皮に関する問題を2大テーマとして、約80ヵ国から約4000人が参加して、研究発表、シンポジウム、講習会などが行われました。 さて、第23回国際眼科会議は5月14日が会期初日でしたが、この日は日曜日にあたっていました。通常、こうした場合には、記念切手は前日の13日に発行されるのですが、その日は、やはり5月14日に会期初日を迎える国際ロータリー東京大会の記念切手が発行されることになっため、今回の切手は会期スタート後の5月15日が発行日とされました。 切手は、岡本太郎がデザインした黒一色の会議のシンボルマークをもとに、岡本自身がさらに加筆・着色して原画を作成したもので、従来の日本切手にはみられない独創的なデザインになりました。 さて、戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻『沖縄・高松塚の時代:切手ブームの落日 1972-1979』が、いよいよ、3月25日に刊行になります。 今回の採録範囲は、今日ご紹介の切手を含めて、1972年の「札幌オリンピック」から1979年の「国土緑化運動」まで。前作までと同様、対象期間の(公園・年賀を除く)全記念特殊切手についての情報がぎっしり詰まった1冊に仕上がっていますので、刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2007-02-14 Wed 02:14
今日はバレンタインデー。というわけで、切手ではないのですが、こんなモノを持ってきて見ました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、香港のペニンシュラ・ホテルのチョコレートの箱のフタで、開業当時のペニンシュラホテルを描いた切手状のラベルをあしらったデザインになっています。 ペニンシュラ・ホテルは、1928年12月11日に開業の香港で最も格式のあるホテルで、その名の通り、九龍半島にあります。開業当初は、このラベルに描かれているように、半島の先端に位置していましたが、その後の埋め立てでにより、現在では海岸からはやや距離があります。 当初、ホテルの開業は1924年の予定でしたが、工事は間に合いませんでした。そうしているうちに、1925年6月から1年4ヶ月に渡って香港を席捲した労働者の大規模なストライキ(いわゆる省港スト)の影響で、工事はさらに遅れてしまいます。 1927年に入り、ようやく建設工事はほぼ完了しますが、今度は、蒋介石による北伐(国民革命)にイギリス政府が干渉すると、完成間近のホテルは上海派遣軍の宿舎として転用されてしまいます。このため、内装工事は全てやり直しとなり、1928年12月、ようやく開業にこぎつけたというわけです。 まぁ、そういう理屈はともかく、切手を思わせるラベルが描かれた箱はとても魅力的ですから、切手好きなら、中身のチョコレートを食べてしまってた後の空き箱も十分に楽しめるんじゃないでしょうか。ちなみに、僕はこの箱を未整理の葉書を入れるのに使っています。 ここ1月ほど、7月1日の香港返還10周年にあわせて、10年前の拙著『切手が語る香港の歴史』の全面リニューアル版を刊行すべく、その原稿執筆を中心にした生活を送っています。理想を言えば、今月中になんとか本文原稿を書き上げてしまって、4月早々にでも初校が出来上がってきたら、それを持って香港に行き、ペニンシュラでお茶でも飲みながら優雅にゲラを読み返してみたいのですが…まぁ、そんなの夢のまた夢というのが現実でしょうなぁ。 |
2007-02-13 Tue 00:34
アメリカの音楽界最高の栄誉とされる第49回グラミー賞の授賞式が11日午後(日本時間12日午前)、ロサンゼルス市内で行われ、テキサス州出身の女性3人組カントリーバンド、ディクシー・チックスが最優秀レコード賞・最優秀楽曲賞・最優秀アルバム賞と、主要3部門を制覇したのだそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2003年3月19日に始まったイラク戦争にさきだち、アフガニスタン作戦(Operation Enduring Freedom)の野戦郵便局から差し出された軍事郵便のカバーで、余白にはこれから始まる“イラク征伐”を示唆するかのようにイラク地図が描かれています。開戦直前の高揚した雰囲気が伝わってきます。 イラク戦争については、開戦以前から、アメリカ国内でも批判的な声が少なくありませんでした。今回、グラミー賞を受賞したディクシー・チックスのリード・ボーカル、ナタリー・メインズもイラク戦争には批判的で、開戦直前の2003年3月10日、ロンドンでのコンサートで「みんなは知っていると思うけど、私たちはテキサスから大統領がでたことを恥ずかしく思うわ。」と発言してブッシュJr大統領を批判し、物議を醸しています。 この発言が、3月12日(今日のカバーの消印の翌日ですな)にアメリカ国内でも報じられると、メインズに対しては、①外国でアメリカの最高指導者を批判すべきではない、②戦争かどうかの瀬戸際にアメリカ軍の最高指揮官を批判すべきではない、③ビジネスとしての利益を考えれば政治な立場を表明すべきでない、との批判が浴びせられました。まぁ、今回ご紹介しているカバーに見られるような“我々の軍隊をサポートしよう”というスローガンを奉じている人たちからすれば、メインズはとんでもない非国民ということになるのでしょう。 批判に対してメインズは、性急な開戦には反対との立場は撤回しなかったものの、「アメリカ国民であり続けるために、私はブッシュ大統領を尊敬していないと述べたことを謝るわ。私は誰もが最大の信頼を大統領の職務に抱くべきだと感じています」と弁解しましたが、世論の批判は収まらず、彼女たちの身の安全を守るために24時間の警護がつき(メンバーの一人は自宅のドアを壊されたそうです)、コンサートのスポンサーであったリプトンに対しては大規模な不買運動も展開されました。ちなみに、マドンナはメインズを擁護して「ミュージシャンにも自由な意見を表現する権利がある」と主張したものの、彼女が4月1日にリリースする予定だったブッシュのように見える人に向けて手榴弾を投げつける“American Life”のビデオに関しては、世論を考慮して、発売の延期と手直しを余儀なくさせられたほどです。 その後、この問題については、大統領が自ら「ディクシー・チックスには話したいことを言うことが権利がある… 発言によってレコードを買いたくないと思う人たちのために損害を与えられるべきではない…。思ったことをすることはアメリカ国民のための権利であると思う。ある音楽家やハリウッドのスターが発言したいと感じたなら、それは素晴らしいことだ。それこそがアメリカ人の偉大なことだ。それは荒涼としたイラクの地にも表現される」と発言して事態の鎮静化を図ろうとしましたが、その後も、彼女たちをめぐる論争はしばらく続きました。 まぁ、グラミー賞そのものは(少なくとも建前としては)純粋に音楽的に優れたミュージシャンや楽曲、アルバムなどに与えられるわけですが、こうした“事件”の記憶がまだ生々しいだけに、イラク戦争の継続に対するアメリカ国民の批判が高まっている中で、今回のディクシー・チックスがグラミー賞の主要3部門を受賞したということには、なんとなく、時代の流れを感じずにはいられません。 なお、湾岸戦争からイラク戦争にいたるアメリカとイラクの関係については、拙著『反米の世界史』でもまとめてみましたので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご覧いただけると幸いです。 *本日19:30から、東京・新宿のロフトプラスワンでのトークライブ“北鮮祭”に藤本健二さんや宮塚利雄先生とともに出演します。よろしかったら、遊びに来てください。 |
2007-02-12 Mon 00:16
北朝鮮の国家イデオロギーである主体思想の理論化・体系化の中心的な役割を担った朝鮮労働党の元書記、黄長が1997年2月12日に亡命してから、ちょうど10年になりました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1977年9月に行われた主体思想国際セミナーに際して発行された記念切手です。 朝鮮の伝統的な価値観では、“主体”は、“客体”の対義語というより、“事大(大国におもねること)”の対義語として用いられています。 北朝鮮当局によれば、主体思想のルーツは、1930年に金日成が行った演説、「朝鮮革命の進路」の中に見られるとされています。この演説では、金日成は、ソ連や中国の経験を機械的に朝鮮の抗日革命に適用しようとすることを時代主義・教条主義として批判し、朝鮮の問題は朝鮮人みずから朝鮮の実情に合わせて自主的に解決すべきと唱えていたというのが彼らの主張です。 まぁ、この演説が、仮に後世の捏造ではなく、実際に行われたものだとしても、ただちに現在の主体思想と直接むすびつけるのはこじつけでしかないのはありませんいうまでもありません。ただ、抗日闘争期の金日成が、中国やソ連との軋轢、指導権の争いなどを通じて、朝鮮の自主性が重要であることを痛感していたのはおそらく事実であり、それが後に主体思想を主張する土壌となったことは間違いないでしょう。 北朝鮮建国後、金日成が“主体”という語を公式に用いたのは、1955年12月の「思想事業で教条主義と形式主義を退治して主体を確立することについて」との演説が最初です。この時期、朝鮮戦争休戦後の経済復興をめぐり、国際分業と軽工業優先を主張するソ連派・延安派(親中派)と、重工業優先路線を掲げる金日成らとの権力闘争が展開され、ソ連派・延安派が粛清されました。この演説は、こうした政治的文脈の中で、ソ連でも中国でもない朝鮮の“主体”の確立を主張したものでした。 1950年代末から、いわゆる中ソ対立が本格化すると、北朝鮮は中ソ両国から等距離を取り、自らの独自路線を採るために“主体”を強く打ち出さざるを得なくなっていきます。1965年4月、バンドン会議10周年記念会議に参加した金日成は、インドネシアのアリ・アルハム社会科学院で講演を行い、「思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛――これが、わが党が堅持している立場」であると語り、これが主体思想であると初めて公言しました。金日成が、モスクワや北京ではなく、第三世界のインドネシアで主体思想を公式に宣言したことは、この「思想」の性格を考える上できわめて象徴的であったといえましょう。 さらに、1966年10月、金日成は、朝鮮労働党代表者会議においてソ連の修正主義と中国の教条主義を公式に批判。翌1967年12月に発表された「朝鮮民主主義人民共和国政府綱領」では、その第一項で「党の主体思想は革命と建設を遂行するためのもっとも正確なマルクス・レーニン主義的指導思想であり、共和国政府の全ての政策と活動の確固不動の指針」であることが規定され、(マルクス主義的との形容句がつけられてはいますが)金日成の唱える“主体思想”が北朝鮮国家のイデオロギーであることが公式に宣言されています。 もっとも、この段階では、“主体”についての定義や説明はなされていない。したがって、“主体思想”とはいっても、それは人類普遍の体系的な“思想”とはいうよりも、周囲の大国の干渉を防ぎ、国内の反金日成派を“事大主義”として排除するためのレトリックでしかなかったというのが実情です。 主体思想が曲がりなりにも“思想”としての形式を整えるのは、1970年11月の朝鮮労働党大会以降のことです。この党大会で、金日成は「主体性を確立するということは(中略)他国への依頼心を捨て、自分の頭で考え、自分の力を信じ、自力更生の革命精神を発揮して自分の問題はあくまでも自分自身が責任をもって解決していく自主的な立場を堅持すること」と報告。ここで初めて、公式の場で“主体”についての説明がなされました。 以上のような歴史的経緯を踏まえ、主体思想を“思想”として体系化するうえで重要な役割を果たしたのが、金正日のゴーストライターとしての黄長だったわけです。黄は、思想担当の事実上の責任者として、従来の主体思想を宗教思想化することに尽力。人間の肉体的生命は動物と変わらないが、革命家はこれとは別に自主的な「社会政治的生命体」を持たねばならないとする社会政治的生命体論をベースとして、1986年、首領(=金日成)を脳髄、党を神経とし、人民を手足とする三位一体の有機体国家論を提唱。ここに、主体思想は存在論を備えた宗教思想としての形を整えることになります。また、こうした主体思想の体系化に伴い、1992年1月、金正日の名前(筆者は、おそらく黄でしょう)で「社会主義建設の歴史的教訓とわが党の総路線」と題する論文が発表され、北朝鮮の主体思想がマルクス主義の延長線上にないことが高らかに宣言されました。これは、父から子への権力世襲に思想的な根拠を与える上で、重要な意味を持っていました。 と、まぁ、くどくどと説明してきましたが、“思想”の常として抽象的でわかりづらい内容なのは否めません。そのせいか、海外の北朝鮮シンパの人たちを集めて行われた“国際主体思想セミナー”の記念切手のデザインも、社会政治的生命体とか首領がどうしたとか、その手の小難しい理屈を表現したものではなく、“ヤンキー・ゴー・ホーム”などわかりやすい反米スローガンのオンパレードになっています。まぁ、デザイナーだって、正直なところ、主体思想の中身を正確に理解できていたのかどうか、かなり怪しいと思いますが…。 なお、明日・2月13日の19:30から、東京・新宿のロフトプラスワンでのトークライブ“北鮮祭”に藤本健二さんや宮塚利雄先生とともに出演します。「バレンタインデーの前日なのに何をやってるんだか」といわれてしまいそうですが、よろしかったら、遊びに来てください。 |
2007-02-11 Sun 01:55
まずはこの切手をご覧ください。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1973年に郵便番号宣伝のために発行されたキャンペーン切手(の見本)で、制度発足から5周年という節目の年でもあるため、1973年の年号と“郵便番号5周年”の文字が入っており、郵便番号制度が1968年にスタートしたことが一目でわかります。 いわゆる高度経済成長の進展に伴い、昭和30年度に48億5500万通だった郵便物の取扱量は、昭和41年度には98億2200万通にまで膨れ上がりました。これに対して、1955年に7万4132名だった郵政職員の数は、1966年の時点で11万3530名までしか増えておらず、従来どおりのやり方では郵便の処理能力は限界に到達することが懸念されていました。 こうした状況を踏まえ、郵政省は、郵便の機械化を本格的に検討するようになります。 その作業が本格的に始まったのは1965年のことで、開発を請け負った東芝は、郵政省の指導のもとに、柳町工場(現・機器事業部)と総合研究所(現・研究開発センター)でプロジェクトを編成。まず郵便局内の作業を系統的に分析し、郵便物自動読取区分機(TR)、郵便物自動取揃押印機(TC)、郵便物自動選別機(TS)の順に開発を進めました。 このうち、郵便物自動読取区分機は、局内作業のうち最も労力のかかる郵便物の区分を機械化するもので、そのために、全国の集配局の配達担当区域に3桁ないしは5桁の郵便番号が割り振られることになりました。機械は、利用者が郵便物に記載した郵便番号を読み取って区分作業を行うというシステムになっていたためです。 こうして、1966年、制限手書数字を読取る最初の試作機が完成。さらに、翌1967年には、世界初の手書き文字読取試作機TR-2型が完成し、さらなる改良を経て、1968年7月1日、郵便番号制度発足の運びとなりました。ちなみに、世界で最初に郵便番号制度を導入したのはイギリス(1959年)で、ついで、西ドイツ、アメリカ、スイス、東ドイツ、フランス、オーストリアの各国がこれに続き、日本での制度開始は世界で8番目でした。 で、なんでまたこのような話を持ち出したのかというと、ドラマ「華麗なる一族」の先週(2月4日)放送分で、西田敏行演じる元通産大臣が新聞を読む場面で、新聞社の住所が7桁の郵便番号で表示されているというケアレス・ミスがある方のブログで取り上げられていたからです。よくもまぁ、そういう細かいところまで気がついた人がいたものだと感心するばかりですが、前後の文脈からすると、その方は「当時の郵便番号は5桁だったのではないか」という論調のようです。もっとも、ドラマの設定は1967年ということになっていますから、元通産大臣が読んでいる新聞の住所にそもそも郵便番号の表示があることじたい、厳密に言えばおかしいということになります。 まぁ、ドラマの本筋とは全く関係のない話(小姑が重箱の隅をつつくみたいですみません)なのですが、そういう話が話題になっているのなら、今夜の放送は僕も注意してチェックしてみるつもりです。 いずれにせよ、こういうケアレス・ミスを防ぐためにも、戦後史ネタで時代考証が必要な皆さんは、ぜひとも、僕の<解説・戦後記念切手>シリーズをお手元に置いてご活用いただければ、と思います。 ちなみに、郵便番号制度の発足に関しては、昨年刊行のシリーズ第4巻『一億総切手狂の時代』をご覧いただけると幸いです。また、今回ご紹介の切手に関しては、3月25日刊行予定のシリーズ第5巻『沖縄・高松塚の時代』で説明していますので、今しばらくお待ちください。 |
2007-02-10 Sat 00:56
イタリア北部マントバ近郊にある遺構から、5000~6000年前の抱擁する男女とみられる遺骨が見つかったのだそうです。一体、どんな男女だったのでしょう。バレンタイン・デイを前に、なんともロマンをかきたてられます。
さて、ひるがえってわが国の5000年前といえば縄文時代の真只中ですが、その頃の土偶を取り上げた切手というのもあるので、持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1998年4月1日に、ふるさと切手(長野県)として発行された1枚で、八ヶ岳を背景に“縄文のビーナス”が取り上げられています。 縄文のビーナスは、1986年、長野県茅野市米沢の棚畑遺跡から出土した約4500年前の土偶で大きさは27センチ。妊婦をかたどっているといわれています。1995年に国宝に指定されましたが、わが国の国宝の中では最古の年代のもので、茅野市尖石縄文考古館の所蔵品です。 土偶というと、僕なんかがすぐに思い出すのは、青森県の亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶(スキーのゴーグルのような目をしたコイツです)です。中学・高校の頃の教科書では、たしか、「土偶は豊穣と多産を祈るためのもので乳房や臀部を誇張して作られている」と書かれていた記憶がありますが、「縄文人だって、やっぱり(彼らの基準はともかく)美人の方が良いだろうから、顔が関係ないというのはホントなのかな」と素朴な疑問を持ったものです。 その点、今回ご紹介の“縄文のビーナス”は、個人的な好みはともかくとして、なんとなく、実際にこういう顔立ちの女性も電車の中で見かけそうで、親しみがもてます。 社会党の福島党首のホームページに「子供を埋めたい人の気持ちは?」という表現があったそうです。(現在は削除されているそうですが) 普通に考えれば、単純に“産みたい人”の変換ミスなんでしょうが、産みたい・産んでほしいという願いとともに地中に埋められてきたのが土偶なわけですから、その意味では、日本古来の価値観に従って“産みたい”と“埋めたい”を混同したくなる気持ちもあったのかもしれません。ただ、現在の日本語で子供を産めるというのは、どう考えても、児童虐待とか殺人とか、そっちのほうを連想しますわな。 もっとも、福島党首といえば、あれだけ厚生労働大臣の“産む機械”という失言(ちなみに、大臣もすぐに訂正したはずですが)を取り上げ、「そういう表現を使うということは本音が出たもので、訂正・謝罪で済むものではない」と金切り声を上げていた張本人ですからねぇ。恐怖支配で大量の国民を餓死させてもなんら恥じることのない某隣国を長年にわたって擁護してきた政党の党首でもありますし、案外、“子どもを埋めたい”というのも本心なのかもしれないと、つい勘繰りたくなります。 まぁ、数千年の時を地中で過してきた土偶や、5000年前のマントバの男女にとっては、全く関係のない話ですけれど…。 |
2007-02-09 Fri 00:31
2月9日は語呂合わせで“ふぐの日”だそうです。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年3月10日に魚介シリーズの第10集として発行された“とらふぐ”の切手です。 1966年から発行がスタートした魚介シリーズの題材は、当初、“日本国内または近海において人々に親しまれ、かつ漁獲高も多いもの”という基準で、イセエビ、コイ(またはフナ)、タイ、イカ、カツオ、アユ、ウナギ、ウニ、サバ、ハゼ、カニ、サケの12種類が候補に挙げられていましたが、実際には、後に、ウニ、ハゼ、カニが取り止めになり、代わりにブリ、フグ、サザエの切手が発行されました。 切手に取り上げられたトラフグは、日本の室蘭以南に生息し、瀬戸内海・九州・房総・紀州沖・朝鮮海峡・東シナ海・黄海などが代表的な産地となっています。食用と認められる22種類のフグの中でも最も高価で美味とされています。体長は70センチ前後で、体重は10キロ近くに達し、体色は、上半分が暗青色を帯びた黒色、下半分が白色です。また、体側には不規則な黒い斑紋があり、特に胸ヒレ後方には白く縁取られた大黒紋があります。なお、1年のうちで毒性が最も高いのは、産卵期の春です。 さて、切手の原画は、郵政審議会の専門委員でもあった山田申吾が制作しました。魚介シリーズは、日本画家が描いた魚の絵を切手にするというユニークな試みでしたが、芸術作品の常として、生物学的には必ずしも正確とはいえないモノも少なからずありました。このため、切手によっては、“国が発行する切手に不正確なデザインのモノを採用するとは何事か!”というクレームがつくこともあり、郵政省としては対応に苦慮しています。 今回ご紹介の“とらふぐ”については、特にそういったクレームはなかったようですが、イセエビやカツオ、サザエの切手をめぐる議論や騒動については、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅲ)切手バブルの時代 1961-1966』にまとめていますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。 ところで、フグといえば、その昔、まだ20代だった頃の1991年11月に忘れがたい体験をしました。 1991年11月16~24日、東京・晴海で国際切手展が開催され、僕の出品した作品は金銀賞を受賞しました。で、そのお祝いの会ということで、友人たち(7~8人はいたでしょうね)に築地のふぐ屋へ連れて行かれたのですが、ご馳走してもらえるのかと思っていたら、ゴルフのホールイン・ワンと一緒でこちらがご馳走する羽目になってしまいました。たしか、勘定は20万円弱だったと記憶しています。まぁ、それまで学生ということで年上の人たちにいろいろと奢ってもらっていたので、そのお返しをしたのだと言えないこともないのですが、その後、年末いっぱい、かなり鬱々たる気分になっていたことも事実です。 いまでも、そのときの友人たちに会うと、たまに「あの時は参った」という話をして、彼らには「お前はしつこい」といわれてしまうのですが、まぁ、なかなか忘れられるもんじゃありません。いずれにせよ、いまだから笑って話せるとはいえ、僕にとっては、フグといえば真っ先に思い出す出来事です。 *今日ご紹介の切手は1967年の発行ですが、このブログでのカテゴリーは“日本(昭和:1961~1966)”に分類しています。これは、この切手については、1966年から発行の魚介シリーズの1枚ということで、<解説・戦後記念切手>では、第3巻の『切手バブルの時代 1961-1966』に解説記事を掲載しているため、それにあわせたものです。あしからず、ご了承ください。 |
2007-02-08 Thu 00:39
2月8日は、〒マークの日なんだそうです。というわけで、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1921年4月20日、郵便創始50年を記念して発行された切手の1枚で、中央には日章旗を中心に左右に新旧の郵便旗を配し、四隅には1871年に発行された日本最初の切手4種類が配されています。(なお、日本最初の切手のデザインに龍が取り上げられたいきさつについては、拙著『皇室切手』でもいろいろと分析してみましたので、是非、ご一読いただけると幸いです) このうち、左側に描かれている丸に一本線の旗は、郵便創業の初期から用いられていたもので、1884年に郵便徽章として正式に制定されたものです。 これに対して、右側の〒の旗は、いまから120年前の1887年2月に制定され、現在まで郵便のマークとして親しまれているものです。このデザインが郵便旗ないしは郵便徽章として正式に決まるまでは紆余曲折の経緯については、以下のように説明されています。 すなわち、1887年2月8日、逓信省は「自今(T)字形ヲ以テ本省全般ノ徽章トス…」との告示を出しました。逓信省としては、欧文頭文字であるTを図案化しようとしていたわけですが、世界的には、Tは郵便料金の不足を示す印として用いられていることがわかり、2月14日になってこれを〒に変更し、さらに2月19日付の官報で“Tは〒の誤り”という訂正を出して、〒が逓信省の徽章となり、現在にいたる、というわけです。なお、〒はカタカナのテを図案化したものということになっています。 まぁ、いったん出された告示が修正されたことは事実ですが、この手の話というのは、実は真偽の確認のしようもないのですが…。(実際、ウィキペディアでは異説も紹介されています) 柳沢厚生労働大臣が、女性を“産む機械”と表現したり、“若夫婦が子供ふたりを望むという健全な状況”といったりした“失言”で、連日、女性議員やマスコミなどから叩かれていますが(まぁ、叩くほうも叩くほうで、いささか揚げ足取りで大人気ないような気もしますが)、件の大臣閣下も、下手な言い訳や弁解はせず、何か気の利いた切り返し方をすれば、ここまで話がこじれることもなかったかもしれません。その意味で、Tと〒の切り替えができた明治の逓信官僚の機転には、素直に敬意を表したいところです。 |
2007-02-07 Wed 00:43
おかげさまで、昨日(6日)の午後、カウンターが15万アクセスを越えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、この場を借りて、あらためてお礼申し上げます。
さて、今日は15万アクセスにちなんで、こんな“15”がらみのモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) これは、満洲国が1934年1月に発行した15分(1角5分)切手の使用済で、奉天の大同二年(1933年)2月12日の消印が押されています。 満洲国最初の通常切手は1932年7月に発行されました。デザインは、低額面は遼陽の白塔、高額面は溥儀の肖像です。このときの切手は突貫作業でつくられたため、制作時間のかからない平版印刷のものでしたが、1934年1月からは、デザインはそのままで凹版印刷の切手が発行されます。 当時の満洲国交通部(郵政を管轄していた機関)は、デザインの変更がなかったことから、1934年の凹版切手に関しては発行の告示を出していませんが、フィラテリーの世界では、平版の切手を第1次普通切手、凹版の切手を第2次普通切手と分類しています。今回ご紹介しているのは、その第2次普通切手のうちの15分切手です。 ところで、この切手の国名表示は“滿洲國郵政”となっていますが、この切手が発行されてから3ヶ月と経たない1934年3月1日、満洲国の“執政”であった溥儀は皇帝として即位し、満洲国の国号も満洲帝国と改められました。このため、1934年11月1日には国名表示を“滿洲帝國郵政”と改めた切手が新たに発行されています。 その結果、“滿洲國郵政”と表示された第2次普通切手のなかには、発売期間が短く、極端に発行枚数の少ないものがあるのですが、その筆頭が今回、ご紹介した15分切手というわけです。 この切手に押されている消印の日付は、1934年3月1日に溥儀が皇帝として即位する前の時期のものなので、“滿洲國郵政”の表示の切手にはピッタリです。また、この切手のキレイな使用済というのは、なかなか入手に苦労させられるので、その点でもお気に入りの一枚ということで、昨年9月に刊行した拙著『満洲切手』では、今回ご紹介の1枚は表紙を飾るマテリアルとして使いました。同じく表紙に並んでいる第1次普通切手と比べると、紙や印刷の違いがよくわかるのではないかと思います。是非、実際に拙著『満洲切手』をお手に取っていただき、その辺をご覧いただけると幸いです。 |
2007-02-05 Mon 00:58
昨日(4日)閉幕した長春の冬季アジア大会では、1月31日のスピードスケート・ショートトラック女子3000メートルリレーで2位に入った韓国チームが「白頭山はわたしたちのもの」といった内容のメッセージを掲げて問題になったのだとか。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1935年1月1日、満洲国の建国以来停止されていた満洲国と中国側との間の郵便交換の再開に先立ち、“滿洲帝國郵政”の表示のない切手を発行するという交換再開の条件を満たすために発行された“満華通郵切手”といわれるものの1枚で、満洲と朝鮮との国共に位置する長白山(白頭山)の天池が描かれています。(なお、満洲国と中国との郵便交換の再開をめぐる経緯等については、拙著『満洲切手』をご一読いただけると幸いです) 長白山は、韓国・北朝鮮では白頭山と呼ばれており、建国神話で朝鮮族の祖とされる檀君が降臨した場所とされています。実際、朝鮮全土を指す表現として“白頭から漢弩(韓国最南の済州島・漢弩山のこと)まで”という表現が使われるくらいで、朝鮮民族にとっては非常に思い入れの強い山です。また、そのことに仮託して、現在の北朝鮮国家が、金正日は白頭山中で生まれたがゆえ(実際の金正日の生誕の地はハバロフスク近郊ですが)、彼は朝鮮民族を支配する特別な能力を有していると主張していることは広く知られています。 一方、満州族にとっても、長白山は聖地とされており、『清太宗実録』には「先帝発祥于長白山」との記述が見られます。清朝の康熙帝は、華北の人々の信仰の対象であった泰山(人々の霊魂は死後、必ずこの山に帰ると考えられていた)は長白山の支脈であると主張し、少数派の満州族が多数派の漢族を支配する上での重要なシンボルとしてこの山を政治的に活用していました。 今回ご紹介の切手は、その長白山頂のカルデラ湖・天池から流れ出る黒龍江というモチーフ(“白山黒水”とも言われる)を取り上げており、それによって満洲国の国土を象徴的に表現しているものといえます。 長白山(白頭山)は、このように、中国・朝鮮の双方にとって重要な意味を持つ山であったため、古くから領有権問題が起こっています。特に、1712年、清が白頭山の南麓に「定界碑」(国境線標識)を立てたことがきっかけとなり、白頭山の北麓こそ中朝の国境と主張する朝鮮側との対立が表面化。以後、国境線問題は解決を見ないまま、中国は清朝から中華民国、中華人民共和国と変転し、朝鮮半島では日本統治時代を経て南北両政府が成立します。 1950年6月に北朝鮮は武力南侵により朝鮮戦争を引き起こしましたが、同年9月、国連軍の仁川上陸作戦以降、中朝国境地帯にまで追い詰められ、国家滅亡の危機に瀕します。このとき、中国は人民志願軍を派遣して北朝鮮の苦境を救うわけですが、その見返りとして、1962年、秘密裡に朝中辺界条約が結ばれ(もちろん、韓国には相談なしです)、白頭山の半分が中華人民共和国の領土に編入されます。その結果、白頭山頂上の天池もその中間に国境が引かれ、現在では、このラインが北朝鮮発行の地図にも引かれているというわけです。 こうした経緯もあって、韓国内には朝中辺界条約を無効として白頭山歯全て朝鮮のものだと主張する人たちもいるわけですが、今回の冬季アジア大会に際して、開催国の中国は開会式でも「長白山は中国が誇る自然の宝庫」と紹介するなど、韓国側の主張を一蹴しています。 まぁ、今回の一件については、韓国側が詫びを入れるかたちでひとまず収まったようですが、韓国社会がそれで納得するかどうか、その辺はなかなか微妙でしょう。まぁ、僕としては、この問題をめぐる議論があらぬ方向にそれてしまって、またもや「中朝国境問題の責任は日本の植民地支配にある」などというわけのわからない日本バッシングが出てきやしないかという一抹の不安がどうしても拭えないのですが…。 |
2007-02-03 Sat 00:44
今日は節分。というわけで、“鬼”にからめて、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、<昔ばなしシリーズ>の第3集として、1974年6月10日に発行された「一寸法師」の1枚で、姫の供をして出かけた一寸法師が鬼に出会い、縫い針の刀を振り回して鬼に切りつけている場面(切手としてのタイトルは“鬼退治”)を取り上げたものです。原画は切り絵画家の滝平二郎でした。 “昔ばなし”の多くは、文字に記録されたものではなく、代々口伝えに伝えられてきたものですから、当然のことながらさまざまなバリエーションがあります。このため、<昔ばなしシリーズ>の切手に関しては、発行されるたびに「自分の知っている話とは違う!」と文句を言う収集家が少なからずいたようです。 ところで、切手に取り上げられた「一寸法師」は、御伽草子のテキストを基にしてデザインを作ったのですが、御伽草子の「一寸法師」は、よくよく調べてみると、我々が子供の頃に聞かされたものとは若干、内容が違っているようです。 すなわち、絵本などでは、一寸法師は武士になるために京へ出たことになっていますが、御伽草子によると、一寸法師が全く大きくならないので化け物ではないかとおじいさん・お婆さんが気味悪く思っていたのを察し、一寸法師は自分から家を出ることにしたとなっています。 これじゃぁ、一寸法師が心に大きなトラウマを追うのも無理からぬことで、彼の性格も相当歪んでしまったことでしょう。実際、御伽草子の記述はそのようになっています。 すなわち、宰相殿の娘に一目惚れし、妻にしたいと考えた一寸法師は、神棚に供えてあった米粒を持ってきて、寝ている娘の口につけ、自分は空の茶袋を持って泣きまねをし、宰相殿に、自分が貯えていた米を娘が奪ったのだと嘘をつきます。それを信じた宰相殿が激怒し、盗みを犯した娘(もちろん、一寸法師の策略による冤罪です)を殺そうとしたものの、一寸法師は白々しく、その場をとりなし、娘と共に家を出たというのです。 絵本などでは、たまたま、娘の宮参りに一寸法師が同伴したということになっていることを考えると、御伽草子の一寸法師はかなりダーティーです。 さらに、打ち出の小槌で体が大きくなった後の彼は、絵本などでは、娘と結婚し、金銀財宝も打ち出して末代まで栄えたということになっていますが、御伽草子では、一寸法師の噂が世間に広まり、宮中に呼ばれた(元)一寸法師は帝に気にいられ、中納言にまで出世したとなっています。たしかに、陰謀渦巻く宮中で出世を果たす人物ということであれば、一寸法師がお人よしであるはずはないので、御伽草子での一寸法師の人物設定にリアリティを感じてしまうのは僕だけではないでしょう。 さて、2001年に刊行の『濫造・濫発の時代 1946-1952』からスタートした<解説・戦後記念切手>シリーズですが、第5巻の『沖縄・高松塚の時代』が来月、いよいよ刊行となります。今回は、封書15円時代の全記念特殊切手を扱った昨年刊行の第4巻『一億総切手狂の時代 1966-1971』の後を受けて、1972年の札幌オリンピックから1979年の国土緑化運動までの記念・特殊切手をまとめました。もちろん、今日ご紹介の一寸法師の切手についての解説も掲載されています。 無事刊行の暁には、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。 |
2007-02-02 Fri 02:07
今日(2月2日)は1970年にイギリスの哲学者、バートランド・ラッセルが亡くなった忌日だそうです。というわけで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ベトナム戦争中の1969年11月、北ベトナムがラッセル法廷をたたえて発行した切手です。 ベトナム戦争に対しては、強大な軍事力をもって貧しい北ベトナムを力でねじ伏せようとするアメリカというイメージから、西側世界でもさまざまな形でベトナム反戦運動が展開されましたが、その代表的なもののひとつがラッセル法廷です。 ラッセル法廷は、正式には“ベトナム戦争犯罪国際法廷”といい、ラッセルが提唱して、1967年5月からストックホルムで開催されました。その内容は、ベトナムでの米軍による非人道兵器の使用や残虐行為などを西側の知識人が糾弾するというもので、いわゆる“民衆法廷”の最初のものとして世界的にも注目を集めました。 当然のことながら、こうした国際世論は北ベトナムにとっては追い風となるものであり、北ベトナムは抗した切手を発行することで、アメリカの非人道性が国際社会からも糾弾されていることをあらためてアピールしようとしたわけです。(この辺の事情については、拙著『これが戦争だ!』でもまとめてみましたので、ご一読いただけると幸いです) ところで、“民衆法廷”の本質は、刑事裁判の形式をとって特定の国際人道問題について問題提起や抗議等を行う民間の運動であるわけで、その意味では“法廷”という呼称を名乗ることが適切なのかどうか、疑問がないわけではありません。特に、“民衆法廷”は、特定のイデオロギー集団が結論ありきの立場から、自分たちの主義主張を展開するために行われることが多く、結果的に胡散臭いものの方が多いように思います。 たとえば、NHKへの政治家の圧力問題で話題になった従軍の慰安婦問題に関する“民衆法廷”は、主催者の説明によれば「第二次世界大戦中において旧日本軍が組織的に行った強姦、性奴隷制、人身売買、拷問、その他性暴力等の戦争犯罪を、裕仁(昭和天皇)を初めとする9名の者を被告人として市民の手で裁く民衆法廷」なんだそうですが、このタイトルそのものが、ある特定の政治的主張によるものであることは明白です。 ここで、念のために、いわゆる“従軍慰安婦問題”についての経緯を説明しておきましょう。 この問題の発端は、1983年に吉田清治が、著書『私の戦争犯罪・朝鮮人連行強制記録』の中で、1943年に軍の命令で“挺身隊”として、済州島で女性を“強制連行”して慰安婦にしたという“体験”を発表したことから始まっています。 日中戦争ならびに太平洋戦争の時代、日本軍が戦地に慰安所を設けていたことは紛れもない事実ですが、そうした施設は、公娼制度が認められていた当時にあっては、戦地での強姦事件を防ぐための“必要悪”とみなされていました。また、同様のことは日本のみならず、他国の軍隊においても見られた現象です。もちろん、戦地という特殊な状況ですから、開業する公娼業者に対しては、移動や営業状態の監督などで、軍が関与していたのは当然のことでした。(もちろん、それらは現在の道徳的基準に照らせば、決して褒められたことではありませんが…) このため、いわゆる“慰安婦”問題は、本来、現地の慰安婦たちが、本人の意思に反して、日本軍によって組織的に集められたのかどうか、という1点に絞られます。 この点に関して、1991年から翌年にかけて、『朝日新聞』をはじめ日本国内の一部マスコミは、日本軍が組織をあげて女性たちを無理やり集めて慰安婦にしたというニュアンスで盛んに報じていましたが、この点については、当時の韓国でも疑問の声は少なからずありました。 たとえば、1991年8月15日付の『ハンギョレ新聞』には、同11日付の『朝日新聞』に取り上げられた元慰安婦の女性の証言として、「生活が苦しくなった母親によって14歳の時に平壌のあるキーセン検番(日本でいう置屋)に売られていった。3年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れていかれた所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊の前だった」との記事を掲載していますが、これを読む限り、この女性のケースは、当時の日本国内でもしばしば見られた気の毒な身売り話と同じもので、日本軍の組織的な関与があったとは言えません。 しかし、“軍によって強制連行された朝鮮人慰安婦”の物語は韓国社会に大きな衝撃を与え、一般の韓国世論は日本時代の“蛮行”に憤激。192年1月に訪韓した日本の宮沢首相は首脳会談で謝罪を繰り返すことになりました。 ところが、首脳会談の後、両国が合同で調査を行ったところ、吉田の著書で“慰安婦狩り”の舞台とされた済州島の城山浦では、日本時代を知る老人たちが「250余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語って吉田の著書の内容を否定。さらに、現地調査を行った日本人研究者が、地元の女性から「何が目的でこんな作り話を書くのでしょうか」と聞かれ、答えに窮しています。 このように、吉田が発表した“慰安婦狩り”の物語は虚偽であった(ただし、このことは多くの朝鮮人女性が戦地で慰安婦として苦渋の生活を送っていた事実を否定するものではありません。念のため)ことが判明するのですが、そうした事実は、必ずしも大きく報じられなかったため、いまだに“慰安婦狩り”の物語を事実と信じている人も少なくないようです。 こうした経緯を見てみると、最近問題になった“民衆法廷”は、純粋に歴史的な事実関係を糾明してその責任の所在を論じるというよりも、ある種の思想傾向の人たちによるプロパガンダ・イベントにすぎなかったといわれても仕方のないものといえそうです。そうであるなら、政治家の圧力があろうがなかろうが、そんなものを公共の電波に乗せて放送することじたいが問題なんじゃなかろうかと、僕なんかは考えてしまうのですが…。 |
2007-02-01 Thu 00:48
まずは、理屈は抜きにしてこの画像を見ていただきましょう。今からちょうど60年前、1947年2月1日に和歌山県の御坊からアメリカ宛に差し出されたカバー(封筒)です。(画像はクリックで拡大されます)
昨年の2月1日の記事でも書いたのですが、終戦直後のハイパーインフレと労働運動の高揚の中で、労働側は1947年2月1日を期してゼネストに突入することを計画していました。しかし、ゼネスト予定の前日の1月31日、マッカーサーはゼネスト禁止命令を発令し、ゼネスト計画は失敗に終わりました。 ところで、ゼネストが中止されたということは、理論上、1947年2月1日も郵便業務は通常通り行われており、この日の消印の押された郵便物もそれなりに存在するはずです。念のため、1947年のカレンダーも調べてみたのですが、2月1日は土曜日です。少なくとも午前中は郵便局の窓口もやっていたでしょうし、集配に関しては休んでいないはずです。 ところが、実際には、ゼネスト予定日だった1947年(または昭和22年)2月1日の消印が押された郵便物というのは、いままでの経験からすると、非常に少ないような印象を受けます。 “2・1ゼネスト”を切手や郵便物で表現しようとするなら、ゼネスト予告の付箋とあわせて、その日に郵便が平常どおり行われていたことを示すマテリアルを並べると説得力が増すわけで、1947年2月1日の消印が押されたカバーや葉書を相当探しました。 さて、今回のカバーは、いまは亡き田辺猛さんの手元にたまたまあるのを見つけて、譲っていただいたものですが、そこから僕のところへ嫁入りするまでには、結構、時間がかかりました。 実は、このカバーには、1946年8月1日に発行された北斎の富士を描く1円切手が1枚だけ貼られています。終戦とともに取り扱いが停止された外国宛の書状を民間人が差し出せるようになったのは1947年1月10日のことでした。このときの基本料金は1円でしたが、同年4月1日には料金は4円に値上げされてしまいますので、1円切手の単貼外信カバーは3ヶ月弱しか存在しないことになります。 というわけで、北斎の1円切手の単貼外信カバーはなかなか人気があって、田辺さんも愛蔵しておられたのですが、事情を説明して譲ってくれないかとお願いしたところ、「自分のコレクションに穴が開くのはイヤだから、これに代わる1円の単貼カバーを持ってきたら交換してあげるよ」とのお返事をいただきました。 そのとき、僕は「なんだ、それなら簡単なことだ」と気楽に考えていたのですが、これがなかなかの曲者。実際、北斎1円の外信カバーを何通か手に入れて田辺さんのところへ持っていったのですが、なかなか気に入っていただけるモノがありません。こちらとしても、他に2月1日の消印が押されたカバーが見つからない以上、どうしてもこのカバーを手に入れたかったので、ある時期、オークションで北斎1円のカバーが出るたびに、かなりの確率で買いまくっていました。 結局、10何通目かに、1947年1月中に差し出された中南米宛のカバーをお持ちしたところで、ようやく田辺さんのOKが出て交換に応じていただき、トレードが成立しました。結果的に、随分と高くついてしまったものです。 その後、手元にあった北斎1円の外信カバーは、この一通を残して全部手放してしまいましたが、田辺さんのところに嫁入りしたあの一通はいまどうなっているんでしょう。なんだか、この記事を書きながら、すこしだけ、遠くに嫁いだ娘のことを思い出す父親になったような心境になりました。 |
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