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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ラサで“平和解放70年”式典
2021-08-20 Fri 09:54
 きのう(29日)、チベットのラサで、中国共産党政権による“チベット平和解放70年”の記念式典が行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マカオからチベット宛返戻裏
      マカオからチベット宛返戻

 これは、1956年10月19日、マカオからチベットの春堆(チュンドゥイ)郵便局長宛に送られた郵便物ですが、中国の支配下で春堆郵便局は閉鎖されていたため、ラサで「当地にはこの機関は存在していないので返送します」という趣旨の角印が押されて差出人に返戻されています。宛先が、“中国西蔵省”になっているのも興味深いところです。

 チベットと中国中央政府との“国交”は唐代にまでさかのぼることができますが、宗主国と保護国という両者の関係が確立されたのは17世紀中葉の清朝初期のことです。その後、清朝は、チベットに駐蔵大臣を派遣し、チベットの財政・外交・軍事などに強い影響力を行使するようになりました。

 もっとも、この段階では、チベット政府の独自性も確保されており、両者は国境の確定もあいまいなまま、共存する状態にあったといえます。そもそも、清朝の体制は、満洲族の皇帝が漢族を含む他の諸民族を中央集権的に支配するというのではなく、どちらかというと、域内諸民族の緩やかな連合国家という性質の強いものでしたから、それも当然のことと言えましょう。

 しかし、こうした状況は、1858年にインドを植民地化した英国が中印国境地域に侵食していくことで、変容を迫られます。この結果、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、チベットをめぐって、清朝と英国との対立が生じましたが、両者の対立は、1907年のシムラ会議により、チベットにおける清朝の主権が確認されたことで、いちおう決着しました。ただし、この間、当事者であるチベットの意向が真剣に考慮されることはありませんでした。

 ところで、1911年の辛亥革命で清朝を打倒した孫文らの革命活動は、“駆除韃虜 恢復中華”のスローガンの下、満州族の支配を打倒して漢民族の政治的・文化的支配を復活させることを建前としていました。したがって、“韃虜”に分類される満洲・チベット・モンゴル・ウィグルの各民族からすれば、自分たちを駆除するということを公言してきた革命政権に服属しなければならない理由はまったくないわけで、清朝の滅亡後、チベットは中華民国に対して分離・独立を宣言します。

 これに対して、中華民国側は自分たちが清朝の継承者であるとの建前から、チベットの独立を認めず、“中国領チベット”の支配を継続しようと目論見ます。しかし、革命後の混乱により、中国中央政府の統制はチベットには及ばず、チベットは実質的に中国とは別の国になり、チベットでは貨幣や切手も独自のモノが発行されました。これらは、かつてのチベットが独立国であったことの根拠の一つとされています。

 1947年、英領インド帝国が解体され、インドとパキスタンが分離独立すると、新生インド政府はラサの英領インド外交部を継承し、チベット−英国間の条約も継承されます。インドはチベットを“国”として認め、チベット外務省に対して「インド政府は、今後新たな協定を結ばない限り現状の関係を維持したい、という貴国の意向を歓迎いたします。インド政府が英国政府から継承した条約関係につきましては、他の国もすべて、そのまま継承していただいております」との書簡を送っています。

 ところが、1951年4月、中国人民解放軍が“平和解放”の名の下にチベットに武力進駐。同年5月23日、中国はチベットに対して「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」(いわゆる17条協定)を押し付け、チベットの独立を奪いました。

 これに対して、チベットでは1956年以降、カムやアムド地方での武装闘争が始まります。抵抗運動を何とか抑え込みたい中国側はチベット東部には人民解放軍を増派するだけでなく、チベットの村や僧院に対して制裁攻撃を実施。人民解放軍の司令官はポタラ宮やダライ・ラマ14世を攻撃するとの恫喝も行っていました。今回ご紹介のカバーの宛先の春堆郵便局もその過程で閉鎖に追い込まれたものと思われます。

 こうした状況の中で、1959年3月1日、中国側がダライ・ラマを観劇に招待。会合前日の3月9日、人民解放軍陸軍の将校たちは、ダライ・ラマの観劇に際してはボディガードを同行させないことや、ダライ・ラマが宮殿から会見場所の人民解放軍駐屯地に移動する際にも公式な儀式を行わないことを強く要求しましたが、中国がダライ・ラマの監禁ないしは誘拐をたくらんでいると察知したチベットの人々は、翌10日、ダライ・ラマが宮殿から連れ出されるのを防ごうと宮殿を取り囲みました。

 事態が緊迫する中で、3月12日、チベットの人々は独立を宣言。ラサの通りにはバリケードが築かれるとともに、インド領事に対してもチベット支援の訴えが行われました。そして、3月17日、ついにダライ・ラマの宮殿の近くに2発の砲弾が着弾したことで、ダライ・ラマは亡命を決断するのです。

 一連の混乱の中で、チベット亡命政府の推定値によると、およそ8万6000人のチベット人が亡くなり、ノルブリンカ宮殿には、約800発の砲弾が打ち込まれました。また、ラサの三大寺院であるサラ、ガンデン、デプンは砲撃によって深刻な損傷を受け、ラサ市周辺の僧院や寺院は略奪もしくは徹底的に破壊されました。ラサに残ったダライ・ラマのボディガードたちは、数千人の僧侶とともに処刑されています。

 その後も チベットでは、強圧的な共産党の支配と強引な中国化・社会主義化への抵抗運動が続けられていますが、中国政府は、チベットの独立運動家やその支援者(とみなされた人々)に対しては容赦のない人権抑圧を日常的に行ってきました。2008年3月10日からは、中国政府の支配に反発するチベット人がラサで抗議活動を開始。抗議活動は、周辺の四川、青海、甘粛各省のチベット人居住地域にも波及し、同14日には地方政府機関や商店などが破壊される大規模な“暴動”に発展します。これに対して、中国政府は治安部隊を動員し、200人以上を殺害して“暴動”を鎮圧しましたが、この騒乱を契機として、中国の圧政を世界に発信するため、抗議の焼身自殺を行うチベット人が急増しました。

 こうした経緯を踏まえ、2020年12月、米国では、チベットでの人権弾圧を批判し、人権や信教の自由を擁護する法律(チベット人権法)が成立。中国がダライ・ラマ14世の後継者選定に介入した場合、米国は制裁を検討すると明記しているほか、チベットの首府、ラサに米領事館の設置を認めない限り、在米中国領事館の新設を承認しないよう米政府に求めています。

 これに対して、7月21日から23日まで、習近平は、当時大水害の被害が深刻であった河南省については触れることなく、“党総書記”として31年ぶりにチベットを訪問。ラサ中心部のポタラ宮前では「チベットは各民族が共同で開発し、チベットの歴史は各民族が共同で書き記してきたものだ。チベット族とその他の民族の交流が、常にチベットの発展の歴史を貫いてきたのだ。 いまや、社会主義現代化国家は、新たな道のりを全面的に建設し始めており、チベットの発展も新たな歴史の起点上に立っているのだ。ただ中国共産党と共に歩み、中国の特色ある社会主義の道を頑なに進み、同心協力、民族団結を強化するのだ。そしてわれわれは必ずや、第2の100年の奮闘目標を期日内に実現し、中華民族の偉大なる復興という中国の夢を実現するのだ!」と演説し、今後も(人権侵害満載の)チベット政策をそのまま継続していく意思を明らかにしています。


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 路氹 (コタイ)が海だった頃
2017-11-21 Tue 18:47
 きのう(20日)、澳門・路氹 (コタイ)地区にある世界最大のカジノ・リゾート、“澳門威尼斯人渡假村酒店(ザ・ヴェネチアン・マカオ、以下、ヴェネチアン)”で開業10周年祝賀セレモニーが行われました。というわけで、きょうは路氹 地区に関連して、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      澳門地図(1956)

 これは、1956年、ポルトガル領時代のマカオで発行された地図切手で、当時の“マカオ地図”として、一番北のマカオ半島の南側に氹仔(タイパ)島と路環(コロアネ)島の2島が描かれています。

 マカオ半島の南2.5キロの地点には、もともと浅瀬に隔てられた大氹仔と小氹仔のふたつの島がありました。氹仔という語は、高い丘のない低地を意味する“潭仔”がなまったもので、1851年にここを占領したポルトガル人は、20世紀初めにふたつの島の間を干拓し、あらたに氹仔島というひとつの島を形成しました。

 その間、1864年にポルトガルはさらに南の路環島を占領しており、行政区域としての“マカオ”といえば、今回ご紹介の切手に見られるように、半島部と氹仔島、それに路環島という組み合わせの時代が長く続いてきました。なお、マカオ半島と氹仔島の間の交通としては嘉楽庇総督大橋、澳門友誼大橋、西湾大橋の3本がありますが、このうち、もっとも古いのが1974年に開通した嘉楽庇総督大橋です。一般に、この橋は単に澳氹大橋と呼ばれることも多く、他の2本と区別する必要があるときは、舊(旧)澳氹大橋ないしは舊大橋と呼ばれることもあります。

 嘉楽庇総督大橋は、その名の通り、ポルトガルのマカオ総督だったノブレ・デ・カルバリョの在任中の1970年に着工され、彼の退任(1974年11月)直前の1974年10月に完成しました。総距離は2569.8メートル、幅は9.2メートルです。当初は有料道路でしたが、後に無料となりました。

 1980年代に入ると、世界最高水準と言われた人口密度を緩和すべく、マカオ政府は浅瀬を埋め立てて、土地を広げる政策に乗り出します。その際、大規模な埋め立て地として計画されたのが、マカオ半島の新口岸地区と、氹仔=路環間を埋め立てる路氹地区でした。ちなみに、路氹という地名は路環と氹仔の地名をあわせた造語です。

 その後、路氹地区の開発に伴う交通量の増加を見越して、1994年、マカオ半島と氹仔島を結ぶ第2の橋として友誼大橋が完成しましたが、埋め立て事業そのものは経済の鈍化で当初の予定よりも工事が大幅に遅れ、埋め立て事業が一通り完成したのは“返還”直前の20世紀末のことでした。また、返還後の2000年3月には蓮花大橋が完成し、路氹地区と広東省珠海市の横琴島が陸路でつながり、入出境業務も開始されています。

 路氹地区では、当初、人口密度の緩和を目的に住宅地中心の開発が想定されていましたが、2007年8月にヴェネチアンが開業して以来、隣接地域には、プラザマカオ、サンズコタイセントラル、パリジャンマカオと大型複合リゾート施設が相次いでオープンし、現在ではアジアを代表するカジノ・リゾート地となりました。ちなみに、なお、ヴェネチアンの開業10周年祝賀セレモニーは、当初、8月28日に開催予定でしたが、直前の23日に台風13号(国際名:ハト)がマカオへ襲来し、大きな被害が生じたことから、昨日まで延期されていました。

 なお、路氹地区ができる以前の古き良き氹仔・路環の面影については、拙著『マカオ紀行』でいろいろ書いておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 カーネーション革命40年
2014-04-25 Fri 11:29
 1974年4月25日にポルトガルで“カーネーション革命(4月25日革命)”が起こってから、きょうでちょうど40年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       マカオ・カーネーション革命

 これは、1975年、当時はポルトガルの海外県だったマカオで発行された“4月25日革命1周年”の記念切手です。

 ポルトガルでは、1933年以来、アントニオ・サラザールによる“エスタード・ノヴォ”と呼ばれる独裁体制が敷かれていました。サラザールは1968年に病に倒れ、1970年に亡くなりますが、その後もエスタード・ノヴォは維持され、アンゴラモザンビークギニアビサウではソ連やキューバに支援された独立革命軍との泥沼の戦争が続いていました。

 このため、危機感を抱いたポルトガル軍の青年将校たちは、1974年4月25日、アントニオ・デ・スピノラ将軍を担いでリスボンで蹶起。市内の要所を占拠し、無血革命を起こしてカエターノ首相をトマス大統領を追放し、救国軍事評議会を結成しました。その際、革命の成功を知ったリスボン市民たちはカーネーションを手に兵士たちと交歓し、革命軍兵士たちは銃口にカーネーションの花を挿したことから、一連の革命は“カーネーション革命”と呼ばれるようになりました。
 
 さて、革命後の新政権は全てのポルトガル領植民地を放棄する方針を表明。すでに、海外県のマカオでは、1966年12月に発生した“一二三事件”(小学校建設をめぐる住民とマカオ政庁の対立から発生した暴動。中共系の住民を扇動した中国はマカオの武力解放を示唆し、マカオ政庁は賠償金の支払いなど中国の要求に全面的に屈した)の結果、ポルトガルは実質的に支配権を失っていましたが、新政権はマカオの主権が中国にあることを公式に認め、翌1975年にはポルトガル軍をマカオから撤退させます。さらに、1976年には、中国の強い影響下に立法會が開設され、マカオの地位もポルトガルの海外県から“特別領”に変更され、ポルトガルによるマカオ支配は事実上の終焉を迎えることになりました。

 なお、マカオの現代史については、拙著『マカオ紀行』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 切手が語る台湾の歴史 ★★★

 5月15日13:00から、よみうりカルチャー北千住にて、よみうりカルチャーと台湾文化部の共催による“台湾文化を学ぶ講座”の一コマとして、「切手が語る台湾の歴史」という講演をやります。

 切手と郵便はその地域の実効支配者を示すシンボルでした。この点において、台湾は非常に興味深い対象です。それは、最初に近代郵便制度が導入された清末から現在に至るまで、台湾では一貫して、中国本土とは別の切手が用いられてきたからです。今回の講演では、こうした視点から、“中国”の外に置かれてきた台湾(史)の視点について、切手や郵便物を題材にお話しする予定です。

 参加費は無料ですが、事前に、北千住センター(03-3870-2061)まで、電話でのご予約が必要となります。よろしかったら、ぜひ、1人でも多くの方にご来駕いただけると幸いです。


 ★★★ 講座「世界紀行~月一回の諸国漫郵」のご案内 ★★★ 

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 東京・江東区亀戸文化センターで、5月から毎月1回、世界旅行の気分で楽しく受講できる紀行講座がスタートします。美しい風景写真とともに、郵便資料や切手から歴史・政治背景を簡単に解説します。受講のお楽しみに、毎回、おすすめの写真からお好きなものを絵葉書にしてプレゼントします!

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 日本で最も有名なバスク人
2011-10-21 Fri 23:57
 スペイン北部バスク地方の分離独立を求める非合法武装組織“バスク祖国と自由(ETA)”が、きのう(20日)、40年以上に及ぶ武装闘争の終結を宣言しました。というわけで、日本でバスク人といえばやっぱりこの人ということで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         ザビエル・2アヴォス

 これは、1951年にマカオで発行された偉人シリーズのうち、フランシスコ・ザビエルを描く2アヴォス切手です。

 ザビエルは、1506年頃、バスクの中心都市パンプローナ近郊のザビエル城で地方貴族の家に生まれました。

 1525年、19歳でパリ大学に留学。聖バルバラ学院に入り、哲学を学んでいるときに、イグナチオ・デ・ロヨラらと知り合い、1534年8月、仲間とともにモンマルトルの聖堂で神に生涯を捧げるという誓いを立てました。これがイエズス会の始まりとされています。

 その後、1537年6月、ザビエルはヴェネツィアの教会でイグナチオらと共に司祭に叙階され、エルサレム巡礼を試みましたが、国際情勢の悪化で果たせませんでした。このため、ポルトガル王ジョアン3世の依頼でインド西海岸のゴアに布教の旅に出ることになり、1541年4月にリスボンを出発。アフリカのモザンビークを経て、1542年5月、ゴアに到着しました。そして、ゴアを拠点にインド各地で宣教した後、マラッカ等での布教経験を経て、1549年4月、日本を目指してゴアを出発。同年8月、現在の鹿児島市祇園之洲町にたどり着きました。

 日本では、平戸、山口で布教活動を行った後、京都に到着しましたが、天皇と足利将軍への拝謁はかなわず、失意のうちに京を去っています。その後は、山口、豊後で布教活動を行い、1551年11月、日本を去り、ゴアへ戻りました。ゴアへ戻ったザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、1552年9月、中国の上川島に渡りましたが、この地で病没。遺体はゴアで埋葬されました。

 その後、遺体は分割されて各地で祀られ、そのうちの右腕は、当初、日本に運ばれる予定でした。しかし、1619年に右腕が日本に持ち込まれた時には、すでに、徳川幕府の下でキリシタンの弾圧が本格化していたため、マカオに戻され、以後約200年間は聖ポール天主堂に保管されます。そして、1835年に聖ポール天主堂が焼失した際にはからくも持ち出されて難を逃れ、聖アントニオ教会に移されます。1928年、南のコロアネに聖フランシスコ・ザビエル教会が建立されるとそこに移されましたが、その後、現在の聖ヨゼフ聖堂に収められています。

 なお、拙著『マカオ紀行』では、マカオに残るザビエルゆかりの地をいろいろとご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 ポルトガルが支援要請
2011-04-07 Thu 17:19
 深刻な財政難に陥っているポルトガルが6日夜(現地時間。日本時間では7日未明)、欧州連合(EU)に緊急支援を要請しました。財政支援を要請しました。EUの緊急支援を受けるユーロ圏の国は、昨年のギリシャアイルランドに続いて3ヵ国目です。というわけで、きょうはポルトガル系金融機関に関する切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        マカオ・大西洋銀行(切手)     マカオ・大西洋銀行(実物)

 左側は1964年にマカオで発行された大西洋銀行100年の記念切手で、右側はマカオの大西洋銀行本店ビルの実際の写真です。

 大西洋銀行はポルトガル語で“Banco Nacional Ultramarino”といい、直訳すると“国立海外銀行”となるのですが、ポルトガルの植民地経営が大西洋を中心としていたことから、漢訳に際しては、大西洋銀行の語があてられました。

 もともと、ポルトガル植民地の金融と発券業務を行うための銀行として、1864年、リスボンで設立されたのを皮切りに、1865年にはアンゴラ支店とカーボベルデ支店が、1868年にはサントメ・プリンシペ支店とゴア支店、モザンビーク支店が開設されました。マカオ支店の開設は1902年のことで、同支店は1905年1月27日からマカオ政府の授権を受けて発券業務を開始しています。

 その後、ポルトガル本国では1910年に共和革命が起こり、1932年に、ポルトガル本国では首相のアントニオ・サラザールによる“エスタド・ノヴォ(Estado Novoポルトガル語で新国家の意味)”と呼ばれる独裁体制が発足しましたが、大西洋銀行は王制時代と変わらずにポルトガル植民地での業務を継続していました。

 しかし、1968年にサラザールが病気で引退し、1970年に亡くなると、後継首相のマルセロ・カエターノは漸進的に民主化を進めようとしたものの、1974年、ソ連の支援を受けた左派将校によるポルトガル革命(カーネーション革命)が発生。エスタド・ノヴォ体制は崩壊し、新政権は、1974年4月、植民地主義の放棄を宣言します。

 これに伴い、マカオを除く各植民地はポルトガルの支配下を離れ(東ティモールはインドネシアに占領されました)、マカオ以外の大西洋銀行の各支店は単独の銀行として独立。また、本国の大西洋銀行も左派政権の下で国有化されました。

 こうした状況の下で、マカオ政府は1980年にマカオ発行機構を設置し、通貨の発行権を大西洋銀行マカオ支店から取り戻しましたが、発券業務はそのまま大西洋銀行マカオ支店に委託され続けます。

 1988年、大西洋銀行の一部民営化が始まり、ポルトガル貯蓄信用銀行が過半数の株式を取得すると、翌1989年、マカオ発行機構は“マカオ貨幣および外為監理署”に改組され、大西洋銀行マカオ支店が発券業務の委託を受けるという形式が採られましたが、返還を控えた1995年以降は、中国銀行マカオ分行にもパタカの発券業務が委託されるようになりました。

 1999年の返還に伴い、マカオ貨幣および外為監理署はマカオ金融管理局に改組され、大西洋銀行は2001年にマカオ支店も含めてポルトガル貯蓄信用銀行に吸収合併されます。しかし、マカオ支店は従来通り“大西洋銀行”の名前を残してマカオの企業としてマカオ特別行政区に企業登記したため、“大西洋銀行”はマカオの店舗が本店となりました。なお、現在の大西洋銀行本店ビルは、1926年に建てられたコロニアルなビルの上に、1997年に現代的な上層階を付け加えた構造になっています。

 ちなみに、マカオの大西洋銀行から内港に向かって伸びるマカオのメインストリート、新馬路には、今回ご紹介の大西洋銀行同様、コロニアルな雰囲気のビルが数多く残されていて見るものを楽しませてくれます。その景観については、拙著『マカオ紀行』でもいろいろと解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 
 
  【無錫アジア展・出品申し込みは明日〆切です】

 僕が日本コミッショナーを仰せつかっているアジア国際切手展 <China 2011> の作品募集要項が発表になりました。くわしくはこちらをご覧ください。なお、出品申し込みは、あす(8日)が〆切ですので、ご注意ください。


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 マカオの冬至
2010-12-22 Wed 23:53
 きょうは冬至です。というわけで、拙著『マカオ紀行』にからめて、きょうはこんな切手をもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

        マカオ・漁船(1951)

 これは、マカオで1951年11月に発行された1パタカ切手で、伝統的な漁船が描かれています。

 日本では冬至というとゆず湯の日ですが、香港やマカオでは、もともとは農家と漁師が寒い季節に備えて食糧を集める日だったそうです。マカオでも農業が行われていないわけではないのですが、歴史的に、農業の自給率は非常に低く、大陸からの輸入に頼らざるをえません。これに対して、漁業はマカオの伝統的な産業で、年間5000万トンもの海産物を輸出しています。こうしたこともあって、マカオでは漁業関連の切手は少なくありません。今回ご紹介の1枚は、その中でも初期のモノにあたります。

 現在のマカオでは、冬至の日は家族全員が集まり共に食事をする習慣があります。そのため、お昼過ぎで仕事を切り上げ、早めに終業をする会社も多いそうです。これは、冬至でもっとも昼が短く、翌日から昼が長くなることから、冬至を陰から陽への転換点ととらえる中華世界の伝統的な考え方によるものです。

 ちなみに、マカオでは12月20日が澳門特別行政区成立紀念日、22日が冬至、24日が聖誕節前日(クリスマス・イヴ)、25日が聖誕節(クリスマス)とここのところ祝日が目白押しです。元日もお休みということを考えると、そんなに休んで大丈夫なのかとちょっと心配になりますな。


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 あるバスク人の右腕
2010-09-06 Mon 15:38
 スペイン北部バスク地方の分離・独立を目指す非合法過激派組織「バスク祖国と自由(ETA)」が、きのう(5日)、“停戦”のビデオ声明を地元紙と英BBCテレビに送ってきたそうです。というわけで、バスク出身の有名人にまつわる切手ということで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

         ザビエルの腕     ザビエルの腕(実物)

 左は、1952年にマカオで発行された「フランシスコ・ザビエル没後400周年」の記念切手の1枚で、ザビエルの右腕の骨が取り上げられています。右側は、現在、聖ヨゼフ聖堂に収められているその実物の写真です。

 バスクの中心都市パンプローナ近郊で生まれたザビエルは、日本にキリスト教をもたらした後、1552年に中国の上川島で亡くなり、遺体はインドのゴアに埋葬されました。

 その後、遺体は分割されて各地で祀られ、そのうちの右腕は、当初、日本に運ばれる予定でした。しかし、1619年に右腕が日本に持ち込まれた時には、すでに、徳川幕府の下でキリシタンの弾圧が本格化していたため、マカオに戻され、以後約200年間は聖ポール天主堂に保管されます。そして、1835年に聖ポール天主堂が焼失した際にはからくも持ち出されて難を逃れ、聖アントニオ教会に移されます。1928年、南のコロアネに聖フランシスコ・ザビエル教会が建立されるとそこに移されましたが、その後、現在の聖ヨゼフ聖堂に収められています。

 ザビエルの骨は、マカオにとっての重要な聖遺物として、今回ご紹介の切手にも取り上げられたわけですが、やはり、骨片というのは切手向きの題材ではありませんから、切手のデザインもいまいちわかりづらいように思います。ちなみに、この切手が発行された時点では、ザビエルの骨は聖ヨゼフ聖堂にではなく、まだ、コロアネの聖フランシスコ・ザビエル教会に安置されていました。

 ザビエルの骨は聖ヨゼフ聖堂の最大の目玉ですから、骨が収められているガラスケースはしっかりとライトアップされており、観光客にもすぐにわかるように工夫がなされています。もっとも、時々、ガラスケースのふたが閉められていることもあり、タイミングが悪いとせっかくの骨も拝めないこともあるので、注意が必要です。

 さて、今秋、彩流社の切手紀行シリーズ第3巻として刊行予定の『マカオ歴史漫郵記』(仮題)では、マカオに残るザビエル関連のさまざまな地名や遺物についてもいろいろとご紹介する予定です。正式なタイトルや刊行日など、詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご案内していきますので、よろしくお願いいたします。


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 世界漫郵記:セナド広場(後篇)
2010-07-25 Sun 23:09
 『キュリオマガジン』2010年8月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記:マカオ篇」は、前回に引き続き、セナド広場周辺を取り上げました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      カルネイロ     カルネイロ肖像画

 左側は、1969年に発行の仁慈堂400年の記念切手で、ドン・ベルキオール・カルネイロの肖像が取り上げられています。この切手の元ネタとなった肖像画は、仁慈堂2階の会議室に飾られていますが、その様子を撮影したのが右側の画像です。

 仁慈堂は、1498年にポルトガル国王ジョアン2世の妃レオノール・デ・ヴィゼウが創設した慈善団体で、ポルトガル国内で急速に組織を拡大した後、1569年にはマカオにも支部がつくられました。

 一方、マカオにおける仁慈堂設立の立役者であるカルネイロは、1516年、コインブラの有力者の家に生まれ、1543年には、1534年に創設されたばかりのイエズス会に入信。スペイン国境にも近いエヴォラや首都リスボンで修道院の院長を務めました。

 1553年、ポルトガル国王ジョアン三世は、ローマ教皇ユリウス三世とイエズス会にエチオピアへのイエズス会士派遣を提言。このとき、カルネイロもエチオピアへの布教に赴くことになりましたたが、エチオピアに入国できなかったため、インドへ渡り、ゴアに上陸し、インド大陸西岸のマラバル海岸で布教活動を行っています。

 こうした実績により、1567年、カルネイロは日本と中国を管轄するマカオ管区の初代司教に叙せられ、翌1568年5月、マカオに赴任。貧民救済のための病院や孤児院、養老院等を運営する慈善団体として、仁慈堂マカオ支部を設立しました。

 現在の仁慈堂の建物は18世紀に建てられ、1905年に改修されたもので、現在、2階は博物館として利用されています。展示スペースに入ると、ポルトガル、インド、中国、日本の陶磁器のほか各種の宗教芸術や古文書などがガラスケースにずらりと並んでおり、その奥はシャンデリアの下がった会議室になっています。部屋の中央には、上の画像のように、ポルトガルの国旗と大きなカルネイロの肖像画が架けられており、肖像画の下には、カルネイロ本人のモノと思しき頭蓋骨も置かれています。

 会議室を抜けたベランダからは、セナド広場が一望できるのですが、その眺めは、前回の記事でご紹介した切手とは若干異なります。切手のような眺めは、仁慈堂のベランダからではなく、屋上からでないと見えないと思いますが、残念ながら、一般の観光客は屋上には上れないので、実際にこの目で確認することはできませんでした。

 なお、セナド広場周辺ということであれば、中央郵便局のこともご紹介したかったのですが、雑誌の記事ではスペースの関係で、割愛せざるをえませんでした。今秋、<切手紀行シリーズ>の第3巻として書籍化する時にはしっかりとご紹介する予定ですので、いましばらくお待ちください。


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 世界漫郵記:崗頂前地
2010-05-24 Mon 23:10
 きのうの記事でも書きましたが、『キュリオマガジン』2010年6月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記:マカオ篇」では、今回は「崗頂前地」と題して、世界遺産に指定されている“ドン・ペドロ5世劇場”と“聖ヨゼフ修道院・聖堂”(三巴仔)を中心に取り上げました。その記事の中から、今日は、こんなモノをもってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      ドンペドロ5世劇場    ドンペドロ5世劇場(実物)

 左は、1972年に発行されたドン・ペドロ5世劇場100年の記念切手です。右側には、切手に取り上げられた劇場正面の実際の写真です。

 前回の連載で取り上げた聖ヨゼフ修道院・聖堂の裏手は聖オーガスティン広場(崗頂前地)と呼ばれる石畳の一角になっていて、聖オーガスティン教会、ドン・ペドロ5世劇場、ロバート・ホー・トン図書館とあわせて4つの世界遺産が取り囲んでいます。

 このうち、ドン・ペドロ5世劇場は、1860年にマカオ在住ポルトガル人の男性専用社交クラブだったマカオ・クラブが、中国初のオペラハウスとして建設しました。

 劇場の名前の由来となったペドロ5世は1837年生まれで、1853年、母王マリア2世の崩御を受けて、16歳でポルトガル国王となりました。若年ゆえ、摂政となった父親のフェルナンド2世の後見の下、道路・電信・鉄道などのインフラ整備を推進した王として知られています。また、公衆衛生の改善にも力を注ぎましたが、皮肉なことに、国王ご本人はコレラに罹り、マカオの劇場が完成した翌年の1861年、わずか24歳で崩御しました。

 劇場は、当初、建物本体のみでしたが、ペドロ5世の死後10年以上が過ぎた1872年から1873年にかけて、ハープの装飾のあるペディメント(日本建築の破風に相当する三角形の部分)やイオニア式の円柱が印象的なファサードが付け加えられ、現在のような外観になりました。今回ご紹介の切手が、1972年に“劇場100年記念”として発行されているのは、ここから起算してのことです。

 内部の座席数は300。かつては、劇場としてコンサートやオペラが上演されていたほか、マカオのポルトガル人社会を象徴する場として各種の記念行事なども行われていました。また、第二次大戦中は、中立国ポルトガルの領土であるマカオに逃れた難民の収容施設として用いられたこともあったそうです。

 1970年代以降、建物は老朽化とシロアリの害が目立つようになり、ながらく閉鎖されていましたが、1993年から2001年にかけて修復工事が行われました。1972年の切手では、建物の色が、現在の緑色と異なり、何となくくすんだ感じになっていますが、これは、切手発行時の状況をそのまま表現したからなのだと思われます。

 今回の連載記事では、ドン・ペドロ5世劇場と聖オーガスティン教会を中心に話をまとめてみました。なお、紙幅の関係で触れられなかったロバート・ホー・トン図書館については、連載をまとめて<切手紀行シリーズ>の第3巻として刊行する際には必ず取り上げますので、ご期待下さい。


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 鯨を追い、七つの海へと旅立った男たちの歴史と文化
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 捕鯨は日本だけの特殊な文化・伝統なのか。否、そんなことは断じてない。むしろ、歴史的に見れば、欧米社会こそ、捕鯨を題材とした文学・演劇・音楽・絵画などさまざまな文化を残してきたではないか。 陸の西部劇と海の捕鯨は、カッコいい荒くれ男たちの物語の双璧である。知力・体力の限りを尽くし、命の危険を顧みずに大自然の中で奮闘する男たちの姿を見て、単純素朴に美しいと感じる人も多いはずだ。 

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