2024-07-09 Tue 09:21
日本、フィリピン両政府は、きのう(8日)、自衛隊とフィリピン軍が共同訓練などで相互に訪問しやすくする“円滑化協定(RAA)”に署名しました。今後、両国の国内手続きを経てRAAが正式に発効すれば、フィリピンは日本にとって豪・英に続く3カ国目の“準同盟国”になります。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2006年7月23日にフィリピンが発行した“日本・フィリピン外交関係50年 日比友好年”の記念切手のうち、ホセ・リサールと富士山、桜を組み合わせた1枚です。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 昨日(8日)のニッポンジャーナルの内藤出演回は無事に終了しました。次回は7月19日(金)に登場の予定です。引き続きよろしくお願いします。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 7月12日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★★★ 全日本切手展のご案内 ★★★ 7月13-15日(土-月・祝) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)が開催されます。 今回は、内藤がオスロ合意後のパレスチナ自治政府の郵便史を題材としたコレクション「パレスチナ郵便史 1995-2001」を展示するほか、会期中、毎日13:00から展示解説を行います。展覧会の情報は全日本切手展のオフィシャルサイトなどで、随時アップしていきますので、よろしくお願いいたします。 7月19日(金) 10:00~ ニッポンジャーナル インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。 ★ 7月20日(土) 13:30~ 栃木「正論」友の会 第22回講演会 ★ 7月20日 (土) 13:30-15:00(開場13:00)、栃木県護国神社・護国会館(宇都宮市陽西町1-37)で開催の栃木「正論」友の会 第22回講演会にて、「迷走する国際情勢の背景を読み解く」と題してお話しします。会費は2000円。お申し込みは、下記画像のチラシをプリントアウトして、03-3241-4281までFAXでご送信いただくか、 seiron.k★sankei.co.jp (スパム防止のため★を@に変えてご利用ください)に必要事項をお送りください。 皆様のご参加をお待ちしております。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード』 好評発売中!★ 「動物と植物」「科学技術」「社会と文化」「神話/伝説と宗教」の4章立てで、犬、猫、宇宙開発、飛行機、クリスマスといったテーマで、初めて描かれた切手図案にまつわる秘話、思いがけない発行に至る背景に加え、シーラカンスやテレビ、警察官、タトゥー、髑髏といった、あっと驚く意外なテーマの一番切手も登場します! * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2023-05-23 Tue 09:11
フィリピンのマニラ中央郵便局で、おととい(21日)深夜からきのう(22日)朝にかけ火災があり、歴史的建造物としてマニラのランドマークにもなっている局舎が全焼の被害を受けたほか、手紙や小包などが焼失しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1932年5月3日、米領時代のフィリピンで発行された4センタボ切手(普通切手)で、中央郵便局の局舎が描かれています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 5月26日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『現代日中関係史 第2部 1972-2022』 好評発売中!★ 2022年11月に刊行された「第1部1945-1972」の続編で、日中国交”正常化”以降の1972年から2022年までの半世紀の、さまざまな思惑が絡まり合う日中関係の諸問題を、切手とともに紐解いていきます。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2023-03-23 Thu 08:26
野球の世界大会、ワールドベースボールクラシック(WBC)は、きのう(22日)、米マイアミのローンデポ・パークで決勝戦が行われ、日本が米国を3-2を下して3大会ぶり3度目の優勝を果たしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1934年4月14日、フィリピンが発行した第10回極東選手権大会の記念切手(3種セット)のうち野球を取り上げた1枚で、世界最初の野球切手として知られています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 2023年3月24日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 4月8日スタート! 平成日本の歴史 4月8・15・22日 13:30-15:00 文京学院大学での3週連続の講座です。1989年に始まる平成30年間の日本現代史をさまざまな角度から語ります。一般的な通史に加え、その時々の時代・社会の変化を切手や郵便物を通じて読み解くことで、モノから読み解く歴史の面白さを感じていただきます。詳細はこちらをご覧ください。 4月22日(土) スタンプショウ 2023 於・都立産業貿易センター台東館 毎年恒例、東京・浅草で開催の世界切手祭り・スタンプショウで、22日(土) 11:00から拙著『現代日中関係史 第2部 1972-2022』の出版記念イベントやります。事前予約不要・参加費無料です。親イベントとなる切手展、スタンプショウの詳細は主催者サイトをご覧ください。 4月30日(日) 英秘密情報部(MI6)入門 4月30日(日) 13:00~14:30 よみうりカルチャー荻窪での公開講座です。 映画「007シリーズ」などにも名前が出てくる英秘密情報部(MI6)について、実際の歴史的事件とのかかわりなどを中心にお話します。詳細はこちらをご覧ください。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 よみうりカルチャー 北千住 エリザベス女王の現代史 原則毎月第4土曜日 13:00~14:30 エリザベス女王の描かれた切手を手掛かりに、現代史を読み解く講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『現代日中関係史 第2部 1972-2022』 好評発売中!★ 2022年11月に刊行された「第1部1945-1972」の続編で、日中国交”正常化”以降の1972年から2022年までの半世紀の、さまざまな思惑が絡まり合う日中関係の諸問題を、切手とともに紐解いていきます。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2022-08-01 Mon 00:15
フィリピンのマルコス(シニア)独裁政権を打倒した1986年の“ピープルパワー革命”の立役者の一人で、1992-96年に同国大統領を務めたフィデル・ラモス氏が、きのう(31日)、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)による合併症のため、マニラ近郊、マカティの病院で亡くなりました。94歳。というわけで、謹んでご冥福をお祈りしつつ、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1992年6月30日にフィリピンが発行した“ラモス新大統領当選”の記念切手で、同日付で就任するラモス新大統領と、コラソン・アキノ前大統領の肖像が並べて取り上げられています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 8月12日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『本当は恐ろしい! こわい切手』 好評発売中!★ 怨霊、ゾンビ、鬼、そして人間の闇 …… 古今東西の奇妙な切手を集めた一冊。 それぞれの切手には、いずれも世に出るだけの理由が必ずある。 その理由を求めて、描かれた題材の歴史的・文化的・社会的背景を探っていくと、 そこからさまざまなドラマが浮かび上がってくる。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2022-07-27 Wed 07:18
山口地裁は、きのう(26日)、フィリピン西部のパラワン島で、先の大戦中の混乱により無国籍となった日系2世の坂根アンヘリタさんについて、DNA型鑑定により日本人の父、民助さんとの血縁関係が裏付けられたとして、日本の役所で戸籍を新たに作る“就籍”を許可しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1993年12月10日、フィリピンが発行した“第二次大戦中のフィリピン・ゲリラ部隊”シリーズのうち、パラワン特殊大隊とスールー地域部隊を取り上げた1枚で、左側には南北に細長いパラワン島の地図が描かれています。 詳細につきましては、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 8月12日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『本当は恐ろしい! こわい切手』 好評発売中!★ 怨霊、ゾンビ、鬼、そして人間の闇 …… 古今東西の奇妙な切手を集めた一冊。 それぞれの切手には、いずれも世に出るだけの理由が必ずある。 その理由を求めて、描かれた題材の歴史的・文化的・社会的背景を探っていくと、 そこからさまざまなドラマが浮かび上がってくる。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2022-05-10 Tue 05:01
きのう(9日)、投開票が行われたフィリピンの大統領選挙は、1986年まで独裁体制を敷いた故マルコス元大統領(以下、マルコス・シニア)の長男で元上院議員のフェルディナンド・マルコスJr.(通称、ボンボン・マルコス)氏が他の候補を大きく引き離し、当選を確実にしました。というわけで、きょうはこの切手です(画像はクリックで拡大されます)
これは、2017年9月11日、フィリピンが発行したマルコス・シニア生誕100周年の記念切手です。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 5月13日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 4月6日-7月12日 鏑木清方と江戸の残り香 詳細はこちらをご覧ください。 4月13日-7月19日 日本の郵便150年の歴史2 占領時代(1945年の終戦から1952年) 詳細はこちらをご覧ください。 5月18日-8月23日 日本の歴史を学びなおす― 近現代編その2― 幕末 詳細はこちらをご覧ください。 ★ 最新作 『アフガニスタン現代史』 好評発売中!★ 出版社からのコメント 混迷のアフガニスタン情勢の理解に必須の通史! 911同時多発テロ事件とその後のアフガニスタン空爆から20年。西側が支援した新共和国が崩壊し、再びタリバンが実効支配下に置いたアフガニスタン。英国、ソ連、米国…介入してきた大国の墓場と呼ばれてきたこの国の複雑極まりない現代史を、切手や郵便資料も駆使しながら鮮やかに読み解く。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-12-30 Thu 02:53
きょう(30日)は、フィリピンの国民的英雄、ホセ・リサールが1896年12月30日に処刑されたことにちなむフィリピンの祝日、“リサール・デイ”です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、先の大戦中の1944年2月17日、日本占領下で樹立されたフィリピン第2共和国が発行した“英雄切手”のうち、リサールの肖像を取り上げた5センタボ切手です。 リサールは、1861年6月19日、スペイン領時代のルソン島カランバで生まれました。幼少時から神童の誉れ高く、1877年、16歳にしてマニラのアテネオ学院(現アテネオ・デ・マニラ大学)に入学して農学を学び、さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、サント・トマス大学で医学を学びました。また、在学中の1879年にはスペイン語の詩のコンテストで最優秀賞を獲得しています。 1881年にアテネオ・デ・マニラ専門学校を卒業、翌1882年にサント・トマス大学医学部を修了した後、宗主国スペインの国立マドリード大学医学部および哲文学部の両学部に入学。1885年、マドリード大学の哲文学博士と医学士の号を取得した後、フランス、ドイツの各大学でも学び、ドイツ滞在中の1887年、ベルリンで小説『ノリ・メ・タンヘレ(私に触れるな)』を出版し、同年8月、フィリピンに帰国しました。 帰国後のリサールは、故郷のカランバで医者として働いていましたが、ドイツで出版した『ノリ・メ・タンヘレ』がスペイン修道会の怒りを買い、再び“留学”の名目で日本、米国経由でヨーロッパに逃れました。 亡命生活末期の1891年9月、リサールは、1872年の“ゴンブルサ事件”を題材にした小説『エル・フィリブステリスモ』をベルギーで出版します。 作品の題材となったゴンブルサ事件は、1872年、マニラ・カビテ地区で発生した労働者の暴動に関して、スペインの植民地当局は暴動を扇動したとして、ゴメス、ブルゴス、サモーラのの3人のフィリピン人神父を公開処刑にしたというもので、当時のフィリピン人に大きな衝撃を与えました。 『エル・フィリブステリスモ』の出版後、リサールはフィリピンに帰国しようとしたものの、スペイン当局は彼を反植民地的人物として帰国を認めませんでした。そこで、彼は香港で眼科医を開業しましたが、望郷の念断ちがたく、1892年6月に帰国した後は、スペインの統治を認めたうえで、穏健な改革を求める“フィリピン同盟”を結成しました。ところが、これをも危険視したスペイン当局は彼を逮捕し、ミンダナオ島のダピタンへ流刑としました。 1896年7月、刑期の満了後、彼は軍医としてスペイン海軍の巡洋艦「カスティリア号」に乗り込み、スペイン領キューバへ向かいましたが、船が地中海に入ったところで、フィリピンで“1896年革命”が勃発したことから、革命への関与を疑われて逮捕され、マニラへ移送の後、同年12月26日、軍法会議で銃殺刑の判決を受け、30日に処刑されました。享年35歳。その死は多くの人々に衝撃を与え、1898年に成立したフィリピン第1共和国大統領のエミリオ・アギナルドは、リサールが処刑された12月30日を“リサール・デイ”に指定。現在でも、この日はフィリピンの祭日となっています。 なお、今回ご紹介の切手を含めて、先の大戦中に日本軍が占領した地域の切手については、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史vol.1 戦前編』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 12月30日(木) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 2021年12月1日~2022年2月8日 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編その1 ― 黒船来航」 12月1日から2月8日まで、計7.5時間(30分×15回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.2 戦後編』 11月20日刊行! ★ 2530円(本体2300円+税) 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第2巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱った第1巻に続き、第二次大戦後の1946年から昭和末の1989年までを扱っています。なお、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★ 書籍無料ダウンロードを装った違法サイトにご注意ください!★★ 最近、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史』をPDF化して、無料でダウンロードできるかのように装い、クレジットカード情報を盗み取ろうとする違法サイトの存在が確認されました。 この種のサイトは多種多様な出版物を無許可で取り扱っているものと思われます。 内藤および拙著の出版元・販売元ではこのような行為は一切認めておらず、フィッシング詐欺等に巻き込まれる可能性もありますので十分ご注意ください。 |
2021-06-01 Tue 05:38
おかげさまで、2005年6月1日にこのブログをスタートさせてから、16年が過ぎました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、お礼申し上げます。 というわけで、きょうは額面16のこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1943年7月14日、日本占領下のフィリピンで発行された16センタボの普通切手で、伝統的な帆船のヴェンタ(ヴィンタとも)が取り上げられています。 ヴェンタは、フィリピンのミンダナオ島からスールー諸島にかけての地域で、主としてモロ(フィリピンのムスリム)が古くから利用している帆船で、部族ごとに異なる縦縞の帆が特徴です。 第二次大戦以前のフィリピンでは“United States of America”の表示が入った切手が使われていましたが、日本占領下では、まず、その表示を抹消した切手が暫定的に使用されました。ついで、1943年4月1日以降、今回ご紹介の切手のように、国名表示を“比島郵便”とし、現地の風景・風俗などを描くオリジナル・デザインの切手(正刷切手)が順次発行されています。これらの切手は、日本の内閣印刷局で製造され、現地まで輸送されました。また、切手の額面には通貨単位の“センタボ”、“ペソ(1ペソ=100センタボ)”などが日本語のカタカナで表示されており、当時のフィリピンが日本の占領下に置かれていたことが良くわかります。 ちなみに、日本軍占領下のフィリピンの書留料金は、1942年3月4日から1943年2月28日までは16センタボでしたが、1943年3月1日、12センタボに値下げされています。今回ご紹介の切手は、料金が16センタボの時代に日本の印刷局に発注されたものの、同年7月14日に実際に発行された時点での料金には対応しないものとなってしまいました。 なお、今回ご紹介の切手を含めて、先の大戦中に日本軍が占領した地域の切手については、拙著『切手でたどる郵便創業150年の歴史vol.1 戦前編』でもその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(31日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・6月7日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 武蔵野大学の生涯学習講座は開講が再延期となりました ★ 6月5日開講の予定だった下記の講座は、新型コロナウイルス対応の特別措置法に基づく緊急事態宣言の再延長に伴い、開講日(対面授業の初回の日)が7月3日に再延期になりました。詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、今しばらくお待ちください。なお、対面授業の時間割は、土曜日の同じ時間帯で変更はありません。 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。お申し込みを含め、詳細については、こちらをクリックしてご覧ください。(現在は旧日程が掲載されておりますので、ご注意ください) ご不便をおかけしますが、よろしくお願いします。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 6月2日(水) 20:30~ KAZUYAチャンネルGX KAZUYAチャンネルGXに、新作『誰もが知りたいQアノンの正体』の著者として内藤がゲスト出演します。皆様、よろしくお願いします。 6月7日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-09-11 Fri 04:49
今月5日、SNSのTikTokで1500万人以上のフォロワーを抱えるフィリピンのベラ・ポーチさんが自らのタトゥ(下の画像)を公開したところ、韓国人ユーザーから「旭日旗を連想させる」との批判が殺到し、翌6日、ポーチさんが謝罪に追い込まれる事件がありました。
ところが、ポーチさんの謝罪後も、一部の韓国人ユーザーはフィリピン人に対して、「教育を受けられていない」、「背が低くて貧しい」などと差別的な発言を執拗に繰り返したことから、フィリピンでは反韓国感情が爆発。9日にはツイッターで#Cancel Korea(韓国をキャンセルする)のツイートが35万件以上書き込まれたほか、10日にも韓国に対する怒りのツイートが10万件以上書き込まれる騒動になっているそうです。 というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1998年、エミリオ・アギナルドによる独立宣言100周年を記念してフィリピンが発行した切手シートのうち、フィリピン国旗を題材にした1枚で、シートの余白には独立宣言とその時代を説明する以下のような文言が記されています。 1892年7月7日、カティプーナンとして知られる秘密結社が生まれました。創立者はアンドレス・ボニファシオです。その使命は、全てのフィリピン人を団結させ、外国の支配によって長年搾取されてきた祖国解放の一助とすることです。カティプナンの有名なメンバーの一人に、エミリオ・アギナルドという愛国者がいました。1898年6月12日、エミリオ・アギナルド将軍はカヴィテで歴史的な儀式を行い、フィリピンの独立を宣言しました。 なお、シートの切手で、女性が手にしているのが、独立宣言以来のフィリピン国旗で、その右側、3つのKを山形に配した旗が1892-96年のカティプナン旗、上部に描かれているのが、顔のついた太陽を描くアギナルドの革命旗(1897年)です。 さて、現在のフィリピン国旗のデザインは、白は平等と友愛を、青は平和、真実と正義を、赤は勇気と愛国心を象徴し、黄色い太陽は自由を意味するとされています。また、太陽の周囲に配された3つの星は、ルソン島・ミンダナオ島・ヴィサヤ諸島を、太陽から伸びる8本の光条(それぞれが細い3本の光条で構成)は、独立革命の際、最初に武器を取ったルソン島内の8州(パンパンガ州、ブラカン州、リサール州、カヴィテ州、バタンガス州、ラグナ州、タルラック州、ケソン州)を表しています。このうちの太陽は、それ自体がフィリピンの象徴として、国旗だけでなく、国章などにも広く利用されていることは理解しておく必要があります。 ポーチさんが太陽の光をイメージさせるタトゥを入れたのも、おそらくは、フィリピン人として自国の象徴としての太陽のイメージを意識したためと考えるのが自然で、それを日本の旭日旗と結びつけて批判するのはあまりにも短絡的な思考とのそしりを免れないでしょう。 そもそも、旭日旗は太陽(光)をデザイン化したものとして、“日の本”のわが国では、官民を問わず広く使われてきたものですし、諸外国でも、太陽(光)の表現として光条を配するデザインは無数にありますし、ほかならぬ韓国の切手にも朝鮮半島の背景に放射状の光条が描かれているデザインのものだけでなく、大韓聖公会100周年の記念切手のように(下の画像)、より旭日旗に似たデザインの切手さえあります。 したがって、基本的には日本との関係が深いわけでもない外国人が太陽(光)のイメージで光条のデザイン使ったからといって、それを“戦犯旗(旭日旗を否定する立場からの呼称)”として非難するのはナンセンスであり、ましてや、今回のフィリピンの太陽のように、それがその国の人に取っても重要なシンボルである場合、縁もゆかりもない韓国人がいきなりクレームをつけ、さらに差別的な言動を繰り返すということであれば、攻撃された側が戸惑い、不快に思うのは当然のことです。 今回の騒動を機に、いい加減、明らかに旭日旗とも無関係なものをも含め、光条のデザイン全般へのヒステリックな条件反射に対して、韓国社会でも反省の声が上がってほしいのですが、まぁ、難しいでしょうね。 * 昨日(10日)、アクセスカウンターが224万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-02-04 Tue 01:34
第二次大戦末期の1945年2月3日、マニラ市街戦が始まってから75周年ということで、きのう(3日)、マニラで追悼式典が開かれました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1945年2月23日、米軍による解放直後のサント・トマス収容所から米国宛のカバーです。 1942年、フィリピンを占領した日本軍は、マニラのサント・トマス大学を接収して、民間人の抑留施設として転用しました。これが、今回ご紹介のカバーの発信地となっているサント・トマス収容所です。 1944年10月、レイテに再上陸した連合軍は、1945年1月、ルソン島に上陸。2月3日、米陸軍第14軍団(第1騎兵師団と第37歩兵師団)がマニラへ突入しましたが、その際、最優先課題の一つとされたのがサント・トマス収容所の解放でした。 米軍は2月3日のうちに収容所に到達し、2月10日までに収容所を完全に解放します。この時点で収容所に残っていた収容者は 3785人で、うち2870人が米国人、残りは主に英連邦の出身者でした。なお、収容者の退避は2月11日から始まっており、3-4月頃までに大半の収容者が撤退しましたが、 最終的に収容所が閉鎖されたのは、日本降伏後の1945年9月のことでした。 ちなみに、マニラ市街戦では、1945年3月3日に米軍が戦闘終結を宣言するまでに、激戦地となったマラカニアン宮殿をはじめ、マニラ市街地はほぼ廃墟となり、戦闘での日本軍の戦死者は約1万2000人、米軍は戦死者1020人と負傷者約5600人。このほか、約10万の市民が犠牲になったといわれています。 ★★ イベント等のご案内 ★★ 今後の各種イベント・講座等の ご案内です。詳細については、イベント名・講座名をクリックしてご覧ください。 ・東アジア歴史文化研究会 2月13日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール 混迷を深める中東情勢を読み解く 参加費 2000円 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-03-22 Fri 02:23
1869年3月22日に、フィリピンの革命家、エミリオ・アギナルドが生まれてから、きょうでちょうど150周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年にフィリピンで発行された“エミリオ・アギナルド将軍生誕100周年”の記念切手で、アギナルドの肖像と彼の邸宅での独立宣言の場面が描かれています。アギナルドの誕生日は3月22日ですが、切手は、これより2ヵ月ほど前倒しの1月23日に発行されました。 さて、エミリオ・アギナルドは、1869年3月22日、スペイン領東インドのカウイト(現フィリピン共和国カヴィテ州)で、中国系メスティーソの弁護士の家庭に生まれました。 1529年以来、スペインの植民地となっていたフィリピンでは、1892年にアンドレス・ボニファシオが中心となり、独立を目指す秘密結社“カティプナン”が結成されていましたが、アギナルド1895年3月にこれに入会。1896年8月23日、ボニファシオは武装蜂起を宣言したものの、スペイン現地軍に敗北を重ねたため、同31日、アギナルドは独自に「カヴィテの叫び」を発し、独自の軍を編成して9月3日のイムスの戦いと11月9日のビナヤカンの戦いでスペイン軍に勝利し、カヴィテ州を武力解放しました。ちなみに、この間、アギナルドは収監中のホセ・リサールの奪還を試みていますが、最終的に計画は中止を余儀なくされ、12月にリサールは銃殺刑に処されています。 1897年に入ると、スペインは本国から4万人の増派を得て反攻を進め、アギナルドは3月には拠点のイムスの町から撤退。戦況が劣勢に陥る中、カティプナンの内部抗争が発生すると、アギナルドはボニファシオを銃殺してカティプナンの指導権を掌握し、同年5月、自らを大統領としてフィリピン共和国(総司令部の置かれていた地名にちなみ、ビアクナバト共和国とも呼ばれます)の成立を宣言しました。しかし、アギナルド側の劣勢はいかんともしがたく、最終的にはスペインと妥協し、12月20日、80万ペソ(40万米ドルに相当。ただし、この段階でスペイン側がアギナルドに支払ったのは半額の40万ペソ)の補償金と引き換えに香港へ亡命。革命はいったん終結します。 ところが、1898年、米西戦争が勃発し、スペイン領フィリピンに狙いを定めた米国は、アギナルドらに対して独立の口約束を与え、これを信用したアギナルドらは亡命先の香港から帰国。1898年5月24日、「偉大かつ強力なるアメリカ合衆国が、この国の自由の確保のために、利害抜きの保護を提供してくれたので」スペイン軍を殲滅して憲法を制定し、政治の組織を完成するまでの間、みずからを総帥とする独裁政府を樹立すると宣言し、6月12日にはアギナルドの私邸で独立宣言が行われ(今回ご紹介の切手に描かれているのはこの場面です)、米国の独立宣言にならった宣言文が読み上げられたほか、国旗・国歌も正式に披露されました。さらに、アギナルド政府は、8月1日には各地の議員選挙を行い、本部をカビテからマニラ北方のマロロスに移し、フィリピン人のみの第一議会を招集。9月29日には正式にアギナルドが初代大統領に就任しました。 しかし、米国はアギナルドを裏切り、革命政府抜きでスペインとの講和を進め、同年12月10日、パリで講和条約を調印。この結果、米国はフィリピンを2000万ドルで買収することが決定され、“友愛的同化”をスローガンとする植民地支配がスタートしました。 マニラ開城以降の米国の対応は、当然のことながら、フィリピン人の憤激を買い、フィリピンでは反米感情が一挙に昂揚します。そもそも、マニラ開城から米西間の講和条約が調印されるまでの間に、革命軍はルソン島からビサヤ諸島にいたるスペインの支配地域を自力で解放していました。また、新国家にとって記念すべき第一議会が、首都のマニラではなく、マロロスでの開催を余儀なくされたのも、スペインとの密約でアメリカが革命軍のマニラ入城を阻止していたのが原因です。このため、革命政府は、1899年1月、マロロスで憲法を発布し、フィリピン共和国(第一共和国。マロロス共和国)を正式に樹立させ、米国の背信を絶対に認めないとの姿勢を内外に明らかにしようとしました。 こうして、米軍政当局と革命政府との緊張が高まる中、1899年2月4日、米兵によるフィリピン兵2名の射殺事件が発生。これを機に、両者の対立は本格的な米比戦争へと発展します。 米軍と革命政府との戦闘は、近代的装備に勝る米軍が終始一貫して革命軍を圧倒し、1899年3月末には革命政府の首都マロロスが陥落。同年11月にはアギナルドが山岳地帯に追い込まれて革命軍は組織として壊滅しました。 しかし、アギナルド政府の残党は、米軍に対して各地で激しいゲリラ戦を展開。米軍を大いに悩ませます。これに対して、米軍はフィリピン・ゲリラを武力で制圧しようとしたものの、実際には、戦闘は次第に泥沼化し、収拾のめどは全く立ちませんでした。このため、1900年3月、マッキンリー大統領の命を受けて現地に派遣されたウィリアム・タフト(後の大統領)は、軍政官アーサー・マッカーサー(日本占領の司令官、ダグラスの父)を抑え、現地住民からなる親米勢力として連邦党を支援し、同党を足がかりとして地方の有力者を取り込むことで、占領行政を安定させようとしました。 その後、1901年3月23日、アギナルドが米軍に逮捕されると、革命軍の指導者の投降も相次ぎ、タフトの支援する連邦党も革命勢力の武装解除に協力して治安状況は急速に改善。1901年7月4日にはタフトを総督とする植民地統治が開始され、翌1902年7月4日、フィリピン平定作戦の終了が宣言され、米領フィリピンが確定します。 一方、アギナルドは、1901年4月に釈放された後、郷里に帰還し、元革命軍兵士の生活支援をしつつ、年金を受給しながら農業を行りつつ、1935年9月17日に実施されたフィリピン・コモンウェルスの大統領選挙には立候補したものの、マニュエル・ケソンに大差で敗退。日米開戦後は、バターン半島の戦いに際してはラジオを通してマッカーサーにフィリピンの若者の命を助けるために降伏するように求める演説を行うなど、親日的な姿勢を示したため、戦後は対日協力者として逮捕され、一時、パラワン島のイワヒグ収容所に収容されています。 1946年、アギナルドはマニュエル・ロハス大統領による恩赦で釈放され、1946年7月4日のフィリピン第三共和国独立記念式典では、フィリピン国旗を掲揚しました。その後、1962年に日本の皇太子ご夫妻(今上陛下ご夫妻)がフィリピンを訪問した際には、93歳の高齢をおして、ご夫妻を自宅に迎えています。1965年、95歳で大往生を遂げると、その遺体は遺言に従い、一兵士の軍装で埋葬されました。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2018-12-22 Sat 08:14
ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年12月12日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はフィリピン(と一部カンボジア)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、フィリピン第1共和国時代の軍事公用便です。 1529年以来、スペインの植民地となっていたフィリピンでは、1896年8月、独立を求める革命が勃発しましたが、革命側は内紛が続き、戦況は一貫してスペイン有利に展開されていました。こうした状況の下で、1897年5月、革命派内の主導権を掌握したエミリオ・アギナルドは、ともかくも、自らを大統領としてフィリピン共和国(総司令部の置かれていた地名にちなみ、ビアクナバト共和国とも呼ばれます)の成立を宣言しましたが、最終的にスペインと妥協し、半年後の12月20日、80万ペソ(40万米ドルに相当。ただし、この段階でスペイン側がアギナルドに支払ったのは半額の40万ペソ)の補償金と引き換えに香港へ亡命。革命はいったん終結します。 ところが、1898年、米西戦争が勃発し、スペイン領フィリピンに狙いを定めた米国は、アギナルドらに対して独立の口約束を与え、これを信用したアギナルドらは亡命先の香港から帰国。1898年5月24日、「偉大かつ強力なるアメリカ合衆国が、この国の自由の確保のために、利害抜きの保護を提供してくれたので」スペイン軍を殲滅して憲法を制定し、政治の組織を完成するまでの間、みずからを総帥とする独裁政府を樹立すると宣言し、6月12日にはアギナルドの私邸で独立宣言が行われ、米国の独立宣言にならった宣言文が読み上げられたほか、国旗・国歌も正式に披露されました。さらに、アギナルド政府は、8月1日には各地の議員選挙を行い、本部をカビテからマニラ北方のマロロスに移し、フィリピン人のみの第一議会を招集。9月29日には正式にアギナルドが初代大統領に就任しました。 しかし、米国はアギナルドを裏切り、革命政府抜きでスペインとの講和を進め、同年12月10日、パリで講和条約を調印。この結果、米国はフィリピンを2000万ドルで買収することが決定され、“友愛的同化”をスローガンとする植民地支配がスタートしました。 マニラ開城以降の米国の対応は、当然のことながら、フィリピン人の憤激を買い、フィリピンでは反米感情が一挙に昂揚します。そもそも、マニラ開城から米西間の講和条約が調印されるまでの間に、革命軍はルソン島からビサヤ諸島にいたるスペインの支配地域を自力で解放していました。また、新国家にとって記念すべき第一議会が、首都のマニラではなく、マロロスでの開催を余儀なくされたのも、スペインとの密約でアメリカが革命軍のマニラ入城を阻止していたのが原因です。このため、革命政府は、1899年1月、マロロスで憲法を発布し、フィリピン共和国(第一共和国。マロロス共和国)を正式に樹立させ、米国の背信を絶対に認めないとの姿勢を内外に明らかにしようとしました。 こうして、米軍政当局と革命政府との緊張が高まる中、1899年2月4日、米兵によるフィリピン兵2名の射殺事件が発生。これを機に、両者の対立は本格的な米比戦争へと発展します。 米軍と革命政府との戦闘は、近代的装備に勝る米軍が終始一貫して革命軍を圧倒し、1899年3月末には革命政府の首都マロロスが陥落。同年11月にはアギナルドが山岳地帯に追い込まれて革命軍は組織として壊滅しました。 しかし、アギナルド政府の残党は、米軍に対して各地で激しいゲリラ戦を展開。米軍を大いに悩ませます。これに対して、米軍はフィリピン・ゲリラを武力で制圧しようとしたものの、実際には、戦闘は次第に泥沼化し、収拾のめどは全く立ちませんでした。このため、1900年3月、マッキンリー大統領の命を受けて現地に派遣されたウィリアム・タフト(後の大統領)は、軍政官アーサー・マッカーサー(日本占領の司令官、ダグラスの父)を抑え、現地住民からなる親米勢力として連邦党を支援し、同党を足がかりとして地方の有力者を取り込むことで、占領行政を安定させようとしました。 その後、1901年3月23日、アギナルドが米軍に逮捕されると、革命軍の指導者の投降も相次ぎ、タフトの支援する連邦党も革命勢力の武装解除に協力して治安状況は急速に改善。1901年7月4日にはタフトを総督とする植民地統治が開始され、翌1902年7月4日、フィリピン平定作戦の終了が宣言され、米領フィリピンが確定します。 さて、『世界の切手コレクション』12月12日号の「世界の国々」では、米西戦争から米比戦争までの流れをまとめた長文コラムのほか、マニラ大聖堂、マヨン山、ホセ・リサールの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のフィリピン(と一部カンボジア)、12月12日発売の同19日号でのハンガリー、19日発売の26日号でのキューバの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。 ★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 3刷出来!★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) |
2018-06-06 Wed 01:43
ジョン・F・ケネディ元米大統領の弟、ロバート・ケネディ上院議員(当時)が、1968年の米大統領選の民主党候補指名選のキャンペーン中の6月5日、ロサンゼルスで狙撃され、翌6日に亡くなってから、きょうでちょうど50周年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年、フィリピン名義の“国際人権年”の切手として企画されたものの、結果的に日の目を見ずに終わった“ケネディ・モスデン切手”の1枚で、ジョンとロバートのケネディ兄弟の肖像が取り上げられています。 1968年4月、フィリピンの公共事業・運輸・通信長官のアントニオ・ラクィザは、高速道路建設のための資金援助を受けるべく、渡米して米政府と交渉を行っていましたが、その過程で、ニューヨークで切手商のエッゼ・モスデンを紹介されます。モスデンは、ラクィザに対して、外貨獲得のために世界の収集家をターゲットとした“輸出用”の切手を制作・発行することを提案。その費用を彼が負担する代わりに、切手の製造と販売権を独占できないかとラクィザに持ちかけました。 モスデンは、切手の輸出によりフィリピン政府は年間2‐300万ドルの収入が得られるとの見通しを示したため、ラクィザはこの提案に大いに興味を抱き、個人的にこの提案を受け入れ、モスデンがベン・ダンビーと共同経営していたパルコ・インターナショナル社とフィリピン切手の制作・販売についての契約を結びました。その内容は、フィリピン政府はパルコ・インターナショナルを、今後5年間にわたり、フィリピン切手の印刷、プロモーション、フィリピン国外での切手の販売を独占的に扱う代理店とするというもので、パルコ・インターナショナルがフィリピン切手の販売によって得られる手数料は売り上げの20%とされていました。なお、契約の日時については、資料によって、1968年6月24日、同26日、8月19日と諸説がありますが、いずれにせよ、ラクィザの米国滞在中に署名が行われたとみられています。 ところが、ラクィザが帰国すると、当時の郵便長官、エンリコ・パロマーがパルコ・インターナショナルとの契約に対して、以下の理由を挙げて強硬に反対します。すなわち、 1)フィリピン切手の製造・販売に関する契約は、いかなるものであっても、公共事業・運輸・通信長官ではなく、郵便長官が署名しない限り無効である 2)フィリピン切手の製造・販売業者の選定は、公開入札によらなければならない 3)フィリピン切手のデザインは、フィリピン郵政の切手・郵趣課が制作するか、または妥当なものであると承認したもののみを、正規の手続きを経て印刷しなければならない 上記の理由から、フィリピン郵政はラクィザがパルコ・インターナショナルと結んだ契約は無効であるとして、これを拒絶しました。 一方、そうしたフィリピン側の事情を知らないモスデンは、早々とフィリピン切手の製造・販売を請け負う会社として“フィリピン郵趣代理部( Philippine Philatelic Agency Inc:PPA)を設立し、同年のメキシコ五輪および“世界人権年”の記念切手の制作を開始しました。 このうち、世界人権年の記念切手は、“公民権と人権のために戦った闘士”として、世界的に人気のあるケネディ元大統領とその家族が題材として選ばれました。これがいわゆる“ケネディ・モスデン切手”で、今回ご紹介のモノを含む5種セットと小型シートで構成されています。 その後、モスデンのPPAは、最初の切手として、10月12日にメキシコ五輪の記念切手を発売しようとしましたが、フィリピン郵政はあくまでも、①ラクィザが結んだ契約はフィリピン郵政の承認を得た正式のものではない、②フィリピン郵政が件の切手の製造に関与していない、③件の切手の印刷枚数について、フィリピン郵政は何も知らされていない、ことを理由にPAAの切手を頑として認めず、最終的に、“ケネディ・モスデン切手”は正規の切手として発行されることのないまま終わりました。 その後、モスデンらは、これらの“切手”を“不発行切手”として収集家向けに販売することでコストの一部を回収しましたが、実際には、上記のような経緯から、“切手もどき”というのが実態に近いと思います。 なお、ロバート・ケネディの生涯については、拙著『大統領になりそこなった男たち』で詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 近刊予告! ★★★ えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が7月刊行予定です! 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。 (画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) なお、当初、『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-12-12 Tue 11:49
フィリピンの首都マニラ市内に「日本軍占領時代(1942-45年)の“慰安婦”を象徴する」とされるフィリピン人女性の像が設置されていたことがきのう(11日)までに分かったとして、在フィリピン日本大使館がフィリピン政府へ抗議したそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1967年4月9日にフィリピンで発行された“バタアンの戦い25周年”の記念切手で、戦死者を前に悲しむ女性が描かれています。今回問題となった“女性像”(右の画像)と似たようなスタイルということで、取り上げてみました。 1941年12月8日の日米開戦とともに、日本軍は米国の保護領であったフィリピンへの攻撃を開始します。 アメリカは、日露戦争時より、フィリピンを防衛するため、日本を仮想敵国とするオレンジ戦略案を策定していましたが、現実には日米開戦時には米比軍(開戦直前、フィリピン軍は米極東軍に統合されました)の戦争準備は完了していませんでした。このため、米比軍の司令官であったダグラス・マッカーサーは、マニラの非武装都市を宣言してバタアン半島方面に撤退。日本軍は1942年1月2日、マニラに無血入城しました。 その後、3月17日にマッカーサーはフィリピンを脱出し、“アイ・シャル・リターン”と語ってオーストラリアで再起を期していましたが、バタアン半島では、米比軍がジャングルの地形を利用して日本軍に激しく抵抗していました。そして、5月6日、ついに日本軍は半島全域を占領。バタアン・コレヒドールでの勝利は、真珠湾攻撃やシンガポール攻略と並び、日本軍の輝かしい戦果の代表的な事例として、大々的に宣伝されました。 一方、バタアン半島で捕虜となった米比軍8万人は、バターン半島からサンフェルナンドまで約60キロの距離を徒歩で行軍させられましたが、この間、炎熱や疲労、食糧や衣料品の不足などから、1200人の米兵と1万6000人のフィリピン兵、さらに民間人抑留者が亡くなっています。この移送は“バターン死の行進”と呼ばれ、日本軍の残虐行為を示すものとして、いわゆる南京事件などと共に連合国側によって大きく報じられました。 ただし、いわゆる“死の行進”の実態は、日本軍が積極的に捕虜を虐待したというよりも、食糧・医薬品の不足と無理な行軍スケジュールのゆえに、結果として、多くの犠牲者が生じたと理解すべきものでしょう。もちろん、捕虜の管理者として、多大な犠牲者を出した日本側の責任は免れるものではありませんが、基本的には、重過失という性格のものと考えるのが妥当と思われます。しかし、米国にとっては、敵国日本に対する国民の敵愾心を煽り立てるためにも、“死の行進”は日本軍の残虐性を示す格好の素材として活用されることになりました。 さて、今回、問題となった女性像は、マニラ市のマニラ湾に面したロハス通り沿いのベイウォークと呼ばれる遊歩道上にあり、高さは約2メートル。政府機関“フィリピン国家歴史委員会(学者らで構成され、歴史的建造物への碑文設置などを行う)”が、現地の民間団体などの支援を得て建立されました。8日に行われた除幕式では、エストラーダ市長の代理人が「私たちは慰安婦の苦境を忘れない」との声明を読んだそうです。 もっとも、この像の台座に刻まれているタガログ語の碑文には「1942年から1945年の日本の占領下で虐待の被害にあったすべてのフィリピン人女性の記憶」と記載されているものの、いわゆる“慰安婦”については一言も触れていません。先の大戦で、フィリピンが戦場となり多くの犠牲者・被害者が生じたことや、日本軍の占領下で過酷な生活を強いられたフィリピン人が多数いたことはまぎれもない事実ですから、その中に“慰安婦”を含めるか否かとは別の次元で、そうしたより広い意味での戦争犠牲者の女性を対象とした像を、単純に“慰安婦像”と断定してしまうのは無理があります。 もちろん、この像の建立に際しては、“フィリピン人慰安婦”の支援団体や中華系財団などが少なからぬ資金を拠出しており、彼らは、“慰安婦問題”で日本を非難するためにこの像を活用しようと考えているのでしょうが、上述のように、それはこの像の本来の趣旨とは一致しません。むしろ、そうした連中のプロパガンダに脊髄反射して、十分な調査もせずに、“慰安婦像”に対して抗議したりすると、かえって、フィリピン政府を当惑させ(なにせ、碑文の通りであれば、フィリピン政府はこの像を“慰安婦像”とは認識していないのですから)、日比間の関係を悪化させようとの悪意を持った連中の術策にはまってしまうのではないかと、僕などはそちらの方に不安を感じます。 なお、第二次大戦中のフィリピンについては、拙著『大統領になりそこなった男たち』のマッカーサーの章でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は14日!★★ 12月14日(木)16:05~ NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、先日のトランプ大統領によるエルサレムの首都認定にちなんで、エルサレムのお話をします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 当初予定していた第二次大戦中のノルウェーについてのお話から内容が変更になりました。あしからずご了承ください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-06-23 Fri 11:49
5月23日、フィリピン・ミンダナオ島中部のマラウィ周辺で国軍とイスラム過激派との戦闘(マラウィ危機)が始まってから、きょう(23日)で1ヵ月となりました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1980年3月28日にフィリピンが発行した“イスラム伝来600年”の記念切手です。 現在のフィリピン国家の領域にイスラムが伝来したのは、1380年 スールー諸島西端のタウィタウィ島にアラブのムスリムが到来したのが最初とされており(今回ご紹介の切手はここから起算して600年になるのを記念して発行されたものです)、これを機に先住民のイスラムへの改宗が進みました。 1457年、イスラム王朝のスールー王国が成立。同王朝は、最盛期には、ミンダナオ島西部(サンボアンガ半島)からボルネオ島北部(現マレーシア・サバ州)、パラワン島までその支配は及んでおり、彼らの支配地域にはイスラムが定着しました。 16世紀後半以降、現在のフィリピンの島々のうち、ミンダナオ島以外はスペインが征服しましたが、ミンダナオ島西部は19世紀後半までスペインの統制が及ばず、ムスリムのスルターン(地方君主)が実効支配する時代が長く続きます。そして、1878年にはスペイン=スールー王国条約が結ばれ、スールー王国はスペインの主権を認めることになりましたが、スペイン軍の駐屯地やサンボアンガやコタバトなどの都市部以外は、従来通り、スルターンの統治が維持されています。 1898年の米西戦争の結果、スペインはミンダナオ島を含むフィリピンを放棄。その後、米国の支配に抵抗する米比戦争の時期には、ミンダナオ島のムスリムも武装蜂起しましたが、1910年代に米軍により制圧されました。以後、米支配下で、ミンダナオ島にもルソン島などからキリスト教徒の入植が進み、ミンダナオ島でもムスリムは少数派に転落していきます。 1946年、フィリピン共和国が独立すると、フィリピン政府は新国家建設に際して、国民統合の象徴としてカトリックを強調しますが、ミンダナオ島を中心に、ムスリムはこれを“同化政策”として不満を募らせました。さらに、1965年に発足したマルコス政権がミンダナオ島へのキリスト教徒の移民を“奨励”したことへの反発から、1970年、フィリピンからの分離独立を求めるモロ民族解放戦線(MNLF)が結成され、フィリピン国軍との間の武力衝突が発生しました。ちなみに、“モロ”とは、フィリピンのスールー諸島・パラワン島・ミンダナオ島などの島に分布するムスリムの総称です。 1976年、マルコス政権とMNLFとの間で、ミンダナオやスールー諸島の14州の自治を約束するトリボリ協定が締結されますが、この和平協定への対応を巡り、1977年、MNLFはミスアリ派(MNLF議長のヌル・ミスアリ率いる穏健派)とサラマト派(サラマト・ハシムを中心とする強硬派)等に分裂。さらに、1981年には、サラマト派が正式にMNLFを脱退し、モロ・イスラム解放戦線(MILF)を組織します。そして、反米の立場からリビアがMILFを支援するという構図が生まれました。 1986年のピープル・パワー革命でマルコス政権が崩壊し、コラソン・アキノ政権が発足。アキノ政権は、ムスリムの自治を盛り込んだ新憲法を制定するなど宥和政策を推進し、1989年に成立した「自治基本法」では、ミンダナオでムスリム自治区の設立が決定されます。 これを受けて、ミンダナオ島西部・南部一帯の州と市で“ムスリム・ミンダナオ自治地域(ARMM)”への加入の是非を問う住民投票が13州9市で行われ、賛成多数となったラナオ・デル・スル州、マギンダナオ州、スールー州、タウィタウィ州の4州で、1990年、ARMM(首府はコタバト)が発足しました。なお、ARMMには、2001年にマラウィ市とバシラン州(ただし、イサベラ市を除く)が追加加入しています。 ARMMの発足に対して、MNLFは“不完全な自治”に反発し、武装闘争の継続を宣言しましたが、1993年、イスラム諸国会議機構の仲介でラモス政権とMNLFの間で暫定的な停戦合意が成立。和平交渉の末、1996年、ミンダナオ南部などの14州での暫定的な行政機関“南フィリピン和平開発評議会(SPCPD)”の設立やMNLF兵士の国軍統合、ミスアリをARMM知事選の与党候補とすること、教育制度や宗教に関する取り決めなどが合意されました。これに対して、あくまでもARMMへの参加を拒否する勢力はMNLFを脱し、MILFやアブ・サヤフに合流して、武装闘争を継続します。 このうち、アブ・サヤフは、1991年、フィリピン人ムスリムでシリア、サウジに留学経験があり、アフガニスタンのムジャーヒディーン闘争に参加経験のあるアブドラガク・ジャンジャラーニがMNLFから分離して設立した組織で、組織名は、アフガニスタン・ムジャーヒディーン・イスラム同盟議長のアブドゥル・ラスル・サイヤフに由来しています。設立の目的は、ミンダナオ島周辺のイスラム社会をキリスト教徒中心のフィリピンから独立させることで、設立資金はウサーマ・ビン・ラーディンから渡され、アル・カーイダのラムジ・ユセフなどから軍事援助を受けていたとされています。 その後、1997年には、MILFとフィリピン政府の間で和平協定が成立しますが、2000年、エストラーダ大統領がこれを破棄したことで、MILFはフィリピン政府に対する“ジハード”を宣言。マニラを含むフィリピン各地でテロが頻発し、急速な治安悪化の責任をとって、2001年1月、エストラーダ政権は退陣に追い込まれました。 エストラーダ政権の後を継いで発足したアロヨ政権は、2001年9月の米国同時多発テロ後の国際的な反テロ気運を活用し、アブ・サヤフらイスラム系過激派のテロに対して、米軍を巻き込んでミンダナオ島などで掃討作戦を展開。これにより、アブ・サヤフは壊滅的な打撃を受けましたが、その後も、MILFの実効支配地域で、ジェマー・イスラミア(JI)メンバーから軍事訓練を受ける一方、暴力的イスラム改宗者組織“ラジャ・ソレイマン・イスラム運動(RSIM)”及びMILF強硬派と連携。2004年には、マニラ湾コレヒドール島近海で旅客船スーパーフェリー14を爆破し、死者・行方不明者116名という、フィリピン史上最悪のテロ事件を引き起こしました。 ただし、MILF主流派は、2003年に創設者のサラマト・ハシムが亡くなってから徐々に穏健化。2012年10月には、フィリピン政府とミンダナオ和平に関する「枠組み合意」に署名し、2014年3月には包括和平協定に調印しましたが、和平に反対のアブ・サヤフ、バンサモロ・イスラム自由戦士(BIFF。MILF強硬派司令官アメリル・ウンブラ・カトが2010年、MILFを脱退して設立)、マウテ(2012年、アブドゥッラーとオマルのマウテ兄弟が“ダウラ・イスラミヤ”として設立)などは2014年頃からダーイシュの影響下に入ることで勢力を維持・拡大。ここに、2010年にインドネシア政府の掃討攻撃を受けて大きな打撃を受けたインドネシアのジェマー・イスラミア(JI。1993年、元アフガン義勇兵を中心に結成)の残党の一部がミンダナオに流入、合流しているとの報告もあります。 こうした中で、2017年5月23日、アブ・サヤフ幹部のイスニロン・ハピロンがマラウィに潜伏しているとの情報を得たフィリピン国軍が、アジトへの奇襲攻撃を敢行するも失敗。これを機に、フィリピン国軍とアブ・サヤフ、地元テロ組織のマウテとの間で戦闘に発展し、ドゥテルテ大統領がミンダナオ島に戒厳令発令して、いわゆるマラウィ危機が発生しました。 ミンダナオ島での戦闘は、ほぼマラウイ周辺に限定されているものの、軍によると死者は市民26人を含め360人、避難民も30万人にのぼっています。また、フィリピン空軍がマラウィ市内の一部に空爆を行うと、アブ・サヤフとマウテは市民を“人間の楯”にして抵抗しているだけでなく、彼らの実効支配地域では、極端な原理主義的政策による人権侵害も横行しています。 フィリピン政府は米軍の支援も受けて鎮圧に躍起になっていますが、マラウィ周辺の内戦地域には、各地のテロ組織から“兵士”が流入していることもあって、事態の長期化に対して懸念が高まっています。 なお、このあたりの事情については、22日配信の「チャンネルくらら」でもまとめてみましたので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は29日!★★★ 6月29日(木)16:05~ NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第5回目が放送予定です。今回は、7月1日の香港“返還”20周年を前に、香港にスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2016-12-30 Fri 17:06
フィリピン独立運動の志士、ホセ・リサールが1896年12月30日に処刑されてから、きょうでちょうど120年です。というわけで、ただ単にリサールの肖像切手を持ってきても芸がないので、ちょっとひねってこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1943年10月1日、日本占領下でフィリピン第2共和国が独立したことを記念して、同月14日に発行された独立記念切手の小型シートです。小型シートは3種の記念切手を収めていますが、切手の下に、リサールの辞世の詩として有名な「わが最後の別れ(MI ULTIMO ADIOS)」の手稿の一節(右側にその部分を拡大した画像を貼っておきます)が印刷されているのがミソです。 リサールは、1861年6月19日、スペイン領時代のルソン島カランバで生まれました。幼少時から神童の誉れ高く、1877年、16歳にしてマニラのアテネオ学院(現アテネオ・デ・マニラ大学)に入学して農学を学び、さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、サント・トマス大学で医学を学びました。また、在学中の1879年にはスペイン語の詩のコンテストで最優秀賞を獲得しています。 1881年にアテネオ・デ・マニラ専門学校を卒業、翌1882年にサント・トマス大学医学部を修了した後、宗主国スペインの国立マドリード大学医学部および哲文学部の両学部に入学。1885年、マドリード大学の哲文学博士と医学士の号を取得した後、フランス、ドイツの各大学でも学び、ドイツ滞在中の1887年、ベルリンで小説『ノリ・メ・タンヘレ(私に触れるな)』を出版し、同年8月、フィリピンに帰国しました。 帰国後のリサールは、故郷のカランバで医者として働いていましたが、ドイツで出版した『ノリ・メ・タンヘレ』がスペイン修道会の怒りを買い、再び“留学”の名目で日本、米国経由でヨーロッパに逃れました。 1891年には帰国しようとしたものの、スペイン当局は彼の帰国を認めなかったため、香港で眼科医を開業したものの、望郷の念発ちがたく、1892年6月に帰国。帰国後は、スペインの統治を認めたうえで、穏健な改革を求める“フィリピン同盟”を結成しましたが、これを危険視したスペイン当局は彼を逮捕し、ミンダナオ島のダピタンへ流刑としました。 1896年7月、刑期の満了後、彼は軍医としてスペイン海軍の巡洋艦「カスティリア号」に乗り込み、スペイン領キューバへ向かいましたが、船が地中海に入ったところで、フィリピンで“1896年革命”が勃発したことから、革命への関与を疑われて逮捕され、マニラへ移送の後、同年12月26日、軍法会議で銃殺刑の判決を受け、30日に処刑されました。享年35歳。その死は多くの人々に衝撃を与え、1898年に成立したフィリピン第1共和国大統領のエミリオ・アギナルドは、リサールが処刑された12月30日を“リサールの日”に指定。現在でも、この日はフィリピンの祭日となっています。 処刑前日の1896年12月29日、獄中のリサールの元へ、彼の母親と2人の妹、2人の甥が面会に訪れ、アルコールストーブを託されます。そのストーブの中には、2枚の紙に無記名・無題、日付のない詩が書かれたメモが入っていました。この詩は、リサール処刑後の1897年、「わが最後の別れ」との題名とをつけて香港で発表され、国際的に広く知られるようになりました。 「わが最後の別れ」は、「さようなら、愛する祖国、懐かしい太陽の地よ(Adiós, Patria adorada, región del sol querida)」の一節で始まる長編詩で、小型シートには、詩の第4連部分のリサールの手稿が取り上げられています。 Mis sueños cuando apenas muchacho adolescente, Mis sueños cuando joven ya lleno de vigor, Fueron el verte un día, joya del Mar de oriente, Secos los negros ojos, alta la tersa frente, Sin ceño, sin arrugas, sin manchas de rubor. ちなみに、「わが最後の別れ」の日本語訳としては、リサールの生誕100周年にあたる1961年、加瀬正治郎が「ホセ・リサール/一八九六」の邦題で発表したものが有名で、小型シートに引用されている部分は、加瀬訳だと以下のようになっています。 私は夢みた はじめて生命のひらかれたとき 私は夢みた 若き日の希望に胸の高鳴ったとき おお 東の海の宝石よ きみの晴れやかな顔をみる日を 憂愁と悲しみよりとき放たれて きみの顔にかげはなく きみの眼に涙のない日を ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-11-08 Tue 21:34
1986年のピープル・パワー革命で亡命し、ハワイで客死したフィリピンの独裁者、フェルディナンド・エドラリン・マルコス元大統領の遺体について、フィリピン最高裁は、きょう(8日)、マニラ首都圏の“ボニファシオ・シティー”にあるリビンガン・ナン・マガ・バヤニ(通称・国立英雄墓地)への埋葬を認める決定を出しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦直後の1946年3月19日、マニラ近郊のフォート・ウィリアム・マッキンリー米軍基地内の第925野戦局から差し出された軍事郵便のカバーです。今回、マルコスの遺体が埋葬されることになった国立英雄墓地は、もともとは、同基地の敷地の一部でしたので、関連のマテリアルということで持ってきた次第です。 フォート・ウィリアム・マッキンリー米軍基地は、米比戦争中の1901年、マニラ首都圏を流れるパシッグ川の南岸に開設されました。日米開戦を前に、軍事的緊張が高まるなかで、1941年7月26日、アメリカ極東陸軍が創設されると、その司令部が設置された基地でもあります。 第二次大戦後の1946年7月4日、フィリピンが独立したことを受けて、1949年5月14日、フォート・ウィリアム・マッキンリー米軍基地はフィリピン政府に返還され、フィリピン陸軍の本部が置かれることになります。また、それにあわせて、基地の名前も、フォート・ウィリアム・マッキンリーから、19世紀末の独立革命の英雄、アンドレス・ボニファシオにちなんで、フォート・ボニファシオをと改称されました。 英雄墓地は、フィリピン独立直線の1947年5月に設置され、独立後の1948年6月、フィリピン政府の管轄となりました。敷地面積は142ヘクタールで、もともとは、第二次大戦のフィリピン戦線での戦没者を埋葬するための施設で、各地で収集された無名兵士の遺骨が全体の8割を占め、それらは、バターンやタルラック、マニラ市内のフォート・サンチャゴなど地域ごとに整理され、埋葬されています。また、朝鮮戦争やヴェトナム戦争で亡くなったフィリピン人将兵の遺骨や、国内の共産ゲリラ(NPA)や分離独立を求めるイスラム勢力との戦闘で亡くなった将兵たちの遺骨も埋葬されています。 さて、マルコスは、日本軍のフィリピン侵攻時、米比軍第21歩兵師団の戦闘情報局員として中尉の階級で従軍し、「18歳だった3人の新兵と共に、後方の日本軍前線を突破し敵兵の50人を殺害、同師団を釘付けにしていた日本軍の迫撃砲を破壊し、さらに日本軍の捕虜となった際、拷問をかけられながらもこれに反撃し脱出した」と主張し、その結果、大尉に昇進しています。しかし、実際には、マルコス本人は“バターン死の行進”から脱出することに成功はしたことまでは確認されているものの、その後の“軍功”を裏付ける資料や客観的な証言はなく、米公文書館の記録によれば、彼の戦時中の“抗日活動”の実績はほとんどなかったことが明らかになっています。 それでも、マルコスは捏造した軍功により、自らを“抗日戦争の英雄”として人々に印象づけることに成功。そのことが、彼のその後の政治的な成功の出発点となったことは言うまでもありません。 現在でも、マルコスの“抗日神話”はフィリピン国内では根強く信じられており、1998年に発足したエストラーダ政権は、遺族の希望もあって、マルコスの遺体を“抗日の英雄”として英雄墓地に埋葬する意向を表明。以後、マルコスの政治的評価をめぐり、彼の遺体を“英雄”の名を冠した墓地に埋葬することの是非をめぐって、長年にわたり、論争が続いていました。 ことし5月に就任したドゥテルテ大統領は、もともとマルコス一族と親しかったこともあって、9月、北イロコス州に安置されていたマルコスの遺体を英雄墓地に埋葬する方針を表明。これに対して、“独裁政治の美化”と反発する声も強く、マルコス時代に人権侵害を受けた被害者らが差し止めを求め、最高裁に提訴していました。 今回の裁定で、マルコスの遺体は英雄墓地に埋葬されることになったわけですが、本当に日本軍と戦ったフィリピンの英霊たちが、新入りのマルコスを見て「あれ、見たことのない奴だな。どうしてここにいるんだ?」と不審に思い、安らかな眠りを妨げられたりはしないか、僕などはそちらの方が心配ですな。 ★★★ 講座のご案内 ★★★ 11月17日(木) 10:30-12:00 毎日文化センターにて、1日講座、ユダヤとアメリカをやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-08-15 Mon 17:56
リオデジャネイロ五輪10日目(現地時間14日)は、レスリング・グレコローマン男子59kg級で太田忍が銀、テニス・男子シングルスで錦織圭が銅のメダルを獲得しました。日本勢のメダルは、1920年のアントワープ五輪での熊谷一弥が男子シングルスで、熊谷と柏尾誠一郎組がダブルスでともに銀メダルを獲得して以来96年ぶりのことです。というわけで、 きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1934年に米領時代のフィリピンで発行された第10回極東選手権大会の記念切手で、テニスが描かれています。 極東選手権大会は、現在のアジア競技大会の前身で、1913年、“東洋オリンピック大会”の名の下にフィリピンで第1回の大会が開催されました。 以後、日本・中国・フィリピンの3ヶ国が持ち回りで主催者となり、1927年の第8回までは、2年ごとの開催でした。その後は、オリンピックの中間年に行われることになり、第9回大会は1930年に東京で開催され、この大会からインドが参加国に加わりました。ついで、1934年にマニラで開催された第10回大会からはオランダ領東インド(現インドネシア)も参加しましたが、いわゆる日中戦争(支那事変)の影響で、1938年に予定されていた第11回大会は中止とされます。ちなみに、1940年に開催が予定されていた東京五輪の返上が決定されたのも1938年のことでした。 以後、戦争の影響で中断されていたアジア諸国のスポーツ交流は、1948年、アジア競技連盟の結成により再開され、1951年3月、戦前の極東選手権大会に西アジア競技大会を統合するかたちで、第1回アジア競技大会がニューデリーで開催されました。このときの参加国は、アフガニスタン、ビルマ(現ミャンマー)、インド、フィリピン、セイロン、インドネシア、ネパール、タイ、シンガポール、イラン、日本の11ヶ国で、日本が優勝しています。 ちなみに、1929-32年に米国のフィリピン総督を務めたドワイト・フィリー・デイヴィスは、1899-1901年にかけてテニスの全米選手権の男子ダブルスで3連覇、1901年にウィンブルドン選手権で男子ダブルス準優勝を果たした名選手で、男子テニスの国別対抗戦・デヴィスカップを創設したことでも知られています。 後に、テニスを引退したデービスは、故郷のセントルイスで政治に関わるようになり、第一次大戦中は第69歩兵連隊の参謀長として従軍。フランスでの戦闘を評価されて、レジオンドヌール勲章を授与されました。大戦後は、ワシントンD.C.で戦時金融公社の取締役、陸軍次官補、陸軍長官を経て、フィリピン総督に就任しましたが、往年の名選手が総督として着任したことで、フィリピンでもテニスが本格的に行われるようになり、彼の退任後、今回ご紹介の切手が発行されることになりました。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『リオデジャネイロ歴史紀行』 好評発売中!★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました! ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-05-10 Tue 12:02
きのう(9日)、投開票が行われたフィリピン大統領選挙は、ミンダナオ島ダヴァオ市長を務めたロドリゴ・ドゥテルテ氏(以下、敬称略)の当選が確実となりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1966年5月1日にフィリピンで発行された“密輸防止キャンペーン”の加刷切手の初日カバーです。 切手は、前年(1965年)12月30日に発足したフェルディナンド・マルコス政権が、政権公約の一つであった治安改善のいkごみを示すモノとして、1964年に発行されたホセ・リサールの6センタヴォ切手に“Help Me Stop Smuggling Pres. Marcos (密輸防止のため私に協力してください 大統領マルコス)」の文言が加刷されています。また、カバーの封筒にはマルコスの肖像が印刷されているほか、“HELP MAKE THIS NATION GREAT AGAIN (この国をもう一度、偉大な国にするよう、協力してください)”との文言と正面を指さすマルコスの肖像のカシェが押されています。なんだか、顔や名前をドゥテルテに入れ替えれば、そのまま現在でも通用しそうな雰囲気ですな。 さて、今回、フィリピンの新大統領に当選したドゥテルテですが、1988-98年および2001-10年にダヴァオ市長を務め、治安政策に辣腕をふるったことで知られています。 ただし、その手法はかなり攻撃的で、「もし、君が私の町で違法行為を働いた場合、犯罪組織の一員とみなす。善良な市民の暮らしを脅かすならば私が市長である限り、その人物は報復(暗殺)の対象となるだろう」との本人の発言通り、ダバオ・デス・スクワッドと呼ばれる自警団を組織し、麻薬の密売人を中心とした“犯罪者”を私的に(正規の法手続きを経ずに)処刑しています。また、海賊やイスラム過激派組織のモロ・イスラム解放戦線に対しても容赦のない討伐作戦を展開。この結果、かつては治安が劣悪で“フィリピンの殺人都市”と呼ばれたダヴァオ市は、“東南アジアで最も平和な都市”と呼ばれるまでに激変しました。 当然のことながら、人権団体などはドゥテルテによる“人権侵害”を激しく非難していますが、一般市民の中には治安の劇的な改善という“業績”を高く評価する人が多いのも現実で、今月7日、投票日前の最後の選挙演説では「人権に関する法律は忘れてもらう」、「(犯罪者は)八つ裂きにしてやる」とドゥテルテが叫ぶと、30万人の支持者が大喝采するという光景が見られました。 なお、新大統領の就任式は6月30日だそうですが、まずは、「大統領に選ばれれば犯罪者10万人を処刑してマニラ湾に投げ捨てる」との選挙公約が本当に実行されるのか否か、注目したいところです。 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★ 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 2350円+税 【出版元より】 若く美しい女王の横顔に恋しよう! 世界最初の切手 欲しくないですか/知りたくないですか 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 2000円+税 【出版元より】 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2016-02-25 Thu 15:37
フィリピンでフェルディナンド・マルコス独裁政権が崩壊し、コラソン・アキノ(コリー)政権が成立した“ピープル・パワー革命”から、きょう(25日)で、ちょうど30年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、革命から1ヶ月後の1986年3月25日に発行された小型シートで、アキノ大統領、ラウレル副大統領の肖像と、革命の群集がデザインされています。 1965年に大統領に就任したマルコスは1972年9月21日に戒厳令を布告。従来の憲法を停止し、翌1973年には大統領職と首相職を兼任することを認める新憲法を制定するなど、次第に独裁傾向を強めていきました。こうした中で、野党政治家に対する弾圧も強化され、野党の有力政治家だったベニグノ・アキノ(ニノイ)は、政府転覆の陰謀と武器の不法所持、殺人などで逮捕され、1977年に死刑宣告を受けています。ただし、マルコス政権も、国民的な人気のあったニノイを実際に処刑することはできず、1980年、米国で手術を受けさせるとの名目で、彼を国外追放処分にしました。韓国の金大中を連想させるエピソードですな。 米国でも、ニノイはフィリピン民主化運動の闘士として反マルコス運動の先頭に立っていましたが、1983年8月21日、逮捕覚悟で帰国したところ、飛行機を降りた直後に暗殺されました。暗殺事件の容疑者としては、国軍参謀総長のファビアン・ベール大将らが容疑者として起訴されたものの、1985年には無罪判決が下ったことで、国民の反マルコス感情が爆発。反政府デモが頻発したことで社会情勢は不安定になり、海外からの闘士も激減してフィリピン経済は低迷することになります。 こうした状況の中で、国民の不満を解消し、あわせて国際社会からの非難をかわすため、マルコスは任期半ばの1986年初頭に大統領選挙を行うことを発表。この選挙には、マルコスの対抗馬として、野党候補としてコリーが立候補し、徹底的な反マルコス・キャンペーンを展開しました。 投票は2月7日に行われ、民間の選挙監視団体“自由選挙のための全国運動”や公式な投票立会人らが「アキノが約80万票差で勝利した」と発表したにもかかわらず、マルコスの影響下にあった中央選挙管理委員会の公式記録では「マルコスが160万票の差で勝利した」と発表。この露骨な開票操作に対しては、野党のみならず、カトリック教会や米国もマルコス政権を非難。多くの国民がこれに同調し、フィリピン国内各地ではコリーのシンボルカラーであった黄色のシャツを着た人々による反マルコスデモが沸き起こりました。 さらに、2月22日、エンリレ国防相やフィデル・ラモス参謀長ら軍首脳もマルコスから離反したことで、米国もマルコスを完全に見放しました。その後、同月25日、コリーが大統領就任宣誓を行い、マルコス夫妻は多くのマニラ市民に包囲されたマラカニアン宮殿から、米軍のヘリコプターで脱出し、マルコス政権は崩壊しました。 ちなみに、ピープル・パワー革命が起きた当時、僕は卒業間近の高校3年生でしたが、マルコスが失脚して、主不在となったマラカニアン宮殿から、イメルダ夫人の大量の靴が出てきたときの映像は未だに鮮明に記憶に残っています。 ★★★ 講座のご案内 ★★★ 3月8日(火)から、毎月第2火曜の19時より、東京・竹橋の毎日文化センターで新講座「宗教で読む国際ニュース」がスタートします。都心で平日夜のコースですので、ぜひ、お勤め帰りに遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 2350円+税 【出版元より】 若く美しい女王の横顔に恋しよう! 世界最初の切手 欲しくないですか/知りたくないですか 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。 ★★★ 内藤陽介の新刊 『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 2000円+税 【出版元より】 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
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