2023-08-09 Wed 06:59
西村康稔経済産業相は、きのう(8日)、訪問先のナミビアの首都ウィントフーク(ウィントフック、ヴィントフックとも)で、同国のエネルギー・金属鉱物資源機構(JOGMEC)およびナミビア鉱山・エネルギー省によるレアアース金属サプライチェーン調査研究関連の作業計画に署名しました。日本政府がレアアースの鉱床保有国と包括的な合意を結ぶのはこれが初めてです。というわけで、ウィントフーク関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第一次大戦中の1918年、南アフリカ軍占領下のウィントフークで使用された南アフリカ切手のオンピースです。押されている消印は、ドイツ時代のものから“DEUTSCH(ドイツ)”、“SUDWESTAFRIK(南西アフリカ)”等のドイツ語表記を削ったものが使われています。 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★ 新講座「龍の文化史」 8月9日配信開始! 武蔵野大学の新たなWeb講座「龍の文化史」が8月9日から配信開始になります。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。今回の講座では、日本の龍を皮切りに、中国、朝鮮、琉球、東南アジア、キリスト教世界など、世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。 8月11日(金) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。 8月13日(日) 21:55~ 拉致被害者全員奪還ツイキャス 8月13日(日)、拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。 ジョン・F・ケネディとその時代 毎月第4土曜日開催のよみうりカルチャー北千住での講座です。今から60年前の1963年11月に暗殺されたケネディ大統領とその時代について、様々な角度から解説をします。詳細はこちらをご覧ください。 よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。 武蔵野大学のWeb講座 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 ★ 『今日も世界は迷走中』 好評発売中!★ ウクライナ侵攻の裏で起きた、日本の運命を変える世界の出来事とは!内藤節炸裂。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2021-05-29 Sat 01:58
ドイツ政府は、きのう(28日)、20世紀初頭の独領南西アフリカ(現ナミビア)での“ヘレロ戦争”時の大量虐殺について、ナミビア政府に対して正式に謝罪し、11億ユーロ(約1500億円)の復興・開発支援金を拠出することを表明しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ヘレロ戦争中の1905年7月1日、独領南西アフリカのウィントフックから北方のオカハンジャを経て、ドイツのブランケンブルク宛に送られた軍事郵便です。裏面は先住民のオヴァンボ人の女性たちの風俗絵葉書で、こんな感じになっています。 現在のナミビア国家の領域には、1486年にポルトガル人が最初に来航しましたが、広大なナミブ砂漠が広がる過酷な環境ゆえ植民地の形成は遅れ、1793年になって、ようやく、当時、ケープ植民地を領有していたオランダがウォルビス湾の領有を宣言しました。その後、1795年、ウォルビス湾は英国が占領しましたが、内陸の開発はほとんど進みませんでした。 このため、19世紀初頭、コイコイ系民族のナマ人(複数形ナマクア人)が南アフリカからナミビアの地に流入しましたが、この時点では、ヘレロ人(バントゥー系)、ナマ人などアフリカ系諸民族と西洋人の間にはほとんど摩擦は生じませんでした。 一方、ナミビア内陸部に西洋人が本格的に訪れるようになったのは、1842年、ドイツ・ライン州のプロテスタント伝道会が布教活動を始めてからのことです。 1858年、伝道会はナミビア各地の首長との間で“ワハナス平和条約”を締結し、ナミビアでの布教活動を展開しましたが、先住民の反感と抵抗も根強かったため、1868年、プロイセン議会に保護を求めます。当初、この要請は相手にされませんでしたが、1870年代に入り、英国の南アフリカへの進出が本格的に始まるなかで、1883年、ブレーメンの商人、アドルフ・リューデリッツが、大西洋沿岸のアングラ・ペクアナ(後のリューデリッツ・ブッフト)を支配していたベタニア族の首長ヨーゼフ・フレデリクスから入江の周囲5マイルの土地を購入。その契約書にある“5マイル”は、英マイル換算の1600mではなく、独マイル換算の7500mでしたが、リューデリッツの使者はフレデリクスにこれを英マイル換算と誤解させ、ベタニア族の土地の大半を無理やり購入しました。 これを受けて、翌1884年4月24日、ドイツ帝国議会はリューデリッツの購入した土地を帝国の保護領とすることを決定。これが“ドイツ領南西アフリカ”の起源となります。 ドイツ領南西アフリカが成立すると、ドイツ本国からはドイツ植民地の中でも最大規模の1万3000人が大挙して入植。一方、ドイツ人の急激な流入に危機感を抱いたナマ族の首長ヘンドリック・ウィットブーイは英国に接近しましたが、英国の反応は冷淡で、ドイツ人の侵入を食い止めることはできなませんでした。 ドイツ人は金やダイヤモンド、銅などの鉱山と農地の開発に重点を置き、武力を背景に、鉄道用地や入植者の農園用地を半ば強制的に買い集めます。この結果、土地を失った先住民はドイツ人の下、劣悪な条件で酷使される労働者へと転落。さらに、1894年以降、ドイツ人は内陸の牧畜民であるヘレロ人の族の家畜に目をつけ、略奪を繰り返すようになりました。 こうした状況の中で、1904年1月、ヘレロ人首長のサミュエル・マハレロは、配下の7000人を率いて武装蜂起し、ドイツ人入植者の農場と教会を襲撃し、ドイツ人の男女合わせて126名を殺害します。 “反乱”鎮圧のため、ドイツ政府はフォン・トロータ将軍率いる1万5000のドイツ軍を派遣。8月のヴァーテルベルクの戦いでヘレロ軍主力を大破すると、その後も、攻撃を緩めることなく、1904年10月には全ヘレロ人の抹殺を宣言。砂漠地帯に追い込まれたヘレロ人の多くが餓死または井戸水による中毒死で命を落とし、1907年の反乱鎮圧までに、最終的なヘレロ人の死者は総人口の80%に相当する6万人にものぼりました。 また、1905年10月にはナマ人がヘレロ人と同盟を結んで蜂起しましたが、こちらも鎮圧され、全人口の半数に相当する1万人が犠牲となっています。 一連の“ヘレロ戦争”の先住民側の死者は膨大なもので、それゆえ、後に20世紀最初のジェノサイドとして歴史に記録されることになりました。 さて、第一次大戦後、ドイツ領南西アフリカは南アフリカの委任統治領となり、第二次大戦後は南アの不法占拠状態が続いていましたが、1990年に独立します。 独立後の2004年、ナミビア政府は、ヘレロ人の大虐殺が行われたヴァーテルベルクの戦いの記念日から100周年にあたる8月11日、首都ウィントフックで記念式典を開催。これにあわせて、ドイツ政府は、経済協力・開発大臣ハイデマリー・ヴィーチョレック=ツォイルを式典に派遣し、全ドイツ人を代表して“追悼と謝罪”の意を表明します。これに対して、ヘレロ人は財政的賠償を要求し、ヘレロ・ジェノサイド財団議長のエスター・ムインジャンゲはヘレロ虐殺はホロコーストの源流として、ドイツ連邦議会での決議のような“公式な謝罪”を求めました。 これを受けて、2015年、ナミビア政府はゼデキア・ヌガビルエ特使を派遣し、ドイツからの正式な謝罪と開発援助を結び付けた合意への交渉を開始しましたが、昨年(2020年)8月の時点で、ナミビアのハーゲ・ガインゴブ大統領は、ドイツ側が“補償”という語句を認めず、“傷を癒すもの”と表現していることを問題視し、「補償に関するドイツによる現状の提案は、決着がついていない問題のままであり、ナミビア政府にとって受け入れられない内容だ」と反発。ヌガビルエ特使に「提案の見直しに向けて交渉を続ける」よう指示していました。 一方、ドイツ側は、植民地政府の下で残虐行為が起きたことについては認めており、ジェノサイドだったとの認識を示す当局者もいるものの、すでに、巨額の開発援助金をナミビア政府に支払ってきたとして、直接的な補償の支払いについては拒否してきました。 これに対して、きのう(28日)、マース外相は、「われわれは今後これらの出来事を、現代の見方に基づき“ジェノサイド”と公式に呼ぶ」ととしたうえで、「(ヘテロ戦争時の“ジェノサイド”について)ドイツの歴史的、倫理的責任を踏まえ、ナミビアと犠牲者の子孫に許しを請う」との声明を発表。「犠牲者らが被った計り知れない苦しみを認識する証し」として、今後30年間にわたり、11億ユーロ規模の経済援助事業(主にへレロ人、ナマ人犠牲者の子孫の支援への充当が義務付けられています)を通じてナミビアの“復興と発展”を支援することを明らかにしました。 今回の支援金について、ドイツ政府は「法的な賠償請求権は発生しない」ことを強調していますが、今後、ドイツに対して戦争被害の賠償を請求する動きを見せているポーランドやギリシャなどの動きが勢いづくことは必至とみられています。 ★ 武蔵野大学の生涯学習講座は開講が再延期となりました ★ 6月5日開講の予定だった下記の講座は、新型コロナウイルス対応の特別措置法に基づく緊急事態宣言の再延長に伴い、開講日(対面授業の初回の日)が7月3日に再延期になりました。詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、今しばらくお待ちください。なお、対面授業の時間割は、土曜日の同じ時間帯で変更はありません。 13:00~14:30 「日本の郵便150年の歴史 その1 ―“大日本帝国”時代の郵便事情―」 15:15~16:45 「東京五輪と切手ブームの時代 ―戦後昭和社会史の一断面―」 対面授業、オンラインのライブ配信、タイム・フリーのウェブ配信の3通りの形式での受講が可能です。お申し込みを含め、詳細については、こちらをクリックしてご覧ください。(現在は旧日程が掲載されておりますので、ご注意ください) ご不便をおかけしますが、よろしくお願いします。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 5月31日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 6月2日(水) 20:30~ KAZUYAチャンネルGX KAZUYAチャンネルGXに、新作『誰もが知りたいQアノンの正体』の著者として内藤がゲスト出演します。皆様、よろしくお願いします。 ★ 『誰もが知りたいQアノンの正体』 好評発売中! ★ 1650円(本体1500円+税) 出版社からのコメント なぜQアノンにみんなハマったのか? ネットならではの引き寄せ構造と、現代格差社会の生んだ分かりやすい解釈。 これは米国だけじゃない! 人はみんなQを求めている!? (笑) ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-08-13 Thu 05:07
アフリカ南部、ナミビアのハーゲ・ガインゴブ大統領は、11日(現地時間)、20世紀初頭のドイツ植民地時代の“ヘレロ戦争”時の大量虐殺について、ドイツ側が提案した補償の内容が「受け入れられるものではない」として“見直し”が必要だとの見解を示しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2004年にナミビアが発行した“反植民地抵抗戦争(ヘレロ戦争のナミビアでの呼称)100周年”の記念切手です。 現在のナミビア国家の領域には、1486年にポルトガル人が最初に来航しましたが、広大なナミブ砂漠が広がる過酷な環境ゆえ植民地の形成は遅れ、1793年になって、ようやく、当時、ケープ植民地を領有していたオランダがウォルビス湾の領有を宣言しました。その後、1795年、ウォルビス湾は英国が占領しましたが、内陸の開発はほとんど進みませんでした。 このため、19世紀初頭、コイコイ系民族のナマ人(複数形ナマクア人)が南アフリカからナミビアの地に流入しましたが、この時点では、ヘレロ人(バントゥー系)、ナマ人などアフリカ系諸民族と西洋人の間にはほとんど摩擦は生じませんでした。 一方、ナミビア内陸部に西洋人が本格的に訪れるようになったのは、1842年、ドイツ・ライン州のプロテスタント伝道会が布教活動を始めてからのことです。 1858年、伝道会はナミビア各地の首長との間で“ワハナス平和条約”を締結し、ナミビアでの布教活動を展開しましたが、先住民の反感と抵抗も根強かったため、1868年、プロイセン議会に保護を求めます。当初、この要請は相手にされませんでしたが、1870年代に入り、英国の南アフリカへの進出が本格的に始まるなかで、1883年、ブレーメンの商人、アドルフ・リューデリッツが、大西洋沿岸のアングラ・ペクアナ(後のリューデリッツ・ブッフト)を支配していたベタニア族の首長ヨーゼフ・フレデリクスから入江の周囲5マイルの土地を購入。その契約書にある“5マイル”は、英マイル換算の1600mではなく、独マイル換算の7500mでしたが、リューデリッツの使者はフレデリクスにこれを英マイル換算と誤解させ、ベタニア族の土地の大半を無理やり購入しました。 これを受けて、翌1884年4月24日、ドイツ帝国議会はリューデリッツの購入した土地を帝国の保護領とすることを決定。これが“ドイツ領南西アフリカ”の起源となります。 ドイツ領南西アフリカが成立すると、ドイツ本国からはドイツ植民地の中でも最大規模の1万3000人が大挙して入植。一方、ドイツ人の急激な流入に危機感を抱いたナマ族の首長ヘンドリック・ウィットブーイは英国に接近しましたが、英国の反応は冷淡で、ドイツ人の侵入を食い止めることはできなませんでした。 ドイツ人は金やダイヤモンド、銅などの鉱山と農地の開発に重点を置き、武力を背景に、鉄道用地や入植者の農園用地を半ば強制的に買い集めます。この結果、土地を失った先住民はドイツ人の下、劣悪な条件で酷使される労働者へと転落。さらに、1894年以降、ドイツ人は内陸の牧畜民であるヘレロ人の族の家畜に目をつけ、略奪を繰り返すようになりました。 こうした状況の中で、1904年1月、ヘレロ人首長のサミュエル・マハレロは、配下の7000人を率いて武装蜂起し、ドイツ人入植者の農場と教会を襲撃し、ドイツ人の男女合わせて126名を殺害します。 “反乱”鎮圧のため、ドイツ政府はフォン・トロータ将軍率いる1万5000のドイツ軍を派遣。8月のヴァーテルベルクの戦いでヘレロ軍主力を大破すると、その後も、攻撃を緩めることなく、1904年10月には全ヘレロ人の抹殺を宣言。砂漠地帯に追い込まれたヘレロ人の多くが餓死または井戸水による中毒死で命を落とし、1907年の反乱鎮圧までに、最終的なヘレロ人の死者は総人口の80%に相当する6万人にものぼりました。 また、1905年10月にはナマ人がヘレロ人と同盟を結んで蜂起しましたが、こちらも鎮圧され、全人口の半数に相当する1万人が犠牲となっています。 一連の“ヘレロ戦争”の先住民側の死者は膨大なもので、それゆえ、後に20世紀最初のジェノサイドとして歴史に記録されることになりました。 さて、第一次大戦後、ドイツ領南西アフリカは南アフリカの委任統治領となり、第二次大戦後は南アの不法占拠状態が続いていましたが、1990年に独立します。 独立後の2004年、ナミビア政府は、ヘレロ人の大虐殺が行われたヴァーテルベルクの戦いの記念日から100周年にあたる8月11日、首都ウィントフックで記念式典を開催。これに合わせて、今回ご紹介の記念切手も発行されました。 ドイツ政府は、経済協力・開発大臣ハイデマリー・ヴィーチョレック=ツォイルを式典に派遣し、全ドイツ人を代表して“追悼と謝罪”の意を表明。これに対して、ヘレロ人は財政的賠償を要求し、ヘレロ・ジェノサイド財団議長のエスター・ムインジャンゲはヘレロ虐殺はホロコーストの源流として、ドイツ連邦議会での決議のような“公式な謝罪”を求めました。 これを受けて、2015年、ナミビア政府はドイツからの正式な謝罪と開発援助を結び付けた合意への交渉を開始。今回の大統領発言は、その最終段階を控えて、ゼデキア・ヌガビルエ特使からの状況報告を受けてのもので、大統領は、ドイツが“補償”という語句を認めず、“傷を癒すもの”と表現していることを問題視し、「補償に関するドイツによる現状の提案は、決着がついていない問題のままであり、ナミビア政府にとって受け入れられない内容だ」として、ヌガビルエ氏特使に「提案の見直しに向けて交渉を続ける」よう指示しました。 一方、ドイツ側は、植民地政府の下で残虐行為が起きたことについては認めており、ジェノサイドだったとの認識を示す当局者もいるものの、すでに、巨額の開発援助金をナミビア政府に支払ってきたとして、直接補償の支払いを繰り返し拒否しています。 なんか、アジアでも似たような話があったような気が…。 ★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★ 本体1500円+税 出版社からのコメント 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる! 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! ! 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-03-21 Sat 00:17
南部アフリカのナミビアが1990年3月21日に独立してから、ちょうど30周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1990年3月21日、ナミビアが独立時に発行した記念切手で、ナミビア地図を背景に、開放を喜ぶ手と鳩が描かれています。 現在のナミビア国家の領域は、第一次大戦以前はドイツ領南西アフリカとしてドイツの統治下に置かれていましたが、第一次大戦中の1915年3月、英連邦の一員として参戦した6万7000の南アフリカ連邦(以下、1961年以降の南アフリカ共和国も含めて南アと略)軍が進攻し、7月9日にはその全域を占領。これにより、ドイツ領南西アフリカは崩壊し、戦後、この地域は国際連盟によって南アの委任統治領となります。 1946年に国際連盟が解散すると、南アは国際連合への引き継ぎ期間の隙をついて南西アフリカの併合を宣言。しかし、国際社会はこれを認めず、南アによる南西アフリカの併合は不法占領であると非難します。 1960年の国連総会では、南西アフリカを、南アを施政権者とする信託統治領(委任統治領と異なり、国連信託統治理事会が、3年に1度、現地を視察して住民に対する人権侵害や搾取がないか、自治・独立に向けた施政が行われているかを調査するほか、地域住民から国際連合への請願が認められます)とすることを決議したが、南アはこれを無視して、国連の“干渉”を排した実効支配を継続しました。 これに対して、1962年、南西アフリカでは民族解放組織として南西アフリカ人民機構 (SWAPO)が形成され、独立運動が展開されましたが、1966年、南アは本国に倣って南西アフリカでも“自治国”としてバントゥースタンを設置し、アパルトヘイト政策を強行。独立運動を徹底的に弾圧しました。 このため、同年8月26日、SWAPOは武装闘争を開始し、いわゆるナミビア独立戦争が勃発します。 国際社会はSWAPOを支持し、1968年には国連総会で南西アフリカをナミブ砂漠に由来する“ナミビア”と改称した上で、国連ナミビア委員会の統治下におく決議が採択されたほか、1973年の国連総会ではSWAPOがナミビアの正統政府として承認されました。 ところで、ナミビアに隣接するアンゴラは、長年、ポルトガルの植民地支配に対する独立運動が展開されていましたが、1975年3月、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)、アンゴラ民族解放戦線 (FNLA)、アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) の独立運動の主要3組織がポルトガルと休戦協定を調印し、独立が達せられました。当初、MPLAはソ連とキューバの、FNLAはザイールの支援を受けており、独立後の新政権は、最大勢力で首都ルアンダを掌握していたMPLA主体のものとなるとみられていました。 ところが、親ソ政権の発足を嫌った米国がFNLAを支援したことで内戦が勃発。さらに、米国は、ともかくもMPLAを打倒するため、UNITAも支援します。その際、米国とUNITAの窓口になったのが、南アでした。 南ア政府は反アパルトヘイト闘争を主導したアフリカ民族会議(ANC)を激しく弾圧したため、その一部は周辺の黒人国家に逃れ、東側諸国の支援も受けながら、反政府闘争を展開していました。なかでも、MPLAとANCは密接な関係にあり、南ア政府は体制にとっての直接の脅威になると考えていたのです。 さらに、中国も反ソという観点から、ソ連が支援するMPLAに対抗してUNITAを支援するという混沌とした状況ができあがりました。 こうして、南アは実行支配下に置いていたナミビアを拠点にアンゴラ内戦に介入。ナミビアとアンゴラの国境地帯では、南ア国防軍とキューバ軍およびMPLAが対峙することになります。 その後、FNLAは首都進攻を試みたものの、キューバ軍事顧問団が指揮するMPLAに大敗。戦闘の続く中で、1975年11月11日、MPLAが“アンゴラ人民共和国”の、UNITAとFNLAが“アンゴラ人民民主共和国”の独立を宣言したものの、国際的には、MPLA政権がアンゴラの正統政府とみなされていました。 こうした状況の下、“第三世界の連帯”を掲げるキューバは、1975年11月から1976年4月までの間に3万6000の兵力を派遣し、南ア軍をナミビアに押し戻します。このことは、ANCを含むアフリカの反アパルトヘイト勢力を大いに鼓舞。さらに、その後もキューバの軍事顧問団はアンゴラにとどまり、ANCに対して軍事訓練を施していました。 こうして、ナミビア問題がアンゴラ内戦とリンクする状況が続く中で、1988年、クイト・クアナヴァレの戦いを機に、南アはアンゴラからの撤退を表明。同年12月のニューヨーク協定で、南アは、キューバ軍のアンゴラからの撤退を条件にナミビアの独立を承認し、翌1989年、国連監視下で行われたナミビアの選挙ではSWAPOが過半数を制し、1990年3月21日、ようやく、ナミビアは完全独立を達成しました。 ★★ イベント・講座等のご案内 ★★ 今後の各種イベント・講座等のご案内です。詳細については、イベント名・講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 3/31、4/7、5/5、6/2、7/7、8/4、9/1(1回のみのお試し受講も可) ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-07-21 Sun 00:32
今日(21日)は、参議院議員選挙の投票日です。僕も、午前中に投票に行く予定ですが、みなさんもぜひお出かけください。というわけで、国政選挙の投票日恒例の“投票しませう”シリーズ、今回はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1989年、国連監視下で行われた南西アフリカ(現ナミビア)の総選挙の切手で、南西アフリカの地図を背景に、投票箱に票を入れる手がデザインされています。その下には、英語とアフリカーンス語で「あなたの将来のために投票を」との標語が入っていますが、この文言は、古今東西、どんな選挙にも当てはまるものですね。 現在のナミビア国家の領域は、第一次大戦以前はドイツ領南西アフリカとしてドイツの統治下に置かれていましたが、第一次大戦中の1915年3月、英連邦の一員として参戦した6万7000の南アフリカ連邦軍が進攻し、7月9日にはその全域を占領。これにより、ドイツ領南西アフリカは崩壊し、戦後、この地域は国際連盟によって南アフリカ連邦(以下、1961年以降の南アフリカ共和国も含めて南アと略)の委任統治領となります。 1946年に国際連盟が解散すると、南アは国際連合への引き継ぎ期間の隙をついて南西アフリカの併合を宣言。しかし、国際社会はこれを認めず、南アによる南西アフリカの併合は不法占領であると非難します。 1960年の国連総会では、南西アフリカを、南アを施政権者とする信託統治領(委任統治領と異なり、国連信託統治理事会が、3年に1度、現地を視察して住民に対する人権侵害や搾取がないか、自治・独立に向けた施政が行われているかを調査するほか、地域住民から国際連合への請願が認められます)とすることを決議したが、南アはこれを無視して、国連の“干渉”を排した実効支配を継続しました。 これに対して、1962年、南西アフリカでは民族解放組織として南西アフリカ人民機構 (SWAPO)が形成され、独立運動が展開されましたが、1966年、南アは本国に倣って南西アフリカでも“自治国”としてバントゥースタンを設置し、アパルトヘイト政策を強行。独立運動を徹底的に弾圧しました。 このため、同年8月26日、SWAPOは武装闘争を開始し、いわゆるナミビア独立戦争が勃発します。 国際社会はSWAPOを支持し、1968年には国連総会で南西アフリカをナミブ砂漠に由来する“ナミビア”と改称した上で、国連ナミビア委員会の統治下におく決議が採択されたほか、1973年の国連総会ではSWAPOがナミビアの正統政府として承認されました。 ところで、ナミビアに隣接するアンゴラは、長年、ポルトガルの植民地支配に対する独立運動が展開されていましたが、1975年3月、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)、アンゴラ民族解放戦線 (FNLA)、アンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) の独立運動の主要3組織がポルトガルと休戦協定を調印し、独立が達せられました。当初、MPLAはソ連とキューバの、FNLAはザイールの支援を受けており、独立後の新政権は、最大勢力で首都ルアンダを掌握していたMPLA主体のものとなるとみられていました。 ところが、親ソ政権の発足を嫌った米国がFNLAを支援したことで内戦が勃発。さらに、米国は、ともかくもMPLAを打倒するため、UNITAも支援します。その際、米国とUNITAの窓口になったのが、南アでした。 南ア政府は反アパルトヘイト闘争を主導したアフリカ民族会議(ANC)を激しく弾圧したため、その一部は周辺の黒人国家に逃れ、東側諸国の支援も受けながら、反政府闘争を展開していました。なかでも、MPLAとANCは密接な関係にあり、南ア政府は体制にとっての直接の脅威になると考えていたのです。 さらに、中国も反ソという観点から、ソ連が支援するMPLAに対抗してUNITAを支援するという混沌とした状況ができあがりました。 こうして、南アは実行支配下に置いていたナミビアを拠点にアンゴラ内戦に介入。ナミビアとアンゴラの国境地帯では、南ア国防軍とキューバ軍およびMPLAが対峙することになります。 その後、FNLAは首都進攻を試みたものの、キューバ軍事顧問団が指揮するMPLAに大敗。戦闘の続く中で、1975年11月11日、MPLAが“アンゴラ人民共和国”の、UNITAとFNLAが“アンゴラ人民民主共和国”の独立を宣言したものの、国際的には、MPLA政権がアンゴラの正統政府とみなされていました。 こうした状況の下、“第三世界の連帯”を掲げるキューバは、1975年11月から1976年4月までの間に3万6000の兵力を派遣し、南ア軍をナミビアに押し戻します。このことは、ANCを含むアフリカの反アパルトヘイト勢力を大いに鼓舞。さらに、その後もキューバの軍事顧問団はアンゴラにとどまり、ANCに対して軍事訓練を施していました。 こうして、ナミビア問題がアンゴラ内戦とリンクする状況が続く中で、1988年、クイト・クアナヴァレの戦いを機に、南アはアンゴラからの撤退を表明。同年12月のニューヨーク協定で、南アは、キューバ軍のアンゴラからの撤退を条件にナミビアの独立を承認し、翌1989年、国連監視下で行われたナミビアの選挙ではSWAPOが過半数を制し、1990年3月、ようやく、ナミビアは完全独立を達成しました。 ちなみに、ナミビアの独立闘争とアンゴラ内線については、主として、キューバとの関連を軸に、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもご説明しておりますので、機械がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-03-30 Sat 01:44
ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年2月27日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はナミビアの特集(3回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ナミビアの国土東北端に取手のように細長く突き出たカプリヴィ回廊の地図を描いた切手です。 19世紀後半、列強諸国によるアフリカ分割の過程で、1884年、ドイツ帝国は“ドイツ領南西アフリカ”として現在のナミビアの地の大半の領有を宣言します。 翌1885年3月、ドイツ政府はアフリカ大陸のインド洋沿岸部に“ドイツ保護領東アフリカ”を設立する意向を明らかにし、アフリカ大陸東岸への進出を開始。当時、この地域はザンジバルのスルターンの実質的な支配下に置かれていたため、ザンジバル側は英国に支援を求めてドイツに対抗しようとしましたが、1886年、英仏独は連携して東アフリカの分割を進め、英国は後のケニアを、ドイツはタンガニーカ(現在のタンザニア国家の大陸部分)を領有。ザンジバルの支配地域はザンジバル島など東アフリカ沖の島嶼部および大陸沿岸から10マイル(16km)内陸までに限定されました。 こうして、アフリカ大陸の東西に植民地を確保したドイツは、次なる目標として、南西アフリカからザンベジ川を通じて東アフリカへ至り、インド洋へ抜けるルートの開発を構想しましたが、1886年の時点では、南西アフリカとザンベジ川の間の地域は英国の植民地でした。 一方、英国としては、ヴィクトリア湖とインド洋を結ぶ鉄道を建設するため、ドイツの影響下にあったウィトゥランドの領有を望んでいました。 このため、1890年、英独両国は“ヘルゴランド=ザンジバル条約”を調印。ドイツは、英国によるウィトゥランドの保護領化を認め、英国のザンジバル進出を黙認するかわりに、北海のヘルゴランド島をドイツ領とし、ザンジバルの支配地域だった沿岸部を買収してドイツ領東アフリカの権限範囲を確定するとともに、ドイツ領南西アフリカから「いかなる地点においても幅20マイルを下らない回廊によって、ザンベジ川への自由な接近の権利を有する」ことが認められます。この結果、従来のドイツ領南西アフリカからザンベジ川に向けて“取手”のように細長い“カプリヴィ回廊”がドイツ領として確保されることになりました。なお、現在のナミビア国家は、こうして成立したドイツ領南西アフリカの領土的な枠組を継承しています。 さて、『世界の切手コレクション』2月27日号の「世界の国々」では、カプリヴィ回廊の近現代史についてまとめた長文コラムのほか、アイアイ温泉、版画家ムアファンゲヨ、マルーラ・オイルの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のナミビア以降は、3月6日発売の同13日号でのアンゴラ(と一部トーゴ)、同13日発売の同20日号でコロンビア(と一部パラグアイ)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。 ★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★ 4月20日(土)14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパスにて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 ★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★ 本体3900円+税 【出版元より】 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-01-25 Wed 09:24
アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2017年1月25日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はナミビアの特集(2回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、20世紀初頭のヘレロ人を取り上げた絵葉書で、1905年、いわゆるヘレロ戦争の際に、オカハンジャのドイツ軍野戦局からコブレンツ宛の軍事郵便として送られています。雑誌の記事ではスペースの関係で絵面だけしかお見せできませんでしたので、今回は裏面の画像も貼っておきました。 牧畜を生業とするバントゥー系のヘレロ人が東方から現在のナミビアの領域に移住してきたのは17-18世紀のことと考えられています。 現在のナミビア国家の領域には、1486年にポルトガル人が最初に来航しましたが、広大なナミブ砂漠が広がる過酷な環境ゆえ植民地の形成は遅れ、1793年になって、ようやく、当時、ケープ植民地を領有していたオランダがウォルビス湾の領有を宣言しました。その後、1795年、ウォルビス湾は英国が占領しましたが、内陸の開発はほとんど進みませんでした。 このため、19世紀初頭、コイコイ系民族のナマ人(複数形ナマクア人)が南アフリカからナミビアの地に流入しましたが、この時点では、ヘレロ人、ナマ人などアフリカ系諸民族と西洋人の間にはほとんど摩擦は生じませんでした。 一方、ナミビア内陸部に西洋人が本格的に訪れるようになったのは、1842年、ドイツ・ライン州のプロテスタント伝道会が布教活動を始めてからのことです。 1858年、伝道会はナミビア各地の首長との間で“ワハナス平和条約”を締結し、ナミビアでの布教活動を本格化させることになりますが、先住民の反感と抵抗も根強かったため、1868年、伝道会はプロイセン議会に保護を求めます。当初、この要請は相手にされませんでしたが、1870年代に入り、英国の南アフリカへの進出が本格的に始まるなかで、1883年、ブレーメンの商人、アドルフ・リューデリッツが、大西洋沿岸のアングラ・ペクアナ(後のリューデリッツ・ブッフト)を支配していたベタニア族の首長ヨーゼフ・フレデリクスから入江の周囲5マイルの土地を購入。その契約書にある“5マイル”は、英マイル換算の1600mではなく、独マイル換算の7500mでしたが、リューデリッツの使者はフレデリクスにこれを英マイル換算と誤解させ、ベタニア族の土地の大半を無理やり購入しました。 これを受けて、翌1884年4月24日、ドイツ帝国議会はリューデリッツの購入した土地を帝国の保護領とすることを決定。これが“ドイツ領南西アフリカ”の起源となります。 ドイツ領南西アフリカが成立すると、ドイツ本国からはドイツ植民地の中でも最大規模の1万3000人が大挙して入植。一方、ドイツ人の急激な流入に危機感を抱いたナマ族の首長ヘンドリック・ウィットブーイは英国に接近しましたが、英国の反応は冷淡で、ドイツ人の侵入を食い止めることはできなませんでした。 ドイツ人は金やダイヤモンド、銅などの鉱山と農地の開発に重点を置き、武力を背景に、鉄道用地や入植者の農園用地を半ば強制的に買い集めます。この結果、土地を失った先住民はドイツ人の下、劣悪な条件で酷使される労働者へと転落。さらに、1894年以降、ドイツ人は内陸の牧畜民であるヘレロ人の族の家畜に目をつけ、略奪を繰り返すようになりました。 こうした状況の中で、1904年1月、ヘレロ人首長のサミュエル・マハレロは、配下の7000人を率いて武装蜂起し、ドイツ人入植者の農場と教会を襲撃し、ドイツ人の男女合わせて126名を殺害します。 “反乱”鎮圧のため、ドイツ政府はフォン・トロータ将軍率いる1万5000のドイツ軍を派遣。8月のヴァーテルベルクの戦いでヘレロ軍主力を大破すると、その後も、攻撃を緩めることなく、1904年10月には全ヘレロ人の抹殺を宣言。砂漠地帯に追い込まれたヘレロ人の多くが餓死または井戸水による中毒死で命を落とし、1907年の反乱鎮圧までに、最終的なヘレロ人の死者は総人口の80%に相当する6万人にものぼりました。 また、1905年10月にはナマ人がヘレロ人と同盟を結んで蜂起しましたが、こちらも鎮圧され、全人口の半数に相当する1万人が犠牲となっています。 一連の“ヘレロ戦争”の先住民側の死者は膨大なもので、それゆえ、後に20世紀最初のジェノサイドとして歴史に記録されることになりました。 ちなみに、ヘレロ戦争以前のヘレロ人は今回ご紹介の葉書に見られるように、ほとんど裸同然の衣服で生活していましたが、戦争の後、生き残ったヘレロ人はキリスト教と西洋式の生活を受け入れます。その結果、ヘレロ人の女性は、ヴィクトリア・スタイルを模し、カラフルな模様と足首までの長いスカートを着て、頭には牛の角をかたどった横長帽子を被るようになり、そのスタイルが現在に至るまで受け継がれています。 さて、 『世界の切手コレクション』1月25日号の「世界の国々」では、ヘレロ人とヘレロ戦争についての長文コラムのほか、ウィントフック教会、ナミビア産ダイヤモンド、アフリカ最大の塩湖として知られるエトーシャ塩湖の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。 なお、本日発売の2月1日号では、「世界の国々」はパラグアイを特集していますが、こちらについては、発行日の1日以降、このブログでもご紹介する予定です。 ★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』 ★★★ 2700円+税 【出版元より】 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行! 発売元の特設サイトはこちらです。 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-03-02 Mon 22:14
アフリカで優れた統治を行った民主的な指導者に対して贈られるモ・イブラヒム賞が、ナミビアのヒフィケプニェ・ポハンバ大統領に授与されることが決まりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2005年にナミビアで発行されたポハンバ大統領の肖像切手です。国内基本料金用無額面切手ですが、当時のレートでは1.70ナミビア・ドルに相当しています。 さて、ポハンバは1935年生まれ。1960年代に入ってアフリカ諸国の独立が相次ぐ中で、南アフリカ共和国(南ア)の支配下にあった南西アフリカ(現ナミビア)でも、1962年、民族解放組織として南西アフリカ人民機構 (SWAPO) が形成され、独立運動が展開されましたが、ポハンバはその創設にも参加しました。 1966年、南アは本国に倣って南西アフリカでも“自治国”としてバントゥースタンを設置し、アパルトヘイト政策を展開。独立運動を徹底的に弾圧したため、同年7月、SWAPOは武装闘争を開始し、いわゆるナミビア独立戦争が勃発します。 ポハンバは独立運動に参加したことで逮捕され、釈放後、ソ連で政治学を学びました。独立前年の1989年の選挙ではSWAPOの運動を仕切って勝利をもたらし、独立後は、サム・ヌジョマ大統領の下で、自治大臣、漁業海洋資源大臣、土地大臣等を歴任。土地大臣として、白人地主の土地を、土地を持たない黒人農民に分配する政策を取り仕切っています。 こうした実績をもとに、ヌジョマの後継者として2004年の大統領選挙で初当選。2005年3月21日にナミビア大統領に就任しました。2009年の選挙でも再選を果たし、今月、2期10年の任期を満了して退任の予定になっています。今回の受賞は、その意味では、良い餞別になったといえましょうか。 ちなみに、モ・イブラヒム賞は、スーダン出身の実業家で世界的な携帯電話事業会社セルテルの創業者であるモ・イブラヒムが、同社を売却した際の利益をもとに創立した財団が、2007年から授与しています。第1回の受賞者はモザンビークのジョアキン・アルベルト・シサノ元大統領で、翌2008年にはボツワナのフェスタス・モハエ元大統領が第2回の受賞者となりました。しかし、制度上は毎年授与されることになっているものの、その後は、該当者なしが続き、2011年にカーボ・ヴェルデのペドロ・ピレス前大統領が受賞して以来、今回のポハンバ大統領が4年ぶり4人目の受賞者です。 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 毎月1回(原則第1火曜日:3月3日、3月31日、4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 次回開催は3月3日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『日の本切手 美女かるた』 3月25日発売! ★★★ 税込2160円 【出版元より】 “日の本”の切手は美女揃い! ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え! <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。 本書のご注文はこちら(出版元の予約受付サイトです)へ。内容のサンプルはこちらでご覧になれます。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2015-02-25 Wed 12:38
アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2015年2月25日号が、先週刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はアフリカ南部のナミビアを取り上げています。その記事の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1904年、いわゆるヘレロ戦争の際のドイツ軍の軍事郵便として送られた絵葉書とその裏面です。雑誌の記事ではスペースの関係で表面だけしかお見せできませんでしたので、今回は鉄橋を渡るSLを撮影した絵面もご紹介しておきましょう。 現在の現在のナミビア国家に相当する地域には、15世紀後半にポルトガル人がヨーロッパ人として最初に来航しましたが、広大なナミブ砂漠が広がる過酷な環境ゆえ植民地の形成は遅れ、1793年になって、ようやく、ウォルビス湾の領有が宣言されました。その後、ナポレオン戦争中の1795年、ウォルビス湾は英領となりますが、内陸の開発はほとんど進みませんでした。 その後、1842年、ドイツ・ライン州のプロテスタント伝道会がナミビアの地で布教活動を始めたものの、先住民の抵抗は激しく、活動は困難を極めます。このため、1868年、伝道会はプロイセン議会に保護を求めましたが、当初はほとんど相手にされませんでした。 ところが、ドイツ人の活動に刺激を受けた英国がウォルビス湾から内陸へと進出する可能性が高まると、1883年、ブレーメンの商人、アドルフ・リューデリッツが、大西洋沿岸のアングラ・ペクアナ(後のリューデリッツ・ブッフト)一帯を購入。これを受けて、翌1884年4月24日、ドイツ帝国議会はリューデリッツの購入した土地を帝国の保護領とすることを決定しました。これが“ドイツ領南西アフリカ”の起源となります。 これに対して、ドイツ人入植者によって土地を奪われた先住民、ヘレロは激しく抵抗。1904年1月には首長のサミュエル・マハレロの指揮の下、大規模な武装蜂起が発生しました。 いわゆるヘレロ戦争です。 ヘレロ側はドイツ人入植者の農場と教会を襲し、ドイツ人の男女合わせて126名が殺害されたため、ドイツ政府は大軍を派遣。その数は最盛期の1905年には18000名にものぼり、反乱鎮圧までの4年間で双方合わせて6万人が犠牲となる大規模な戦闘となりました。この間、ヘレロの抵抗に手を焼いたドイツ軍は、1904年10月、ヘレロの抹殺を宣言。砂漠地帯に追い込まれたヘレロの多くが餓死または井戸水による中毒死しています。今回ご紹介の葉書は、この間の1905年1月20日、ケートマンフープから差し出されたドイツ軍の軍事郵便です。 また、ヘレロ戦争とほぼ同時期に起きたナマクア(かつてはホッテントッととyばれていましたが、現在では、この語は蔑称として使われていません)の武装蜂起も同様の結果に終わっています。ちなみに、一連の戦争で犠牲になったヘレロは6万人、ナマクアは1万人で、後に、20世紀最初のジェノサイドと呼ばれることになりました。 その後、1914年に第一次大戦が勃発し、英独間の戦闘が始まると、1915年3月、英連邦の一員として参戦した6万7000の南アフリカ連邦軍がドイツ領南西アフリカに進攻。同月12日には首都ウィントフック(ヴィントフークとも)を攻略し、7月9日には南西アフリカの全域を占領し、作戦を完了しました。 これにより、ドイツ領南西アフリカは崩壊し、戦後、この地域は国際連盟によって南アフリカ連邦の委任統治領の“南西アフリカ”となり、1990年の完全独立まで、南アフリカの支配を受けることになります。 さて、 『世界の切手コレクション』2月18日号の「世界の国々」では、ドイツ領南西アフリカ時代から1990年の完全独立にいたるまでのナミビア近現代史を中心に、ナミブ砂漠や長らく南アフリカ共和国の飛び地となっていたウォルビス湾、ダイヤモンドや古代遺跡の壁画を描く切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。 なお、本日発売の3月4日号では、「世界の国々」はパラグアイを特集していますが、こちらについては、来週、このブログでもご紹介する予定です。 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★ 毎月1回(原則第1火曜日:3月3日、3月31日、4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。 次回開催は3月3日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 本体2000円+税 【出版元より】 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る! 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました! ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
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