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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 トランプ前大統領、返り咲き当選
2024-11-07 Thu 02:11
 現地時間の5日に投票が行われた米国大統領選挙は、共和党候補のドナルド・トランプ前大統領が、民主党候補のカマラ・ハリス副大統領を下して当選しました。米国で大統領が退任後に返り咲くのはグローバー・クリーブランド(1885-89、1893-97年)以来、132年ぶり2人目のことです。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米・クリーヴランド(1922)

 これは、1923年3月20日、米国が発行したクリーヴランドの肖像を描いた12セント切手(普通切手)です。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。

 * 昨日(6日)のニッポンジャーナルの内藤出演回は無事に終了しました。次回は11月15日(金)に登場の予定です。引き続きよろしくお願いします。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 11月8日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 11月15日(金) 10:00~ ニッポンジャーナル
 インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30
 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

 武蔵野大学のWeb講座 
 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 

 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

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 「動物と植物」「科学技術」「社会と文化」「神話/伝説と宗教」の4章立てで、犬、猫、宇宙開発、飛行機、クリスマスといったテーマで、初めて描かれた切手図案にまつわる秘話、思いがけない発行に至る背景に加え、シーラカンスやテレビ、警察官、タトゥー、髑髏といった、あっと驚く意外なテーマの一番切手も登場します!

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 ジャクソン元大統領像破壊の疑いで4人訴追
2020-06-29 Mon 01:57
 米検察当局は、27日(現地時間)、首都ワシントンのホワイトハウスに隣接する広場に設置されているアンドルー・ジャクソン第7代大統領の騎馬像を倒そうとしたとして、“連邦財産の破壊”容疑で男4人を訴追したと発表しました。というわけで、こんなモノを持ってきました。

      米・ジャクソン像絵葉書(1922)
      米・ジャクソン像絵葉書(1922・裏)

 これは、今回、危うく引き倒されそうになったジャクソン像を取り上げた絵葉書で、1922年11月18日、ワシントンDCからフランス・エピナル宛に差し出されたものです。切手は絵面に貼られていますが、裏面にはワシントンDCの印とエピナルの着印も押されています。また、像の背景にはホワイトハウスとワシントン記念塔も見えますので、この像がワシントンの中枢部にあることが改めてイメージできるかと思います。

 さて、アンドリュー・ジャクソンは1767年、サウスカロライナの片田舎に北アイルランド移民の子として生まれました。貧困家庭の出身でほとんど教育を受けられませんでしたが、独学で法律を学び、20歳で弁護士になっています。その後、1788年にテネシー州憲法会議委員となったのを皮切りに、1796年に下院議員、1797年に上院議員となり、1798年には州の最高裁判事に任命されました。

 1804年に政界から一時引退し、テネシー州ナッシュヴィルで綿花農場を経営していましたが、1812年に米英戦争が勃発すると義勇軍を率いて出陣。1814年には英国の支援を受けて米軍と戦っていたクリーク・インディアンを多数虐殺したうえで彼らの土地を奪い、彼らをアラバマ・ジョージア両州の辺境から追放しました。この功績によって、ニューオリンズで英軍と戦う部隊を指揮する権限が与えられます。

 1814年12月13日、英軍がルイジアナ沿岸に到着すると、ジャクソン率いる米軍はニューオリンズ近郊のシャルメットに陣を構え、同23日、英軍キャンプを夜襲し、英軍を撤退させ、装備・補給品を奪ってニューオリンズへ帰還しました。

 その翌日の12月24日、ベルギーでは米英間の講和条約として講和条約が結ばれて米英戦争は終結しましたが、当時の交通事情では、その情報が米国に到達するまでに数週間かかったことから、ジャクソンと英軍の戦闘は継続され、1815年1月26日まで続いた戦闘で、英軍に戦死者385名、負傷者1186名の損害を与えて勝利を収めました。ちなみに、米軍の戦死者は13名、負傷者は58名でした。

 ニューオーリンズの戦いは、米軍が終始劣勢だった米英戦争で、米軍が挙げた最大の戦果だったことから、戦後、ジャクソンは一躍国民的な英雄として全米にその名をとどろかせ、1828年の大統領選挙で当選。1932年には再選を果たし、1837年まで大統領を務め、1845年にナッシュヴィルで亡くなりました。

 ジャクソンの没後、1847年、彼の地元でジャクソン顕彰のための銅像建設委員会が発足。同委員会によるコンペの結果、愛馬デュークに跨り、ニューオーリンズの戦いを指揮するジャクソン像のプランを提出したチャールストンの彫刻家、クラーク・ミルズが銅像の制作を担当することになりました。

 ミルズ自身は生前のジャクソンにあったことはなかったため、1848年、彼の奴隷で助手のフィリップ・リードとともにワシントンに居を構えて、銅像政策のための取材活動を開始。特許庁に保管されていたジャクソンの軍服を借り受けたりするなどして、ジャクソン像を6ヴァージョン、デューク像(ミルズの馬、オリンパスをモデルに作られました)を4ヴァージョンの像を作り、その中のベストの組み合わせを最終形として、1852年に像を完成させています。

 さて、先月25日、米ミネソタ州ミネアポリスで詐欺容疑で拘束された黒人男性が、拘束時に警官に膝で首を押さえつけられたことが原因で死亡した事件を巡り、全米に抗議行動が拡大して暴動にエスカレートし、全米各地で、南北戦争時の南軍指導者奴隷を所有していたことのある歴史上の人物を“差別主義者”などとして、その銅像等を損壊・汚損する事件が相次いでいます。

 そうした中で、今月22日夜、デモ隊のグループが、アンドリュー・ジャクソンは奴隷所有者であり、先住民を大量虐殺した差別主義者であるとして、ホワイトハウス前の騎馬像にロープを巻き付けて引き倒そうとする事件が発生。公園の警備員とシークレット・サービスが、すぐさまデモ隊に催涙ガスを用いて事件現場から遠ざけたため、危うく銅像は難を逃れました。その後、当日のビデオ映像に基づき犯人の身元が特定され、今回、20~47歳の4人が訴追されたというわけです。

 訴追前日の26日、トランプ大統領は、「個人や組織は、あらゆる記念碑についてその建立や撤去を平和的に訴える権利がある。しかし、あらゆる記念碑を暴力によって損壊、汚損、撤去する権利はない」として、公共物の損壊罪には最大10年の禁錮刑が科せられるとする既存の法律を引用し、抗議活動の一環として記念碑や像を“損壊、汚損、撤去”する行為を厳格に取り締まる大統領令に署名。さっそく、今回の訴追がその第1号となりました。これを機に、かつての文革の紅衛兵よろしく、“反差別”を標榜して乱暴狼藉を繰り返している連中は一網打尽にしてほしいものですな。

 なお、7月4日発売予定の拙著『みんな大好き陰謀論』には、アンドリュー・ジャクソンも重要な役割で登場しますので、機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。


★★ 『みんな大好き陰謀論』 7月4日刊行! ★★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

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 金賞受賞しました!
2016-06-03 Fri 13:55
      ニューヨーク展・メダル授与 

 ニューヨークで開催中の世界切手展<NEW YORK 2016>(以下、ニューヨーク展)は、1日(以下、日付などは現地時間)に審査結果が発表され、おかげさまで、僕の出品作品 A HISTORY OF HONG KONG は金賞(90点)を受賞しました。

 冒頭の画像は、2日に行われたメダル授与式(今回は、大金賞以下、一般競争出品へのメダルの授与はパルマレスで行われたのでなく、会場内で授与式が行われました)で、メダルを拝領している場面です。ちなみに、今回頂戴したメダルは、展覧会のロゴマークをあしらった、こんなデザインのモノでした。

      ニューヨーク展メダル  ニューヨーク展・メダル(裏)


 メダルは賞のランクに関わらずすべて同じ色・材質で、ルーペをあしらった裏面には出品者の名前が刻まれています。また、出品者用のIDカードもロゴマークをデザインしたもので、こんな感じでした。
      
      ニューヨーク展・IDカード

 ちなみに、実際に米国で発行された自由の女神の切手は、もしくは上半身の一部をトリミングしたものが大半で、まれに全身像を取り上げていても、下の画像(1922年に発行された12セント切手です)のように斜めの角度からのものばかりで、今回の展覧会のロゴマークのように、正面からの象をデザインしたものというのは、ちょっと思い浮かびません。

      米・自由の女神(1922)

 むしろ、こうした正面からの像の切手は、スペインの「合衆国憲法150年」の記念切手や、韓国の国連軍参戦感謝記念切手のように、米国以外で発行されたものの方が多いように思います。

 さて、今回、ニューヨークに展示した A HISTORY OF HONG KONG は、2014年のソウル展(世界展)2015年の香港展(アジア展)に続いての金賞となりましたが、まだまだ、最上位の大金賞(95点以上)に到達するには道は険しそうです。改善の余地が大いにある発展途上のコレクションですので、引き続き、皆様の御支援・ご指導を仰ぎつつ、精進を重ねて行きたいと思っておりますので、なにとぞよろしくお願いします。


 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★

 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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 連邦議会議事堂の切手
2015-04-29 Wed 13:24
 安倍首相が、現地時間29日(日本時間30日未明)、日本の首相として初めて米連邦議会の上下両院合同会議で演説を行います。というわけで、きょうは、ストレートにこの切手です。(以下、画像はクリックで拡大されます)

        米・連邦議会議事堂(1923)

 これは、1923年に米国で発行された連邦議会議事堂を描く2ドル切手です。

 米国の連邦議会は、1774年、13 の植民地州の代表が集まって開いた第1回大陸会議が起源とされています。その後、1776年の独立宣言を経て1788年に合衆国憲法が発効すると、1789年、当時の首都であったニューヨークで正式に第1回連邦議会が開催されました。この時の議事堂は、もともとニューヨーク市庁舎として建設されたものを改築したもので、初代大統領に選ばれたジョージ・ワシントンがバルコニーで就任演説を行っています。

 1790年、米国の首都はフィラデルフィアに移転しますが、これに伴い、1800年まで連邦議会は独立記念館(もとはペンシルヴァニア州議会の議事堂で、1776年に独立宣言が署名された場所)で開催されるようになりましたが、この間、1793年にワシントンDCに議事堂の建設が開始されました。

 ワシントンDCの議事堂は1800年に上院棟(正面左手=北側)が完成し(正面右手=南側の下院棟の完成は1811年)、1800年11月17日から使用されましたが、1812年、米英戦争での英国の攻撃により一部が焼失したため、1815-30年に再建工事が行われました。

 その後、米国の拡大に伴い議員の数も増加したため、1850年代に入ると両翼が大幅に拡張されました。これに伴い、1855-66年にはバランスを取るため、ドームの拡張工事が行われ、1863年にはドームの頂点に“自由の女神”像が設置されます。なお、日本語では“自由の女神”と訳される像としては、ニューヨークの女神像が“リバティ”なのに対して、議事堂の像は“フリーダム”です。しかし、新たなドームは高さ88m、直径29mの巨大なもので、またしても外観のバランスが悪かったため、1904年に議事堂の東正面棟が改築され、ようやく、現在の姿となりました。

 ちなみに、連邦議事堂は、地理的にはワシントンDCのやや東部に位置していますが、首都の象徴として、ワシントンDCの地番は議事堂を基準に定められています。また、2006年にワシントンDCで世界切手展が開催された際にも、開催地を象徴するものとして、展覧会のロゴマークには議事堂があしらわれており、記念のネクタイには、今回ご紹介の切手とロゴマークが並べてデザインされています。(下の画像。なお、切手のプリントより上部は青色一色で模様などはありません)

       ワシントン展ネクタイ

 なお、米国の連邦議会を舞台として繰り広げられてきたさまざまな政治ドラマについては、拙著『大統領になりそこなった男たち』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』 発売! ★★★ 

         日の本切手 美女かるた・表紙 税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 漂着のハーレー所有者判明
2012-05-03 Thu 22:14
 先月中旬、カナダ西部ブリティッシュ・コロンビア州のグレアム島に、東日本大震災での津波にさらわれたとみられる白いコンテナが漂着し、中から、宮城ナンバーの大型オートバイ“ハーレー・ダビッドソン”が1台出てきた件で、その所有者が判明したそうです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        アメリカ特別配達用切手10セント

 これは、1922年にアメリカで発行された特別配達(まぁ、速達のようなものと思ってください)用の10セント切手で郵便配達の場面が描かれています。

 1885年にアメリカで最初に発行された特別配達用切手の切手には手紙を持って走る郵便配達員が描かれていましたが、1902年の切手では、それが自転車に乗る配達員のデザインに代わっています。その後、1908年には通信の象徴であるマーキュリーのヘルメットをデザインした切手も発行されましたが、今回ご紹介の1922年の切手ではオートバイとなっており、時代とともに、“スピード”の表現が変化しているのが面白いところです。

 ところで、今回ご紹介の切手に描かれているオートバイについては、アメリカの郵政当局は特定のメーカーのモノではないとしていますが、収集家の間では、1922年製のハーレー・ダビッドソン22Jと呼ばれるモデルをもとに原画が制作されたことがほぼ確実視されています。ハーレーというと大型バイクの代名詞。これに対して、郵便配達のオートバイというと、小回りの利くスーパーカブというイメージが強いだけに、ハーレーにまたがっての郵便配達というのは、ちょっと意表を突いた組み合わせかもしれません。
 
 さて、今回、カナダで見つかった車両について、アメリカ・ウィスコンシン州のハーレー・ダビッドソン本社は、同社の負担でカナダから元の持ち主のいる日本に運び、修理する意向だそうです。今年は1912年にわれらが帝国陸軍がハーレーのオートバイを初めて輸入(後に、サイドカーを中心として軍用車両として用いられました)してから100周年という節目の年でもありますし、ポトマック河畔の桜に続き、日米友好親善の100年を記念する出来事として記憶にとどめておきたいですね。

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 テディ生誕150年
2008-10-27 Mon 14:09
 1858年10月27日にセオドア・ルーズベルトが生まれてから、ちょうど150年になります。というわけで、今日はストレートにこの切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      セオドア・ルーズベルト

 これは、1922年にアメリカで発行された5セントの通常切手で、セオドア・ルーズベルトの肖像が取り上げられています。

 ルーズベルトはニューヨーク市の出身で、幼少時は病弱でしたが、それを克服するためにスポーツに励み、1880年にハーバードを卒業するころには、すっかりマッチョな男となっていました。

 1897年に発足したマッキンリー政権では海軍次官に任命されますが、翌1898年、米西戦争が勃発すると、その職を辞して“ラフライダーズ”を率いて従軍。国民的英雄となり、凱旋後、警視総監およびニューヨーク州知事となりました。

 1900年の大統領選挙では副大統領候補となり当選しますが、翌1901年9月、マッキンリーが暗殺されたことで大統領に昇格。アメリカ史上最年少の大統領となりました。

 大統領就任後のエピソードとしては、テディベアの名前の由来となった熊狩りの話が有名です。

 1902年の秋、趣味の熊狩りに出かけた際、獲物をしとめることができなかった大統領に気を使った側近が、年老いた雌熊を追いつめて最後の一発を頼んだところ、大統領は、「瀕死の熊を撃つのはスポーツマンシップにもとる」として撃ちませんでした。このことが新聞に掲載されて評判となり、バーモント州の玩具メーカー(現・テディベア・カンパニー)が、熊のぬいぐるみにルーズベルト大統領の通称である“テディ”と名付けて発売したのが、現在の“テディ・ベア”のルーツとされています。

 ルーズベルトの時代のアメリカのアジア政策は、1898年に領有したフィリピンの防衛が最重要課題でしたから、1904年の日露戦争に関して、日本がロシアに対してそこそこの勝利を収めるのが、ベスト・シナリオと考えていました。ところが、1905年5月27~28日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊が全滅したことで、アメリカの太平洋戦略の前提となっていた軍事バランスが崩壊。慌てたるルーズベルトは、6月9日、日露両国に対して講和を勧告。さらに、7月、陸軍長官のウィリアム・タフト(後にローズヴェルトの後をついで大統領になります)が東京で首相・桂太郎と極秘に会談し、アメリカのフィリピン統治と日本の韓国支配を相互に承認する協定(桂=タフト協定)を締結し、日露戦争後に備えようとしました。以後、アメリカは日本に対して警戒観を強めていきます。

 その後、ポーツマス条約で日露の講和が成立し、ルーズベルトはその功績で1906年のノーベル平和賞を受賞しますが、日本に対する警戒心は解けず、1908年には“白船”を日本に寄港させるなど対日圧力を強めています。

 1908年の大統領選へは出馬せず、陸軍長官のタフトを支持しますが、当選後は政策の違いからタフトと対立。1912年には、“第3政党”の革新党(ブル・ムース)公認候補として大統領選に立候補しましたが落選。その次の1916年にも大統領選の挑戦したものの敗退し、1919年に亡くなりました。

 なお、この切手を貼った“ラスト・エンペラー”こと溥儀宛のカバーなんてモノも以前の記事でご紹介したこともありますので、よろしかったら、そちらもご覧ください。


 イベントのご案内

 11月1日(土)-3日(月・祝) 全国切手展<JAPEX>

 ことしも、東京・池袋のサンシャインシティ文化会館と目白の切手の博物館の2ヶ所で開催します。今年の目玉は、何といっても“満洲・東北切手展”ですが、トーク関係での僕の出番は、以下のとおりです。

 11月1日(土)
  13:00 “満洲・東北切手展”特別シンポジウム(池袋会場)
  16:00 特別対談「満洲における写真、絵葉書、郵趣」(池袋会場)
 11月2日(日)
  13:00 “戦後日本切手展”ギャラリー・トーク(目白会場)
  15:00 中公新書ラクレ presents 『大統領になりそこなった男たち』刊行記念トーク(池袋会場)
 11月3日(月・祝)
  11:00 “戦後日本切手展”ギャラリー・トーク(目白会場)

 トークそのものの参加費は無料ですが、<JAPEX>への入場料として、両会場共通・3日間有効のチケット(500円)が必要となります。あしからずご了承ください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★     

 アメリカ史に燦然と輝く偉大な「敗者たち」の物語    
 『大統領になりそこなった男たち』 中公新書ラクレ(本体定価760円+税)
 
 出馬しなかった「合衆国生みの親」、リンカーンに敗れた男、第二次世界大戦の英雄、兄と同じく銃弾に倒れた男……。ひとりのアメリカ大統領が誕生するまでには、落選者の累々たる屍が築かれる。そのなかから、切手に描かれて、アメリカ史の教科書に載るほどの功績をあげた8人を選び、彼らの生涯を追った「偉大な敗者たち」の物語。本書は、敗者の側からみることで、もう一つのアメリカの姿を明らかにした、異色の歴史ノンフィクション。好評発売中!

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。
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 溥儀100年
2006-02-07 Tue 18:16
 今日(2月7日)は、“ラスト・エンペラー”溥儀の生誕100年の日に当たります。というわけで、手持ちの溥儀がらみのマテリアルの中から、こんなものをご紹介します。

      溥儀宛カバー

 このカバー(封筒・画像はクリックで拡大されます)は、天津の日本租界にいた溥儀宛のものです。

 1912年2月、清朝最後の皇帝・宣統帝(溥儀)は退位し、清朝は滅亡しますが、その後も、清の宮廷(清室)と中華民国との間に結ばれた“清室優待条件”により、溥儀は紫禁城での生活を続けていました。しかし、1924年11月、クーデターで北京を征圧した馮玉祥は、紫禁城から旧皇族を追放。このため、溥儀たちは北京市内にあった父親(旧醇親王)の屋敷に逃れました。

 しかし、北京の世情は騒然としており、反満州感情の強い旧清朝の廃帝の身辺は決して安全とはいえなかったため、溥儀たちは租界内のドイツ人が経営する病院を経て日本公使館に逃げ込み、四ヶ月ほど日本公使館の賓客として過ごしたのち、天津の日本租界に移ります。

 それからしばらくの間、天津での溥儀の生活は平穏なもので、溥儀は完全に“過去の人”となっていました。日本政府も溥儀が日本国内や満州の日本租界などを訪問することは「甚だ困惑する」と表明し、諸外国から溥儀を政治的に利用していると見られることを極端に警戒していたくらいです。

 しかし、国民革命の進展は、そうした溥儀と日本の関係を根本から変えてしまいます。

 国民革命(北伐)とは、軍閥が割拠し四分五裂状態になっていた当時の中国で、軍閥を打倒し、国家の統一を実現するため、広東で成立した国民政府が発動した統一戦争のことで、蒋介石を総司令として1926年から1928年にかけて行われました。

 その過程で、1928年6月、国民革命軍の一部が、歴代の清朝皇帝の墳墓である東稜を盗掘。入口をダイナマイトで爆破し、埋葬されていた遺体を破壊した上、もちろん、副葬品の金銀財宝はことごとく持ち去る戸いう事件が起こりました。祖先の祭祀を重視する儒教的な世界観の中で生まれ育った溥儀にとって、これ以上の恥辱はなく、当然、彼は南京政府に抗議します。しかし、末端の実行犯が軽い処分を受けただけで、蒋介石からはひとことの謝罪もありませんでした。

 これを機に、溥儀は南京政府と袂をわかって父祖の地である満州での自立を真剣に考えるようになりました。しかし、彼には国民政府に対抗して自立するだけの軍事的な裏づけは何もなく、しばし悶々とした日を過ごすことになります。

 今回ご紹介しているのは、そうした溥儀宛に、1929年10月、アメリカから差し出されたカバーで、宛名が“Former Emperor of China”となっているところが印象的です。

 このカバーが差し出される3ヶ月ほど前の1929年7月、溥儀はそれまで生活していた張園という名の屋敷から静園という名の屋敷に転居しています。いずれも、所在地は天津の日本租界の中ですが、静園の名は「ここで静かに復辟(皇帝としての復位)の時期を待つ」という意味を込めて彼が自ら命名しました。そして、静園の溥儀の身辺には、のちに満州国国務総理となった鄭孝胥をはじめとして、旧清朝の遺臣が徐々に集まり始めるなど、静園の名前とは裏腹に、彼の周囲はにわかに騒がしくなっていくのでした。

 ちなみに、関東軍が満鉄の路線を爆破して満州事変を起こすのは、このカバーが差し出されてから約2年後の1931年9月のことで、両者は満州を国民政府の支配から切り離すという共通の目的の下に結託していくことになるのです。

 今日は、北方領土の日だとか秋篠宮妃殿下のご懐妊のニュースだとか、いろいろと話題の多い日でしたが、まぁ100年に1度ということで、溥儀の話題を取り上げました。ご了承ください。

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