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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 体操の岡慎之助が金、柔道の村尾三四郎が銀
2024-08-01 Thu 05:41
 現在開催中のパリ五輪は、現地時間31日、体操男子個人総合の岡慎之助が金メダル、柔道男子90キロ級の村尾三四郎が銀メダルを獲得しました。というわけで、きょうは、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・体操(1931)

 これは、1931年9月18日、ブルガリアが発行した“バルカン競技大会”の記念切手のうち、体操競技(鉄棒)を描く1枚です。なお、体操競技を描く切手としては、この切手が世界で最初の1枚となります。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。


★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 8月2日(金) 10:00~ ニッポンジャーナル
 インターネット番組「ニッポンジャーナル」に内藤藤がコメンテーターとして出演の予定です。皆様、よろしくお願いします。

 8月9日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 8月10日(土) 13:30~  本当は恐ろしい!こわい切手
 よみうりカルチャー荻窪にて、拙著『本当は恐ろしい!こわい切手』からの選りすぐりのエピソードを中心にお話しします。詳細はこちらをご覧ください。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。

 謀略の世界史 原則毎月第1土曜日 13:00~14:30
 MI6、CIA、モサドなど各国の情報機関のあらましや、現代史の中で彼らが実際に関与した事件などを幅広くご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

 武蔵野大学のWeb講座 
 大河企画の「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」、引き続き開講中です。詳細はこちらをご覧ください。 

 「龍の文化史」、絶賛配信中です。龍/ドラゴンにまつわる神話や伝説は世界各地でみられますが、想像上の動物であるがゆえに、それぞれの物語には地域や時代の特性が色濃く反映されています。世界の龍について興味深いエピソードなどを切手の画像とともにご紹介していきます。詳細はこちらをご覧ください。

 ★ 『切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード』 好評発売中!★

      切手もの知り図鑑 一番切手50のエピソード

 「動物と植物」「科学技術」「社会と文化」「神話/伝説と宗教」の4章立てで、犬、猫、宇宙開発、飛行機、クリスマスといったテーマで、初めて描かれた切手図案にまつわる秘話、思いがけない発行に至る背景に加え、シーラカンスやテレビ、警察官、タトゥー、髑髏といった、あっと驚く意外なテーマの一番切手も登場します!

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 ブルガリア出身の欧州委員、組閣要請で辞任
2023-05-16 Tue 10:46
 ブルガリア出身のマリヤ・ガブリエル欧州委員(イノベーション・研究・文化・教育・青少年担当。以下敬称略)は、きのう(15日)、同国のルメン・ラデフからの組閣要請を受けて辞任しました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・民族衣装(2019)

 これは、2019年10月20日、同国第2の都市プロヴディフが同年の欧州文化首都に選ばれたことを記念して発行された“民族衣装”の切手シートで、シート上部には“2019年欧州文化首都 プロヴディフ”のロゴマークが入っています。

 ガブリエルは1970年にブルガリア南西部のゴツェ・デルチェフで生まれましたが、2001年にプロヴディフのパイシー・ヒレンダルスキー大学を卒業しているほか、彼女が2019年にイノベーション・研究・文化・教育・青少年担当の欧州委員に就任して担当した最初の欧州文化首都(のひとつ)がプロヴディフだったので、ゆかりの1枚として選んでみました。

 詳細については、こちらをクリックして、内藤総研サイト内の当該投稿をご覧ください。なお、内藤総研の有料会員の方には、本日夕方以降、記事の全文(一部文面の調整あり)をメルマガとしてお届けする予定です。
 

★ 放送出演・講演・講座などのご案内 ★

 5月26日(金) 05:00~  おはよう寺ちゃん
 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から8時までの長時間放送ですが、僕の出番は6時からになります。皆様、よろしくお願いします。

 よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治 原則毎月第1火曜日 15:30~17:00
 時事解説を中心とした講座です。詳細はこちらをご覧ください。
 
 武蔵野大学のWeb講座 
 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編」と「日本郵便150年の歴史」の2種類の講座をやっています。詳細はこちらをご覧ください。 

★ 『現代日中関係史 第2部 1972-2022』 好評発売中!★

      現代日中関係史2

 2022年11月に刊行された「第1部1945-1972」の続編で、日中国交”正常化”以降の1972年から2022年までの半世紀の、さまざまな思惑が絡まり合う日中関係の諸問題を、切手とともに紐解いていきます。

 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 “スプートニクV”ワクチンの有効率は9割超
2020-11-10 Tue 04:01
  ロシア保健省当局者は、きのう(9日)、ロシアの国立ガマレヤ研究所が開発している新型コロナウイルス感染症ワクチン“スプートニクV”について、感染を防ぐ有効性が90%を超えているとの見解を表明しました。というわけで、“スプートニクV”に絡んで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・スプートニク5号

 これは、ソ連によるスプートニク5号(コラブリ・スプートニク2号)の打ち上げ成功を記念して、1961年1月28日、ブルガリアが発行した記念切手です。

 1960年5月15日にコラブリ・スプートニク1号(スプートニク4号)が打ち上げられた後、6月28日の打ち上げ失敗を経て、8月19日、バイコヌール宇宙基地からコラブリ・スプートニク2号が打ち上げられました。

 コラブリ・スプートニク2号はヴォストーク有人宇宙船の試験機として、生命維持装置を備えた気密室と大気圏突入のための構造を備えており、人間こそ乗らなかったものの、ストレルカとベルカと名づけられた2匹の犬に加え、1匹のウサギ、42匹のネズミ、2匹のラット、ハエ、沢山の植物や菌類が乗せられていました。

 2匹の犬はモスクワで捕獲された雑種の野良犬で、選別に当たっては、①メスであること(宇宙服とトイレの調達がオスに比べて容易)、②体重7キロ以下、③体毛が明るい色(カメラ写りがよいように)、という条件が付けられていました。ちなみに、名前のストレルカはロシア語で“矢”、ベルカはロシア語で“リス”の意味で、今回ご紹介の切手にも取り上げられています。

 8月19日に打ち上げられたコラブリ・スプートニク2号は軌道へ到達した後、地球を18周した後、無事帰還。この間、ボンのラジオ局が衛星からの信号を始めて受信し、3周目にはスウェーデンのラジオ局がそれを確認しました。なお、打ち上げの正確な時刻については、08:38:24 UTC(協定世界時)と08:44:06の2説があります。

 宇宙から無事に帰還した世界初の生物となったストレルカとベルカは、ソ連の宇宙技術の優越性を示すアイドルとして、当時、メディア等でも盛んに取り上げられ、1961年6月3-4日、同年1月に米国大統領に就任したばかりのジョン・F・ケネディとフルシチョフがウィーンで首脳会談を行った際、晩餐会でフルシチョフの隣に座ったファースト・レディのジャクリーンは、ストレルカとその子犬について話題にしています。もっとも、ジャクリーンとしては、フルシチョフとの会話に詰まって、とっさに無難な話題として犬のことを話しただけだったようですが、ヴォストーク1号の成功で得意絶頂のフルシチョフは、即座に、ストレルカの産んだ子犬をケネディの娘、キャロライン(後の駐日大使)に贈ることを決断しました。

 ところで、ブルガリアでは、1954年3月、ヴァルコ・チェルヴェンコフが共産党第一書記の座を追われ、トドル・ジフコフが第一党書記として党を掌握。ただし、この時点では、1911年生まれのジフコフは若く一般的な知名度も高くはなかったため、チェルヴェンコフはひとまず首相の座にとどまっていました。

 ところが、1956年2月、ソ連共産党の第20回党大会でフルシチョフがスターリン批判を展開すると、同年4月、ジフコフはブルガリア共産党大会を開催し、フルシチョフの脱スターリン路線を採用するとともに、フルシチョフの承認の下、チェルヴェンコフを解任。かくして、1989年まで33年の長きにわたってブルガリアに君臨するジフコフ体制が本格的にスタートします。

 当時のジフコフ政権はフルシチョフの支持を権力の基盤としており、それゆえ、ソ連に対する忠誠心を示すことに腐心していました。今回ご紹介の切手もそうした文脈に沿って発行されたもので、“衛星国”のブルガリアが宗主国のソ連へのゴマすりに汲々としていた時代の産物といえましょう。


★ 11月11日(水) 八重洲・イブニング・ラボに内藤登場★

 11月11日(水) 経済評論家、上念司さんの八重洲・イブニング・ラボに内藤が登場します。会員限定のイベントですので、手続き方法などの詳細はこちらでご確認の上、ぜひ会員登録の上、お申し込みください。よろしくお願いします。(宣伝文句がかなり大げさで、ちょっとビビってますが・笑)


★ 11月12・19日(木) InterFM 897:The Road 出演します ★

 11月12日(木)と19日(木) 17:30 InterFM 897の番組、嘉衛門 Presents 「The Road」!に内藤が出演し、“知られざる切手の世界”についてお話します。詳細はこちらをご覧ください。皆様よろしくお願いします。


★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★

      日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史カバー 本体1600円+税

 出版社からのコメント
 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】
 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は
 いかなる歴史をたどり、
 中国はどのように浸透していったのか

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 大統領が内閣を“暴力団の類”と罵倒
2020-07-13 Mon 02:04
 ブルガリアのルメン・ラデフ大統領が、11日、国民に向けてテレビ演説し、ボイコ・ボリソフ内閣を“暴力団の類”と非難し、総辞職を求めたそうです。というわけで、同大統領にちなんで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・ディミトロヴグラト(コンビナート)

 これは、1956年にブルガリアで発行された切手付き封筒で、ラデフの出身地、ディミトロヴグラトの“スターリン化学コンビナート”が取り上げられています。

 ディミトロヴグラトはブルガリア中南部、ハスコヴォ州の都市です。ディミトロヴグラトは、1947年9月2日、ラコヴスキ、マリウノ、チェルノコヌオヴォという3村が合併して生まれた基礎自治体(日本の市町村に相当)で、地名は、コミンテルン最後の書記長で、共産ブルガリアの初代首相を務めたゲオルギ・ディミトロフに由来しています。ちなみに、ディミトロフに関しては、拙著『みんな大好き陰謀論』でも、コミンテルンとの関連で詳しく述べておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。

 さて、ラデフは、1963年6月18日、ディミトロヴグラト生まれ。共産政権時代末期の1987年、ゲオルギ・ベンコフスキ・ブルガリア空軍大学を首席で卒業し、第15戦闘機航空連隊に見習操縦士として配属されました。1990年のブルガリア民主化後もそのまま同連隊に残り、部隊長に昇進して米国に留学。1992年、マクスウェル飛行中隊長士官学校を卒業しました。さらに、1994-96年にはラコフスキ国防幕僚大学で学び、首席で卒業しています。その後は、空軍のエリート将校として順調に昇進し、2014年には空軍司令官に就任しました。

 2016年に退役し、同年8月、旧ブルガリア共産党の後継政党であるブルガリア社会党と“ブルガリア再興のための選択肢 (ABR)”の大統領候補に指名されましたが、まもなく、ABRはラデフの推薦を取り消し、イヴァイコ・カルフィンを大統領項に指名。11月の大統領選挙では、決選投票で“ヨーロッパ発展のためのブルガリア市民 (GERB)” のツェツカ・ツァチェヴァ候補を破って当選を果たしました。
 
 一方、ラデフから罵倒されたボリソフは、1959年6月15日、ソフィア生まれ。祖父は、共産党・農民同盟左派らで構成される“祖国戦線”が権力を掌握した“9月革命”(1944年)で粛清されており、共産政権時代は不遇をかこっていました。
 
 民主化後の1991年、空手の経験(ブルガリア代表のコーチや国際試合の審判員の経験があります)を活かし、民間警備会社Ipon-1を設立。シメオン2世(ブルガリア王国最後の国王)らの警備を担当し、その実績をもとに、2001-05年には内務省の事務長官を務めました。2005年の総選挙でソフィア市長に当選。翌2006年にはGERBを結党し、現在に至るまで、実質的にGERBのトップに君臨しています。また、2009年の国民議会選挙でGERBは240議席中116議席を確保し、ボリソフはGERBを中心とした中道右派政権の首相に就任。以後、2009年7月~2013年3月、2014年11月~2017年1月に首相を務めました。

 2016年11の大統領選挙でGERB候補のツァチェバがブルガリア社会党候補のラデフに敗れると、いったん、首相を辞任しましたが、2017年3月26日の総選挙でGERBが第一党を維持したことから、首相に復帰。現在まで首相の地位を維持しています。

 このように、ラデフとボリソフは因縁の宿敵ともいうべき関係にありますが、今月9日、捜査当局が汚職や国家機密流出の疑いで大統領府などを捜索し、大統領側近らを連行すると、ラデフ支持の市民が首都ソフィアでこれに抗議する大規模デモを展開。デモ隊は“暴力団”、“殺人犯”などと政府批判を連呼し、ボリソフの辞任を求め警官隊にペットボトルや花火を投げ付けています。

 これを受けて、11日、ラデフは、ボリソフを“オリガルヒ(新興財閥)の仲間”とし、現政権は“汚職、恐怖政治、捜査当局による脅迫”などの罪を犯しているとしたうえで、冒頭ご紹介した“暴力団の類”との表現で政権を罵倒。一方、ボリソフも同日、ネットを通じて「流血の事態は避けたい」と述べ、デモ隊に自制を求めていますが、現在も緊迫した状況が続いています。


★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★

 7月17日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。

 
★★ 内藤陽介の最新刊 『みんな大好き陰謀論』 ★★

      みんな大好き陰謀論(帯なし表紙) 本体1500円+税

 出版社からのコメント
 【騙されやすい人のためのリテラシー入門】
 あなたは大丈夫?賢い人ほどダマされる!
 無自覚で拡散される負の連鎖を断ち切ろう
 まずは定番、ユダヤの陰謀論を叱る! !

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

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 世界の切手:ブルガリア
2019-05-21 Tue 01:23
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年4月17日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はブルガリアの特集(7回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・スターリン消

 これは、1950年8月10日、“スターリン”と呼ばれていた時代のヴァルナから差し出された葉書です。

 ブルガリアを含むバルカン諸国の大半は、第二次大戦末期、ソ連によってドイツないしは親独政権の支配から“解放”され、戦後はソ連の衛星国となりました。これに対して、バルカン半島南西、イタリア対岸の旧ユーゴスラヴィア王国の地域では、ヨシップ・ティトー率いるパルチザンが自力で国土の解放を進め、1945年3月、ソ連とは無関係に独自の人民政府を樹立。同年11月には王制の廃止とユーゴスラヴィア人民共和国連邦の成立を宣言しました。

 バルカンを自らの勢力圏と考えていたソ連は、ユーゴスラヴィアに対しても影響力を扶植すべく、1946年、ティトーに石油・鉄鋼開発のための両国合弁企業の設立を提案しましたが、ティトーはこれを自国に不利として拒絶。さらに、ティトーは、ソ連とパルチザンが全土を解放したアルバニアに対して、独立国家としての存在を認めず、ユーゴスラヴィア人民共和国連邦への加盟を要求していました。

 こうしたティトーの姿勢はスターリンを苛立たせていましたが、ブルガリアのディミトロフ政権は、バルカンでは独力でナチスを撃退したティトーの権威が絶大であることを考慮し、ユーゴスラヴィアとの良好な関係を維持すべく腐心していました。

 しかし、1948年、ティトーが、スターリンに無断でブルガリアと関税同盟構想を推進したことが発覚すると、スターリンは激怒。同年のコミンフォルム第2回会議でユーゴスラヴィアの追放決議が採択され、ブルガリア国内でも“ティトー主義者”(と見なされた人物)に対する粛清が始まります。

 ディミトロフは、こうした状況の下、1949年、病気療養中、モスクワ近郊の病院で亡くなったため、ソ連による謀殺が疑われましたが、そのことを裏付ける確実な証拠は確認されていません。

 さて、ディミトロフの死後、ブルガリアの後継首相となったヴァシル・コラロフは、スターリンの怒りを解くため、“ティトー主義者”の粛清を進めましたが、その最大のターゲットとなったのが、ディミトロフ政権で副首相を務めたトライチョ・コストフでした。

 コストフは、副首相兼経済財政委員会議長として、社会主義建設の2ヵ年計画を立案し、ソ連による経済政策への介入にも批判的でしたが、それゆえ、1949年3月に解任され、同年7月、逮捕・処刑されます。

 さらに、コラロフは、国内の重要都市であるヴァルナ市を“スターリン市”に改名し、あらためて、ソ連とスターリンに対する忠誠の意思を示したうえで、1950年1月に亡くなりました。今回ご紹介の葉書の消印の地名表示が“スターリン”となっているのは、こうした事情によるものです。

 次いで、コラロフの死後、後継首相となり、ついで党書記長を兼任したヴァルコ・チェルヴェンコフは、よりモスクワに忠実なスターリン主義者として、スターリンの意を汲んでその地位に就いたため、スターリンへの忠誠心を示すべく、就任早々、米国との外交関係を断絶。また、ソ連の政策を忠実になぞって、重工業化と農業集団化を推進したほか、“小スターリン”として個人崇拝を強要するとともに、反対派は容赦なく弾圧し、1953年までに1万2000人が強制労働収容所で亡くなったとされています。さらに、ブルガリア正教会の総主教は修道院に軟禁され、教会は国家の統制下に置かれました。

 しかし、スターリンの露骨な傀儡であったチェルヴェンコフは、1953年3月にスターリンが亡くなると、その権力基盤が揺るぎ始めます。ソ連指導部が“新路線”を掲げると、チェルヴェンコフもそれに従って、消費財生産部門、農業への投資割り当てを拡大するとともに、恐怖政治を緩和して収容所から数千名が釈放されましたが、こうした路線転換は、結果的に、チェルヴェンコフの権威を損ないました。

 結局、1954年の党大会で、チェルヴェンコフに代わり、トドル・ジフコフが共産党書記長に就任。その後も、チェルヴェンコフは首相の座には留まったものの、1956年2月、ソ連でフルシチョフによるスターリン批判が行われると、同年4月、個人崇拝を批判されて首相から副首相に降格され、事実上、失脚。スターリン市も旧称のヴァルナ市に復することになりました。

 さて、『世界の切手コレクション』4月17日号の「世界の国々」では、1950年代前半を中心にしたブルガリア現代史についての長文コラムのほか、イヴァン・ラザロフの彫刻「母」、リラ修道院、ヴァルナの戦い、ヴァルナ湾のの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のブルガリアの次は、4月24日発売の5月1日号でのパラオ(と一部カンボジア)、5月1日発売の同8日号でのエスワティニ(と一部ギニアビサウ)の特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


★★ 〈岡田英弘三回忌 シンポジウム〉岡田英弘の歴史学とは何か ★★

      岡田英弘の歴史学とは何か

 2019年 5月26日(日) 14:00~ (13:30開場/17:00終了予定)
 早稲田大学 3号館 704教室 (東京都新宿区西早稲田1-6-15/東京メトロ東西線「早稲田駅」徒歩5分 副都心線「西早稲田駅」徒歩17分)
 * 資料代として1000円が必要です。

 “世界史”は13世紀モンゴルから始まった!!
朝鮮史を出発点に、満洲史、モンゴル史と深めてゆくなかで、「13 世紀のモンゴル帝国がユーラシア大陸の東西をつなぎ、“世界史”が始まった」と、「世界史とは何か」を初めて提示しえた歴史学者、岡田英弘氏(1931-2017)。その仕事を改めて見直し、次代に継承する!

 このシンポジウムに、内藤も登壇してお話しします。宜しかったら、ぜひ、ご参加ください。
 お申し込みやイベントの詳細はこちらをご覧ください
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 世界の切手:ブルガリア
2019-03-04 Mon 04:40
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年2月13日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はブルガリアの特集(6回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・トリモンティウム

 これは、ブルガリア第2の都市、プロヴディフが2019年の欧州文化首都に選ばれたことを記念して2015年に発行された切手シートで、プロヴディフ旧市街の“トリモンティウム”のイメージが取り上げられています。

 プロヴディフが、ソフィアの南東約152キロのプロヴディフ平原南部に位置しており、市域の面積は約100平方キロで、人口は約37万6000人です。

 6000年前の新石器時代から人間が居住しており、古くは“エウモルピアス”と呼ばれていましたが、紀元前4世紀にマケドニア王ピリッポス2世が征服し、彼にちなんで“フィリッポポリス”と改称されました。

 現在のプロヴディフ市の領域には、かつて7つの丘がありましたが、マルコヴォ・テペ丘が20世紀初頭に取り崩され、現在では、ジェンデム・テペ、ブナルジク、サハト・テペ、ネベト・テペ、ジャンバス・テペ、タクシム・テペと呼ばれる閃長岩の6つの丘があり、“テペタ”と総称されています。このうち、ネベト・テペ、ジャンバス・テペ、タクシム・テペの3つの丘に囲まれた地域が旧市街の中心で、古代ローマの時代には、3つ丘を意味する“トリモンティウム”と呼ばれていました。

 プロヴディフは、北トラキア(バルカン半島南部)最大の都市として、歴史的にトラキア地方の経済、文化、交通の中心都市となっており、1878年にはオスマン帝国の宗主権下で東ルメリア自治州が新設されるとその州都となり、1885年、ブルガリアによる東ルメリア統合でブルガリア公国の一部となり、現在に至っています。

 さて、『世界の切手コレクション』2月13日号の「世界の国々」では、東ルメリア州についてまとめた長文コラムのほか、ブルガリアの民族衣装、イノシシ、プロヴディフのシンボルとされるアリョーシャ像の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のブルガリアの次は、2月13日発売の同20日号でのスーダン(と一部ギニアビサウ)、2月20日発売の同27日号でのナミビアの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。

 * 東京・目白の切手の博物館で開催の第10回テーマティク研究会切手展は、昨日(3日)、無事盛況のうちに終了いたしました。ご来場いただいた皆様、スタッフ関係者の方々には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。

★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


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 スプートニクとガガーリンの闇(13)
2019-01-23 Wed 11:15
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、昨年12月25日、『本のメルマガ』第706号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年の期間中に東側諸国が発行した切手のうち、ブルガリアの切手について取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・スプートニク3号(1958)

 これは、1958年11月28日、ブルガリアが発行した「国際地球観測年」の記念切手で、ソ連の人工衛星スプートニク3号と宇宙から見たユーラシア大陸北部が描かれています。

 かつての社会主義時代、ブルガリア建国の父として崇め奉られていたゲオルギ・ディミトロフは、1862年6月、ブルガリア西部のコヴァチェフツィで貧しい労働者階級の子として生まれました。10代の頃から労働運動の活動家として頭角を現し、1902年にはブルガリア労働者社会民主党(PBS)に入党。1919年3月、世界各国で左派勢力を既存の社会民主主義政党から切り離して“前衛党(共産党)”を組織し、世界革命を推進するとのコミンテルン(共産主義第3インターナショナル)の呼びかけに呼応して、同年5月、新たにブルガリア共産党(BKP)が結成されると、その中央委員に就任します。

 1921年6-7月、コミンテルン第3回大会がモスクワで開かれると、ディミトロフはBKP代表としてこれに参加し、ロシア共産党とのパイプを構築。1923年、ブルガリア国内での武装蜂起に失敗すると、ウィーン、ベルリン、モスクワで活動していました。

 1933年2月27日、ドイツ・ベルリンの国会議事堂放火事件では冤罪逮捕されたものの、12月23日、裁判で無罪判決を勝ち取ると、この“勲章”を手に、1935年、コミンテルンの書記長に就任。コミンテルンは1943年に解散しましたが、スターリンは各国の共産党組織に対する“指導”を維持するため、ソ連共産党中央委員会内に国際情報部(OMI)を新設。旧コミンテルン執行部はほぼ横滑りし、ディミトロフもモスクワに留まり、その部長に収まります。ただし、あくまでも、OMIはソ連国内の組織であるとの建前から、その名目上の責任者はシチェルバコフで、ディミトロフは副責任者とされていました。

 以後、ディミトロフはOMIの事実上の責任者として、ソ連共産党の決定にもとづいて各国共産党の指導を担当。スターリンの忠臣として、第二次大戦後、ソ連占領下の東欧で各国共産党が権力を掌握していくため、水面下での工作に辣腕をふるった後、1946年、祖国ブルガリアに帰国します。ディミトロフは、さっそく、ソ連の衛星国として誕生したブルガリア人民共和国の首相に就任。反政府運動を抑えるキャンペーンを開始して、スターリンに倣った恐怖政治を行い、多くの国民を強制収容所送りするとともに、ソ連の16番目の共和国とも揶揄された親ソ政権を樹立しました。

 ところが、1948年、モスクワからの自立を志向していた隣国ユーゴスラヴィアのティトーが、スターリンに無断でブルガリアとの関税同盟構想を推進したことが発覚すると、スターリンは激怒。同年のコミンフォルム第2回会議でユーゴスラヴィアの追放決議が採択され、ブルガリア国内でも“ティトー主義者”(と見なした人物)に対する粛清が始まります。こうした状況の下、1949年、ディミトロフは、病気療養中のモスクワ近郊の病院で亡くなったため、ソ連による謀殺が疑われています。(ただし、謀殺説を裏付ける証拠は確認されていません)

 ディミトロフの死後、ブルガリアの後継首相となったのは、彼の下で首相代理や外相を歴任したヴァシル・コラロフでした。

 コラロフは、スターリンの怒りを解くため、“ティトー主義者”の粛清を進めましたが、その最大のターゲットとなったのが、ディミトロフ政権で副首相を務めたトライチョ・コストフです。コストフは、副首相兼経済財政委員会議長として、社会主義建設の2ヵ年計画を立案し、ソ連による経済政策への介入にも批判的でしたが、それゆえ、1949年3月に解任され、同年7月、逮捕・処刑されました。

 コラロフは1950年1月に亡くなりますが、その後継首相となり、ついで党書記長を兼任したヴァルコ・チェルヴェンコフは、よりモスクワに忠実なスターリン主義者として、スターリンの意を汲んだ政策を展開します。

 スターリンへの忠誠心を示すべく、チェルヴェンコ政権は、発足早々、米国との外交関係を断絶。また、ソ連の政策を忠実になぞって、重工業化と農業集団化を推進したほか、“小スターリン”として個人崇拝を強要するとともに、反対派は容赦なく弾圧。1953年までに1万2000人が強制労働収容所で亡くなったとされています。さらに、ブルガリア正教会の総主教は修道院に軟禁され、教会は国家の統制下に置かれました。

 しかし、スターリンの露骨な傀儡であったチェルヴェンコフは、1953年3月、スターリンが亡くなると、その権力基盤が揺るぎ始める。ソ連指導部が“(東欧の)新路線”を掲げると、チェルヴェンコフもそれに従って、消費財生産部門、農業への投資割り当てを拡大するとともに、恐怖政治を緩和して収容所からは数千名が釈放されましたが、こうした路線転換はチェルヴェンコフの権威を損ねました。

 その結果、1954年の党大会で、チェルヴェンコフに代わり、トドル・ジフコフが共産党書記長に就任。その後も、チェルヴェンコフは首相の座には留まったものの、1956年2月、ソ連でフルシチョフによるスターリン批判が行われると、同年4月、ブルガリア共産党大会は脱スターリン路線を採用するとともに、チェルヴェンコフの個人崇拝を批判し、彼を首相から副首相に降格します。

 かくして、1989年まで33年の長きにわたってブルガリアに君臨するジフコフ体制が本格的にスタートします。

 初期のジフコフ政権がフルシチョフの支持を権力の基盤としていたことを考えると、1957年10月4日のスプートニク1号の打ち上げ後早々に人工衛星を取り上げた切手を発行していてもよさそうなものですが、実際には、国際地球観測年の名目で今回ご紹介の切手を発行したのは1958年11月28日になってからのことです。これは、当時、ソ連との関係が必ずしも良好ではなかった中国ポーランドよりも遅いのですが、その背景には、1957年の時点ではスターリン主義の清算の途上にあり、プロパガンダ政策の方向性も必ずしも定まっていなかったため、記念切手の発行も後手に回ったということなのかもしれません。

 ソ連に忠実であるがゆえに、ソ連の政策転換を前に右往左往せざるを得なかった衛星国の悲哀、ということなんでしょうかね。


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 世界の切手:ブルガリア
2018-12-13 Thu 00:40
 ご紹介がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年11月21日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はブルガリアの特集(5回目)です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      ブルガリア・ディミトロフ没後1周年(コミンテルン)

 これは、1950年にブルガリアで発行されたゲオルギ・ディミトロフ没後1周年の記念切手のうち、コミンテルン書記長としての彼の活動を顕彰した1枚です。

 かつての社会主義時代、ブルガリア建国の父として崇め奉られていたゲオルギ・ディミトロフは、1862年6月、ブルガリア西部のコヴァチェフツィで貧しい労働者階級の子として生まれました。少年時代に植字工となった彼は、10代だった1901年に印刷工全国労組の書記に選任されたのを皮切りに労働運動の活動家として頭角を現し、1902年にはブルガリア労働者社会民主党(PBS)に入党。第一次大戦末期の1918年には政府の戦争政策に対する反対運動を行い、投獄されました。なお、PBSは、1903年、ヤンカ・サカゾフのシロキ派(右派。統一派)とディミタリ・ブラゴエフのテスニャキ派(左派)に分裂しましたが、ディミトロフが属していたのは左派です。

 1917年のロシア10月革命で成立した世界初の社会主義政権(ボリシェヴィキ政権)は、「世界革命なくして人類解放なし」として、1919年3月、世界各国で左派勢力を既存の社会民主主義政党から切り離して“前衛党(共産党)”を組織し、世界革命を推進するため、 “コミンテルン(共産主義第3インターナショナル)”を創設。これに呼応して、ブラゴエフらPBS左派は、1919年5月、新たにブルガリア共産党(BKP)を結成し、コミンテルンに参加し、ディミトロフも中央委員に就任しました。

 コミンテルンは「1920年には、世界的規模の大国際ソヴィエト共和国が誕生するだろう」と豪語していましたが、1921年3月、コミンテルン指導の下、ドイツ・マンスフェルトを中心に行われた“3月闘争”は失敗し、世界革命は実現不可能であることが明らかになります。

 これを受けて同年6-7月、コミンテルン第3回大会がモスクワで開かれると、ディミトロフはBKP代表としてこれに参加し、ロシア共産党とのパイプを構築することに成功します。

 1923年6月、ブルガリアでは軍事クーデターが発生し、アレクサンダル・スタンボリースキの農民同盟政権が崩壊。当初、BKPはブルジョアの内部抗争としてこれを静観していましたが、農民同盟を友党と見なしていたコミンテルンはBKPの姿勢を批判。同年9月、ディミトロフらに命じて農民同盟とともに反軍事政権の武装蜂起を起こさせました。しかし、蜂起は失敗に終わり、BKPは非合法化され、ブルガリア国内の基盤を失います。ディミトロフは国外に逃亡し、欠席裁判で死刑判決を受けましたが、コミンテルンによってBKP中央委員会在外局の指導者に任じられ、ウィーン、ベルリン、モスクワで活動しました。

 1933年2月27日、ドイツ・ベルリンの国会議事堂が放火により焼失。事件はオランダ共産党員のルッベの単独犯行でしたが、同年1月末に発足したヒトラー政権はこの機会をとらえ、ドイツ共産党議員団長のトルクラーとディミトロフを含む3人の在独ブルガリア人共産主義者を容疑者として逮捕したほか、左翼勢力の弾圧に乗り出します。事件の裁判は9月21日にライプツィヒで始まり、ゲーリングが検察官として出廷しましたが、国際世論の批判もあり、12月23日、ルッベ以外の4被告は無罪となります。

 裁判で無罪判決を勝ち取ったディミトロフは、この“勲章”を手に、1935年、コミンテルンの書記長に就任。コミンテルンは1943年に解散しますが、その後も彼はモスクワにとどまり、スターリンの側近として活躍しました。

 1935年7-8月のコミンテルン第7回大会では、ディミトロフは、スターリンの代弁者として、反共を国是とする独伊の台頭を前に多様な左派勢力の結集を呼びかける“人民戦線”戦術を提起したほか、日本、ドイツ、ポーランド三国の打倒のためには米英仏の資本主義国とも提携して個々を撃破する戦略を用いるべきと訴えました。大会はディミトロフ(=スターリン)路線を採択しましたが、人民戦線=単一労働政党への統合の考え方は、第二次大戦後、の東欧での社共合同(共産党による社会民主主義政党の併合)の先駆となります。

 しかし、1939年、スペイン内戦で人民戦線を採用した共和国政府がフランコ側に降伏。さらに、独ソ不可侵条約を経て、9月に第二次世界大戦が勃発し、独ソ両国によってポーランドが分割占領されると、人民戦線戦術は放棄されました。

 1941年6月、独ソ戦が勃発。ドイツとの戦争のために米英との協調関係を進める必要に迫られたスターリンは、戦争により各国共産党(=コミンテルン支部)が弱体していたこともあり、1943年5月、“モスクワの手先”をして悪名高いコミンテルンの解散を決断。これを受けて、6月9日、コミンテルンの解散が執行委員会幹部会の名で発表されました。

 こうして、対外工作機関としてのコミンテルンは消滅しましたが、スターリンは各国の共産党組織に対する“指導”を維持するため、ソ連共産党中央委員会内に“国際情報部(OMI)”を新設。旧コミンテルン執行部はほぼ横滑りし、ディミトロフはその部長におさまります。ただし、あくまでも、OMIはソ連国内の組織であるとの建前から、その名目上の責任者はシチェルバコフで、ディミトロフは副責任者とされました。

 以後、ディミトロフはOMIの事実上の責任者として、ソ連共産党の決定にもとづいて各国共産党の指導を担当。スターリンの忠臣として、第二次大戦後、ソ連占領下の東欧で各国共産党が権力を掌握していくため、水面下での工作を行い、旧東側世界を築いた陰の立役者となります。

 1946年、ディミトロフは祖国ブルガリアに帰国。ナチスと組んで枢軸側に立った旧政権が打倒されたのを受けて、1946年、ソ連の衛星国として誕生したブルガリア人民共和国の首相に就任すると、反政府運動を抑えるキャンペーンを開始して、スターリンに倣った恐怖政治を行い、多くの国民を強制収容所送りにしました。

 こうして、“ソ連16番目の共和国”とも揶揄されたブルガリアの社会主義体制を確立したディミトロフでしたが、1949年、病を得て倒れ、療養先のモスクワ近郊の病院で亡くなりました。その遺体は、葬儀の後、保存処理が施され、ソフィア中心部、バッテンベルク広場に建立されたゲオルギ・ディミトロフ霊廟の地下に安置され、一般に公開されていましたが、民主化後の1990年、遺体の保存・公開は廃止されて、火葬の後、中央墓地に埋葬されています。

 さて、『世界の切手コレクション』11月21日号の「世界の国々」では、ディミトロフとその時代を中心にしたブルガリア現代史についての長文コラムのほか、ドイツのダダイスト、ジョン・ハートフィールドの「裁く者 裁かれる者」、バルカン最高峰のムサラ山、グリフォンの切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のブルガリアの次は、11月21日発売の同28日号でのスリランカ、12月5日発売の同12日号でのフィリピン(と一部カンボジア)、12月12日発行の同19日号でのハンガリーの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください) 

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


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 世界の切手:ブルガリア
2018-07-31 Tue 01:30
 ご紹介がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2018年7月25日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はブルガリアの特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます) 

      ブルガリア・軛の下で

 これは、ブルガリア現代文学の祖とされるイヴァン・ヴァゾフの代表作『軛の下で』を取り上げた1枚です。
 
 イヴァン・ヴァゾフは、1850年、オスマン帝国支配下のソポトの商家に生まれました。幼少期から文学に親しみ、1870年、商業を学ぶため、ワラキアのオルテニツァ(現ルーマニア)の商人である叔父の元へ送られましたが、商業には身が入らず、ブルガリア人亡命コミュニティに参加し、民族活動家に強く感化されました。

 1876年、ブルガリアではオスマン帝国からの自立を目指す4月蜂起が発生するものの失敗。放棄にも関与していたヴァゾフはブカレストに亡命し、偽名を使って『プリャポレツ・イ・グスラ』 、『ブルガリアの悲嘆』等の詩集を刊行。1877-78年の露土戦争の結果、ブルガリアが解放されると、東ルメリ自治州の州都プロブディフやロシア帝国支配下のオデッサなどでの文筆活動を経て、1889年、ブルガリアに帰国し、ソフィアに定住。旺盛な執筆活動のかたわら、1894年に人民党のコンスタンティン・ストイロフ内閣が発足すると、教育大臣にも任命されました。第一次大戦後の1921年没。

 今回ご紹介の切手の題材となっている『軛の下で』は、1888年、オデッサで執筆された作品です。物語は、オスマン帝国の支配下のブルガリアを舞台に、親トルコ派の上流階級と独立派の青年たちの交流や、失敗に終わった1876年の“4月蜂起”について史実を踏まえて描いたもので、ブルガリア帰国後の1894年に発表され、1910年に戯曲化されました。ブルガリアを砕氷する古典的な作品として世界的な評価を得ており、日本語を含む各国語に翻訳されています。
 
 さて、『世界の切手コレクション』7月25日号の「世界の国々」では、第二次大戦中、ブルガリアが枢軸国に参加して戦った歴史的背景についてまとめた長文コラムのほか、女子レスリングのスタンカ・ズラテヴァチョウザメアイスクリーム、の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のブルガリアの次は8月1日に発売予定の8月8日号でのリベリアの特集です。こちらについては、発行日の8月8日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 <Brasilia 2017>終了
2017-10-30 Mon 10:27
 早いもので、24日(以下、日時はすべて現地時間)からブラジル・ブラジリアのウリセス・ギマランエス・コンヴェンション・センターで開催されていた世界切手展<Brasilia 2017>は、29日午後、無事にすべての日程を終了しました。すでに、日本からの出品作品の撤去も完了し、明朝・30日の飛行機で出国します。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・Brasilia 2017贈呈用

 これは、今回の切手展に際し、ブルガリアが発行した記念切手シートの贈呈用無額面ヴァージョンです。

 国際切手展が開催されると、開催国以外にも、ブースを出展する国などが記念切手を発行することは珍しくありません。その場合、記念切手の題材も、より多くの来場者に買ってもらえるようなものが選ばれるのが通例です。

 今回の世界切手展<Brasiliana 2017>では、ブルガリアは“(駐ブラジル)ブルガリア大使館”名義でブースを出展しており、それにあわせて、サッカーの王様と称されたペレのブラジル代表参加60周年を題材に、ゴールするペレと優勝カップを組み合わせた1レフ切手と、展覧会のロゴと会場を組み合わせたタブで構成される記念シートを発行しました。ちなみに、切手展会場内のブルガリア大使館のブースはこんな感じでした。

      ブラジル展・ブルガリア大使館ブース

 一般に販売された記念シートには、普通紙と特殊紙の2種類があり、いずれも水平方向に目打が施されており、発行枚数は1500枚です。

 これに対して、贈呈用のシートは、額面が0・00 レフとなっており、特殊紙に印刷されているほか、無目打で目打状の印刷が施されています。ブルガリア郵政は、今回、この贈呈シートを1000枚つくり、関係者に配布しましたが、その流れで、日本のコミッショナーを務めた僕のところにも1部が回ってきたというわけです。このあたりの事情は、時間が経つとわからなくなってきますので、記録の意味で、記事にしてみました。

 さて、今回の切手展の会期中、審査員の佐藤浩一さんご夫妻をはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、自身の作品については、「香港の歴史」が従前どおり金賞を維持できたことに加え、初出品の「アウシュヴィッツ郵便史 1939-1945」でもなんとか金銀賞を受賞することができ、いろいろと実りの多い滞在となりました。その成果につきましては、追々、しかるべき媒体でご報告する予定です。

 なお、帰国は、往路同様、ブエノスアイレスドーハを経由し、日本時間の1日夜に成田に到着の予定です。内藤の不在によりご不便・ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、今しばらくお待ちくださいますよう、伏してお願い申し上げます。


★★★ トークイベントのご案内  ★★★ 

 11月4日(土) 12:30より、東京・浅草で開催の全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。


★★★ 世界切手展<WSC Israel 2018>作品募集中! ★★★

  明年(2018年)5月27日から31日まで、エルサレムの国際会議場でFIP(国際郵趣連盟)認定の世界切手展<WSC Israel 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を11月10日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


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 女子レスリング、3階級制覇
2016-08-18 Thu 11:13
 リオデジャネイロ五輪13日目(現地時間17日)は、女子レスリング・フリースタイル女子48kg級の登坂絵莉、同58kg級の伊調馨、同69kg級の土性沙羅が金、卓球の男子団体が銀のメダルを獲得しました。というわけで、 きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・女子レスリング(2007)

 これは、2007年9月17-23日、アゼルバイジャンの首都、バクーのヘイダル・アリエフ・スポーツ&エキシビション・コンプレックスで開催された2007年レスリング世界選手権の女子72kg級で優勝したスタンカ・ズラテヴァを称えてブルガリアが発行した切手です。レスリング切手の大半は男子選手を描いており、女子選手、それも試合風景を描いた切手はほとんどありません。

 女子レスリング競技の正確な起源は不明ですが、1970年後半から1980年代初頭にかけて、フランスや北欧で自然発生的に始まったとされています。1983年、国際レスリング連盟(FILA)は女子レスリング部門を認定。これを受けて、1985年にフランスのクレルモンフェランで、FILA認定の初の女子国際大会“ロジャークーロン大会”が開催され、日本からも柔道選手の大島和子が出場しています。

 続いて、1985年1月には、世界規模の大会としては初となる“世界女子フェスティバル”が開催され、1987年からは世界選手権も開催されるようになりました。オリンピックでは、2004年のアテネ大会から女子種目が採用され、48kg級、55kg級、63kg級、72kg級の4階級で競技が行われています。したがって、金メダルを獲得した伊調の4大会連覇というのは、オリンピックに女子レスリングが採用されて以来、金メダルは彼女が独占していることを意味しているわけで、あらためて、そのすごさがわかろうというものです。ちなみに、今回ご紹介の切手が発行されるきっかけになった2007年の世界選手権でも、もちろん、伊調は優勝しています。

 さて、切手に取り上げられたスタンカ・ズラテヴァは、1983年、ブルガリアのスリヴェン州生まれ。元々は七種競技の選手でしたが、レスリングに転向して2004年のアテネ五輪に参加しましたが、出場12選手中最下位の12位で敗退しました。

 2006年、元世界チャンピオンのシメオン・ステレフをコーチに迎えると急成長し、2006-08、2010-11年の世界選手権で優勝しています。ただし、2006年の決勝では浜口京子に故意と思われる頭突きを食らわせて、浜口の鼻骨3ヶ所、頬骨1ヶ所を骨折させて勝利しているほか(当然、反則行為で、後にFILAはこれを見逃した審判を降格処分にしています)、2007年にはやはり2回戦で浜口と対戦し、誤審により判定勝ちを収めているなど、日本にとっては因縁のある選手です。

 2008年の北京五輪では決勝で中国の王嬌に敗れて銀メダル、2012年のロンドン五輪でも決勝でロシアのナタリア・ボロベワに逆転フォール負けを喫して銀メダルでした。ロンドン五輪後は、しばらく休養したのち、アゼルバイジャンを本拠地としてリオ五輪への出場を目指していましたが、昨年(2015年)8月、現役引退を発表しました。
 

★★★ 内藤陽介の最新刊 『リオデジャネイロ歴史紀行』 好評発売中!★★★ 

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 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 小さな世界のお菓子たち:アイスクリームの切手
2016-07-07 Thu 15:21
 ご報告が遅くなりましたが、大手製菓メーカー(株)ロッテの季刊広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』の第32号(2016年夏号)ができあがりました。僕の連載「小さな世界のお菓子たち」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・国際児童年

 これは、1980年にブルガリアで発行された児童画切手のうち、アイスクリームを食べる2人の少女を描いた13ストティンキ切手です。

 黒海に面したバルカン半島のブルガリアでは伝統的に酪農が盛んで、北東部のラズグラド州の先史時代の遺跡からは、当時の人々がチーズを作るのに使っていたと思われる円錐形の土器も出土しています。

 日本では、ブルガリアというとヨーグルトを連想する人が多いのですが、酪農大国のブルガリアではヨーグルト以外にも美味しい乳製品が数多くつくられています。なかでも、アイスクリームはブルガリア語で“スラドレード”(“甘い”を意味する“スラド”と“氷”を意味する“レード”の合成語)と呼ばれ、ブルガリア人が“世界一美味しい”と胸を張る一品です。

 今回ご紹介の切手は、そんなブルガリアのアイスクリームが描かれた1枚で、1979年に国際児童年の記念行事として行われた児童画コンテストの優秀作品をデザインして1980年に発行されたもので、7種セットのうちの1枚に、太陽を背にしてアイスクリームを食べる2人の少女を描いた作品が取り上げられました。

 さて、ブルガリアは国土の中央をバルカン山脈が東西に走っており、その南北で気候は大きく変わるのですが(冬は低温多湿で夏は高温乾燥の北側と、温暖湿潤の南側に分れます)、どちらにせよ、夏はかなり気温が上がり、首都ソフィアでは最高気温が35度を超えることも珍しくありません。

 そうなると、街中のいたるところにアイスクリームのスタンドが現れ、老いも若きもコーンや紙カップに入ったアイスクリームを食べながら歩く姿が見られます。特に、ブルガリア最大のチェーン店の“ラフィ”はイタリアン・ジェラートの雰囲気を取り入れたアイスクリームで、赤紫色の看板はブルガリアの夏の風物詩となっています。もちろん、地元のローカルなスタンドも固定ファンをしっかりとつかんで離しません。いずれも、値段は量り売りで100グラムで1レフ(本日のレートで約57円)程度だそうです。

 一方、レストランや家庭でのデザートも、夏のブルガリアは、ほぼアイスクリーム一色になります。なお、レストランのデザートでは、“パラチンカ”と呼ばれるクレープのようなものにアイスクリームを載せて出てくることもあります。

 アイスクリームのフレーバーとしては、日本でもおなじみのバニラやチョコレート、イチゴなどのほか、ヨーグルトやティラミス、クルミと蜂蜜、ピスタチオなどが人気だとか。切手の少女たちのように、照りつける日差しの中で味わうのなら、同じ白色のアイスクリームでも、濃厚なバニラよりも、さっぱりしたヨーグルト味のほうがよさそうです。

 
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 下記の通り、各地のよみうりカルチャーで公開講座を行います。ぜひ、ご参加ください。

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 よみうりカルチャー荻窪 7/9(土) 13:00~14:30

 詳細につきましては、それぞれの会場・時間をクリックしてご覧いただけると幸いです。


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 7月22-24日(金ー日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオリンピックとブラジル切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである日本郵趣連合のサイト(左側の“公式ブログ”をクリックしてください)のほか、フェイスブックのイベントページにて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2016チラシ

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。


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 ブルガリアとマケドニア
2015-08-25 Tue 23:41
 ブルガリアの国防当局は、きょう(25日)、史上最大規模の難民流入が続いている南西部のマケドニアとの国境地帯に軍を派遣する方針を発表しました。

      ブルガリア・べレス解放

 これは、1918年にブルガリアが発行した“ヴェレス(マケドニアの中部都市)解放”の記念切手です。

 地理的概念としてのマケドニアは、旧ユーゴ構成国だった現在のマケドニア共和国の領域に加え、ブルガリア南西部のペートリチ地方とギリシャ北部までを包摂する地域で、地中海・エーゲ海から中欧に至るルートの要衝であると同時に、穀倉地帯でもあったため、古くはブルガリア帝国とビザンツ帝国が領有権を争っていましたが、1430年以降はオスマン帝国の支配下に置かれていました。

 1860年代以降、バルカン半島ではスラブ系諸民族がオスマン帝国からの自立を目指す独立運動を展開。ブルガリアでも、1876年に4月反乱が起こりましたが、その鎮圧の過程で、4万人のブルガリア人が虐殺され、ヨーロッパ諸国に衝撃を与えます。

 こうした経緯を経て、1877年、バルカン各地のスラブ系諸民族を支援するためとして、ロシアがオスマン帝国に宣戦を布告して露土戦争が勃発。翌1878年、戦争はロシアの勝利に終わり、講和条約として結ばれたサン・ステファノ条約によって、オスマン帝国はドナウ川からエーゲ海まで到達する地域を“大ブルガリア公国”として、ブルガリアの自治を認めさせられました。この時点で、テッサロニキとトラキアを除くバルカン半島中央部がブルガリア領となり、マケドニアの大半はブルガリア領となります。

 しかし、大ブルガリア公国は、実質的にロシアの保護国であったことに加え、同国を通じてロシアがエーゲ海まで進出できるようになることから、列強諸国の反発を招き、同年のベルリン条約で大ブルガリア公国は3分割され、ブルガリア公国はバルカン山脈以北の地域に縮小。マケドニアはオスマン帝国の支配下に戻されます。

 以後、マケドニアの帰属をめぐっては、ブルガリアを含む周辺諸国がマケドニアの住民は“自民族”であることを根拠として、マケドニアの領有権を主張。1912-13年のバルカン戦争の結果、マケドニアはほぼ現在の国境に近い形でセルビア、ギリシャ、ブルガリアに分割されました。

 これに対して、ブルガリアは、第一次大戦中、セルビア領マケドニアを併呑することを意図してオーストリアやドイツとともに中央同盟側にたって参戦。マケドニアの革命組織もブルガリア軍と協力してセルビアと戦います。この結果、ブルガリア軍は一時的にセルビア領マケドニアからセルビア軍を駆逐。セルビア領マケドニアの重要都市であったヴェレスを占領し、今回ご紹介の記念切手も発行されました。しかし、大戦末期の1918年、セルビアとフランスの連合軍がマケドニア地方を再制圧し、ブルガリアは大戦中に獲得したマケドニア地方の占領地を放棄させられています。

 こうした歴史的経緯があるため、現在でも、ブルガリアでは、マケドニア人・マケドニア語はブルガリア人・ブルガリア語の一部であり、ブルガリアとマケドニアは歴史的に一体であるとの言説が支配的です。その一方、ブルガリア政府は、現在のマケドニア共和国の独立を認め、同国のNATOおよびEU加盟も積極的に支持しているなど、両国の関係はかなり複雑なものとなっており、そのことが、今回のブルガリア軍の対マケドニア国境への派遣の背景にあるということは留意しておいた方が良さそうです。
  

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 10月から毎月1回(原則第1火曜日:10月6日、11月3日、12月1日、1月5日、2月2日、3月1日)、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で下記の一般向けの教養講座を担当します。(下の青い文字をクリックしていただくと、よみうりカルチャーのサイトに飛びます)

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 初回開催は10月6日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 ドナウ川でチョウザメの稚魚放流
2015-08-11 Tue 23:30
 世界自然保護基金(WWF)ブルガリアは、きょう(11日)、絶滅のおそれがある野生のチョウザメをドナウ川に再導入するため、5万匹以上のチョウザメの稚魚をドナウ川下流に放流しました。というわけで、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・チョウザメ

 これは、1983年にブルガリアで発行されたダウリアチョウザメの切手です。

 ドナウ川下流、ルーマニアとブルガリアの国境地帯には、もともと、多くのチョウザメが生息していましたが、現在は、在来のチョウザメ類6種のうち5種について絶滅の恐れがあり、漁獲は禁止されています。その原因としては、水質の汚染やキャビアを取るための乱獲、さらに、カスピ海のチョウザメが違法に放流されていることによる生態系の破壊などが挙げられています。

 このため、EUでは漁獲禁止とされているドナウ川のチョウザメから採取された違法キャビアが流通しないよう厳しい監視体制(正規の手続きを経たキャビアには容器に適法シールを貼るなどの対策が取られています)を敷くとともに、WWFブルガリアと共同出資で稚魚放流プロジェクトにも取り組んでいました。その甲斐もあって、今夏はドナウ川で野生のチョウザメの個体数が増加。こうしたこともふまえ、3年越しのプロジェクトの集大成として、今回の放流が行われたそうです。

 まぁ、当面、ドナウ川でのチョウザメの禁漁措置は続くのでしょうけれど、いずれ状況が改善されて、その時には今回放流された稚魚から採取されたキャビアが市場に出回る日が来るかもしれませんね。


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 世界の国々:ブルガリア
2014-11-12 Wed 10:35
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2014年11月12日号が、先週、刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はブルガリアの特集です。その記事の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      フェルディナンド1世のブルガリア公位20周年

 これは、1907年にブルガリアで発行された“フェルディナンド1世のブルガリア公位20周年”の記念切手です。

 近代以前において、ブルガリアという名前の国は、歴史上、7世紀から11世紀前半に存在した第1次ブルガリア帝国、12世紀後半から14世紀末まで存在した第2次ブルガリア帝国がありましたが、1393年以降、この地域は長らくオスマン帝国の支配下に置かれていました。当然のことながら、1860年代にブルガリアの地で近代郵便が行われるようになった際も、オスマン帝国の郵便局がオスマン帝国の切手で料金を徴収し、郵便サービスを提供していました。

 ところが、1860年代以降、バルカン半島ではスラブ系諸民族がオスマン帝国からの自立を目指す独立運動を展開。ブルガリアでも、1876年に4月反乱が起こりましたが、その鎮圧の過程で、4万人のブルガリア人が虐殺され、ヨーロッパ諸国に衝撃を与えています。

 こうした経緯を経て、1877年、バルカン各地のスラブ系諸民族を支援するためとして、ロシアがオスマン帝国に宣戦を布告。露土戦争が始まりました。

 翌1878年、戦争はロシアの勝利に終わり、講和条約として結ばれたサン・ステファノ条約によって、オスマン帝国はドナウ川からエーゲ海まで到達する地域を“大ブルガリア公国”として、ブルガリアの自治を認めさせられます。しかし、同国は、実質的にロシアの保護国であったことに加え、同国を通じてロシアがエーゲ海まで進出できるようになることから、列強諸国の反発を招き、同年のベルリン条約で大ブルガリア公国は3分割され、ブルガリア公国はバルカン山脈以北の地域に縮小されました。

 ブルガリア公国は、ドイツ系のハッテンベルク家出身のアレクサンダル1世をブルガリア公とし、オスマン帝国に貢納する自治公国として出発しましたが、1908年、オスマン帝国内で近代化改革を求める青年トルコ革命がおこると、その混乱に乗じて、当時のブルガリア公で、ザクセン=コーブルク=ゴータ家出身のフェルディナンド1世はブルガリアの完全独立を宣言。翌1909年、独立は国際社会からも商人され、現在のブルガリア国家の直接の起源となるブルガリア王国が成立しました。

 今回ご紹介の切手は、この間の1907年に発行されたもので、オスマン帝国の臣下としてのトルコ帽をかぶった1877年の肖像と、洋装の1807年の肖像を対比させたデザインとなっています。

 さて、『世界の切手コレクション』11月12日号の「世界の国々」では、このほか、古代トラキア時代の遺跡や民族衣装・民族楽器の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、本日発売の11月19日号では、「世界の国々」はカンボジアにフォーカスを当てておりますが、こちらについては、来週水曜日に、このブログでもご紹介する予定です。


 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★

      チャンネルくらら写真

 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです)

 
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 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は1月6日(都合により、12月はお休みをいただきます)で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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        朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 68年ぶりの首脳会談
2014-11-11 Tue 19:06
 アルバニアのラマ首相が、きのう(10日)、セルビアを公式訪問し、ブチッチ首相と首都ベオグラードで会談しました。アルバニア首相のセルビア公式訪問は、旧ユーゴスラビア連邦時代の1946年以来、68年ぶりだとか。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックだ拡大されます)

      ブルガリア・バルカン競技大会

 これは、1946年7月6日にブルガリアで発行されたバルカン競技大会の記念切手で、アルバニア(左上)、ブルガリア(左下)、ルーマニア(右上)、ユーゴスラビア(右下)の国章を描く旗がならんで描かれています。前回、アルバニアとユーゴスラビアの首脳会談が行われた年の切手に、両国の国章が並んで取り上げられているというのがミソです。

 さて、バルカン競技大会は、1929年にギリシャ、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビアの4ヵ国で行われたヘレニック・アマテュア・競技大会が前身で、翌1930年以降、バルカン競技大会と改称して行われるようになりました。第二次大戦の影響で、1940年から1953年までは中断されていますが、戦後の1946年および1947年はバルカン・中欧競技大会の名称で、非公式開催されています。

 今回ご紹介の切手の発行名目となった1946年の大会は、上述のように非公式大会でしたが、アルバニアの首都ティラナで開催されました。なお、アルバニアでのバルカン競技大会の開催は、現在まで、このときが唯一の事例となっています。

 第二次大戦後の1946年に発足したアルバニアの共産主義政権は、“正統派マルクス・レーニン主義”の名の下、スターリン主義を忠実に自国に導入しようとしました。その過程で、当初は隣国のユーゴスラビアが多額の経済援助を行っていましたが(一時期、アルバニアの国家予算のほぼ半額にあたる援助をユーゴスラビアから受けていたこともあります)、ティトーを首班とするユーゴスラビアが独自の社会主義路線を歩んでソ連と対立し、1948年にコミンフォルムから追放されると、アルバニアは、ユーゴスラビアと国交を断絶し、親ソ路線を鮮明に打ち出しました。

 その後、1953年にスターリンが亡くなり、1956年にフルシチョフによるスターリン批判が行われると、アルバニアは、フルシチョフの対米宥和路線を“修正主義”として、これを激しく非難した中国に賛同。中ソ対立が深まる中で、親中国の姿勢を鮮明にし、ソ連・東欧諸国との関係を断絶しましたが、中国でも鄧小平による改革開放路線が始まると中国とも対立し、事実上の鎖国政策を取っていました。

 その後、東欧民主化の影響で、1990年から徐々に開放路線が採用され、1992年には戦後初の非共産党政権が誕生しましたが、こんどは、アルバニア系住民が多く住むコソヴォの問題をめぐって、アルバニアはユーゴスラビアおよびその後継政権としてのセルビア・モンテネグロ、ついでセルビアと激しく対立。この結果、きのうまで68年間にわたって首脳会談が行われないという状況が続いたわけです。

 さて、日本のメディアでは、きのう北京で行われた2年半ぶりの日中首脳会談の話題が大きく取りあげられていますが、アルバニアとセルビアの会談は68年ぶりだったわけですし、そもそも、そんなに頻繁に日中の首脳会談なんて行う必要があるのかと素朴な疑問を感じてしまいますな。

 * 昨晩、カウンターが144万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、この場をお借りして、お礼申し上げます。

 
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 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです)

 
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 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 琴欧州引退
2014-03-20 Thu 20:44
 大相撲でヨーロッパ出身として初めて大関になった琴欧洲が、きょう(20日)、現役引退を表明しました。というわけで、琴欧洲の出身国、ブルガリアの切手の中から、“欧洲”がらみのこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

       ブルガリア・EU加盟交渉開始

 これは、2000年2月15日、ブルガリアが発行した“EU加盟交渉開始”の記念切手で、EUを示す12の星の輪の中に延びるブルガリア国旗が描かれています。

 第二次大戦後、ながらくソ連の忠実な衛星国だったブルガリアですが、1989年には共産党政権が崩壊し、市場経済が復活します。これに対して、当時のECはブルガリアを含む東欧諸国に対する貿易制限を段階的に解除するとともに、市場経済への移行を財政的に支援するようになりました。

 当初、中・東欧の旧共産圏諸国のEC加盟については、そもそも可能なことか否かという点が議論になっていましたが、1993年6月、コペンハーゲンで開催された欧州理事会は、中・東欧諸国のEC加盟基準(コペンハーゲン基準)を決定。その後、1993年11月のEU発足を経て、1994年3月以降、旧共産主義諸国によるEUへの加盟申請が行われるようになります。ちなみに、ブルガリアが加盟申請を行ったのは、1995年12月14日のことでした。

 ただし、ブルガリアの社会状況とコペンハーゲン基準との隔たりが大きかったため、1999年12月、ヘルシンキで開催された欧州理事会でようやく加盟交渉の開始が決定。翌2000年2月15日、加盟交渉がスタートしました。今回ご紹介の切手は、それを記念して発行されたものです。

 その後も、ブルガリアのEU加盟に関しては、改革が不十分との理由で欧州理事会による再審査が行われるなど紆余曲折がありましたが、最終的に、加盟後も改革を継続するという条件で、2007年1月1日、いわば仮免状態でEU加盟を実現しました。

 ところで、今回引退した琴欧洲は、祖国ブルガリアのEU加盟交渉が始まった後の2002年11月場所で初土俵を踏み、2004年9月場所で新入幕。そして、2005年11月場所後に大関に昇進しています。これを受けて、2006年4月、EUは、祖国ブルガリアのEU加盟より一足先に、12の星の輪をあしらった“欧州旗”をデザイン化した化粧まわしを贈られています。これに対して、“欧州旗”は星が12しかないことから、「12勝しかできない」意味で縁起が悪いとの反発もあったようですが、「残り3つの星は大関が自分の力で勝ち取る」という激励の意味があるとして、丸く収めたのだとか。はたして、その後2008年5月場所では、14勝1敗の成績で初優勝を果たしています。

 すでに、琴欧洲は日本国籍も取得しており、引退後は琴欧洲親方として後進の指導に当たる予定だそうです。まずは「お疲れ様でした」と申し上げたいですな。

 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★   

 4月から、毎月1回(第1火曜日:4月1日、6月3日、7月1日、8月5日、9月2日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。(詳細はそれぞれ講座名をクリックしてください)

 ・朝鮮半島のことを学ぼう 時間は13:00-14:30です。

 ・イスラムを学ぶ 時間は15:50-17:00です。

 初回開催は4月1日で、講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 講座「世界紀行~月一回の諸国漫郵」のご案内 ★★★ 

亀戸講座(2014前期)・広告

 東京・江東区亀戸文化センターで、5月から毎月1回、世界旅行の気分で楽しく受講できる紀行講座がスタートします。美しい風景写真とともに、郵便資料や切手から歴史・政治背景を簡単に解説します。受講のお楽しみに、毎回、おすすめの写真からお好きなものを絵葉書にしてプレゼントします!

 詳細は、こちらをご覧ください。


 ★★★ 文京生涯カレッジ(第13期)のご案内 ★★★

 文京学院大学が一般向け(=どなたでも受講できます)にさまざまな講師を招いて行う通年の教養講座「文京生涯カレッジ」の第13期が4月15日から始まります。僕も、7月15・22日に「バスコ・ダ・ガマのインドを歩く」、9月9日に「ドバイ歴史紀行」のお題で登場します。詳細はこちらですので、よろしかったら、ぜひご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 ホウレンソウの切手
2011-03-22 Tue 17:28
 日本政府は、きのう(21日)、福島県、茨城県、栃木県、群馬県の4県に対して、ホウレンソウなど規制値を上回る放射性物質が検出した農産物に対して、出荷を停止するよう指示しました。というわけで、きょうはホウレンソウの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ブルガリア・ホウレンソウ

 これは、1995年にブルガリアが発行した「野菜」の切手の1枚で、ホウレン草が描かれています。我々が日本で普段目にするものとはちょっと雰囲気が違うのですが、ホウレンソウの学名“Spinacia oleracea”が切手に表示されているので、かの国ではホウレンソウといえばこういうイメージなのでしょう。

 さて、今回、出荷停止となったホウレンソウについて、放射線の健康被害に詳しい広島大の佐藤幸男名誉教授は「白血病やガンなどの症状が表れるのは、壬生町のホウレンソウから検出された値に対して数万倍のレベルで、人が1年間に浴びても問題ないとされる数値と比べても100分の1程度。長期間大量に摂取しない限り影響はない」と説明しています。また、枝野官房長官も「暫定基準値をこえる数値が測定されているが、これは人体に影響を及ぼすような数値ではない」と強調したうえで「たまたま数回にわたり、そうした飲食物を口にしたことによって、健康に影響を与える可能性はない、というのが専門家の認識なので、そういった意味では過剰な反応のないよう冷静に対応してほしい」と話しているとのことです。

 そうであるのなら、なぜ、出荷停止にする必要があったのか、納得の行く説明がほしいところです。報道によると、今回の出荷停止措置は、対象となる県の農産物に対する風評被害を食い止めることを狙いとしたものだそうです。しかし、人体にほとんど影響のない安全な農産物であるなら、そもそも出荷停止にする必然性はないわけで、それをあえて出荷停止処分にすれば、結果的に、多くの一般国民はその農産物が危険だという印象を強く持つのは避けられません。政府が自ら風評被害をあおっているとの批判は避けられないでしょう。

 そういえば、菅直人首相は、かつて厚生大臣時代にカイワレ大根が風評被害で売り上げを落とした時に、テレビカメラの前でカイワレを食べて見せたというパフォーマンスをやった前歴がありましたな。政権の維持と支持率回復のために、国民の不安を煽るだけ煽って、正義の味方よろしく、今回もホウレンソウを食べて見せるパフォーマンスをやるつもりなのかもしれませんが、そうだとしたら、こんなに国民をバカにした話はありません。

 一刻も早く、出荷停止措置が解除され、復興支援のためにも、茨城や福島のホウレンソウを毎日食べられる日が復活してほしいものです。

 PS “風評被害”で、全く関係のない地域のホウレンソウまで売れなくなっているという、実に馬鹿げた状況だそうですから、わが家では、今夜はホウレンソウの炒め物を作って、福島ないしは宮城の日本酒で晩酌をすることにしました。


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 切手が語る宇宙開発史(12)
2011-02-09 Wed 23:09
 雑誌『ハッカージャパン』の2011年3月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手が語る宇宙開発史」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

        ブルガリア・国際地球観測年

 これは、1958年にブルガリアが発行した「国際地球観測年」の記念切手で、ソ連の人工衛星と宇宙から見たユーラシア大陸北部が描かれています。

 第二次大戦中、枢軸側に立って参戦したブルガリアは、大戦後、ソ連の占領下で国民投票により王制が廃され、共産主義国家のブルガリア人民共和国となり、スターリンの側近で1943年までコミンテルンの書記長を務めたゲオルギ・ディミトロフが首相として独裁的な権力を行使しました。

 ところが、1948年、モスクワからの自立を志向していた隣国ユーゴスラヴィアのティトーが、スターリンに無断でディミトロフと関税同盟構想を推進したことでソ連とユーゴスラヴィアの関係が破綻。同年のコミンフォルム第2回会議で、ユーゴスラヴィアの追放決議が採択されます。

 翌1949年7月、ディミトロフがモスクワ近郊で療養中に急死(ソ連による粛清説が根強い)すると、ブルガリア国内では副首相であったトライチョ・コストフが“ティトー主義者”として逮捕・処刑され、ディミトロフの義弟であったヴルコ・チェルヴェンコフが共産党総書記ならびに首相として権力を掌握しました。チェルヴェンコフは純然たるスターリン主義者として農場集団化と工業化を加速させ、批判勢力を容赦なく強制収容所に送るとともに、教会を弾圧。米国との外交関係も断絶します。

 しかし、あまりにも極端なスターリン化政策は、1953年にスターリンが亡くなるとその後ろ盾を失い、チェルヴェンコフは1954年3月、共産第一書記の座を追われ、トドル・ジフコフが第一党書記として党を掌握しました。ただし、この時点では、1911年生まれのジフコフは若く一般的な知名度も高くはなかったため、チェルヴェンコフはひとまず首相の座にとどまっています。

 1956年2月、ソ連共産党の第20回党大会でフルシチョフがスターリン批判を展開すると、同年4月、ジフコフはブルガリア共産党大会を開催し、フルシチョフの脱スターリン路線を採用するとともに、フルシチョフの承認の下、チェルヴェンコフを解任しました。

 かくして、1989年まで33年の長きにわたってブルガリアに君臨するジフコフ体制が本格的にスタートします。

 ジフコフ政権は1989年の退陣まで“ソ連の16番目の共和国”と揶揄されるほどに親ソ的な政策をとり続けました。彼がフルシチョフの支持を政権の基盤としていたことを考えると、1957年10月4日のスプートニク1号の打ち上げ早々に人工衛星を取り上げた切手を発行していてもよさそうなものですが、実際には、国際地球観測年の名目でブルガリアがスプートニク切手を発行したのは1958年11月28日になってからのことでした。これは、当時、ソ連との関係が必ずしも良好とは言い切れなかった中国ポーランドよりも遅いのですが、その背景には、1957年の時点ではスターリン主義の清算の途上にあり、プロパガンダ政策の方向性も必ずしも定まっていなかったため、記念切手の発行も後手に回ったということなのでしょう。ソ連に忠実であるがゆえに、ソ連の政策転換の影響をまともに受けた結果ということができるのかもしれません。

 * 昨晩、カウンターが81万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

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 ブルガリア発祥の地
2008-05-25 Sun 21:48
 大相撲夏場所は大関・琴欧洲の初優勝で幕となりました。というわけで、ブルガリアがらみのネタの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ドブルジャ復帰

 これは、1940年9月20日、ブルガリアが発行したドブルジャ奪還の記念切手にドブリチの特印を押したものです。

 ドナウ・デルタを含むドナウ川下流域から黒海にかけての一帯はブルガリア語でドブルジャ、ルーマニア語でドブロジャといい、現在はその北部がルーマニア領、南部がブルガリア領となっています。このうち、ドブリチはブルガリア領ドブルジャの都市で、古くは、7世紀に建国された第1次ブルガリア帝国の発祥の地でした。

 1420年、ドブルジャ一帯はオスマン帝国に編入され、長らくその支配を受けていましたが、1829年になって今度はロシアがアドリアノープル条約によってドナウデルタの支配権を獲得します。その後、クリミア戦争の結果、ドナウデルタはオスマン帝国に返還されますが、1878年のベルリン条約により、ドブルジャは南北に分割され、北ドブルジャはルーマニア領に編入されました。

 一方、ブルガリアは1908年にオスマン帝国からの独立を宣言。これに伴い、南ドブルジャはブルガリア領となりましたが、1913年の第2次バルカン戦争で敗れたため、南ドブルジャはルーマニアに割譲されてしまいました。ちなみに、ルーマニア統治下では、今回の消印のドブリチはバザルジクと呼ばれていました。

 民族発祥の地を失ったブルガリアの不満は大きく、1919年にはドブルジャのブルガリアへの返還を求める大ドブルジャ会議が設立されます。同会議の下、1923年には内部ドブルジャ革命組織が結成され、ドブルジャの領土問題に関連して、国際連盟監視の下でのドブルジャの自治権確保を要求してルーマニア当局に対する武装闘争も展開されました。さらに、1925年には、ブルガリア共産党の影響を受けたドブルジャ革命組織が、内部ドブルジャ革命組織から分離し、ドブルジャのソビエト体制化を目指す活動を展開しています。

 第2次大戦が起きると、ブルガリアは枢軸国側に立ち、当初は中立国だったルーマニアに圧力をかけてクライヨヴァ協定を押しつけ、南ドブルジャの奪還に成功します。今回ご紹介の切手と特印は、これを記念したものです。
 
 独ソ戦の開戦後もブルガリアはソ連に対して宣戦布告をしませんでしたが、1944年9月、ソ連はブルガリアに対して一方的に宣戦を布告。ブルガリア領内に侵攻し、第2次大戦後はソ連の16番目の共和国とも揶揄された親ソ政権を樹立しました。ちなみに、共産党時代、ドブリチはソ連の軍人、ヒョードル・トルブキンの名前をとってトルブキンと改名されてしまい、ふたたびドブリチの名前が復活するのは共産政権崩壊後の1990年のことでした。

 さて、6月にブカレストで開催の国際切手展に合わせて、僕も出品者としてルーマニアに行く予定です。せっかくの機会なので、昨年刊行の『タイ三都周郵記』に続く切手紀行シリーズの第2弾としてルーマニアの本を作るつもりで、現在、にわか勉強を始めたところです。まぁ、なにか具体的な進展がありましたら、このブログでも逐一ご報告したいと思いますので、よろしくお願いします。

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
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