2019-11-30 Sat 05:21
中曽根康弘元首相が、きのう(29日)、亡くなりました。享年101歳。謹んでご冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます。以下、肩書などは当時のもの)
これは、1984年9月6日に韓国で発行された“全斗煥大統領日本訪問”の記念切手で、太極旗を背にした全斗煥と富士山が描かれています。 当時の韓国では、大統領の外遊や国賓の訪韓などの際には、両国の国旗を背景に、大統領と相手国の元首ないしはそれに準じる人物の肖像を並べてデザインするのが通例でした。したがって、1984年の大統領訪日の記念切手であれば、全斗煥と昭和天皇または中曽根首相の肖像を並べて取り上げるのが自然な対応となります。特に、中曽根に関しては、1983年4月のASEAN諸国歴訪の際、訪問国の一つであったフィリピンでは、マルコス大統領と並んだ形での肖像切手が発行されていたこともあって、全=中曽根の2人が並んだ切手が発行される可能性も高いとみられていました。 しかし、そもそも、当時の韓国内には、大統領の訪日に対して賛否が二分されており、賛成派が、両国の不幸な過去を清算し、新しい両国関係を形成するために大統領の訪日は不可欠であると主張したのに対して、反対派は、国民感情を考慮すれば大統領の訪日は時期尚早と反論していました。こうしたこともあって、実際に発行された記念切手では、全斗煥と太極旗は描かれているものの、日本に関しては、日章旗もなければ肖像もなく、富士山のみで表現するという異例なスタイルとなり、中曽根切手も幻に終わっています。 さて、1984年の全斗煥訪日は、前年(1983年)1月の中曽根訪韓の答礼として、9月6日から8日までの3日間の日程で行われたもので、韓国の国家元首が日本を公式訪問したのはこれが最初です。 9月6日、出発に先立ち、全斗煥は金浦空港で次のように演説しました。 「韓日間には不幸な歴史があり、忘れがたい痛手が我々の心のそこに残っていることも、私はよく承知している。しかし、今は未来のため前進すべきときであり、いつまでも過去にとらわれて前進を拒むべきではない…韓日両国の関係はいまや新しい時代に入ったのである…このような新しい幕開けのため、日本訪問を決意した」 6日の晩に開催された歓迎晩餐会で昭和天皇が「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」と述べられたことを受け、韓国政府は「意義ある表明であり過去に対する真摯な反省と見られる」とのコメントを発表。国際慣例では、国家間では“謝罪”という表現を使わないことを考えると、韓国政府としても、日本の象徴である天皇が“遺憾の意”を示したことは、実質的に“謝罪”の表明であるとの見解を示したわけです。 一方、両国首脳の会談は6・7日の両日にわたって行われ、北朝鮮問題への対応や在日韓国人の地位向上、貿易不均衡の是正、産業技術協力の拡大、サハリン残留韓国人問題などが話し合われています。また、政府要人の名前について、お互い、現地語で呼ぶようにしようという合意がなされ、メディアもこれに倣うことになったため、一部の報道では、全斗煥はゼントカンとして来日し、チョンドファンとして帰国するということになりました。 そして、8日、「朝鮮半島における平和と安全の維持が、日本を含む東アジアの平和にとって重要であり…韓日両国間の幅広い経済協力関係を増進させ、貿易均衡を図ることが重要である」との両国首脳の共同声明が発表され、歴史的な全斗煥訪日は無事に終了しました。 なお、この辺りの事情については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・東アジア歴史文化研究会 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。 参加費 2000円 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。 ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(金)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-29 Fri 11:47
米国の「香港人権・民主主義法」が、27日(日本時間28日)、トランプ大統領の署名により成立しました。というわけで、きょうは香港×人権のこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年に英領時代の香港で発行された“国際人権年”の記念切手です。 1965年の第20回国連総会で、世界人権宣言の採択から20周年にあたる1968年を“国際人権年”とする決議が採択され、加盟各国に対しては、この1年を通じて、人権および基本的自由の尊重をさらに助長し、発展させるよう努力することが要請されました。 国際人権年の最大のイベントとしては、4月22日から5月13日まで、テヘランで84ヵ国391名の代表を集めて行われた世界人権会議が挙げられます。同会議は、世界人権宣言採択以後の進展を見直し、将来のための活動計画をまとめることを目的に開催されたもので、すべての国家に対して人間の尊厳と平等に対する尊重の精神の下で成長する機会を青少年に提供するため、「教育のあらゆる手段」を活用するように求めていくことなどが決議されました。 国際人権年に際しては、世界各国が記念切手を発行していますが、今回ご紹介の香港切手もその1枚で、人権の炎がランプから出ているデザインになっています。 さて、今回成立した香港人権・民主主義法は、2019年6月、共和・民主両党の議員が超党派で法案を提出し、11月19、20日に上下院で賛成が圧倒的多数で可決していたものです。 1990年に制定された香港特別行政区基本法では、1997年の“返還”以降、50年間は、“一国二制度”の下、英国時代の制度を踏襲する“高度な自治”が維持されることになっています。米国は、これを踏まえて、“返還”以前の1992年に「米国・香港政策法」を制定。香港を中国本土とは異なる地域とみなし、関税やビザ発給などで香港を優遇してきました。 今回の「香港人権・民主主義法」は、米国務省に対して、毎年、中国が香港との“一国二制度”を守っているかどうかの検証を義務づけ、「米国・香港政策法」に基づく優遇措置が妥当なものか否か判断させるというもので、香港の自治や人権を侵害した人物に対し、米国への入国禁止や資産凍結などの制裁を科すことも盛り込まれています。 なお、「香港人権・民主主義法」の成立を受け、昨日(28日)、香港中心部の中環(セントラル)地区では、主催者発表で10万人が集まって、米国の支援に感謝する集会が開かれました。香港メディアの取材に対して、「雨傘運動」の元リーダーで民主活動家、黄之鋒氏は「英国などの欧州諸国でもドミノ式に呼応した動きが起きることを期待する」と述べていますが、このドミノの中に日本も加われるようにならないといけませんな。 * 昨日(28日)、アクセスカウンターが212万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・東アジア歴史文化研究会 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。 参加費 2000円 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。 ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(金)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-28 Thu 02:09
ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』第727号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、ソ連のルナ2号について取り上げました。その記事の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
1957年10月のスプートニク1号の打ち上げ成功以降、西側世界では、戦略爆撃機や戦略ミサイルの数において、ソ連は米国を凌駕しているという“ボンバー・ギャップ”や“ミサイル・ギャップ”の議論が説得力をもって語られていました。 実際には、米国は経済力・軍事力ともに終始一貫してソ連を圧倒していましたが、ソ連は、西側に蔓延していた“誤解”を活用して、「ソ連に対する圧力と攻撃は深刻な反撃を招きかねないので、ソ連とは一定の妥協をはかり、平和共存を目指すべきだ」という国際世論を誘導しようとします。その真の目標は、米ソ両国の軍縮という形式をとって、米国により多くの核兵器を削減させ、ソ連包囲網を緩和させようという点にあったことはいうまでもありません。 そうした誘導に沿って、西側世界でも、「ソ連の宇宙開発は純粋な科学技術研究で平和目的のものである」、「米国が膨大な核兵器を保有するがゆえに、ソ連は、自衛のため、やむを得ず最低限の核を保有しているのみである」といった論調がソ連に親和的な左派リベラル勢力を中心に盛んに唱えられるようになりました。 こうした世論工作の総仕上げとして計画されたのが、フルシチョフの訪米でした。 すでに1958年1月、フルシチョフはミンスクにおいて、“平和共存”に基づいて話し合いによる国際問題を解決すべく、首脳会談を提唱していましたが、1959年1月27日から2月3日にかけて開催されたソ連共産党第21回大会では、大会直前、第一副首相のアナスタス・ミコヤンが非公式訪米を成功裏に終えたことを受けて、次のように演説しています。 我々はすでに何度も、ソ連と米国という二大国が平和維持のうえで大きな責任を持っていることを指摘した。…両国間においては、お互いに領土的要求はいままでも存在しなかったし、現在も存在していない。両国民が衝突する理由はないのに、ソ連と米国の関係は長期にわたって変則的なままである。…米国にも、ソ連との善隣友好関係の支持者の数が増えていることは、訪米したミコヤンに対する歓迎ぶりからも明らかである。…(平和共存の)途をとるからには、両当事者は大きな相互理解の努力、大きな忍耐力、そして、もし望むなら、大きな寛容を発揮しなければならない。 これを機に、フルシチョフ訪米のための地ならしが本格的に始まり、1959年6月には第一副首相のフロル・コズロフが訪米。7月24日には、モスクワで開催の“米国産業博覧会”の開会式に出席するという名目で米副大統領リチャード・ニクソンがモスクワを訪問します。 博覧会会場に展示してあった米国製のキッチンおよび電化製品を前に、フルシチョフとニクソンは、米国の自由経済とソ連の計画経済を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論。その際、ニクソンが消費財の充実と民生の重要性を堂々かつ理路整然と語ったのに対して、フルシチョフは自国の宇宙および軍事分野における成功を感情的にまくしたてていました。いわゆる“キッチン論争”です。 キッチン論争でのフルシチョフの態度は、ソ連の経済力が米国に到底及ばないことを熟知していたが故の焦りによるものであるのは明らかでしたから、米大統領のアイゼンハワーは、豊かで自由な米国社会を実際に見せれば、フルシチョフは、いっそう平和共存路線にかじを切るだろうと考えていました。 かくして、1959年9月15日から27日までの13日間、フルシチョフは、夫人と3人の子供ともども、アイゼンハワーの招待を受けて、ソ連首相として初の訪米を果たします。 米国側は、フルシチョフに対してアイオワ州の成功した個人経営の大農場を見せ、社会主義型の国営農場・集団農場の失敗を認めさせようとしましたが、もとより、フルシチョフも本心では米国の優位を十分に認識していましたから、社会主義の優位を象徴する宇宙開発の実績を強調しつつ平和共存を訴えざるを得ませんでした。 さらに、国連総会に出席して、世界各国の軍備全廃を提案したフルシチョフは、9月25-27日、メリーランド州キャンプ・デイヴィッドにあるアイゼンハワーの別荘で首脳会談を行います。会談では、軍縮、ベルリン危機、貿易、人物交流などの諸問題について話合いが進められ「すべての重要な国際問題は、武力に訴えることなく、交渉による平和的手段によって解決されるべきである」ことについて意見が一致。その一方で、フルシチョフは、アイゼンハワーにルナ2号が月に運んだペナントのレプリカを渡しながら、「米国も必ずや月に到達してソ連のペナントを見つけるでしょう。ソ連のペナントがお待ちしていますよ。米ソのペナントは、きっと、平和と友好の下に共存することになります」と得意げに語ったそうです。 フルシチョフ帰国後の10月27日、ともかくも米ソ首脳会談が無事に終了したことを受けて、ソ連は、今回ご紹介の切手を発行しました。そのデザインは、ワシントンの連邦議事堂とモスクワのクレムリンの間に地球を描き、宇宙空間におけるソ連の優位を暗示させるようなものとなっています。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・東アジア歴史文化研究会 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。 参加費 2000円 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。 ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(金)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-27 Wed 02:57
アフリカのジブチでは、先週からの断続的な豪雨で洪水が発生し、今後、被災者が15万人を超える大規模災害となる恐れもあるとされていますが、防衛省は、きのう(26日)、海賊対処活動中の自衛隊の地上支援部隊、約110人の一部を国際緊急援助隊としても兼任させることを明らかにしました。救助隊は、浸水地域のポンプを使った排水作業などの活動を行うそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1894年、仏領時代のジブチで発行された1サンチーム切手で、現地兵を描く枠の中に、当時のジブチの風景が描かれています。 19世紀半ば、コーチシナ方面に進出を開始したフランスは、1862年、中継基地として、アデン湾に面したオボックをアファル人(エチオピア系)の首長から租借します。その後、1869年のスエズ運河開通を経て、1880年代にフランスのインドシナ進出が本格化すると、1881年、フランスはオボックにフランス・エチオピア通商会社を設立。さらに、1884-88年、現地司令官のラギャルドはエチオピア帝国の皇太子、サーレ・マリアム(1889年、皇帝メネリク2世として即位)との関係を構築してジブチの土地を獲得し、1888年、ジブチ港の建設を開始しました。 この頃、1884年には英領ソマリランド(現在のソマリランド国家の領域に相当)が成立したほか、1889年にはイタリアがエチオピアとのエリトリア戦争に勝利し、エチオピアはウッチャリ条約でエリトリアを割譲。さらに、1892年、イタリアは現在のソマリアの首都・モガディシュを租借地とし、イタリア語風にモガディシオと改称していました。 こうしたイタリアの進出に対抗すべく、エチオピア皇帝メネリク2世はフランスに接近し、1894年、ジブチからエチオピアのハラールまでの鉄道敷設権をフランス企業に付与。これを受けて、1896年、フランスは、オボックとジブチを含む紅海の入口・アデン湾奥の西岸を“仏領ソマリ(ソマリコースト)”として植民地化しました。なお、仏領ソマリの民族構成は、ソマリ系のイッサ人が60%、エチオピア系のアファル人が35%です。 第二次大戦後の1960年6月26日、“アフリカの角”北部の英領地域がソマリランド共和国として独立。7月1日には南部のイタリア領地域も独立し、この両者を統合して、現在、国際社会が認知しているソマリア国家が誕生します。ソマリア独立後の初代大統領、アデン・アブドラ・ウスマンは、国家統合を進めるため、すべてのソマリ人はソマリア国家の下に集結すべきとする“大ソマリア主義”を強調し、仏領ソマリならびにケニアとエチオピアのソマリ人居住地域の併合をはかり、摩擦を引き起こしました。 一方、1960年代初頭、アフリカの仏領植民地が相次いで独立する中で、仏領ソマリではソマリ系のイッサ人とエチオピア系のアファル人の対立のため、単一国家としての独立は困難な状況でした。このため、1967年、仏領ソマリでは独立の是非を問う住民投票が行われたものの、住民は仏領への残留を選択。これを受けて、住民構成に考慮して、仏領ソマリは仏領アファル・イッサに改称。この仏領アファル・イッサが、1977年、首都ジブチの名を冠して、現在の“ジブチ共和国”として独立します。 さて、ソマリア沖・アデン湾での海賊対処は海上自衛隊が2009年から開始し、2011年からは、ジブチ国際空港北西地区の約12ヘクタールの敷地を借り、隊員宿舎や事務所、整備格納庫を設け、自衛隊初の海外拠点として運用しています。 アデン湾での海賊対処には約30カ国が軍艦などを派遣し、ピーク時の2011年に237件あった海賊事案は2015年には0件となり、昨年も9件にとどまりました。海賊対処が終われば、ジブチ政府から“当面の措置としてのみ認められた”拠点を維持する根拠も失われますが、ジブチはインド洋と地中海を結ぶ海上交通路の要衝として利用価値が高く、2013年のアルジェリア人質事件のようにアフリカで在外邦人保護が必要になれば自衛隊機による救出と輸送の中継地として活用できるほか、国連平和維持活動(PKO)の物資輸送の経由地としても使われてきました。さらに、中国がジブチに初の海外軍事基地を設けたこともあり、これに対抗する必要もあり、わが国は、海賊対処の終了後も、引き続きジブチの拠点を維持・活用してきました。 今回の救援隊の派遣について、河野太郎防衛大臣は、「これまでも非常に友好的にジブチでは拠点として活動させて頂いておりましたので、そういう意味で少しでも友好関係、恩返しができればと思います」と述べました。自衛隊の皆さんが無事に任務を終え、ご帰国なさるよう、お祈りしております。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・東アジア歴史文化研究会 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。 参加費 2000円 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。 ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(金)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-26 Tue 01:13
中国と香港の両政府への抗議デモが続く香港で、おととい(24日)行われた区議会選挙は、昨日(25日)午後、開票が終わり、全452議席のうち民主派が8割を超える385議席、親中派59議席、その他8議席という結果で、民主派が圧勝しました。というわけで。香港で“勝利”といえば、やはりこの切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後の1946年8月に香港で発行された“戦勝記念”の30セント切手です。この切手は、シートの2番切手(今回の画像では右側の切手)に、香港の“港”の字に“ひげ付き”と呼ばれる定常変種のバラエティがあるため(下の画像)、今回はあえて、ポジションのわかるペアの画像をご紹介しました。 第二次大戦中の1941年12月25日以降、香港は日本の占領下に置かれていましたが、1945年9月2日の降伏文書調印を経て、9月16日、英海軍司令官のハートコートが日本軍の降伏を受け入れて、占領行政は完全に終結。その後、英軍政庁による戦後復興政策は急ピッチで進められ、1945年9月28日には香港中央郵便局に、10月1日には九龍郵便局に、それぞれ、戦前と同じデザインのジョージ6世の肖像の入った切手が配給されました。 1945年末には、占領中、60万人程度にまで落ち込んでいた香港の人口が100万人規模にまで回復。戦前の香港総督だったヤングも満洲の収容所から解放され、ロンドンを経て、年末までには香港に帰任し、1946年4月末をもって軍政庁は廃止され、5月1日からは戦前同様の総督府による支配が再開されました。 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下、占領中に赤柱の収容所に抑留されていた中央郵便局長が、解放の日を夢見て1943年に描いたスケッチを元に作られたもので、“鳳凰復興 漢英昇平”のスローガンも入れられています。これは、「(日本軍に占領されて死に瀕していた)鳳凰の復活は、華人と英国人にとっての平和回復の象徴だ」という程度の意味ですが、“漢英”というかたちで華人とイギリス人が併置されている点は、やはり、この時代の空気を象徴しているといえましょう。 ちなみに、この切手は当初、終戦記念日の1946年8月15日に発行される予定でしたが、英本国からの到着が遅れたため、英軍再上陸の記念日にあたる8月29日に発行されています。この辺りの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しく触れておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 なお、現行の制度下では、香港の区議会には地域の法律や予算を決める権限はなく、地域の問題で政府に提言する役割しかありませんが、452議席を1人1票の直接選挙(小選挙区制)で選ぶため、民意がストレートに反映されるものとして大きな意味があります。また、2022年に予定されている行政長官選挙で、投票資格を持つ選挙委員(1200人)のうち、117人は区議の互選で選ばれますが、今回の選挙結果がそのまま反映されれば、117人の全てを民主派が占めることになり、全選挙委員のうち民主派が440人を超える見通しです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・東アジア歴史文化研究会 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。 参加費 2000円 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。 ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(金)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-25 Mon 00:37
きょう(25日)は、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』の奥付上の刊行日です。というわけで、現在のプロフィール画像にも使っている表紙カバーで取り上げた郵便物についてご説明いたします。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1944年3月14日、モノヴィッツのアウシュヴィッツ第3収容所に駐在していたイーゲー・ファルベン社(以下、IGファルベン)のスタッフがベルリンのジーメンス・シュッケルトウェルケ社宛に差し出した書留便です。 宛先のジーメンス・シュッケルト社は、現在のジーメンス社(日本法人のカタカナ表記はシーメンス社)の前身で、1847年、電気技術者のウェルナー・フォン・ジーメンスと機械技術者ヨハン・ゲオルク・ハルスケがベルリンで設立した合名会社ジーメンス・ウント・ハルスケ商会がその起源です。 当初は、電信機器の製造と電信ケーブルの敷設業務を行っていましたが、1866年、発電機の発明を契機に重電部門の比重を高め、1879年のベルリン勧業博覧会で世界初の電気鉄道の実験に成功。1880年代初めには、電気照明、電動機の分野に進出しました。 ジーメンス・ウント・ハルスケ商会は、1890年に合資会社に、1897年に株式会社のジーメンス・ウント・ハルスケ社になり、19世紀末には、職員2000人、労働者1万2000人を数え、ベルリン、ウィーン、サンクトペテルブルク、ロンドンに工場を設けた一大企業に成長します。 1903年、ジーメンス・ウント・ハルスケ社は、シュッケルト電気株式会社を吸収し、重電部門を総括するために、この郵便物の宛名であるジーメンス・シュッケルトウェルケ社を資本金9000万マルクで設立しました。なお、ジーメンス・シュッケルト社は、第二次大戦後の1966年、ジーメンス・ハルスケ社と一本化して、現在のジーメンス社が誕生しました。 今回ご紹介の郵便物の宛先は、ジーメンス社の組立部門になっていますので、モノヴィッツの工場で使う機械類についての書類が同封されていたのかもしれません。なお、民間企業間の国内便のため、差出時に収容所が検閲することもなければ、逓送途中での開封・検閲を受けた痕跡もありませんが、I.G.ファルベンの社内的な機密保持のためにチェックを受けたことを示す“KONTROLLE”の文字が入った角形の印が押されているのが目を引きます。 拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』では、いわゆる強制収容所の収容者の郵便物のみならず、関連の軍事郵便や収容所と深い関係のあった企業の郵便物などもいろいろとご商j解しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・東アジア歴史文化研究会 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。 ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(金)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-24 Sun 11:08
ローマ教皇フランシスコ猊下(以下、教皇フランシスコ)が、きのう(23日)、東京に到着しました。教皇の訪日は、1981年のヨハネ・パウロ2世以来、38年ぶり2回目のことです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2014年にヴァティカンが発行した教皇フランシスコの切手のうち、教皇として初の外遊となった2013年のブラジル訪問を題材とした1枚です。 ローマ教皇フランシスコ(本名:ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)は、1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスで、イタリア系移民の子として生まれました。 ブエノスアイレス大学で化学の修士号を取得した後、1958年、イエズス会に入会。サン・ミゲル市のサン・ホセ高等学院で哲学を学び、1969年12月、司祭に叙階。ついで、サン・ミゲル神学院で修士号を取得した後、1973-79年にはアルゼンチン管区長に任ぜじられました。その後、サン・ミゲル神学院の主任司祭、コルドバ(アルゼンチン)のイエズス会士たちの聴罪司祭、ブエノスアイレスの補佐司教およびアウカの名義司教を歴任し、1992年、司教に叙階されます。 1998年2月、カラチーノ枢機卿の死去により後継としてブエノスアイレス大司教に就任。さらに、2001年2月、教皇ヨハネ・パウロ2世によって枢機卿に任命され、ヴァチカンの教皇庁において、典礼秘跡省、聖職者省、奉献・使徒的生活会省、家庭評議会、ラテンアメリカ委員会の委員を務めています。 2005年にヨハネ・パウロ2世が死去した際には新教皇の有力候補となったものの選出されず、2013年2月末でベネディクト16世が生前退位すると、3月13日、新教皇の選挙権を持つ80歳未満の枢機卿全体の3分の2を大きく上回る90票以上の得票をもって第266代教皇に選出されました。ヨーロッパ以外の地域の出身者がローマ教皇に就くのは、シリア出身のグレゴリウス3世(在位:731年-741年)以来1272年ぶりで、アメリカ大陸出身者、イエズス会出身者として初の教皇です。教皇としての名前“フランシスコ”はアッシジのフランチェスコに由来します。 新教皇としての選出後、日本のカトリック中央協議会は「本人は“フランチェスコ”とイタリア語で発音したが、日本では英語の発音で“アッシジの聖フランシスコ”との呼び名が定着しているので、混乱を避けるため、報道機関も英語読みで統一してほしい」とメディアに対して要請。その際、“アッシジのフランチェスコ”との混同を避けるため、日本のキリスト教会は“1世”を付けて呼ぶことも付言されていましたが、その後、教皇庁が、「別の教皇が将来、同じ名前を継いで“フランシスコ2世”となるまでは“フランシスコ1世”ではなく“フランシスコ”が正しい」と指摘。新教皇名には“1世”を付けないことになりました。なお、ご本人は、自らは“教皇”を名乗らず、就任後も一貫して“ローマ司教”の呼称を用いています。 さて、教皇フランシスコは、就任翌日の2013年3月20日、はやくもブラジルのジルマ・ルセフ大統領と会談し、リオデジャネイロ州の“ワールドユースデー”と、サン・パウロ州にあるマリア巡礼地のアパレシーダを訪問する意向を示唆。これを受けて、5月7日、ヴァチカンは正式に教皇の訪伯を発表しました。 ちなみに、ワールドユースデイは、1984年に教皇ヨハネ・パウロ2世の提唱で始まった青年カトリック信者の年次集会で、第28回にあたる2013年は、『マタイによる福音書』第28章第19節の一節「あなたがたは行って、すべての国民を弟子としなさい」をスローガンとして、7月23日から28日まで、リオデジャネイロを会場として教皇によるミサが行われました。 教皇がリオデジャネイロに到着したのは7月22日でしたが、車で歓迎式典へと向かう途中、沿道に詰めかけた信徒に取り囲まれて立ち往生して予定の時間を大幅に遅れたことに加え、当時はブラジル各地で反政府運動が展開されており、セキュリティーの面で懸念があったため、最終的にはヘリコプターでの会場入りとなったそうです。 その後、翌23日に一日休養を取った後、24日、教皇はサンパウロ州の聖母伝説の地アパレシーダを訪問し、巡礼聖堂でミサを行いました。25日にはリオデジャネイロに戻り、スラム街の一つマンギニョス地区を訪問し住民と面会した後、コパカバーナ海岸でワールドユースデーの歓迎式典に出席。26日にはワールドユースデーに参加した若者らに許しを秘跡を与えたほか、8人の少年受刑者との面会し、十字架の道行きに青年信徒らと参加しています。さらに、27日の“祈りの前夜祭”とミサは、当初の予定では、アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港で行われるはずでしたが、悪天候のため、会場をコバカバーナ海岸に移して行われています。その際、「若者は変革の立役者であってほしい」としてブラジルでの反政府デモに一定の理解を示したことが注目されました。28日には、同じくコパカバーナ海岸で閉会のミサを行い、翌29日に帰国しました。 ちなみに、今回ご紹介の切手では、ワールドユースデイの開催地・リオデジャネイロのシンボルとしてコルコヴァードのキリスト像を取り上げているわけですが、じつは、前教皇のヴェネディクト16世は、2012年11月、「リオデジャネイロを見下ろすコルコヴァードの丘の贖い主キリストの像は、その腕を広げて彼のもとにやって来るすべての人々を受け入れ、その心はあなたがた一人ひとりに向けられた無限の愛を表している」とのメッセージを発していました。この時点で、ベネディクト16世ご本人がリオデジャネイロに行く意思があったのか、それとも、すでに退位の意向を固めて次の教皇に行ってもらうつもりだったのか、そのあたりは、ご本人以外は「神のみぞ知る」といったところでしょうか。 なお、コルコヴァードのキリスト像と関連の切手・郵便物については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも1章を設けておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・東アジア歴史文化研究会 12月12日(木) 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。 ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(金)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-23 Sat 02:44
きょう(23日)は勤労感謝の日(もともとは収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する新嘗祭の日)です。というわけで、農家の方々に感謝して、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1940年7月19日、アウシュヴィッツからニーダーザクセン州のヴォルフェンビュッテル宛に差し出された軍事郵便絵葉書で、絵面に取り上げられたピョトゥル・スタヒェヴィチの絵画「ポドレ(南部ポーランドのレッサーポーランド県の村)の花嫁」には、収穫を前にした麦畑を背景とする花嫁が描かれています。 なお、この葉書には、親衛隊を示す“SS”の表示がないことに加え、収容所からの発信を扱ったアウシュヴィッツ2局ではなく、アウシュヴィッツ域内で収容所以外からの発信を扱ったアウシュヴィッツ1局の印が押されていますので、おそらく、収容所を管理していた親衛隊員ではなく、アウシュヴィッツないしはその近郊に駐屯していた国防軍の占領部隊の兵士が差し出したものでしょう。 絵葉書は、1939年9月にドイツがポーランドを占領する以前にクラクフで印刷されたものです。絵の作者、スタヒェヴィチは、1858年、ハプスブルク支配下のポジーリャ(現在はウクライナ領)に生まれ、1938年にクラクフで亡くなったポーランド人画家で、この絵葉書に見られるように、南ポーランドの伝統文化に題材をとった美人画を数多く残しています。 ドイツ占領下のポーランドでは非スラブ化政策が推進されており、占領当局としては、スタヒェヴィチを“好ましからざる画家”と認定していたはずですが、実際には、兵士たちの間ではローカルな美人画は人気があったようで、この葉書に見られるように、将兵が軍事郵便に使用することは黙認されていました。 ちなみに、昨日(22日)からアマゾンでも取り扱いが始まった拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』では、収容者の通信に加え、関連する軍事郵便についてもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(22日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は12月13日の予定(仮)ですので、引き続き、よろしくお願いします。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・東アジア歴史文化研究会 12月12日 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。 ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-22 Fri 00:35
ご報告がすっかり遅くなりましたが、『東洋経済日報』10月18日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、今上陛下のご即位にあわせて、旧韓国皇帝の即位に関するマテリアルとして、こんなモノをご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1907年8月27日、日本の韓国統監府が発行した“韓国皇帝陛下即位紀念”の絵葉書です。 旧朝鮮王朝(李氏朝鮮)では朝鮮王は26人、大韓帝国の皇帝は2人の君主が存在しましたが、朝鮮最初の切手が発行された1894年以降、即位礼を経験しているのは高宗と純宗の2人だけです。 このうち、高宗に関しては、1897年10月、国号が“朝鮮”から“大韓”に変更されたことに伴い、朝鮮王あらため大韓帝国皇帝として改めて即位したものですが、この時の即位に際して記念切手などは発行されていません。 ところで、1904-05年の日露戦争は、朝鮮半島の支配権をめぐって日本とロシアが争った戦争でしたから、この戦争に勝利を収めた日本は、1905年11月、第2次日韓協約を結んで、大韓帝国を保護国化し、韓国統監をおいて外交権を接収します。 これに対して、皇帝の高宗は、1907年6月15日、オランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を直接派遣し、列強諸国に大韓帝国の外交権保護(第2次日韓協約の無効化)を訴えようとしました。 ところが、会議に現れた密使たちに対して、出席していた列強諸国は、大韓帝国の外交権が日本にあること、大韓帝国の利益は条約によって日本政府が代表していることなどを理由に、3人の会議出席を拒絶。そこで、密使たちは会議場の外でビラ撒きなどの抗議行動を行ったとされています。 いわゆる“ハーグ密使事件”です。 当然のことながら、韓国皇帝による密使の派遣は、(その是非はともかく)大韓帝国の外交権が日本にあると定めた第2次日韓協約に違反していましたから、日本は韓国を強く非難。高宗は譲位を余儀なくされ、7月20日、息子の李坧が皇帝として即位し、8月2日には元号も“光武”から“隆熙”に改元されました。 ところで、日露戦争中の1905年4月に結ばれた「韓国通信期間委託ニ関スル取極書」により、大韓帝国の郵便事業は1905年7月1日をもって日本郵政に接収されており、純宗が即位した時点では、韓国には自前の郵便事業は存在していませでした。 とはいえ、純宗が即位した時点では、大韓帝国そのものが消滅してしまったわけではありませんから、日本の統監府としては、彼らが接収した旧韓国郵政に代わり、新皇帝の即位を記念する切手ないしは葉書を発行する必要に迫られました。しかも、上述のように、高宗は日本の圧力によって退位させられたのであって、崩御したわけではありませんから、“諒闇中(服喪期間)”を理由に、新皇帝即位の記念行事などを先延ばしにすることもできません。 このため、新帝即位後の1907年8月27日、統監府は急遽、“韓国皇帝陛下即位紀念”として今回ご紹介の絵葉書を発行し、記念印を使用することにしました。 葉書に取り上げられた純宗は伝統的な韓服姿で冠帽をかぶっていますが、その上に、ドイツのピッケルハウベ(頭頂部にスパイク状の頭立が付いたヘルメット)を思わせる西洋式の被り物が配されています。 この被り物は、皇帝の象徴として認知されていたようで、記念印のデザインにも大きく取り上げられました。なお、記念印は正規の郵便印であるため、朝鮮での郵便事業を行う日本の年号として“明治40年8月27日”の日付が入っていますが、韓国皇帝の即位を記念するものとして韓国式に“隆熙元年陰暦7月19日”の日付も併記されています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 11月22日(金)05:00~ 文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・東アジア歴史文化研究会 12月12日 18:30~ 於常圓寺祖師堂ホール 朝鮮半島現代史の“原点”についてお話しします。 詳細は、主催者(東アジア歴史文化研究会)まで、メール(アドレスは、e-asia★topaz.ocn.ne.jp スパム防止のため、ここでは、★を@に変えています)にてお問い合わせください。 ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-21 Thu 00:18
きょう(21日)は11月の第3木曜日。いわずと知れたボジョレー・ヌーボーの解禁日です。というわけで、ボジョレーだけがワインじゃないよということで、毎年恒例、フランス以外のワイン関連の切手の中から、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』にちなんで、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1955年にポーランドが発行した“西方領土回復10周年”の記念切手のうち、ポーランド国内ではワインの生産で有名なジェロナ・グラを取り上げた1枚で、切手の上部には、そのことを示すように、ブドウが描かれています。 現在のポーランド国家の領域の大半は寒冷すぎてブドウの栽培には不向きですが、それでも、西部のルブシュ県ジェロナ・グラとマゾフシェ地方のヴァルカでは白ワインが生産されています。 ジェロナ・グラ周辺では、1250年以降、パラディジ修道院の聖職者らがワインを作ってきた記録があり、1314年には最初のワイナリーが建設。最盛期にはこの地方で約4000ヵ所のブドウ畑がありましたが、そのうち、2500ヵ所がジェロナ・グラに集中していました。この地域で最も有名なワインの“モンテ・ヴェルデ”は、イタリア語で“緑の山”の意味ですが、ジェロナ・グラというポーランド語の地名も、またドイツ語地名の“グリューンベルク”も同じ意味です。 1742年、この地はドイツ語名の“グリューンベルク”としてプロイセン王国に併合され、1871年のドイツ統一によってドイツ帝国の一部となります。第一次大戦後はヴァイマル共和国のニーダーシュレージエン県に編入され、1922年4月から1933年9月末までは独立市の地位を維持していました。 第二次世界大戦末期の1945年、ソ連赤軍に占領され、戦後のポツダム会談を経て、ポーランドの管理下に移管。これに伴い、残留していたドイツ系住民は追放され、ソビエトが併合した旧ポーランド領からやってきた人々が市へ移住し、市の名称もポーランド語名のジェロナ・グラに改名されています。共産主義体制下では、ジェロナ・グラでのワイン生産は減少しましたが、民主化を経て、1990年に復活しています。なお、現在のワイン生産はジェロナ・グラ近郊が中心で、同市内ではワイン生産は行われていませんが、それでも、毎年、市内ではジェロナ・グラ・ワイン・フェスティヴァルが開催されています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 11月22日(金)05:00~ 文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-20 Wed 00:04
きょう(20日)は二の酉です。というわけで、一の酉の時と同様、最新の拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』の早期重版を祈念して、同書で取り上げた“鳥”のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1944年9月2日、ドイツ占領下のアムステルダムからアウシュヴィッツ第3収容所(モノヴィッツ)に隣接していたイーゲー・ファルベン社(以下、IGファルベン)監査部宛のカバーで、1941年に発行された鳩と数字のデザインの10セント切手が貼られています。 アウシュヴィッツ収容所のうち、ビルケナウの第2収容所がユダヤ人等の虐殺に力点を置いていた“絶滅収容所”の性格が強かったのに対して、第1収容所から約7キロ東のモノヴィッツにあったIGファルベンの工場に隣接して第3収容所は、収容者の安価な労働力を工場に動員するための施設でした。 IGファルベンは、第一次大戦後の1925年、ドイツの6大化学工業会社であるバーディッシュ・アニリン・ウント・ソーダ工業(現バスフ=BASF)、フリードリヒ・バイエル染料(現バイエル)、アグファ(現アグファ・ゲバルトの前身)、ワイラー・テル・メール化学、グリースハイム・エレクトロン化学工業、ヘキスト染料(現ヘキスト)の合同により生まれたトラストで、社名のIGは“利益共同体”の意味です。本社はフランクフルト・アム・マインにあり、資本金は11億マルクでした。 ヒトラー政権が誕生する以前の1932年頃からナチスに接近し、ヒトラーが政権を掌握した後は、4ヵ年計画庁に技術者として多くの人材を送り込み、政権との関係を強化。1939年の第二次大戦勃発以降は戦争にも積極的に協力し、ユダヤ人の大量虐殺に使われた毒ガス、ツィクロンBは子会社のデゲッシュがパテントを有していました。 IGファルベンとアウシュヴィッツとの密接な関係は、1941年1月、同社の役員だったオットー・アンブロスが現地を視察し、アウシュヴィッツ東郊のソワ川とヴィスワ川の合流地点に、700万マルクを投じて年間3万トンの生産能力を有する合成ゴム工場BUNAを建設することを決定したところから始まります。ちなみに、アウシュヴィッツ第1収容所でツィクロンBの人体実験が行われたのは、1941年9月のことでした。 工場の建設は、私企業としてのIGファルベンの経済活動として進められましたが、ドイツ政府はこの計画を積極的に支援し、該当する土地から住民を退去させること、第1収容所から8000-1万2000人の労働者・作業員を派遣することを決定。3月下旬には、IGファルベンと収容所を管理していた親衛隊との間で協議が行われ、IGファルベンが未熟練労働者1人につき3マルク、熟練労働者1人につき4マルクを支払うこと、収容者の労働時間についても、夏季は1日10-11時間、冬季は1日9時間とすることが決められました。 これを受けて、1941年4月7日、アウシュヴィッツ第1収容所の収容者たちを動員してのBUNAの建設作業が始まり、1942-44年にかけて、IGファルベンのほか、クルップやシーメンスなど、ドイツを代表する大企業の製造プラントなどに付随して、大小あわせて40の収容施設が作られ、多くの収容者が過酷な労働に従事させられました。これが、モノヴィッツの第3収容所です。 さて、今回ご紹介のカバーは、そのモノヴィッツ宛にドイツ占領下のアムステルダムから発信されたもので、裏面に押されている国章入りの印に“C”の文字が入っていることから、“経由地のケルンで開封・検閲されていることがわかります。 1940年5月15日に降伏したオランダでは、17日にドイツの占領行政が始まり、28日、合邦前の最後のオーストリア首相で1939年10月からはポーランド総督府副総督を務めていたアルトゥル・ザイス=インクヴァルトが“占領地オランダの国家弁務官”として赴任。同弁務官の下、ハーグに置かれたドイツ政府占領行政機関が直接に統治しました。この間、ウィルヘルミナ女王や首相は英国へ亡命しましたが、郵便を含むオランダ官僚機構はそのまま残されており、オランダ人官僚の多くはドイツの占領行政に協力的でした。 ところで、1928年11月以降、オランダの郵便料金体系では、国内宛の書状基本料金は、市内便が5セント、市外宛が7セント半、外信便は一般には12セント半でしたが、ベルギー宛は10セントの割引料金が適用されていました。この料金体系は、原則として、1940年5月以降のドイツ占領下でもそのまま継承されています。ただし、ドイツ宛の郵便物に関しては、占領以前は一般の外国宛として12セント半でしたが、占領後の1940年8月2日から1945年5月の終戦まで、ドイツおよびその占領地域宛の郵便物はベルギー宛と同様の割引料金が適用され、10セントとなりました。このため、今回ご紹介のも、“ドイツ・アウシュヴィッツ宛”として、1941年に発行された10セント切手1枚が貼られているわけです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 11月22日(金)05:00~ 文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-19 Tue 01:12
マドリードのプラド博物館が1819年11月19日に開館してから、ちょうど200周年です。プラド美術館といえば、やはりこの切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1930年にスペインが発行したゴヤ没後100周年の記念切手のうち、「裸のマハ」を取り上げた1枚です。 歴代のスペイン王家のコレクションを展示するプラド美術館は、1819年11月19日、“王立美術館”として開館しました。1868年の九月革命では王政が倒れ、1873年には第一共和政が成立すると、その過程で王立博物館から、現在の“プラド美術館(その所在地が、かつて牧草地=プラドだったことにちなむ命名)”に改称され、国営化されました。その後、1874年にスペインは王政復古となりましたが、プラド美術館が“王立美術館”に復することはありませんでした。 美術館の本館となるビジャヌエバ館の建物は、1785年、自然科学に関する博物館を作るため、カルロス3世がフアン・デ・ビジャヌエバに設計させたもので、スペインにおける新古典主義の代表作とされています。結局、建物が博物館として使われることはなく、カルロス3世の孫にあたるフェルナンド7世 (スペイン王)が妻マリア・イサベル・デ・ブラガンサの進言を受けて美術館として利用されることになりました。 コレクションの基礎はフェリペ2世とフェリペ4世が築いたもので、コレクションは、12世紀のロマネスク様式の壁画から、19世紀のフランシスコ・デ・ゴヤの作品まで広範な領域をカバーしており、所蔵品は、油彩画が約7600点、彫刻が約1000点、版画が約4800点、素描が約8200点におよんでいます。 今回ご紹介の切手に取り上げられた「裸のマハ」は、1797年から1800年ごろにかけて制作された作品で、大きさは97×190センチ。 西洋美術で、初めて実在の女性(ゴヤとと関係のあったアルバ公夫人マリア・デル・ピラール・カィエターナがモデルともいわれています)の陰毛を描いた作品といわれており、この絵の依頼主を明らかにするため、ゴヤは何度か裁判所に召還されましたが、口を割ることはありませんでした。ただし、この絵は首相を務めたマヌエル・デ・ゴドイの邸宅から見つかっていることから、依頼主はゴドイだったとみられています。なお、裁判の後、この絵はほぼ100年間、プラド美術館の地下にしまわれ、1901年になってようやく公開されました。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-18 Mon 04:14
中国と香港の両政府に対する大規模な抗議行動が続いている香港で、16日夜から断続的に、抗議行動の拠点となっている香港理工大学をめぐり、警察とデモ隊の間で激しい攻防戦が続いています。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2010年に香港で発行された“香港鐵路服務百周年”の記念切手のうち、現在、攻防戦の舞台となっている香港理工大学からも至近距離にある紅磡駅の旧駅舎と、1982年から1999年まで九廣鐵路(現・東鐵綫)で使用された電気機関車の“黄車頭”が描かれています。 1898年、新界を租借した英国は、九龍半島の先端から廣州までの鉄道の敷設権を獲得。これを受けて、英清間で鉄道建設のための具体的な話し合いが進められ、廣州の羅湖にある深圳河の国境を境に、香港側の35.5キロ(英段)を英国が、廣州側(華段)の143.2キロを清朝が、それぞれ、分担して建設することになりました。 開通当時の英段の駅は、九龍(尖沙咀)、油麻地(後に旺角)、沙田、大埔、大埔墟、粉嶺です。現在、九龍側の始発駅は尖沙咀の東側、尖東になっていますが、開業当時の“九龍駅”は尖沙咀のスターフェリーの乗場のすぐ脇にありました。 一方、香港理工大学の前身である公立商業学校は1937年に香港島の湾仔で開校しましたが、第二次大戦後、高等技術専門学校に改組され、1957年、尖沙咀東方の紅磡地区に移転。1972年には香港理工専門学校になりました。 理工専門学校の所在地となった紅磡は、もともとは、紅磡は黄埔ドッグと呼ばれる造船所を中心とした工業地帯で、海岸の紅磡埠頭からは香港島と九龍(北角・中環)を結ぶフェリーが運航していました。また、第一次大戦中にはドイツ人の収容所も置かれていました。 その後、尖沙咀地区の埋め立てと並行して、1972年、九龍側・紅磡湾の埋立地と奇力島(もともとは島でしたが、現在は埋め立てによって香港島とつながっています)を結ぶ紅磡海底隧道(クロスハーバートンネル)が開通。これに伴い、フェリーの多くは尖沙咀発着となり、紅磡地区はむしろバス路線の発着地点になるなど、陸上交通の拠点へと転換。1975年には、九龍駅が尖沙咀から理工専門学校に隣接した場所に移転したほか、啓徳空港につながる啓徳隧道の建設工事も始まっています。なお、トンネルの開通は1982年のことで、香港理工専門学校が現在の香港理工大学へと昇格したのは、1994年11月25日のことでした。 香港が中国に移管された後の1998年、現在の香港国際空港(香港國際機場)が開港し、新空港と香港中心部を結ぶMTR機場快線(空港快速線)が開通すると、新たに設けられた機場快線の“九龍駅”との混同を避けるため、旧九龍駅は“紅磡駅”に改名され、現在に至っています。 さて、香港では、11月8日、6月以来の抗議行動で警察の直接攻撃による“最初の死者”(ただし、警察に拘束されて所在不明となり、すでに死亡している可能性が高い人、“何らかの事情”で拘置所内で死亡した人などを含めると、これまで数十人の死者が出ているとみられています)が出たことで、市民の怒りが爆発。当初、学生たちの抗議行動は、新界地区東部、沙田・馬料水丘陵地帯にある香港中文大学が拠点となっていました。 このため、11月11日、警察は催涙弾を用いて香港中文大学を攻撃。12日には機動隊が突入し、機動隊の攻撃により、校舎は炎上しました。 香港中文大学には、同大の情報技術サービス部が運営するインターネット交換センター、Hong Kong Internet eXchange(HKIX)があり、香港でのインターネットメール交換の一大拠点となっています。2011年のレポートでは、香港でのインターネットメール交換の99%以上は、ここを通じて、海外を迂回することなく直接交換および送信されているとされていましたが、現在は、中文大学以外にも4つのHKIXがあるため、中文大学が制圧されても、直ちに、直ちにインターネットが全面停止になるということではわけではないようです。とはいえ、今後、中国・香港の両政府がインターネットの本格的な規制に乗りだす可能性は十分にあるわけで、民主化運動のみならず、一般市民の自由な言論や通信活動が大きく制限される懸念が払拭されたわけではないのですが・・・。 なお、香港中文大学は、地理的に鉄道と道路網の重要な拠点に位置しているため、中国・香港の両政府としては、民主派に対する海外からの支援を封じ込めて、香港デモを力ずくで鎮圧するためには確保しておくべき拠点だったという意味合いもあったようです。 その後、今月16日までに、香港中文大学に籠城していたデモ隊は撤収し、抗議運動の中心は香港理工大に移りましたが、上述のように、香港理工大学の紅磡地区は、まさに、九龍半島のみならず香港島へもつながる交通の拠点であり、それゆえ、香港理工大学の向かい側には中国人民解放軍の香港駐留部隊の施設も置かれています。それだけに、香港理工大学が陥落すると、民主派はかなり苦しい立場に追い込まれることになるんは必至です。 なお、17日の攻防戦を前に、16日には、人民解放軍の将兵が、香港政府の許可なしに、“自発的”に基地外で道路の復旧作業を行っており、このことに対する香港市民の不満と警戒感も強まっているようです。 いずれにせよ、17日の香港理工大学をめぐる攻防戦では、警察が実弾しか装填できないAR15ライフルを装備した警官隊焼く1000人が大学を包囲し、構内からの脱出が極めて困難になっているほか、理工大学から離れた場所で待機していたボランティアの医師、看護師なども“犯罪者”として全員拘束されたとの情報もあります。警察官の一部は、デモ隊に対して「天安門事件を再演させてやるからな」と語ったとも言われてます。 1989年の天安門事件の後、その非人道性により全世界から非難され、孤立無援に陥った中国に救いの手を差し伸べ、結果として彼らを増長させるという愚行を行ったのは、日本の海部政権でした。来年(2020年)は習近平の国賓としての訪日が予定されているそうですが、二度と、海部政権の愚行を繰り返してはなりますまい。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-17 Sun 03:18
きょう(17日)は、いまから70年前の1939年11月17日、ドイツ占領下のベーメン・メーレン保護領(旧チェコスロバキア)でドイツ軍が学生のデモ行進を鎮圧し、教授2人と学生9人を殺害したことにちなむ“国際学生の日”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1942年7月18日、アウシュヴィッツ収容所の収容者がベーメン・メーレン保護領のクラトヴィ宛に差し出したレターシートです。 現在のチェコ共和国の外縁部にあたるズデーテン地方は、チェコ人の支配するボヘミア王国の時代の東方植民以来、ドイツ系住民の多い地域になっていました。ハプスブルク帝国の支配を経て、1918年、チェコスロヴァキアが独立を宣言すると、ズデーテン地方の帰属をめぐっては、チェコスロヴァキア政府が同政府による実効支配の追認を求めたのに対して、ドイツ系住民がチェコスロヴァキアへの編入に強く反対。ヴェルサイユ講和会議では、米国が民族自決の観点からドイツへの編入を主張したのに対し、フランスは安全保障の観点からチェコスロヴェキアの強化を主張。最終的に、フランスの主張通り、ハプスブルク帝国解体後の戦後処理を定めたサン・ジェルマン条約によって、ズデーテン地方はチェコスロヴァキア領となり、310万人のドイツ系住民はチェコスロヴァキアにおける“最大の少数民族”となりました。 ところが、これを不満とするズデーテン地方のドイツ系住民の一部は、ズデーテンの自治権を要求。さらに、隣国のドイツがナチス政権下で経済恐慌から脱して経済力を回復すると、コンラート・ヘンラインらのズデーテン・ドイツ人党は、「ズデーテンのみならず全ボヘミア・モラヴィア・シレジア地方のドイツへの編入」を目標に掲げ、ドイツの支援を要請。これを受けて、ヒトラーも“ズデーテン問題の解決”を訴えるようになり、1938年3月の独墺合邦後、「ドイツとチェコの障害になっているのはドイツ人の民族自決権を認めようとしないチェコ側の態度である」、「事態をこのまま放置しておけばヨーロッパ中がチェコの頑迷の巻き添えを喰らうことになる」などとチェコスロヴァキアを恫喝し、欧州内では、ヒトラーがチェコスロヴァキアを攻撃するとの観測が強まります。 このため、1938年9月29-30日、いわゆるミュンヘン会談が行われ、対独宥和政策を取る英国のネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相がズデーテン地方のドイツ編入を容認し、同年10月1日にはドイツによる軍政が施行されました。なお、ミュンヘン会談の前後、ヒトラーは「ズデーテンラントは我々の最後の領土的要求であり、チェコスロヴァキアの独立を侵害するつもりはない」と繰り返していましたが、実際には、一九三九年三月十五日、チェコスロヴァキア国家は解体され、ドイツはチェコ地域の主要部を併合して、ボヘミアとモラビアの主要部分にベーメン・メーレン保護領を設置します。 ところで、1940年、ポーランド南部に開設されたアウシュヴィッツ収容所は、もともとは、ポーランド人の政治犯・捕虜を収容するための施設でしたが、1941年6月の独ソ戦勃発を経て、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されると、ドイツ勢力圏下の欧州各地からユダヤ系の人々がアウシュヴィッツに移送されてくるようになり、アウシュヴィッツとベーメン・メーレン保護領との間でも郵便物の往来が始まりました。今回ご紹介のレターシートも、その一例というわけです。 さて、新刊の拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』では、今回ご紹介のカバーを含め、アウシュヴィッツ収容所とベーメン・メーレン保護領との間を往来した郵便物についてもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-16 Sat 04:15
かねてご案内の通り、えにし書房から発売予定(奥付上の刊行日は11月25日)の拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』の現物ができあがりました。
つきましては、主催者の公益財団法人・日本郵趣協会のご厚意により、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館で開催中の全国切手展<JAPEX 2019>会場内でも販売させていただくことになりましたので、そのご報告とともに、刊行のご挨拶を申し上げます。(画像は表紙のイメージ) 2015年に上梓した旧版の『アウシュヴィッツの手紙』は、思いがけずご好評をいただき、おかげさまで在庫もほぼなくなりました。また、同書の刊行以降、 Postal History of Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア、2018年のエルサレムと2度の世界切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。 そこで、このたび、11月25日付で同書の改訂増補版を出版することになりました。今回の拙著は、改訂増補版という性質上、基本的には旧版の構成を踏襲していますが、旧版の第三章「III アウシュヴィッツの手紙」の部分については、資料のみならず記述面でも大幅に加筆したことから、アウシュヴィッツ第一および第二収容所とその郵便について扱った「III アウシュヴィッツの手紙」と、モノヴィッツの第三収容所ならびに外国人労働者とその郵便を扱った「IV モノヴィッツおよびI.G.ファルベンと郵便」の二章に分割し、そのうえで、旧版同様、最終章として「V アウシュヴィッツの戦後史」を加えて、全体を五章構成としています。もちろん、旧版に見られた誤記などは可能な限り修正するよう心掛けたほか、ポーランドの切手・郵便史の大家として国際的にも著名な山本勉氏のご指導を得て、固有名詞の表記なども全面的に見直しています。 なお、旧版ならびに改訂増補版を通じて、『アウシュヴィッツの手紙』を通じて、僕がいいたかったことを、今回の改訂増補版の「あとがき」としてまとめてみました。少し長いのですが、その主要部分を転載しますので、お読みいただけると幸いです。 ***** 被爆地としての広島は“ヒロシマ”とカナ書きにされることがある。その理由としては、しばしば、原子爆弾の惨禍と平和の尊さを世界に発信するため、一般的な地名の“広島”とは区別するためだとの説明がなされることがある。 被爆地として“世界のヒロシマ”であることを強調するために、あえてカナ書きのヒロシマを使おうという意図は、それなりに尊重されるべきではあろう。 しかし、厳島神社と平家の故地であり、日清戦争の際には首都がおかれた軍都であり、第二次大戦後は広島東洋カープの本拠地となってきたことなどをすべて捨象して、“ヒロシマ”を被爆地としてのみ語ることには、筆者はぬぐいがたい違和感を抱いてきた。やはり、“広島”が包摂してきた歴史的連続性の中に位置づけることによってこそ、被爆地としての“ヒロシマ”の意義も明瞭に浮かび上がってくるのではないだろうか。 本書の主題であるアウシュヴィッツについては“ナチス・ドイツによるホロコーストの象徴的な場所”としてのみ語られることが圧倒的に多い。 さらに、2018年、現在のオシフィェンチムの主権者であるポーランド国家が、ポーランド(人)のホロコーストへの加担を批判することや、ポーランド国内に存するという意味で“ポーランドのアウシュヴィッツ”ということを違法としたという報道に接し、筆者は強い衝撃を受けた。 今後、(すくなくともポーランド国内では)“アウシュヴィッツ”とオシフィェンチムとの歴史的連続性は否定され、アウシュヴィッツはただ単に、他から孤立・断絶した歴史上の汚点とされていくだろうし、その結果、これまで以上に、“ホロコーストの場所”としてのみアウシュヴィッツ/オシフィェンチムを語る(=ホロコースト以外のアウシュヴィッツ/オシフィェンチムの歴史をすべて捨象する)傾向が世界的にも強まるかもしれない。 はたして、それが妥当なことだろうか。 本書でも縷々述べてきたように、オシフィェンチムには、中世以来、小さいながらも公国が存在し、18世紀末のポーランド国家消滅後、第一次大戦までこの都市はハプスブルク帝国の支配下で地域の物流拠点となっていた。そして、そうした背景があったがゆえに、ナチス・ドイツは、この地に巨大な収容所を建設したのである。 もちろん、ナチス・ドイツが国策としてホロコーストを遂行し、アウシュヴィッツなどの収容所では、夥しい数のユダヤ人がガス室で処刑され、あるいは、過酷な重労働を課せられたことは紛れもない事実であり、それらは“人道に対する罪”として未来永劫、批難され続けるべきものだろう。アウシュヴィッツがその象徴として語り継がれていくべきであるのは当然のことだ。その意味で、筆者は、たとえば「ガス室はなかった」という類の主張には絶対に与しないし、ナチスの蛮行を擁護するつもりも毛頭ない。 しかし、“アウシュヴィッツ”がユダヤ人大量虐殺の場としてのみ語られることで、アウシュヴィッツ/オシフィェンチムのさまざまな相貌を、意図的に歴史の闇に埋没させてしまってもかまわないということにはならないはずだ。 そもそも、アウシュヴィッツはポーランド人を対象とした収容所として出発し、それゆえ、収容者の多くがキリスト教徒であったという事情もあって、所内では(ささやかながら)クリスマスが祝われることもあった。 また、収容者は、大きな制約を受けながらも、郵便を通じて外部世界との連絡を保ち、ともかくも、自分が生存しているとの情報を発信することができた。ちなみに、第二次大戦後、あらゆる国際法を無視して多くの日本人をシベリアに連行したソ連当局は、終戦から1年以上後の1946年10月まで、ソ連は日本人抑留者と家族との通信を認めていない。 さらに、アウシュヴィッツの収容者には家族等からの食糧や現金の差入も認められており、収容所当局は、組織としてはそれを横領することなく、それらを誠実に収容者に届けていた。逆に言えば、収容者を劣悪な環境の下に置き、文字通り死ぬまで働かせる、あるいは、働けないと判断したら容赦なくガス室に送って虐殺するという非道の限りを尽くしていながら、収容者宛の郵便物や送金、小包などはしかるべき相手に律儀に渡していたというグロテスクなアンバランスこそが、ホロコーストを“日常業務”として淡々とこなしていたナチスの体制の異常さを浮き彫りにしていると見ることもできる。 もちろん、アウシュヴィッツの収容者は常に死と隣り合わせの環境にあり、彼らへの送金や通信を認めていたからといって、ナチスが収容者の人権にも配慮していたとはいえないのは当然である。 しかし、“アウシュヴィッツ”を正確に理解しようとするなら、そして、ボーア戦争時のconcentration camp以来の世界の“強制収容所”の歴史の中で“アウシュヴィッツ”を位置づけようとするなら、こうした点を見落としてはなるまい。 そして、“アウシュヴィッツ”が解放されても、決してポーランドのユダヤ人に対する迫害は収まったわけでなく、むしろ、ポーランドの共産主義者たちは、ユダヤ人への迫害を含め、ナチス・ドイツに勝るとも劣らぬ抑圧的な体制を敷き、あろうことか、“アウシュヴィッツ”を利用して、それを糊塗しようとさえしてきた。 アウシュヴィッツ/オシフィェンチムを“ホロコーストの象徴”として矮小化(あえてこう言う)するのではなく、数奇な歴史をたどってきた都市の全体像を正確に理解しようとするなら、いずれも、避けて通ることのできないポイントだろう。 筆者は、これまで、郵便学者として、切手や郵便物を通じて、歴史や国家のありようを再構成しようとしてきたが、そうであればこそ、歴史上の特定の出来事やその前後での変化もさることながら、対象となる国や地域の歴史的連続性(ないしは不変の要素)をできるだけ描きたいと思っている。本書もその試みの一つだが、その成否については、読者諸賢に判断をゆだねたい。 ***** 今後、書店の店頭などで実物をご覧になりましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。 なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したいという方は、ご連絡いただければ資料をお送りいたしますので、よろしくお願いいたします。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-15 Fri 00:40
きょう(15日)から17日まで、東京・浅草の東京都立産業貿易センター台東館6・7階で全国切手展<JAPEX 2019>が開催されます。今回は、日本オーストリア友好150周年ならびに日本ハンガリー外交関係開設150周年ということで、“ハプスブルク帝国切手展”という企画出品の部門があるので、僕も、11月25日付で刊行予定の拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』のプロモーションを兼ねて「アウシュヴィッツ/オシフィェンチム ハプスブルク時代」と題して、ハプスブルク支配下のアウシュヴィッツ/オシフィェンチムについてまとめた1フレーム作品を出品しております。というわけで、きょうはその作品の中からこの1点です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1905年12月9日、ハプスブルク支配下のオシフィェンチムから上海宛に差し出された郵便物で、宛先が“ゴールドシュタイン(Goldstein)”というユダヤ系特有の名前の企業になっていること、名宛人と差出人が同姓で差出人の名前に敬称がつけられていないことから、ユダヤ人の親族間の通信ではないかと推測されます。 バグダードとイラク南部のパシャ(地方君主)の下で代々、会計主任を務めていたユダヤ人のサスーン家は、地元政府の弾圧を受けたことからペルシャを経てボンベイ(ムンバイ)に移住し、1832年、当時の当主だったデイヴィッドがサスーン商会を設立。時あたかも、英国はインド産のアヘンを中国に輸出して巨額の利益を得ていた時代で、サスーン商会はアヘン貿易で巨額の利益を蓄えます。 1842年、アヘン戦争の講和条約として南京条約が結ばれ、上海が開港されると、外国人の居留地ができましたが、1845年には、英国やフランスが黄埔江(長江の支流)の西岸に租界(外国人が行政・警察機構を握り、中国の主権が及ばない開港地内の地域)を形成。それらは、後に英米列強と日本の租界を纏めた共同租界と、フランスのフランス租界に再編されます。 デイヴィッドは、ここに次男のイリアスを派遣し、サスーン商会上海支店を開設。以後、サスーン商会は英・米・仏・独・ベルギーなどのユダヤ系商事会社、銀行を組合員として、インド、東南アジア、インドシナ、中国に投資を展開していきましたが、それと同時に、サスーン商会の関係者や取引先などを中心として、上海にもユダヤ人コミュニティが形成されていきます。19世紀後半から20世紀初頭にかけての上海在住のユダヤ人の出身地としては、インドが最も多く、これにドイツ、ロシアが続きましたが、ハプスブルク地域やフランス、イタリアの出身者も少数ながら存在していました。今回ご紹介のカバーの名宛人も、おそらくその一人だったのでしょう。 現在のポーランドに相当する地域では、1264年、カリシュ公国のボレスワフ敬虔公がユダヤ人を対象としてポーランド国内の移動の自由、商業の自由、宗教の自由など多くの権利を認め、ユダヤ人の共同体を自らの保護下に置いています。 1335年、カジミェシュ3世が首都クラクフのヴィスワ川対岸に新たな町、カジミェシュを建設し、ユダヤ人移民に居住地を提供すると、この地域はユダヤ人の集住地区となり、ユダヤ人の居住地区はカジミェシュの領域を超えてクラクフ中心部にも拡大していきました。 18世紀末のポーランド分割後、クラクフとカジミェシュはハプスブルクの支配下に置かれましたが、新たな支配者となったハプスブルク帝国がカジミェシュを“クラクフ市”に編入したことで、クラクフ市は、中欧随一のユダヤ人口を抱える都市となります。さらに、1867年制定のオーストリア=ハンガリー帝国憲法において、クラクフのみならず、オーストリア=ハンガリー帝国在住のすべてのユダヤ人に完全なる市民権が与えられると、クラクフからオシフィェンチムを含む帝国各地に移住するユダヤ人も増加。そこから極東へ移住していくユダヤ人も出てきたというわけです。 今回ご紹介のカバーは、上海に到着した後、まずは現地のドイツ郵便局(1886年8月16日開局)が引き受けます。上海のドイツ局では、当初、一般的な欧文表示の“SHANGHAI”と表示された郵便印を使用していましたが、1905年8月28日以降、ドイツ語風に“SCHANGHAI”と表示した郵便印が使用されています。このカバーは、ドイツ局でその“SCHANGHAI”表示の印が押された後、そこから地元の郵便局(“LOCAL POST”の印がある)に引き渡され、名宛人に配達されました。 時代は下って、1938年3月、独墺合邦が行われると、同年8月、オーストリアのユダヤ人は、ナチス・ドイツの迫害を逃れ、イタリア船で上海に亡命。その後も、ドイツ占領下の旧ハプスブルク地域(オーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランドなど)からは多くのユダヤ難民が上海に集まり、北外灘の舟山路は“リトル・ウィーン”と呼ばれるほどになりましたが、このカバーは、その遠いルーツを偲ばせる一点といえるかもしれません。 さて、2015年に刊行した拙著『アウシュヴィッツの手紙』ですが、おかげさまで在庫がほぼなくなりました。また、同書の刊行以降、 Postal History of Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア、2018年のエルサレムと2度の世界切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。 そこで、11月25日付で増補改訂版を出版すべく準備を進めていましたが、明日午前中にも、実物ができあがってくる見込みです。そこで、主催者のご厚意で、明日の午前中に増補改訂版を<JAPEX>会場に持ち込み、15日午後からをめどに先行販売をさせていただくことになりました。会場へお越しの方は、ぜひ、お手に取ってご覧いただけますと幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-14 Thu 01:00
きょう(14日)は、今上陛下のご即位後、最初の新嘗祭(新穀を祀る儀式)となる大嘗祭の日です。というわけで、きょうはストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1928年11月10日、昭和天皇の即位の大礼に際して発行された記念切手のうち、大嘗祭の行われる大嘗宮を描いた10銭切手です。切手は、即位の大礼の際に陛下が着用される黄櫨染御袍にちなんで黄色の着色紙に印刷されており、黄ばんでいるわけではありません。 大嘗宮は、大嘗祭のたびごとに造営され、斎行された後は破却、奉焼される建造物で、朝堂院の前庭に設置されていました。かつては、祭の約10日前に材木と諸材料と併せて茅を朝堂院の前庭に運び、7日前に地鎮祭を行い、そこから数えで5日間で全ての殿舎を造営し、祭の3日前に完成という段取りでしたが、現在では、資材の調達の関係などもあって、造営には数か月が必要となっています。 さて、切手の下部には稲が描かれていますが、大嘗祭では、神饌として供される稲を収穫する“斉田”を選定するところから始まります。 大嘗祭の祭祀は同じ所作が2度繰り返されることから、斎田も2か所あり、それぞれ悠紀・主基と呼ばれます。悠紀は、もともとは“斎城(聖域)”、主基は“次(ユキに次ぐ)”のことで、悠紀は東から、主基は西から選ばれるのが原則です。かつては、畿内5国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)を除いたうえで、近江国が悠紀、丹波国と備中国(冷泉天皇の時のみ播磨国)が交互に主基とされていましたが、明治以降は全国から選出されるようになり、平成以降は斎行場所が東京になったため、悠紀国は新潟、長野、静岡を含む東側の18都道県、主基国は西側の29府県となりました。ちなみに、今回の大嘗祭では、旧国名でいうと、悠紀国が下野、悠紀国が丹波です。 大嘗宮が、北側の廻立殿を挟んで、東の悠紀殿と西の主基殿で構成されているのもこうした事情によるもので、両殿では同じ祭祀が2度繰り返して行わるため、両殿の内部は同じ構造で、中央に八重畳を重ねて敷き、その上に御衾をかけ、御単を奉安し、御櫛、御檜扇を入れた打払筥が置かれています。その東隣には伊勢神宮の方向を向いた御座がおかれ、御座と向かい合って神の食薦を敷き、事実上の“神座”として扱われています。 建物の構造としては、両殿とも、黒木造 (皮つき柱) 掘立柱、切妻造妻入りで青草茅葺きの屋根、8本の鰹木と千木にむしろが張られた天井というのが本来の姿です。ただし、千木に関しては、悠紀殿が内削ぎ、主基殿が外削ぎという違いがあります。 なお、今回の大嘗宮主要三殿の屋根材は、①茅資材の慢性的不足、②価格の高騰、③職人の高齢化と人数不足、を理由に初めて板葺きとされましたが、やはり、新穀を祀るという神事の意味に照らせば、本来の茅葺きにしてほしかったですね。今回はやむを得ない例外として、次の大嘗祭の際には、ぜひ、茅葺きの大嘗宮を復活させていただきたいものです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-13 Wed 01:05
中国と香港の両政府に対する大規模な抗議行動が続いている香港で、昨日(12日)、香港警察は抗議活動の拠点となっている香港中文大構内に部隊を突入させ、学生側と激しい衝突が発生。香港メディアによると、多数の学生らが負傷し、拘束され、現場にいた学長も催涙弾に巻き込まれたそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1969年、英領時代の香港で発行された“香港中文大学”の切手です。 香港中文大学は、英語での教育・研究を行う香港大学に対抗するため、新亜書院、崇基学院(クリスチャン・カレッジ)、聯合書院が1963年に合併して創設された公立大学で、現在のキャンパスは、新界地区東部、沙田・馬料水丘陵地帯にあります。大学名の“中文”は、中国語のみならず中華文化全般を意味しており、教授言語は中国語(廣東語ならびに北京語)と英語。学生は、各書院と学院に所属する英国式を採用しています。 文学院、工商管理学院、教育学院、工程学院(工学部)、医学院、法学院、理学院及び社会科学院の8学部、61学系(専攻科)を有しており、これまでに、高錕と楊振寧がノーベル物理学賞、ジェームズ・マーリーズとロバート・マンデルがノーベル経済学賞を受賞しているほか、そのビジネススクールはアジア最古のMBAとして世界的にも知られる名門です。 さて、香港では、11月8日、6月以来の抗議行動で警察の直接攻撃による“最初の死者”(ただし、警察に拘束されて所在不明となり、すでに死亡している可能性が高い人、“何らかの事情”で拘置所内で死亡した人などを含めると、これまで数十人の死者が出ているとみられています)が出たことで、市民の怒りが爆発。9日には、亡くなった大学生の大規模な追悼集会が開かれ、約10万人の市民が参加したほか、10日には各地で警察との衝突が発生。一部デモ隊が地下鉄駅の改札口や親中派とみなす飲食店を破壊するなど騒擾が激化していました。 学生たちの抗議行動が行われていた香港中文大学でも、11日から警察による催涙弾の攻撃が続いていましたが、12日になって機動隊が突入。機動隊の攻撃により、校舎は炎上し、一部の学生たちが籠城している(逃げ遅れて籠城せざるを得ない?)状況のようです。1989年の天安門事件を連想させる武装警察の攻撃は、今後、国際社会から強い非難を浴びることは必至で、我が国も、来年(2020年)に予定されている習近平の国賓としての訪日についても中止を検討せざるを得ないでしょう。 また、香港中文大学には、同大の情報技術サービス部が運営するインターネット交換センター、Hong Kong Internet eXchange(HKIX)があり、 2011年のレポートによると、香港でのインターネットメール交換の99%以上は、ここを通じて、海外を迂回することなく直接交換および送信されています。したがって、香港中文大学と HKIX が制圧されてしまうと、香港では、民主化運動のみならず、一般市民の自由な言論や通信活動が大きく制限される事態になりかねません。 我々日本人にできることは限られていますが、現在の状況をできる限り拡散し、香港の民主派との連帯の意思を示すことは重要だろうと思います。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-12 Tue 03:59
中国の国家主席だった劉少奇が、文化大革命さなかの1969年11月12日、非業の死を遂げてから、ちょうど50年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1983年に中国が発行した“劉少奇同志誕生85周年”の切手です。 劉少奇は、1898年、湖南省の寧郷県で生まました。1920年、湖南省の中国社会主義青年団(現中国共産主義青年団)に入り、翌1921年、ソ連に渡ってモスクワの東方勤労者共産大学で学びつつ、同年、中国共産党(以下、中共)に入党しました。1922年、コミンテルン主催の極東諸民族大会に参加したのち、帰国。李立三とともに江西省の安源炭鉱のストライキを指揮し、李立三らとともに指揮して闘争を成功させ、1927年には党の中央委員に選出されました。 1927年に第1次国共合作が崩壊すると、国民党支配地域での地下活動に従事し、1934年10月以降、長征に参加。1935年、党中央より華北に派遣され、1937年に“抗日戦争(支那事変)”が始まると、華北地区での抗日運動を指導しました。さらに、1941年、安徽省南部で国民党軍と中共の新四軍の武力衝突が発生し、新四軍が壊滅的な打撃を被ると、壊滅状態となった新四軍の政治委員に就任し、軍の再建と華中地区の根拠地拡大に努めました。 1943年、延安に戻り党中央書記処の書記に就任。1945年4-6月に開催された第7回全国代表大会(党大会)では「党規約の改正についての報告」を発表し、“毛沢東思想”の語を初めて公式の文書に使用。大会後、第7期党中央委員会第1回全体会議(第7期1中全会)で、毛沢東に次ぐ党内序列2位の中央委員・中央政治局委員・中央書記処書記に選出されました。 1949年10月、中華人民共和国の建国が宣言されると、中央人民政府副主席や人民革命軍事委員会副主席、全国人民代表大会常務委員会委員長を歴任。建国後間もない1949年11月16-23日、北京で開催された世界労働組合連合会・アジア大洋州労働組合会議では、劉は中国全国総工会名誉会長の肩書で会議の議長を務め、開会の辞として「アジアの植民地・半植民地の運動は、中国と同じように人民解放軍による武装闘争をやらなければならない」とする“劉少奇テーゼ”を発表。この発言は、南侵を企図していた北朝鮮の金日成の背中を押すことになったほか、日本共産党が山村工作隊などの武装闘争路線へと転換していく端緒となりました。 その後、劉は、1956年9月、第8回党大会で政治報告を担当し、続く第8期1中全会で中央政治局常務委員に選出され、中央委員会筆頭副主席として、毛沢東に次ぐナンバー1としての地位を確立していきます。 1958年、毛沢東が発動した大躍進政策が惨憺たる失敗に終わると、1959年7月、国防部長(国防大臣に相当)兼国務院副総理の彭徳懐は毛沢東に対して私信の形式を取って政策転換を求めます。この結果、毛の逆鱗に触れた彭は国防部長と中央軍事委員会委員の地位を解任されますが、反面、劉少奇・鄧小平らの官僚グループにより、大躍進の失敗を修復するための調整政策が行われることになり、劉は毛沢東に代わって国家主席に就任しました。 1962年、劉は「今回の大災害は天災が三分、人災が七分であった」と党中央の責任を自ら認め、毛も「社会主義の経験が不足していた」と自己批判を余儀なくされ、政務の一線を退かざるを得なくなりました。 劉少奇・鄧小平の調整政策に対して、毛は「矯正しすぎて右翼日和見の誤りを犯している」と批判。これに対して、劉は「飢えた人間同士がお互いに食らい合っているんです。歴史に記録されますぞ」と応じ、調整政策を維持しようとしました。 これに対して、調整政策に不満な毛沢東と林彪らは大衆を動員し、劉ら“実権派”の追い落としをはかります。 その端緒となったのが、1965年11月10日、姚文元が上海の新聞『文匯報』に発表した論説「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」です。この論説は、北京市副市長で歴史家の呉晗が執筆した戯曲『海瑞罷官』(明代の官僚、海瑞が嘉靖帝を諫める上訴をして罷免された事件を題材にした史劇)を、プロレタリア独裁と社会主義に反対する“毒草”として攻撃するもので、当初の政治的な意図は呉の上司にあたる北京市長の彭真を失脚に追い込むことにありました。しかし、1965年12月21日、毛が「嘉靖皇帝は海瑞を罷免した。59年、我々は彭徳懐を罷免した。彭徳懐も“海瑞”だ」と述べたことで、彭徳懐への批判と結び付けられ、後の文革の端緒となりました。 当初、劉は批判の矛先が自分に向けられているとは認識していませんでしたが、文革派は劉少奇を鄧小平とともに“資本主義の道を歩む実権派”の中心として打倒の標的に設定。1966年8月の第8期11中全会で、毛が配布した論文「司令部を砲撃せよ」では、名指しこそされなかったものの、参会者には“司令部”が劉少奇を示していることは明らかで、同会議の結果、劉は政治局常務委員に残留したものの、副主席の任は解かれ、党内の序列も第2位から第8位に降格されました。 1967年に入ると党の内外から劉批判の文書が出回り始め、劉の自宅には文革派が乱入し、執務室の電話線は切断され、劉は外部との連絡を絶たれます。この時期、息子の劉源が「食後に紅衛兵による“遠征(「反革命分子」に対する家宅侵入や略奪、破壊などの行為)”に行く」と話したところ、劉は中華人民共和国憲法を持ち出して、「四旧」(古い文化とされた物品や事象)の破壊はかまわないが家宅侵入や窃盗、暴行は許されない。自分は国家主席だから国の法を守る義務がある」と諭した上で、「私にはお前たちを止めることはできない。だが、私はお前たちに本当のことを言う義務があるし、お前たちの行動は私の責任でもあるのだ」と述べたというエピソードが知られています。 しかし、1967年4月1日付の『人民日報』は、劉を“中国のフルシチョフ”と名指しで非難。以後、劉に対する攻撃は激しさを増していきます。特に、毛夫人の江青は、劉夫人の王光美に対して激しいライバル意識を持っていたため(毛と江の夫婦関係が冷え切っていたのに対して劉と王は仲睦まじかったこと、王が英語に堪能で、劉とともに外遊先ではチャイナドレスを礼装として着用し、華やいだ容姿もあって“ファースト・レディ”として国民の注目と人気を集めたこと、などが原因とされています)、江青に扇動された紅衛兵らの劉・王夫妻への攻撃はすさまじく、夫妻はとともに大衆の前での批判大会に連れ出され、執拗な吊し上げを受けるのが常態化しました。同年7月18日には、中南海の自宅が造反派に襲撃され、以後、事実上幽閉の状態となります。 そして、1968年10月に開催の第8期拡大12中全会において、劉を「党内に潜んでいた敵の回し者、裏切り者、労働貴族」として永久に中国共産党から除名し、党内外の一切の職務を解任する処分が決議され、劉は失脚しました。 その後も、劉は自宅監禁の状態に置かれ、体調が悪化した後も散髪、入浴を許されず、警備員から執拗な暴行や暴言を受け続けました。1968年夏に高熱を発した後は寝たきりの状態になりましたが、身のまわりの世話をする者はなく、衣服の取替えや排泄物の処理などもされない状態でした。それでも、「生きているうちに劉少奇を党から除名して、恥辱を与えよ」という江青の指示により、最低限の治療は施されて、劉は死ぬことさえ許されないという悲惨な境遇に置かれ続けました。 1969年10月17日、河南省開封市に移送た劉は、寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの倉庫に幽閉されます。そして、満足な治療も受けられないまま、11月12日に亡くなりました。遺体は火葬にされた後、火葬場の納骨堂に保管されましたが、その死は長らく外部には秘匿されていました。 1976年に毛沢東が亡くなり、鄧小平が復権すると、1980年2月、第11期5中全会は劉の除名処分がを取り消し、名誉回復がなされるとともに、彼が1969年に開封で病死していた事実が初めて公式に明らかにされました。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-11 Mon 10:38
南米ボリビアのエボ・モラレス大統領は、きのう(10日)、自らの4選に対する抗議デモが続いていることを受け、辞任を発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2006年にボリビアが発行したモラレス大統領の記念切手です。 エボ・モラレスは、1959年10月26日、ボリビア中西部オルロ県で先住民アイマラの農家に生まれました。様々な職を転々とした後、コチャバンバ県チャパレでコカの栽培農家となり、農民運動に参加。1997年に下院議員に当選して政界入りします。 2002年には暴動を扇動したとして、一時、下院議員を除名されましたが、同年6月に行われた大統領選挙に出馬。このときは第1回投票で2位となり、決選投票に進んだものの敗退。しかし、ガス輸出問題をめぐる反政府派の中心人物として活動して国民の支持を集め、2005年の大統領選挙では第1回投票で過半数の得票を得て当選。翌2006年1月の大統領就任演説でモラレス氏はこぶしを高く上げ、「この戦いはチェ・ゲバラに続くものだ」、「疎外され、さげすまれてきた我々の歴史を変える」と叫んでいます。 政権発足早々、モラレスは、公約通り、天然ガス・石油の国有化を宣言。また、その政治姿勢は強硬な反米主義で、キューバならびにチャベス政権下のベネズエラとの連携を強化する一方、米国大統領のブッシュJRを“テロリスト”と名指しで非難したことでも注目を集めました。 就任演説での言葉に見られるように、モラレスはゲバラを“米帝国主義からラテンアメリカを解放する戦いのためにボリビアにやって来た英雄”として再評価し、ゲバラをテロリストとして扱ってきた従来の政府見解を全面的に撤回。2007年、ゲバラの没後40周年に際しては、記念切手が発行されたほか、モラレス本人もラ・イゲーラ村での追悼集会に参加しました。 なお、モラレス政権下で、ボリビア政府としてのチェの再評価はとりあえず完了したものの、それでも、軍関係者や一般国民の間には依然としてゲバラを“テロリスト”として否定的にとらえる見方が根強いこともまた事実です。 たとえば、ゲバラを処刑したマリオ・テラーンは、2014年11月、スペイン紙のインタビューを受け、ゲバラについて「彼は侵略者だった。ゲリラ活動でボリビア人を説き伏せようとした。あんなに大勢の人が死んだのに、なぜこれほどまでに崇拝されるのだろう」と語っています。 こうした国内の声に配慮して、2017年10月、長期政権を維持し続けてきたモラレスは、ラ・イゲーラ村で行われたゲバラ没後50周年の記念式典に再び参列し、「チェは革命戦士であり、帝国主義との戦いのシンボルだ」、「帝国主義の傭兵の弾は彼の精神を殺すことはできなかったし、彼の理想を覆い隠すことはできなかった」、「戦いを続けることがチェへの最大の手向けとなる」などと述べ、ゲバラを称賛する一方、「命令に従うしかなかった兵士らに責任はない。責めを負うのはCIAやそれに服従した(当時の)将軍たちだ」と述べ、国軍の最高司令官として、軍人たちへの配慮も示しました。 さて、モラレス政権は典型的な反米左派政権で、モラレス本人が先住民の出身であることから、自らの出自を政治利用することで、国民の過半数を占める地方の先住民表を巧みに取り込み、公共の場でのアイマラ語やケチュア語の併記、エル・アルトなど貧困層が多い地域の積極的な開発や地方の先住民共同体への公共事業の斡旋などの先住民重視の政策を展開しました。しかし、過度の先住民優遇は、白人系入植者やメスティーソ、都市部の知識層などの反発も招き、結果的に国内の亀裂を深める結果と招きました。 こうした中で、2019年10月20日の大統領選挙でモラレスは4選を果たしましたが、開票結果が不正に操作されていたとの疑惑が浮上したため、国内では故大規模な抗議デモが発生し、警察や軍、一部の官僚や政治家も辞任を要求。11月10日、大統領辞任に追い込まれたというわけです。 なお、モラレス政権下でのゲバラ再評価の動きについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-10 Sun 01:56
天皇陛下のご即位を国民に広く披露され、祝福を受けられるための祝賀御列の儀(両陛下のパレード)が、きょう(10日)行われます。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2000年12月22日に発行された20世紀デザイン切手第17集(最終集)のうち、皇太子殿下時代の両陛下のご成婚時のパレードの様子を取り上げた1枚です。 今上陛下の皇太子時代のご成婚に伴う儀式のうち、結婚の儀・朝見の儀・宮中饗宴の儀は国事行為として行われました。このうち、まず、結婚の儀が1993年6月9日午前10時から宮中三殿の賢所で行われ、次いで、東宮仮御所で昼食後、皇居正殿・松の間で15時00分から結婚後初めて天皇・皇后両陛下に会う朝見の儀が行われました。 切手に取り上げられたパレードは、朝見の儀が終わった後、16時42分から行われました。当日は、パレード直前まで雨が降っていたため、当初、パレードは屋根のある車で行われる予定でしたが、直前になって雨が止んだため、ロールス・ロイス・コーニッシュIIIのオープンカーが使用されることになりました。なお、妃殿下の装いは、ローブ・デコルテの上に薔薇の花びら形の白と金の飾りを襟にあしらった半袖のジャケット、ドレスと共布のハンドバッグというもので、森英恵がデザインしました。 パレードは、16時45分、宮内庁楽部の演奏する「平成の春」、「新・祝典行進曲」に送られて皇居正門の二重橋を出発。皇居前広場を出て内堀通りに沿い、警視庁本庁舎前、最高裁判所前を通り、半蔵門前から新宿通りに曲がり、四谷見附交差点を曲がって赤坂迎賓館前から、赤坂御用地の鮫が橋門まで4.25キロを進み、赤坂御用地内では、高円宮ご一家がパレードを終えたご夫妻をお迎えになりました。 この間、沿道では警視庁音楽隊・消防庁音楽隊・陸上自衛隊中央音楽隊が「新・祝典行進曲」を演奏し、上智大学前では聖イグナチオ教会聖歌隊の「喜びの歌」を斉唱。19万2000人の人々が日の丸の小旗を手に持って、ご夫妻を祝福しています。 その後、18時からは般の三三九度にあたる供膳の儀が行われ、21時からは、子孫繁栄を願って妃の年齢の数の餅を4枚の銀盤に並べ箱に納めて供え、3日間寝室に置く“三箇夜餅の儀”が行われ、当日の儀式は終了となりました。なお、国事行為のうち、一般の披露宴に当たる宮中饗宴の儀は、皇居の豊明殿で6月15日から3日間、昼夜1回づつの計6回行われています。 さて、今回のパレードは、当初、即位礼正殿の儀と同じ10月22日に予定されていましたが、10月12日の台風19号で甚大な被害が出たことを考慮して、11月10日に延期になりました。 両陛下がお乗りになる車は、トヨタのセンチュリーを改造したオープンカーで、車列は、午後3時に皇居正門を出発し、国会議事堂正門前を右折した後、自民党本部前などを通って青山通りを進み、青山一丁目交差点で右折し、赤坂御所にいたるまで、約4.6キロをパレードすることになっています。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-09 Sat 01:06
1989年11月9日にドイツの“ベルリンの壁“が崩壊して、ちょうど30年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1995年にドイツが発行した“東西分断の犠牲者追悼”の切手で、東西ドイツ分断の象徴として、往時のベルリンの壁の写真が取り上げられています。 第二次大戦に敗れたドイツは、オーデル川とその支流のナイセ川を結ぶオーデル=ナイセ線以東の領土を失い、米英仏ソが分割占領します。占領区域は、オーデル=ナイセ線以西を東西に2分したうえで、東半部をソ連が、西半部の北部をフランスが、中部を英国が、南部を米国が担当。首都ベルリンに関しては、東ベルリンはソ連、西ベルリンは米英仏の3国の統治下におかれ、西ベルリンはソ連占領地に囲まれた飛び地となります。 その後、1949年に東西ドイツが発足すると、東ベルリンはドイツ民主共和国(東ドイツ)の首都となりましたが、西ベルリンは地理的にドイツ連邦共和国(西ドイツ)と離れていたことから、形式上、“ドイツ連邦共和国民が暮らす、米・英・仏3か国の信託統治領”となりました。ただし、当初、東西ベルリン間の往来は一般の住民にも可能で、1950年代には東に住んで西に出勤する者や、その逆のケースも少なくありませんでした。 しかし、東西の経済格差が拡大していく中で、大量の東ドイツ市民、特に高い技能を持った熟練労働者や知識人が、東ドイツに囲まれた西側の孤島、西ベルリン経由で西ドイツに脱出し、そのことが、東ドイツ経済を悪化させるという悪循環をもたらします。 こうした中で、1958年11月27日、ソ連首相のフルシチョフは「西ベルリンを半年以内に非武装の自由都市にする」と西側に通告。これは、西ベルリンを東西ドイツのどちらにも属さず、どちらからも干渉を受けない地域にしたうえで、6カ月以内に東ドイツとの間に米英仏ソの四ヵ国と平和協定を結ぶというもので、協定が締結できなければ戦勝4国はベルリン問題に関して持っている契約及び権利を失う、ともされていました。 当然のことながら、ソ連の一方的な通告に対して西側は反発し、米ソの対立が激化。1961年6月にウィーンで行われた米ソ首脳会談では、フルシチョフは、米国が東ドイツを国家承認し、平和条約を結ぶよう求めましたが、ケネディはこれを拒否。そこで、フルシチョフは、ソ連が単独で東ドイツと平和条約を結ぶことで、西ベルリンの占領統治は終わり、東ドイツに返還しなければならないと主張します。 緊張が高まる中で、6月16日、東ドイツ国家評議会議長のヴァルター・ウルブリヒトは、ソ連との単独平和条約が結ばれ、西ベルリンへの通行管理権が東ドイツに引き渡されれば、航空機による難民輸送(それまで、西側諸国は、東ドイツから西ベルリンに脱出した難民を航空機で西ドイツに輸送していました)を停止することができる、と発言。これを機に、西ベルリンに脱出する東ドイツ市民が激増したため、6月末から7月初にかけて、ウルブリヒトはソ連に対して東西ベルリンの境界線を封鎖するよう求めました。 1961年8月13日のベルリンの壁建設はこうした経緯の下に行われたもので、これにより東ドイツから西ベルリンへの難民の流出は激減しましたが、壁の存在は、それじたい、東西間の経済・生活格差を東側自らが認めたことを意味するものでした。 さらに、10月22日、ベルリンの壁の唯一の境界検問所となったチェックポイント・チャーリーで、西ベルリン駐在の米国公使のアラン・ライトナー夫妻が占領軍ナンバープレートを付けた車で東ベルリンの劇場に向かおうとしたところ、東ドイツ側に止められ、パスポートの提示を求められる“事件”が発生。これに対して、米大統領顧問(西ベルリン担当)のルシアス・D・クレイ陸軍大将らが、「米国の決意のほどを見せつける」として、複数回にわたり、境界付近で外交官の車両を走らせるという“実験”を行ったため、10月27日、33台のソ連軍戦車がブランデンブルク門へ出動。これに対して、米軍の戦車も出動し、実弾を積載した戦車がにらみ合う一触即発の事態となります。 この時は、フルシチョフとケネディが連絡を取り、ソ連側が先に戦車を引くという条件と引き換えに、以後ベルリン市内におけるソ連側の行動について大目に見るということで妥協が成立し(ソ連側はこれを外交上の勝利と受け止めました)、翌二十八日の午前十一時頃、両軍の戦車が撤退して武力衝突は回避されますたが、以後、結果的に、ベルリンの壁の存在は両陣営の武力衝突を回避し、冷戦の状態を維持する役割を果たしました。 当時、東ドイツ側は「“壁”は西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのもの」と主張していましたが、実際には、東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのもので、西側へ脱出しようとして、逮捕ないしは射殺された人々も少なくありません。今回ご紹介の切手の写真は、その象徴として、暗闇の中、東ドイツの警備兵のシルエットが浮かび上がる壁の風景を取り上げています。もっとも、東ドイツ政府は、年金支給年齢の満65歳に達した国民に関しては、国外に脱出してくれれば国家として年金を支払う必要がなくなるため、無条件で西ドイツへの“移民”の申請を認めるというご都合主義をとっていました。 このように、東ドイツ国民を封じ込めていた“壁”ですが、1985年にソ連で始まったペレストロイカの波は東欧にも波及し、1989年5月、ハンガリー政府がオーストリアとの国境を開放すると、ハンガリー経由での亡命を企図して東ドイツ国民が大挙して国外に脱出。“壁”の存在が有名無実化したことに加え、東ドイツ国内でも民主化を求めるデモが活発化したこともあり、同年11月9日、東ドイツ政府は議会の承認を経ずに済む“旅行自由化の政令”を公布。これにより、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」として、“壁”の存在意義は消滅しました。 なお、この政令は当初、11月10日に公表されるはずでしたが、手違いで前日の9日に公表され、押し寄せた群衆を前に検問が廃止されました。現在、壁崩壊の記念日を11月9日としているのはこのためです。ただし、物理的な壁の破壊が始まったのは、日付が変わった10日未明のことで、1989年11月9日の時点で壁そのものがなくなったというわけではありません。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-08 Fri 00:36
きょう(8日)は“一の酉”です。というわけで、11月25日付で刊行予定の拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』の早期重版を祈念して、同書で取り上げた“鳥”のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1945年12月19日、解放後間もないオシフィエンチム(アウシュヴィッツ)からロンドンのポーランド亡命政府関係者宛に差し出された書留航空便で、ポーランドの国章の鷲が入った紫色の検閲印が押されています。 貼られている切手は、1944年9月13日にルブリン政権が発行した50グロシュ切手に、1945年9月10日、1ズウォティ(=100グロシュ)の改値加刷をした切手5枚と、1945年4月10日に発行された3ズウォティ切手2枚の計11ズウォティ相当です。 このうち、1ズウォティ切手に描かれているのは、1410年7月15日、ポ-ランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破った“グルンヴァルト(ドイツ語名:タンネンベルク)の戦い”を記念してクラクフに建立された記念碑です。一方、3ズウォティ切手には、やはりクラクフのランドマークで、天文学者コペルニクスも学んだヤギェウォ大学が描かれています。 1945年2月、戦後の国際秩序を決めたヤルタ会談がはじまると、ロンドンの亡命政権とソ連の影響下で樹立されたポーランド共和国臨時政府(1945年、ルブリン政権から改編)のどちらをポーランド正統政府とするかで、英ソは激しく対立。結局、米国の仲裁で、戦後のポーランドで総選挙が実施されるまでは、ルブリンの臨時政府がナチス・ドイツから赤軍が奪還した地域を統治するものとしたうえで、選挙後の政体はポーランド国民自身に選ばせることで決着が図られました。 また、ドイツ降伏後のポツダム会談では、戦前のポーランド領のうち、東部のウクライナ・ベラルーシ西部をソ連に割譲し、かわりにオドラ川以西のシロンスク(戦前はドイツ領)を戦後のポーランド領に編入することが決められ、東を追われたポーランド人が旧ドイツ領から追放されたドイツ人のかわりに西部に定着するという人口の大移動が起こります。 さて、ルブリン政権は、ソ連占領当局の意向を背景に警察権を掌握し、反対派を実力で排除。1945年6月に“挙国一致政府”が発足すると、副首相に元亡命政府首相のスタニスワフ・ミコワイチクが就任したものの、親ソ派は首相のオスプカ・モラフスキ以下の重要ポストを独占し、ポーランドの共産化はほぼ決定的となりました。さらに、欧州大戦の戦後処理を話し合うために招集されたポツダム会談において、7月21日、西側諸国は亡命政府との関係を断ち、親ソ派の臨時政府をポーランド政府として承認します。この結果、それまでロンドンのポーランド大使館を拠点に活動を展開していた亡命政府は、大使館からの退去を命じられましたが、その後も1990年までロンドンを拠点に活動を続けていいました。 今回ご紹介のカバーは、こうした状況の下、1945年12月にオシフィェンチムからロンドン宛に差し出されたもので、宛先の“ロンドン郵便局私書箱260号”は、第二次大戦中の1940年以来の亡命政府陸軍の軍事郵便局の住所で、私書箱番号の後のスラッシュに次ぐ“131”の数字は、名宛人が所属している組織(この場合は、第4歩兵師団第12兵器廠)を意味しています。 このカバーは、ポーランドでの差出時に検閲を受け、ポーランドの国章である鷲と“Sprawdzono przez/ cenzurę wojskową(軍事検閲官により検閲済み)”の文言が入った検閲印を押されました。その後、ロンドンに到着後、改めて、在英ポーランド陸軍により検閲を受け、英語とポーランド語で“ポーランド第一野戦郵便局”と表示された円形の印が押された後、名宛人に届けられたという段取りになっています。 前述のように、ナチス・ドイツから祖国を解放するために必死の思いで戦ってきたポーランド人が拠り所としていたロンドンの亡命政府は、1945年7月、国際社会から見捨てられ、その規模は大幅に縮小されましたが、決して霧消したわけではありませんでした。この郵便物は、そうした彼らの存在証明のひとつといってよいでしょう。 その後も、ロンドンの亡命政府は、小さいながらも共産ポーランドに対抗するポーランド人にとっての象徴的な存在として、東西冷戦の時代を何とか生きながらえます。そして、統一労働者党政権が崩壊し、レフ・ワレサを大統領とするポーランド第三共和国が発足したことを受け、1990年、“大統領”のリシャルト・カチョロフスキが、政権の正統性を示すレガリア(『ポーランド第二共和国憲法』正文、ポーランド国旗正旗など)を第三共和国へと承継し、その役割を終えて、ようやく消滅するのです。 さて、2015年に刊行した拙著『アウシュヴィッツの手紙』ですが、おかげさまで在庫がほぼなくなりました。また、同書の刊行以降、 Postal History of Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア、2018年のエルサレムと2度の世界切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。 そこで、今回ご紹介のカバーなども加えて、11月25日付で同書の改訂増補版を出版することになりました。すでに、アマゾン等での予約も始まっておりますが、現物ができあがってきましたら、改めてご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-07 Thu 00:56
ヨルダンの考古遺跡として世界的に有名なジャラシュ(ジェラシュとも)遺跡で、きのう(6日)、観光客4人を含む計6人が刃物で刺され、負傷する事件がありました。容疑者は現行犯逮捕されましたが、襲撃の動機や容疑者の背景などの詳細は、この記事を書いている時点では不明です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ヨルダンで発行されたジャラシュ遺跡を描く普通切手で、2003年に発行の50フィルス切手に50ピアストルの改値加刷を施して、2018年に発行された1枚です。ちなみに、ヨルダンの通貨はヨルダンディナールで、補助通貨としてディルハムとピアストル、フィルスがあり、1ディナール=10ディルハム=100ピアストル=1000フィルスとなっていますので、50フィルスから50ピアストルへの変更は額面として10倍になった勘定になります。 ジャラシュは、ヨルダンの首都アンマンの北方48キロの地点にあり、青銅器時代(紀元前3200-1200年)には集落があったことが確認されています。ヘレニズム時代にはギリシャ風の都市が作られ、“クリュソロアスのアンティオキア”と呼ばれましたが、紀元前63年、古代ローマに征服されてシリア属州に編入されてゲラサと呼ばれるようjになり、近隣の都市とともにデカポリス(十都市連合)の一つとなりました。90年にはフィラデルフィア(現在のアンマン)とともにアラビア属州に移管され、ローマ帝国の下、交易が発達し都市基盤が整えられました。 106年にはトラヤヌス帝が新たに作ったアラビア属州を貫くローマ街道が通ったことで、ゲラサはますます繁栄し、129年から130年にかけてのハドリアヌス帝の巡行に合わせて凱旋門(ハドリアヌスの凱旋門)が建立されました。このほか、古代ローマの遺跡としては、ヒッポドローム(戦車競技場/競馬場)、ゼウス神殿アルテミス神殿、フォルム(列柱で囲まれた広場)、列柱道路、劇場、公共浴場などがあります。また、350年以後はモザイク装飾のあるキリスト教会が13ヵ所以上建設されたほか、古代のシナゴーグ跡も見つかっています。 614年、ササン朝ペルシャの侵入により、一時、ゲラサ衰退したものの、イスラム後のウマイヤ朝の支配下では繁栄を回復。しかし、746年の大地震で壊滅的な打撃を被り、その後は十字軍の時代にローマ時代の神殿の一部が要塞として使われたものの、ほぼ忘れられた存在になっていました。 現在の新市街は、19世紀後半以後、シリア各地からの移民やロシア領の北カフカースからの難民の入植により、遺跡の東隣に作られたもので、20世紀後半にはパレスチナ難民の流入もあり、行政上のジャラシュ市の人口は急増。現在は、ペトラと並ぶ遺跡観光の町として、世界各国から多くの観光客が訪れています。 さて、ヨルダンでは2016年12月にも、十字軍時代の城塞跡で知られる中部カラクで観光客を狙った襲撃事件が起き、10人が死亡、30人が負傷しました。このときの事件については、イスラム過激派組織、“イスラム国(IS)”ことダーイシュが犯行声明を出しています。今回の事件については、この記事を書いている時点では、容疑者の背後関係や動機などは不明とのことですが、今年10月26日、ダーイシュの指導者で、カリフを僭称していたアブー・バクル・バクダーディーが米軍特殊部隊によって殺害されたばかりで、ダーイシュによる報復名目のテロが拡大することが懸念されていた矢先の出来事だけに、ちょっと気がかりですね。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-06 Wed 06:40
イエメン南部の主要都市アデンをめぐって争っていた暫定政府と同国南部の分離独立派は、きのう(5日)、サウジアラビアの仲介で権力分担協定に調印しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、英領時代のアデンで1953年に発行された20シリング切手で、1590年に出版されたゲオルク・ブラウンとフランツ・ホーゲンベルクの地理書に描かれた1572年のアデンの風景が描かれています。 アデンはアラビア半島南端、アデン湾に面する港湾都市で、行政上のアデン市はアデン半島と対岸のリトル・アデンまでの三日月形の地域で構成されています。今回ご商j界の切手にも描かれているように、市街地はシャムシーン山(標高551m)を取り巻くようにして広がっており、黒い切り立ったけわしい岩山の稜線に沿って、古い時代の城壁やオスマン帝国軍の砦(現在は遺構になっていますが)も見られます。 アデンを中心にしたイエメン南部は、かつては群小首長国が割拠する地域でしたが、19世紀、首長国同士の争いに調停者として介入した英国は、インドとのシーレーン上の重要拠点であるアデン港を直轄植民地としたほか、周囲の首長国を保護領としました。これに伴い、アデンには英国の郵便局が設置され、1854年から1937年まで英領インド切手が持ち込まれて使用され、1937年からは独自の切手が発行されています。 ただし、英国は、アラビア半島南部に関しては、アデン港を確保しさえすればよいとの方針であったため、周辺の首長国に対しては年金を支給して懐柔し、アデンを攻撃しない限りにおいては放任するとの姿勢をとっていました。 1956年、エジプトのナセル政権がスエズ運河を国有化し、英仏の干渉を退けて第二次中東戦争に勝利すると、ナセルの掲げるアラブ民族主義の権威はアラブ世界で絶大なものとなり、1958年にはイエメン王国(現在のイエメン共和国北部)が“占領されたアデン”の奪還を主張してアデン保護領に駐留の英軍を攻撃し始めます。 このため、1959年、英国はアデン保護領の首長たちを徐々に組織化し、南アラブ首長国連邦を結成。さらに、1960年の国連総会で「植民地独立付与宣言」が決議されたことを受けて、1962年には南アラブ首長国連邦を南アラビア連邦に発展させました。 さらに、1962年9月、北イエメンで、イマーム・アフマドの死に伴う政権交代の隙をつくかたちでクーデターが発生し、伝統的なザイド派(シーア派の一派)イスラムに基づく王朝が倒れ、“イエメン・アラブ共和国”の革命政権が樹立されます。 このため、王党派がサウジアラビアとの国境を越えた山岳地帯に逃れて抵抗を続けると、革命政権はエジプトに支援を要請。これに対して、サウジアラビアは、エジプトに始まるアラブ民族主義の共和革命がついにアラビア半島へと上陸したことで深刻な脅威を感じて王党派を支援し、イエメン内戦は、エジプトとサウジアラビアの代理戦争として展開することになります。 このため、内戦が南アラビア連邦に波及することを恐れた英国は、1963年、直轄植民地のアデン港も同連邦に加盟させ、外交と防衛を除く自治権を与えたうえで、1968年までの独立を約束しました。 ところが、ある程度近代化されたアデンとそれ以外の首長国との間の文化的・経済的格差が大きかったことから、アデン住民は南アラビア連邦に組み込まれたことに強く反発。一部は、占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)や、南イエメン民族解放戦線(NLF)などの武装組織を結成し、英国人の立法評議会議長や親英派アラブへのテロを展開します。 その後、より急進的な社会主義路線を掲げるNLFが勢力を拡大し、1967年10月、アデン港を占領。11月には英国は南イエメンから撤退して南アラビア連邦は解体され、代わってハドラマウト保護領やカラマン島などを加えた英領アデ ン全域は、NLFの下で社会主義政権の“南イエメン人民共和国”として独立。以後、1990年の南北イエメン統一まで存続しました。 以後、統一イエメンの初代大統領となったアリー・アブドゥッラー・サーリフの独裁政権が長らく続いていましたが、2011年、いわゆる“アラブの春”で、サーリフの退陣を求める反政府デモが頻発。当初、サーリフは反政府デモの鎮圧を試みたものの失敗し、2月2日には次期大統領選挙への不出馬を表明しました。 しかし、サーリフ退陣を求める国内世論は収まらず、5月18日、サーリフは、いったん、1ヶ月以内に退陣すると表明。ところが、同月23日には一転して反対派との全ての和平交渉を破棄すると宣言し、反対派への弾圧を再開しました。このため、6月3日、反政府軍が大統領宮殿を砲撃し、重傷を負ったサーリフは治療のためサウジアラビアの陸軍病院へ移送され、結果的に国外へ一時亡命するかたちとなりました。 2011年9月23日、サーリフはイエメンに帰国し、大統領に復帰したうえで、11月23日、副大統領のアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーに30日以内の権限移譲などが盛り込まれた調停案に署名。2012年1月21日にサーリフの訴追免除を可能にする法律が成立すると、治療目的で渡米します。そして、2月21日に行われた大統領選挙でハーディーが当選したことで、サーリフ政権は正式に終焉を迎えます。 ただし、ハーディーがサーリフの腹心として政権運営に深く関わり続けたことに加え、サーリフは議会内の最大勢力である国民全体会議の党首の座にとどまり続けたため、大統領退陣後もサーリフは隠然たる勢力を維持しつづけます。そして、大統領在任中には弾圧していたザイド派(シーア派の一派)の反政府勢力で、イランの支援を受けるフーシ(彼らの自称はアンサールッラー)と連携して、ハーディー大統領派(いわゆる暫定政府)と事実上の内戦に突入。2014年、暫定政府はフーシに首都サヌアを追われ、アデンに拠点を移していました。 これに対して、2015年3月、サウジアラビアなどが軍事介入を開始。以後、民間人を含む数万人が死亡したほか、2017年以降は、コレラの感染も深刻化していました。 2017年12月2日、サーリフは、突如、フーシと敵対するサウジアラビア主導の連合軍と和平協議を行う用意があることを表明し、フーシとの同盟関係が崩れたと発表。これを受けて、翌3日にはサーリフの支持者らが、フーシの攻撃に備えて、首都サヌア中心部の複数の道路を閉鎖し、両者の衝突により、首都全域と国際空港で約60人が死亡するなかで、翌4日、サーリフはフーシによって殺害されます。 その後、サウジアラビアの支援を受けた暫定政権側の攻勢により、フーシは徐々に追い詰められ、2018年12月、フーシは西部の要衝フダイダ(ホデイダとも)での停戦と同地からの全部隊撤退に合意。2019年1月には停戦監視団の派遣も開始されましたが、今度は、8月に南部分離独立派の南部暫定評議会(STC、UAEが支援)を中心とする“安全ベルト部隊”がアデンを奪還。STCは、反フーシで暫定政府と共闘関係にあったため、これにより、イエメンが完全に分裂するのではないかと懸念されていました。 今回の協定は、STCに複数の閣僚ポストを与えることを条件に、暫定政府がアデンに復帰するというもので、国連のイエメン担当事務総長特使、マーティン・グリフィスは、これによりイエメン内戦全体の終結に向けた取り組みが加速すると期待を表明しています。 ★★ 講座のご案内 ★★ 12月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-05 Tue 01:31
ドイツ占領下のフランスでレジスタンス運動に参加し、ユダヤ人の脱出を助けたイベット・ランディさんが亡くなったことが、3日、発表されました。享年103歳。ランディさんは、1940年以降、兄のジョルジュさんが自身の農場にかくまっていたユダヤ人らをはじめ、ドイツ国内の義務労働徴用から逃げ出した男性らや、逃走した捕虜らに偽造文書を提供していましたが、1944年、ゲシュタポに逮捕され、自身もラーフェンスブリュック収容所に送られたとのことなので、ご冥福をお祈りしつつ、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1942年5月6日、アウシュヴィッツ収容所の民間人スタッフがラーフェンスブリュック収容所宛に出しだした葉書で、到着時に、“Postzensurstelle/ F.K.L. Ravensbruck/ gepruft…(郵便検閲/ラーフェンスブリュック女性強制収容所/…によって検閲された)”と表示されたラーフェンスブリュック収容所の検閲印が押されています。 ラーフェンスブリュック収容所は、ベルリン北方90キロの地点に位置しており、1938年末からザクセンハウゼン収容所の収容者を動員して建設が開始され、1939年5月13日、最初の収容者としてドイツ人女性860人、独墺合邦後のオーストリア人女性7人が移送されてきました。 1945年4月、ソ連軍によって解放されるまでに、総計23ヵ国、約12万3000人以上の女性が収容され、6万人以上が死亡したとみられていますが、収容者の人種・国籍別の内訳としては、ポーランド人が最多の4万人で、このほか、ユダヤ人が2万600人、ロシア人が1万8800人、フランス人が8000人、ドイツ人が1000人で、8割以上が政治犯でした。収容者はジーメンス・ウント・ハルスケでの強瀬労働に従事させられたほか、1942年以降は収容者を使った人体実験も行われています。 さて、ランディさんは、28歳だった1944年6月、勤務先の学校でゲシュタポに逮捕され、ラーフェンスブリュック収容所に送られ、収容所に着くなり、ナチス・ドイツ親衛隊(SS)の隊員らの目の前で服を脱ぐよう強要されたそうです。その後、ワイマール近郊の強制労務部隊に送られ、1945年4月、ソ連軍の親中により解放されました。 さて、2015年に刊行した拙著『アウシュヴィッツの手紙』ですが、おかげさまで在庫がほぼなくなりました。また、同書の刊行以降、 Postal History of Auschwitz 1939-1945 と題するコレクションを、2017年のブラジリア、2018年のエルサレムと2度の世界切手展に出品し、マテリアルもかなり充実してきました。 そこで、今回ご紹介の葉書なども加えて、11月25日付で同書の改訂増補版を出版することになりました。すでに、編集作業は完了しており、現在、印刷;製本作業中ですが、アマゾン等での予約も始まっております。現物ができあがってきましたら、改めてご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。 ★★ 講座のご案内 ★★ 11月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-04 Mon 02:54
1979年11月4日にテヘラン米大使館占拠事件が起きてから、ちょうど40年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1985年にイランが発行した“米国大使館占拠6周年”の記念切手です。 イランでは、一時期、毎年のように米国大使館占拠事件の周年記念切手が発行されていましたが、今回ご紹介の切手では、テヘランの米国大使館の門扉をCIAの文字をバックに打ち砕かれた大使館の看板を描き、その周囲には、大使館から送られた機密電が配されています。イラン側は、この切手を通じて、「テヘランの米国大使館はCIAによるスパイ活動の拠点であり、大使館占拠事件により米国の陰謀は打ち砕かれた」と主張したいようです。 1979年2月のイラン・イスラム革命は、開発独裁政策を進めてきた親米パーレビ体制に対する不満が爆発したものでした。このため、パーレビ王制崩壊後、国民の矛先は旧王制を支え続けてきた米国へも向かうことになります。そして、亡命中の国王が治療を名目に米国に入ったことで、急進革命派の反米感情は沸騰。1979年11月、国王の身柄引渡しを求めて急進派学生らがテヘランのアメリカ大使館を占拠する事件が発生しました。 これが、いわゆるテヘランの米国大使館占拠事件で、事件の責任を取って、バザルカーン暫定内閣は総辞職に追い込まれ、革命政権は“西でも東でもないイスラム共和国”として既存の世界秩序そのものに挑戦しはじめます。同時に、米国との国交も断絶し、1981年1月20日に人質が解放された後も、現在にいたるまでの両国の険悪な関係が決定的になりました。 なお、今回ご紹介の切手を含め、ホメイニ時代のイランの反米プロパガンダ切手については、拙著『反米の世界史』でも1章を設けて詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ 講座のご案内 ★★ 11月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-03 Sun 01:02
9月20日から行われていたラグビーW杯は、昨日(2日)、決勝戦が行われ、南アフリカ(以下、南ア)がイングランドを下して3度目の優勝を果たし、ニュージーランドの最多優勝に並びました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1995年のラグビーW杯で南アが初優勝したことを受けて、同年6月28日に発行された記念切手のうち、優勝トロフィーを掲げる選手(白人キャプテン、フランソワ・ピナールのイメージでしょうか)が描かれています。 1991年にアパルトヘイト政策が撤廃されるまで、南アは長らく国際社会から経済制裁を受け、スポーツの南ア代表は多くの国際大会から締め出されていました。ラグビーW杯に関しても同様で、南ア代表は、1987年の第1回大会(ニュージーランドとオーストラリアの共催)、1991年の第2回大会(イングランドを中心に、フランス、ウェールズ、スコットランド、アイルランドにまたがって開催)への参加が許されませんでした。 しかし、アパルトヘイト廃止後の1992年、ラグビーの南ア代表は国際試合に復帰。復帰当初の南ア代表は国際テストマッチで連敗したことから、南ア体育協会の会議では黒人委員たちが「ラグビー・チームのチームカラーと愛称はアパルトヘイトの象徴である」としてその変更が決議されましたが、大統領のネルソン・マンデラは「今まで我々は白人たちに脅かされた。しかし我々は白人たちを協力する寛容の心で迎えるのだ」と演説し、変更を阻止したとのエピソードがあります。 こうした経緯を経て、南アは1995年の第3回ラグビーW杯の開催国になりました。なお、当時の南ア代表は30人の選手のうち、非白人はチェスター・ウィリアムズ1人だけでしたが、それだけにかえって、チェスターは白人と非白人の融和の象徴となります。 5月25日から6月24日まで開催された大会では、南ア代表は、予選A組を3勝0敗の1位で通過し、準々決勝ではサモアを42-14で、準決勝ではフランスを19-15でそれぞれ下し、6月24日、ヨハネスブルクのエリス・パーク・スタジアムで開催された決勝戦でニュージーランドと対戦します。同大会でのニュージーランドは、予選C組で日本を145-17の圧倒的大差で破るなど(ちなみに、145点というのはラグビーW杯での1試合最多得点記録です)、その強さは圧倒的とみられていましたが、南ア代表は延長戦の末15-12でニュージーランドを下し、悲願の初優勝を果たしました。 2009年に公開された米国映画『インビクタス/負けざる者たち』は、この間の経緯をベースに、マンデラ大統領と代表チームのキャプテン、ピナールがW杯制覇へ向け奮闘する姿を描いた傑作で、監督のクリント・イーストウッドが2010年のゴールデングローブ賞の最優秀監督賞にノミネートされたほか、マンデラ役のモーガン・フリーマンがアカデミー賞およびゴールデングローブ賞の主演男優賞に、ピナール役のマット・デイモンが両賞の助演男優賞に、それぞれノミネートされています。 ★★ 講座のご案内 ★★ 11月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-02 Sat 00:51
きょう(2日)は、メキシコの“死者の日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2013年にメキシコが発行した“死者の日”の切手で、墓場で宴会をする骸骨たちを描いたホセ・グアダルーペ・ポサダの版画が取り上げられています。 メキシコでは古来、祖先の骸骨や戦いで倒した敵の骸骨を飾る習慣がありましたが、特に、アステカ族には冥府の女神ミクトランシワトルに骸骨を捧げる祝祭がありました。その後、スペインがメキシコを征服し、カトリックが浸透すると、カトリックの祝祭である“諸聖人の日(11月1日)”と融合して、11月1-2日に盛大に祝われるようになります。 2日間の“死者の日”のうち、1日は子供の魂が、2日は大人の魂が戻る日とされ、市街地には“死者の花”とされるマリーゴールドが飾られ、故人の遺影、十字架、砂絵、花、食物(パン、サトウキビ、柑橘類など)、骸骨などを並べた祭壇(オフレンダ)を前に家族や友人が集まり、故人の思い出などを語り合う日となっています。日本のお盆を陽気にしたような雰囲気で、今回ご紹介の切手に見られるように、墓地にも装飾を施して供え物がささげられるほか、バンドによる演奏や行列行進なども行われます。 * 昨日(1日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は22日の予定(仮)ですので、引き続き、よろしくお願いします。 ★★ 講座のご案内 ★★ 11月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2019-11-01 Fri 01:04
昨日(31日)午前2時40分ごろ、那覇市の世界遺産、首里城跡に復元された首里城の正殿から出火し、約11時間後に鎮火するまでに、正殿、北殿、南殿などの主要施設が全焼しました。というわけで、哀惜の念を込めて、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1950年1月21日、米施政権下の沖縄で発行された首里城正殿を描く2円(B円)切手です。 占領当初の沖縄では、奄美・沖縄・宮古・八重山の各地区に軍政府と民政府が置かれ、郵政機関もそれに対応し、各地で暫定切手が使用されていました。 1948年6月、戦前の状態を基準とする沖縄の経済復興政策を進めていた米軍当局は、B型軍票円(戦前の日本円と等価交換された米軍政府発行のB型軍票を基準とする通貨)を琉球列島全域に共通する法定通貨としましたが、これに伴い、7月1日、新通貨のB円に対応すべく、全琉球統一の“琉球切手”が発行され、それまで、各地区で発行されていた暫定切手類は使用禁止となります。 琉球切手の発行に先立ち、すでに1947年には沖縄地区では独自の切手発行が試みられ、地元軍政府の依頼を受けた逓信部の比嘉秀太郎が三種の切手図案を作成していましたが、これは、東京総司令部はこれを却下。その後、比嘉は新たに4種の図案を制作して、東京に空輸。今度は総司令部に承認されたことで、1948年6月7日、日本の大蔵省印刷局で製造された琉球切手が納品され、7月1日の切手発行となっています。 この時発行された切手は、国名の表示が“琉球郵便”となっていますが、これは、“沖縄”の語が狭義には沖縄本島のみを指す言葉であったことにくわえ、琉球王国を大日本帝国に編入する際に琉球から改称することでこの地域が日本領であることを示すために用いられていたこと、さらに、琉球という名称が戦勝国の一角を占めていた中国による命名であったことなどが総合的に考慮された結果と考えられています。 その後、1950年4月には、それまで地区ごとに分かれていた郵政機関を統合して、全琉球を統括する琉球郵政庁が設置されます。これに対応して、普通切手の図案も変更されることになり、1949年2月、琉球軍政本部は新切手の図案を一般から公募しました。その結果、「芸術的見地のみではなく、沖縄の風物や歴史を描いたものを選ぶように」との琉球列島米軍政長官、ウィリアム・イーグルス少将の“指導”の下、沖縄市民代表による審査が行われ、5月に9点の入選作品が発表され、琉球郵政庁の発足に先駆け、1950年1月21日、新図案の切手が発行されました。今回ご紹介の切手もその1枚です。 なお、1950年の切手に取り上げられた題材は、日本本土とは異なる沖縄独自の文化を示すものであり、1948年の切手にはあった“琉球郵便”の漢字表記が外されたこととあわせて、沖縄の独自性、ないしは日本との差異を従来以上に強調しようという意図を読み取ることができます。 さて、今回焼失した首里城は琉球王朝の王城で、創建年代は明らかではありませんが、近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定されています。琉球王朝時代には、1453年、1660年、1709年に焼失し、そのたびに再建。戦前の1933年に正殿の改修工事が行われて国宝に指定されていましたが、1945年5月、沖縄戦で米軍艦の砲撃等により焼失しました。 戦後、沖縄の住民は首里城の再建を強く望んでいましたが、沖縄を統治していた米当局は、首里城跡地に琉球大学を設立し、首里城の復活を許しませんでした。 1958年に琉球建築の華と謳われた守礼門が再建されると、ようやく沖縄戦で焼失した歴史的建造物の再建がスタート。首里城に関しては、1970年、琉球政府文化財保護委員会(首里城復元期成会の前身)が首里城及びその周辺戦災文化財の復元計画を策定し、日本政府へ正式に要請。復帰後の1972年から1974年にかけて、まず、歓会門(城の入口)と周囲の城郭が再建されました。 1979年、琉球大学が首里城跡から移転したことを受けて、1980年代に入ると首里城再建計画が本格的に進められるようになり、1989年からは正殿の再建が開始されます。その後、再建工事は1992年に沖縄復帰20周年記念事業の一環として完成し、正殿を中心とした首里城公園が開園。2000年には“首里城跡”としてユネスコの世界遺産にも登録され、同年の九州・沖縄サミットでは北殿で各国首脳の夕食会が催されています。その後、復元する区画が拡大され、今年(2019)1月にその工事が完了したことを受けて、翌2月から最後の区画の公開が始まったばかりでした。 ★ 本日 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 急な告知で恐縮ですが、本日・11月1日(金)05:00~ 文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。 ★★ 講座のご案内 ★★ 11月以降の各種講座等のご案内です。詳細については、各講座名をクリックしてご覧ください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 11/5、12/3、1/7、2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ・日本史検定講座(全8講) 12月13日(日)スタート! 内藤は、全8講のうち、2月20日の第6講に登場します。 ・武蔵野大学生涯学習秋講座 飛脚から郵便へ―郵便制度の父 前島密没後100年― 2019年12月15日(日) (【連続講座】伝統文化を考える“大江戸の復元” 第十弾 ) ★ 最新作 『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』 11月25日発売!★ 本体2500円+税(予定) 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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