2021-11-16 Tue 05:22
石油大手のロイヤル・ダッチ・シェルは、きのう(15日)、英国とオランダに分かれていた本社機能を英国に集約し、社名から“ロイヤル・ダッチ”を外し、“シェル”に改めることを発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2018年12月12日、オマーンが発行した“シェル・オマーン・マーケティング社60年”の記念切手のうち、シェルのマークのガソリンスタンドを取り上げた1枚です。 1880年、オランダ人のA.J.セイクラーは、オランダ領東インド(現インドネシア。以下、蘭印)の北スマトラのスルターン(イスラム系の地方君主)、ランカットからパンカラン・ブランダンに近いトゥラガ・サイドの開発権益を与えられ、石油開発事業を始めました。 セイクラーは、1883年、スマトラ東海岸のトゥラガ・ティガとパンカラン・ブランダンでの石油試掘を開始し、2年後の1885年、テラガ・トゥンガルNo.1油井での採掘に成功して原油の生産を開始。これを受けて、1890年、セイクラーの事業を引き継ぐかたちで、蘭印を拠点に活動していたジャン・バプティスト・オーガスト=ケスラーは、1890年にオランダ王室からの特許状(ちなみに、1899年以降は、蘭印鉱業法に基づきオランダ政府から採掘権を得る制度となります)を得て、オランダ領東インド石油開発会社を設立しました。これが“ロイヤル・ダッチ社”の起源です。 同社は、1892年にはパンカラン・ブランダン製油所の操業を開始し、シンガポールやマレー半島向けの灯油のを輸出。4年後の1896年には、蘭印からアジア・大洋州(日本、中国、東インド、オーストラリア)向けの輸出量は300万バレル以上に達し、米国からの同地域向け輸出量にほぼ匹敵するまでに急成長を遂げました。 一方、この頃、ボルネオ島では、1898年にシェル運輸貿易会社(以下、シェル)の石油部門がバリクパパンで製油所を操業し、成功を収めていました。 シェルの創業者、マーカス・サミュエルは、1853年、ロンドン生まれのユダヤ人。1871年、18歳の時に、高校の卒業祝いに父親からもらった片道切符で来日。三浦海岸で拾った貝の美しさに魅せられ、これを加工して父親の元に送り、それを父親がロンドンで宝飾品として販売するというビジネスで大きな利益を上げ、1873年、横浜にマーカス・サミュエル商会を設立します。 同商会は、日本の雑貨類を英国に販売するだけでなく、日本の石炭をマレー半島へ輸出したりするなど、アジア各地に事業を拡大。その一環として、サミュエルはカスピ海などからの貝殻の輸入のために貨物船を運航していましたが、カスピ海からはバクーの石油をスエズ運河経由でバルク輸送し東洋で販売することを思いつき、8隻のタンカーを発注。1882年、その最初の船であるミューレックス号がスエズ運河を無事に通過すると、サミュエル商会は極東の主要港に石油のバルク貯蔵所を設置し、1888年にはバクー産原油を日本市場にも届けています。 当時、欧州の石油市場では、米国ロックフェラー系のスタンダード・オイル(現エクソン・モービル)やノーベルなどの先行企業との競争が激しかったため、ロックフェラーはアジア方面での販路の開拓を模索しており、海運仲買人のフレッド・レーンに協力者を探すよう依頼していました。レーンはサミュエルの活動に目をつけ、彼をロスチャイルドに紹介。1891年、サミュエルはロスチヤイルド系のブニトとの間で1900年を期限とするロシア灯油の独占販売契約を締結しました。こうした経緯を経て、1897年、サミュエルはシェル運輸交易会社を創設。これが、石油会社としてのシェルの起源になります。 さて、石油各社の熾烈な競争の中で、シェルは、消耗戦を早期に終了させて生き残るべく、スタンダード・オイル、ロイヤル・ダッチの双方と並行的に提携交渉を開始。そして、1901年12月、スタンダード・オイルとの交渉を打ち切って、ロイヤル・ダッチとの提携について原則的に合意しました。いわゆる“英蘭協定”の締結です。 ところが、英蘭協定の締結後も、シェルとロイヤル・ダッチの販売競争は収まらなかったため、1903年6月、ロスチャイルドの仲介により“東方でのお互いの競争をやめる”ことを目的として三者合弁(出資比率は対等)のアジアティク・ペトロリアムが設立。その後、1907年にはロイヤル・ダッチとシェルの一本化が成立し、アジアティク・ペトロリアムを包摂するかたちで、“ロイヤル・ダッチ/シェル”グループが結成されました。ちなみに、共同事業としての持ち分は、ロイヤル・ダッチが60%、シェルが40%でした。 さて、ロイヤル・ダッチ/シェルは長らくロイヤル・ダッチとシェルの2社提携による二元上場会社の形態をとっていましたが、2001年ごろから傘下の油田の埋蔵量を下方修正するなど財務上の問題が明らかになり、株主からは透明性向上のため単一法人化を求める圧力が高まっていました。このため、2005年5月、両社は合併して単一の法人として“ロイヤル・ダッチ・シェル”となりましたが、その後も英国に本社を置く一方、税務上の拠点はオランダとし、取締役会も同国で開催するなど、本社機能が分散していました。今回の本社機能集約により、税務上の拠点も英国に移り、これに伴い“ロイヤル・ダッチ”が外れたというわけです。 * 昨日(15日)の文化放送「おはよう寺ちゃん」の僕の出番は、無事、終了いたしました。リスナーの皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。次回は来週月曜日・22日に登場の予定です。引き続きよろしくお付き合いください。 ★ 放送出演・講演・講座などのご案内★ 11月22日(月) 05:00~ おはよう寺ちゃん 文化放送の「おはよう寺ちゃん」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時から9時までの長時間放送ですが、僕の出番は07:48からになります。皆様、よろしくお願いします。 武蔵野大学のWeb講座 2021年12月1日~2022年2月8日 「日本の歴史を学びなおす― 近現代編その1 ― 黒船来航」 12月1日から2月8日まで、計7.5時間(30分×15回)の講座です、お申し込みなどの詳細は、こちらをご覧ください。 ★ 『切手でたどる郵便創業150年の歴史 vol.2 戦後編』 11月20日刊行! ★ 2530円(本体2300円+税) 明治4年3月1日(1871年4月20日)にわが国の近代郵便が創業され、日本最初の切手が発行されて以来、150年間の歴史を豊富な図版とともにたどる3巻シリーズの第2巻。まずは、1945年の第二次大戦終戦までの時代を扱った第1巻に続き、第二次大戦後の1946年から昭和末の1989年までを扱っています。なお、2022年3月刊行予定の第3巻では平成以降の時代を取り扱う予定です。 * ご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-01-12 Sun 00:14
オマーンの国営メディアは、きのう(11日)、カーブース・ビン・サイード・アル・サイード国王陛下が79歳で崩御されたと報じました。というわけで、謹んでご冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます。以下、敬称略)
これは、1991年11月18日、オマーンが発行した“ナショナル・デイ(=国王誕生日)”の記念切手で、国王の肖像が取り上げられています。 カーブースは、1940年、オマーンのスルターンを輩出してきたブーサイード家の嫡流として、サラーラで生まれました。幼少期を同地で過ごした後、インドのプネーを経て、英国に留学。サンドハースト王立陸軍士官学校を卒業後、英陸軍・キャメロニアン連隊に配属され、1年間西ドイツに赴任しました。 その後、地方行政学を学んで1966年に帰国したものの、スルターンのサイード・ビン・タイムールによってサラーラの宮殿に軟禁状態に置かれ、政治への関与を禁じられました。 当時のオマーンは英国の保護下にあり、英国追従路線を採るマスカトのスルターンに反発した内陸部が、周辺アラブ諸国の支援を受け、別個の首長としてイマームを擁立。両者が激しく対立するなかで、1960年には南部のドファール地方で南イエメンの支援を受けた反乱が発生するなど、オマーン国家は危機的な状況に陥っていました。しかし、サイード・イブン・タイムールは有効な手だてを打たなかったので、1970年7月23日、英国の支援を受けた息子のカーブースがクーデターを起こして自ら王位に就きます。 即位後のカーブースは、1913年以来の国号“マスカト・オマーン”をかつてのオマーン・スルターン国に戻すとともに、1971年中には“オマーン”としての国連加盟を実現。それまでの鎖国政策から開国政策に転換して、人材開発を柱とした近代化政策に乗り出すとともに、英国、ヨルダン、親米政権時代のイランの支援を受け、1975年までにドファール地方の反乱をほぼ制圧するなど、国家再建に精力的に取り組み、現在のオマーン繁栄の基礎を築きました。 また、1980年には米国と防衛協定を締結するなど西側諸国との同盟関係を構築する一方、1979年のイスラム革命後もイランとも良好な関係を維持したため、米国とイランの仲介役をになっていました。このほか、1981年設立の湾岸協力会議(GCC)にも原加盟国として加わり、湾岸戦争を機にGCC合同軍の設立を提唱しています。 2011年、いわゆるアラブの春の影響でオマーン国内でも民主化要求デモが発生すると、カーブースは雇用創出、失業手当の支給、社会保障費の増額、公務員の給与・年金・退職金増額などの政治改革を実施。それまで諮問機関に過ぎなかった議会に立法権と行政監査権を付与したほか、国家経済省の廃止、財務省・消費者庁の設置、検察庁の独立、地方議会・国立大学・イスラム銀行の設置を決定し、反政府デモを鎮静化させ、以後、現在に至るまで、オマーン国内の安定を維持し綴ることに成功しました。 ★★ イベント等のご案内 ★★ 今後の各種イベント・講座等のご案内です。詳細については、イベント名をクリックしてご覧ください。 ・第11回テーマティク研究会切手展 1月11-12日(土・日) 於・切手の博物館(東京・目白) テーマティク研究会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。今回の展覧会は、昨年に続き11回目の開催で、香港情勢が緊迫している折から、メインテーマを香港とし、内藤も「香港の歴史」のコレクションを出品しています。 また、会期中の12日13:00からは、拙著『(シリーズ韓国現代史1953-1865)日韓基本条約』の刊行を記念したトークイベントも行います。 展覧会・トークイベントともに入場無料・事前予約不要ですので、ぜひ、遊びに来てください。 ・よみうりカルチャー 荻窪 宗教と国際政治 毎月第1火曜日 15:30~17:00 2/4、3/3(1回のみのお試し受講も可) ★★ 内藤陽介の最新刊 『日韓基本条約』 ★★ 本体2000円+税 出版社からのコメント 混迷する日韓関係、その原点をあらためて読み直す! 丁寧に読むといろいろ々発見があります。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 ★ 2020年はアウシュヴィッツ収容所解放75周年!★ 本体2500円+税 出版社からのコメント 初版品切れにつき、新資料、解説を大幅100ページ以上増補し、新版として刊行。独自のアプローチで知られざる実態に目からウロコ、ですが淡々とした筆致が心に迫る箇所多数ありです。 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2017-09-13 Wed 11:27
ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』655号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は、第二次インティファーダについて取り上げました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2001年7月31日、オマーンが発行した“第2次インティファーダ支援”の切手シートです。画像ではわかりづらいのですが、岩のドームと石を投げる少年、右下の“インティファーダ”のアラビア語の文字部分は、型押しで盛り上がった印刷になっています。 2000年9月28日、イスラエル野党リクードの党首、アリエル・シャロンが、パレスチナ側の反対を押し切って、護衛の警官とともに、エルサレムの“神殿の丘”に上るパフォーマンスを行いました。 シャロンはウクライナ系移民の子で、1928年、英委任統治下パレスチナのクファル・マラル村生まれ。1942年、14歳で準軍事組織のハガナーに入隊して軍事訓練を受け、1948年の第一次中東戦争ではハガナーの正規歩兵部隊、アレクサンドロニ旅団の歩兵中隊長として従軍し、負傷しました。1953年、ヨルダン川西岸およびガザを拠点とする反イスラエル武装組織“フェダイーン”を討伐するための第101特殊コマンドの指揮官に就任。同コマンドは1956年にイスラエル軍初の空挺部隊である第202空挺旅団へと改編され、大佐に昇進したシャロンは引き続きその指揮官となります。 1967年の第三次中東戦争では機甲師団長としてシナイ半島侵攻作戦で軍功を挙げ、戦後、シナイ半島戦域を担当する南部方面軍の司令官に就任しました。 その後、国会での承認が必要な参謀総長への承認がかなわなかったため、1972年6月、いったん退役しますが、1973年の第四次中東戦争ではイスラエル軍の苦境に接して現役復帰。第143予備役機甲師団の師団長として、スエズ運河を逆渡河する反撃作戦を成功させ、国民的な英雄となりました。 1973年の国会議員選挙でリクードから出馬して初当選し、1975年にはラビン政権の農水相として初入閣。1977年にアロン入植地委員会委員長に任命されると、入植地建設を強力に推進し、1983年までに西岸地区の入植者数は文字通り倍増させました。 1981年、ベギン政権の国防相に就任。翌1982年にシナイ半島のエジプトへの返還とそれに伴うヤミット入植地の解体を取り仕切るとともに、レバノン内戦に介入し、PLOをベイルートから撤退させることに成功した。しかし、レバノンでサブラー・シャティーラ事件が発生したため、ラファエル・エイタン参謀総長とともに引責辞任に追い込まれています。 1990年には、シャミル政権下の住宅建設相に就任。(旧)ソ連からのユダヤ人移民を積極的に受け入れて、入植地をさらに拡大すると、その実績をもとに、リクード党首の座をを狙いましたが、1994年の党首選挙ではネタニヤフに敗北。ネタニヤフ政権下では国家基盤相、外相を歴任します。 当時、ネタニヤフは米国の圧力を受け、和平プロセスを進展させており、水面下でシリア大統領ハーフィズ・アル=アサドとゴラン高原の返還交渉を行っていましたが、シャロンは外相としてこの交渉を潰しました。しかし、そうした閣内不一致は政権の基盤を弱体化させ、1999年にはエフード・バラック労働党政権が誕生することになりました。 巻き返しを図るリクードはシャロンを党首に据え、バラック政権の軟弱姿勢を批判。その一環として、2000年9月28日、エルサレムの神殿の丘に登り、岩のドームの前で「エルサレムは全てイスラエルのものだ」と宣言。パレスチナ人を挑発。彼らの敵意を一身に集めることにより、和平推進派に対するイスラエル国民の支持を失わせ、強力なリーダーシップを持つ自分以外には危機を乗り切ることができないとして求心力を強めようとしたわけです。 はたして、シャロンの神殿の丘訪問は、パレスチナ域内のみならず、イスラム世界全域から強く非難されました。しかも、事前にパレスチナ側の強い反対があったにもかかわらず、イスラエルのバラック政権はシャロンの行動を阻止しなかったため、翌9月29日、パレスチナのムスリム2万人が抗議行動を開始。その過程で、嘆きの壁で祈祷していたユダヤ教徒への投石を機に、パレスチナ全域で大規模な民衆蜂起が発生します。 これが、第二次インティファーダです。 第二次インティファーダが発生した2000年9月は米国大統領選挙の終盤戦にあたっており、現職副大統領のゴア候補の勝利を至上命題としていたクリントン政権には、パレスチナの和平プロセスに力を注ぐ余裕はありませんでした。さらに、11月の選挙でゴアを破って当選を果たした共和党のブッシュ・ジュニアは、当初、内政重視の姿勢を鮮明にしており、パレスチナにおける米国の関与は大幅に後退することは避けられませんでした。 このため、2000年12月10日、バラックは起死回生の策として辞任を発表し、翌2001年2月、イスラエルの首相公選が行われることになります。 バラックの目論見としては、“極右”のシャロンに対する国民の指示は一部に留まるだろうし、前首相のネタニヤフも選挙時に国会議員ではない(=首相公選への出馬資格がない)ことから、最終的には、和平交渉の継続を願う世論を背景に自分が再選されるという青写真が描かれていました。 これに対して、シャロンは、選挙戦を通じてバラックの“弱腰”を徹底的に批判することで国民の支持を獲得し、20ポイントもの大差で選挙に圧勝。2001年3月7日、首相に就任します。 シャロン政権の発足は、ハマースやイスラム聖戦などの過激派組織を強く刺激し、彼らはパレスチナ自治政府とアラファトの“弱腰”を批判して、3月27日から28日にかけて、エルサレムとネベヤミンで計3件のテロ事件を起こしました。これに対して、28日、シャロン政権はガザ地区とヨルダン川西岸のラマラに対して大規模な報復攻撃を行い、パレスチナでのアラブ・イスラエル紛争が再燃します。 さらに、4月14日、レバノンを拠点とするシーア派原理主義組織のヒズブッラーがゴラン高原の農場を警備していたイスラエル兵に対してミサイルを発射し、イスラエル兵を殺害する事件が発生すると、その報復として、イスラエルはレバノン領内のヒズブッラーの拠点とシリア軍のレーダー基地を空爆。周辺アラブ諸国とイスラエルの関係は一挙に緊張しました。 その後、5月から6月にかけて反イスラエルの自爆テロが頻発すると、6月2日、アラファトは「即時、無条件の効果的な停戦実現のために最大限の努力を行う」と声明。紛争の拡大を懸念した米国のブッシュ政権も、クリントン政権下で中東和平交渉に関与してきた経験を持つテネットCIA長官を現地に派遣し、シャロンならびにアラファトと対応を協議させます。 これにより、ようやく、イスラエルとパレスチナ自治政府の対立は沈静化に向かったが、ハマースをはじめとするイスラム原理主義組織は、その後も独自に反イスラエルのテロ活動を継続。2001年だけで、100人を超えるイスラエル人が“自爆テロ”の犠牲となり、シャロン政権に対する不満と反感の根強さが浮き彫りになりました。 こうした状況を踏まえ、2001年6月から9月にかけて、アラブ諸国の中には、第二次インティファーダを題材とする切手を発行し、その原因を作ったシャロンを批難し、反イスラエル闘争を支持する姿勢を示すケースもありました。今回ご紹介のオマーンの切手シートも、その一例です。 さて、ことし(2017年)は、第1回シオニスト会議の開催(1897年)から120年、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。 これにあわせて、2012年12月から『本のメルマガ』に連載していた「岩のドームの郵便学」をベースに、大幅に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』を9月22日付で刊行することになりました。ちなみに、連載は第二次インティファーダまでを扱ったところで終わりましたが、書籍の『パレスチナ現代史』では、その後も2016年までの現代史の流れをカバーしております。すでにアマゾンなど一部のネット書店では予約販売も始まっておりますが、実物の見本が出来上がってきましたら、あらためて、このブログでもご報告いたしますので、よろしくお願いいたします。 また、同書の刊行に伴い、『本のメルマガ』の連載は今回で終了となります。4年以上にわたり、連載にお付き合いいただきました皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。 なお、『本のメルマガ』では、今月25日配信号から、題材をガラッと変えて新連載をスタートする予定ですので、引き続き、お付き合いいただけると幸いです。 * きのう、アクセスカウンターが183万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★★ 9月7日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第8回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、10月5日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 なお、7日放送分につきましては、9月14日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。 ★★★ トークイベントのご案内 ★★★ 2017年9月17日(日) 14:00~、広島県立ふくやま産業交流館で開催の「日本のこころタウンミ-ティング in 福山」に憲政史家の倉山満さんとトークイベントをやります。お近くの方は、ぜひ、ご参加ください。なお、イベントそのものの詳細は、こちらをご覧ください。 ★★★ 最新作 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 近日発売!★★★ 本体2500円+税 【出版元より】 中東100 年の混迷を読み解く! 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史! 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2014-01-10 Fri 11:39
昨日(9日)、今年最初の外遊に出発した安倍首相が最初の訪問国であるオマーンに到着し、カーブース国王との首脳会談を行い、安全保障やエネルギー分野での協力を強化することで一致しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1970年の国号改称に伴い、旧マスカト切手に新国名“オマーン・スルターン国”と加刷した切手です。 アラブ連盟加盟国のうち最も東側に位置しているオマーンの地は、古代にはペルシャ人の支配下に置かれていましたが、7世紀の預言者ムハンマドの時代にイスラム化し、アラブが独立を回復。インド西海岸やアフリカ東海岸との交易の拠点として繁栄します。 交通の要衝であるがゆえに、オマーンには対岸のペルシャ人がしばしば侵攻し、14世紀以降はホルムズ王国の支配下に置かれます。さらに、1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてインド洋に入って来ると、1507年にはマスカトもポルトガル軍に占領されました。1649年、ヤアーリバ朝のイマーム、スルターン・イブン・サイフはポルトガル人を駆逐してアラブの支配を回復。ザンジバルからパキスタン沿岸にいたる広大な海域に勢力を拡大しました。しかし、スルターン・イブン・サイフが1679年に亡くなるとヤアーリバ朝は衰退し、1737年からしばらくの間、首都のマスカトも一時的にペルシャに占領されます。 その後、1749年ごろに成立したブーサイード朝はペルシャ勢力を追い払い、ザンジバルからグワダル(現パキスタン)にいたる海洋帝国を樹立。19世紀前半のサイイド・サイードの時代に全盛期を迎えます。1833年、サイイド・サイードは首都をマスカトからザンジバルに移しますが、その後も、オマーンは大英帝国とインド洋の勢力を二分する海洋帝国としての地位を維持し、オマーン本土の重要都市としてのマスカトの重要性は揺るぎませんでした。 しかし、1856年にサイイド・サイードが亡くなると、ザンジバルを中心としたアフリカ東部沿岸地域が分離独立したことにくわえ、蒸気船の登場やスエズ運河の開通により、帆船貿易は打撃を受け、オマーンは次第に衰退。これに乗じて英国が進出し、1864年にはマスカトに英国の郵便局も設けられました。 英国による実質的支配が強まるなか、マスカトのスルターンに反発する内陸部では別個の首長としてイマームが擁立され、両者が激しく対立。第2次大戦後、スルターンとイマームとの抗争は、イマームを支援するアラブ諸国とスルターンを支援するイギリスとの代理戦争の様相を呈するようになり、1960年には南部のドファール地方で南イエメンの支援を受けた反乱が発生するなど、オマーンは危機的な状況に陥ります。しかし、当時のスルターン、サイード・イブン・タイムールは有効な手だてを打たなかったので、1970年、英国の支援を受けた息子のカーブース(現国王)がクーデターを起こして自ら王位に就きました。 カーブースは即位すると、1913年以来の国号“マスカット・オマーン”をかつてのオマーン・スルターン国に戻すとともに(今回ご紹介の切手は、これに伴い、発行されたものです)、1971年中には“オマーン”としての国連加盟を実現。それまでの鎖国政策から開国政策に転換して、人材開発を柱とした近代化政策に乗り出すとともに、1975年までにドファール地方の反乱をほぼ制圧するなど、国家再建に精力的に取り組み、現在のオマーン繁栄の基礎を築きました。 ちなみに、日本の首相のオマーン訪問は、1990年の海部俊樹首相以来2回目のことですが、オマーン側は1970年以来、カーブース国王の治世が続いているほか、首相職は1972年以来、国王が兼務しており、24年前もカーブース国王が海部首相(当時)と会談しました。 ★★★ 展示イベントのご案内 ★★★ 第5回テーマティク出品者の会 1月17-19日(金ー日) 於・切手の博物館(東京・目白) テーマティク出品者の会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。僕も、昨年のバンコク展に出品した朝鮮戦争のコレクションを展示します。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください) ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★ 2014年1月2日より、東京・両国の江戸東京博物館で大浮世絵展がスタートしますが、会期中の1月24日13:30より、博物館内にて「切手と浮世絵」と題するトーク・イベントをやります。 参加費用は展覧会の入場料込で2100円で、お申し込みは、よみうりカルチャー荻窪(電話03-3392-8891)までお願いいたします。展覧会では、切手になった浮世絵の実物も多数展示されていますので、ぜひ遊びに来てください。 なお、下の画像は、展覧会と僕のトーク・イベントについての2013年12月24日付『讀賣新聞』の記事です。 ★★★ 絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩 ★★★ 2014年1月11日・18日・2月8日のそれぞれ13:00-15:00、文京学院大学生涯学習センター(東京都文京区)で、「絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩」と題する講座をやります。(1月18日は、切手の博物館で開催のミニペックスの解説) 新たに富士山が登録されて注目を集めるユネスコの世界遺産。 いずれも一度は訪れたい魅力的な場所ばかりですが、実際に旅するのは容易ではありません。そこで、「小さな外交官」とも呼ばれる切手や絵葉書に取り上げられた風景や文化遺産の100年前、50年前の姿と、講師自身が撮影した最近の様子を見比べながら、ちょっと変わった歴史散歩を楽しんでみませんか? 講座を受けるだけで、世界旅行の気分を満喫できることをお約束します。 詳細はこちら。皆様の御参加を、心よりお待ちしております。 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★ 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は2月4日(原則第1火曜日)で、ついで、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★ 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より) 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2008-01-19 Sat 11:55
NHKのアラビア語会話のテキスト2・3月号が出来上がってきました。僕の担当している連載「切手に見るアラブの都市の物語」では、今回はオマーンの首都、マスカットを取り上げました。その記事に使ったものの中から、今日は、こんなモノをお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)
これは、オマーンの現王朝、ブーサイード朝200年の記念切手です。当時、イギリスがオマーンに持ち込んで使用していたインド切手にアラビア語で“ブーサイード家 1363”の文字が加刷されています。 アラブ連盟加盟国のうち最も東側に位置しているオマーンの首都・マスカットはアラビア半島の東南、アラビア海に望む港湾都市です。 ながらくペルシャ人の支配下に置かれていたオマーンの地は、7世紀の預言者ムハンマドの時代にイスラム化し、アラブが独立を回復。マスカットもオマーンのイマームの支配の下、インド西海岸やアフリカ東海岸との交易の拠点として繁栄します。 交通の要衝であるがゆえに、マスカットには対岸のペルシャ人がしばしば侵攻し、14世紀以降はホルムズ王国の支配下に置かれます。さらに、1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてインド洋に入って来ると、1507年にはマスカトもポルトガル軍に占領されました。1649年、ヤアーリバ朝のイマーム、スルターン・イブン・サイフはポルトガル人を駆逐してアラブの支配を回復。ザンジバルからパキスタン沿岸にいたる広大な海域に勢力を拡大しました。しかし、スルターン・イブン・サイフが1679年に亡くなるとヤアーリバ朝は衰退し、1737年からしばらくの間、マスカットも一時的にペルシャに占領されます。 その後、1749年ごろに成立したブーサイード朝はペルシャ勢力を追い払い、ザンジバルからグワダル(現パキスタン)にいたる海洋帝国を樹立。19世紀前半のサイイド・サイードの時代に全盛期を迎えます。1833年、サイイド・サイードは首都をマスカトからザンジバルに移しますが、その後も、オマーンは大英帝国とインド洋の勢力を二分する海洋帝国としての地位を維持し、オマーン本土の重要都市としてのマスカトの重要性は揺るぎませんでした。 しかし、1856年にサイイド・サイードが亡くなると、ザンジバルを中心としたアフリカ東部沿岸地域が分離独立したことにくわえ、蒸気船の登場やスエズ運河の開通により、帆船貿易は打撃を受け、オマーンは次第に衰退。これに乗じてイギリスが進出し、1864年にはマスカットにイギリスの郵便局も設けられました。 イギリスによる実質的支配が強まるなか、マスカットのスルターンに反発する内陸部では別個の首長としてイマームが擁立され、両者が激しく対立。第2次大戦後、スルターンとイマームとの抗争は、イマームを支援するアラブ諸国とスルターンを支援するイギリスとの代理戦争の様相を呈するようになり、1960年には南部のドファール地方で南イエメンの支援を受けた反乱が発生するなど、オマーンは危機的な状況に陥ります。しかし、当時のスルターン、サイード・イブン・タイムールは有効な手だてを打たなかったので、1970年、イギリスの支援を受けた息子のカーブース(現国王)がクーデターを起こして自ら王位に就きました。 カーブースは、即位すると、1913年以来の国号“マスカット・オマーン”をかつてのオマーンに戻すとともに、1971年中にはオマーンとしての国連加盟を実現。それまでの鎖国政策から開国政策に転換して、人材開発を柱とした近代化政策に乗り出すとともに、1975年までにドファール地方の反乱をほぼ制圧するなど、国家再建に精力的に取り組み、現在のオマーン繁栄の基礎を築きました。なお、カーブース国王の治世は、かつてのオマーンの栄光の日々を回復する“ルネサンス”と称されることもあるそうです。 さて、4年にわたって続けてきた「切手に見るアラブの都市の物語」も、今回が最終回となりました。長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。メッカやメディナ(サウジアラビア)、アレッポ(シリア)、トリポリ(リビア)、アレキサンドリア(エジプト)、ハルトゥーム(スーダン)、ラバト(モロッコ)などなど、連載では取り上げられなかった都市も追加して、いずれ1冊の本にまとめてみたいものです。 <おしらせ> 1月26日(土)の14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)にて開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題してお話をします。内容は、拙著『タイ三都周郵記』の内容をベースに、日本との関係が濃密だった第2次大戦中のタイについて、切手や郵便物から読み解いてみるというものです。 メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。 |
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
|