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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 虜囚の地・セントヘレナ
2015-10-15 Thu 10:56
 フランス皇帝を退位したナポレオン・ボナパルトが1815年10月15日にセント・ヘレナ島に配流されてから、きょうでちょうど200年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      セントヘレナ宛捕虜郵便

 これは、1901年3月24日、ケープ植民地ハイデルベルクからセントヘレナに設置されていたボーア戦争の捕虜収容所宛のカバーです。

 1899年10月に始まったボーア戦争は、当初、ボーア軍が英軍を圧倒していましたが、1900年2月、英本国からの増援部隊が到着。2月18日から27日にかけてのパールデベルグの戦いで英軍がボーア軍を破ったことで戦況は逆転し、3月13日にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンが、6月5日にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアが陥落します。さらに、イギリス軍は、6月11日から12日にかけて、プレトリア近郊のダイアモンド・ヒルでボーア軍の残党を掃討し、正規軍同士の戦いは事実上終結しました。

 ボーア戦争の捕虜収容所は、南ア域内はもとより、遠くセイロンやインド、セント・ヘレナにも設置されており、捕虜となった約2万8000人のアフリカーナーのうち、2万5630人が海外の収容所に送られました。このうち、今回ご紹介のカバーの宛先になったセント・ヘレナの収容所に関しては、ナポレオンさえ脱出できなかった流刑地というメージを連想させ、捕虜たちに対する精神的なダメージを与える意図もあったのではないかと思われます。

 一方、正規軍の戦いが終結した後も、英国の侵略から祖国を守ろうとするアフリカーナーの士気は衰えず、彼らはゲリラ戦を展開し、激しく抵抗していました。

 これに対して、英軍の総司令官ホレイショ・キッチナーは、ゲリラ殲滅のため、焦土作戦を敢行。ゲリラに対する補給を断つとともに、ゲリラ側の戦意を喪失させるためとして、アフリカーナーの家屋や農場を容赦なく焼き払いました。

 その過程で浮上してきたのが“強制収容所”問題です。

 当時の英軍は、いかなる理由であれ(とはいえ、実際には戦禍によるものが大半でしたが)住居を失った現地住民を対象に、人道上の見地から、避難所を設置します。この避難所は、当初、“refugee camp”と呼ばれていました。文字通りに訳すと、難民キャンプです。

 ところが、キッチナーによる焦土作戦が発動され、アフリカーナーに対する事実上の無差別攻撃が開始されると、住居を失うアフリカーナーが急増。ゲリラとみなされた成人男性は処刑されるか遠方の捕虜収容所へと送られ、夫や父親などと引き離された女性や子供、老人は収容所での集団生活を強要された。これが“concentration camp”で、本来の訳語としては“集団生活所”とすべきでしょうが、その実態に照らして、一般に“強制収容所”と呼ばれています。

 しばしば、“集団生活所(=強制収容所)”を設けたのはボーア戦争時の英国が最初といわれていますが、厳密にいうと、米西戦争(1898年)以前のスペイン領キューバやフィリピン、さらには米西戦争後の米比戦争などでの事例があります。ただし、ボーア戦争期の“集団生活所(=強制収容所)”は、現在の南アフリカ共和国に相当する地域のほぼ全域で、住民をもともとの居住地から組織的に駆逐し、収容所での集団生活を強要したという点で、フィリピンなどの先例に比べてはるかに大規模なものであり、その意味では、世界最初の本格的な強制収容所といってよいでしょう。

 英国はアフリカーナーを対象に45ヵ所、アフリカ系黒人を対象に64ヵ所の収容所を設置しましたが、焦土作戦が本格化した後、各収容所には明らかに収容能力を超える人々が抑留され、食糧や医療、衛生環境は極端に悪化。戦時下ゆえに物資の補給が困難であったことに加え、多くの収容所では当局が事態の改善にまじめに取り組みませんでした。さらに、ゲリラとして反英闘争を続けている者が家族にいる場合には食料の配給も減らされ、最終的に2万6000人を超える女性と子供が収容所で命を落としたといわれています。また、アフリカーナーと異なり、アフリカ系の黒人は英国から“敵国人”とみなされていたわけではありませんでしたが、やはり、焦土作戦によって住居を失う者が多く、数万人が強制収容所送りとなり、また1万4154人が死亡しました。

 ちなみに、ナチス・ドイツで設置されていた“Konzentrationslager”という施設に関して、ヒトラーは1941年に「Konzentrationslagerの発明者はドイツ人ではない。英国人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べているほか、ゲーリングはニュルンベルク裁判で「Konzentrationslagerはボーア戦争の際に英国が南アフリカに建設したconcentration campをモデルにした」と証言しており、少なくとも、彼らの意識の中では、ナチスの強制収容所は、ボーア戦争以来の先例を踏襲したものと理解されていたことがうかがえます。

 さて、以前の記事でも少し書きましたが、11月上旬、えにし書房から拙著『アウシュヴィッツの手紙』が刊行の予定です。同書では、今回ご紹介したようなマテリアルも使いながら、“強制収容所”全体の歴史の中で、“アウシュヴィッツ”がどのような位置を占めているのかについても考えてみました。また、同書の刊行に先立ち、下記のようなトークイベントも企画しておりますので、なにとぞよろしくお願いいたします。
 

 ★★★ 明日です! 講座「アウシュヴィッツの手紙」(10月16日)のご案内 ★★★ 

     ポーランド・アウシュヴィッツ解放30年   アウシュヴィッツの労務風景

 10月16日(金) 19:00~20:30、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、「アウシュヴィッツの手紙」と題する講座を行います。

 第二次大戦中、ポーランド南部のアウシュヴィッツ(ポーランド語名・オシフィエンチム)は、ナチス・ドイツの強制収容所が置かれ、ユダヤ人を中心に150万人以上が犠牲となった悲劇の地として知られています。今回の講座では、収容者の手紙を中心に、第二次大戦以前の状況を物語る郵便物・絵葉書、アウシュヴィッツを題材とした戦後の切手などもご紹介しつつ、さまざまな角度からアウシュヴィッツを考えてみたいと思います。

 申込方法など詳細は、こちらをご覧ください。(画像は、ポーランドが発行したアウシュヴィッツ解放30周年の記念切手、右側は収容者による労務風景を取り上げた戦後作成の絵葉書です) 皆様のご参加をお待ちしております。

 ★★★ <JAPEX> トークイベントのご案内 ★★★

   アウシュヴィッツの手紙・表紙  ペニーブラック表紙   

 東京・浅草で開催される全国切手展<JAPEX>会場内で、下記の通り、拙著『アウシュヴィッツの手紙』ならびに『英国郵便史 ペニー・ブラック物語』の刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。

 ・10月30日 15:30~ アウシュヴィッツの手紙
 ・11月1日  14:00~ 英国郵便史 ペニーブラック物語


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』  好評発売中! ★★★ 

        税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 切手の帝国:ケープ植民地
2013-11-05 Tue 10:29
 ご報告が遅くなりましたが、大修館書店の雑誌『英語教育』2013年11月号が発売になりました。僕の連載「切手の帝国:ブリタニアは世界を駆けめぐる」では、今回は、三角切手で有名なケープ植民地を取り上げました。その記事の中から、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       ケープ植民地(四角)

 これは、1884年にケープ植民地で発行された2ペンス切手で、半立ち姿の“希望の女神”が描かれています。このデザインの切手は、1864年から発行されていますが、1884年以降の切手は錨型の透かしが入っているので容易に区別することができます。

 1864年以降のケープ植民地の切手のデザインは、三角切手同様、チャールズ・ベルが制作しました。基本的なモチーフは、三角切手同様、女神が錨の上に座った姿を描いていますが、画面が縦長になったため、三角切手に比べると背筋が伸びています。また、女神の傍らには、ケープ植民地の産業を象徴するものとして、ワインのブドウと羊も描かれている点にも注目したいところです。

 ケープ植民地では、オランダの初代総督、ファン・リーベックが1655年にブドウの苗木を植え、1659年に最初のワインを生産。その後、この地に亡命してきたユグノーによってワイン産業の基礎が築かれました。

 1778年、ドイツ系移民の血を引くヘンドリック・クローテは、ワイナリー、グルート・コンスタンスを率いて、デザート・ワインの傑作とされる“コンスタンシア”を作り出すことに成功。ヘンドリックの死後、コンスタンシアのワイナリーは息子のヘンドリックJrを経て、孫のヤコブ・ピーターが後を継ぎます。このヤコブ・ピーターはフランス語を巧みに操り、パリにコンスタンシアの代理店を開設しました。

 時あたかも、ナポレオン戦争の時代。フランスのワイン産業が大きな打撃を受けたことに加え、英仏間の貿易も途絶したことから、コンスタンシアはその空白を埋めるかのように、シャトー・ディケム(フランス産の最高級貴腐ワイン)、トカイ(ハンガリー産貴腐ワイン)、マデイラ(ポルトガル産ワイン)に勝るとも劣らぬ最上級のデザート・ワインとしてヨーロッパの上流社会を席捲します。その成功に引きずられるかたちで、他のケープ・ワインもヨーロッパで広く飲まれるようになり、ケープ植民地のワイン産業は急速な発展を遂げていきました。

 ところが、1861年、ナポレオン戦争以来、断絶状態にあった英仏の国交が正常化され、英国内でのフランス製品への輸入関税が大幅に引き下げられると、ケープ・ワインの英国向け輸出は激減。さらに、1866年にはブドウに被害をもたらす害虫、フィロキセラ(ブドウネアブラムシ)が蔓延してケープ・ワインの生産は壊滅的な打撃を受けます。

 ワイン産業に代わり、ケープ植民地の主要な輸出品となったのが羊毛で、1840年代前半には年平均3万ポンドだった輸出高は、1845-50年の5年間に年平均20万ポンドに、さらに、1869年には170万ポンドにまで急増。ケープ植民地の経済を支える主役に躍り出ました。

 今回ご紹介の切手は、まさに、ケープ経済の主役がワインから羊毛へと変わっていく転換期を象徴するかのように、ブドウと羊が並べられているのがミソです。

 ちなみに、ケープ植民地のワイン産業は19世紀末のボーア戦争の影響もあって、長らく低迷の時代が続きましたが、20世紀初頭、南アフリカ連邦成立の前後に北米からフィロキセラに対する耐性があるブドウの苗木が持ち込まれると、ようやく復活。それまでの空白を埋めるかのごとく、ワイナリーが競って生産量を増やしていくことになります。

 なお、ケープワインとその歴史については、拙著『喜望峰』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。
 
 また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は11月5日(原則第1火曜日)で、以後、12月3日、1月7日、2月4日、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 ボーイスカウト創立記念日
2013-01-24 Thu 13:31
 きょう(24日)は、1908年1月24日にロバート・ベーデン・パウエルがボーイスカウト英国本部を設立したことにちなみ、ボーイスカウト創立記念日なのだそうです。ということで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        グッドイヤー

 これは、1900年4月にマフィケング(英名:マフェキング)で発行された暫定切手のうち、自転車に乗ったグッドイヤー少年を描く1ペニー切手です。

 マフィケングはケープタウンから北東1400キロほどの地点にある都市。(第2次)ボーア戦争中の1899年10月11日から翌1900年5月17日まで、イギリスの将兵と民間人800名がアフリカーナー8000人以上に包囲された籠城戦の舞台として有名です。この籠城錢に際して、イギリスの守備隊長であったロバート・ベーデン・パウエルは、部下のエドワード・セシル少佐の下、9歳以上の少年を組織したマフェキング見習兵団を組織しました。

 少年たちは郵便の配達を含む伝令業務や見張り役などとして活躍。その甲斐もあって、1900年5月16日深夜から17日早朝にかけて、救援部隊がボーア軍の包囲を突破し、解放されるまで、パウエルらは籠城戦を耐え抜くことができました。

 この結果、パウエルは“マフェキングの英雄”としてイギリスの国民的な英雄となり、ボーア戦争中に彼がまとめた『斥候の手引き(Aids to Scouting)』は(本来は青年向けの兵法書ですが)青少年の心身鍛錬のためのテキストとして注目を集めることになります。これを受けて、1907年、彼は『少年のための斥候法(Scouting for Boys)』を発表。同書において提案された少年訓練組織がボーイスカウトの直接的な起源となり、翌1908年のボーイスカウト本部設立につながったというわけです。

 ちなみに、当時のマフェキングではケープ植民地の切手が使われていましたが、籠城戦の最中は切手の供給が途絶えたため、1900年4月、暫定的な切手が発行され、使用されることになりました。

 切手は、1ペニーと3ペンスの2種類で、1ペニーはマフェキング市内便(2分の1オンス)、3ペンスはマフェキング域外宛の郵便の料金に相当しています。このうち、3ペンス切手にはパウエルの肖像が描かれていますが、今回ご紹介の1ペニー切手には自転車で郵便配達を担当した少年たちのリーダー、ワーナー・グッドイヤーが自転車に乗っている様子が描かれています。

 なお、ボーア戦争とマフェキングの自転車切手については、拙著『喜望峰』でもページを設けて解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 ケープタウンの大火
2013-01-03 Thu 11:19
 ケープタウン近郊の黒人居住区で現地時間の1日午前5時頃、火事が発生。居住区一帯を焼きつくし、死者は3人にとどまったものの、4000人が住居を失う大火になりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

     グリーンポイントPOW(裏)     グリーンポイントPOW

 これは、ボーア戦争時の1900年11月、ケープ植民地のグリーンポイント収容所からドイツ宛に差し出された絵葉書で、絵面には収容所のテント群の写真が印刷されています。

 1899年10月に始まったボーア戦争は、当初、ボーア軍が圧倒的に優位でしたが、1900年2月、英本国からの増援部隊が到着。2月18日から27日にかけてのパールデベルグの戦いでイギリス軍がボーア軍を破ったことで戦況は逆転し、3月13日にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテーンが、6月5日にはトランスヴァール共和国の首都プレトリアが陥落します。さらに、イギリス軍は、6月11日から12日にかけて、プレトリア近郊のダイアモンド・ヒルでボーア軍の残党を掃討し、正規軍同士の戦いは事実上終結しました。

 しかし、イギリスの侵略から祖国を守ろうとするアフリカーナーの士気は衰えず、彼らはゲリラ戦を展開し、激しく抵抗。これに対して、イギリス軍の総司令官ホレイショ・キッチナーは、ゲリラ殲滅のため、焦土作戦を敢行し、ゲリラに対する補給を断つとともに、ゲリラ側の戦意を喪失させるためとして、アフリカーナーの家屋や農場を容赦なく焼き払いました。その過程で浮上してきたのが“強制収容所”問題です。

 現在、強制収容所との訳語が定着した“concentration camp”は、直訳すると、“集団生活所”くらいの意味になりましょうか。

 ちなみに、いわゆる強制労働所といえば、多くの人がナチス・ドイツのことを思い浮かべると思いますが、ナチス・ドイツの設置した強制収容所は、ドイツ語ではKonzentrationslager。英語のConcentration Campと同義語です。これは決して偶然ではなく、ほかならぬヒトラー自身が「強制収容所の発明者はドイツ人ではない。イギリス人だ。彼らはこの種の方法で諸民族を骨抜きにできると思っている」と述べたことがあります。また、ニュルンベルク裁判ではゲーリングが「強制収容所はボーア戦争の際にイギリスが南アフリカに建設した強制収容所をモデルにした」と証言しています。

 さて、第2次ボーア戦争が勃発すると、イギリス軍は、いかなる理由であれ(とはいえ、実際には戦禍によるものが大半でしたが)住居を失った現地住民を対象に、人道上の見地から、避難所を設置します。この避難所は、当初、“refugee camp”と呼ばれていました。文字通りに訳すと、難民キャンプです。

 ところが、キッチナーによる焦土作戦が発動され、アフリカーナーに対する事実上の無差別攻撃が開始されると、住居を失うアフリカーナーが急増。ゲリラとみなされた成人男性は処刑されるか遠方の捕虜収容所へと送られ、夫や父親などと引き離された女性や子供、老人は収容所での集団生活を強要されました。これが“concentration camp”です。

 イギリスはアフリカーナーを対象に45ヵ所、アフリカ系黒人を対象に64ヵ所の収容所を設置しましたが、焦土作戦が本格化した後、各収容所には明らかに収容能力を超える人々が抑留され、食糧や医療、衛生環境は極端に悪化。戦時下ゆえに物資の補給が困難であったことに加え、多くの収容所では当局が事態の改善にまじめに取り組みませんでした。さらに、ゲリラとして反英闘争を続けている者が家族にいる場合には食料の配給も減らされました。

 この結果、最終的に2万6000人を超える女性と子供が収容所で命を落としたとされています。ちなみに、第2次大戦中、日本国内130カ所の捕虜収容所に抑留された連合国軍の捕虜は約3万6000人いましたが、このうち終戦までに亡くなったのは約3500人です。食糧と医薬品が不足し、マラリアやコレラが蔓延する劣悪な中で、過酷な労働を強いられ“枕木1本で死者1人”とさえ言われた泰緬鉄道の建設でさえ、動員された連合国の捕虜6万2000人のうち、亡くなったのは1万2619人でした。こうしたデータと比較すると、収容者に特別な重労働を課していたわけでもない強制収容所としては、ボーア戦争期のイギリスの強制収容所で女性と子供だけで2万6000人が亡くなったという数字の大きさがわかりいただけるでしょう。

 なお、アフリカーナーと異なり、アフリカ系の黒人はイギリスから“敵国人”とみなされていたわけではありませんでしたが、やはり、焦土作戦によって住居を失う者が多く、数万人が強制収容所送りとなり、また1万4154人が死亡しました。

 当然のことながら、焦土作戦や強制収容所のニュースが世界に伝えられると、国際世論はもとより、イギリス国内でも激しい非難の声が上がっています。シャーロック・ホームズで知られる作家のアーサー・コナン・ドイルは、愛国者としてボーア戦争に従軍し、“ホームズ”の印税をつぎ込んで『南アでの戦争:その原因と行為』と題するパンフレットを刊行して「強制収容所や焦土作戦は悪意ある捏造」と絶叫していましたが、作家はただ単に現実を知らなかった(あるいは見ようとしなかった)だけでした。ちなみに、ドイルはボーア戦争での愛国的行為により“サー”の称号を得ましたが、ホームズを生み出したベストセラー作家であることは、サーの称号とは無関係です。
       
 なお、ボーア戦争時の収容所とその郵便については、拙著『喜望峰』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 Merry Christmas!
2012-12-24 Mon 10:43
 今夜はクリスマス・イヴです。というわけで、こんなクリスマス・カードを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ケープ城塞・クリスマスカード

 これは、1904年12月16日、英領ケープ植民地のポート・エリザベスから英国宛に差し出されたクリスマスカードで、キャスル・オブ・グッド・ホープの門が取り上げられています。

 キャスル・オブ・グッド・ホープは、もともとはオランダ東インド会社の総督の居城として1666-79年にかけて建てられた城砦です。五角形に囲まれた城壁の一辺は175メートルで、高さ10メートル。現在でも西ケープ陸軍の司令部として使われていますが、その一部は公開されています。

 葉書の画面右側にある鐘楼はケープタウンを代表する建造物として切手にも取り上げられたことがあります。城砦の完成当時、入口は海側に設けられていましたが、鐘楼の下にある現在の入口は1683年に現在の位置に建てられました。

 入口の手前には1720年から1740年にかけて、雌雄のライオン像のある門が建てられ、観光客はここを通って城塞の敷地内に入ることになります。狛犬ならぬ狛獅子といった風情ですが、獅子の口は阿吽の一対ではなく、両方とも開いたままなので、日本人の感覚としては、なんとなくしまりのないようにも思えてしまいます。まぁ、クリスマス休暇ののんびりした雰囲気には、ちょうどいいのかもしれませんが…。

 なお、拙著『喜望峰』では、ケープタウンを代表する観光地であるキャスル・オブ・グッド・ホープについて、ケープタウンの歴史も交えて詳しくご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 新世界の七不思議・自然版
2012-12-03 Mon 15:39
 昨年(2011年)、南米アマゾンの熱帯雨林、ベトナムのハロン湾、アルゼンチンのイグアスの滝、韓国の済州島、インドネシアのコモド国立公園、フィリピンのプエルトプリンセサ地底河川国立公園とともに“新世界七不思議・自然版”に選出された南アフリカのテーブル・マウンテンの山麓で、きのう(2日)、選出を祝う記念式典が開かれたそうです。というわけで、きょうはこんなものを持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

        テーブルマウンテン葉書(ケープ)

 これは、南アフリカ連邦発足以前の1899年、ケープタウンから差し出されたケープ植民地の絵入りはがきで、テーブル湾に面したケープタウンの港から見たテーブル・マウンテンが取り上げられています。テーブル・マウンテンを取り上げた切手は、1900年の1ペニー切手以来、幾度となく発行されていますが、今回はちょっとひねったマテリアルのご紹介です。

 ケープタウンのシンボルともいうべきテーブル・マウンテンは、ケープタウン南部、切り立った崖が特徴の山で標高は1087メートル。地上から見ると、頂上がナイフで切ったかのように平らに見えるのが名前の由来です。これは、地盤のやわらかい部分が風雨で削り取られ、固い地盤だけが台形状に残ったことによるもので、ケープタウン以外にも、南米ヴェネズエラのギアナ高地にも同じ名前の山がありますが、やはり、世界的に有名なのはケープタウンの方でしょう。ちなみに、実際にテーブル湾から眺めたテーブル・マウンテンの景色はこんな感じです。

        テーブル・マウンテン(テーブル灣から)

 テーブル・マウンテンの頂上へと昇るロープウェイの乗場は、標高300メートル地点のコル地区にあって、山頂からはケープタウン市内とテーブル湾を一望することができます。また、山全体が国立公園に指定されていて、野生の動植物の宝庫としても有名です。こうしたこともあって、以前から世界的な観光地として人気を集めていましたが、今回の七不思議選定の影響で、先月(11月)の観光客数は記録的な人数に達したのだとか。

 ちなみに、拙著『喜望峰』でも、テーブル・マウンテンについてはかなりのスペースを割いていろいろとご紹介しております。この年末年始に現地へ行かれる予定のある方も、そうではない方も、機会がありましたら、ぜひとも同書をお手にとってご覧いただけると幸いです。
 

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 出版記念トークやります
2012-11-09 Fri 09:34
 きょう(9日)から、東京・池袋で全国切手展<JAPEX 2012>が始まります。僕も、会期2日目の明日(10日)、会場内で拙著『喜望峰』の刊行記念トークを行いますので、きょうはその予告編としてこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

         希望の女神(立ち姿)

 これは、1893年にケープ植民地で発行された1ペニーの切手で、立ち姿の“希望の女神”が描かれています。

 ケープ植民地で発行された“希望の女神”の切手というと、1853年から発行の三角切手が有名です。三角切手の女神は、切手のかたちに合わせて、錨にもたれて寝そべっている姿で描かれていますが、1864年以降の切手では、切手が長方形になり、女神も中腰に変化します。さらに、今回ご紹介の1893年の切手では、完全な立ち姿になりました。寝そべっていた女神が完全に立ち上がるまでに、40年かかったという勘定になりますな。

 ちなみに、ケープタウンの市役所には、ペディメントの部分にケープタウン市の紋章が掲げられているのですが、そこには、こんな感じの女神像が掲げられています。

         ケープタウン市役所・紋章

 この写真は市役所前の広場から撮影したものですが、拡大してみると、女神の顔は厚化粧のオカマみたいでちょっと気色悪いですな。やはり、“夜目・遠目・傘の内”ではありませんが、女神の像も、地上から肉眼で、切手と同じくらいの大きさのモノを見上げている方が良いのかもしれません。

 さて、今回のトークでは、ケープ植民地で発行された“希望の女神”の切手や各種の郵便物等をご紹介しながら、ケープタウンとその歴史の面白さについて、いろいろとご紹介していく予定です。ぜひ、遊びに来てください。


 ★★★ イベントのご案内 ★★★

 ・11月10日(土) 11:00- 全国切手展<JAPEX>
 東京・池袋で開催される全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『喜望峰』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。(展覧会の入場料はかかりますが、入場後、トークへはどなたでも無料でご参加いただけます)


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 なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したい、という方は、是非、ご連絡ください。資料を急送いたします。

 
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 ケープタウンの巨人
2012-10-23 Tue 12:11
 プロ野球のクライマックスシリーズ(CS)ファイナルステージは、きのう(22日)、セ・リーグの最終戦(第6戦)が行われ、巨人が中日を4-2で降し、対戦成績を4勝3敗(リーグ優勝の1勝のアドバンテージを含む)として3年ぶり33回目の日本シリーズ進出を決めました。というわけで、きょうは“巨人”ネタです。(画像はクリックで拡大されます)

         ケープタウン・KEVII像絵葉書

 これは、1910年12月に南アフリカ・ケープ州のウィンバーグから差し出された絵葉書で、ケープタウン市庁舎前に建てられている英国王エドワード7世の像が取り上げられています。このエドワード7世像の“巨人”ぶりをご理解いただくため、像の下に人々がたむろしている写真を下に貼っておきます。

         ケープタウン・KEVII像実物

 ちなみに、下の画像は葉書の裏面で、ケープ植民地時代に発行されたエドワード7世の肖像を描く1ペニー切手が貼られています。絵面に貼られていたら、マキシマムカードとなったのですが…。

         ケープタウン・KEVII像絵葉書裏面

 切手の消印は、1910年12月7日ですが、すでに、同年5月31日には南アフリカ連邦が結成され、ケープ植民地はナタールやトランスヴァール、オレンジ・リヴァー・コロニーなどとともに連邦に吸収されました。なお、エドワード7世は、南ア連邦発足直前の5月6日に崩御していますが、後継のジョージ5世の肖像を描く普通切手の発行が始まるのは1913年のことです。ちょっとのんびりしすぎのような気もしますが、連邦発足後、いわゆる三角切手を除く旧ケープ植民地の切手は連邦全域で使用可能となり、旧切手の在庫があるうちは、そちらを消化することを優先したということなのかもしれません。なお、旧ケープ植民地の切手は1937年12月31日限りで使用禁止となりました。(ただし、三角切手はすでに1900年に使用禁止となっています)

 さて、あさって(25日)から発売となる拙著『喜望峰:ケープタウンから見る南アフリカ』では、今回ご紹介の国王像のあるグランド・パレードをはじめ、ケープタウンの歴史を感じさせる建造物等もいろいろとご紹介しております。書店などで実物を目にする機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


 ★★★  T-moneyで歩くソウル歴史散歩 ★★★
   
・よみうりカルチャー荻窪
 10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30

 8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、ソウルの歴史散歩を楽しんでみようという一般向けの教養講座です。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。


 ★★★ イベントのご案内 ★★★

 ・11月3日(土) 10:15- 切手市場
 於 東京・池袋 東京セミナー学院
 詳細は主催者HPをご覧ください。新作の『喜望峰』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。 会場ならではの特典もご用意しておりますので、ぜひ、遊びに来てください。

 ・11月10日(土) 11:00- 全国切手展<JAPEX>
 東京・池袋で開催される全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『喜望峰』刊行記念のトークイベントを予定しております。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。


 ★★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★★

 毎秋恒例、切手紀行シリーズの第5巻は、10月25日に発売です!

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 ケープ周郵記⑤
2012-08-24 Fri 13:22
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、先月25日、「本のメルマガ」第472号が配信となりました。僕の連載、「ケープ周郵記」は、今回は、ケープ・ポイントを中心に取り上げました。その記事の中から、きょうはこのマテリアルのご紹介です。(画像はクリックで拡大されます)

       ケープ・ポイント(1905)     実際のケープ・ポイント

 左側は、1905年にケープ植民地からイギリス宛に差し出された絵葉書で、ケープ・ポイントが取り上げられています。右側には、現在のケープ・ポイントから撮影した写真を貼っておきます。

 ケープ半島の先端は二つに割れていて、その西側が喜望峰、東側がケープ・ポイントと呼ばれており、南北の位置関係でいうと、ケープ・ポイントがわずかに南にあります。そのケープ・ポイントの真上にあり、遠くに喜望峰も見える場所ということで、展望台はルック・アウト・ポイントと呼ばれています。
 
 ルック・アウト・ポイントは海抜248m。かつて、ここには燈台が置かれていましたが、霧が発生して肝心の灯りが見えなくなることもしばしばあったため、1919年、半島先端の海抜87mの地点に新しい燈台が建てられました。ただし、その後も旧燈台の建物は取り壊されず、跡地は展望台として世界中の観光客を集めるようになったというわけです。

 僕が2010年に現地を訪ねたときは、ルック・アウト・ポイントには、教師に引率された中高生と思しき団体の先客がありました。このため、ただでさえ広くはない展望スペースは大混雑。若者たちは、ワイワイガヤガヤ騒いでおり、とても「ここが教科書に出てきた喜望峰か」などと感傷に浸れるような環境ではありませんでした。

 おまけに、展望スペースに設置された、世界各都市の方向と距離を示した案内板には、ロンドン、北京、アムステルダム、シドニー、リオデジャネイロ、エルサレム、ニューヨーク、ニューデリーはあるものの、日本の都市はありませんでした。よりによって北京なんかが入っているのに…。なんとなく釈然としない気分ですな。(下の画像は展望スペースの観光客と案内板)

        燈台と案内表示

 厳密にいうと、アフリカの最南端でインド洋と大西洋がぶつかるのは、喜望峰でもケープ・ポイントでもなく、アガラス岬で、そこにはそのことを示す看板もあるのですが、ケープ・ポイントの沖合でも、時として二つの大洋がぶつかって渦を巻くようすが見られるのだそうです。そういう話を聞くと、ケープ・ポイントの沖合では、あたかも、鳴門の渦潮のように荒れ狂う海の勇壮な風景が見られるように思ってしまいますが、現実には、波の穏やかな場合も少なくないようです。ただ、目の前に広がる原色の海は左右で明らかに色が違っていますので、どうやら、その境目が二つの海が交わるところと見て間違いないでしょう。

 そういうことなら、とりあえずはそれで良しとしましょうか。ちなみに、崖の上に建つ小さな小屋は大気観測所で、1919年に建てられた燈台はその先にあるですが、展望台からは死角になっていて見えません。

 さて、毎年秋に刊行している彩流社の<切手紀行シリーズ>ですが、シリーズ5冊目の今回は、きょうご紹介の喜望峰を中心に取り上げる予定で、現在、制作作業中です。詳細につきましては、今後、随時このブログでもご案内していく予定ですので、よろしくお願いいたします。
 
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 *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。


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 ケープ周郵記②
2012-05-11 Fri 22:17
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第463号が配信となりました。僕の連載、「ケープ周郵記」は、今回は、ケープタウンから喜望峰へと向かう道中のキャンプスベイを中心に取り上げました。その記事の中から、きょうはこのマテリアルのご紹介です。(画像はクリックで拡大されます)

      キャンプスベイ(1907)     キャンプスベイ(実物)

 左は、ケープ植民地時代の1907年に差し出された絵葉書で、当時のキャンプス・ベイを遠望する写真が取り上げられています。右側には、曇っていて見晴らしが悪いのですが、2010年に撮影したキャンプス・ベイの風景の写真を貼っておきました。

 ケープタウン郊外のキャンプス・ベイのエリアは、高級ホテルやセレブ達の別荘などが立ち並ぶリゾート地として知られています。

 現在のケープタウンの基礎は、1652年、南アフリカにオランダ人入植地とオランダ東インド会社のための補給基地の建設を命じられたヤン・ファン・リーベックが上陸して築かれましたが、その時からすでに、ケープタウン郊外のこの地は東インド会社の保養地として利用されていました。

 ケープ半島沿岸の海岸の中でも、キャンプス・ベイ一帯が特に保養地として選ばれたのは、テーブルマウンテンとそれに続く十二使徒と呼ばれる山々が南東からの季節風をさえぎり、気候が穏やかなためで、オランダ人の入植以前はサン族やコイ族などの先住民が住んでいました。

 十二使徒という名前は、12の峰が連なっていることから、キリストの12人の弟子になぞらえて命名されたものですが、峰ごとにペトロとかヨハネとかそういう名前が付けられているわけではありません。個人的には、ユダなんて峰があったら、金貨を持って(昔懐かしいクルーガー・ランド金貨が良いかもしれません)登ってみたいですがね。

 18世紀に入ると、一帯の土地はウェルニヒ家に払い下げられましたが、1778年、当主のヨハンが亡くなり、財産を引き継いだ未亡人のアンナ・コーケモールがフレデリック・フォン・カンプスと再婚すると、いつしか、“フォン・カンプスの海岸”を意味するディー・バーイ・フォン・カンプスの地名が定着。現在のキャンプス・ベイというのは、その英語名です。

 イギリスがケープ植民地を獲得した19世紀初頭の時点では、キャンプス・ベイ一帯は未開発の自然が数多く残されていて、1814年から26年にかけてケープ植民地総督を務めたチャールズ・ヘンリー・サマーセットは、海水浴ではなく、狩猟を楽しんだといわれています。

 リゾート地としての本格的な開発が進むのは、1887年にケープタウン市内からの直通道路が開通してからのことです。道の名前は、当初の計画ではクルーフ・ロードとなっていましたが、完成翌年の1888年がたまたまヴィクトリア女王の在位50年の記念の年であったため、完成時にはヴィクトリア・ロードと命名されました。

 19世紀末、キャンプス・ベイ一帯のリゾート地としての開発が進み、多くの観光客が訪れるようになると、さっそく、ビーチと山並みを組み合わせた絵葉書が盛んに作られるようになりました。今回ご紹介の絵葉書もその1枚で、1907年5月8日、東ケープ州のポート・エリザベスから差し出され、同月10日にケープタウンに到着しています。ケープタウンの名宛人に送るのなら、ポート・エリザベスの絵葉書を送ったほうが喜ばれるだろうと思うんですが、まぁ、そのあたりはご愛嬌でしょうな。

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 ケープ周郵記①
2012-04-10 Tue 22:47
ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第460号が配信となりました。今回から、先月終了した日豪戦争に代わって、「ケープ周郵記」と題する新連載をはじめました。今回は初回ということで、まずは、この切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

        喜望峰三角切手(青)

 これは、1853年9月1日に発行された喜望峰の三角切手の4ペンスです。

 1488年に喜望峰を“発見”したのはポルトガル人でしたが、1652年、この地に最初の植民地としてケープタウンを築いたのはオランダ人でした。その後、ナポレオン戦争中の1806年、イギリスはそれまでオランダ領だったアフリカ南端のケープ植民地を接収し、1815年、正式に英領として編入します。

 イギリス本国で世界最初の切手が発行されたのは1840年のことですが、1847年には早くも、ケープ植民地で独自の切手発行が計画され、イギリスの海軍少佐でケープ植民地税関総監督のチャールズ・ミッチェルは、ロンドンのパーキンス&ベーコン社に切手製造コストの見積を出させています。しかし、この時は値段が折り合わず、切手の発注は見送られました。

 1852年、イギリス本国の機構改革で、英領植民地の郵便機構が商務省の管轄になると、ケープ植民地でも独自の切手発行が再び課題として浮上。その際、当時のケープ植民地では識字率が低かったため、本国の切手と一目で区別できるように、三角形の切手が企画されたといわれています。
 
 今回ご紹介の切手は、こうした経緯で発行されたもののひとつで、喜望峰を象徴する希望の女神を描く原画は、パーキンス&ベーコン社のチャールズ・ベルが制作しました。三角形というユニークな形状に加え、国家元首の肖像や紋章などの無味乾燥なデザインの切手が多かった当時においては画期的な出来栄えで、古くから収集家の間では人気のある切手です。

 今回の連載では、2010年にヨハネスブルグで開催された国際切手展JOBURG 2010の終了後、ケープ半島を旅行した時の体験と切手や絵葉書を組み合わせて話を進めていきたいと思っておりますので、よろしくお付き合いいただけると幸いです。

 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★
   
 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。

・よみうりカルチャー柏
 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日
 (毎月第4火曜日)13:30~15:30

 切手でたどる昭和史

 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。

 *よみうりカルチャー荻窪での講座のお申込み受付は終了いたしました。

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 ケープタウン到着
2010-11-06 Sat 08:16
 きのう(5日)の夕方、ケープタウンに到着しました。きょう・あす(6・7日)の2日かけて、ケープタウンの各所をいろいろと回ってみたいと思っています。というわけで、まずはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

         テーブルマウンテン

 これは、1900年にケープ植民地で発行された1ペニー切手で、ケープタウンのシンボルともいうべきテーブルマウンテンが描かれています。

 テーブルマウンテンは、ケープ半島北部、ケープタウン市街地の南部に位置しており、標高 1086メートル、幅は約3キロです。地盤のやわらかい部分が風雨で削り取られ、固い地盤だけが台形状に残った姿がテーブルのように見えるというのが名前の由来で、山に雲がかかると、その外観から“テーブルクロス”と呼ばれるのだそうです。

 ちなみに、切手に描かれたテーブルマウンテンはケープ湾からの眺めですが、きのう、空港から市内へ移動する途中で見えたテーブルマウンテンはこんな感じでした。

      テーブルマウンテンA     テーブルマウンテンB

 ホテルから迎えに来てくれたドライバーによると、テーブルマウンテンにはテーブルクロスがかかっていることの方が多く、こんな風にエッジがきちんと見えることは少ないのだとか。そういうことなら、ダーバンに行かず、1日前倒しでケープタウン入りすればよかったかもしれません。

 ケープタウンというと、収集家の世界ではどうしても三角切手のイメージが強いのですが、豊かな自然に恵まれ、なおかつ歴史のある町なので見どころは沢山あります。かの三角切手ゆかりの地がどんなところなのか、2日間でじっくり見聞してくるつもりです。

 
 ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★

 11月13日(土)13:00から、東京・池袋で開催される全国切手展<JAPEX>会場内で、拙著『マカオ紀行:世界遺産と歴史を歩く』刊行記念のトークイベントを予定しております。一般書店での販売は11月25日以降の予定ですが、今回は会場限定での先行発売も行いますので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。


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 『郵趣』今月の表紙:喜望峰の三角切手
2006-10-26 Thu 00:57
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』11月号ができあがりました。

 『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

喜望峰の三角切手

 これは、喜望峰の三角切手の8枚ブロックです。

 ナポレオン戦争中の1806年、イギリスはそれまでオランダ領だったアフリカ南端のケープ植民地を接収し、1815年、正式に英領として編入します。

 ケープ植民地最初の切手が発行されたのは1853年のことです。当時、この地域では識字率があまり高くなかったため、英本国の切手と一目で区別できるように、現地の切手は三角形というユニークな形態が採用されました。デザインは、喜望峰を象徴する希望の女神。印刷所は本国のパーキンス&ベーコン社です。

 1861年、ケープ植民地では本国から到着した切手が倉庫に保管されたまま忘れられ、在庫の切手も底をついてしまうという事態が起こりました。このため、暫定的に、現地製の切手が作られます。この切手は実際には鉛版ですが、一見、木版刷に見えるため、ウッドブロックと呼ばれています。

 ウッドブロックの時代は2年ほど続きましたが、1863年、再び、英本国製(印刷所はデ・ラ・ルー社に代わっていた)の切手が使用されるようになりました。今回ご紹介している切手はそのうちの1ペンス切手の8枚ブロック。喜望峰の三角切手としては一番ありふれたものですが、画像のように立派なフル・マージンのブロックは見ごたえがあります。なお、この切手には暗い深紅色・赤味茶・茶赤の3種類のシェードのバラエティがありますが、表紙のものは暗い深紅色です。

 さて、今月号の郵趣では、11月3日(来週金曜日)から始まる<JAPEX>の予告編として、企画出品・招待出品として会場に展示される予定の名品の数々をご紹介しています。是非、本誌を<JAPEX>参観のための“予習”にご活用いただけると幸いです。

 *11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください)
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