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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 地震で松本城にヒビ
2011-06-30 Thu 18:09
 けさ(30日朝)、長野県で強い地震があり、松本市内では7人の重軽傷者が出たほか、国宝の松本城にもヒビが入る等の被害があったそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        松本城

 これは、1977年8月に発行された第2次国宝シリーズ第5集の“松本城”です。

 戦国時代以降の日本の城郭建築では、権威・権力の象徴として壮麗な天守(一般には天守閣と呼ばれることも多いが、正式の建築用語は天守)がつくられましたが、現存する天守のうち、最も規模が大きく、なおかつ古いものの一つが松本城天守です。

 松本城は1594年、石川康長によって起工され、1597年ごろに完成したといわれています。天守は5重6階で勾配の緩やかな石垣の上に立っており、北と東に乾小天守などを従えるなど、その形状は変化に富んでいます。江戸時代の天守の先駆的な形式を持ちながら、戦国時代の古い形態も残しており、わが国の城郭建築史を記録する資料としても重要な意味を持っています。

 当初、この切手の原画写真として発表されたものは、1981年7月に発行の外信用葉書(額面80円)の印面とほぼ同じ構図となっていましたが、地元の切手収集家・藤野力が、この写真には、天守閣の前に国宝ではない黒門が入っていると指摘したため、松本郵便局と松本城管理事務所を通じて連絡を受けた郵政省は、急遽、デザインを変更しました。この結果、郵政省のデザイナーであった菊池吉晃が、あらためて、別の写真を元に切手としての原画構成を行いました。なお、切手の名称は“松本城”となっており、特に天守のみを取り上げているわけではありません。


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 泰国郵便学(14)
2011-06-29 Wed 15:30
 財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第45巻第3号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回は、1943年の大東亜会議前後の状況についてまとめてみました。その中から、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        第一次大戦勝利記念碑

 これは、大東亜会議終了直後の1943年11月25日に発行された第一次大戦勝利25周年の記念切手で、王宮前広場の西北に建てられた記念碑を描く記念切手が描かれています。

 連合国の反攻に追い詰められつつあった日本は、占領地域の対日協力を確保するためにも、日本はビルマ、フィリピンを独立させ、戦争の大義であった“大東亜共栄圏の確立”をアピールするための政治イベントとして、1943年11月に東京で大東亜会議を開催しました。

 大東亜会議は、日本とその勢力圏内にあった6つの政府(満洲国、中国汪兆銘政権、タイ、ビルマ、フィリピン、自由インド仮政府)の代表を集めて行われたものですが、タイとしては、同会議への参加が、戦後、みずからの立場を悪化させることのないように細心の注意を払わねばなりませんでした。タイにしてみれば、連合国側から、日本の“傀儡政権”とみなされている満洲国などと同列に扱われ、戦後、“傀儡政権”と同様の処分を受けることだけは、なんとしても避けなければならなかったからです。

 このため、会議1ヶ月前の10月6日、タイ駐在の日本大使・坪上貞二が首相のピブーンに対して会議への出席を要請すると、ピブーンは即座に健康上の問題を理由にみずからの参加を拒否。そのうえで、ピブーンが「他の列席国と異なり、タイは古くからの独立国であって日本の同盟国である。他国と異なるタイの立場に対して、日本はどのような待遇をするのか」と質問します。日本側からすれば単なる難癖ですが、タイとしては、自国の領内に日本軍が駐留している中で、戦後の生き残りをかけてのギリギリの抵抗でした。

 結局、この問題は坪上が「(同年7月の)東條総理のタイ国訪問に対する答礼者として接遇する。答礼者としての地位に対しては、あらゆる経緯を尽くすが、会議そのものはイロハ順によらざるを得ない」と回答。これを踏まえ、ピブーンの代理には、名実ともにタイを代表する人物として、王族のワンワイタヤコーン(ナラーティップポンプラパン)親王をタイ代表として会議に派遣することで決着しました。

 さて、ワンワイタヤコーン親王一行は、大東亜会議初日の1943年11月3日に羽田に到着。そのまま、最初の公式日程として、午後4時から首相官邸で開催された東條首相招待のお茶の会に直行しました。

 タイ側は、親王は急病のため、丸2日間、まったく食事を摂らず、40度近い発熱をおしてバンコクを飛び立ってきたと説明。このため、翌4日に予定されていた東條との懇談はキャンセルされ、親王は宿泊先の目黒区駒場の前田利建侯爵邸で“静養”しています。

 5日の会議は、親王を先頭に各代表が議場に入場して始まりました。親王の席はホストで議長の東條英機の右側。日本側は、ピブーンの“難癖”を忠実に受け止めたようです。

 会議では、当初、親王の演説は午後からの予定でしたが、午前中の東條英機、汪兆銘の演説が早めに終わったため、午前中に繰り上げられました。演説において、親王は「タイ国が日本に援助を求めるとすれば、それは戦争完遂のため其の経済力を維持する上に於て必要とするものに限られて居るのであります」と述べ、あくまでも今回の対米英戦争でタイの果たしている役割は限定的なものにすぎないとの姿勢を強調しています。

 ちなみに、当時の駐日タイ大使ディレーク・チャイヤナームは、ピブーンの政敵で開戦当初から連合国との連絡を模索し、抗日の自由タイ運動を組織していた摂政プリーディー・パノムヨンの影響下にあった人物。さらに、ディレークの部下で、親王の演説草稿に手を入れて、戦後、連合国から追及される可能性のある文言を入れ替えた二等書記官のタナート・コーマンも、自由タイに深くかかわっていました。

 演説を終えた親王は、「タイ国は国土の外に置いても戦う用意があるか」との日本人記者の質問に対して、「そんな質問に答えたら、敵に情報を教えるようなものだ」と受け流して日本側に言質を与えず、会議が終了すると、病気を理由に他の代表に先駆けて真っ先に帰国し、日本との関係が深化するのを極力避けることに成功しました。

 今回ご紹介の切手は、こうした経緯の後に発行されたものでした。

 第一次大戦に参戦したタイは、最小限の犠牲で戦勝国としての立場を確保したことによって、その後の不平等条約改正の足がかりをつかんでいます。したがって、四半世紀という節目にあたり、あらためて第一次大戦の勝利を祝うことは、タイにとって、それ自体、なんら不思議なことではありません。また、戦時かという状況を考えれば、そこに、現在の戦争でも勝利を目指して国民の戦意を鼓舞するという建前のプロパガンダを読み取ることも可能でしょう。

 しかし、第一次大戦では、タイは日本とも盟友関係にありましたが、同時に、英国とも盟友関係にあったことも見逃せません。特に、タイが参戦する以前の1915年、イギリス国王ジョージ5世がワチラーウットに英陸軍の名誉大将の位を授与した際には、局外中立というタイの公式な立場とは別に、これをタイが国際社会から一人前とみなされたことの証として、喜んで受け入れたこと、タイから派遣された“義勇軍”がフランスで訓練を受けていたことなどを想起すれば、タイ人にとっての第一次大戦は、まさに、英仏と共同歩調をとった戦争であり、そこに“日本”のイメージが入る余地はきわめて小さいといえます。

 日泰攻守同盟条約を結び、米英との戦争が継続していたはずの時期でさえ、こうした切手が発行されているところに、タイのしたたかさを感じるのは僕だけではないでしょう。

 なお、ピブーン政権は1944年に入ると、最小限の対日協力は続けながら連合国と内通して、時機を見て抗日に転じる機会をうかがうようになります。その後、ピブーンは1944年7月に政権の座を追われ、タイの権力を握った摂政のプリーディーによって樹立されたクワン・アパイウォン政権には自由タイの重鎮も入閣し、日本との関係は一層冷却しました。ただし、自由タイが連合国の支援を受けて計画していた反日武装蜂起は、それが実際に起きる前に終戦が訪れたため、幻に終わっています。


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 母乳で逮捕
2011-06-28 Tue 23:53
 アメリカで、警察官に向かって母乳を噴射した女が逮捕されたというニュースが話題になっているそうです。というわけで、母乳がらみの切手はないかと探してみたら、手元にこんなモノがありました。(画像はクリックで拡大されます)

        スーダン・授乳

 これは、“こどもの健康”と題して1988年にスーダンで発行された切手で、母乳を与える母親を図案化して描いています。イスラム教徒が人口の多数派を占める国ですので、特定の女性の授乳場面を連想させるような原画は作れなかったのでしょうが、マチス並みに単純化された線によるデザインは、かえって、インパクトがありますな。

 さて、問題の事件は、フォックス・ニュースなどによると、6月25日の未明、デラウェア郡の警察署に「結婚式の披露宴会場で、客の夫婦が激しい口論をしている」との通報から始まりました。

 警察官が現場に出向くと、そこには足下もおぼつかず床に座り込んだ30歳の女性教師、ステファニー・ロビネッテロビネッテとその夫がいました。そこで、警察官は、とりあえず彼らを自宅に帰そうと泥酔した彼女を車いすで駐車場まで連れて行くと、彼女は夫を殴りつけ、自分の車の助手席に乗り込んで、夫や警察官などに罵声を浴びせたばかりか、いきなり「私はいま授乳中なのよ!」と叫び、胸をあらわにして母乳を警察官に向かって噴射したのだとか。

 その後、彼女は駆け付けた応援の警察官によって車から引きずり出され、“体液”を他人に浴びせた暴行ならびに公務執行妨害の罪で逮捕されたそうです。まぁ、警察も、唾液や精液、血液や尿などを他人にかけるケースは想定していたのでしょうが、まさか母乳とは…とさぞかし驚いたことでしょうな。

 ところで、今回ご紹介の切手が発行された1988年のスーダンは、1983年から始まった第二次内戦のさなかにありました。その内戦の過程で、切手発行翌年の1989年に権力を掌握したオマル・バシールは強権的な独裁体制を敷き、いわゆるダルフール紛争では民兵に約7万人を虐殺させ、2万人以上の難民を発生させたことから、2009年2月には、現職の国家元首として初めて、オランダ・ハーグの国際刑事裁判所から、ダルフールにおける人道に対する罪、ジェノサイド罪で起訴され、逮捕状が出されています。

 ところが、そのバシールは、きょう(28日)北京入りし、あす(29日)には国家主席の胡錦濤をはじめ、中国指導者と相次いで会談するのだそうです。

 1990年代後半以降、中国は、かつての帝国主義列強と同様、資源と市場を求めてアフリカ諸国への進出を急加速させてきました。特に、地下資源の利権を確保するため、人権侵害などを理由に西側諸国から経済制裁を受けている独裁国家に対して、中国は“内政不干渉”を掲げて莫大な経済援助を行い、国際的な批判を浴びているのは周知のとおりです。

 ダルフール紛争に関しても、中国は、非アラブ系に対する大規模な“民族浄化”を行うスーダン政府ならびにアラブ系民兵組織のジャンジャウィードを積極的に支援し(彼らの兵器のほとんどは中国製です)、スーダン産の石油を独占的に確保するとともに、多数の労働者を派遣しています。一方、バシール政権のみならず、国際的に孤立する独裁国家にとっては、同じく、共産党の一党独裁体制にある中国が、国連安保理の常任理事国という立場で後ろ盾となってくれるのは非常に心強いことであり、両者の関係はますます緊密化していくことになるのです。

 こうした中国外交の一端については、拙著『マカオ紀行』でも触れておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。
 

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 ヴェトナムで4週続けて反中デモ
2011-06-27 Mon 23:59
 6月に入ってから、毎週日曜日、中国の領海侵略に対する抗議のデモが行われているヴェトナムですが、きのう(26日)も、ハノイですっかり恒例行事となったデモが行われました。ヴェトナムの反中デモはこれで5日12日19日に続けて4回目。というわけで、このブログでも、4週連続のヴェトナム反中切手のご紹介です。(画像はクリックで拡大されます)

        タン・ジョン伝説
 
 これは、1989年に発行されたタン・ジョン伝説の切手のうちの1枚です。

 ヴェトナム最古の王朝の時代、ベトナムの人々は平和に暮らしていました。しかし、国王、フン・ヴォン6世の時代、北から侵略者(名指しこそしていませんが、明らかに中国ですな)が現れ、国土を蹂躙。このため、王は使者を各地に派遣し、祖国防衛のために兵を募りました。

 ところで、当時、フードン村には、立つことも話すこともできないジョンという子供がいました。ところが、ある日、王の使者が村にやってきて救国を訴えると、それを聞いたジョンは急に立ち上がり、話し始めます。そして、敵と戦うために鉄の馬と鎧甲と鉄棒が欲しいと王の使者に頼みます。

 報告を受けた王がジョンの望むものを用意している間に、ジョンは筋骨隆々たる若者へと急成長。王から下賜された武器を携え、村人を率いて敵と戦いました。戦闘の途中で鉄棒が折れまると、ジョンは竹を引きぬいて敵と戦い、侵略者を撃退してヴェトナムに平和をもたらすと、天へと上って行きました。このため、王をはじめとするヴェトナムの人々は、ジョンを救国のために遣わされた神“タン・ジョン”と考えるようになったということです。

 1989年の切手は、タン・ジョン伝説の主要な5つの場面を取り上げた5種セットですが、今回ご紹介のものは、そのうち、王の死者から侵略者の狼藉のことを聞いたジョンが覚醒する場面を取り上げた1枚です。いかにも悪辣な感じの“侵略者”の風貌がいかにも紙芝居風で、なんとも言えない雰囲気を醸し出していますな。

 かつて、1960年代後半から1970年代初頭にかけて、“大国の横暴に屈せず戦うヴェトナム”を支持・支援してきたエセ左翼の方々は、どういうわけか、中国の覇権主義に抵抗する現在のヴェトナムについては、見て見ぬふりをすることが多いようです。そうであればこそ、このブログでは、今後もできる限り、ヴェトナム応援企画として、ヴェトナムの反中切手を取り上げていくつもりです。
 

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 小笠原に続き平泉も
2011-06-26 Sun 22:51
 フランス・パリで開かれているユネスコ(=国連教育・科学・文化機関)の世界遺産委員会で、小笠原諸島に続き、平泉が世界遺産に登録されることが正式に決定されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        一字金輪像

 これは、1981年1月16日に発行された260円の普通切手で、中尊寺外17箇院の一字金輪像が取り上げられています。

 一字金輪像は密教の修法の1つである「一字金輪法」の本尊で、この像は像高約76センチで藤原秀衡(1122―1187)が信仰したものといわれています。桂材を用いた寄木造りで、日輪を表す円形の光背を負い、頭上に「五智宝冠」という五智如来の姿を刻んだ大ぶりの冠を戴く点が特色となっています。また、白く塗られた面相および肢体が肉感的なことから“人肌の大日”または“生身の大日”とも呼ばれていますが、これは、この仏が大日如来から変化したものと考えられているためです。

 なお、この切手を含む密教の仏像については、拙著『切手が伝える仏像』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 小笠原諸島が世界遺産に
2011-06-25 Sat 23:26
 きのう(24日)、フランス・パリで開かれているユネスコ(=国連教育・科学・文化機関)の世界遺産委員会で、東京・小笠原村の「小笠原諸島」が世界自然遺産に登録されることが正式に決定されました。というわけで、きょうは小笠原関連の切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        父島海岸

 これは、1973年6月26日に発行された「小笠原国立公園」の切手のうち、父島海岸の景色を取り上げた10円切手の“みほん”加刷です。

 小笠原国立公園は、房総半島の南南東約1000キロ、北緯27度45分から24度14分の間に点在する小笠原諸島の大部分と周辺の海域で構成されており、1972年10月16日に国立公園に指定されました。

 切手に取り上げられた父島は、小笠原諸島のうちでもっとも広い島(面積約24平方キロ)で、この地域の行政の中心地として東京都小笠原支庁、小笠原村役場等がおかれています。切手の原画になった写真は丹地敏明が撮影したもので、父島の北端、三日月山から西島(画面左)を隔てて兄島を望む風景となっています。また、画面に大きく写っている樹木は、オガサワラビロウです。

 ちなみに、あす26日は、第二次大戦後、長らくアメリカの施政権下に置かれてきた小笠原諸島が1968年に祖国復帰を果たした記念日で、今回ご紹介の切手はその5周年にあわせて発行されました。ユネスコの決定がこの時期に重なったのは偶然でしょうが、小笠原にとってのおめでたい日に華を添える結果となり、良かったですね。


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 世界漫郵記:ハバロフスク⑦
2011-06-24 Fri 09:31
 『キュリオマガジン』2011年7月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は、極東ロシア・ハバロフスク篇の7回目。前回に引き続き、栄光広場の話を書きましたが、その記事の中から、この切手をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      ソ連邦英雄     ソ連邦英雄記念碑

 左は、1984年に発行された“ソ連邦英雄50年”の記念切手で、右は、栄光広場の一角に立てられた“ソ連邦英雄”のオベリスクです。

 ハバロフスクの栄光広場は上下二段式になっていますが、“永遠の火”の裏手から階段を上って上の広場へ行くと、正面のつきあたりに極東ロシアで最大というスパソ・プレオブラジェンスキー大聖堂があり、その手前右側にはソ連時代に“ソ連邦英雄”の称号を授与されたハバロフスク出身者をたたえるオベリスクが立っています。

 ソ連邦英雄は、旧ソ連で“英雄的な行為”を行った者に与えられたソ連最高の名誉称号であり、1934年の制定以来、1万2745人に授与されました。その多くは第二次大戦中の授与です。ハバロフスクとは直接関係ありませんが、スパイ事件で有名なリヒャルト・ゾルゲも、死後の1964年、ソ連邦英雄の称号を授与されています。

 このほか、ソ連では、主として経済・文化活動の功績に与えられる社会主義労働英雄(1938年12月27日に制定)や、10人の子を産んだ母親に与えられる母親英雄(1944年7月8日に制定)の称号があり、オベリスクの裏側には社会主義労働者英雄の名前も刻まれています。

 記念碑は英雄称号を示す金星章(社会主義労働者英雄の場合は、1940年5月22日以降、星の中に槌と鎌のマークが入るようになりました)の下に、“英雄”たちの名前を刻んだもので、1970年代に建立されました。その背後には、やはり、各種の勲章受章者とその名前を刻んだ壁が続いています。

 なお、ソ連崩壊後、英雄称号を示す金星章を含め、旧ソ連の勲章がオークションなどに出品されるようになりましたが、レプリカも多いので入手には注意が必要です。少なくとも、観光地の露店で売られているようなものは、ほぼ確実にレプリカないしは偽物と見てよいでしょう。

 今回の記事では、このオベリスクとあわせて、背後のスパソ・プレオブラジェンスキー大聖堂とその内部の壮麗な装飾についてもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 南極条約50年
2011-06-23 Thu 22:28
 1961年6月23日に南極条約が発効してから、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        南極条約10年

 これは、1971年6月23日に発行された「南極条約10周年」の記念切手です。

 20世紀に入り、南極探検が盛んに行われるようになると、イギリスフランス・ノルウェー・オーストラリア・ニュージーランド・アルゼンチン・チリの各国は、自国の探険・踏査の事実を踏まえ、自分たちが調査した地域の領土権を主張しはじめました。彼らの狙いは、南極の土地そのものというより、豊富な地下資源や領海内の水産資源です。

 当時の南極では、イギリス・チリ・アルゼンチンの3国の間で領土紛争が起こったこともあり、将来的に本格的な紛争の火種になりかねないことが懸念されていました。このため、1957-58年の国際地球観測年に際して国際的な南極観測が行われたのを契機に、アメリカ大統領アイゼンハワーの呼びかけで、アルゼンチン、チリ、イギリス、フランス、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、ベルギー、ノルウェー、南アフリカ、日本の11ヵ国に対して、国際地球観測年が終わっても、南極における科学的協力を延長し、政治的紛争を防止するための南極条約の締結が呼びかけられました。

 これを受け、1958年の予備会議を経て、1959年、上述の11ヵ国にアメリカを加えた12ヵ国がワシントンで南極会議を開き、南極条約を締結。この条約は、1961年6月23日、チリの批准をもって発効し、南緯60度以南の南極における領土権の凍結、科学的調査の自由、平和的利用と非軍事化、定期的会合と査察などが定められました。

 1971年は、こうした南極条約の発効から10周年に当たっており、加盟各国で記念切手を発行することになりました。日本でも各国と足並みを揃えて、条約発効の記念日である6月23日に記念切手が発行されました。

 切手は、アデリーペンギンを描くもので、印面の下部には南極大陸の地図も小さく入れられています。蒸し暑いこれからの時季、自宅宛の郵便物にこういう切手が貼られてきたら涼しげで良いですな。

 * 本日夕方、カウンターが87万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。


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 独ソ戦70年
2011-06-22 Wed 19:07
 1941年6月22日、ドイツ国防軍がソ連に侵入し、いわゆる独ソ戦が勃発してから、きょうでちょうど70年になりました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      開戦5周年(ドイツ謀略)     KGV ジュビリー

 これは、1944年、第二次大戦開戦5周年に際してナチス・ドイツが作成した謀略切手(プロパガンダラベル)です。その元ネタになったイギリスのジョージ5世在位25周年の記念切手の画像を右側に貼っておきます。

 オリジナルの切手では中央の肖像はジョージ5世ですが、謀略切手ではスターリンです。肖像の両脇の年号は、オリジナルの1910と1935(国王の在位期間)が開戦5周年を意味する1939と1944に、また、肖像右側の月桂樹は“槌と鎌”に、それぞれ替えられています。王冠と“槌と鎌”という組み合わせには、前年のテヘラン会談に際して作られた謀略切手同様、イギリスとソ連の野合を揶揄する意図が込められているのはいうまでもないでしょう。

 さらに、切手上下の“SILVER JUBILEE(即位25周年)”と“1/2 HALF PENNY 1/2”の文字は、“THIS WAR IS JEWSH(ママ) WAR(この戦争はユダヤの戦争だ)”に替えられ、上段の左右にはユダヤを示すダビデの星が、下段の左右には槌と鎌が、それぞれ入っています。

 JEWISHのスペルがJEWSHと誤記されているのはご愛嬌ですが、第二次大戦は、ユダヤと共産主義者の陰謀であり、彼らと結託したイギリスを打倒すべしというナチス・ドイツの主張がストレートに表現されたカリカテュアとなっています。

 こうしたドイツ製の謀略切手は、実際には“切手”としての効力はなく、正確には切手を模したラベルというのが正しいのですが、古くから切手収集家の間では切手に準じるものとして人気があり、ドイツで発行されているドイツ切手の専門カタログにも載っています。


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 東日本大震災寄附金付切手
2011-06-21 Tue 16:00
 東日本大震災による被災者を支援するための“東日本大震災寄附金付”の切手が、きょう(21日)発行されました。下の画像(クリックで拡大されます)の切手です。

      東日本大震災寄附金付

 きょう発行された切手は5種類で、いずれも額面本体80円に対して20円の寄付金が上乗せされ、1枚100円で販売されています。

 日本郵便のHPによると、「今回の震災により被災した多くの方々を元気づけたいという皆さまの想いが被災された方に届いてほしい、また、一日も早く被災地が復興してほしいという願いを込め」、ハートや花、青い小鳥をデザインしたとのことですが、そうした説明を聞かなければ、切手のデザインと発行目的の関連がちょっとわかりづらいですな。もちろん、そうしたある種の“わかりにくさ”のゆえに、なんにでも使える=使い勝手が良いという面があることは否定できませんが…。

 とはいえ、寄付金を募るための切手であればこそ、抽象的な図案ではなく、より直接に、それを手にした人が被災地に思いを致すことができるようなデザインの方が良かったのではないかと僕は思います。具体的には震災と津波で失われた美しい風景や被災各県に伝わる伝統文化などを題材とした切手を手にすれば、忙しい日常の中でともすれば忘れがちな被災地に思いを致すきっかけになるでしょうし、被災各県の特産品をアピールする切手を見れば、そうした商品を買うことで、日常生活の中で復興の手助けをしようという人もあると思います。今回のような趣旨で切手を発行するのであれば、切手を買って郵便物に貼る側も、また、その郵便物を受け取る側にも、その趣旨がはっきりと伝わる“わかりやすさ”が重要ではないでしょうか。

 なお、シート上部の耳紙には、「この寄附金は、東日本大震災による被災者の救助等に役立てられます。」との説明文が入っています。この切手の売り上げによる寄付金がまとめられるのは、まだしばらく先のことでしょうが、その時までには、現在なお日赤の口座に眠ったままになっている全国からの義援金が支援を必要としている人々のもとへ届いていてほしいものです。


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 ヴェトナムで3週続けて反中デモ
2011-06-20 Mon 12:05
 政府が集団の抗議活動を厳しく制限しているヴェトナムの首都ハノイで、きのう(19日)、市民ら数十人が南シナ海の領有権問題で強硬姿勢を強めている中国に反発しデモ行進を行いました。これで、ヴェトナムの反中デモは3週連続となりました。というわけで、先週先々週に続き、今週もヴェトナムの反中切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      グエンチャイ

 これは、1962年9月19日にヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)で発行された民族的英雄、グエン・チャイ(阮廌)の切手です。

 グエン・チャイは、1380年、タンロン(現ハノイ)で生まれました。父親のグエン・フィー・カイン(阮飛卿)とともに、ヴェトナム・胡朝に役人として仕えていましたが、1406年、胡朝は明の侵略により滅亡。グエン父子は捕虜となり、明へ連行されることになりましたが、グエン・チャイは脱走に成功しました。

 明によるヴェトナム支配は苛烈なもので、徹底した同化政策の下、ヴェトナム独自の文化や風習は禁止されたほか、ヴェトナム人には過重な土地税、人頭税、軍役や労役などが課されました。まぁ、現在のチベットウイグル内蒙古(南モンゴル)でも似たようなことが行われているわけですから、それが、中国中央政府による少数民族民族政策の本質なのでしょう。

 これに対して、1416年、タインホア省ラムソンのルンニャイ村で土豪のレ・ロイ(黎利)が反明独立のために蜂起すると、明の追及を逃れて国内を放浪していたグエン・チャイは、レ・ロイの軍に参謀格として参加。10年間の独立戦争の後、1427年に明の永楽帝が亡くなり明軍の勢力が衰えた機に乗じて、祖国の解放に成功しました。

 1428年、レ・ロイが後黎朝を建てると、グエン・チャイは宰相として太祖となったレ・ロイを補佐し、諸制度の整備に努めるとともに、明との国交回復にも尽力しました。しかし、太祖の死後、後を継いだ次男の黎太宗の代になると、建国の功臣であるが故に疎まれ、隠居しましたが、1442年、太宗が閲兵式の帰りに彼の屋敷に立ち寄った際、たまたま急死したため、太宗暗殺の罪を着せられて処刑されました。

 なお、グエン・チャイは詩人にして諸学に通じた学者でもあり、その悲劇的な最期もあって、ヴェトナム民族の英雄として尊敬を集めており、ホーチミン市(旧サイゴン)には彼の名を冠したグエンチャイ通りがあります。


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 クウェート独立50年
2011-06-19 Sun 15:06
 1961年6月19日にクウェートがイギリスから独立して、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        クウェート1番切手

 これは、1923年、インド切手に加刷して発行されたクウェート最初の切手です。

 現在のクウェート地域では、近代以前にはペルシャ湾の重要都市であるバスラとの間でラクダを使った飛脚便が行われていました。この制度は1775年にはシリアのアレッポにまで拡大されています。

 1899年、イギリスは、この地域の主権者であったオスマン帝国の頭越しに、サバーフ家の支配地域としてのクウェートを保護国とする条約を調印。その内容は、クウェートがイギリスの軍事力によって保護される代わりに、イギリスの許可なく他国と交渉したり、他国から援助を受けたりしないというもので、これに基づき、1904年2月28日、イギリスはサバーフ家と郵便協定を調印。クウェート域内において郵便局を独占的に開設する権利を獲得し、非公式の郵便取扱所を設置して、無加刷のインド切手を販売し、クウェート域内およびブシェールまでの郵便物を取り扱いました。

 正式な郵便局の開局は1915年1月21日のことで、今回ご紹介の加刷切手が発行される1923年までは、無加刷のインド切手がそのまま使われていました。その初期の消印は、局名表示が、現在のように“KUWAIT”ではなく“KOWEIT”となっているのですが、当時のクウェートでは郵便物の取扱量が少なかったためか“KOWEIT”消の残存量も少なく、残念ながら、僕自身は入手できていません。

 なお、クウェートでは、今年、独立50年を祝う式典が2月26日に行われましたが、これは、湾岸戦争によりイラク軍の占領から解放された記念日(ちなみに、今年はちょうど解放20周年でした)にあわせたものです。
 

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 握り飯か餅か
2011-06-18 Sat 23:29
 きょう(18日)は“おにぎりの日”です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ねずみの浄土:出会い

 これは、昔ばなしシリーズ第7集として、1975年4月15日に発行されたは「ねずみの浄土」のうち、爺さんとねずみの出会いの場面を取り上げた1枚です。

 「ねずみの浄土」は、一般には「おむすびころりん」の名で知られている昔話で、物語の冒頭、爺さんが広げた弁当の中身は握り飯ということになっています。ところが、切手に描かれている爺さんの弁当は、どう見ても握り飯に見えません。それもそのはずで、郵政省の説明では、この切手は、物語のうち“爺さんが餅をねずみに与える場面”ということになっているのです。

 まぁ、昔話の類は、基本的には、口承の物語ですので、地域によって細部に若干の相違があるのはやむを得ないことで、昔話シリーズの発行に際しても、自分の知っている物語と切手の図案が違うという声も少なからずあったようです。この場合の餅と握り飯の違いもその一つなのでしょうが、僕の個人的な希望としては、やはり、三角形で海苔を巻いた“おむすび”をしっかりと描き、切手のタイトルも「おむすびころりん」としてほしかったですな。

 ただ、そうしたことを差し引いたとしても、昔ばなしシリーズの中では「ねずみの浄土」が一番できが良いのではないかと思います。それゆえ、拙著『切手百撰 昭和戦後』では、シリーズの中からは「ねずみの浄土」を選んでみました。その詳細については、同書でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 坂上田村麻呂1200年
2011-06-17 Fri 10:16
 西暦811年6月17日(弘仁2年5月23日)に坂上田村麻呂が亡くなって、きょうでちょうど1200年です。というわけで、きょうは田村麻呂ゆかりのこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        三春駒

 これは、昭和29年用の年賀切手として1953年12月25日に発行された“三春駒”の切手です。

 福島県の郷土玩具・三春駒の由来については、次のような伝説があります。

 西暦800年頃(平安時代初期の延暦年間)、福島県の阿武隈高地一帯は大多鬼丸という豪族の支配下にありましたが、大多鬼丸が朝廷と対立したため、征夷大将軍であった坂上田村麻呂 ひきいる朝廷の軍が派遣されました。

 その際、田村麻呂が創建した清水寺の開祖となった僧・延鎮は五体の仏像を刻んだ余材で100頭の木馬を刻み、田村麻呂に贈り、田村麻呂はこれを鎧櫃に収めて出征しました。戦が始まり、田村麻呂の軍は苦戦を強いられましたが、どこからともなく馬百頭が現れて彼らの窮地を救い、田村麻呂は勝利を収めることができました。

 ところが、田村麻呂の軍勢が凱旋すると馬は消えてしまいます。翌日、杵阿弥という人物が、三春城外の高柴村で、全身汗まみれになった1頭の木馬を発見。杵阿弥はこの木馬こそ延鎮の木馬に違いないと聞き、行方不明になった99頭の代わりの木馬を作りましたが、3年後には彼の発見した木馬も消えてしまいました。

 その後、杵阿弥は自作の99頭の木馬を子孫に伝えましたが、子孫の者たちがそれをさらに模して村の子供たちに与えたところ、この木馬で遊ぶ子供は健やかに育つと評判になりました。また、小型の木馬に毎日大豆三粒を与えると子宝に恵まれるなどのご利益があるとされ、人々に親しまれています。

 なお、この切手をはじめ、年賀切手には、東北の素朴な魅力にあふれた郷土玩具が少なからず取り上げられていますが、それらについては、拙著『年賀切手』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 月食の切手
2011-06-16 Thu 23:24
 きょう(16日)は未明から明け方にかけて月食がありました。というわけで、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        アセンション・皆既月食

 これは、2004年にアセンションが発行した皆既月食の切手です。

 アセンション島は南大西洋に浮かぶイギリス領の火山島で、行政的には、セントヘレナなどとともに、イギリスの海外領土セントヘレナ・アセンションおよびトリスタン・ダ・クーニャを構成しています。

 ヨーロッパ人としては、16世紀初頭にポルトガル人が初めて上陸していますが、価値のない無人島としてそのまま放置され、1815年、ナポレオン1世がセント・ヘレナ島に流されると、イギリス海軍が警戒のため小規模な艦隊を駐留させるようになります。

 ナポレオン1世の没後もイギリスはこの島を海軍の中継基地として維持し、1823年以降はイギリス海軍本部の管理下で海兵隊が駐留していました。

 その後、1922年にアセンション島の管轄権はセント・ヘレナ島の行政府に移り、イースタン・テレグラフ社(1934年にケーブル・アンド・ワイヤレス社に社名変更)が管理の実務を担当するようになります。これは、同島が、イギリス、ポルトガルと南アメリカ、西アフリカ、南アフリカを結ぶ海底ケーブルの中継地であったことによるもので、海底ケーブルが廃止された現在でも、アセンション島には各種の通信関連施設がおかれています。

 第二次大戦中には米軍により飛行場が建設され、スペースシャトルの緊急避難地としても利用されています。なお、1982年のフォークランド紛争の際には、イギリス空軍はここを拠点にフォークランド諸島への超長距離爆撃(ブラック・バック作戦)を行っています。

 さて、きょうの月食は、計算上は、関東以西の広い地域で皆既月食となるはずだったのですが、実際には、天気が悪く見えない地域が多かったようです。もっとも、僕の場合は、そもそも月食の時間には完全に眠っていましたので、天気はあまり関係有りませんでしたが…。

 なお、わが国で次に皆既月食が観測できる可能性があるのは、12月10日深夜だそうですが、日食に比べると月食の切手は少ないですからねぇ。半年後、なにか気の利いたマテリアルをご紹介できるよう、いまから気をつけて探しておくことにしましょうか。


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 ソフトバンクが交流戦優勝
2011-06-15 Wed 23:51
 プロ野球のセパ交流戦は、ソフトバンク・ホークスが2年ぶり3度目の優勝となりました。というわけで、きょうは鷹の切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        UAE:投資家保護の10年

 これは、2010年1月29日、アラブ首長国連邦(UAE)が発行した“証券・商品局:投資家保護の10周年”の記念切手で、同国の国章にも描かれている金の鷹が描かれています。アラブ諸国では、金の鷹は、イスラムの預言者であるムハンマドの出身部族であるクライシュ族のシンボルとされているほか、伝統的なスポーツとして鷹狩りがさかんです。そこから、アラブの富豪たちの間では、鷹狩りを嗜み、鷹にどれだけの贅沢をさせられるかがステイタス・シンボルにもなっているわけですが、いわゆるドバイ・ショックの前は、ドバイの金持ちたちも、さぞかし、鷹にお金をかけていたんでしょうな。

 今回ご紹介の切手の題材となったUAEの証券・市場局は、連邦内の主要経済圏であるドバイとアブダビの証券ならびに商品取引を監督するための機関ですが、記念切手発行の2ヵ月ほど前の2009年11月25日、UAEを構成する首長国のひとつ、ドバイでは、不動産バブルがはじけ、政府が政府系持株会社ドバイ・ワールドと不動産子会社ナヒールの債務590億ドルについて6ヵ月以上の支払い猶予を債権者に求めたことで、欧米系銀行の債務焦げ付きの懸念からユーロが一挙に売られて円高が急激に進行するとともに、株価が大きく下落しました。いわゆる“バイ・ショック”です。

 切手の発行はドバイ・ショック以前から計画されていましたが、ドバイ経済に対する信頼が大きく揺らいでいる時期だっただけに、“投資家保護”という切手の文字がなんとも皮肉に映ります。

 なお、このあたりの事情については、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 世界献血者デー
2011-06-14 Tue 23:58
 きょう(14日)は世界献血者デーです。というわけで、この切手を持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

        愛の血液助け合い運動

 これは、1965年9月1日に発行された「愛の血液助け合い運動」です。

 世界最初の輸血は、1818年に、イギリス人のジェームス・ブランデルによって行われたといわれています。

 しかし、現在のように安全かつ学理的に輸血が行われるようになったのは、1900年に、オーストリアのカール・ラントシュタイナーとその弟子がABO式の血液型を発見し、翌年に発表してからのことです。また、血液は体外に出るとすぐに凝固することは経験的に知られていましたが、これを理論的に説明したのが1903年にアメリカのモラビッツが発表した凝固機構を説明する学説でした。

 1914年に第一次大戦が勃発し、多くの戦傷者が生じると、従来の直接輸血から保存血による間接輸血の必要性が生まれ、ベルギーのハスティンら3ヶ国4人の科学者によって、ほぼ同時にクエン酸ソーダを加えると血液が長時間固まらないことが発表されました。さらに、クエン酸ソーダにブドウ糖を加えることで血液の保存が可能となることが明らかになり、現在のような輸血が可能となりました。

 こうした技術の進歩を受けて、1921年、国際赤十字社は血液事業に着手し、イギリス、オランダ、オーストリアに世界で最初の血液センターが設立され、世界各国に多数の血液センターがつくられていきました。

 わが国では、第2次大戦後の占領下にあった1948、輸血による梅毒感染事故を契機として、連合軍総司令部が厚生省や東京都に対して血液銀行を設立して梅毒感染などの心配のない安全な保存血液を使用した方がよいと指示。時を同じくして、アメリカ赤十字から日本赤十字社(以下、日赤)に、輸血事業を行うならば、必要な器具を援助する用意があるとの申し入れもありました。

 そこで、1949年5月から日赤内で輸血事業具体化のための検討が始まり、1952年4月、日赤中央病院(現在の日赤医療センター)内に日赤血液銀行東京業務所(のちの日赤東京血液銀行)が開設されて、採血、保存血液製造などの業務が始まりました。

 その後、1953年に制定された「日本赤十字地方血液銀行設置要綱」に基づき、1955年までに、全国36ヶ所に地方血液銀行が誕生します。

 ところで、当時の日本では、輸出用の血液の大半は、売血によって提供される血液に依存していましたが、売血者の多くは売血を事実上の生業とする常習売血者で輸血による血清肝炎が蔓延するなどの問題も少なくありませんでした。

 このため、日赤は、低所得層が常習売血者になりがちな従来の制度を根本的に改め、広く国民各層の善意に頼る献血制度の導入を検討。1959年12月、翌1960年5月1日の日赤創立記念日を期して全国的規模の「赤十字愛の献血運動」を展開します。

 この運動は「血液事業に対する正しい理解と認識の普及と献血者・預血者並びに献血予約者の確保」を目的に厚生省との共催で行われたもので、買血の弊害を訴える一方、赤十字の使命とする人道的立場による血液事業の正常化に重点がおかれました。

 第1回の運動は1960年5月の1ヶ月おこなわれましたが、翌1961年からは、献血者が不足する9月の1ヶ月間が運動期間となりました。さらに、1965年9月からは、主催も厚生省、各都道府県および日赤と拡大され、運動名称も「愛の血液助け合い運動」と改称されました。

 その第1回の「愛の血液助け合い運動」の期間中の記念行事の一つとして、運動初日の9月1日に今回ご紹介の切手が発行されるとともに、9月5日には、東京・厚生年金開館で、献血運動推進全国大会が日赤名誉副総裁の秩父宮妃を迎えて行われました。以後、この大会は、毎年の運動期間中の恒例行事となります。

 なお、愛の血液助け合い運動は、1970年には運動機関が9月から7月に変更となり、各都道府県持ち回りの開催となっています。

 ちなみに、切手のデザインは、血液の中に子供を描き、背後に採決車を描いとのことですが、子供の顔が、ちょっと不気味な感ですな。


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 切手が語る宇宙開発史(14)
2011-06-13 Mon 14:11
 雑誌『ハッカージャパン』の2011年7月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手が語る宇宙開発史」では、今回は、この切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

        ハンガリー・国際地球観測年

 これは、1959年にハンガリーが発行した“国際地球観測年”の記念切手の5フォリント切手です。

 第一次大戦の敗戦により広大な国土を失ったハンガリーは、第二次大戦には、旧領土の回復を目指して枢軸陣営として参加しました。しかし、結局、第二次大戦も敗戦に終わり、ソ連の占領下でスターリンの意向に忠実なラーコシ・マーチャーシュが首相兼共産党書記長として、スターリン路線を推進することになります。

 1953年にスターリンが亡くなると、ソ連は非スターリン化を進める一環として、ラーコシに迫り、スターリン路線に批判的な改革派のナジ・イムレに首相の座を譲らせましたが、書記長の座に留まったラーコシは1955年にナジを追放。そのラーコシも1956年7月にソ連の圧力で権力の座を追われましたが、後継書記長となったのは、スターリン主義者のゲレー・エルネーでした。

 このため、首都ブダペストでは、ゲレー政権誕生に反発した市民の大規模デモが発生。反ソ感情が高まるなか、1956年10月26日、ゲレー退陣を求めるデモ隊と警官隊との衝突を機に、ブダペストで大規模な暴動が発生し、ハンガリー全土に波及します。これが、いわゆるハンガリー動乱です。

 動乱の勃発当初、ソ連は懐柔策としてナジの復権とゲレーの辞任を決め、ナジによる平和的な事態の収拾を期待していましたが、脱ソ連化を求める市民の声に押されたナジは複数政党制の導入とハンガリーの中立国化(ワルシャワ条約機構からの脱退)を打ち出したため、ソ連軍はハンガリーの“革命”を武力で鎮圧し、ナジも逮捕されました。

 その後、ソ連の支援を受けたカーダール・ヤーノシュが実権を掌握しましたが、その後も、1957年半ばまでは共産党政権に対する散発的な武力抵抗やストライキが続きます。結局、一連の動乱は、1958年6月、事態の鎮静化を待って、ナジが処刑されたことで、ようやく終結しました。

 このように、1957-58年という時期は、ハンガリーにとっては国際地球観測年どころではない混乱の最中にあり、無邪気にソ連との友好をうたい上げるような切手を発行することはとてもできない状況にありました。ハンガリーによる国際地球観測年の記念切手発行が観測年終了後の1959年3月にまでずれ込んでいるのも、やむをえなかったといえましょう。その一方で、カーダール新政権としては、ソ連に対する忠誠心を示すためにも、遅ればせながら、国際地球観測年の切手を発行してソ連の人工衛星をたたえざるを得なかったという側面があることも否定できません。

 今回ご紹介の切手には、ソ連の人工衛星と並んで米国のロケットも描かれています。まさに、ナジが目指した“中立化”を連想させるデザインですが、人心の安定を考えると、ソ連もそれを黙認せざるを得なかったのでしょう。

 なお、かつての東欧社会主義諸国のうち、1957-58年の国際地球観測年に際して、58年末の観測年終了までにソ連の人工衛星を取り上げた記念切手を発行しなかったのは、今回取り上げたハンガリーとアルバニアの2ヵ国のみですが、このうち、そもそも記念切手を発行しなかったアルバニアに関しては、いずれ別の機械に取り上げるつもりです。


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 ヴェトナムで2週続けて反中デモ
2011-06-12 Sun 23:37
 ヴェトナムの首都ハノイと南部のホーチミンで、きょう(12日)、市民らが同国では異例のデモ行進を行い、南シナ海の領有権問題で強硬姿勢を鮮明にしている中国に抗議しました。ヴェトナムでの大規模な反中デモは、先週5日に次いで、2週連続のことです。というわけで、先週に続き、ヴェトナムの反中切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ドンダーの戦い200年

 これは、1989年に発行された“ドンダーの戦い200年”の記念切手で、光中帝の軍が清朝侵略軍を打ち破る場面が描かれています。

 中世のヴェトナムを支配していた黎朝は16世紀になると急速に衰え、北部の鄭氏と南部の阮氏が抗争を展開する内乱の時代に突入します。こうした中で、1771年、中部ベトナムの西山郡で阮文岳、阮文恵、阮文侶の3兄弟(南部の阮氏とは無関係です)は周辺の農民を率いて反乱を起こし、1773年にはクィニヨンを制圧。次第に勢力を強めた反乱軍は、1778年に長男・文岳が王を称し中部ベトナムに西山朝を樹立しました。

 1785年、西山朝はシャム軍の支援を受けた南部の阮氏政権をメコン川の戦いで破ると、1787年、文岳が“中央皇帝”と称してクィニヨンを都とし、文恵がフエを拠点に“北平王”に、文侶がジャディンで“南平王”となりました。さらに北部の鄭氏政権も倒すと、1789年には、文恵が、黎朝の系統を復活させさせる口実で介入してきた清軍をハノイ近郊のドンダーで破り、ヴェトナムを統一するとともに独立を守りました。

 その後、文恵は、鄭氏の残党である嘉隆帝の軍を破るべく南進していた途中の1792年9月16日、脳卒中によりフエで亡くなり、光中帝との諡号を送られました。カリスマ的将軍であった光中帝の死後、西山朝は内紛が生じ、南部阮氏政権の残党でフランスの支援を受けた阮福映によって滅ぼされ、バオダイまで続く阮朝が成立します。

 現在のヴェトナムでは、西山朝は分裂と腐敗を終わらせ、統一を実現した功績が高く評価されていますが、なかでも光中帝はヴェトナム史上もっとも偉大な将軍ととして“ヴェトナムのナポレオン”とも称されています。

 さて、ヴェトナムでは、あす(13日)、度重なる中国の侵略的行為に対抗すべく、海軍が南シナ海での実弾演習が予定されているそうです。

 かつて、いわゆるヴェトナム戦争に際して、大国の横暴に屈せず、果敢に抵抗したヴェトナムの人民を応援していた人たちは、当然のことながら、今回も覇権国家の中国に立ち向かうヴェトナムを応援してくれることでしょう。明日以降の朝日新聞や菅総理のコメントが楽しみですな。


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 世界で2番目に高い切手
2011-06-11 Sat 22:39
 一昨日(9日)、スイスのバーゼルで行われたオークションで、イタリア統一以前のシチリアの半グラナ切手のカバーが、180万スイス・フラン(約1億7200万円)で落札されました。スウェーデンの“黄色の3スキリング・バンコ”の287万スイス・フラン(当時の為替レートで約2億5000万円)に次ぎ、“世界で2番目に高い切手”として、日本のマスコミでも紹介されましたので、ご存知の方も多いかと思います。というわけで、きょうはその画像(クリックで拡大されます)をネタに書いてみたいと思います。

        シチリア・半グラナカバー

 統一以前のイタリアでは、シチリアはナポリと共に両シチリア王国を構成していましたが、切手に関しては、それぞれ別のものが発行されていました。このうち、シチリアでは、1859年に両シチリア王フェルディナンド2世の肖像を描く最初の切手が発行されています。

 フェルディナンド2世は、1810年、先王フランチェスコ1世の子として生まれ、1830年に即位しました。青年期は自由主義にも一定の理解を示し、税制改革で減税路線を推進しつつも、王都ナポリ内での実験的な鉄道設置、ナポリ・パレルモ間の電信設備の完備、蒸気船の造船などの近代化政策を推進しました。

 ところが、1837年にシチリアで立憲君主制への移行を求める大規模なデモが発生すると、王は態度を硬化させて、これを軍で鎮圧。その後、1848年1月のシチリアでの農民反乱に端を発して、自由主義者との妥協が必要になると、いったんは1848年憲法の制定を認めましたが、王は議会に対する監督権を手放さず、これに抗議する国民の暴動を軍を動員して徹底するとともに、議会を解散しました。また、1848年4月13日、シチリアで自由政府による独立が宣言されると、王は2万の兵をシチリアに上陸させ“反乱軍”を打倒するとともに、報復として、海軍を用いて海沿いの町を徹底的に破壊しました。このため、王は反対派からは憎しみをこめて“砲撃王(= bomba)”と呼ばれています。シチリア最初の切手が、時として“ボンバ・ヘッド”と呼ばれるのはこのためです。
 
 さて、“ボンバ・ヘッド”には、半グラナ、1グラナ、2グラナ、5グラナ、10グラナ、20グラナ、50グラナの各額面があり、1グラナと5グラナは色違いで2種類に分類されます。このうち、半グラナ切手は、本来はオレンジ色なのですが、2グラナ切手と同じ青色のモノがごく少数存在しています。この青の半グラナ切手は、郵便局の窓口から発売されたのではなく試作品の流出ではないかとも言われているのですが、実際に郵便に使用された例が2点報告されており、それゆえ“色違いのエラー”という扱いをされています。

 今回話題になったのは、そのうちの1点のカバーです。いわゆるクラシックの場合、単片切手に比べてカバーの評価は数倍というケースも珍しくありません。したがって、今回のマテリアルはたしかに珍品ではあるのですが、スウェーデンの“黄色の3スキリング・バンコ”と同列に置いて、“世界で2番目に高い切手”と称することに違和感を覚えた収集家も少なくないのではないかと思います。

 なお、今回ご紹介のカバーを見ればお分かりのように、当時のシチリアでは、切手に描かれた王の肖像を汚さないように、アーチ型の消印が使われています。同様の措置はスペインでも行われたことがあるのですが、そうした国王の肖像と切手・郵便との関係については、拙著『皇室切手』でも取り上げていますので、機会がありましたらぜひご覧いただけると幸いです。


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 時の記念日
2011-06-10 Fri 10:04
 きょう(10日)は時の記念日です。というわけで、時計のある風景を描いた、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        マカオ中郵      マカオ中郵(夜景)

 左は、1948年にマカオで発行された3パタカ切手で、セナド広場の中央郵便局局舎が描かれています。屋根の塔の部分に掲げられている大時計は、切手ではわかりにくいのですが、右の夜景の写真では丸くライトアップされている部分です。

 もともと、マカオの中央郵便局(郵政總局)はマカオ半島東の旧海岸道路・南灣大馬路沿いにありましたが、1918年に新馬路が開かれ、こちらがメインストリートとなると、1929年、民政総署前に3階建ての新局舎(現在の局舎)が建てられました。

 局舎は現在なお現役で、1階では過去の記念切手や切手のカタログ、関連書籍(残念ながら、拙著は置いてありません。まぁ、当然ですが…笑)なども販売しているほか、記念スタンプも押せます。マカオの街歩きに疲れたら、冷房の利いた局内で涼みながら、お土産用の切手を買ったりして過ごすのも悪くはないでしょう。

 さて、拙著『マカオ紀行』は、切手や絵葉書と実際の風景を見比べながら、マカオの歴史散歩をお楽しみいただける構成になっております。この夏、マカオの街歩きをお考えの方は、ぜひとも、旅のお供に連れて行っていただけると幸いです。 


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 シリアからトルコへ
2011-06-09 Thu 23:48
 トルコのアナトリア通信によると、反政府デモに対するアサド政権の弾圧が続くシリア北部ジスル・シュグールの住民ら約1000人が8日から9日にかけて国境を越えトルコに避難するなど、シリアからトルコに流入する難民が急増しているそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      サンジャク加刷カバー

 これは、1939年3月、フランス委任統治領シリアのハタイ自治州(アレクサンドレッタ県)の加刷切手が貼られたベイルート宛のカバーです。

 現在、トルコ共和国のハタイ県となっている地域は、歴史的にはアレクサンドレッタと呼ばれていました。

 第一次大戦後の英仏によるアラブ分割の過程で、シリア北西部沿岸のイスラム教アラウィー派の居住地域には、1920年、フランス委任統治領シリアの自治区域としてアラウィー派国が樹立されました。その後、1930年、アラウィー派国はラタキア国に再編され、1936年、シリア本土に合流します。

 ところで、旧ラタキア国ではアラブ系が多数派を占めていましたが、アレクサンドレッタ県ではトルコ系住民が多かったため、アラブが圧倒的多数を占めるシリアへの合流に反対が強く、分離運動が展開されていました。このため、1937年、国際連盟は、アレクサンドレッタ県をハタイ自治州とし、トルコ語を公用語として自治政治を行う一方、財政・外交をシリアが管理する仲裁案を提示します。

 これを受けて、1938年にフランスの監視下でこの地域で議会選挙が行われると、トルコ系議員が過半数を獲得。同議会はハタイ独立共和国の独立を宣言しました。その後、トルコとフランスの軍事的管理下を経て、1939年7月、ハタイは国民投票に基づいてトルコの県となりました。これに伴い、この地域のアラブ人やアルメニア人はハタイから離れ、シリアの他の地域に移住していくことになります。

 今回ご紹介の切手とカバーは、仏領シリアのアレクサンドレッタがトルコのハタイへと変質していく過渡期のモノで、消印のアンタキヤはアレクサンドレッタないしはハタイの中心都市です。

 オスマン帝国解体後の東地中海、なかでも、現在のシリアの枠組が作られていく過程では、郵便史的にもいろいろと面白いマテリアルが生まれており、いずれは、それらを集めてまとまったコレクションを作ってみたいと考えているのですが、現時点では、まだまだ道のりは遠そうです。どうせなら、シリア情勢がホットな間に、なんとかしてみたいのですが…。


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 清水の舞台に白アリ被害
2011-06-08 Wed 23:23
 きのう(7日)、世界遺産の清水寺で、国宝にも指定されている本堂の“清水の舞台”を支える柱78本のうち12本にシロアリ被害などが発生していることがわかりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        第3次昭和・2円

 これは、1948年1月10日に発行された2円の通常切手(第3次新昭和切手)で、清水寺の本堂が描かれています。1946年12月1日に発行された第1次新昭和切手の2円切手が無目打・裏糊なしで、日本語の表示が右書きで菊花紋章が入っていたのに対して、今回の切手は、目打と裏糊つきで、菊花紋章はなし、日本語の表示は左書きです。また、算用数字での額面の表示方法も両者は異なっています。

 清水寺は、延暦年間(782-806)に坂上田村麻呂が造営したのが始まりといわれていますが、その後、焼失と再建を繰り返し、現在の本堂が建てられたのは1633年のことです。本堂は、急な崖に大規模な建物を建てているため、前面の床を高くして長い束柱で支える懸け造りの構造をとっています。建物本体は大きな寄棟造りでその前面は庇までふきおろしています。さらに、前面の左右には翼廊が突き出し、それぞれに小屋根を架け、両翼廊の間は「清水の舞台」で親しまれている広い舞台になっています。

 ちなみに、思い切ったことをすることのたとえとして「清水の舞台から飛び降りる」との表現がありますが、1872年に明治政府が飛び降り禁止令を出し、柵を張るなど対策を講じるまで、1694年から1864年の間に実際にこの舞台から人が飛び降りたケースは234件に上りましたが、亡くなったのは15%以下だったそうです。

 さて、清水寺では、現在、本堂をはじめ奥の院や釈迦堂など境内の国宝、重要文化財の計9棟を対象に、1967年以来となる“平成の大修復”を約40億円の総事業費(うち文化庁が55%を補助)をかけて行っていますが、今後、柱のX線撮影などで被害状況を詳細に調査したうえで、傷んだ箇所を取り除いて新しい材料で継ぎ足す“根継ぎ”などの対策が必要になるとみられています。当然、修復費用の大幅アップは避けられないでしょうが、わが国が誇る世界的な文化財だけに、国としても支援を惜しまず、きっちりと修復してほしいものです。


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 米国籍の孫文
2011-06-07 Tue 23:07
 中国の“国父”とされる孫文が「ハワイ・マウイ島生まれ」として米国籍を取得していたことが、アメリカ政府の歴史資料から明らかになったそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      米・辛亥革命50年

 これは、1961年10月にアメリカで発行された“辛亥革命50年”の記念切手で、孫文の肖像が大きく取り上げられています。孫文の肖像を描くアメリカ切手は、第二次大戦中の1942年に発行された“中国人民の抗日5周年”いらい2度目のことです。

 この切手が発行された1961年の時点では、アメリカは大陸の中華人民共和国政府を承認しておらず、台湾の中華民国政府こそが“中国”の正統政権であるという立場を取っていました。この切手もまた、そうした文脈に沿って、中華民国と辛亥革命の50周年を記念して発行されました。

 アメリカ製の孫文切手というと、日中戦争下で発行されたアメリカン・バンクノート社製の“ニューヨーク版”の切手がすぐに思い浮かびますが、こちらは、あくまでも中華郵政が発行したものですから、“米国籍の孫文”ということであれば、やはり、今回ご紹介のアメリカ切手の方がよいでしょうな。

 さて、台湾各紙の報道によると、孫文は、本来、中国広東省香山県翠亨村(現中山市)の生まれですが、アメリカで移民局に拘束されたことがあり、アメリカで中国革命の準備をするならアメリカ国籍を取得した方が良いと勧められ、これを受け入れ、1904年にアメリカ国籍を取得したそうです。その際、彼は出身地を「ハワイ・マウイ島」と偽っています。これは、まぁ、国籍取得のためということで理解できるのですが、誕生日も1870年11月24日としているのは(実際の誕生日が1866年11月12日です)、ちょっと首を傾げるところです。ちなみに、11月24日というのは、1894年に彼がハワイのホノルルで革命組織の興中会を結成した日ですが、1870年というのはどこから出てきたんでしょうかねぇ。

 ところで、国民党の党史館の邵銘煌主任は、孫文がアメリカ国籍を取得していたことについて「革命のために取った非常手段」と説明していますが、共産党の一党独裁体制と戦うために、あえて、日本国籍を取得する中国人は、評論家として活躍している石平さん以外に、どのくらいいるのでしょうか。そういう義士に対しては、僕もできる限りの応援をしたいとは思うのですが、先日の大震災後の中国人の帰国ラッシュなんかを見てみると、現実には、日本生活も長くなったし、とりあえず日本国籍は取得するが、いざとなったら、日本を逃げ出して中国に帰るという人の方がほとんどなんでしょう。きっと。本来なら、国籍取得というのは、どこの国であれ、その国を好きになって、その国に骨をうずめるつもりでやってほしいのですがね。


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 ヴェトナムで大規模な反中デモ
2011-06-06 Mon 12:47
 きのう(5日)、ヴェトナムの首都ハノイで「中国によるベトナム侵略に抗議する」等の横断幕を掲げたデモが行われたほか、南部の最大都市ホーチミンでも1000人以上が中心部で反中デモ行進を行いました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      チュン姉妹

 これは、1959年にヴェトナム民主共和国(北ベトナム)が発行したチュン姉妹の記念切手です。

 チュン姉妹(チュン・チャック:徴側、チュン・ニ:徴弐)は、現在のハノイ北西部にあった峯州麋冷県の武将の家に生まれました。

 前漢の武帝が南越を征服するまで、ヴェトナムでは各地の武将や領主が住民から税を徴収していましたが、漢の支配下では徴税権が彼らから剥奪されたばかりか、後漢が派遣した交趾郡太守は悪政の限りを尽くしていました。

 このため、チュン・チャックは国内の有力者を取りまとめ、徴税権を南越側に移管するよう、後漢政府に要求。西暦40年3月、南越内の合浦・九真・日南各郡65の県の有力者の賛同を得て、みずから“徴王”を称し麋冷県に宮廷を構えて、妹のチュン・ニとともに、後漢に抵抗しました。

 これに対して、後漢の光武帝は、“反乱”鎮圧のため、馬援を伏波将軍として南越に派遣。42年、浪泊で南越軍を破り、数千のヴェトナム人を殺害し、1万人以上を捕虜としました。なお、チュン姉妹は捕らえられた末に殺害され、その首は43年初めに洛陽へと送られました。

 こうして、“反乱”は3年ほどで鎮圧されてしまいましたが、現在でも、チュン姉妹は中国の侵略に正面から戦った民族の英雄として、多くのヴェトナム人の尊敬を集めています。

 さて、先月26日には、南シナ海でヴェトナムの石油会社の探査船が中国の監視船に活動を妨害された事件が起こり、ヴェトナム側が中国側を非難した事件がありましたが、同31日には、それをあざわらうかのように、中国船がヴェトナム漁船に対して威嚇射撃を行っています。中国同様、一党独裁体制のヴェトナムでは、2007年12月にも、南シナ海問題をめぐり2週連続でハノイの中国大使館前などでの抗議デモが起きていますが、その後は当局が厳しく取り締まっていました。それだけに、今回のデモは異例の出来事とみられており、ヴェトナム国民の怒りのほどがわかろうというものです。

 ヴェトナムの歴史は、近代以降のフランス支配の時代といわゆるヴェトナム戦争(抗米戦争)、それにごく短期間の日本による占領の時期を除くと、基本的には、中国による侵略とそれへの抵抗の繰り返しでした。したがって、ヴェトナム切手には、しばしば、民族の歴史を彩った“反中の英雄”が登場します。

 今後も、南沙諸島・西沙諸島問題をはじめ、さまざまなレヴェルで中越間の対立が頻発するでしょうが、そうした機会をとらえて、このブログでもヴェトナムの“反中切手”をいろいろとご紹介していくつもりです。
 

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 日豪戦争⑪
2011-06-05 Sun 22:40
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第430号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は、ポートモレスビー攻防戦の話を書きましたが、そのなかから、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ミルン湾野戦局

 これは、1942年12月、ミルン湾飛行場に置かれていたオーストラリア軍の野戦郵便局から差し出された郵便物です。

 いわゆる太平洋戦争の開戦後、日本側が制海権を掌握し、南方とのシーレーンを確保するためには、委任統治領のトラック(チューク)諸島にあった海軍基地が有効に機能していることが大前提となっていました。そこで、開戦早々の1942年1月22日、トラック防衛のため、日本軍はニューブリテン島のラバウルに上陸し、ここを攻略して前進拠点とするとともに、ニューブリテン、ニューアイルランド、ブーゲンビルなどの島嶼部やニューギニア本島の北岸を占領しました。

 ところが、ラバウルをはじめ、これらの地域は蘭印と隣接するオーストラリア領ニューギニアの中心都市、ポートモレスビーの基地から爆撃圏内にありますので、その安全を確保するためには、ポートモレスビーも押さえておくことが必要となります。

 そこで、1942年5月、日本軍は珊瑚海海戦で海からのポートモレスビー攻略を目指しましたが、これは連合国側によって阻止されました。なお、珊瑚海海戦に参加した連合国の主力は米海軍でしたが、J.C.クレース少将を司令官とする第3群にはオーストラリア海軍の重巡洋艦オーストラリアと軽巡洋艦ホバートも参加していたことは記憶にとどめておいてよいでしょう。

 さらに、1ヶ月後の同年6月、ミッドウェイ海戦で日本海軍は虎の子の大型空母4隻を失い、海からポートモレスビーを攻略することは不可能となりました。

 そこで、日本軍は、ニューギニア島南東端まで600キロの全長があり、標高4072メートルのヴィクトリア山を擁するオーエンスタンレー山脈のジャングルを越えてポートモレスビーを目指すことになります。

 一方、オーストラリアにとっては、ポートモレスビーは本土防衛のための防衛線として、絶対に譲ることのできない拠点でした。また、フィリピンから撤退してオーストラリアを反攻の拠点としていたマッカーサーは、オーストラリアからニューギニアの島伝いに北上して前進基地を確保し、最終的にフィリピンに到達するという基本方針を立てていました。いわゆる「蛙飛び作戦」です。

 このため、珊瑚海海戦と前後して、ポートモレスビーのオーストラリア行政府は多数の現地住民を徴用し、対日戦に備えての軍事関連施設の建設を急ぎます。これに加えて、約3000名といわれる米軍工兵隊も飛行場建設のためにニューギニアに上陸。1942年6月には、マッカーサーがトマス・ブレイミー(オーストラリア軍最高司令官)指揮下のニューギニア部隊司令官であったバジル・モリス少将にブナの確保を命じ、オーストラリア軍第39大隊が派遣されました。

 ブナはニューギニア島の東部北側にある海辺の町で、ポートモレスビーからはオーエンスタンレー山脈(以下、スタンレー山脈)を越えて155キロの地点にあります。さらに、ブナとポートモレスビーの間にあるのが、オーストラリア領ニューギニア唯一の飛行場があったココダです。

 第39大隊の派遣に伴い、オーストラリア行政府は、約800人の現地男性を徴用し、ココダ街道の出発点から中継地点まで食料を運ばせました。また、ブナの近郊では、小型艦艇によって運び込まれた物資を運ぶため、さらに1500人の労働者が徴用され、さらに多くの者がココダ街道沿いで徴用されています。

 高低の激しく、人跡未踏のジャングルが広がる中での荷役作業はきわめて過酷でしたが、オーストラリア支配下のニューギニアでは、現地住民がオーストラリア行政府の命に背いて徴用を拒否すれば、厳しい処罰が待ち受けていたため、彼らはしぶしぶ作業を引き受けていたといわれています。

 こうした状況の下で、1942年7月21日、ついに、日本陸軍第17軍の南海支隊(高知の歩兵第144聯隊と福山の歩兵第41聯隊を主力とし、独立工兵15聯隊などの配属部隊から編成)の先遣隊が、ニューギニア島北岸のバサブアに上陸。スタンレー山脈をめざして進撃を開始し、29日にはココダのオーストラリア軍陣地を占領しました。

 日本軍の上陸とともに、現地住民からなるニューギニア兵の多くが逃亡。彼らの間では、東南アジアを席巻していた日本軍に対してオーストラリア軍には勝ち目がないとの判断が一般的でしたし、さらに、オーストラリア行政府による白人支配に反感を持つ者も少なくなかったからです。実際、ブナ近郊では、それまでのオーストラリア行政府に対する“復讐”として、撃墜された米軍航空兵5名が殺害され、オーストラリアの軍人5名、宣教師6名、民間人4名が捕らえられる事件も起こりました。

 一方、オーストラリア側は、現地住民の徴用をさらに強化することで、補給の拡充をはかろうとします。また、米陸軍航空隊から複数のダグラスDC-3輸送機を確保し、DC-3輸送機は戦線に近いミョーラ地区(元は湖でしたが干上がって陸地になったという地区)に補給物資の空中投下を行いましたが、投下された軍事物資の多くが将兵の手に渡らずにジャングルの中に紛れ込んだか、投下の際に破損してしまったとのことです。

 続いて8月18日には、南海支隊主力がブナに上陸し、ポートモレスビーへむけての進撃を開始。日豪両軍は、8月26日、スタンレー山中のイスラバでついに激突します。迎え撃つオーストラリア軍は、現地住民を動員して堅牢な陣地を築いていましたが、第144連隊は苦戦の後、第41連隊の増援を得て同月31日、ついに、イスラバが陥落しました。

 その後、日本軍は9月2日にギャップ、4日にスタンレー山脈の峠と駒を進め、8日にはエフォギを占領し、13日には、イオリバイワのオーストラリア軍第25旅団への攻撃を開始。イオリバイワからポートモレスビーまではわずか50キロです。

 さて、オーストラリア軍の司令官だったモリスは、イオリバイワへの増援として、2個大隊をもつ第21旅団(旅団長はアーノルド・ポッツ准将)と第53大隊を送るとともに、焦土戦略により、日本軍が期待していた現地での物資補給の芽を摘む戦略を採用しました。過酷な自然条件のスタンレー山中では、時間を稼げば稼ぐほど、日本軍は消耗し、みずから撤退せざるを得なくなるだろうとの判断によるものです。

 実際、日本軍の食糧と武器弾薬はこの頃には枯渇しており、第144連隊は病人が続出する中で、地元の農民の畑から芋をあさり、1人1日1合の粥をすすりながら、敵陣への攻撃を続けていたといわれています。

 この結果、9月16日、イオリバイワがついに陥落。この戦闘での日本側が死者72、負傷者81だったのに対して、オーストラリア軍の遺棄死体は120にものぼりました。

 ここにいたり、マッカーサー司令部は、ポートモレスビー陥落の危険性を本気で危惧するようになります。

 そこへ、新たにニューギニア部隊司令官として着任したシドニー・ラウェル中将が、日本軍は長期にわたる進出とオーストラリア軍の抵抗によってかなり消耗しており、増援部隊が到着しない以上、オーストラリア軍第21ならびに第25旅団で日本軍を撃破することは十分に可能だと主張しました。

 じっさい、この頃にはガダルカナルでの戦闘が始まっており、日本軍がガダルカナルとニューギニアの無謀な“二正面作戦”に突入していたこともあって、ラウェルの状況分析は結果的に正しかったといえます。1942年8月下旬から9月初旬にかけて、ニューギニア島東端のミルン湾において、連合軍が建設した飛行場(今回ご紹介のカバーは、同飛行場に置かれていたオーストラリア軍の野戦郵便局から差し出された郵便物です)に対して、日本軍が海軍陸戦隊を上陸させて占領を試みたものの敗退した「ミルン灣の戦い」は、まさに、その予兆ともいうべきものでした。

 しかし、それまで、日本軍の前に敗走を重ねていた(少なくとも、マッカーサーの眼にはそう映っていた)オーストラリア軍に対する司令部の不信感は払拭されず、第21旅団を率いたポッツはもちろん、ラウェル中将も、指揮権を剥奪されてしまいます。

 結局、1942年12月1日、マッカーサーは米陸軍第1軍団の軍団長ロバート・アイケルバーガー少将に、「ブナを奪還せよ、さもなくば生還を許さず」と厳命し、部隊をブナへ派遣。みずからもオーストラリアからポートモレスビーに移って態勢を整え、12月末には、米軍がブナの飛行場は奪取しました。

 そして、翌1943年1月2日、ブナの日本軍守備隊が壊滅。日本軍のラバウル攻略からほぼ1年後の同月21日、米豪連合軍がギルワ陣地を占領し、ポートモレスビーの攻防戦は完全に終結することになります。

 一連の戦闘で、日本側は将兵1万1000名のうち7600名が戦死あるいは戦病死という甚大な損害を受けましたが、オーストラリア軍もマラリアで亡くなる者が続出したほか、第16旅団と第25旅団は激しく消耗し、第30旅団が半減するなどの多くの犠牲を払っています。

 また、日豪両軍は、物資の運搬や死傷者の搬送のために多くの現地住民を動員しましたが、いずれの陣営でも、彼らに対して十分な休養や食事、避難所や医療の給与が与えられることはありませんでした。現地住民の住居は撤退する兵士によって焼かれたり、航空機の機銃掃射を受けたりするなどして破壊されたほか、日豪両軍はともに彼らの畑を襲い、部隊が駐留した地域ではマラリアなどが蔓延しています。

 現在のオーストラリアでは、大戦中のニューギニアの現地住民がオーストラリアに対して献身的に協力したとして、彼らを“黒い天使”と称賛しています。ただし、白人の絶対的優位を信じて疑わない“白豪主義”が社会のパラダイムとなっていた当時のオーストラリアで、一般のオーストラリア国民が“黒い天使”に心から敬意を払っていたのかどうか、僕などはいささか疑問を感じずにはいられません。


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 延命寺
2011-06-04 Sat 23:30
 耐震偽装ならぬ退陣偽装で内閣不信任案を乗り切った菅首相ですが、以前、年金未加入問題で民主党代表を退いた後に、四国八十八カ所霊場をめぐる遍路に出た際には53番札所の円明寺(愛媛県松山市)までしか訪れておらず、震災と原発事故の処理に“一定のめど”がついて総理を辞めた後は、巡礼の再開・続行をするつもりだとか。で、次の行き先である54番札所が“延命寺”(同県今治市)ということで、偶然にしては出来過ぎと話題になっているそうです。というわけで、延命寺がらみの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        延命寺

 これは、2007年8月1日、四国4県合同のふるさと切手として発行された「四国八十八ヶ所の文化遺産Ⅳ」のうち、延命寺を取り上げた1枚で、同寺に伝わる降三世明王像が取り上げられています。

 明王というのは、密教独自の存在で、大日如来の命を受け、仏教に帰依しない民衆を強制的に帰依させようとする役割を担っており、如来が変化した姿とされています。そして、仏法に従順ではない者を調伏し、また教化するため、怒りの形相(憤怒相)の恐ろしげな外見として表現されます。切手に取り上げられた降三世明王は、五大明王のうち、東方に配され、阿閦如来の化身とされています。サンスクリット名のトライローキャ・ヴィジャヤは“三界の勝利者”の意味で、貪瞋痴(貪り・怒り・無知)の三煩悩を取り除くのだそうです。

 そういえば、菅首相は、外国人からの違法献金を貪っていたことに加え、“イラ菅”との綽名で有名な癇癪持ちで、拉致事件実行犯の辛光洙の釈放嘆願書にサインしたり、韓国併合100年に際していわゆる菅談話を発表したり、といった具合に“無知”ということに関してもエピソードに事欠かない人物。降三世明王が取り除いてくれるという三煩悩にどっぷりとまみれています。

 遍路の活性化に取り組むNPO法人「遍路とおもてなしのネットワーク」事務局長の松岡敬文さんは「(以前の遍路の際に菅首相が)頑張って歩いていたら、政権が長生きした気もするが…」と話したそうですが、僕としては、すぐにでも首相を辞めて遍路を再開し、切手に取り上げられた降三世明王を拝んで来ることをお勧めしたいですな。

 なお、降三世明王を含む五大明王とその切手については、拙著『切手が伝える仏像』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 
 

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 復旧・復興のめど
2011-06-03 Fri 02:17
 一時は可決の可能性もかなりあると見られていた菅内閣に対する不信任決議案ですが、菅首相が「(震災の復旧・復興に)一定のめどがついた段階で、若い世代の皆さんに責任を移していきたい」と退陣をほのめかしたことで、与党内の造反組が腰砕けになり、結局は圧倒的大差で否決されました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

        帝都復興事業完成記念

 これは、関東大震災後の“帝都復興事業完成記念”の絵葉書に切手を貼り、帝都復興事業完成の印を押したものです。葉書は逓信省発行のものではありませんが、エンボス加工も施された立派なもので、なんらかの公的な組織が発行したものではないかと思います。

 1923年9月に起こった関東大震災の復興計画は、第2次山本権兵衛内閣の内務大臣に就任した後藤新平が帝都復興院を設立して自ら総裁に就任し、大阪市の港湾計画や都市計画に従事した直木倫太郎を技監に据えて行われました。

 当初の復興計画では焦土を買い上げ、都市の構造を抜本的に改造する壮大なものとして、30億円の予算が計上されていましたが、財政事情から、議会提出の時点で5億円まで削減され、さらに、議会での審議を通じて2割カットプラス復興院事務費の全額カットに修正されています。その後、ともかくも復興が動き出した矢先の1924年1月に摂政・裕仁親王暗殺未遂事件の虎ノ門事件が起こり、山本内閣は責任を取って総辞職。後藤も失脚してしまいました。

 当初の復興計画に比べると、実際の復興事業の規模はかなり縮小されましたが、それでも、現在の内堀通りや靖国通り、昭和通りなど都心・下町のすべての街路がこの復興事業によって整備されたほか、隅田川には震災復興橋梁として相生・永代・清洲・両国・蔵前・厩・駒形・吾妻・言問の9橋が架けられ、都心の小学校校舎の鉄筋化・トイレの水洗化、墨田・浜町・錦糸の3大公園と52の小公園の設置など、現在の東京都心の骨格がつくられました。

 なお、後藤は1929年に亡くなりますが、翌1930年に復興事業は完成し、3月26日にはそれを祝して帝都復興債が行われました。今回ご紹介のマテリアルは、これにあわせてつくられたものです。

 さて、菅首相は震災の復旧・復興のめどがついた時点で退陣するつもりだそうですが、その具体的な時期については口を濁しています。後藤新平が震災直後から強力なイニシアチブを発揮した関東大震災の時の復興事業でさえ、予算が通って事業が動き出したのは、震災から4ヶ月後。すでに、東日本大震災からは3ヶ月近くも空費されている現状を考えると、いまから4ヶ月後に復興事業が本格的に動き出しているとはなかなか想像しにくいのですが、“復旧・復興のめどがつくまで”ということは、少なくともそれまでは菅首相は辞めずに居座るということなんでしょう。ましてや、関東大震災の時の復興事業完成は震災から6年半後だったことを考えると、“復旧・復興のめどがつくまで”という言葉を水戸黄門の印籠よろしく取り出して、首相は任期満了後の再選さえ狙っているのではないかと思えてきます。

 そもそも、野党が内閣不信任案を提出し、与党からも相当数の議員が賛成に回ると見られていたのは、菅政権の下で復旧・復興のめどが全く立っていなかったからで、逆説的にいえば、今回の不信任案否決は、今後も、現状のままずっと菅首相が居座る(なにせ“復旧・復興のめどがつくまで”は辞めないそうですから)ことを意味するといえます。菅首相のこれまでの言動を見ていると、彼が自らの保身と政権の延命を優先して復旧・復興を遅らせるという可能性も決して否定しきれず、暗澹たる思いにとらわれるのは僕だけではないはずです。

 PS きのう(2日)夜の記者会見で、首相は「放射性物質の放出がほぼなくなり冷温停止になるのが原発事故の一定のめどだ」と述べたそうです。原発事故の収束に向けた工程表では、冷温停止を実現するのは来年1月ですから、それまでは続投するつもりということ。もちろん、冷温停止が遅れれば、その分、政権に居座り続けるということでしょう。耐震偽装ならぬ退陣偽装が早々に馬脚を現した格好ですな。


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 北日本で部分日食
2011-06-02 Thu 08:56
 きょう(2日)の明け方、北海道・東北・北陸では部分日食がありました。というわけで、きょうは日食の切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ルーマニア・日食

 これは、1999年8月11日のヨーロッパでの皆既日食に合わせてルーマニアが発行した記念切手のマキシマムカードです。切手は、日食のイメージとルーマニア国土の上を通る軌跡を組み合わせたデザインで、太陽の前を横切る月をデザインした特印もなかなか愛嬌がありますねぇ。

 今回の日食は、日付変更線を挟む関係で、6月2日の夜明けに中国北部とシベリアで始まり、6月1日(現地時間)の夕方早くにカナダ北東部、北極で終わるそうです。わが国では、天気が良ければ、午前4時55分頃、稚内で最も大きな欠けが見えたはずですが、きょうは全国的に曇りや雨のようなので、ちょっと難しかったかもしれませんね。まぁ、仮に天気が良くても、その時間帯に起きて日食を見るのは、なかなか容易なことではないのですが。

 なお、2週間後の今月16日には、こんどは月食が起こるそうです。1ヶ月の間に日食と月食が立て続けに起こるのは珍しいことですが、それにより重力場の作用が強まるという話を聞くと、また大きな地震が来るんじゃなかろうかとちょっと不安になります。まぁ、自然が相手のことゆえ、我々にできることなど限られてはいるのでしょうが、それでも、今一度できる限りの準備をしておくにこしたことはありませんな。

 * 昨晩、カウンターが86万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

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 おかげさまで6周年
2011-06-01 Wed 12:10
 おかげさまで、2005年6月1日にブログをスタートさせてから、きょうでちょうど6周年になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、お礼申し上げます。 というわけで、きょうは最新作の『切手百撰 昭和戦後』にちなみ、昭和戦後発行の日本切手の中から、この6円切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ナンテン

 これは、1962年2月20日に発行されたナンテン(南天)を描く普通切手です。ちなみに、切手発行時の郵便料金表を見ると、日刊紙・官報等を除く第3種郵便が100グラムごとに6円となっていますから、この切手も、薄手の雑誌・週刊紙等を送る帯封に貼られたケースが多いのではないかと思います。

 さて、ナンテンは中国原産で、漢名では“南天燭”といいますが、和名ではこれが略されてナンテンとなりました。葉は胃薬・解熱剤・咳止めなど効果がある生薬として“南天葉”と呼ばれています。防腐作用があるため、彩りも兼ねて弁当などにも入れられるそうなのですが、個人的には、ナンテンの葉が入った弁当というのは食べた記憶がありませんな。

 また、名前の語呂合わせから、「難を転ずる」に通ずる縁起モノとして、庭木などに好んで植えられているのはご承知のとおりです。

 3月11日の大震災以来、どうにも気分の滅入ることが続く今日この頃ですが、いずれ「難を転ずる」日も来るでしょうから、腐らず毎日を過ごしていかねば…とこの切手を見ながら、思いを新たにした次第です。

 * 2011年5月に頂戴した拍手の数の多かった記事のベスト3は以下のとおりです。ありがとうございました。
 1位(6票・3件):ビンラディン殺害平泉と小笠原、世界遺産へ中国にサンリオのテーマパーク


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