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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 さらば平成
2019-04-30 Tue 02:12
 いよいよ、平成最後の日となりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      平成初日

 これは、平成改元後の初日にあたる1989年1月8日に差し出された速達便で、平成元年としては最も早い1月8日の午前0時から8時までの東京中央局の消印が押されているのがミソです。

 1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇の崩御に伴い皇太子明仁親王が践祚しましたが、この時点では、新元号はまだ正式には決まっていません。

 昭和の次の新元号の候補については、1988年9月19日、昭和天皇が大量吐血されたことを受けて、水面下で選定作業が進められ、早い段階で「平成」、「修文」、「正化」の3案に絞り込まれていました。

 1989年1月7日の昭和天皇の崩御を受けて、同日午後、8人の有識者で構成される“元号に関する懇談会”と衆参両院正副議長に上記3案が示され、当時の内閣内政審議室長であった的場順三が、明治以降の元号のアルファベット頭文字を順に並べ、「MTSの後はHが据わりが良いでしょう」と言ったことで、新元号を平成とする方針が定まり、その後に開かれた全閣僚会議でも平成で意見が一致。同日14時10分から開かれた臨時閣議において、新元号をは正式に平成と決定され、14時36分、小渕恵三内閣官房長官が記者会見で発表しました。

 法手続き的には、崩御を前提とした手続きは事前に行なえないため、崩御当日の1月7日から改元の手続きを取り、同日中に改元の政令を出したうえで、翌日を“平成元年1月8日”とするという手順を踏んでいます。平成の初日が1989年1月8日となったのはこのためで、今上陛下の場合、結果的に、御在位期間中のうち1日だけ元号が昭和となりました。

 ちなみに、昭和天皇の場合は、1926年12月25日の大正天皇崩御を受けて践祚された後、直ちに改元の詔書が公布され、昭和に即日改元されたため、御在位の全期間が昭和の年号でカバーされています。また、明日(1日)付で皇位を継承される皇太子殿下の場合も、践祚と同時の改元となりますので、このまま一世一元の制度が維持されると、御在位の全期間が令和でカバーされることになります。

 
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 昭和の日
2019-04-29 Mon 01:49
 きょう(29日)は“昭和の日”です。というわけで、昭和史ネタにあらめて、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・東京五輪

 これは、1964年の東京五輪に際してキューバが発行した記念切手です。ランナーのバックの梅の花や、なんとなく稚拙な感じの“東京”の文字なんかが、なかなかいい味を出していますね。

 1961年に社会主義宣言を行った後のキューバは、スポーツを国威発揚の重要な手段と位置づけ、ソ連に倣ってステート・アマ方式を導入し、政府がトップ選手の育成に積極的に関与する政策を採用しています。

 はたして、社会主義宣言後最初の参加となった1964年の東京五輪では、エンリケ・フィゲロラが陸上の男子100メートルで10秒2で米国のボブ・ヘイズに次いで銀メダルを獲得しました。これは、キューバ選手としては1948年のロンドン大会以来のメダルで、革命政府のスポーツ政策がそれなりの成果を上げていることが示されました。今回ご紹介の切手は大会前の発行ですが、フィゲロラは前年(1963年)の汎米選手権の100mで優勝した実績の持ち主ですので、あるいは、この切手のデザインもフィゲロラのメダル獲得への期待を込めて制作されたのかもしれません。

 ちなみに、1968年のメキシコ大会では銀4(うち一つはフィゲロラがアンカーを務めた4×100mリレー)、1972年のミュンヘン大会では金3、銀1、銅4のメダルを獲得するなど、キューバの五輪での成績は、年を追うごとに上昇しています。

 なお、スポーツを含むキューバの文化政策については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいくつかの事例をご紹介しておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 * きのう(28日)の拉致被害者全員奪還ツイキャスの内藤の出演回は終了いたしました。途中、バッテリー切れになるアクシデントもありましたが、温かくお聴きいただきました皆様、運営のしぇりーさん、月さんにはこの場を借りて、あらためてお礼申し上げます。 
 
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 “板門店宣言”1周年で記念行事
2019-04-28 Sun 01:24
 きのう(27日)は、昨年(2018年)4月27日に韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長(以下、敬称略)が朝鮮戦争の終戦宣言の早期実現などで合意した“板門店宣言”から1周年ということで、軍事境界線のある板門店の南側で記念行事が行われ、日米中韓4カ国のアーティストが演奏を披露したほか、「板門店宣言は一つ一つ履行されている」、「(昨年9月に北朝鮮・開城に開所された)共同連絡事務所で南北が常に会って鉄道と道路を連結するための準備も終えた」などとする文大統領のビデオメッセージも流されたそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・南北首脳会談(2018)

 これは、昨年9月12日、同年4月の“南北頂上会談(いわゆる南北首脳会談の韓国での呼称)”を記念して韓国が発行した記念切手で、握手する両首脳の写真が取り上げられています。

 2018年4月27日、韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩委員長の南北頂上会談が11年ぶりに行われました。切手に取り上げられた首脳会談は、2000年6月の金大中・金日成2007年10月の盧武鉉・金正日会談に続いて3回目の会談ですが、文在寅と金正恩は、今回ご紹介の切手に取り上げられた会談の後、2018年5月と9月にも会談しているため、頂上会談そのものは現在まで通算6回行われている勘定になります。

 切手に使われた写真は、板門店韓国側の「平和の家」会談場2階正面、シン・チャンシクの「上八潭から見た金剛山」の前で撮影されたものです。会談以前、この場所に掛かっていたのはキム・ソボン(平安北道・鉄山出身)の西洋画「耽羅渓谷」(耽羅渓谷は韓国・済州島の景勝地)でしたが、会談を前に、金剛山の絵に差し替えられました。これは、金剛山が南北を問わず民族の象徴的な場所とされていることを踏まえてのものと思われます。

 2000年および2007年の首脳会談時には、韓国が会談当日に象徴的な図案の記念切手を発行し、北朝鮮が後日、首脳が握手する場面の切手を発行していましたが、文在寅・金正日会談については、北朝鮮側は記念切手を発行しておらず、韓国側が会談後に切手を発行するという異例の展開となりました。

 従来、北朝鮮が首脳握手の切手を会談終了後に発行していたのは、切手を“輸出商品”の一つと考える彼らの販売戦略(象徴的な図案よりも、直接的な握手の場面の方が、海外の収集家の関心を集めることは確実)に加え、会談が成功裏に終わったことを確認してから切手を発行するためでした。これに対して、北朝鮮が文在寅との首脳会談の記念切手を発行していないのは、韓国側が頂上会談と板門店宣言を自らの“実績”として内外にアピールしたいのに対して、北朝鮮側はそれをあまり高く評価していないためでしょう。ちなみに、北朝鮮は、ほぼ同時期に行われた金正恩訪中に関しては記念切手を発行しています。

 また、韓国側も、1987年の民主化後、大統領就任記念の切手を除き、現職大統領の肖像切手が発行されるのは異例(例外は、金大中のノーベル平和賞受賞の記念切手)のことです。

 その背景には、韓国郵政としては、2017年の文在寅就任記念切手(就任100日の8月17日に発行)が高支持率を背景に(近年の記念切手としては)異例の売れ行きだったという成功体験が念頭にあったいわれています。また、就任から1年以上が経過し、経済状況が芳しくなく政権支持率が低下する中で、今回の切手を実績アピールの手段として活用したい政権側の思惑もあり、今回の切手については、韓国メディアの中には“政権マーケティング”として批判する報道も見られました。

 なお、切手発行のタイミングは、9月18-19日に行われた文在寅・金正日の第3回会談直前の9月12日でしたが、第3回会談では、以下のような軍事分野合意書が調印されています。すなわち、

 1.軍事境界線と非武装地帯(DMZ)
 ①2018年12月31日までに1km以内に近接する11の監視所を試験的にそれぞれ撤収
 ②境界線から5km以内での砲兵射撃と野外機動訓練中止、
 2.地雷の撤去
 2018年11月以降、民間旅客機や貨物機を除く、全航空機を対象にした飛行禁止区域(回転翼機は軍事境界線から10km、無人機は最大15km、固定翼機は最大40km)を設定。これにより、米韓の偵察飛行は事実上禁止に
 3.黄海上の北方限界線(NLL)については、偶発的な衝突を避けるためとして、船舶の進入を統制する「平和水域」を設定
 4.板門店の共同警備区域(JSA)の自由往来
 5.南北間の敵対行為中止

 という内容ですが、これらは軍事的に劣勢の北朝鮮に対して、韓国側が一方的いに譲歩するものであり、文在寅政権の前のめりな“従北”姿勢を示すものとして、韓国内でも少なからぬ批判がありました。まぁ、そういう姿勢だからこそ、北朝鮮側は足元を見て文在寅との頂上会談の記念切手を発行せずに済ませたということなのかもしれませんが…。

 さて、かねてご案内の通り、本日21:55から生放送の拉致被害者全員奪還ツイキャスでは、内藤がゲスト出演し、昨年来の朝鮮半島情勢について考えたことをお話しいたします。よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きいただけると幸いです。


★★★ ツイキャス出演のお知らせ ★★★

 4月28日(日)21:55~ 拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。

 
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 前島密没後100周年
2019-04-27 Sat 02:30
 日本の“郵便の父”とされる前島密が1919年4月27日に亡くなってから100周年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      第2時新昭和・1円

 これは、1947年8月10日に普通切手として発行された前島密の1円切手です。前島密の切手はいろいろあるのですが、今回は没後100周年ということで、銭位を含め100の表示があり、“駅逓頭前島密”の文言もあるこの切手を選んでみました。なお、1951年には、今回ご紹介の切手のもとになった写真をグラビアで再現した1円切手が発行され、以後、銭位を示すゼロが取れたり、NIPPONのローマ字表示が入ったり、さらにはその字体が変更されたりして、現在まで、前島密は1円切手の顔であり続けています。

 さて、 前島密は、1835年2月4日、越後国頸城郡津有村下池部(現・新潟県上越市)の豪農、上野助右衛門の2男として生まれました。幼名は房五郎です。

 江戸で医学、蘭学、英語を学んだ後、航海術を学ぶために函館に赴き、武田斐三郎の諸術調所で学び、1865年、薩摩藩の洋学校(開成所)の蘭学講師となりました。

 1866年、幕臣・前島家の養子となり、維新後の1869年、明治政府の招聘により民部省・大蔵省に出仕。翌1870年3月、租税権正となり、ついで同年5月、自ら望んで駅逓権正を兼任しています。就任早々、前島は、東京=京都間を往復する文書に関して、政府が莫大な通信費を飛脚業者に支払っていることを知り、これを官業とすることで、政府の支出を抑えることを考えつき、6月2日、郵便創業に関する建議を民部・大蔵両省の会議に諮ります。しかし、その直後の6月24日、大蔵大丞・上野影範の特別弁務官として英国への差遣を命ぜられたため、1871年4月の郵便創業の実務は、留守を預かった杉浦譲が取り仕切ることになりました。

 1871年8月、英国から帰国した前島は駅逓頭に任じられ、創業まもない近代郵便制度の基礎を確立すべく奔走。 翌1872年には陸海元会社(現・日本通運株式会社)、郵便報知新聞(現・スポーツ報知)の設立に関与しています。

 その後、1877年には駅逓局長、1879年には内務省駅逓総監に任じられましたが、1881年、いわゆる“明治14年の政変”で下野し、大隈重信らとともに立憲改進党を創立。1886年には東京専門学校(現・早稲田大学)校長に就任しました。

 1888年、逓信次官として官界に復帰し、1891年3月まで在職。この間、官営電話交換制度を実施。1902年、逓信行政に対する多年の功績から男爵を授与され、1905年、貴族院議員に選任。1919年4月27日、神奈川県三浦郡西浦村芦名(現・横須賀市芦名)の別荘“如々山荘”で亡くなりました。


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 タンザニア統合記念日
2019-04-26 Fri 01:11
 今日(26日)は、タンガニーカとザンジバルが統合して、現在のタンザニア連合共和国の前身となるタンガニーカ・ザンジバル連合共和国が誕生した“タンザニア統合記念日”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      タンザニア・QEII在位25年

 これは、1977年にタンザニアが発行したエリザベス女王在位25年の記念切手で、タンザニア・スーツを着て女王夫妻と談笑する初代大統領のジュリウス・ニエレレが描かれています。

 現在のタンザニア連合共和国は大陸部分に相当するタンガニーカの地域は、第一次大戦までは旧ドイツ領東アフリカの一部でしたが、戦後、英国の委任統治領となりました。第二次世界大戦が勃発するとタンガニーカからも多くの兵士が英連邦軍に参加して出征したことから、タンガニーカでも民族意識が高揚。タンガニーカ・アフリカ人民族同盟による独立運動が展開され、1961年12月9日、独立国家としてのタンガニーカが誕生し、ジュリウス・ニエレレが初代首相(1962年以降大統領)に就任しました。

 一方、ザンジバルは、もともとアラビア半島・オマーンの支配下にあった土地が英国の保護領になったという経緯があり、保護領時代もアラブ系スルターン(地方君主)の支配が継続していました。

 第二次大戦後の1963年、ザンジバル・スルターン国は英連邦加盟の立憲君主国として独立しましたが、国名通り、独立後もスルターンの地位は維持されていました。ところが、独立に際して行われた総選挙では、選挙区の区割りが原因で、54%の得票率だったアフリカ系主体のアフロ・シラジ党(ASP)が13議席だったのに対し、アラブ主体の国民党(ZNP)が得票率30%で12議席、アフリカ系ながら親アラブのシラジ人主体のザンジバル&ペンバ人民党(ZPPP)が得票率16%で6議席を獲得。ZNPとZPPPの連立政権が発足したことで、得票率で過半数を得た第一党のASPは野党に甘んじることになりました。

 これに対して、選挙結果に不満を持つASP青年団のリーダー、ジョン・オケロは、ASP中央の意向とは無関係に、“自由の戦士”と称する若者300人を集め、1964年1月12日未明、政府転覆を企図して、ライフル銃や槍、自動車の部品などを武器にして郊外の警察署を襲撃。朝までに首都の警察署と憲兵隊を制圧したオケロは放送局に陣取り、“大元帥”を自称し、スルターンに対して、20分以内に家族を殺して自殺するよう要求しました。

 このため、スルターンと政府首脳部はザンジバルから逃亡。その後、島内ではアラブ系に対する略奪と殺戮が相次ぎ、5万人といわれたアラブ系ないしはアジア系住民のうち1万2000人が犠牲となりました。また、辛くも虐殺を逃れた人々も、財産の半分を没収されて出国を余儀なくされています。

 これが、いわゆるザンジバル革命です。

 革命が起きた当時、対岸のタンガニーカにいたASPの指導部は“自由の戦士”の暴走に驚愕。ASP議長のアベイド・カルメはザンジバルに戻ってザンジバル人民共和国の成立を宣言し大統領に就任しましたが、オケロらの暴走は止まらず、社会的な混乱が続きました。

 このため、1964年4月、カルメはオケロを追放し、治安回復のため、対岸のタンガニーカに警官隊投入を要請。4月26日、国家統合によるタンガニーカ・ザンジバル連合共和国を成立させ、ザンジバル国家そのものを消滅させることで事態を収拾するという荒業に打って出ました。

 同年10月29日、新国家は、タンガニーカとザンジバル、それにアフリカ南部で栄えたアザニア文化の名前をあわせて“タンザニア連合共和国”と命名され、タンガニーカ大統領のニエレレが連合共和国の大統領に就任します。

 前年の1963年、アフリカ統一機構の発足に積極的にかかわったニエレレは、汎アフリカ主義者として“アフリカ統一”を究極の目標として掲げていました。このため、自らの連合共和国をそのモデルとすべく、旧タンガニーカと旧ザンジバルが完全に対等の連合関係とし、ザンジバルには大幅な自治権を与えて新国家の建設に乗り出します。

 また、彼は(アフリカ式)社会主義路線を志向しており、汎アフリカ主義にも親和的と見られた中国との関係を重視していました。

 たとえば、1965年11月、アパルトヘイト政策を掲げて独立したローデシアに対して国連が経済制裁を発動し、その副作用として、内陸国のザンビアから銅鉱石の輸出ができなくなると、その打開策として、ニエレレはローデシアを経由せず、ザンビアとタンザニアのダルエスサラームを結ぶタンザン鉄道の建設を構想しましたが、その際、ニエレレが支援を仰いだのは、ソ連ではなく、中国でした。

 ニエレレの要請を受けた中国は、文化大革命さなかの1967年、タンザニアとザンビア両政府首脳を中国に迎えて協議し、1970年7月、三国間でタンザン鉄道建設協定を最終調印します。協定は、中国がタンザニア、ザンビア両国に無利子で計4億320万ドルの借款を与え、約2万人の中国人労働者を派遣するというものでした。ちなみに、タンザン鉄道は1976年7月14日に完成し、中国からタンザニア、ザンビア両政府に引き渡されています。

 この間、ニエレレは1967年にアルーシャ宣言を発し、中国の人民公社に倣った“ウジャマー村構想”を実施したほか、中国から軍事顧問を受け入れ、さらに、中国の人民服風を真似た“タンザニア・スーツ”(今回ご紹介の切手でニエレレが着ている服装です)を導入しています。

 このように、東アフリカの域内大国として、汎アフリカ主義と(アフリカ式)社会主義路線を掲げるタンザニアは、第三世界外交を掲げるキューバにとっても、外交上、重要な存在でした。

 このため、革命後のキューバはタンザニアとの関係を緊密化するため、1965年2月には、チェ・ゲバラが同国を訪問し、ダルエスサラームの大統領宮殿でニエレレと会談し、キューバからタンザニアへの支援として、織物工場や医療・技術支援などについての協議が行われています。こうしたこともあって、同年から開始されたゲバラらのコンゴ遠征では、タンザニアは後方支援基地として重要な役割を担うことになりました。

 なお、ゲバラのコンゴ遠征とタンザニアを含む周辺諸国とのかかわりについては、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 きょう、露朝首脳会談
2019-04-25 Thu 01:10
 北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は、きのう(24日)午後、特別列車でロシア・ウラジオストクに到着し、きょう(25日)、プーチン大統領との初会談を行います。というわけで、きょうは“露朝友好”を示す切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ロシア・朝鮮解放70年

 これは、2015年にロシアが発行した“朝鮮解放70周年”の記念切手で、平壌の凱旋門が取り上げられています。

 切手に取り上げられた凱旋門は、金日成の“抗日闘争勝利”を記念するものとして、1982年4月の金日成古希にあわせて、平壌市牡丹峰区域に建造されました。その背景には、金日成古希慶祝事業を通じて、それを指揮した後継者・金正日の権威を国民に対して誇示する意図があったのは明白です。

 門は、高さ60メートル、幅52.5メートルで、アーチ型の通路は高さが27メートル、幅が18メートルあり、パリの凱旋門(高さ49メートル)よりも大きいことが、北朝鮮にとっては自慢のひとつだそうです。門の左右の柱には、金日成が故郷を離れたとされる1925と、彼の凱旋の年とされる1945の年号が記されており、その東側と西側の壁面は白頭山の浮き彫りが、南側と北側の壁面には「金日成将軍の歌」や革命を賛美する歌の歌詞が彫刻されています。

 現在の北朝鮮の公式の歴史認識では、金正日は、朝鮮民族の聖地である白頭山の霊気と、金日成の抗日闘争の伝統をともに受け継いで生まれてきた人物であり、それゆえ、金日成から金正日への権力の世襲は正当化されることになっています。ただし、歴史的事実としては、金正日は、金日成がソ連領内で軍事訓練を受けていた時期に生まれたことが確認されており、出生地としては、ハバロフスク近郊、ヴャツコエの野営地が有力視されています。

 このため、北朝鮮当局にとっては、金日成がソ連領内で軍事訓練を受け、戦後、北朝鮮へ帰国したというのはタブーになっており、今回ご紹介の凱旋門も、あくまでも金日成は中朝国境の山岳地帯で抗日闘争を戦い、平壌に凱旋したことを記念する建造物というのが建前です。

 一方、ロシア側からすれば、そもそも、北朝鮮国家はソ連が衛星国として建国したという意識があります。

 すなわち、ナチス・ドイツとの血みどろの戦争を体験したソ連は、第二次大戦後、周辺を藩屏となる衛星国や友好国で固めることで自国の防衛を図るという世界戦略を立て、極東に関しては、満洲と朝鮮半島(の少なくとも北半部)を勢力圏内に組み込み、衛星国を建設することを基本方針としていました。

 このため、1945年8月10日、ソ連軍は朝鮮北端の都市・雄基に突入したのを皮切りに、同月15日の日本側の無条件降伏発表後も南侵を続け、同21日には元山を占領。さらに26日にはチスチャコフ大将指揮下の第25軍が平壌に入城し、ソ連軍民政部を設置して事実上の軍政を実施しました。

 そして、同年9月2日、日本が降伏文書に調印すると、連合国軍最高司令官のマッカーサーは、一般命令第一号を発して、朝鮮半島に関しては、北緯38度線以北はソ連極東軍司令官が、同以南は合衆国太平洋陸軍部隊最高司令官が、それぞれ、駐留日本軍の降伏を受理するものとされます。これをうけ、ソ連占領軍は、大戦中、ソ連極東方面軍で訓練を積んでいた金日成らを帰国させ、北朝鮮における衛星国の建設に着手しました。

 このことをもって、ソ連とその後継国家としてのロシアは自分たちが(北)朝鮮を“解放”下と主張しており、建国初期の北朝鮮では、ソ連赤軍による“北朝鮮解放”を記念して平壌・牡丹峰の麓に解放塔なる記念建造物も建設されました。ちなみに、ソ連の衛星国として出発した北朝鮮は、当初、朝鮮の解放と北朝鮮国家の建国はソ連のおかげであるという立場を取っており、「(ソ連によってではなく)原爆が落ちて日本は戦争に負けた」との趣旨の発言をした人物が処罰されることさえありました。解放塔は、そうしたソ連の“恩恵”を可視化するものとして、かつては、しばしば北朝鮮の切手に取り上げられました。

 解放塔は、現在なお、平壌市内に存在していますが(さすがに、取り壊してしまうとロシアにケンカを売ることになるので)、“ソ連による朝鮮解放”という、北朝鮮にとっては歴史のタブーを可視化するものであるがゆえに、メディアなどで取り上げられることはまずありません。これに対して、平壌駐在のロシア大使館は、朝鮮の戦闘で戦死したソ連軍の軍人を追悼して、定期的に解放塔に花輪を献じていますが、“朝鮮解放70周年”の記念切手にあえて解放塔を取り上げて北朝鮮との関係をあえて悪化させることは得策ではないと判断し、北朝鮮側の顔を立てて、金日成伝説を表現した凱旋門を切手の題材としたものと考えられます。もっとも、“朝鮮解放70周年”の記念切手を発行することじたい、ロシアにしてみれば、朝鮮を“解放”したのは、金日成ではなく、自分たちなのだという意思をにじませているといえばそれまでなのですが…。

 なお、北朝鮮国家の成立過程と、ソ連との関係については、拙著『朝鮮戦争』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 スプートニクとガガーリンの闇(17)
2019-04-24 Wed 00:22
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、3月25日、『本のメルマガ』第712号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年の期間中に各国が発行した切手のうち、この切手について取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      エクアドル・IGY

 これは、1958年12月にエクアドルが発行した国際地球観測年の記念切手です。

 1822年、スペインの支配から解放されたエクアドルは“南部地区”として大コロンビア(現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドル、パナマの全域と、ガイアナ、ブラジル、ペルーの一部に相当)に組み込まれました。しかし、大コロンビアは分裂し、1830年にエクアドルも独立を宣言。これに伴い、ペルーとの間でペデモンテ=モスケラ議定書が締結され、マラニョン=アマゾン水系が両国の国境と定められます。しかし、この国境線には両国ともに不満を持っていたため国境での小競り合いが続き、1936年になってようやく、当時の実効支配ラインを元にした国境が確定されました。

 ところが、その後も国境地帯では小規模な武力衝突が続いたため、1941年7月5日、マラニョン川以北のアマゾン地方の領有権を主張するペルー側は、エクアドルが1936年の協定に違反して国境を侵犯したとしてエクアドルに宣戦布告。エクアドルの防衛態勢が整わないうちに、アマゾン地方などを占領しました。

 翌1942年1月、日米開戦を受けてリオデジャネイロで米州外相会議が開催されると、これに合わせて、米国、ブラジル、アルゼンチン、チリの4ヵ国の調停により、エクアドルとペルーの和平協定として「リオ議定書」が調印され、ペルーによるアマゾン地域の領有が追認されます。ただし、その後もアマゾン地域をめぐるペルーとエクアドルの対立はくすぶり続け、1995年のセネパ戦争を経て、エクアドルがアマゾン地域を放棄することを承諾し、独立以来の国境紛争がようやく終結したのは1998年のことでした。

 1942年のリオ議定書により、エクアドルはアマゾン地域の20-25万平方キロの領土を喪失したことで、当時のカルロス・アロヨ・デル・リオ政権は窮地に追い込まれ、1944年5月、軍、共産党、社会党を巻き込んだ民衆蜂起により崩壊。1939年の大統領選挙でアロヨに敗れた後、クーデターを企てて失敗し、コロンビアに亡命を余儀なくされていた元大統領、ホセ・マリア・ベラスコ・イバーラが左派系の民主同盟に推されて大統領に当選します。

 しかし、第2次ベラスコ政権下では腐敗政治とインフレが進んだため、1947年に軍事クーデターが発生し、ベラスコはアルゼンチンに亡命。翌1948年に行われた大統領選挙では、自由党系のガーロ・プラサが当選します。プラサ政権の時代にも地震や軍の叛乱などはありましたが、石油メジャーのシェル石油によって東部アマゾンの油田開発が進んだほか、1949年にはユナイテッド・フルーツ社(現チキータ)がエクアドルに誘致され、バナナはエクアドル最大の輸出品目となります。

 こうした状況の下、1952年の大統領選挙にあわせてベラスコが帰国。ベラスコは出身母体の自由党に加え、左派系の“人民勢力集合(CFP)”と連合し、大統領選挙で勝利を収めて、同年9月1日、3度目の政権を獲得しました。

 しかし、9月12日、グアヤキルを中心に反政府暴動が発生し、ベラスコの自由党とCFPの対立が先鋭化すると、同年12月、ベラスコはCFP党首のカルロス・ゲバラ・モレノをはじめとする指導者を逮捕し国外追放し、独裁権力を獲得。以後、彼の任期中の4年間は、保守のキリスト教社会運動(MSC)、極右のエクアドル国家主義革命行動(ARNE)が与党となり勢力を伸張しました。

 1952-56年の第3次ベラスコ政権下では、エクアドル経済はバナナ・ブームと呼ばれる好景気に見舞われ、“進歩の時代”とよばれる開発ラッシュが続きます。すなわち、この間、311校の学校が建設されたほか、道路も1359キロが建設、1057キロが改修され、コスタ(太平洋岸の亜熱帯低地)では富裕層が生まれました。

 その反面、農村部では階層分化が進んだため、農地改革を求める農民も少なからずありましたが、ベラスコ政権はこれを強権的に弾圧します。たとえば、1953年8月6日、ピンタグのメルセド農場で発生した争議は労働者の大虐殺により鎮圧され、1955年の鉄道労働者の全国ストライキは政府の非常事態宣言によって中止に追い込まれました。

 こうした保守強硬路線に対しては貧困層の不満も強かったが、ベラスコはそれを “ソフトな反米”の姿勢でガス抜きしようとします。

 もともと、エクアドルを含むラテンアメリカ諸国の一般国民の間には、事実上の宗主国として自国の政治・経済を実質的に支配している米国へ不満が鬱積していますが、エクアドルの場合には、そこに加えて、彼らの領土を奪った「リオ議定書」は米国(とラテンアメリカの有力諸国)によって押し付けられたものという不満があったため、米国を本気で怒らせない程度の“ソフトな反米”は、国民世論の収攬にはきわめて効果的な手段となりうるのでした。

 かくして、1955年、ベラスコ政権は、米国漁船2隻が200海里領海内に侵入したとして拿捕し、米国相手に“マグロ戦争”をしかけたほか、1956年1月、布教のためアマゾン低地に入った5人の米国人宣教師人が先住民のアウカ族により惨殺された際にも先住民に対して同情的な態度を示すなど、“ソフトな反米”の姿勢を採っています。

 さて、エクアドルの大統領は任期4年の連続再選不可であるため、1956年8月31日の任期満了をもってベラスコは退任し、後任の大統領には、ベラスコ政権の閣僚でMSC創設者のカミロ・ポンセ・エンリケが選挙で当選して就任。その後、院政を敷いて政界への影響力を維持したいベラスコと、現職大統領としてベラスコの影響力を排除したいポンセの間で激しい権力闘争が展開されるのですが、新旧大統領の間で政策そのものに大きな差異はありませんでした。

 今回ご紹介の“国際地球観測年”の切手にソ連の人工衛星が登場しているのは、米国の裏庭であるラテンアメリカにおいて、ソ連に対する肯定的な評価がタブー視されていた環境の中で、あえて、“進歩の時代”のイメージに重ね合わせるかたちで、国民のガス抜きとして、“ソフトな反米”の気分を表現しようとした結果なのかもしれません。

 ただし、当時のエクアドル政府には“ソフトな反米”の演出により国民のガス抜きを測ろうとする傾向があったものの、そのことは、彼らが容共的ないしは親ソ的な立場であったことを意味するものではありませんでした。

 はたして、1958年末までに、バナナ・ブームの好景気が終焉を迎えると、エクアドル国内では失業と社会不安が広がりましたが、その対策として、1959年以降、政府は民間企業の従業員に失業保険を適用する一方、左翼系の労働運動に対しては依然として厳しい弾圧の姿勢で臨んでいます。

 ちなみに、1959年、発足間もない革命キューバの外交使節団を率いて各国を歴訪したチェ・ゲバラは、ユーゴスラヴィアでティトーと会談した際、「エクアドルは革命キューバに対して宥和的」との見通しを語っていましたが、それが幻想でしかなかったことは、1961年、米国が反キューバの文脈で提唱した“進歩のための同盟”にエクアドルが嬉々として参加し、外部(=ソ連)からの専制に対して結束して立ち向かうことを誓約していたことからも明らかでした。

 なお、このあたりの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもまとめておりますので、機会がありましたら、お手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 ウクライナ新大統領にゼレンスキー氏
2019-04-23 Tue 02:58
 21日に投開票が行われたウクライナ大統領選挙の決選投票で、コメディー俳優で新人のボロディミル・ゼレンスキー氏(以下、敬称略)がペトロ・ポロシェンコ現大統領に大差を付けて勝利しました。ゼレンスキー氏は、ウクライナ国内ではマイノリティのユダヤ系ということなので、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      アウシュヴィッツからウクライナ宛

 これは、1944年1月、モノヴィッツのアウシュヴィッツ第3収容所に派遣されていたウクライナ人スタッフが祖国宛に差し出したものの、おそらく戦闘が激化したために配達不能となり、差出人戻しとなった葉書です。

 現在のウクライナ国家に相当する地域は、かつて、ポーランド・リトアニア共和国の支配下で、多数のユダヤ人が生活していました。1795年の第3次ポーランド分割でポーランド・リトアニア共和国は完全に消滅し、ウクライナはロシアの支配下に入りますが、すでに1794年から建設が始まっていたウクライナ南部の港湾都市、オデッサとその周辺には多くのユダヤ人が住みつき(19世紀末にはオデッサ市の人口の3分の1がユダヤ人と言われるほどでした)、オデッサはロシア・ユダヤ文化の中心地となります。

 しかし、1881年、ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されると、首謀者はナロードニキ派で貴族出身の非ユダヤ人、ソフィア・ペロフスカヤだったにもかかわらず、犯人グループの中にユダヤ人女性革命家ゲシア・ゲルフマンがいたことから、民衆の間で事件はユダヤ人の陰謀とする煽動が行われ、ウクライナと南ロシアでポグロム(流血を伴う反ユダヤ暴動)が発生。以後、この地域では断続的にポグロムが発生し、多くのユダヤ人がウクライナから脱出していきました。ちなみに、映画やミュージカルで有名な「屋根の上のヴァイオリン弾き」は、この時代のウクライナのユダヤ人家庭を舞台に、最終的に、彼らがポグロムによって故郷の村を追われるというストーリーになっています。(原作の小説では、主人公一家はイスラエルの地へ帰還する設定ですが、ミュージカルではニューヨークに向かうところで幕となります)

 1917年のロシア革命を経て、ソ連時代になると、ウクライナ人が激しく弾圧されたのに対して、ユダヤ人に対する弾圧は少なく、ユダヤ人の中には革命政府の要職に就く者も現れます。さらに、ウクライナ人ナショナリストの弾圧の実務責任者だったのが、ウクライナ出身のユダヤ人、カガノーヴィチだったこともあり、もともと反ユダヤ感情の強かったウクライナ人の間には、より強烈な反ユダヤ感情が沈殿していくことになります。

 こうした背景の下、1941年に始まる独ソ戦では、ドイツ側は「戦争の責任はユダヤ人にあり、ドイツ民族の生存を望まないユダヤ人は絶滅する必要がある」と主張し、ウクライナを占領。すると、反ソ・反ユダヤ感情の強かった地元のウクライナ人は、進駐してきたドイツ軍に対して、積極的に“ユダヤ人始末の権限”を要求し、多くのウクライナ人“補助警察官”が熱心に“ユダヤ人狩り”を推進しただけでなく、対独協力の一環として、多くのウクライナ人スタッフがアウシュヴィッツ等の収容所に派遣されていきました。

 特に、キエフ近郊のバビ・ヤールでは、1941年9月29-30日 ウクライナ警察の協力の下、ユダヤ人は移住させるから集合せよとの布告を信じて集められたユダヤ人3万7000人が徒歩で移動中に次々に射殺されたのを皮切りに、1943年までに10万人のユダヤ人が殺害されています。こうしたウクライナ人のあまりの暴挙に、一部の地域では、ユダヤ協会の指導者層がドイツ占領当局に「ウクライナ人を取り締まってほしい」と陳情していたほどです。

 結局、独ソ戦開戦時の1941年には270万人いたとされるウクライナのユダヤ人のうち、ドイツ占領時代に犠牲になったユダヤ人は90万人とも推定されていますが、第二次大戦後の1949年には、多くのユダヤ人が「イスラエル(1948年建国)と通じている」との嫌疑をかけられ、粛清の大葬となりました、このため、第二次大戦後、最初の国勢調査が行われた1959年には、ウクライナのユダヤ人口は84万人にまで落ち込んでいます。

 フルシチョフによるスターリン批判以降、ユダヤ人が直接的な生命の危機にさらされる危険性は大きく減じられましたが、個別のユダヤ人として差別はソ連崩壊まで温存されます。今回、大統領選挙で当選したゼレンスキーは、こうした時代背景の下で、1978年、ユダヤ人家庭に生まれました。ちなみに、父親はドネツク・ソヴィエト貿易研究所(現・ドネツク国立経済貿易大学)の研究者、母親はエンジニアで、ユダヤ人への差別が比較的少ない職業でした。

 ソ連末期の1991年8月24日、ウクライナがソ連を離脱して再独立すると、過去の先例から、共産主義政権下で抑え込まれていたウクライナ民族主義の高揚に危機感を覚えたユダヤ人の出国(主な出国先はイスラエルです)が相次ぎ、2014年の国勢調査ではユダヤ人口は6万7000人にまで落ち込みました。

 このように、歴史的には反ユダヤ的な傾向がきわめて強かったウクライナですが、2016年4月10日、ソ連時代の1978年にウクライナのヴィーンヌィツャで生まれたユダヤ人、ヴォロディーミル・フロイスマンがウクライナの首相に就任。さらに、今回、ゼレンスキーが大統領に当選するなど、時代は確実に変化してきているようです。それでも、現在なお、ウクライナ国内では、ロシア人や外国人との混血など、生粋のウクライナ人以外の政治家等に対して、“ユダヤ人”とのネガティヴ・キャンペーンが展開されることもあるなど、ウクライナの反ユダヤ感情は抜きがたく残ってはいるのですが…。

 なお、アウシュヴィッツ関連の郵便物については、拙著『アウシュヴィッツの手紙』でその概要をまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

 * 昨日(22日)、アクセスカウンターが204万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


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 スリランカで爆発8件
2019-04-22 Mon 02:17
 スリランカの最大都市コロンボなど3都市で、きのう(21日)、キリスト教会や高級ホテルなど8施設が狙われる爆弾テロが発生。この記事を書いている時点で、外国人27人を含む207人が死亡し、日本人を含む約450人が負傷したました。スリランカ政府は、イースターにあわせてキリスト教徒や外国人を狙ったテロとみて、容疑者7人を逮捕しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      スリランカ・聖アンソニー教会

 これは、2010年にスリランカが発行した“聖アンソニー教会175周年”の記念切手です。今回の爆弾テロでは、聖アンソニー教会も爆弾テロのターゲットになり、大きな被害を受けました。

 聖アンソニー教会はコロンボ郊外のコッホチエードにあるカトリック教会で、パドヴァのアントニオ(失せ物、結婚、縁結び、花嫁、不妊症に悩む人々、愛、老人、動物の聖人)に献じられました。

 セイロン島には、1505年、ポルトガル人がコロンボに商館を建設し“ポルトガル領セイロン”として植民地化され、カトリック教会も建立されました。1658年、ポルトガルに代わりオランダがセイロンを植民地化すると、プロテスタントを奉じるオランダは、当初、カトリックの神父たちが説教を行うことを禁じます。こうした状況の下、商人に身をやつしてムトワルの漁村に逃れてきたアントニオ神父は、海岸浸食に悩む村人の求めに応じて、海岸に十字架を建てて祈ったところ、浸食が停まったため、村人はこぞってカトリックに改宗しました。その後、オランダ当局はアントニオ神父に土地を与え、説教を行うことを認めたため、神父はレンガ造りの礼拝堂を建立しました。これが、現在の聖アンソニー教会のルーツとなります。

 ナポレオン戦争中の1796年、英国東インド会社がコロンボを占拠し植民地化を開始(オランダから英国への正式な割譲は1815年)すると、カトリックの活動に対する制約は大幅に緩和され、1806年に礼拝堂は拡張されます。さらに、1828年から1834年にかけて新たな教会の建物が建設されました。今回ご紹介の切手は、ここから起算して175年になるのを記念して発行されたものです。なお、切手に取り上げられた建物は、1938年から1940年にかけてのさらなる拡張工事の後の姿です。

 さて、スリランカでは、2009年5月まで、人口の約7割を占めるシンハラ人(主に仏教徒)と、人口の15%を占めるタミル人(主にヒンドゥー)の内戦が続いていましたが、内戦終結後は治安が比較的安定していました。

 ところが、近年は仏教過激派が台頭。昨年(2018年)3月には、東部アンパラで「ムスリムの飲食店が提供する料理に不妊薬が混じっている」とのうわさをきっかけに、仏教徒がムスリムやモスクを襲撃し、これが他の都市にも拡散したことから、非常事態宣言が出されたことがあります。このときは、仏教過激派ら約300人が逮捕されたのですが、容疑者の中には、シリセナ大統領と対立していたラジャパクサ前大統領の支持者もいたため、背景にはラジャパクサ派にが政権の不安定化を狙って陰謀を企てたとの見方も指摘されていました。また、これとは別に、仏教過激派はキリスト教徒に対しても礼拝を中止するよう、脅迫していました。

 一方、仏教過激派から圧力にして、人口の1割弱とされるムスリムの一部が過激化する傾向を示しており、今月に入ってから、スリランカ政府に対しては、イスラム原理主義組織のNTJが教会やインド大使館を対象にした自爆テロを計画しているとの報告が外国の情報機関から寄せられていたそうです。ちなみに、NTJはスリランカ国内で仏像を破壊するなどの活動を行ってきた組織で、2016年には32人が“イスラム国”ことダーイシュに加わりました。このほか、スリランカ国内には、インドやモルディヴのイスラム過激派も入り込んでいる可能性も指摘されています。

 いずれにせよ、亡くなられた方の御冥福をお祈りするとともに、負傷者の方の一日も早い御快癒、被害を受けた施設の復旧を心よりお祈りしております。
      

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 HAPPY EASTER!
2019-04-21 Sun 10:38
 きょう(21日)はイースター(復活祭)です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド・イースター(1997)

 これは、1997年にポーランドで発行されたイースターの切手で、イースター・エッグを作る母子が描かれています。

 春の訪れを祝い卵を飾る習慣は、キリスト教以前から広く行われており、ユダヤ教の過越祭の正餐では、塩水で味付けをした固ゆで卵が、エルサレムでの新しい命と信仰のシンボルとして食べられています。キリスト教の伝承では、イエスの昇天後、マグダラのマリアがローマ皇帝の元に赴き、赤い卵を贈って「イエスが天に上げられた」ことを示し、キリスト教を説き始めたとも、キリストの復活は赤い卵と同様ありえないと皇帝が言ったためともいわれています。

 なお、キリスト教世界の伝統では、イースターの46日=日曜日を除く40日前から復活祭イースター前日までの期間は四旬節として、イエスの受難を思い、肉や卵などの食事制限を行うため(その直前に肉に別れを告げる祭りが謝肉祭=カーニヴァルです)、卵を飾ることで四旬節の間の節制が終わることを祝う意味合いもあります。

 ポーランドのイースター・エッグは、かつては、生卵の上下に針で小さな穴を開け中身を出したものに植物由来の染料で絵を描くことが主流でしたが、最近は殻つきのゆで卵に絵を描いていくことが主流になっています。また、装飾の方法によって、①ドラパンキ(色をつけた卵の殻に針などを使って模様をつけたもの)、②クラシャンキ(野菜や植物を煮出した汁で卵を染めたあと、針などを使って染めた部分を削りながら模様をつけたもの )、③ピサンキ(蝋で模様を描いた後、染料にくぐらせて色をつけたもの)、④アジュルキ(卵の中身を出した後、先の細い錐などを使って模様を彫ったもの)、⑤ナレピアンキ(切った紙を卵に貼り付けたたもの)などがあります。

 今回ご紹介の切手では、装飾を施す前に、白い卵に筆を使って絵具で色を付けている場面が描かれていますが、これは、上記の分類だと、ドラパンギの制作過程ということになりましょうか。

 さて、出来上がったイースターエッグは、(着色していない)ゆで卵・ソーセージもしくはハム・塩・胡椒・パン、ケーキなどともに飾りつけたバスケットに入れて教会で清めてもらい、イースター当日、キリストの復活を祝うミサの後、その中身を家族で分けて食べるのが伝統的な習慣です。なお、イースター翌日の月曜日も休日で、水かけ祭りが行われ、これをもってイースター関連の行事は終了となります。
 
 さて、本年(2019年)は、日本・ポーランド国交樹立100周年にあたっており、これを記念して本年7月13-15日(土-月・祝)に東京・錦糸町のすみだ産業会館で開催予定の全日本切手展では<ポーランド切手展>を併催すべく、準備を進めています。今後、このブログでも随時ご案内していくことになると思いますが、よろしくお願いいたします。 

 * 昨日(20日)、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパスでの内藤の発表は、無事、盛況のうちに終了いたしました。お集まりいただいた皆様、運営の労をとってくださったスタッフの方々に、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

      
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 メディアとしての“英雄的ゲリラ”
2019-04-20 Sat 03:04
 かねてご案内のとおり、本日(20日)14時から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。というわけで、その内容の一部を予告編としてご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・ゲバラ日記(2017)

 これは、2017年、ゲバラの没後50年に際してキューバが発行した記念切手で、生前の彼の横顔と、ゲバラの遺著で、“英雄的ゲリラ”をデザインした『ゲリラ日記』初版本の表紙が並べてデザインされています。

 ゲバラは1967年10月にボリビア山中で亡くなりましたが、1968年初、彼が死の直前まで綴っていた日記の写しがキューバに持ち込まれます。

 チェの日記をキューバ側に引き渡すうえで、主導的な役割を果たしたボリビア内相のアントニオ・アルゲダス・メンディエタは謎の多い人物ですが、もともと、ソ連の影響下で組織された革命的左翼党(PIR)のメンバーで、ボリビアの主要な共産主義者たちとも交流がありました。十代で通信士としてボリビア空軍に入隊しますが、基地内で党の宣伝文書を配布するなどの左翼活動を続けます。ところが、1950年、法律を学んで法務官となったことで、空軍の実力者であったレネ・バリエントス・オルトゥーニョと親しくなり、右派に転向。民族革命運動党(MNR)に加入し、1964年11月のクーデターでバリエントスが政権を掌握すると、内務省勤務となりました。

 アルゲダスを内務省で雇用することについては、彼がもともと左翼活動家だったことから、ラパスの米国大使館付き武官のエドワード・フォックスは再考を求めましたが、CIAのボリビア担当の責任者だったラリー・スタンフィールドはアルゲダスの能力を高く評価し、むしろ、彼をCIAのエージェントとして取り込むことを主張。アルゲダスも「反分は好奇心から」CIA側のリクルートに応じ、その結果、一挙に内相に抜擢されます。

 1967年、ゲバラ率いるゲリラ部隊に対する掃討作戦が本格的に始まると、アルゲダスはCIAのアレンジにより亡命キューバ人のチームを編成して工作活動を展開し、1967年6月のサンフアンの虐殺を承認したほか、同年9月にはゲリラ部隊の都市組織で資金を管理していたロヨラ・グスマン・ララを逮捕し、山岳ゲリラへの支援ネットワークを壊滅に追い込みました。

 しかし、CIAの送り込んだ亡命キューバ人部隊が、徐々にボリビア内務省の統制を無視し、ボリビア国内に独自の拠点を設けるようになると、CIAへの反感から、アルゲダスは左派勢力との妥協を考えるようになります。

 1967年10月9日、ゲバラの処刑後、CIAは遺体が“聖遺物”化されることを恐れて頭部を切り取るよう求めましたが、検死を担当した医師のホセ・マルティネス・カッソとモイセス・アブラム・バプティスタは「キリスト者として受け入れられない」と拒否したため、代わりに、急遽買い集められた蝋燭を材料としてデスマスクが取られます。その後、遺体から切り落とした両手の指紋から遺体が間違いなくゲバラ本人であることが確認されると、アルゲダスは内相として、ホルマリン漬けの両手とデスマスク、押収した日記の写しを保管することになりました。

 ゲバラの日記を入手したアルゲダスは、内務省技術局長で、個人的な友人でもあったリカルド・アネイバに命じて日揮を撮影させます。ついで、1968年1月、アルゲダスは新聞記者のビクトル・サニエルをチリのサンティアゴに派遣し、キューバの通信社、プレンサ・ラティーナのオフィスでゲバラの日記が撮影されたマイクロフィルムをキューバ側に渡し、それがハバナに届けられました。

 マイクロフィルムを受け取ったキューバ側は、当初、その日記の真贋については確証を持てなかったようですが、ともかくも、チェ未亡人のアレイダの協力で判読作業を開始。そこへ、3月6日、ボリビアでゲバラとともに戦っていた“ポンボ”ことハリー・ヴィエガス・タマヨらがハバナに生還。彼の日記との照合により、ボリビアからもたらされた日記が真正の写しであることが確認されました。

 ゲバラの遺著となった『ゲバラ日記』(スペイン語版の原題はEl Diario del Che en Boliviaで、直訳すると『ボリビアにおけるチェの日記』)は、こうした経緯を経て、カストロによる「なくてはならない序文」を加え、1968年6月26日に刊行されました。

 『ゲバラ日記』初版本の表紙に取り上げられたゲバラの肖像は、コルダの“英雄的ゲリラ”が元になっていることは一目瞭然だが、文字などのレイアウトの都合からか、左右が反転した“裏焼き”の状態になっています。また、顔の輪郭や鬚、帽子の星の形などから、フィッツパトリックの“英雄的ゲリラ”のイラストとは別に、キューバ側でイラストとして描き起こしたものであることもわかります。

 カストロの「なくてはならない序文」では、ゲバラが“想像を絶するほど過酷な物理的状況下”で革命ゲリラ闘争の発展のためのメモランダムとしてこの日記を書き、自らが模範的な闘士として、多くの優秀なゲリラたちを感化したことが強調されています。

 その一方で、カストロは、ボリビアとその歴史的首都のスクレの名が、ラテンアメリカ独立戦争の英雄、シモン・ボリバルとアントニオ・ホセ・ド・スクレに由来することからも、ボリビアは反帝国主義闘争において国際的に連帯することが宿命づけられているにもかかわらず、ボリビア共産党のマリオ・モンヘは狭量なセクト主義やゲバラへの嫉妬、復讐心などからボリビア人のゲリラ部隊への参加を妨害した、と批難しました。

 そして、“ヤンキー帝国主義”を批難し、米国に対抗するための国際連帯を呼び掛けるとともに、「革命運動を附帯する連携を捨て去ることは…実際にはヤンキー帝国主義と、世界を支配して隷属化しようとする政策の保持に利便するのである」として、それゆえ、ゲバラの日記を公開する必要があると説明。また、日記の公開は、チェのゲリラ闘争がボリビアのバリエントス政権に大きな打撃を与えていたことを明らかにするものであるともしています。

 そのうえで、カストロは、チェと彼の革命(の大義)が、広く国際的にも認知されていることを示すために、次のように述べています。

 チェとそのうち立てた稀有な範例は全世界で味方を増やしつつあった。彼の理想、そのイメージ、そしてその名前は、圧政と搾取の犠牲者たちが強いられた不正に抵抗する闘争の旗印となった。それは全世界の学生と知識人の間に熱烈な関心を呼び起こした。
 合衆国内でも、参加者の増大しつつある黒人(公民権)運動と進歩的学生運動が揃って、チェの人物像を彼らのものとして掲げている。公民権を要求する、あるいはヴェトナム侵略戦争に反対する最も闘争的なデモ行為において、彼のイメージは闘争のシンボルとして大々的に登場させられている。一人の人物が、一つの名前が、一例の模範像がこれほど迅速に、これほどの感動を伴い、これほどまでに全世界的な象徴として広まった例は、歴史上あったとしてもごくたまさかであり、あるいは存在しなかったかもしれない。これはチェが、今日の世界を特徴づけると共に明日の世界の目標ともなるべき国家を超えた精神を、最も純粋で最も無視無欲な形で体現しているからである。

 すでに、イタリアの出版エージェント、フェルトゥルネッリの制作した“英雄的ゲリラ”のポスターは、『ゲバラ日記』が刊行されるまでの間に100万枚以上を売り上げる大ヒット商品として全世界に拡散していました。また、それと並行して、フィッツパトリックのイラストによる“英雄的ゲリラ”も広く流布し、フランス5月革命では、学生たちは既存の体制に対する反抗の意思を示すアイコンとして“英雄的ゲリラ”を掲げ、その光景がメディアを通じて全世界に配信されていました。同様の現象は、米国内のベトナム反戦運動や公民権運動のデモ、1968年10月2日にメキシコで起きたトラテロルコ事件などにおいても観察され、“英雄的ゲリラ”は指数関数的に拡散していきました。

 したがって、『ゲバラ日記』の刊行の目的(のひとつ)が、革命勢力の国際的な連帯を呼びかけることにあるのであれば、当時の状況からして、その表紙に最もふさわしい題材は“英雄的ゲリラ”以外にはありえません。カストロのこの一文は、まさにそうした状況を説明したものだったのです。

 さて、きょうの報告では“英雄的ゲリラ”がどのように生まれ、流布していったか、そして、キューバのカストロ政権はそれをどのように活用し、“革命のキリスト”としてゲバラを神格化していったのか、さまざまな角度からお話ししてみたいと思ってます。メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも事前予約不要・・参加費無料で気楽にご参加いただけますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。


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 4月20日(土) 14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

      
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 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 プラヤ・ヒロン勝利記念日
2019-04-19 Fri 11:08
 きょう(19日)は、1961年4月19日にプラヤ・ヒロン侵攻事件でキューバが反カストロの亡命キューバ人部隊を撃退した記念日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・革命10周年(プラヤヒロン)

 これは、1969年にキューバが発行した革命10周年の記念切手のうち、“プラヤ・ヒロンでの勝利”を取り上げた1枚で、ラテンアメリカ人民の団結により撃退される“侵略者”が描かれています。

 1959年のキューバ革命後、米国とキューバの関係が日に日に悪化していく中で、1961年11月8日、アイゼンハワーからケネディへの政権交代を間近に控えた米国はキューバと断交し、ラテンアメリカ諸国の大半がこれに追随します。

 1960年の米国大統領選挙を通じて、民主党のケネディ、共和党候補のリチャード・ニクソンの両候補はいずれもキューバに対して“弱腰”ではないことを示すため、(その時期は明言しなかったものの)政権獲得後は軍事介入する意向を明らかにしていましたが、選挙後まもない1960年11月17日、大統領当選者のケネディに対して、CIA長官のアレン・ダレスは、亡命キューバ人がグアテマラ国内でキューバ上陸作戦のための軍事訓練を受けていることを報告。ケネディも計画をそのまま進めるよう指示を出しています。

 この時までに、革命を逃れてフロリダに渡ったキューバ難民の数は10万に達しており、CIAの計画は、そうした亡命キューバ人の中から有志を募り、革命政権転覆の尖兵として利用というものでしたが、じつは、キューバ側もその中にスパイを潜り込ませ、CIAの動きをかなり正確に把握していました。

 はたして、1961年1月20日、ケネディが正式に米国大統領に就任すると、キューバ政府は警戒態勢に入り、ゲバラはキューバ最西部のピナール・デル・リオに移動し、同軍管区を担当することになりました。侵攻が西側から、すなわち、大陸に最も近い海岸から行われるとすれば、彼の担当地域が最初に敵を迎え撃つことになります。

 ピナール・デル・リオに着任したゲバラは、前年の東欧諸国歴訪の体験を踏まえて、「ソ連をはじめ、全ての社会主義国が我々の主権を守るために戦争に入る必要があることは広く知られている」としたうえで、「我々は皆、我々がこれまで最も憎んできた敵、アイゼンハワーの後継者がわずかでも知的であることを望む」とケネディ宛のメッセージを発しました。

 1961年4月初旬、カストロは在米亡命キューバ人の中に潜入したスパイからの情報で米国の侵攻がいよいよ間近に迫っていることを察知し、潜在的な反政府勢力と見なした人々を一斉摘発。後にカストロはテレビ演説で「すべての容疑者、何らかの理由で事を起こす可能性のある者、反革命運動に与する行動あるいは動きを示す可能性のある者を逮捕するしかなかった。こうした手段を取る場合、いくらかの不当な行為があるのは当然だ」と弁明していますが、非常時を口実に、正規の法的手続きを踏まずに、体制にとって害をなす“可能性のある者”を逮捕した恐怖政治の先例は、その後、常態化していくことになります。ただし、この時点では、その点について米国以外の西側“進歩的文化人”が警鐘を鳴らすことは全くありませんでした。

 また、当時のキューバ島内では、中部エスカンブライ山中を拠点に、反政府勢力(その中には、カストロらとともに反バティスタの革命を戦ったものの、革命政府の“左傾化”に反対して、フィデルと袂を分かった人々も少なからずいました)がゲリラ闘争を展開していたため、カストロは、大規模な掃討作戦を展開し、エルカンブライ山中の反政府勢力を完全に包囲しています。キューバ島に上陸した敵が、山中の反政府勢力と提携する可能性を事前に摘んでおくためです。

 さらに、グアテマラ南西部のレタルレウでは、反カストロ軍の“2506部隊”にキューバの工作員が訓練キャンプに潜入し、隊長のペペ・サン・ロマンに対する叛乱も煽ったため、CIAによる上陸計画には遅延が生じ、その間、カストロはじっくりと対策を練ることができました。

 一方、CIAのプランでは、まず、キューバの空軍基地を爆撃して制空権を確保したうえで、米空母エセックスの掩護を受けた2506部隊2000人がエスカンブライ山麓のサパタ地区に上陸。橋頭保を築いたうえで、フロリダを拠点とする“革命評議会(その首班は、元首相のカルドナです)”が上陸し、臨時政府の樹立を宣言。米国と他のラテンアメリカ諸国が承認するという段取りになっていました。

 こうして、1961年4月10日、CIAに率いられた亡命キューバ人部隊約1500人はグアテマラからソモサ独裁政権下のニカラグアに移動。15日には、「カストロの鬚をお土産に」とのソモサの軽口を聴きながらニカラグアを飛び立ったB26戦闘機8機がキューバを爆撃し、コルンビア、サン・アントニオ・ボラーニョスとサンティアゴ・デ・クーバの空軍基地が爆撃されたほか、首都ハバナでは住宅密集地への爆撃により、病院の入院患者に死者が出ています。ただし、事前に攻撃を予想していたキューバ側は、滑走路にダミーないしは廃棄寸前の飛行機を置き、飛行可能な戦闘機は各地に分散して隠しておいたため、キューバの空軍兵力はほとんど無傷のままでした。

 空爆のあった当初、米政府は「爆撃は米国への亡命を希望する元キューバ空軍のパイロットによるものだ」と説明していましたが、真相はすぐに明らかになり、米国の事件への関与も明らかになってしまいます。

 翌16日、カストロは「真珠湾攻撃の時、日本政府は“攻撃していない”という嘘はつかなかった」として米国を非難。そして、米国との対決姿勢を鮮明に示すため、ついに、「キューバ革命は社会主義革命である」と宣言しました。

 これに対して、国際的な非難を恐れたケネディは、2回目以降の空爆を中止するよう、軍とCIAに命令しましたが、キューバ側の防衛力を過小評価し、事態を楽観視していた彼らは、当初の予定通り、4月17日、キューバ島中部南海岸のプラヤ・ヒロン(米側の呼称はピッグス湾)に2506部隊を上陸させます。

 これが、いわゆる“プラヤ・ヒロン侵攻事件”です。

 しかし、連絡の不備から、エセックスの艦載機が現場に到着したのは2506部隊の上陸から1時間後のことで(CIAが攻撃時間をニカラグアの現地時間で伝えたのに対して、米海軍はそれを1時間の時差があるワシントン時間で伝えるというミスを犯していました)、その間、キューバ側は虎の子のT33ジェット練習機4機で制空権を確保しつつ、民兵を動員して敵の侵攻を食い止めました。上陸部隊とキューバ側民兵の士気の差は歴然としており、19日午後5時半、革命軍はプラヤ・ヒロンを確保し、2506部隊は撤退しました。

 反革命軍の完全撤退を受けて、4月24日、フィデルはテレビに出演して勝利演説を行いましたが、その中には、次のようなフレーズもありました。

 ケネディは「わが国の海岸から160キロのところで社会主義革命が起きるのを許すことはできない」といったが、我々は海岸から160キロのところに資本主義国家があることに耐えている。
 国が大きいからといって小国との紛争を解決するのに実力を用いる権利があるわけではない。

 プラヤ・ヒロン湾侵攻事件は、“アメリカ大陸における帝国主義の初めての敗北”であり、米西戦争以来、百年の恨みを晴らしたカストロの権威は、キューバ国内のみならず、全世界の反米=左派勢力にとって揺るぎないものとなりました。同時にそのことは、キューバ国内において、カストロに対する異論・反論を完全に封じ込める結果ももたらしています。

 なお、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』では、プラヤ・ヒロン事件とその関連の切手・絵葉書も、いろいろとご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 切手に見るソウルと韓国:ソウルの大気汚染
2019-04-18 Thu 02:16
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『東洋経済日報』3月15日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、ソウルの大気汚染が深刻だった時期の掲載でしたので、こんな切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・大気汚染防止(1979)

 これは、1979年6月に発行された“大気汚染防止”のキャンペーン切手です。

 韓国では“漢江の奇跡”と呼ばれる経済成長は1960年代後半から始まっていましたが、1960年代の輸出振興が軽工業中心だったのに対して、1970年代以降、重化学工業中心の経済政策に転換されたことで、石炭や石油などの化石燃料が大量に消費され、二酸化硫黄などの排出による環境問題も深刻になりました。

 このため、当時の朴正熙政権は、1971年に公害防止法を大幅に改正し、公害防止のための最小限の命令・強制方式の環境政策が始まります。ただし、この時点では、経済成長が優先されていたこともあって、汚染排出基準はかなり緩やかで保険社会部の行政命令も執行されませんでした。その後、経済成長に伴い、環境汚染がより深刻になったことから、1977年には環境保全法が制定されます。同法は、1年余の施行過程での不備を修整・保管して1979年に改正されましたが、こうした環境意識の高まりを反映して、1979年6月には今回ご紹介している宣伝切手も発行されたわけです。

 1979年10月に朴正熙大統領は暗殺されましたが、環境法の理念は継承され、全斗煥政権発足後の1981年には環境庁が発足します。

 しかし、政治的な混乱が続いたこともあり、大気汚染の状況はなかなか改善されず、1977年に27%だった大気汚染による呼吸疾患者は、1983年には43%にまで増加しました。

 このため、1988年のソウル五輪を控えた政府は、大気汚染改善のため、精油所に脱硫装置を本格的に導入するなどの対策を講じたため、二酸化硫黄による大気汚染は大幅に改善されました。その後、政府による規制は一酸化炭素や二酸化窒素などへも拡大され、工場や発電所等の固定汚染源に由来する大気汚染は改善されたとされています。

 この成功を受けて、五輪後の1990年、環境庁は環境処に昇格、さらに1994年には環境部に昇格し、環境法・制度の整備が進められました。しかし、韓国の環境規制は必ずしも厳格な運用が行われているわけではなく、十分な成果を上げているとはいいがたいのが実情です。

 特に、2000年代以降、国民の生活水準向上に伴い、個人所有の自動車が増加したことによる排ガス汚染問題が人工密集地域で悪化。毎年春のpm2.5(有害物質を含む微小粒子状物質)など、複合型の大気汚染問題が深刻になり、2017年に当選した文在寅大統領は、大統領選挙の期間中。「pm2.5の30%削減」を公約に掲げ、「就任と同時に中国の習近平・国家主席にpm2.5対策を要求する」と語っていました。

 ところが、その後も事態は一向に改善されず、ことし1月13日には、ソウルのpm2.5の平均濃度は1立米あたり79マイクログラムを記録。政府基準で「とても悪い」の1立米あたり75マイクログラムを上回ったため、非常低減措置が発令され、政府はマスク着用や不急不要の外出を避けるよう呼びかけることになりました。

 さらに、ことし3月5日夕方の時点で、国際調査機関による都市別汚染度ランキングでは、ソウルが1位、隣接する仁川が2位にランクされるなど、状況はさらに悪化しています。

 ちなみに、大統領が中国に対策を要求すると語ったように、韓国内では、「汚染物質の大半は中国から飛来した」とする主張も根強いのですが、同日のランキングでは、“発生源”とされる北京は58位ですから、ソウルの汚染が北京に影響を及ぼすことはあっても、その逆は考えにくいのが実情です。

 こうしたこともあって、今月17日付の『朝鮮日報』によると、韓国の国会環境労働委員会の金学容委員長(自由韓国党)ら与野党議員8人が先月末、中国の生態環境省と全国人民代表大会(全人代)常務委員会を訪問し、汚染物質の低減策について協議したいと提案したものの、あっさり拒否されていたそうです。

 いずれにせよ、大気汚染の原因については、人口に膾炙している中国原因説のほか、国内の火力発電所やディーゼル車の影響、さらには、サバの塩焼きなどの諸説が出てますが、ともかくも、まずは汚染の原因と発生・拡大のメカニズムをきちんと解明しないことには、どうにもなりませんね。


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 ノートルダム大聖堂が炎上
2019-04-17 Wed 00:58
 日本時間の16日午前2時(現地時間15日19時)頃、パリのノートルダム大聖堂で火災が発生。大聖堂のシンボルである尖塔が焼け落ち、大聖堂の屋根の3分の2が焼失しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      フランス・ノートルダム大聖堂(1948)

 これは、1947年にフランスが発行した慈善切手のうち、パリのノートルダム大聖堂を描く1枚で、今回の火災で焼け落ちた尖塔もしっかりと描かれています。

 ノートルダム大聖堂のあるパリ・シテ島の敷地は、ローマ時代にはローマ神話の主神とされるユピテル(ジュピター)の神域とされていた場所ですが、ローマ帝国の崩壊後、キリスト教徒によって教会堂が建設されたのがカトリックの教会施設としての最初です。

 “ノートルダム”はフランス語で“われらが貴婦人(=聖母マリア)”を意味する語で、現在の大聖堂としては、1163年、国王ルイ7世臨席の下、ローマ教皇アレクサンドル3世が礎石を据えて着工。建築工事の大半は司教モーリス・ド・シュリーとその後継者オドン・ド・シュリーが指揮を執って進められ、1225年までにバラ窓の層までが完成しました。その後も工事は続けられ、1345年、最終的に全長127.50m、身廊の高さは32.50m、幅は12.50mの大聖堂が完成しました。

 1789年のフランス革命に際しては、宗教を否定する革命派が大聖堂を“理性の神殿”として破壊・略奪が繰り返され、1793年には西正面の3つの扉口および、王のギャラリーにあった彫刻の頭部が地上に落とされました。また、この間の1792年には、倒壊の危険があるため、尖塔も撤去されています。

 こうして廃墟と化した大聖堂でしたが、1804年には皇帝ナポレオンの戴冠式が行われ、さらに、ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』の出版により、フランス国民全体に大聖堂復興の気運がもりあがったことで、1843年、政府による大聖堂の全体的補修が決定されました。修復工事は1844-64年にかけて行われ、このとき尖塔も以前よりも約10m高く再興されました。

 近年では、着工850周年記念事業として、2013年に北塔と南塔の鐘の鋳造やノートルダム大聖堂前の広場の整備、屋内照明の改修などが行われています。

 その後、老朽化に伴い壁に亀裂が入っていたため、2018年、フランスのカトリック教会が改修工事のために寄付を募り、火災発生時には改修工事が行われている最中でした。

 被害の全容把握などはこれからとのことですが、一日も早い復興・再建をお祈りしております。


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 フィンランド、政権交代へ
2019-04-16 Tue 03:03
 フィンランドで、今月14日、任期満了に伴うフィンランド議会(一院制、定数200)選挙の投開票が行われ、社会民主党が得票率17.7%(割り当て議席数は40)で第1党になり、2003年以来、16年ぶりに社会民主党首班の左派政権が誕生する見込みです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      フィンランド・議会100年

 これは、2006年にフィンランドが発行した“議会100年”の記念切手です。

 ナポレオン戦争中の1809年、ロシア帝国はフィンランドを獲得。ロシア皇帝がフィンランド大公を兼ねる同君連合として、フィンランド大公国が創設されました。これに対して、欧州諸国の1848年革命以降、フィンランド人の間でも、絶対主義に固執するロシア政府に対して独立を求めるナショナリズムが高揚し、1863年からはフィンランド議会が定期的に招集されるようになります。

 1899年、ロシア皇帝ニコライ2世は二月詔書を発してフィンランド人の自治を剥奪し、フィンランド語を禁止してロシア語を公用語として強要する強攻策を取ります。このことは、フィンランド人の強い反発を招き、日露戦争のさなかの1904年6月17日、民族主義者オイゲン・シャウマンによるフィンランド総督ニコライ・ボブリコフの暗殺事件が発生。1905年には第一次ロシア革命が起こったこともあり、ニコライ2世は、フィンランドの自治権廃止を撤回せざるを得なくなりました。

 この結果、一院制議会であるエドゥスクンタが成立し、1906年、世界で初めて、女性に参政権と被選挙権を同時に認めた普通選挙で議員が選出されました。今回ご紹介の切手は、ここから起算して100周年になるのを記念して発行されたものです。

 1917年のロシア2月革命を受けて、ロシア皇帝兼フィンランド大公のニコライ2世が同年3月15日に退位すると、フィンランド側はロシアとの同君連合は法的基礎を失ったとして、ロシア臨時政府とも交渉。 フィンランド議会は「権力法(ヴァルタラキ)」を成立させ、フィンランド議会が外交と軍事を除く立法権を握ることを規定しましたが、ロシア臨時政府はこれを認めず、フィンランド議会を解散してしまいます。

 しかし、ロシア10月革命後の1917年11月15日、ボリシェヴィキはロシア人権宣言で「全ロシア人民」の完全分離を含む民族自決権を認めたため、同日、フィンランド議会は一時的にフィンランドの主権を受け取ることを宣言。同月27日に発足したペール・エヴィンド・スヴィンフッヴド内閣は、12月4日、独立宣言案と共和制の制度案を議会に提出し、12月6日、議会がこれを承認。この日がフィンランドの独立記念日となりました。

 現行のフィンランド議会は一院制で、任期は4年(解散有)。議員は、200議席を15の選挙区に分け、比例代表制選挙で選出され、現役で兵役義務のある軍人と、高位の司法官を除いて、18歳以上のすべての国民に被選挙権があります。

 1906年の議会創設以来、首相は国民連合党、中央党、社会民主党から選ばれていましたが、1916年に社会民主党が103議席を取ったのを唯一の例外として、いずれの党も現在までに単独過半数を得たことはありません。今回の選挙結果でも、第1党の社会民主党についで、反移民を掲げる右派のフィン人党が得票率17.5%(同39)で改選前の17議席から大きく躍進して第2党に、連立与党を組んでいた国民連合と中央党の得票率はそれぞ17%と13.8%となっており、社会民主党を筆頭とする左派勢力3党は76議席を獲得したものの過半数には足りないため、今後、中道政党を取り込むための連立工作が進められることになります。


★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★

 4月20日(土) 14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

      
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 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 太陽節
2019-04-15 Mon 01:52
 きょう(15日)は、1912年4月15日に金日成が生まれた(とされる)ことにちなんで、北朝鮮では“太陽節”の祝日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      キューバ・北朝鮮国交50年

 これは、2010年にキューバが発行した“キューバ=朝鮮民主主義人民共和国外交関係50周年”の記念切手で、金日成と並ぶフィデル・カストロの写真が取り上げられています。

 キューバと朝鮮半島の関係は、1921年5月25日、1905年に仁川からメキシコへ渡った朝鮮人移民の一部が砂糖労働者としてキューバ島へ渡ったのが最初です。その後、1948年に南北両政府が発足すると、当時の親米政権は韓国と国交を樹立しましたが、1959年の革命を経て、カストロ政権は1960年8月29日、北朝鮮と国交を樹立しています。今回ご紹介の切手は、ここから起算して50周年になるのを記念して発行されました。

 1960年10月、チェ・ゲバラを団長とするキューバ外交使節団が経済支援を求めて東側諸国を歴訪しましたが、その一環として、同年12月2日、中国との協定を調印した使節団は二手に分かれ、北朝鮮と北ヴェトナムに向かいました。このうち、団長のゲバラは北朝鮮に向かい、平壌で数千の群衆に歓呼のうちに迎えられています。

 ゲバラが行き先として北朝鮮を選んだのは、以前から、読書経験を通じて北朝鮮に興味を持っていたということに加えて、当時の北朝鮮当局が、朝鮮戦争からの復興が順調に進み、経済的に韓国を凌駕していると大々的に宣伝していたという事情もあったと思われます。
 
 12月2日に平壌入りした一行は、翌3日、金日成と会見。6日には協定を調印してモスクワに戻っていますが、その慌ただしい日程の中でも、ゲバラは「(北朝鮮の)都市には何もない」、「工業は破壊され、動物は死に、一軒の家も残っていない」、「北朝鮮は死でできている国だ」と、北朝鮮の印象を書き記しています。

 1962年10月のいわゆるミサイル危機は北朝鮮にも大きな衝撃を与え、同年末の朝鮮労働党中央委員会全員会議では「国防建設と経済建設の併進路線」が採択され、1961年から開始されていた7ヵ年計画を後退させても、国防力を増強することが決定されました。当時、北朝鮮当局は“併進”の建前の下、国防建設によって国民経済を犠牲にするわけではないと強調していましたが、実際には、経済建設を犠牲にして国防建設が優先されていきます。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた写真は、1986年、カストロが平壌を訪問した際に撮影されたものです。カストロの証言によれば、当時、金日成は軍事援助として10万丁のAK-47をキューバに送っており、これに応えて、キューバはソウル五輪をボイコットし、北朝鮮が開催した第13回世界青年学生祭典に参加しています。

 また、近年では、2013年7月15日、北朝鮮の貨物船・清川江号が、キューバから北朝鮮へ向かう途中、違法薬物類を運んでいるという通報を受けたパナマ当局によって抑留され、船内を捜索した結果、25万袋のブラウン・シュガーの下にミサイル等が隠されていたことが明らかになったのは、記憶に新しいところです。これに対して、キューバは船内にあったのは北朝鮮へ修理のために送られた“旧式の武器”であると表明。たしかに、船内から発見された対空ミサイル統制装置2器、防空ミサイルの部品9本分、戦闘機MiG-212機のエンジン15基などは、いずれも20世紀半ばに製造されたソ連製のものでした。ただし、北朝鮮へのいかなる武器の持ち込みも持ち出しも国連決議に反していますから、2014年3月の国連安保理・北朝鮮制裁委員会の年次報告書では、大量の武器を搭載した北朝鮮船「清川江号」について「(安保理決議が初採択された)2006年以降、最大の武器取引だった」と指摘した上で安保理決議違反と断定しています。

 もっとも、その後も北朝鮮とキューバとの友好関係は維持されており、2016年1月には両国間でバーター協定が結ばれただけでなく、朝鮮労働党キューバ共産党の間で関係を強化するための会談が行われました。また、同年11月25日、フィデル・カストロが亡くなった際には、北朝鮮は3日間の喪に服すことを宣言し、金正日が自ら平壌のキューバ大使館を弔問に訪れています。こうしたこともあって、2018年、ラウル・カストロに代わって国家評議会議長‎に就任したミゲル・ディアス=カネルも、就任早々の外遊で北朝鮮を訪問しています。

 なお、キューバと北朝鮮の歴史的な関係については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 クメール正月
2019-04-14 Sun 01:30
 きょう(14日)は、インドシナ諸国では伝統的な暦で新年にあたります。というわけで、カンボジアの“クメール正月”に関する切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      カンボジア・クメール正月

 これは、1960年にカンボジアで発行された“ボン・スロン・タック・プレア(クメール正月の水かけの儀式)”の切手です。

 カンボジアを含むインドシナ諸国では、もともと、春に太陽が白羊宮に入る日をもって新年のスタートとしていました。当然のことながら、その日附はグレゴリオ暦では年により異なるのですが、現在では、4月14日が伝統的な暦の新年として固定されています。

 カンボジアのクメール正月の期間は、4月14-16日の3日間で、初日の14日(モハサンカラン)は、新旧の神が交代する日で、人々は身を清め、お盆の上に花や果やお菓子を載せて家の前に置き、寺院に参拝します。2日目の15日(ヴィラク・ワンナバット)は、貧しい人や体の不自由な人に施しを行う日で、3日目の16日(ヴィラク・ルンサク)に水かけの儀式が行われます。

 水かけの儀式では、まず、敬意を込めて仏像にお清めの水を、ついで、白いベビーパウダーまでふりかけます。その後、参加者は、今度は一列に並んだ僧に1人ずつ水をかけます。僧への水かけが終わると、今度は僧が読経しながら人々へ水をふりかけ、人々は合掌して祈りながら水をかけてもらうのが伝統的な段取りです。ただし、現在では、そうした寺院での儀式とは別に、街中で旅行者を含めて互いに水を掛け合うイベントも盛んに行われています。

 本来、在家の信者が僧に水をかける際には、履き物を脱いで裸足になるのがマナーなのですが、今回ご紹介の切手では、僧に水をかけているのが、傘をさす侍従を従えたコサマック王妃(シソワット・コサマック・ニヤリリヤット)であるため、例外的に靴を履いた姿となっています。

 シソワット・コサマック・ニヤリリヤットは、1904年、シソワット・モニヴォン王の娘としてプノンペンで生まれました。1920年、いとこのノロドム・スラマリットと結婚。1941年、父王の死後、息子のシハヌークが国王に即位しましたが、1953年のカンボジア独立を経て、1955年、シハヌークは政務に専念するために退位。このため、代わりにスラマリットが国王として即位したため、コサマックも王妃となります。

 1960年、スラマリットが崩御すると、カンボジア国王は空位となり、シハヌークが新設の“国家元首”に就任。皇太后となったコサマックは国王の“象徴”として国王に準じる待遇を受けました。1970年、シハヌークの外遊中に発生して政変で王制が廃止され、シハヌークは北京に亡命した後も、彼女は王宮に留まっていました。しかし、1973年、彼女も北京に渡り、1975年、クメール・ルージュによるプノンペン陥落の直後、滞在先の北京で病死しました。


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 世界の国々:アンゴラ
2019-04-13 Sat 03:16
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2019年3月13日号が発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はアンゴラ(と一部トーゴ)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      アンゴラ・独立記念切手

 これは、1975年に発行された“アンゴラ独立”の記念切手を貼り、“アンゴラ解放人民運動(MPLA)創立19周年”の記念印を押したオンピースです。

 アフリカにおけるポルトガル領植民地の独立運動は、ポルトガル領ギニア出身のアミルカル・カブラルが、リスボンの農業経営学院(現リスボン工科大学)在学中の1945年、アンゴラ出身の医学生アゴスティーニョ・ネトに出会ったことから始まったとされています。

 第二次大戦後、世界的に植民地の独立運動が盛んになる中で、ポルトガル本国の独裁者サラザールは独立運動を徹底的に押さえ込むべく、アンゴラを含む多くのポルトガル領を植民地から“海外県”に変更し、本国との“対等な立場”が強調しました。

 これに対して、1952年、ポルトガル領ギニアに戻ったカブラルは、1954年、独立運動を行ったかどで一時アンゴラに追放されます。このことはアンゴラの民族主義にも大きな刺激となり、1953年、アンゴラでは独立を唱える初の民族主義政党として“アンゴラのアフリカ人のための統合抗争党(PLUA)”が結成されたほか、1954年には北アンゴラ人民連合が結成され、アンゴラ外周部を含む歴史的コンゴ王国の領域の独立を主張するようになります。

 また、1955年、ジョアキムとマリオのピント・デ・アンドラーデ兄弟がアンゴラ共産党(PCA)を結成。さらに、1956年9月、カブラルがアンゴラで独立運動団体としてギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を結成すると、アンゴラの独立諸派も統合の機運が進み、同年12月、カブラルとネトを軸として、PLUA とPCAは統合して、“アンゴラ解放人民運動(MPLA)”が結成。当初、MPLAはポルトガルの平和的な撤退を求める穏健な独立運動を展開していました。

 そうした状況の下、1961年1月3日、マランジェ州のバイサ・デ・カッサンジェ地方の小作農達が労働条件の改善を求めて、コトナング(英独の投資の下、ポルトガル人が経営していた企業)の綿農園でボイコットを起こすと、翌4日、ポルトガル軍はナパーム弾を用いて現地住民を400人以上殺害し、叛乱を鎮圧します。

 これに対して、2月4日、ネトらによって率いられたMPLAの50人が政治犯の解放を求めて首都ルアンダの刑務所を襲撃。MPLAは40人が死亡し、囚人の解放には失敗したものの、7人の警察官を殺害しました。

 MPLAの活動に対して、1961年3月15日、反共を掲げるアンゴラ人民同盟(UPA。主体は北部のコンゴ人)は、ホールデン・ロベルトの下、4-5000の軍がコンゴからアンゴラに侵入。UPA軍は農地や植民者居留地、商業地域を奪い公務員や市民を殺害しました。その犠牲者は、大半が中央高地から来たオヴィンブンド人の契約労働者だったとされています。以後、アンゴラ独立運動が本格化。1961年だけで2-3万人のアンゴラ人市民が殺害され、4-50万人がコンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル)に避難しました。

 ポルトガル側の掃討作戦により、UPAはアンゴラから逃れ、コンゴ軍の実力者モブツ・セセ・セコと米国、さらにイスラエルの支持を得てレオポルドヴィル(現キンシャサ)に拠点を移します。UPAはレオポルドヴィルで他の組織と合併し、アンゴラ民族解放戦線(FNLA)として再編され、同地に亡命アンゴラ政府を樹立しました。

 一方、1961年2月の蜂起失敗後、MPLAもレオポルドヴィルに逃れ、レオポルドヴィルでFNLAとの組織統一を訴えましたが、FNLAの攻撃を受け壊滅の危機に陥ります。このため、MPLAは1963年中にレオポルドヴィルを退去してコンゴ共和国(コンゴ・ブラザヴィル)のブラザヴィルに本部を移転し、ソ連やキューバの支援を受けて闘争を継続しました。

 さらに、部族主義的な体質の強かったFNLAのジョナス・サヴィンビは、1966年3月、中国の支援を受け、アンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)を結成。MPLAと対立します。

 こうして、アンゴラでは独立を目指す諸派の対立抗争も交えながらの独立戦争が続いていましたが、1974年4月、リスボンでカーネーション革命が発生し、革命政権がアフリカ植民地での全軍事行動を止め独立を認めると宣言したことで局面が転換。1975年1月、ポルトガル政府とUNITA、MPLA、FNLAがアルヴォー合意に署名し、同年11月11日、アンゴラ人民共和国の独立が達せられました。

 しかし、ソ連とキューバの支援の下、首都を掌握する最大勢力のMPLAと、ザイール(1971年、コンゴ共和国から改称)の支援を受けるFNLAの対立は根深く、東西冷戦の文脈で米国がFNLAを支援。さらに、米国はMPLAを敵視する南アを通じてUNITAを支援し、ソ連と対立していた中国もこれに同調するなど、独立後のアンゴラは諸外国をも巻き込んだ泥沼の内戦に突入していくことになります。

 さて、『世界の切手コレクション』3月13日号の「世界の国々」では、アンゴラ独立運動史についてまとめた長文コラムのほか、ンジンガ女王、文学者としてのネト、ぺドラス・ネグラスの奇岩の切手などもご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当ですが、今回のアンゴラ(と一部トーゴ)以降は、3月13日発売の同20日号でのコロンビア(と一部パラグアイ)、4月10日発売の同17日号でのブルガリアの特集となっています。これらについては、順次、このブログでもご紹介する予定です。


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 スーダンで軍事クーデター
2019-04-12 Fri 03:51
 昨年末からオマル・バシール(バシルとも)大統領の退陣を求める反政府デモが拡大していたスーダンで、昨日(11日)、軍事クーデターが発生。アフマド・アワド・イブンオウフ国防相は、国営テレビを通じ、バシール氏を大統領から解任し、拘束していることを明らかにするとともに、憲法を停止して“暫定軍事評議会”を設置し、今後2年間にわたり国家を統治したうえで、民政移管のための大統領選挙を実施すると発表しました。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      スーダン・軍事電信切手

 これは、1898年にスーダンで発行された軍事電信切手で、ラクダに乗って行軍する黒人兵が描かれています。先の国防相の発表では、現在、軍は国境を閉じるとともに、24時間は空域も閉鎖するとのことで、ハルトゥームでは軍や治安部隊兵士が国防省や主要な道路・橋の付近に展開しているそうです。そうした都市部の軍は自動車や戦車を使って移動しているのでしょうが、道路が未整備な国境地帯の一部では、今回ご紹介の切手のように、昔ながらのラクダ兵が展開しているケースもあるのかもしれません。

 さて、今回失脚したバシール前大統領は、1944年、現在のスーダン・北部州のホシュ・バンナガで、アラブ系スーダン人の家庭に生まれ、首都ハルツームで中等教育を受けた後、独立後の1960年、スーダン軍に入隊。1966年にカイロに留学して士官学校を卒業した後は、落下傘部隊で士官を務め、1973年の第四次中東戦争にはエジプト軍の一員として従軍しました。

 その後は、スーダン国軍で昇進を重ね、UAE駐在武官(1975-79年)、部隊司令官(1979-81年)、ハルトゥームの機甲落下傘旅団長(1981-87年)を歴任。1983年、第二次スーダン内戦が勃発すると、1989年、民族イスラム戦線のハサン・トラービーと手を結んで軍事クーデターを成功させ、政権を掌握。すべての政党や労働組合などを禁止し、報道管制を敷いて議会を解散し、救国革命指導評議会を設けて、自ら国家元首、首相、軍司令官、防衛相を兼務しました。

 1991年には、キリスト教や伝統宗教が普及している南部にシャリーア(イスラム法)を強要し、南部の村を空爆し住民を奴隷化するなどして、北部対南部の内戦を拡大させました。また、トラービーの影響でイスラム原理主義政策を行っていたことから、国際テロ組織アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン・ラーディンら多数のテロリストがスーダンを拠点としたことから、1993年にはテロ支援国家に指定されています。

 さらに、2003年以降、いわゆるダルフール紛争では民兵に約7万人を虐殺させ、2万人以上の難民を発生させたことから、2009年2月には、現職の国家元首として初めて、オランダ・ハーグの国際刑事裁判所から、ダルフールにおける人道に対する罪、ジェノサイド罪で起訴され、逮捕状が出されています。

 2011年に南スーダンが分離独立した後も、バーシルの独裁体制は長らく維持されてきましたが、2018年12月19日、政府がパンの値段を3倍に引き上げたことをきっかけとして複数の州で抗議デモが発生。政権側はこれを力ずくで抑え込もうとしたものの、食料価格の高騰だけでなく、燃料や外貨の慢性的な不足を招いた経済失政の非難も加わり、大統領の退陣を求める反政府運動が全土に拡大していました。

 これに対して、バシール政権は、2019年2月23日、スーダン全土に1年間の非常事態宣言を発令。翌24日にはジャジーラ州知事のモハメド・ターヒル・アヤラを新首相に任命したうえで、25日には無許可での会合や集会を禁止したほか、国民や統治体制に悪影響を及ぼすと当局が判断したニュースについて、ソーシャルメディアを含むあらゆる媒体での公開を禁じるなどの強硬策を打ち出しました。

 しかし、長年の圧政に対する国民の怒りは収まらず、4月6日にはデモ隊が軍本部前に到達。4月8日、デモを主導する自由・変革同盟が軍に対し、暫定政府樹立に向けた直接協議の開始を呼び掛けます。こうした状況の下、バシール政権与党、国民会議もデモ鎮圧に加わることを拒否するなど、バシール大統領の孤立が深まっていくなかで、きのう(11日)の軍事クーデターとなったわけです。

 クーデターを受けて、バシール体制を支えてきた国家情報治安局は、全土で政治犯を釈放すると発表するなど、一部、“民主化”に向けた動きも始まっているようです。ただし、スーダンでは、1956年の独立以来、クーデターと内戦が繰り返されており、今回も民主化が実現できるかどうかは不透明です。

 いずれにせよ、今回のスーダンの政変は、最近のアルジェリアの混乱と併せて、2011年の“アラブの春”再現のきっかけになる可能性もあるわけで、しばらくは事態を注視しておく必要がありそうです。


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 ILO創立100周年
2019-04-11 Thu 02:13
 1919年4月11日、パリ講和会議で国際労働機関(ILO)憲章の草案が採択されてから、ちょうど100周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ILO50年

 これは、1969年に発行された“国際労働機関50年”の記念切手です。

 1918年に第一次世界大戦が終結すると、戦争への反省や大戦中に発生したロシア革命の影響から、戦後世界の平和を維持するためには社会正義の確立が必要であり、そのためには、労働者を保護し、貿易競争の公平性を維持することで不正・困苦・窮乏を解消しなければならないとの気運が世界的に盛り上がり、国際的に協調して労働者の権利を保護するべきとの考えが広がりました。そこで、1919年4月11日、パリ講和会議において国際連盟の姉妹機関としての国際労働機関の設立が合意され、「普遍的で持続的な平和は社会正義によってのみもたらされる」と記されたヴェルサイユ条約第13編が採択されました。これが、ILO憲章の草案となります。

 その後、同年10-11月、日本を含む原加盟国43ヵ国がワシントンに集まって、第1回総会(設立総会)が開催されてILOは正式に発足。本部はジュネーブに置かれました。

 ILOのおもな任務は、国際労働基準と呼ばれる条約と勧告の採択・普及にあります。加盟国は、総会で採択された条約を1年以内に権限ある機関(日本では国会)に提出し、批准した条約についての年次報告の提出と監督を受ける義務を負います。ただし、加盟国には全ての条約を批准する義務はなく、批准していない条約については、理事会の指示にしたがって自国の法令の状態、批准をさまたげている理由などを報告すればよいことになっています。ちなみに、2018年8月の時点で、ILOには、189の条約(うち撤回・廃止11、棚上げ19)と205の勧告(うち撤回36、置き換え22)がありますが、わが国が批准しているのは、そのうちの49条約にとどまっています。

 わが国は、ILOの原加盟国でしたが、途中、1938年に脱退。1951年、サンフランシスコ講和条約の調印時に、国際連合の専門機関となっていたILOに復帰しました。

 さて、1969年は、上記のようなILOの創立50周年に当たっており、ILO本部は加盟各国に対して記念切手の発行を要請していました。これを受けて、1969年1月23日、昭和44年度の特殊切手発行計画を審議した郵政審議会専門委員打合会では、ILO創立50周年の記念切手発行が決定されました。

 記念切手の発行日については、ILOの創立記念日(=ILO憲章草案の採択記念日)である4月11日や記念式典の行われる10月29日なども候補に上がりましたが、最終的に、サンフランシスコ講和条約の調印を受けてわが国が再加盟を果たした記念日の11月26日となりました。

 発行された切手は、ILO50周年のマークをつけたヘルメットをかぶった労働者の横顔を描いたもの(報道発表では“働く人”と説明された)で、原画作者は渡辺三郎です。


 ★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★

 4月20日(土) 14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

      
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 エミリアーノ・サパタ没後100年
2019-04-10 Wed 02:43
 メキシコの革命家、エミリアーノ・サパタが1919年4月10日に暗殺されてから、ちょうど100周年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      メキシコ・農地改革50年

 これは、1966年1月10日にメキシコが発行した“農地改革法50周年”の記念切手のうち、“土地および自由(Tierra y libertad)”の旗(ただし、切手では“土地”の部分しか描かれていませんが)を掲げるサパタの肖像を取り上げた1枚です。

 サパタは、1879年8月8日、ポルフィリオ・ディアス独裁体制下のメキシコ、モレロス州アネネクイルコ村でインディオの血の濃いメスティーソ(白人との混血)として生まれました。生家は比較的裕福な小農でしたが、1909年、村の防衛委員会の委員長に選出されると、モレロス州のインディオの権利運動に没頭。当初は州知事への西岸など穏健な活動を行っていましたが、政府や地主層の反応の鈍さに苛立って武装闘争を開始し、官憲から追われる身となります。

 1910年の大統領選にはフランシスコ・マデロが反ディアス勢力を結集し立候補しましたが、選挙の直前、マデロは反乱煽動の罪で逮捕、収監され、ディアスが再選されます。大統領就任式後の同年10月、マデロは恩赦で釈放され米国に亡命しましたが、亡命先のテキサスで、選挙結果は不正があったとして反ディアス派に一斉蜂起を呼びかけました。

 これに呼応して、11月以降、各地で武装蜂起が発生。サパタもこれに呼応して、1911年3月モレロス州の南部解放軍を率いてアヤラを襲撃します。その後、各地の反ディアス派の闘争に抗しきれなくなったディアスは、1911年5月、大統領を辞任し、フランスに亡命しました。

 でい明日政権の崩壊を受け、6月、マデロがメキシコ市に入ります。サパタは、南部解放軍の指導者としてマデロと会談し、インディオへの土地の返還を要求しましたが、マデロはこれを拒否しただけでなく、サパタ派の武装解除を要求。会談は物別れに終わり、サパタは反マデロの武装闘争を開始。1911年11月には、①ディアス独裁政府によって不法に奪われた土地を即時前所有者に返還する、②大土地所有者の所有地の三分の一を買い上げ、土地不足の農民や共同体に与える、③この計画に反対する反動地主の土地はすべて無償没収する、ことを骨子とする「アヤラ綱領」を発表し、メキシコ革命の最も急進的な指導者となりました。

 1913年2月、マデロが右派のビクトリアーノ・ウエルタ将軍の反革命によって逮捕・殺害されると、サパタは“敵の敵”という観点からマデロの後継者、ベヌスティアーノ・カランサに協力して武装闘争を展開し、北部を拠点とする農民軍、護憲革命軍北部師団のフランシスコ・ビリャ(パンチョ・ビリャ)と連携してウェルタを追放。1914年12月、メキシコ市の大統領府に入り、政権中枢に加わりました。

 しかし、行政実務の経験が全くないうえに、理想主義的な急進改革を主張するサパタは次第に政府内部で孤立。1915年1月には、サパタ派は政府軍の前に敗走し、サパタも農村に戻りました。ところが、下野後も革命家として人気の高かったサパタを危険視したカランサは、1919年4月10日、サパタ派に合流する風を装った政府軍将校をサパタのもとに送りこみ、彼を謀殺してしまいます。

 ちなみに、今回ご紹介の切手は、1915年、カランサ政権下で施行されたメキシコ発の農地改革法から起算して50周年になるのを記念して発行されたものですが(ただし、実際の切手発行は1965年には間に合わず、1966年にずれ込んでいますが、この時の農地改革法はきわめて不十分なもので、サパタの提唱した「アヤラ綱領」の理念が法律に盛り込まれたのは、1917年革命憲法が最初です。さらに、実際に実効性のある農地改革が(一部)実行に移されたのは、1934年に発足したラサロ・カルデナス政権下でのことでした。


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 サイ密猟者、ライオンの餌に
2019-04-09 Tue 01:57
 南アフリカ共和国(以下、南ア)のクルーガー国立公園で、サイの密猟者の男がゾウに踏みつぶされて死亡し、その死体をライオンに食べられていたことが、きのう(8日)、公園当局によって明らかにされました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      南ア・クルーガー国立公園(1964)

 これは、南アで発行された“クルーガー国立公園”の絵入りはがきのうち、公園内のライオンを取り上げた1枚です。

 南ア北東部のリンポポ州とムプマランガ州にまたがるクルーガー国立公園は、南北360km、東西65kmの広大な自然公園で、北側はジンバブエ、東側はモザンビークとの国境に接しています。

 現在のクルーガー国立公園の地域については、旧トランスヴァール時代の1895年、ヤコブ・ルイス・ヴァン・ウィックらによっては鳥獣保護区にしようとする活動が開始されたことを受け、1898年3月26日、トランスヴァール共和国首相のポール・クルーガーによって“サビ鳥獣保護区”として国定鳥獣保護区とすることが宣言されました。なお、当時の領域は、現在の自然公園の南側の約3分の1に限られていました。

 その後、1903年にはサビ鳥獣保護区と隣接する地域が“シンウェジ保護区”に設定され、1926年、両保護区が合併してクルーガー国立公園が誕生しました。

 観光客の来訪は、1923年、南アフリカ鉄道の周遊ツアーの一部として、ポルトガル領モザンビーク国境のコマチプールトからリンポポ州に入り、サビ橋(現スククザ)でレンジャーの先導の下、藪の中に入る体験が組み込まれたのが最初で、1927年以降、国立公園の敷地内を自動車でめぐる観光客が激増しました。

 第二次大戦後の1959年、病気の蔓延や密猟者の侵入を防ぐため、クロコダイル川に沿った南側の境界からフェンスの設営工事が始まり、ついで、西側から北側、モザンビークに隣接する東側の境界にフェンスが設けられました。また、公園北側のマクレケ地域は先住民のマクレケ人の土地でしたが、1969年、南ア政府は彼らを公園外に移住させています。

 1994年にアパルトヘイトが撤廃されると、1996年、南ア政府は、国立公園内北側の198.42平方キロについて、マクレケ人の地権を承認。これを受けて、マクレケ人は公園内の故地に“帰還”するのではなく、該当する敷地にキャンプ場を建設をし、そこからの収益を受け取ることになりました。

 なお、2002年、クルーガー国立公園は、ジンバブエのゴナレゾウ国立公園とモザンビークのリンポポ国立公園とあわせて、大リンポポ越境公園となっています。

 さて、今回のニュースになった密猟者の男ですが、公園の広報担当者によると、共犯者とみられる人物が、死亡した男の家族に対して男がゾウに踏みつぶされたと伝え、その後、共犯者とレンジャーらによる捜索の結果、今月4日、頭蓋骨のみが発見されました。周辺にはライオンの群れがいたと考えられており、男はゾウに踏みつぶされて絶命した後、ライオンが男の死体を食べたとみられています。ちなみに、男の家族は遺骨を手にし、彼の死の状況を知ることができたことについて、公園当局に感謝の意を表しているそうです。


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 花まつり
2019-04-08 Mon 01:42
 きょう(8日)は、お釈迦様の誕生を祝う“花まつり”の日です。というわけで、毎年恒例、お釈迦様ネタの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブータン・ドルデンマ大仏(2016)

 これは、2016年にブータンが発行した“ドルデンマ大仏”の切手です。

 ドルデンマ大仏は、ブータンの首都ティンプー南郊、クエンセルポダンの自然公園内にある世界最大規模の釈迦如来像(降魔像)で、高さは52m。建国100周年の記念事業として2006年に着工し、2015年9月25日に完成しました。総工費1億ドルのうち、ブータンに対する影響力の拡大を図る中国政府の意を汲んだ中国系企業が4700万米ドルを提供しています。

 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、チベットをめぐって英国清朝が激しく対立する中で、1910年、ブータン国王ウゲン・ワンチュクは、プナカ条約を締結してブータンを英領インド帝国の保護国とし、国土防衛を英国に委ねるとともに、鎖国体制を維持しようとしました。

 1947年に英領インド帝国がインドとパキスタンに分離独立すると、1949年8月、ブータンは独立インドとあらためて友好条約を締結。同条約では「インドはブータンの内政には干渉しないが、外交に関しては助言を行う」とされ、ブータンがインドに依存する関係が構築されます。

 1958年、ブータンを訪問したインド首相のネルーは、インドがブータンの独立を支援することを約束。さらに、帰国後、インド議会で「ブータンに対する攻撃は、いかなるものであっても、インドに対する攻撃と同等とみなす」と演説し、ブータンの事実上の“宗主国”としての責任を果たす意思を明確にしました。さらに、翌1959年、いわゆるチベット民族蜂起が起こり、ダライ・ラマがインドに亡命すると、中国はチベット域内にあったブータンの飛び地領8ヵ所も占領。これに対して、ネルーは「ブータンの領土保全はインド政府の責任」と明言します。

 ところが、1962年に勃発した中印国境紛争では、ブータンはインド軍に対して自国領通過の自由を認めるなど協力したものの、インド軍は惨敗。このため、中国の脅威を前に、伝統的な鎖国政策を維持できなくなったブータンは、1971年、国連に加盟する一方、1974年、国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクの戴冠式に、駐印中国大使を招待し、中国との外交的な接触を開始。1984年以降、国交樹立と国境画定を議題とする定期外相会談もスタートしました。

 この結果、1988年には中国と「国境地域の平和維持に関する協定」が調印され、「中国はブータンの主権と領土的統一を尊重し、両国は平和五原則に基づき、友好関係を築くのが望ましい」とされましたが、その直後、中国はブータンが自国領と主張する地域にブータンの許可なく道路を建設。その後も、冬虫夏草目当てとみられる中国人の越境が相次ぎました。

 このため、ブータンは再びインドとの関係を強化し、2007年、インドとの新友好条約を調印。2008年にはインドのシン首相がブータンを訪問して、水力発電事業などに “強力な支援”を表明したほか、2014年にはモディ首相が最初の外遊先としてブータンを訪問しています。

 今回ご紹介のドルデンマ大仏の建造プロジェクトは、こうした状況の中で、対ブータン政策での巻き返しを図りたかった中国が起死回生の一手として行ったもので、2016年5月3日には、大仏の前で、第4代国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクの還暦、ギャルセイ皇子の誕生、ブータン国家の原型を作ったシャブドゥン・ンガワン・ナムゲルの到来400年の記念行事が合同で行われています。

 こうして、ブータンへの影響力を強めた中国は、2017年6月29日 ブータン領のドクラム高地でブータン政府に無断で40トンの戦車が走行可能な道路工事を開始。このため、ブータン政府は即座に中国に抗議し、インドもブータン支援のため、ドクラム高地に派兵し、中印両国がにらみ合う緊張状態(ブータン危機)が生じましたが、8月末に両軍がともに撤退し、本格的な軍事衝突は避けられたのは記憶に新しいところです。


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 ルワンダ大虐殺25年
2019-04-07 Sun 02:19
 1994年4月7日に、いわゆるルワンダ大虐殺が始まってから、きょうで25年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ドイツ→ルワンダ返戻便

 これは、1994年8月24日、ドイツ・ミュンヘンからルワンダの首都・キガリ宛に差し出されたものの、大虐殺後の混乱のため、逓送不能で差出人に返戻されたカバーです。封筒の左下には「差出人戻し/宛先国宛の郵便は一時的に停止されています。再開は未定です/ハンブルグ郵便局外国郵便課」との事情説明の印が押されています。

 もともと、ルワンダの主要民族であるフツとツチは同じ言語を話し、フツが農耕を、ツチが遊牧を主たる生業としていた程度の違いしかなかったといわれていますが、第一次大戦後のベルギーによる植民地支配下では、分割統治の一環として、人口の85%を占めるフツに対して、同14%のツチが優遇されていました。また、地方君主のルワンダ王、ムタミ3世もカトリックに改宗するなど、親ベルギーの姿勢を鮮明にしていました。

 ところが、1959年7月25日、ムタミ3世がベルギー人医師によるワクチン接種を受けた直後に死亡。王位を継承したキゲリ5世は兄である先王の死は毒殺であるとしてベルギーを批難し、ベルギー当局と激しく対立するようになります。

 一方、ルワンダでの独立運動は、少数派であるツチの支配からフツの解放を唱えるムボニュムトゥワやカイバンダらがパルメフツ(フツ解放運動)を組織して主導していましたが、キゲリ5世とベルギー当局の関係が悪化した機会をとらえて、1959年、パルメフツは“革命”を起こします。

 これに対して、ベルギーはルワンダに軍政を施行するとともに、キゲリ5世を抑えるため、“革命”を支援。追い詰められたキゲリ5世は、事態の打開に向けて、1961年、国際連合事務総長ダグ・ハマーショルドとの会談のためにキンシャサへ外遊すると、その隙をついて、ムボニュムトゥワはベルギー政府の支援を受けてクーデターを敢行。王政を廃止し、“民主的主権国家ルワンダ共和国”の樹立を宣言するとともに、自ら暫定大統領に就任しました。

 こうした経緯を経て、1962年に行われた大統領選挙では、フツ系のカイバンダが当選し、1962年7月1日、ルワンダ共和国は正式に独立します。

 このように、1962年のルワンダ独立はフツ主導のものだったため、植民地時代に優遇されていたツチの中には、報復を恐れ、難民として隣国ウガンダを中心に近隣諸国へ脱出する者が少なくありませんでした。

 その後、ルワンダ国内では、1973年、クーデターでフツ出身のハビャリマナが政権を掌握。ハビャリマナ政権は、ルワンダ国内のフツ・ツチの宥和政策を進め、一定の成果をあげましたが、独立前後の混乱で難民となった在外ツチ族の問題はそのまま放置されました。

 こうした背景の下、1979年にウガンダでアミン独裁政権が崩壊すると、ウガンダ国内のツチ難民は国民統一ルワンダ人同盟 (RANU)を設立し、ルワンダへの帰還に向けて具体的に動き始めます。ところが、1981年にウガンダ内戦が勃発。ウガンダに逃れていたツチ難民が反政府軍(国民抵抗軍:NRA)に参加すると、翌1982年、ウガンダ政府軍はすべてのツチ難民を収容所送りにしてこれを抑え込もうとしました。

 しかし、政府側の試みは失敗。こうした中で、4万人のツチ難民が内戦を逃れてルワンダに帰国しようとしたものの、ルワンダ側はそのうちの4000人しか受け入れず、また、ウガンダ側もいったん出国したツチ難民の多くについて再入国を拒否したため、3万5000人ものツチ族難民が国境地帯に放置され、彼らの多くはNRAの兵士としてウガンダ内戦に関わることになります。

 ウガンダの内戦は、1986年にNRAの勝利で終結し、ヨウェリ・ムセベニ政権が発足。ムセベニ政権は、NRAの勝利に貢献したRANUに報いるため、10年以上ウガンダに住んでいる“バニャルワンダ(ルワンダ語を母語とする者。ツチ・フツの別は問わない)には市民権が与えられると宣言します。

 このように、ウガンダ国内に基盤を築いたRANUは、1987年12月、ルワンダ愛国戦線(RPF)へと組織を再編。このRPFが、1990年10月1日、ルワンダ北部に侵攻したことで、ルワンダ内戦が勃発します。

 ルワンダ内戦は1993年8月にアルーシャ協定が結ばれ、和平合意が成立したものの、翌994年4月6日、ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領を乗せた飛行機が何者かによって撃墜されたことで、翌7日以降、フツ系の国営ラジオ、ラジオ・ルワンダの別働組織として1992年に組織された“千の丘放送(RTLM)”がツチ族の敵愾心を煽るプロパガンダ放送を流し、煽動された一般人も加わってのツチ大量虐殺が始まりました。また、大虐殺を主導したフツ過激派に対しては、フランス政府が武器援助を行うなど組織的な支援を行っていたことが後に明らかになっています。

 その後、1994年7月にRPFがツチ保護を名目に全土を完全制圧。フツ(穏健派)のパステール・ビジムングを大統領、ツチのポール・カガメを副大統領(現大統領)とする新政権が発足し、ようやく大虐殺は収束しましたが、この間、犠牲になった人は100万人にものぼるといわれています。


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 革命防衛隊、テロ組織指定へ
2019-04-06 Sat 12:13
 米政府は、週明けの8日にも、イランのイスラム革命防衛隊を“外国テロ組織”に指定する見通しであることが明らかになりました。実施されれば、外国の軍隊が同組織に指定される初めてのケースとなります。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イラン・革命防衛隊(1987)

 これは、1987年にイランが発行した“イマーム・フサイン誕生日/イスラム革命防衛隊の日”の記念切手で、行軍する革命防衛隊の兵士が描かれています。

 1979年2月のイラン・イスラム革命は、さまざまな勢力が反国王という一点においてのみ結集し、パーレヴィ王制を打倒したという性質のものでした。このため、革命後、各勢力の間で激しい主導権争いが展開されることになりますが、その過程で、国軍は旧王制への忠誠心が残っているとの疑念を持ったホメイニーは、1979年5月5日、国軍とは別の軍事組織として、イスラム革命防衛隊の組織を命じます。

 革命防衛隊は、国防省ではなく革命防衛隊省の統制下に置かれ、革命を防衛し、イスラム法と道徳の執行において法学者を援助するための組織として出発し、当初は陸海空軍3万人の人員でスタートしました。

 1980年にイラン・イラク戦争が勃発すると、兵員の不足を補う必要に迫られた革命政府は、イスラム革命防衛隊の下で大量の義勇兵を前線に派遣。この義勇兵たちの士気が高かったため、革命指導部は、1981年2月17日、革命防衛隊から民兵組織“バスィージ”を正式に創設しました。なお、バスィージの民兵は、平時には、体制批判を監視する秘密警察としての役割も担っています。

 1982年にバスラ近郊で行なわれたラマダン作戦では、欧米諸国の軍事援助で近代兵器を装備したイラク軍に対して、12-80歳までの民兵(その大半は、ほとんど軍事訓練を受けておらず、装備も銃だけでした)を中心とする10万人の隊員が徒歩で地雷原を越えてイラク領内に進み、化学兵器の攻撃を受けながら突撃作戦を敢行。多数の戦死者を出すとともに、約4万5000人が捕虜となりました。

 今回ご紹介の切手では、発行名目として、“イマーム・フサイン誕生日”と“イスラム革命防衛隊の日”が併記されていますが、このイマーム・フサインは、西暦680年10月10日、ウマイヤ朝の支配は不義・不正であるとして武装蜂起を企図したものの、ウマイヤ朝軍に包囲され、カルバラー(現イラク領)で殉教したことでシーア派の第3代イマームのことです。このフサインと革命防衛隊を並置することで、バスィージの民兵たちはフサインに比すべき殉教者として称えるべきというのが、この切手の主な意図と考えられます。

 ところで、革命防衛隊は、イラン・イラク戦争中に、民兵組織と並行して、特殊部隊としてゴドゥス部隊を組織しました。彼らの任務は、対イラク戦争を通じて拡大され、1983年には、レバノンの首都ベイルートで起きた米海兵隊宿舎爆破事件を起こしています。その後も、ゴドゥス部隊は、イランが支援する各国の武装組織(ヒズボラハマース、イラクのシーア派民兵等)に対する軍事訓練や活動の調整、敵国(イスラエル米国、サッダーム政権時代のイラク)に対する破壊工作、国外のイラン反体制派の排除などを行っており、1991年8月のパリでの元イラン首相シャープール・バフティヤール暗殺、1992年9月のベルリンでのクルディスタン民主党指導者サーディフ・シャラーフ=キンディ暗殺、1994年のブエノスアイレス・ユダヤ文化センター爆破テロ、1996年のフバル(サウジアラビア)でのフバルタワー爆破事件(米兵19人が死亡)などが、ゴドゥス部隊の犯行もしくは支援によるものとみられています。

 こうしたことから、2007年10月、米国のブッシュ政権は、革命防衛隊のうちのゴドゥス部隊を“テロ支援組織”に指定。さらに、昨年2018年)10月16日には、米国財務省がバスィージとその系列企業に対して、少年兵をシリア内戦に送りこんでいたことなどを理由に、経済制裁の対象に指定していました。

 *昨日(5日)、文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は5月10日の予定(仮)です。放送日が近づきましたら、また、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いします。


 ★★★ メディア史研究会で発表します! ★★★

 4月20日(土) 14:00から、東京・水道橋の日本大学法学部三崎町キャンパス4号館地下1階 第4会議室A(地図はこちらをご覧ください)にて開催のメディア史研究会月例会にて、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の内容を中心に、「メディアとしての“英雄的ゲリラ”」と題してお話しします。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

      
★★ 内藤陽介の最新刊 『チェ・ゲバラとキューバ革命』 好評発売中!★★

      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 切手歳時記:朧月夜
2019-04-05 Fri 01:26
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2019年3月号が発行されました。僕の連載「切手歳時記」は、今回は、この1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      朧月夜

 これは、1980年4月28日、日本の歌シリーズの第5集として発行された「朧月夜」の切手です。

 切手の図案は、春の満月の下、満開の菜の花を描いたもので、歌を聞くと、まさに、こんな風景が頭に浮かぶという人も多いことでしょう。

 「朧月夜」の歌詞は「菜の花畠に、入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし」で始まります。

 『枕草子』の「春はあけぼの」は、明け方、陽が昇るにつれて、だんだん白くなっていく山際あたりが少し明るくなり、紫がかった雲がほそくたなびいている風景をめでていますが、「朧月夜」はその逆に夕暮れ時の山の端からストーリーが始まる格好です。朝夕を問わず、霞の中で時間が流れていくのが日本の春の景色ですが、この“霞”はあくまでも日中の霧や靄を指す言葉で、陽が落ちると、“霞”は “朧”と名を変えます。

 さて、「朧月夜」の歌詞は、この後、「春風そよふく 空を見れば」と来て、「夕月かかりて、にほひ淡し」で一番が終わっています。

 “月がかかる(懸る)”ということは、この時点で月は中空に浮かんでいるという構図ですが、そうすると、この月は、切手に描かれているような満月ではなく、上弦の月と考えるのが妥当でしょう。

 満月は太陽が沈んだ直後の東の空に上るからで、蕪村の有名な句「菜の花や月は東に日は西に」が、まさにその景色となります。したがって、切手のように、菜の花の真上に満月が浮かんでいる風景は、深夜にならないと拝めません。

 ちなみに、新月は朝、太陽とともに昇り、上弦の月は昼頃、東の空に昇るので、「朧月夜」の歌詞を素直に読んで、夕暮れ時に月が中空に浮かんでいるということは、上弦の月もしくはそれに近い(広義の)三日月ということになります。

 ところで、太陽と違って、月は春と秋とで軌道が異なるから、傾きの変化に対応して三日月の形も変化します。春の月は地面に対して垂直に近い角度で昇り、沈んでいくため、太陽に下側が照らされて、三日月はお椀のような形に見えます。ちなみに、秋の月は地面に対して水平に近い角度で移動するため、月の横側が照らされて、三日月は立った形です。

 このため、西洋の言い伝えでは「春は三日月のくぼみに水が溜まるので、霞がかかって、朧月夜になるが、秋の三日月は立って水が溜まらないので澄んで見える」とされています。また、三日月を盃に例えて「春の三日月はお酒がよく入る」として、月見酒を楽しむ風流人も数多くいました。

 それに倣って、「朧月夜」をBGMに一献傾けるとしたら、肴は何が良いでしょうか。

 まずは、題名の“朧”にちなんで、おぼろ豆腐におぼろ昆布を乗せたもの。それから、菜の花は辛し和えでも良いでしょうが、二番の歌詞にある「田中の小路」に見立てて、油揚げとの出汁びたしにするのも悪くありません。

 さらに、「蛙のなくね」にあわせて炙ったカエルの足を齧るのも良いですね。ただし、居酒屋などで出てくるウシガエルは、1918年に北米から食用として輸入されたものですから、1914年に作られた「朧月夜」の風景の中で鳴いていたカエルとは種類が異なりますが…。

 そうそう、板わさも忘れてはなりますまい。なんといっても、「朧月夜」は“夕月”なのですから。


 ★★ 4月5日、  文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★★

 4月5日(金)05:00~  文化放送で放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


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 ペルーで日本人移住120年式典
2019-04-04 Thu 12:13
 ペルー・リマの国会で、3日(現地時間)、1899年4月3日に最初の日本人移民が到着したことにちなむ“日本人移住120周年”の記念式典が行われました。というわけで、1899年に発行されたペルー切手のなかから、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ペルー・マンコカパック赤2(1899)

 これは、1899年に発行されたインカ皇帝マンコ・カパックを描く2センタボ切手です。

 インカ・クスコ王国の伝説上の初代国王、マンコ・カパックは、太陽神インティの子にして、天の神パチャカマックの兄弟とされており、その名は“素晴らしき礎”の意味です。

 伝説によると、太陽神インティはマンコらに金の杖、タパク・ヤウリを与え、その杖が地面に沈む地に太陽の神殿を作るように指示。彼らは地下の洞窟を通ってクスコに行き、神殿を建設したとされています。マンコは西暦1200年前後の約40年間、クスコ王国を統治し、法の整備、人身御供の廃止、(インカの貴族を除き)兄弟姉妹婚の禁止などの政策を行いました。ただし、マンコ本人は姉妹のママ・オクリョを妻とし、彼女との間に生まれたロカは、第2代国王となりました。

 ペルーの歴史的英雄としてのマンコは、1896年に発行されたアメリカン・バンクノート社製の1および2センタボ切手が最初です。当初の刷色は、1センタボ切手が水色、2センタボ切手が青でしたが、1898年に1センタボ切手が緑色に、1899年に2センタボ切手が今回ご紹介の紅色に改色されています。

 さて、今回ご紹介の切手が発行された1899年の2月、森岡移民会社がチャーターした日本郵船会社の佐倉丸で横浜からペルーに向けて出航した日本人移民約790人は、同年4月3日、ペルーのカヤオ港に到着しました。当初、移民たちは、「ペルーの甘蔗耕地あるいは精糖工場で4年間働き、その報酬として1ヵ月2ポンド10シリン グ(約25円)に相当するペルー貨を支給される」との契約を森岡移民会社と結んでいましたが、現地では、劣悪な環境の下、賃金未払いなどのトラブルが絶えませでした。

 ちなみに、日本人移民のうち91人が、1899年9月、アンデス山脈を越えて、ボリビア国内有数のゴム産地だったベニ県に再入植し、これがボリビアへの最初の日本人移民となっていますので、ことしは、ボリビアでも日本人移住120年をむかえることになります。


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 ブルネイでハッド刑実施
2019-04-03 Wed 02:11
 東南アジアのブルネイで、きょう(3日)から刑法が改正され、コーランに刑罰の内容が明記された刑罰(ハッド刑)が厳格に実施されます。これにより、同国在住の外国人や旅行者であっても、同性愛行為や不倫には石打ちによる死刑が科される可能性がでてきました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルネイ最初の切手

 これは、1895年にブルネイ最初の切手として発行されたローカル切手です。

 現在のブルネイ王室は、14世紀末、アラク・ベタタール王がイスラムに改宗し、1405年、初代スルターン(イスラムの地方君主)、ムハンマドとして即位したのが始まりです。

 その後、ブルネイはボルネオ島北部の良港という立地を活かして繫栄し、第5代スルターンのボルキア(在位:1473-1521年)の時代には、現在のサバ州サラワク州及びフィリピン南部を統治し、王国として最盛期を迎えます。

 しかし、19世紀に入ると住民の反乱が相次ぐようになったことから、ブルネイのスルターンは、1839年、クチンにやって来た英国人探検家ジェームズ・ブルックに鎮圧を依頼。ブルックは、英国海峡植民地政庁の協力で鎮圧に成功し、サラワクを割譲されて藩王(ラジャ)に任じられました。以後、ブルックは次々と領土を拡大。その結果、ブルネイは国土の大半を失い、1888年には英国と保護条約を結び、外交権を失います。

 こうした経緯を経て、1895年、スルターンのハーシムは、ブルネイの郵便事業と切手発行について民間会社と契約を結び、同年7月22日、英国の貿易銀を額面とするローカル切手を発行しました。今回ご紹介の切手はその1種で、バンダルブルネイ(現バンダルスリブガワン)の港湾風景を背景に、中央に星を大きく描き、その上にアラビア文字の国名が入った三日月がデザインされています。なお、切手は、グラスゴーのマクルール・マクドナルド社で製造されました。

 切手は、ブルネイ国内およびラブアン宛の郵便物にのみ有効で、それより先の外国宛郵便物については、1906年にブルネイがUPU加盟国になるまで、ラブアンで同地発の外国郵便と同額のラブアン切手を貼って対応していました。なお、1906年のUPU加盟以降は、ラブアン切手にブルネイの地名表示を加刷した切手が使われるようになり、1907年には、ブルネイとして独自の正刷切手の発行が始まりました。

 1906年、ブルネイは内政を含め英国の保護領となりましたが、 第二次大戦中の日本軍による占領時代を経て、1959年、内政の自治を回復。 1984年には英国からの完全独立を達成し、現在に至っています。

 さて、独立後のブルネイの政体は、形式上は立憲君主制となっていますが、実際には、法律の最終制定権は国王が有し、司法においても裁判官は国王が任命することになっています。また、独立以前の1967年に即位したハサナル・ボルキアは、半世紀以上に渡り、宗教上の権威であるとともに、国政全般を掌握(現在も国王が首相、国防相、財務経済相、外相を兼任)し続けており、事実上、絶対君主制の国となっています。

 こうした中で、2004年、独立以来停止していた立法評議会(国会)が再開され、憲法改正によって従来の任命議員に公選議員を加えるものとされましたが、その反面、国王は、急激な体制変革を防ぐため、“マレー主義に立つ、イスラム的王政の維持”を国是として掲げ、2014年5月にはハッド刑を導入しています。ただし、2014年の時点では、婚外妊娠や金曜礼拝の怠りを罰金や懲役の対象としたことが国際的な反発を受けたため、ハッド刑の完全施行を3段階に分けて進めるものとされ、今回、それが最終段階に到達したというわけです。

 なお、今回のブルネイの刑法改正については、同性愛者が処罰の対象となっていることから、一部欧米のメディアや人権団体などは“反LGBT法”との表現を使い、人権侵害であるとして激しく非難していますが、ハッド刑が対象としているのは、同性愛や不倫だけでなく、たとえば、窃盗罪には手足を切断する罰則の導入や自宅・ホテル自室以外での飲酒・喫煙の禁止規定など盛り込まれていますので、“反LGBT法”という表現は、かなりミスリーディングです。


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 新元号は令和
2019-04-02 Tue 01:23
 今月末の今上陛下のご譲位に伴い、5月1日、皇太子殿下の御即位にあわせて施行される新元号が“令和”になることが発表されました。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      年賀・色絵土器皿

 これは、1973(昭和48)年用の年賀切手で、尾形乾山の“色絵絵替土器皿(梅紋様)”が取り上げられています。

 新元号の“令和”は、『万葉集』巻5、梅花の歌32首の序「初春月、気淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」を典拠としたものということで、初春の梅にちなんで、梅が中心的になっている年賀切手として、この1枚を選びました。なお、『万葉集』の当該箇所は、渾天儀を発明したことでも知られる後漢の張衡(78-139)の「歸田賦」の一節、「於是仲春令月、時和氣清、原隰鬱茂、百草滋榮」を踏まえて書かれたものとみられています。

 さて、切手に取り上げられた絵皿の作者、尾形乾山は、1663年、京都の呉服商、雁金屋の三男として生まれました。尾形光琳は実兄です。

 画家としても数多くの作品を残していますが、陶芸に関しては、野々村仁清に学び、三十七歳の時、後に関白となる二条綱平から鳴滝泉谷の山荘を与えられ、窯を開きました。号の“乾山”は、この山荘の場所が都の北西(乾)の方角にあることにちなむものです。

 1731年には江戸・入谷に移り、1743年に81歳で亡くなるまで江戸で過ごしました。琳派独特の大和絵の花鳥に和歌を、漢画の山水に詩文を讃した色絵の作風は乾山のオリジナルといわれ、日本の陶芸史に残る傑作を数多く残しています。

 切手に取り上げられた皿は、兄・光琳の「燕子花図」などとともに、東京の根津美術館の所蔵品で、5客1組のうちの1枚。直径は15.9cmで、色つきの素地の上に装飾的に白釉をかけて、簡単な梅紋様を描いています。“土器皿”と呼ばれているのは、暗い赤茶色の素地が裏面に現われ、素焼きのように見えるためです。

 ちなみに、今回ご紹介の切手を含む年賀切手については、拙著『年賀状の戦後史』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
 

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 スロヴァキア初の女性大統領誕生へ
2019-04-01 Mon 01:35
 先月30日に行われたスロヴァキア大統領選挙の決選投票で、31日、同国統計局は、弁護士で環境活動家のズザナ・チャプトヴァ氏が58.40%の票を獲得し、欧州委員会のマロシュ・シェフチョヴィッチ副委員長(エネルギー同盟担当)を下して当選したことを発表しました。1993年のチェコとスロヴァキアの分離以来、スロヴァキアでは初の女性大統領となります。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます。以下、敬称略)

      スロヴァキア・ペジノク

 これは、2003年にスロヴァキアが発行した風景切手のうち、新大統領の地元、ペジノクを取り上げた1枚で、彼の地のランドマークとなっているキリスト変容教会とマリア像を戴く円柱が描かれています。

 チャプトヴァは、1973年6月21日、スロヴァキアの首都となっているブラティスラヴァの労働者の家庭に生まれ、近郊のペジノクで育ちました。1996年、ブラティスラヴァのコメニウス大学法学部を卒業後、ペジノク町役場の法務アシスタントしてキャリアをスタートさせ、最終的に副町長にまで昇進。その後、民間の非営利組織に転職しました。

 2001年以降、ペジノクの廃棄物埋め立て処分場建設計画に対する反対運動の先頭に立ち、弁護士として計画の法的不備を追及して計画を中止に追い込んだことで全国的に知られるようになりました。

 2017年12月、新たなリベラル政党として“進歩スロヴァキア”が結成されると、中央政界でのキャリアがないにもかかわらず、副党首に就任。その直後の2018年2月、スロヴァキア政界とイタリア系マフィアの癒着疑惑を追求していたジャーナリストのヤン・クツィアク氏とその婚約者が殺害されると、翌3月、他の反政府系活動家とともに、内閣の辞任を求め、ヴィロード革命後では最大規模となる反政府デモを行いました。その結果、フィツォ首相が辞任し、ペレグリニ政権が成立しましたが、方向党-社会民主主義(スメル:Smer-SD)、スロヴァキア国民党(SNS)、架け橋(Most-Híd)の3党連立の枠組はそのまま維持されたため、国民の不満が高まっていました。

 今回の選挙期間中、チャプトバ候補は“悪に立ち向かう”をスローガンに、「検察や警察から政治的影響力を剥奪する構造改革に着手」する方針を明らかにするとともに、高齢者福祉や環境保護にも力を入れると公約していました。

 なお、スロヴァキアの大統領は国家元首ではあるものの、大半の権限は形式的なものとなっています。ただし、最高裁判所判事の任命権に加え、議会が可決した法案に対する拒否権もあるため、新大統領が政界浄化に一定の役割を果たすことが期待されています。


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