2021-01-28 Thu 03:37
南米コロンビアのカルロス・オルメス・トルヒジョ国防相が、26日(現地時間)、新型コロナウイルスのため首都ボゴタの病院で亡くなりました。享年69歳。国防相は、日本の上智大学大学院で学び、1976-82年には在日コロンビア大使館で領事や商務参事官を務めるなど、日本ともゆかりの深かった方ということで、謹んでご冥福をお祈りしつつ、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2008年5月22日、コロンビアが発行した“日本との修好100周年”の記念切手で、両国の国旗をイメージした修好100周年の記念ロゴが大きく取り上げられています。 近代以降のわが国とコロンビアとの接触は、1874年、キューバ系コロンビア人の旅行家、ニコラス・タンコ・アルメーロが日本を訪れ、日本の歴史、経済事情、風俗、宗教観などについての記録を残したのが最初とされています。 アルメーロの訪日時には両国間に正規の国交はありませんでしたが、1908年、米国の首都ワシントンで「日本コロンビア修好通商航海条約」が調印されたことで、正規の外交関係が樹立されました。 同年、商用目的で日本を訪れていたコロンビア人のアントニオ・イスキエルドは、皇族や大隈重信の庭園管理を担当していた庭師の川口友広ら3人をコロンビアに連れて帰り、これがコロンビアに渡った最初の日本人となりました。川口らは、ボゴタでイスキエルドの所有する森林を整備し、これが、1910年に開催された独立100周年記念博覧会の会場として利用されましたが、その後の彼らの消息は不明です。 1915年には、広島県竹原市出身の水野小次郎がカリブ海沿岸のバランキージャに移住。水野は同郷の者を呼び寄せ、これがコロンビアにおける日系コミュニティのルーツとなり、1920年代には福岡県などからの日系移民も増加。第二次大戦中は、一時、両国間の国交も断絶しましたが、1952年の講和条約発効を受けて復活し、現在にいたっています。 ところで、1924年にコロンビアのアトランティコ県ウシアクリで生まれた日系2世のホセ・カオル・ドク・ベルメホ(日本名:道工薫)は、第二次大戦中はコロンビア海軍に入隊していましたが、戦後の1948年、コロンビアでサッカーのプロリーグが創立されると、海軍との兼職で、プロサッカーチームのインデペンディエンテ・サンタフェに入団。レギュラーとして活躍し、同年のサンタフェの優勝に貢献しました。さらに、1951年にはコロンビア代表にも選出され、パラグアイ代表戦に出場しています。 1951年、コロンビアが朝鮮戦争に参戦すると、翌1952年、ドクは「(父祖の地である)日本へ行けるかもしれない」と考え、朝鮮戦争への参加を志願してサンタフェを退団。海軍の一員として日本に駐留中に父親の故郷である広島県竹原市を訪れて父親の家族に会い、休戦後は無事に帰国し、再びプロサッカー選手として1959年間でプレーしました。 ちなみに、コロンビアと朝鮮戦争のかかわりについては、拙著『朝鮮戦争』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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