2012-04-30 Mon 17:54
『キュリオマガジン』2012年5月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記 インド西海岸篇」は、前回に引き続き、コーチン(コーチ)の2回目です。その記事で使ったモノの中から、こんなモノをもってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)
これは、1952年に差し出されたインドのカバーで、ブランコに乗るクリシュナのイラストが入った絵封筒が用いられています。今回の記事では、もともとは、1668年にオランダ東インド会社がフォート・コーチンに建てた歴史的建造物で、現在はホテルとなっているフォート・ヘリテッジなどをご紹介したのですが、そのホテルの一室には、下の画像のようにブランコのあるスイート・ルームがありましたので、その流れで、インドとブランコの話も少し書いてみたというわけです。 ブランコの起源は、古代インドの儀式“プレンカ”で用いられていたものだといわれています。 西暦の紀元前2000年頃のインドでは、ブランコは太陽の象徴で、女性がブランコに乗ることは太陽との結婚を意味していました。このため、冬至の時期には太陽の力が復活することを願って女性がブランコに乗り、豊作を祈ることが行われていたのだそうです。 現在の祭礼では、毎年9月2日のクリシュナ・ジャナマーシュタミー(ヴィシュヌ神の化身、クリシュナの生誕祭)に登場するベビー・クリシュナのブランコが有名です。 すなわち、生誕祭の前日は断食の日で、断食を解くにあたっては、日付が変わる頃、ベビー・クリシュナの像を沐浴させ、新しい服や宝飾品で飾り、ブランコに乗せて儀式を行います。また、各地のヒンドゥー寺院では、ベビー・クリシュナが載せられた境内のブランコを揺らすとご利益があるということで、善男善女が数多く集まってくるという。 さらに、クリシュナとブランコというモチーフに関しては、成人した彼が最愛の恋人であるラーダーと仲睦まじくブランコに乗っているという場面も絵葉書やポスターにしばしば取り上げられています。 ホテルのブランコがぶら下がっている室内は、完全に洋風のしつらえなのですが、ベビー・クリシュナの像を上に載せて揺らしてみてもあまり違和感を覚えることもなさそうな雰囲気でした。ただし、ブランコを吊っている鎖はあまり丈夫そうには見えませんでしたから、ラーダーと一緒に乗るためには、僕の場合は、かなりダイエットしないと無理でしょうな。 さて、今回の記事では、歴史的建造物でもあるホテル、フォート・ヘリテッジのほか、近くのサンタ・クルス聖堂のことについてもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-29 Sun 21:50
1989年の(第2次)天安門事件を回顧し、事件で武力弾圧された民主化運動を紹介する“六四紀念館”が、きょう(29日)、香港の九龍地区にオープンしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます
これは、2000年にパラオが発行したミレニアム切手の1枚で、1989年の天安門事件が取り上げられています。パラオといえば、台湾との国交を維持して中国と国交を結ばず、先日は自国の海域内で違法操業をしていた中国漁船を追跡し、自国のヘリが燃料切れで墜落しつつも、中国漁船による体当たり攻撃にも屈せず、最終的に25人の船員を拘束し、1人1000ドルの罰金をきっちり徴収したという骨のある国です。小国のミレニアム記念切手は、基本的には、外国人収集家に販売して外貨を稼ぐものという色彩が強いのですが、切手に天安門事件を取り上げることが国際社会の理解を得られるという見識は、なかなか立派なことですな。 さて、(第2次)天安門事件の概要をまとめると、以下のようになります。 1989年4月8日、胡耀邦(中国共産党の総書記として言論の自由化を推進し、国民からは「開明的指導者」として支持を集めていたものの、保守派との権力闘争に敗れて失脚)が亡くなると、その死を悼むかたちで、民主化を求める学生運動が北京を中心に発生します。運動の背景には、政府・党幹部の腐敗と汚職、小平による人治(超法規的な君臨)への不満がありました。 学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは、4月22日には西安や長沙、南京などの一部の地方都市にも拡大。西安では車両や商店への放火が、武漢では警官隊と学生との衝突が発生します。これに対して、首相の趙紫陽は5月3日の“五四運動”70周年記念式典で、学生・市民の改革要求(この日、北京では約10万人が民主化を求めるデモと集会を行っていました)を“愛国的”であると評価し、事態は沈静化の方向に向かうかと思われました。 ところが、5月13日、民主化を求める学生側がハンガーストライキに突入したことから当局側は態度を硬化。これに反発するかたちで、中国全土から天安門広場に学生・労働者などのデモ隊の数は50万人近くに膨れ上がっていきます。 両者のにらみ合いが続く中で、5月15日、ゴルバチョフが中ソ対立の終結を表明するために訪中。世界のマスコミは自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と中国における一連の民主化運動を絡めた報道を行い、天安門広場をはじめ北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れ、当局による交通規制さえ不可能となった状況が世界に配信されました。今回ご紹介の切手に取り上げられているのは、こうした状況の中で撮影された写真がもとになっています。 これに対して、メンツを完全につぶされたと考えた当局側は、ゴルバチョフ帰国後の5月19日、北京に戒厳令を布告。23日には戒厳令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われ、30日には天安門広場の中心に、ニューヨークの自由の女神を模した“民主の女神”像が作られるなど、緊張が高まっていく中で、ついに6月3日深夜から4日未明にかけて、北京の天安門広場前に集まっていた学生・市民に対して人民解放軍が無差別に発砲。民主化運動を力ずくで鎮圧されることになりました。 軍隊によって民主化運動を圧殺した天安門事件については、国際世論が厳しくこれを指弾し、中国は国際的な孤立に追い込まれます。しかし、中国国内では、事件については徹底した報道管制が敷かれており、現在なお、その実態は明らかにされておらず、一種のタブーのような扱いになっています。ちなみに、僕は以前、中国のご機嫌を伺うことに敏感とされる某社の媒体で中国モノの原稿を書いた際に、天安門事件の影響について触れたところ、担当の編集者から「“3つのT(台湾・チベット・天安門)”には触れないようにお願いします」と言われて書き直しを命じられたことがあります。まぁ、パラオの雑誌だったら、そういうこともなかったのでしょうが…。 さて、今回、九龍にオープンした“六四紀念館”は、香港の民主派団体・香港市民愛国民主運動支援連合会(支連会)が6月10日までの期間限定で開設したもので、1989年の民主化運動当時、北京の天安門広場に設置された“民主の女神”像のミニチュアや当時の運動を説明するパネル、書籍が展示され、ビデオも放映されているそうですから、今回ご紹介の切手のもとになった写真も展示されているかもしれませんね。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-28 Sat 08:32
1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、占領時代が終わってから、きょうでちょうど60年です。というわけで、きょうはこの葉書です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1952年5月3日に発行された“平和条約発効・憲法5周年”の記念葉書です。平和条約発効と憲法5周年は全く別の次元の事象だと思いますが、日付が近いということでまとめてしまったのでしょう。 さて、平和条約の発効により、占領時代が終結し、日本国家の主権は回復されたというのが建前ですが、現実には、米軍の駐留継続を決めた日米安保条約(旧条約)には内乱条項(この場合は、日本で内乱が発生した場合には米軍が出動できるとする規定)が含まれていたほか、南西諸島(沖縄・奄美など)や小笠原諸島は日本本土から分離してアメリカの信託統治下に置かれるなど、主権の完全な回復とは言い難い状況でした。 このうち、内乱条項については、1960年に改訂された新安保条約によって撤廃され、小笠原は1968年に、沖縄も1972年に本土復帰を果たしたものの、現在なお、日本の防衛はわが国独力では果しえず、軍事的には、アメリカの庇護下に置かれているの周知のとおりです。 本来であれば、占領時代に公布・施行された憲法については、占領時代が終結した時点で改正するのが筋で、それをそのまま放置し続けたことの責任は、ひとえに、日本国民にあります。アメリカから押しつけられた占領憲法というのは、歴史的事実として間違いではないかもしれませんが、だからといって、自分たちの怠慢が免責されるわけではありません。 現行憲法の問題点はいろいろありますが、すくなくとも、憲法の前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」との一節は、自国の安全を他国にゆだねようとするものですから、独立した主権国家の憲法の文言としては明らかに不適切な内容でしょう。もちろん、すべての周辺諸国が、自国の国益を損ねてでも、日本の安全と平和のために信義と公正を重んじてくれるというのなら話は別でしょうが、そんなことが現実にはありえないことは、ちょっとニュースを見れば誰の目にも明らかです。 したがって、本来、平和条約の発効と主権回復・独立を祝うことと、日本国憲法5周年を祝うことは両立しないと考えるのが妥当でしょう。また、当時の記念切手の発行基準では、周年モノは原則として最低25周年とするということになっていましたから、いくら日本国憲法が重要であるからと言って、その5周年で記念葉書を発行するというのは異例のことです。はたして、日本国憲法の内容について国家の理念として真に誇りうるべきものだというのなら、それこそ、25周年にあたる1972年に日本国憲法関連の記念切手・はがきが発行されてしかるべきなのですが、そうはなっていないのは、やはり、現行憲法の欠陥を認めているからなのでしょう。 いずれにせよ、全くベクトルの異なる事象を強引に1枚のはがきで記念して矛盾を感じないでいる(ように見える)ところが、いかにも戦後日本の発想といえそうです。自戒の念を込めて、記憶すべき葉書だと思います。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-27 Fri 18:37
財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第46巻第2号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回は1957年の仏紀2500年の話題を取り上げました。その中から、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、西暦1957年3月15日に発行された「釈迦牟尼2500年」の記念切手のうち、法輪を背景に転法輪印の印相を描いた25サタン切手です。 釈迦が入滅した年代は一般に西暦の紀元前544年とされています。ビルマやスリランカの仏暦ではこの年を元年としていますが、タイ・ラオス・カンボジアの3国では、入滅翌年の西暦紀元前543年が元年とされています。このため、この3国では、西暦1957年は仏暦の2500年にあたるとしてさまざまな記念イベントが行われ、その一環として、タイでは今回ご紹介の切手を含む9種の切手が発行されました。 仏像などでは、手の形によってさまざまな意味を象徴的に示すことになっており、これを印相といいます。このうち、今回ご紹介の切手に描かれている転法輪印は、親指と他の指の先を合わせて輪を作る印相で、相手に何かを説明している仕草を表したものです。背後に描かれている法輪は、もともとは仏教の教義(四諦・八正道)のことで、釈迦がブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いた後、バラナシのサルナートで5人の修行仲間に初めて仏教の教義を説いた出来事は「初転法輪」と呼ばれます。その後、法輪は8方向に仏の教えを広める車輪形の法具としてシンボル化され、寺院の軒飾りにも使用されるようになりました。 今回ご紹介の切手は、両者の組み合わせにより、釈迦が仏法を説いているさまを象徴的に表現したデザインといえましょう。 ところで、釈迦牟尼2500年の切手は、タイの切手史上、日本の大蔵省印刷局(以下、印刷局)が製造した最初の切手として注目に値する存在です。 タイの切手は、それまで、原則として、英国を中心として欧州の印刷会社に製造を発注されており、海外への発注ができない場合には例外的に国内で製造されてきました。そうした原則を変更し、タイ郵政が印刷局に切手の製造を発注したのは、印刷局製の切手の品質が欧米諸国の切手と遜色のない水準に達していながら、コスト面では割安だったということが理由であったと考えるのが妥当でしょう 1952年4月の講和条約発効(明日がその記念日ですな)により、日本は米国の庇護の下、曲がりなりにも国際社会への復帰を果たし、朝鮮戦争の特需景気により急速に戦後復興を遂げ、さらなる経済成長の時代に突入しようとしていました。 経済成長に伴い、郵便物の量が急増すると、切手の需要も飛躍的に増加。このため、1954年10月、印刷局は、一台の印刷機を西ドイツから輸入します。ゲーベル社製の最新鋭グラビア印刷機です。 この印刷機は、4色までのグラビア多色刷の切手を製造できる能力を備えていましたが、当初、印刷局は試運転も兼ねて、単色の普通切手を印刷していました。完成した切手の品質は、印刷機の性能だけではなく、インクや用紙、裏糊などにも大きく左右されますが、新型機を導入した時点では、まだ、印刷局は新型機の性能を十二分に活かせるだけの準備ができていなかったからです。 その後、用紙や裏糊などの開発・改良作業を経て、ようやく、翌1955年5月16日、新型機の性能をフルに活かしたグラビア4色刷りの「第15回国際商業会議所総会」の記念切手(通称“こいのぼり”)が発行されました。さらに、同年11月、「切手趣味週間」に発行されたグラビア多色刷りの大判切手、「ビードロを吹く娘」は、歌麿の著名な浮世絵を原色で再現したということともあいまって、全世界の切手印刷関係者に大きな衝撃を与えたとされています。 こうして、印刷局の切手製造技術が世界レベルに到達すると、その技術を見込んで、まず、台湾が日本に切手製造を発注します。 すなわち、1955年10月31日、台湾は当時の総統、蒋介石の69歳誕生日の記念切手を発行しましたが、この切手は印刷局のゲーベル・グラビア機による3色刷りのものでした。切手発行のタイミングからすると、おそらく、“こいのぼり”が発行されて間もなく、その出来栄えを高く評価した台湾側からオファーがあったものと推測されます。 もっとも、この時点では、台湾側は、当初、必ずしも日本の印刷局に全幅の信頼を置いていたわけではなかったようで、翌1956年に発行された「蒋総統誕生70年」の記念切手に関しては、印刷局ではなく、ロンドンのハリソン・アンド・サンズ社に製造を委託しています。印刷局と欧米の老舗の印刷会社を競争させ、製品の品質やコストなどを検討してみるつもりだったのでしょう。 その後も、台湾郵政は、印刷局とハリソン・アンド・サン、スイスのクールヴォアジェ社、オーストラリア国立印刷局などに切手製造を発注し、各社を競わせていましたが、1958年3月に印刷局が製造した「台湾の昆虫と花」が決め手となって、印刷局は台湾側の信頼を獲得。以後、台湾内でも精巧なグラビア印刷の切手が安定的に調製できるようになる1970年代まで、台湾の切手製造における印刷局のシェアは他を圧倒するようになりました。 1957年3月発行の「釈迦牟尼2500年」の記念切手の製造をタイ郵政が印刷局に委託したのも、1955年以来の台湾での印刷局の実績をふまえてのことであったのは間違いないまいでしょう。 また、切手表面の印刷の仕上がりに加えて、裏糊という点でも、印刷局の製造する切手はタイの状況にマッチしてものであったことも見逃せません。 現在でこそ、剥離式の台紙がつけられたシール式の切手も珍しくありませんが、歴史的に見れば、切手の裏面には水溶性の糊が引かれており、それを濡らすことで封筒などに貼りつける仕様になっているのが普通です。 このため、切手の裏糊は、①保管時に湿気を吸って貼りついてしまうことがなく(耐湿性)、②水に濡らした時だけ封筒などに貼りつけることが可能で(再湿性)、③乾燥した後には貼りつけた切手が剥がれない(強度)、ということが絶対的な条件となります。 欧米諸国のように乾燥した国では、耐湿性は重要な問題とはならず、再湿性ならびに強度を重視した裏糊で十分なのですが、日本など湿度の高い国では、欧米並みの耐湿性の裏糊では、保管中に重ねておいた切手が貼りついてしまうなどの不具合が生じることになります。実際、欧米で発行された切手のシートを日本国内で重ねて保管しておくと、貼りついてしまって板のような状態になってしまうことも少なくありません。とはいえ、欧米の切手の裏糊を薄めただけでは、再湿性や強度が著しく劣化し、郵便物に貼りつけた切手は剥がれやすくなってしまいます。 1957年3月の「釈迦牟尼1500年」の切手が発行された時点で用いられていた改良3号ゴム液と呼ばれる糊(アラビアゴム、デキストリン、デンプン、水から作られる)は、欧米諸国の切手の裏糊に比べると、日本の気候に適応したものではありましたが、それでも、耐湿性には問題があり、切手の1シートごとにグラシンの間紙を入れてシートが貼りつくのを防がなければならなりませんでした。 ところが、1957年後半から、印刷局で試用が始まった4号ゴム液の糊は、合成樹脂のポリビニール・アルコールとデキストリンに水を加えて作られたもので、従来の糊に比べて4倍の強度があることに加え、耐湿性・再湿性という点でもはるかに優れていました。もちろん、人間が舌で舐めて使用しても人体には全く無害です。 さらに、耐湿性の向上によって、それまで切手のシートとシートの間に入れられていた間紙が不要となり、郵便局の現場での在庫管理がはるかに容易となりました。日本以上に高温多湿となるタイの切手にとっても、印刷局の4号ゴム液は魅力的な素材であったことは言うまでもありません。 こうした品質面での優位に加えて、1ドル360円という円安の為替相場が設定されていたこと、さらに、大量の切手を輸送する船便貨物の時間・経費などの面で、印刷局での切手製造は欧米の印刷会社と比べてはるかに低コストで賄えるという利点がありました。 以上のような条件が相まって、印刷局は、1957年3月発行の「釈迦牟尼2500年」の記念切手の受注を皮切りに、タイ切手の製造を頻繁に受注するようになります。以後、1974年までの17年間、印刷局が製造したタイの切手は270種以上にも上っていますが、これは欧米系印刷会社の受注数をはるかに凌駕する数字で、タイの切手製造における印刷局のシェアは圧倒的なものでした。 その後、1971年の変動相場制への移行による円高の進行と、1973年のオイルショックによって印刷局での製造コストが急騰したことにくわえ、タイ国内でも品質の高い切手を製造できるだけの技術が蓄積されるようになると、印刷局のシェアも低下していきますが、その後も印刷局はタイの切手製造を受注し続けています。このことは、日タイ交流史の一コマとして、もっと多くの人々に知られていてもよいのではないでしょうか。 今回の連載記事では、上記のような切手印刷の話以外にも、日本で開催され、タイの代表も参加した“釈聖2500年 アジア文化会議”についてもご紹介しておりますので、機会がありましたらご覧いただけると幸いです。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-26 Thu 21:59
世界の海図や海、海峡の名称などを調整するため、5年に一度の総会をモナコのモンテカルロで開催中の国際水路機関(IHO)は、きょう(26日)の討議で、韓国が日本海の呼称に“東海”と併記するよう求めている問題について、従来通り、「日本海」単独呼称のままとすることを決めました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1905年10月15日に逓信省が発行した「日露戦役紀念」の絵葉書のうち、日本海海戦を取り上げた1枚です。写真の説明文は和英バイリンガル表記で、和文は“日本海海戦ニ於ケル敵艦捕獲”、英文は“Surrender of Rssian warships in the battle of Japan Sea”となっており、若干、意味が違うのですが、日本海の部分については“Japan Sea”がそのまま使われています。 日本海の古称は“鯨海”で、19世紀初頭、世界周航に際してこの海を通過したロシア海軍の提督、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンが、“日本の海”を意味するロシア語のЯпонское море(ヤポーンスコエ モーリェ)と命名したのが、日本海という呼称の国際的なルーツとなりました。 その後、日本海の名称としては、各国語で“日本の海”を意味する呼称が定着。今回の葉書でも、これを踏まえて、英文で“Japan Sea”との名称が記載されています。 朝鮮半島では、国内では“(朝鮮)東海”という呼称が使われることもありましたが、1992年以前は、すくなくとも欧文で“日本の海”を示す地名が用いられることに異議が唱えられることはありませんでした。実際、韓国は1957年にIHOに加盟していますが、当初は彼らも“日本海”という呼称に同意してたばかりか、韓国政府発行の地図にも“日本海”との表記があったほどです。 こうした経緯を無視して、1992年に突如、韓国側が日本海の呼称にクレームをつけ、“東海”との呼称を併記するように主張するようになったのは、おそらく、同年末の大統領選挙を前に、国民の支持を得るために反日を持ち出すという、彼らの悪弊が噴出したためとみるのが妥当でしょう。 当然のことながら、韓国側の主張は唐突で、すでに定着している日本海の呼称を変更しなければならない根拠も薄弱なので、当初は国際社会からもまったく相手にされなかったのですが、彼らがあらゆる機会をとらえ、倦むことなく「日本海と東海の呼称を併記せよ」と発信し続けてきた結果、日本側の発信がほとんどなかったこともあり、徐々に彼らの主張に耳を傾ける外国人も出てきています。たとえば、ことし1月末、アメリカのヴァージニア州議会で、州内の公立学校の教科書に日本海を“東海”と併記することを求める州法案の採決が行われ、結果的に否決されたものの、票差わずか1票というところまで追いつめられるという出来事がありましたが、これなどは、その典型的な事例といえましょう。 ヴァージニア州議会の件では、わが国の報道は「歴史的事実を知らない地方議員が韓国系団体のロビー活動を受けて法案を提出していた」という論調でしたが、それでは、韓国の攻勢に対して、わが国はどのような対策を講じていたのか、冷静に考えてみると、暗澹たる思いにとらわれます。 なお、今回のIHOの決定について、韓国代表団は「今回の決定はあくまでも“結論先送り”に過ぎない」という立場で、今後も国際機関の会合の場などで併記実現を働き掛けていく方針を堅持しているそうです。日本海海戦を勝利に導いた東郷元帥は「勝って兜の尾を締めよ」との名言を残しましたが、決して、今回の決定で安心してはならないということだけは肝に銘じておいた方が良さそうです。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-25 Wed 21:58
きょう(25日)は、北朝鮮当局の主張によれば、朝鮮人民軍の創建80年の記念日だそうです。というわけで、この切手を持ってきました(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年2月8日に北朝鮮で発行された朝鮮人民軍創建12年の記念切手です。 純然たる歴史的事実をまとめておくと、北朝鮮における軍事組織は、解放直後の1945年10月、ソ連占領軍による武装解除と2000名からなる“保安隊(隊長は金日成)”の創設をもって開始されました。 その後、同年11月、占領下の地域行政機関として北朝鮮五道行政局が設置されると、その一部局として“保安局”が設置されました。また、これに先立ち、同年10月には早くも新義州で航空隊が創設されています。さらに、1946年になると、1月に五道行政局の傘下に鉄道施設の保護を目的とした鉄道保安隊(同年7月、鉄道警備隊に改編)が組織されたほか、同年7月には水上保安隊が、翌8月には海岸警備隊が、それぞれ組織されました。これらが、後の朝鮮人民軍の母体となります。 一方、1946年2月には幹部養成のための平壌学院(ただし、1945年11月創立説もあります。1949年に第2軍官学校と改称)が、6月には保安訓練所が、7月には軍事指揮官を養成するための中央保安幹部学校(1949年に第1軍官学校と改称)が、それぞれ創設され、政府・軍隊の正式発足前に軍幹部の養成も開始されました。 また、解放1周年にあたる1946年8月には、実質的な軍司令部として保安幹部訓練大隊部が創設されるとともに、北朝鮮労働党の創立にあわせて「民族軍隊組織と義務的軍事徴兵制を実施すること」が確認されています。 1947年に入ると、ソ連からの軍事援助が本格的に到着するようになり、5月には全将兵に階級章が付与軍されるとともに、保安幹部訓練大隊部も人民集団軍に改編された。そして、1948年2月4日、北朝鮮人民委員会の下に民族保衛局が設置されると、これを受けて同月8日、人民集団軍は朝鮮人民軍に改称されました。 こうした経緯から、朝鮮人民軍の創立記念日はながらく2月8日とされ、今回ご紹介の切手を含めて、この日にあわせて朝鮮人民軍関連の記念切手が多数発行されることになります。 さて、1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が発足すると、民族保衛局は民族保衛省に昇格。新たに制定された1948年憲法によって、朝鮮人民軍には国防軍であることが明確に規定されました。 軍の指揮系統に関しては、1948年憲法では、国家保衛のために朝鮮人民軍を組織すると定められていたものの、軍事組織・制度についての具体的な記述はなく、1972年憲法において国防委員会委員長(第93条において国家主席が兼務するものとされました)が国家のいっさいの武力を指揮統率するものとされました。ただし、1972年憲法では、北朝鮮の武力は「労働者・農民をはじめとする勤労人民の利益を擁護し、社会主義制度と革命の獲得物を守り、祖国の自由と独立と平和を守る」(第14条)ものとされていますが、朝鮮人民軍との呼称は記されていません。これは、朝鮮人民軍の位置づけが、国防軍ではなく、革命軍(党の軍隊)へと変質したためと考えられます。 その後、金日成から金正日への権力世襲の過程で、満州での金日成の抗日武装闘争の経歴が誇張して宣伝されるようになると、1978年以降、朝鮮人民軍のルーツは解放前の満州で結成された朝鮮人民革命軍に求められるようになり、建軍記念日も、本来の1948年2月8日から、朝鮮人民革命軍が結成された(と北朝鮮が主張する)1932年4月25日に変更されました。今回、北朝鮮が朝鮮人民軍創建80周年のイベントを今日行ったのは、ここから起算してのことです。ただし、1932年の朝鮮人民革命軍結成ということじたい、歴史的事実として、はなはだ疑わしいわけですが…。 いずれにせよ、朝鮮人民軍の創建が1948年2月8日であれ、1932年4月25日であれ、1948年9月9日に北朝鮮国家として朝鮮民主主義人民共和国が建国される以前の出来事であることには変わりありません。まぁ、国家の正式な成立以前に国軍が誕生したということこそ、まさしく先軍政治だとと言ってしまえばそれまでなんですがね。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-24 Tue 12:33
ご報告がすっかり遅くなりましたが、今月から、スタンペディア・エキシビションのサイト内で、昨年の<JAPEX>に出品した1Fコレクション「シベリア抑留日本人用往復葉書」を公開しております。そのご案内を兼ねて、きょうはコレクション冒頭のこの葉書をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者の通信用に作られた専用の往復葉書のうち、タイプⅠA1と呼ばれるものです。 シベリア抑留日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、このうち、赤十字・赤新月が入ってたタイプⅠと呼ばれるものは、字体がローマン体のAとゴシック体のBの2タイプに分けられ、さらに、表題2行目の“Й”の文字の位置により細分されます。今回ご紹介のものは、“Й”の文字が上の行の“С”の下にあるタイプのⅠA1と呼ばれるものですが、このⅠA1は専門的にはさらに細かく分類されます。 葉書が差し出された時期は特定できませんが、ウラジオストクの中継印は1946年11月14日になっています。シベリアの日本人抑留者に対して本国への通信を認めた「日本人軍事捕虜と日本、満洲、朝鮮に居住するその家族との交信規定についての訓令施行に関するソ連邦内務省指令第00939号」は1946年10月20日付で発せられていますので初期の使用例と言ってよいでしょう。なお、日本に到着した際の占領当局による検閲の金魚鉢印の上には11月29日の書き込みがあります。 この葉書のには、ソ連側の検閲印として、三日月の脇に“ВЦ”の文字の入った小型の角印が、その下に7の番号の入った星形の印が押されています。このうち、“ВЦ”は軍事検閲を示すロシア語の“военной цензуры”ないしはそれに類する語句の頭文字であろうと思われます。 シベリア抑留者の通信については、現在なお未解明の部分も多いので、まずは、データを蓄積していくことが必要だろうと思います。今回、スタンペディア・エキシビションで公開した僕のコレクションにもいろいろと誤りや勘違いもあると思いますが、そうした点についても皆様にご教示いただければ幸いです。 なお、シベリア抑留者の通信については、拙著『ハバロフスク』でもその概要をご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧ください。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-23 Mon 21:25
新潟県佐渡市で、きのう(22日)、去年の春に放鳥されたトキのうち、3歳のオスと2歳のメスのつがいの巣で放鳥されたトキでは初めてひなが誕生しているのが確認されました。また、石川県では、佐渡トキ保護センターから移送され、いしかわ動物園で分散飼育中のトキのつがいが産んだ2個の卵が自然ふ化し、ひな2羽が誕生したそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1981年に発行された“自然公園50年”の記念切手で、トキが描かれています。 “自然公園”とは国立公園、国定公園および都道府県立の自然公園の総称で、1957年に制定の「自然公園法」に基づいて、優れた自然の風景地を保護するとともに、その利用によって国民の保健、休養、教化に資することを目的として指定されています。 この自然公園法の前身にあたる「国立公園法」が制定されたのは1931年のことで、同法の制定を受け、1934年3月に雲仙・霧島・瀬戸内海の3ヶ所が国立公園として最初の指定を受けたのを皮切りに、1936年2月までに、国内12ヶ所の国立公園が指定されました。 1981年は、この国立公園法の制定から50周年にあたっており、7月27日には和歌山県の加太国民休暇村で記念の自然公園大会が行われています。 今回ご紹介の切手はこれに合わせて発行されたもので、当初、1959年に発行の「自然公園の日制定」の記念切手同様、自然公園の風景を写真で取り上げる案も検討されたようです。しかし、今回の切手には、単に国立公園法の50年を記念するだけでなく、自然保護行政のキャンペーンという意味合いもあったことから、最終的に、国際保護鳥のトキが取り上げられました。 切手は森田基治が原画を担当した写実的なもので、トキの学名 Nipponia nippon にかけて、国名表示のNIPPONと額面数字の60も斜体になっています。なお、今回の切手は、わが国初のオフセット五色刷、しかも、409線の細線スクリーンという最新の技術が用いられたことにくわえ、ウィーン国際切手展デザインコンテストで銅賞を受賞したことなどが話題となりました。 ちなみに、この切手を含む1980年代前半の記念切手については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でいろいろと解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-22 Sun 17:23
南アフリカ共和国(以下、南ア)のジェイコブ・ズマ大統領が20日、長年にわたり婚約状態にあったボンギ・ンゲマさんと結婚しました。大統領の出身民族であるズールー人の慣習では一夫多妻が認められており、ンゲマさんは大統領の4人目の妻となります。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1952年に南アフリカで発行されたズールー人の伝統的な住居を描く4ペンス切手のマキシマムカードで、葉書に使われている写真は、民族衣装姿で伝統的な住居の前で並ぶズールー人の家族です。 ズールー人は、ニジェール・コンゴ語族に属するアフリカの民族で、南アからジンバブエ南部にかけて約1000万人が居住しており、南ア国内では最大の民族集団となっています。 その家族形態は一夫多妻制で、その指導権は、原則として、父親から正室が生んだ長男へと受け継がれます。ただし、複数の妻を娶るためには、妻の父親に結納として十分な数の牛を贈ることになっていますので、実際には複数の妻を持つ男性は限定されるようです。なお、一族の長である男性は豹皮の装飾を身に着けることになっており、絵葉書の男性もそれにならっています。 女性の民族衣装としては、未婚の少女は上半身裸でカラフルな珠飾りを付け、既婚女性は必ず上着を着ることになっています。今回ご紹介の絵葉書では、両脇の女性は上着を着ていますので中央の男性の妻ということになりますが、男性の左側の女性は胸を露出しているので、男性とは婚姻関係にない親族の女性(娘や妹など)ではないかと思いますが、あるいは、今回の大統領とンゲマ夫人の関係のように、正式に結婚する前の“婚約状態”の女性なのかもしれません。 さて、今回、6度目の結婚をしたという大統領ですが、これまでの6人の妻のうち、1998年に離婚したヌコサザナ・ドラミニ・ズマは現在、ズマ政権で内相を務めています。また、モザンビーク出身で5人の子をもうけたケイト夫人は2000年に自殺。このため、今回のンゲマ夫人で合計4人の妻がいるということになりました。ちなみに、大統領が現時点で認知している子は計20人にのぼり、今回の結婚式にはこれまでの妻3人も全員出席したそうです。 ズマ大統領が大統領に就任したのは2009年5月9日のことでしたが、この時点での大統領夫人は2人いました。このため、南ア政府は大統領に対する配偶者手当の大幅な増額をすることになりましたが、さらに、大統領就任後の2010年に第3夫人と結婚したこともあり、今回の結婚以前の段階で、配偶者手当の額は200万ドルを超える巨額なものとなっていました。当然のことながら、この金額はあまりにも巨額すぎるとして、国難世論の批判も根強いため、大統領府も、今回の結婚式はズマ大統領の自費でまかなわれ、妻たちもそれぞれ私邸に住んでいると弁明しています。 なお、今回の大統領の例にみられるように、南アでは一夫多妻は合法とされていますが、現実には、生活の欧米化が進む中で一夫多妻制に対しては否定的な国民も増えているようです。実際、女性に限ると、83%が一夫多妻制には反対しているとの世論調査の結果もあります。 ズマ大統領は、反アパルトヘイト闘争の闘士として投獄経験もあり、海外から反政府活動を指揮していたこともありますが、2005年には汚職疑惑を原因に当時のムベキ政権の副大統領を罷免され、さらに、汚職とレイプの容疑で起訴されるものの無罪判決を勝ち取り、復権を果たしたという経歴の持ち主。今回の結婚話も含めて、良くも悪くも“英雄色を好む”を地で行くような人物です。まぁ、南アフリカでも、こういう豪傑が世に出るのも、だんだんと難しくなっていくんでしょうな。 *よみうりカルチャーの講座お申し込みは、すべて受付を終了いたしました。また、けさ、カウンターが102万PVを越えました。この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-21 Sat 21:29
ビルマ(ミャンマー)のテイン・セイン大統領が、同国の国家元首として28年ぶりに来日しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、いわゆる太平洋戦争初期の1942年5月に発行された“ピーコック加刷”切手です。 日中戦争下において、いわゆるビルマ・ロードが蒋介石政権にとって重要な物資補給路となっていたため、日本側はビルマ・ロードによる米英の対中支援を遮断するためにさまざまな策を講じました。その一環として、ビルマの独立運動を支援することが計画され、1941年2月、陸軍大佐・鈴木敬司を長とする“南機関”が樹立され、独立の志士、アウンサンらとともに、ビルマ独立計画が動きだすことになります。 同年12月8日、日本がイギリスに宣戦を布告すると、同月28日、アウンサンを中心とする140名のビルマ独立義勇軍が(BIA)がバンコクで編成されました。BIAは日本軍とともにビルマに進撃し、彼らが前進していくにつれ、多くの義勇兵たちがこれに参加しました。 こうして日本軍とBIAは1942年3月7日、ヤンゴン(ラングーン)を占領し、4月末までに、ペグー、トングー、レパダウン、アラウンミョー、イェナンジョン、ロイコー、ラシオ、及びマンダレーの各地を占領します。 こうした状況の下で、1942年5月、ビルマ南部のイラワジ川周辺のデルタ地帯では、BIAを中心とした治安維持委員会管理下のヘンザダで、開戦以前の英領ビルマ切手にビルマの国鳥であるクジャクを加刷してジョージ6世の肖像を抹消した切手が発行されました。これが、いわゆる“ピーコック加刷切手”で、今回ご紹介のモノはヘンザダ局で加刷された1枚です。 さて、現在訪日中の大統領ですが、今日(21日)の夕方、野田首相と会談。会談後、その結果、首相は、1987年以降凍結していた円借款の25年ぶりの再開や、同国向け債権約5000億円のうち3000億円の返済免除、インフラ整備の支援などを盛り込んだ共同声明を発表したほか、ラングーン郊外の経済特区ティラワの開発計画策定に向けた覚書に署名しました。 ビルマでは、現在なお、BIAに対する日本の支援や日本占領下でのバーモ(バモオ)政権の独立などの体験が、結果的に、戦後の独立に大きな役割を果たしたという認識があります。もちろん、日本によるビルマ占領は、基本的には、日本の国益のために行ったことであり、ビルマ人にとって外国人による占領体験が歓迎されざるものであるとはいえ、占領時代のプラスの面も公平に評価してくれているのは日本人として嬉しいことです。 ビルマの民主化については、現時点では形式的なものにすぎないとの批判があることも事実ですが、ともかくも先日の選挙が粛々と行われたように、大きく逆行することはないでしょう。少なくとも、軍事政権を国際的に孤立化させた結果、中国と軍事政権との関係が強化され、中国がミャンマーの利権を独占してきたという状況が変化することが、わが国とって好ましいものであるのは言うまでもありません。その意味でも、今回の日本の支援が、結果的に良い方向に向かってほしいものですな。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-20 Fri 19:54
国内の政情不安から開催が危ぶまれていたF1のバハレーングランプリ(バハレーンGP)が、きょう(20日)、予定通り開幕しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2004年の第1回バハレーンGPの記念切手の見本です。 1971念の独立後、バハレーンは早くから原油輸出依存からの脱却をめざし、中東のビジネスの拠点、金融センターを目指したインフラ整備を進め、石油精製やアルミ精製、貿易、観光などの新規事業を積極的に展開してきました。その一環として、豪華スポーツ施設を建設し、世界大会を招致することも行われ、2004年から、首都マナーマ近郊、サキールのバハレーン・インターナショナル・サーキットでF1世界選手権のレースを開催されています。 当初、2004年のバハレーンGPは、シーズン終盤に開催される予定でしたが、断食月のラマダーンと重なるため、シーズン序盤の開催となり、その影響で、ブラジルGPがシーズン終盤に移動となりました。もっとも、イスラム暦は純粋な太陰暦でラマダーンも毎年ほぼ11日ずつ太陽暦の日付をさかのぼることになりますので、将来的には、バハレーンGPがシーズン終盤の開催に変更される可能性もあるかもしれません。 さて、バハレーンでは、昨年(2011年)2月、エジプトの反政府デモに呼応し、マナーマでも民主化を要求する反政府デモが発生し、政府はこれを武力鎮圧しました。ところが、3月に予定されていたF1開催中止問題が浮上すると、突如、サルマン皇太子が民衆への対話を呼びかけるようになりました。もともと、国内では「F1は皇太子の個人的な趣味にすぎない」「政権の権威づけに利用されているだけだ」などの批判があったこともあり、皇太子とバハレーン政府の対応は、国民の目には、民主化よりもF1を優先しているように映り、批判が噴出。当初、バハレーン政府はF1開催を10月30日に延期するとしていましたが、開催そのものへの批判は大きく、6月9日に開催を断念する旨の声明を発せざるを得なくなりました。 ことしのバハレーンGPに関しても、2年ぶりの開催で世界中に「正常化」をアピールしたい政府に対して、国民の間からは「(政府の弾圧による犠牲者の)血の上でのレースをやめろ」、「F1開催は、住民弾圧を続ける政府の立場を支持することに等しい」などとの抗議の声も上がっており、会期中は活動家による大規模な反政府デモも計画されているとか。まぁ、なにはともあれ、開幕してしまった以上、無事に終了することを祈るばかりですな。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-19 Thu 21:31
インド国防省は、きょう(19日)、核弾頭搭載可能で、中国全土を射程に収める初の長距離弾道ミサイル“アグニⅤ”(射程約5000キロ)の発射に成功しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2000年1月1日、インドが発行した「防衛研究開発機構(DRDO)41周年」の記念切手で、アグニⅡミサイルが描かれています。 アグニというのはインド神話に登場する火の神のことで、インドの弾道ミサイルのシリーズ名となっています。ちなみに、最初のアグニIは、1989年に覇者実験が行われ、射程距離は700-1200キロでした。切手に描かれているアグニⅡは、1999年4月に発射実験が行われ、射程は2000キロ以上とされています。さらに、2006年7月の実験失敗を経て2007年4月に核弾頭が搭載可能で射程距離4000キロのアグニⅢが開発されると、アグニⅡとアグニⅢの射程距離のギャップを埋めるものとして、射程距離2500-3500キロのアグニⅡAミサイルが開発され、2011年11月15日に打ち上げ実験が行われました。その後、アグニⅡAはアグニⅣと改称され、現在にいたっています。 今回、打ち上げに成功したアグニⅤは、アグニⅢをベースに改良されたもので、大陸間弾道弾(ICBM)として射程距離6000キロを目指し、2007年から開発がすすめられていました。ロケットは3段式で、第1段はアグニⅢを継承し、第2段はアグニⅢを改造したものを用いていますが、第3段は飛距離を伸ばすため、アグニⅢよりも小型化されています。 インドの軍事というと、わが国ではパキスタンとの対立に関心が集まりがちですが、インドの主要敵はあくまでも中国であり、インドの核開発は中国の脅威に対抗するために進められてきました。 その背景には、1959年から1962年まで3年間続いた中国との国境紛争での屈辱的な敗北に加え、1964年に中国が核実験を行い、さらに、1970年の核拡散防止条約(NPT)発効で核保有国が米英ソ中仏の5ヵ国に限定されたことに対する不満があります。すなわち、核兵器は究極的には廃絶すべきであるが、現実にインドに脅威を与える国(中国)が核兵器を保有している以上、みずから核武装する権利はインドにもあるはずだ、というスタンスです。 1995年、NPTは条約発効から25年を迎え、無期限延長が決定されましたが、インドにしてみれば、その不平等な性格は全く変化しておらず、しかも核保有国の保有する核兵器についての廃絶の見通しや削減義務が盛り込まれていないという点で、加盟に値するものとは言えないのも当然といえましょう。 当然のことながら、おなじく、中国と北朝鮮の核の脅威に直接さらされているわが国も同様のロジックを用いて、断固として核武装を行い、ICBMを配備して中国・北朝鮮に照準を合わせるべきだという議論が(賛否は別にして)メディアにも大々的に登場していいはずなのですが、なぜ、そうならないのか実に不思議な話です。先日の北朝鮮のミサイル発射に関しても、“国際社会と協調して圧力をかける”という論調ばかりでしたが、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と憲法前文で謳っている国では、それも仕方のないことなんでしょう。 そうであれば、“われらの安全と生存を保持”するためにも、せめて、“平和を愛する諸国民”の一つであるインドにが長距離弾道ミサイルを配備して、周辺諸民族への侵略を続ける“ならず者国家”を牽制することに対して、感謝の念を表し、拍手喝采を送るというのが理にかなった行動といえそうです。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-18 Wed 14:21
御報告が遅くなりましたが、 雑誌『ハッカージャパン』の2012年5月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手が語る宇宙開発史」では、今回は、この切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1959年9月10日に中国が発行した「ソ連の宇宙ロケット」の切手です。 1957-58年のスプートニク1-3号の打ち上げ成功を受けて、東側諸国は盟主・ソ連の業績をたたえる切手を相次いで発行しましたが、1959年にルナ1-3号が打ち上げられた際にも数多くの記念切手が発行されました。その大半は、単純にソ連との友好同盟関係を謳いあげるためのものでしたが、中国の場合は、この間にもソ連との亀裂は深まるばかりでした。 すなわち、1958年の時点では、中国はソ連が掲げた西側との平和共存路線に強く反発していたものの、両国が友好関係にあるとの体裁を取り繕おうとしていました。 ところが、1959年6月20日、ソ連は中国に対して核技術の供与は行えないと通告します。ソ連にしてみれば、米国に対する軍事的劣勢をリカバーするには、米国の核兵器増強を抑えねばならず、そのためにはアジアを非核化する必要があるということなのですが、1957年10月に締結された中ソ国防用新技術協定では、ソ連は中国に対して原子爆弾製造の技術的情報を与えると規定されていました。このため、ソ連の“協定違反”に対して、中国の対ソ不信は決定的なものとなりました。 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下で発行されました。切手が発行された時点では、ルナ2号はまだ打ち上げられていませんでしたが、すでに同年1月に打ち上げられたルナ1号は月へと向かう軌道に探査機を投入することに成功しており、その後に発行された東側諸国の宇宙切手では、ロケットと月を組み合わせたデザインのものが主流を占めています。 これに対して、今回ご紹介している中国切手のデザインは、あくまでもロケットが主役であり、月への飛行を連想させる内容とはなっていません。 念のために確認しておくと、宇宙ロケットと軍事ミサイルは、“飛び道具”として、基本的には同じ構造です。すなわち、“飛び道具”の推進体(狭義のロケットは、この推進体のことです)の先端部に爆発物を搭載した軍事目的のものをミサイル、先端部に人工衛星などが搭載されているものを宇宙ロケットと呼び分けているにすぎません。今回ご紹介の切手に描かれている“飛び道具”も、表向きは宇宙ロケットですが、実は(核)ミサイルであっても、デザイン上の大きな差異はないはずです。 切手の発行日である9月10日から逆算すると、原画の制作は6-7月頃ではないかと思われます。時あたかも、ソ連が中国に対して核技術を供与しないと通告してきた時期です。中国としては、ソ連の宇宙ロケットを称えるという形式をとって、ソ連は1957年の国防用新技術協定を遵守し、(核)ミサイル技術を供与すべしとの主張を切手に込めていたのではないかと推測することも可能でしょう。 ちなみに、切手発行後の9月30日、中華人民共和国の建国10周年にあわせてフルシチョフが北京を訪問し、毛沢東と首脳会談を行ったものの、あらゆる問題で両者の意見は噛み合わず、両国の共同声明が出せないという異常事態に終わりました。『人民日報』に「レーニン主義万歳」と題する論説が掲載され、中ソ対立が公然化するのは、それから約半年後の1960年4月のことでした。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-17 Tue 22:59
訪米中の石原慎太郎・東京都知事が、現地時間16日、日本の固有の領土で中国や台湾が領有権を主張する尖閣諸島(沖縄県石垣市)の一部を都が買い取る意向を表明しました。というわけで、島の売買にからんで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1899年に発行されたドイツ領カロリン諸島の加刷切手です。 カロリン諸島は、西太平洋のミクロネシア南部に位置し、パラオ・ヤップ・チューク(トラック)・ポンペイ(ポナペ)・コスラエ(クサイエ)等から構成されています。 1527年にポルトガル人ディエゴ・デ・ローシャがヨーロッパ人として初めてこの地を探検。1686年、スペインのフランシスコ・デ・ラスカーノ提督が国王カルロス2世にちなみカロリナスと命名し、スペイン領となりました。ただし、スペインの期待する資源には乏しかったことに加え、キリスト教宣教師による現地住民の改宗もほとんど進まなかったため、スペインの領有は名目的なものにとどまっていました。 ところが、1885年、ドイツの軍艦イルティスがヤップ島に寄港し、カロリン諸島の領有を宣言したことで、スペインとドイツの対立が発生。このため、教皇レオ13世の仲裁により、カロリン諸島はスペインの領土であるが、ドイツ人商人には通商の自由を与え、ポナペおよびヤップに船舶用の石炭補給基地を設置することで妥協が成立しました。 その後、1898年に勃発した米西戦争でスペインが敗北すると、スペインはグアムをアメリカい割譲しましたが、残りの南洋群島に関しては、1899年2月8日、ドイツに2500万ペセタ(1675万マルク)で売却。これを受けて、同年6月、カロリン諸島はドイツのニューギニア保護領の一部となり、以後、第一次大戦までドイツの支配下に置かれることになりました。 スペイン領時代のカロリン諸島では、域内での近代郵便制度は実施されず、域外との郵便のやり取りも不定期に往来する船舶の幸便に託されるだけでした。ドイツの領有後、まず、1899年10月12日にポナペに郵便局が設置され、以後、ヤップ、トラック、パラオ、アンガウルに順次郵便局が設置されていきました。当初、ドイツ当局は無加刷の切手・はがきを持ち込んで使用していましたが、1899年10月に今回ご紹介しているような地名加刷の切手が、さらに、1901年にはいわゆるカイザー・ヨット切手が使用されました。 その後、1914年に第一次大戦が勃発すると、カロリン諸島は日本の占領下におかれ、大戦後、日本の委任統治領となります。さらに、第二次大戦後はアメリカの信託統治領となり、1986年にミクロネシア連邦、1994年にパラオ共和国が独立して、現在にいたっています。 まぁ、今回の尖閣の売買は、自国の島を自治体が個人の地権者から買うという構図なので、カロリン諸島のケースと単純に同一視できないのは言うまでもありません。ただし、古来、島の売買というのは幾度となく行われており、その結果、郵便も影響を受ける事例もままありますので、機会をとらえて、その実例をご紹介していければ…と思っております。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-16 Mon 22:24
きのう(15日)はタイタニック号が1912年4月15日に沈没してから100周年ということで、各地でさまざまなイベントが行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、今年4月5日にカナダで発行されたタイタニック100年の記念切手のうち、外信用の1ドル80セント(カナダドル)切手が貼られたカバーです。未使用の切手を持ってきてもよかったのですが、たまたま、きょうになって我が家に1枚貼りのカバー(中身はオークションの落札品です)が届きましたので、そちらをご紹介します。 タイタニックはイギリスのホワイト・スター・ラインが北大西洋航路用に計画した3隻のオリンピック級客船のうちの2番船で、1909年3月31日に起工、1911年5月31日に進水しました。最後の航海となった処女航海は、1912年4月10日、ニューヨークへ向けてイギリスのサウザンプトンを出港しましたが、4月14日深夜、ニューファンドランド沖およそ600キロの地点で氷山に衝突。翌15日に沈没し、1500人以上が亡くなりました。 今回ご紹介の切手は、サウザンプトンとハリファックスの位置を記した大西洋の地図を背景に、養生を進むタイタニックの船体が描かれています。 ハリファックスはカナダ大西洋岸の最大の港湾都市で、沈没現場からは800キロほどの距離にあります。タイタニック遭難の際には、救援ならびに遺体回収のための船舶が出航した場所で、市内には121人の犠牲者が埋葬された共同墓地もあり、今回の沈没100周年にあわせて、市民や旅行客約1000人が参加しての追悼式が行われたそうです。 ちなみに、タイタニックは客船としてだけではなく、郵便の輸送にも用いられました。したがって、沈没までタイタニックで運ばれた郵便物もわずかながら残されているのですが、オークションに出品されれば軽く1万ドルはしますので、到底、僕が買えるようなモノではありません。まぁ、“タイタニックのカバー”に関しては、分相応に、今回ご紹介のモノで我慢するしかないでしょうな。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-15 Sun 23:55
1912年4月15日に金日成が生まれてから100周年になるのを記念して、北朝鮮では、きょう、平壌で大規模な軍事パレードと閲兵式が行われ、先ごろ朝鮮労働党第一書記に就任した最高指導者の金正恩が、初めて公の場で演説。金正日路線の継承を改めて宣言しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
左は、1962年4月14日に発行された“金日成元帥誕生50周年記念”切手の1枚です。画面の右半分は金日成の肖像のアップですが、左側には手を挙げて群衆に応える金日成の姿が描かれています。参考までに、ネット上の報道写真で似たようなポーズの金正恩の画像も貼っておきます。金日成がスーツにネクタイ、金正恩が人民服という違いはありますが、比べてみると、祖父と孫が非常によく似ていることがあらためてわかります。 さて、北朝鮮の建国以来、国家の最高権力を維持し続けた金日成ですが、彼の誕生日にあたる4月15日が現在のように“太陽節”と命名されたのは、彼の没後3周年にあたる1997年7月8日のことです。すなわち、同日付で、朝鮮労働党中央委員会、同中央軍事委員会、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会、同中央人民委員会、同政務院の連名による決定書「偉大なる首領・金日成同志の革命生涯と不滅の業績を末永く輝かせるために」が発せられ、これにより、彼の生まれた1912年を元年とする“主体年号”を使用するとともに、4月15日を太陽節と命名することが正式に決定されたというわけです。 金日成はソ連占領下の北朝鮮で権力を掌握し、早くも、1946年には肖像入りの切手も発行されていますが、彼の誕生日が、国家的規模で祝われるようになったのは、中国派・延安派の粛清を通じて彼が独裁的権力を掌握した1960年代以降のことで、記念切手としては、今回ご紹介している1962年のものが、純粋に金日成誕生日を祝う最初のケースとなりました。 その後、しばらく金日成誕生日の切手は発行されませんでしたが、1968年、突如、彼の誕生日に際して彼の肖像を描く切手と彼の幼年時代を題材とする切手が発行されました。これは、中国の文化大革命での金日成批判に反応した北朝鮮当局が、対抗措置として金日成の神格化を進めたことの一環として行われたものと考えられます。以後、1977年まで、原則として毎年4月15日には“金日成”に関する記念切手が発行されました。ただし、これらの記念切手は、いずれも、実質的には彼の誕生日を記念する切手であるものの、形式的には“金日成誕生日”ではなく、一応、別の題目で発行されています。ちなみに、金日成の誕生日が“全民族最大の祝日”として正式に決定されるのは、1974年のことでした。 その後、1978年から1981年までは、金日成の誕生日に金日成関連の切手が発行されていません。この時期、党大会の開催が1980年10月までずれ込むなど、北朝鮮の経済不振は深刻さを増していたため、金日成としても、自らの誕生日の記念行事の規模を縮小せざるを得なくなり、それに伴い、記念切手の発行も見送られていたのでしょう。 ところが、1980年の党大会で金日成の後継者としての地位を確保した金正日が、1982年の金日成古希記念事業を積極的に推進したことをうけて、1982年には金日成古希の記念切手が発行されています。そして、1984年以降、毎年4月15日に金日成誕生日の記念切手が発行されるようになりました。 1980年代以降の金日成誕生日の記念切手は、それ以前のものが金日成の生涯やその事跡を題材として取り上げているのに対して、万景台の彼の生家や発行当時の彼の肖像を取り上げたものが主流となっています。これは、1980年代以前の記念切手が、純粋に金日成個人崇拝を強化する目的で発行されていたのに対して、1980年代以降は、金日成神格化の余徳により金正日の権威を強化することに力点が置かれていたことによるものでしょう。それを裏付けるかのように、1994年7月、金日成が亡くなった後も彼の誕生日には記念切手が発行されつづけ、1998年以降は現在いたるまで太陽節の記念切手が発行されています。金正日の息子という以外に権力正統性の根拠を持たない金正恩もまた、その路線を継承せざるを得ないことは言うまでもありません。 ちなみに、北朝鮮では、金日成に対して“首領(様)”との敬称を付けることになっていますが、以前は、この切手にみられるように金日成元帥、金日成首相という呼称もしばしば用いられていました。ところが、このうちの元帥に関しては、ハングル表示の원수 が“怨讐(恨みつのった復讐すべき敵)”を意味する語と同音になるため、忌避されるようになったとも言われています。 29歳の新たな権力者は、権力の座だけではなく、国民の積年の恨みをも祖父・父から引き継いだわけですが、現在伝えられている情報を見る限り、どうも、彼にはその自覚は乏しいようですな。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-14 Sat 17:10
きょう(14日)、台南市政府などの主催により、烏山頭ダム整備に尽力した日本人技師・八田與一を記念して昨年オープンした八田與一記念公園で、東日本大震災に対する台湾の支援に謝意を伝えるために訪台した日本人ら約380人も参加して、桜の植樹式典が行われました。というわけで、きょうは、桜を描いた台湾切手のご紹介です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2011年12月25日に発行された「阿里山森林鉄路100年」の小型シートで、シート上方の25NTドル切手には、桜の花の下を走るSLが描かれています。阿里山は台湾では桜の名所として知られており、3-4月の桜の季節には、森林鉄路は阿里山=神木間の(神木線)で臨時列車を増発します。25NTドル切手はそのイメージを表現したものと思われます。なお、切手に描かれているSLは、観光列車として現在なお現役で運行されています。ちなみに、シート下部の5NTドル切手は、第一号トンネルと機関車・阿里山号の列車を描いています。 阿里山森林鉄路は、日本統治時代に阿里山のタイワンベニヒノキなどの森林資源輸送を目的として1906年から建設が開始された鉄道で、1908年にまず平地部分の嘉義=竹頭崎(現・竹崎)間が完成しました。その後、1912年に二萬平まで延伸され、1914年に沼の平(現・沼平)まで延伸されたことで、現在の本線部分が全線開通しています。 インドのヒマラヤ鉄道、チリからアルゼンチンまでのアンデス鉄道とともに世界三大登山鉄道のひとつと称され、渓谷を見下ろす雄大な風景や走行中の標高の違いによる森林の変化などが楽しめるため、多くの観光客を魅了しています。ただし、登山鉄道の宿命として倒木や土砂崩れなどによる事故が発生することもしばしばで、2011年4月には倒木による脱線事故が圧制したため、線路の点検や危険な樹木の伐採、防護柵の設置などの安全対策のため、一時、全線が運休していました。また、嘉義線の嘉義=奮起湖間は2008年の台風13号により施設が被災した影響で現在なお運行が再開されていないほか、奮起湖=神木間は大規模な土砂崩れが2ヵ所で起こった影響で、迂回のためのトンネル工事が行われていることもあり、運行再開は早くて2014年の予定だそうです。 さて、今回の台湾での桜の植樹には、八田與一が石川県河北郡花園村(現金沢市)の出身ということで、石川県選出の森喜朗(元首相)が「台湾の人々の真心のこもった震災支援に心から感謝する。桜が日台の絆をますます強くしてくれるよう願っている。」とあいさつしたそうですが、まさに多くの日本国民の思いを代弁したものといえましょう。 桜を通じた友好親善といえば、ワシントンの桜が今年で100年ということがメディアでも大々的に取り上げられたばかりですが、それと比べて、今回の台湾での植樹があまりクローズアップされていないように見えるのは残念なことです。まさか、「桜は日本による侵略戦争のシンボルだ」などという妄言をまき散らす連中の国に配慮した結果ではないのでしょうが、もしもそうだとしたら、実に暗澹たる気分になりますな。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-13 Fri 09:26
韓国国防省などによると、けさ(13日)午前7時39分ごろ、北朝鮮が平安北道・東倉里の“西海衛星発射場”から長距離弾道ミサイルとみられる機体を発射したものの、結果的に打ち上げ失敗に終わりました。というわけで、きょうはこの切手です。
これは、2009年7月27日、同年4月5日の“銀河2号の打ち上げ成功”を記念して北朝鮮が発行した切手で、発射基地となった咸鏡北道・舞水端里から日本の上空を飛ぶロケットの軌道を背景に、機体が描かれています。朝鮮半島の地図が“赤化統一”されており、その中にはしっかりと“竹島”も含まれています。また、北朝鮮側の主張する“打ち上げ成功”を誇示するためにも、発射当日の写真がシートの余白に入れられており、それゆえ、発射当日の発行ではなく、3ヶ月以上経過した7月27日の発行となりました。ちなみに、7月27日というのは1953年に朝鮮戦争の休戦協定が調印された日ですが、北朝鮮側では、この日は“祖国解放戦争(朝鮮戦争の北朝鮮側の呼称)勝利記念日”としており、政治的な意図を込めた発行日の選択であることは間違いありません。 事実関係を簡単にまとめておくと、銀河2号は、わが国では“テポドン2号”改良型といわれているもので、咸鏡北道・舞水端里から発射されました。このときのロケットは日本海で第1段目を切り離し、さらに太平洋上で第2段目の切り離しにも成功したものの、第3段目で不具合が発生し衛星の軌道投入には失敗したと見られています。ただし、当然のことながら、北朝鮮は衛星打ち上げに成功したと主張し、その結果として今回ご紹介の切手を発行したわけですが…。 さて、今回の“銀河3号”の打ち上げについては、先月、北朝鮮は今月12日から16日の間に「人工衛星を打ち上げる」と予告。事実上のミサイル発射実験だとして強く中止を求める国際社会の声を無視して、各国のメディアを発射場に呼ぶなどしていました。 北朝鮮にしてみれば、昨年のカダフィ政権崩壊の教訓として、今後、核武装に踏み切る国が増えることが予想される中で、ミサイル(技術)は北朝鮮にとって重要な輸出産業となりうるものですから、世界に向けて打ち上げ成功を大々的にアピールすることは、そのプロモーションとして非常に重要といえます。「国民が飢えているのにミサイルとは…」という正論に対して、国民が飢えているからこそ、外貨獲得を獲得し経済を立て直すにはミサイル開発が必要というのが、彼らの本音でしょう。また、前回の銀河2号が第2段目までのロケット切り離しに成功し、少なくとも3100キロまで飛んだことが確認されていることから(ちなみに、弾頭部は4000キロ以上離れた太平洋上に落下したと見られています)、今回の打ち上げがそれ上回るのは確実という自信もあったんでしょう。 ところが、伝えられているところによると、銀河3号は打ち上げから1分ほどでバラバラになり、打ち上げは失敗に終わった模様とのことで、懸念されていたわが国へのミサイル破片の落下もありませんでした。打ち上げ失敗の場面がリアルタイムで世界に配信されたわけではないにしろ、北朝鮮当局としては赤っ恥をかくことになったわけで、打ち上げ担当者は、いまごろ、さぞかし首筋が寒いことだろうと思います。当然のことながら、彼らのミサイルビジネスにとってもダメージは必至ですし、核兵器はあっても飛ばせないということがわかれば、アメリカもこれまでのような甘い顔はしなくなるでしょう。まぁ、これまでのかの国だったら、屁理屈をつけて“打ち上げ成功”と主張するのでしょうが、さすがに今回ばかりはそういうわけにもいかず、公式に失敗を認めましたからねぇ。記念切手も出せないでしょう。 やはり、「ミサイル輸出で一攫千金を狙うのではなく、国内を民主化して、地道に国民の生活を改善しなさいよ」という天の声が、ロケットが天に届くのを阻止したのだといえそうですな。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-12 Thu 08:59
きのう(11日)、北朝鮮の朝鮮労働党は代表者会を開き、昨年12月に亡くなった金正日を“永遠の総書記”に指名し、後継者の金正恩を新設ポストの“第1書記”に指名しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1964年、東ドイツで発行された“フルシチョフをたたえる切手”のうち、発明家とその作品を手に取るフルシチョフを描く25ペニヒ切手です。 いわゆる第一書記という肩書は、スターリン没後の1953年、ソ連の権力を掌握したニキータ・フルシチョフが、スターリン時代の反省として、党首はあくまでも書記の筆頭にすぎないという意味を込めて使用し始めたもので、個人崇拝否定の象徴と理解されていました。 ソ連共産党第一書記としてのフルシチョフは、1956年の第20回党大会でスターリン批判を行い、軍事力を含む総合的な国力ではアメリカに対抗しきれないという現実を踏まえて対米融和路線を打ち出し、軍縮を促進。その一方で、軍事力の劣勢を挽回するため、スプートニクやボストークの打ち上げを成功させ、西側世界に対して、宇宙開発とミサイル防衛でソ連が優位にあるかのような印象を与えることに成功しました。 しかし、1958年に閣僚会議議長(首相)を兼任してからは、当初共産党内で合意されていた集団指導体制を無視した独断が目立つようになり、農業政策の失敗等もあって、1964年10月、黒海沿岸のピツンダで休暇中に発生した“宮廷クーデター”で党と政府の役職を解任され、1971年に亡くなるまで事実上の軟禁状態に置かれていました。ちなみに、フルシチョフの死後、ソ連共産党のトップの役職名は、第一書記からスターリン時代と同じ書記長に戻されています。 さて、今回、北朝鮮の金正恩に与えられた第一書記というポストは、金日成の国家主席、金正日の総書記というポストをいわば“永久欠番”化したために、代替ポストとして考え出されたということなのでしょう。ただし、第一書記というのは、上述のように、絶対的な権力者ではなく、あくまでも比較第一位にすぎないという意味を込めたポストですから、ある意味で、現在の金正恩の置かれている立場を正確に表現したものといえそうです。あるいは、就任祝いの祝砲として、衛星と称するミサイル打ち上げを行うというのも、第一書記の先達であるフルシチョフ時代にソ連の宇宙開発が進展したということを踏まえてのことなのかもしれません。 ちなみに、今回ご紹介の切手は、ソ連の衛星国としての東ドイツがソ連の歓心を買うため、スターリン時代に倣って発行したものですが、そもそも、フルシチョフはスターリンの個人崇拝を否定することで権力基盤を固めて来た人物ですからねぇ。この切手が発行されたのは1964年5月15日のことでしたが、それからわずか5か月後にはフルシチョフは失脚していますから、やはり、第一書記に個人崇拝は相性が悪いということなのかもしれません。 北朝鮮では、昨年末、金正日追悼切手の1枚として、正日・正恩父子が並んだ写真の切手を収めた小型シートも発行されていますが、いずれ、金正恩単独の肖像をでかでかと取り上げた個人崇拝の切手が発行されるのでしょう。ただし、第一書記という自分の立場を忘れて、文字通りの絶対権力者であった父親の真似をして個人崇拝切手を乱発するようになると、フルシチョフの先例に倣った宮廷クーデターが発生することになるかもしれませんな。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 *よみうりカルチャー荻窪での講座のお申込み受付は終了いたしました。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-11 Wed 15:48
反政府勢力への大規模な武力弾圧が続いているシリアのアサド政権は、アナン前国連事務総長の調停に基づき、きのう(10日)までに人口一周地域から政府軍を撤収させることになっていましたが、期限を過ぎた現在なお、各地では反体制派への攻撃や戦闘が続いているそうです。というわけで、きょうはシリアがらみのマテリアルを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1920年7月11日、アレッポからテュニス宛のカバーで、ファイサルのアラブ王国が発行した正刷切手が貼られています。 第1次大戦中、英仏間の密約として結ばれたサイクス・ピコ協定により、現在のシリア・レバノンにあたる地域がフランスの勢力圏と規定されましたが、大戦の終結時、フランスはベイルートやアレキサンドレッタ、ラタキア対岸のルアド島などを占領していたにすぎませんでした。 一方、ダマスカスの陥落とともに、シリアではファイサルを首班とするアラブ政府の樹立が宣言されていたこともあり、1919年のベルサイユ会議では、アカバからアレッポにいたる内陸部は東部OETAとしてアラブ支配地域に指定され、フランス支配地域の西部OETAはティールからキリキアにいたる海岸地域に限定されています。 しかし、フランスは、あくまでもサイクス・ピコ協定の遵守を求め、シリアにおける自国の権利を主張。1919年11月、イギリス支配地域の南部OETA以外のシリア・パレスチナ全域からイギリスの占領軍を撤退させることに成功します。なお、これに伴い、フランスは西部OETAの郵便業務を引き継ぐことになり、自国の切手に「敵国領土占領(区域)」を示すフランス語(Territoiers Ennemies Occupes)の頭文字にあたるT.E.O.の文字を加刷した切手を発行しました。 一方、イギリス軍の撤退により軍事的保護者を失い、フランスの軍事的脅威に直接さらされることになったアラブ支配地域では、首長のファイサルが、フランスとの交渉により、シリア内陸部におけるアラブ政府の存在を認めさせるべく、レバノンにおける委任統治の承認やベカー高原における中立地帯の設置などの妥協案を提示していました。その一方で、ファイサル政権は、オスマン朝時代の切手を接収して“アラブ政府”と加刷した切手を発行するなど、アラブ政府の存在を既成事実化するための措置も取っていました。 しかし、シリア地域のアラブの間では、フランスとの妥協を図ろうとするファイサルの弱腰を非難する声が強く、それに押し切られるかたちで、1920年3月に招集されたシリア国民大会において、ファイサルはシリア・パレスチナ地域全域を領土とする立憲君主国「アラブ王国」の国王となり、独立を宣言。これにあわせて“シリア・アラブ王国”のカリグラフィーを中心にした切手が発行されました。 これに対して、フランスは、1920年4月のサンレモ会議において、イラク北部のモースルの支配を放棄する代償として、イギリスに対して現在のシリア・レバノンの地域を自らの勢力圏とすることを最終的に承認させることに成功。当然、アラブ側は完全独立の要求と委任統治の拒否を決議してこれに抗議しましたが、同年6月、英仏両国は、これを無視して、それぞれの勢力圏内での委任統治を開始。全シリアを軍事占領したフランスは、同年7月、ファイサルを放逐してアラブ王国を崩壊させました。 今回ご紹介のカバーはそうしたアラブ王国末期の使用例で、宛先地のテュニスは、アラブ王国の存在を認めないフランスの領土でしたが、アラブ王国の切手に関しては、料金未納扱いにせず、そのまま受け付けているのが興味深いところです。 さて、第一次大戦から現在のシリア国家が独立するまでの期間のシリアは、切手や郵便の面で非常の面白い材料が多いので、いずれはまとめてみたいと思っています。書籍化を目指すということであれば、良くも悪くも、シリア情勢が人々の耳目を集めている現在は千載一遇のチャンスなんですが…。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 *よみうりカルチャー荻窪での講座のお申込み受付は終了いたしました。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-10 Tue 22:47
ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第460号が配信となりました。今回から、先月終了した日豪戦争に代わって、「ケープ周郵記」と題する新連載をはじめました。今回は初回ということで、まずは、この切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1853年9月1日に発行された喜望峰の三角切手の4ペンスです。 1488年に喜望峰を“発見”したのはポルトガル人でしたが、1652年、この地に最初の植民地としてケープタウンを築いたのはオランダ人でした。その後、ナポレオン戦争中の1806年、イギリスはそれまでオランダ領だったアフリカ南端のケープ植民地を接収し、1815年、正式に英領として編入します。 イギリス本国で世界最初の切手が発行されたのは1840年のことですが、1847年には早くも、ケープ植民地で独自の切手発行が計画され、イギリスの海軍少佐でケープ植民地税関総監督のチャールズ・ミッチェルは、ロンドンのパーキンス&ベーコン社に切手製造コストの見積を出させています。しかし、この時は値段が折り合わず、切手の発注は見送られました。 1852年、イギリス本国の機構改革で、英領植民地の郵便機構が商務省の管轄になると、ケープ植民地でも独自の切手発行が再び課題として浮上。その際、当時のケープ植民地では識字率が低かったため、本国の切手と一目で区別できるように、三角形の切手が企画されたといわれています。 今回ご紹介の切手は、こうした経緯で発行されたもののひとつで、喜望峰を象徴する希望の女神を描く原画は、パーキンス&ベーコン社のチャールズ・ベルが制作しました。三角形というユニークな形状に加え、国家元首の肖像や紋章などの無味乾燥なデザインの切手が多かった当時においては画期的な出来栄えで、古くから収集家の間では人気のある切手です。 今回の連載では、2010年にヨハネスブルグで開催された国際切手展JOBURG 2010の終了後、ケープ半島を旅行した時の体験と切手や絵葉書を組み合わせて話を進めていきたいと思っておりますので、よろしくお付き合いいただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 *よみうりカルチャー荻窪での講座のお申込み受付は終了いたしました。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-09 Mon 16:54
パキスタン北部のギルギットならびにフンザでの宗教対立の影響で今月3日から現地に足止めされていた日本人77人が、きのう(8日)、パキスタン軍の輸送機でイスラマバードへ脱出。きょう(9日)の午後、その一部が北京経由で成田に帰国したそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1954年にパキスタンが発行した9パイサの普通切手で、ギルギット山が描かれています。 ギルギットはカラコルム山脈に囲まれた北方地域の中心都市です。ちなみに、ギルギットを州都とするギルギット・バルティスタン州は、インドとパキスタンが領有権を争っているカシミール地方のうち、パキスタン側の実効支配地域の中にあり、北側でアフガニスタン、北東側で中国、南東側でインドのジャンムー・カシミール州と接しています。もっとも、日本のメディアでギルギットのことが話題になる時には、カシミール問題に絡んでいうよりも、景勝地として名高いフンザ地区への入口として語られることが多いようです。 フンザは、ギルギット・バルティスタン州の最北部に位置しており、中国のカシュガルへ向かうカラコルム・ハイウェイ沿いに、カリーマーバードほかの集落が点在しています。世界的な景勝地として知られ、毎年春になると(ちょうど現在の時季ですな)、村や谷が杏の花でピンク色に埋め尽くされるさまは“桃源郷”とも称されています。その絶景ゆえに、スタジオジブリ側がそのように述べたことはないにもかかわらず、一部では、アニメ『風の谷のナウシカ』の“風の谷”のモデルとして紹介されることも少なくありません。 まぁ、『風の谷のナウシカ』の物語が、大国の領土争いに巻き込まれる小国という設定になっている以上、インドと中国という大国に挟まれ、さらにはカシミール問題の土地でもあるフンザと“風の谷”をだぶらせて考えたくなるというのも、気持ちとしてはわからなくもありませんな。もっとも、フンザを観光で訪れる人たちの多くは、純粋に景勝地を楽しむのが目的で、緊迫する国際関係の現場を見てみたいというケースは少ないのでしょうけれど。 何はともあれ、日本人全員が無事に救出されたことで、まずは一安心ですな。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 *よみうりカルチャー荻窪での講座のお申込み受付は終了いたしました。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-08 Sun 21:26
アフリカ南部のマラウイで、きのう(7日)、ビング・ワ・ムタリカ大統領の死去を受け、ジョイス・バンダ副大統領が大統領に就任しました。女性大統領は同国では初めてのことです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1891年に現在のマラウイの前身にあたる英領中央アフリカで最初に発行された切手のうちの3シリング切手です。 現在のマラウイ国家に相当する地域は、15世紀以来、バントゥー系のマラビ人によってマラビ帝国の支配下に置かれ、ポルトガルやアラブとの交易等が行われていました。 1850年代のデイヴィッド・リヴィングストンによる探検活動を経て、1880年代以降、この地へのイギリス人の入植が本格化すると、モザンビークを含む近隣の支配権をめぐってイギリスとポルトガルが対立。そこで、イギリスは、まず、マラウイ湖の南にあるシーレ高原一帯をシーレ高地保護領とします。さらに、1891年には、この地域を拡大してニヤサランド地区保護領を設定し、1893年にはこれをイギリス中央アフリカ保護領としました。 郵便に関しては、1891年4月、イギリス南アフリカ会社の切手に、“BCA”と加刷した切手が発行され、ブランタイヤ、ゾンバ、カロンガなどに郵便局が開設されています。加刷のBCAは“英領中央アフリカ”を意味する“British Central Africa”の頭文字をとったものです。切手発行時のこの地域の行政上の名称はニヤサランド地区保護領のはずですが、イギリス人の間では“英領中央アフリカ”という俗称が流布していたのでしょう。 その後、英領中央アフリカは1907年7月にニヤサランド保護領に改編されます。さらに、第二次世界大戦後の1953年、ニヤサランドは北ローデシア(現ザンビア)、南ローデシア(現ジンバブエ)とともに、ローデシア・ニヤサランド連邦(イギリス領中央アフリカ連邦)を構成することになりますが、連邦内のアパルトヘイト政策や南ローデシア優先の政策への反発から、1963年に連邦を脱退しました。そして、翌1964年、ニヤサランドは単独でマラウイとして独立し、国際連合にも加盟。現在にいたるというわけです。 ちなみに、今回、マラウイの大統領に就任したバンダは、ギニアビサウの臨時大統領を務めたカルメン・ペレイラ大統領代理、リベリア大統領のエレン・ジョンソン・サーリーフについで、独立後のアフリカで3人目の女性国家元首ということになります。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 *よみうりカルチャー荻窪での講座のお申込み受付は終了いたしました。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-07 Sat 21:46
先ごろ、クーデターが発生した西アフリカのマリで、きのう(6日)、同国北部を制圧したトゥアレグ人反政府武装勢力・アザワド解放国民運動(MNLA)が北部の独立を宣言。これに対して、クーデターを起こした軍事政権(民主主義制定のための全国委員会)は、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)が科した経済や外交制裁を解除することを条件に文民政権に実権を移譲することに合意しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1980年にガーナが発行したECOWAS5周年の記念切手です。加盟各国の地図のうち、現在話題のマリはEマークの左下にあります。マリの部分に畑を表すと思しき記号が2つ入っているのは、単純にデザイン上の都合だったのでしょうが、2つの記号の間に線を引くと、結果的に、今回のMNLAの主張するアザワド独立国家と軍事政権の支配領域に分割されます。 切手の主題となったECOWASは、1975年のラゴス条約に基づき設立されました。もともとは、EU(当時はEC)に倣って、関税障壁の撤廃や貿易振興などを通じた経済協力、独立の保障などを通じて、加盟国の経済・生活水準向上や政治的安定を図ることを目的とした経済共同体でしたが、域内の治安維持・紛争防止などのために独自の軍事力を持っていることから、たとえば、リベリアやコートディヴォワールの内戦では、西アフリカ諸国平和維持軍を派遣するなど、紛争解決の役割を担うことが多くなっています。また、そうした軍事力を背景に、クーデターによって政権を掌握した軍事政権に圧力をかけることも少なからずあり、2008年にはギニアが、2009年にはニジェールがクーデターを理由に資格を停止されました。また、コート・ディヴォワールに関しては、2010年の大統領選挙後の混乱を理由に資格が停止されました。 先月、マリでクーデターが発生すると、ECOWASはアフリカ連合(AU)とともに、マリの軍事政権に対して渡航や経済規制、資産凍結などの制裁を科し、隣接する5ヶ国は人道目的の活動を除き国境を封鎖していました。こうした中で、北部の独立宣言という事態への対応を迫られた軍事政権はクーデターの果実を手放さざるを得なくなったというわけです。 なお、今回のMNLAによる独立宣言に関して、AUはただちにこれを全面否定するとの声明を発しましたが、事実上の空白状態に陥ったマリ政府がMNLAを抑え込むのはかなりの困難が予想されます。となると、マリ政府の要請を受ける形で、ECOWASが西アフリカ諸国平和維持軍を派遣するということになりそうです。ただし、トゥアレグ人の独立闘争は、マリのみならず、ニジェールなど周辺諸国にとっても深刻な問題となっていますから、対応を誤ると、一挙に混乱が西アフリカの広い範囲に拡大する可能性も否定できません。 いずれにせよ、MNLAがやすやすと独立宣言を撤回するとは考えられず、彼らとしては、独立の既成事実化を進めていくことが予想されます。その過程で“アザワド切手”が登場するのかどうか、僕としてはそのあたりに興味がありますな。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 *よみうりカルチャー荻窪での講座のお申込み受付は終了いたしました。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-06 Fri 17:05
ご報告が遅くなりましたが、大手製菓メーカー(株)ロッテの季刊広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』の第15号(2012年春号)ができあがりました。僕の連載「小さな世界のお菓子たち」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1988年3月2日に台湾で発行された「民俗藝術」の切手のうち、吹糖を取り上げた1枚です。 砂糖を熱して飴状にして動物などを作る飴細工は、わが国では、平安時代初期の796年に京都の東寺が建立された際、中国大陸から招かれた職人が儀式に必要な飴をつくり、供物としてささげたのが始まりとされています。このとき作られた飴細工は、赤と白の飴をひねっただけの単純なものでした。 現在、飴細工といえば、さらした白飴に、熱いうちに細い管で息を吹き込み成型する吹き飴のイメージが強いと思いますが、この吹き飴が本格的に作られるようになったのは江戸時代以降のことです。すでに、中国大陸では、これより少し前の明末から清初にかけて、麦芽糖を煮詰めて溶かしたものを風船状に膨らませてから動物などの形に成型する吹糖の技術が開発されていましたので、この技術が長崎を通じてもたらされたということなのかもしれません。 吹糖の題材としては、鳥や金魚、猿、蝙蝠(“蝠”の字が“福”と同じ発音であることから、中華世界の伝統では縁起の良い吉鳥とされていました)などの動物が好まれましたが、今回ご紹介の切手には、金魚の吹糖を作る職人の姿が描かれています。日本の伝統的な飴細工は熱した飴を素手で加工していましたが、台湾の切手ではやけどを防ぐために手袋をしているのがわかります。この手袋には、細かな石の粉が塗られており、飴が手につかないようになっているそうです。 こうした飴細工は、かつては、中華世界の街角で盛んに作られ、子供たちの人気を集める駄菓子の扱いでしたが、現在では、そのデザイン性が見直され、人々の郷愁を誘う伝統工芸の一種として、観光地やイベントなどで売られるのが主流となっています。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 *よみうりカルチャー荻窪での講座のお申込み受付は終了いたしました。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-05 Thu 14:54
神奈川県鎌倉市の円覚寺で、国宝・舎利殿の引き戸の一部がおととい(3日)夜の暴風によって破損していたことがわかりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1962年6月15日に発行された30円の普通切手で、木村勝の原画による円覚寺の舎利殿が描かれています。 臨済宗円覚寺派の大本山とされる円覚寺は、1282年、元寇の戦没者追悼のため、鎌倉幕府の執権であった北条時宗が無学祖元を招いて創建しました。 舎利殿は釈迦の遺骨・遺灰とされる仏舎利を安置するため建物で、円覚寺の舎利殿は、開祖・無学祖元を祀る塔頭の正続院の中にあります。安置されている仏舎利は源実朝の時代に南宋から請来したものと伝えられていますが、舎利殿の建物は、もとは太平寺(鎌倉市西御門にあった尼寺。現在は廃寺)の仏殿を移築したもので、15世紀ごろの建築と考えられています。入母屋造りの典型的な禅宗様の建物として国宝に指定されました。 さて、鎌倉市によると、今回の破損は、強風を受けて外れた側面の扉が建物内に転がり込み、内側から建物正面の木製の引き戸にぶつかって30センチほどのひび割れができたというもので、きのう(4日)、寺の関係者が見つけて鎌倉市に届け出たそうです。 円覚寺の舎利殿は通常は非公開で、正月など特別の機会にのみ外観が公開されるだけとなっていますが、今年は5月3日から6日まで特別拝観が予定されています。鎌倉市によると「損傷は小さく、国宝としての価値を損ねるものではない」とのことですので、5月までになんとか修復作業を間に合わせて、予定通り特別拝観を行っていただきたいものですな。 *けさ、カウンターが101万PVを越えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 *よみうりカルチャー荻窪での講座のお申込み受付は終了いたしました。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-04 Wed 19:16
2005年6月からスタートしたこのブログですが、毎日1回ずつ更新していたら、今日の記事がちょうど2500回目になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。というわけで、“2500”に絡めて、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1956年にセイロン(現スリランカ)で発行された仏暦2500年の記念切手のうち、法輪を背景に国章の獅子が描かれています。 釈迦が入滅した年代は一般に西暦の紀元前544年とされており、ビルマやスリランカでは、この年を起源とする仏暦が用いられています。ちなみに、タイ・ラオス・カンボジアの3国では、入滅翌年の西暦紀元前543年が元年とされているため、1年のズレがあります。 このため、西暦1956-57年にかけて、上記の各国では、仏暦2500年ないしは釈迦入滅2500年の記念イベントが行われました。今回ご紹介したセイロンの記念切手もその一環として発行されたもので、切手の中央上部に“2500”の文字がしっかり見えるので、持ってきました。 獅子の背後に描かれている法輪は、もともとは仏教の教義(四諦・八正道)のことで、釈迦がブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開いた後、バラナシのサルナートで5人の修行仲間に初めて仏教の教義を説いた出来事は「初転法輪」と呼ばれます。その後、法輪は8方向に仏の教えを広める車輪形の法具としてシンボル化され、寺院の軒飾りにも使用されるようになりました。 一方、法輪の前に描かれた、右前足で剣を持つ獅子は、もともとは、15世紀から19世紀初頭にかけて存在したカンディ王朝の旗のモチーフで、現在のスリランカの国章にも受け継がれています。 スリランカの旧称であり、同国の主要部分を占める島の名前でもある“セイロン”は、紀元前5世紀、古代スリランカ最初の王にとされるウィジャヤが獅子(シンハ)と人間との間に生まれた子であるとの伝説から、その子孫をシンハラ(獅子の子孫)、彼が収めた島の名をシンハ・ディーパ(獅子の島)と呼んだことに由来するとされています。国章に獅子が使われているのも、このためです。 なお、法輪は仏教のシンボルとしてさまざまな形で切手にも取り上げられています。それらについては、拙著『切手が伝える仏像』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 下記の通り、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。 *よみうりカルチャー荻窪での講座のお申込み受付は終了いたしました。 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-03 Tue 16:38
先月22日、任期終了まで残り約1ヶ月の大統領がクーデターで失脚した西アフリカのマリで、トゥアレグ族の反政府勢力・アザワド解放国民運動(MNLA)が世界遺産の都市トンブクトゥを制圧しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1961年、独立間もないマリが発行した航空切手で、トンブクトゥのサンコレ・モスクを背景にしたトゥアレグ族が描かれています。 トンブクトゥは、サハラ以南と北アフリカを結ぶ金、象牙、塩などの通商ルートの拠点だった都市で、この地を拠点にガーナ王国、マリ帝国、ソンガイ帝国の諸王朝が繁栄し、最盛時には10万の人口を抱えていました。極東のジパング同様、ヨーロッパ人を魅了したものの、彼らがなかなかたどり着けない幻の都市として、多くのヨーロッパ人の憧れをかきたてています。 しかし、16世紀以降、ポルトガル人などが海路から西アフリカに上陸し、サハラ砂漠を経由しない通商路を開拓したことで衰退。1828年にフランスの探検家ルネ・カイエがこの地を訪れた時にはすっかり荒廃していましたが、今回ご紹介の切手に描かれたサンコレ・モスクをはじめ、ガウディを魅了した泥土の建築群は現在でも残っています。 さて、今回、トンブクトゥが陥落したことで、北部の主要都市はすべてMNLAが掌握する結果となりました。MNLA側は支配地域(キダル、ガオ、トンブクトゥの3州にほぼ相当)のマリからの独立を主張しているものの、現時点では、首都バマコのある南方に進攻する意図はないとしています。 もっとも、MNLAには、昨年のリビア内戦に旧カダフィ政権側の傭兵として参加し、リビアから大量の武器を持ち帰った戦闘員が少なからずいるとされており、その存在が周辺諸国の不安定要因になりかねないと懸念する声があがっています。また、アメリカなどは、この地域が不安定化すれば、いわゆるイスラム原理主義組織のテロ活動の拠点になりかねないとの警戒感を強めているのだとか。晩年、アフリカ諸国の盟主を自称したカダフィに対しては「どうせいつもの誇大妄想だろう」として冷やかに見る人も少なくありませんでしたが、マリの混乱は、思わぬ形で旧カダフィ政権のアフリカ諸国に対する影響力の大きさを見せつけることになりました。 いずれにせよ、任期が残り1カ月となったトゥーレ前政権では反政府勢力を鎮圧できないとしてクーデターを起こした軍事政権(民主主義制定のための全国委員会)ですが、かえって、クーデターによる混乱のすきを突かれて、10日ほどで国土の半分を失うことになったというのは何とも皮肉な話で、ついつい「あわてる乞食はもらいが少ない」という言葉を思い出してしまいました。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 4月から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順) ・よみうりカルチャー荻窪 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日 (毎月第2火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-02 Mon 12:14
きのう(1日)投開票が行われたミャンマー連邦議会の補欠選挙で、野党・国民民主連盟(NLD)を率いる民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーが当選したほか、NLDが(彼らの独自集計によれば)補選対象45議席のうち44議席を獲得し、圧勝する見込みです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ラングーン(ヤンゴン)で使用された英領インド切手です。 イギリスによるビルマ植民地化の端緒となった第一次英緬戦争が1824年に勃発すると、イギリスはヒチンス大尉をラングーン駐留部隊のための郵便を取り扱う責任者に任命。マドラスまたはカルカッタ経由での本国との通信を開始しました。ただし、この時点では、郵便印にビルマ域内の地名の表示はなく、当時のビルマ域内からの差出であることを特定するためには差出人による書込みによるしかありません。 ビルマ域内からの郵便物であることが郵便印によって各印できるようになるのは1834年以降のことです。初期の印には地名の表示はありませんが、料金支払い済みを示す“Paid”ないしは“Bearing”の字体などにより区別することが可能です。 1854年、インドで全土を対象とした最初の切手が発行されると、それらの切手はビルマにも持ち込まれて使用されるようになり、翌1855年11月からは、局名を記号で表した消印(たとえば、ラングーンはB156)も使用されています。 その後、第3次英緬戦争により、1886年、コンバウン王朝が滅亡してビルマ全土は英領インド帝国に併合。以後、1937年に英領ビルマが本国のビルマ省とインド・ビルマ大臣により、インドとは別個に支配されることになるまで、ビルマでは無加刷の英領インド切手が使用されました。 さて、NLD圧勝という結果に終わった今回の選挙に関しては、補選の議席数は全体の6.5%にすぎず、現政権へのダメージは最小限にとどまるものとみられています。とはいえ、選挙そのものは比較的まともに行われたようで、3人のスタッフが選挙監視に参加した日本外務省の佐々山拓也南東アジア第1課長は「選挙そのものは平穏に行われたようだし、大きな混乱なく終了しつつある」と話しています。また、ともかくも、アメリカやEU諸国も、今回の選挙が自由かつ公正に実施された場合、過去20年間にわたって続けてきた経済制裁を一部解除する可能性を示していましたので、おそらく、制裁解除の方向に向かうことになるのでしょう。これにより、軍事政権を国際的に孤立化させた結果、中国と軍事政権との関係が強化され、中国がミャンマーの利権を独占してきたという状況が変わるのなら、それはそれで一歩前進といえなくもありません。 ただし、(一部とはいえ)制裁解除となると、これまで、軍事政権の正統性について疑義を唱えるという立場から、1989年に軍事政権が採用した国名のミャンマーではなく、それ以前のビルマをかの国の国名として使い続けるという一部メディアの表記も変更されることになりそうです。 このブログでも、これまでは、主としてビルマという国名表記を使ってきましたが、これは、軍事政権云々ということもさることながら、ブログで取り上げる切手やカバーの地名表示は圧倒的に“ビルマ”が多いため、それにあわせて、ミャンマーやヤンゴンより、ビルマやラングーンと書く方が分かりやすいと考えていたためです。 まぁ、ミャンマーは書き言葉、ビルマの元になったバマーは話し言葉で、文字としての表記は同じだということですから、今後もビルマで押し通してもいいのでしょうが、さて、どうしたものですかねぇ。ちょっと悩むところですな。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 4月から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順) ・よみうりカルチャー荻窪 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日 (毎月第2火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
2012-04-01 Sun 23:11
米ネット通販最大手アマゾンのジェフ・ベゾスCEOが、人類初の月面着陸を達成したアポロ11号のエンジンを大西洋の海底で発見していたことが明らかになりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ブータンが発行したアポロ11号の記念切手の1枚で、ロケットの切り離し場面が取り上げられています。切手はレンチキュラー印刷の8種セットで発行され、当時は“立体切手”として話題になりましたので、ご記憶の方も多いかと思います。 アポロ11号というと、人類初の月面着陸のイメージが強いせいか、月面での宇宙飛行士の活動を描いた切手は多いのですが、さすがに8種セットでの発行となると、それだけではもたなかったんでしょうな。デザイン上のバリエーションを確保する必要からも、ロケット切り離しの場面がセットに入ることになったんでしょうが、結果的に、宇宙切手としては楽しめるものとなり、それはそれでよかったのではないかと思います。 さて、今回、アポロ11号のエンジンを探し当てたベゾス氏は、5歳の時にテレビで月面着陸を見て「科学や探検への情熱をかき立てられた」のだそうで、同じ気持ちを今の若者にも感じてほしいと1年ほど前からエンジン探査の構想を練り、音波探知機を使った探査で、水深約4300メートルの地点にエンジンが残っているのを確認したのだとか。アポロ11号の打ち上げ後に切り離され、大西洋に落ちたエンジンは5基あるそうですから、残りの4基はどうなっているのかということもちょっと気になりますな。 僕個人にとってのアポロ11号の思い出というと、大学受験の際、入試問題にアポロ11号の飛行士(たぶん、アームストロングだったと思いますが)のインタビュー記事が出題されていたことでしょうかねぇ。その文章がどういう基準で問題のネタになったのかはわからないのですが、同じ文章がその年の別の大学でも出題された後で聞きましたので、あるいは、入試業界では有名な文章なのかもしれません。 問題文の細かい部分は忘れましたが、とにかく、宇宙のロマンを熱く語って質問をぶつける記者に対して、宇宙飛行士の側がとにかく冷静で、無事に任務を終えて地球に帰還することが大事という姿勢を崩さず、話が噛み合わないという内容でした。「月に行けるのなら死んでもかまわない」という記者の気持ちもわからなくもないのですが、現実には「冗談じゃない。万に一つも帰ってこれない可能性があるのなら宇宙になんか行かない」という宇宙飛行士の発言のほうがリアリティがありますな。まぁ、いまもむかしも、マスコミというのはとかく情緒的になりがちで、冷静にモノを考えることは少ないということなのかもしれませんがね。 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★ 4月から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、各講座名(青色)をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順) ・よみうりカルチャー荻窪 4月10日、5月8日、6月12日、7月10日、8月7日、9月11日 (毎月第2火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ・よみうりカルチャー柏 4月24日、5月22日、6月26日、7月24日、8月28日、9月25日 (毎月第4火曜日)13:30~15:30 切手でたどる昭和史 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★ 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。 |
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