2010-09-03 Fri 14:38
きのう(2日)、米国務省でアメリカのクリントン国務長官、イスラエルのネタニヤフ首相、パレスチナ自治政府のアッバス議長による3者会談が開かれ、中東和平に向けた直接交渉が1年8か月ぶりに再開されました。というわけで、きょうはパレスチナがらみのこんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1988年11月にアルジェで開催されたパレスチナ国民評議会にあわせて作られた切手状のラベルの“カバー”で、ラベルにはパレスチナ国旗を背景に、東エルサレムの市街地とインティファーダの少年が描かれています。押されているスタンプには“アラブパレスチナ国家”の文字と会議の行われた88年11月15日の日付が入っています。また、余白のカシェには、“パレスチナ国家独立”の文字を覆うように、銃とオリーブが描かれています。 正規の切手ではないので額面は入っていないのですが、パレスチナ側は切手状のラベルを作って支援者の郵便物に貼ってもらうということを過去にも何度かやっていますので、このラベルもそうした性格のものだったのかもしれません。ただし、僕自身は、このラベルが実際に貼られた郵便物を見たことがないのですが…。 1987年12月、ガザで、帰宅途中のパレスチナ人が乗った車が反対車線に乗り入れたイスラエルの軍用トラックと正面衝突し、パレスチナ人4名が死亡し、7名が重軽傷を負う交通事故が発生。これに対して、軍用トラックの乗員は全員無傷でした。この事件をきっかけに、こうして、イスラエル軍の催涙ガスやゴム弾に対して、投石と火炎瓶で抵抗する“石の革命”、インティファーダ(アラビア語の原義は蜂起)が始まり、ヨルダン側西岸とガザ地区のイスラエル占領地域全域でパレスチナ住民の抵抗が続けられました。 インティファーダを鎮圧するための膨大なコストはイスラエル経済を大きく圧迫。さらに、インティファーダに共感するイスラエル本土のパレスチナ人の大規模なストライキが頻発したこともあって、1987年には5.2%だったイスラエルの国内総生産(GDP)は、インティファーダ発生後の1988年には1%台に急落します。また、強圧的な弾圧によってインティファーダを鎮静化できなかったことで、イスラエルは、パレスチナ人による自治権の要求は武力で抑え込めるものであり、考慮の必要はないとするそれまでの前提を再検討せざるを得なくなりました。 一方、インティファーダは、ベイルートを追放されチュニスに本部を置いていたPLOの指導部とは無関係に発生したものでした。インティファーダの参加者たちは、イスラエルの存在を認めた上で、パレスチナ人としての権利を獲得することを主張しており、イスラエルを破壊してパレスチナ全土を解放するというPLOの非現実的な路線の転換を求めました。 このため、インティファーダ発生から約1年後の1988年11月、アルジェで開催されたパレスチナ国民評議会では、東エルサレムを首都とするパレスチナ独立国家の独立宣言を採択。イスラエルの存在そのものを否定する従来の路線を放棄する代わりに、インティファーダで獲得した国際的認知を国家樹立がPLOの新たな基本方針となり、翌12月の国連総会に出席したアラファトは、イスラエルの承認とテロの放棄などを明言することになります。 さて、今回の交渉を通じ、アメリカのオバマ大統領は、1年以内にパレスチナ独立国家の樹立で合意にこぎつけたい考えだそうですが、聖地エルサレムの帰属をめぐってはイスラエルとパレスチナ側の意見の隔たりが大きい(1997年にパレスチナ自治政府のアラファトがエルサレムをパレスチナとイスラエルの共同首都とすることを提案すると、ネタニヤフはこれを即座に拒否し、エルサレムがイスラエルの首都であることを示すため、同年3月からユダヤ人の大規模住宅地の建設を開始しています)ことに加え、ガザ地区を事実上支配しているハマスは、かつてのPLO同様、イスラエル国家の存在そのものを認めないという立場ですからねぇ。 1988年の“独立宣言”からでも20年以上、イスラエルの建国から数えると60年以上も解決できなかった問題が、こんごわずか1年で解決できるとはとうてい思えないのですが、とりあえずは、交渉の成り行きを見守らざるを得ないでしょうな。 ★★★ イベントのご案内 ★★★ 9月4日(土) 切手市場 於・東京・浅草 台東区民会館 10:30~20:00 拙著『事情のある国の切手ほど面白い』の即売・サイン会(行商ともいう)を行います。僕は午前中から午後の早い時間まで会場にいる予定です。入場は無料で、当日、拙著をお買い求めいただいた方には会場ならではの特典をご用意しておりますので、よろしかったら、遊びに来てください。詳細はこちらをご覧いただけると幸いです。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ お待たせしました。8ヶ月ぶりの新作です! 事情のある国の切手ほど面白い メディアファクトリー新書007(税込777円) カッコよすぎる独裁者や存在しないはずの領土。いずれも実在する切手だが、なぜそんな“奇妙な”切手が生まれたのだろう?諸外国の切手からはその国の抱える「厄介な事情」が見えてくる。切手を通して世界が読み解ける驚きの1冊! 全国書店・インターネット書店(amazon、bk1、DMM.com、JBOOK、livedoor BOOKS、TSUTAYA、Yahoo!ブックス、7&Y、紀伊国屋書店BookWeb、ジュンク堂書店、楽天ブックスなど)で好評発売中! |
2009-02-02 Mon 14:13
昨日に引き続き、都内の某大学でやっている「中東郵便学」の試験問題の解説です。今日は、「このラベル(左下の画像:画像はクリックで拡大されます)を作成した組織について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。なお、試験問題ではスペースの都合からラベルの部分だけでしたが、ここでは、ラベルの貼られたカバーの全体像(右)もお見せしておきます。
これは、1970年代前半にパレスチナ解放機構(PLO)傘下のファタハが作ったラベルです。ファタハはこうした切手状のラベルを作り、“イスラエルに対するパレスチナ人の抵抗”をアピールするプロパガンダの媒体として利用するとともに、支援者に販売して資金源の一つとしていました。なお、この種のラベルは、結核予防の複十字シール同様、しばしば郵便物にも貼られましたが、それじたいは郵便料金の支払いとは無関係ですから、このカバーの場合も、別途、郵便料金は差出地のレバノン(当時のPLO本部はレバノンのベイルートにあった)の切手で納付されています。 ファタハはもともと、1956年の第2次中東戦争にエジプト軍の工兵大尉として従軍したヤーセル・アラファトが、戦後、クウェートで技師として働きながらパレスチナ解放運動を続ける過程で結成した武装組織です。 1956年の第2次中東戦争では、エジプトは英仏の介入を排してスエズ運河の国有化を達成し政治的勝利を収めたものの、イスラエル軍に簡単にスエズ運河地帯への侵攻をゆるすなど、純軍事的には敗けたも同然でした。このため、イスラエルとの戦争に勝ち目がないことを悟ったナセルは、反イスラエル各派を糾合したPLO(パレスチナ解放機構)結成のお膳立てをします。勇ましいイスラエル打倒の掛け声とは裏腹に、ナセルの本音は、反イスラエル闘争を一括してコントロールすることで、アラブの反イスラエル感情に応えるとともに、反イスラエル闘争の暴発してイスラエルを本気で怒らせることを防止する(=イスラエルとの全面戦争を回避する)ことにありました。 ファタハも1967年にPLOに参加しましたが、彼らはナセルの微温的な姿勢に反発。PLO最大派閥として、ナセルのコントロールを振り切ってイスラエルへのテロ活動を繰り返します。当時のアラファトは、「反イスラエルのテロ行為を繰り返せばイスラエルはアラブとの全面戦争に踏み切るだろうが、その場合には、全アラブの団結によってイスラエルを粉砕できる」と考えていたわけですが、じっさいに1967年6月に第3次中東戦争が勃発すると、イスラエルの圧倒的な軍事力の前にアラブ側は惨敗してしまいます。 それでも、PLO(1969年にアラファトが議長に就任)は「パレスチナに世界の注目を集める」ためとして、テロの対象を非イスラエル国民にも拡大。1970年9月には、PLO傘下の武装組織PFLP(パレスチナ民族解放戦線)が4機を同時にハイジャックする事件を起こします。この事件に激怒したヨルダンのフセイン国王は、激しい戦闘の末、PLO本部をアンマンから追放。ベイルートに移駐したPLOは、秘密テロ組織のブラック・セプテンバーを創設し、ミュンヘン・オリンピックの選手村に侵入してイスラエルの選手・コーチ11人を殺害するなど、テロ活動を繰り返しました。 1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻でベイルートからチュニスに撤退した後も、PLOは反イスラエルのテロ路線を維持していましたが、1987年にPLO不在のパレスチナで反イスラエル暴動の(第1次)インティファーダが発生します。インティファーダに際して、現地のパレスチナ人は、パレスチナから離れた土地で、イスラエル国家の解体という非現実的な主張を展開するPLOの主張に反して、イスラエル国家の存在を認めた上で自分たちの権利を保障するよう要求。このため、パレスチナ人を代表する組織ということになっていたPLOも路線転換を迫られ、アラファトもテロの放棄を公式に宣言しました。 その後も、PLOをテロ組織とみなしていたイスラエルはアラファトとの対話を長らく拒否していました。しかし、湾岸戦争でアラファトがイラクを支持した結果、PLOは国際的に孤立。アラブ諸国からの経済支援もストップし、その影響力が大きく損なわれてしまいます。 そうした中で、パレスチナでは、より過激な反イスラエルの“殉教作戦(=自爆テロ)”を展開するハマスが台頭。この頃には、PLOには昔日の勢いは全くなく、彼らは、イスラエルとの対話路線を定着させており、もはやイスラエルにとっての脅威ではなくなっていました。むしろ、PLOとその主流派であるファタハの退潮が進めば、彼らに代わってより過激なハマスがパレスチナ人の代表権を獲得することも危惧されるようになります。 こうして、ハマスがイスラエルとPLO双方にとって共通の脅威となったことで、彼らは反ハマス連合として和解に到達。1993年9月、イスラエルとPLOの相互承認とガザならびにイェリコ(ヨルダン側西岸地区の重要都市)でのパレスチナ人の自治を骨子とするオスロ合意が調印され、アラファトを大統領とするパレスチナ自治政府が発足。かつてはテロリストの頭目として恐れられたファタハのアラファトは、一転して、ノーベル平和賞を授与されました。 自治政府成立後、ファタハは長らく与党の地位にありましたが、2006年1月のパレスチナ評議会選挙ではハマスに敗れ、少数派に転落します。しかしファタハのマフムード・アッバース(2004年にアラファトが亡くなった後、大統領職を継承)は大統領の職に居座り、少数与党政権となりました。また、イスラエルとアメリカはハマスを相手にせず、引き続き穏健派のファタハを交渉相手にすると宣言し、軍事面を含む援助を行っています。 その後、2007年6月にハマスがガザ地区を占拠したことで、パレスチナはファタハの支配するヨルダン川西岸地区とハマスの支配するガザ地区に分裂し、事実上の内戦状態に陥ることになりました。 試験の答案としては、①ファタハが第二次中東戦争の産物であること、②当初は対イスラエル強硬派の武装組織で第3次中東戦争の一因となるテロ活動を繰り返していたこと、③対イスラエルのテロ路線を放棄したのは第1次インティファーダ後だったこと、④湾岸戦争後は組織が弱体化し、より過激なハマスが台頭したことで“穏健派”として自治政府の政権を獲得したこと、等に触れられていれば十分です。 さて、4日間にわたって掲載してきた「中東郵便学」の“試験問題の解説”は、とりあえず、本日で終了です。授業とは関係のない皆様もお付き合いいただきまして、ありがとうございました。なお、残りの1問は切手とは関係なく、「サダム・フセインの唱えたリンケージ論について説明せよ」というものでしたが、この点については、こちらをご覧ください。 明日(3日)からは平常通りの内容に戻りますので、また、よろしくお付き合いください。 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★ 誰もが知ってる“お年玉”切手の誰も知らない人間ドラマ 好評発売中! 『年賀切手』 日本郵趣出版 本体定価 2500円(税込) 年賀状の末等賞品、年賀お年玉小型シートは、誰もが一度は手に取ったことがある切手。郷土玩具でおなじみの図案を見れば、切手が発行された年の出来事が懐かしく思い出される。今年は戦後の年賀切手発行60年。還暦を迎えた国民的切手をめぐる波乱万丈のモノ語り。戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの別冊として好評発売中! 1月15日付『夕刊フジ』の「ぴいぷる」欄に『年賀切手』の著者インタビュー(右上の画像:山内和彦さん撮影)が掲載されました。記事はこちらでお読みいただけます。 もう一度切手を集めてみたくなったら 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 |
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