2020-10-31 Sat 02:11
プロ野球のセントラル・リーグは、読売ジャイアンツが昨年に続き、2年連続で優勝しました。というわけで、パ・リーグでのホークス優勝の時と平仄を合わせて、ソロモン諸島の切手の中から“巨人”ネタの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1974年8月29日に英領ソロモン諸島が発行した“万国郵便連合(UPU)創立100年”の記念切手のうち、ガダルカナル島の東端からマライタ島、サンクリストバル島(マキラ島)、ウラワ島など東部地区の地図を背景に、折り紙で作った郵便配達員(地図の大きさに比して“巨人”ですな)が描かれています。 1840年に英国が世界最初の切手を発行して以来、切手を用いる近代郵便制度は急速に全世界へと拡大。当初、国境を越えた郵便物のやり取りに関しては、それぞれの国がさまざまな国との間で二国間条約を結んで処理していましたが、各国ごとに郵便物の重量についての制限や段階などが異なっていたほか、条約ごとに料金体系もさまざまでした。このため、一口に外国郵便といっても、宛先によって料金や手続きがまちまちで、利用者や郵政の現場では、さまざまな不便・不都合がありました。 こうした不便を解決すべく、1862年、米国の郵政長官・ブレアは、世界共通の国際郵便条約締結を目指し、国際会議の開催を提案。これを受けて、1863年、英仏をはじめ14ヶ国の代表がパリに集まり、重量や料金の統一などについて討議し、31ヶ条からなる一般原則を採択しました。 こうした流れを受けて、1868年、北ドイツ連邦の郵政長官・シュテファンが国際郵便条約の草案を発表します。 19世紀初頭のナポレオン戦争以降、いわゆるウィーン体制下のドイツ圏では、オーストリア主導の下、35の領邦(地方君主国)と4の自由都市の緩やかな連合としてドイツ連邦が構成されていました。その後、このドイツ連邦内の主導権をめぐり、プロイセンとオーストリアが対立し、1866年6月、プロイセンはドイツ連邦からの離脱を宣言し、オーストリアに対して宣戦を布告しました。これが、いわゆる普墺戦争です。 この戦争に勝利を収めたプロイセンは、ドイツ連邦を解散し、マイン川以北の領邦との間で新連邦を形成。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国、ハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、自由都市フランクフルト・アム・マインはプロイセン領とされました。こうして、1867年、プロイセンを盟主として、22の領邦の連合体による北ドイツ連邦が成立。これを母体に、1871年に誕生したのがドイツ帝国です。 ドイツ統一以前の領邦国家の中には独自の切手を発行している国も多く、領邦間の郵便交換の調整は深刻な問題で、シュテファンが外国郵便の簡素化を各国に提唱したのも、多数の領邦国家を抱えるドイツとして、大いに不便を感じていたという事情もありました。 さて、シュテファンの提案は、ドイツ統一後の1874年、スイスの召集により開催された郵便大会議において討議され、会議最終日の10月9日、「一般郵便連合の創立に関する条約」が調印されます。この条約は1875年7月1日から施行され、以後、一般郵便連合加盟国の間で交換される郵便物は均一料金となり、現在の国際郵便網の原型ができあがりました。その後、一般郵便連合は1878年に万国郵便連合と改称され、英領ソロモン諸島は1908年に加盟しています。 ところで、この切手が発行された1970年代半ばのソロモン諸島では、日本の大洋漁業との合弁企業であるソロモンタイヨー社のプレゼンスが増大していました。 すなわち、英領ソロモン諸島政府は、1971年、大洋漁業との間で、大洋漁業が75パーセント、英領ソロモン諸島政府が25パーセントの比率で合弁企業設立の合意を締結。大洋漁業は、同年6-9月にガダルカナルを基地に行った試験操業の結果(水揚げは総計1215トン、17万ドル相当でした)を踏まえ、同年中に小さな缶詰工場と燻製工場からなる海岸拠点をツラギに建設。この海岸拠点はソロモン諸島における大洋漁業の支店本部の役割も担い、翌1972年、ソロモンタイヨー社としての営業が正式に開始されました。 ソロモンタイヨー社は、主として沖縄・宮古諸島の伊良部島出身の漁師を中心に操業し、日本本土から大洋漁業のスタッフが業務監督者としてツラギに常駐するという体制で、水揚げされた魚は、冷凍の後、米領サモア、プエルトリコ、米本土の缶詰業者に輸出されたほか、ツラギとノロの缶詰工場に送られて加工されていました。 今回ご紹介の切手が発行された1974年5月には日本向けの鰹節の製造が始まったほか、136名の漁業者と306名の地上スタッフを現地雇用し、250トンの鮮魚をホニアラ市場に提供するなど、ソロモン諸島の経済にとって重要な地位を占めるようになりました。 ちなみに、この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 11月6日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-30 Fri 11:56
パレスチナ暫定自治宣言(オスロ合意)を実現し、ノーベル平和賞を受賞したイスラエルのイツハク・ラビン首相の暗殺(1995年11月4日)から25年となるのを前に、きのう(29日)、暗殺現場となったテルアビブ市庁舎前の“ラビン広場”で追悼イベントが行われました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1995年12月5日にイスラエルが発行したラビンの追悼切手です。 イツハク・ラビンは、1922年3月1日、英委任統治下のエルサレムで生まれました。1941年にはハガナーの一部門、パルマッハに参加。第一次中東戦争ではエルサレム防衛の指揮を取り、エジプト軍と戦いました。1962年にはイスラエル国防軍の参謀総長に就任。1967年の第三次中東戦争を勝利に導きます。 第三次中東戦争に退役し、1968一年、駐米大使に任命。1973年、労働党から国会議員に出馬して初当選し、翌1974年、労働党党首となり、ゴルダ・メイアの跡を継いで1977年まで首相を務めました。 その後、1984年から1990年まで国防相を務め、その在任中に発生した第一次インティファーダに衝撃を受け、1992年に再度首相に就任すると、和平の実現を真剣に考えるようになります。 しかし、ラビンの信条とは裏腹に、和平プロセスの進展に対しては、ヨルダン川西岸とガザ地区を完全な自国領とみなして占領地の返還を拒否するイスラエル国内の右派勢力と、パレスチナ全域からのイスラエルの撤退を主張するパレスチナの強硬派がともに激しく反対。特に、イスラム原理主義組織ハマースは各種のテロ活動を展開し、多くの犠牲者を出していました。 PLOは、湾岸戦争でイラクを支援した結果、湾岸諸国からの支援を失って組織として急速に弱体化しており、ラビン政権が発足した頃には、イスラエルとの対話路線を定着させる以外に存続のための選択肢は残されていませんでした。このため、もはやPLOはイスラエルにとっての脅威ではなくなっていましたが、イスラエル側は、逆に、現状を放置すれば、PLOに代わってより過激なハマースがパレスチナ人の代表権を獲得しかねないことを危惧するようになっていました。 この結果、ハマースの勢力伸張はイスラエルとPLO双方にとって共通の脅威となります。そして、反ハマース連合をめざすラビン政権は、和平プロセスに関与しすぎた米国ではなく、ノルウェーのホルスト外相を通じてPLOと非公式に接触。イスラエルとPLOの相互承認とガザならびにイェリコ(ヨルダン川西岸地区の重要都市)でのパレスチナ人の自治を骨子とするオスロ合意がまとめられました。米国は、このオスロ合意を引き取るかたちで、1993年9月、ワシントンでパレスチナ暫定自治合意の調印式を開催します。 その後、1994年5月にはカイロでパレスチナ先行自治協定(PLOによる自治を開始するための具体的協定)が調印され、パレスチナ自治政府が発足。とりあえず、他の地位に先駆けてイェリコとガザで暫定自治が開始されました。 ところで、当時のヨルダンは神殿の丘の管轄権を除き、ヨルダン川西岸の領有権(の主張)を1988年に独立宣言を行った“パレスチナ国”に譲渡したことになっていますが、ヨルダン川西岸地区を実効支配していたイスラエルは、現在にいたるまでパレスチナ国を国家承認していません。このため、オスロ合意を受けてヨルダン川西岸地区でパレスチナ人の自治を行うにしても、いったん、当該地域の帰属をめぐって、イスラエルとヨルダンの間で調整が必要でした。 そこで、1994年に入ると、イスラエルのラビン首相とペレス外相、ヨルダンのフセイン(フサイン)国王の3者で和平交渉が開始されました。交渉に先立ち、国王はエジプトのホスニー・ムバーラク、シリアのハーフェズ・アサドの両大統領に意見を求めたが、ムバーラクが和平交渉に賛意を示したのに対して、アサドはイスラエルとは交渉のみにとどめ、いかなる合意も結ぶべきではないと主張。これに対して、米国のクリントン大統領はヨルダンに対してイスラエルと交渉を開始し、和平協定を結べば、九億ドルにも及ぶヨルダンの対米債務を免除することを約束しました。 この結果、1994年7月25日、米国でイスラエルのラビン首相とヨルダンのフセイン国王が“ワシントン宣言”に調印。同年10月、ヨルダンとイスラエルの平和条約が調印されます。 同条約により、国境が一部修正され、一部の土地がヨルダン領に編入されましたが(その場合でも、イスラエルの農民が耕作していた土地に関しては、リース方式を導入することで、従来どおりの使用権が保証された)、ヨルダンは東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区の領有権を放棄したことを確認。そのうえで、神殿の丘の管轄権はヨルダンにあること、イスラエルは毎年、ヨルダンに対して5000万立法メートルの水を提供し、ヤルムーク川(シリア南西部を水源とし、ゴラン高原の東から南へ回り込んでヨルダンとシリアの国境を、次いでヨルダンとイスラエルの国境を形成し、ヨルダン川に流れ込む川)を水源として活用することを認めること、両国は互いに相手国に対して敵対テイなプロパガンダを中止し、安全保障面で協力することなどが定められました。 これを受けて、1995年9月、イスラエルとPLOはワシントンでパレスチナ自治拡大協定を調印し、PLOの自治権が行使される地域や分野などが具体的に定められました。 しかし、イスラエル国内では、オスロ合意とパレスチナ自治政府をパレスチナ側に対する過剰な譲歩として批判する声も右派勢力を中心に少なくなからずあり、1995年11月4日、テルアヴィヴで開催された平和集会に参加した首相のラビンは、ユダヤ民族至上主義を奉じるイガール・アミンによって暗殺されました。殺害の動機について、アミンは「神の律法によれば、ユダヤ人の土地を敵に渡してしまう者は殺すべきことになっている」と語っています。 ラビン暗殺を受けて、リビア国営ジャマヒリア通信は「彼の手は虐殺されたパレスチナ人の血で染まっている」とするカダフィの歓迎声明を発表。1996年1月に行われたパレスチナ評議会選挙では、ハマース、イスラム聖戦、ヒズボラなどイスラム原理主義勢力は選挙をボイコットし、テロ活動を激化させていくことになります。 なお、この辺りの事情については、拙著『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-29 Thu 02:20
北関東で相次ぐ家畜や果物の窃盗事件の捜査に関連して、昨日(28日)までに、屠畜場の許可を受けていない場所で豚を解体したとして群馬県太田市のヴェトナム国籍の男4人が逮捕されました。警察は、複数のヴェトナム人グループが一連の窃盗事件に関与しているとみて捜査しています。というわけで、きょうはヴェトナムの豚切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1970年8月25日にヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)が発行した「地域経済開発のための3カ年計画(1968-1970)」の宣伝切手で、同計画の目標である「1人の労働者が1ヘクタールの土地で(2つの作物を含む)5トンの水田を耕作し、2匹の豚を飼育する」が図案化されています。 1954年のジュネーヴ協定で第一次インドシナ戦争が終結すると、北ヴェトナムの共産政権は地主から土地を取り上げて貧農に分配する“土地改革”を本格的に開始します。その際、各地方省の土地改革委員会には中国の顧問が招かれ、農村人口の5%は地主という中国の先例が機械的に導入されたため、実際には中農までが“地主”に認定されて土地が没収されました。 さらに、1958年には中国に倣った農業集団化が開始され、1960年末には北部での合作社化が完了しましたが、この結果、1960年には米の生産量が100万トン弱減少し、有機肥料が1ヘクタール当り、72トンから58トンに減少するなど、農村は疲弊します。 そこへ、1965年に米軍の北爆が始まり、戦火がヴェトナム全土に拡大すると、戦時体制下で南ヴェトナムへの派兵も拡大したため、農村では女性を中心とした合作社が食糧生産を支えることになります。今回ご紹介の切手も、そうした事情を踏まえて、銃を背負った女性が農業生産に従事するイメージで描かれています。 ところで、当時の北ヴェトナムではバオカップと呼ばれる配給制度が実施されていました。この制度下では、農民は農業税を納め、政府は農業合作社を通じて農産物を安価で強制的に買いあげる代償として、農業生産に必要な投入材(肥料、農機具、燃料など)や生活必需品の供給を受けるということになっていました。ただし、当時の北ヴェトナムでは工業化に必要な人員を興行部門に配置する余裕はなく、工業製品に関しては東側諸国からの援助で何とか賄うという状況であったため、ほとんどの農民は工業製品の十分な配給を得られませんでした。 1975年にヴェトナム戦争が終結し、翌1976年に統一ヴェトナムが成立すると、当然のことながら、東側諸国からの援助は戦争中に比べて激減。このため、同年末のヴェトナム共産党第4回大会(同大会で労働党から改称)では、北部で行われていた統制経済・集団農業生産体制が南部にも導入されました。 これに対して、南部では、自らの農機具や水牛を売り、土地を捨てる農民が続出。また、南部の農民に適用された農産物の買い上げ価格は北部と同額でしたが、旧南ヴェトナム時代の出荷額に比べてあまりにも安かったため、農産物を政府に売らず自由市場(闇市場)に流すことが常態化。この結果、1970年代末にはホーチミン市(旧サイゴン市)で飢餓が発生。バオカップ制は事実上破綻しました。 そこで、南部の各地方省政府は中央政府の命令に反して指令価格(政府の公定買い上げ価格)より高値で買い上げることで食糧を確保。1979 年にはホーチミン市党書記のヴォー・ヴァン・キエットが、食糧公社に命じてメコンデルタで市場価格に近い価格でのコメの買い付けを行い、すでに農民から市場価格に近い非公認価格でコメを買い上げていたアンザン省政府等に販売。こうした“非公式の実験”により、農民・市民の生活が改善され、生産の増加による税収増をもたらしたことから、1979年8月のヴェトナム共産党第4期第6回中央委員会総会で“計画外の市場(自由市場)”が承認されました。これが、後のドイモイにつながる経済改革の第一歩となります。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-28 Wed 00:14
プロ野球のパシフィック・リーグは福岡ソフトバンク・ホークスが3年ぶり19度目の優勝(南海、ダイエー時代を含む)を果たしました。というわけで、最新の拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』にちなんで、ソロモン諸島の鷹を描いた切手の中からこの1枚です。
これは、2005年にソロモン諸島が発行した“シロクロオオタカ”の切手です。 シロクロオオタカは地理上のソロモン諸島(パプアニューギニアのブーゲンヴィル州およびソロモン諸島国家の領域)の標高400mから1000mまでの熱帯雨林に棲息するタカ目タカ科の鳥で、体長28-33cm、尾長13-16cm。体毛は背部が黒く、喉から腹部が白いのが、“シロクロ”との和名の由来になっています。 もともと個体数が少ない鳥のため、昆虫やトカゲを餌としていると推定されているものの、繁殖方法など詳しい生態は不明です。これまでに捕獲された検体は、ソロモン諸島のチョイスル島とサンタイサベル島から少数と、ブーゲンビル島から僅かに1羽があるのみで、1980-90年代に行われた現地調査では、サンタイサベル島やブーゲンビル島から少数の目撃報告がなされています。 近年は、森林伐採によって棲息地が消失したことから、個体数は約1000羽と推定されており、IUCNレッドリストカテゴリー(ver.3.1)では“絶滅危惧II類(VU)”に分類されています。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-27 Tue 01:31
ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』第766号が配信されました。僕の連載、「沖縄切手モノ語り」は、今回は1950年の第2次普通切手について取り上げましたが、その中からきょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます。
これは、第2次普通切手のうち、貝を描いた5円切手(最高額)です。 沖縄にB円経済圏が形成され、第1次普通切手が発行された1948年夏は、東西冷戦が東アジアにも本格的に及んできた時期と重なっています。すなわち、1945年9月以来、米ソが分割占領していた朝鮮半島では、1948年8月には大韓民国が成立し、翌9月には朝鮮民主主義人民共和国が成立。また、中国大陸の国共内戦は共産側の優勢がほぼ確定したのもこの時期でした。 こうした状況に対応して、米国は、沖縄を太平洋戦略の要石として長期的に確保すべく、さまざまな布石を打ち始めます。 すなわち、1948年7月、米軍のための緊急徴用令が発せられたほか、1949年からは米軍基地の建設も本格的に開始されました。その一方で、1948年8月、マッカーサーは沖縄住民に一定の自治を与える準備を指令し、同年10月には民政議会が設置されたのを皮切りに、統治機構の整備が進められていきます。 その一環として、1950年4月を期して、奄美・沖縄・宮古・八重山の各地区に分かれていた郵政機関を統合し、全琉球規模での郵政機関として郵政琉球郵政庁が設置されることになりました。そして、これに合わせて、普通切手もリニューアルされることになり、1949年2月、琉球軍政本部は新切手の図案公募を開始。その結果、「芸術的見地のみではなく、沖縄の風物や歴史を描いたものを選ぶように」との琉球列島米軍政長官、ウィリアム・イーグルス少将の“指導”の下、沖縄市民代表による審査が行われ、5月に9点の入選作品が発表され、琉球郵政庁の発足に先駆け、1950年1月21日、新図案の切手(第2次普通切手)が発行されました。 この時発行された新切手は、伝統家屋の屋根に乗るシーサー(当局による発表では“唐獅子”)を描く50銭切手、沖縄乙女を描く1円切手、首里城正殿を描く2円切手、(首里城正殿の)龍頭を描く3円切手、民族衣装姿の女性を描く4円切手、貝殻を描く5円切手の6種類です。 いずれも、イーグルスの意向に沿って、日本本土とは異なる沖縄独自の文化を示すもので、1948年の切手にはあった“琉球郵便”の漢字表記が外されたこととあわせて、沖縄の独自性、ないしは日本との差異を従来以上に強調しようという意図を読み取ることができます。 このうち、今回ご紹介の5円切手の原画を制作した大城皓也は、1911年、那覇生まれ。沖縄県立第二中学校を卒業後、1930年に東京美術学校西洋画科に入学し、卒業後の1934年に帰郷。1936年、真和志村樋川原(現・那覇市樋川)に沖縄県内初の私立中学として開南中学校が創立されると、美術教師として赴任しました。1950年に琉球大学が創立されると、応用学芸部芸術科(現美術工芸科)助教授に着任。代表作に、久高島の祭事イザイホーに取材した「神々の誕生」などがあります。1980年没。 なお、大城と東京美術学校時代の同期だった岡本太郎は、1959年、大城の招きで沖縄を訪問し、その時の体験をもとに「沖縄文化論」を展開。後の太陽の塔につながったといわれています。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-26 Mon 03:13
きょう(26日)は、デ(10=Ten)ニ(2)ム(6)の語呂合わせで“デニムの日”だそうです。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1968年にベルギーで発行された広告付き葉書で、米国のジーンズ・メーカー、リーバイ・ストラウス(リーバイス)の広告が入っています。 リーバイスの創業者、リーヴァイ・ストラウスは、1829年、ドイツ・フランケン地方のブッテンハイムで織物商人の家庭に生まれました。出生時のドイツ語での名前はレープ・シュトラウス (Löb Strauß) です。 16歳の時、父親のヒルシュが亡くなったため、1847年、18歳のレープは母親と二人の姉と共にニューヨークへ移住。先に移住していた兄のヨナとルイが営んでいた織物の卸売商“J.シュトラウス・ブラザー&カンパニー”で働きはじめました。 1849年、レープはケンタッキー州西部のレイビルに移り、兄の会社の商品をケンタッキーで販売し始めました。翌1850年、姉のファーゲラ(英語名ファニー)は同じくユダヤ系の織物商、ダヴィド・シュターン(英語名デイヴィッド・スターン)と結婚し、ミズーリ州のセントルイスに移住します。なお、1853年、レープは米国の市民権を獲得したのを機に、自ら英語風に“リーヴァイ・ストラウス”と名乗るようになりました。 時あたかも、カリフォルニアではゴールドラッシュの時代です。 一家は、金鉱の労働者たちの需要を見込んで、1853年、リーヴァイが先遣隊としてサンフランシスコに渡ります。その後、リーヴァイは義兄のスターンと二人でサンフランシスコ中心部のカリフォルニア・ストリートで織物類の卸売商、“リーヴァイ・ストラウス&カンパニー”を開業しました。 リーヴァイらは、ニューヨークの兄達から織物類、衣料品、寝具、櫛、財布、ハンカチなどを仕入れて販売するだけでなく、テントや荷馬車の幌を作るためのキャンバス生地も販売し、大きな利益を挙げました。 ところで、当時の一般的な衣服は、ゴールドラッシュの時代の鉱山労働者たちが作業着として使うと、すぐに擦り切れてぼろぼろになってしまうものが大半でした。 ここに目を付けたのが、ネヴァダ州リノのテーラー、ジェイコブ・デイヴィスでした。 デイヴィスは、リガ(現リトアニア。当時はロシア領)出身のユダヤ人でしたが、1870年、リーヴァイの会社からキャンバス生地を仕入れ、作業用ズボンを製造。さらに、ポケットの両端に銅のリベットを打ち付けて補強し、頑丈なワークパンツを作って売りだします。 この“リベット補強済みパンツ”が労働者たちに好評を持って迎えられたことから、デイヴィスは特許の取得を考えました。しかし、デイヴィスは自分だけでは特許申請のための費用を捻出できなかったため、1872年、仕入れ先のストラウスに資金の援助を仰ぎ、1873年5月20日、特許番号139121号「作業ズボンのポケットを銅製の鋲で強化する特許」を二人の共同名義で取得しました。 これが、現在のリーヴァイスのジーンズの原型で、特許の取得後、リーヴァイ・ストラウス社はニューハンプシャー州マンチェスターのアモスキーグ社製の帆布を用いて、“ブルージーンズ”の製造・販売を開始。世界的な衣料メーカーへと成長していくことになります。 なお、米国におけるユダヤ系の人々の歴史については、拙著『みんな大好き陰謀論』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-25 Sun 01:22
1950年10月25日、中国人民志願軍が朝鮮戦争に正式に参戦してから、ちょうど70周年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1960年1月、中共支配下のチベット・ラサからネパール宛の書留便で、1958年11月20日に発行された“中国人民志願軍凱旋帰国”の記念切手3種が貼られています。貼られている切手の題材は、右上が「歓迎を受ける兵士」、中央が「母と抱き合う兵士」、左下が「志願軍と朝鮮人民軍」です。 1950年6月25日、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の南侵によって始まった朝鮮戦争は、当初、奇襲攻撃の利を活かした朝鮮人民軍が優勢でしたが、同年9月の仁川上陸作戦により形成は逆転。韓国・国連軍は38度線を越えて北進し、北朝鮮は国家壊滅の危機にさらされます。このため、同年10月、中国は「唇滅べば歯寒し」として北朝鮮を支えるため、“抗美援朝(米国に抵抗して挑戦を支援する)”をスローガンに“人民志願軍”を派遣しました。 ゲリラ戦に秀でていた中国側は人海戦術を展開し、銅鑼を鳴らし、ラッパを吹いて、歓声を上げながら波状攻撃を繰り返して国連軍を包囲分断。中国の参戦を予期していなかった国連軍は総崩れとなり、2週間ほどの間に、38度線以南まで後退し、計3万6000名もの損害が発生しました。さらに、12月31日、中国側は正月攻勢を発動。このため、韓国・国連軍は再び後退を余儀なくされ、翌1951年1月4日にはソウルを放棄し、平沢=丹陽=三陟を結ぶラインまで撤退を余儀なくされています。 もっとも、作戦区域を急激に拡大したことで中国の補給も伸びきり、1951年2月、国連軍は中国・北朝鮮軍の撃退に成功。以後、攻勢に転じ、3月15日にはソウルの再奪還に成功し、月末までに38度線以南の要地を確保しました。 以後、戦況は38度線を挟んで一進一退の膠着状態に陥りますが、1953年7月27日の休戦協定成立までに、中国・北朝鮮側は、約39万の米軍兵士、66万の韓国軍兵士、2万9000の国連軍兵士を戦場から“抹消”したとされています。 朝鮮戦争の休戦時、北朝鮮に派遣されていた中国人民志願軍の兵員は120万人にも達していましたが、そのうちの歩兵6個軍、砲兵・高射砲兵、鉄道兵20個師団が休戦直後から秘密裏に撤退を開始。その他の人民志願軍将兵の撤退は、1954年から1955年の第1期と、1958年の第2期に分けて段階的に実行され、1958年10月26日に全軍の撤退が完了します。 ちなみに、今回ご紹介のカバーが差し出されたラサでは、1959年3月10日、中国共産党による苛烈な支配に抵抗するチベット蜂起が発生しましたが、中国人民解放軍は力ずくでこれを抑え込み、約8万6000人のチベット人が虐殺されたほか、中国側の砲撃により多くの仏教寺院が破壊されました。やはり、時系列的に考えれば、朝鮮からの人民志願軍の撤退により兵力に余裕が生じた人民解放軍が、その余剰分をチベットをはじめ西南方面に振り向けたと考えるのが妥当でしょう。 なお、朝鮮戦争に参戦した中国人民志願軍については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-24 Sat 00:52
きょう(24日)は、1945年10月24日に国際連合(以下、国連)憲章が発効して国連が正式に成立したことにちなむ“国連デー”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1955年11月3日、国際連合韓国復興支援機関(United Nations Korean Reconstruction Agency;UNKRA)東京事務所から英国宛のエアメールです。1956年にわが国が国連に加盟する以前に国連機関のオフィスが東京にあり、国連マークの入った封筒が使われているのがミソです。 UNKRAは、朝鮮戦争中の1950年10月、韓国・国連軍が中朝国境に達し、国連加盟国の多くが戦争はまもなく韓国・国連軍の勝利に終わるであろうと考えていたことを受けて、同年12月、米国を中心に設立されました。本部の所在地は釜山です。 しかし、UNKRAの創設とほぼ時を同じくして、中国人民志願軍の参戦により戦争は長期化し、韓国・国連軍の勝利が遠のいたことで、1953年7月の休戦まで、その活動はかなり限定的なものとならざるを得ませんでした。それでも、1951年8月以降、韓国で発行された学校教科書は、UNKRAから用紙の提供を受けて制作されたため、“ウンクラ教科書”と呼ばれ、その奥付には、当時の文教部長官、白樂濬の署名入りで、以下のような感謝文が英語と韓国語で掲載されています。 国際連合韓国再建委員団(ウンクラ)は、韓国の教育のために、4285年(=1952年)度の国定教科書の印刷用紙1540トンを文教部に寄贈した。この本は、その紙で印刷したものである。我々は、この有難い援助に感謝する心で、もっと頑張って勉強をし、韓国を再建するたくましい労働者になろう。 1953年に朝鮮戦争が休戦となると、UNKRAの活動は戦争で家を失った難民の支援が中心となり、1958年の活動終了までに、米国のみならず、メキシコなどからも拠出を得て、総額1億5000万ドルの支援を行いました。今回ご紹介のカバーも、その過程で差し出されたものです。 なお、朝鮮戦争休戦後の復興支援において、わが国が果たした役割については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(23日)、アクセスカウンターが226万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-23 Fri 02:35
中国外務省の趙立堅報道官は、きのう(22日)、ヴァティカン(ローマ教皇庁)との間で、中国国内の司教の任命権問題をめぐる暫定合意を2年間延長したと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1990年にヴァティカンが発行した“北京・南京教区300周年”の記念切手のうち、北京最大のカトリック建築である西什庫天主堂(北堂)を取り上げた1枚です。 16-17世紀にかけて、イエズス会は海外への布教を積極的に行いましたが、その一環として、1582年、イタリア出身の宣教師マテオ・リッチが広東に入ります。リッチは科学知識を武器に布教に努め、1601年には明の皇帝(万暦帝)への謁見を果たし、北京での居住と中国本土での布教の許可を得て、中国大陸におけるキリスト教伝道の基礎を築きました。 1644年、中国本土を制圧した清朝の順治帝は、1650年、ドイツ出身のイエズス会宣教師アダム・シャールに対して、北京最初の本格的な天主堂として、聖母無染原罪堂(所在地にちなんで宣武門内天主堂、紫禁城との位置関係から南堂などとも呼ばれる)の建設を許可。さらに、順治帝の跡を継いだ康熙帝の時代には、中国全土でおよそ30の天主堂が建てられ、1690年には現在の北京と南京の教区(キリスト教で一定地域の教会をまとめた教会行政上の組織。司教区とも呼ばれる)の基礎も築かれました。今回ご紹介の切手は、ここから起算して300年になるのを記念して発行されたものです。 今回ご紹介の切手に取り上げられた西什庫教会は、康熙帝治世下の1703年、中南海湖畔蚕池口(現在の旧北京図書館斜め前)に建てられた救世主堂です。 しかし、翌1704年、いわゆる典礼問題が起こり、ローマ教皇イノケンティウス12世が中国人信者の伝統的祭祀への参加を禁止すると、翌1705年、康熙帝はイエズス会以外の布教を禁止。さらに、康熙帝の死後、1722年に皇帝となった雍正帝は、キリスト教の布教を全面的に禁止します。ただし、その後も、イエズス会の宣教師は宮廷の教師として布教を伴わない活動は許されていました。 こうした経緯を経て、1887年、救世主堂は中南海の拡張にともない取り壊され、後に清政府が銀45万両を投じて西安門内の現在地に建設され、その所在地にちなんで西什庫教会と呼ばれるようになり、さらに、1900年の改修で現在の姿となり、現在にいたっています。 さて、1929年に成立したヴァティカン市国は、1942年、中華民国と正式な外交関係を樹立し、1949年に国民政府が台湾に遷移した後も関係を維持していました。 これに対して、中国大陸を制圧した共産党政権は、1951年、国内のカトリック信者に対し、ローマ教皇との決別を命じましたが、教皇庁駐中国大使のアントニオ・リベリは「ローマ・カトリック教会は超自然的で国境や政治的差異により分割出来るものではなく、いわゆる自立したカトリック教会は単に離教的な教会であり、真実かつ唯一の普遍的な教会ではない」 と宣言して抵抗。すると、1952年、中共政府は、ヴァティカンに対して一方的に外交関係断絶を宣言し、“反革命罪”の名のもとにリベリ大使をはじめ、あらゆる外国籍宣教師を国外追放しました。 こうしたカトリックへの弾圧を目の当たりにしたプロテスタント諸派は、1954年、中国基督教三自愛国運動委員会を設立し、中共に対して「三自愛国運動(①自養=中国人自身の力で教会を支える、 ②自治=中国人自身で教会を運営する、 ③自伝=中国人自身の力で伝道する)を提案することで、生き残りを図りました。この結果、彼らは「中国基督教会宣言」を発し、①中国における教会は帝国主義との如何なる関係も断つ、②中国における教会の完全な自立を実現し、新中国の建設のために努力する、ことを中共に約束しました。 一方、ヴァティカンとの外交関係が断絶したとはいえ、中国国内には相当数のカトリック信徒が存在していたことから、1957年、中共の主導により、ヴァティカンから独立した“(自称)カトリック組織”として、中国天主教愛国会(以下、愛国会)が創設され、皮漱石が初代主席に(第2代として再任され、1978年まで在任)就任。愛国会は、教皇の権威を否定し、カトリックの信者に対しては政府公認の教会のみでの礼拝を認め、カトリックの教義では教皇の権限である司教の選任と叙階を愛国会として独自に開始します。 その後、1960年代後半の文化大革命の時代にはカトリックを含む諸宗教は迫害され、公認教会も閉鎖されます。また、1971年、台湾が国連の代表権を喪失した後も、ヴァティカンは台湾との国交を維持し、両者の対立は続きました。 1982年、鄧小平の改革開放路線を受けて制定された現行憲法では、人民の“信教の自由”が保障され、公認協会が復活します。ただし、その一方で“外国の影響を受ける宗教組織”の活動は認められておらず、政府の登録を受けられない非公認協会は“地下教会”として、その活動は大きな制約を受けています。そして、中国政府にではなく教皇に対して忠誠を誓うカトリックの信徒の多くは、非公認の“地下教会”での礼拝を余儀なくされ、当局による活動の妨害や、関係者の逮捕などが続いているとされています。 こうした経緯を経て、東西冷戦が終結した1990年代以降、ヴァティカンの外交政策は、先進諸国での人口の伸び悩みにより、信者数の拡大が困難になる中で未開拓のまま残された“巨大市場”としての中国に魅力を感じる対中融和派と、カトリックの教義を曲げて共産中国に阿ることを潔しとしない強硬派の間で揺れ動くことになりました。1980年代まで、ヴァティカンの切手には“中国”という題材がほぼ登場しませんでしたが、1990年に今回ご紹介の切手が発行されたのも、そうした時代の変化を反映したものだったわけです。 そうしたヴァティカンの中でも、近年、特に対中強硬路線の急先鋒として知られていたのが前教皇のベネディクト16世でした。 すなわち、ベネディクト16世は、2007年5月27日付で「中華人民共和国におけるカトリック教会の司教、司祭、奉献生活者、信徒への手紙」を発表。「中国筋が国内の合法教会を『天主教愛国会』と総称するのは愛国会の働きを増強することにあり、国内のカトリック教会と普遍の教会の関連性を否定するものである。しかもカトリック教会の特徴と愛国会の運用上の性質から見れば、愛国会は教会と呼べるものではなく、一つの政府方面の色彩を帯びた、中国政府の教会管理機構に隷属している」と指摘。 さらに、2010年のクリスマス説教では、(2010年11月以降のバチカン未承認のカトリック司教の任命やバチカン公認司教の弾圧を含めた中国国内におけるカトリック信者の弾圧について)「宗教と良心の自由に対する制限があっても心を失うことなく、キリストと教会への忠誠を保ち、希望の炎をともし続けるよう」訴え、また「政治・宗教指導者に、信教の自由を尊重する考えがもたらされることを願う」として、中共政府を批判。これに対して、中国国家宗教事務局は「極めて無礼で根拠がない」と反論し、中国天主教愛国会の劉柏年名誉議長もヴァティカンを非難しています。 これに対して、2013年に教皇となったフランシスコは、米・キューバ国交回復を積極的に仲介したほか、西側諸国がロシアによるウクライナ紛争への介入を非難するなかで、一貫して、ロシアへの批判を避け、プーチン政権に宥和的な姿勢をとるなど、アメリカ大陸出身の初の教皇として、従来の教皇とは異なる独自路線を推進。その一環として、カトリック人口の急速な落ち込みを補うことを企図して、対中融和路線に大きく舵を切ります。 すなわち、2015年9月28日には、教皇自らが中国政府との接触を認め、バチカンの国務長官ピエトロ・パロリンが中国との国交樹立の意向を明言しています。 ところが、その翌年の2016年10月、中国は、宗教活動に関する規定として、「愛国心、平和、中国の夢、穏健、道徳、そして良いふるまい」を盛り込んだ「改正宗教事務規定」を制定。以後、①海外での宗教的訓練、会議、活動に参加するよう市民を組織すること、②説教、③宗教的活動を組織すること、④宗教的施設の設立や学校内に宗教的な場所を設けること、⑤インターネット上で宗教的なサービスを提供すること、⑥不認可の宗教的場所で宗教活動を組織すること、などは禁止され、カトリックの地下教会の集会や、ムスリムのメッカ巡礼が監視対象となり、20人以上の宗教集会は徐々に困難になっていきました。 当然のことながら、中国政府のこうした宗教政策は信教の自由を制約するものとして西側世界の批判が根強いのですが、教皇フランシスコ率いるヴァティカンは、2018年9月22日、司教の任命権を巡り、中国が教皇の国内における地位を認める代わりに、ヴァティカンは中国が独自に任命した司教を認めるという内容での2年間の暫定合意を中国と結んでいます。 すでに2018年の時点で、カトリック香港教区の陳日君枢機卿は「信教の自由を中国が認めることを前提にすべき」として、「改正宗教事務規定」のある中国との暫定合意への懸念を表明していましたが、今回の延長措置でも、陳枢機卿の悲痛な訴え(とその背後にある中国人カトリック信徒の人権)は完全に無視された格好となりました。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-22 Thu 01:18
チェコのプリムラ保健相は、きのう(21日)、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、きょう(22日)から11月3日まで、全土で生活必需品などを除くほとんどの商店を閉鎖し、外出も大幅に制限するロックダウン(都市封鎖)を実施すると表明しました。チェコはことし3-4月の流行第1波は抑え込みましたが、9月ごろから感染者が急増し、人口当たりの新規感染者数は欧州でも最悪級の水準となっています。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1943年10月4日、ベーメン・メーレン(ボヘミア・モラビアのドイツ語読み)保護領のピヴィーンからアウシュヴィッツ収容所の収容者宛に差し出された書留便ですが、収容者宛に書留便を送ることは認められていなかったため、差出人に返戻されています。 第二次大戦勃発前年の1938年9月29-30日に行われたミュンヘン会談の結果、対独宥和政策を取る英国のネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相は、「ズデーテンラントは我々の最後の領土的要求であり、チェコスロヴァキアの独立を侵害するつもりはない」と主張するヒトラーに譲歩し、ズデーテン地方のドイツ編入を容認。同年10月1日には、ズデーテンラントでのドイツによる軍政が施行されました。その後、ヒトラーは前言を翻し、1939年3月、チェコスロヴァキア国家を解体。ドイツはチェコ地域の主要部を併合して、ボヘミアとモラビアの主要部分にベーメン・メーレン保護領を設置します。今回ご紹介の郵便物の差出地であるピヴィーンは、現在の行政上はチェコ共和国オロモウツ州にありますが、上記のような事情でベーメン・メーレン保護領に編入されたため、切手も同保護領のモノが貼られています。 さて、1940年、ポーランド南部に開設されたアウシュヴィッツ収容所は、もともとは、ポーランド人の政治犯・捕虜を収容するための施設でした。ところが、1941年6月の独ソ戦勃発を経て、1942年1月のヴァンゼー会議で「ユダヤ人問題の最終解決」が決定されると、ドイツ勢力圏下の欧州各地からユダヤ系の人々がアウシュヴィッツに移送されてくるようになり、アウシュヴィッツとベーメン・メーレン保護領との間でも郵便物の往来が始まりました。 なお、アウシュヴィッツ収容所とその郵便については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-21 Wed 00:04
1520年10月21日、フェルディナンド・マゼランの艦隊が南米大陸とフェゴ島の間に大西洋と太平洋を結ぶ海峡(マゼラン海峡)を“発見”してから、ちょうど500年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、チリ領南極の根拠が1494年のトルデシリャス条約にあることを主張したチリの切手(1958年発行)で、マゼラン海峡とその周辺の地図が描かれています。 15世紀後半、ポルトガルはアフリカ南端を経由する東回りでのアジア進出を目指していましたが、スペインはこれに対抗して西回りでのアジアへの到達を狙い、1492年、コロンブスを派遣し、西インド諸島に到達しました。 これを受けて、スペインとポルトガルの両国は、教皇アレクサンデル6世の承認の下、西アフリカのセネガル沖に浮かぶカーボベルデ諸島の西370リーグ(1770km)の海上、西経46度37分の子午線を境界とし(教皇子午線)、その東側の新領土をポルトガル領、西側をスペイン領とするトルデシリャス条約を1494年に締結。スペインから独立したチリは、スペインから継承した同条約が南極領有の根拠の一つであると主張しており、今回ご紹介の切手ではそのことが表現されています。 ところで、同条約が結ばれた時点では、西洋社会には“地球の裏側”についての情報はほとんどありませんでしたが、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが東回りでインドに到達。さらにペドロ・アルヴァレス・カブラル、ルイス・デ・アルメイダ、アフォンソ・デ・アルブケルケらの東方進出が進み、1514年以降、モルッカ諸島での香辛料貿易を開始しました。 それを知ったスペインのカルロス1世(神聖ローマ皇帝としてはカール5世)は、トルデシリャス条約での分界線を東半球に延長すれば、モルッカはスペインの勢力県内に入るのではないかと考え、それを確認するための船団の派遣を決定します。その団長として推挙されたのが、ポルトガル人でありながら、待遇への不満からポルトガルの宮廷を去ったマゼランで、カルロス1世に謁見した彼は、大アジア半島の南に香料諸島・インドへ通じる海峡があること、東回りよりもはるかに航路の短い西回りルートはポルトガル人よりはるかに安いコストで香料を手に入れることができることを説明し、艦隊を指揮する許可を得ました。 こうして、1519年8月、セビリアを出航したマゼランの艦隊は、大西洋を横断してブラジルの海岸沿いに南下しながら、西側に抜ける水路を探索。1520年10月21日、南米大陸とフェゴ島の間の海峡を発見します。これがいわゆるマゼラン海峡です。 セビリアを出発した時には5隻だったマゼランの艦隊は、海峡の入口に到達したときには4隻になっていましたが、さらに、海峡を抜ける途中で艦隊最大の船であったサン・アントニオ号が離脱してスペインに帰国。サン・アントニオ号の離脱を知らなかったマゼランは海峡のなかでサン・アントニオ号が戻ってくるのを待っていましたが、最終的に3隻のみで海峡を進み、11月28日、太平洋に到達しました。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-20 Tue 01:45
米国の食品会社、ホーメルが、“呼吸できるベーコン(Breathable Bacon)”という名前で同社のベーコンの香りがするマスクを開発。10月28日まで特設サイトからの申込みで無料配布され、ひとつの申し込みにつき1食(1万食まで)が米国の恵まれない人たちに寄付されるそうです。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2019年10月1日、シビウが“欧州美食地域”に選ばれたことを記念してルーマニアが発行した切手のうち、シビウのランドマーク、時計塔と、豚肉で知られる同地のハム、ベーコンを取り上げた1枚です。 紀元前のデンマーク人は、塩漬けにした豚肉を火であぶったものを航海用の食糧として用いていましたが、あるとき、たまたま湿った薪の煙で燻されたものが、風味が良く、より長期間の保存に耐えることが分かったため、人為的に塩漬けの豚肉を煙で燻したものが作られるようになりました。これが、現在のベーコンの原型で、いったん塩漬けにした豚肉を塩抜きしてから燻製したものは、欧州大陸では古くから食されていました。 現在のように“ベーコン”の名で世界的に普及するのは、16世紀末、英国艦体が世界各地に進出していく過程で、政治家であり哲学者でもあった随筆家のフランシス・ベーコンが船舶用の食糧として塩漬け豚肉の燻製品を大量に作らせたことによるものです。ちなみに、ベーコンとその製法がわが国に伝わったのは幕末のことでした。 今回ご紹介の切手の題材となっているシビウは、12世紀半ば、ハンガリー王ゲーザ2世が辺境防衛のためにザクセン人(ドイツ人)を招いて入植させたのがルーツで、中欧とバルカン半島を結ぶルート上に位置するため、歴史的に、さまざまな勢力の侵攻を受けてきました。 1691年以降はハプスブルク家の支配下でドイツ語名のヘルマンシュタットと呼ばれ、トランシルヴァニアの文化的・経済的な中心のひとつとして繁栄。さらに、1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が発足すると、ハンガリー王国に編入され、ハンガリー語の“ナジセベン”と呼ばれました。現在のように、ルーマニア語の“シビウ”となったのは、第一次大戦終結後の1918年12月1日、ハプスブルク帝国の崩壊により、トランシルヴァニアがルーマニア領になってからのことです。 ちなみに、シビウとその歴史については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行:ルーマニアの古都を歩く』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-19 Mon 02:32
菅義偉首相は、就任後初の外遊として、昨日(18日)午後、東京を出発し、ヴェトナム・ハノイ市に到着しました。というわけで、きょうはヴェトナム関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1992年にヴェトナムで発行された“儒者・朱文安(チュー・ヴァン・アン)生誕700周年”の記念切手が貼られた実逓カバーです。 朱文安は、昇龍(タンロン、現ハノイ)の生まれ。幼少時から秀才として知られ、科挙に合格し大学生となりましたが、清廉剛直な人柄で、不正を憎むがゆえに、腐敗した宮廷には出仕せず、自宅で私塾を開き、弟子たちの教育を行っていました。その才を惜しんだ陳朝大越の第5代皇帝、明宗(在位1314-29)は、彼を国子監(官吏養成機関)の教師として招聘。皇太子で後の第6代皇帝、憲宗の教育にあたらせました。 憲宗は、1329年、父から譲位されて11歳で即位したものの、父の明宗が太上皇として権力を保持。憲宗は1341年に23歳の若さで崩御し、弟の裕宗が6歳で第7代皇帝となりましたが、その後も太上皇の明宗が実権を握り続けました。 1357年、明宗が崩御すると、ようやく裕宗の親政が始まりましたが、裕宗は酒色に耽り奢侈を好むなどして国政が乱れたため、朱文安は皇帝を諌め、7人の奸臣を処断するよう「七斬疏」と題する上奏文を献じましたが、裕宗は聞き入れませんでした。このため、朱は職を辞して隠棲し、1370年に亡くなりました。死後、朱は勅命により文貞公の称号を追贈され、孔子を祀る文廟に合祀されました。 朱文安はヴェトナム史上最高の知識人の1人としてヴェトナム人の尊敬を集めており、ハノイ市内には、文廟近くには彼の名を冠したチュウ・ヴァン・アン通りや、チュウ・ヴァン・アン中学、高校があります。ちなみに、同中学校は、2003年、ヴェトナムの中等教育段階で初めて、第1外国語科目としての日本語教育を開始した学校で、同高校でも、2007年から日本語教育が行われています。 今回ご紹介のカバーの切手に貼られた切手は、そんな朱文安の生誕700年を記念して発行されたもので、“忠孝”の文字の前で講義を行う朱を題材としています。しかし、彼の時代にはヴェトナムには眼鏡が伝来していなかったにもかかわらず、切手の朱は眼鏡をかけた姿で描かれていたため、“図案ミス”として発行後すぐに回収されました。このため、今回ご紹介のように、実際に郵便に使用された例は多くはありません。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-18 Sun 01:25
ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』2020年9月25日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、フィリピンのキャンセル・コリア騒動が話題になっていた時期だったので、韓国が発行したフィリピン関係の切手をいくつかご紹介しましたが、その中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2009年に韓国が発行した“韓比修好60年”の記念切手のうち、フィリピン・バギオのパナグベンガ・フェスティバルを取り上げた1枚です。 第二次大戦中、日本軍はフィリピンを占領し、朝鮮出身の洪思翊中将も1944年に比島俘虜収容所長としてフィリピンに赴任。同年12月には在比第14方面軍兵站監となって1945年の終戦を迎えましたが、戦後、収容所長時代に食糧不足から捕虜に十分給養できなかった責任を問われ、戦犯として処刑されました。自らについては沈黙を守り、他の被告を弁護する発言に終始した中将の高潔な姿は多くの人々に感銘を与え、米軍政下の南朝鮮でも救命嘆願の運動が行われています。 第二次大戦後の1946年7月4日、フィリピンは米国から正式に独立しましたが、小作料値下げなどをめぐって農民と政府の対立が深まると、1947年、フィリピン共産党傘下のフクバラハップ団(もともとは日本占領時代の抗日組織)が再建され、武力抗争を展開し。これに対して、米国はフィリピン政府と軍事基地協定を締結し、共産主義の伸長を抑え込もうとしました。 こうした事情から、1948年8月15日に大韓民国が成立し、同年12月、国連総会で決議195(Ⅲ)が採択され、韓国が「朝鮮にある唯一の合法的な政府」とされると、翌1949年3月3日、フィリピンは東南アジア諸国として初めて、反共の同志である韓国と外交関係を樹立します。今回ご紹介の切手は、ここから起算して60周年になるのを記念して発行されたものです。 1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると、同年8月、フィリピン政府は共産軍と戦うべく国連軍への参加を表明し、9月19日、韓国遠征フィリピン軍(PEFTOK:Philippine Expeditionary Force to Korea)最初の部隊が釜山に上陸します。 10月以降、PEFTOKは米第25歩兵師団と共に、仁川上陸作戦以降も韓国南部に残っていた朝鮮人民軍ゲリラの掃討戦に参加しましたが、彼らは反共意識が強く、士気も高かったそうです。 PEFTOKは、1951年4月には、漣川北方の臨津江の攻防戦に参加したほか、1952年3-6月の鉄原近郊の“イアリー・ヒルの戦い”などでも活躍。特に、後者の戦闘では、米ウェストポイントの士官学校を1950年に卒業したばかりのフィデル・ラモス少尉が小隊を率いて中国人民志願軍を撃退し、国民的な英雄となりました。その後、ラモスは栄達を重ね、国軍参謀総長、国防相としてアキノ政権を支え、1992-98年には大統領を務めました。 ちなみに、1955年にPEFTOKが朝鮮半島から撤退するまでの間、最終的に7420名のフィリピン兵が朝鮮の地を踏み、112名が戦死しています。 その後も、韓国とフィリピンは南ヴェトナム支援のためヴェトナム戦争に派兵するなど、緊密な友好関係を維持し続けてきました。こうしたことから、国交樹立60周年の2009年は“韓比友好年”とされ、国交樹立の記念日にあたる3月3日には、両国同図案でのジョイント・イッシュー形式の記念切手が発行されました。 このうち、フィリピンを象徴する題材に取り上げられたのは、毎年2月にバギオで開催される花まつりのパナグベンガ・フェスティバルです。パナグベンガはバギオで話されるカンカナイ方言で“芽吹きの季節”の意味で、祭りは1966年に始まりましたが、1990年のルソン大地震以降は、震災からの復興を祈念する意味も込められています。 このように、フィリピンは韓国にとって長年に渡る友好国であり、近年はK-POPや韓国ドラマの人気もあって、フィリピン人の間でも韓国に対する好感度が上がっていただけに、一部韓国人による理不尽な攻撃に端を発したキャンセル・コリア騒動はそうした流れに冷水を浴びせるものとなってしまいました。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-17 Sat 11:21
議会(1院制、定数120)解散に伴うニュージーランド総選挙の投開票が、きょう(17日)、行われます。というわけで、ニュージーランドがらみで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1962年11月3日、英領ソロモン諸島の首府、ホニアラからニュージーランドのオークランド宛に差し出されたカバーで、マラリア撲滅キャンペーンのスローガン“WORLD UNITED AGAINST MALARIA”の文言の入った標語印が押されています。“MALARIA”を“COVID-19(新型コロナウイルス感染症)”に置き換えれば、そのまま現在にも通用しそうな印ですな。 1948年に発足した世界保健機構(WHO)は、1955年から、世界各地でDDT散布を行うなど、大規模な“マラリア撲滅キャンペーン”を行っていました。それが一定の成果を上げたことから、WHOはさらなる啓発活動の一環として、加盟各国に対して、1962年4月7日(WHOの創立記念日)にキャンペーン切手を発行することを提唱。これを受けて、主として、熱帯・亜熱帯のマラリア被害の深刻な国・地域でマラリア関係の切手が一斉に発行されました。 英領ソロモン諸島もマラリア罹患者の多い地域でしたが、キャンペーン切手の発行はなく、代わりに、今回ご紹介のカバーに押されているような標語印が、首府ホニアラの中央郵便局のほか、アウキ、ギゾ、ムンダ、ヤンディナの各局で使用されました。このうち、ホニアラでの標語印の使用期間は、1962年6月12日から11月27日まででした。 なお、英領時代を含むソロモン諸島とその社会については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 * 昨日(16日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は11月6日(金)の予定ですので、引き続き、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-16 Fri 01:03
きょう(16日)は、1945年10月16日に国連食糧農業機関(FAO)が創立されたことにちなみ、飢餓に苦しむ人々のため、そして全ての人々に健康的な食事を確保する必要性について、世界的な意識喚起と行動を促す“世界食糧デー”です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1991年6月24日にソロモン諸島が発行を計画していたものの、不発行に終わった“健康増進キャンペーン”の切手の1枚で、“健康的な食事”と“健康的ではない食事”を対比させたデザインとなっています。 ソロモン諸島では生活習慣病が深刻な問題となっており、少し古いデータですが、2008年のWHOの報告書によると、高血圧の発症率は国民の10.7%、糖尿病13.5%、体重超過67.4%、肥満32.8%となっています。その背景には、国民に対する栄養教育が不十分なことに加え、野菜や卵、肉などの生鮮食品が高価なため、安価な炭水化物や加工食品中心の食生活になりがちという事情があり、こうした状況は、英領時代からあまり改善されていません。 1991年の“健康増進キャンペーン”の切手はこうした事情を踏まえて企画されたもので、当初は今回ご紹介の65セント切手を含め5種セットで発行される予定でした。 ところが、65セント切手に関しては、直前になって急遽発行が中止され、郵便局からの回収が命じられました。その公式の理由は発表されませんでしたが、おそらく、“不健康な食生活”の中に、実際に当時のソロモン諸島で販売されていた食品を連想させるものが含まれていたためと推測されています。ただし、連絡の不徹底から一部の郵便局ではこの切手を誤って販売してしまったため、ここに示すように、実際に郵便に使用された“使用済み”の切手も少数ながら存在しています。 なお、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』では、ソロモン諸島の食糧事情についてもいろいろなエピソードもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 10月16日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-15 Thu 00:30
太平洋の島国、パラオ共和国(パラオ)の独立を果たした日系2世のクニオ・ナカムラ元大統領が、きのう(14日)、亡くなりました。享年76歳。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1994年、パラオが独立時に発行した記念切手のうち、米国のクリントン大統領と握手するナカムラ大統領を描いた1枚です。 クニオ・ナカムラ元大統領は、1943年11月24日、日本委任統治下の南洋諸島、パラオのコロールで、日本人船大工の父親とペリリュー首長部族出身の母親の間に生まれました。 第二次世界大戦に敗れた日本が南洋群島から撤退すると、1947年、国連はミクロネシア地域を、①ポンペイ(後、コスラエを分離)、②チューク、③ヤップ、④パラオ、⑤マーシャル諸島、⑥マリアナ諸島北部(サイパンなど)に分け、米国の太平洋諸島信託統治領とします。 一方、ナカムラ一家は一時日本に引き上げたものの、ほどなくしてパラオに戻り、クニオは、母親の実家のあるペリリューで幼少期を過ごし、グアムのタモン高校を経てハワイ大学に進学し、卒業後はパラオで教師をした後、1967年にミクロネシア議会選挙に出馬したものの落選。その後、国連信託統治領の経済アドヴァイザーやヤップ地区の経済開発職員を務めました。 1978年、ミクロネシアでの憲法制定にあたり、ナカムラはコロール州選出の憲法制定会議の議員に選出されます。この時の憲法案は、信託統治領下の6地域のうち、マーシャル諸島とパラオでは住民投票で否決されたものの、残りのチューク、ヤップ、ポンペイ、コスラエの4地域で可決されたため、1979年5月10日、同憲法の発行を受けて、これら4地域を構成州とする“ミクロネシア連邦”が創設されます。 一方、パラオでは、翌1979年7月、米国による核兵器の持ち込みを禁止した“非核憲法”が住民投票で可決されましたが、信託統治領高等裁判所は無効を宣言。その後、同年10月、非核条項を緩和した憲法草案は住民投票で否決され、さらに1980年7月、修正前の草案が再び住民投票で可決されます。 こうした経緯を経て、1981年、自治政府の“パラオ共和国”が発足。翌1982年には、米国による財政援助と米軍駐留をセットにした50年間の自由連合盟約(コンパクト)を独立の条件とする政府間合意が成立しましたが、その後、1990年まで7回にわたって行われた住民投票では承認が得られなかったため、独立も先送りになっていました。 こうした状況の下、1989年に自治政府の副大統領に就任したナカムラは、米国とのコンパクトを受け入れての独立を訴え続け、1992年の住民投票では、「コンパクトに関する部分に限り、住民投票で50%以上の承認」との修正条項を入れるなどして憲法可決に成功。同時に行われた大統領選挙で当選を果たします。 翌1993年、大統領に就任したナカムラはコンパクトの条件について折衝し、1994年に独立を達成します。今回ご紹介の切手は、これに合わせて発行されたものです。 独立後はコンパクトに基づく経済援助や諸外国からの政府開発援助を活用してインフラ整備に着手しし、パラオのGDPならびに税収を倍増させるなどの実績を残して、2001年、任期満了で大統領を退任しました。 大統領退任後は実業家として日本との海運事業などを手がけたほか、日本との友好促進に尽力。2015年4月に上皇陛下が天皇として戦没者の慰霊のためパラオを訪問された際には晩餐会に招かれ、陛下のお言葉でも元大統領の功績が触れられました。 謹んでご冥福をお祈りします。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 10月16日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-14 Wed 01:08
きょう(14日)は“鉄道の日”です。というわけで、鉄道郵便のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1939年12月、ドイツ占領下のシフィエントフウォヴィツェからカトヴィツェ宛の郵便物で、鉄道のブレスラウ=アウシュヴィッツ線で運ばれたことを示す“Bp 5 Breslau-Auschwitz/ zug am”の印が押されています。鉄郵印には日付の表示がないのは残念ですが、郵便物を受け取った企業の印に1939年12月27日の表示があるのはデータとして非常にありがたいですね。 1835年、ハプスブルク皇帝フェルディナントが即位すると、宰相メッテルニヒとも関係の深かったザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルト(ロスチャイルド財閥の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトの二男)は、岩塩鉱のあるボフニャ(クラクフの東37km)から、ボヘミア方面の工業地帯を経てウィーンに至る鉄道建設の請願を皇帝に提出します。その際、ザーロモンは建設の認可を得るには皇帝の歓心を買うことが重要と考え、建設予定の鉄道を“フェルディナント皇帝北部鉄道”と命名しました。これが、現在のオーストリア北部鉄道のルーツとなります。 フェルディナンド皇帝北部鉄道は、1837年、ウィーン近郊のフローリッツドルフ=ドイチュ・ヴァグラム間の13kmが最初に開通。その後、鉄道は順次路線を延伸し、1848年にオーデル河畔のボフミンを越えてポーランドの領域に入り、1855年にはボフミン=カルヴィネ=オシフィェンチム間が開通し、翌1856年にはクラクフまで路線が延伸されました。 一方、プロイセンでは、1839年に認可を得た上シレジア鉄道会社が、1842年5月22日、最初の区間として、ブレスラウ(現ポーランド領ヴロツワフ)=オーラウ(同オワパ)間で開業しています。ちなみに、現在のポーランド国家の領域内では、これが最初の鉄道となりました。 さて、上シレジア鉄道は、1846年には工業都市のカトヴィツ(同カトヴィツェ)に、さらに、翌1847年にはオーストリアとの国境に位置するムィスウォヴィツェを経てクラクフまで延伸。さらに、1850年にムィスウォヴィツェ=クラクフ間の路線はハプスブルク帝国に売却されてオーストリア帝国東部鉄道となり、1856年、チシェビニャ=オシフィェンチム間が開通することによって、ウィーン=クラクフ間が鉄道で結ばれました。 このうち、ハプスブルク支配下のオシフィェンチムとプロイセン支配下のブレスラウを結ぶ国際鉄道路線は中欧における物流の重要なルートの一つで、第一次大戦後は、ドイツとポーランドを跨ぐ国際路線となっていました。 1939年9月、第二次欧州大戦が勃発し、ポーランドがドイツに占領されると、オシフィェンチムはドイツ語地名のアウシュヴィッツに改称され、鉄道の路線名もブレスラウ=アウシュヴィッツ線となります。 このように、オシフィェンチム/アウシュヴィッツは古くからの物流の拠点であったことから、ポーランドを占領したドイツは、この地の旧ポーランド軍兵営をベースに防疫通過収容所を建設し、占領地の捕虜や政治犯をいったんここに集めたうえで病気などの有無を検査し、そこから各地の収容所に送り出すことを計画。これがアウシュヴィッツ収容所の原点となります。 なお、この辺りの事情については、拙著『アウシュヴィッツの手紙 改訂増補版』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 10月16日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-13 Tue 04:01
ことし3月にペルーの世界遺産、マチュ・ピチュ観光に訪れたものの、コロナ禍による遺跡閉鎖と移動制限で麓の村で足止めされたまま200日以上を過ごしていた邦人男性(奈良市のボクシングトレーナー、片山慈英士さん)が、10日(現地時間)、ペルー政府の特別許可を得て、唯一の観光客としてマチュ・ピチュを“独占”しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2013年8月21日にペルーが発行した対日本修好100周年の記念切手のうち、日本の象徴である旭日とペルーの象徴であるマチュ・ピチュを組み合わせた1枚です。 1872年7月9日、マカオからペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号は、悪天候による破損を修理するため横浜に入港。その際、乗船していた清国人苦力の一部が海中へ逃亡し、英軍艦に救助を求める事件が発生しました。これに対して、英国はマリア・ルス号を“奴隷運搬船”とみなし、駐日英国公使は日本政府に対し清国人の救助を要請したことを受け、日本政府は神国人を解放し、清国に帰国させました。 これに対して、ペルー政府は謝罪と損害賠償を日本政府に要求。その紛争解決交渉の過程で、1873年8月、日秘修交通商航海仮条約が締結され、ペルーは南米諸国のうち、日本と国交を樹立した最初の国となりました。今回ご紹介の切手は、ここから140周年になるのを記念して発行されたものです。なお、ペルーとの紛争は、両国同意の下、第三国のロシア帝国による国際仲裁裁判が行われ、1875年、ペルー側の要求は退けられました。 ちなみに、日本からペルーへの移民は、1899年2月、日本郵船会社の佐倉丸で横浜からペルーに向けて出航したのが最初です。当時の日本人移民は、「ペルーの甘蔗耕地あるいは精糖工場で4年間働き、その報酬として1ヵ月2ポンド10シリン グ(約25円)に相当するペルー貨を支給される」との契約を移民斡旋会社と結んでいたが、現地ではトラブルが絶えず、移民の中には逃亡する者も少なくなくありませんでした。 切手に取り上げられたマチュ・ピチュは、ケチュア語で“年老いた”の意味で、もともと、“年若い峰”を意味するワイナ・ピチュへと連なる標高2795メートルの尾根のことです。遺跡は、山裾からはその存在を確認できないことから“空中都市”とも呼ばれており、石段の組み方などから1450年頃、皇帝パチャクテクの時代に離宮や宗教施設として建設され、その後およそ1世紀の間、人々はこの地に住んでいたとと考えられています。インカ帝国の滅亡後は、ながらく忘れられた存在となっていましたが、1911年7月24日、米国の探検家ハイラム・ビンガムによって発見され、その存在が世界的に知られるようになりました。 なお、革命家チェ・ゲバラは、ブエノスアイレス大学医学部在学中の1952年3月、友人のアルベルト・グラナードとともに南米大陸を縦断している過程で、クスコとマチュ・ピチュに立ち寄り、大いに感動したことを日記に書き記しています。アルゼンチンの白人上流社会出身のゲバラにとって、ペルーは「スペイン人による征服以前の時代の思い出が滲み出ている」場所として、“ラテンアメリカ”を意識する契機となり、翌1953年9月にマチュ・ピチュを再訪した際には、「南アメリカの人民よ、過去を再征服せよ」とその感動を記しています。 また、ゲバラは、青年期の2度の南米大陸縦断の旅からキューバでのゲリラ戦争を経てボリビアで非業の死を遂げるまで、その日記が世界記憶遺産に登録されるほどの名文家としても知られていますが、彼の文筆家としてのデビューは、1953年11月、雑誌『シエテ』に寄稿したマチュ・ピチュについての文章でした。 この辺りの事情については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも取り上げていますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 10月16日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-12 Mon 02:01
おととい(10日)正午、ナゴルノ・カラバフをめぐる人道的停戦の合意が成立したばかりのアゼルバイジャンとアルメニアですが、アゼルバイジャン外務省は、きのう(11日)、同国第2の都市ギャンジャ(ガンジャとも)がアルメニア軍の攻撃を受け、9人が死亡、34人が負傷したと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、ギャンジャが2016年の“欧州青年首都”に選ばれたことを記念して、アゼルバイジャンが発行した切手です。 ギャンジャはアゼルバイジャン西部の都市で、西暦5世紀ごろに建設されたと考えられています。南コーカサスにおける絹織物と商業の中心地で、ユネスコの世界記憶遺産にも登録された『五宝』で知られる詩人のニザーミー(1209年没)はこの地の出身です。 しかし、1139年の大地震で大きな被害を受け、1231年にモンゴルに征服されて衰退。16世紀に成立したサファヴィー朝の支配下で復興し、1747年にはサファヴィー朝の最盛期の君主、アッバース1世(在位:1588-1629)にちなんで、アッバサバードと改称されました。その後、第一次ロシア・ペルシア戦争の結果、1813年10月のゴレスターン条約によってアゼルバイジャンがロシア帝国に併合されると、ロシアの支配下で皇帝アレクサンドル1世の妻エリザベータにちなんでエリザベトポルと改称されました。 ロシア帝国の崩壊後は、アゼルバイジャン民主共和国(ミュサヴァト政権)が独立すると、エリザベトポルは一時その首都となりましたが(後にバクーに遷都)、1920年4月の赤軍の侵攻により、アゼルバイジャンにソヴィエト政権が樹立されると、エリザベトポルも旧称のギャンジャに戻されます。しかし、1935年、スターリンにより、セルゲイ・キーロフ(1934年の彼の暗殺は大粛清の契機となりました)にちなんでキロヴァバードと改称されました。現在のギャンジャに地名が戻ったのは、1991年のアゼルバイジャンの再独立後のことです。 今回ご紹介の欧州青年首都は、欧州青年フォーラムによって2009年から選出されているもので、選出された都市は1年間にわたり青少年を対象にした各種のイベントが集中的に行われることで多くの観光客が訪れ、都市開発の契機となります。 さて、おととい(10日)正午の停戦発効を受け、日中は両国軍ともに市街地への砲撃を抑制していたようですが(ただし、両軍とも停戦後に前線への攻撃があったとして、相手を非難してます)、同日11時半ごろ、早くも、ナゴルノ・カラバフの州都ステパナケルトでは大きな爆発音が7回あり、空襲サイレンが鳴り響いたことが報告されています。 さらに、11日未明、ギャンジャの住民居住地区の集合住宅にミサイルが着弾。市民9人が死亡し、子供を含む34人が負傷。アゼルバイジャン外務省は「停戦合意後の市民と都市に対する攻撃は、アルメニア指導部の停戦の呼びかけが偽善でしかなかったことを示している」と非難声明を出しています。これに対して、アルメニア国防省はギャンジャへの攻撃を「全くのウソ」と全面否定するとともに、アゼルバイジャン軍がナゴルノ・カラバフへの攻撃を続けていると非難しており、停戦崩壊が懸念される事態となっています。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 10月16日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-11 Sun 02:05
旧ソ連のアルメニアとアゼルバイジャンの係争地、ナゴルノ・カラバフで、9月27日に発生した両国軍の大規模な戦闘で、昨日(10日)正午、捕虜らの交換や犠牲者の遺体を回収する“人道的停戦”が発効しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2014年12月30日にアルメニアが発行した“アルツァフ(ナゴルノ・カラバフのアルメニア側の呼称)の都市、シュシー(アゼルバイジャン側の呼称はシューシャ)”の切手です。 シューシャ/シュシーは、アゼリー人の地方君主、パナ・アリー・ハーン・ジャヴァンシールによって1750-52年に建設された都市で、当初は“パナ―バード”と呼ばれていました。その後、息子のイブラーヒーム・ハリール・ハーン(在位1763-1806)の時代に、シューシャと改称されました。 以後、ナゴルノ・カラバフにおける中心都市として、多くの知識人、芸術家を輩出し、“ナゴルノ・カラバフの華”と称されました。ロシア帝国時代の南コーカサス(カフカ―ス)では、トビリシ、バクーに次ぐ第3の都市でした。当時の人口は4万2000人で、市街地はアルメニア人、アゼリー人(およびその他トルコ系)、ロシア人、イラン人街に区画されていましたが、人口の多数派はアルメニア人が占めており、21の新聞紙誌のうち19がアルメニア語、2がロシア語でした。 ところが、ロシア帝国崩壊後、アゼルバイジャンとアルメニアがそれぞれ独立を宣言し、アゼルバイジャンに囲まれたアルメニア人地域としてのナゴルノ・カラバフをめぐり両者は激しく対立。1920年にはシューシャでも戦闘が行われ、アゼルバイジャンのミュサヴァト政権によりアルメニア人地区は徹底的に破壊され、人口も1万人にまで減少します。 1922年にソ連が成立し、ナゴルノ・カラバフがアゼルバイジャン社会主義共和国内の自治州になると、1923年、ステパナケルト(ロシア帝国時代の旧称はハンケンディ)が自治州の州都とされ、シューシャは破壊されたまま放置されました。その後、1960年代になってようやく本格的な復興が始まり、アゼリー人主導で歴史的建造物なども再建されました。 しかし、ソ連末期の1988年、ナゴルノ・カラバフをめぐるアルメニアとアゼルバイジャンの内戦が勃発すると、シューシャはアゼリー人の拠点として再び激戦地となります。そして、ソ連崩壊を経て、ナゴルノ・カラバフの内戦が国際紛争化する中で、1992年、アルメニア軍はシューシャを制圧し、ナゴルノ・カラバフを実行支配下に置きま、シューシャのアゼリー住民は退避を余儀なくされました。ちなみに、今回の紛争では、10月8日のアゼルバイジャン側の攻撃により、シューシャの聖救世主大聖堂(今回ご紹介の切手の中央に見える建物です)が破壊されています。 さて、9月27日に始まった戦闘では、これまでに双方で兵士・民間人の少なくとも420人以上が亡くなっています。今回の停戦合意は、アルメニアとアゼルバイジャンの双方と友好関係にあるロシアのプーチン大統領の呼びかけにより、9日午後から行われた両国の直接協議の結果、成立したもので、10日未明、ロシアのラブロフ外相が記者団の前で合意文を読み上げる形式で発表されました。 ただし、今回の停戦合意は、捕虜交換や遺体引き渡しなど、あくまでも人道的観点に基づく最低限のもので、本格的な停戦条件などについては、今後も引き続き協議が続けられることになっています。特に、戦況優位と伝えられているアゼルバイジャンは、アルメニア側に対してナゴルノ・カラバフと周囲の占領地からの撤退を強く要求しているのに対して、アルメニア側は撤退拒否の姿勢を崩しておらず、停戦合意がどこまで履行されるかは不透明な状況です。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 10月16日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-10 Sat 10:21
南太平洋の島国、フィジーが1970年10月10日に独立してから、ちょうど50年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、フィジー王国時代の1871年に発行された1ペニー切手です。 フィジーに到来した欧米人は、1643年、フィジー北部に上陸したアベル・タスマンが最初で、1774年には英国のジェームズ・クック(キャプテン・クック)が南部に上陸しています。 ところで、19世紀前半のフィジーは小王国が割拠する状態でしたが、そのうちのバウの首長だったセル・エペニサ・ザコンバウ(カコンバウとも)は、トンガ軍の力を借りながら勢力を拡大し、頭一つ抜きんでた存在になっていました。ちなみに、ザコンバウは、トンガ王トゥポウ1世の影響を受けて1852年にキリスト教に改宗し、その支配下の住民も改宗させられたため、欧米諸国もザコンバウに対して好感を持っていました。 ところで、1861年、世界有数の綿花の生産地だった米国で南北戦争が勃発すると、世界的に綿花の需給が逼迫したため、多くの白人入植者がフィジーで綿花農園を開設します。この結果、フィジー在住の欧米人の権利・義務や土地所有の問題を扱う近代的な行政機関を設立する必要が生じたことから、1865年5月、バウ、レワ、ラケンバ、ブア、タカウンドロヴ、マトゥアタ、ナンドゥリの七地方首長がレヴカに集まり、ザコンバウがフィジー連邦の初代大統領として選出されます。ザコンバウは翌1866年にも再選されましたが、1867年、マハフが大統領に選ばれると、欧米人は連邦への納税を拒むなどしたため、連邦は機能しなくなります。 このため、1871年6月、欧米人の支援を受けたザコンバウは自らを王とするフィジー王国の成立を宣言して、レブカで即位。これに伴って、“ザコンバウ(Cakobau Rex)”の統治を意味する“C.R”の文字と王冠をデザインした切手がシドニーの政府印刷局で製造され、同年10月に発行されました。 ちなみに、それ以前のフィジー域内の郵便は、1858年に英領事館がきわめて限定的な郵便サーヴィスを開始し、フィジー域外との通信(1863年以降はニューサウスウェールズ切手を使用)は、主としてシドニーを往来する商船などに託して行われていました。 こうした状況の下、1869年9月、オヴァラウ島のレヴカで新聞『フィジー・タイムス』を創刊したG.L.グリフィスは、1870年11月、自らの新聞の配達と併せて一般の郵便需要を満たすことを目的として“フィジー・タイムス・エクスプレス”を創業。フィジー王国が成立した1871年6月の時点で14ヶ所の郵便取扱所を設置し、独自の切手も発行して郵便サービスを提供していましたが、王国の成立に伴い、1872年にはサービスを終了しています。 さて、1871年に発足したフィジー王国でしたが、欧米人からの税の徴収は必ずしも順調でなかったことに加え、在留米国人が部族対立に巻き込まれ、財産を破壊、略奪されたとして、米国が4万5000ドルの賠償金を要求したことなどから、財政的に破綻。このため、1874年10月10日、ザコンバウは割譲証書に署名し、英・ヴィクトリア女王にフィジーの主権を譲渡。フィジーは英国の植民地となり、ザコンバウは退位して、英国から年金を受け取る立場になりました。 なお、欧米人がフィジーで経営していたプランテーション農場は慢性的に労働力が不足していたため、農園主たちはソロモン諸島近隣から年季契約の“ブラック・バーディング”で労働力を集めていました。 初期のブラック・バーディングは、表向きは“契約”の形式をとっていたが、その実態は奴隷狩りもしくは拉致ともいうべきもので、ベッコウと鉄器の取引を装った白人の船にメラネシア人がカヌーで近づいたところ、わざと甲板から石や鉄製品を落として沈め、それを回収しようと海に潜ったメラネシア人を“救出”した後、そのまま連れ去ってしまったり、住民に酒や煙草をふるまったのち、船内にも同じものがあるからと人々を船に招き入れ、そのまま拉致してしまったりするなど、かなり悪質なものでした。この辺りの事情については、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」 出演します!★ 10月16日(金)05:00~ 文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-09 Fri 03:23
きょう(9日)は、1967年10月9日に亡くなったチェ・ゲバラの命日です。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2009年1月19日、ロシアがキューバとのジョイント・イッシューとして発行した“キューバ革命勝利50周年”の記念切手で、キューバ国旗を背景に、ゲバラの肖像写真「英雄的ゲリラ」を組み合わせたデザインとなっています。 1962年10月のミサイル危機以降、ゲバラはソ連の“修正主義”を批判する中国への傾斜を強め、ソ連に頼らない“自力更生”路線を主張。これに対して、ソ連はゲバラを危険視し、フィデル・カストロに対してゲバラの排除を求めるとともに、カストロとの関係改善を模索。1963年5月、カストロはモスクワを訪問してフルシチョフと和解し、経済支援と引き換えに、キューバが中ソ対立においてはソ連を支持するという立場を明確にしました。 これに対して、1964年12月、ゲバラは国連総会での演説で“帝国主義との全面的な戦い”を宣言。さらに、1965年2月、アルジェで「先進国と発展途上国という二つのグループ国家の間にこのような関係を作り上げようというのであれば、たとえそれが社会主義諸国であったとしても、ある意味では帝国主義者の搾取の共犯者だと認めねばなるまい」として、名指しこそ避けたものの、ソ連を批難します。 アルジェからハバナに戻ったゲバラは、カストロとの話し合いの末、革命政府の閣僚の地位を捨て、キューバを出国し、コンゴ動乱での革命派支援の戦いに参加。ゲバラがキューバを出国したとの報告を受けたソ連は、キューバが自ら好ましい解決方法を選択したと評価し、ブレジネフ政権下のソ連外国貿易銀行はキューバに対して1億6700万ドルの融資を決定します。このように、かつてのソ連はゲバラを好ましからざる人物とみなしていました。 1991年のソ連崩壊後、後継国家のロシアはキューバとの友好関係を維持しましたが、エリツィン政権下では、当初、対米宥和路線が採られていたこともあって、ゲバラが高く評価されることもありませんでした。 ところが、1998年にコソヴォ紛争が、1999年に第二次チェチェン紛争が相次いで発生し、ロシアと西側との関係が悪化。さらに、2000年にプーチン政権が発足して徐々に国力が回復すると、対米強硬路線に転じたロシアは“中南米における反米連合の盟主”としてのキューバへの経済的・軍事的支援を拡大するようになり、反米の英雄としてのゲバラに対する評価も大幅に好転しました。 こうした中で、2008年、南オセチア紛争が発生すると、キューバはいち早くロシア支持を表明。これを機に、ロシアはキューバとの関係を強化し、同年秋にはイーゴリ・セーチン副首相が数回にわたってキューバを訪問し、ハリケーンの被災地に対して食糧・医薬品などの支援を行いました。 さらに、同年11月には、ドミトリー・メドヴェージェフ大統領がキューバを訪問。キューバに対する経済支援の強化を約束する一方、キューバ側はロシア企業に対してキューバ沖の油田開発やキューバ内のニッケル鉱山の開発の許可を与えました。 今回ご紹介の切手は、こうしたキューバとロシアの親密な関係を反映し、“反米”の象徴としてゲバラを取り上げたものです。なお、この切手が発行されて間もない2009年1月28日から2月4日まで、フィデルの弟で、当時は国家評議会第一副議長の地位にあったラウル・カストロがキューバを公式訪問し、キューバは2000万ドルの借款と2万5000トンの人道食糧支援をロシアから獲得。同年9月にはロシアはメキシコ湾での石油探査を開始し、その見返りとして、1億5000万ドル相当の建設及び農業設備購入資金をキューバに融資しています。 ちなみに、今回ご紹介の切手にも取り上げられた「英雄的ゲリラ」が、ゲバラの死後、キューバ革命のイコンとして全世界に拡大し、政治的に活用されてきた歴史については、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』でも詳しくご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-08 Thu 00:25
公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2020年10月号が発行されました。僕の連載「切手歳時記」は、今回は、この切手を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1946年9月15日に発行された“はつかり”の1円30銭切手です。 きょう(8日)は七十二候の“鴻雁来(こうがんきたる)”。秋分を過ぎて二十四節気が寒露に変わると、つばめなどの夏鳥が南へ帰るのと入れ違いに、春に北へ帰って行った冬鳥が再びやってくる頃とされ、その年に初めて渡ってきた雁は初雁と呼ばれます。 古今集に収められた紀友則の「秋風に はつかりがねぞ 聞こゆなる 誰がたまづさを かけて来つらむ」にある“はつかりがね”は“初雁が音”のこと。秋風に乗って聞こえてくる初雁の声を耳にして、遠い北国から、いったい誰の手紙(消息)を携えて来たのかという内容ですが、雁と手紙の結びつきは『漢書』蘇武伝の故事にさかのぼります。 前漢の天漢元(紀元前100)年、蘇武は使者として匈奴に派遣されました。当時、匈奴の単于(君主)の下には、漢の元将軍で匈奴に降っていた虞常がいましたが、虞常は同じく匈奴に降って重用されていた衛律を殺して帰国しようと画策。しかし、この目論見は失敗し、匈奴に滞在していた蘇武も抑留されました。その後、蘇武の抑留生活は19年もの長きに及びましたが、この間、彼は手紙を雁の足に結びつけて放ち、本国との連絡を取ろうとしたといわれています。 ここから、便りや手紙を意味する語として“雁書”ないしは“雁使”という言葉が生まれ、雁は通信の象徴になっただけでなく、秋空に飛来する雁、特に初雁は懐かしい人の消息をもたらす使いとされてきました。 時代は下って、1878年8月30日から11月9日まで、明治天皇が北陸・東海道を巡幸されたときのことです。 道中の9月26日の夕刻5時半ごろ、悪天候のなか、糸魚川の行在所に御一行が到着されたところ、巡幸中の天皇の身を案じ、皇后(昭憲皇太后)が東京の赤坂仮皇居で詠まれた御歌「はつかりをまつとはなしにこの秋は 越路のそらのながめられつつ」が届けられました。このエピソードは戦前の日本人には広く知られていて、明治天皇と昭憲皇太后の遺徳を伝えるために造営された聖徳記念絵画館には、「初雁の御歌」と題する鏑木清方の壁画も展示されています。 今回ご紹介の切手に“はつかり”が取り上げられたのも、おそらく、そうした事情を踏まえてのことでしょう。なお、1円30銭とは半端な額面ですが、当時の書状料金30銭と速達ないしは書留料金の1円を合算した金額に相当しています。 ところで、この切手の元になった“はつかり”は葛飾北斎の手になるものです。北斎は1849(嘉永2)年に亡くなりましたが、彼が80歳だった1841(天保12)年に作られた「鳥羽絵」という長唄があります。ちなみに、題名の鳥羽絵は、鳥羽僧正の作と伝えられる「鳥獣人物戯画」の系譜を汲む略画体の戯画のことで、北斎も数多くの作品を手掛けました。 件の長唄には「思ふ御方のお声はせいで 上がるお客の面憎や」に続いて「わたしゃはじめてそんな事 聞いて嬉しき初雁の 文にも釘のにぢり書」との一節があります。思う男の声はせず、代わりに登楼してくる客が憎らしいという遊女の心情を歌った後、男の気持ちを知って嬉しくなり、男からの初めての手紙(初雁の文)をもらい、喜んで開けてみたら、金釘流のひどい悪筆(釘のにぢり書)にぎょっとしたというオチで、鳥羽絵の題名につながる滑稽さを歌ったものですが、生来の悪筆に悩まされてきた僕にとっては身につまされる話ではありますね。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-07 Wed 02:17
中央アジア・キルギス(クルグス)の首都ビシュケクで、今月4日の議会選の結果に抗議する大規模なデモが発生。きのう(6日)、野党勢力はソーロンバイ・ジェエンベコフ大統領の退陣と新政府の樹立を求めて大統領府(ホワイト・ハウス)などを占拠し、権力の掌握を宣言しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2001年にキルギスが発行した“独立10周年記念”の切手シートで、天山山脈とイシク湖を背景に、切手部分には、今回、野党側に占拠されたホワイト・ハウスが取り上げられています。 ビシュケクのホワイト・ハウスは、ソ連時代の1985年、キルギスタン共産党中央委員会本部として建立されました。1991年のキルギスタン(当時)独立後は大統領府として用いられており、大統領府が包囲された際に備えて、建物に面したアラ・トー広場に通じる秘密の地下通路があるといわれています。おそらく、ジェエンベコフ大統領もその地下通路を使って脱出したのではないかと思われます。 さて、キルギスでは、2011年から2017年まで、アルマズベク・アタムバエフが大統領を務めた後、彼の下で首相を務めたジェエンベコフが与党・社会民主党の候補として2017年10月の大統領選挙に出馬して当選。1991年の独立以来、キルギスでは初めて民主的な権力の移譲が達せられました。ただし、この時点ではアタムバエフは社会民主党の党首の地位に留まっており、アタムバエフとしては半ば院政を敷く意向であったことは明らかでした。 ところが、同年11月の大統領就任後まもなく、ジェエンベコフはアタムバエフの統制を脱し、2010年政変後の新憲法制定のために組織された“憲法評議会”の元議長で野党“アタ・メケン”の党首だったオムルベク・テケバエフをはじめ、首相経験者を含む野党政治家やジャーナリストを逮捕するなど、批判勢力への弾圧を開始したため、国内の民主派が反発。はやくも2018年4月にはキルギス議会でサパル・イサコフ内閣に対する不信任案が可決されます。これに対して、2018年5月、ジェエンベコフは、国内で台頭しつつある“部族主義”に対抗し、“南北問題”を持ち込もうとする勢力とはあらゆる手段で戦うとして、批判勢力との対決姿勢を鮮明にしました。 このため、前大統領のアタムバエフもジェエンベコフを後継指名したことを悔いるようになり、2019年初の集会では「ジェエンベコフは合法的な大統領ではない」と発言し、公然と政権批判を開始。一方、社会民主党内では、ジェエンベコフ派が着々と勢力を固め、2019年4月3日、ビシュケクではアタムバエフを党首から追放し、サギンベック・アブドゥラマノフを新党首に選出したことを祝う大規模集会が開催され、さらに翌4日には、大統領経験者に対する刑事免責特権を剥奪する法案が議会で可決されます。 さらに、キルギスタン捜査評議会は、アタムバエフ政権下の2013年に犯罪組織のリーダー、アジズ・バトゥカエフが釈放された件をはじめ、アタムバエフが数件の汚職に関与していたとして、6月27日、議員特権を剥奪。アタムバエフ本人はバトゥカエフ釈放への関与を否定していましたが、8月7日、国家安全保障委員会特殊作戦部隊はアタムバエフの自宅を急襲。アタムバエフ支持者との銃撃戦により、治安部隊員に死者1名、双方で100名以上の負傷者を出した末、アタムバエフは拘束されました。その後、2020年6月、アタムバエフは汚職の罪で11年2ヶ月の禁固刑を言い渡され、収監されていました。 こうした中で、10月4日に行われた議会選挙では、候補者を出した16政党のうち、議席を獲得したのは4党にすぎず、そのうち3党が与党ないしは親大統領派で、有力2党で得票率の半数を占めるという結果が発表されたことから、大統領派が買収や脅迫などの不正を行ったとの批判が噴出。欧州安全保障協力機構の国際選挙監視団もこれを認めたことから、4日のうちにビシュケクで抗議デモが発生します。 5日には野党12党が選挙結果を承認しないとする共同声明を出し、ビシュケク中心部のアラ・トー広場には約5000人の抗議デモが終結。警官隊は、いったんはデモ隊を解散させたものの、デモ参加者らは再び広場に戻り、6日未明にはホワイト・ハウスに乱入したほか、政府施設を占拠し、建物からは火の手が上がりました。また、拘束されていたアタムバエフもデモ隊によって解放され、中央選挙管理委員会は4日の議会選挙結果を無効にする決定を下しており、議会選挙のやり直しは確実となりました。 また、キルギス国内の治安責任者の内務相は登庁しなかったため、野党の政治家で元治安担当幹部のアサノフが内相代理となり、警察当局に対して、市民の安全と衝突や略奪を防ぐよう指令を出しているほか、ことし6月17日に組閣したばかりのクバトベク・ボロノフ首相が辞任し、野党勢力が推すサディル・ジャパロフ(ジェエンベコフ政権下で拘束されていましたが、今回、釈放されました)が新首相に就任する見通しとなっています。 この記事を書いている時点では、ジェエンベコフは大統領の地位に留まる姿勢を見せていますが、客観的な情勢としては、政変による大統領の辞任は不可避とみてよいでしょう。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-06 Tue 01:37
愛知県新城市は、きのう(5日)、市内に住む猟友会の男性(70)が今月2日、同市黄柳野の山林で誤ってわなにかかったニホンカモシカを逃がそうとした際に襲われ、死亡していたことを明らかにしました。記録が残る1998年以降、カモシカによるこうした死亡事故は同県内では初めてのことだそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。
これは、1952年8月1日に発行されたニホンカモシカの8円切手です。 ニホンカモシカ(日本羚羊、日本氈鹿)はウシ科カモシカ属に分類される日本固有種の偶蹄類で、名前の由来については、その毛が“かも”と呼ばれた毛氈の原料になったことからとする説が有力ですが、ほかに、①険しい山岳(かま)に住むことから、②食用肉として鴨のように美味だから(ただし、現在は特別天然記念物として、原則として食用とすることが禁じられています)、③谷間などを走っている様を上から見下ろすと、鳥などが飛んでいるようにも見えたから、などの諸説があります。 体長105-112cm、肩高68-75cmで、体重は30-45㎏。全身の毛衣は白や灰色、灰褐色ですが、毛色は個体変異や地域変異が大きい。角は円錐形で、やや後方に湾曲し、角長8-15cmです。 本州、四国、九州の標高500-2,000mの低山地から亜高山帯にかけてのブナ、ミズナラなどの落葉広葉樹林や混交林で、10-50haの縄張り(眼下線や蹄の間の蹄間線から出る粘液をねぐらや通り道などの木の幹や岩になすりつけて、他のカモシカに自分の縄張りを知らせる)を形成。基本的に単独で生活し、4頭以上の群れを形成することはほとんどありません。 繁殖期は10-11月で、5-6月に生まれた幼獣は、生後1年は母親と生活します。自然状態での寿命は15年ですが、飼育下では館山博物館カモシカ園“クロ”が33歳まで生きたという記録があります。 1934年に国の天然記念物に、1955年に特別天然記念物に指定され、新潟県笠堀の生息地は天然記念物に指定されました。その一方で、保護政策によって個体が増えすぎたため、農業・林業への食害被害が深刻化した地域もあり、岐阜県では1973年から、長野県では1974年から、駆除作業が行われています。 今回ご紹介の切手は“アオの寒立ち”を描いたものです。マタギの言葉では、ニホンカモシカのことを“アオ”と呼ぶことから、ニホンカモシカが寒い冬の日、崖の上などに周囲を見渡すように何時間も動かずに立っている様子をこう呼びます。 “寒立ち”の理由は定かではありませんが、ニホンカモシカは崖地を好み、山中の斜面を生活圏としており、反芻をするときに、寝転ぶ場所がないためと推測されています。また、通常のシカが歩きながら糞をするのに対してカモシカは立ち止まって糞をする傾向があります。 切手の原画を制作した和田三造は、1883年、兵庫県生まれ。1907年、第1回文部省美術展覧会(文展)に出品した『南風』が2等賞(最高賞)を受賞し、画家としての地位を確立しました。また、1953年に公開の映画『地獄門』で色彩デザイン及び衣裳デザインを担当し、1954年の第27回アカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞しました。なお、切手に関しては、郵政省の図案審査委員を長く務め、1948年の「競馬法公布25周年」の原画も制作しています。 さて、今回の事故ですが、亡くなった男性は新城市からイノシシなどの捕獲を任されていましたが、2日午前、国の特別天然記念物で駆除対象外のニホンカモシカがくくりわなにかかっていたのを発見。わなを外すため近づいたところ角で太ももを刺され、病院へ運ばれたものの、出血性ショックで約2時間後に亡くなったそうです。なお、件のニホンカモシカは、人を襲ったことや事故現場が民家が近いことから、県などの許可を受け、5日、殺処分にされています。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-05 Mon 01:32
南太平洋のフランス特別自治体ニューカレドニアで、きのう(4日)、フランスからの独立の賛否を問う住民投票が行われ、独立反対が53.3%、賛成が46.7%となり、2年前の前回投票に続き、再び独立が否決されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1984年にニューカレドニアが発行した“軍隊の日”の切手で、太平洋を意味する“PACIFIQUE”の文字が入った軍旗が描かれています。 オーストラリア東方に位置するニューカレドニアは、1774年、キャプテン・クックによって“発見”されました。1853年、フランスは、英国によるオーストラリア・ニュージーランド領有に対抗して、オーギュスト・フェヴリエ=デポワント提督を派遣してニューカレドニア島の領有を宣言。1864年には、近隣のロイヤルティ諸島も組み込み、仏領ニューカレドニアが成立します。 当初、ニューカレドニアは流刑植民地でしたが、19世紀後半、ニッケルが発見されたことで鉱業の島となり、第二次世界大戦では、自由フランス側の支配下に置かれ、ガダルカナル攻略戦などでの米軍の拠点として利用されました。 第二次大戦後の1963年、フランスは核開発の一環としてCEP(太平洋実験センター)を設置し、1966年から核実験を開始します。CEPはムルロア環礁とファンガタウファ環礁(いずれも仏領ポリネシア)の核実験場を管理していましたが、フランスのニューカレドニア駐屯軍(FANC)は、仏領ポリネシア駐屯軍(FAPF)とともに、CEPの防衛、冷戦下での情報収集、先住民による独立運動、経済の鎮圧なども担当していました。 ちなみに、ニューカレドニアでは、1960年代から先住民多数派のカナク人の権利回復運動が展開されていましたが、1980年年代に入ると、急進独立派のジャン=マリー・チバウひきいる社会主義カナク民族解放戦線(FLNKS)が独立国家“カナキー”の樹立を主張し、独立運動を激化させます。こうした中で、1984年、FLNKSの活動家が警察官によって殺害されると、大規模な暴動が発生し、フランス政府は、ニューカレドニア全土に非常事態宣言を発しました。 さらに、1988年4月22日、独立過激派によるフランス国家憲兵隊員27人および裁判官1人を人質にとってロイヤルティ諸島ウベア島の洞窟に監禁し、4人を殺害する事件が発生するなど情勢が悪化。このため、1988年にはマティニョン合意が成立し、自治拡大が約束されたものの、1989年には合意を結んだジャン=マリー・チバウが“敵との妥協”を理由に独立過激派に暗殺されるなど、混乱が続きました。 その後、ニューカレドニアの独立問題に関しては、1998年に“ヌーメア協定”が結ばれ、①住民に対してフランス市民権とは別の“ニューカレドニア市民権”を与える、②フランス国旗とは別に、ニューカレドニア“国旗”などの公的なシンボルを制定する、③フランス政府はニューカレドニア特別共同体に段階的に権限を譲渡することなどが決められました。また、同協定では、2018年までに、独立かフランス残留かの最初の住民投票を行い、以後、計3回まで住民投票を行うことができることも定められていました。 現在、ニューカレドニアに駐留しているFANCは、タヒチのFAPFとともに、核実験場の防衛という本来の任務を失い、オーストラリアやニュージーランド、島嶼国家とともに連携しての災害対処、密漁監視、海難救助などを主な任務としています。このため、広大なオセアニアの海洋上で、密漁の取締りや災害対応などの活動を行ううえで、フランスの南太平洋駐留部隊の支援なしに、各国軍による地域の非軍事・警察活動は成り立たないのが実情です。 これに対して、2000年以降、海洋進出を加速させてきた中国は、FANCとFAPFの中間に位置する国・地域を南太平洋上の重要な工作拠点と位置付けており、たとえば、2006年12月にフィジーでフランク・バイニマラマ軍司令官による軍事クーデターが発生した際には、西側諸国が軍事政権に援助停止や入国禁止等の圧力を加えたのに対して、中国のみが援助を急増させ、これを機に、フィジーの政財界にしっかり食い込むことになりました。 このほかにも、中国は借款などを通じて南太平洋の島国への影響力を強めていますが、当然のことながら、中国の急激な進出に対する住民の不満も強く、各国で反中国人暴動が発生すると、豪軍やニュージーランド軍が鎮圧に派兵するという事態が起きています。 こうした状況の中で、フランスは東シナ海での中国の野心が南太平洋にも及んでくるのではないかと警戒しており、そのため、2014年春の日仏外相戦略対話では、“日本と同じ太平洋の海洋国家”との表現を用い、“法の支配”の原則を堅持して地域の安定に取り組む利益と責任を共有すると表明。さらに、2017年1月7日には、日仏両政府、外務・防衛閣僚協議で、中国を念頭に、“緊張を高める一方的な行動”への強い反対を表明しました。 特に、2017年5月に発足したマクロン政権は、対中強硬路線への本格的な転換を図り、“航行の自由”を確保するため、同年内に5隻の艦船を南シナ海に派遣。さらに、翌2018年3月、マクロンは訪印してモディ首相との会見で「インド洋や太平洋で覇権はあってはならない」と発言し、海軍基地の仏印相互利用を定めた協定に調印しています。 フランスにとって、ニューカレドニアは、海洋資源、ニッケルが豊富であるだけでなく、欧州の科学技術研究、宇宙開発の拠点でもあるため、ニューカレドニアがフランスから離脱して独立するだけでなく、中国の影響下に置かれることは何としても避けねばなりません。 そこで、前回の住民投票に際しては、マクロン本人が事前にニューカレドニアを訪問し、大統領自ら、植民地支配の“反省”を示すことで、先住民多数派のカナク(独立賛成派が多いとされる)をなんとか懐柔。独立反対が56.40%で独立は否決されました。翌2019年5月12日の議会選では、全54議席のうち独立反対派が28議席、独立派は26議席で、独立反対派が過半数となったものの、両派の勢力はほぼ拮抗しています。 今回の住民投票でも、独立反対派は、「独立すると経済の自立が難しく、太平洋地域で存在感を強める中国の脅威も増す」と訴えて支持を固めたものの、独立派は前回の43.3%から46.7%に数字を伸ばしており、2022年にも予定されている3回目の住民投票では、独立が可決される可能性も否定できません。 なお、南太平洋への中国の進出と、それに対する現地の対応やカウンターの動きについては、拙著『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-04 Sun 01:54
伝説の女性歌手、ジャニス・ジョプリンが1970年10月4日に亡くなってから、ちょうど半世紀になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)
これは、2014年に米国が発行したジャニス・ジョプリンの切手です。切手の元になった写真は、彼女の死後発売された2枚組のアルバム『イン・コンサート』のジャケットに用いられたもので、写真家のデイヴィット・ガーが1970年に撮影したものです。なお、アルバムのジャケット写真はモノクロですが、切手では、サイケデリックな時代のイメージに合わせた色彩にアレンジされています。 ジャニス・ジョプリンは、1943年1月19日、テキサス州ポート・アーサーで、テキサコの労働者の家庭に生まれました。幼い頃から絵を描くのが好きで、地元の聖歌隊にも参加していたものの、テキサスの保守的な土地柄に馴染めず、孤独な少女時代を過ごしました。死の数カ月前、歌手として成功を収めていたジャニスが高校の同窓会に出席した際の映像が残されていますが、そこには、疎外感を感じ、常に孤独な表情だった姿が収められているのは、彼女の過去を象徴する出来事として有名です。 地元のトマス・ジェファーソン・ハイスクールに在学中、友人からレッドベリーのレコードを聴かされたのを契機に、ブルースやフォーク・ミュージックにのめり込み、テキサス大学オースティン校など複数の学校を転々としたものの最終的にドロップアウト。1963年にサンフランシスコに向かい、当初はフォーク・シンガーとして生計を立て、次第にベッシー・スミスを中心に黒人音楽に傾倒していきました。なお、当時のサンフランシスコはヒッピー文化の中心地のひとつで、彼女のヘロインや覚醒剤などの常習もこの時期に始まったといわれています。 その後、静養のためにポート・アーサーへ一時帰郷したものの、1966年には再びサンフランシスコへと戻り、女性シンガーを探していたビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー(BBHC)に参加。バンドはインディズのメインストリーム・レコードと契約し、1967年にバンドの名を冠したアルバムを発表します。しかし、このバンドは彼女の歌唱力を活かしきれなかったこともあり、全米チャート60位になったものの、商業的には成功しませんでした。 翌1967年6月、ジャニスはBBHCはモンタレー・ポップ・フェスティヴァルに出演。ジャニスは女性ブルース歌手ビッグ・ママ・ソーントンの「ボール&チェイン」を熱唱し、その圧倒的なパフォーマンスで大観衆に衝撃を与えました。ちなみに、同フェスは、ジミ・ヘンドリックスとオーティス・レディングも出演しており、ロック史に残る伝説の一つとなりました。 モンタレーでの演奏を機に、ジャニスとBBHCは大手レコード会社のCBSと契約。CBSは、ジャニスと彼女のバンドは、スタジオ録音よりもライヴ向きであることから、1968年9月、ニューヨークとサンフランシスコでのライヴで構成されたアルバム『チープ・スリル』をリリース。前述の「ボール&チェイン」のほか、アーマ・フランクリンのカバー「ピース・オブ・マイ・ハート」、ガーシュウィンのスタンダード「サマータイム」などの名演で歌手としての地位を確立。アルバムは8週連続全米1位の大ヒットとなり、シングル・カットされた「ピース・オブ・マイ・ハート」も12位のヒットとなります。 その後、ジャニスの才能とバンドの演奏力とのギャップもあり、1968年12月1日、サンフランシスコ・アヴァロンでのステージを最後にジャニスはBBHCを脱退。その後、ジャニスはBBHCのギタリスト、サム・アンドリュースを中心にジャニス・ジョプリンズ・レヴューを結成しますが、同月から開始された全米ツアーの最中にもメンバーが続々と替わり、バンド名もさまざまに変更されるなど安定しませんでした。こうした状況の中で、歌手としての成功とは裏腹に、バンドが安定せず、男性の愛に飢えていたジャニスは次第に酒とドラッグに溺れていくことになります。 1969年11月、初のソロ・アルバム『コズミック・ブルースを歌う』をリリース。このアルバムは全米最高位5位を記録するヒットとなり、ウッドストック・フェスティバルにも出演しましたが、すぐに解散。その後、1970年にジャニスは2人のキーボードを加えた編成の新バンド、フル・ティルト・ブギー・バンド(FTB)を結成し、アルバム『パール』のレコーディングを進めます。このバンドについて彼女は「グループのことで今までに、こんなに幸せな気分にされたことってない」と語り、また、私生活でも婚約するなど充実した生活を送っていました。 しかし、アルバムのレコーディングが進められていた1970年10月4日、スタジオに彼女が来ないことを不審に思ったマネージャーのジョン・クックが、彼女の宿泊先であるハリウッドのランドマーク・モーター・ホテル105号室を訪ねたところ、封の切られていない煙草のマルボロ1箱と4ドル50セント(煙草を買った釣り錢とみられています)を握った状態で、ベッド横の床に倒れ死亡しているジャニスを発見。死因は、高純度のヘロインを過剰摂取したことによる中毒死とみられています。なお、遺体は火葬され、遺灰は10月13日カリフォルニア州マリン郡スティンソン海岸沖の上空から太平洋へと散骨されました。 なお、ジャニスの死に伴い、アルバム『パール』は、ビートニク詩人のマイケル・マクルーア、ボブ・ニューワースとともに書いた「ベンツが欲しい」はアカペラ(伴奏なし)、そして「生きながらブルースに葬られ」は伴奏のみ(本人の歌なし)の仮録音のままで、ジャニス没後の1971年1月に遺作として発表され、ングル「ミー・アンド・ボビー・マギー」、アルバムともに全米1位を記録。特にアルバムの方は9週連続で1位で、ジャニス最大のヒット作となりました。 ちなみに、今回ご紹介の切手の元になった写真をジャケットに採用したアルバム『イン・コンサート』は、1972年に未発表ライヴ音源を集めて発表されたもので、1枚目がBBHC時代の演奏、2枚目がFTB時代の演奏で構成されています。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-03 Sat 01:53
1990年10月3日に東西ドイツが再統一されて、ちょうど30年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、旧東ドイツ末期の1990年7月2日に発行された1マルク(=100ペニヒ)切手で、テューリンゲン州アイゼナハ(切手発行時は東ドイツ領)のヴァルトブルク城が描かれています。 1945年5月に降伏したドイツは、米英仏ソの4ヶ国により分割占領され、1949年には、西側占領地区を継承したドイツ連邦共和国(西ドイツ)とソ連占領地区を継承したドイツ民主共和国(東ドイツ)に分断されました。 その後、1985年にソ連で始まったペレストロイカの波は東欧にも波及し、1989年5月、ハンガリー政府がオーストリアとの国境を開放すると、ハンガリー経由での亡命を企図して東ドイツ国民が大挙して国外に脱出します。これを受けて、東ドイツ国内でも民主化を求めるデモが活発化したこともあり、同年11月9日、東ドイツ政府は議会の承認を経ずに済む“旅行自由化の政令”を公布。この結果、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」ことになり、東西ベルリンの自由往来を阻止していたベルリンの壁が崩壊しました。 以後、東ドイツは従来の体制を維持することが困難になり、12月1日、東ドイツ憲法第1条からドイツ社会主義統一党(SED)による国家の指導を定めた条項が削除され、SEDの一党独裁制が終焉。翌1990年3月18日には、東ドイツで初の自由選挙が行われ、ドイツ統一を主張する“ドイツ連合”が勝利します。 選挙後に成立したロタール・デメジエール連立政権は、西ドイツの支援を受け、西ドイツ基本法第23条に基づいて、東ドイツの5州と都市州ベルリンが西ドイツ(連邦共和国)に“加盟”するという形式で再統一する方針を決定。5月18日には西ドイツと通貨・経済・社会同盟の創設に関する国家条約を調印し、7月1日付で東西ドイツの通貨・経済・社会の統合が行われました。 今回ご紹介の切手は、7月1日の通貨統合(東ドイツでも従来の東ドイツマルク=オストマルクに代えて西ドイツのドイツマルクが使われるようになりました)を受け、東ドイツ郵政が“新通貨”に対応すべく発行したもので、国名表示も“ドイツ民主共和国”またはその略称である“DDR”ではなく“ドイツ郵政(DEUTSCHE POST)”となっています。 その後、8月31日には東西間で統一条約が調印。9月12日、東西ドイツと第二次世界大戦戦勝国(米・英・仏・ソ)との2+4条約が調印され、10月3日、東西ドイツの再統一(西ドイツによる東ドイツの吸収)が実現。なお、東ドイツ国家の消滅後も、統一に伴う経過措置として、今回ご紹介の切手は1991年3月末までは旧東ドイツ内の郵便局で販売され、同年末までは郵便に使うことも可能でした。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-02 Fri 01:34
ネアンデルタール人から受け継いだ遺伝子コードを保有する人が新型コロナウイルスに感染すると、人工呼吸器が必要なほどの重症となる可能性が3倍高くなるという研究(Zeberg, H. and Pääbo, S. "The major genetic risk factor for severe COVID-19 is inherited from Neanderthals")が、30日(現地時間)付の、英科学誌ネイチャー電子版に発表されました。というわけで、きょうはこの切手です。
これは、2006年8月10日、ドイツで発行された“ネアンデルタール人発見150年”の記念切手で、ネアンデルタール人の頭蓋骨とネアンデルタール人の名前の由来となったネアンデルタール(ネアンデル谷)が描かれています。 ネアンデルタール人は、約25万-3万年前の更新世中期から後期に欧州から西アジアにかけて分布した化石人類です。 ネアンデルタール人類の化石は、1829年にベルギーのアンジスで発見された子供の頭骨が最初の事例で、1848年にはジブラルタルからも女性の頭骨が見つかっています。ただし、これらの古人骨が発見された当時は、その正体はわからないままでした。 その後、1856年、ドイツ・デュッセルドルフ郊外、ネアンデルタールのフェルトホッファー洞窟で、石灰岩の採掘作業中に作業員によってネアンデルタール人の骨が発見されます。当初、作業員たちは発見された骨をクマの骨と考えましたが、念のため、地元のギムナジウムで教員を務めていたヨハン・カール・フールロットに報告。フールロットはボン大学の解剖学教授だったヘルマン・シャーフハウゼンと共同でこの骨を研究し、翌1857年、この骨を、ケルト人以前のヨーロッパの住人のものとする研究結果を発表しました。 当初、フールロットとシャーフハウゼンの研究を支持する研究者は少なかったのですが、1858年から1859年にかけて、チャールズ・ダーウィンらが進化論を発表すると、件の古人骨も進化論の視点から再検討され、1864年にはアイルランドのクイーンズカレッジの地質学教授、ウィリアム・キングにより、“ホモ・ネアンデルターレンシス”の学名が与えられました。 さらに、1901-02年、シュトラスブルク大学のグスタフ・アルベルト・シュワルベがジャワ原人とネアンデルタール人との比較研究を行い、ネアンデルタール人をホモ・サピエンスの祖先とする論文を発表。一方、1911-13年、フランスのマルセラン・ブールはネアンデルタール人類は現生人類と類人猿との中間の特徴を持ち、曲がった下肢と前かがみの姿勢で歩く原始的な人類(原始人)とする研究を発表し、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスの祖先ではないとの立場を採りました。 この問題については、1997年、独マックス・プランク進化人類学研究所のスヴァンテ・ペーボらがフェルトホッファー洞窟で見つかった最初のネアンデルタール人の古人骨からDNAを抽出し、ホモ・サピエンスとの関係を検討した結果、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスの祖先ではないことが確定されています。 今回、ネイチャーに発表された研究は、そのスヴァンテ・ペーボと、マックス・プランク進化人類学研究所遺伝学研究分門の同僚、フーゴ・ゼベリによるものです。 ヒトゲノムの染色体23本のうち、3番染色体の特定領域にある遺伝子変異は新型コロナ重症化と関連しており、この領域がネアンデルタール人を起源とする遺伝子コードを含むことから、研究チームは、新型コロナウイルスとネアンデルタール人の遺伝子コードとの関連を調査。その結果、南欧で見つかったネアンデルタール人1人に、約5万塩基に及ぶほぼ同一の遺伝子領域があることが確認されたことから、新型コロナウイルスの重症化には遺伝的要因も影響し得ることが明らかにされています。 また、この研究では、ネアンデルタール人の遺伝子断片を保有する人は、欧州では約16%、南アジアでは約50%(特にバングラデシュでは63%)なのに対して、東アジアとアフリカではほとんどいないことも明らかにしており、新型コロナウイルス感染の重症者の割合が地域によって異なることの一因を提起するものとしても、注目すべき内容といえそうです。 * 昨日(1日)、アクセスカウンターが225万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
2020-10-01 Thu 07:28
きょう(1日)は中秋(今回のネタである朝鮮半島では秋夕)です。というわけで、最近の拙著の中から、満月にちなむ切手として、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
これは、1963年12月17日に韓国が発行した楽器シリーズのうち、月琴を取り上げた1枚です。 月琴は中国発祥のリュート属の撥弦楽器で、満月のような円形の共鳴胴がその名の由来です。現在、日本や中華世界で“月琴”というと、棹が長く胴の丸いものを指し、今回ご紹介の切手に描かれている楽器は“阮咸”と呼んで区別しています。歴史的には阮咸が古く、明楽での“月琴”は阮咸を指していましたが、清楽で使われる棹の短い楽器が普及したことから、棹の長い阮咸は次第にすたれていきました。なお、朝鮮には清楽の月琴が移入されなかったため、阮咸がそのまま月琴と呼ばれ続けましたが、わが国には江戸時代に清楽の月琴が長崎経由で輸入されて定着したため、月琴といえば、棹の短い楽器を指しています。 阮咸が月琴として朝鮮半島に伝わったのは三国時代のことで、高句麗壁画古墳の舞踊塚と三室塚にも演奏風景が描かれています。ただし、舞踊塚に描かれている月琴が4弦なのに対して、三室塚の月琴が5弦なので、古い時代には4弦のものと5弦のものがあったようです。 ちなみに、今回ご紹介の切手を含む楽器シリーズは、1962年に文化財保護法が制定され、“民族文化の再発見”が強調される中で企画・制作されたもので、朴正煕大統領の就任式に合わせて1963年12月17日に発行されました。この辺りの事情については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。 ★★ Web講座のご案内 ★★ 武蔵野大学の生涯学習講座で、「切手と仏像」と題して4回に分けてお話しします。配信期間は8月26日から10月6日まで。お申し込みなどの詳細はこちらをご覧ください。皆様、よろしくお願いします。 ★ 内藤陽介の最新刊 『日本人に忘れられたガダルカナル島の近現代史』 ★ 本体1600円+税 出版社からのコメント 【中国の札束攻勢にソロモン諸島は陥落寸前!】 日本軍の撤退後、悲劇の激戦地は いかなる歴史をたどり、 中国はどのように浸透していったのか 本書のご予約・ご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、本書の目次をご覧いただけるほか、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 |
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